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2018年10月31日 (水)

Chotoku @ workというタイトルのカメラストラップ

カメラのストラップではいつも苦労している。1970年代には上野の松崎商店の放出品のお店でアメリカ軍のライフルのストリングを買った。これをニコンカメラにつけるのが当時はやっていたのである。

時代はそれから50年近く経過して相変わらずカメラストラップ難民である。
あろうカメラ我楽多屋さんなどで時々めぼしいものを物色しているなかなか難しい状況です。

鵠沼のブレッソンと言うのは不動産管理業の友人で本職はというか田中長徳研究家なのである。
私が出した本の勝手放題の言い草を全部記録していてこれこれの話は何何の本の何ページにあると出所を教えてくれるのである。

鵠沼のブレッソンは以前はかなり手の込んだカスタムメイドのカメラケースも作ってくれたが10年近く前に脳梗塞をやってから根気がなくなったのでそれはやめた。

カメラケースはやめたが作るのが楽なカメラストラップを提供してくれる。毎年誕生日に1本ずつ送ってくれるのでありがたい次第である。

Chotokuアットワークと言うのは10年近く前に毎日新聞から出した私の写真集で時代に沿って使用した私のカメラと作品を網羅した本であるがあまり売れなかったので裁断処分になったようである。おかげさまで私は持っていないのだがそれを買おうとしたら10,000円位するのでびっくりした。

その写真集のタイトルをかぶせたネックストラップがこれなのである。こういうのをつけると嫌でも真面目にスナップショットを取りたくなるから不思議なものだ。Img_0523


2018年10月30日 (火)

EOS R にタッチする


ビックカメラの有楽町の店内は立ち飲み屋に行くためのショートカットである。店内を歩いていたら世界の2大カメラメーカーの最新型を展示とお兄さんが放送している。

私の世界の荷台カメラメーカーと言うのはキエフとフェドであると考えているのであるが、世の中の常識では一応ニコンとキャノンと言う意味らしい。ニコンカメラのほうはこの前ブラパチワークショップで触らせてもらったのでわかっているがキャノンのほうは触っていないので売り場に行ってみた。

九州のほうに住んでいる友人が1980年代のキャノンサークルのAnualに私の作品を見開きページで発見してそのコピーを送ってくれた。EOS620を使ってポルトガルはリスボンの大通りで昼寝している犬を撮影したスナップショットであった。

EOS Rという名称は私のようなじじいには混乱の元である。キャノンフレックスRと言うカメラを私は今でも使っている。

それよりももっと紛らわしいのは新しいシリーズのレンズがRFという名前であることだ。これはレンジファインダーの意味じゃないんですか?

マーケティングをする連中の世代が若くなるとこういう面倒が起きる。

触ってみたのだがメインスイッチがどこにあるのか想像もできなかった。そういう事は考えていてもしょうがないから係の女性に聞いたら驚いたことに本体の左側の方についているのである。そこには盗難防止用のケーブルのコネクターの白いのが付いているのでその下にあるから見落としていたのである。

私はライカM3を肩から斜めににかけていたのであるがライカのカメラにはメインスイッチは存在できない。常に撮影状態にあるからだ。

良さそうなカメラではあるが問題点は巨大なズームレンズが付いている事ですね。こんな大きくて重いレンズは3日と持っていられません。


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2018年10月29日 (月)

布幕シャッターのニコンがいい

布幕シャッターのニコンがいいImg_8882

ニコンエフと言うカメラはニコンSPにミラーボックスを組み込んで一眼レフにしたものだと本などに書いてある。だからごく初期のニコンエフをミラーアップしてシャッターを切ってみるとそのシャッター音は初期のニコンSPと同じなのが面白い。

私はNikon少年で中学生の頃からニコンエフを使っていた。だから高校生になるといっぱしのプロ作家気取りで丸の内の東京海上火災ビルの八fにあるサービスセンターいって自分のニコンエフにいろいろ文句を言って調整してもらった。実に生意気な高校生であった。

ニコンのサービスセンターはこの子供は敵に回すと怖いと思ったのであろうか?修理期間中にサービスセンターのカメラを貸してくれた。それが今では非常にレアなカメラと言われている布幕のフォーカルプレーンシャッターのエフなのである。
この春のNikon研究会でコレクターの方に見せていただいたが布幕フォーカルプレーンは市販はされなかったようである。

だから今にして布幕のニコンSPカメラのシャッターを切っていると生意気ざかりの高校生の頃の自分が思い出される。その後日大の写真学科の学生になってカメラ雑誌デビューしたのである。

カメラ時代、写真時代ではないぞ。と言う雑誌にほぼ隔月で8ページのポートフォリオを発表して得意になっていた。カメラ雑誌の印刷はグラビア印刷であるからその質は良い。オフセット印刷等は足元にも及ばなかった。

2018年10月28日 (日)

Leica M10dの偽巻き上げレバーの件です

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同時進行しているブログのカメラ塾でも書いたのだが新型のライカの寒グリップみたいな格好の巻き上げればめいた出っ張りをショールームに行って皆さん感激しているのである。

鰯の頭も信心からと言う話もあるからこれはこれで素晴らしい思う。もっともライカデジタルカメラM8はホールディングが悪いのでサードパーティーがサムグリップなるものを作ったのだ。
ライカの絶え間ない新製品開発でサムグリップはついにフイルムカメラの巻き上げレバーようになってしまった。

これでカメラのホールディングを良くして価格が1,080,000円と言うのだから素晴らしいことだと思う

ところが思い出したことが私がライカを使い始めた50年前のことなのだがカメラのホールディングを良くするのはレバー巻き上げに指先をかけるのではなくてシンクロターミナルにアダプターをつけることでライカのホールディングを安定させていたと言う事実を思い出したのである。

日大の写真学科の学生の頃われわれはこのアダプターを犬のおっぱいと呼んでいた。

最近では滅多に手に入らないアクセサリーなのであるが土曜日我楽多屋さんのシドニーで聞いたらちゃんと在庫があったので嬉しかった。
その犬のおっぱいはこのように使うのである。ただしライカのM2とエムさんにしか使えない。M1やMDに使えるのは言うまでもなし。

2018年10月27日 (土)

Willerレストランバスの赤ワインのホルダー

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ここの会社の深夜バスは安いので大阪芸大で教えるときなどに片道は飛行機のエフを使って帰りはこれを使うような組み合わせであった。

少し前ガラクタ屋さんのにだいめさんがこのレストランバスのことを教えてくれたのである。それですぐに予約した。

普通の観光バスの2階席などは持ち込んだマクドナルド最高の贅沢だけどこのレストランバスはちゃんとした食器でサーブされるからそのステータスは飛行機のファーストクラス並みである。

旅慣れた旅行者である私は飛行中にどんな乱気流に遭遇してもワイングラスからワインをこぼす事は無い。これは私の特技のようなものである。

ところがこのレストランバスで感心したのはワイングラスのホルダーと言うものがあったことだ。このスリットの奥にワイングラスを差し込んでおけばどんな乱気流というか交通事故にも対応できるのである。すごいアイディアだと思う。

料理はヌーボーでちゃんとしたものである。
ミシュランの星付きレストランなどがやたら皿がでかくてそれが重なっていたりして扱いが面倒なものであるがレストランバスは搭載スペースの関係でお皿など小さいから逆に今ファダブルである。

宴会などでカラオケに行くなどよりよほど気が利いていると思う。


2018年10月25日 (木)

パノラマカメラ専用ケースの正しい使い方

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1975年の秋に東ベルリンでこのパノラマカメラを買って同じモデルを買ったのがこれで3台目である。カメラ我楽多屋辛かったのだ。

このカメラを買うときに私はにだいめさんにケースとクリップが付いていますかと最初に聞いた。このカメラを裸でストラップをつけて持ち歩いているとたくさん取りすぎてしまうのだ。

それだから理想のこのパノラマカメラの使い方はちゃんと革ケースに入れてこれはと思った時に取り出して撮影するのが私の場合1番正しい使い方なのである。

このカメラのグリップはもともとこのように斜めについているのである。カメラをホールドするときにこの方がグリップが垂直に付いているよりもブレにくいのである。
この皮ケース凝っているところはグリップをつけた状態でもグリップのない状態でも使えるように皮ケースの底の部分にフラップがついていることだ。

結構手間とお金のかかったパノラマカメラ用の革ケースである。

2018年10月24日 (水)

車寅次郎の故郷を訪ねる

車寅次郎の故郷を訪ねる

11月11日はブラパチワークショップの舞台が柴又なのであんまりいいかげんも言えないからロケハンに行ってきた。車寅次郎主演の映画を私は1本も見たことがない。いや日本系の航空会社の映画上映で飛行中にやっていたかもしれないがそれには注意を払っていなかった。

家人がドイツリートの歌曲を日本で初めて演奏する時などにその書かれたポエムの内容を日本語に訳してプログラムに載せるので知り合いの九州の大学の教授にお願いしていた。
その人はオーストリアウィーンのポエットホフマンスタールの研究者なのである。
同時に九州の方面で車寅次郎のファンクラブいわゆる寅さん会を主催していた。
そのプロフェッサーは20年位前に亡くなったがその葬儀の時に山田洋次監督から弔電やら何やらが来たそうである。

ホフマンスタールと車寅次郎。どちらも川のほとりで展開する人情物語と言う意味では共通があるのかもしれない。
車寅次郎のミュージアムに初めて行ってみた。一般入場料500円だが私は時々なので400円であった。面白いのは舞台のセットになっている架空の町がそのままジオラマになっていたことだ。
ヨーロッパのジオラマで有名なのはベルギーのワーテルローにあるやつだけど極東の偉い有名人のジオラマの方がクラスは上のようである。実にリアルである。

私にとって大発見だったのはここにはかつてジンシャがかつて存在したことであった。金町駅から柴又駅の1点数キロの間に1890年代から1910年代まで人車つまりトロッコ列車で人の力を使う奴がサービスしていた。

明治大正の頃の作家の伊豆箱根の旅などの紀行文を読んでいると必ずそこには人車が登場してくる。でも平坦地の金町柴又で人車があるとは考えてもいなかった。
最近では人力車ブームであるからこの小さな可愛らしい6人乗りの人車を復活させたらまたバカなブームになるかもしれない。
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2018年10月23日 (火)

矢切の渡しの記憶が曖昧

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矢切の渡しはいつもウィークデイに見に行っていた。20年位前だったか藤田66を携えて行った。
レンズは80ミリのトリプレットであった。晴れた日の午後に撮影したのであるからうつるのは当たり前である。

それを日本カメラから出した名機礼讃の口絵に掲載した記憶があるので本を調べてみたら第一回と第二間には矢切の渡しの写真は無い。それなら第3巻だと思って本を取り出してみたらカバーは大さんなのだが中身は第二巻であった。
それで結局分からずじまいである。私が調べたかったのはこの間ブラパチワークショップのロケハンで矢切の渡しに行ったときそこに建てられているぼっくいが新しくなったらしいと言うことであった。

以前に見た時は船着場のエントランスの左にその棒があって文字などは完全に剥がれていたのである。それが今回見たらそのぼっくいは搭乗口と言うのは変であるがエントランスの右側にあって新しくなっていた。

思うにたくさんの観光客が来てそのポストの前で記念写真を撮ると乗客の乗り込みの邪魔になるからずっと右側に移したものであると思われる。

この場所に日曜に来たのは今回が初めてであるが長い列ができていた。定員20名位らしいが実際には25人ぐらい乗せていた。

松戸市のほうに行く時は船頭さんはゆっくりろをこいで行くのである。
だからすごい時間がかかる。松戸側から柴又川に来るときには船外機を使って早くしている。もともとこの私馬場交通の便のために作られたわけだから観光客が情緒を求めると言うのは無理であろう。

ベトナムの古い都Fueに行ったときに歴代の皇帝の古いお墓を訪問するので複雑に流れている水路をやはり渡船でわたったことがあった。
ジャングルの中にあるクリークである。この渡船は地元の人々の重要な生活の足になっているから努力はもちろん船外機であった。

2018年10月22日 (月)

東京バルコニー

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ギャラリーバウハウスで開催中の私のハノイディエンビエンフーの個展も後半に入った。いつも御茶ノ水から聖橋を越えてギャラリーに通っているのである。その聖橋の北詰が気にいっていてそこを東京バルコニーと名付けてギャラリーの帰りに夜景を見ながらちょっと立ち飲みをしたりする。

先月22日の沢木さんとの対談の後もここに有志が集まってオープニングレセプションをしたのである。

片岡義男さんの最近出たコーヒーの本でも片岡さんは聖橋の上から集中的に目の下を出たり入ったりする地下鉄丸ノ内線を映している。ここはギャラリーと結びついて東京で最もエキセントリックな撮影ポイントであると言うことができる。

2018年10月21日 (日)

河内で12ミリで取る

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8月に河内に行った時に撮影した作品である。これは12ミリレンズを使用している。12ミリレンズと言うのを私はほとんど使わなくて以前はホロゴン15ミリを使っていた。
エディトリアルで見開きページ等ではすごく効果があった。

このレンズはCosinaが新ビジネスをスタートさせたときに使い始めたものである。指折り数えてみれば四半世紀の大昔の話だ。発売当時に作例写真を撮っただけでそのまま使ったことがなかったがこの8月の猛暑の時このレンズで河内で撮影をした。驚いたことにその撮影結果は非常によかったのである。

12ミリの広角レンズであるからカメラアングルに注意しないと変な歪み方をする。それは好みではないのでファインダーは使わずにカメラを水平に保持していることを確認するだけで撮影をするのが私のやり方である。

10数年前に出したライカの本で12ミリレンズでパリをとった作品が単行本に乗っているが今見てもあまり成功したショットとは言えない。しかし今回の作品は何とか及第点までは行っているのではないか考えている。

12ミリと言うのは何にでも向いていると言うレンズではなくてレンズの方が都会を選ぶようなところがある。
ギャラリーバウハウスの今回の展示で赤丸がついた作品でもある。

前回の沢木さんとの対談は大成功であった。一方で田中長徳研究家から手書きの便箋で20,000wに及ぶ写真展の感想が来た。その中で彼が言うのは私の河内の話も聞きたかったとあった。それで小滝ディレクターと相談してスケジュールが合えば2度目のワンマンの講演会をやってみたい。
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2018年10月20日 (土)

カメラアート編集長等々力国香さん8月24日ご逝去享年90

ギャラリーバウハウスで開催中の私の写真展のご案内を50年来お世話になっているカメラアートの等々力さんにお送りしたら奥様から8月24日にご逝去の報に接する。享年90歳であった。

等々力編集長には大変お世話になった。
京橋の日の出ビルと言うのは大昔のビルであるからエレベーターがない。その最上階にカメラアートの事務所があった。等々力さんはアルピニストだったから階段など問題にならなかったのに違いない。

1976年秋のフォトキナで取材のお手伝いをした。インターネットが登場する何十年も前であるから頑丈な靴を履いて1日40キロ歩けるようなしかも重い重い重いプレス資料を持ち歩けるような男と言うことで私が指名されたものと見える。

トップクラスの日本で発行されたカメラ情報誌であったが同時に写真アート作品の掲載にも力を入れていた。私は何年かスナップショットの連載をやらせてもらった。
憧れの写真家リーフリードランダにオーストリアで会ったときそのカメラハートの1連の連載を見せたら大変喜んでくれたのも懐かしい。これがフリードランダーさんとのお付き合いの始まりなのである。

当時のCamera Artに作品を掲載してもらってそれを足がかりとなって世界に伸びていった連中は数少なくは無いのだ。

2018年10月19日 (金)

東京パノラマ撮影。黒猫のしっぽが役に立つ

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ソ連製のパノラマカメラホリゾントを最初に買ったのは1975年の東ベルリンのことだった。当時高価なカメラでなかなか西側の経済圏では手に入らなかったのである。

東ドイツのカメラ屋で新品で買った。値段もよく覚えている750東ドイツマルクだった。東独ではかなりの高いカメラになる。

以来そのカメラをずっと持ち歩いてヨーロッパ中を撮影した。そのプリント200数十枚が最近発見されて今写真集になろうとしている。誠にありがたいことである。

このカメラは実に40年以上使っているから自分の体の1部になっている。暗闇でもフイルム装填ができる。

パノラマカメラがどれだけの角度で風景を移し取るのかは分かっているからファインダーは覗かない。しかし私の視力は40年前のようではないからシャッタースピードと絞りを設定するのが面倒であった。

ちょうどハロウィンの前でシールを持ち歩いているのでその中の黒猫のシールをカメラのインデックスがわりに貼ってみたのである。

黒猫のしっぽの先の曲がったところに指標を合わせればセッティングがオーケーと言うやつだ。これは我ながらうまいアイデアであった感心しているのである。

2018年10月18日 (木)

Camex 8倍ズーム付きのアンジェニュー

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パリにある大昔の8ミリ映画撮影機の会社である。
Ercsam.という名前だった。パリの北の駅からすぐ近くなので歩いてそこらを散歩した。
同じパリで制作されたのでよく間違えるのであるがCamex とCameflexとは全く異なるカメラでメーカーも違う。

Camexは私のwin時代に大活躍した8ミリカメラであった。ズームレンズが2本とプライムレンズが4本付いていた。Kodachromeで撮影した。その時色彩は半世紀経った今も変わっていない。そのことを思い出して、このカメラがebay登場すると買うようにしている。
1957年頃にはライカカメラより高い値段であった。

たいていはフランスの田舎町で発見されるのである。それを私とカメラ人類の野々宮が購入いたらフランス本土のカメラはほぼ絶滅状態になった。

でもそれから2年ぐらい我慢していたらまたぼつぼつ出るようになった。このAngenieuxのズームレンズは当時としては高い倍率の8倍ズームなのである。値段もかなり高かったようだ。

このようにカメラのアウトフィットを見るとフイルム現像所に送る封筒が一緒に入っている。これのお世話にはなりましたね。Wienの7年半におそらく数百本のフィルムを撮影して切手をなめて封筒に貼って現像所に送った。

フィルムは手元に出てきたが1本ののフイルムだけはついに届かなかった。事故率としては低いような気がするが私は残念でならない。その1本のフィルムは私がウィーンでおたふくかぜに何いたときの貴重なドキュメンタリーなのである。

このカメラでもそうだがカメラのハンドグリップが後前についている。これは売り手さんがこのカメラを知らないせいだ。

2018年10月17日 (水)

ハロウィンて万聖節だろう?

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ヨーロッパでは11月1日は万聖節である。日本のお墓参りのようなもので家族で墓地に参拝に行く。人間の生き死にに関してよく考える宗教的な日なのである。
11月1日はヨーロッパでは完全な冬である。万物かれ切った風景である。

アメリカ合衆国ではその1日前にハロウィンやるけどそれが形だけ伝来してしまったのがわが国である。

年寄りから見て1番腹立たしいのはハロウィンの背景には宗教もなければ思想もないと言うことである。楽しければなんでもいいじゃんと若いお母さんに言われそうだがそれは許しません。

日本で私の知る限り最初にハロウィンのアクションを伝承したのは碑文谷にあった優秀なフォトギャラリーギャラリーMinであった。城田さんはアメリカに長く留学していたのでそこら辺をよく知っていた。それでハロウィンの夜になると子供たち引率して隣近所を回ってトリックorトリートなどとやっていた。これが30数年前の話であるから当時はハロウィンなんて誰も知らなかった。

それが商業主義の手にかかってこんなことになってしまった。日本民族として情けないほ。

それで私が爺が奮起してハロウィンを国民の手に取り戻す運動を開始した。まずはブラパチワークショップに参加した人々にこーゆーシンボルのバッチを配ったのである。

キャラクターは西洋お化けであるが手のひらの使い方が日本のお化けであるところが面白い。
いわゆるバケバケスタイルは日本のお化けのアクションである。

2018年10月16日 (火)

🐦❤️🇻🇳お知らせ

お知らせC20cecfe213d4f599cd752b3921e4a80
11月11日長徳ブラパチワークショップ。
柴又矢切の渡し車寅次郎⛩

🐦❤️🇻🇳ギャラリーバウハウス田中長徳写真展HAN DINハノイディエンビエンフー11月17日まで

🐦❤️🇻🇳11月10日午後7時よりギャラリーバウハウスで田中長徳トークショー。ハノイディエンビエンフー裏話 詳しくはギャラリーバウハウスのホームページまで😎🌈
田中 長徳
田中 長徳 1966年に公開されたベトナムを遠く離れてという映画があります。オムニバスです。ゴダールは北ベトナムに撮影に行こうとしてビザをもらえませんでした。Joris Ivence= 1970年代のハノイの北爆の様子を記録しています。8月にハノイに行ったとき 50年前の北爆の場所が特定できました。今度のトークではそこら辺の裏話をお話しします。

2018年10月16日 (火)

?堀切方丈記

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ブラパチワークショップで歩いた堀切の大発見である。地元には有名なランドマークなのであろうが私はこれを知らなかった。前回立石バーガーにロケハンに行ったとその前を通っていたはずであるが自分は一体何を見ていたのだろうか?

堀切の菖蒲園と言うと有名であるがそこに今度は堀切の方丈記が加わった。
でも実際のランドマークの佇まいは日本ではなくてむしろメルヘンぽい。

森の木陰でドンジャラホイという感じだ。

この敷地の1番通路側には大理石をベースにした柿があって水が延々と流れている。その脇に立て札があってこの水は飲めないと書いてある。ソコロからして不思議である。

この森の中の小屋は脇に水車がついている。だから水車が回ると自家発電で小さな小屋の中のランプの明かりがつく仕組みなのかもしれない。ただ実際には水車は回っていなかった。

それで私は宣言して本日からこの水車小屋に住むことにした。

美しい水車小屋の娘ならぬ
美しい水車小屋のひげ爺である

この水車小屋を見て痛感するのはこれが葛飾区の仕事ではないような気がすることだ。要するに下請け業者に作らせたようながさつなものではない。世界中でこういう場所にある物件をいろいろ見てきたがこれはトップクラスだと思う。

ルコルビジェの最後に居住した南仏のログハウスみたいなものか?

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2018年10月15日 (月)

プラハのアトリエの最後の日々

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プラハのアトリエには30年近く暮らしたのである。この場所はプラハの街の北部にあってプラハ工科大学と隣り合っていた。プラハの6区と言うのはいわゆる文教地区であってこのアトリエのある建物は1930年代に作られたが最上階は画家のアトリエになっている。

当時の建築基準法で5fまではエレベーターがなくてもオーケーであって6fの屋根裏部屋母エレベーターなしでオーケーと言うことであったらしい。

ここに暮らし始めた30代の頃は結局6階まで階段を上ってなんともなかったが毎年徐々に階段が高くなってきた感じがする。
それで数年前ヒキ払った。それ以来プラハに行った時はホテル暮らしである。ホテルがすごいなと思うのはエレベーターがついていることだ。エレベーターのない建物に暮らしているとそんなことも素晴らしいことに思える。

近くにソ連大使館の文化部があって組織がロシアになったときに共産党を称えるいろいろなデコレーションが門の前に捨てられていた。興味本位にそれを拾ってきて当時私がやっていたカメラジャーナルと言う冊子の表紙に登場させるカメラのバックに使った事もあった。国家が1つの体勢からもう一つの体制に移行する時それまで尊敬され言っていた環境などは簡単に捨てられるものなのだと痛感した。


2018年10月14日 (日)

日本経済新聞に紹介されたいわゆる鳥が走ってます写真について

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インドシナ戦争でベトナムがフランスに対して決定的な勝利を決定付けたのがディエンビエンフーであった。ハノイの西400キロ弱のラオスとの国境に近い街なのであるが交通が不便なのでベトナムのたびに慣れている人でもなかなか訪問する機会のない場所のようだ。

飛行機の便が悪いので私も覚悟して出かけた。この5月の事だがその時はハノイにはいかなかった。
日本軍が建設した飛行場の滑走路があって町から歩いて15分位の距離なのである。歩いてホテルまで行くつもりであったがタクシーに乗ってしまった。その滑走路を今でも使っているのだ。ただしランウェイは短いからジェットは無理でターボプロップである。

宿泊したホテルの名前はルビーと言うのである。Google マップで見ていたら中心街でもあるし賑やかな商店街であろうかと予想していたら完全なカントリーロードであったので逆にそのことが嬉しかった。

軍用のライカカメラに35ミリのレンズだけつけて通りに出たらいきなり軍鶏の攻撃を受けた。この界隈はもともと鶏の原産地だそうである。昔のハノイではしゃも戦わせてそれが庶民の楽しみであったようだ。ハノイでも大体大きな市場の裏あたりで市民が集ってしゃもを戦わせていた。

でもこういうファイトは実際には小額のお金をかけているのである。それほどおじさんたちの表情が真剣なのである。

通りがかりに私は写真に写っているしゃもにちょっと脅かされた。この前のギャラリーバウハウスのトークでは沢木さんとの対談で彼がポルトガルの岬で犬にほえられた話が話題になった。犬に吠えられる位であるから偉大なポエットであるというのが私の意見である。

チベットに潜入したKawaguchi Ekaiだって
Taneda Santoukaもみんな犬に吠えられているのだ。つまり犬に吠えられるようでなければポエトとしては1人前ではないという意味でそのことを沢木さんに申し上げた。

犬に吠えられるのではないがしゃもに追いかけられると言うのはレベルとしてはかなり下の方には違いないがとりあえず私もポエトの端くれと言うことにしておく。

私の写真展にはジンクスがあってこの数年間ポストカードに使用した写真は売れないと言うのが定石なのである。ところが日本経済新聞のおかげでポストカードに使われた鶏に追っかけられる写真家のセルフポートレートは売れた。誠にありがたい次第である。

2018年10月13日 (土)

いつも予約でいっぱいの品川区の児童公園

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どちらかと言えば大田区とか世田谷区よりも品川区が好きである。好みの問題であるのだが私は路地裏のごちゃごちゃしたところが好きなのだ。下神明の駅から新幹線のガードの下が複雑な立体交差にになっていてそこが大好きなのである。

小さな公園がある。ベンチが1つしかないのでここに座るのはなかなかステータスが高い。
このステータスの高さと言えばちょうどマンハッタンのグラマシーのあたりのプライベートパークと言う感じである。例のTudorハウスがあるファーストアベニューに近いあの界隈だ。

それは小さな公園でベンチが1つしかないと言うのは高級感そそり立ってますよね。
そこら辺の品川のステータスが大好きなのである。

六厘舎がなくなって何年になるか忘れたが最近この地域にいかなくなった。つけそばを食べに行くのではない。そこに並んでいる連中はぬいぐるみ滅入っているのである。それを見に行くのだ。

珍しくプライベートパークっぽい小さな公園が空いていたのでベンチに座ってみた。

いろいろな街の音がするがその中で重要なのは鉄道の音である。こういうのは実際に現場で行こないとなかなかわからないものである。新幹線と在来線と大井町線が交差している。

その3つの鉄道の中で1番音が小さいのが新幹線であった。これはかなり意外な新発見であった。
その次に走行が大きいのが在来線。そして、天地を轟かす大きな音をするのが大井町線である。まぁ頭の上は下神明の駅ですから。

この界隈の複雑な立体交差になぜ私が惹かれるかと言えばその理由は単純である。自分そのものが鉄道模型の中に作られた小さな人形のような気がするわけだ。そういうのってなかなか楽しい。
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2018年10月12日 (金)

シルエットな街

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じゅうごねんぐらい前にニコンのD200と言うカメラが出たときになぎら健壱さんとデジタルカメラマガジンで対談をした。その時の対談が四谷の焼酎やから月島、に移動して非常に面白かったのであるがそのことをここで書くわけではない。

じゅうごねんぶりにそのニコンを手に入れたら価格が10分の1になっていたというのが情けない。

それで使ってみたらちゃんと使えるのである。
このカメラが登場したときにはまだスカイツリーは存在していなかった。ある日変な格好のビルができたなと思ったらそのままジャックと豆の樹みたいに店に届いてしまった。

手元にある適当なニッコールをつけて撮影したのがこれである。フルサイズのミラーレスもけっこうに違いないがこれも非常に結構だ。

私の経験によればエディトリアルのあまり経験のないデザイナーさんはすぐフルサイズに固執するわけであるが経験を積んでいるデザイナさんはAPS-Cでも別に文句は言いません。

、、、、フルサイズのミラーレスで撮った画像を送ってくれる人がいるのであるがそれが24メガ以上して私の古いiPadではなかなかダウンロードできない。私の場合はこの画像750KBなので。問題は無い。そのぐらい軽い画像でやりとりしていたものです。


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2018年10月11日 (木)

フルサイズミラーレスの進化と手作りハンバーグについてのワークショップ

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デジタルカメラに関してはミラーレスのスタンダードになりそうだ。それもフルサイズ。ハンバーガーに関しては立石バーガーが頑張っている。ニコンの最新型ミラーレスカメラは700,000円ほどである。立石バーガーの最新型ハンバーガーは100円である。
10月14日のブラパチワークショップは特別に日本光学工業さんのご協力を得て最新のミラーレスフルサイズを触れることになった。

100円バーガー食べながらカメラに触るのはよくないので食べてから触るか触ってからバーガー食べるかのどちらかにしたいと思う。

冗談はともかく高校時代の通学路池袋に100円バーガー屋があってそこのお世話になったものである。あれから50年が経過して100円と言うのはすごいことだと思う。そしてこの立石バーガーは結構うまいのである。

立石バーガー名物のAIの最先端を駆使したバーガー自動販売機のお話もマスターに聞けると思う。

2018年10月10日 (水)

Shoji OtakeさんのVitessa T

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大竹先生の回顧展が先日あったそうで私の周りの連中はその公開対談に出かけた。私は所用があって行けなかったがなかなか興味深い内容であったようだ。

大竹先生と言えば昭和20年代から30年代にかけての若手のホープであった。1番有名なのはジェネラルマッカーサーを撮影したことだ。マッカーサーがぶすっとしているのでジェネラルスマイルを連発してすばらしい傑作をとっている。それと婦人科写真の第一人者である。

どうも大竹先生の場合は報道でも優れていたから今で言うところの投打二刀流と言うことなのであろう。
要するにStar写真家であって雲の上の存在であったのがどういうわけか東京カメラクラブをやっていた当時に大竹先生からお呼びがかかって我々カメラクラブ数名で世田谷のスタジオにお邪魔していろいろカメラの話を教えていただいたことがある。
先生が偉かったのはそーゆー場所で写真芸術の話をせずにカメラとレンズの話をなさったことだ。これって大事なポイントですね。

大竹先生のオススメカメラとレンズはアサヒカメラの連載にも詳しいけれども私が1番影響受けたのはこのカメラであった。
Voigtlaender Vitessaのそれもレンズ交換のできるやつだ。大竹先生のお話では35ミリ50ミリ100ミリのレンズ3本付で25,000円位で買える。非常に優秀なうつりをすると言うお話であった。
それからしばらくして荒木町のガラクタ屋さんで同じセットを求めた。値段は20,000円位だったのは100ミリのレンズの具合が悪かったせいである。それで35ミリのレンズをつけっぱなしにして外国によく持ち歩いた。

フォクトレンダーはドイツはブラウンシュバイクのカメラメーカーだがそのオリジナルは18世紀初めにオーストリアウィーンでスタート。今でもウィーンの人は自分たちの街のカメラであると言うことをちゃんと認識している点だ。

これはオーストリアウィーンの夕暮れの画像。私のライカマイライフと言う単行本に掲載された。
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2018年10月 9日 (火)

qqライカエム型カメラをケースに入れて使うメリット

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若い頃木村伊兵衛がライカカメラをケースに入れて使っているの格好悪いと思っていた。
ところがこれは若者の早とちりと言うやつで木村先生の年になってみるとむしろ奥の方が安全だし実用的であると言うことがわかった。

革ケース入りのライカをぶら下げて1番かっこいいのは実は有名写真家ではなくてエリザベス女王陛下である。標準レンズ付きのライカM3カメラともう一つは双眼鏡をぶら下げていた。
革ケースのストラップの長さは結構長めであって革ケースのフロントフラップもだらりと前に下げているのである。なかなか年季のライカカメラの持ち方である。

今年4回取材に行ったベトナムであるが4回ともライカにはちゃんと革ケースをつけていた。
その写真展を11月17日までギャラリーバウハウスで開催中である。ギャラリーに見えたカメラ人類さんがガメラは何を使いましたかと聞かれて1台のライカですと言うと皆さんびっくりする。

ライカエム型の革ケースには何種類もあるのだが35ミリレンズ用のフロントが膨らんだやつはかさばるので使いにくい。それでノンブランドのごく小さな広角ファインダーをカメラの上につけるのである。

60年代後半のライカの皮ケースにはカメラの上にちょっとしたスペースがあるのだ。このスペースが何であるのか考えてしばらくわからなかったが私がほとんど手にしたことのないライカメーターをつけるスペースであったのだ。
このホームメイドのファインダーは28ミリようであって大昔ガラクタ屋さんで800円で買った。プラスチックだから落としても割れないし非常に使いやすい。ただし見てくれはこのようにみすぼらしい。
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2018年10月 8日 (月)

Friedrichshafenのカメラ

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もうずいぶん前になるがツインタワーの事件の時私はドイツのFriedrichsfafenに行った。パナソニックの新しいデジタルカメラのカタログの撮影であったのだが9月の湖のほとりの天気は悪い。
そうなると開けた風景はとってもカタログ等には使えないのでZuepelin飛行船のミュージアムを撮影したりRoseのお花を撮ったりした。
こういうのは悪天候のときの常套手段なのである。

その日のローカルタイムの夕方にあの大事件の第一報が伝えられたので頭がかなり変になってしまった。

Akarexと言うレンズ交換式の35ミリレンズシャッターカメラはその土地の生産品なのである。
FriedrichsfafenにはU boatの基地もあった。
私はその刻印のある懐中時計を持っている。
ドイツにある街の名前としてはWetzlerより有名かもしれない。
1950年代のこのカメラの広告と定価表を見ると結構高い。標準レンズ付きのカメラと35ミリと90のレンズを揃えると1000DM近くする。当時のライカM3カメラが750DM位であったのだからかなり高いカメラであった。。。

2018年10月 6日 (土)

命の綱

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iPhoneやiPadのパワーケーブルに縁がない。
数年前までは友達の突撃隊長が私に新しいパワーケーブルをくれたのである。ところが彼は最近忙しくなってしまって会う機会がなくなったのでパワーケーブル係がいなくなってしまった。

2年ほど前にオンラインで安物の3本セットのパワーケーブルを買った。その中の1番長いのはすぐダメになってしまった。もう1本は1メーター位ので3本めは10センチ位のやつの3本セットであった。

昨年自分の写真展でパリに行った時にもう1本のパワーケーブルも怪しくなってきた。iPadを接続してある特別なアングルにおかないと電流が流れないのである。

要するにこういうデバイスを使っていると電流があるかないかは命の綱である。

こないだの北海道の大地震でも皆さんiPhoneの電源で苦労していた。そこに大手の会社が参入してきてバッテリーをチャージするのを手伝ったと言うのは高い金をとっているからお客様には当然のサービスである。NHKはそれを曲げて伝えていたようだ。無料で提供していますと言うのである。これは腹がたちましたね。

3本持っているパワーケーブルのうち2

本がダメになったので今年の春ごろにオンラインで3本セットと言うのをにかい買った。ところがそれは二度ともついに届かなかったのである。こういうのがインチキ商売とは思わないがたんか800円位のものを膨大に空売りすれば結構な利益になるであろう。

何しろ命の綱であるから今朝決心して台風25号の中の雨の中を有楽町のビックカメラに行った。品物がすぐに見つかったのであるが買うのは中止した。時間が悪いのである。
ちょうど昼休みの時間なのでキャッシャーの前はまるで暴動が起こったかのような混雑である。
それで命の綱を買うのは中止してバスで佃島に戻ってきた。3本980円のパワーケーブルをオンラインでアマゾンに注文した。

2018年10月 5日 (金)

東急バス上池台内回り循環

東急バス上池台内回り循環Bef3aab5c0a94a8abb8919ee4314e2b2地下鉄のメトロの
メトロの馬込駅から東急バスで上池台内回り循環。内回りがあるのだから外回りがあると思うがそれには乗ったことがない。

私には夢があって昭和30年代みたいな世界中どこでもいいのだけれども商店街でちょっと買い物して帰ってくると言うのが好きなのである。この5月に訪問のディエンビエンフーもまさにそういうところだ。

しかもディエンビエンフーの場合は商店と言うものは一切なくて露店で買い物するのだ。魚の丸焼きが非常に美味でそれは自分だけで食べるのはもったいないから東京まで持って帰って家人に食わせたらこんなうまい焼き魚はないと感激していた。

理想の買い物は天井のない場所でface-to-faceで買うのが1番である。

でもそんなツーリストの贅沢ばかりは言っていられないので私が上池台内回り循環に乗るのはその途中のバスストップで上池台商店街というのがあるからだ。ところがバスから見ているとどう見ても商店街らしきものが見当たらない。今日もそうであった。

でも今日の発見は上池台商店街をバスが出発する直前に乗ってきたおばあさんが両手にたくさんのプラスチックのショッピングバックをぶら下げている事だった。要するにバス通りからは見えないが奥のカスバにそういう活発な商店街があるのに違いない。

ポルトガルのリスボンで好きなのは魚のTaraを練り込んだコロッケである。でもそれをどこで売っているか分からないのでこの30年間行きつけのバーでそのコロッケを指差してビールをいっぱい飲んで満足している。

昨年の春に東池袋の名もなきころっけやが閉店してしまってから私は国際コロッケ難民なのだ。
残念ながら国連の難民高等弁6間も相手にしてくれません。

それでこの前佃のスーパーで普通のコロッケを買って魚のたらの切り身を探していた。たまたまその日はたらの切り身が発見できなかったので残念ながらぼそぼそコロッケだけ食いながらビールを飲んだ。

2種類の食品を組み合わせてある別の食事にしてしまうと言う味覚のアクロバットと言うことが私にはできる。10年ほど前にカイロに行った時がそうだった。
ちょうどラマダンの季節なので昼間はレストランは空いていない。それで近くの食料品店で買ってきたのはコンビーフであった。それと一緒にポテトチップスの袋を買った。これを交互に食べるとなんとなくポテトを突き合わせたステーキの味がするのである。

味覚のアクロバットはそれだけではない。アルコールを買ってくることを忘れたので2週間アルコール抜きでカイロ世界が覚醒したのである。

その時飲んでいたのはファンタオレンジのナイル川の水割りであった。
これもなかなかいけた。

2018年10月 4日 (木)

カーテン

カーテン
森山大道さんがあれはおそらくアサヒカメラに掲載した作品だと思うがそのタイトルがカーテンと言うのである。モノクロームではなくて天然色作品であった。

60年代の日本のアパートの普通のカーテンをとったものであった。という説明の仕方は実は非常に難しくて60年代の日本の家屋の窓際に下げられていたカーテンがどんなものであったのかを時代的に明らかにすることはもはや不可能である。

このカーテンはハノイのホテルPoshの1室に下がっていたものだ。ベトナムのシンボルは蓮の花である。ツーリスト向きの安ホテルであるから手に取ってみると安っぽいレースのデザインなのだがこれがちょっと離れてみると窓の光が透き通ってなかなか良いのだ。

これは写真になるなと思って二日間ほど撮影から帰ってきていろいろアングルとレンズを変えて撮影してみた。

もちろん使っているカメラは軍用ライカであるから全体の様子はわからない。現像したらものすごい黒いネガフィルムなのでますますわからない。それでフォコマートで3分ほど露出をかけたらだんだんと不思議な光が浮き上がってきた。

盲めっぽうのヤマカンの撮影が作品になると言う不思議な瞬間であった。

宿泊したこのホテルの向側のアールデコのホテルに20年間止まっていたのだが今回はなぜここに来たかと言うとこのホテルの部屋から20年間親しんだホテルを客観的に見てみたいと言う気持ちがあったのだ。

私の好きな夜のハノイと言うのは実に深い闇の中に幽閉されている感じがあった。それが好きだったのだが5年ぶりのハノイに来てみたらなんということがそこら中LED照明で昼間より明るくなっていた。

このギャラクシーホテルもそうであってホテルのファサードは偽シーザーズパレスみたいにヘンテコリンなLEDで照明がされている。これでは20年のホテルの恋も一瞬に覚めると言うものである。

だから気分的には窓から懐かしいホテルが見えなくてなくてその間に1枚ロータスのカーテンが下がっていてそれのカーテン越しに河内の光を見ている方がよっぽど楽しめた。

この作品はギャラリーバウハウスで展示中。
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2018年10月 3日 (水)

長ーーーーーい物を運ぶハノイのおばさん

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河内の旧市街から発する1番系統のバスはできたばかりの新交通システムに沿って延々とハノイの南西の郊外まで結んでいる。ところが新交通システムは全く稼働していない。

この春に河内に行った時にホンダのバイクに長い長い建設材料を乗せて運んでいるライダーをアップしたことがある。
このショットはその後に撮影したものであるが画面はフルサイズにはなっていない。フルサイズの作品はギャラリーバウハウスで展示中である。なぜクローズアップしたのかと言うと自転車を操縦しているおばさんの手元を見てもらいたいからだ。

ベトナム戦争の頃に北ベトナムから物資を補給するホーチミンルートというのがあった。そのホーチミンルートの隊長をしていた男性が作ったホーチミンルート写真集と言うのをハノイで20年前にいただいた。そのことは別の機会に書こうと思っているがすごいのはこのようなやり方で自転車に300キロ以上の荷物を積んで
ホーチミンルートは稼働していたと言うことだ。

このおばさんは長さが10メーター近い建設材料を自転車に積んでしかもその場所はハノイで1番交通が激しい所なのである。1番のバスの中から撮影した。

よく見ると左側のハンドルに竹の棒がくくりつけてある。それで自転車の進行方向のコントロールをするわけだ。歴史的なホーチミンルートで活躍した自転車はハノイの歴史博物館とディエンビエンフーの戦勝記念展示されている。

そのクラシックなやり方がいまだに使われているのがDoimoiの勝利と言うわけだ。

2018年10月 2日 (火)

ニコンカメラにソリゴールレンズ

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1970年頃ニコンエフ2のカタログ写真を撮ったことがある。銀座7丁目あたりの雑居ビルの最上階かっこよく言えばペントハウスであった。

当時のカメラ人類の価値観からするとフラッグシップカメラにサードパーティーレンズをつけるのは格好悪いことであった。
きわめて真っ当な経済の進化が良いものであると言う認識があったから安いレンズは最初から相手にされなかったのだ。

一方でアメリカ人は実用主義者であるからサードパーティーのレンズも全く問題にしないでどんどん使っていた。これはその頃の1つの例である。ガラクタ屋さんで多分3000円位で買った記憶があるがシールを間違えて剥がしてしまったので正確な値段はわからない。

当時の28ミリの純正のレンズは明るさがf3.5であった。その後に当時としては驚異的に明るい明るさが2のレンズが登場した。

ソリゴールレンズは最近になって高級レンズに飽きた連中が興味を示すようになってきた。それだけのんブランドに対する知的欲求が深まっているわけである。
アポ済黒子を追っかけ回している連中はまだまだ初心者と言うわけだ。

2018年10月 1日 (月)

ニコンにオプトン


戦後ドイツが東西に分かれてかろうじて西ドイツに創立されたツアイスである。
この会社はオプトンと言う名前で認識されていた。それが西ドイツを代表するレンズメーカーになって後には京セラと一緒に仕事をしたりして今ではコシナでレンズを作っている。

戦後のツアイスの歴史を150字で書くならばそういうことだ。

オプトンのレンズは昭和30年代初め頃は良くないレンズつまりJenaに比べると劣ると言う認識があった。

でも戦後の東西ドイツの関係は割とうまくいっていたようであってオプトンがまだ21ミリ伸び黄金レンズを出す前にはJenaが25ミリTopogonをコンタックス用に提供したりしている。

その後オプトンで21ミリと35ミリのレンズを発売した。21ミリのBiogonは当時世界で最も高額なレンズであった。ハリー・キャラハンが新しい写真表現を目指していち早くこの21ミリを手にしている。

製造原価を安くすると言う意味があったのであろうかBiogon 35上レンズのバレルは同じものを使っている。ところが仕上げが良すぎて絞りのコントロールの部分がDiamond仕上げなので直射日光ではまぶしくて絞りを設定することができない。

だからこのレンズを使うときは適当に絞りを操作して絞りの値を見る事は無い。
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ごあいさつ

  • Note新ブログのお知らせ
    新ブログのお知らせ お世話になっております。2018年11月27日より tanakachotokuカメラノートがスタートしました。スポンサーに頼らないIndyなカメラストーリーです。
  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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