フォト

ギャラリーバウハウスの展示

オンラインギャラリー

バナー

チョートクカメラ塾ブログ

Chotokuぶらり パチ塾

無料ブログはココログ

« 2018年3月 | トップページ

2018年4月25日 (水)

「墨田区京島3丁目のコーポラスの看板について思う

墨田区京島3丁目のコーポラスの看板について思う

キラキラ橘商店街に熱中していたのは25年ほど前だ。ニュー間宮セブンでたくさん写真を撮った。最近思い出してまた通っているがカメラは1,940年生の1番最初の真宮6である。これがだめなカメラかというと素晴らしいカメラで映りが非常に良い。デジタルカメラの場合は新型が止まらなくて去年のモデルよりも今年のモデルの方が良いと言う認識があるけれどもフィルムカメラの場合にはそういう尺度は当てはまらないようだ。

この前の日曜日の話の続きであるがダークルームを2時間やってその後キラキラ橘方面を歩いた。
20年ほど前にTBSのメインのニュース番組で何故かわからないがクラシックカメラ特集をやってその時この界隈を取材した。私がライカカメラを持って2人の女子がライカ持ってぶらぶらすると言う元祖町歩きみたいな短いニュースであった。読者の方が声をかけてくださってまたコッペパンのハトヤの取材ですか?と言った。そうでは無い。

コッペパンのハトヤは美男美女のおじいさんとおばあさんの店である。裸電球も懐かしい。
これも10数年前に店ライカ愛好会でこの界隈を歩いた時にアパレルの社長ビクトリーが無断で店をとって親父さんに叱られる。ビクトリーの奥さんはコッペパンを買ってからカメラを向けたら別に叱られもしませんでした。下町の神器と言うものであろう。

最近私も家ではコッペパンに凝っているので久しぶりにかってやろうと意気込んでいったらガラス戸がほそめに開いている。手書きのヴィラを見ると都合により閉店したとある。いつかはこういう日が来るだろうと思っていたがその日が来たのである。

コッペパンの先をちょっと行って路地を北に角を曲がるとそこにこのコーポラの看板がある。これは私にとってランドマークであって四半世紀ずいぶんいろいろなカメラといろいろなフイルムで撮影をした。
この日は古い間宮シックスで撮影をしたのである。現像してみたら何か今まで撮影したこのアパートの看板の中では1番良い出来であるような気がして嬉しかった。

本物のコーポラスが裸足で逃げ出すようなそういう建物なのである。でもしばらく見ないうちにこのコーポラスの裏手に新しいコーポラスが立っていた。時間はどんどん変化していくのである。D1c8d945a2e04d9790bb91cef2c78cd6


京島1丁目ボルトナット斉藤製作所

ボルトナット斉藤製作所85723671b18f4d4587edb4d6a58a86ca

押上から京島方面に歩くのが好きである。最近はそこにレンタル暗室のアウラができたのでさらに町歩きが楽しくなった。アウラの1階のカフェでパリから来たエアフランスのパイロットのマンフレッドにあったのも不思議な感じがする。

この斉藤製作所は好きなランドマークだ。建物全体が傾いているのであるがその傾き方を見るためには建物の表面よりも左側から観察するのが傾き方が強調される。この前の日曜日にレンタル暗室で作業をして快晴の良い天気なので京島3丁目まで歩行した。いつも斉藤製作所は撮影するのであるがこの日はいい具合に道路工事の人が立っているので逆にポイントが面白くなった。

こーゆー東京の古い部分に散在するランドマークは全く油断ができなくてすぐなくなるかと思うとずっと存在しているしこれは当分なくならないなと思うとすぐなくなってしまう。我々の人生そのものである。

このショットは真宮6の最終モデルつまりオートマチックで撮影した。他にも真宮6はたくさんあってこの前ガラクタ屋さんで買ったやつは1,940年代の1型であった。
そのレンズは3枚構成トリプレットで上代光学のレンズが付いている。最終モデルはオリンパスの瑞光がついている。どちらもよく映る。

2018年4月24日 (火)

京島1丁目テイクアウトショップ交差点

1丁目テイクアウトショップ交差点7cdcfa8b75a44f3caa804d88f0ed80c9

京島が気にいって通うようになったのは四半世紀位前だ。坂崎幸之助さんの実家の酒屋さんが近い。何かの雑誌でお店に協力してもらって坂崎さんやカンパニーと一緒にここで雑誌の記事の資材をした。

坂崎さんの実家の酒屋さんは立ち飲みはしないと言う決まりであるがそれを無理にお願いして坂崎さんと私で何か飲んでいるような感じの写真を撮った。

その10年位前に京島界隈の路地の突き当たりにある街の明かりつまりランプがタングステンランプから蛍光灯に移ってしまうので慌てて撮影をした。野々宮をモデルにたたせて間宮7で撮影をしたのであった。それから時間は何年もたたないのに今や路地裏のランプはLEDになってつまらない時代になったものだ。

このテイクアウトショップは大通りに面している。しかし私の4半世紀の間このお店が開いていた記憶は無い。看板がいい具合に古びていてプリミティブであるので京島に行った時はこれを見に行くのが楽しみの1つだ。

この前の日曜日にレンタルダークルームで作業をして真宮6に根本豊治さんのフイルムを装填してこの看板を取りに来た。その日のうちに現像してスキャンしたのがこの画像である。この看板は色のさめているのがなかなか天然色写真で撮るには格好なのであるが初めて白黒写真で撮ったらそれなりの良い感じが出てていた。キラキラ橘商店街は完全にシャッター街なってしまって寂しかった。例のコッペパンのハトヤも閉店してしまったのでがっかりしている。
Img_6522


2018年4月23日 (月)

根本豊治さんの形見のフイルム

根本豊治さんの形見のフイルムImg_6485
心臓外科医で写真家の根本豊治さんが不慮の死を遂げたのは2月13日。もう2ヶ月以上になる。しばらく前我楽多屋さんに行ったらコダックのモノクロフィルムが根本さんの遺品であると言う。亡くなった人の

カメラを使うのもその人思い出すことにはなるがなくなった人がこれから取ろうと用意していたフイルムを使う事は何か供養として2段階ぐらいレベルが上のような気がする。それでそのフィルムが入っている容器を丸ごと買ったらにだいめさんはお金を受け取らなかった。
すなわち根本豊治さんの形見分けと言うような形になるのであろうか。

モノクロームの撮影を半年ほど休んでいたのだが急にこれは根本さんの供養のためにモノクロ写真を撮ろうと思い立った。

それで120のフィルムをカメラに入れて東京を撮影した。1本取ってくるとそれをすぐ1本現像するのである。現像液は老舗の鰻屋の秘伝のタレを持っている。これは簡単に人様にレシピを教えるわけにはいかない。
今の時代が退屈なのは全てテクニック至上主義である。だから私の現像のデータを教えるのは簡単だが皆さんそれをすぐメモして結局は同じテクニックは使わないのである。だからテクニカが逆にオープンソースにしない方が良い。

佐々木昆さんが木村伊兵衛先生の弟子をやっていた天然色作品で優れたものがあってそのテクニックを昆虫 さんが木村先生に聞いたら木村先生は不機嫌になった。あれは特殊なフィルターを使って撮影した。でもそのフィルタは破って捨ててしまったと言うのである。いかにも木村先生らしいコメントだ。

なくなった人が使う予定だったフィルムを装填して東京歩いていると言うのはこれは何と言うべきかやっぱり供養なんですね。あるいは根本さんの視線が私に乗り移るのだ。写真撮影のいたこ状態である。

根本豊治さんの事は私の連載している日本カメラの今月号トゥデイ東京に書いた。

2018年4月22日 (日)

さくらんぼさくらんぼ

Img_6483
さくらんぼが難しい。
1973年にオーストリアのウィーンに行った時市場でさくらんぼ買った1キログラムが150円位だった。これがさくらんぼの国際適正価格と言うものである。それに引き換えこの極東の謎の国ではさくらんぼは国産が異常に高い。

でもカジンガさくらんぼが好きなので時々買うようにしている。近くのスーパーで見たこれは980円もする。実際にこの数でその値段なのだ。さくらんぼが気楽に食べられないと言うのは何か戦後70年のストレスが我々の味覚に堆積しているような気がする。

ソメイヨシノのような花を見て楽しむ桜より私はやはり実のなる方が好きである。

まだプラハにビロード革命が起きる前の頃ターミナルステーションでカンツリーから出てきたおばあさんがさくらんぼを売っていた。値段が分からないので小額面の紙幣を出したら古新聞に山のように包んでくれた。それはそれ全部食べられないのでまずプラハの友人に分けて歩いた。さくらんぼはおいしかった。

2018年4月21日 (土)

モノクロ写真をブームにしてはいけない

1c4c6ddaf1084bcbbda2768bfd71a505

1,970年代のカメラ毎日などはまだカラーページが少なかったから天然色作品を掲載できると鬼の首でも取ったような感じだった。私が山岸さんに見てもらった天然生写真で掲載された1番最初のやつは3ページの作品であった。トヨタ自動車の撮影で出かけた愛知県のオープンスタジオの晴れた午後と虹が出た空と星を取った。

でも当時のメインとなる写真家の作品群は高梨さんの東京人でもTatsukiさんの舌出し天使でも写真の本編と言うのはモノクロームであった。下津さんの沖縄島にもしびれたこれらは全部モノクロなのである。当時は天然色写真は1部の広告写真家あるいは浜谷先生のような巨匠に限られていた。浜谷先生の場合は日本列島4-5のリンホフでバンバン取りまくるのだから大変なお金がかかる。

写真の本来の道と言うのはモノクロームのようだ。
それがデジカメが登場しネットが登場しインスタバイが登場したので天然色が普通になってしまった。

最近のモノクロブームと言うのは美食に飽き飽きした連中がつまみ食いをする程度の話なのである。やっぱりモノクロームもいいよねレベルの話なのだ。
モノクロ写真に真剣に取り組むと言う事はビッグマックの脇に付いてくるサラダをいつものドレッシングから別のやつにすると言うようなレベルの話ではない。それは生き方の真剣勝負なのである。初心者はそこら辺をすぐ間違える。

デジカメの場合モノクロ変換できるとあまりにもお手軽にモノクロ写真ができてしまうのも面白くない。本当のことを言ってしまえばフィルムで撮ってモノクロ写真を作るよりもデジカメで撮って変換するほうがずっと楽なのである。それはしたくない。

第二次大戦直後だがイーストマン・コダックは巨匠エドワードウエストンのために特別に8x10インチのコダクロームを提供していた。その作品をニューヨーク近代美術館で見たりしてまた当時のカメラ雑誌のエドワードウエストン本人の印象なども見たことがあるがウェストにとって結局天然色写真はものにならなかった。
モノクロの作例は昨日撮影。まみやプレス65ミリ。アクロス。老舗の鰻屋の秘伝のタレみたいな現像液で現像した。

2018年4月20日 (金)

グラフレックスXLとコンバーチブルホースマン

Img_6435

シュナイダーの47ミリレンズがついた蔵フレックスXLを仕事でよく使った。
すばらしいワイドカメラなのであるが問題はヘリコイドがプラスチックでできていることだ。だから10年も使うと必ず割れが来る。これは当時アメリカでも問題になったようで小さなワークショップでブラスで作ったヘリコイドをごく少数販売した。私のXLもそれを使ったが何しろ重くなる。
このワイドカメラについていたオリジナルレンズはスーパーアングロン47ミリのef 8の方だ。スナップを暗いところで手持ちでやる場合にはF8は辛かった。昨年の11月の年末蚤の市で飯田鉄さんからこのカメラを譲っていただいた。

このカメラはコンバーチブルホースマンを改造してスーパーアングロ47ミリがついている。しかも明るいほうのレンズが付いているのは嬉しい。

コンバーチブルホースマンは実に50年近く使っているが使い方に注意する点がある。ロールフィルムバックのロックが指が触っただけで開いてしまうのだ。これは実に写真家殺しですね。フィルムホルダーを交換する時暗闇では時間がかかる。直感的に交換できないのである。
間宮プレスのホルダーとかグラフロックのほうがはるかに使いやすい。

だからこのカメラの重要な使い方のガイドとしては撮影中にフィルムバックを交換しないことと裏蓋を開閉するボタンに触らないことだ。だからいつもブラックテープを貼って指が触れないようにしている。

このフレキシブルなフレームファインダーは蔵フレックスようである。フレキシブルなのでぶつけてフレームが曲がってしまう心配もない。

大きなプロジェクトを始めるときにいつも悩むのは6 × 7にするか6 × 9にするかということだ。私はどちらかと言うと6 × 9なのである。数年前なくなったLouis Baltsの場合Limhofの69サイズで撮影していた。

2018年4月19日 (木)

ネガフィルムを探すのに苦労する

ネガフィルムをImg_6409

1973年から80年までのオーストリアウィーンにの滞在中に撮影したフィルムの数は約3,000本ある。
3,000本と言う数が大変なので昨年の4ヶ月のロングランのギャラリーバウハウスでの写真展の時は49本のネガフィルムを使った。柳行李の中に入っている膨大なネガフィルムからまるで葉書の抽選みたいなやり方でぐいっとつかんだのが50本ではなくて49本だった。

それをもとにして写真家の加納が私の古希を祝ってくれた昨年のCT70の時の引き出物に素敵な写真集を作ってくれた。これは全縦画面なのである。

でもそれでは昔のwinの写真展になってしまうので一昨年の暮れにwinに撮影に行った。ギャラリーバウハウスの写真展が終わってからプリントの追加注文があった。つまりエディション2のプリントと言うことになる。
前々回のこれもやはりギャラリーバウハウスで開催されたwinをテーマにした写真展では追加プリントの注文があったのだけれども三千本のネガの中から探して探して探してついに発見できなかったので買ってくれたコレクターさんにお詫びを入れた。多分私が見過ごしているのだろうな注意力散漫だから仕方がない。

今回はそれに懲りていたのでネガフィルムの数を絞ってプリントしたネガの本数が100本ぐらいだった。その中から追加注文のプリントのカットを発見できた。今回は選んだフィルムの上にシールが貼ってあってそこでダークルームでの印画紙の露光時間もメモしてある。

ネガフィルムの管理体制が悪いのでいつも皆さんにご迷惑をかけている。

2018年4月18日 (水)

蘭州牛肉面

D5fc3dd4c9714bf48c058a88734be858


F3e21e71cda44639b6085eae362200b1

北京オリンピックの10年位前つまり私が北京に行きだした頃だが下町によく通う清真料理の小さい店があった。学校帰りの北京44中学校の女子生徒が2人牛肉面を食べていたり仕事帰りのおっさんが北京ビールを飲みつつゆでた落花生を食べたりしてる狭い店であった。若い人が経営していて売り物は言うまでもなく牛肉面なのである。
ウィグル自治区とか蘭州あたりが有名であるがムスリムの料理は中国中に浸透しているのがすごいことだと思う。
羊の肉まんもうまい。北京の鐘楼のそばにうまい店がある。1つ4人民元だった。

牛肉面をよく食べていたがある日行ったらその下町の路地は全部更地になっていた。その前にこの店を訪問したときに記念写真を撮ったのを持参したのである。仕方ないので水道管のところにビニール袋に入れた写真をくくりつけてきた。

牛肉面は実にシンプルな味であってとらえどころのない味覚なのであるが逆に飽きない。とゆうか日本で流行の腕組み組 系ラーメンは私は行ったことがないがそこでの価値観と言うのは何か予備校の成績みたいな感じでそれが嫌いなのである。腕組みラーメンは注文がしにくいと言うのも変である。何時間待ったと言うのも自慢にすらならない。その意味で腕組みラーメン成果自慢のおっさんおじさん専門学校生とは話をしたくない。私の周囲にもたくさんそういうおっさんがいるんだけどあなたのことを言っているのではないよ。
家系とか言っているがせいぜい50年位の歴史でしょう。清真料理の場合はその10倍は時間が経っている。歴史の土台が違うのだ。

神保町の三省堂の手前に以前は古いメガネ屋さんで創業明治22年とウインドウに看板があって色が褪せたジョン レノンのポートレートが飾ってあった。そこが蘭州の牛肉面になったらしい。

私は列に並ぶのが嫌いなのでその店に行ったら赤いLINEが引いてあってそこに3人の人が立っていた。前の2人は中国人男性である。3人めは日本の人ぽい。
列の最後列はこちらですかとその人にきいた。これは私がいつもアローカメラカメラガラクタ屋さんで入店するときににだいめさんに発する言葉なのである。

牛肉面の味は私が中国で食べているのと同じである。ラーメン屋の店主が腕組みをして豚骨スープを何日もかけて作ったと言うような熱血の味ではない。だから安心して食べられる。お客さんは半数近くが中国の人のようだ。言葉がわからないからそれはすぐわかる。サービスしている女性がムスリムのそれのように頭にスカーフを巻いているのも本格的な感じがする。

お店の人はお客にパクチーは大丈夫ですかと聞いたりしているがパクチーが食べられない客は来なければ良いのだ。マクドナルドでお客にパテは入れますかと聞いているようなものだ。
6年落ちのiPhone 5で撮影。😎

2018年4月17日 (火)

ハインツキルフィット66の正体

キルフィット66の正体Img_6349
ハインツキルフィットはミュンヘンのレンズメーカーである。後にアメリカでZoomarを起こしてテレビの初期の時代と映画の時代にファーストクラスのレンズを作っていた。ズームレンズと言うのはこの会社の®だった。まだニコールなどが登場する前の話だ。当時の世界の最高級カメラありフレックスの総合カタログなどを見ていると望遠レンズ系は全部ハインツキルフィットのレンズなのである。

この画像はネットの1,950年代半ばのハインツキルフィットの新型カメラはKowaシックスが噛んでいると勘違いしていた。実は藤田だった。私は勘違いしていたのである。

フィットはアルベルトアインシュタインなどとも親交があってアインシュタインの求めに応じてコロナスペクトログラム用の望遠カメラなども作っている。

私が驚いたのはこのカメラはもともと藤田緑緑が土台になっていると言うことだ。
キルフィットはカメラの制作の方では技術がなかったのだろうか?

2018年4月16日 (月)

Da Cameras.com

0d755b116e19487eac4faca625c48c60

中古カメラで価格が3,000円までのカメラを駄カメラと言うそうだ。
その駄カメラアソシエーションが旗揚げしそうな不穏な空気である。イラク情勢と並ぶ注目度ですね。森かけ学園等はマイナーだから話にもならない。

この写真展は毎年開催されていて出品者多数で出品も大変なようである。すなわち壁面スペースの奪い合いである。昨年私も出品させてもらってそのプリントが売れたのでマーカーでサインをした。狐塚さんがその私の落書きをこのアソシエーションのページのトップに使いたいと言うので連絡してきた。

これは1回限りでプリントに書いたものだから気合が入っている。数年前に佃界隈の新築マンションのカタログを請け負ってその関東に私のサインを手書きで入れたのだ。ディレクターが何枚も書いてくれと言うので10枚ほど書いたがうまくいかなかった。不埒なことにこの広告代理店は私のギャラ何百万のうちの半分しか払っていない。蒲田の会社だ。めんどくさいからもう付き合いはしない。
中国新華社をトップにして貸倒金は山である。

ところで無意識に描いたタイトルであるが.comとちゃんと入っているのがおかしい。3,000円以下のフイルムカメラでちゃんと写真が取れる事は既に社会の常識である。しかしこれをやると銀座にある日の丸屋ライカジャパンあたりは嫌がるだろうな。1,000,000円以下はカメラでないと考えている連中だ。すなわち帝国主義者である。ホーチミン

駄カメラで寄り集まっていた反社会性分子がこうして結成するとカメラ解放民族戦線でありロビーイストとしての力を発揮してくるかもしれない。なかなか楽しみな方向である。😎

2018年4月15日 (日)

Lord SL のフォーカシングレバーが絶妙

Img_6360

岡谷光学のロードと言うカメラは全部40ミリのレンズで個性的である。最初から最後まで全部集めても8種類しかない。それで全部を所有しているというのは別に自慢にも何にもならない。

ロードは後期のモデルになってからカメラサイズは1周ほど大きくなった。
レンズも40ミリでef 1.8と言う大口径になった。しかしスナップシューターであるからその前のモデルの明るさがエフ2.8のやつでも開放で使った事は1度もない。

ロードのレンズは40ミリと言う広角レンズで統一をしているのにそのデザインはくるくると変わるのが不思議であった。田中光学のカメラTanackにしてもそうだがマーケット戦略はやはりカメラの見た目と言うことなのだろうか?

ロードSLのフォーカシングレバーのデザインが非常に良い。非常に良いのは良いのだがもともとゾーンフォーカスで使うカメラである。
それ以前のモデルでは10フィートのところにクリックがあってそこにピントをおけば全部シャープに映るように作られている。それがこのモデルになってからクリックストップがなくなって全域でフォーカシングができるようになった。
親切なようで不親切なフォーカシングシステムである。
フォーカシングレバーのデザインも素晴らしいしフォーカスの感覚も非常に優秀なのだが使いやすすぎて逆に使いにくいと言う変なパラドックスに落ち込んでいる。

何かジャズバンドでアルトサックスの名人が無理矢理ドラムスを担当しているような感じがする。

2018年4月14日 (土)

六本木六丁目 禅ギャラリーにパノラマ写真集の打ち合わせ

2f720a6d0d164426a24fb564fce8918c


六本木で新しい写真集の打ち合わせをやってきた。禅ギャラリーで土田ヒロミさんの自閉空間の写真展。同時に写真集が刷り上がってきたばかりだ。今日はギャラリーでは土田さんのトークイベントがあった。
禅ギャラリーのマークさんと冬青の高橋さんと話をする。でもプリントはすでに私の手を離れたものであるしメインのディスカッションはマークさんと高橋さんの写真集のサイズのことになった。私に意見を聞かれたのだがこれはプロフェッショナルな問題であるから私は出る幕ではないとお答えした。写真集と言うのは映画制作と同じで集団作業なのである。シュレンドルフの映画を1976年に撮影したときに私はお手伝いをしてそのことを知ったのである。

写真家と言うのはついつい自分で全部をコントロールしようと言う方向に走る人が多いようだが私は写真集は共同作業だと思っている。

以前にこの写真集の出版をお願いしていた別の出版社でも私はリクエストしたのだが写真評論家のイントロダクションをトップにすえることをやめてもらいたいとお願いした。
写真評論家の評論は誠に結構であるがその評論家の世界に組み込まれてしまうのが嫌なのである。だから写真集では簡単なパノラマ写真に対するノートを私が書いてつけようと思っている。
John Szarkofskiはニューヨーク近代美術館の写真部長であった。たくさんの写真集のイントロダクションを執筆したが彼の写真作品を近代美術館のコレクションで見るとどうも貧弱である。写真家になれなかった当てつけにイントロダクションを書いているような感じがしたのだ。

私はチェコの写真家Josef Sudekのプラハのパノラマ写真集を尊敬している。
ただあの本はあまりにもサイズが大きいので常に携帯ができない。私が考えているのはもっと小さいサイズのパノラマ写真集である。
冬青の高橋さんは素晴らしい写真集を多数出している。しかも印刷の専門家であるから進行とその結果が楽しみだ。😎

2018年4月13日 (金)

部屋でテレビは見ません

部屋でテレビは見ません
Img_6343

四半世紀ほどテレビを見ない。外国にいる時も同じである。あの大きな液晶テレビの画面と言うのは何か不気味なもので見ていると落ち着かない。それでシャツなどをハンガーでそこにかけることにした。液晶テレビと言うのは不気味な存在だが衣類をかけるのにはなかなか向いている。

東京で言えば大田区東雪谷の辺のアパートメントに滞在していた。山や坂はないけれども洗足池みたいなものがあるので風光明媚なところだ。

偽物ライカ愛好会のTシャツとかここに写っているカモフラージュジャケットとか一緒にしておいた。撮影から帰ってきたらそれがすっぽりなくなっている。これはハノイのTシャツコレクターが持っていってくれたのかと思って感心していた。黒い偽物ライカ愛好会のTシャツは2011年7月7日にこれを着て笑っていいともに登場である。ついに河内にも店ライカ愛好会ハノイ支部ができたかと思った。

翌日の午後撮影から帰ってきたら見失っていた衣類は全部クリーニングされて戻ってきていた。誠にありがたいことである。
ハノイに通いだした20年前にはまだ様子が分からないので五つ星ホテルに宿泊していた。ホテルオペラとかメトロポールである。五つ星ホテルはクリーニングは頼まないとやってくれない。それがこのアパートメントではクリーニングを頼まなくてもクリーニングしてくれると言う特別なサービスがあるようだ。

それで洗濯の終わったカモフラージュジャケットをもとのように液晶テレビの前にかけた。
😎

2018年4月12日 (木)

ホテルから河内駅まで

Img_6325
今回のハノイの撮影では街の南側を歩きまわった。そして北の限界と言うのはハノイ駅なのである。ハノイの歩道と言うのはレンガはそこら中剥がれているしバイクの修理屋さんとかカフェが張り出しているので歩き様がない。一方で車道のほうは一応平になっている。だから危険を考えると歩道より車道歩いた方が安全である。
もっとも車道は車やバイクがビンビンやってくる。でもこちらで天秤棒で野菜を担いだ菅笠のおばちゃんの行動パタンを見てると移動する時は歩道ではなく車道歩いているのだ。私もそれに見習った。

Google マップで調べると私のアパートメントからハノイ駅までは時間はこんな感じである。バスを使うと48分のところが徒歩だと1時間6分というのがよくわからない。つまり道が大混乱しているからバスでも徒歩でもほぼ時間は10分ぐらいしか違わないと言う奇妙なことになる。それなら歩いたほうがいいし歩かないと写真が取れない。

Google マップの場合は1つの地点から目的地に行く場合車やバスであるから大通りを案内することになる。でも私は大通りを歩くのは疲れるからなるべく路地に入ってそこを斜めにショートカットするのである。そうすると本当のハノイの日常の光景がそこに見えてくるのだ。
これが私のハノイの下町の撮影テクニックだ。😎

2018年4月11日 (水)

荒川と言う名前のウイスキー

Cdfaaa55a3be4a5b9e52788d1c6773a8

東京で何年も飲んでいるのはブラックニッカと決まっている。ハノイで何年も飲んでいるのはハノイウォッカと決まっている。

でもハノイのノイバイ空港で興味があるから免税店を覗いてみた。荒川と言うウイスキーがあるぞ。荒川区民はもっとプライドを持っていると思った。

Price Tagを見たら330ドルもするのである。ルーペでインストラクションを拡大してみたら日本で作ったMoltスコットランドまで持っていって熟成さているらしい。お酒をあっちこっち持って歩いて価格を釣り上げるのはポートワインだとばかり思っていたがこういう手もあるのか。
カメラに関して言えば来夏おっさんがドイツ送りに修理に行ったと言って自慢しているノート同じような気がする。

空港の免税店ではルールとして安い地元のウイスキーとかハードリカーは売っていないものである。でも新しくできた空港の端から端まで全部探したら私がいつも飲んでいるハノイウォッカを見つけた。
値段はしない価格の5倍ぐらいするのである。それでも買おうと思ってカードを出したらアメックスもダイナスもダメでビザだけだと言う。ビザカードは東京に置いてきた。手元の使い残しの丼を使って払ったがえらく高い気がした。


2018年4月10日 (火)

ベトナムコーヒー

ベトナムコーヒーPhoto_2

ベトナムのコーヒーであるが非常にきつく入れたコーヒーにコンデンスミルクが入っている。最初はびっくりするがよくかき回して飲むと冷えているのでなかなか暑い気候には合っている。

ところが空き缶を2つ積み重ねたようなコーヒーメーカーを買ってきてもまず日本人で実際に使う人はいないだろう。私も20年前のベトナム行きではこれを買ったが使うこともなくどっかにいってしまった。

脇に冷たいお茶が付いているので時間を潰すには絶好である。仕事のためにちょっと寄ってあたふたとコーヒーを飲んでいくような日本とはかなり違うので私もここで1時間以上時間をつぶしたりして周りの風景を見て楽しんでいた。

これでカフェのコーヒーの値段は20,000ドン位である。ホテルから徒歩1分ぐらいのところにこういうお店があるのは実にありがたい。コーヒーをすすっていたら上田が来てベトナム語で地面に線を引いて何か言っているのだ。それは私には意味が通じないが5分後に明らかになった。いきなり雨が降ってきたので私が座っているところは濡れるから後ろの列にいたほうがいいと言うことを言っていたのである。日本の気象予報士などよりよっぽどプロフェッショナルなのである。

2018年4月 9日 (月)

藤田緑緑と矢切の渡し

藤田緑緑と矢切の渡しImg_6232
藤田66を最初に手にしたのは大学生時代高田の馬場の鈴木カメラで買った。今見るとすごいモダンデザインだが当時見た印象は時代遅れのカメラに見えた。しかもカメラを操作すると歯切れが悪くて写っているのか写っていないのかわからなかった。そこら辺にカメラ操作の奥義とでも言うものがあったのだろう。

藤田66はアメリカでよく売れた。苅間とかソリゴールの名前で売られていた。実用主義のアメリカ人の気に入るようなカメラなのだからこれはちゃんとしたカメラなのであろうと考えるようになったのは日本デザインセンターに入った頃だ。職場の定番のカメラはハッセルブラッドであった。それは藤田緑緑はあまりにも趣味性が高くて仕事には使うわけにはいかない。

初めて矢切の渡しを見に行った時に藤田66を持っていった。レンズは80ミリのef 3.5である。その描写が非常に気にいって私の著書にも天然色写真で掲載してある。
何十年も80ミリの藤田の標準レンズは4枚構成のテッサタイプだと思い込んでいた。それが昨晩ネットで調べてみたらなんと3枚玉なのである。私はトリプレットフェチなのでますますこの魂が好きになった。

winに住んでいるときに1番愛用したレンズは藤田の400だった。ズシリ重い大柄なレンズで非常に作りが良かった。非常にシャープであった。その400ミリで撮影したwinの写真は私の写真集にもモノクロで掲載されている。
知らない間に藤田光学のお世話になっているわけだ。何かレオナール藤田みたいで名前そのものも非常にかっこいい。

2018年4月 8日 (日)

🐦❤️5月13日ブラパチワークショップのご案内です。メタボリズムの原点を歩く

5月13日ブラパチワークショップのご案内です。メタボリズムの原点を歩くImg_6305

私は文京区音羽5丁目2番地で生まれました。5月は31日が私の誕生日です。尊敬する写真家木村伊兵衛さんのご命日も5月31日です。それで生誕した地域をご案内しようと思います。日本のメタボリズム建築の原点となった菊竹さんのスカイハウスそして丹下さんの東京カテドラルです。スカイハウスは1958年の竣工で東京カテドラル= 1964年の竣工です。面白いのはどっちの歴史的建築物も私は着工から竣工までを目で見ているんですね。メタボリズムというのは建築の様式のことです。デブの事ではありませんよ。😎🌈

2018年4月 8日 (日)

森永純さん

森永純さんは一生涯をかけて写真に向き合った人。
友人スミスのアシスタント。
モーメントモニュメント時代のマンハッタンではインディペンデントムービーハウスでもぎりをやっていた。これは数年前ギャラリーバウハウスの対談でご本人の口から聞いた。
天衣無縫な芸術家。行年81Img_6286


🐦❤️4月8日木村伊兵衛葉桜祭りの集合場所について

たった今ハノイから戻りました。4月8日のブラパチワークショップは午後1時に月島駅6番出口の出たところセブンイレブンの前のベンチが集合ポイントです。まだ申し込みしていないでない方も当日そこで受付をします。お待ちしています。😎🌈⛩

2018年4月 7日 (土)

パパイヤうりはなぜ倒産しないのか?

Ab767c83ec52435cb642f9f0a0248626

今いるアパートはハノイの南部の下町直球ど真ん中にある。1番近いカフェが30メーター位のイルドフランスの小さな街の広場にあるような場所でそこに立派なカフェがある。

ジョンソンの空爆が行われていた頃の空襲警報放送したであろうあろうロシア構成主義めいた鉄塔があってその上にラウドスピーカーがたくさん付いている。その鉄塔の下にパパイヤうりのバイクのおっちゃんがいつも陣取っている。その人を撮影したのであちらもこちらを見知っているようになった。

ハノイは雨である。
パパイヤうりのおじさんは雨がひどくなってきたのでカフェの1番手前の椅子に座って客待ちをしている。別に何かを注文するわけでもない。

ちょっと見るとバイクタクシーのドライバーが客待ちをしているように見えるがそうでは無い。この人はプロのパパイヤハンドラなのである。
私はハノイ名物のアイスコーヒーを飲みながらこのパパイヤ売りのパパイヤがこの雨の中で最初いつ売れるかそして売れたらアパートに戻ろうと思った。
1時間 45分経過。私はコーヒーをすすりながら待っていたのだがついにカスタマーは現れなかった。


まずこれだけの根気がなければベトナム戦争は勝利できなかったのであろう。

2018年4月 6日 (金)

河内のひげ爺

ハロウィンのひげ爺B2cbd8d110ed485cbe5506b46e9bf663

昨年のちょうど今頃パリの写真展のオープニングレセプションで特製ラベル付きのワインで良い気持ちになっているところにパリジャンが私に話しかけてきた。立派なヒゲだな。太ったホーチミンだな。と言うのである。それはその通りである。
私は実際にホーチミンのムスリムを見ている。
ディエンビエンフーを忘れるな!!と言ったら相手は笑っていた。大国フランスにとってこの最大の負け戦がショックであったに違いない。

ハノイ中央駅の南側を東西に走る寒天通りは北爆が最も激しかった地域だ。
ジョンソンの指令した北爆の時この地域は集中的に攻撃され投下された爆弾の量は1,000,000トンであった。ただし当時の河内市民は戦争慣れしているから死者の数は最低限であった。

寒天通りを歩いていたら後ろから肩を叩かれた。見ると私と同世代のおじいさんである。ニコニコしている。酒にちょっとよっているらしい。
ホーチミンみたいな立派なヒゲですねと言ったらしい。ベトナム語がわからないからこれは昨年の5月のパリのパーティーの思い入れがあるのだ。実際には同士、飲みに行こうか?と言っていたのかもしれない。
最初のハノイ訪問の案内してくれたのは1975年生まれの青年だった。北爆の時は街の南部がやられたが自分はハノイの北部に住んでいたのではひどくなかった。
ちょうど東京大空襲の時に下町は被害がひどかったが山の手はそうではなかったと言っているのである。

寒天通りのじいさんと別れてハノイ駅の西口にあるビアホールに歩いて行った。😎
02573671bea746d0b4d6a627d00cf46d


2018年4月 5日 (木)

Josef Sudekの窓辺

0952a0be34dd42fbb2fab664feec8616

プラハの有名な写真家の仕事に似てくるわけである。シンプルな日常生活の食物をクローズアップで撮ると似てくるわけである。シンプルな食器が逆光の窓の光を受けると写真が似てくるわけである。

プラハの写真家の仕事がすごいのは仕事机はすべてもので埋め尽くされていてその中心部の20センチ司法の空間だけが彼の自由になる場所であった。その11インチ× 14インチの密着写真のタイトルは写真家のラビリンス。
だから食事の時はそこに紅茶のカップと薄切りの黒Panが置かれるわけだ。
卵だって非常にフォトジェニックなモチーフであった。

ここに写っているのは鶏の卵ではなく鴨の卵だ。
4月8日はお釈迦様の日であるが音羽の家からちょっと南に下がったところの釈迦堂で縁起物で売っていたのが鴨の卵なのだ。なんでも脳卒中に良いとか言うことであった。鴨の卵はその黄味が独特の味がするものである。ところがヨーロッパなどで探してもなかなか手に入らない。ウィーン時代にいちど買ったことがある。その卵の表面にはAchtung Ente Eier! という文字列があった。その理由は未だにわからない。

1月の末に上海を巡った時も市場で鴨の卵を見つけた。でも高級ホテルでは鍋で卵を茹でることができないからそのままになってしまった。ここハノイはアパートメントだから自由に鴨の卵を茹でることができるのはありがたい。

戦争をしないことも鴨の卵を茹でる自由も憲法で保障されなければならない。

ハノイは穏やかであって早朝に鶏がなき出す。これは私がすごく好きなものだ。日本の鶏よりもちょっと音程が低い。鶏の先祖はこのあたりの出身であると言うのを何かで知ったことがあった。その鶏の声が早朝の闇の奥のほうから聞こえてくる。何か古いお寺の中の空気をそのまま聞いているような感じがする。

午前と午後に下の方からピアノで声楽のレッスンをしているのも聞こえてくる。
路地を物売りが通る。その物売りの声も芸術になっている。

日本の物売りの声は廃品回収しかないから興ざめである。

2018年4月 4日 (水)

ハノイウォッカ

ウォッカPhoto

ハノイで飲むのはハノイウォッカとハノイビールに決まっている。
5年前に比べてハノイウォッカは高くなった。100,000Don位する。前はその半額位。要するにドルベースでシフトしているわけだ。日本政府は円建てで経済成長したとか言っていると、けれどドル建てだと大幅に失っているのと同じことである。

ラベルを見たら19世紀に創業したのだからすごいなと思う。ロシアの本物のストリチナやだって1936年創業だからこれはハノイウォッカにはかなわない。

5年前に流行した最先端の飲み方はリフリジレーターで冷却する飲み方だった。
でも当時のハノイではそれは1部の高級冷蔵庫を持っている人に限られていた。この河内の安アパートの冷蔵庫はクラシックモデルだから氷のように冷たいウォッカを飲むわけにはいかない。

マンハッタンのアルゴンキンホテルでウォッカマルティーニを飲んだことを思い出した。
ハノイウォッカは70年代に考えれば南ベトナム解放戦線のさらに北の大元締めだから大変なステータスであるということになる。日本電波ニュースの北ベトナムのモノクロームの国策映画と言うわけだ。

2018年4月 3日 (火)

河内の南半分を歩く

Img_6241_2
初めて河内に来たのは2000年であった。広州から飛んだのである。中国語でハノイのことを河内と言うのを初めて知ったのはその時のことだ。びっくりした。
2000年にはボロボロのハイエースでハノイからホーチミンを目指した。でも途中で飽きたのでhueでやめにした。
それ以来何度か河内に来ていていつも歩いているのは町の中心部から北なのである。東京の行動パタンも同じで私の住んでいる中央区から北方ばっかり歩いている。たまに西馬込とかいってびっくりしているのである。これではいけないと言うことで今回は河内の南半分歩きつくすことにした。
それで今宿泊しているところはまず東京で言えば大田区と言う感じなのだが 50年前の鎌田である。下町直球ストライクなのがすごくいい。

新しいメトロシステムを取材に来た。中国がお金を出してくれないので去年開通と言うのが動かないのだ。でもこれをGoogle マップで見ているとハノイの中心部に巨大な白いドラゴンが踊りを踊っているように見えてそれがダイナミックである。

2018年4月 2日 (月)

G10からG20にアップグレード本日移動日東京河内

河内Img_6230

78年前になるがヒルズで仕事をしているときに東京タワーの上の展望台からヒルズを見ている男性がいてこっちから東京タワーが見れるからそれで友達になった。男性はゴスペラーズですと言うので私はゴスペラーズってなんですか?と聞いた。知っているのはビートルズとアルフィーだけであったからだ。そこに第3のバンドゴスペラーズが加わったわけである。これがSakaiさんとの出会いである。

それでゴスペラーズのアルバムその時点で結構古くなっていたがジーテンを買ったのである。このアルバムは飛行中乱気流に遭遇したときに聞くと結構ビートが効いていい感じだ。それで乱気流の時に取り出してヨーロッパの行き帰りに聞いたりしていたのだが新しいボーイング787が登場してそのカーボンファイバーの構造であるが乱気流の時にゴスペラーズを聞くと実にいい感じなのである。
それから数年後にゴスペラーズの酒井さんが私に誕生祝いに新しいアルバムG20を送ってくれた。それもオンラインで送ってくれたものだから開き方がわからないで2年ぐらいそのままになっていた。一昨年の夏にiPadを新しくしたときに試してみたらようやくダウンロードできたのである。

今回の羽田河内の飛行は乱気流だったらいいなと思っている。ゴスペラーズ聞くのにはベストな環境であるからだ。

昨日は東京の渋谷で知り合いのアパレル関係のトップと近況報告会をやった。
その人は河内の出身なのである。ベタベタの河内弁である。ベトナムのハロウィンを漢字で表記すると河内であると言うことを言ったら彼はそのことを知らなかった。河内の人に会ってその翌日に別の河内に行くと言うのがなかなか気が利いていると1人笑っている。

その河内であるが最初に行った時は2000年であった。何かミレニアムの取材だった記憶がある。
リコーGRの前のR 30とか言うカメラで写真集を作った。そのタイトルがベトナムデジタル紀行と言うのだから時代を感じる。
最後に行ったのは2015年であるからすでに5年前である。その間に新しい交通システムが河内の南北を結ぶようになった。Google マップで見ると白い蛇が河内中心部をうねうねと張っているように見える。これが新しい交通システムなのだ。
でもお金をサポートする中国があまりお金を出さないのか
開通の予定がちょっと遅れているようだ。

日本も原発の売り込みばっかりではなくて交通を整備する方にお金を使えばいいのに。
10年ほど前にデリーでの地下鉄は素晴らしかった。これも日本のサポート援助で作られたそうであるが日本よりはるかにモダンなメトロを降りて上に上がると上はムガール帝国そのものなのである。こういうのって巨大なテーマパークですごいと思う。く

2018年4月 1日 (日)

オーストリアウィーン周辺部の工業地帯

Img_6220
オーストリアウィーンでもプラハでもそうだが私は都会の周辺部から原野の始まるところが好きでそれにいつも興味を持ってきた。たまたまミラノに長く住んでいる写真家がやはり都会の周辺部とそこから始まる無法地帯に興味を示して撮影している。それでFacebook上で色々と意見を交換したのが面白い。

オーストリアウィーンの南の街はずれは19世紀には工業地帯であった。それでレンガ造りの巨大なガスタンクがいくつも打ち捨てられていてそれが私の興味のあるランドマークだった。

この場所には何度もいっている。古屋誠一とクリスティーネと一緒に来たこともあった。彼らは正統派であるからライカをぶら下げていた。私はアウトローであるから1,947年生の一眼レフコンタックスSにFlectogonの20ミリをつけていた。

時代が下って2011年の2月にこの場所に行ってみたらすでにテーマパークとなっていたのでびっくりした。タンクはそのまま保存されて中がショップやレストランになっているのである。winと言う街はそういう過去の負の遺産をポジティブに変換させるのが得意なようだ。

この写真のバリエーションは30年近く前に出した写真集のリミテッドエディションについている3枚のオリジナルプリントのうちの1つになっている。ただしカメラアングルはこの限りではない。
作品は個人蔵。😎

« 2018年3月 | トップページ

ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
2018年4月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30