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2018年1月31日 (水)

私の好きな場所。ボヘミアのプラッター

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オーストリアウィーンに住んで70年代から80年代にかけて7年半暮らしていたのだがその最後の日に思い出作りに出かけたのがこの場所である。
町の南にある10区と言うところで産業革命の頃はここら辺は工場であった。当時はまだ街の周辺部が工場地帯と言うクラシックな都市モデルであったわけだ。

これがLaa Bergと言うところである。

ボヘミア人のためのプラターと言うのは本物のプラタよりも1段クラスが下がったと言う意味合いがあったらしい。逆にwinをよく知っている人々にとってはこの場所は地味でなかなか趣のある愛すべきところなのである。私もこのボヘミア人のためのプラターが好きであった。

Franz Hubmanというのはwinの有名な写真家である。オーソドックスな報道写真を撮る人だ。多分私より2回り位年上だったと思う。
撮影に出かけたらボヘミア人のプラタで偶然この大写真家に遭遇してしばらく立ち話をしたのも嬉しかった。それは冬のことであって遊園地は閉鎖されているから我々2人以外に誰もいないのである。

その時間が忘れられない。遊園地と言うと普通はディズニーランドと言うことになってしまうのであろうがウィーンの人は本当の遊園地の楽しみを知っていると言うことになるのであろうか。
もちろん私はディズニーランドに行った事は1度もない。

2018年1月30日 (火)

ブラパチワークショップ。神田駅前のこの建物が好き

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第5回目のブラパチワークショップである。駿河台から神戸駅前まで歩いた。寒い日に4時間近い歩行であるから皆さんタフであると思う。ただし山の上から下に降りるので高低差はほとんどなくて楽な行軍であった。

田中長徳カメラ塾のブログの方で、いつまでもあると思うな好きな場所、と言うテーマで何回かに分けて書いたのである。
風景と言うやつは油断がならなくていつまでもあると思うとすぐなくなるしもうすぐなくなるのではないかと思っていたのが10年以上あったりする。それが風景のかくれんぼと言うやつだ。

神田駅前にあるこのモルタル造りの建物が好きなのである。もう40年以上なれ親しんでいた風景だ。真珠屋さんであって細かい仕事の内容は知らないが何かプロフェッショナルな真珠の材料を得るような店であったようである。
エントランスの右側にパールがだんだん成長して中に真珠を持ってくるまでのそれぞれのプロセスを表示した標本があった。それを見るのが好きだった。何か小学校の理科室にあるようなシンプルで稚拙な標本に思えたからだ。だから中央通りを撮影で歩いていると今日は足を伸ばして神田駅前のあの真珠の標本を取りに行こうと思ったりする。

しばらくぶりに行ったらモルタル造りの建物がそのままであったがマッサージになっていた。
パール屋さんからマッサージ屋さんと言うその化け方は超現実的であって非常に気にいった。

2018年1月29日 (月)

フイルムとライカ。私の道具箱

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ギャラリーバウハウスでの私のオーストリアウィーンの個展は昨年の11月から始まって2月の半ばまでなので足掛け4ヶ月と言うロングランになった。
ギャラリーの1階の展示は1,970年代の作品であって地下1階の展示が一昨年の12月に撮影に行ったのである。winとしては異例の暖かさで寒いといってもマイナス10度位だった。そういう話をすると日本の人は凄い寒いですねと言うのであるがアパートメントは暖房がちゃんとしてるからTシャツ1枚で室内にて暑いことである。世界で1番寒いのはここ極東の日本の関東地方だ。前にも書いたがハッセルブラッドの広報部長が日本に来たときにびっくりしてここは世界で1番寒いと太鼓判をしてくれた。

一昨年の12月にwinで撮影したモノクロームの本数は確か21本であった。このフイルムの箱が私の大工の道具幕である。最初はフィルムのパッケージでいっぱいになってその上にカメラが申し訳なさそうにしている。ところが撮影がどんどん進行していくとフイルムは箱から出されてパトローネの入っているプラスチックのケースも捨てられてしまうから撮影済のフィルムは単なるフイルムカセットであってボリュームはぐっと少なくなる。

それで東京に戻る時は撮影済フイルムはキャリオンバゲッジに入れてフイルムの箱は現地で捨ててしまうわけだ。そうするとトラベルライトになる。フイルムを使って仕事をしていた時は大変だった。仕事の写真だからたくさんとらないとクライアントが納得してくれないから1回に300本以上もっていくのである。要するにスーツケースをもういっこ持ち歩かなければならない。それで当時は高いビジネスクラスを使ったりしていたのだが最近ではエコノミークラスでも 23キロのラゲッジが2つもモテたりする。でも皮肉なものでそういう時代になってみると私は完全にトラベルライトトラベラーである。だからキャリオンもいっこだけで預ける荷物もないと言うことが多い。皮肉なものである。

2018年1月28日 (日)

王子電車

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都電荒川線である。1,966年頃の撮影だと思う。鬼子母神から学習院下にこういう小さなガードがあった。私はこれが好きだった。狭い門をくぐるとすぐ右側に水道工事屋さんがあった。そこの小さなウインドウに展示されている水道の配管の様子とか何かを見るのが好きだった。なぜそれに興味を持ったのかはよくわからない。

私の母などはこの路線を王子電車と呼んでいた。これは古い言い方なのである。それに私が幼少の頃に記憶している王子電車の色は緑色であった。
都電の初乗り運賃が13円で乗り換えができないというのが当時の交通ルールであった。だから戦前の小説家の話を読んでいて電車賃が10銭で乗り換え券を何枚ももらえる時代は良かったかなと考えたりました。

子供の頃に将来なりたい職業として1番魅力的だったのは都電の運転手さんよりも車掌さんである。肩にかけたカバンで中から分厚い切符を出してそれをパチンパチンとパンチを入れるなどが理想の職業に思えた。近くの駄菓子屋さんでも電車カバンと言うのを売っていて車掌ごっこをした。

時代が下って、都電が廃止になった時に交通局は本物の車掌のカバンを大量に放出した。それには切符を切るパンチも付いていた。しかし私はそのときにはすでに電車のカバンには興味がなかった。それよりも電車の停留所に掲げられているほうろう引きの大きな看板をたくさん買ってきたのである。
いまだによく覚えているのは護国寺、上野動物園前、そして霜降橋であった。確か1枚500円だった鉄板のほうろう引きであるから若いとは言えそれを持ち帰るのに大変苦労した。評論家の長谷川明がそれを欲しがって彼に譲った。その長谷川が亡くなってもうずいぶんになるな。

2018年1月27日 (土)

爆発する樹木

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これはiPhoneファイブでの撮影である。最近のiPhoneはさらに高画質になっているようでこれなどは6年落ちの古いモデルがあるから画質はせいぜいこの程度だ。でも私がiPhoneを使うときはコンパクトデジタルカメラを持っていないときにiPhoneを使うのである。写真家友人スミスは常にカメラを携えていた。何も持っていないときでも最低限としてミノックスカメラを持ち歩いていたと回そうしている。

そういう懐刀としてiPhoneを使わないと写真家の生活にとりとめがなくなってしまうからだ。まだiPhoneで撮影するのが珍しかった時代にアメリカの写真家のジョエルスタンフィールドが中近東をiPhoneで撮影した。それはゲッチンゲンの有名出版社から写真集になった。その時写真家は電話をしながらのポーズをとってスナップをするのである。今見ていて面白いのは当時は携帯電話にカメラがついていることが罪悪と言う認識があったようである。今ではそんな古めかしい考えは一掃されてしまった。

赤羽西3丁目から十条仲原に抜ける通りは起伏に飛んでいて気をつけないと路地に迷い込んで場所をロストしてしまうのである。何年間も探検をしたから最近はようやくこの辺の地形がわかるようになった。

この写真をFacebookにアップしたら誰かがこれは樹木のテロリズムですねと言ったのが面白かった。
われわれ人間の時間の経過感覚からするとこれは単に新しい葉っぱが出てそこに花が咲いたと言うふうにしか見えないがもっと長いタイムラプスでこれを見ると確かに樹木の大爆発なのである。

2018年1月26日 (金)

2018年1月20日ギャラリーバウハウスでのトークのためのメモ書き

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仕事柄ずいぶんいろんなところで講演やらトークイベントやらせてもらってもう4半世紀が経過した。私は単なるおしゃべりである。小学校の担任の先生が私のそのいい加減な話術に着目して当時売れっ子だった有名な落語家のところに弟子入りをさせようとしたことがあった。
母親は私を東大に入れたかったから絶対に反対した。それで今のような中途半端な私の生活があるわけだ。

トークの相手で1番ありがたいのは坂崎幸之助さんである。私がどんどん本当のLINEからずれていくと坂崎さんが修正してくれるのである。

ところがこの3余年坂崎さんと一緒にお話をさせていただいた事は無いから私の話の方向は軌道ずれてとんでもないところに行ってしまう。

話としてはそれが面白いのであるがそうも言ってられない。それで1月20日のギャラリーバウハウスのトークでは事前にメモのようなものを用意していた。私が関係したオーストリアウィーンの人々についてのメモである。こういうのがあるとあんまり大気圏外に行ってしまう事は無いから軌道修正がしやすい。

メモのあちこちに赤ワイン赤ワインと書いてある。
ノーベル文学賞のミラン・クンデラは学生に教えるときに近くのカフェで赤ワインをちびちび飲みながら授業をしたそうである。日本だと慶応大学の教授の福田和也さんがいる。まずそれが正しい文化のあり方と言うものであろう。


2018年1月25日 (木)

スミレの花咲く頃。十条仲原4丁目17番地

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この北区10条中原4丁目界隈は赤羽から歩いても 10条から歩いても30分近くかかる。いわゆる旅客機が不具合が起きたときに引き返す場合のイーブンポイントのようなものだ。
非常に急な地形であって階段を上るとゼイゼイ呼吸が切れる。ここは荒川のいわゆる川の崖の名残なのであろう。

これは数年前に撮影したショットであるが今年も春になったらこの急な坂道を歩行するのを楽しみにしている。いってみれば桜は俗物であるのに対してこのすみれのがけはもうちょっとレベルが上のような気がするのだ。
赤羽駅から出てこの坂を上って10条の駅まで行くのに私の足で大体1時間弱かかる。
でもそこをショートカットするのは辛いからこのすみれの坂道の手前に私専用のベンチが1つ据えてあってそこで仕事をするのである。
カメラはニコンSP Tessar28ミリ

2018年1月24日 (水)

号外号外 友達が撮影した雪の傑作写真

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ブラパチワークショップにも参加している猫の中田さんが撮影した写真である。
小村 雪岱クラスの名作である。
中田さんがお仕事場から戻るときにいろいろなルートがあるが雪の午後は都電荒川線が全部止まったりしていろいろ大変だったようである。

この坂は富士見坂と言って外国にも有名な東京で最も急な坂道の1つだ。雪景色がこうなるとは思わなかったが実に素晴らしい写真である。この場合傘をさした人の位置なども完璧である。中田さんはこの後にご自宅近くの古い町並みでいつも茶色い猫が集まっている横丁も撮影している。これも雪景色ならではの情緒で素晴らしい。

写真と言うのはそういう本質的なものであってライカのエム型にアポ頭ミクロンがいいとかなんとか言ってる連中は初心者である。と言うよりも単なるカメラ好きの域を出ない。

もう一つの雪景色のショットがカメラガラクタ屋さんのにだいめが撮影したこれである。お店の2階から下を撮影した狭い切り取った画面なのであるが毎回ドラマがあるので私はこれが好きだ。しかし画面が雪になってなおかつ赤いコートを着た犬が歩いていると言うのはちょっと想像がつかなかった。
要するに我々の貧困な想像力よりも現実のほうがはるかに上のクラスになる。

猫の中田さんもにだいめさんも良い写真を撮るな。
私は今までこのお二方に使っているカメラとレンズはなんですかなどと言う愚問を呈したことが1度もない。
カメラの種類等を超越したところに写真の良さがあるのである。でも案外お二人ともライカエム.10アポ頭ミクロンでとっているかもしれないな。お笑い😎⛩

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京成立石の大ちゃん テレビのテストパターン猫

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葛飾区立石で有名なのんべえ横丁がもうすぐ閉鎖されると言うので2月 11日開催のブラパチワークショップはそこに決めた。
立石青戸と言えばやはりつげ義春さんさんである。
つげさんの青春時代の時点で付き合っていた女の人と青砥立石でいろいろあると言うストーリーが懐かしい。

10数年前にライカのビデオ作った。いっぽんめは当時建設中の代官山でもう1本は青戸立石であった。当然ながら立石はバルナックタイプのライカをテーマにしたのである。

実はそのビデオのディレクターが立石にお住まいで撮影の後に立石駅南口の寿司屋栄寿しに連れて行ってくれた。ここが実に素晴らしい。
それで考えたのは2月11日の第6回ブラパチワークショップの時にまず参加の皆さんにそれぞれ個人の資格で勝手にこの寿司屋さんに行って堪能してもらいたいのである。握りはずっと100円だったが今は110円になった。

立石銀座の横を入ったところにたこ焼き屋さんがある。その屋号を大ちゃんと言うのである。大ちゃんと言えば月島のクラブエダムの頃に常連さんで格好のいいおっさんがいたのである。
立石の公園で猫を見ていたらテストパターンみたいな個性的な猫が登場した。それでこのシトを大ちゃんと命名したのだった。

2018年1月23日 (火)

ぎょうざやさんの古いサンプルに惹かれる

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ブラパチワークショップで歩いた古いぎょうざやさんのウインドウの食品サンプルである。外国人観光客にとって食品サンプルは非常に魅力的なようである。合羽橋商店街などに見に行ってその値段が非常に高いので二の足を踏むツーリストも多い。
食品サンプルが日本中に蔓延しているから日本国民の食品に対するイマジネーションが貧困になっているのである。ちゃんとしたお店では食品サンプルなどは展示していません。

それでも食品サンプルがお店のウインドウにたなざらしになってカゼニフカレテ日にさらされているとだんだんいい感じになってくる。少なくとも30年は経過していないといけない。この食品サンプルはその意味でヨセフボイスが制作した展示物のように見える。

小学校の通学路の行き帰りに小さな中華料理屋があった。間口1間位の狭い店である。そのエントランスの脇に小さなウインドウがあってそこに中国のお酒の瓶があった。そしてその脇に置かれたのが小学生の私には不思議だった泥と籾殻で包んだ巨大な卵のようなオブジェであった。これが小学校の私には不思議だった。これはどうやって食べるのかと思った。
そのピータンを初めて食べたのは割と遅くて20代後半だったような気がする。
人間が制作する食品の中でかなり複雑な味がする酒のつまみである。

2018年1月22日 (月)

神田富山町1丁目25番地

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写真家の須田一政さんのお住まいがあったのは千代田区神田富山町1丁目25番地である。
向かいは貴金属扱い生の徳力本店であった。須田さんのお宅の右側はゴム屋さんであった。

日大写真学科の暇だった学生の私は須田さんの家に昼頃行くとお母様が出てきて息子はまだ寝ていますからポルシェで待っていて下さいと言われた。ポルシェは斜め向かいの喫茶店なのである。
あるいは津田さんのお宅の2階の6畳間に上がって午後5時から開く飲み屋の時間を待っていたこともある。
まだ若い写真家だった須田さんと私は2人で夢を語るのである。早くカメラ毎日8ページは掲載したいですねなどと話した。そーゆー時間も退屈になってくると今度はライカM2についているライカビットを外してそれで遊ぶのである。
ライカビットの引き金をナイフのようにして右手で持って左手の指を広げて指を傷つけないようにしながら畳の上で畳をザクザクさしながら素早く動かした。本来はナイフでやる遊びなのであるがそれをライカビットのとんがった引き金に代用品を務めさせたまでである。高校時代にそんなワイルドな遊びが流行っていたのだ。

それで夕方になると須田さんと神田駅前に飲みに行っていろいろなことを教わった。これが私の生きた写真大学と言うものであった。

10年近く前神田駅前を歩いていたらメルセデスベンツAに乗った老紳士が車の中から私に挨拶している。誰だかわからなかった。そうしたらその老紳士は出てきて須田ですと言ったのである。非常にスリムになられたので最初は誰だかわからなかったが声が聞き覚えがあるからすぐ須田さんとわかった。

ブラパチワークショップの先日の最後のポイントはその須田さんの旧居の前であってそこで記念写真を撮った。あっという間の半世紀なのである。

須田さんを待つ間時間をつぶしていた斜め向かいのビルの地下にある喫茶店ポルシェには好きな女の子ができた。彼女はその後三省堂の辞書販売の売り場に移転したのでそこにも遊びに行ったことがある。
まだ三省堂が木造の建築物であったのだから大昔の話である。😎

2018年1月21日 (日)

裏神保町

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ブラパチワークショップで歩いた神保町の古い町並みである。写真家の須田一政さんに初めて会ったのが1966年4月29日だった。皇居の中ニコンエスツーのブラックを持った人がいてそれが須田さんだった。それ以来お付き合いが続いているわけである。神田神保町界隈は本当に須田さんにいろいろ教えていただいた。当時私は18歳。須田さんは25歳だった。

須田さんは実はアマチュアの写真クラブのご出身なのである。チェコの写真家ヨセフSudekもそうだった。エドワードスタイケンが関係したニューヨークカメラクラブもアマチュアカメラクラブであった。写真家の出身と言うのはどうもそういうのが正統的なようである。

この古いぎょうざやさんの看板は半世紀前と変わっていないので時々目に浮かんでくるのだ。この近くの角を曲がったところが森さんと言う写真屋さんで森さんは須田さんが入っているカメラクラブゾンネグル ペの会長さんであった。そのカメラクラブは下町の旦那衆のカメラクラブであるから例会をお汁粉屋さん竹村の2階であったりするのである。それがなかなかいきに思えた。

その森写真工房の斜め向かいが喫茶店であった。珈琲館と言う店だった。アサヒカメラのインタビューで江戸バンベールエルスケンをそのカフェに連れ込んでそこで長いインタビューしたことがあった。もっともアサヒカメラのインタビューに向くような内容ではなくてもっぱら2人で16ミリムービーカメラの撮影テクニックについて話をした。
エルスケンと意気投合して今度自分のオランダの農場で遊びに来てくれと言われた。それがエルスケンとあった最後であった。

裏神保町と書いたがこのすずらん通りの場所は戦前は表神保町と言われていた。
ところが靖国通りを市電が走るようになって裏と表が逆転したのである。市電の走る通りは当時は裏神保町と呼ばれていた。そこら辺の話は内田百鬼園が書いている。😎

2018年1月20日 (土)

吉村朗遺作展@yocto

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吉村朗遺作展@yocto である。初日に出かけてギャラリーNiepsの並びを探したが発見できなかったのは理由不明だ。以前からあるギャラリーであって私の探し方が悪かったのだ。
展示は30数点の8 × 10相当のタイプCプリントであった。吉村がアジアの街を何かに追われるがのようにしかしフットワークが良くて撮影が継続していると言う印象があった。

彼の代表作、街路迷走 である。
吉村の影が写っている写真の前で私はしばらく立ち止まった。吉村とカメラの1部がシルエットになっている。そのカメラスタイルは一眼レフではなくて35ミリレンジファインダのキエフのようである。これは私の思い込み1種の強迫観念であるのだが吉村にザルツブルグカレッジで会ったときに私は彼のミノルタの一眼レフと私のキエフをトレードしているのだ。吉村の写真集に彼がキエフを構えたショットがあったのでそーゆー連想が働いたのである。吉村のカメラで私はポーランドの連帯を撮影に行った。そして吉村のキエフは極東をとっている。

吉村の写真展をディレクションしたのは今回が3度目と言う写真家のHiroyoshi Yamazakiさんにぜひお聞きしておきたいことがあったのだ。吉村がなくなって数年経過しているから今更遺作展と言うのはどういう意味ですかと言うことを聞きたかったのである。
山崎さんの言葉は重かった。
吉村が亡くなった直後にはなるべく自分でそのことを考えないようにしていたのだが数年経過することによって逆に吉村を失った痛みが浮上してきましたと言うのである。

最後の最後まで吉村に付き合ったのが山崎さんである。そういう人間関係と言うのを私は忘れていたのだがこれは素敵なことだと思った。つまり遺作展と言うのはそんじょそこらの遺作展ではないのである。
今の時代は評論家や学芸員が自分の豊富な知識で写真家を解体して合作してしまう時代である。これからどんどんそうなっていくのであろう。そういう風潮の中で吉村は幸せな写真家である。

わかりやすく言えばフランツカフカの未完成の原稿をまとめたカフカの親友のようなものだ。

それにしても私がびっくりしたのは吉村が自分の出版物そして細かい当時の資料を全部ちゃんと保管していたことにある。そしてそれが今非常にタイムリーに活用されているのである。

吉村のディレクションをした山崎さんは2月10日から18日までこのギャラリーで個展を開催される。私が数年前によく通った越谷レイクタウンがテーマである。山崎さんはそこに長くお住まいでこのプロジェクトをずっと撮影していらっしゃる。それで話題はおのずと展開してルイスヴァルツのことになった。

R0471251吉村朗遺作展@yocto 1/28まで会期中は木金土日のみオープン。😎


2018年1月19日 (金)

ニコライ堂はテーマパークである

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1月14日のブラパチワークショップで4番目に行ったところがニコライ堂だった。日本で有名なロシア正教会である。思い出したのは以前フィンランドのヘルシンキの有名なロシア正教会であった。この正教会はフィンランドで最大の規模を持つものなのだが何かコピー感覚がそこに感じられるのである。そのコピー感覚が何であるかと言えば例えばヨーロッパから成田空港に着いて都心にリムジンで向かっているときに現れるシンデレラ城である。

あれは全くいただけなくてもともとミュンヘンのノイシュバンシュタイン城でも私は苦手な位であるからそれをさらにコピーしたのはアレルギーが起きてしまう。その証拠に私は未だにディズニーランドには行っていない。

ヘルシンキのロシア正教会もそうなのだが様式だけが見えてしまうと言う感じなのだ。数年前に仕事でサンクトペテルブルグに行った。アレクサンドルネフスキーの修道院も訪問した。モスクワの周辺をリング状に取り巻いている1連の修道院の群れも取材して歩いた。これは黄金のリングと言うのである。
別にロシアが本物でフィンランドやニコライ堂が偽物と言うつもりは全くない。
でもロシアで宗教を保ってきたロシア正教会とコンドル先生が明治に作ったニコライ堂とはやはり違うように思える。

宗教的施設が異国でそれがテーマパークのように見えるというのは本来の宗教建築のあり方である事は間違いなさそうだ。😎

2018年1月18日 (木)

湯島天神の存在は形而上学的である

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今回のブラパチ宿は内容が濃くてなかなか楽しめた。戯言であるが写真が上手くなる神田七福神と命名したのである。ギャラリーバウハウスでは今度の土曜日の午後7時から演説会を開催する。そこから神田明神、湯島聖堂、そしてニコライ堂を巡った。世界の異なる宗教建築をそこに見ることができた。

私は講師様は信用していないから逆に建物そのものをよく観察する。東洋風のエントランスの先に広い中庭があって本殿があるというのは建築の基本的な構造ではあるがそこに空間の認識を感じるのである。

しかも色彩がシンプルで非常に良かった。神田明神とかキリスト教のように視覚的な要素で参拝者を驚かすのではなくもっと内側の思考を助長するような建築物である。それがいいなと思った。

湯島聖堂のエントランスの右側に四角い水槽がある。そこの水面がいつも非常に静かで御茶ノ水の空の光を映しているのである。久しぶりにそれを見た。ワークショップの参加者の人でそのことに気がついてその写真を撮っている人がいた。そういう人の視神経のレベルは高いと思う。

2018年1月17日 (水)

神田明神は日本のバロック建築である

神田明神は日本のバロック建築であるR0471135
1月14日第5回目のブラパチワークショップに行ってきた。満員御礼宝船の盛況であった。
ちょうど開催中のギャラリーバウハウスで皆さん集合してそこで小滝館長に簡単なレクチャーをしてもらった。その後神田明神に行ったのである。

神田明神は大変な混雑であった。装飾が派手すぎる真っ赤な色彩を見ていて思い出したのはこれは日本のバロック建築ではないかなと言うことであった。
いやバロック建築よりももっと煮詰まっているからこれはロココですね。

盛りだくさんなスケジュールなので神田明神では10分だけ自由行動にしたのであるが大変な人でお賽銭をあげることもできなかったそうである。左側にある大黒さまがまた大人気で列ができている。なんでも1,000円札を奉納すると小槌で参拝者を殴ってくれるそうだ。大繁盛いい商売である。

商売繁盛家内安全無病息災ということなのであるが日本人はどうもよくがふかすぎる。イスラエルの神のように神を恐れると言うことがないのである。
現世ご利益ばっかりだ。これはかなり変だと思う。
、、、、でもそうか、、、神の災いと言うのは福島の汚染水の垂れ流しとかそういうところに出ているからそれで帳尻は合っているのかもしれない。😎⛩

2018年1月16日 (火)

労働者階級には上流階級よりもピュアなプライドがある

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おかげさまでギャラリーバウハウスの私の写真展が後半に入った。いろいろお買い上げもあり誠にありがたい次第である。感謝します。

今回の展示は私のwinの2,000本以上ある、ネガフィルムのストックがからアトランダムに50本を引き抜いてその中からセレクトしたものである。これが1階の展示であってB1は一昨年の12月に撮影した。

ここでお見せするこのショットは写真展には入っていない。手持ちのネガフィルムから偶然に発見したものである。
私が常々思っているのはオーストリアウィーンの階級のプライドのことだ。上流階級よりも労働者階級の方がプライドの質がピュアであると言う点なのである。
労働者階級に自らの誇りを持っているということだ。そういう人たちの雰囲気に浸りたくて私はwinの南の第10区とかそーゆー労働者階のバーによくいったものだった。これはウィンなまりの勉強にもなるのである。だから私のインチキドイツ語はウィーン大学で教わる正式なドイツ語とは反対世界に存在するものなのだ。

飛行機でフランクフルトの空港に着いてそこからタクシーに乗るとタクシーのドライバーさんが私を振り返って言うのである。お客さんwinから来ましたね?

2018年1月15日 (月)

赤瀬川さんが好きだったライカの古い35ミリファインダー

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赤瀬川原平さんがこの昔のライカの35ミリのファインダーについての魅力をいろいろなところに書いていらっしゃった。
その中のであったと記憶するが銀座Sanカメラで2つの同じファインダーがあって1つはとびきり高くて1つはそれよりちょっと安い。どちらを通うか迷っているときにそこに私がやってきたのだそうである。それで私は安い方が良いと進言したら赤瀬川さんはそれでは高い方にしますと言って高い方を買われた。当時このファインダーが非常に高くてちゃんとしたものだったら50,000円以上した。

ウィーンで古屋誠一に初めて会ったのは蚤の市である。彼は古いライカM3にこのファインダーをつけていた。それでそのことをよく記憶しているのである。

このファインダーは本来バルナックライカにつけるものであったのであろうが大きいのでバルナックタイプにつけるとアンバランスになる。エム型につけるのが良い。しかしライカエム2では最初から35ミリのフレームが付いているからつけるのはあまり意味がない。

このファインダーの最大の使い手は戦争写真家の澤田であった。彼はメガネ付きのSummiceon35ミリを使っていたのだがさらにライカの上にこのファインダーをつけているのである。それが戦闘的でかっこよかった。
私は腰抜けのライカ写真家だからファインダーのついていないライカつまりライカMDにこのファインダーをつける。でもそれは気休めのようなものであって実際にはファインダーを使わずに撮影しているからファインダーは見ないのである。

古い写真工業でアンリカルティエブレッソンが使っていたブラックに本人が手練りしたこのファインダーが登場した。その持ち主はブレッソンから譲ってもらったと記載されていた。不思議に思っていたのであるがニューヨークタイムスの25年ほど前のインタビューを見るとアンリカルティエブレッソン自身の言葉によれば自分は35ミリの広角レンズで写真をうまくとることができない。なぜなら自分は絵画の仕事をずっとやってきたから自分の目は50ミリ標準レンズになっていると言う意味のことを話していた。あーそれでブレッソンは35ミリファインダーを放出したのかと1人納得したことがあった。

2018年1月14日 (日)

ソ連製の腕時計

ソ連製の腕時計Img_5607
十数年ほど前のことだ。Penと言う名前の雑誌で第二特集でソ連製の腕時計をやることになった。それで当時のeBayで海外からソ連製の時計を買いまくったのである。その数200位ではないかと思う。といっても大した事ではなくていっこの腕時計が10ドルとしてもトータルで2,000ドルと言うわけだ。
それでも向こうの業者さんにバイアと勘違いされたこともある。

その時あまりいい加減も書けないのでロシアの時計の歴史を簡単に調べたら確か最初の時計が国内で作られたのは1925年のことでモスクワ第一時計ファクトリーと言うところが作ったのだそうである。最初期モデルの時計は石が6石位でデザインもなかなか良い。

それらの時計は人にあげたり間違ってゴミと一緒に出してしまい今ほとんど手元にない。これなどはその残りの数個のうちの1つである。

当たり外れと言うものが機械にはあるようでこの個体などはクロノメーターの正確さなのでびっくりしている。
ガガーリンがつけていた最初のスペース空間で使った時計などはあちらの高校生がつけているような市販の安いものであった。でもそういう腕時計をつけるのが本当のダンディズムだと思った。

2018年1月13日 (土)

GRD偽貫禄

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もう5年位前のコンパクトデジタルカメラである。使い始めたのはほぼ同じだが左のカメラには特殊メイクが施されている。偽貫禄と呼んでいる奴だ。これは伝統のフィルムカメラの美学である。

カメラ友達のBさんが発案したもので彼は手先が気をだから実にリアルな使い込んだカメラを演出してくれる。

コンパクトデジタルカメラにはストラップをつけないのが私の流儀である。これをノーストラップアナーキスト同盟と言うのだ。そういうことをブログで大昔冗談で書いたら文芸評論家の福田和也さんが賛同して私のもとに駆けつけてくれたので実際にそういう同盟ができてしまった。

デジタルカメラはやはりフルサイズデジタル一眼レフよりもミラーレスとかコンパクトデジタルカメラがこれからメインになると考えている。
そのトップに立つのが森山大道さんと言うわけだ。フルサイズのデジタル一眼レフをぶら下げた森山さんなんて全くはい絵にならないと思う。
そういえばライカエムデジタルを下げた森山さんもイメージしにくいですね。写真家は本来光と影の微妙な存在を自分で作るものであるからデジタルカメラの力を借りてそれを作ると言うつまり高級なカメラの力をお借りすると言うのはちょっと信用できないところがある。

それでファインダーはやはりアクセサリーシューにつけたほうが使いやすいのでガラクタ屋さんで大昔に800円で買ったのをつけている。

数日前に私のカメラ塾で例のフルサイズのデジタルコンパクトカメラの噂に対して13,000ほどのアクセスがあってカウンターが壊れているのかと思った。

その直後にたまたま打ち合わせでその会社の方にお目にかかったのだがそんなものは企画していませんときっぱり言われた。それはそうであろうその通りですなどと言うはずは無い。

2018年1月12日 (金)

くまもんバックの実力

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数年前に東十条の駅のショッピングストリートのバラエティーショップで買ったくまもんのバックである。バッグではなくバックがあたらしい。

これを持っていったヨーロッパはパリウィーンプラハリスボンカサブランカなどなどである。ポケット入れて持ち歩けていざと言う時に収納力が非常に大きいのでツーリストには非常に便利である。どのくらいものが入るかと言うと赤白のワインが1本ずつ。ミネラルウォーターが3本それにバゲットやら野菜やら果物やらチーズやらを入れてもまだゆとりがある。あまり詰め込みすぎると逆に重すぎて持てなくなるから八分目ぐらい入れておくのが良い。

仕事とは言え以前ミシュランの星付きのレストランを毎日取材したりして私はガストロノミーに秋秋しているのだ。それで市場で好き勝手に買い物してきてホテルの部屋で1人で大宴会をやっている。これは人生の快楽である。それをお手伝いしてくれるのがこの黄色のくまもんのバックなのである。

何年も使っていると当然ながら穴が開いてくるのでそれをかがったりガムテープを貼ったりして使い続けている。もうだめかと思っているのだが意外と長く使える。今年で6年目になったから10年目までは使いたいものだ。

2018年1月11日 (木)

ギャラリーYocto吉村朗

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ギャラリーYocto吉村朗 1月12日から1月28日まで木金土日の4日のみオープン。
吉村に最初に会ったのはザルツブルグカレッジのワークショップの時で夏の盛りであった。 1979年か1980年だった。
校長のIna Stegenと一緒に日本から到着の数人の受講生を迎えに行ったのである。列車から数人の東洋人が降りてきた。その中の1人の男性が私に握手をして英語で挨拶をしたのであるこれが私の吉村にあった最初のシーンだった。
当時の私はザルツブルグカレッジでSindyシャーマン、ラルフギブソンなどの講師スタッフの一員としてMITの学生など10数名のワークショップを持っていたその中に日本人学生数名が加わったわけである。私のひどい英語はMITの学生連中は英語が母国語であるからかなり注意して私の講座を聞いてくれた。しかし日本から来た連中はやはり私のブロークンイングリッシュはほとんどわからないようだった。それで校長の発案で複式学級にしたのである。
つまり日本語での授業である。逆にこれが日本人受講者を混乱させる結果になったのかもしれない。言葉と言うのはペーパーとハサミのようなものだからつたない私の英語はペーパーを切るのには10分である。
一方で日本語は私はネイティブであるから1つのことをまっすぐ言うのにもともとシャイだからかなり回りくどい言い方を日本語でする。

例のザルツブルグ中心地のゲトライデマルクトで撮影をした。吉村の撮影のスタンスを見ていると彼はミノルタの一眼レフと17ミリの広角レンズをつけて病的に接近して撮影してその人に叱られたりしている。こいつは結構ものになるなと思った。

私が日本に戻ってから吉村との付き合いはほとんどなかったが噂に聞けば彼はミャンマーに撮影に行ったり韓国に撮影に行ったりしていたそうである。
今、東京総合写真専門学校の校長と当時クラスが同じだったらしい。だからすでに大写真家のカテゴリーに入る人間なのだ。

、、、今回の写真展で私がちょっと違和感を感じるのはこれが遺作展とタイトルがついていることである。誰だってエドワードウエストン遺作展とかロバートキャパ遺作展とは言わない。
吉村もそのクラスの写真家なのである。


2018年1月10日 (水)

1976年。森山大道さん36歳

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森山大道さんとのお付き合いは1976年にヨーロッパのドイツ語圏で巡回した現代日本写真家展に出品をお願いしたのが最初であったと思う。それ以前にお目にかかっていたかもしれないがあまりよく覚えてはいない。

この写真は大道さんが36歳の頃のお姿である。指定された新宿かどこかの自主ギャラリーに行ってそこでお目にかかったのだ。あれが伝説のキャンプと言うところであったのかしら?
私はクローム仕上げのボロボロのライカM2思っていてそれで撮影をした。レンズはSummaronの35ミリであった。
森山大道さんと言えばその数年前にニューヨークに撮影にいかれた。そのニューヨークを撮影したカメラがブラック仕上げのオリンパスペンワイドなのであった。アサヒカメラの掲載であったと思うが面白かったのは担当編集が何か面白い話でもあるかと思って東京の編集部から大道さんが滞在しているニューヨークのホテルに電話したのである。電話に出た大道さんは編集部の質問に何も答えなくて今何時か全然わからないよと言って電話を切ったのである。これも大道さんらしくて面白い。

断っておかなければならないのはその当時は国際電話と言うのは大変なステータスであったことだ。同じ時代にジョナスめかすがニューヨークのソーホーで公衆電話ボックスに花を飾りつけてそこからパリに電話をすると言うハプニングを実行したことがあった。周囲には当時のアーティストが群れていてYohko Onoの姿も見えるしサルバドールダリが奇妙なダンスを踊っていたりもした。それをジョナスめかすのBolexは撮影しているのである。

時代の最先端のテクノロジーなどと言うものはその時代時代でこういうトップクラスのアーチストですら騙されたりするのである。故に最新テクノロジーの進化はデジタルカメラも含むがわれわれは十分に注意せねばならない。
カメラの新機構にワクワクする我々がいるがそれはカメラが進化しただけの事であって別に我々の頭脳が進化したのではないからだ。これはちゃんとノートに書き込んでおこう。

いまどきiPhoneでニューヨークからパリに電話をかけようが東京に電話をかけようが誰もそれを芸術行為とは考えないからだ。ところが不思議なことに半世紀前のライカカメラで写真を撮ってそれをモノクロプリントにして展示したりすると世の中はそれをアート行為だと思ってくれるところもある。そこら辺の区別が私にはよくつかない。

森山大道さんは写真展の打ち合わせに応じてくれた後に会話をした。ところが私は3年ぶりの帰国でだし大道さんは新宿に生息している人であるから特に共通の話題がないので手持ち無沙汰でもあった。トンボのイラストの黒い Tシャツの森山大道さんである。😎

2018年1月 9日 (火)

1959年来日した写真家エルネストチェゲバラの写真がいい

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1959年に来日した写真家エルネストチェゲバラの写真が良い。コンビニで販売中の激撮と言うマガジンの最新号に乗っているゲバラの撮影した写真である。ニコンエス2 大口径の5センチf1.1をつけて日本を取り歩いたゲバラであった。

これは移動中の車の窓からの撮影であるが縦位置で都会風景の不思議なところを映している。
ゲバラが革命家ではなくて写真家になったらこれはまたかなりすごいレベルにまで行ったのであろうと思われる。言い方を変えるとこーゆー写真は意識していないときに自然に取れるものなのであるがその意識しないレベルに行くと言うのがすごいわけなのだ。

ゲバラ特集の別のページにはこの愛用のニコンを同じ革命軍の同行していた医師に譲って自分は彼が持っていたソ連製のコンタックスであるキエフと交換している。アメリカ軍のコンバット映画などだとポーカーで大負けした奴がこーゆートレードをやったりすることがあるがこれは革命のためと判断する外はなかろう。これもすごいことである。

そのキエフで写したゲバラのセルフポートレートも生々しくて好きである。晩年にはすでにトレードマークのヒゲは落としていると言うことも興味深い。
彼が殺される前の年にゲバラは密かにプラハに数ヶ月滞在していたのである。その時も変装の意味でヒゲは落としていた。その写真は私は確認しているのである。

ゲバラがプラハに潜伏している時小さなアパートだったらしいがそれがどこであったのかを私は気になって友人のジャーナリストに調べてもらっていた。でも彼は一向に真面目に探してくれなかった。それもそのはずである。ゲバラは社会主義者であるから当時のチェコスロバキアの社会主義体制と同じなのだ。ジャーナリストはカーター77の戦う人であるから一向に協力してくれないのである。社会主義体制に関係のあるゲバラなどは知ったことかと言う訳だった。


2018年1月 8日 (月)

アテネの1月の光

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ギリシャのアテネに行ったのはオリンピックの前の年であったかと思うがいつのことか忘れた。詳しくは私の佃日記に出ているのだがあれは2001年の5月から2003年の3月末までの日記が収録されているから可能性としては2002年か 2003年の1月に行った事になるであろう。でもその事はそんなに問題では無い。

珍しく元旦からずっと風邪のため部屋にヒキコモっていて7日の日の午後になってようやくちょっとだけ佃界隈に出たのである。

家の前にある噴水と偽コリント式の柱の前まで行って日差しが暖かいので噴水の前に座ってみた。スペインのマラガに行っていた時に好きな噴水があって毎日その前で時間をつぶしたものだったが日本では今回が初めてである。

座ってしばらく経ってさてこの光の感じと暖かさは何であるのかなと考えてこの前アテネの1月のことを思い出したのである。
アクロポリスの丘の真下にあるホテルであった。だから私は2週間のうちにアテネにいるツーリストの中で最も長い時間自分の網膜にアクロポリスを映していたことになる。

突出した丘があってリーガビートスと言うのである。そこに登ってアテネ市内を見ていたらいきなり火災が起こった。それを撮影していたら丘に登ってくるマラソンランナーがいるのである。実に変な光景だったのでライカカメラ
についていたソフトフォーカスレンズがんばる90ミリで撮影した。そのアテネのシリーズはその時にアサヒカメラに掲載した記憶がある。

アテネは変なところでそこら中に横倒しになっているコリント式とかイオニア式の石の柱が本物なのである。ここら辺が我々一般人には区別がつかない。コリント式の列柱はもともと偽物であると言うのが我々の世界認識の基本になっているからだ。

もう1つ面白かったのはギリシャ正教の司祭牧師が街を歩いていると彼らの存在が新興宗教のように見えたのである。まぁ新興宗教には違いない。

2018年1月 7日 (日)

Wienのタイムトンネル

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12年前に出した私の写真集ウィーンモノクローム70であるが最近版元が契約している印刷所の倉庫から残部が発見されたそうである。私ももうわずかしか持ってないのでこれはいい機会だと思った。私の読者の方々の周りでそれが話題になってボチボチ売れているのもありがたいことである。もっとも私は出版のときの契約でお金は一切もらわずに50冊だけ写真集をもらった。写真集は現在個展を開催中のギャラリーバウハウスで扱っている。四谷のアローカメラガラクタ屋さんでは通販も受け付けている。

最初の出版の計画では1,000ページの本を作ろうと思って出版社に束見本を出してもらったら5キログラムもあって持ち歩けないほどの重さであった。それで750ページにしてそれでもまだ重いので500ページにした。
写真集のイメージとしては1,970年代のポーランドはクラコフのグラフィックビエンナーレのカタログと言うような感じにした。つまり粗悪なペーパーで印刷がプアなのである。ところがペーパーの見本をとったら粗悪な本文用紙と言うのは上質紙より高いのでびっくりした。それで上質紙の1番安いやつを本文用紙に使ったのである。

本のレイアウトもデザインも信頼できるデザイン事務所マッチボックスにお願いしたので良い構成になった。

それで今改めてwinの1,970年代のタイムトンネルを抜けて40数年前に遊んでいる。
この見開きの2ページはあたしの好きなものである。左手はクラッシックな自転車販売店。真ん中はたまに行った旧市街の飲み屋でこの飲み屋の裏手にモーツアルトのアパートがある。。そしてピアノ屋さんだ。ベートーベン時代にあったピアノ屋さんだと思う。というのもベートーベンのアパートにかなり近いからだ。

こういうクラシックな店舗が私が住んでいた70年代にはまだ実際に営業して活動していたと思うと不思議な気持ちになる。

2018年1月 6日 (土)

くまもん世界のくまちゃんになる

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5年ほど前だと思うが東十条の駅のショッピング街でくまもんのナイロンの黄色い買い物袋を買ったのである。確か1つが100円位であった。使い勝手が良いので翌週また買いに行ったらそのバラエティーショップは既に閉店していた。それからほとんど毎月ひょっとしたらあいているのではないかと思っていたのだがクローズしたままである。この黄色いくまもんのトートバックを持って世界中のスーパーに買い出しに行った。

3年前帯状疱疹で左手が不自由な時にパリのスーパーでキャッシャーの人が親切に私が買ったワインとか野菜とか果物とかソーセージをこの黄色いくまもんのバッグに入れてくれた。

地球行ったり来たりしているうちにくまもんは私の食料品を運んでくれた。ナイロンの袋の底も穴が空いいたのでガムテープで修理して使っている。

パリでパリジャンが私に聞いてきた。こういう事は日本ではなかなか会話が展開しないものである。
その時の会話を再読する。
パリジャンP 私はCだ

Pその袋についている動物は何なんだい?

Cこれは日本の熊の本と言う西の地域が出身のくまもんと言うクマなんだ

P変な顔したやつだな。

C失礼な事は言ってはいけないよ。恐れ多くもこのくまもんは日本の天皇陛下にあっているんだ。

Pそれは失礼。そんなに偉いんだ。その黒いクマはエンペラと何を話したんだい?

Cくまもんはね言葉はしゃべれない.あるいはしゃべらないんだ。
それに対して天皇陛下からはくまもんさんはお一人なの?と言う質問があった。

Pそれはいかんなその熊ちゃんと天皇の質問に答えないといかん。
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くまもんはこれから国際人ならぬ国際熊になるわけだ。世界の山ちゃんも有名だけれどもこっちの方がもうちょっとクラスが上の世界のくまちゃんだ。

2018年1月 5日 (金)

撮影した記憶のない写真

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半世紀以上写真をやっていると中にはその場所に撮影に行ってそこを撮影した記憶がないと言うことだってある。私の場合はほとんどそういう事は無いのであるが昨年例の悪の枢軸さんが私のためにやってくれた70歳記念のパーティーでそれに付属して限定盤の写真集を出版したのである。

そのためのwinのネガフィルムがたくさん入っている柳行李から適当に50本ほどつかみ出して写真家の加納満に渡した。彼はそれをセレクトしてなかなか良い構成で本を作ってくれた。それはそれで大変ありがたいのだがこの画像であるがこれを撮影した記憶が私に欠落しているのだ。前後の数本のネガフィルムの関係からすると冬のザルツブルグであってその他に雪道のチャーチとか撮影されている。

だからこれらの写真は間違いなく私が撮影したものであるのは確かなのだがその前後の一切の記憶がないのだ。ザルツブルグにはいつも夏のワークショップの時にいっていたから私の記憶のザルツブルグはいつも真夏なのである。ところがこの一生の写真を見て雪の時にいっていたことが初めてわかって面白かった。

この写真を見てつくづく思うのは主要な典型人物である杖をついた老人である。これを撮影した40数年前は私も若かった。おそらくその当時この老紳士は現在の私位の年齢なのであろう。
全体の構造が決まりすぎているのが面白くないがまぁそれはそれで仕方がない。背景のザルツブルグのお城が何かバベルの塔のように見えるのも不思議である。

使ったカメラレンズも記憶にないのだが当時はシンプルライフであったからカメラはまず間違いなくソ連製のコンタックスのKievそしてオリオンの28ミリこれもソ連製だと思う。

2018年1月 4日 (木)

1983年のスタート ワルシャワ

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1983年の3月であったと思うが戒厳令が解除された直後のワルシャワに行った。週刊朝日の取材の仕事だった。
再開したポーランド国営航空の第一便にwinから乗ったのである。飛行機内部の前半分は全員がジャーナリストで後半分は救援物資だった。

それまでのポーランドの状況をジャーナリズムはどのように取材していたかというと毎日午前中にワルシャワから到着する国際特急列車食パン後から降りてくる乗客に向こうの話を聞くのである。インターネット等できるずっと前の話だ。
ビザを取る必要があるので超高級ホテルに泊まった。ツーリストになかなかビザを発給してくれないのでwinのポーランド国営旅行者で最初に高級ホテルを予約してホテルバウチャーを買ってそれで大使館領事部に行ってビザを出してもらった。

高級ホテルのバルコニーから真っ暗な街を眺めた。戒厳令解除といっても午後10時以降は外出禁止であるから誰も歩いていない。遠くで戦車のキャタピラのような音がする。

街を歩いてすぐ中古カメラ店を発見した。カメラの店はガラガラだったがその中にこのカメラを発見したのである。スタートと言う名前が良い。デザインはなかなか良い。写りもしっかりしたテッサタイプのようである。中古カメラ店に来ていた同年代の親父と知り合いになった。ホテルのバーでその親父としたたかにウォッカを飲んだ勢いで彼のアパートに遊びに行った。彼は冷蔵庫の中を見せてくれた。キャベツが1個しか入ってない。でも別の小部屋には乾燥食品とか缶詰が山積みになっていたから大丈夫だと言っていた。年頃の娘がいた。その娘が後にいろいろ私に援助物資を送ってくれと言ってくるのである。だからサイズを聞いてジーパンとか何かを送った。
スタートはまだ社会主義体制の遠いワルシャワの記憶である。

2018年1月 3日 (水)

この1本のレンズSonnar5センチf 1.5

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新年早々風邪をひいた。数年ぶりに体温を測ったら37.8度もある。これは私としては非常な高熱なのである。それで安静にして机の周りのゴミカメラやゴミレンズを拾い上げて遊んでいる。

この1本のレンズSonnar5センチf 1.5はずいぶん大昔から手元にある。多分1970年代私のwin時代から使っているものだと思う。winとライカの日々と言う日本カメラから出した古い写真集がある。あの時winの街をとっていたレンズはこの5センチf 1.5と西ドイツ生の13.5センチF4であった。
コンタックスマウントなのでアダプターでライカにつけることもできる。そうやって使っていることの方がどうも多いようである。レンズはボロボロであってフィルター枠は歪んでいる。コーティングにも傷がついているが何の心配もない。

本来のカールツアイスの戦前のゾーナであるが明るさがエフ1.5の方が絞りは11までしかついていない。F2のレンズのほうは16までついていたりする。明るいレンズと言うのはまさに戦前は特殊レンズであったわけだ。
レンズ沼の連中はこのレンズを批判してボケが悪いとか知ったようなことを言っているようであるがそのボケの悪いところがこのレンズの個性なのである。
長いことこのブログをやっているがレンズ沼と言う言葉は今回初めて出た 言葉であると思う。というのは私はこの言葉が大嫌いなのである。
レンズ沼の皆さんは沼の中にぶくぶく生息しているだけで世界を見ないと言う印象がある。そして実写テストだけで満足して後は珍しいレンズ探しと言うあらぬ方向に行ってしまうのだ。
私はレンズ関係の友人知人は実にたくさんいるが唯一嬉しいのはレンズ沼の住人は1人もいないことだ。これが私の幸せと言うものだ。

2018年1月 2日 (火)

この1本のレンズ ニッコール105ミリ

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105ミリは重要なレンズである。
この焦点距離のレンズがかけると全く仕事にならない。それならズームレンズで用が足りるのではないかと言うのは最近のレンズ人類である。

私は東松照明さんを尊敬しているから望遠はやはり105ミリでないと困る。東松照明さんは名作をほとんどこの1本のレンズで撮っていたのではないだろうか?

私も真似をして高校の時にこのレンズが欲しかった。でも値段が高いのでその代わりに小村のレンズを買ったのである。

ポートレートレンズであると言われているが東松さんの作品にはもちろんポートレートの優れた作品もあるが東松さんの作品で好きなのは中距離での人物のスナップなどに傑作がある。要するに望遠レンズの普通の使い方とは逆であって空間の奥行きを表現するために105ミリを使うのである。
言い換えれば105ミリレンズは奥行きを表現する広角レンズなのである。

私は105ミリはAlpaで使用している。友人が手入れをしてくれた1,950年代のカメラなのであるがファインダーが抜群に明るい。あまりにも明るいので目がくらむほとであるがそのファインダーを覗くのが好きなのだ。

以前はこのカメラにはキノックティックのアポクロマート100ミリF2と言うレンズを使っていた。これも優秀レンズだが値段が恐ろしく高い。それに大きくて重い。だから最近もっぱら普通の撮影ではニッコール105ミリである。

このレンズには私はちょっと好みがあってまずはこのぐらいレンズが使い込まれていないと嫌なのだ。もちろんヤスリをかけたのではなくて何十年も使っている間にこうなったのである。昔の新聞社の写真部のカメラマン等は自分が持っているニコンのレンズとカメラを汚く使っているのがプライドであった。カメラのばんから精神と言うのであろう。

2018年1月 1日 (月)

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🐦❤️🌈2018
⛩あけましておめでとうございます😎

💼Salzburg 1980 Chotoku Tanaka🐶

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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