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2017年12月31日 (日)

激撮というエキセントリックなメディアに紹介してもらいました

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激撮というコンビニで売っているどちらかと言えばGaten系統の雑誌の写真で紹介してもらった。
エルネストチェゲバラとか岡本太郎なんかも出てくるハードルの非常に高い特集である。
私が長年お世話になっている編集者のエースさんが作家となってこの雑誌の28ページ分を1人で構成して原稿も書いているそうである。大儲けだな。

その見開き2ページのインタビューを読んでみたらなかなか面白い。しかも撮影に見えたのが中藤受賞者と言う豪華スタッフである。歳をとるということもあるんだな。

このメディアは年間4回出るそうだ。クオータリーと言うわけだ。私が以前昔新編集長をやっていたクラシックカメラもクオーターの発売だった。こういうは毎月だとカレンダーに追いかけられるが年4回位が1番充実していると思う。
お近くのコンビニエンスで見かけたら立ち読みをしてください。巻末に女の子のグラビアが載っていると言うのもいいか 。

2017年12月30日 (土)

アローカメラに行く途中に森山大道さんに遭遇。今年2度目

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どんな場合でもそうであるが偉大なアーティストに路上で遭遇した時その人の行動を妨げてはいけない。
森山大道さんに11月に中野駅北口で遭遇して今度は12月29日午後2時22分ごろに曙橋で遭遇した。

目の前を見覚えのある人が右から左に移動して路地の奥に入って行きそこでカメラを構えてツーショット写していた。戻ってきたときに森山さんと私が出くわす形になった。

私 大道さんこんにちは よくお目にかかりますね
大道さん 本当だね ここらに住んでいるの?
私 いいえ佃島の方なんです 今日は撮影ですか?
大道さん うん、他にすることないからね でも撮影は楽しいよ
この前中野駅で会った時は最初誰だかわからなかった Tanakaさんのヒゲが伸びていたからね

-------
これだけの会話がせいぜい50秒ぐらいなのである。それで大道さんは新宿3丁目のほうに、私は坂を上って我楽多屋さんのほうにそこで別れた。

偶然とは言いながら実に不思議な遭遇である。曙橋の駅の階段を上ったときに私は最初曙橋の急な階段を上って直接ガラクタ屋さんに行こうと思っていた。それがなんとなく新坂のほうに自分の意思とは関係なく誰かが歩かせたのである。

こういうのは大抵過去に愛していたペットつまり犬とか鳥とか猫とかハリネズミなどがフェアリーになって天上界で地上でうろうろしている我々をもて遊んでいるのだ。

この場合はまず天使になった小鳥さんなどがくちばしの先でちょんちょんと突いて森山大道さんと私のチェスの駒を東京の地図の中の曙橋の通りで接近させているのである。
チェックメイトと言う奴だな。

2017年12月29日 (金)

お茶の水女子大学の古いいちょうの巨木

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日本カメラの新しい連載Today東京1964-2020が始まった。 私は連載のスタートに当たって願掛けをした。この3年間外国には行かずに東京で写真を撮ろうと言うのである。この願いをかけてからまだ2週間しか経ってないからどうなるかわからないが2週間も経っていると言うことができる。 以前は1週間ごとにヨーロッパと日本を往復したり馬鹿なことをしていたがこの2週間私は東京にいるという事は大変なことなのだ。オリンピック前に変貌する東京をちゃんと見届けておきたいのである。いわゆるメイドの土産と言うやつですね。 小学校の通学路を検証した。 音羽の谷底から坂を上って小日向台町小学校に通っていた6年間であった。いくつかのルートがあるがこのルートは音羽3丁目からゆるい坂を上ってお茶の水女子大学の用地を左に見て跡見学園を右折して小日向に行くのである。 そこに巨大な銀杏の木があった。小学生の頃には恐ろしいほどの巨木に思えた。私の東京ニコン日記にもそのショットが掲載されているはずである。 でもこの界隈はあれから60年も経過しているからすべて変貌してしまい銀杏の木木等は既にないと思っていたらそれが存在したのである。 これは嬉しいことだ。 サンテグジュペリの戦う操縦士の中にフランスの田舎で田園の紳士が何十年も慣れ親しんでいた大きな木が兵士によってバッサリ切られてしまうと言う件がある。これは実に残酷な事実である。その意味で御茶ノ水の巨大な銀杏の木が生存している事は私に力を与えてくれる。 友人のビーサンが東京ニコン日記に出ていた40数年前の銀杏の木を指摘してくれた。ありがたい。人間の半世紀は大変な時間であるが銀杏木の半世紀は一昨日と言う感じだな。Img_5347

2017年12月28日 (木)

1973年オーストリアウィーンのライツオーストリアでライカMPを買い逃した話


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オーストリアウィーンに住み始めた翌年の夏であったと思う。当時のライカの代理店はベートーベンが進んだ城壁のすぐ内側にあった。
今では街のど真ん中であるが当時は旧市街の街の北のはずれである。ベートーベンは生涯17の引っ越しをしているがその最後のほうの住居であったと思う。ここは今でも記念館に
なっていて訪問することができるライカの代理店はその古い建物の並びの2階にあった。

ある日その店の中古のライカのウインドウを物色していたらライカMPのボディーがポンと置いてあった。当時のライカの会社が報道カメラマンに騙されてM3にライカビットをつけたのはこのモデルであるが全然売れなくて500台も生産されなかった。すぐにカタログから消えていた。

Price Tagを見ると3,800シリングとあった。当時のwinは月に7,000もあれば暮らせると言うような物価の安いところであった。

たまたま4,000シリングポケットに入っていたのでそれを買おうと思った。お金を用意していると白衣を着た若い人がインボイスをつくりますと言ってカメラを持って店の奥に消えていった。なかなか出てこない。15分ぐらい経って実はこのカメラは事情があってで売れなくなったと申し訳なさそうな顔した。要するにマネージャーがレアなライカであることに気がついたのであろう。注意をしないと普通の古いM3のように見えるから。

それで残念な思いをしたがドイツでもオーストリアでもそして日本でもライカ関係の会社の技術者が白衣を着ているというのが私はそれ以来のトラウマになっている。何か信用できないなと言う感じなのである。日大の写真学科の学生が白衣を着るのも大嫌いだ。

ライカビットがついたライカM3は別に使いやすいわけでも何でもない。しかし当時フォトジャーナリズムが全盛の時であったからライカの会社の偉い人も有名カメラマンにそーゆーサゼッションをされるとそういうものを製品化しなければならないような背景があったのであろう。

2017年12月27日 (水)

銀座4丁目で加納満さんのフィアット500のトークで盛り上がる

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12月24日と言うクリスマスイブの当日の微妙な時間帯に銀座でフィアット500のトークショーを開催した。満員御礼であった。
加納満さんはカメラ毎日の愛読者であって小学生時代から私の発表した写真を見てそのコメントについているストレートフォトグラフィーと言う言葉は何であろうかと考えていたそうである。
こういう少年の異常な興味と言うのは日本の初等教育の誤りなのであるが私個人にしてみれば非常にありがたいことである。

それでトークの冒頭で彼は収集した1,970年代初めのカメラ毎日の私の作品が掲載されている雑誌をたくさん示した。その中で私が1番興味を覚えたのは1976年1月号の作品でオーストリアウィーンを撮影したタイトルは 記憶の街
と言うのである。

当時は日中友好どんどん進化していた時であった。その中で私がどっかの街で撮影した 革命家の肖像
とか言うタイトルのポスターなのである毛沢東の周りをアドルフヒトラーとかそういう皆さんが取り巻いているモンタージュ写真なのである。

8ページ掲載の作品の中の2ページつまり裏表を印刷所で徹夜で切り取ったのである。雑誌2ページ切り取ってその代わりにページを削除したと言う小さな黄色いペーパーが挟んであった。その新年号は北海道とか沖縄のような遠隔地にはページを切り取る前に送本されてしまったのでその部分は生きているのである。

その2年後の夏に編集長の山岸さんに東京でお目にかかったときに山岸さんがおっしゃるにはこれは編集者ジャーナリストとして自分の恥である。そのことを忘れないために10冊の梱包の新年号をいつも座右に置いているとのお話であった。
今では想像もつかないけど当時はカメラ雑誌と言うメディアが政治的なステートメントを持っているというふうに理解されていたのである。

会場にはゴスペラーズのSakaiさんも駆けつけてくれて感激した。
会場写真は本部長撮影。


2017年12月26日 (火)

湯のみでシャンペン クリスマス焼きそば

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家人からの報告によればテレビだかラジオの番組だか知らないがクリスマスに似合わないものと言うのを集めていたそうだ。そのうちの1つがクリスマスパーティーに焼きそばを持ってきた人がいてそれで馬鹿にされたと言うのである。
、、、、 2つ目は湯飲み茶碗ではワインなんというジャンルはいいねを飲むのは格好悪いと言うのである。とんでもない話である。7年半オーストリアwinに生活していてwinの本物のクリスマスを体験した我々であるがあちらではクリスマスの正式なディナーには焼きそばを食べる。本当は焼きそばでは無いのだ。あちらの郷土料理のスペツリーと言うやつなのである。でも焼きそばで代用しても別に構わない。

オーストリア帝国がオスマントルコに勝利した第二次トルコ戦争は1683年であったが強敵トルコ撃退したwin趣味は喜びのあまりトルコの三日月を食べたと言うのでクロワッサンがそこで生まれたのである。そのクロワッサンが後にパリに伝えられた。
1部上流階級では同時にブラーテンしたスペッつりを食べた。いわば今の焼きそばである。このことは意外と知られてなくて私も文献でこの5分ぐらい前に発見したのである。歴史は面白いですね。

茶碗酒ならぬ茶碗ワインをダメだと言うのはこの極東はキリスト教世界で言えば世界の果ての布教するであって世界の果てなのである。だから正式にワインはグラスでと思っているのは勘違いでワインはどこの国であってもその国にある器で飲めば問題ないのである。器がなければ手のひらで救って飲んだって構わない。

、、それでこれが我が家のクリスマスディナーである。地理的にもこの地方が東方教会に属するからRoman Catholicと言うよりもロシア生協に近い。それを考えに入れてこのような器にした。ロシアンオーソドックスの立派な器であるが実は20年位前に当時のアエロフロートにはファーストクラスと言うものがあってそれに乗るとお土産をくれたのである。なかなか生かした器である。Img_5327


2017年12月25日 (月)

電子カメラの時代だ

電子カメラの時代だImg_5322
カメラも電子の時代に突入したと言うのでいち早くそれをデザインに入れたのがヤシカであったと思う。高校生の頃にこれを見て非常に時代を先取りしているなと言う感じがした。今見ると実に懐かしい感じがするのがまた良い。

カメラの電子化はその直後から一眼レフになった。でも当時の私はニコンのようなメーターも何も入っていないカメラを露光は自分で設定して取るものだと思っていた。
そのためにカメラの電子化の乗り換えが遅れた。1973年にオーストリアのウィーンに出かける時に退職金の1部で買ったニコマートELは私にとって初めての電子一眼デフであった。それまでの撮影の仕方はシャッター速度を決めておいて後絞りを適当にセットするのであるがこのカメラの場合は絞りが優先であるのでファインダーの右側でシャッター速度を表示する針がフラフラ動くのである。最初はこれが嫌であった。シャッター速度と言うのは自分で決める重要なポイントであるにもかかわらずそれが機械の方で勝手にふらふら露光設定されては困ると言うふうに考えていたのだ。

クリスマスを前にして自分のためのプレゼントと言うことで22日土曜日のシドニーは皆さん自分が最近買ったご自慢のカメラを持参した。
偽ライカ愛好会の会長さんが持参したのはハンザキャノンであった。
それが何のカメラであるのあてるためにまず会場にいた皆さんに目をつぶってもらって私も目をつぶって会長から差し出されたカメラの革ケースを触って最初はコンタックス1形かと思ったが巻き上げる軸がまったいらなのでハンザキャノンであることが分かった。俗に言うびっくり箱と言うやつだ。

6月のCT70の私のパーティーに来てくれた時以来に会うマーシーさんはご自慢のジャガールクルト生のコンパスカメラを持ってきた。ジュラルミン削りだしのピタピタのカメラで会場の人気をさらっていた。ハンザキャノンにしてもコンパスにしてもあの当時のカメラの作りは非常に素晴らしい。

私はそーゆー物欲はすでに脱ぎ捨てているのでガラクタ屋さんのバーゲン会場で手に入れたのがヤシカエレクトロ35の最初のモデルである。これも外見が寺寺していてキャデラックみたいなカメラだ。

カメラの左方に電子の運動モデルが小さなエンブレムでくっついている。当時はこれに憧れましたね。
この時代の最初期の電子カメラはまだ構造がICかされていないのであろうか非常に頑丈であって半世紀経っているのに電子回路がちゃんと動くのである。やはり当時はハンダ付けの技術が優秀だったのだな。

バッテリーはLRの44かと思っていたらそうではなくて何かもっと大きな太くて長いやつである。リチウム電池何かできる大昔のことであるからまずバッテリーを探すことから始めるがバッテリーが入っていなくてもシャッターは250分の1位で使えるのである。という事は通常の私のスナップショットの範囲ではバッテリーがなくても素振りでコントロールするから別に何の問題もないわけだ。 50年前から電子シャッター電子時代になってそれから今になってもやはり原始時代なのである。

2017年12月23日 (土)

ヤシカエレクトロ35-35ミリf 1.8がいいな

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1,960年代の後半であったかヤシカが作ったエレクトロ35というのがあった。
かなり初期のレンズシャッター式オートカメラで絞り優先だった。海外旅行のカメラと言われていた。林Tadahikoさんがイメージキャラクターだった。もっとも当時の海外旅行は値段も高かったし今のHISなどなどとは大違いであった。 1番最初のジャルパックが70数万円した時代である。

その標準レンズ付きのヤシカエレクトロ35を買おうとしたら日大の写真学科の同級生のエムと言う奴に先に買われてしまった。細かい事はよく覚えてないが1台のカメラに対して池袋のカメラ店で最初にどちらが予約したかと言うようなことでその間に確執があったのである。

買ったカメラはすぐ忘れるが買えなかったカメラの事は何十年たっても忘れないと言う法則がここには当てはまる。

それから数年してからであったか同じシリーズで35ミリの明るいレンズがついた新型カメラが登場した。当時からというか今も、 SMAP シューターだからこの35ミリ付きのほうがいいかと思った。ところが結構な値段であったから買えなくてそのまま半世紀が経過してしまったのである。

この間の雨のガラクタ屋さんで当時夢にまで見たこのカメラを手に入れることができた。カメラの恨みは深いから私のカメラの恨みはここで消滅したわけである。

南無阿弥陀仏🐦🌈🐦🌈🐦🌈

当時の最先端技術と言うのは今から見ると結構進んでいてこのカメラが出た数年後はもっと進化して露出補正やらシャッタースピードの表示などが出るがこれはそういうのが一切ついていない。そこが非常にプリミティブで良いのである。

我楽多屋さんの在庫の中でこれが例の紅白歌合戦に出る中島くんがタッチしたカメラのうちの1台でもある。その後中島くんのファンが1人も現れなかったようであるがついに大阪から熱心なファンの人が来ることになった。
Automaticな35ミリのレンジファインダーと言うのは実際のスナップショットではライカカメラ以上に使い勝手の良いものである。

このカメラなどは標準レンズではではなくて35ミリの明るいレンズが付いているのでまさにスナップショットには最適である。極端に言えばこのカメラ1台だけあればこの世界はちゃんと記録できるのである。

2017年12月22日 (金)

神田写真七福神ワークショップは1月14日開催です

チョートクブラぱち塾 は好評で次回1月14日が第5回目になります。
たまたま3ヶ月のロングランで神田明神の隣のギャラリーバウハウスで私が展覧会をやっているので次回のワークショップはその場所をスタートにして最初にフロアレクチャーをやらせてもらうことにしました。そうなるとワークショップのタイトルは写真が上達する神田七福神と言うことになりました。

写真が上達する神田七福神とは
コースはギャラリーバウハウス、神田明神、湯島聖堂、ニコライ堂、神田カルチェラタン、戦後のポエトの出版で有名なゆりいか創設ポイント、須田一政さん生誕の場所。
これで神田写真上達七福神です。
私の神田界隈の写真にまつわる思い出を指折り数えたらたまたま7カ所になったのでこれは七福神にもってこいだということになりました。

写真家須田さんの生誕ポイントは私にとって1番なじみのところです。まだ20歳代の時にお宅にお邪魔していろいろ大人の世界を教えていただきました。
これが七福神巡りのラストのポイントで最初はこれもお世話になっているギャラリーバウハウスです。本来日曜日はお休みなのですが特別にお願いしてギャラリーをオープンしていただきました。そこで簡単な小滝ディレクターのフロアレクチャーをやろうと思います。それと私のトークでwinの撮影の秘密と言うやつです。

湯島聖堂を経由してニコライ堂に行きます。
実はニコライ堂は今回初めて行くところです。それでロケハンをしてきました。私はロシアのモスクワとかサンクトペテルブルグのロシア正教会を取材でかなり巡っています。それに比べるとニコライ堂は何かテーマパークのような感じに見えるところが面白いと思いました。

そこから1968年神田カルチェラタンで有名になったバリケードのあった大通りを散策します。そのバリケードが構築されたときの写真は日本カメラの私の連載Today東京1964-2020-2月号に掲載されています。

普段はちょっと歩けないような新春のお得なプランです。
と言うと何かHISパッケージツアーのような感じで笑えますね。オンラインからご参加をお待ちしています。メールアドレスは日本カメラの2月号の私の連載のページの下の方にも出ています。あるいは長徳ブラパチ塾で検索してください。

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2017年12月21日 (木)

シンプルなテーブル大泉学園町1969

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小さな丸テーブルの上にコーヒーカップが置いてある。カメラも二台置いてある。。テーブルは池袋のデパートの古道具市で買った記憶がある。小さいテーブルであるからそれを買って西武池袋線に乗って大泉学園で降りてバスには乗らずにバスストップをいくつか歩いてきた記憶がある。これが若さと言うものであろう。

似たような写真はニコンの50周年記念の時に東京ニコン日記の700ページ以上ある小さな写真集に掲載した。友達の盆小原さんがその状況を全く真似て再現画像を作ってくれたりもした。その意味で大泉学園の小さな丸テーブルと言うのは仲間内ではちょっと有名なのである。

もともとのプリントは8インチ× 10である。三菱の月光と言う印画紙である。当時はそれしか手に入る印画紙がなかったようだ。50年近く経ってプリントを見ると別段変色もしていない。
テラバイトの膨大な画像をサーバーに入れて安心してそのままなくなってしまう人が多い中で1枚だけのハードコピーのゼラチンプリントと言うのは価値があると思う。

2017年12月20日 (水)

ベルリンのクリスマスマーケットのデコレーション2001年

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ベルリンのクリスマスのマーケットデコレーションが出てきた。家人が発見したものである。2001年のクリスマスにいただいたそうだ。日本と違ってクリスマスの次にすぐ飾りを変えてお正月と言うような奇妙なしきたりはあちらには無いからクリスマスはずっと1月初めまでつまり東の3人の博士が街をウロウロするまではクリスマスである。

このデコレーションの作りはなかなか良い。メイドインチャイナであるかもしれないがこの場合はベルリンの友人が直接送ってくれたと言うところに非常な価値がある。
クリスマスツリーにぶら下げるのにはちょっと小さすぎるから別の使い方があるのであろう。

7年半を過ごしたオーストリアウィーンでもクリスマスは7回回ってきた。時期になると街のあちこちにクリスマスツリーを商う店ができた。でもクリスマスツリーは高くて買えないしデコレーション等もない。それで樅の木の販売が終わる時期になると業者の人が残したそこらに散らかっている枝を拾ってきてそれをクリスマスツリーにしたのである。サイズは小さいが本物のクリスマスツリーであるからこれで10分なのだ。

今年なくした友人にパリが長かった田原桂一さんがいる。彼は売れる前にパリの市場でもう廃棄された果物などを拾ってきたという神話がある。スター写真家になった人間にはそういう神話が必要なのであるがこっちはスター写真家では無いから貧しい人々がツリーの枝を拾ってきたことになる。ここら辺が決定的な違いです。

このデコレーションは2001年に送られたものである。世界は21世紀の希望に満ちていた時代であった。今も希望がない事はないがご承知のようにこういう世の中になったのである。😎

2017年12月19日 (火)

駄カメラ展 ベニスのキャナルグランデ裏のフェスティバル

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駄カメラ展第4回闇鍋フェスティバルに初参加。
路上に大型のアラジンストーブが2つすえるてあってテーブルが広くあってアラジンストーブ
の上では大鍋で料理をにている。所轄の警察の許可がよく出たものだと最初にびっくりしたが久松警察は物わかりが良い。

狐塚さんみたいな口の悪い連中の言っているのはニューヨークのウェルフェアみたいだという。そんなことわない。10年ほど前に冬のベネチアを撮影した。なぜそのことを思い出したのかと言うと細い路地の奥の方でテーブルを出して地元の人が宴会をやっていたからである。その空間環境が非常に似ているのでそんなことを思い出したのだ。

ベネチアはキャナルグランデの裏の大宴会と言うわけだ。

そこで作られた豚汁と言うのは非常に味が良いのでびっくりした。これは料理長が力を発揮しているのであろうが並大抵のことでは無い。アラジンの石油ストーブが効いてるのかもしれない。さらにびっくりしたのはこのアラジンのストーブはレンタルであって集会が終わると会社がピックアップに来るそうである。時代は変わったなと痛感した。

2017年12月18日 (月)

加納満さんの赤いフィアット500

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例の今年の6月に私の70歳の誕生日のフェスティバルを企画してくれた悪の枢軸のメンバーの1人加納満さんがイタリアの小さい車フィアット500-60周年の誕生を勝手に祝うと言う写真展を銀座4丁目のギャラリーベースメントで17日から12月29日まで開催している。

直前になってフィアットジャパンがその協賛をしてくれたそうでこれもまたクールである。

この写真展はイタリア国内だけで撮ったものなのであろう。しかしこの小さな500は世界中で有名な車だ。オーストリアやポーランドでのデザインはちょっと違うが同じ車が生産されている。

私が日本で最初にフィアット500を見たのは写真家高梨豊さんのお宅だった。

神楽坂は奥のほうにある狭い小路を曲がった1番奥に高梨さんのお宅があった。そこで夜遅くまで写真の話をさせていただいた。高梨さんはこれから友達のパーティーに行くと言うのでライカのM3にズミルックス付きのカメラをフィアット500の助手席に乗せた。
そして庭に止めてある白いフィアット500を4回かそれ以上ハンドルを切り返して神楽坂の夜に消えていった。そのエキゾーストノイズが私をちょっと興奮させた。
何が小さな車のダンディズムの本質を見たような気がした。これが私が20歳の時だった。
1967年の事だからフィアット500誕生して10年目のことだった。

世界的に有名なボイストレーナーであったSakujiro Hikita先生はフェデリコフェリーニの映画ローマに出演した。フェリーニの昔の思い出のショットであって中国人のコックさんが臭いスパゲティを作ると言うほんの1分にも満たないちょい役なのである。しかしセリフも付いていた。その出演料でフィアット500を買ってそれでもお釣りがたくさんあってさらにそのチンクエチェントをイタリアから日本まで陸送してその費用が当時のお金で100,000円だったそうだ。

その前後に我々に決定的な影響与えた写真集があった。それはコンテンポラリーフォトグラファーズとワードソーシャルランドスケープと言うハードカバーの小さい四角い本である。
5人の写真家のオムニバス写真集であるがその中でWinograndであったかアメリカのどっかの街角写真で角を曲がっていく白いフィアット500をロングショットで撮られた写真なのである。いやこれを撮影したのはフリードランダーであったかな?

ロングショットで街角を曲がって行く500というのは私の忘れられないショットになっている。東京でも白いフィアット500を見ると反射的に私は写真を撮った。そのショットは私の写真集にも掲載されている。

加納満さんのフィアット500の写真展はそのバックグランドがイタリアである。やはりこの車はイタリアの風景と建物を背景にしてみるのが正しいのであろう。😎

2017年12月17日 (日)

緑のW

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ガラクタ屋さんで手に入れたオリンパスワイドである。ボディーに大きくダブリューのロゴが付いている。これはノリで後から貼り付けたもののようである。
日大写真学科の1年の時に江古田から関東バスのボンネットバスつまり犬バスで中野に行って日東商事で買ったのがこのカメラであった。本当はオリンパスワイドスーパーのブラックが欲しかったのだがそれは既に売れていた。

でも実際にスナップショットで使うにはこのオリンパスワイドの方が良いのだ。大体ワイドスーパーの明るいF2のレンズと言うのは半世紀以上使っているがほとんど使ったことがない。オリンパスワイドについているエフ3.5のレンズだって開放で撮影したことがほとんどないのである。

我楽多屋のにだいめさんに聞かれたことがあった。このダブリューの文字の色は抜けているのではないかと言うのである。私が知る限り半世紀前に手に入れた時もこういう色合いだった。だからこれはオリジナルではないかと思われる。最初からちょっと色が抜けたような色彩設定にしてあったのかもしれない。考えてみるとこれが鮮やかなグリーンだったら色が前に出すぎてつまらない効果を出していたかもしれない。

カメラのバランスからすると文字が大きすぎるというのがいささか変なのであるが慣れてしまうとそれが普通に思えるのも不思議なカメラデザインである。

ガラクタ屋さんの近くにあるインディ系のギャラリーNiepsであるが私はその時代はヨーロッパにいたので歴史を知らなかった。中藤さんが教えてくれた所では今のギャラリーの前はあの伝説のプレースエムであったそうだ。中藤さんが言うにはエントランスの左側に巨大なアルファベットのエムの文字があってそれはまだ壁の下に隠されているそうだ。😎

2017年12月16日 (土)

老人と花

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ギャラリーバウハウスのロングランの私の個展でエントランスを入ったすぐ左側にある作品がこれだ。
エントランスのフロアは1,970年代に撮影された仕事を集めてある。
今回の展示がかなり数が多いがその中でベストファイブを自分で選べと言われたらまず間違いなくこの作品は入る。老人と花である。老人と海と似ているな。

コンタックスにソ連製の85ミリレンズゾナーのコピーで撮影された。
このショットは今年の6月に私の70歳の誕生日を祝うパーティーを企画してくれた例の悪の枢軸のうちの1人が写真を編集してくれた。
それで写真集を作ってくれたのだがその写真集は全部縦ポジションなのである。 だからこのショットは写真集には使われなかった。でも好きな作品である。老人が花束を持ってたたずんでいる。人類全部に向かって追悼の気持ちを表しているような感じがする。

よく見たらだんだん思い出してきて市電の乗り換えの駅にいる花屋さんであることを思い出した。

ロバートフランクは戦後のパリで花屋さんをとっている。人間が花を送ったり花を欲しがったりするのは人間の原罪であるということがわかる。

だからこの花屋さんの表情にはすでに癒された宗教的な高尚な表情がある。
😎

2017年12月15日 (金)

^ ^現行商品で欲しいカメラがないと言う不幸なこと

最新型のカメラで話題になるのはカタログスペックで性能が良いと言う話ばかりである。それを買う人は今まで使っていたつまり旧型になってしまった一つ前のデジカメを売り払って新しいカメラにするのだ。

それでしばらくは満足していってられるが1年ぐらい経つとすぐまた新しいモデルが出るからそれまで自慢にしていたモデルは陳腐化してしまう。ちょうどスマートフォンやパワーブックの型遅れのサイクルと同じなのである。車の乗り換えのようでもある。

今のカメラメーカーさんはそーゆー商品作りが普通になってしまっているがこれはもう脱することができないのであろうか?
ニコンFは国民的と言うよりも世界的に優秀な有名ブランドのカメラであったが新製品が出てから10年以上継続したのである。

今の発売から半年で陳腐化してしまうデジタルカメラとは大違いだ。何かが間違っているのであるが経済の構造上それがもうどうしようもないと言うところに来ているようである。
それを手にしたらワクワクするようなカメラ、ずっと使っていたいカメラ、そのカメラを持って世界の果てまで旅をしたいようなカメラが欲しい。

私が使っている1番古いフィルムカメラは1932年に作られたライカである。当時はオートフォーカスライカカメラと言われていたのは距離計が最新鋭のトレンドをしていたためだ。このオートフォーカスの方が今の.オートフォーカスよりもはるかに使いやすいのはフォーカシングがオーバーライドできるからである。

そのカメラを手に入れるためには自分の持っているカメラを全て売り払っても良いと思えるほどのワクワクするカメラの登場を待ちたいものだ。😎
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2017年12月14日 (木)

Air Franceのパイロットマンフレッドに人形町で遭遇

エールフランスのパイロットマンフレッドに人形町で遭遇R0470876


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晴れた日の午後出かけようと思った。いつものように月島駅からメトロに乗らないで中央大橋を渡った。西安料理屋の刀削面が食べたくなったのである。

それからぶらぶら兜町を経由して人形町のほうに歩いて行ったら交差点で外人さんがいきなり私に追いすがってきて私の名前を呼ぶのである。

ごめんなさいあたし年寄りだから人の顔覚えてないんだと言ったら彼は
エアフランスのパイロットのマンフレッドですよと言った。
それで全てが明らかになった。
以前東京スカイツリーの下のレンタル暗室のカフェでこの人にあったのだ。その時は面白かった。彼はミノルタを持って向島を撮影に来たのである。ミノルタCL である。
何をしているんですか?と聞いたら月に2回ほど東京に来ていますと言う。それではエールフランスのパイロットみたいじゃないと聞いたらそうです。フランスのパイロットですと言ったのである。

まだ若いから右の座席に座るファーストオフィサーであろう。でも彼らは抜群に視力が良いから私とは大違いである。

聞けば一昨日東京に到着して明後日パリに飛び立つと言う。キャビンアテンダントさんとパイロットさんを比べるとパイロットさんの方が任務重だからアテンダントさんよりもステイオーバーの日にちがちょっと長いらしい。それが面白かった。

この写真をマンフレッドに送って同時にギャラリーバウハウスのウェブのアドレスを送っておいた。だから時間があれば今回の極東滞在中に写真展を見に来るかもしれない。
でも今回の東京での写真展はロングランだからマンフレッドはこの次のフライトの時に見に来ても一向に構わないわけである。エアフランスは65周年だそうだがエールフランスのおかげで世界が狭くなったのを喜ぶ役か?
😎カメラはGR

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2017年12月13日 (水)

中野区立橋場公園

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ブラパチワークショップでギャラリー冬青を見学した後高橋社長が案内してくださった。大変恐縮するガイド役である。
この公園は私も知っている。以前桃園緑道を歩いている時にちょっと寄ったのである。でもあれは春先のことであって今回のほうがはるかにいい風景であった。それも冬の午後の明るい光に照明された銀杏の木が金色に燃えているのである。

広い公園で3人の女の子がそれぞれに遊んでいるのに興味を惹かれた。何が素敵かと言うと女の子3人はそれぞれ自分の意思で自由に遊んでいるのである。これはもうちょっと小さい子だと管理者がちゃんとついていてあれをしろこれをしろとうるさいがそのレベルを脱出した女の子連中はすでに自分の自由な空間を行動しているわけである。

ワンショット撮影した。前回の蒲田の踏切の撮影では私が無断でスナップした成人女子が私に文句を言ってきたと言うところを再現してシミレーションしてみたのだがこーゆーめんどくさい事はなかった。

東京の冬の晴れ間の斜めの光と言うのは稲垣足穂も彼の作品で触れている。特に稲垣は中野近辺に住んでいたからその思いが私には強い。中野打越と言う駅からすぐ近くのところに稲垣は友人の江戸川乱歩からいくばくかのお金を借りてそこに小さな部屋を借りたのである。
その3畳の部屋に後でユリイカを起こすことになった伊達得夫であったり後の奥さんになる篠原さんなどが訪ねてきたわけだ。つまり昭和20年代は日本の戦後の文学の新しい彗星を打ち上げる舞台であったのだ。
😎カメラはGR

2017年12月12日 (火)

ギャラリー冬青高橋隊長の訓示

高橋隊長の訓示R0470815


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第4回長徳ブラパチ塾は12月10日日曜日に行軍した。
当日参加のメンバーもいてその数20名近くになった。

元自衛官のTessinaさんに聞いたら軍隊の1個小隊と言うのは8名から10名ほどであるそうである。だからこの日の行軍は2個小隊と言うわけだ。

私のワークショップは真面目な教育のつもりであるから中野区中央5丁目ギャラリー冬青に皆さんをお連れした。高橋社長からお話を伺った。最初のショットを見ると何か自衛隊のトップの演説のような感じがする。それもそのはずで左側に立っていた紳士が元自衛官なので演説を聞くときの姿勢がはまっているのである。それに影響を受けたせいでもなかろうが他の参加者の皆さんも直立不動で何か面白かった。

カメラはGR。

2017年12月10日 (日)

❤️これは事件だ。中野駅北口森山大道さんに遭遇

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火曜日のお昼過ぎ午後0時43分ごろ中野駅北口で張り込みをしていたら改札口から出てきた森山大道さんに遭遇した。森山さんは北口を右折したので尾行したと言うのは失礼である。
ポケットから GRを出して後ろ姿を2枚撮らせていただいた。後でファイルを見たら3枚撮っている。カメラが勝手に動いたわけである。

大道さんにお声をかけて帽子をとって深々とお辞儀をして話を始めた。最初は変な老人に声をかけられたと大道さんはぎょっとなさっていたがすぐ私とわかったのでそこから会話になった。

30数年前に上野のアメ横でやはり大道さんを尾行してその時は大道さんはペンタックスのブラックを使っていたが撮影が1段落したので声をかけしたらびっくりなさって口にくわえたハイライトを反対側に火をつけたのでフィルターが燃えて音がした。
その話は私の本、名機礼賛の第1巻に書いてある。

最後に大道さんにお目にかかったのは新宿ゴールデン街の飲み屋でご馳走になったのであるがその時大道さんは学習院で撮影をしていてフランスのアパレルメーカーの仕事だと言っていた。まだフィルム時代のリコーGR1とGR 21の二台で撮影をしていたのである。

思えばそのさらに10年近く前に私は大道さんにできたばかりのリコーGR1をお渡ししたのである。大道さんはそれでヒステリックグラマーの分厚い新宿の写真集を撮影なさった。
その時の大道さんとの事はよく覚えているが四谷3丁目のアローカメラから近くのホテルでお目にかかったのである。大道さんと電話で話をしていたら例のごとく森山大道口調であるから言葉がはっきり聞こえない。
大道さんが言うには四谷三丁目のジャズホテルで会いましょうと言うのである。そんなホテルがあるのかなと思ったがこれはJALホテルのことであった。

もっと古くは1976年大道さん36歳私が29歳でヨーロッパの巡回展現代日本写真家展の出品をお願いしたのが最初のお付き合いである。思えば長い話になりますね。

大道さんはものを持つのが嫌いだからカバンは持たない。だからコンパクトデジカメをポケットに入れているのである。写真家は手ぶらで撮影に行くと言う。絵に描いたような偉大な写真家なのである。

😎カメラはGR

2017年12月 9日 (土)

いてふの樹燃える

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佃島の家を出ていつものスーパーの途中にこの銀杏の木がある。その存在はほとんど私の意識から脱落しているのだが年にいっぺんこのように銀杏のキャンドルライトが燃え出すとその存在に気がつく。

私は桜にしても銀杏にしても一本立ちが好きなのでずらりと並んでいる銀杏並木はあまり好きではない。絵画館前の銀杏などは好みではないと言うことだ。

一本立ちの銀杏木が好きと言うのは少年の頃からの習慣のようである。音羽の谷を上って文京区の小日向台町小学校に行くルートはいくつかあったのだがそのlo1番北側のルートで歩行すると跡見女子学園の斜め向かいの囲われた空き地の中に恐ろしい巨大な銀杏があった。
お茶の水女子大学の敷地であったのかもしれない。その巨大な銀杏を小学校の登下校時に見るのが好きだった。そんな理由で銀杏は一本立ちに限るのである。
その銀杏の写真は私の写真集東京ニコン日記に掲載されている。

この佃島の銀杏はそんな大きいものでは無いから普通に恐れを持たずに眺めることができる。巨大な樹木と言うのは何かそこに霊魂が宿っているから尊敬の念を持って眺める必要がある。そういう古代からの人間の記憶というのが時々押さえつけられた意識の中から浮上してくる。

12月の燃え立つような炎のようなキャンドルのような銀杏は素晴らしい。
それに比べるとクリスマスツリーなどは安物のデコレーションに思える。

カメラはGRD

2017年12月 8日 (金)

ギャラリーバウハウス。展示中のうさぎさんの写真の肉親が名乗り出る

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ギャラリーバウハウスの展覧会いよいよ土曜日は私のトークイベントである。
木曜日の午後にギャラリーに行ったらギャラリストの村田さんが面白い話をしてくれてびっくり仰天。70年代にwinに住んだ時に友人の斉藤さんと言うアーティストの飼っているウサギをたまに預かっていた。
その斉藤さんの弟さんの信也さんの文字は間違っているかもしれないがうさぎさんを飼っていた肉親が名乗り出たわけである。

本来ならそこで染色体のチェックをしたりするわけだが動物と人間のペット関係の場合はそういうことがないのが逆に便利でよろしい。

当時のアーティストの斉藤さんは小鳥とか小動物を専門に書いていた。40年以上お目にかかっていないなぁ。今はどのようなお仕事をなさっているのか気になるところだ。

斉藤さんの弟さんの方が国際的なビジネスマンで世界中飛び回って時々オーストリアウィーンに着陸していたようである。特に中近東の方面が得意でアラビア語はアラブ人よりうまいと言う話であった。

写真が紡ぐ人間のコネクションと言うのは実に不思議なものである。まさかうさぎさんつながりでこんな面白い展開になるとは思わなかった。
うさぎさんの名前はGenji。
源氏物語のあの源氏です

土曜日のトークイベントは午後7時から。まだ若干の座席の空きがあります。

2017年12月 7日 (木)

コンバーチブルホーススーパーアングロン改

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Niepsの開催したクリスマス市でコンバーチブルホースマンを手に入れた。スーパーアングロン47ミリがついた改造モデルである。本来のレンズは東京光学の62ミリなのであるがこれが性能がちょっと不満なのである。四半世紀前に銀座のカメラ屋さんでコンバーチブルホースマンに47ミリのレンズのついたのを求めた。

大辻清司先生が手元のパーツを組み合わせて同じようなカメラを手作りされたこともある。
大辻先生はこの手作りの超カメラでご自宅の隣近所を撮影し作品を作りそれをアサヒカメラに掲載されたのであった。

プラウベルマキナプロシフトと言うカメラを私は80年代に愛用をしていた。実際ボロボロになるまで使ったのである。同じく47ミリのシュナイダーのレンズが付いてこのカメラは若干シフトができた。

1年前に神田明神脇のギャラリーバウハウスで開催したプラハの写真展でもこのカメラを使った。
コンバーチブルホースマンはシフトができない。プラウベルプロシフトはシフトができる。両者を比べてみるとシフトができる方が便利そうであるがシフトができなくても別に不便で困ると言うことでは無い。

コンバーチブルホースマンはすでにパーツはたくさん手元にあるので全体の寿命が延びたと言うのが嬉しい。

2017年12月 6日 (水)

ブラパチワークショップ12月10日開催はもうすぐ締め切りです

12月10日開催の
Today Tokyoブラパチ塾中野奥の細道
は12月9日土曜日に締め切ります。
あと若干名様を募集しています。
https://www.facebook.com/events/219982775208755/

2017年12月 5日 (火)

アスタリスク

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森下大輔さんの存在は前から知っていた。
東京のインディーギャラリーでお仕事をしている。なかなかのイケメンである。その彼が前歯を損傷してしまったと言うニュースも聞いた。ちょっと無残な感じがした。それは稲垣足穂が神楽坂の袖すり坂で懐手で泥酔して転倒して前歯を折った時以来の事件に思われたた。

Facebookで森下さんのコメントを見ているとそれが断片的なので舌足らずの感じがある。それが今回写真集になったので彼の話している言語が意味不明なままに重層化されて意味がわかるようになった。この言い方は正しくはなくて意味不明な言葉の積み重ねのボリュームが映像に置き換えられる。その結果として森下さんの視神経の飛行距離と飛行の方向ががわかったと言う意味。

アスタリスクという言葉を私が理解しているのは私はライカカメラとレンズの研究者であるから製造番号がダブっているときにこのマークがつくのである。つまり1種のキュリオシティーな存在と言うわけである。森下さんの仕事もそのキュリオシティーの系統を踏んでいる。

写真評論家と言うのはかわいそうな職業であるから森下さんのこの映像の集積を何らかの形に言葉で置き換えようとすることで苦労するのであろう。でもそれは無意味である。
それにもう一つこういう仕事をしている写真家に対してあなたの撮影しているテーマはなんですか?と聞くこともタブーである。

それは質問者である評論家とかギャラリストとか編集者が自分の無能をさらけ出していることに他ならないからだ。写真というのは非常に鋭い両刃の剣であるからそういう?? をズタズタに切り裂く力を持っている。

この写真集を見て私が痛感したのは視神経の反応と言語中枢とは本来国交が断絶していると言う厳粛な事実である。

2017年12月 4日 (月)

今日クリスマスのマーケットでゲットしたレンズ

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四谷三丁目のギャラリーNiepsは真面目な表現の場所であるがそこで中藤さんと飯田鉄さんが中心で
歳末の蚤の市を開催すると言うので行ってみた。大盛況であった。

飯田さんが出品した小村105ミリを手に入れた。小村は懐かしいブランドであって中学生の頃ニコンエフを手に入れた私は望遠レンズが欲しくても純正のレンズは買えないのでレンズメーカーのレンズを買ったのである。それは小村の135ミリメーターだった。

当時は純正レンズに比べて何か安っぽいような感じがしたものだがそれから半世紀以上経って実物を手にしてみるとその作りは非常に立派である。何も手を抜いていないことがわかる。
105ミリレンズは明るさがエフ3.5であってプリセット絞りがついている。私が使っている初期のイタリア製の一眼レフ等は全部普通絞りであるので何かとても現代的な感じがした。

それと思い出したのは一眼レフのファインダーを覗いているときにプリセット絞りで実際に撮影するところまでレンズを絞り込むと前後のピントの深さがちゃんと見えてくると言うことだった。

90ミリとか100ミリとか105ミリと言うレンズは仕事の場合非常に重要であってこれがないと人物は取れない゛物写真も撮れないしとにかくても足も出ないのである。

デビットダグラスダンカンは戦争写真家であるから彼が主に使ったレンズは50ミリの標準と135ミリの望遠である。澤田教1も135ミリの望遠レンズでピューリッツァー賞受賞した。
つまり135ミリと言うレンズは自分の命を守るためにバトルフィールドのバリアの外側から取ることができるレンズなのだ。

一方90ミリから105ミリ位のレンズはそのバリアの内側に入って撮影するレンズと言う違いがある。これも有名な話だがアンリカルティエブレッソンが撮影旅行に行く時出発時持参のレンズは50ミリ90ミリ135ミリだったそうだ。でも2日目か3日目に郵便小包で135ミリだけを事務所に送り返してきたそうである。使いにくくて重くてかさばると言うのがその理由であったらしい。

2017年12月 3日 (日)

ギャラリーバウハウスの赤い柊

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ギャラリーバウハウスの大理石のステップを上ってエントランスの直前の左側にあるのが赤い葉っぱの柊の小さい鉢である。よく注意しないでずっとそうだと思っていた。数日前3人のおばさん連中がエントランスの前でたむろしている。ギャラリーのお客さんかなと思ったが中に入る様子は無い。接近していて私がギャラリーに入ろうとした瞬間に短い会話が聞こえたのである。

こういうやり方もあるのね。
おしゃれだわねとか言ってそのまま神田明神のほうに去っていった。

ギャラリーの客さんではなくてエントランスの小滝館長が飾った植木の赤い柊の葉っぱを褒めているのである。これは逆にポインセチアなどよりも目立つ。

winのクリスマスのマーケットも有名であるが思い出してみるに赤い柊の葉っぱと言うのはそれほど記憶にはない。winで年の市に思い出すのは1連の幸運のマークであると言う豚さんの貯金箱とか煙突掃除の真っ黒い服装をしたおじさんのフィギアなどである。

赤いクリスマスの柊の葉っぱ系統と言うのは小滝さんが住んでいた英国のほうのスタイルなのであろうか? ウィーンのクリスマスの飾り物の柊は金色にペンキでにぬられているものがほとんどである。それとやどりぎで玉の形円形になった緑色の魂を飾ったりする。

あれはドイツ語でなんて言うのであろうか?
以前友人の大学の教授の家にクリスマスに呼ばれて行くときにそれを途中の花屋で買った。縁起物なのですごく高かった。忘れるといけないので花屋の店員さんにドイツ語を教えていただいたのだが完全に忘れている。

そういうわけで12月になると慌ただしくカレンダーの日にちが変わって新年になるわけだ。

2017年12月 2日 (土)

つげ義春さんはスーパースター

つげ義春さんはスーパースター。開催中のギャラリーバウハウスでオーナーの小滝さんと話をしていた。話題がつげ義春さんのことになった。我々の時代はまさにつげ義春の漫画を軸にして回転したわけである。
彼の漫画はもちろん素晴らしいが彼が撮影する写真がいいと言う話になった。確かキャノンの古いレンジファインダーのカメラか何かで寂れた温泉場などを撮っている写真が良いのである。

小滝さんと2人でつげさんに私の写真展の案内状を送ろうと言うことに話が決まった。それでその翌日にギャラリストの村田さんが宛名を書いた葉書を持ってきた。一筆書き加えようと思ってちょっと考えた。つげさんは記憶が良いから私の事は覚えていると思うがそのキーワードとして次のように書いた。

写真展の案内状を送りします。ミランダTの田中長徳です。

話は80年代にさかのぼるが私は義春さんと個人的な親交があった。最初に電話をかけてきたのはなんとつげさんの方なのである。自分から名前は名乗らなかったけどその人はつげさんとすぐ私にはわかった。義春さんは調布の多摩川住宅にお住まいで私もそこに住んでいた。それで時々団地中央と言う商店街にある喫茶店でお目にかかってカメラの話をした。

つげさんはジーパンにカッターシャツで下駄を履いてきた。第一人称を自分はと言うのである。何か運動部的な言い方であるがそれが面白かった。

もちろん漫画の話などはしやしない。もっぱらつげさんが当時興味を持っていた国産のクラシックカメラの話なのである。そこら辺の事はつげさんの作品カメラを売るに触れられている。

何回目かに団地中央の喫茶店で会ったときにつげさんはミランダTを探してきてくださいと私に頼んだ。私は1982年から1年間文部省文化庁の派遣員芸術家としてニューヨークに行ってニューヨーク近代美術館で写真を研究する予定だったのである。

マンハッタンに到着してグランドセントラルステーションのコンコースにあるカメラのスワップ会場でそのカメラを手に入れた。
ほぼ1年後につげさんに連絡をしてそのカメラを多摩川住宅の2階のお住まいに持っていった。その時義春さんが私を団地のにかいの3畳の部屋の彼が仕事をしている場所に入れてくれたのである。これは感激だった。
仕事机と本棚の外には何もないような部屋であった。その本棚の中は本ではなくてカメラがいっぱい詰まっていた。カメラをお見せして義春さんは私に値段を聞いた。20,000円ですと私は言った。

そうしたら義春さんは台所のほうに顔を向けて20,000円だってと大きな声を上げたのである。
それではいただいておいたらと奥さんからの声がかかって奥さんは財布からお金を出して私に払ってくれた。何か無能の人の映画の中のワンシーンのような感じがした。

2017年12月 1日 (金)

オーストリアウィーンの初雪

オーストリアウィーンの初雪Img_5099

1,970年代以来のウィーンに住んでいる古い友人からFacebookに掲載されているwinの初雪の写真が届いた。
40数年前の友人が同じFacebookに同期をしているのは何か非常にありがたいそして不思議な感じがする。
その朝のwinの住宅街の雪の写真を見て思い出したのはwinは暖かいなと言うことだった。ウィーンは寒いところであるから本当に寒くなると雪などは降らないのである。

だから雪が降ると言うのは例えばマイナス20度の恐ろしい寒さなどではなく氷点下よりちょっと気温が下がっているという印象を受ける。これが私のwinで感じる気温と雪の関係なのだ。

それでも雪が降った時は大変であって雪かきの作業員がたくさん出てくる。大雪になると人員が足りないので電車の中に雪かきの作業の募集が張り紙されていたのを思い出す。

当局は主要な道路は全部雪かきをするわけであるが公園に沿った長い道とかそういうあまり人通りがないようなところは雪かきはしない。そこには大きな看板が出ていてここを通過する時は各自の危険負担で歩くようにと言う警告がある。そういう看板も懐かしく感じる。

私が暮らした7年半でそれほどの大雪はなかったがいちどだけ豪雪があった。膝を超えるほどの雪の深さであった。

でも 写真になるような雪はせいぜいこの程度の雪なのである。
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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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