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2017年10月31日 (火)

アルコの古い三脚を探し出す

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アルコは極めて個性的なカメラメーカーであった。蛇腹式の35ミリカメラでこれは35センチまで接近ができるのである。他にライカマウントや何かの望遠レンズも作っていた。1番有名だったのは1連の8ミリ撮影機である。

アルコスーパーメカニカは私が最初に手にした超高級8ミリカメラであった。新品で77,000円もしたのである。
資料を昔読んでいたらアルコの1番最初の製品は35ミリカメラでもなく8ミリカメラでもなく三脚であることが分かった。昭和20余年頃の話であった。

戦後の国産最初の三脚である。当時の値段が5,800円もしたのに飛ぶように売れたそうである。
第4土曜日のシドニーの私のトークショーの時に買取名人がいらしたのでその当時の話をお聞きした。いわゆるパチパチ三脚と言うやつで一挙に引っ張り出して8段位の三脚を伸ばしてそれをまたワンタッチでしまうと言うプロの見せ場なのである。

そのデモンストレーションをやっていた買取名人は誤って三脚で手を切ってしまったそうだがプロ根性で宣伝の最中であるからその傷を隠して無事デモンストレーションを終えたそうである。ひどい出血であってその時の傷はまだ手のひらに残っているそうである。プロフェッショナルの鏡と言う所だ。

手に入れたアルコの最初の三脚は実はなかなかレアなのである。いつぞや買おうと思ったがとにかくプライスがコレクター並みになっているので手が出なかった。それでヤフオクで検索していたら偶然100円で登場したのである。 1部壊れているのだがこの場合は文化財でアルコの最初の製品であるから手に入れようと思って入札していたら100円で落札できた。ありがたいことである。

非常に作りが良いのである。戦後の日本がいかに製品作りに力を入れていたかなこれでもよくわかる。しかも専用の革ケースは非常に作りが良くて革ケースもそこの部分にこうもり傘の石突きのようなものまでついている。これが70年前の製品なのだから尊敬してしまう。

アルコの三脚は私のカメラ日記のムービーの撮影に使おうと思っている。パンとかはなかなか難しいが固定カメラであるから何の問題もない。手元にあるたくさんの三脚の中でこれが1番作りが良いと言うのは皮肉というか大変な真実だと思う。

国威8様だな。

2017年10月30日 (月)

都バスの中で見たローランサン

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晴れた東京の晩秋の午後に
都バスに乗って清澄白川のお庭に行った。ああ
個人観光客でごった返していた。
面白くないので庭を出た。それで佃行きのバスに乗ろうと思ったら目の前をバスが出たばかりだ。この時間帯は1時間に4ほんなのである。ヨーロッパのプラハのカントリーだとこれは非常に頻繁にバスが来るという感じがする。あちらでは90分にイッポンは普通である。
それで15分バス停に立って待っていた。来たバスに乗って奥の席に座ってみたら前に大きなフクロに絵画を入れている女性がいる。絵画の全部を見るノならばそれは美術館でもギャラリーでも普通であるがトートバックのナカから1部だけ見えるというのは想像力を増加させる。要するに実際よりも想像力が加算してしまうのである。
絵を運んでいるのはおしゃれな女の人である。ファッションもなかなかキマッテいる。興味あるからちょっと絵を見せてくださいと言おうかとと思ったがこれは東京都公安条例違反になるだろう。 それでほんの1部だけバックから出ているところを観察していたらこれはローランサンの絵画にちょっと似ているいるのだ
ここで時代遅れだと笑ってはいけないのである。美術というのはそのように時代遅れであるということが好ましいことだってあるのだ。
その人は月島の1つ手前のバスストップで降りた。東京商船大学の越中島である。

2017年10月29日 (日)

東京国際フォーラムの中庭でランチ

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午前中から外に出ていたので思いつきで東京国際フォーラム有楽町の中庭でランチを買った。例の駐車しているVanそれがキッチンになっているいるやつである。

マレーシア風の焼き飯とタンドリーチキンとサラダのコンビネーションである。
これで6ドル相当なのだったらかなり安い。しかもライスをリトルポーションにすると50円引きになるかあるいは目玉焼きかサラダがつくのである。

ニューヨークのランチと言うと勤め人は高層ビルから出てきてそこら辺の食物家でプラスチックの箱を買ってそれでそこら辺どこでも座って食べたりしている。天気が良ければこれは快適でなかなか良いものである。大昔のマンハッタンを思い出してちょっと真似をしてみた。

これは私のランチに対する偏見であろうがマンハッタンの人はどうしてハンバーガフライドチキンばかり食べているのであろう?
アメリカから来た友人に4半世紀ぶりに会って六本木ヒルズで食事をご馳走しようとしたら自分はハンバーガーがいいと言ってクラブのレストランでハンバーガーを食べて満足していた。私はクラブの寿司屋に連れて行くつもりだったのでかなり安くなってそれは助かった。

オバマ大統領のエアフォースワンで最初に飛んだときの食事はハンバーガーであったそうだ。もうこれは伝統食品ですね。

私はこのキッチンのVanに並んだのはお昼の11時20分ごろであった。その後いきなりお客さんが増えて30人ぐらいの列になったのにはびっくりした。おそらく常連さんばかりだろうから他にもあるキッチンVanと比べてここが内容が1番良いと言うことを知っているわけである。向かいのキッチンは閑古鳥が鳴いていた。

2017年10月28日 (土)

佃島の白い雲

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魚眼レンズというレンズは昔は特殊なレンズであったな。今ではあまりにも普及化してしまって逆に使う気がしなくなった。
楢原Ikkoさんがヨーロッパで60年代初めに撮影し作品などは素晴らしかった。いちばん忘れられないのはスペインのトレードを撮影した円形魚眼レンズの名作である。最も値段もすごい戦ったなら簡単に手に入れられるというものではなかった。
あの作品に憧れて同じ場所に行ってみたが真夏であってアンダルシアの午後であるから暑くて撮影などできなかった。
オリンパスペンの1番古いモデルを最近発掘したのでそれに魚眼レンズをつけて撮影を楽しんでいる。タシカこのフィッシュアイレンズは定価が5,000円とかいうものであった。ヨドバシカメラのホームページなどを見ると交換レンズのところにやなくてレンズキャップの部門に製品が置いてあったそうだ。しかしその性能が十分に使えるのである。
白い、デジタルを斜交いにされてつくだじまをウロウロした。この春に佃堀の親水公園が半年ほどかけてリニューアルされた。しかしどうもぱっとしない公園である。いつも座っているベンチに腰掛けて自分が住んでいるタワーのほうをなんとなく眺めてみたらタワーの上から下までがグラデーションになっていた。
なんのことはない。快晴の午後なのであるがちぎれ雲が強いカゼでフキヨセられるからその部分だけがカゲになっているのである。
スペインのアンダルシアよりも極東の東の果ての東京のほうがエキゾチックというポイントからすればはるかにフォトジェニックなわけである。

2017年10月27日 (金)

北区滝野川6丁目のお店

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^ ^ 10年ほど前に毎日新聞から出した私の写真集 長徳アットワークというのがある。
私の数10年代の仕事を作品とカメラから検証したものである。
当時3,800円と言うのは結構な値段だったので売れ行きが悪くて1部は裁断処分になったそうである。それで今では稀覯本と言うほどではないがその10歩位手前位の感じで中古書店に出ると結構な音がついている。私は自分の本は持っていないのでプレゼンで人を見せる時などは時々見つけると目をつぶってそれを手に入れるのである。

ユニークなカメラであったBronica645これはタムロンが扱っていたわけであるがそれを持って東京中撮影して歩いた。
ちょうど作家の片岡義男さんとよく東京一緒に歩いていた頃である。
片岡さんは特に狐塚商店街から滝野川あたりがお気に入りであった。この店はいつも目の前を通過していただけて実際に入った事はなかったがガラスのウインドウに焼きそばの在庫がたくさんあるのである。実際に入ってみてびっくりしたのは地元地元のお年寄りの大集会場所になっていたことだ。

昼間からチューハイをやっているような極めてフレンドリーな理想的環境なのである。私はかた焼きそばのあんかけを頼んで待っていたがなかなか出てこない。
後で聞いたら1人で店を切り盛りしているおばあちゃんはお酒が全然飲めないのに悪い仲間が彼女のコップに焼酎を満たしたらしいのだ。おばあちゃんは水だと思って飲んでしまった。それでいきなり酔っ払ってそのまま寝てしまったそうである。ここは安いしそれに何を食べても結構うまい。

この間もお店の前を通ったけれど実際には中に入らなかった。中から大きな笑い声が聞こえてくるので多分私が座る席などは最初からないであろうと予想したのである。

2017年10月26日 (木)

^ ^ 2009年のデジタルカメラが結構いいぞ

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カメラの森の底の底の方から白デジタルが発掘された。それ用のバッテリーを探すのに大変でまた丸一日かかった。

2009年の7月にライカインコが昇天してそれでペットロスになっていた時に私を救ってくれたのはオリンパスペンデジタルであった。
、デジタルのムックの撮影でヨーロッパに行ってそれで救われたのである。最初の白いペンデジタルはなかなかかっこよかった。
白いデジタルカメラが良いと言うことで結構エッセイも書いた。その後他のメーカーからも白いデジカメは出たけれどもこれがオリジナルなのである。

長年ライカカメラを使ってきてその代打として、デジタルが使えると思った。それでもうあれから何年になるか。
かなり久しぶりにカメラを操作してみたら別に不便なところは何もない。
操作のレスポンスがほんのちょっと遅いだけである。そんなのは問題にならない。
1秒間に何コマ撮れるとかそういう末端的なことをメーカーは自慢するようだがそういうのはあまり関係ないと思う。

それで真面目にまた8年前のクラシックデジタルカメラを使おうと思っている。これからはデジタルはクラシックモデルの時代だな。

2017年10月25日 (水)

どこまでが京都か?天使突抜町

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1982年のアサヒカメラ別冊の京都シリーズである。この40年で京都の街も大きく変わった。でも変わらないところもある。この突抜町がそうだ。

赤瀬川原平さんと何かの対談の時にこの天使突抜町が出てきた。
場所は確か山の上ホテルのバーであったと思う。
町歩きの対談だったような気もする。正確には対談の中でその話が出たのではない。対談が終わってパーで雑談をしている時出たのである。だから話の性質としてはこちらの方がはるかに上等だということだ。

赤瀬川さんはその街の名前について旧約聖書の神の怒りが通り過ぎるパスオーバーみたいですねと言った。本来の街の名前の由来は街のこっち側からあっち側に通り抜けることができると言うことらしいがこれは国際的なレベルで考えると実に深くて重い内容の宗教的な街の名前だと思う。
エルサレムの嘆きの壁と勝負できる。

だから京都の街でも天使突抜朝を歩いているとヨーロッパやアメリカの春のパスオーバーの頃の種無しの 真四角なパンのことを思い出す。私はユダヤ教徒ではないがあのパンでスープを食べるのが好きなのだ。

これは40年近く前に撮影した写真であって今のこの界隈の風景はちょっと変わった。大昔は例の仁丹のマークのついたほうろう引きの街の看板であったが今は市役所が作った普通のプラスチックの板になってしまったのである。

ここに来ると私はいつも突き当たりまで行くのである。突き当たりがTanakaさんであってその隣が浅井さん宅なのだ。浅井さんは私の家人の昔の苗字である。


2017年10月24日 (火)

どこまでが京都なのか?アサヒカメラ1,981

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アサヒカメラの1982年の春の特別号に掲載した1連の京都の作がある。
確か1981年の大晦日から元旦にかけて京都に取材に行ったのである。

編集部の人も一緒だった。今はどうか知らないなと言う事はこういうのは随行取材と言って写真家の格付けが上なのである。
別に40年近く前の私の写真家としての格が上なのではなくて大晦日から正月にかけてのホテルと言うのは値段が高すぎてアサヒカメラの取材経費でも出ない位の値段であった。

それで随行取材と言うことで資金を捻出してもらったのである。
レベルとしては全然違うけれども木村伊兵衛先生が1954年にヨーロッパを撮影にいかれた時に当時は外貨のない時代だったから木村先生を朝日新聞社の社員と言うことにして外貨を捻出したのと似ていないこともない。いや全然似ていないか。

5日か6日か忘れたけどもとにかく京都全部歩いた。当時はまだ地下鉄が開通していなかったのではなかったか?

そのちょっと前に私はニコンエフ3の広告でカメラ雑誌に出たりしていたので使い慣れたニコンエフ3を持っていった。撮影本数はトライエックスで多分30位ではなかったか。

35ミリシフトレンズを多用したのである。8ページほどの作品だがこのトップのショットなどは私の好きなラビットスクーターのお店の写真だ。こういうショットは40年近く経過してつまり現在みるとなかなか存在感が際立ってくる。

カメラ友達で九州にお住まいの秋沢さんさんが私がこのシリーズの話をしたらご親切にもそれをスクショして送ってくださった。誠にありがたいことである。

私が自分の出したの掲載雑誌などは全て持っていないのでお世話になっている。


2017年10月23日 (月)

錆びたビルボードはフォトジェニックである

錆びたビルボードはフォトジェニックであるImg_4782
三重県の鈴鹿市に住んでいる杉野さんはカメラ友達である。同時にかなり良い写真を撮る。彼がえらいのは普通のアマチュアの人が間違える退屈なモチーフにふりまされていないことだ。

地元のひなびた街の風景をストレートにとっている。だから力で我々何十年も写真をやっている写真家と対抗できるのである。これはすごいことだと思う。

この作品に惹かれたのである。古い町並みに残っている清涼飲料水のビルボードと言うのは永遠のフォトジェニックなテーマである。確か似たようなことを評論家のSusan Sontagも書いていた。

アメリカの偉大な写真家ウォーカーエバンスであるが彼はWalker Evance @ workという本の中で自分の仕事の秘密を紹介している。写真家が1,930年代後半の大恐慌の時代にディープサウスを撮影していたのである。

町外れのグロッサリーショップに巨大なコカコーラのビルボード。それを作品として撮影している。

面白いのは彼の自宅の部屋にそのビルボードそのものが飾られているのである。これは非常に奇妙なことであった。写真家と言うのは風景を映してその風景に写っているものには固執しないのだと思っていたが大写真家の場合はそうではないらしい。

これではまるで岡山の拾文銭銀水(仮名)が若い頃ハイエースで田舎街を走りまわってビクターのニッパーちゃんを片っ端から持ってきたのと同じことになってしまう。

そこら辺のごく普通の人間の欲望を持っているところが逆にエバンスは偉いなとびっくりした。

彼は70歳半ばの生涯を閉じたときまで結構変人的なところがあった。部屋の洗面所の流し内の中コカコーラのプルトップをずらりと並べていた。それに触るなとワーニングのペーパーが貼ってあるのである。

話はともかくとしてこの色あせたファンタのビルボードは非常に良い。こういうものは部屋におかずにやはりオリジナルの場所に鑑賞に行くのが良いのである。

2017年10月21日 (土)

ニコンをを制作したかけら

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昨年の3月31日にそれは寒い晴れた春の夕方であったが大井町でニコンの友人にあったのだった。
その日は我々にとっては聖地である101号館のニコンが管理する最後の日なのである。その翌日から建物は解体会社の手に委ねられるそうであった。

特別のご好意で建物の全てを見せていただいた。とにかく私はニコン少年であって日本デザインセンターに入ったらニコンのカメラをカタログで撮影できるのを楽しみにしていた口なのである。

見学が終わって春の寒さの森前町の道をしばらく歩いて素敵なレストランでニコンの話をした。当時のニコンはまだキャノンがプロ業界に出てくる前であったからプロ機材と言えばニコンであった。JFKの大統領を専門に撮影する写真家が使っているのがニコであった。だからニコンを手に入れる事は世界のトップクラスの人と少なくとも同じ機材を持つということに間違いはなかった。

ニコンの人と歓談する席上で私が昔話をした。
1985年の春であったかカールツアイスJenaの本拠地であったドイツのJenaを取材で訪問した時の話である。

既にかつてのAbbeが活躍した当時の工場の建物の1部は取り壊されていた。見覚えのある高いタワーもまだ立っていた。その管理がルーズなせいか驚くべきことに私はその取り壊し現場に立ち入ることができたのである。それでカールツアイスの思い出の便としてカールツアイスのレンガのかけらを持ち帰ってきた。

というような話の断片をニコンの友人にしたのである。
2017年の春になって昨年の話をもう完全に忘れていた頃にニコンの友人から小さなパッケージが届いた。開けてみたら101号館のコンクリートの破片であった。
何が凄いかといってこれはニコンではなくニコンを作った建物の1部なのである。
こうして私の宝物がまた1つ増えたのは本当にありがたいことだ。

2017年10月20日 (金)

萩中中央公園。中央レストランのチャーハン

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私は外歩きをしているとチャーハンを食べるという習慣はありません。中華屋さんには入りますが普通のラーメンを食べます。このやり方を東京ラーメンドキュメンタリーと言って私のドキュメンタリーの1部と認識しています。
お兄ちゃんが白い洋服を着て腕組みをして恐い顔をしているラーメン屋は行きません。

カメラ友達の小池さんが 出雲大社のほうに行ってから萩中中央公園のチャーハンのことを語っていました。それでこの界隈を撮影しているときにふと思いついて萩中中央公園の中央レストランに行ってチャーハンを食べました。大昔は500円だった記憶がありますが今は 50円だけ高くなりました。

食べてみるとなかなかおいしいです。この時は夏の盛りでかなり暑かったのでついでに生ビールの中を頼みました。チャーハンをおかずにしてビールを飲んだのは初めてですがこれもなかなか行けました。四半世紀前にやはりまだポルトガル領だったマカオのレストランでチャーハンのような料理でビールを飲んだ記憶が蘇りました。

チャーハンと言うのは自分で作るものであると今まで思っていたのです。ネギの切れっ端と卵が1個あればさおいしいチャーハンを作ることができます。

2017年10月19日 (木)

スターバックス

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家人の教え子のはなちゃんと言う人とカジンガ月島でランチをしようと思ったら適当な店が全てなくなっているのでスターバックスに入ったそうだ。
ランチにそこでスパゲティを食べて内容がひどいと言うので家人は憤慨していた。大体そういう店に入るのがいけないのである。

ニューヨークに暮らしている時スターバックスなどはシアトルの田舎の珈琲店だと思って私なんか問題にしてなかった。と言うよりも私は巨大なチェーン店が嫌いなのである。

行きつけのコーヒーショップはオーストリアウィーンの旧市街にあるカフェハヴェルカである。このカフェは1947年に創業して店舗は1つのみである。
スタバの方が1971年創業のようだが全世界に20,000以上のお店があるそうだ。好きなカフェと言うのは世界中に1つの店舗だけあれば良い。

私はヨーロッパ以外の場所でカフェに入る習慣がない。だからスタバに入ることもない。でも緊急的に障害で2度だけスタバに入ったことがある。
1度目はニューヨークのJFK空港のサテライトの先端にコーヒーが飲みたいにもかかわらずそこにはスタバしかなかったことだ。ワシントンD.C.行きのフライトだから1時間我慢すればよいのである。でも私は我慢ができなかった。目をつぶってそこでコーヒーを飲んだ。

2度目はギリシャのアテネの話だった。どうしてもコーヒーが飲みたくなって国会議事堂の向かいの通りを歩いていたらカフェが2つあったのである。どちらもひどいカフェで1つはジジババが集合しているSnobな変な店でもう一つはスタバであった。こうなると消去法でスタバを選ばざるをえなくなる。

あーもう一つあった。そこでコーヒーを飲んだ事はないがトイレを利用したのである。プラハの旧市街の中心部にある大昔からカフェマウストランスかと言うお店がスタバになってしまったのである。

この歴史あるカフェは私のプラハ時代の青春の思い出特にビロード革命前後の記憶がいっぱい詰まっていた。そーゆー重要な記憶の小箱があっという間にデジタル式にスタバに置き換えられてしまうのだ。これは興ざめだ。

例えばwinのオペラ座の角にエールフランスのチケットオフィスがあった。ここはよく利用したのである。ある日チケットの予約にそこに行ったらスタバに買収されていた。エールフランスのほうはにかいに移動させられていた。スタバと言うのは不思議な会社で世界各国の一頭地にでかでかとお店を出すので嫌がられているようだ。

ああ思い出した。この20年で1回だけこの夏にスタバに入ったことがあった。これは隣の駅豊洲で知り合いのコンピューターのスペシャリストに会ったときに彼がそこに行こうと言ったのである。私はもういい加減いい大人だから自分の心情でそこに行くのを拒否すると言う事は無い。

知り合いのプラハのジャーナリストで絶対マクドナルドに入らないと言うじいさんがいる。
私はそれほど頑固じじいではないのである。

2017年10月18日 (水)

Sudek Privatissima

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これは茶色というかオリーブドラブの地味な表紙の写真集だ。Sudekの作品集のうちで最も変わった写真集であると思う。
10年ほど前にプラハで購入してそのまま蔵書の下敷きになっていたのを発見して改めて見てこれはかなり凄いと思った。

高級な写真集になると見開きのページの片側にだけ印刷されているのが多いんだこの写真集の場合は見開きがオリーブドラブの一色でその次のページに写真が入っている。
それでページをめくると次の見開きがまだ写真はなくてオリーブドラブのインク一色なのである。こういう写真集は今まで見たことがない。

タイトル奇妙である。
プライベートの最上級と言う意味なのか?確かに最初のページには大写真家が50歳の時の誕生日を祝う10人ほどの人々が集まった非常にプライベートな記念写真が掲載されている。その写真も非常に痛んでいて右下がカットされている。

その後に続く1連の写真は小カメラで撮影されたものはほとんどが。これはSudekの有名な6 × 9小型カメラのコンタクトプリントも含まれている。

その他にSudekが1時熱中した6センチ× 13センチのフォーマットの写真も多数掲載されている。ただしこれは彼がパノラマコダックで撮影した本物のパノラマ写真では無い。

ページをめぐっていて彼の写真世界に引き込まれてしまった。そして気がつくと2時間ちかい時間が経過していたのである。

こういうのを写真集に捕まると言うのであろう。そういう分厚い写真の時間に比べると写真展などは薄っぺらなものである。ささっと走りまわってみて知人の写真家がいればペコペコ挨拶をしてそれで人間関係が修復されたと勘違いしているのは情けない。

ひどい人になると1日に写真展を10軒回ったなどと自慢してFacebookに書き込んでいる。ミシュランの日本版のインチキ本が世の中に出た10年前にお金持ちが日本のミシュランをいくつ回ったかと言う競争をやって自慢していた。あれと同じでどうも情けない。

写真集の体験の確かさに比べれば今流行のインスタバへなどは語るに落ちる次第である。Img_4752


2017年10月17日 (火)

新橋ステンショ

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汐留の操車場の跡地が平になると思ったらそこに文化財があったので、発掘作業が行われていた。
20年以上前のことであろう。赤土の大地を正確に掘り下げて気の遠くなるような作業だった。それは私はフェンスの外から時々観察して写真を撮ったりしていた。私の友達ののみかわさんは当時そこで発掘作業をしていたそうである。大変な根気だと思う。

当時私は黒川紀章設計のの中銀カプセルタワーで仕事をしていたことがあった。その時はこの新橋駅の前をよく通った。隣がポルシェのショールームでその先がドンキホーテである。肉のハナマサも先にあって便利なところである。

稲垣足穂の小説読んでいるとステンショという言葉がよく出てくる。これはステーションの古い言葉なのである。それで兵庫県の明石にちょうど藤の花が満開の頃に出かけて確認をしに行ったことがあった。藤の花の下でおじいちゃんと孫娘が遊んでいてそこにおばあちゃんから携帯に電話がかかってくる。
おじいちゃんは今からステンショのほうに歩いていくからねなどと返事をしている。明治時代のクラシックな言葉が実際に生きているのだ。

正岡子規の小説というか短いエッセイの中に夢というのがある。とりとめのない話で元日の時に見た夢をつなげて書いているのだがその新橋ステンショの3階が食堂になっていてそこで友人と食事をする場面がある。

夢の中の正岡子規はとても上機嫌で足はちゃんと立って歩けるのである。目の前が海でそこで新しい港を建設しているのを見て彼はこれからの日本だ、どしどしやらなくてはいけないよとまさに明治の民である。

正岡子規は実際に新橋の駅の3階の食堂に行ったことがなかろう。でも完全に復刻されたこの古い駅舎を見てると3階にちゃんとそういうスペースがある。ファーストフロアは今ライオンビアホールが入っているが。カメラはGR。

2017年10月16日 (月)

YOU TUBE

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私はペーパーの新聞は読まない。家人はペーパーの新聞を読む。

それで家人がしてきたのはチューブが冬にもツアーすると言うビックニュースの広告であった。

Tubeのベーシストの角野さんはずいぶん古い友人である。もうなくなった青山通りのレチナハウスに1時私のオリジナルプリントが展示販売されていて角野さんはそれを買ってくれた。マンハッタンの作品で4インチ× 5インチのネガフィルムが 11インチ× 14インチの印画紙の上に4枚アトランダムに並んでいる私の好きな作品であった。

角野さんはかなりレベルの高いライカユーザであってCanadaライツのエルカン64と言うレアなレンズも愛用している。

偽ライカ同盟で8月31日に板橋区の常盤台からずっと北に歩行して国境を越えて埼玉県あたりまで歩いたことがあった。
その日はTubeが沖縄で最終日に演奏をしていた。それで角野さんは演奏が終わってから羽田空港まで戻ってきた。それで私に電話をくれたのである。ー今羽田に着いたんですけれどこれから合流しますがどう行ったらいいんですか?と言うのである。

こちらは終日歩いてヘトヘトになってそこら辺の焼き肉屋にたどり着いてこれからビールでいっぱいやろうと言うところであったので全体の指揮系統に混乱が生じるからと言う理由で丁重にお断りしたのであった。

それがいつのことか忘れたがダイアナさんが若い命をパリで散らせたその日であった。

2017年10月15日 (日)

カイロのモロヘイヤ

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2011年のちょうど今頃にエジプトのカイロに行った。まだイスラム革命が起きる直前であった。

古い街を歩くときの私のルールというものがある。公共交通機関は使わないで全部徒歩で歩きまわるのである。この時もそうであった。

2週間ほどカイロの裏街を歩きまわって非常に感激した。その時は最初からギザのピラミッドには行かないつもりであった。ところが私は意志が弱いから最終日に行くほうがいいと言うふうに考え方を変えた。その時は電車とマイクロバスとタクシーに乗ったがカイロ市内は全部歩いた。街の東側にある死者の街まで往復するとかなりの距離になる。

数千年前からありそうなキャラバンサライをいくつも越えていった。キャラバンサライには必ず市場があって見慣れた緑色の草を売っていた。モロヘイヤである。ほとんどの市場で必ず売っている。いつか買おうと思っているうちに撮影のほうに気をとられてそのまま日が経って明日は東京に戻ると言うことになった。

それで撮影が終わってホテルに戻るときに買った。アラビア語が全然わからないから大変だった。そうしたら英語を話すおじいさんが寄ってきたので非常に助かった。色々と教えてくれた。私が値段を勘違いしていて大きなモロヘイヤの束が50 エジプトポンドではなくて単なる5ポンドなのであった。これをこれから持ち帰って東京でモロヘイヤを調理して食べると言ったらその老人は感激した。それでそのことを市場の周りの人に大きな声で演説したのである。この東洋人はこれからモロヘイヤを持ち帰って東京に広めるんだぞーと言うのである。

もっとも私はモロヘイヤは以前から食べている。最初にモロヘイヤに出会ったのは1973年から80年に至るwin暮らし時代の時だ。

写真家の友達の小松さんがエジプトによく行っていて帰りにwinを経由したのでお土産にモロヘイヤ持ってきてくれた。それは乾燥モロヘイヤであったが十分に香りがあっておいしかった。作り方は小松さんが教えてくれたのである。

最近では家の近くのスーパーでもちゃんと常備して売っているのはありがたい。それで時々食べている。ただ値段がすごく高い。1束300円位するのである。カイロの末端価格に比べると50倍ぐらい東京の方が高いのではなかろうか。
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2017年10月14日 (土)

稲垣足穂の机

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稲垣足穂は10月25日で没後40周年だそうである。なくなったのは1977年と言うことになる。そのニュースは稲垣と親しかった松岡正剛方面から当時オーストリアのウィーンに住んでいた私にも伝えられた。

当時の私はwin在住の日本人が残していった新潮文庫で稲垣を片っ端から読んでいたのである。30代だった。

朝日新聞の瀬戸内寂聴のエッセイによると伏見桃山の稲垣の住まいに行って新日本文学大賞当時100まんえんの賞金で奥さんに買ってもらった新しい机があって、その前に使っていた古い机を瀬戸内寂聴にあげたのである。

早朝に家人からその新聞の内容を聞いて私は稲垣ファンクラブであるからこれは新聞の全面でフルカラーで稲垣の使った机が掲載されているのかと思って飛び起きてみたら何の事は無い3センチ4センチの小さな写真であった。ちょっとがっかりした。

瀬戸内寂聴で思い出すのは昔文芸雑誌新潮に私が連載をしていたとき何かの具合で私のエッセイの前が瀬戸内寂聴の作品であった。私は連載の文章は北千住の千住柳町公園というところでiPhoneで校閲をしていた。
編集部によると瀬戸内寂聴は大先生だから昔のクラシックなやり方で編集部員が原稿を頂戴しに行ってまた印刷のゲラをお届けするのだそうである。それが昔の文人の普通の仕事のやり方だった。編集長の話では新潮の連載でiPhoneで公園に座って文章直して入稿するのは私だけだと言っていたが今は時代が変わったからそういう人も多いのではないか。

銀座8丁目の黒川紀章さんの奇抜なカプセルタワーでしばらく仕事をしていた。金屏風が1つと文机が1つだけの何もない部屋だった。そこをたたむときに荷物になるから中央区の粗大ゴミに私の机は出してしまった。あれはとっておけばよかったなと今にして残念がっている。

2017年10月13日 (金)

エルネストチェゲバラ没後半世紀の日に

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エルネストチェゲバラ没後半世紀の日に
革命家となったチェは1967年10月9日に殺されている。その前の年にチェはプラハに潜伏していた。これが1966年4月から7月までであった。Congoで革命を指導したがそれが難航したのと持病の喘息がもとで革命を断念したのだそうだ。それでプラハでしばらくの休息。

普通のプラハ市民と同じように旧市街の小さなアパートメントに住み週末にはそこから20キロ以上離れたカントリーに気晴らしに行ったようである。
リスはこれはもともとオーストリアハンガリー帝国の市民の普通の過ごし方なのである。

チェは他のプラハ市民と同じように郊外で作られる素敵な赤ワインを飲んだことに違いない。亡くなる1年前にこの革命家の視神経にどのようにプラハがうつったのかは興味があるがその時の記述によれば彼はこれは社会主義国の理想ではなく失敗の例をそこに見ていたそうだ。当然のことであろう。

その数年前に革命家としてのチェは自分の名前を隠してお嬢さんに面会している。そこで食事をしたのだが娘はパパがいつも赤ワインを水で割っているのを覚えていたから口には出さなかったがこのおじさんはパパであるとわかったそうだ。
これはお嬢さんが後に回顧録に記載していることだ。人間のワインの飲み方
1つにしてもそこには個人が意識しない間に現れるのである。

2017年10月12日 (木)

Yasuhiro Ishimotoとブラ館猫クラブ


Yasuhiro Ishimotoとブラ館猫クラブである。写真は石元さんの桂離宮の写真集のトップに掲載されている。また若い頃の貴重な写真である。脇の電信柱にヌードのポスターが貼ってあって手前に猫がいる。

寓話的な素晴らしいポートレートである。クレジットがついていないのが残念である。

石元さん実 には東京の路上で何度かお目にかかっている。最初にお目にかかったのは丸ノ内線の西銀座の駅のホームであった。ブラックのライカを手に持って三脚を持っていらした。三脚を持ち歩くカメラ人類は初心者だと言う認識があるがこの場合は全くその逆ということになる。
その最初の出会いを含めて4回ほど東京で偶然にお目にかかっているのである。
2回目はご本人の写真展のエントランスで大型カメラの写真のテクニックについて40分ほど立ち話をした。本物の写真家は写真の芸術は語らないというのが本物である。

その次はお台場の東京テレポートがまだ建設中の一面の野原であったときに私は8x10の撮影で車で移動していた。ほこりっぽい道を走っていると遥か先にキャノンのイオスを二台持って三脚を持った紳士の姿が現れた。石元さんであった。慌てて車を止めてお乗りになりますか?とお聞きした。
石元さんの答え。
いやいい

これだけの会話であるから会話になっていない。車を発進させたらバックミラーの中に
石元さんの姿は豆粒になり消えてしまった。東京の原野である。

この写真で見ると石元さんのお使いのカメラは西ドイツLimfof Technicaである。それも1,950年代に作られたモデル3である。シカゴのニューバウハウス仕込みの写真家であるからカメラは35ミリがブローニー版か大型カメラを使い分けている。

この写真を見て石元さんこそが裏館猫クラブの元祖であるということを発見したのである。


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2017年10月11日 (水)

第二回長徳ブラパチ宿で皆さんが持参したカメラ達

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10月8日日明日は第二回ぶらりパチリワークショップでした。 2回目は赤羽岩渕に夜遊び大観音を礼拝してから赤羽の裏通りからお城の城壁に上り後はアップダウンで皆さんはぜいぜい言ってました。でもこんな場所が東京にあるとは思わなかったと大変好評でした。

私が十条仲原でいつも1人で仕事をしているベンチというのがあります。そこに皆さんのじさんのカメラを並べて記念撮影しました。ごちゃごちゃしてわかりにくいのですが以前常連さんで今九州にお住まいの盆さんと言う方が日本野鳥の会のジョークでカメラの種類を分析してくださいました。
それによると多分1票差だったと思いますがフィルム式カメラがデジタル式カメラを抑えて僅差で勝利しているのです。これってすごいですね。

だって銀座通り歩いていてデジタル式カメラ持ってる人がいますがフィルム式カメラを持ってる人なんてほとんど見かけない先からね。
たくさん並んだカメラの真ん中に置かれた肉の入ってるパッケージというのがありますがこれは私が私物で途中の免税店で買ったものです。ですからこれはホントはPhotoshopで消してしまった方が良いのですがあえて参加させてもらいました。

こうして並べてみるとやっぱり1番目立つのは画面の後ろのほうにある大きな国会議事堂みたいなカメラです。フォトクロームと言うもので当時はポラロイドとは違うシステムのインスタント写真だったそうです。大量に在庫ができてしまって20数年前には大手のカメラ屋さんでは山積みになって売っていました。それをちゃんと改造して普通の120フィルムが入るようにしたのだそうです。カメラに対する愛情が感じられますね。
デジタル式カメラだともうパーツががないと言うだけでそれでおしまいになってしまうからカメラに対する愛情がありませんね。

チラッと見ていいなと思うのは私が青春時代に使っていたそして今でも使っているレンジファインダーのフィルムカメラです。オリンパスワイドスーパーのブラックとかKowa SWのブラックなんかは今でも闘争心を起こさせる素晴らしいスナップシューターです。

2017年10月10日 (火)

24時間ウォッチを使ってみる

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神田明神の脇のギャラリーバウハウスに今年の11月から来年の2月半ばまでのロングランの私の個展の打ち合わせに行った。

打ち合わせと言うよりも、展示プリントの納品である。これは写真家にとっては1番ストレスの種である。要するに自分がどれだけ撮影で頑張ったかなどと言う事は全くギャラリスト側には問題にならなくてまさにプリントの結果を見るだけだからだ。

それでギャラリーバウハウスの小滝館長と勝負するために勝負用の腕時計を用意した。
といってもカメラ保管庫の角に挟まっていたやつである。スイスの安物であるが10年位前にベルリンのKant Strasse歩いている時に買ったものだ。

おそらくその数日前にルフトハンザでフランクフルトに着いた時に機内誌か何か見ていたのであろう。旅のemotion というのはこういう小さい物体が自分をHighにしてくれることもあるもんだ。男性というのはそういう情けない存在なのである。

それで小滝館長の反応は今まで何度かやった展覧会の中でプリントが1番良いと言うのである。これはカメラ雑誌の編集長に褒められるのはもちろん嬉しいけれどもカメラ雑誌がやっている仕事はオリジナルプリントの複数複製である。フォトギャラリーはオリジナルプリントで勝負しているのである。

それで嬉しかった。勝負用のウォッチが効いたのかもしれない。

24時間のウォッチは結構好きで使っているが1番長いこと使っているのはグリシンと言うモデルである。ベトナム戦争の頃にアメリカ軍のパイロットがこれをつけて飛行して北ベトナム軍にたくさん撃墜されたりしたのである。
24時間の文字盤と言うのは生活をアレンジするには便利である。言うまでもなく1日が24時間であってそれよりも多くもない少なくもないからだ。

ちょうど2000年の話だがかつての北ベトナムからホーチミンシティーまでボロボロのハイエースで2,000キロ以上移動すると言う計画があった。

沢木耕太郎さんのストーリーとは逆で私は国道1号線を南下したのである。
ハイエースのドライバーはもと北ベトナム軍の砲兵隊の少年兵だった。私はグリシンの24時間表示のウォッチをつけていた。それをドライバーさんに見せたら笑っている。
北ベトナムの兵士はどんな時計をつけていたのかと聞いたら彼は私を見下したようにこういったのである。兵士は時計なんか必要ない。上官の命令に従うだけさ。
なるほどなこれが北ベトナム軍の強さ解放戦線の強さなのかと思った。兵士に時計は不要なのである。

❤️🐦お知らせ

❤️お知らせ 田中長徳写真展 WIEN CT70 🐦
開催期日2017年11月22日から2018年2月17日まで @ギャラリーバウハウス。トークイベント2017年12月9日と2018年1月20日。Img_4682
http://www.gallery-bauhaus.com/171122_chotoku.html


❤️長徳カメラ塾🐦おかげさまでランキングトップ 写真/アート :1位 / 23031ブログ中
http://www.chotoku01.com

🐦ますます絶好調 第4回 長徳ブラパチ塾開催決定!
2017年12月10日(日) 13:00 - 16:00

😎中野 奥の細道😈

ますます好調の長徳ブラパチワークショップです。今回はわが青春の中野の奥の細道を探索します。
日大写真学科に入学したときに私は江古田駅から赤と白にぬり分けられた関東バスで中野のカメラ屋さんにオリンパスワイドを買いに行っていました。私の写真家のキャリアのスタートでした。
稲垣足穂は江戸川乱歩からお金を借りて中野駅前の三畳のアパートを借りたのは昭和23年でした。それは中野打越と言うところです。私の個人カメラ雑誌カメラジャーナルもこの界隈にありました。雑誌Monoマガジンもうここでした。今回ロケハンに行ったら駅でいきなり森山大道さんに遭遇しました。幸先は好好好。中野思い出のツアーのスタートです。忘年会もやります。
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2017年10月 9日 (月)

産業道路福田屋さんの続き

R0460035R0460036グラパチ塾ワークショップのロケハンでこの前

蒲田から産業道路に天気のいい午後に歩行したことを書いたけれどあの地味なそして昔風の氷屋さんの福田屋さんが

まだ忘れられないのでもう一度ここにカイテおく。

何しろ最初に小池さんにここに連れてきていただいたときには夏の盛りでいっぱいの氷水がおいしかった。その後二度と訪問しているのだがその2回とも空振りであった。そして今回お渡りになったわけである。

最もワークショップでは11月にこの方面に来るのでその時は氷はやっていないのは仕方がない。当初の予定とちょっと変わって蒲田の同時を徘徊するだけではなく羽田空港の国際線ターミナルに行ってみようということに思いついた。

仮に出かけたりカタール経由でカサブランカに行ったり夜遅く国際線ターミナルの展望デッキからきれいな風景をみることがたびたびある。しかし空港見学という意味で空港に行っていろいろ鑑賞してそのまま戻ってくるというのは小学校との実行実は正しい空港の観察の仕方などではないかと思いあたった。

11月のぶらぱっち塾ワークショップであるが空港の国際線デッキを見たあとに蒲田を再開して蒲田駅前のでパートの上にある観覧車に全員で乗ってみようかと考えている。

デパートの屋上の観覧車というのは当時は絶頂的なというか超で素敵な行動ヲ都会で獲得できる唯一の手段であった。

それで福田屋さんの話に戻るのであるがこの2人の男性が甘いもの楽しんでいるというのは酒飲みのその先にあるかなり高いレベルの人たちなのではないかと思う。今度来たときはお雑煮とか磯部巻きなどがあ注文してみたいものだ。

2017年10月 8日 (日)

新宿区余丁町東児童公園

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新宿区余丁町というのは戦前のイメージがそこにうずくまっているような街並みである。 永井荷風は生まれは小石川安藤坂であるが父親についてここ余丁町で青年期を過ごしていた。 余丁町は道に迷うえる可能性が高いから私は大好きである。いつだったか歩行しているときに余丁町で眼前にいきなり真っ赤なアパートメントが出現したときには驚いた。 突然なし神経の異常だと思って焦ったのである。その名前を余丁町ハイツというのである。その並びにあるのがこの余丁町東児童公園である。小高い丘の上は出世稲荷の社がありその 周りが児童公園になっている。 そこのベンチに腰かけて東京の秋の午後のきれいな空と流れる雲を見ていた。 コンビニで買ってきたサンドイッチとビールを飲んでゆっくりした。こんな気分は久しぶりである。 大昔からこの公園に来ているのだがこんなにきれいな東京の秋は初めてである。 当時青年であった断腸亭は余丁町から遊びに出かけるのにどのような交通手段をとったのであろうかと考えた。 地下鉄の大江戸線はないしまず人力車か円タクか青バスと言うところであろう。夏目漱石の邸宅にしても非常に不便なところで浅草に芝居見物に行く時は早朝から提灯をともして神田川から船を仕立てて大河に出たそうである。

2017年10月 7日 (土)

蒲田産業道路の誉商店

R0460039大田区の環状8号線と産業道路のコウサするポイントから産業道路を北に延々と歩行する。私は地元の人間ではないからどこらへんに何があるのかがよくわからない。それは生まれてからずっとここで暮らした人々といきなりここに来た私のような人間とではその知識の蓄積がまるきり違うからである。

飛行家サンテグジュペリが南フランスからカイロに夜間飛行したときはこれは完全な目で見て地形を判断する空を飛ぶ方法であった。 私の産業道路の方法はそれに最も近いわけだ。それでとりあえず元川だったところが公園になっていてそれはそのままちょっと盛り上がった橋のような地形なのであるがその脇にあるのがこのほまれ商店なのである。
赤い看板が目印だから小さい商店なのだけれどもアイキャッチャーとしては非常にわかりやすい。友人の飛行士の野々宮ボウが小型飛行機でで上空を飛んでいって佐野厄除け大師だと思ったら別のお寺であって後でミスったことがあるそうだがやはり目で確認しながら空を飛ぶというのは難しいものである。
この前のロケハンでは誉商店の先の神社の脇を右に入ったところの氷屋さんで一休みしてそのままこの誉ポイントまで戻った。そしてもっとかわであった公園に降りてそこから京浜急行の梅屋敷駅ヲめざしたのである。 ところがわたしはみちをロストしたしたのである。トイウノモいつもは梅屋敷駅から歩いてこの本川だった公園をちょっと辿ってから誉商店ににデテいたのである。 逆ルートになってしまうとそのもとかわだった公園をどれだけ戻れば良いのか分からなかった。それで大いに道に迷ってその日の最後の目的地であった設置位置が高くて商品を買うことの出来ない飲み物の自動販売機には行くことができなかったのである。 まずサンテグジュペリ風に言うならばリビアの砂漠に不時着したということになるであろう。京浜急行の梅屋敷駅をタドッテいたら出てしまったのがもう一つミナミの新しい京浜急行蒲田駅であったからだ。こういうのもやはりインシデントというのであろうか。

2017年10月 6日 (金)

新宿区住吉公園

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四谷三丁目の我楽多屋さんに行く前あるいは行ったと2私が必ず立ち寄るのここに
住吉公園である。 が
まずエントランスのプリミティブな公演名を刻んだプ レートが非常に気に入っている。設置されているベンチはそれほど多くないかベンチの争奪戦をやることになる。だからここはその時間はなるべくはずしていうことにしている。家で食べたパンの耳を封筒に入れて乾かしたのをいつも持ち歩いているのでここのスズメにもあげることにしている。
大昔に偽ライカ同名参加メンバーの1番体重ががありそうな紳士と2番目に体重がありそうな私は思想の両側に乗ってみた。そうすると物理の原理で1番体重のある紳士のほうに思想が下がるのである。そんな単純なことが面白くてしょうがないのだ。
この住吉区公園コウエンから崖の上をそのまま余丁町のほうに行く狭い道がある。道の右側は谷底である。そこを歩いていると私はいつもリスボンの中央駅の裏手の崖の上の細い道を歩いているような錯覚に陥る。
世界中のあちこちに似たような印象を持つみちというのは必ず2つはあるものだといつも納得しながらこの界隈は歩いているしあるいはリスボンのその道を歩いているときは新宿の住吉町のそばの道を思い出したりするのだ。

2017年10月 5日 (木)

タカハシさんのマジックフィンガー

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日本のギャラリーイメージを創設した石原エツロウさんが30数年間保管してくれていた私の1,970年代に撮影のヨーロッパパノラマシリーズである。
ギャラリー冬青の高橋さんが出版を引き受けてくださることになった。まことにありがたい次第である。
それで数ヶ月ぶりに中野のギャラリーにお邪魔した。
凸版印刷の  平2 というのは伝説の印刷ファクトリーである。そこのスペシャリストのエンジニアさんと高橋さんはタグマッチをくんで長年にわたって優秀な写真集を制作している。いってみればドイツはゲッチンゲンのあの有名な出版社と並ぶクラスなのである。
写真集のイメージは全て高橋さんにお任せした。というのも私は分業主義であるから印刷の工程に口を出したりしないことが結果としていいものを生むということを経験上知っているからだ。
今回の出版に関しては東京にある有名なもう一つの高橋さんが親しくしているギャラリーに関連するコレクターさんも私のヴィンテージプリントに興味を持ってくださっているそうだ。だから結果として写真集がどこから出版されるかはまだ最終的には未定である。
私の1番嬉しいのはいずれにせよ高橋さんがこの30数年間石原悦郎さんが保存してくれていた私の初期の仕事が 3次元の立体物になるということなのである。
それで打ち合わせの時に手袋をつけた高橋さんのマジックフィンガーを拝見していって大げさでも何でもなく私自身が魔法にかけられているような気分であった。

2017年10月 4日 (水)

1949年製造のSonnar

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手元の細かいものを見るために使っているルーペはキエフについている標準レンズである。それでよく手に取ってみたらキエフの1,949年生のカメラについているレンズだった。
1949年製造のSonnarである。モスクワ近郊の工業都市で作られたと言う刻印があるが実際にはドイツのJenaで作られたものと思われる。

西ドイツ製のコンタックスが戦後すぐできた頃まだレンズを作る能力がなかったので東独からレンズだけ送って製品にしていたと言うのは今から見れば何か人道主義的なオペレーションと言う感じがして好きだ。

このレンズももう長いこと使っているのでフィルター枠等はガチャガチャに疲れている。しかしレンズは非常に綺麗でしっかりしている。

戦前のコンタックスの本などを見ているとそこに掲載されている作例はほとんどが50ミリの標準レンズで撮影されている。それもこのレンズつまり明るさがf2のレンズが多い。

当時のアマチュア写真家はまずカメラを買った時に付いている50ミリレンズそしてポートレート用そして風景をと言う共用で135ミリのレンズを手に入れるのが普通のパタンであった。35ミリレンズ等は報道写真家よであった。85ミリレンズはポートレート写真家対応と言うので値段も非常に高かった。

だからコンタックスに関して言えば50ミリレンズ1本でこの世界はとらえることができる。ノルマンディー上陸作戦のロバートがだってあの決死的な撮影は標準レンズだけで行ったのである。

2017年10月 3日 (火)

コクヨ事務用品

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10月8日の日曜日の午後1時から第二回ブラパチワークショップである。今回は赤羽岩渕から十条仲原に抜けるルートだ。知られざる東京。空白の5マイルと言う感じだ。

日本路地裏学会をやっていた頃にはMomoki会長とこの辺もよく歩行した。Momokiは芸大の美術の部であるからロゴタイプに興味があってパーマ屋さんの看板等の通常のロゴと違うものに興味を示していた。つまりそれらは看板屋さんのユニークな頭脳からクリエイトされたものなのである。

もう一つの町歩きの面白さというのはこのコクヨの看板もそうであるがクラッシックな日本をそこに堪能する美学と言うものもある。小学校低学年の時にカタカナの最初に読めたのはこのカタカナ文字であった。その当時はこの商標は右から書かれていたので よくこ だと思っていた。つまり小学生の低学年の私の頭脳ではこれは 良い子 の語尾変化形だと勝手に思い込んでいたのである。

この看板もそうだが制作されて年月が経ってくると太陽にさらされて色がさめてくる。
仏教美術の代表と言われる阿修羅像である。どこかで出来上がった直後のレプリカを見たことがある。あまりにもその色彩がけばけばしいから私は好きにはなれなかった。

こういう看板も同じことであって古色が付いているというところが良いのだ。
骨董の目利きの青山二郎のように古い茶碗を煮たり焼いたりして古い感じを出すと言うのは我々がブラックライカをヤスリで磨くのと似たようなまず子供の遊びである。

古い看板と言うのはこのように年月が経って自然に色の変わったものが良いとするのが当然である。

第二回ブラパチワークショップは募集残りわずかになりました。ぜひご参加のほど。

2017年10月 2日 (月)

沢木耕太郎著。キャパへの追走。文春文庫

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沢木耕太郎著。キャパへの追走。文春文庫である。沢木さんからこの本の解説を頼まれたのである。それだけでも大変光栄なことだ。
面白いことがあった。私の沢木さんの本の解説に対してさらに沢木さんがその解説の解説を書いてくれたのだ。

担当編集者さんのウィットでその部分だけは私にゲラで示されなかったので逆に楽しみになった。その文庫本が送られてきて1番最初に見たのは沢木さんの私の解説に対する解説である。大笑いをした゛
老人写真家をこんなにキャパと同等に扱ってくださったのを光栄に思った。

担当編集者さんが要するにアメリカに滞在中の沢木さんに私が沢木さんに最初にお目にかかったのが私はホーチミンシティーと言っているが沢木さんは対談などでハノイと言っている。そのどちらが正しいのかと言う問い合わせなのである。

もう一つ面白いことがあってそのことに関して沢木さんが解説をしてくださったのだ。沢木さんクラスの大作家に海外で初めてお目にかかると言う事自身が大変光栄なことでその作品の文庫の解説を書かせてもらったことすら天に昇る気持ちだってあったのに、さらに沢木さんはその私の解説に解説を加えてくれたのだ。

私が新潮社の 屋根裏プラハ を出した時もそうで新潮社の出している新刊発行のパンフレットがある。そこで沢木さんは私の屋根裏プラハを紹介して下さった。ところがこれがまた事情が込み入っていて沢木さんがおっしゃるには私の本の評論は規定の2ページでは足りないから3ページほしいと編集長にリクエストしたそうなのである。普通の作家ではこういう事は許されないが沢木さんクラスの大作家になるとそれが可能になると言うのもすごいと思った

あまり沢木さんを追走しているとご本人のご迷惑になるからもう沢木さんの追跡はしないようにしようと言うので私は解説を結んでいる。
しかし最後の段階でやはり沢木さんは追跡すべき人間であるということにはっと気がついたので最後の論旨をもう一回書き直した。
私はハーフセンチュリー沢木さんの追跡者である。

2017年10月 1日 (日)

戦前のライカカメラに具象工房のハンドグリップをつける

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どこかの会社が10年ほど前にこのようなハンドグリップを作った。プラスティック製なのだけれども手触りは非常に良い。ライカビットMPの代わりにつけると非常に使いやすい。もともとライカビットはフイルム巻き上げなどには使わない。
カメラの声を高くして見栄を張るためのものである。

そういうかなりよじれた欲望の達成のためにはこの具象工房のハンドグリップと言うのは最適である。

その由来を私は今まで知らなかったが先日日本カメラの佐々木編集長にお目にかかってお話を聞いたらなんとこの付属品は日本橋の不二越カメラだけで販売していたそうである。いってみれば選び抜かれたライカファンのための特別限定品と言うことになる。

このグリップはライカカメラエム型とダイカストになってからのバルナックタイプの2つである。
でもそれ以前の板金加工のこのようなクラシックな戦前のカメラにつけても別におかしくはない。 別にこのハンドグリップをつけても写真が上手くなるわけではない。しかし手に触れる面積は広くなるのでハンドリングはしやすい。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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