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2017年9月30日 (土)

産業道路の氷屋さん

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5年位前のことだと思うがこの街に生まれ育った小池さんに案内してもらって京浜急行の梅屋敷の駅から産業道路そしてその奥のほうを歩きまわった。

産業道路の誉商店の橋を渡ってしばらく北に行くと古い神社がある。

その先を120度ほど東に折れてしばらく行った右側にあるのが福田屋さんである。

小池さんの説明によるとそこは主に氷屋さんであってかつてはこの地域一帯は巨大なノリ干場があったそうだ。そーゆー労働者の皆さんがやはり涼しさを求めて氷屋さんに集まってくると言うわけである。

その後2回ほどこのお店の前を通ったのだけれど二度とも季節はずれのせいか臨時休業のせいかそれは忘れたがお店は閉まっていた。今回は秋のお彼岸も過ぎたのに非常に暑い日だったからこれはうまくいくと福田さんはあいているのではないかと思ったら案お店は開いてラッキーだった。

実に不思議に思ったのはその氷屋さんの屋号が福田屋と言う点にある。
私が生まれ育った文京区音羽の表通りにあった小さなお菓子屋も同じ屋号であった。

そこで提供される氷あずきは大昔のグラスサイズなのもよかった。先客のおじさんが2人いてこの画像に出てくるその人であるがこの2人は甘いもの食いでなかなか豪傑である。
まず朝からお汁粉を食べたかったと言っていろいろ頼みその後さらにいろいろ頼んでくずもちを追加したりしている。

おっさん2人が甘いもののお店にいるというのはなかなか粋な風情であってそのレベルは立ち飲み屋などよりはるかに高い。それに吉田健一が誰か書いていたが甘いものを好む男性は同時に酒豪であったりもする。

2017年9月28日 (木)

産業道路

カメラ友達の小池さんが以前この界隈に住んでいた時案内してもらったことがある。

京急線の梅屋敷空長い商店街を抜けて川であった公園をちょっと行ってそこから上に上るとそこが産業道路なのである。

それ以前の静かな住宅地からいきなり産業道路に出ると驚くばかりのゴーオンと振動である。交通量も非常に多い。まさに日本の産業を支えているメイン道路と言う感じである。

産業道路の気になるのは大型のタンクローリーである。私はタンクローリーが好きなのか思わず振り返ってしまう。そして視線でタンクローリーが視野の端に消えるまでずっと眺めている。

11月のブラ館ワークショップを大田区蒲田に決めたのでロケハンに行った。

産業道路で頻繁に通り過ぎるタンクローリーを見ていて何が魅力なのかなと考えてよ思い当たった。

タンクローリーのお尻の方がちょっと下に下がっていることこれが魅力なのである。そこには大都会を動かす動力のダイナミズムみたいなものを私は感じている。R0460005


2017年9月27日 (水)

ウィーン平和橋

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ウィーンに住んでいた時最寄りの駅はこの平和橋であった。距離からしたらそんな大した事は無いのだけれども日常的に使っている最寄りの駅だから慣れてくると非常に長く感じる。外国に行く時なども当時はキャリーバックなどはなかったから時代遅れのトランクを下げて歩いた。そうするとこの徒歩5分位の距離なのだが長く感じるのである。

でもドナウ運河の中でここは1番風光明媚な場所と言ってよかった。オーストリアの有名な芸術家オスカーココシュカは1,947年頃にドナウカナルの風景をオイルペインティングに描いている。

それは私のアパートメントのある方向からの風景であってポプラの木がずらっと並んでその手前にドナウ運河がゆったりと流れているって言うなかなか素敵な作品である。

ここに住み始めた1973年と言えば彼がその作品を制作してから25年は経過しているのである。だからポプラの木の高さがちょっと高くなっているように感じたのは私の錯覚だろうか。

Otto Wagnerが19世紀終わりにwinの街を大改造した。当時のwinの街を1周する環状線電車も彼の設計である。日本だと山手線はそれぞれのステーションが全部バラバラであるがさすが都市計画の父はやることが統一されている。

このショットは1,973年頃に撮影されたものだ。それで昨年2016年の暮れに行ってみたら修復はされているが駅の建物そのものは全く変わっていないのが嬉しかった。

赤いクラシックな電車は私の大好きなメランコリーオブジェであったがそれは今では銀色のモダンなメトロに変えられている。もっともメトロが走りだしたのもずいぶん昔のことで私がwinに滞在中のことだ。確か1979年だったと思うがメトロ開通の初日は通行料が無料であった。それで面白がって終点から終点に乗ったりしたのも懐かしい。

2017年9月26日 (火)

Gegula Super Outfit

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レンズシャッター式のレンズ間が可能なカメラが好きでたくさん持っている。1,950年代後半に交換レンズが非常に高価であった時代には結構市場で勢力となったものだ。

このカメラはしてシュツットガルトからさらに西に行ったフランスのストラスブールの国境の近くでつくられたカメラである。その会社名はキングと言うのである。

しばらく前取材でこのあたりを専門に歩きまわったことがある。Donau Essingenと言う小さな町がドナウ川の源流であると言うことになっているが実際にはそこから数キロ上流に行ったところに草原があってそこから草の間からきれいな泉が湧き出していたそれが本当のドナウの源なのである。

フランスが近いなと言う感じよりもここら辺は戦争でフランスになったりドイツになったりしていた地域である。

このカメラはレアなカメラと言うわけではないが1,950年代に正式に日本に輸入された事はなかった。当時の西ドイツマルクは非常に高かったから代理店の商売にならなかったのであろう。
キングの会社は自社のレンズを持っていないからそれはOEMでレンズ専門メーカーに発注していた。スイスのアルパもそうだがこれは普通の状況であった。

このカメラのデザインを見て非常に派手な縦型のドレッドが目についた。以前似たようなカメラを使っていたことがあるなぁと思ってよく考えてみたら1947年にベル&ハウエルの作った当時700ドルもした超高級スプリングモータードライブ式カメラフォトンとデザインが似ているのである。

高級カメラではないにもかかわらず仕上げが非常に良いと言うのがこれはカメラを手にしたときに満足と言うよりもむしろ不気味な感じがする。それでこのカメラを使いたくなる。

カメラ本体とレンズ3本のアウトフィットを使ってみたら意外と良いのでもう1台スペアボディがないと戦場では困るので探していたらeBayでギリシャのアテネにカメラ本体だけ売っていた。

それを注文したらあっという間に届いてパーセルにはギリシャの偉人の切手がたくさん貼ってあった。こういうのはいいですね。

しかもギリシャのポストは非常に速い。ドイツが1番遅くて4週間ぐらいかかったりする。しかも郵便料金はギリシャの2倍なのである。

アテネオリンピックの1年ほど前にギリシャに取材に行ったことがある。大型カメラでパルテノン神殿とかゼウス神殿などをとっていた。1年前と言うのにオリンピックのポスターも何もないのでやはり古代オリンピックそして近代オリンピックのギリシャは偉いなと思った日本のような馬鹿なおもてなしなどがないのがいかにも本格的であると思った。日本人から出国するときの税金を取る言う馬鹿なこともない

アテネの国会議事堂のほとんど真向かいに中古カメラ店があるのである。まぁ日本でも赤坂見附に中古カメラ店があるようなものだがそれは不思議ではない。面白いのはそこはソ連製カメラを結構持っているので撮影の時ほぼ毎日遊びに行って油を売っていた。そうすると隣から店の主人がコーヒーを運んでくれるのである。

カメラ付きの常連さんも集まってそこで話題になったのはギリシャ製の35ミリカメラの話だった。つまりアテネライカである。話を聞いてみるとそれを実際に見た事のある人がいなくて噂なのである。でも結構確実な噂で35ミリのレンズシャッター式のシンプルなカメラであったそうだ。名前は聞いてメモしたが忘れた。アゴラとかアガペーとか言ったのではなかろうか?

2017年9月25日 (月)

ハンガリー製のレンズをライカカメラにつける

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ハンガリーの首都ブダペストはロバートキャパの故郷である。つまり写真がまだ浪漫ティックな時代であった頃の中心都市である。

オーストリアハンガリー帝国時代にはwinは中心でハンガリーは農産物を供給する地域と言うようにみなされていた。一方プラハはその周辺が工業生産物を生産する時期と言う認識があった。

オーストリアウィーンに住んだ私ですら帝国が崩壊してから何十年も経っているのにハンガリー方向はワインとかサラミの出身地であると言う認識があった。

ハンガリーはブダペストの数少ない工場で生産されたカメラに世界最初のクリックリターンのミラーを採用した一眼レフがあった。Duflexと言うのである。

winのライカショップで手に入れたのだが調子が悪いので修理をしてもらった。当時お付き合いのあったライカカメラの社長さんが日本にUr Leicaを持ってくるときにお願いして一緒に持って来ていただいた。知り合いならばライカの社長でも使えと言う酷いマナーを無視した行動である。
社長さんはちゃんとそのハンガリー製の一眼レフの修理の上がったのを持ってきてくれた。ありがたいことである。一緒のカバンには日本で展示する予定のうるライカも入っていたらしい。

ハンガリー製のレンズと言うのはレア物であるなどと言うよりももっとレベルが上で全く見かけないものである。 Momettaと言う名前のレンジファインダカメラはレンズは固定式であるがそれのセカンドモデルと言うのになってからレンズ交換ができるようになった。

それが面白いことにプラクチカマウントなのである。当時の東ヨーロッパのことを考えればこれが1番一般的な交換レンズのマウントと言うことであったのであろう。
そのレンズがなかなか性能が良いのである。

これをアダプターを介してライカにつけている。もちろん距離計には連動しないがもともと目測でとっているのであるからそんなことは問題にはならない。

2017年9月24日 (日)

5人のビートルズ

11月の半ばからギャラリーバウハウスで個展を開催する。昨年の暮れに撮影したwinのモノクロームである。その他1973年に撮影したパノラマの作品も展示するする予定。

1973年当時にwinのアパートメントの窓から撮影したショットがこれである。この先にはアウガルテンと言う巨大な公園がある。私は自分の庭だと思って散歩していた。
これがヨーロッパの公共的な施設に対する一般の市民の考え方である。

オーストリア最後から2番目の皇帝、実際には最後の皇帝と言われているがカイザーフランツヨーゼフはこの公園を散歩するのが趣味であった。皇帝が通過するのを見てwinの市民はお辞儀をしたのであるが皇帝はそれが面白くない。それで命令を出して自分が歩いている時にお辞儀をするには及ばないと言うのである。

目の前の広場はいくつかの路面電車の交差する割とwinとしても交通が頻繁なところであった。手前に止まっている車を見ると5台のフォルクスワーゲンが見える。
すなわち5人のビートルズである。

当時のwinはまだ戦後の敗戦した途上国であったから心が豊かな貧しいアーティストはフォルクスワーゲンと決まっていた。私の周囲の友人知人もみんなフォルクスワーゲンだった。
フォルクスワーゲンを何ヶ月洗っていないかを競うようなそういう番からな空気が漂っていた。

1番汚れが目立たないのはこれは現在の車ではちょっとない色だがベージュ色と土の色を混ぜたような変な色合いのフォルクスワーゲンがあった。これは汚れが目立たない。最初から汚れたように見えるからである。

winの親しい友人の写真家と一緒に一夏イタリアからスイス方面をその汚いフォルクスワーゲンで度した。運転は私と彼が交代。

全部の走行距離は3,000キロに及ばない位の旅行であったが帰りの高速道路でどうも異常に暑いなと思っていた。後で確かめてみたら旅行の全工程でヒーターがオンになっていたのである。これはお笑いである。Img_4581


2017年9月23日 (土)

Argus C3を忘れない

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1,960年代に一世を風靡した写真集にコンテンポラリーフォトグラファーズと言うのがあった。ハードカバーで四角い薄い本で銀座のJena書店に争って我々学生は買いに行ったものだ。

その数人の写真家の1人にDuaine Mikelsがいたのである。

遊び友達の須田一政さんなどと話題になったのがDuaine Mikelsはアーガスカメラを使っていると言うことであった。黒い真四角な弁当箱のような格好のカメラでちょっと見るとコンタックスに似ているが本体はベークライトなのである。

当時の日本はアメリカの軍人が制服で歩けるような国であった。それで銀座などでセーラー服を着たセーラーさんがこの黒い四角いカメラを頑丈な革ケースに入れて肩から斜めに下げているのがかっこよかった。

私の初任給が35,000の時このカメラは中古で10,000円したから大変な値段である。でも手に入れた。
Duaine Mikelsがすごいと思ったのは彼はこのカメラを友人から借りてまだ鉄のカーテンの彼方であった当時のソ連を旅しているのである。
アマチュアみたいなカメラアングルでピオネールの制服を着た少女とかグレコローマンのレスリングの選手を取ったりしているのだ。

当時のわれわれはライカカメラに35ミリのレンズをつけてスナップショットの美学とやらを追求したりしていたからわれわれはすでに極東の時代おくれの写真学生であると言うことが明らかになったのである。

だからこのカメラに出会って横位置で普通の風景を撮ると実はすごい写真が撮れると言うことを私は教えてもらったのだ。

1970年と言えばまだ若くて売り出し中の切れ者の松岡正剛さんがいた。彼が作ったoffと言う真面目な写真集にも私はアーガスカメラで撮った写真を掲載した。

だから私はアーガスを忘れない。

40歳の時にアメリカのミシガン州のChamber of Commerceから招待されてミシガンの人が一生かかって移動するだけの量をミシガンで旅した。
本当は永井荷風の卒業したカラマズーカレッジを取材に行ったのである。カレッジの偉い人から学籍簿を見せてもらったりして私は大満足であった。東洋人が珍しくきたと言うのでローカルペーパーに私のことが紹介されたがそれは極めて人間的でジャーナリストの田中は90度もあるのにプルオーバーをきていたとあった。

そのついでにアーガスを作っている街ミシガン州のアンアーバーを訪問した。行く直前まで私はそれは工業都市だと思って行ったのに行ったら大学がたくさんある学園都市などでちょっと意外だった。
私は先入観でユージンスミスが撮影したピッツバーグあたりを頭に入れていたのだ。

Duaine Mikels は他のシリーズではニコンFに28ミリををつけたのも使っていた。
当時私は広告代理店の1年生でクライアントは日本光学であったからニコンFも持っていた。それで少なくとも国際的な写真家と機材だけは同じレベルに達していたのである。

2017年9月22日 (金)

世界中の手がキャノンを磨いている

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ハーフミラーの反射鏡を使ったこのカメラはスチルカメラとしては世界最初だったのではなかろうか?

尊敬する写真家の東松照明さんがキャノンの広告でこのカメラを持って登場していた。1,960年代後半の話した。何か未来の写真家と言う感じがしてかっこいかった。

私がこのカメラを手にしたのはそれから40年後である。なかなか高価で手が出なかったのだ。

それは20年近く前。小岩駅の南口に中古カメラ屋さんがあってそこで3台ほど買った。メーターが動かなかったがもともとメーターは使わないから問題は無い。

Pelicleミラーだからミラーの往復運動はは無いはずであるがシャッターの音が大きいのでそれほどライカカメラのように静かに撮影できるわけではない。
それでも撮影の瞬間に一眼レフのようにファインダーがブラックアウトするのではないのが良い。

1,960年代後半にこのカメラ広告のカメラ雑誌に掲載されていた。

世界中の手がキャノンを磨いている
と言うのである。

これはいいコピーだと思った。
実際には当時のプロ機材はニコンエフしかなかった。キャノンがニコンに対抗できるようになったのはそのしばらく後F1が出てからである。

私は主にアダプターを使ってペンタックスのレンズを使用している。
付けているレンズは28ミリのVivitarのようなサードパーティー製の玉である。これが非常によく映るのだ。

このカメラはブラパチワークショップのオフィシャルカメラに制定した。

2017年9月21日 (木)

印刷の立ち会いについて

印刷所と言うのは印刷物をいつも目にしている割にはその実態が知れないものである。
小学生の頃に近くの凸版印刷小石川工場に社会見学に行ってびっくりした。人間の業と言うのはグーテンベルグ以来どんどん進化しているものだというのが小学生の私の印象であった。

写真集の印刷立ち会いと言うものがある。
印刷のエンジニアさんとその編集者さんは印刷のプロであるから脇に作者がいたりしたら逆にやりにくいと言うことだと思う。
私は昔からそのように考えているから印刷立ち会いはしないことにしている。

印刷の成果を見るとときにはTrue Lightと言う演色性の非常に高い蛍光灯で確認したりするのだが昔は書店の店頭は普通の白色の蛍光灯である。今ではLEDになってその色再現はだいぶ違うからいくらニュートラルなライトでチェックしても効果がないのではないかと思う。
もちろんこれは素人の考えである。

500ページの分厚いwin写真集を作ったときには志村坂下のずっと奥のほうの親子2人でやっている小さな印刷工場に行った。これも別に印刷の結果を私がチェックすると言うのではなくてそこに置いてある印刷機がみたかったのである。ハイデルベルグスピードマスターと言うやつだ。

我々の作る真面目な写真集などは部数が知れているから印刷機を回し始めた頃のやれ紙、つまり無駄にというかテストで印刷する紙がどんどん出てくるので貧乏性の私などはこれは写真集のコストに影響するのではないかと心配したりした。

1台分の印刷は1時間もかからないうちに終了したのでその他の折りを見るのはめんどくさいからスタッフと一緒に志村坂下のラーメン屋でラーメンを食ってそのまま帰ってきた。

その分厚い500ページの写真集はオーストリア大使館でやった写真展の時に最初の見本の100冊が届いたのである。

重い写真集なので1つの梱包が5冊であるがそれでも15キロ位あるのだ。大使館にトラックが横付けになってみんなでその梱包を運んだ。
肉体の労働がもたらす喜びと言うのはこんなものなのかと考えた。それでその写真集は写真展の間に皆さん買ってくださったのだが何しろ2.5キロも重さがあるので買ってもらうほうもちょっと恐縮した。

私が思うに印刷立ち会いと言うのは作者に後から文句を言わせないための方便なのではないかと思う。我々が広告の仕事などでクライアントさんに現場に立ち会っていただくのと同じことである。

でも以前は凸版印刷の写真集の立ち会い等にお邪魔したのでそこで私の著書を読んでいる印刷のスペシャリストの方とお友達になれたりしたからよかった。彼らがオフセットの原版を高倍率のルーペで覗いていると言うのにプロフェッショナルの本質を感じたのである。

そのことを絶賛したらしばらく経ってその印刷のスペシャリストの方が私に同じルーペをプレゼントしてくださったのはありがたかった。ちゃんとイニシャル私の名前が入っているやつである。でも私は印刷のスペシャリストではない単なる素人写真家だからそれを使いこなすことができなかった。
この専門家のルーペは高倍率すぎて日常生活には使えないのであった。Img_4564


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2017年9月20日 (水)

オリンパスワイドスーパーの露出計算ダイヤル

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1966年の春に大学1年の時であるが中野のカメラ屋で買ったオリンパスワイドが私のスタートであった。だからもう半世紀以上オリンパスワイドを使っている。

オリンパスワイドスーパーであるが、オーストリアウィーンに持参して友人のカメラマンに見せたのであった。彼が不思議に思ったのはカメラの裏側についている露出の計算表である。

要するに簡単な画像のシンボルを見てダイエットバリューを計算してそれをカメラに移すと言う単純なシステムであるがこれが意外と正しく得られるなのだ。

それはそれで良いのだがこの画面の上のほうにある日本人が万歳をしているシンボルがある。友人の外人の写真家はこれを見てなんだ日本軍が武装解除したところか、といった。

説明しておくとヨーロッパには運動会と言うものがない。だからオーストリーのwinなどでは運動会が珍しいので日本人学校の運動会は見物に来る地元民もいた。

中には日本の軍国主義の最も危険な訓練であると言うような意見を下す人もいた。これはなかなかうがった見方であって何しろアドルフヒトラーの出身はこの国なのである。

そーゆー独裁者の先進国から言われるとなかなか印象が強かった。

オリンパスワイドスーパーは8枚構成のあの頃ととしては、そして今も最高級のレンズが付いている。アサヒカメラのニューフェイス診断室で木村伊兵衛先生が絶賛したレンズである。木村先生は盆踊りの女の子が何か映していたな。

それと当時の報道写真家がよく利用していた。吉田茂首相の葬儀が東京カテドラルであったとき私も報道陣に潜り込んで撮影をしたのだが外国の通信社の腕章をつけた日本人のカメラマンはオリンパスワイドスーパーを使っていた。ストロボが500分の1秒でシンクロできるから確かに報道写真家にはライカカメラなどよりもこちらの方が使い勝手が良いわけである。

2017年9月19日 (火)

King Regura と言うカメラ

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第一回ぶらりパチリワークショップのスタート記念に何かカメラを買おうと思った。それでこのカメラを買った。

このカメラの生産地はシュツットガルトからずっと西に行ったあたりドイツフランス国境の手前にあった。その先の大きな街はストラスブールなのである。

まずそのデザインがすごい。
金属製のキャタピラーのようなデコレーションが付いている。
安物のトイカメラなどによくあるデザインあるが実際に手にしてその仕上げは非常に上質である。
わきにライカを並べてみたら仕上げは上なのである。アマチュアカメラのくせにこんな良い仕上げをしてハイクラスのカメラにいじめられるのではないか?

1,950年代後半のレンズシャッター式カメラの流行としてこのカメラもレンズ交換ができるようになっている。こういう会社は自分ではレンズを作らないからOEMで注文している。

Munchenの歴史あるメーカーであるSteinheilのレンズが使えるのでこれには驚いた。明るさが50ミリでf1-9と言うレンズなのであるが魂の数が非常に少ない。マイナーなカメラについているので探すのは非常に大変である。その名前をQuinonと言うのである。

35ミリの広角レンズと135ミリの望遠も付いている。この2つはIsco Goetingenのレンズである。この会社は映画館の上映用のアナモフィックレンズなどで有名である。シュナイダーのB級品と言うような位置づけをされていた。

これも非常に仕上げの良いレンズである。このカメラとレンズが3本あればもうライカもコンタックスもいらないと言う気分だ。

しかしカメラ本体が1台だけでは心もとない。eBayで調べていたら同じカメラの本体は1台売りに出ていた。その値段が35ドルなのである。

それも1台ゲットした。その売り手のアドレスを調べたらそれがギリシャのアテネなので非常に気にいった。ギリシャのアテネには中古カメラショップは非常に少ない。前回行った時に国会議事堂の向かいが中古カメラ店なのである。
毎日そこに行って油を売っていたがまさかその店ではあるまいな。

2017年9月18日 (月)

改造ライカカメラと偽物エルマーレンズ

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ライカエム6の時代だったと思うが当時ライカ人類がバカにしていたのはライカのポルトガル工場で作られたライカカメラであった。まだ原産地を重視すると言う考えがはびこっていたのである。
フランスワインのしゃぶり等はフランスの法律でその地域内で作られたものでないとしゃぶりと名乗ることができない。
でもカメラはOEMが普通の時代になってきたからもうそんな悠長なことは言っていられない。

このライカカメラは1型である。製造番号が50,000台なのである。それをライカの会社が改造して距離計のついたモデルにした。私が好きなのはこのように当時のクラシックならライカカメラはそのは製造番号だけが残っていて本体はダイカストであるのが好きなのだ。

大昔はこういう正式な改造ライターはコレクターは敬遠していたものであったが最近ではそのような純正の改造モデルを専門にコレクションするコレクターも登場した。面白いものである。

レンズのほうはソ連製のフェドについていたものだ。このフェドはモスクワのアルバート通りで買ったものだが金メッキがかかっているやつなのである。
それで写真ではちょっと見にくいであろうがこの偽物エルマーは金色なのである。

クオータリーのクラシックカメラ責任編集長やっていた時に私が書いた記事で本物のライカのエルマーレンズとこの偽物のエルマーレンズを同じ状況で撮影してさてどっちがどっちでしょうかとやったのであった。しかし性能が優れているからどちらも同じ位よく映るのである。

ライカの会社がOEMで狛江にあったシグマにエルマーの50ミリを製造依頼したときに若いファンの間でどよめきが起こった。
これはライカのレンズではありませんよねと言うのである。そんな馬鹿な事は無いライカがライカであると認めたらそれは世界のどこで作られてもライカレンズですと皆さんに申し上げてようやく納得してもらったけれど彼らの表情は半信半疑と言うところであった。

2017年9月17日 (日)

本物の偽物のライカ

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ライカカメラの高い価格であった大昔の時代にはソ連製のFedをベースにして偽物のライカを作ってそれでお客を騙して一儲けした連中がいたらしい。

ところが時代が変わってしまうと本物のライカカメラは安くなってしまって実用にするには非常にありがたい時代になった。それで当時はフェイクとかコピーとか言われていたソ連製のFedの方が初期モデルになるとびっくりするような高い市場価格なのである。

この本物の偽ライカは数年前にオークションで手に入れたものだ。詳しく観察してみるとこれはソ連製のフェドカメラのごく初期のモデルなのである。

つまり1932年にエルンストライツ社のライカD2出した頃にソ連は国家的任務でそれのコピーカメラを作ったのである。だから細かいとこはすべてライカカメラと同じだ。
一例を挙げると底蓋の固定する金具の太さである。初期のライカモデルはそのピンが細いのだがこのコピーライカもその通りである。

トップのカバーはライカの刻印のものに変えられているがベースはFedである。だから誠に残念なのはこのカメラのベースはフェドカメラのコレクターが探しているごく初期のフェドなのである。ラウンドトップと言われるやつだ。
皮肉なものだがこれは偽物ライカカメラに改造されないほうがよかったのだ。

オークションで手に入れた時この店ライカの売り手さんは次のような意味のことを言っていた。

このライカは本物ではないが将来ライカを使う君たちの良い練習台になると思う。
と言うのである。これには感心した。何か文部省の指導要領のような感じである。

教育的見地から偽物のライカカメラをを論じているのである。

私などはライカカメラの興味が進みすぎてしまってフェイクライカを使う方が本物のライカを使うよりもそこにライカ的なエッセンスを感じるようになってしまった。これはこれで問題なのかもしれない。

それで9月の半ばと言う天気の良い日のお昼過ぎに麻布十番の外人マーケットに買い物に行く時、駅を1つ前で降りて古河の周囲をこの偽物ライカで撮影した。

なかなか充実した偽物ライカの時間が流れていたわけである。

このカメラの魅力は私が持っている何十台かのライカもしくはフェイクライカの中で1番ファインダーの見え方がクリアなのである。逆ガリレオ式の標準のフレームを覗くと目が覚めるようなハイコントラストなのだ。

僕のカメラ達 と言う1,000ページの分厚い本の巻末で坂崎幸之助さんとカメラ談義をやったことを思い出した。坂崎さんはライカは外見は汚なくても良いがファインダーはきれいに見えないとダメだと言うのである。
私はあーそんなものなのかなとうかつに聞き逃していたがこれが坂崎さんの言う Finder の真実と言うやつなのかな。

2017年9月16日 (土)

間宮マガジン35は数秒でフィルム交換ができます

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20数年前の6月6日にカメラ仲間と一緒に仙台にカメラ探しに行った。その時に駅前の海産物を扱っている細い商店街に中古カメラ屋さんがあるのを教わった。帰りの新幹線では雨になった。それが梅雨の入りであったのだ。

今年から6月6日は写真家田原けいいちさんを思い出す日にもなったのである。

それから10数年が経過してこの間宮マガジン35にマガジンがいくつかついて取扱説明書とか本箱が全部付属した奴がオークションに出たので手に入れた。
差出人を見ると想像するに私が大昔行った海産物問屋の細い路地のお店であった。この店はそれを機会にもう閉店したようである。

1,950年代終わりに作られたこの日中にフィルムマガジンが交換できるカメラは当時としても私非常にユニークであった。ハッセルブラッドと同じアイデアなのである。

ビクターハッセルブラッドはアマチュア写真家であったが当時は高価であったカラーフィルムを有効に使うために1台のハッセルブラッドカメラでフイルムを撮影中に交換すると言う技を思いついたのである。

この間宮マガジンカメラの作りは非常によくできていて寸分の狂いもなく数秒で1つのマガジンからもう一つのマガジンをカメラに装着することができる。その利点はカメラの蓋を開けて中にマガジンを入れると言うシステムではないからだ。

Adox300等日中にフィルム交換できるカメラは結構あるが普通はまず裏蓋を開けて中にマガジンを入れるのだ。しかしこのカメラの場合はその操作が省略されているから単にマガジンをポンと交換するだけである。このシステムで非常に似ているのはプロ用の映画機材のエクレールとか亀フレックスが同じやり方である。

私は嬉しくなってカメラ本体を数台に増やしたりニューヨークに調査してスペアマガジンをいくつか揃えたりした。
でもそういう風に機材が揃うと後は取るだけと言う状態になってしまう。

最近フィルムが高くなったとは言え1,950年代ほどではないから結局撮影中にフィルム交換すると言うこともあまりない。

それにカメラは大きくて重いから結局1つのマガジンをカメラに付けてそのまま歩いていると言うような状況である。せっかく優秀な発明家が作ったのにこれではカメラに申し訳ないと言うものだ。

2017年9月15日 (金)

突撃隊長がくれた古い一眼レフ

数年前のことだと思うが偽ライカ愛好会の撮影と言うのは毎月世話役がいて東京のあちこちを場所を計画して撮影に行くのである。
それを毎月やっていたのだから大変な面白い企画だった。それで秋だったと思うがその日は会員メンバーの1人のアイデアで江戸川の流れを徘徊した。

古い友人の突撃隊長は別にそのクラブに参加していると言うわけではないがいきなりやってきて私にこの古い一眼レフを手渡したのである。何の理由でくれたのかは覚えてないがひょっとしたら数ヶ月遅れの誕生日プレゼントであったのかもしれない。

彼からもらったときにはすでにこのようにブラックテープが貼られていた。だからそのカメラが何であるのかは大して重要ではないがこのカメラを手渡された時に思い出したのはこれも古い友人のウィリアムクラインのことである。

銀座にプランタン百貨店ができた頃だから四半世紀以上経っているがクラインはそのこけら落としに写真展をやったのである。クラインは当時も超有名世界的写真家だったからNHKの朝の番組などにも登場していた。

銀座4丁目でクラインがまるで踊るような格好をしながら通行人をスナップしていた。その直前にクラインにあって彼が言うには自分が朝のモーニングショーに出るからぜひ見てくれ。
俺は寝てるよ時差ぼけだからと言うのである。

その時のクラインは古いライカを使っていた。
その後パーティーか何かで彼に会ったときに Chotoku、俺が1957年ににニコンに提供してもらったカメラだけどもうボロボロで使えないので新しいのを提供してくれるように頼んでみてくれないかと言われた。

早速その伝言を会社に伝えたのだが残念ながらその当時のトップの皆さんはロバートキャパは知っていても新人写真家のウィリアムクラインなどは知らなかったので残念ながらこ話は立ち消えになった。
それでクラインはライカカメラ社をスポンサーにして仕事を始めたのである。今にして思うと彼はライカR6を使い始めてそれを20数年間酷使して写真を撮っていた。

プラハの美術館でクラインのレトロスペクティブが開催された時も彼はライカの一眼レフを持っていた。28ミリのレンズをつけて前に前にと進むあの撮影方法なのであった。

私はクラインのアシスタントをその時務めたのだがこれは非常に勉強になった。ランチの時などにクラインが言うには俺はまだwinには1度も行ったことならない。
次の写真集のテーマはwinにするよと言ったので私は期待した。
でも残念ながらウィリアムクラインはwinを取る事はなかった。

私の尊敬する写真家はいつもレンジファインダで仕事をしていた。1957年来日した時はニコンのエス3を持っていたのである。だからウィリアムクラインはレンジファインダの写真家とばかり思っていたのだがちゃんと一眼レフでも写真を撮っていたのである。Img_4455


2017年9月14日 (木)

古いライカカメラは美しい

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ブラックペイントが完全に禿げているライカカメラである。これだけ地金が出ているのは珍しい。それで調整してあるならそのままフィルムを入れて使えるのである。

そこが素晴らしい。1,950年代後半のカメラであるから電気的なパーツと言うのは0である。現代のデジカメはその電気的なテクノロジーのわずかな差で勝とうとしているのはえらいと思う。しかしながら1年も時間が経てばデジタル式カメラはすぐ陳腐化してしまうと言うところで何か無常観を感じるのである。

このライカカメラをよく見るとネックストラップアイレットが犬の耳では無いから好きな人がというかプロ写真家は会社に頼んで改造してもらったのかもしれない。

でもそれは大した問題ではない。ライカカメラの存在としてここにこのような禿げた汚いカメラがあるというのが貴重なのである。

ライカビットMPに関しては何十年来描き続けてきたからもうすでに書く事は無い。スタイルとしては非常にダイナミックで美しいのであるが実際には使い物にはならないのである。そこが大事なところでコレクターさんが大金を積み上げるのである。

この種類のラピッドワインダーで1番功績があるのはカナダ人のエイブラハム村さんであろう。先日惜しくも昇天なさったが彼はもともとスエーデンの通信社のスタッフカメラマンで当時のスエーデンではライカMPが標準カメラでそれを愛用しているうちに巻き上げ装置が壊れたのである。それで彼は努力して自分で巻き上げ装置を作った。これがエイブラハムそんラピッドワインダーだ。

最初のプロトタイプはマグナムの写真家に貸し出されてどこかの砂漠に数ヶ月旅をした。そのラピッドワインダーは戻ってきて調整したら本体の中からスプーンいっぱい分の砂漠の砂が出てきたそうだ。

私はそのプロトタイプをプレゼントされた。というのはこの製品が日本に輸入されたときちょっとプロモーションのお手伝いをしたのである。最初の週に200本以上売れたと言うのは今でも神話になっている。

2017年9月13日 (水)

青ざめたポスターを見る

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雑司が谷2丁目にあるクラシックな市場のエントランスでこの間ワークショップの参加メンバーの永田さんが撮ってくれたものだ。

天然色写真ではないので写真の説明になるがこのポスターはイエローが褪せて黄色のインクが抜けているから青っぽくなっているのだ。

1,960年代の古い小説で さらばモスクワ愚連隊 とという中だったと思うが 青ざめた馬を見よ と言う一説があった記憶がある。

青ざめたポスターと言うのは私の生活した1,970年代の東ヨーロッパの基本的な風景なのだ。

ソビエトのソユーズ計画で東ドイツの人で初めて宇宙飛行士となった人がいてその人は国民的英雄であった。東ベルリンのそこら中にその飛行士のポスターが貼られていたが数年経っているのでどれも青ざめているのである。それが私の東ヨーロッパの記憶の基本的なものになっている。

その青ざめたポスターを東ベルリンで撮影して歩いたのだがそーゆー微妙な色彩と言うのは東独のカラーフィルムでは再現できないのである。

その時は結局色彩の再現性が豊かなコダックのコダクロームを使った。

色の褪せた印刷物に私が大都会のノスタルジーを感じると言うのは20世紀的な視神経の記憶力と言うべきである。


2017年9月12日 (火)

コンタックスTで草の影を取る

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コンタックスTで撮影をしている。このモデルはスーパーNettelと同じで蛇腹式カメラである。だからここを撮影してやろうと思う時に初めてレンズを組み立てるわけだ。この意思がはっきりしているというのが非常に気持ちが良い。

東京をテーマに撮影を開始したのでまず自分が住んでいる所の周辺と言うことで佃島のノースポイントまで行ってそこらを1周して戻ってくる。

すれ違うカメラ人類さんは全員デジタル一眼レフの高いやつを持っている。それでそこら辺に止まっているスズメ鳩を連射するのである。何か凄いぜいたくなように見えるが非常に虚しい行為のようにも見える。

カメラも進むべきところにまで進んでしまったのでそれを見ているのは非常に面白い。

写真を撮らない連中は新型のデジタルカメラの事しか話さない。

写真に疲れた連中はクラシックカメラの事しか話さない。

そういうことを思いつきでFacebookに書いたら瞬く間に300近い良いねが作られた。それで皆さんデジタル政党とクラシック組合に分かれて論争をしているのを脇で見ていると面白い。

デジタル式カメラもクラッシックなフィルム式カメラも私にとってみるとこれは車の車輪の両方のように思える。だからどちらも重要なのである。

しかし神経を研ぎ澄ましてと言うことからするとやはりクラシックなフィルム式カメラではないかと思う。撮影枚数が限られているからセレクションをするのが楽である。

この日本製のコンタックスTにはちょっと問題もある。数本撮影した中で1枚か2枚シャッターがから落ちするのだ。

カメラ好きの友人で同じカメラを使っていてサービスに出したらこれは治らないと言われたそうである。すごい欠陥だと思うが逆に今にして思うとこれは結構楽しいことではないかと思う。言い換えればカメラのロシアンルーレットと言うわけだ。

カメラが写真評論家そのものであってシャッターを押すとあーそんな写真はつまらないから俺うさないよと言っているようなものだ。

この撮影の時公園の草むらを取ろうと思ったら連続して2回カメラが撮影を拒否したのである。
カメラの10月革命である。
どうせろくな写真ではなかったからコンタックスTに感謝している。

2017年9月11日 (月)

9月10日はブラ館記念日

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🐦ブラパチ写真宣言 ❤️

今日から新段階が始まったと言うのは ゲバラ日記 のイントロダクションのワンセンテンスである。

今日からブラパチカメラ塾でも新段階が始まったのである。
新学期である。

私の少年時代のテリトリーを検証する意味で護国寺の山の上に昇って参加者の皆さんのカメラを拝借して並べてみたのがこれである。
拡大するとそれぞれの細かいカメラの顔がよくわかるので楽しんでいただきたい。

護国寺の裏手から雑司が谷を斜めに突っ切って
雑司が谷宣教師館の前でちょっと話をしてから雑司が谷2丁目の商店街を行ったり来たりした。

雑司が谷2丁目商店街のファサードのブルーにぬられた壁と言うのはヒューストンのジョンソンスペースセンターで見た宇宙空間への憧れだった。

コバルトブルーの日本の9月の空とどちらが青いかを比較するのに絶好のコンディションだった。

参加者の皆さんにFacebookに1人1点の写真をアップしてもらう。
それを私が評価するというやり方である。

アルフレッドスティグリッツが19世紀の終わりにやったのと同じである。
フォトセせッション写真分離派と言うやつだ。
フォトセッションではありません。

こういうワークショップを来月も再来月も毎月第二日曜日の午後にしようと言う遠大な計画である。
どこまでいけるかどこまで皆さんがついてこれるかそれが楽しみである。

くうか食われるかの写真バトルと言い換えても良い。

私は写真教育不可能論者であるから
参加者に写真を教えようなんて思わない
アマチュア写真家の指導だって?
冗談じゃない。
それはあまりにも僭越な考えである。

この東京の不思議な時間と空間を参加の同志と駆け抜けてみたいと言うのが
私の目論見である。

2017年9月 8日 (金)

レンズ交換式のカメラの仕上げが異常に良いこと

レンズ交換式のカメラの仕上げが異常に良いことImg_4255
Airesというメーカーは1,950年代に活躍した中級クラスのカメラの生産者であった。本社工場というのが確か新大久保とかにあったと思うがその工場の全容をイラストにした広告を使っていた。これがなかなか立派なものであってそのような工場の紹介の図と言うのは当時の中級クラスのメーカーはちゃんと雑誌などに広告を出していて大手メーカーと同じだぞと言うのを声高にステイトメントしていたのであった。

このメーカーはレンズシャッター式のシリーズでライカカメラM3にそっくりなものも出している。これがまた私が好きなカメラだがうつりが異常に良いのだ。ライカ等はいりません。

当時のカメラ業界の流行としてはレンズシャッター式のカメラにレンズ交換式のレンズでその上のクラスと同等になると言う下克上なムーブメントがあった。
ただし残念なのはレンズシャッターなのでレンズの設計に限界があるのだ。だからこのレンズもそうだけれども100ミリのef 3.5の交換レンズでありながらレンズがでかいのである。
私は35ミリの広角レンズをつけた状態でよく使用しているのだがその明るさがエフ3.2なのである。普通だったらエフ3.5のはずであるがこの0.3だけ明るいと言うところが売りものであった。

現代のレンズでノクティルックスに大枚をはたいている人を見るとかわいそうになる。

感心するのはカメラもレンズも仕上げが非常に良いことだ。メカニカルな魅力に溢れているのである。残念ながらメーターはとっくに使えない。

ブラパチカメラ持参のカメラを選定中

今度の日曜日はブラパチカメラ塾の第一回撮影会である。
子供の頃の遠足とおんなじでまずもって行くお菓子ではなくカメラを選定中である。こういうのは何10歳になっても嬉しいな。

偽ライカ愛好会の会長等は体力を増強するためにカメラを二台持ってお住まいの近くの六義園の中を1周したそうである。

私はこのカメラの組み合わせで行こうかと思う。面白いのはこのズームレンズである。ズームレンズと言うのはもともとマジックインキと同じで商標登録したものであった。
それが今では勝手に皆さんズームレンズと呼んでいるのだ。

これは西ドイツはミュンヘンのZoomarと言う会社の製品である。そこの会社の社長はアインシュタインと親友だったって言うからそのバックグランドが偲ばれる
アインシュタインに頼まれて宇宙観察用の赤外線スペクトルグラフのレンズなども作っていた。我が家には設計図の青写真が残っています。

それでこのズームレンズの元祖のズームレンズであるが明るさが4で50ミリから125ミリと言う世界最初の標準ズームレンズである。

なかなか渋いとこ狙っています。50ミリから100ミリでも良いのだがそうすると単なる無能な2倍のズームレンズになってしまう。

長い135ミリにすると誰でもアマチュアさんが使える楽しいレンズになってしまう。125ミリで止めるとライカのヘクトールなどを思い出すから商品のブランドイメージは高くなる。

20年ほど前に双葉社と言う出版社からクオータリーのクラッシックカメラと言う雑誌を出していてその責任編集長を拝命していた。その時にこのレンズを紹介したことがあるが立派な描写のレンズであった。

このレンズのすごいポイントは50ミリから125ミリの全域でインフィニティーからいきなり連続的にフィルム面から30センチまでのセッションができることにある。
この会社はもともとプロ用の映画機材のズームレンズを作っていたりしたからそのノーハウがあるのであろう。1,950年代のズームレンズのだめなポイントはクローズアップができないと言うことにあった。゛このレンズはその大問題を最初からアウフヘーベンしているのである。Img_4389


2017年9月 7日 (木)

9月10日日曜日午後1時スタート

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2017年9月 6日 (水)

座敷わらしの行列

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月島の駅に向かっていたらいきなりこういう風景が展開した
慌てて肩から下げている現場監督のスイッチをオンにして1枚だけ撮影した。

現場監督は当時の最終モデルのズームレンズが付いているタイプである。500円で買ったがかなりよく使える。昨年の12月のwinの撮影にもこれを持参した。業務上の秘密になるが今年の11月に半ばから開催されるギャラリーバウハウスでの私のオーストリアウィーンの個展の写真はこれでとっているのだ

真面目なギャラリーでそのような安いカメラを使うのはけしからんと言う批判もあると思うのでその批判をかわすためにちゃんとライカのBundes Eigentumも持参した。でもどちらがどちらで撮ったかは私でもわからない位そののレベルが高いのである。

撮影したショットを現像してみて驚いたのはこれはwinにあるボッシュのクラシックな絵画にその構成要素が異常に似ていることだ。言い換えれば現代の百鬼夜行なのである

こーゆーまるでおいなりさんの揚げを頭からかぶったようなやり方で果たして効果があるのであろうか。ミサイルが飛んできたら頑丈な建物の中に入ってくださいと言うのと全く同じレベルである。ついでに竹槍を各自持って敵をやっつけましょうと言うふうになればもっと完璧だろう。

2017年9月 5日 (火)

I am a king

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I am a king と言うのが東松照明さんがカメラ毎日に発表した、作品のタイトルなのである。まだ未熟などこかのテーマパークを撮影したものであった。

テーマパークのどこかにスペードのキングがあってそれを撮影したのであろうか。それでタイトルがこんなことになった。
何やら謎めいた作品のシリーズと言う意味では東松の膨大な作品の中では1番難しいというかわかりにくい作品だったと今にしても思っている。

それよりも私がひかれたのは東松さんが使っているミノルタのカメラであった。ミノルチナと言うのである。
1,960年代の半ばの話であってまだフイルムのコンパクトカメラがブームになるずっと前の話だった。写真作家と言うのは立派な一眼レフで作品を取ると言うのは普通だと思っていたのでこの東松さんのちょっと常識を外したカメラ選びと言うのは新鮮だった。

東松さんはこのカメラのブラック仕上げを使っているので私などはすぐ欲しくなったら当時のカメラは高いから新品だとまず手が出なかった。それから何十年か経過して手に入れたのがこのカメラである。

このカメラがカメラジャングルから発掘されて発見があったのは私は今までブラックペイント仕上げだとばっかり思っていた。ところがそうではなくてこれはブラッククローム仕上げなのであった。

当時はブラッククロームはまだ新しいカメラの仕上げ方であった。ライカエム5ブラック仕上げで登場したのは1971年であったがそのブラックペイントでないブラッククロームと言うのは魅力的だった。

名古屋に住んでいる青山と言う同級生がいるが彼はライカエム4のブラッククロームを注文したのだが在庫がないと言うのでしぶしぶブラックペイントを手に入れて残念がっていたのである。今とは形成が完全に逆と言うことになる。


2017年9月 4日 (月)

❤️東京観光🐦

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次の日曜日9月10日に私がやっているブラパチカメラ塾の第一回のワークショップを開催する。

私のテーマは世界中の都会であってずいぶんいろいろな街を歩いてきたがその1番の基本は私が生まれ育った東京都文京区音羽なのである。
少年の時はまっすぐ南北に走る音羽の通りの北にある護国寺が国境であった。南の国境は江戸川橋であった。その細長い地域が私の全世界であった。

中学になってその世界はやや拡大された。
今回のワークショップはそこを中心にやっていく。
特に雑司が谷方面をトラバースしてかつて宇宙人が不時着した公園あたりを検証する。
雑司が谷の複雑な地形はなかなか暗黒大陸だ。理解がし難かった。

その全貌が理解できるようになったのはたかだか10年近く前のことなのである。

ニューヨークシティーの写真家でアンコールワットから帰ってきた男が雑司が谷界隈を歩いて感激してここに住む方法はないかと真剣に私に聞いてきた。
そういう結構高度な東京観光を歩きたいと思う。

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😎Tokyo 1964

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2017年9月 3日 (日)

Super Nettel2 で撮影する東京

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Super Nettel2というのはコンタックスと同じ金属製のシャッターの蛇腹式カメラだ。1形はブラック仕上げであるがSuper Nettel2はクローム仕上げになった。

レンズは5センチのf 2.8が固定されていて交換はできない。

長年このカメラを使っていて不思議に思うのは5センチのレンズをつけたコンタックスよりも写真がうまく撮れるのではないかと言う錯覚なのである。

Super Nettel2であるが、使い込むとその表面のクロームがだんだん薄くなってきてうっすらと地金が見えるのである。そこら辺が使い込んだ茶道具と同じで何か風流なものに感じられるのである。

何かそれは南方録に登場する名物のように思えるから愉快てある。
それが錯覚であると何度も自分に言い聞かせてもそうでは無い気がする。
コンタックスに5センチの標準で撮ったショットよりも写真が良いのでこういうのってほんとにわからない。

今年は半年以上かけて東京をテーマにして撮影している。
それと同時に私の高校生の頃つまり1,964年頃から撮影した東京の風景をセレクションしている。これが新しい私の仕事になるのだ。

言い換えれば1964年の東京オリンピックから2020年の東京オリンピックまでの間50数年を時間軸として写真活動することになる。

このショットは数年前の偽ライカ愛好会の撮影会で出かけた東京の南のほうの島にある吊り橋なのである。人口渚の上を危なっかしい足取りでツーリストが遊んでいる。実に退屈な風景であるのだがそれを映してみたら結構すごい写真なので面白いなと思った。

Super Nettel2のその操作に関してであるがここはとってやろうと思うときに蛇腹を出してカメラを組み立てる。その意思というものが何が大事なのではないか?

それで考えてみると最近発掘して使い始めたコンタックスTと似ているのである。これは1種のSuper Nettel2の現代バージョンと言うこともできる。


あや

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2017年9月 2日 (土)

コンタックスTの使い心地

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カメラジャングルから偶然に発見されて10数年ぶりにコンタックスTを使い始めた。近くのスーパーでバッテリーを買ってきて入れたら動かなかったのだが10分ほどそのままにしておいたら認識してくれた。ありがたいことである。

電気式カメラが信用するできないのはバッテリがないと単なるドンガラであるが、バッテリーが入って動かないと単なるジャンクである。ところが電気が通って動くようになると一応カメラの端くれと言うことになる。
まず1種のカメラのロシアンルーレットのようなものでドキドキする。

東京撮影をした。

もう1台リコーGRを持参するつもりであったがそれはバッテリーをチェックしたままテーブルの上に忘れてきたのである。だからデジタルカメラの事は忘れてフィルムカメラに集中できたのはよかった。

コンパクトカメラの最初のモデルのコンタックスTは印象深かったのは、あー昔はこういう使い方をしたのかということである。
その後のモデルに比べるとフロントのフラップをちゃんと出さないと撮影ができないから撮影しようかしまいかと言う意思表示が発揮できるのである。
それがいい。

あとフイルム巻き上げがレバーであるということに痛く感じだ。このカメラをコンタックスの後継者と言うふうに認識するのならばコンタックスのレンジファインダーの歴代のカメラでレバー巻き上げはこの機種しかないのである。

それともう一つ面白いなと思ったのは、フォーカスと絞りはレンズのバレルに刻まれている数値で設定するのだ。こんなごく当たり前のことが逆にフレッシュに感じられる。

それで10数年ぶりに1本だけ撮影してみたらこの巻き上げ巻きにはちょっとだけ角度がついている。だから最初の巻き上げレバーを引き出して親指を当ててカメラ全体がホールドできるのである。

ライカでは普通にやっていた撮影準備のアクションであるが歴代のコンタックスあれば巻き上げではなくてのぶによる巻き上げだからこのことができない。それが新鮮であった。

それでいつもの私の写真撮影のマナーの通りにファインダーは覗かずにフォーカシングもインフィニティーにして撮影した。

まだ現像が上がってないので果たして写っているかいないかわからない。


2017年9月 1日 (金)

イタリアの一眼レフに琢磨レンズをつける

イタリアの一眼レフに琢磨レンズをつけるImg_4251
イタリアはローマで作られたレクタフレックスは日本の一眼レフが登場する以前は世界のトップクラスのカメラであった。

そのカメラが好きでわざわざイタリアのローマにその本社があったところを訪ねて行ったりした。ローマ法王が無類のカメラ付きでこれは戦後のことだがレクタフレックスからゴールド仕上げのカメラを受け取ったりしている。

神様に祝福されたカメラと言うのはこれがただ1つのサンプルであろうと思われる。当時のエジプト王国の王様もレクタフレックスが好きであったがカメラにうつつを抜かしてしまったせいか、なせるにクーデターを起こされている。カメラ趣味も深くなりすぎると問題が多すぎる。

レクタフレックスは創業当時から自分の会社の交換レンズがなかったので交換レンズはフランスとかドイツなどに頼んでOEM生産をしていた。マウントの基盤にレクタフレックスの刻印があるのでやたらかっこ良い。

他にマウントアダプターがあってエム42のレンズが使える。そのほうが実際的である。レクタフレックスは全部のシリーズで自動絞りになっていない。それで琢磨レンズなどの場合レンズを自動にする後の部品がレクタフレックスのミラーボックスと接触してレンズを壊すことがあるので注意が必要だ。私はこの不注意でスーパー琢磨を何本も画面にしているのであるからこの忠告は聞いていただきたい。琢磨のごく初期のレンズいわゆるオート琢磨の場合はその問題がない。

この琢磨85ミリef 1.8 であるが 10数年前にガラクタ屋さんで手に入れたものである。3,000円のプライスタグがまだついている
Angenieuxに同じ焦点距離の同じ明るさのレンズがあるが私の経験では琢磨のほうが優秀であると考えている。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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