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2017年8月31日 (木)

ウィーンアトリエの鏡

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70年代のウィーンのアトリエの鏡の写真である。時代推定からすると現代日本写真家展のポスターが写っているから1976年の秋以降に撮影されたと思われる。ポスターの脇には当時私が描いていたドローイングもチラッと見える。

部屋はがらんとした倉庫のようなものであったが天井が高いしやけに広いから今にして思えば貴重な体験であった。

家具付きのアパートメントと言うのは名ばかりであってもうすでに耐久期限を過ぎたようなガラクタ家具であった。ベッドなどもここで何人の人が死んだかと言う位の年代物なのである。私はそういうことには頓着しないが普通の日本人の潔癖感覚ではこれをやっていけないだろう。

同じ間取りの1階上の部屋で高齢女性がなくなってそのまま発見されるのが数ヶ月遅れたと言うのが話題になった。何かの機会でその住居を見たらこれが実に素晴らしかった。Atgetのパリのアトリエと言う感じなのである。言い換えればフランツヨーゼフが生きた時代の豪華絢爛な室内装飾がそのままそこに保存されていたことになる

要するに19世紀の後半に建設されたアパートメントなのだ。
。鏡に写っている私はまだ30代であって三脚はフランス製のかな。カメラはコンタックスあるいはソ連製のキエフのようであるがこの距離ではわからない。レンズは35ミリのジュピターであろう。

つくづく不思議に思うのはこの時代つまり1,970年代に撮影した写真を売って今でも食っているという点にある。
私の写真の時間軸と言うのは何十年も前から1本の道であって枝分かれをすることがないということに最近になって気がついた。

これは写真家としては非常に幸せなことであると言うことにも気がついた。

鏡の左手に金属製の丸い缶が山積みになっているがこれはモノクロフィルムを撮影してネガカバーが買えないのでこうやって20本ずつロールにしたものを保管していたのである。

三角形のイタリアンベルモットの灰皿が見える。これは私がスモーカーと言うわけではなくて遊びに来るwin人がスモーカーが多かったせいである。だから灰皿を用意しておくのはエチケットであった。

定期的に実験制作映画の映写会をやっていた。そのための折りたたみ式のスクリーンが鏡の左側にちょっと写っている。まだビデオなどが発明される前の時代の話をしているのだ。

2017年8月30日 (水)

ノーファインダー主義者

ノーファインダー主義者
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パリの中古カメラ屋通のメゾンドライカでこのカメラを買ったのは15年位前かな?

値段もよく覚えているがすでにPrice Tagがユーロ建てになっていた。それと一緒に買ったのが妻レックス85ミリであった。これもやすかった。
それでメゾンドライカからその2つを買って何をしたかと言うとファインダーのないライカカメラに85ミリのレンズをつけてそれで近くのまれ広場を撮影に行ったのである。

当然のことながらファインダーはついていない。それで窓を拭いている人とかショップの人をのファインダーで適当にとったらちゃんと写っていたので後でびっくりした。

私はGRストラップレスアナーキストメンバーであると同時にノーファインダー主義者なのだ。

ノーファインダーのことを教えてくれたのはYasuhiro Ishimotoさんだった。
高校生の頃アサヒカメラ教室と言うカメラテクニックの単行本でそのテキストに接して私はすぐのファインダー主義者になった。
これが1964年だから東京オリンピックの年だ。

だから自他共に許す筋金入りのノーファインダーアナキストと言うわけである。

その当時のこと。
当時まだ電通の社員であった荒木経帷が銀座でおばちゃんばっかり取っていた。それはミノルタSR一眼レフ100ミリのレンズをつけてポケットに20数本のトライエックスを入れてほとんど盲撃ちで取るのである。
天才とはそういうものだ。
それと荒木が中心になって複写集団と言うのもやっていた。その名前が下痢腹5と言うのである。言うまでもなくこれは最近異常に日本でブームになったあの有名な写真家エルネストチェゲバラのもじりなのだ。

優れた写真家はファインダーで構図を決定する事はその写真のそれほど重要な要素ではないと言うことに気がついている。

だから1番滑稽なのはFacebookなどで書き込みをしている自称写真家の皆さんが
思い通りの絵が取れました
などと言うのは大笑いなのだ。
貧困な想像力の内側にある写真美学など見たくもおまへん。


2017年8月29日 (火)

レンズの構成図を表示したおしゃれなカメラ

レンズの構成図を表示したおしゃれなカメラImg_4129
ワルツと言うブランドはかなりの種類のアクセサリーを用意しているメーカーでした。
レンズシャッター式のカメラも数種類出しています。1番有名なのはワルツワイドと言うモデルでシンプルに35ミリの広角レンズをつけたレンズシャッター式のカメラでした

これは48ミリの標準レンズがついた高級モデルでした。日東光学の48ミリで明るさがエフ1.9と言うのですから当時の高級レンズに属します。

面白いのはレンズの表面に英文で7枚構成のレンズと刻印がされていることです。当時の国産のレンズシャッターのカメラの競争でこれは非常にユニークな戦い方であったと思います。

カメラのレンズの刻印を何十年も見てきた私ですがレンズの刻印にレンズの構成の数が表示されていると言うのは前後他にありません。それがユニークです。

このセールスのテクニックって今でも使えるかもしれませんね。
割と初心者のライカ人類さんが必ず欲しくなる、あのアポ何とかと言うレンズですけれども、レンズの適当なところにレンズの構成図を入れてみたらどうでしょうか。
そのレンズ構成のイラストの入ったレンズを欲しいためにみんな買うかもしれません。

2017年8月28日 (月)

日本光学工業株式会社全商品撮影

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今は九州に住んでいるビーサンはカタログ等の資料の一大コレクターである。彼がメンションしてくれたのはこの画像だ。ニコンのすべての商品カメラを撮影したカタログの写真なのである。

この撮影のカメラとレンズは懐かしい。私が実際に並べたからである。全商品撮影は1種のお祭りである東京タワーの下にある今はもうないパークスタジオ1番広いペースで撮影を行った

午前10時から初めてまず広いスタジオに紐をはるのである。台形の形であって手前が狭くて奥の方がが広くなっている。

カメラはSINAR 8x10であった。レンズは確か360ミリか600ミリのSYMMERだったかもしれない。

もちろんレンズとカメラの並べ方にはしきたりがあって分厚いマニアルが存在した。大体7時間位かけて厳密に製品を並べていざ撮影というのは10分もかからなかった。Ektachromeタングステンタイプで絞りは45で露光時間は10秒位であった記憶がある。もちろんライトはタングステンだ。

真ん中にある1,200ミリと言うのは東京オリンピックの年に作られた当時で
1番長い焦点距離のレンズであった。

それから何十年か後に私が手に入れたその個体と言うのは製造番号の末尾が2番だった。だから2番目の製品かと思っていたらその後出版されたオーストリアのコレクターのニコンの専門書によると製造番号は2番からスタートであった。
だから私のレンズは市販品の1番最初と言うことになる。東京オリンピックのセレモニーや競技をこのレンズは撮影していたのだ。

2017年8月27日 (日)

東京の昔

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小説家たやまかたいのタイトルで東京の昔というのがあった。小説家が30年前に日本橋の本屋で丁稚奉公をしている時の思い出話である。たかだか30年しか経過していないのに明治の中頃の東京と昭和の初めの東京の違いにはびっくりする。

私の場合は東京オリンピックの前後から東京の街を取り始めたので30年どころではなく半世紀以上が経過している。いやもっとかな?

東京の街並みが変わってしまったのはこの作例写真でも見る通り車が違うのは当然であるが建物の外観が完全に変わってしまった。以前はこのような木造モルタル2階建てが普通の建物であった。

私は広告写真を撮っているときに大阪発動機がスポンサーであったからダイハツの撮影などをしに大阪の橋のそばの工場に通っていた。
だからこの右側に止まっている車はミゼットだと思っていたが専門家の指摘ではそうでは無いそうだ。私にはポルシェもスバルも同じ車に見えるのである。

思えば和服のご婦人がこのような物の持ち方をして日常的に歩いていると言う風景も見られなくなった。それと左側のジェントルマンはワイシャツにネクタイで何やら重そうなものを運搬している。

考えてみればこの時代は宅配便と言うものがまだこの世の中に存在しなかった。だから高齢者も足腰をトレーニングする機会があった。

画面の右の下のほうに建築の足場のような格好の板を水平に渡したものがチラッと映っている。何であるかわからん。

いずれにしてもこの写真を撮ったときには全てが現在の最も新しい風景であったのだ。それが写真は変化してないのに我々の時間軸の上でものを見る見方が変貌してしまったので懐かしく思えると言うのも面白い。

2017年8月26日 (土)

ブラックSonnarはいいな

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ツアイスのレンズは今では世界ブランドになっているが、私は保守的だからやはりカールツアイスJenaのレンズが好きである。何も西ドイツ製造とかその後の日本製が偽物であると言うのではない。
ただ長年戦前のツアイスレンズを使っていてこれは本当に良いレンズだと信用しているのである。

長年酒を飲んでいていつも決まって口にするのが1種類だけになってしまうのでこれは同じことなのかもしれない。それでツアイスレンズはJenaなのである。

ツアイスが西と東にに分断された西ドイツで作られたコンタックス2aであるが当時はレンズを作る技術がなかったので、レンズは東から供給されたのである。
それ故戦後の初期の西ドイツ製造のコンタックスについている東ドイツのツアイスのレンズはだからそれが正しい組み合わせであるのだ。

その本家ツアイスのSonnarにサードパーティーがブラックにペイントしたのがこれである。刻印の文字の部分がゴールドになっていたりして非常に高級感がある。
今のブランドレンズのOEM等よりもこちらの方が高級感が高いのは皮肉だ。

同じ種類のブラックレンズをコンタックスに取り付けてロックの金具の先まで無理やりに回転さしてねじ込んだので全くレンズが外れなくなってしまったと言うコンタックスユーザがいる。

本人の名誉のためにあえて名前は公表しないけどペンネームでビクトリーと呼んでおこう。このカメラ愛好家は天才があって、例えばローライフレックスに裏返しにフィルムを入れたりすることができるマジックフィンガーの持ち主である。
カメラの操作と言うのはそのように不可能なことを可能にさせるべきなのである。これが正しいカメラの楽しみ方と言うものだ。

ある撮影会の時にビクトリーからこの不思議な装着をしたツアイスのレンズを見せられて私はそれを何と言うかと思った。

その状態をモードンと呼ぶことにした。その語源はもう忘れた。

一旦交換レンズがモードン状態になってしまえばもう交換は不可能だからずっとそのレンズを使うことになる。これは浮気なカメラ人類にとっては非常に良い特効薬である。あれから 4年は経過しているがビクトリーは相変わらず外れなくなったこのブラックレンズを使っているのであろうか?

2017年8月25日 (金)

コンタックスとコンタックス

コンタックスとコンタックスImg_4090
京セラからコンタックスT型が出た時は話題になった。実に一大ブームであった。ただ新型コンタックスが世界的ブームになったのは別に広告のせいではない。ウィンブルドンのテニス大会でVIPが持っていたのがこの次のモデルコンタックスディーニ方なのである。これでブームが爆発したのであった。

その頃から私はコンタックス1型つまりブラックコンタックスを愛用していたのだがやはり新型の魅力に勝てずに手に入れてしまった。

しかしそれからかなり年月が経って電気系統のサービスがもうできなくなると言われて引き出しの奥にしまったまま10年ほど忘れていた。それが発見されたのである。

すぐに使おうと思ったらバッテリーが上がっている。この種類のバッテリーのストック等はもう持っていないからそのために有楽町のカメラショップにいかなければならない。

言うのも愚かであるが機械式のコンタックスがあればそのままシャッタが作動すれば使えるのである。何も今のデジタルカメラの事を批判するのではなくてカメラは電子化が始まってからいざと言うときの対応がだめになったのである。

、NASAがスカイラブ計画でスペースシャトル内の電気を節約するために宇宙飛行士の髭剃りは全部ゼンマイ式になっていた時期が1度あった。

最先端のテクノロジーの世界の中で髭剃りだけがゼンマイ式と言うのは何かオシャレであった。

コンタックスティーはバッテリーがダメなので今すぐ使うわけにいかない。一方で1,932年生の最初のコンタックスはフィルム入れればすぐ撮影に出かけられるのである。
その違いが一体どういうものなのか今日1日かけてゆっくり考えてみようと思う。

2017年8月24日 (木)

革命家が愛したニコン

革命家が愛したニコンImg_4086
Komatsu Yoshioさんは私の何十年来の友人である。写真家として世界中を撮影して大活躍している人である。そのキャリアは非常に深く長い。

エルネストチェゲバラはカメラ愛好家でキューバのゲバラミュージアムには彼が愛用していたニコンS2が展示されている。その展示をネットで見ると結構雑に置かれているのである。
そこらがCubanである。ゲバラは非常なカメラ好きであった。
このニコンカメラに私が何十注目しているのは当時の最高級のコンビネーションであることだ。ニッコールの5センチの明るさのf1.1のレンズが付いているのだ。

おそらく50年代後半にキューバのデレゲーションの一員として来日した時に手に入れたものかもしれない。当時の日本のジャーナリズムには全然相手にされなかったようである。でも一方でこういう素晴らしいカメラを手に入れたのは素敵なことだ。

当時の革命の国キューバでは地元のカメラマンが使っているのは全部ソ連製のカメラだった。一方で この若いキューバの星はジャーナリズムの格好の餌食であるからよく登場している。ただ手にしているのはソ連製のレンズであり東独のカメラなのだ。

だから彼は革命家としてすごいだけではなく持っていたカメラも当時としては非常に革命的なわけであった。
写真集を見ていると彼がニコンカメラを手にしているショットが何点かある。カメラの取り扱いに関しては結構習熟しているように見える。

一方でフィデルカストロなどと一緒に西川帝国主義者の堕落したスポーツであるゴルフをやっているのはどうも似合わない。全員が軍服を着てゴルフをしているのはちょっと変なのである。

小松さんは以前キューバで革命家のニコンを実際に見ている。それがアメリカとの国交回復でついに日本にまでやってきたと言うことに多少の感動をお持ちのようである。

残念なのはキューバがアメリカと国交回復してしまうと全てがツーリスト好みに変質してしまうことだ。社会主義国時代にはよくフロリダから離陸した旅客機がハイジャックされてハバナに着陸したりした。

最近ではツーリスト写真家の格好のディスティネーションになっている。だから彼らが出かけていて撮影するのは退屈極まる陽気なCubanとクラシックカーと南の風なのである。
どっかのテーマパークに行くのと変わりは無い。
これには参ってしまう。
キューバの革命が遠くなったのは言うまでもない。

写真家ゲバラの愛機ニコンカメラは小松さん撮影。2


2017年8月23日 (水)

マンハッタンでひまわりの長さを測る

長さを測るImg_4083

ひまわりに関する思い出。
スペインを旅行中に列車の中から延々と続くひまわりの花を見てそれが30分も続くと言うのは退屈の極みである。私のひまわりの記憶はもっともっと個人的なものだ。

マンハッタンの1982年の夏は90年来の猛暑であった。
女性のハイヒールが解けたアスファルトでめり込むと言うのは実際の話だった。その次にやってきた83年の冬は厳しい寒さで同時に大雪だった。
こんな暑くてこんな寒いところになぜマンハッタンの人が住んでいるのであろうかと私に思った。

SOHOのウェストハウスとストリートのロフトには北側に1つだけ窓がついていた。過ぎてゆく夏と言うものほとんど外出はせずに北向きの窓からマンハッタンの風景を見ていたのである。長編のビデオのドキュメンタリーを撮影していた。

ある日ウェストハウスとストリートの中央分離帯に数人の人影が見えた。双眼鏡で見るとアジア系の数人の人が何か作業しているようだった。

これが春の終わり頃の話でしばらくたつと中央分離帯に植物が生えてきた。それもかなり広い範囲なのであっという間にひまわり畑になった。

しかも北のほうを向いている私の部屋の窓からはひまりが全部こっちを見てくれるのである。これは楽しかった。

秋口の頃だったと思うがウェストハウスとストリートの中央部に体を見たらまた人々が何か作業していた。ひまわりを刈り取っているのだがその頭の部分というか花の部分から種をとっているのである。

別に夏の間中私にひまわりの花を見せてくれると言うわけではなくて彼らはミニマムな農作業をしていたわけである。

ひまわりの種と言うのは日常生活でほとんど食べる事は無い。

唯一の例外としてはドイツなどでひまわりの種が入った黒パンを食べる位である。

数年前ハノイに行った時のことだ。
オールドハノイの真ん中の真ん中にある小さな旅行代理店に両替に入った。 カウンターの女性はひまわりの種を食べていた。
別に職務違反と言うわけではない。こういうのはごく普通の状況である。分厚いベトナムドンの札束を受け取ってお愛想に良いもの食べてるねと言ったら彼女は白い歯を見せてそのまま袋に入った食べかけのひまわりの種を私にくれたのである。

これも旅行代理店の新しいサービスなのかと思った。そのひまわりの種は滞在中にぼつぼつ食べてそれでも余ったので東京に持ち帰ってまたぼつぼつ食べた。

知らないうちになくなった。

ひまわりの写真は漂流者さん撮影。

2017年8月22日 (火)

ライカカメラに上海レンズ

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いつのことであったか坂崎幸之助さんと雑談をしているときに彼の友人でいわゆる上海ものを集めている人の話を聞いた。これは上海エキスポが開催されたさらに10年の昔の話なのである。それで話題は必然的に上海のライカである上海に移っていった。

このレンズはライカレンズの完全なコピーなのである。そしてよく映る。上海のブランドだからよく映るのではなくELMARタイプをそのままコピーしているからよく映ると言うことになるのであろう。

面白いのはこれを中国製の上海につけていると何かコピーと言う感じがするのであるが本物のライカカメラにつけるとちょっと雰囲気が変わってくる。
それはそのライカの持ち主が自分の意思でこの上海レンズを使っていると言うふうに見えるからである。

だからといってソ連製のジュピターレンズやインダスターレンズに比べてこれが優れたと言うとこれは?であって要するに私がいつも話している所の実用の範囲内では充分使えると言う意味なのである。

レンズの味とかレンズの好みと言うのは個人の思い込みによるその世界への投影の結果であると言うのが1番正しい見方である。

だからワインの目隠しテストとおんなじで数種類の同じようなレンズをずらりと並べてどれがどれであるかと言うの問題を出したらかなりのレンズグルメも惨憺たる結果になる事は明らかである。

だからレンズは選んで面白いと言うことなのだ。

もう一つ我々の集団幻想はクラシックなレンズを今のデジタルカメラにつけると表現が変わると言う勘違いだ。表現と言うのは写真家ののっぴきならない視神経の話であるから目先のレンズなどを交換して変貌するわけもない。

2017年8月21日 (月)

ゆっくりした夏の日々

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ゆっくりした夏と言うのは1,970年代終わりに独立系のグループが制作した劇場上映の映画である。スーパーエイトで撮影したの劇場用の35ミリにブログアップしたモノクロの作品だった。それはwinの目抜き通りの大手の映画館で 数日だけ上映されたのである。

鵠沼のブレッソンがこの前のアイランドギャラリーでの私のトークの写真を数点送ってくれた。それを見て最初に浮かんだ言葉というのがその数十年前の映画のタイトル ゆっくりした夏 なのである。深層心理がこんがらかっているからそういうことになったのであって理由はよくわからない。

鵠沼のブレッソンは数年前に脳梗塞を患ってその後遺症でブラパチ写真などをすると体がしびれてくるそうであるが今回私のトークの前の2時間の歩行はそのしびれが出なかったので本人びっくりしていた。これも1種の治療の方法になるのであろうか?

そのスナップ中に私が中央通りの角を曲がってギャラリーのほうに行く後ろ姿を彼が撮影している。路上に誰もいないのがいい感じだ。

もう一つの写真はせっかく遠くから来たのでお土産に私が彼に贈呈したのがパリに持参した使い古しの我楽多屋のトートバックハリネズミサイン入りだった。

そのトートバックは鵠沼の彼の邸の今は亡き母上の英国文学の部屋の中央のマントルピースの上に飾ってある。
並んでいるのが私の写真だったり上の大きな洋服屋さんのポスターは彼の父上が千代田区で大きな洋服店を営んでいたときの名残なのである。

Facebookのアラートで田原桂1さんの誕生日が8月20日であることを知った朝であった。
そこに鵠沼のブレッソンからマントルピースの上の私の写真が来たので何かそれが遺影のような感じがした。
考えてみれば写真家は日々死んでいるわけだからそれで問題ない。

ゆっくりした夏が過ぎていくのである。

2017年8月20日 (日)

戦争写真家バローズのライカカメラ

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英国出身の戦争写真家ラリーバローズが移動中のヘリコプターで北ベトナム軍にラオスのジョークで撃墜された。同行の数人の戦争カメラマンもなくなった。

1971年のことであったが当時の日本でもわりと大きなニュースとして報道された。ラリーバローズの風貌を私は当時から知っていていつも不思議に思ったのは戦争写真家にはふさわしくないインテリジェンスな風貌だなと思っていたのだ。

にもかかわらず 3回のロバートキャパプライスを受賞している。我々が戦争写真家に対して持っているイメージはロバートキャパのような1種の鉄砲玉なのである。Khmer Rougeにやられた一之瀬にも似たような風貌があった。

ニューヨーク在住の調整さんがそのラリーバローズが持っていたメルトダウンしたライカの画像をメンションしてくれて私は言葉を失った。

これではライカの会社のポジティブな宣伝にはならないのである。ジェット戦闘機が数万フィートの上空をを飛行中に地上に落下したライカカメラが回収されてまた使えるようになったと言うのはポジティブなインフォメーションである。しかしこのラリーバローズのライカは完全に溶けて何か陶磁器のような感じになっている。サルバドールダリがイメージしたライカカメラでもある。ライカカメラが保存している飛行船ヒンデンブルク号の火災をくぐったライカカメラは米てはいるがこのような激しいダメージが見られない。

バローズの乗っていたヘリコプターは北ベトナム軍の対空砲にやられた。
私には皮肉な出会いがあった。
2000年のミレニアムの年に私はハノイから激戦地Hueを経由してホーチミンシティーまで旅をしたのである。そのハノイから当時の軍事境界線までのセクションはボロボロのハイエースで旅した。私はベトナム語はダメなので英語の通訳さんが同行してくれた。彼は1977年生まれだからまさにベトナムがアメリカに勝利した新人類なのである。

ハイエースのドライバーさんは聞いてみると北ベトナム軍の対空砲を担当する少年兵だったそうだ。
その人は運転中に闇夜でもちゃんと目が見えるのである。すなわちラリーバローズを撃墜した可能性のある対抗勢力と言うことになる。

塹壕のそばで休息しているバローズの写真を見ると彼は二台のライカカメラと二台のニコンカメラを脇に置いている。インドシナの土の上に直接カメラを置くと言うのは戦争写真家のルールだな。

彼はElmarit28ミリ愛用していた。 4台の1番左側にあるカメラがそれだ。ニコンの一眼レフには135ミリと200ミリがついているようだ。近代の戦争写真家の元祖ロバートキャパは50ミリレンズでがんばっていたが戦争が激しくなるとダグラスダンカンはそれに135ミリ200ミリの望遠レンズが加わった。

ラリーバローズも同じ時代の戦争写真のレンズの選び方をしている。

ラリーバローズのネガティブな噂としてはロバートキャパがノルマンディー上陸作戦で撮影撮影した数本のフィルムを乾燥中に事故で燃やしてしまう。これは事実無根のことであって実際にはダークルームの作業者がやってしまったことなのだ。
バローズはベトナム報道写真のスーパースターであったからそのようなやっかみの噂が生まれたのであろうか。

2017年8月19日 (土)

バルセロナのランブラス通り

バルセロナのランブラス通り仕事で1ヵ月近くバルセロナに行ったことがある。リッツホテルに宿泊していたと言うとびっくりされるがバルセロナのは系統が何か知らないが安いホテルである。不思議だったのは水道の水が塩辛いのでそれで毎朝飲むコーヒーが砂糖を加えると何かおしるこのような味になったことだ。今はどうなっているのだろうか?

日本の仕事が終わって別のクライアントの仕事を待つ数日間の間にランブラスのプロムナードを行ったり来たりした。ここは結構治安の悪い所で通の1番海沿いのところで女子大生に助けを求められた。置き引きにあったのである。パスポートの再発行で大使館に申請して身元保証人になってあげた。盗難の証明書などはその通に警察の大きなワゴンが止まっているからそこで発行できるのであるが何が便利すぎて気持ちが悪い。

海岸の方からラムグラスを上って左側winと言う名前の喫茶店があった。これはお店全体がステンドグラスでできているような不思議なカフェなのである。
毎日そこにでwin風と言われるミルクコーヒーを飲んだが本場のそれとはかなり違う。スペインとオーストリアはかなり離れているからそういうことも当然起こるのであろうと思った。ハプスブルグ家の頃はインターネットもないしね。

ある日の午後その店のカウンターに座ってコーヒーを飲んでいたらすぐ脇に座っていた若い男がいきなり立ち上がってすごい勢いで逃げていった。何が起こったのかと見ると彼は肘をついてカウンターのステンドグラスを壊したのである。

毎週水曜日と土曜日であったかランブラス通りの中ほどの広場で蚤の市があった。そこに100年以上経っているパノラマコダックで撮影したプリントが大量に売られている。それが欲しかったのだがその時は撮影のスタッフと一緒だからそんな馬鹿な事は言えない。

あのパノラマ写真を買い逃したのは今でも残念である。

バルセロナのランブラス通りでひどいテロが発生したのでそんなことを思い出した。写真は朝日新聞。Img_4040


2017年8月18日 (金)

北朝鮮の米

オーストリアウィーンに在住していた当時近くのいつも行っているスーパーで北朝鮮の米が登場した。それまではイタリア米を食べていたのであるが北朝鮮の米のほうが安いのでそれを食べるようになった。そのパッケージは今でもよく覚えている。

ただしこの米を食べる時はある儀式が必要であった。
1キロのパックの米をまず新聞紙の上に全部広げて混じっている石を拾うのである。

中学校の頃に学校の課外授業で池袋の映画館人生座で千里馬を鑑賞した。ああの国の米かと思った。

オーストリアウィーンでは普通に食べているのはインディカ米なの
である。だからちょっと懐かしかったが私は個人的にはインディカ米の方が好きである。

それから10年ぐらい後にウィーンに行く時にモスクワからの飛行機で隣に座っていた人がこれからwinの大使館に赴任する人であった。なかなか面白い人で飛行中よく話をしていた。その人は平壌の外交官なのである。

これは私が平壌の人と会話を交わした唯一の機会であった。

、私がオーストリアウィーンで味わったあの北朝鮮の米と言うのは金日成時代の米だ。
初代と弐代目が並んだ胸につけるバッチを私は持っている。それと外国から来たVIPに特別に配布する北朝鮮の歴史の絵画本も持っている。もっともこの2つはeBayで手に入れたものだ。

数年前ハノイの街を歩いてビー52が撃墜された地点の撮影に行った時たまたま北朝鮮大使館の前を通った。エントランスの掲示板には3代目のポートレートが飾ってあった。

あれからずいぶん時間がだったなと痛感したのである。Img_4015


2017年8月17日 (木)

ウィーン 薬局のこうのとりがスキ

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アイランドギャラリー私の個展ではたくさんの赤い丸をつけていただいた。感謝。 会場に行っていろいろな方から質問を受けたのは1番多いのは三脚は使いましたかと言うことだった。そんなの使いませんポケットに入れたコンパクトデジタルカメラで撮りましたと言うと皆さんびっくりしたようであった そのカメラはなんですかと聞かれて答えると皆さんまたびっくりするのである。 何か写真展の会場でやるようなちゃんとした作品はでっかいデジタル一眼レフでないと取れないと言うような先入観があるようだ。そんな事は絶対にありません。 このショットは40年以上いつも気にかけている薬局の看板のこうのとりである。この近くにもう一つの有名な天使薬局があるのだ。 私が歩き始めた40数年前にすでにこの鳥はこの定位置にいた。 だから今私が見ているこのこうのとりさんはおそらく新しい絵画に差し替えられたのか修復がされたのだ思う。 winにいるときは時間があるのでミュージアムでフェルメールなども見ることがあるがこのこうのとりの肖像画はそれに劣らぬ立派な絵画だと思う。 しかも年がら年中雨ざらしになっているのだからそれがまた大変な努力で偉いと思う。 リコーGRで撮影したがどのモデルかはよくわからない。GRの刻印がエングレービングされているやつである。あれは何と言うモデルだったかな?

2017年8月16日 (水)

スターリン印のバターケース

スターリン印のバターケース
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1,970年代オーストリアのウィーンに住んでいた時1番欲しいものはバターケースだった。カメラはたくさん買っているのにバターケースがないと言うのは不健全である。

アパートメントの裏手が広大な庭園であってその奥にアウガルテンの工場があった。バターケースを探したがアウガルテンと言うマークはあまりにも俗世間で嫌いなので探しに探してアウガルテンのマークがついていないのを発見してそれを使っていた。

日本に住むようになってからバターの消費量が激減しているから別にバターケースを使う必要もない。しばらく前にブダペストに行った時どこかでこういうスターリンの名前が入っているバターケースを見つけたのである。
クリスタル製でなかなか作りはいいし上のカバーのイラストがプリミティブでなかなか良い感じだ。

でも結局バターケースとして使う事はなくてカメラジャングルの奥のほうに押し込まれていたのをカジンガ先日発掘たのである。

家人には考古学的な才能があると見えて大昔板橋の関東ローム層の畑の中で靴の先で大地を引っ掻いていていたら出てきたのがおそらく江戸後期と思われる杯だった。
これは四半世紀ライカインコの水のみのコップに使っていたのだがライカインコ民主主義人民共和国がなくなったので最近この杯の見えなくなったがまた出てくるであろう。

私が使っているガラスの器は概ねな世界の航空会社のラウンジから出てきたものであるし後はヨーロッパの古道具屋出身のものだ。

2017年8月15日 (火)

トニーRayジョーンズの事

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1,960年代後半から1973年まですなわちオーストリーのwinに行くまでの間私の写真の海外情報と言うのはすべて銀座の明裕国際図書館でゲットしていた。

他に外国の写真集が見れるところは銀座4丁目からちょっと行ったところにあったJena書店だった。しかしこちらは本屋さんだから1日中写真集を手にしているわけにはいかない。

それで図書館に入り浸っていたのである。イギリスのクリエイティブキャメラというのが好きな写真雑誌であった。もっともあちらの写真雑誌は作品主体であって新製品のカメラレビューばかりと言うのではない。そこら辺が当時の私の価値観からしても何か真面目と言う印象があった。

トニーRayジョーンズのスナップショットに私は注目したのである。イギリスの寒いような夏のしかもあまり高級でないブライトンとかそういうところであったのだろうか寂しいバカンスを撮影したリアルな人間のドキュメントであった。

トニーRayジョーンズはあの世代で最も素晴らしいスナップ写真家であった。ニューヨークにも暮らしていてブロードビッチと関係もあったのだ。しかし30になったばかりで白血病になりアメリカの治療費はあまりに高いので故郷のイングランドに戻ってしばらくして亡くなった。

1973年に私がオーストリアのウィーンに行く前後に彼の訃報に接ししたのである。それは非常にショックだった。それまで私はロバートフランクの真似をしてライカのレンジファインダで撮影していたがトニーRayジョーンズの場合はニコンエフだった。レンズは広角レンズの28だった。踏み込んだスナップショットはライカカメラではなくて一眼レフでも撮影できるのかと感心した。

クリエイティブカメラの編集長は当時気鋭のエディターBill Jayであった。その理由は知らないがクリエイティブカメラの編集長を降りて新たにアルバムと言う名前の新しい写真雑誌を作ったのだ。私もそこに作品を出してくれと言う依頼があって早速送ったのだが結局新雑誌アルバムは世の中に出なかった。
結局幻の写真雑誌になってしまった。

私は1969年から3年間連続して銀座松屋眼鏡店の上のニコンサロンで開催した写真展の2番目のタイトルはAlbumになっている。

若くして亡くなった写真家トニーRayジョーンズのことを追悼するつもりでもあった
若くして亡くなった写真家で私の近くにいたのに戸田茂がいた。戸田も20代で白血病で亡くなっている。

2017年8月14日 (月)

ウィーン 天使薬局でリップクリームを買う

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古い都ウィーンの私の散歩道をテーマにした写真展が昨日千秋楽を迎えた。多数ご来場感謝お買い上げ感謝。 京橋のアイランドギャラリーで開催したにかいのトークショーやって最初のトークショーも満員であったが2度目のトークショーは超満員だった。 さして広いとも言えないアイランドギャラリーにあんなに人が入れるのかとびっくりした。座って話しているときは気がつかなかったがトークが終わって皆さん立ち上がったらなんというか新宿駅のラッシュの時の電車の混み方のようなのである。 でも混みすぎて人の頭しか見えないって感じの私の写真が見えないと言うことではなかったので一安心だった。 カイザーフランツヨセフがまだ若い頃に市内を散歩していてハンガリーの暴漢に襲われて間一髪で助かったしかし深い傷であったとかと言う話をした。当時は安全管理の認識がないから世界帝国のトップがたかだかお供を1人連れて散歩に出かけるなどと言うのは狂気の沙汰である。 カイザフランスヨセフは不幸な人であって奥さんはスイスでテロリストに殺されるし弟さんはメキシコで革命軍に殺されるし息子さんは愛人と心中してしまう さらに皇帝の後継者は夫婦で暗殺されてこれが第一世界大戦の発端になっている。 この街は皇帝から市民まで街をぶらぶらするのが好きであるがその理由というのが旧市街つまり昔のwin時代は街が狭かった住居の環境も劣悪であったから外に歩きに出ないとちょっとやっていられないと言うところがあった。 winは喫茶店の文化であるがこれもそうで狭い家でじっとしているより広いカフェでゆっくり新聞を読んだりした方が良いに決まっている。winの独特の文化散歩とかカフェ文化と言うのはそういう悪い環境から発生したのではないかと言う話をした。 winの皇帝のお城のエントランスのわりと近くにあるこの天使薬局は昔から好きですでに半世紀近くこれを見続けているがその間に3回大きな回収工事があった。 非常に美しいモザイクである。何十年も前を歩いて写真ばっかり撮っていて何も買い物したことがないのは我ながら申し訳ないと思ってこの前マイナス10度の冬のウィーンにで初めて店内に入ってリップクリームを1つだけ買ったのである。 これで長年の申し訳ないと言う気持ちがいくらか緩和されることになった。 エディターの具合が悪くて行を改めることができない状態になっています。すみません。

2017年8月13日 (日)

空港のエックス線検査の問題

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ギャラリーバウハウスの小滝さんがロンドンに到着した。
これは夏季休暇ではなくてもっとクリエイティブなことなのである。すなわちフイルムカメラによる写真の撮影なのだ。

彼のFacebookによるとパリの空港のセキュリティーの時に意地でもフイルムをエックス線で検査するのを拒否したらしい。

今のセキュリティーのレギュレーションでは検査を拒否した人は飛行機に乗せないと言うルーチンになっているはずだがさてどうなったか?

それで懐かしく思ったのは何か20世紀の話題に立ち戻ったような気がしたのである。1976年にヨーロッパを巡回した現代日本写真家展のときの話だが成田からチューリヒ経由で私はwinに戻った。

成田から大韓航空でソウルそこから大韓航空でチューリヒそしてスイス航空でwinと言うルートである。どこでやられたのかしれないがボレックスに装填されているコダクロームがしっかりかぶって青白い光が現像したら点々とついていた。

しかしその後検査の機械が大幅に向上してまず通常のフイルム感度なら全く問題ないと言うことになる。事実そのあと数え切れないほど数100本のフイルムを空輸したが1度も問題が起きた事は無い。

日本写真家協会が調査したところによると確かトランジットと言う想定で30回マシンを通過させても何の問題もなかった。

今にして懐かしいのは1,970年代から80年代の海外旅行と言うとパスポートを持つよりもあの鉛の袋にフイルムを入れると言うことが最初の重要な項目であった。

それとX線禁止の巨大なステッカーをスーツケースに貼るのである。そんな時代が過去のものになってしまってそれでも今フイルムのエックス線検査のことが話題になるのは何か懐かしい気がする。

私の場合は作品作りにわざと戦前のカメラなどを使っているからエックス線検査ではなくてシャッターやカメラからの光漏れのほうがはるかに気になるのだ。

2017年8月12日 (土)

ストラップのつかないカメラの方が実は かっこいい

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大竹省2先生は中国の北の川のほとりで良い風景を撮影してやれやれと思ってライカを元の位置に戻そうとしたらそのまま下の大きな川に落ちたそうである。

ライカカメラのストラップが付いていないモデルだったのでそういうことが起こったと言う話なのだがこれが先生ご自身の口から語られると実に素晴らしいエンターテイメントになっていた。ストラップのついていないカメラの逸話としては私がたくさん聞いている中ではこれが1番すごい。

ライカカメラは1932年に登場したライカ3からネックストラップアイレットがつくようになった
それ以前のカメラユーザがちゃんとカメラをしっかりしたケースに入れて使っていたのである。

だから私の少年時代にはまだ古い言い方が残っていて革ケースに入っていないカメラを使うのはカメラを裸で使うと言われた。
だから私の少年時代にはまだ古い言い方が残っていて皮ケースに入っていないカメラを使うのはカメラを裸で使うと言われた。何か兄ちゃんとか与太者のカメラの使い方で私の父などはそれが嫌いであった。

日本の戦後にすぐつくられたカメラにはまだネックストラップアイレットのついていないものがあった。このコニカカメラなどがそうである。

そういうカメラは専用の革ケースにつけて使うのが正統派ではあろうが何しろ70数年が経過しているので革ケースはボロボロになっていることが多い。カメラは金属であるからちゃんと保存されているが側の方がダメなのだ。でも少しも慌てずにリストストラップをつければ問題なく使える。

リストストラップのついたカメラで世界観が変わるのはこれを取ろうと言う時にトートバックの中から取り出すから撮影の意思がはっきりしている。言い換えればカメラの武士道がそこに具現化されているのだ。

裸のカメラをネックストラップに付けてぶらぶらさしていると言うのはカメラの武士道からすると何か剥き身の刀を持ってウロウロしているB級の辻斬りのような感じである。

大写真家桑原先生のように和服のたもとにストラップのついていないライカスタンダードを忍ばせて東京の街を忍歩くこと。

これなど本物のライカカメラ武士道と言うことだ。もちろんそれはコニカカメラにも当てはまるのである。

2017年8月11日 (金)

午前11時2分長崎の皿うどん

午前11時2分長崎の皿うどんImg_3982
東松照明さんが元気で長崎に住んでいた頃に長崎に行った。
思案橋のそばの思案橋カメラと言うところで古いコニカカメラを買ったりした。

東松さんのお宅の高台の上あたり歩いたりその丘の麓の古い市場をうろうろしたりした。

それが何の会話だったのか全て忘れているがマーケットのおばさんと話をしていた時に東松さんの話題になった。これはそのおばさんの口から出た会話だ。

おばさんの旦那さんが入院していた病院に行ったらそこにやはりおじいさんが入院していて後から聞いたらその人は有名な写真家であったと言うことなのである。
これはまさしく東松先生に違いない。

何とか橋と言う名前の終点からちょっと坂を上ったところにある食堂に入った。
天気は雨である。
注文した皿うどんとコップ酒を前にして私は東松さんの仕事について考えた。
外は雨が続いている。

長崎の原爆記念日の日に思い出して佃の家で皿うどんを作った。
外は猛暑の37度である。でも長崎のあの雨を思い出したきてコップ酒を脇に備えた。

唐松さんがキャノンカメラと仕事をしているときに大写真家から私に電話がかかってきた。
ベストなキャノンのレンズと言う質問なのである。
その当時私はキャノンのシステムを使ってたので50ミリの明るさが1.8のレンズが良いですと申し上げた。

東松さんは早速そのレンズで作品を撮影されたようであった。雨の皿うどんのコップ酒その翌日に長崎県立美術館に行って長崎曼荼羅を拝見した。
私のサゼッションした50ミリのレンズがたくさん使っているような気がしたのであった。

2017年8月10日 (木)

1958年11月3日土曜日

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小さな鉛筆で描かれた絵である。1,958年11月3日土曜日と記載がある。裏側には消しゴムで作られたスタンプめいたものが押してある。

自転車に乗っているのは多分その当時の自分であろう。ストローハットをかぶってよく見るとカメラ
ぶら下げているようだ。カメラの形は見えない思い出すに当時私はニコンエフ使っていた。

光景は田園の風景でポプラであるが何かかわからないが3本の大きな木が立っている。
その背景の地平線は 右手が高くて左が低いから岡であることがわかる。想像で書いたのだがヨーロッパにはこういうところがある。オーストリアウィーンの郊外のようにも見える

空には鳥が飛んでいるがその足の格好が変である。
自転車の自分のその自転車の形を見るに後ろのタイヤが丸ではなく三角形に見える。

それを見ていていきなり思い出したのはこのイラストを書いていたときの自分の古い記憶がいきなり蘇ったことだ。つまり完全に円形の車輪を書こうと思って最初に前の車輪を書いて次に後ろの車輪を書いたらそれが歪んでしまったのだ。
そのことをちゃんと記憶しているのだから人の記憶と言うのは実に不思議なものである。

背景の木の葉っぱが非常に細かく書き込まれているのもやはり変だと思う。
ゴッホの有名な風景画で糸杉を書いたやつがあるがあれを思い出す。

オーストリーのwinに住んでいた時もマンハッタンに住んでいた時も私は小さなスケッチブックを持って街の風景を描いていた。それはすごくシンプルなスケッチとも言えない単に線を書き殴っただけなのであるがそういう事は長いことやっている。

でも11歳の頃に描いたこの画を見ると1番仕事としては丁寧なようである。

2017年8月 9日 (水)

私の散歩道ドナウカナルの夕暮れ

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オーストリアウィーンの画家OSKAR KOKOSKAは私が生まれた年1947年に描いたドナウカナルの油絵がある。
作品は小さなものであるがその風景は今とするほど変わってはいない。ドナウカナルの岸辺のポプラの木が昔はちょっと背が低かった位の違いである。
彼の描いた作品の主要なポイントはちょっと目立たないが実はドナウカナルに係る渡船なのである。

ドナウカナルそのものはドナウの本流から旧市街に分かれてまたドナウに合流するのであるがそのトータルの距離は10キロは無いかもしれない。所々にブリッジがあるがそれだけでは不便なのでその間に渡船がある。

当時の渡船の料金は50groschenであった。つまり1シリングの半分と言うから7円か8円というところだ。ドナウの岸辺に降りてそこにぶら下がっている鉄の板を一緒に下がっているハンマーで叩くのである。そうすると運河の反対側にいる人間がその音を聞いて船をこちらに向けてくれる。

別に用もないのにこの渡船をよく使ったのは川を横切っているときに手を差し伸べてドナウ川の水に触ることができるからだ。

私はドナウカナルの住人であったがすぐ近くに大きなコンピューターのソフトウェアの会社ができた。それで多分その会社が出資したのだと思うが渡船はなくなって立派な橋がそこにかかった。
ミックスドルファーブリッジと言うのである。

朝などはそのコンピュータの会社に通勤する若い人でいっぱいになる。これなどは古風な渡船では到底キャパが足りないわけだ。

私の住んでアパートメントのちょうど反対側にアパートメントがあったので昨年の暮れにはそこに滞在した。ドナウカナルの渡船はないけれどもその船が往復したちょうどその同じ空間の高さ10メーター位のところに橋がかかっていると言うのは実に不思議な気持ちにさせられる。

午後遅くにその橋の上から上流を眺めて昔のことを思っていたらちょうどボートがゆっくりと遡上していった。
素晴らしい光であった。

これはiPhoneで撮影したのだがいざとなるとカメラなど何でも良くなる。

2017年8月 8日 (火)

1973年5月5日横浜から船に乗った

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アイランドギャラリーのトークショーでなぜオーストリアウィーンに来たのかの話をした。
とにかく40年以上前の話なので記憶も不確かである。

、そうしたら1973年5月5日に横浜港出発したときのカラープリントがバスルームから出てきた。
何故にバスルームから出てきたのかの説明はめんどくさいので省略する。

写真と言うのは不思議なものでその時の写真を見ると前頭葉の古いところの記憶が徐々によみがえってその写真のショットの前後のことを思い出すようになる。これは写真の不思議な効用である。

ソ連の汽船で2泊して3日目の午前中にナホトカに到着した。ナホトカからシベリア鉄道の1等車に乗って車中一白してハバロフスクに着いた。ロシアの鉄道の1等車はワゴンリーノそれと同じでまるで日光東照宮の感じがした。

ハバロフスクから飛行機でモスクワでモスクワで2泊したのであった。ホテルはメトロポールであった。後になってソルジェニーツィンの小説に出てくる最高級ホテルである。ボロボロのバスに我々2人だけ乗って夕暮れのラッシュの中をいきなりホテルの車寄せにつこんでいいなら群衆がさっと左右に道は開けるのである。何か戦艦ポチョムキンの映画のワンシーンを思い出した。
翌日はホテルのそばのGum百貨店でソ連製のハッセルブラッドを買おうと思って行ったら全部休みだった。これはどうしたことかと思ってホテルのフロントに聞いてみたら今日はドイツに勝利した記念日で休日だと言われた。これからそのドイツの大元であるアドルフを生んだオーストリアに行くのだから皮肉なものである。

さらにモスクワからポーランド経由で国際列車で2泊してwinに着いたのである。winにに着いたのは 5月11日の朝であった。

初めてヨーロッパの光に接したときの感動と言うのは今忘れられない。それとこれは不思議なことなのだが水の質が違うのだろうか到着して1週間位で指の両手の指の皮が全部剥離しのである。何が理由なのかわからない。

これから7年半の長いハネムーンがスタートしたわけだ。当時は今と違ってヨーロッパと日本が遠かったからその間私は日本に行ったのは1回だけだった。その用事と言うのが1976年に開催された現代日本写真家展だった。


2017年8月 7日 (月)

1年半ぶりに本八幡駅の山本書店を訪ねる

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シルバーパスのネットワークというのは東京都内だけである。
だからバスなどは千葉との国境の手前でインフォメーションがあってそこで降ろされてしまう。
唯一の例外は メトロである。
千葉県の本八幡の駅まで行くことができる。これほど発展してる地域であるのに本八幡駅いうのは駅ビルが最近できただけで目立つ 商店がほとんどない。つまり駅の北側に断腸亭がよく通った大黒屋があり駅の南側の踏切のそばにはこれも古い古書店の山本があるのみた。
その大黒屋が閉店したと聞いて現場検証にいったのである。
プラットホームの反対側からみると建物はまだちゃんと存在していた。日本は早いからもう更地になっていたと思っていたのだ。
踏切を渡って建物に近づくとさすがにエントランスにはボードががうちつけてある。
長い荷風が晩年に家から歩いてこの店でカツ丼にお新香食べたというのは我々断腸亭世界では有名な事実である。
それで店のほうも気を使ってしばらく前から永井荷風セットというのをダスようになった。
私は古い時代の大黒屋の建物をしているがカツ丼の味付けが甘過ぎるので好きではない。それで大黒屋がなくなって何やらほっとしたよな気分になっている_
断腸亭はコーヒー の中に非常に砂糖入れたりする。
街を一巡して大黒屋の前から山本書店の前まで来た。
そこは実際100メーターぐらいしか離れていないのであるが街を大回りしまったので30分以上かかった。
きてみると山本書店の様子が変わっていてうなぎの寝床のような細長い建物ノ向かって右側が路面に面したとても長い本棚になっている。
私はシャイなので初めての古本屋さんにはなかなか入りにくいのだ。
古本屋のタナというのは間が迫っているから全体を見渡すことができない_
そうすると捜索ちゅうの本を見落としたりすることもある。
永井荷風関係の本がその大きな長い書棚にずらりと並んでいるがほとんど読んている本であった。その中に唯一永井荷風のお弟子さんだったという人のしかぼん私家本の上下2冊を見つけたのが嬉しかった。
お金を払いに店内に入ってご主人と久しぶりに話をした。私の本も時々置いてあるので私は手元に著書をかない趣味があるから何か必要になって人に差し上げたりするときにこのお店に来ることが時々あったのだ。
大黒屋さんなくなっちゃったんですねというところから話が始まってそこのご主人は古本の専門家であるからこの近くに坂崎幸之助さんが本をおくための部屋借りていたことで盛り上がった。
 
噂によると大黒屋は昨年食中毒を出したのだそうである。
私が大黒屋に行ったのは3年前のやはりすごい暑い日だってそれが古典芸能であるということを認識した上でカツ丼を頼んでやっぱり甘すぎるから自分の口には合わないなあと思ったのが最後だった。

1号と2号

1号と2号
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毎年8月15日が近づくと取り出してくるのがメイドインオキュパイドジャパンの刻印のある昔のカメラである。作りが非常に良い。戦後日本を立て直すべく頑張って作ったと言う熱意が伝わってくる。

コニカの初期のモデルは好きだ。左は占領国日本時代のもので右はそれの改良形である。

Facebookでブラパチ猫クラブと言うのを作った。これが絶好調で今まで写真を投稿しなかった人もどんどん写真を投稿してくれる。猫のサイトはたくさんあると思うがこれはその分離派なのである。

突撃隊長が投稿するこの猫が私は大好きだ。実に良い顔をしているし高級なやつである。
その模様が並大抵ではない。
ルイヴィトンの限定盤カメラよりこちらの限定盤の方がクラス遥かに上

突撃隊長のお友達の猫は2種類で1号と2号と言うふうに区別されている。 ところが彼自身に混乱があるようでどっちがどっちかわからないというか名前が逆に出ていたりすることもある。まぁそれはそれで問題ない。

コニカカメラの場合は左が1形で右が2型である。1型はカメラ本体にシャッターレリーズボタンが付いていない。 2号はそれがついている。

当時の高級カメラの必要なポイントはカメラ本体を握ってシャッターが切れることであった。
コニカ1型の場合は直接シャッターに指を置いてシャッターを切るのである。考えてみればこれはライカカメラのB型と同じである。だから慣れると何かライカを操作しているような気分になる。

1型コニカのほうはこの間ガラクタ屋さんで手に入れた。面白いのはカメラ本体は1型なのにそれにかぶさっていた革ケースはメイドinジャパンであった。

それでにだいめさんに聞いたら中身はメイドインおっぱいドジャパンですと教えてくれた。
革ケースの状態が非常に良いのでびっくりした。この時代のものは何しろ70年前のものだからカメラ本体もボロボロで皮ケースもボロボロと言うのが普通である。
それが去年工場から出荷しましたと言うような程度の良さである。

突撃隊長撮影のねか1型の場合も状態が非常に良い
こっちは上質な毛皮であっておまけに人工知能も付いている。バッテリーも必要ない。

2017年8月 5日 (土)

リスボンのかけら

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リスボンのかけら

リスボンの旧市街は素晴らしい風景である。

30年ほど通っている小さな食堂があるのだがそこで小さなテーブルで食事をとっていると店の前は急な坂である。ワインをちびちび飲みながら黄色い電車が丘の斜面をゆっくり上がり下がりしているのを見るのが楽しみだ。

路面電車のお客はもちろん私を見ているわけで小さなレストランの窓際で安ワインをすすっている東洋人のツーリストの老人が見えるわけだ。
この相互認識作用というのがリスボンの基本的な風景を構築しているもののようである。

リスボンの風景の部分を構築しているのは後のタイルである。
あの アズ0女 である。

町並みを歩いている時にリスボンを感じる要素つまり網膜に映るのがこのタイルの素晴らしいデザインと色と形なのだ。だからその部分を持ち帰ってくれればこれは移動可能なリスボンの風景になる。

こーゆー小さな風景を移動して別の世界の街角でそこから10,000キロ離れた場所を思い出すと言うのは他にもあって家の近く清澄通りにあった立ち飲み屋もそうである。
そのお店が閉店になるときに私はいつも路上に置かれたテーブルの上の安いテーブルクロスだがそれを小さく切り分けてもらってきた。

パリの小さな公園でその小さな思い出のテーブルクロスを開いてワインの小瓶など並べるとそこがそのまま10,000キロ離れた食堂の飲み屋になると言うのは結構いいアイディアだ。

さかしまの作者が書いてる事はそういうことなのである。

2017年8月 4日 (金)

ライカカメラの下につける有効な付属品がこれ

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ライカカメラの付属品のライカビットと言うのはカメラの下に取り付けて迅速巻き上げをすると言うアクセサリーがある。

バルナックカメラの場合は巻き上げがのぶであるからこの付属品は結構役に立った。
ところが戦後ライカエム型が出るようになってから当時の有名フォトグラファーの誰かがライカの会社に同じものをライカカメラMにあったように作ってくれと言ったので大混乱となった。

ライカビットをつけたライカM3モデルはライカエムピーと言うのであるがこれが全く売れなかった。M3のモデルよりも50ドルほど高いだけなのであるが売れなかった。それで500台ほどで生産を中止した。

当時のライカの会社はライカビットMPの在庫が余ってしまったのでその後に出た普及モデルつまりM2とかライカM1 MDにその付属品が使えるようにした。それでも人気はなかった。

私が1番最初にライカビットMPを手に入れたのは友人から買ったのである。値段が13,000円であった。当時としては初任給が35,000円の時の13,000円だからかなり高価であった。

何十年も使って結果として分かったのはライカビットMPは役に立たないと言うことである。しかしそのホールド感覚は非常に良いのである。

噂だがベトナム戦争の取材の時にMPをつけてあの先端のとんがったのを外に露出してベトナムを歩いていたアメリカ人カメラマンが解放戦線の攻撃を受けて地面に伏せた時に引き金の尖った先で結構な怪我をしたようである。それほど危険であるなら今の飛行機などには機内持ち込みはできないはずだ。

これはホールドグリップと言うアクセサリーでどこかの会社がその会社の創立10周年記念で出したのである。ライカビットよりも偉いのはちゃんとシリアルナンバーが刻印されていることだ。

この付属品をつけると気分はいっきょにライカビットMDをつけているアルフレッドEISENATADT やはりカメラ付きの物理学者アルフレッドアインシュタインの気分になってしまう。
巻き上げ装置を必要としないのだからそういう気分を味わうためにはこのほうがいいのだ。

9/10 Bra Pachiワークショップ

R0450150 カメラ人類を引率して街中を右往左往することをフォトグラフィーワークショップと呼ぶ。だからワークショップと言うだけでは何のことやらよく意味がわからない。1,970年代のオーストリーのWienに滞在して日本にフォトグラフィーワークショップが伝来して東松照明さんが中心になって。写真の教室を始めたその名前はワークショップなのである。これは何のことかとwinで考えた。

そのフォトグラフィーワークショップであるが 古くはオーストリアのザルツブルグとかwinでやっていた。これは講師が参加者を指導するのではなくて1ダースほどの写真家を招待して街を撮らせてそれを写真集と写真展にするという文化的な行事である。

私の文化活動はこの長徳カメラ日記  それと6月から始めた長徳カメラ塾である。

しかしいつまでもオンラインでやっていても実際的ではないのでオフ会でワークショップを開催する。詳しくは左下のリンクをクリック。

ワークショップの内容は1980年に私がザルツブルグで教えていたのとほぼ同じプログラム構成である。ただしその時は参加者はMITの学生であったので日本語が通じない。それで仕方なくつたない英語でワークショップをやった。今回は参加者の皆さんは日本語が堪能なので日本語である。

ザルツブルグでやった時はまず旧市街から歌劇場の脇を通ってザルツブルグの山の上に上った。そこには宮殿がある。しかしそこには寄らないでさらに山から下に降りて ザルツブルグの裏を撮影した。

今回は私が少年時代に生まれ育った文京区音羽から少年時代の私の全世界であった半径1キロ位のところを動き回る。

以前ナショナルジオグラフィックマガジンの仕事をしている写真家をこの辺を案内した。彼は感激して実にすばらしい  ここに住む手立ては無いかと私に聞いたのである。

彼はその前の週にアンコールワット撮影に行ったんだから音羽もアンコールワットと対抗できる人類が文化遺産であることがわかった。

今回のコースは護国寺の裏手に向けて雑司が谷を斜めカットして鬼子母神から早稲田に抜けると言う結構高度なトラッキングであるが  私と同じような高年齢の人が多いと思うのでコースは楽にして高いところから低いところに移動するようにした。

エベレストの頂にヘリコプターで行ってそこから降ってくるようなものです。

詳しいと見所とかそれは当日お話しするとして昨日のロケハンで1番興味があったのはガストロノミーの本質は何であるかと言うことだった。

フランス政府観光局が仕事で2週間ほどヨーロッパでワインの蔵元とかミシュランの星付きレストランをぐるりと回ったがそのような意味でのガストロノミーではない。

スペインのバスク地方取材していた時に数百年前からあるガストロノミーの組織と言うのを取材した。これは週に1回とか地元の親父連中が集まって全員で手料理を作って楽しむと言うものである。
しかも男子のみで女子禁制であって第二次大戦以前は食事が終わって皿洗いも全部男性になっていたそうだ。

要するにアマチュアの手料理の集まりなのであるがそのメンバーは厳格に決められていて先祖代々の株を持っていないとメンバーになれないのである。

いわゆるプロフェッショナルよりもアマチュアリズムの方が遥かに上であるという事はこれは我々のやってる写真にも共通している。

私は東京中で個人の家でそこの奥様が趣味でやっているいわゆる奥様レストランと言うものに前から興味を持っている。今回のコースの中で雑司が谷宣教師館の隣黒田さんと言うオタクがあった。いわいる奥様レストランであって玄関から靴を脱いで上にスリッパはきかえて上がるがるとそこで手料理を出してくれる。
何か親戚の家に来たようでなかなか興味深かった。

ガイドブックに出ている三つ星クラスのレストランと言うのはやはりフランスのブルゴーニュの田舎の簡単には行けないようなところにあってさらにレストランの席の数が非常に少ない。
何か個人的な営業のガストロノミーと非常に似たとこところ狙っているのが面白い。

2017年8月 3日 (木)

中原街道のシトロエン

中原街道のシトロエンImg_3846
フランスの有名な車シトロエン。

それが走ったり止まったりしている街を見るのが好きである。1,970年代のヨーロッパではシトロエンはごく普通に見ることのできる車であった。

シトロエンには両極端なのがあって1つはDSシリーズでありもう一つは例のアヒルである。同じメーカーが作ったとは思えないところが面白い。

1976年にwinで商業映画の撮影をした。その時のシナリオを事前にチェックしていた時にこれは1種のコミカルなギャング映画であるがクラシックなシトロエンが登場した。
そのシトロエンの実物を見る前に私は例のDSシリーズのもっと古いやつだと思って期待していたのだがそこに登場したのはごく普通の戦前のセダンであった。
ちょっとがっかりした
私が好きなのはDSシリーズであってあのハンドルが1本のスポークと言うのも宇宙的で不思議なバランスな存在である。

この間のパリでも私は無意識に視野の端にシトロエンDSを探しているのである。しかしそれは全く見つからなかった。むしろ数年前に銀座のプランタンの脇を夕暮れどきに緑色のシトロエンDSが急に角を曲がって高速で駆け抜けていくのを見た。これこそ本物のシトロエンである。


これは何か後で聞いたらフランスの大使館の文化部とかそういう関係者の車であるらしかった。東京のあちこちを歩いていて街の周辺部にシトロエンのメンテナンスでやっているのかやっていないのかわからない工場があってそういうところにほとんど廃車になっているシトロエンDSが大事に置かれているのを見るのが好きである。

この中原街道のシトロエンの専門店もそーゆー私の好きなポイントであっていつも楔形のガラスのビルの先端に挟まれたように止まっているDSを見に行ったこともあった。

この間酷暑の日に馬込あたりから歩行しだして中原楽街道の上りの右側の路肩を歩いていたらいつも前を通っているシトロエンの修理工房の全貌が見えたのである。

巨大な看板シトロエンDSの左頭サイド10対0のイラストが掲げられていた。
この変な言い方は半世紀前にトヨタの広告の仕事をしていた時に車のスタイリングの車の向きを撮影のメモするときの業界用語なのである。

シトロエンDSのイラストは本物のシトロンよりももっとシトロエンであった。
トータルで10数枚 私としては珍しくアングルを変えて撮影してやれやれとベンチに座り込んでフィルム交換をした。

その時に素晴らしいシーンが目の前に起こったのである。
時々街で見る6台から7台の車両を搭載した運搬車の大きなトレーラーがある。
それがモダンなペラペラの安っぽい軽佻浮薄な没個性的な新車を積んでシトロエンのイラストの下 渋滞でノロノロと通り掛かった。

いくら渋滞でもライカM3カメラでオリーブ色の巻き戻しのぶを回して全部フィルムを巻き取って新しいフィルムを装填するするには時間が足りなかった。

そうした逃したシーンと言うのはすごい残念だがもともとフイルムが装備されてないカメラを持っているときは私は写真家ではないのだ。

これが1番わかりやすい決定的瞬間に対する割り切り方である。

😎ライカM3西ドイツ軍所有エルマー50ミリImg_3940


2017年8月 2日 (水)

winの私の散歩道 12月の寒い朝

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オーストリアウィーン12月の寒い朝だ。
曇っている日よりも晴れている日の方が寒さが厳しい。ドナウカナルの1番北にある橋である。

その名前をFriedence Bruecke
と言う。

第二大戦後アメリカフランスソ連の3つの国に分割統治されていた10年間の間この橋よりも東側はソ連の管轄地域であった。

赤軍の兵士が市民から物を略奪してどんな悪いことをしたかなどと言うことを土地の人々は絶対に忘れない。それを私のような極東から来た青年に語り部として話してくれるのだった。

1,950年代の今よりもはるかに寒くてかわの水が凍ったそうだ。
私の滞在中かその後の訪問した時完全に凍った運河ではないけれども1部が凍った川を見たことがある。それほど厳しい寒さだ。

系統番号が5と言う電車が走っていてこれはプラッターのメイン通りからこの橋を通過してベートーベンのお葬式が通った通りを越えて西駅にまで行くのである。

1973年我々がwinに住み始めた頃にはまだ木造の電車で乗り降りのドアはそのまま吹きっさらしだった。そういう博物館 クラスの乗り物に乗り降りしていたのは今にして思うと懐かしい。

今ではそのようなクラシックな電車は人気であってツーリストが高いお金を払ってわざわざ乗っている位である。

橋の上流に見える奇妙な煙突はフリー田スライ日フンデルトヴァッサーが制作したwinのごみ焼却工場である。

私のwinの暮らしの記憶と言えば常にドナウ運河の2階のアパートメントからこのドナウ川沿いの道を歩いて橋を渡ってこの駅に行くと言うことであった。

橋を渡る手前に馬肉のお店がある。これはどうもナポレオン3世がwinにいた時にフランスの習慣を持ってきたのらしい。そこで売っているのは全て馬肉なのである。

7年ここに住んでお店のお姉さんと親しくなって無駄話ができるようになったらそれから40数年も経過して彼女たちはとっくに定年退職でいなくなっているから
この間行った時はお店にいるのは新しい店員さんだった。だけども私が変なwin弁で喋るのでよく覚えていてくれた。

この橋の上を吹きすさぶ風と言うのは大変なものである。橋を渡るときはまず深呼吸をして呼吸を整えてから渡る必要がある。1番寒いのはこのようなよく晴れた日の朝。これが曇っているとやや暖かくなるし雪などが降ればむしろ楽なものだ。

2017年8月 1日 (火)

私の散歩道。パリフランス。 3マルタン運河のほとり

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8月の5日からアイランドギャラリーで始まる写真展は私の散歩道と言うのである。その内容は昨年の12月にオーストリアのウィーンで撮影したものだ。散歩道と言うのはコースは大体決まっているがこれはツーリストのやることでは無い。

その町に住んでいる人間が日常性の退屈に困ってしまってそれでいつも知っている道を歩いてわずかながら発見をしようというのが散歩道なのである。
オーストリアウィーンで苦労したシグムントフロイトも散歩することの愛好家であった。

だからオーストリーのwinとかチェコのプラハなどは長年住んでいたから私の散歩道と言うのが伝統芸能としてちゃんと私の中に存在する。

フランスのパリの場合はそれとはちょっと意味が違っているがやはりツーリストではないからこれは散歩道をうんぬんする資格はあると思う。
ツーリストと言うのはセーヌ川を遊覧船で行ったり来たりらしたり巨大な教会に行ったりサントノーレで買い物したり到着の翌日なのにラーメンが恋しくなって高くてまずいラーメン屋さんに駆け込む人々のことを言うのである。

1985年にフランス政府観光局の仕事で主にパリとブルゴーニュを回って本物の観光と言うものを体験させてもらった。本物の観光は食欲と視神経がタフでなおかつ足が鉄でないとやっていけないと言うことがわかった。

この春のパリ滞在などではもちろんのこと私は母なるセーヌは1度もみなかった。ギャラリーには数回行ったけれどもそれは自分が写真展をやっているから業務上で行くのであるが
北駅のホテルから往復したのである。

それで自分で勝手にこれがパリの自分のベンチだと決めている3マルタン運河のそばの汚れたベンチに毎朝通ってそこで鳥の声を聞いたり原稿書いたり持参の酒をちょっと飲んだりしていた。

そういう生活に非常に満足したと言うのも武林無想あんのフランスにいた頃と今では通信のクオリティが全く違うからである。

かれば南フランスで食い詰めて日本に送金を頼む時に最後の 1フランをはがきに貼ってそれをポストに投函する。そこに絶体絶命な旅行者のダンディズムがある。
それに比べるとパリのベンチに座っている私などはなんとも腑抜けである。

でも私のような外国人にもパリの街はずれの運河は素晴らしく私を歓待してくれるのだ。これがパリの平和と平等と博愛と言うものか?
音声入力はいい加減である。迫害ではないぞ。

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