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2017年7月31日 (月)

私の散歩道 カール・マルクス団地

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8月5日土曜日から京橋のアイランドギャラリーで私の個展が始まる。昨年の12月にオーストリアウィーンで撮影した私の通常の散歩コースの紹介である。

なぜ夏に取らないかと言う事は単純であってwinの歴史的な旧市街は夏は竹下通りのようになってしまって私のような老人の歩くスペースは無いのだ。

それで真冬が良いのは通行人がいないこともある。この古い街で映画のロケをした時は警察の協力もえて通行人を排除するのが大変だった。
だから真冬は撮影には絶好調なのである。

winのメトロの終点がハイリゲンシュタットである。ベートーベンのいしょで知られる有名な観光地であるが大音楽家が徘徊した小川と言うのは今ではコンクリートで固められたつまらない小さな流になっている。

それよりも有名なのはカール・マルクス団地である。20世紀にほんの短い間だがオーストリアウィーンは社会主義の国になった。赤いwinと呼ばれている時代である。労働者のために大規模な団地が作られた。それがカール・マルクス団地である。
今でもその記録は破られてないと思うが世界で 1番全長が長い団地である。路面電車の駅でも4つあるのだ。

その単身者用の部屋を見たことがあるがこれは刑務所の独房並みの広さというか狭さである。社会主義の下では1人の働く人間が所有するスペースはそのぐらいで良かったと考えられていたのだ。

winに行った時の私の散歩のコースはドナウ運河をそのまま上流に歩いて行ってカール・マルクス団地まで行ってそこでコーヒーをいっぱい飲んでまた歩いて帰ってくると言うのであった。

そんなこんなの散歩の話を6日日曜日の午後3時からアイランドギャラリーである。入場も予約も無料。暇な人は聞きに来てください。

2017年7月30日 (日)

アルゴン星人の襲来

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間宮マガジンと言う古いカメラがある。

当時はフィルム代が高かったハッセルブラッドと同じアイディアである。
モノクロームと天然色フイルムと言うふうに撮影の途中でフィルムマガジンを交換すると言う当時としてはすばらしいアイディアであった。

今ではデジタル式カメラで撮っておけば後でどうにでもなるからそういうのは必要ないけれどもこういうのはカメラ人類の文化遺産と言うべきだろう。


間宮マガジン35のマガジンが手元に3つも4つものでカメラ本体をカメラジャングルに分け入って探した。奥の奥のほうに似たようなカメラがあったので引っ張り出した。
それはマガジン35のカメラ本体ではなかった。見たことも無いカメラなのである。

その名前をアルゴンと言うのである。

これはかなりやばい状況になってきたなと思った。というのもカメラジャングルから発掘されたカメラと言うものは以前買ったことがあると言う記憶が戻ってくるものだ。ところがこのアルゴン星人に関してはその記憶が全くない。

記憶がございませんとか記録がありませんと言う今の流行らしいからまぁそれはそれで良い。

英文で検索してみたらその名前のカメラはヒットしたのだが1957年製造と言うだけである
他の事は一切わからない。それほどレア物と言うわけではないが記録にないわけだ。

そのカメラを手にしているときにカメラ本体の形が以前どっかで手にしたカメラと非常に似ていることがわかった。それでカメラジャングルの別の方向から大昔ガラクタ屋さんで買ったカメラを発掘してきた。

その名前をウィンザースーパーと言うのである。比較してみるとボデイの本体の形は全く同じであるがトップカバーのアクセサリークリップの位置等がやや異なる。

要するに謎のアルゴン星人カメラはウィンザースーパーのOEMのようである。
レンズは明るさが1.9の高級品がついている。なんとなくそれで思い出したのは帝国光学が作った頭脳レンズもスペックが似ていたような気がするから案外OEMかもしれない。

カメラはズシリして重くて大きくて立派である。
ライカカメラよりもも重いのである。今年の夏のトレンドは大きくて重いカメラなるかもしれない。
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2017年7月29日 (土)

パリPANORAMA 3マルタン運河と北ホテル

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神田明神の脇のギャラリーバウハウス上のコレクション展が盛況本日最終日だ。
何しろ世界的に有名な写真家のトップクラスのコレクションであるからそれらは非売品である。

買うことができるのは我々のクラスのアーティストと言うことだ。
この作品は1,980年頃に制作されたヴィンテージプリントで長野県のコレクターの方が購入してくれた
そうだ。ありがたい次第である。

パリの3マルタン運河と北ホテルの辺りは私が初めてパリに行ったときの最初の印象の街がある。

それは何の不思議もなくてパリ東駅に降りてそのまま荷物を持ってここに来たからだ。それ以来何十回も訪れている
春のパリでの写真展の時も自分のベンチとして決めてある場所で何時間も座って文章書いたり考え事をしたり小鳥の声を聞いたりしていた。

1979年と80年にザルツブルグのインターナショナルフォトワークショップで主にMITの学生に教えた。宿舎はカレッジの中の部屋をあてがわれた。カレッジは宮殿であってその 1室であった
夜のプライベートの時間には撮影したパノラマのシリーズをプリントした。

その作品が200点以上ある。目下着々と写真集の出版計画進行中だ。

ところでモダンプリントではなくヴィンテージプリントには不思議な思いがある。
要するにプリントのエディションが1であるから売りたくないと言う気持ちも半分ある。
そこら辺は微妙である。

2017年7月28日 (金)

100年の誕生日を祝うニコンモータードライブエフ250

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7月25日がニコンの生誕百年であった。
非常におめでたい。その前日の前夜祭と言うことで新宿のホテルで盛大な誕生パーティーがあった。

7月25日の日本100周年の新聞の全面広告は良かった。ニコンはイエローとブラックなニコンカラーなのである。1時大メーカーのイメージを変えるためにイメージカラーをやたら当時の考えでは爽やかなブルーとか空色にしたことがあったがやはりニコンはブラックとイエローだと思う。

私がニコン100周年をお祝いするならこのニコンエフモータードライブ250モデルだ

フィルム写真全盛期のタイムライフの写真部で世界中の有名写真家が集合して記念写真を撮った。その中心に位置するのが大型三脚にのせられたアストロの千ミリ望遠レンズでそこについているのがこのニコンの250モーターだった。
ジャーナリズムの最高峰の地位を占めた。

広告の仕事をしていた時に年にいちど日本製品の全商品の撮影というのがあった。8X10での撮影で朝10時からカメラと交換レンズと膨大なアクセサリーを並べ出して夕方5時ごろまでそれがかかった。撮影は2分ぐらいで終わる。確か同室は絞りが64で10秒ぐらいだったかな。その中心にいたメインスターがやはりモータードライブ250がついたニコンエフなのであった。

私のwin時代つまり1973年から1,980年の期間にもこのモータードライブに250モデルは活躍した。そして今でも活躍しているのである。かし


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2017年7月27日 (木)

ヒューゴメイヤーのレンズはブームなのか?

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Mayerのレンズがオンラインでよく出てくる。
有名なブランドであるが市場に流通しているのはOEMであろう。
その値段にびっくりする
100,000近いのだ。

Mayerのレンズはそれが現役時代にはいわゆるB級のレンズであった。
性能が優秀だが価格設定がZeissよりも1段階安く設定されている.

当時の業界を見るとシュナイダーレンズがトップであってそれよりもワンランク下のブランドがIscoであったのと同じようなブランド戦略である。

この58ミリは第二次大戦直後に製造されたものだが明るさは1.9である。現代の1.9ではなくて当時は絞りの値が1で始まるのは素晴らしく明るいレンズであった。

アルフィーの坂崎さんと知り合った25年位前に何かの集まりの時に坂崎さんからいただいた。それで各種のプラクチカマウントの一眼レフにつけたりアダプターを使ってこんなふうに活用したりしている。レンズはその描写はクラシックなのであるがそこに味があるわけだ。

正直言って私はレンズの味と言う事はよくわからない。
だから最近のライカのボディーにアダプターでありとあらゆるレンズをとっかえひっかえ付け替えてその味を楽しんでいると言うような皆さんは視神経が非常に優秀なのではないかと尊敬しているのである。

しかし推察するに彼らに目隠しテストでレンズを評価させたらみんなボロボロになってしまうのではないかと思っている。

このプリモプランのレンズの私から見た魅力はそれが自動絞りでもなくプリセットしぼりでもなく普通しぼりであることだ。

そこにクラシックな一眼レフで撮影することの美学があると思うのだがレンズマウントアダプターで最近のデジカメにつけてしまえば別に何の問題もないと言う不思議な時代にわれわれは生きているのである。

2017年7月26日 (水)

父親が亡くなった日の朝にアローカメラで買ったカメラ

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ニコンブランドが100年である。
10数年前に出した写真集東京ニコン日記を見たらトップに私の父と義理の母が亡くなったことに関するメモリが記載されていた。

東京ニコン日記は確かニコンカメラが最初に発売されて50年の年に出した写真集と記憶している。
私は計算に弱いので今年のニコンの生誕100年と言うのはそのカウントの仕方が少し違うのではないかと思っている。
ちょうどライカカメラの歴史がやはりUrライカで始まるかそれともライカの1形で始まるかのカウントの仕方で年代がずれてくるのかこれは同じことなのかな?

東京ニコン日記のトップを見たら父は17年前に他界している。
そんな昔だと思わなかった。せいぜい10年位前だとばかり思っていた。

深夜に連絡があって明け方白々した時刻に父の体が病院から帰ってくるのにであった。
葬儀屋さんと打ち合わせをすると私はもう何もやることがなかった。
それで出勤時間前の電車に乗って新宿に出たついでにガラクタ屋さんに行ったのである。

アローカメラの買取名人に父の訃報を告げた。買い取り名人は小走りにどこかに行ってすぐ香典袋を手に戻ってきて香典をくださった。
誠にありがたいことである。
香典袋と言うのは買い置きしてはいけないものだと言うこともその時名人から教わった。

そのお香典の1部を使って私はガラクタ屋さんで買ったのがこのカメラなのである。
父を記念するカメラである。

ちょっと見た目にはニコンのレンジファインダモデルとかコンタックスのレンジファインダモデルに似ているところが可愛らしい。

レンズは富岡であるからまず間違いがなかろう。
父親のことを思い出すためにこのカメラはいつも仕事デスクから見える場所に安置されているのである。

いつかこれで写真を撮ってみようと思いながらいまだにそれが果たせていない。
まぁそれはそれで良いようなと思う。ローヤル35は不思議なことに非常に使い込まれている。
という事はそれだけ優秀なカメラだったと言うことなのだろう。


2017年7月25日 (火)

ライカカメラに田中光学のレンズをつける

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戦後レンジファインダカメラの各種の製品を出していた田中光学と言うのは名前が同じなので近親感覚がある。

何十年来使っているのだが
実に不思議なのはカメラ本体の事は別におくとしてそのレンズが優秀なのである。
優秀といっても用意されたレンズは35ミリと50ミリが数種類そして135ミリ位であった。

35ミリの広角レンズはどうもOEM製品のようであって50ミリレンズもそのバックグラウンドはよくわからない。でも私がここで問題にしたいのはOEMだからどうこうと言う話ではないのである。
レンズは性能が全てだからその背景でどこが作ったと言う事はそんなに意味はない。

新東京人のシリーズを撮影しているが
50ミリが必要になることもある。高梨豊さんの場合は当時の高級レンズライツの50ミリの明るさが1.4のレンズであった。私は別に暗いとこを撮影に行くわけではないので明るさは2.8で充分である。

そのブランドをTanarと言うのである。

このレンズは実に不思議であってその本体はずしりと重い。感じとしてはライツのレンズよりも重いのである。そして作りも非常に良い。
距離計に連動しているわけではないが50センチまで接近できるようにヘリコイドを繰り出すことができる。

私の場合は別に近くを撮影をするわけでは無いから1メートルまで接近できればそれで 満足なのだがヘリコイドを回転させていると指先が精密機械を扱っていると言う気分にさせられる。
これはカメラを操作する上では非常に大事な大事な魅力だ。

最近登場する有名ブランドの高いレンズに関して言えば残念ながらそのお金に対応するだけの操作上の精密感覚と言うものが欠如している。
これは非常に残念なことだ。

そうなると最初からオートフォーカスレンズの選択肢と言うのはなくなってしまう。だから私は相変わらずマニアルの50年以上昔に作られたレンズを大切に愛用しているのである。

2017年7月24日 (月)

宝田久人写真展ギャラリーシリウスザルツブルグのお城の上から

新宿のギャラリーシリウスで26日の午後3時まで開催されている私の古い友人宝田の写真展について。その3回目。

ザルツブルグのお城の上から下を俯瞰した写真である。
珍しくこのショットでは宝田はちょっと長い望遠レンズを使っているようなのだ。その理由は言うまでもなく背景の旧市街がかなり手前にせり出してきているからだ。
このショットを見て私がめまいに似た感情を覚えるのは背景の旧市街の角度がちょっと変なことになる。要するに旅役者の安い芝居小屋のいい加減な背景の書き割りのように見えるのだ。そこが面白い。

ザルツブルグは私も思い出の場所であって2年間ほどここで夏にザルツブルグカレッジと言う国際写真ワークショップ ショップで教えていた。

相手はMITの学生である。私が写真を教える代わりに彼らから生きた英語を教えてもらってこれはこれで勉強になった。私の散歩コースと言うのはザルツブルグのお城の山を越えることになった。今ではそんな体力は無理かもしれないが何しろ30代であるしそんなに高い事は無いから簡単に上ることができる。

そして山を下って野原をちょっと行くと私が教えていたザルツブルグカレッジがある。
そこは風光明媚な湖とお城のあるところで私は知らないが大昔の映画サウンドオブミュージックのロケの場所になったそうだ。よく日本人の旅行者の女子の2人連れがガイドブックを持って芝生の中に迷い込んできたこともあった。ほらここよここよとか言っているのである。

カレッジとしては私の経費を安くするためにそのお城の1室を宿舎にしてくれた。
朝目覚めると目の前が一面の緑があって湖に白鳥が浮かんでいてその先にはヒトラーの山荘のあった岩山が見えている。
そういうのは2 3日はいいがそこに2週間もいると退屈である。

ワークショップを教えていたのは他にシンディーシャーマンとかラルフギブソンもいた。

それでお城がそびえているこの山にはよく上ったがお城の上には上ったことがなかった。宝田の写真を見るとそれでここの風景が非常に奇妙に感じられたわけである。

宝田の仕事のほとんどは広角レンズでとられている様だがこれはどちらかと言えば数の少ない望遠レンズの優れた作品である。宝田の望遠レンズのテクニックが我々の視神経を錯覚させるわけだ。そこが面白いと思う。

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Kyujin TAkarada

Img_3802Chotoku Tanaka

2017年7月23日 (日)

宝田久人写真展ギャラリーシリウス アマゾンの鉄砲撃

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宝田久人の写真展の展示作品が非常に良いのでびっくりしている。
昨日の続き。

オープニングレセプションの時に乾杯の音頭を取るように指示されてその時に短いご挨拶をした。


尊敬する写真評論家の田中雅夫先生が歴史的に我々の間で有名だったのは乾杯の前の演説が長すぎて30分になったのである。東京の大きなデパートで開催された超有名な外国の写真展だったと思う。中には気持ち悪くなって倒れそうになる人もいた。
だからご指名で乾杯をさせていただく時は私は2分以内に収めるようにしている。

でもそれは自分の心の中の時間であって案外30分ぐらいかかっていたのかもしれない。
その時皆さんに申し上げたのはロバートキャパと久人の共通項のことである。

写真家の命と言うのは彼が生存している時間の間のことではない。
その先 写真家の存在は作品を通じて伸びていくのである。

数年前横浜美術館で開催されたロバートキャパだって誰もキャパが存廊していないことに腹を立てる人などいない。
久人も全く同じ次第であって
彼の仕事は非常に長い時間軸で未来に向かって生きていくのである。そんな当然な写真の哲学論理をかみしめた次第だった。でもそういうことにはわれわれは気がつかないのがである
普段は主催者の巧みな宣伝によって大混雑の写真展会場の人の頭を見に行くわけである。

アマゾンの複雑怪奇なカルスト大地みたいなところをバックにして
そこで男性が鉄砲を手にしていると言うショットが気にいった。
鉄砲と言うのは武力衝突とか戦争で険呑なものだと言うネガティブなイメージがあるが
このロングショットを見ると人間は鉄砲ぐらい持っていないとこの厳しい環境では生き延びることができないと言うすごいポジティブな印象を受ける。そこが非常に教えられたことである。

1連の写真を見て思ったのは彼がどんなカメラを使ったかなどと言う些細な事は全く頭に登らないと言うことである。それが写真のコミニケーションの本当の道である。ブランドカメラやブランドレンズに右往左往しているわれわれはまだカメラ雀であるわけだ。

写真展は26日まで開催中。最終日は午後3時まで。
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2017年7月22日 (土)

宝田久人写真展ギャラリーシリウス ベルファストのくわえたばこの少年

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最近ギャラリーバウハウスで非常に有意義なAtgetの写真展をやった稲垣さんから新宿のギャラリーシリウスで7月20日からスタートした宝田の写真展のレセプションに案内された。

稲垣さんはなくなった宝田のアシスタントを長く勤めていたのである。新宿のギャラリーシリウスと言うのは2001年にできたらしいが私はギャラリーには行かない主義だから全く知らなかった。そこで宝田の20歳代の仕事を見た。

見てびっくりした。
私は世界中でおそらく1,001以上のギャラリーとかミュージアムは回っているはずであるがとにかくプリントのクオリティーが高い。
宝田の外見の印象からすると細巻きの葉巻をくゆらせらせている正体不明のじじいなのであるがこういうGJからどうしてこんな素晴らしいプリントが生まれたのかびっくりしてしまう。

荒木もそうであるけれど宝田にも何か東京人独特の実はシャイなのだが外見で突っ張るようなところがある。それはそれで良い。それよりはるかに重要なのは宝田の仕事は素晴らしいことであった。

スナップシューターとしての宝田のレベルと言うのはオランダの写真家江戸バンデルエルスケンと同等なのである。しかしエルスケンの方が政治的な嫌みをその背景に持っているからわずかの差で宝田が勝っているということを発見した。

これはレセプションでの大発見だった。

彼が撮影した場所は世界中に及んでいるのが1番感心したのは当時の世界の東西とか南北問題など最初から全く無視して ただただ単に素敵な人間の笑顔にアプローチしている点にある。そこが素晴らしい。
民族も国家も一切なくなったように見えるのが素晴らしい。

70年代の写真家の仕事と言うのは評価されるのは政治的な視点に目覚めているということにあった。ところが宝田の場合はもっともっとレベルが高いので最初からそんなのは問題にしていないのである。

例えばロバートフランクは深い意味ではユダヤ人の問題に肉薄した結果写真集アメリカ人を出したわけだがそういうのも宝田の場合は無視している。つまり無味乾燥あっけらかん合法磊落なのである。

ベルファストと言えば丼マッカランなどが撮影して死ぬか生きるかの大変な戦争大都会なのであった。
ところが宝田の3人横並びの少年のショットはそんな事はどうでもいいと言うような視点なのである。
そのフレキシブルな感じがとても良いと思った。

左に立っているくわえタバコの少年に私は恋をしたのであるが複写させてもらってクローズアップするとどうもくわえタバコではなくてボールペンにも見える。

でもそれは大した問題ではなくて少年のくせにボールペンを口にしてタバコのように見せると言うのは本当の男であろう。
アシスタントの稲垣さんで思い出したが私が尊敬する稲垣足穂の場合大手の出版社に著者写真を頼まれてボール紙を丸めて作った葉巻を口にくわえている。母でなアロハシャツはこれは奥さんからの借り物だったそうだ。

今見るべき重要な写真展である。
宝田が偉いのはいわゆる功成り名遂げた写真家になる道を選ばなかったところにある。

伝統文化継承者とか人間国宝になってしまってはおしまいである。

写真展は 7月26日まで。

2017年7月21日 (金)

新東京人 虫取りの夢

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私の中学での将来の夢は昆虫学者になることであった。
大体小学校の図書館にはアンリファーブルの昆虫記があるからこれは伝染病のようなものである。

結果としてならなくてよかったのだが中学校の時に文京区の音羽の自分の周囲の甲虫の生態を調べて東京は上野の国立科学博物館の大ホールで発表会をしたのである。

当時の文京区の音羽の谷を中心に小日向そして関口はまだ明治時代のクヌギの巨木などが残っていてそこには昆虫がたくさんいた。

ちゃんとした発表会用の資料も主催者が用意してくれた。そのスライド発表はモノクロームのミニコピで父親が複写してくれた。

尊敬している昆虫学者は加藤正世さんと言う人がいてその人の主催する集まりなどにも顔出していた。
その時の加藤先生は既に昆虫採集は半ば卒業して昆虫の写真を撮影しておられた。

朝日フレックスに大きなベローズをつけて金属三脚に乗せて色々と取るのである。
私は3本つないで長くした捕虫網を持って野山を駆け回るほうがはるかに面白いと思っていた。つまり当たり前の中学生である。

お付き合いのあった写真家で昆虫に詳しいのは大倉瞬二さんであった。1976年にヨーロッパで展開した現代日本写真家展の準備でアトリエにお邪魔した時にもっぱら写真展の準備はそこそこで彼の集めた蝶の膨大なコレクションを見せてもらった。

そういう昆虫少年が既に過去の記憶の中に全部格納されてしまったにもかかわらず自宅からメトロ駅まで歩いて行く中にこういう風景を見ると私の昆虫採集の血が騒ぐのである。

全てはここから始まった。


2017年7月20日 (木)

中野区本町6丁目のバスストップで来ないバスを待ち

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シルバーパスを使うようになって2ヶ月を超えた。

中野のギャラリー冬青に打ち合わせに行った。

そこに行くバスはたくさんあるのであるが出発する時刻がほぼ同じなのである
例えば午後2時の約束で行こうとした

シルバーパスで全部いけるような一筆書きのコースを頭の中に描いていた。
午後1時に出るバスは1時5分1時25分1時50分と言うような感じなのだ。それが異なる系統でも同じ時刻に発車てしまうので1時5分のバスを乗り過ごすと次は1時25分しかない。

バスの出発時刻があまりに正確すぎるので逆に使いにくいのである。

70歳の老人が新宿の地下広場からバス停まで階段を上り下りして大変な労力を使った。

結局バスで行くのは諦めてJRで中野駅で降りて10分歩いたら約束よりも17分前に着いてしまった。
でもこれは良かったのがいきなり大変な集中豪雨がこの地を襲ってきた。
それでゆっくりいろいろな話をすることができた。

用件を終えて帰ろうと思ったら雨がますます激しくなる。そこにやってきたギャラリーのお客さんとか主催者さんなどといろいろ楽しい話ができよかった。

そのうち天候が回復してまた本物の夏のアフタヌーンになった。

本町六丁目のバス停から新宿行きのバスを待ったのだがこれが当然のことながら時刻通りには来ない。私にはジンクスがあって必ず自分が乗ろうとするバスの反対側にバスがどんどん行くのである。

今日もそうであって反対方向に走っていく たくさんのバスを見送って結局20分ほどでやってきたバスに乗った。
私はそういうときにはイライラしないのである。

本当の都会の風景が本当の都会のアフタヌーンがそのような逆光の中に自らを示しているからだ。

2017年7月19日 (水)

レトロフォーカスのレンズを来夏につける楽しみ

レトロフォーカスのレンズを来夏につける楽しみ

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一眼レフ用の超広角レンズいわゆるレトロフォーカスレンズの技術というのは割と最近に登場したものであった。それ以前は一眼レフでありながらわざわざミラーをアップして補助のファインダーをカメラの上につけたりした。

私が半世紀以上使っているニッコール21ミリなどはレンジファインダタイプのレンズであるからそれをアダプターでライカにつけたら非常に調子が良くなった。

広角レンズの過渡期と言うものがあってフランスのAngenieuxと言うメーカーは28ミリの一眼レフ用のレトロフォーカスレンズに距離計連動カムをつけてそれをライカカメラに使えるようにした。

レンズの全長が非常に長いので変な感じで当時は人気のないレンズであったが最近はそのエキゾチックな感じに人気が出て非常に高いレンズになってしまった。

このNikkor 20mmもそうである。私は最初期モデルのフィルター型が72mmのやつが好きなのである。
レンズが大きいのでちょっとみると何やらグロテスクな感じがするが手にしてみると全体のバランスは決して悪くは無い。

考えてみれば初期の映画撮影機に超広角レンズをつけたスタイルと言うのもレンズが大きくてちょっとグロテスクなのであるがそこに撮影機のダイナミズムを感じたものであった。

唯一問題なのはこの時代のレトロフォーカスレンズはピントはかなり良いがディストーションが残っているのである。このレンズに限ったことではなくてこのディストーションは原理的なものでなかなか根絶するわけにはいかない。

2番目の問題点は対象型の超広角レンズの場合は周辺が原理的に若干落ちて暗くなるのである。
その描写が私は好きなのだがレトロフォーカスの超広角レンズの場合は周辺がほとんど落ちないのでそれが面白くない。


2017年7月18日 (火)

時代劇の撮影に手間のかからない町

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オーストリアウィーン旧市街。この小さな教会とその前の噴水の広場は映画向きなのでここで商業映画のロケをしたこともある。左側の小さな店がカフェであってそこで悪役がフィナンシャルタイムスを椅子に座って見ているという設定だ。俗っぽいがそれが映画と言うものだ。噴水のそばにエキストラさんを+配置した。そのうちの1人はちょうどATGETが撮影したパリの19世紀の行商人の姿そのままなのである。

以上はFacebookからのテキストである。

なくなったZeit Foto Salonの石原悦郎さんが37 8年保管していた1970年ヨーロッパでたくさん撮影したパノラマ写真のシリーズがある。

そのシリーズは200点以上あって昨年某出版社から出版の予定だったが出版社の都合により中止になった。それでプリントは今私の手元にある。プリントを端からずっと見ていると忘れていた記憶が復活してそれはなかなか面白い。

写真家の仕事というのは面白いものであってそれを撮影してから半世紀後にようやくその意味がわかって仕事が実を結ぶと言うこともある。このヨーロッパのパノラマシリーズと言うのもその一つではないかと考えている。
このシリーズの新たな出版計画も着々と進行中である。

この噴水の左側の角にある小さなお店があるが私が記憶している70年代後半はここは小さな喫茶店だったのだ。ところがこの写真を見るとそうではなくて別のお店になっているようだ。写真は正直であるからこれが正しいのであろう。

私の知っているこのポイントの喫茶店と言うのはKLEINES Cafeという名前で70年代の生き残りのフラワーチルドレンが集まってくるようなところだった。

私も負けず劣らずの髪の毛の長い青年だった。ここで商業映画のロケをした時は警察の許可を得て広場は立入禁止にしてそこで俳優さんとエキストラさんが完璧な演技をした。映画のロケーションの光景で非常に不思議に思うのは我々が見ている日常生活と言うのは始まりもなく終わりもない。

ところが映画の雑踏と言うのはそれぞれの俳優さんとエキストラさんの立ち位置が最初から決まっているのである。だから彼は所定の位置についてそれでカメラスタートとなると静止しているポジションからいきなり動き出すのである。
これは日常生活では全くないアクションであってそれを見るのが何か非現実的で面白かった。

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2017年7月17日 (月)

新東京人本日のカメラ プロフェッショナルソリゴールレンズ

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新東京人の撮影である。
別にカメラやレンズに凝ると言うわけでは無いのだが毎日同じカメラレンズを持っていると何となく飽きてくる。そういう嫌な性格なのである。

それで家の手の中のカメラの目先のブランドをちょっと変えてみるとそんなことでも何となく気持ちが浮遊してやる気になってくるものだ。

我ながら単純だと思うがそういうものだ。


カメラの目先のブランドをちょっと変えてみるとそんなことでも何となく気持ちが浮遊してやる気になってくるものだ。我ながら単純だと思うがそういうものだ。
大昔須田さんなどと話をしていた時もやはりスランプになると目先のカメラを変えてそこから1回ジャンプしようとしたりすることがあった。
50年この方ニッコールレンズレンズを適当なアダプターに入れてそれをレンジファインダカメラにつけて撮影するというのが私の写真術であった。

ところがそれにも飽きてきたので先日ガラクタ屋さんで手に入れたソリゴールブランドの28ミリレンズをマントアダプターでスクリューマウントにしてそれを適当なレンジファインダにつけるとなかなか格好は良い。

全体がブラック仕上げなのでなんとなくアメリカのNasa航空宇宙局が特別に依頼したレンズのようにも見える。
NASAのカメラレンズと言うのは特注品であるので何となく全体のバランスが変なのだ。
以前Monoマガジンの特集でスペースカメラをやったことがあったがたくさんスペースカメラレンズを見るとそれが1番強い印象なのである。

それでこういう組み合わせで撮影すると町が戦場に見えるなどと言う生易しいことではなくて
町が宇宙空間になる。それは東京だってスペースの1部であるのだから別に何の不思議もないわけだ。

2017年7月16日 (日)

お祝いに名前の入った1,000枚の原稿用紙いただいた

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非常にユニークなミニコミ誌出雲通信で今回原稿を寄稿した。
私の70歳のお祝いと言うことで名前入りの老舗の原稿用紙が1,000枚到着して恐縮している。

最後に原稿用紙に文字を書いてそれを入稿したのは四半世紀前のことである。朝日新聞の200字詰めのでペラと言うのである。
鉛筆で書き殴った。

岩波書店から数冊の本と写真集を出しているが関係で夏目漱石の原稿を見たことがある。
これは本番であるからきれいな文字で 1文字も間違えのないように美しく描かれていた。それが桐の箱に入って非常に立派であった。

漱石100年か。

原稿用紙に万年筆で文字を認めると言うのは既に時代からはかなりずれたいわゆる趣味の領域なのである。趣味の文房具などと言う雑誌がバカ売れしているのも時代背景を語っていて面白い。

大昔に神楽坂の坂の下の古い文房具店でその200字詰めの原稿用紙を買ったのである。当時すでに私が電子入稿していたからどうしても手書きで必要な手紙等のために買ったのである。

その頃の雑誌で何かのエッセイに書いたことだが1,000枚の原稿用紙を全部原稿料を取得のために使っても全く儲からないと言うことであった。

例えば私がお世話になった新潮社の文芸雑誌であるが私は新参者であるから最低の原稿料でそれは400文字が5,500円なのである。単純計算で言うれば400字詰めに500枚だから計算はわかるでしょう。

神楽坂界隈で戦前に原稿用紙で苦労した作家が2人いる。
1人は稲垣足穂である。
彼は原稿用紙を買うお金がないからそこら辺の映画館の入り口に止めてある映画の宣伝ビラをもらってきてその裏を使った。書くのは小学校の近くで拾ってきたちびくれ鉛筆である。

新潮社の文学雑誌の編集部にそれを見せて大体1年に1度原稿買ってもらったそうである。
そのためには原稿用紙に清書する必要がある。
それで原稿用紙をなんとか工面してインキを 78 から出してくるのである。それが書き終わったらインクががちょっと減っているくらいなら水を足してまた78に預けるのだ。


文芸雑誌新潮の昭和22年5月号というのは戦争直後初めて表紙が4色刷りのイラストが表紙に掲載された時である。私はその月の雑誌を何冊か持っている。そのトップの作品が稲垣なのである。

その傑作が大変な苦労の下に書かれたと思うと何か近親感感が湧いてくる。

私は生まれた家が万年筆製造業であったので万年筆は批判的である。
1時は東京都内の大手百貨店でパイロットとかセーラー万年筆と展示のウインドウを並べていたが昭和30年初めの頃の大恐慌で倒産した。だから子供の時に最初に聞いた大人の言葉というのが不渡り手形なのである。

せっかく原稿用紙をいただいたので万年筆で何か書いてみようと思って家を探したら十数年来忘れられていた万年筆用のインクが出てきた。それは小さなモンブランのガラス瓶だった。そのインキの量はほとんど減っていなかった。他に人からもらったラミーの万年筆があったので探したがそれを発見できなかった。

いただいたのは名前を刷り込んである原稿用紙である。
稲垣足穂が戦前に苦労しているときに稲垣をサポートしている関西の地元のお寺の住職の奥さんの小川さんと言う人が 彼のために専用の原稿用紙を作ってくれた。

それが何千枚であったか知らないが稲垣はそれで力を得て名作イタ マキニカリスをを書いたのである
。その原稿はなかなか出版されず両方の指で数えても足りないほどの出版社をぐるぐる回った後に戦後になって新潮社から出版部長に何か適当なものはないかと依頼されて出版されそうになったがまたダメだった。

それが戦後になってついにユリイカの伊達得夫が出版するのである。定価260円で500冊限定だったので今では稀覯本に属する。私も苦心惨憺してゲットした。

原稿用紙で苦労しているのは神楽坂関連では河西善三もそうである。
彼は原稿が書けなくてあっちこっちオロオロしているが弟の家に転がり込んで夜通し酒を飲んだりする。
その前の晩に葛西善三は書きなぐった8枚のいい加減な原稿を東京の出版社に売り付けてそれで若干の現金を得ているのだ。

当時が良い時代だったと思うのは原稿料は原稿と引き換えだったようである。今では忘れた頃に入金になったりする。いや永遠に支払われないことも結構ある。

その前に神楽坂の坂の手前で原稿用紙を買ったりしているのだ。これは私が10数年前に買ったお店と多分同じ店であると思う。

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2017年7月15日 (土)

クラッシックなNiccaのシャッターがすだれであった件

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デジタルカメラも使っているが好きなのはフィルム式カメラである。それも日本の戦後に作られたライカコピーなどが好きだ。

昨年の1月になるがプラハに撮影旅行に行った。
その時は3台のフィルム式カメラを持参したがライカエムファイブは巻き上げの具合が悪くなった。巻き上げと言うよりも底蓋の巻き戻しクランクの動きを伝える小さな部品が撮影中になくなってしまったのである。これではカメラとしては使えない。

バックアップとして持参したNiccaの3型を使って写真を撮った。でもなんとなく危険な気分がしたのでたくさんの本数は取らなかった。フィルム式カメラは何台か持って撮影に行ってそれに均等に写真を撮っておけば危険率が分散されると言う原理である。

案の定東京に戻って現像してみたらそのカメラは非常にキレイな程度なのだが大変な問題点があった。シャッターがすだれになっているのである。

だからこのカメラで撮影したフイルムは全部使い物にならなかった。

私はよく光の惨劇などと勝手な名前をつけて画面の1部に光が漏れているのは嫌いではない。
さらにフィルムの巻き上げが不十分でダブルエクスポージャーになっているなどと言うのも自分ではクリエイティブな写真だと思っている。

でもこの場合はあまりにも光漏れが多いので写真の地と図を分離できないのである。

早速シャッター幕を交換しようと思ったが考えてみればこの種類のカメラはたくさん持っているからあえてこのカメラが使えるようにする必要は全然ないのだ。

それでドアストッパーにするには軽過ぎるがテーブルの上でレシートを抑えたりするのに使っている。それもクラシックなフィルム式カメラの重要な使用方法である。

2017年7月14日 (金)

白山上の映画館と言うジャズスポットのプロ用撮影機

白山上の映画館と言うジャズスポットのプロ用撮影機

白山上に映画館と言う名前のジャズスポットがあってそれは急な石段を降りて下に行くのであるがそのエントランスのところにかっこいいオブジェがある。

いわゆるプロ用の35ミリ撮影機のクロップなのである。カメラ本体とかフィルムマガジンは何か適当なもので作ったようであるがレンズは100ミリのFujinonの本物がついている。
Finderはよく見るとペンタックススポットメーターなのである。
要するにムービーカメラの魅力を知り尽くした人が手間ひまかけて作ったと言うところが非常に良い。

だから私が白山上に行こうと考えるのはこのオブジェを見に行くと言うことである。

映画撮影機と言うのが心がワクワクする存在である。
ところが最近は全てがデジタルムービーになってしまったのでオートフォーカスの一眼レフか何かにでっかいフードをつけてみんなしかつめらしく映画撮影をしているのは滑稽である。

私のwin時代に手伝った映画の本編はちゃんとありフレックスで撮影されていた。
まだ若かった映画監シュレンドルフにはこき使われたらスタッフ全員が気合が入っていたようだ。
それは撮影がフィルム式ムービーカメラのせいであるかもしれない。

映画撮影するならやはり35ミリのスタンダードだな。
エジソンにそれなりの尊敬を払わなければならないと考えている。Img_3659


2017年7月13日 (木)

軍用のライカカメラを持って死の行軍

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1967年の2月ごろだったか神楽坂に高梨豊さんを初めてお尋ねしたときにいろいろな写真論を教えてもらった。

その時に高梨さんはライカカメラで距離計もファインダーも付いていないMDというのがあるのだがそれでとったら街が戦場のように映るのではないかとおっしゃった。

それで 10数年後に実際にそのカメラを手にしてwinの街を取ったりしたのだが 別に戦場には映らなかった。

軍用のライカと言うのは少ないのでなかなか手にすることができない。それから何十年も経って東京で私の友人がそのオリーブ色のライカを貸してくれた。

私は臆病なのでそのライカを盗まれたり壊したりなくしたりしたらいけないと思って10年この方ずっとカメラ保管庫に保管していた。

でも去年の12月になって命はそんなに先までないのだから今のうちに軍用ライカを使って街を戦場のようにとってやろうと思いついた。
それで真冬のwinを撮影したのである。その写真は今年の秋ごろに東京のギャラリーバウハウスで展示してもらう予定である。

東京カメラクラブとかアルパ研究会では20年ほど前は夏の暑い時と冬の寒い時を選んで鍛錬会と言うのをやった。20歳だけ若いからそういうことができるのである。

東京の南部に広がる広大な地域 東京モノレールが走っている大井競馬場から先の方 夏の鍛錬会で仲間と一駅だけ歩いたことがある。

驚いたのはその約2時間の歩行中に作戦を行った地域には1台の飲み物の自動販売機がなかったことである。
まぁこれは戦争なのだからそんなのは当たり前である。

先日は馬込の方から中原街道をゲリラ相当作戦で移動した。

オリーブ色のライカには純正のエルマー50ミリがついている。ドイツ連邦所有物と言う刻印が付いている純正のものである。

カメラ仲間の元新聞社のジュネーブ支局長が私よりかなり歳が上なのに毎日デジタル式カメラを持ってプラシックレンズをつけて東京を徘徊している。
その人のコメントによればこのエルマー50ミリは巨匠大竹先生がコメントしている通り素晴らしいレンズであると言う。

私はいい加減な撮影であるからこれが素晴らしいレンズであるかどうかわからない。
何しろ印画紙デベロッパーを希釈してそれで室温で12分いい加減な現像なのである。
その作例がこれである。

2017年7月12日 (水)

佐竹商店街でお盆の果物を買う

佐竹商店街でお盆の果物を買うImg_3629

関東地方は梅雨明けしたとみられると言う例の気象庁の阿呆な通知を待っているのだが まだこない。
だから勝手に梅雨明けしたとみられるとみられると言う通報個人的にも出している。

この前 高梨豊さんに会って以来 新東京人の撮影を継続している。
高梨さんは1年間かけて東京人をとったそうだから私も最低1年間の撮影しようと思う。
しかも2020年のオリンピックがどんどん近づいてくる。

ゆうも愚かなことながらオリンピックを期待してるのではない。
だいたいあの感動をありがとうと言う言葉が嫌いである。感動などというものはそんなに安売りされては困るのである。
ただし少年の時に1964年のオリンピックを体験してるから 半世紀以上の時間を隔ててその2つを比較してみたいと言う意味だ。

佐竹町商店街を歩いていた。
佃よりもちょっと物価が安いようである。
最初は1,300円位の大きなスイカがあったのでこれを持って帰ろうと思った。でもスイカを買うと撮影はそこでおしまいである。

商店街の果物屋さんでおばあさん3人がお盆の果物の籠の品定めをしている。

背後に立って聞いていたらなかなか生活者の知恵だから話を聞いていて面白い。
ただしおばあさんたちは体力がないからその籠を持ち帰れないのでそのまま立ち去った。
それで私は彼女たちの点数が1番高かった果物看護を買って佃煮戻ったのである。

ただしその果物看護でも重さは相当あるからそんなものを持ってその後暑い東京の午後撮影の続きをやるわけにはいかない。移動に看護が必要なのである。それで早上がり早退と言うことになった。

家には仏壇がないのがありがたい。
私の1番憂鬱に思っているのは私の実家の仏壇と言うのは巨大なものであっていつもそれを見るとブルーになっていた。

しかもそこに据えられている 位はいであるが先祖代々の名前が 20いくつ記載されていて 最後に私の名前を書くとそこで全部メモリがアウトになると言うようなシステムになっている。
子供の頃からそれを見て嫌であった。 26世代も前にさかのぼれるなると言うのはナンセンスである。

佐竹町商店街を果物の籠を持って歩いているときにふと思い出したのが30年前の師走のスレ頃のことだ。今はもうない高輪の消防署の近くの中古カメラ屋さん そこに西ドイツ生のプロ用撮影機のありフレックスのセットが出ていた。
全部で福沢諭吉50枚位のものなのであるがそれを買うか買わないか考えながら佐竹町商店街を行ったりしていたことを思い出したのである。

そこいら辺が私の映画撮影機のカメラのコレクションの間違いの元と言うものであった。
そのセット買わなかったけどもその反動で次々と映画撮影機の数が増えていったのである。

お盆のお供えの果物は食べればなくなるがカメラはそうはいかない。問題はそこだな。Img_3632


2017年7月11日 (火)

木漏れ日がきれいなライカカメラ

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新東京人の撮影で東京も南部のほうに行った。

私の土地勘はコンパスが狂っているのでどうしても東京の北のほうに行ってしまう。

あるいはコンパスの針は東のほうに行ってしまう。だから南に行くと言うのはかなり自分なりの強い意志を持たないと南方向に走る電車乗るのにはそれなりの強い石の力が必要になる。

五反田から南に行くと言うのは私にとっては何かメキシコのボーダーが近づいてきたと言う感じがするのである。

馬込あたりまででそこからわざと道に迷いながらトラック360度。
非常な暑さであるので気を使った。

ペットボトルの水をいっぱい詰めてそれを飲みながら歩いた。
大田区のどっかの公園でいやそれは品川区かもしれないが古めかしいベンチに座って一休みした。

私の好みとしては木で作られたベンチでその塗料がはげているのは良い。
パナマの帽子とオリーブライカを並べて置いてあって何気なく見たらいい感じだ。

それを見ながら水筒の水を飲んでいたらさっと涼しい風が吹いてきてとても快適である。
その時に木漏れ日に気がついたのだ。

公園のベンチで休んでいる時にカメラに降り注ぐ光の美しさというのは何十年認識していたがそれはクローム仕上げブラック仕上げばかりである。オリーブ色は中間色で柔らかいので逆に木漏れ日の光の効果が抜群に美しい。

どうでも良いことなのだがiPhoneで写真を撮った。


2017年7月10日 (月)

私の散歩道 ウィーン岸辺のマリア教会

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8月から東京は京橋のアイランドギャラリーで始まる私の写真展は散歩がテーマである。

winと言う街は歴史的な散歩者町である。

ハプスブルグ最後の皇帝フランツヨーゼフも散歩が好きだった。それは健康のためと言うよりも気分をリラックスさせるための散歩である。
極東の東の果ての島でインペリアルパレスの周りを気違いじみて走り回っている集団とは下から異なる。

散歩すると言うのは2点間の移動のことだ。

その経路はどうであれ最終的には出発したポイントで戻ってくるのである。私のwinに住んでいた時はドナウ運河のほとりに住んでいたから散歩と言うのはアパートを出てドナウ運河に沿って街の中心部に行くと言うのがパターンであった。

それを足掛け8年ほど繰り返したのである。頭の良い人に言わせればそれではワンパターンになってしまうと批判されるかもしれないが もともと歩行と言うのはワンパターンで退屈だものである。

その同じルートで日々風景が異なると言うところに発見がある。

仏教の禅寺のお坊さんの生活のようなものである。
毎日ワンパターンでそこには何の新しさもないけれどその同じことを繰り返すというところに宗教の信仰の実績があるのだ。
キリスト教の修道院の生活もそうですね。

アパートメントを出て20分ぐらいドナウ運河を超えるとそこにドラマチックな小さいゴシック教会がある。階段を上っていくのでその高さの感覚がさらに強調される。

その名前を岸辺のマリア教会と言うのである。
ずいぶん変な名前だと思ったが調べてみたらドナウ運河は大昔はそこが岸辺であってそこまで水が来ていたそうである。

この教会でベンジャミンブリッテンの隅田川を聞いたのが忘れられない。
この極東の哀れな物語をベンジャミンブリテンは自分なりに翻訳解釈してキリストの勝利と言うストーリーに書き換えているのであるがそれはしょうがないことだ。
キリスト教はどうしても視野が狭くなってしまうから。

その教会の裏のちょっと迷路のような細い路地を通って私は街の中心部にある古い喫茶店に通うのが常であった。

その名前をレオポルドハヴェルカと言う。

2017年7月 9日 (日)

ドイツ陸軍のライカを使いこなす

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1960年代の軍用のライカの中での中で1番人気があるのがこのモデル西ドイツの陸軍のため作られたオリーブ色のライカM3である。

ロットは確か3つあってこれは最初から2番目のものだと思う。トータルで200台ちょっとしか製造されていない。

人からの預かりものなので管理には最大限の注意を払っている。私は臆病者だから海外に取材に行く時にいつもこのライカを持参しようと思って盗難にあってはいけないと思ってずっと止めてきたのである。

ところが人生もフィナーレに近づいてきたので去年の12月に思い立ってこのオリーブライカを持参してwinに撮影に行った。

人類の文化財であるから撮影と携帯と管理には10分気を使ったが私が1番好きなのはこの時代のM3なのである。

つまりネックストラップアイレットが俗に言う犬の耳と言うやつだ。

それでフイルム巻き上げは分割式なのである。

winに撮影に行った時はサブカメラとしてもう1台持っていったのがコニカ現場監督ズームであった。
こっちはライカの方が人類の文化遺産で数百1,000,000円の値段のするライカである。

これが現場監督のほうはオークションで500円で買ったものである。でもカメラはいちど撮影に使い始めるとカメラの平等主義というのがあるからどちらも命の次に大切なカメラなのだ。

この時代の初期型のM3と言うのは画面サイズがその後のフィルム式ライカのエムシリーズよりも画面が若干大きいのだ。

だから後でプリントしたりフイルムを整理したりしているときにこのカメラで撮ったと言うことが容易に判別するのである。

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2017年7月 8日 (土)

メトロ麻布十番乗り換えで道をロストする

1974年からパリのメトロにはずっと乗っているから今では大体地図を見なくても乗り換えてどこにでもいける。

パリのメトロの乗り方は終点の駅の名前を覚えておけば良い。しかし私は英語遣いでドイツ語使いだからフランス語の地名というのが実はよくわからない。
だからパリのメトロの行き先を目で確認して口では発音しないでドイツ語読みで頭に刻んでいる。
パリに数あるメトロの駅でフランス語もドイツ語も英語も読みが同じなのはただ1つスターリングラードぐらいなものである。

いつも東京で困るのはメトロや電車とか駅の構内の行き先表示版が風正しく表示されていないことにある。

例えば地下通路を進行していてその先が3つに分かれているときにヨーロッパの表示板は非常に明快である。それに対して東京の表示版はどっちに行って良いのかわからない。つまり運転で言えば3つに分かれるときにその前にどの車列につけたら良いのか分からないと言う意味だ。
それで大混乱するのである。

パリのシャトレの駅はかなり大きいから端から端まで歩くと15分ぐらいはかかる。
麻布十番の駅はそれほど大きくはないが東京メトロと大江戸線は非常に離れている。その離れている2つの連絡通路をトコトコ歩いていると私はいつもシャトレとかバスチーユの乗り換え口を歩いているような気がしてこれはなかなか楽しい。

麻布十番の外人スーパーマーケットで買い物して大江戸線で戻ろうと思った。地下に降りてから大江戸線と言う表示の通りに歩いていた。そしたらエスカレーターを2つほど乗り継いで挙句の果てにまた地上に出てしまったのである。

東京の交通システムはオリンピック前にいろいろ改善されているようであるが1番改善の必要があるのはトランスファーの案内版である事は確かだ。一般の通勤客は体で覚えているから表示など見る事は無いであろうが私のように数年ぶりに来たりすると表示で迷うのである。これでは国際都市としては落第だ。

つまり大江戸線に乗るために地下に降りて大江戸線の案内の矢印を打っていたらまた上に出てしまったと言うことなのでこれは狸穴のたぬきに騙されているのだと思った。

もう一回地下に降りると今度はどこに騙されて出されるか知らないので麻布十番のバスストップから新橋行きのバスに乗った。Img_3599by Totsugeki


2017年7月 7日 (金)

飛ばす81系統早大正門前渋谷駅循環

四谷三丁目のガラクタ屋さんに行ってにだいめさんと名人に会ってお話をしてそれから荒木町のバス停でバスを待つ。

新宿駅西口のバスに乗るつもりがそうではなくて渋谷駅行きのバスが来た。これは私の撮影のときのルールであっていつでもバス停に来たら最初に到着するバスに乗ることにしている。
バスのロシアンルーレットだな。

千駄ヶ谷駅を経由して原宿駅を経由して渋谷に行ってそこで終点ではなくてこれは循環バスだから戻ってきているのだ。

六本木ヒルズを卒業してからこの地域には全然いかなくなったのでバスの窓から見える風景がなかなか懐かしい。いやそれどころではなくて何十年のスケールで昔のものが見えてくる。

代々木の体育館を1,966年頃にずいぶん撮影したことがある。若い建築家でこれから外国に売り込みに行こうと言う人に頼まれて当時は学生だった私は東京のいろいろな有名な建築物を撮影したのであった。
その人は元原さんと言ったら今どうしているか?

原宿駅前なら有名な竹下通りである。29歳のときに現代日本写真家展の準備で来日した。その時は片道切符であったので帰りにこの通りの左側にあった旅行代理店でチケットを買ったのである。大韓航空のチューリヒ着でそこからスイス航空に乗り換えてwinに戻ったのだった。

古い友人の写真家稲越功一さんの事務所が古めかしいアパートにあってそこにもよく遊びに行った。
winに住み始めた頃に1番最初に東京から受け取ったエアメールが稲越さんのそれであった。乾燥したバラの花びらが封じ込まれているのでおしゃれな人だと感心したのであった。

稲越さんはそういえば1971年の12月の東京カテドラルの私の結婚式に駆けつけてくれた人の1人である。トレードマークの月星印の白いヨットシューズにあれは何と言う花なのかカーラーと言うのか白い花束をたくさん抱えてさっそうと現れた。
稲越さんとの私の最初の出会いは彼がグラフィックデザイナーで私がフォトグラファーと言う役割だった。彼が亡くなってもう何年になるか?

そういうこの海外の古い古い記憶がフラッシュバックするというのも年寄りの楽しみと言うものである。この間ガラクタ屋さんのにだいめが言っていたが新しくできた都バスの車体と言うのは関係者が言うところの左前最前列のいわゆるバカ座席というのがなくなった。

この座席は私のようなシャッター切りまくり爺とかいつも電波が出ている人が必ず座るところなので交通局もこれを廃止したのは正しい判断だと思う。

都バスの81系統に実際に乗ったのは四谷荒木町から渋谷まで行ってそこから戻って早稲田大学の一つ前まで乗ったのであるが1番交通渋滞がひどかったのは四谷荒木町から渋谷に向かう時に四谷3丁目の信号を右折する時に赤信号を7回待ったのである。
東京と言うのは凄いところだなと感心した。Img_3590


2017年7月 6日 (木)

Sweet Life

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この間のガラクタ屋さんのシドニーで常連さんが私にライカの高級レンズ豆ミクロン35ミリを貸してくれた。1年間使っていいと言う。
しかも無担保だ。太っ腹だなぁ。

それで思い出したのは私の友人 もうすでに1990年に亡くなったオランダの写真家エルスケンのことだ。

前後関係は覚えてないが銀座のプランタンができたときにエルスケンともう1人ウィリアムクラインの大きな写真展があった。それでこの世界の巨匠に私を加えてトライアングルとなってカメラテクニックについて話すと言うすごい体験をした。

エルスケンは1,959末ごろに1年半かけて世界中回った。それは1台のライカエム2と35ミリの頭ミクロンレンズでとられていた。

エルスケンは自分のポートレートを雑誌に載せていたがそれがなかなかいい感じのポートレートであってインドネシアのスカルノ大統領とエルスケンが何かふざけてボクシングの真似をしているような不思議な写真だった。

エルスケンはカメラストラップを短くしてクローム仕上げのライカエム2を下げている。

よく観察するとそのカメラの頭ミクロンレンズにはフードもフィルターもついていないのだ。
これは1種の写真の構造哲学だなと思った。 今のデジタルライカのアマチュアの皆さんには真似のできることでは無い。

写真評論家の福島タツオさんが1966年にカメラ時代と言う前衛的な雑誌で写真の編集をしていた。公募のコンテストなのだがそのタイトルを シンポジウム日本1966 と言うのである。なかなか政治的でかっこいいね。

その関係で福島さんのお宅に遊びに行って写真集を見せていただいた。写真評論家が1番のオススメがエルスケンのsweetライフなのであった。

当時銀座のJENAで確か7,000円近くした高い本である。私は心が盛り上がって翌日銀座に行ってその本を求めた。

だから1,960年代後半の私の東京撮影した写真と言うのはエルスケンと高梨豊のアマルガムなのである。

先月に東京都知事からと言ってもいいと思うけれど、東京都シルバーパスを安く売ってもらった。私は収入がないからただでくれるかと思っていたらしっかり税金もとられているのでそうはいかなかった。

しかしこれは東京都が私の東京を撮影する行動をサポートしてくれるのだというふうに考えた。まぁ四半世紀以来東京都写真美術館にもお世話になっているしな。

それでもクロームのライカエム2に頭ミクロンの35ミリをつけて東京を撮影している。
私の撮影スタイルはエルスケンになぞらえてフードもフィルターも外してしまいたいのだがそれでは太っ腹の対応してくれた人に叱られるからそこまではやりません。

しかも一緒にじゃれ会いたいような政治家がいない。
これが大問題なのであろう。

2017年7月 5日 (水)

ブラパチ猫クラブ快進撃

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長徳カメラ塾の方で登場したブラパチ猫クラブである。
現在会員が20名近くいる。これは快進撃と言っているだろう。今までの猫写真は猫が可愛いと言う単純なテーマでその目的はひたすら猫をクローズアップすることにあった。これがどうも面白くない。

それでブラパチ猫クラブは猫を哲学する猫写真と言うつもりで始めたのだ。
面白いのはメンバーのそれぞれがそれなりに個性的な視点を持っていて誰が撮影したのかその写真でわかると言うことにもある。

およそ猫写真で初めて作品性を獲得したのは武田泰淳さんのお嬢さんであろう。
後の猫写真は有象無象と言うと叱られるが要するに卓上カレンダーに最適なようなかわいい猫の写真なのである。それは商業目的としてはいいかもしれないが猫を哲学しようと言う視点からするとどうも弱いと思う。

われわれは吾輩は猫であるの時代を見習わなければならない。

これは四谷3丁目の杉大門通りにあるバーの看板である。ばーばはすでにクローズして何年かになるがこの看板のプリミティブな感じが大好きだ。

しかもその看板は雨にさらされ風に吹かれて日々アンティグアになっていくのである。そこがまたいい。

このメニューをホールドしている猫の表情には私は思い出がある。ポーランドのワルシャワの連帯を取材に行った時のことだ。古い都クラッコを取材していた。

その94階の広場にある市場で見つけたのがポーランドの田舎で作られたと思われる非常にシンプルな猫の等身大の木で作られたフィギアであった。

値段を聞いたら非常に安かったので1つ求めた。それで翌日もう一つ買おうと思ったらお店の人は売ってくれなかった。これは商業道徳としては非常にけしからん行為であるがこのような文化財が極東に大量に流れてしまっては困ると言う彼らなりのプライドもあったのであろう。

これが秋の初めの頃の話であってそのポーランドは戒厳令で閉鎖され翌年の春にならないと再び入国することができなかった。

2017年7月 4日 (火)

COCOAの缶詰みたいなカメラ

iPadの日本語の音声入力が壊れているので ここはと入力してもこのようになってしまう。ここはどこの細道ジャーになってしまうわけだ。

それでしかたないので英文表記する。そのcocoaであるがこの頃愛用をしている。 40年以上前にwinの古道具屋で買ったカメラがこれである。ドイツの三脚で有名な会社であったがこういうラピッドのフイルムの大衆カメラも作っていたらしらしい。

そのブリキの缶詰が非常にかっこよかったので買ったのだ。

20世紀の終わり頃リコーのお手伝いをしていてリコーGR1と言うカメラが出たときに私はこの缶詰カメラを提案したのであった。
確かサンプルとしてこの缶詰も持参して熱弁を振ったが結局私のアイデアは採用にならなかった。
でもそれから何十年も経ってみるとリコーGR 1の缶にカメラが入っているというのはいい感じだ。

まず紛失する心配がない。

芸術とはcocoa色の遊戯 であるとは稲垣Taruhoの言葉であるがあれはどうやら何かの誤訳であったらしい。 いImg_3573


2017年7月 3日 (月)

奉祝 100周年 ニコンエス4

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月末の月曜日にニコンの100周年を祝う大集会のインビテーションが来た。

中学生の頃からニコンを使っている私は社会人になってからニコンのカタログの撮影をやっていた。もちろん若造だからアシスタントであるがアシスタントは機材の設定からエクスポージャーまで全部やるわけだから実際に撮影したのとほぼ同じと言うことになる。シャッターレリーズをするのはもちろん大先生である。
その撮影の模様は私の新書版の分厚い写真集東京ニコン日記にも出ているが私の日本デザインセンターのニコンの大先輩は残念ながらかなり前になくなってしまった。

山田勝重さんと言ったのだが私の結婚式でも参列して下さった。その山田さんに最後に会ったのは日暮里あたりの都バスの中なのである。あまり長い話ができなかったがそういうのは心に残る。

山田さんは70年代に活躍した人であるが今にして思うとカメラ人類だった。

山田さんの有名な語録に

僕は物には固執しない

というのがある。それでいてモータードライブをつけたニコンを二台両方の方に下げて会社に来たりあるいはローライフレックスの 2眼レフを二台両肩に下げて会社に来たりした。

私が担当したのはニコンエフであった。高校生の時にニコンの丸の内のサービスセンターにそのカタログをもらいに行ったりしたカメラ小僧であったからそのカタログが撮影できると言うのは天国にも昇る嬉しさであった。

ニコンF2のカタログもお手伝いした。これはまだ秘密であるからお昼の時などしたからラーメン屋さんが上がってくるとその時だけ撮影のセットの上に大きな白い布をふわりとかぶせるのである。これは機密保持のためのアシスタントの重要な仕事であった。

ニコンF2が発表されてからしばらくしてできたばかりの京王プラザホテルでニコンの父であるデビットダグラスダンカンさんの写真集の出版のパーティーそれとF2の発表会が一緒であったのかどうかはよく覚えてないがそういう催しがあった。

アメリカ人と英語で話をしたのはその時が初めてである。だからダンカンさんは私の最初の英語の先生と言うことになる。

翌日であったが会社に行ったら写真部長がお前はなまいきだと言うようなこと言われた。それは当たってるかもしれないが日本光学工業株式会社の方から私に招待状が来たのだからこれは大切なクライアント様なのである。クライアントさんのためにちゃんと業務で行動してきたのだから私は不服だった。

それ以来ずっとニコンを使っている。

最近気にいっているのはレンジファインダの最後のモデルのS4これである。

当時のニコンが非常に高かったからそれを大衆番にしようと言うのでセルフタイマーを外したりファインダーの35ミリのフレームを取ったりフィルムカウンターを手動でリセットするようにしたりしてニコンの努力で確か10,000円弱安いカメラになった。

今の 10,000円ではない。当時の10,000円も値引きすると言うのは大変なことであった。

それでニコン100周年。

2017年7月 2日 (日)

スパゲッティーポロネーズを考えた

バスに乗って新東京人を撮影に行こうと思った朝9時過ぎのことである。

いきなり雨になったので午後から出かけることにして向かいのスーパーで買い物。早ゆでパスタ3分というのがある。プラハでは17分かけてパスタを茹でていたら日本だとこらえ性がないから3分でも時間が長く感じるのは情けない。

ミートソースを3ー
4種類違うやつを買ってみる。いつも食べているのは青の洞窟と言うやつの安い方である。プレミアムの同じブランドのソースは余計な脂がついていたりして口ほどにもない。

パスタを作ってチリのセブンイレブンで売ってる赤ワインを佃島の水道の水で1対1に割って飲むとこれがパスタに会う。

チェゲバラの娘さんが書いていたエッセイの中であったが革命家は身分を隠して実の娘に会っていたのだが娘の方から見ると知らないおじさんが食事の時に赤ワインを水で割るのでこれはパパに違いないなどと思ったそうである。

ゲリラもそういうところでばれるのは情けない。

7月1日は恒例の天ぷら船のパレードなのである。毎年見ているが今年はこの10年代で1番の悪い天気である。さっきまで湿度100%であったのが2%だけ下がって今98%になった。

政府発表の有効求人倍率とかバブル期以来の経済を超えるバブルと言うのはアメリカが数字を粉飾しているのと同じで嘘くさいな。
その、湿度は2%でも嘘をつかないImg_3483


2017年7月 1日 (土)

早稲田大学正門前おとぼけレストラン

早稲田大学正門前おとぼけレストランImg_3477
あれは何と言う地名なのか夏目坂を降りて左に曲がると神社の鳥居が見える。

その学生街の学生ばっかり通行しているところに変な名前の食物屋があった。その名前をおとぼけと言うのである。

私が物心ついた頃からあったような記憶がある。
でも入った事は無い。渋谷から出たバスの終点が東大正門前なのでその一つ前で降りて探したのだが見つからない。
神社の斜め向かいの角は早稲田界隈で1番古いと言う蕎麦屋なのだ。
ここは四半世紀前に入ったことがある。おとぼけレストランの場所を探してしらみつぶしに戻っていたら私が記憶していたおとぼけはお店が新しくなる前のボロボロのやつであった。

今の店もかなり古くなっているが褒めて言えばモンドリアンの前衛絵画のような感じの四角いボリュームで構成されたお店であり、悪く言えば旧東ドイツ時代の官公庁の食堂と言う感じがした。

席に着いたら中国人のウェイターの人が来て自販機でチケットを買えと言う。あそかそういうシステムだったのか。改めて周囲を見ると私の孫にあたるような男子ばかりがもそもそ何か食っている。学食そのものである。

カツカレーが600円で内容が非常に濃い。
これでやっていけるのだったら東京の銀座も赤坂も全部600円でやれるはずである。安倍総理大臣が食べたカツカレーはそれよりちょっと高かったような気がするがいくらであったのか?

70歳の胃袋にはちょっと量が多すぎすぎるのでそのまま歩いて都電の荒川線、いや今は東京桜トラムであるがそこまで歩いて電車に乗って大塚で降りてまた歩いて新巣鴨まで行ってメトロを乗り継いで帰った。
本日の撮影モノクロフィルムライカで3本と半分。

別に量で勝負しているわけではありません。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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