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2017年6月28日 (水)

オートバイはバロック彫刻と同じものであることに気がつく

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シティー70計画で悪の枢軸のうちの1人、加納満が編集した私家版写真集を見て楽しんでいる。
加納はかなり変な人でその視神経が常人とは異なっているようだ。
別に加納と親友になりたいなどとは思わないからそれでいいわけである。

大体写真家同士がきのおけないフレンドと言うのは薄気味悪い。

私家版写真集の見開きの中で秀逸なのがこれである。
それぞれの写真は別に面白くもなんともない。
そこら辺にありきたりのバロック時代のニンフの彫刻の下半身だし、もう一つはイタリアの何とか言うオートバイなのである。

ところがこの2つの画像が見開きで左右に分かれると、そこに想像もしなかったシンコペーションが展開するのである。
そこら辺が加納の目の力でそれを私は認めているのだ。

思うにバロック彫刻のニンフを横倒しにして、その両足を車輪にしたのがオートバイなのである。
だから若い衆が乗りたがる。
これは70年代の写真だからアライのヘルメットはつけてないし、ジーパンのちょんぎりで実にかっこいい。

学生の頃に日大の写真学科の同級生で南ベトナムのアメリカの親方ウェストもオーランド将軍の娘と結婚していると言う話のアメリカ人の同級生がいた。

日大写真学科の前の細いしかし長い通りで彼の川崎650ダブル1スペシャルのリアシートに乗った。

恐ろしい加速で魂が抜かれるのかと思った。

意外と我々が気がつかないのだが、バロックと言うのは実はものすごい速度に対する憧れと言うものもそこにあるのかもしれない。
これが加納のセレクションで今度教わったことだ。

とにかくバロック時代は1番速い乗り物が馬であったのだから。

2017年6月27日 (火)

新東京人撮影のカメラで苦労する

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新東京人の撮影を続けている。

正式にスタートしたのは5月17日からである。その日に私は東京都のシルバーパスをゲットしたからだ。

高梨豊さんの名作東京人を見直しているが、色々新しい発見がある。

私が高校3年生の時に見たこの作品は極めて未来的だった。
それが半世紀経って今見ると極めて回顧的である。

まぁこれは当然のことであって写真は半世紀経ってその内容は寸分も違わないわけだが、それを観察する我々の時間軸の視座が違うのだ。

撮影のカメラは何でも良いわけであるがやはりライカを使うことになる。

私は今回の撮影では新古典主義を標榜しているので、最初はライカエムモノクロームを使おうと思ったらやはり大先輩になぞらえてフィルムカメラで撮りたいと思った。

このカメラはライカエム4ピーである。大昔から家にあるカメラである。
この間偽ライカ愛好会からま新しいクロームのライカM2をお祝いにいただいたのだが、私は貧乏性だから使うのがもったいない。

それで安心して使える古いライカを選んだ。

しかしそれではまた新しいライカを下さった皆さんの善意を踏みにじるような気がして、ライカM2の底蓋だけをエム4ピーにつけた。

さらに6月10日のCT 70の大宴会の時に加納満がくれたハンドグリップをつけた。

それで新東京人の撮影に出かけるときは3本のモノクロフィルムをもっていくのである。
108枚である。
人間の写真の煩悩がそこに象徴されている。

win時代と同じように印画紙の現像液を希釈してそれをフイルム現像に使っているのであるが、希釈率を勘違いしていてすべてネガが真っ黒になっていた。

それが最近になってようやく昔の希釈率を思い出したのでいいネガに戻ってきたのはありがたい。

2017年6月26日 (月)

6月25日はフィルム式カメラの日

🇻🇳京都のギャラリーメインでの私のモノクローム半世紀展示は千秋楽。
ご来場感謝。

東京の北部西新井大師から近い、そこを私が勝手にそう呼んでいる「リスボン公園」という区立公園がある。
昨年の冬の初めに改修を始めてその間ずっと工事中であった。その工事が終わって竣工したらしいのでそれを見に行った。

東京駅北口1番バス乗り場からお昼過ぎ12時6分の荒川土手行きに乗った。

GLAYの梅雨空の湿度の高い街だがバスは乗客が少なくて冷房が効いているので逆に寒い。
それでいつも持ち歩いている我楽多屋のトートバックの中に入っている黄色いナイロンのくまもんバックを出して三枝腕に巻いた。
こうすると冷房の吹き出し口から出てくる冷気を防ぐことができる。

車内からいつものランドマークとそこを行き交う新東京人を撮影したバスは荒川を渡って荒川土手に着いた。

降りる時にバスの運転手さんが
「フィルム式カメラは珍しいですね。僕なんかデジタルカメラで楽をしています」と言った。

ごくまれにこういう会話ができるのは嬉しい。それは大抵路線バスとか路面電車の終点に限られるのである。

6ー7年前にプラハの路面電車の11番と言うのがあってその南の終点にあるのが奇妙な形をした鉄塔なのであるが、それを撮影に行った時やはり終点の路面電車の車内で運転士さんとカメラテクニックについて語ったことがあった。
これも私が持っていたライカエム5…つまりフィルムカメラの話なのである。

それで荒川土手の終点のバスの運転手さんと話した短い会話の中で、フィルム式カメラというのが非常に気に入った。

フィルムカメラではなくてこれからはフィルム式カメラと呼ぶことにする。

なになに式と言うのは機械学のダイナミズムがそこに感じられるからだ。

航空機にしてもそうだ。
それぞれの航空機はライト式、ファルマン式、ロッキード式、ボーイング式と呼ばれているではないか。そこにはアビエーションの冒険がある。

だから写真の冒険の場合はマキナに対してフィルム式カメラと言う認定をしても良いわけだ。

6月1日は写真の日であるが、6月25日はフィルム式カメラの日と命名しよう。


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私家版写真集CT70より


2017年6月25日 (日)

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2017年6月25日 (日)

ZUG LUFT 列車風

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ZUG LUFT というのはドイツ語で走行中に窓から入ってくる風とかプラットホームで列車が走ってきたときに起きる風のことを言うのである。なかなか実存主義的な良い言葉で感心している。

以前からこれに相当する日本語がないと言うことが不思議に思っていた。

ところが先日メトロの三田駅のプラットホームの上にこのような大きな表示を見つけてうれしくなった。

列車の風であるからこれは非常にうまい表現である。その英訳がちょっと気に食わなくて強風と言うよりもこれはトレインウインドでいいと思う。

その列車風であるが私もいろいろ苦労した。

スペインのマラガに行った時現地でパナマ帽を買ってきたのである。
それが自慢であったがその新品のパナマ帽を列車の風でホームに落としてしまった。

私は少しもあわてずにもう一回階段を上って改札口にいる駅員さんにお願いしてそれをマジックハンドみたいな取っ手の長い道具で拾ってもらったのである。

私の住んでいる東京メトロの月島駅はこの列車風で有名なところだ。
何しろトンネルで隅田川をくぐるのである。だから気密性はかなり高いようだ。

上りのメトロと下りのメトロが出た直後などは1種のフイゴの運動のようになってしまって立っていられないほどの強風が起きる時もある。

駅ではそれを申し訳ないことをと言うふうに考えているらしくて、私の見たところ何の表示もないがこれは逆に町おこしに使えるのではないかと思う。

東京メトロ月島駅列車風の街。

2017年6月24日 (土)

縮刷 緑雨全集

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文士の斉藤緑雨が好きだ。
博文館が大正11年に出した彼の全集がある。
全一冊であって縮刷版とあるのだ。

値段は3円50銭であった。
緑雨が絶賛しサポートした樋口一葉の全集も巻末に広告が紹介されている。
それも3円50銭なのである。

当時の3円50銭は貨幣価値がわからないが35,000では多すぎるし3,500円では少なすぎる気がする。

私が知りたいのは斉藤緑雨が亡くなる少し前に今の深川森下町、当時の湯灌場大久保のお寺の南の汚いどぶ川の南側にあった棟割長屋で開催された雅の宴会のことである。

その内容は緑雨自身が書いているのだが、全集を探したが見当たらない。あるいは雑文なのでどこかに落とされているのかもしれない。

彼の親しい友人数人が集まって棟割り長家で宴会をした。
長屋の部屋は四畳半と三畳しかないから当時住んでいた愛人と彼女の母親は外に退散したとある。

刺身、膾の大皿を1つ。そら豆を一升。
近くの酒屋から酒を四升をとってそれでもたりないので後で二升追加したとある。
なかなか地味だけど粋で楽しい宴会であったようだ。こういう宴会なら自分も開催してみたいと思う。

斉藤緑雨全集には3,000円と言う値札が付いていた。さらに小型だけど分厚い本の真ん中あたりにエジプトのホテルの名刺が挟んである。だから10年前にこの本を持ってカイロに行ったことがわかるわけだ。

この本がかなり凝った作りでイントロダクションは作家の名前にちなんで緑色のインクで印刷されている。それが百年近く経っているので退色して非常に見にくい。

本文はちゃんと活版刷りであるからそっちの方が読みやすい。今のオフセットと違うから印刷の活字に押されて用紙がかすかに凹んでいるのも好ましい。

総ルビ。

2017年6月23日 (金)

なんとなくクリスタルグラス

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ニコン100周年と言うことでニコン1型のクリスタルグラスがスワロフスキーから出るそうだ。世の中では200,000円近いのが高いとか言っているけれども、エディションにもよるがこれは安い買い物ではないかと私は思う。

ただし考えるにカメラというのはクリスタルグラスにすると見栄えが悪いというのが残念である。
これが他のモチーフであれば光をうまい具合に反射して燦然と輝くのだ。

これはおそらく四半世紀前にwinの空港で搭乗直前に買ったと思うがそういう馬鹿な買い物は最近はしなくなった。これは年の功と言うやつであろう。

でもこのハリネズミのフィギュアと言うのは実にクリスタルグラス向けにできているのでびっくりした。部屋を片付けていたら偶然登場したのである。

光が半分逆光の時にクリスタルグラスはこのように素晴らしい輝きをする。

うちがハリネズミのはーくんをかっていたのは1,980年代後半であった。当時は獣医さんに連れて行くとまだ珍しいので、おう!ハリネズミですか!?
もっとよく見せてくださいなどと大人気だった。

最近はハリネズミも普及しすぎてちょっと面白みがない。その私のハリネズミの昇天した日が1988年の12月24日であった。この日は忘れない。
それで家人と一緒にハリネズミの針を持って翌年1989年の2月にwinに行った。
これを針供養と言うのである。

その時ウィーンの空港には濃い霧のため着陸できなかったので、ダイバーとしてプラハ空港に降りてそこで一泊した。その日はチェコの民主化のデモが最大限に沸騰した夜であった。その年1989年の11月にあのビロード革命は達成されたわけだがこの2月の寒い夜に既にすべての方向は決まっていたのだと言ってものだ。私は友人のプラハのジャーナリストと一緒にプラハのペンクラブにビールを飲みに行ったが非常にリラックスした気分であった。これもハリネズミのおかげなのであろう。

考えてみればこれはハリネズミのお導きによるものなのである。
アーメン!

2017年6月22日 (木)

なんとなくクリスタル

なんとなくクリスタルImg_3400
新東京人の撮影で東京の街をライカにインドスター50ミリをつけてとっているのだが。
前にも書いたが絞りと距離が勝手に動くので、とてつもなくオーバーになったりアンダーになったりする。

それでライカのインドスターにはテープを貼って固定して一安心した直後に、このクリスタルがカメラジャングルから登場した。製造番号から判断すると1961年生。いわゆるグレーハンマートン仕上げである。

この仕上げで最もレアなライカはM🐕Dの試作機であってそれは 20台ほど製造されたようである。そういうのは手に入らないから我々一般カメラ人類はこのクリスタルで我慢するわけだ。しかし当時のスペックからしてもこっちの方が一眼レフだし大変な進化だと思う。

最近では似たような仕上げを普通のラッカーで出来るようだが、

おそらくこれは1961年生まれであるからちゃんとしたプロセスで焼付塗装をしたのであろうか。

ソ連製のカメラであるから作り方のコンセプトが中途半端であってトップカバーはこーゆー仕上げだが、ボトムカバーは普通のクロームなのである。
それで馬鹿にしていたのだが考えてみるとスイスの超高級一眼レフアルパもそうであって、トップカバーはいろいろな仕上げがしてあるがボトムカバーはそれとは関係のない色であったりする。
それでゼニトの仕上げが上と下で違うのはけしからんと言っておきながらアルパは上と下で仕上げが違うのは趣味が良くて素晴らしいなどと言い出す私は一子のカメラ差別論者である。そういうのはいけませんね。

この一眼レフはマウントは旧型ゼニットマウントであるから、その直径はライカと同じ39ミリなのだ。特筆すべきはファインダーの見えが非常に良いことだ。
まだフレネルレンズを使う以前の段階なのでコンデンサーレンズをスクリーンに使っている。それでピントの頭が非常に見やすいのである。

2017年6月21日 (水)

桂一さん

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田原桂一さんが亡くなったのが6月の6日である。

私はその時文京区の白山あたりを歩いていて、偶然斉藤緑雨の墓所に行きあたった。
それで思い出すと言うわけではないが、しみじみした無常観をそこに感じてそれは6月の初めの空梅晴れであって、何やらフォトジェニックなのであった。

私は半分壊れたレニングラードを持って久しぶりに白山界隈を撮影していた。

それで夕方に佃の寓居に戻ったら桂一さんの訃報に接したのである。

最後に彼に会ったのは1985年の秋のパリであったから私は当時38歳で桂一さんは私より5歳年下だから33歳と言うことになる。

昨年の夏に四谷のギャラリーニエプスで写真展をやったときに、桂一さんが来てくださったと言うことを中藤さんから聞いた。

それでそのまますっかり忘れていたのだが、芳名帳を見たら桂一さんのサインがあった。
単にサインだけではなくて

長徳さん元気ですか?

とあるのだ。これには参ったなぁ。

何にやられたかと言うと彼の直筆の文字にやられたわけである。今の我々はメールのポストスクリプトの文字に慣れているから、そういう文字では何も感じないが、実際に彼の肉体で彼の時間の中で書き記したいきた文字列と言うのは効くのである。

何にやられたかと言うと彼の直筆の文字にやられたわけである。
今のわれわれはメールのポストスクリプトの文字に慣れているからそういう文字では何も感じないがたまらんが実際に彼の肉体で彼の時間の中で書き記した生きた文字列と言うのは効くのである。

やっている写真の方向が全然違うから桂一さんと一緒に仕事をした事はそれでも一回だけあった。
ニコンの一眼レフの広告で確か見開きページで右側が桂一さんで左側が私なのだ。

私の尊敬する唯一のファッション写真家リチャードアヴェドンは確かなくなったときはその前日にニューヨーカーの撮影の仕事でヒューストンかどっかに行っていた。

そこで客死したのである。
桂一さんの場合もほぼそういう客死に近いのではないかと考えている。

いわば壮絶な写真家の人生のエンドと言うわけだ。p

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レニングラード。ジュピター50ミリ

2017年6月20日 (火)

ヒゲは重要なフィルム乾燥の道具だ

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あちらこちらに書き散らしてすでに伝説化しているが、ウインの7年半の間に撮影した2,000本のフィルムのほとんどが現像液は印画紙のものを希釈して使っていた。

で今では現像液を買うのには困らなくなったが、5月の20日と言う日に偽ライカ愛好会の有志がお祝いをしてくれてその時にメンバーがライカM2と30本の白黒フィルムをくれたのである。敬老精神に溢れているな。

それがきっかけで今の東京をとろうと思い立った。タイトルは「新東京人」である。私は高梨豊さんの直弟子のつもりでいるのだ。

しかしせっかく撮影するのだからwinの時代を見習って印画紙の現像液でしようと思った。

希釈用の現像液を 1対20にー割って20度ちょっとの液温で15分ぐらいである。
こういうデータは変わらないものでちゃんとwin時代のあのちょっとクセのあるトーンカーブのちょっとねじれた調子のネガができた。

win時代には建築されて100数十年の古いアパートに住んでいて天井がやたら高かった。そこにレースの高いカーテンがぶら下がっていたので、そこにピンクリップをつけてネガ乾燥したのである。

今の寓居は天井は高くないからそういうやり方はできない。
それで普通のバスルームに乾燥すると言うやり方である。

水洗のあがったネガをスクイーズするときには両手が塞がっている。
だからバスルームからぶら下げたピンクリップを持つところがないのである。

ふと思いついてヒゲから六個のクリップをぶら下げてみた。これはなかなか調子が良い。

ピエールガスマンはあごひげがないのでそれはやってなかったと思うけど、アンセルアダムスだったらやっていたかもしれない。

それにしても非常に不思議なのは私のFacebookのアップした写真のクリック数である。1番クリックされているのはこの間、悪の枢軸さんが祝ってくれた私の古希の大祝賀会である。その時に作ったTシャツの図柄が、これはwinのアパートでの私の鏡に映ったセルフポートレートであるのだが1番人気だった。

それで不思議なのはFacebookのクリックされた写真の3番人気と言うのがしばらく前にアップしたバスルームに二本の現像済のネガがぶら下がって乾燥されているところなのである。

思うに現代人は忙しいしデジタルカメラでしか仕事をしないから、モノクロのネガの乾燥などは言い換えれば南フランスにバカンスに行くようなのと同じでちょっと洒落た生活スタイルになるのであろうか?

2017年6月19日 (月)

パリの昔のバス

パリの昔のバスImg_3382
神田明神の脇のギャラリーバウハウスで7月25日までコレクション展が開催されている。世界中の巨匠から新人まで総計32名の展示会である。

私も4点ほど1,970年代に撮影したヨーロッパのパノラマ写真を展示している。もともとこれは昨年亡くなったつアイトフォトサロンの石原悦郎さんのコレクションだった。

今回 220点ほどある作品のそのうち4点を展示しているわけだ。

4点はすべてパリの1,970年代の作品である。この作品は言うまでもないが70年代のパリを訪れたツーリストには懐かしいバスである。

今のモダンなバスとは違って色使いも何か緑色を主体にした色使いだった記憶がある。
ちょうど大昔の京都の市電とか市バスの色と似ていた。

以前岩波写真文庫で私の気に入った写真文庫を復刻すると言うのがあって数人の人々のうちの1人に加えられた。私が選んだのはタイトルは失名してしまったが戦後のパリを撮影した岩波写真文庫の1冊だった。それはパリの風景は戦争直後であっても今でも建物だけではほぼ区別がつかないのである。だから通行人のファッションもそうであるが、それより重要な時代の決め手は街行く車であった。乗用車もそうだがバスの場合は本当に戦前のオムニバスと言えるクラシックの車体なのである。

ヨーロッパではずいぶんバスに乗っている私であるがこの時代のこのタイプのバスが好きなのは言わゆる展望車になっている点だ。

このバス最後部のバルコニーから花の街パリの展開する万華鏡のような風景を見るのは人生の楽しみの最大のイベントである。

ゴダールの古い古い映画の中で確かこのバスのリアの展望車のバルコニーのショットが出てきたような記憶がある。
あまりに古い映画なので不確かだが、これは草月シネマテークの時代だから60年代半ばであって、まだ青山通りに都電が走っていたと思う。

それをシナリオ風に言えば、展望車を後から別の車両で移動撮影をしているのであるが、その展望車デッキの上で若い男女が痴話げんかをしていると言うところであった。

ゴダールも若かったし、血気盛んだったからこの展望車の使い方の手立てをよく知っていたものと思われる。

今のパリの市バスは実にエアコンが効いていて快適ではあるが、何か熱帯魚の水槽がそのまま移動してるような感じがする。
つまりそこにはドラマが発生する手立ては無い。

🇻🇳ヨーロッパのパノラマシリーズは現在京都ギャラリーメインでも展示中。

2017年6月18日 (日)

窓からの眺め

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隅田川の住まいの北東の部屋には1つだけブラインドが下がっていない。そこはバルコニーへので入り口なのである。

2009年頃であったと思うが、隅田川の上流に正体不明の地平線に出っ張りができた。
最初は変な格好のタワーマンションだと思っていた。

ヨーロッパに2週間から3週間行って戻ってくるとその突起は少しずつ伸びているのである。

それはジャックと豆の木のようなものでどんどん空に向かって伸びていった。
それが新しいテレビ塔だと教えられるまでに半年ほどかかった。
その電波塔の名前を募集したようでいろいろな呼び方があった。
私は自分で勝手に「空筒」と呼んでいた。

その空筒が竣工して極東の一大名所になった。
私の周囲でもずいぶんこれを参拝した人が多い。
わたしは行ったことがないが、その下に使い易い暗室を発見したのでなかなか素敵な場所になった。

そのスカイツリーが見えるレストランとかホテルというのが1時大変なブームになったようである。
私は部屋からいつもスカイツリーが見えているので食傷気味である。
毎日がスカイレストランの日々である。

だから時々天候が悪くてスカイツリーが見えなかったりするとほっとする。
本来の東京の地平線がそこに取り戻されたような気がするのである。


2017年6月17日 (土)

ウイーン縦画面

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🇻🇳私家版 写真集 CT70 に関するメモ。

本が出来上がるまで全く見ていなかったので予想外のことがたくさんあった。
まず編集者が時々Facebookにアップしてくる私の作品の画像は横位置なのである。だから私は横位置の写真が使われるものだとばかり思っていた。

ところが実際に本になったレイアウトは全部縦位置なのである。

10年ほど前に片岡義男さんと東京の街を徘徊していた時に片岡さんが出した写真集のタイトルが東京縦画面であった。

その理由については細かく聞いた事はなかったが、それまでの片岡義男の作風は横位置が主流だったと思う。それがいきなり全部縦位置になってその写真集のタイトルが東京縦画面と言うのである。

これはコンセプトと言うよりも片岡さんご自身の視神経の生き方と言うべきなのであろう。

私はどちらかと言えばずっと東京横画面なのである。

それで今回のウインの写真集は全部館画面なのが非常に面白く思った。

2番目は49本のネガから編集者が選んだわけであるが、私は今までネガを全然見ていなかったと言うことである。

40数年前の撮影だからすでに忘れていると言うこともあるのだが、第三者の目というのは写真家本人の目よりも信用できるというか破壊的であるというか、創造的であると言う部分もある。
それが 面白い。

ソワレの女の子の背中と大きな袋を担いだおっさんの姿がどちらもエロチックと言うベクトル上では共通項を持っていると言うのも面白かった。

つまり編集者の感性は通常のIQよりもずっと上で、かなり病的なのである。

フロイトを生んだ街のスナップショットを編集する人間としてはこれ以上の役柄はいないと思われる。しかも限定100部でもう手に入れる方法がないそうである。そこが痛快である。

2017年6月16日 (金)

50年間モノクロ写真をやっていてわかったこと。

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京都のギャラリーメインで私のモノクロームの半世紀の展示が始まった。
まず空前絶後の展示であって50年間の自分の走ってきた方向が生で見られると言うのは私自身が1番興味があるのだ。

もちろんそれは私の傑作写真集なると言うクラシックな価値観ではなくてそれぞれの10年ずつのポイントで私が光に対して銀塩のテクニックでどのように反応してきたかと言う純粋なドキュメントなのである。

1967年から本格的にモノクロ写真をやっている。そのきっかけはフォコマートの引き伸ばし機を手に入れたことだ。
以来ずっとフォコマートを使ってきた。それで膨大な量のプリントを作った。

写真家ヨセフクーデルカによると彼のジプシーのポートレートで70年代にスイスカメラに掲載されたその中のコメントであるが昨年は自分はプリント作業を怠けていて普段は7,000枚ほどプリントするのだが昨年は5,000枚しかプリントできないかったなどと言っている。非常にストイックな人である。

プリントの量が写真の質を上げるかどうかと言う質問はここでは置いておくが、プリントをたくさんしてたくさん失敗する事は少なくともその写真家の技を磨くことにはなるだろう。

今回の京都のギャラリーメインでの展示では1,960年代から始まってほぼ10年ごとにセクションを区切ってそれぞれの時代のモノクロームの代表作を展示すると言う構成にしてある。

ゼラチンシルバープリントの何が良いのかという素朴な筆問がある。

一般的な回答と言うのはモノクロームのグラデーションは非常に豊かであってデジタルカメラ等は及ばないと言う言い方だ。

これは実は嘘である。

以前辣腕の編集者と写真の話をしていて彼はかなり初期から実はデジタルプリントよりもゼラチンシルバープリントはそのトーンにおいては劣るのだけれども、だから良いのだと言う意味のことを言っていた。これはなかなか鋭い視点である。

プリントの巨匠アンセルアダムス等もそうであるが、彼は自分の経験値から自分のプリントテクニックを作り出しているのである。

デジタルプリントのトーンカーブとはもともと違う世界なのだ。
いわば出たとこ勝負で、やっつけ仕事で、で丁半賭博のようなところがある。それが面白いのだ。

今回の5つのセクションの最初の部分は1,960年代後半に東京で撮影したものである。
これはこの春パリでも個展をやらせてもらった。
プリントはモダンプリントであるがずいぶん力を入れてプリントをし過ぎたので、もうちょっと手控えればよかったと思っている。

私のプリントの癖はどうしてもコントラストを高くしてエキセントリックに伸ばすのが好みなのである。

寝ぼけたような調子の眠いプリントはせっかくの高価な銀を浪費しているように思えるのだ。

ゼラチンシルバープリントはいわば小説家の生原稿のようなものだ。

岩波書店の保管物で夏目漱石の生原稿を見たがあれには感動した。
一字一句間違えのない素晴らしい文字がびっしりと400字詰めの原稿用紙に並んでいてそれが数千枚もあるのである。すごいなと思った。

私にとってオリジナルプリントと言うものの目指すところは、そういう文豪の生原稿なのである。

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2017年6月15日 (木)

ライカM2 木星玉

ライカエム2木星玉

加納満が編集した私の最新の写真集CT70であるが限定100なのでもう入手する方法は無いそうである。何千部も刷って売れ残る写真集よりももうないと言う方がいさぎよくて良い。

その出版記念会が先日行われたが大盛況で非常に楽しかった。ご参加の皆様と悪の枢軸さんを始め皆様に御礼を申し上げる。

その時、突撃隊長があたしがライカでスナップしているところをスナップしてくれた。

クロームのライカにクロームの木製玉がついている。例のカモのブーニーハットをかぶっているので顔はわからない。写真家の匿名性ですね。

この前のパリでの中藤さんとの展覧会のオープニング、それとワークショップで私はビルカニングハムのジャケットを着ていた。それを着て行こうと思ったが祝賀会の当日はあまりに暑いのでリネンのピンクのジャケットにした。それで1部にドレスコードに関してだいぶ混乱が生じたようである。
ごめんなさい。

それでつくづくライカを見てレンズを見ると思い出したのは70年代に使っていたのがまさにこの組み合わせであったことだ。

70年代半ばであったが、初めて東ベルリンの友達を訪ねた時のスナップが私の写真集winとライカの日々の巻末に掲載されているのであるが、トレンチコートを着て私は首からクロームのライカM2を下げてジュピターをつけているのだ。

半世紀が経過しても使っている機材に何の変化もないという事は逆に素晴らしいことであると思う。
もっとも私が撮っている写真も全く変化がなくて写真家としてデビューしたときの方向はいささかも変わっていない。

いろいろな本に書きちらしたことではあるがライカにズミクロン50ミリをつけてキエフにジュピター50ミリをつけておんなじ条件でwinで撮影をしたことがある。
それを大きく伸ばしてうちのアパートの隣の写真家の事務所に持っていってクイズをした。

どっちがズミクロンでどっちがジュピターかと言うクイズである。その広告写真家は全く区別がつかないので指摘することができなかった。これが私がジュピターを認めるきっかけとなった事件であった。

加納満は約50本の私のネガを見てそれは今回の写真集のためにセレクトしたものだが、中にトーンがでていて素晴らしいネガがあるからなんで撮影したのだろうかと言う質問があった。

当時は生活が食うや食わずであったから価値のあるズミクロンなどはすぐ東京に送って販売してしまった。だから確率としてはウインのシリーズを撮った写真と言うのはほとんどがジュピターつまり木星魂で撮ったと言うことになる。

それは中にはズミクロンで撮影した写真もあるかもしれないが、もともと両者にはほとんど変化がないのであるから結局、言ってしまえばジュピターもズミクロンも同じであるということになる。
このことをちゃんと理解するために私は半世紀の時間を要したことになる。


iPhoneから送信Img_3330


2017年6月14日 (水)

いよいよ日曜まで🎌田中長徳 f銀塩写真五十年の歴史展示 ギャラリーメイン

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今回の写真展『田中長徳×銀塩写真 50年の歴史展』は私の半世紀に及ぶモノクロシルバーゼラチンプリントの集大成です。
時代別に5つのセクションに分けたのはギャラリーディレクションからの提案ですが、私の昔を5つ重ねた時間軸をうまくつかんだやり方だと思います。
長い写真家生活で1番痛感したのは、数十年前のいわゆるRCペーパーの登場でした。早くて便利なのですが、やはり本気の写真術には向きません。
その後にやってきたデジタルカメラのビックウェーブのシャープで便利なのですが、写真を長い時間軸で考えるにはどうも不適当です。それに無限に再現できるという点でもマイナスです。もしワルターベンヤミンが生きていたら、そこら辺を酷評するかもしれません。
京都と言う、歴史的文化的時間軸が東都よりずっと長いこの街で、私の半世紀を振り返ることができるのは大変な喜びです。

田中長徳×銀塩写真 50年の歴史展示
6月14日(wed.)ー6月25日(sun.)
13:00ー19:30
月曜日、火曜日はアポイントメントのみ
Monday, Tuesday Appointment only.
ーーーーーーー
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😎ありがとうございます。皆さんのおかげです!❤️Img_3313
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ギャラリーメイン提供

2017年6月13日 (火)

ライカのワインダーを使いこなす

ライカのワインダーを使いこなすImg_3316
ライカのカメラが登場して半世紀の年は1975年であった。その時私はwinの3年目の暮らしだった。

ベートーベンが住んでいた旧市街の北のはずれにライカの総代理店があった。
ライツオーストリアと言うのである。

そこでライカ誕生50周年を記念する立派なパンフレットをもらってきた。真っ赤な表紙でサイズはいつもの四角形である。

トップに「売るらいか」が出ていてライカの父オスカーバルナックの肖像もあった。

私は当時20代だったからバルナックはすごいおじいさんに見えたものである。今ではバルナックの歳を超えてしまった。そのパンフレットの1番最後のほうに最終型のライカレンジファインダの写真があってそれはライカエム42に大きなレンズノクチルックスをつけて本体にはライカわインダーが付いている。

とても高くて手が出ない値段であった。

ライカワインダーは人気がないのである。
どういう構造をしているのかしらないがシャッターを押す機構が異常に音がでかい。

権兵衛さんの鉄砲ではないが、あたりの野山に響き渡る位の大きな音がする。
ガラクタ屋さんに行ったら入荷したばかりのその権兵衛さんの鉄砲、ではなかったライカワインダーがあった。

シャッター音はでかいが20年ぶりに使えそうなので、この武器で新東京人の撮影に行った。

実際に撮影してみると新東京人の皆さんは爺が操作しているでかい黒いカメラのシャッター音など気にしていない。

それもその通りで皆さん忙しいのだから、これがアルカイダイスラミックステートの爆弾のチョッキを爆発させたのなら問題だが、ライカワインダー位で日本の治安当局は優秀だからびくともしないのである。
ただしこの武器を持って徘徊していると何でも共謀罪の適用範囲に入るようであるから同士は注意しよう。
私の写真家生活50年を皆さんで残念がってくれる大会がこの前の土曜日にあった。
大盛況であった。新宿駅のJRのラッシュのピークの15分前位の混み方であった。

今回このテロ行為を企画した悪の枢軸のうちの1人写真家の加納満さんが私にパーティーの終わりごろに何かを手渡してくれた。
内容は聞いていたが大事なものらしいのでショッピングバックには入れずにカモフラージュのカーゴパンツのサイドポケットに入れた。

佃に戻ってあけてみるとこれがどうも手作りのライカのフィンガーグリップなのである。
ライカわインダーの底の部分を見るとそのフィンガーグリップをねじ込むのにちょうどいいような三脚のネジ穴がついている。

それで想像もできなかったハンドリングの良いライカワインダーになった。

1968年の2月に若かった私が神楽坂は白銀町の高梨豊さんのお宅にお邪魔していろいろライかの話をした。その時高梨さんは理想のライカを使うと町が戦場のように写るのではないかとおっしゃった。

それはファインダーのついていないライカMDのことなのであるが、カラシニコフなみの大きな作動音がするワインダーだって、街が戦場のように映ると思う。

さぁこれから銭湯だ。

2017年6月12日 (月)

xライカのブラックペイントのクオリティーは1,930年代が最高だった

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win暮らしを始めた頃の唯一のカメラの通販はアメリカはコネチカット州テッパー商会だった。毎月A4サイズの結構あついプライスリストが送られてきてそれを見るのが楽しみであった。それを見てエアメールで注文を出して支払いは近くのローカル銀行で行うのであるから早くて4週間から5週間達で品物が手元に届くわけだ。

今は有名になったwinのライカショップであるがもとは西駅に近いカイザーストラセにあった。当時のペーターケルンはちょっといけすかないマーチャントで、いつも喧嘩腰であった。やはり立ち上げたばかりの店に心配がいっていたからイラつくこともあったのだろう。

それが今のウェストバーンストラセに移転してもう20数年が経過している。
その時代はもうメールが使えるようになったからオンラインで興味のあるカメラやアクセサリーを問い合わせると、こちらが買うと言ってもいないのにそれをすぐ送ってくるのである。商道徳からするとけしからん話だがペーターケルンとは気心が知れているから別にそれでよかった。

何しろ私のクレジットカードのデータはペーターケルンが持っているのである。
その後ウェストリストを作ったりしてその1連の繁栄ぶりは我々が知るとおりである。

いつだかペーターの家に食事に呼ばれた時家族と話していてかなりワインの酔いが回った頃に、ペーターケルンは実はチョートク、俺はカメラハンドラーではなく写真家になりたかったんだよと言った。

それを制して私はお前はカメラハンドラでよかったよ。俺を見ろ写真家になってしまったのでこのザマだと言ったので大笑いとなった。

ペーターの母上が体調が悪くてこれが最後のクリスマスイブだという時に私を呼んでくれた。家族の最後の記念写真なのである。撮影はエプソンのベッサのデジタルカメラだったからかなり前の話だ。

食事を誘われたが私はバカでは無いから写真だけ撮って12月24日の寒い真っ暗なオペラ座も閉まっている路上に誰もいないwinの街を歩いてシュテファン寺院の裏のペンションに帰ってきた。
忘れられない一夜であった。

このライカはその 70年代の滞在の初めにコネチカットから買ったものであるが主にもう半世紀近く愛用している。

特筆すべきはそのブラックペイントの良さである。別に大事に使っているわけではないが禿げるところはわずかにはげて全体はしっかりしている。
前のオーナーの名前も本体の下に下手な手書きのひっかき傷でその文字はwolfと読める。winの有名なヒューゴーボルフであるから何か趣があった。

1,985年頃であったか雑誌の取材でジャックラルテイグをパリに撮影に行った時もこのライカを持っていった。レンズは木製玉の5センチだった。だから昔も今も何も変わってない。

この当時のブラックペイントの仕上げが良いのには感心する。日本デザインセンターの同級生の青山が1970年に手に入れたブラックペイントのライカえむ4は買って1週間でライカのトップのブラックペイントが全部剥がれてしまい青山はうろたえたのであった。

青山はブラックライカに対する考え方を変えてトッププレートを磨き込んで真鍮の金色の表面に自分の顔が映るようにした。これはいいアイディアであった。その後青山は結婚してお子さんができて今はお孫さんがいるかもしれないが彼の人生の伴侶の1番最初はそのライカなのである。
何か感慨深いものがある。


2017年6月11日 (日)

チョートクカメラ塾 ドメイン移行中につきこちらで

晴れたらライカ
雨ならデジカメ

こんにちは。チョートクカメラ塾です。

カメラで本気出す。
カメラに本気出す。
これが我らのモットーです。

晴れたらライカ。
雨ならデジカメ。

これは実は10年ほど前に岩波書店から出した私の単行本のタイトルなんです。思いつきでつけたタイトルでした。
普通私は単行本を出すときは編集長に相談してあるいは編集長にタイトルを提供していただくのですが、この時は自分でアイデアを出しました。

タイトルとしては座りが悪いのですが、意表をつくタイトルなので本はそこそこに売れました。

これから梅雨の季節になるので撮影には気を使いますね。
まず1年で1番憂鬱な撮影の時期です。
梅雨の雨の中でフイルムを交換すると言うのは私のように半世紀撮影に慣れていてもやはり面倒なものです。
デジタルカメラの最大の利点はそれまで雨の日のフィルム交換を躊躇させていたと言う長いカメラの操作の歴史を一挙に簡単にしてしまったことにあります。

カードをカードスロットに差し込めばそれだけでもうスタンバイ。すぐに撮影に専念することができます。

フイルムカメラでフイルムを装填すると言うのは既にプロフェッショナルなテクニックでした。1,960年代にベトナムの1連の報道取材で大活躍した国際的フォトジャーナリスト岡村昭彦はベトナムのデルタ地帯をアメリカ軍と一緒に何日も行軍しました。

誰が愛用したのはクラシックなライカのM2とM3でした。パトロール本体から落伍することはできませんから岡村はジャングル地帯を歩きながらライカのフイルムを交換したのです。
口で言うと何でもないようですがこれ実際にやってみると凄い体験談ですね。私も真似をして無残な結果に終わりました

しかも単に歩きながらフィルム交換するだけではいつどこからベトコンの狙撃があるかもしれません。そういう極めて緊張した状況下でのフィルム交換でした。

今の時代の近代戦と言うのは実は戦闘が目に見えないものだといえます。でも一方でフィルム交換に気をとられていて自分の命を失うと言うようなリスクは大幅に減ったと思います。

何しろ膨大なサイズのメモリをカードスロットに入れておけばそれで1,000枚も2,000枚も撮影ができますからね。戦争写真に限らず全ての写真の撮影の分野でこれはノーベル賞ものだと思います。

デジタルカメラの画像データの管理とフィルムカメラのフイルムの管理。これを比較してみるのはとても面白いことです。デジタルカメラの問題点はいくらでも撮影ができるので逆に撮影に区切りと言うものがありません。

一方でフィルムカメラの場合は例えば35ミリフィルムを使うライカであればとりあえず36枚撮影本たところでフイルムを巻き戻して、さて次の1歩はどのようモチーフにアプローチしようかなどと、写真家は考えているわけです。

一方でデジタルカメラにはこのちょっと
息を吐いて考えるゆとりが全くありません。

連続してとるならばそのカードの容量目一杯何の問題もなく連射してしまうからです。
言い方を変えるといつでも簡単にたくさんと
れているカードの装填は良いのだけれども、逆にけじめのない撮影になってしまうと言う事ですね。

最近は私はヨーロッパに行くのをやめてもっぱら東京をテーマに撮影しています。
そのテーマは 「新東京人」と言うのです。

尊敬する写真家、高梨豊さんが東京オリンピックの直後に素晴らしい東京のドキュメントを戻しました。
それが作品「東京人」でした。

それはカ特集で30数ページ掲載されたのですが、私の教科書のようなものです。それで私は高梨さんの後を継いでそのパートツーを撮影しようと思い立ったのはこの間高梨さんにお目にかかっていろいろサジェスチョンを受けたからでした。

さてカメラです。

こういう新古典派の仕事をやるにはやはり大先輩と同じカメラを使うべきだと最初に考えました。つまりフイルムを使うライカで全編を撮影しようと言うことなのです。

シリーズはスタートしてまだ2週間です。これにはバックグランドがあるのです。70歳になった私は東京都シルバーパスをゲットしました。考えてみればこれは東京都が私の撮影を全面的にサポートしてくれるようなものです。
東京都に感謝ですね。

都営地下鉄線とそれに接続する各社のバスをフルに活用して今まで行ったことのないような東京の周辺部を撮影しています。
今までなら晴れた日にライカでとって雨の日はフィルム交換が面倒だから、デジタルカメラと言うセオリーでしたが、新しいモチーフを得て私はハイになっているのでそんな事は全く考えません。雨の日でも楽しくフイルム交換をしています。

ただし岡村昭彦さんのようにベトナム戦争の取材の時にメコンデルタ地帯を歩きながら、フィルム交換をすると言うのは、いまだに達成されていません。

ちゃんと雨の降ってない軒下に身を寄せてフィルム交換をしています。考えてみればフィルム交換て撮影より大事なんですね。

この間パリで私が十数人の生徒さんにワークショップを行った時に 、ワークショップの先生がカメラを持ってないのは格好悪いと言うので、パリのギャラリーのオーナーが私に1台のライカ
のモータードライブ付きを貸してくれました。

彼はライカの操作に慣れていましたらその場で1本のフイルムを装填して私に渡してくれたのです。

私も時差ぼけで注意が散漫だったのでその借りたライカででワークショップで撮影をしました。ところがびっくり仰天。

フイルム装填がいい加減だったので一枚もとれていませんでした。ライカを使って半世紀になるのにこのザマです。ですからますますフイルム装填の大事さが身を持って体験できました。

それではまた次回のカメラ塾でお目にかかりましょう。

大宴会

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私の誕生日と写真家になって 50年を祝う大宴会を皆さんが開催してくれた。誠にありがとうございます。
会場は四谷3丁目のJALシティーであってかつて私が森山大道さんに会ったりあらーきーさんと歓談した場所である。

二階の大広間が参加者の皆さんではち切れそうになった。
70名以上である。東京メトロのラッシュの時間帯の20分前位の混雑だった。誠にありがたい次第である。
九州とか大阪から駆けつけてくださった方も多かった。ありがとうございます。

この間ギャラリーバウハウスでアジエにまつわる仕事を開催した写真家の稲垣さんも駆けつけてくれて8x10の大型カメラで記念写真を撮ってくれた。これは10メートルの長さのエアレリーズで私が撮影をするのである。だから失敗したら私の責任である。

稲垣さんが絞りは11.で2秒ですと言ったので私はゴムの魂を握り締めて「おじいちゃんおじいちゃん」と言った。これで露光時間は正確に2秒になるのだ。

1,970年代始めニコンのカメラのスタイリングをスタジオでとっているときに1秒以上の長時間になると間違えやすいので「おじいちゃん」と言うとこれが1秒なのである。
おばちゃんは2分の1秒である。そういう昔のプラシック写真術をいまだに使っているのも面白い。

写真家の加納満さんが編集してくれた写真集がパーティーのお土産だった。すごくいい印刷なので実にびっくりした。

だって撮影しているのはほとんどがソ連製のキエフとソ連製のジュピターなのである。印刷が素晴らしいのでまた感心した。
でも私は楽しみは後にとっておくと言う性格なので表紙を見ただけでまだ全部は見ていないのだ。

ただし70名のお客さんが全員私に見返しの部分にサインを求めてきたのでそこにシルバーのサインペンでサインをした。新宿のゴールデン街とかそういうバアに行かなくなって久しいのでシルバーのサインペンが何か懐かしかった。

すばらしい写真集ができたので私は満足。

稲垣さんが撮影してくれた8xは現在現像中である。それで突撃隊長が撮ってくれたiPhoneの画像がこの画像だ。記念写真はiPhoneでも十分だと思うがそれを大型カメラで撮るのはまた素晴らしい。空前絶後の大変ゴージャスな大記念写真と言うことだ。

2017年6月10日 (土)

❤️おかげさまで 長徳カメラ塾 ランキング一位に!🎌

チョートクカメラ塾 新しいドメインになりました。
http://www.chotoku01.com
[ブログカテゴリ] 写真/アート :1位 / 22646ブログ中
😎ありがとうございます。皆さんのおかげです!❤️Img_3313
photo by TOTSUGEKI

新東京人 まっくどなるど

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東京人の高梨豊さんに会えたので私は腹を決めた。

2代目高梨豊では変だから東京人の後をついて新東京人をスタートする。
もちろんこれはカメラ毎日は無いけどもカメラ雑誌の巻頭に30数ページ掲載と言うイメージなのである。

1970年の初めに銀座三越の角に日本で最初のマクドナルドができた。それまで路上で立ち食いする事はルールマナーに反すると言うことであった。

私は生意気ざかりであったから銀座1丁目の日本デザインセンターから歩いて4丁目の角まで行ってハンバーガーを食べコカコーラを飲んだ。通行人は私のことを長髪ヒッピーが何か立ち食いしている、お行儀悪いなと見ていたようである。

そのマクドナルドが銀座4丁目から2キロも離れていない月島駅前の角にできたのはいつであったか忘れたが30年以上が経過しているはずである。それほどゆっくりとマックは佃島に攻めてきたと言うことになる。

このデリバリー用のバイクは見るとなかなかかっこいい。それもカラーで見ると生々しいのだがモノクロフィルムでとると非常に洗練されていて素敵である。

生活習慣でマクドナルドを食べる事は無いから単なる風景として見ているのである。

唯一の例外はヨーロッパにマクドナルドでゆっくりプラスチックコップの地元のビールを飲んで、それがと朝のエックマフィンを食べることがある。ちょうど1年前に高知に行った時にやはり午前中だったのでエッグマフィンをゆっくり食べた。必然的にビールが欲しくなったら日本はライセンスがないから売ってないようであった。

忘れられないシーンがある。

モスクワから赤旗が降りた直後に取材でモスクワにいた。モスクワの中央郵便局の向かいが新しくできたマクドナルドであった。エントランスが2つあって向かって右側がルーブルで支払うエントランスで、これは数100メートルの列。そして左側のエントランスは我々西の帝国主義者がグリーンバックで払う入り口である。誰も並んでいなかった。


2011年9月11日のことだった。私はライプチヒにいたのである。カタログの撮影でランチを食べ損ね広場にあるマクドナルドに入った。
他に選択肢がなかったのである。

エッグマフィンの販売時間が既に過ぎていたので普通のハンバーガーを食べてまずいビールを飲んだ。ふと見ると目の前に資本主義の象徴的存在、つまりさっき崩壊したばかりのワールドトレードセンターのツインタワーが巨大な写真パネルになっているのにいきなり出くわしたのである。
散歩しているときに角を曲がったらいきなり車にひかれそうになったと言う感じがして冷や汗がたらたら流れた。

❤️ライカエム2 ちょっと期限切れのトライエックスで撮影

2017年6月 9日 (金)

イスタンブールでインダスタール

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1973年から1980年までwinで暮らしていた。今回その時期のwinのスナップショットを写真家の加納満さんがまとめてくれた。誠にありがたいことである。

インターネットなどない時代の事だから実際に東京とウインは10,000キロ以上離れていたのである。だから極東日本で流行しているものがそれが何であるかわからなかった。数ヶ月遅れの週刊誌が唯一のニュースソースであった。

まずわからないものを記載してみればカップヌードルがわからない。泳げたい焼きくんもわからない。そして飛んでイスタンブールと言うのもわからなかった。

写真家の古屋誠一とイスタンブールエクスプレスに乗ってイスタンブールに行ったのは1,974年のちょうど今頃だったと思う。イスタンブールツアーは3名であってもう1人は画家の山本博であった。

2泊3日の二等車の旅でウイんで金儲けしてイスタンブールに帰るトルコ人に簡単なトルコ語を列車内で教えてもらった。だから今でも簡単な会話はすることができる。これはその後非常に役に立った。

イスタンブールからさらに東に行こうと言うことになった。アンカラまでは到底無理で鈍行列車でイスタンブールから海峡越えて2つ3つ先で一泊して戻ってきたのだから大した旅では無い。

それよりもイスタンブールのグランバザールは新鮮だった。商売の熱気とエキゾチズムがムンムンしていて今のイスタンブールとは全く違う世界だった。
カメラ屋もー軒を連ねていた。もちろんデジタルカメラの時代ではない。オスマンフィルムカメラ帝国なのである。

路地の奥の小さなカメラで買ったのがこのレンズインダスター50ミリだった。このレンズはジュピター50ミリと並んでスナップシューターの私には大変重要なレンズである。
ジュピターは明るさのF2でゾナーの完全なコピーである。このインダスターは明るさがエフ3.5でテッサのコピーであろう。

私と古屋と山本はグランバザールをほっつき歩きサバサンドを食べたり、ラキの強い酒を飲んだり売春街を見学に行ったりした。

グランバザールの近くの汚い小さな食堂で食事をした。店を出て5分ぐらい経ってから私はテーブルの上にライカを忘れていたことに気がついた。それはブラックペイントのライカM2でレンズはニッコールの21がついていた。おまけにライカビットMPがついているのだから1財産である。

慌てて戻ろうとしたら角でさっき食事したレストランにいた使い走りの少年が私を探して角でぶつかりそうになった。その少年は息を切らせて私に黙ってライカをさし出したのである。

私も気が転倒していたのでチップとして小銭を少年に握らせることすら忘れてしまった。でもこの小さな出来事で私はイスタンブールの人とイスタンブールそのものを全面的に信用するきっかけとなったのである。

それはもちろんインチキ絨毯屋さんとか怪しげな街頭の両替屋さんがいるかもしれないがそういうのは除外ししてもイスタンブールの人はすべて善人であるということに気がついたのだ。

グランドバザールに行ったらそこで我々と同じ位の青年つまり20代半ばの男性が声をかけてきた。
やたら馴れ馴れしいので最初は警戒したがすぐ仲良くなっていろいろなところを案内してもらった。それでイスタンブールの中級の上ぐらいのホテルのカフェに行って、彼は私に買わせた強いウイスキーを茶色の紙袋に入れてコカコーラを頼んだ。そしてウエイターの目を盗みながら我々のグラスに隠したウイスキーを注いでそれを飲み干した。強烈なコークハイであった。

意気投合して明日はウシュクダラの船着場でお昼の12時に会おうと言うことになったのだが彼との別れにぎわに明後日軍隊に入るのでお小遣いが欲しいと言い出した。これが古屋の気分を損じたようで喧嘩別れのようになってしまった。

私は何に当たったのか食あたりで翌日はひどい下痢でホテルのベッドから起き上がれなかった。そういう状態になると太陽が黄色く見えると言うが本当に私は黄色いお日様を見たのである。

10日前後の滞在が終わってまたイスタンブールから2泊3日の二等車のガタガタした旅でwinに帰ってきた。帰りはうっかりしていて食料買う時間すらなかった。
それで我々3人は1つの黒パンと2つの魚の缶詰を分け合って2泊3日のひもじい旅をしたのだがこれも良い体験だった。
列車内で羊飼いの青年と同じコンパートメントになった。羊飼いの目は深く青く澄んでいた。そして体全体は強烈な羊の匂いがした。

その時古屋は例の軍隊に入った青年の約束通り、喧嘩別れした翌日のお昼にイスタンブールからフェリーに乗って対岸の東洋の最初の街、ウシュクダラにいったそうだ。その青年は現れなかった。
ここら辺が古屋誠一が純情である。それで私は古屋が好きになった。
青年の名前はいまでも忘れない。
デインチャール アイドン。

2017年6月 8日 (木)

山崎博さん

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山崎博さんの訃報に接する。行年70歳。

山崎さんに最初に会ったのは67年頃だったそうだ。銀座で山崎さんが私に声をかけてくれたのだ。

1966年に私は結構たくさんのスナップショットをカメラ時代と言う雑誌に発表していた。

8ページのグラビア印刷でそれを年間、7回とかやったら目立つのに決まっている。それを山崎さんは見てくれていてあいつが田中長徳か、と言うので声をかけてくれたのである。ありがたいことだが私はその記憶が飛んでいるのである。

後になって山崎さんと飲むようになったがいつもその話が出た。要するに当時の山崎さんはあまり酒癖が良い方ではないのでそのことを覚えていないのはけしからんと絡んでくるのである。

私は写真家山崎博を最初に記憶しているのは場所はやはり銀座であるが2眼レフのプリモフレックスを彼が持っていたので、私はそのカメラの優秀さについて路上でカメラ談義をした。それが私の山崎さんとの最初の記憶に残っているポイントである。ところが山崎さんはその事は覚えていないと言うのである。

私はコンセプトで写真を撮る人間ではない
が、山崎さんはコンセプトの土台をしっかり立ててその上に映像を構築する人であった。

優秀な写真家であると同時に山崎さんは優秀な映画作家でもあった。実験映画である。8ミリカメラを熱気球に積んでそのカメラがどんどん上昇していくのである。
そこに私はかの、ナダールの浮遊感覚を味わった。
現在大流行のドローンの仕事は三流のディレクターが温泉場を上空からとったりするようなひどい使い方をされている。それに比較して山崎の空中浮遊感覚には絶対的なものがあった。

綿密なコンセプトに基づいた彼の他の映画作品で重要なのは虫眼鏡でピンホールの火種を作って木製のカメラが燃え出すと言うシリーズがあった。

虫眼鏡のレンズで太陽の光を集めてそれで本当に蛇腹カメラが燃え出すのである。その映画をたまたま私は世界のトップクラスの大判カメラメーカージナーの会社のコッホジュニアさんと見ていた。
彼はかなりそのエキセントリックな映像に動揺したようであったが、映画が終わってから一言、うちのは金属製だからこんな事は無いと言ったのである。このコメントは未だによく覚えている。

いつのことであったがのか忘れたが、ある雑誌のインタビューをシリーズで私がやっていた時に、山崎さんを彼の自宅に訪問したことがある。

モダンな写真家であるから大辻清さんみたいなみたいなコンクリート打ちっぱなしのお宅にお住まいかと思っていたら、大違いであって山崎さんは普通の木造建築に住んでいた。

それが意外でもありまた面白かった。窓開け話してると、家猫やら飼い猫が自由自在に目の前を行ったり来たりするのである。

そして山崎さんは自分の最新作をビデオで見せてくれた。それは桜の花を1,200ミリレンズにいくつものテレコンバーターをつけて長超望遠にした映像なのである。
それを見ている間にビデオデッキが具合が悪くなって壊れてしまった。山崎さんはこれは何万回も再生しているからねと言って別に驚いた表情もしていなかった。

これが山崎さんに最後にあった私の記憶である。

彼のキャラクターで非常に面白いのは若い頃結構酒癖が悪くて私を批判したりしていたが その時に写真のある質問について山崎さんに回答をお願いすると態度が一変して非常にわかりやすく説明をしてくれるのでびっくりした。

おや、この人は写真を教える能力に長けているのかと何か大発見をした気がした。
そして彼はその後東北の大学で教えたり東京の大学で教えたりするようになるのである。

山崎さんが偉いのは彼が今までやってきた仕事をそのまま授業で学生たちに教えるという事はやっていないと私は確信している。
普通だと大先生の周りで集まった生徒連中は先生の作風の真似をするのである。
これはナンセンスだと思う。
その意味で私が思うに写真家山崎博は教育者としても優れていたのだと思う。

写真教育不可能論者の私が言うのだからこれは間違いがない。

何十年来山崎博さんのトレードマークだった、あのピンクのシャツがもう見れないと思うと寂しい。


2017年6月 7日 (水)

田原桂一さん

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田原桂一さん昇天。
65歳であった。

田原さんに最後に会ったのは1985年の秋だったと思う。
ジャック ラルテイグの取材でパリにいた時に久しぶりにあったのだ。

田原さんの好きなカルチェラタンのベトナム料理屋で食事をして酒を飲んだ。そこのラーメンは細くて独特なのである。田原さんは小さな青唐辛子をたくさんのせて食べていた。ものすごく辛いので私は目が覚めた思いがした。これは田原さんの写真術芸術感にもつながるのではないかとその時思った。

後年ヨーロッパにロケに行ってスタッフと一緒にそのお店に行ったことがある。
私は自慢で田原さんが好きな店と言うので同行スタッフにお店を紹介したが、スタッフの皆さんにはラーメンは不評だった。というのも彼らは日本のチリチリのラーメンに慣れているからストレートで細いラーメンはダメなのである。何か私にこの店を紹介した責任を取れと言うような感じになり、それも懐かしい思い出だ。

パリ仕込みの田原の生き方は彼のアートでも写真でも、彼の好むラーメンでも極東には最初はなかなか受けられないと言うのが本当のところなのである。

1,970年代の後半に田原桂一さんはwinの私のアパートメントに遊びに来ている。
ところがそのことを私はすっかり忘れているのである。

昨年の夏に四谷三丁目のギャラリーニエプスで私が1,960年代の東京の写真を展示したときに、ギャラリーオーナーの中藤さんがいらして田原さんと話をした。
私は田原さんに会うチャンスはなかった。
その時の田原さんは、「チョートクさんとは winに行った時はカメラの話ばかりしていたが、その前東京ではこんな写真を撮っていたのか。いいね・・・」と言ってくれたそうである。
ありがたいことである。

1,970年代には外国で仕事をしてる写真家は少なかった。
俗にパリの田原、ロンドンのハービー、winのチョートクと言われていたようである。これはウインのあたしの家に遊びにきた、田原さんのデビュー作の写真集を制作した倉持五郎さんから聞いた。

いつだったかパリの街の東の果てにある田原さんのアパートメントを訪問したこともある。夜中の3時ごろタクシーでホテルに戻ってきたのだ。懐かしい思い出である。

ところで1,970年代に田原さんに教えてもらったパリの素敵なベトナムラーメン屋さんのことである。昨年私の個展に来て下さった直後に、そのお店の場所と名前を聞こうと思っていた。ところが田原さんは若いからいつでも会えると思って、そのままになって今年の春に私はパリに行ってしまった。それでくだんの店を探したのだがやはり発見できなかった。

すばらしい仕事を残した写真家田原桂一である。
だから個人的なパリのラーメン屋の場所等はもちろんわからなくても私は残念には思わない。

2017年6月 6日 (火)

ササキジュンイチのぽシエットが素晴らしい

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鵠沼に住んでいる田中長徳研究家を自認するササキジュンイチの本職は不動産管理業である。 20年ほど前に慶応大学が環境情報学部を作ったときそこの学生を当て込んで近くにアパートを立てた。
最初の数年は大繁盛だったらしいが慶応の学生はおしゃれだから卒業してしまうともうそーゆー学生アパートには入らない。それでどんどん古くなってしまうのでまず改装するには1部屋に最低500,000は家主としてはかかるそうである。不動産管理もなかなか大変だと思った。

彼の実家は千代田区の東京大神宮のそばにあって父親は何代か続いた腕の良い洋服屋さんであった。
それがバブル時期の時に大変な値段で地上げされたそうである。
父上は風光明媚温暖な鵠沼に移転をしてそこに豪邸を立てた。それも結構だがすごいのは父上がいつも通っている九段下の焼鳥屋の内装をそのままそこに復元させたのである。

だから小説「さかしま」の主人公みたいなものだ。
彼の家に遊びに行った時キッチンに案内されたら本当に焼鳥屋の店内であってガラスケースにはマグロの刺身とあゆの塩焼きがサンプルで並んでいた。非常に気に入った。人間何かしでかすとしたらこのぐらいスマートな方法が良い。

それで母上のほうは文学少女なのでヨーロッパから取り寄せた高いマントルピースを部屋の真ん中に据えて何かスコットランドの文学者の家と言う感じである。スコットランドの文学と九段下の焼鳥屋が空間が隣り合っているというのもシュールレアリズムである。

そのご両親はすでに天国に移住してしまった。それで佐々木が不動産管理をやりながら私を研究したりしている。
大昔福田和也さんと飲んでいるときに佐々木の革ケースをお見せした。
福田和也さんは銀座で暮らしているような人で良いものをたくさん見てるから佐々木の皮ケースの腕前にびっくりしたようである。

こういう革ケースなら自分もぜひ作ってもらいたいと福田さんが言った。ところが残念なことに佐々木はその後脳梗塞になってしまい昔のような細かいレザークラフトはできなくなった。それでも年1回私の誕生日にレザーストラップと皮の小物を送ってくれるのだ。

今年送られてきたポシェットはなかなか作りが良い。ポシェットを私が嫌いなのは最近若い連中の間で流行しているのであるがこれをおっさん以上じいさんがベルトにつけると出た腹がますます出てラッシュの時に大問題になる。

それで送られてきたストラップをポシェットにつけて斜めがけができるようにした。これはすこぶる調子が良い。

その中にはライカ1台とフィルム3本とセンスとiPhoneが入っている。これらのものは以前は我楽多屋のトートバックに全て入れていたのだが、その他に買い物用のくまもんの黄色いナイロンのバッグとかミネラルウォーターとか目薬とかいろいろ入るのでいざと言う時にトートバックだと必要なものが探せないのである。
でも今回の改革で撮影の時の携帯するモノの分類が非常に楽になった。それで70歳を機にやる気になって「新東京人」とか言うシリーズを撮影開始したのである。

あ、まだ始まって5日目ですけどね。

2017年6月 5日 (月)

「新東京人」撮影のアウトフィット

先日東京造形大学の有志による写真展があってその時私が半世紀尊敬している高梨豊さんのトークショーを聞く機会があった。その時に1966年1月号のカメラ毎日の巻頭特集高梨豊東京人にサインしていただいた。

私は高梨さんの影響でやはり東京をずっと撮り続けているがその間にwinの7年半と後はヨーロッパアメリカの長期取材等であわせて5年ぐらいは日本にいなかったことになる。

高梨さんのトークを聞いて私は決意したのは、東京人の続編をとってやろうと言うことであった。
東京人パート2ではパルコ文化みたいで変なので、いろいろ考えたのが、「新東京人」である。
これも新東京温泉みたいで変であるがまぁ仕方ない。

それでしばらく撮影を継続する。もちろんカメラは高梨さんが使ってたのと同じライカの M2 とM3である。ちょっと期限切れのトライエックスで撮影してゼラチンシルバープリントなのである。
うまく行けばどっかのカメラ雑誌に話をして掲載してもらおう。

小学校1年生の新しいランドセルみたいであるが70歳を機会にいろいろお祝いものをいただいた。それがこういう展開である。
まず夏の撮影であるからこのレザーバックにライカにそしてちょっと期限切れのトライエックス。そして暑いだろうから小さな黒いセンスがあれば良い。
これでシルバーパスをポケットに入れれば私の新東京人の撮影準備は完了である。

後は撮るだけだな。

パリとかwinとかプラハとかいろいろってきたが今年後半はまず「新東京人」撮影のために東京に滞在するつもりだ。
何かウイリアムクラインの真似。
かっこいいね。

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2017年6月 4日 (日)

CT70写真集のチラ見せ

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生誕70周年と写真家になって50周年を皆さんで残念がってくれる会を有志で開催してくれることになった。今週の土曜日の夕方から四谷のホテルで開催される。

昔はJALシティーと言う名前であった。今は別の名前になっているようである。最初にここで森山大道さんとカメラの話をしたのは二十年近く前である。

当時の私はまだ電話を通信手段として使っていた。それで森山さんから待ち合わせの場所を電話で指定された。森山さんはれいによってあまり滑舌が良くない発音なのでそれが電話で音声が通るとさらにフィルターがかかってはっきりしなくなるのである。

四谷3丁目のジャズホテルと私は聞いたのだ。
山下洋輔さんが暴れていた新宿のピットインなどに60年代に通っていたから四谷三丁目にはジャズホテルというのがあると思った。
後で我楽多屋のにだいめさんに確認したらそうではなくJALホテルなのであった。

皆様から会費を頂戴して飲食をやって大いに盛り上がっているだけでは申し訳ないので、これを企画した悪の枢軸 3人組さんにいろいろ世話を焼いてもらっているのだが、その中で写真家の加納さんが私が50周年を記念する写真集を制作してくれた。

最近はオンデマンドで割と少数の写真集が作れるようである。私の商業的な写真集は最低7000部であってそれに比べると数はずっと少ない。だからパーティーで皆さんにお土産として渡してそれでおしまいである。いわゆる私家本と言うやつです。

明治の好きな作家に斉藤緑雨がいる。
彼は多彩な作家でいろいろな仕事をしたが、どちらかと言えば夭折であった。その死亡広告を新聞に事前に用意していたそうである。それになぞらえるわけではないが私の場合は6月10日を私の生前葬と言うふうに考えているのだ。

だから出版される70年代を撮影した写真集は私の遺作写真集となるわけだ。冗談でも何でもなく写真家は他のアーティストと同じように日々死んでいるのである。毎日毎日の死を積み重ねているのである。

通常の葬儀なら私は自分の 遺作写真集を見ることができないわけだが、生前葬と言うのはありがたい。
ちゃんと見ることができる。写真家の加納さんは親切なのか意地が悪い悪いのかそこら辺はよくわからないがどのような本になったのか全然見せてくれない

それで私はガラクタ屋にだいめさんにお願いして1枚でも2枚でもいいからページのサンプルを見せてください。それでブログにアップして自慢しますと言ったのである。
それで送られてきたのがこの画像だ。ちょっとびっくりしたのはレイアウトが立ちきりであることだ。これは新機軸である。


加納さんには適当にねがの箱から掴み取った50本のフイルムをを渡す予定だったが、私のつかみ方が悪かったらそれは49本になった。

winの友人であった古屋誠一と 1,980年頃ワイン酒場で話しているとき、私は仮に自分がwinの7年半にやった仕事はないが、後年7年半の間に撮影した2,000本のフィルムというものがある。それが何かを完成させるのではないかと言った。
古屋誠一はそれに同意してくれた。

あれから40年。
今回このような形になったわけだ。
非常にありがたいことだ。


2017年6月 3日 (土)

🇻🇳リンク切れなのでこっちに全文掲載

🇻🇳チョートクカメラ塾 6/3

リンク切れの問題が改善されませんのでこちらで本日のブログを全部公開いたします。

「地下足袋とライカの共通点」

地下足袋が使われないようになったのはいつ頃からでしょうかね。おそらくこの50年ぐらいではないかと思います。日本中を車の広告の仕事で移動して言った時に労働者の人が必要ないわゆる地下足袋の広告をカントリイで見かけました。

それはほうろう引きの看板で 地下足袋がイラストでデザインされていて、そのコピーが「強い・はきよい、かっこいい」というのに出会ったのです。それで私もこのホーロー看板の影響を受けてその村の万屋さんで地下足袋を一足買いました。

子供の頃のお祭りで子供神輿を担ぐ時に地下足袋をはいたの地面と直接触れ合う感覚が忘れられません。
いいなあ、、、と思いました。

でもその当時私は広告写真家ですからロケ先で地下足袋を履いて歩く勇気はありませんでした。後年放浪の俳句を作る人、種田山頭火の履物がわらじではなく地下足袋であったのに感銘を受けました。いっぽうで私の好きな正岡子規は旅はちゃんとわらじを履いてミノ傘をつけていたのです。

カメラの広告で地下足袋のようにかっこいい、などと言うのは絶対クライアントが認めないとんでもない広告ですが地下足袋はその使用目的つまり目的に合致しているので、デザインが美しいと思います。
この間の浅草の三社祭でもそのことを強く感じました。

カメラも全く同じでそのデザインがカメラの機能を生かしために作られた合目的な明快なデザインであるのが好きです。例えばドイツ製のライカと言うカメラを私は20歳の時に使い始めて以来半世紀愛用をしてきました。世界中で膨大な写真を撮影しました。

ライカのデザインは映画撮影機に扱う35ミリの幅のフイルムをいわばちょっと分けてもらってムービーカメラではなくてスチルカメラとして使うわけです。

1.6メーター位の長さのフイルムを丸めてマガジンに入れますから、必然的にそれをぴったり収めるのはカメラ本体の両側が丸くなってくるわけです。これはデザインの合理性と言うことでしょう。

ですから人間の両手に人に入りやすいと言う基本的なデザインでそれが我々の工業デザインの評価にもあっています。しばらく前に有名なデザイン雑誌でカメラのデザイン論の連載記事を書いたことがありますが、その編集長はライカが好きで私担当の見開きページのバックにはライカのイラストを何年間も使いました。

そのデザインをやっている会社は六本木にあって編集長はその会社の社長さんと同じ苗字なのです。編集長の話では別に親戚ではないのだと言う説明でしたが、その会社の社長さんの先代は日本の有名なタイヤメーカーと同じ名字でその方は創業者のご子息なのだと聞きました。

その社長さんが大事にしていた父上の形見のカメラがライカなのです。戦後昭和20年代に海外に行くのは大変な事でしたがその会社の先代は1台のクラシックのライカを携えてそこに誕生した国産の50ミリのf 1.4と言う明るいレンズをつけてヨーロッパを長期間旅行されました。

その時の傑作はアサヒカメラと言う雑誌の表紙になっています。私も国会図書館でその時代のカメラ雑誌を見ていた時にこれはいい作品だなと感心した事でしたが、私のデザイン雑誌の最初の打ち合わせの時にその会社の社長さんから父上のライカを見せていただいたのです。

実は社長さんも大のライカファンでカメラ談義に花が咲いたことでした。そして我々の共通した認識事項と言うのはライカはかっこいいと言う一言に集約されます。
つまり冒頭に私が指摘した地下足袋のメーカーの広告と同じようにかっこいいと言う意味なのです。ですから最もトレンドなカメラマンに変身したいのならば、これは夏でしたら浴衣を尻はしょりりして地下足袋を履いて、手には1,932年頃の昔のライカを持てば決まります。

そこにカンカン帽も必要になります。そうなるとこのスタイルはもはや世界的な学者南方熊楠の植物を探査に行くときのスタイルと全く同じですね。熊楠がライカのユーザーであったかどうかは知りません。
このスタイルかはおしゃれな撮影スタイルだと思います。

昭和の最初の時代を記録した偉大な写真家はたくさんいますがその中で撮影に和服を着ていたのは桑原甲子雄ささんでしょう。桑原さんは和服の着流しで別に巾着袋も持たずに当時のつまり昭和10年代のライカを懐に忍ばせて東京の名所旧跡人と街を撮影したのでした。こういうのはイキですね。

現在のデジタルカメラが素晴らしいのはその高性能にあるのですが、どうもデザインにしびれると言うところが希薄なのは残念なことです。
これは今の車に関してもそうですしワイドボディの飛行機についても同じことです。つまり性能とか力学を重視するとどうしてもメーカーが異なってもデザインは似たり寄ったりになってしまうのです。

そのデジタルカメラなどのカメラメーカーのものであるのかを黒いボディーに印刷されたシルクスクリーンの文字を見て初めて判断できると言うのはちょっと残念だと思いませんか。

駿河台1968

Img_3040

1968の日大闘争時私はバリケード内に一泊したことがあった。
そのロックアウトした校舎の中にたくさん貼られた写真を見てちょっとがっかりしたのである。

要するに闘争とか革命とか言う文字を撮影した写真が革命的であると言うような価値観がそこにはあった。
私は一挙に現実を見た思いがして白けてしまった。
それで二度とバリケードの内側には行くのをやめて、我がバリケードを破壊して本物の街に出て行ったのである。

私が東京を撮影し始めたきっかけは1,964年であった。理由は簡単で当時は外国人が珍しかったのである。外国人と言私が東京を撮影し始めたきっかけは1,960余年であった。理由は簡単で当時は外国人が珍しかったのである。外国人と言えば全部アメリカ人で在日駐留米軍と言うイメージしかなかった。アメリカ人以外にも他の国の人がいると言うことを知ったのが東京オリンピックの時だった。

御茶ノ水駅から駿河台にかけてバリケードが築かれた。
催涙弾が飛んできてシンパの女子学生が半分に切ったレモンをポリバケツに入れて私にも手渡してくれた。こういう場所から恋愛が芽生えることもあるのだなと本気で思った。われらは革命の闘士なのである。

私は茶色のレインコートを着て首からブラックライカM2を下げレンズはヘキサーの50ミリであった。
機動隊が殺到してくるのをとっていたら闘志と間違えられて職質の機動隊の渦の中に巻き込まれていろいろなことを聞かれた。フイルムを我々が参考にするから出せと言うのである。
当然それには応じなかった。フイルムを渡さないのは正しい選択だった。それでわれわれは今この時の写真を見ているわけである。
2017年に至ってあたしは闘争勝利をここに宣言しているであろう。

しかしこの経験で私はずるい人間になってしまった。
東ヨーロッパそれも社会主義国の街を取材しているとよく密告されるのである。外人警察の私服がやってくるのだ。そういう時は私はフイルムをカメラから出すふりをしてポケットの中のダミーフィルムとすり替えるのである。

東ヨーロッパの都市から都市を巡り歩いて撮影をしているうちにそんな小手先の手品が上手になってしまったのは我ながら情けない。

2017年6月 2日 (金)

東松照明さんのペリックス

Img_3062

1968年の夏であったと思う。
私の日大写真学科はデモでロックアウトされていた。
それで大学の外の私の大学を求めて東松照明さんの事務所などにも押し掛けた。向こうでは実に迷惑なことであったと思うが、これは貴重な体験でまだ写真家になる前、つまり編集者だった中平卓馬さんなどもそこで出会ったのである。

東末さんはニコンエフの使い手であったがその頃からスポンサーがキヤノンになったようである。
ある日事務所に押し掛けたら、その当時はまだ宅配便と言うものは存在しなかったと思うけれどもキヤノンから大きな段ボールの箱がいくつか届いていた。

中には数台のペリックスの本体と10本ほどのレンズが取り出された。有名なプロ写真家と言うのはすごいなと感心したものであった。

それからあまり時間がたたないうちに東松さんはカメラ雑誌の広告にペリックスを持って登場された。これが実にかっこ良いのである。
ペリックスにはブラック仕上げもあってこれは我らカメラスズメが騒ぐところであるが、東松さんは王道であるからそういう馬鹿な真似はしない。
雑誌広告に登場した唐松さんの首からかけたペリックスは正統派のクローム仕上げだった。本物の写真家はそういうものなのであろう。

ずっと前から東松さんに憧れていて今まで思うと不思議なことなのだが、インターネットも何もない時代だから有名写真家の風貌がどうであるのかが皆目分からないのである。

それで私なりにあれこれイメージを考えていたのだが実際にあった東松さんは私にとってかなりショックだったのは、有り体に言えば、そこら辺のおっさんであることだった。
しかしその後考え直してやっぱりそういうおっさんがこういう大写真家だからやはりすごいのだというふうに理解した。

話は前後するがカメラ毎日に東松さんがが日本全国あちこちを日常生活として旅行している。これもかなりたくさんのページで発表された仕事があって、そのタイトルが「東松照明日録」と言うのである。
その頃写真家が使っていたのはペリックスではなくてその前のキャノンFTであった。

当時ニコンエフとライカを使っていたカメラ小僧の私からしても大写真家の機材はずいぶん安っぽいものというか、アマチュアっぽいなと不思議に思ったりした。まだF1が登場する前の話である。

ペリックスのペリクルミラーはすぐダメになって長年で使うことができなくなるなどと言う風評があったがどうもこれは当たっていない。
私の手元にある半ダースほどのペレックスもミラーはどれもしっかりしているのである。
この個体はガラクタ屋さんで買った。

2017年6月 1日 (木)

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お天気のお昼過ぎ 素敵なニューヨーク

Image_3
2011年3月。東日本大震災の時にマンハッタンにいた。だから6年はマンハッタンに行ってないのであるがニューヨークと言うところが素敵だからそこに住んだりするとその魅力が見えなくなってしまう。だから私は数年に一度で満足なのである。

このときの撮影に使ったのはモノクロフィルムが11本であった。それでタイトルは単純明快である。シリーズの名前を「マンハッタンイレブン」というのである。

このやり方はこの数年来私が外国で撮影するときの定番のタイトルなのである。今年の秋にギャラリーバウハウスで開催する昨年の12月にwinで撮影されたシリーズは「winトゥエンティースリー」と言うことになる。いやこれはうろ覚えで撮影本数は間違っていたかも。

ニューヨークのファーストアベニューは国連の無愛想なビルもあるが1982年であったかバッテリーパークからファーストアベニューを延々と北に向かって走るバス路線があってそれが印象深かった。川を越えてブルックリンのグランドコンコースまで行くのである。

1ローカルな乗り物であるから1ブロックが2ブロック地元のお年寄りが乗り降りするのだ。それがいい感じである。だから始発から終点まで乗ったらドライバーさんと私だけが同一人物と言うことになった。

日曜日のお昼過ぎのきれいな空の下の白い太陽の光を見ながらエンパイアステートビルディングが輝くスタンドポイントなどを探して私はライカにスーパーアングロン21f4をつけて撮影をした。

マンハッタンを南北に走るアベニューの西側を歩行するとそこは青い影の中になる。それで商店等のお休みで何もいないがらんとした空間の大きなガラス窓を覗き込むと…お店の奥に鏡があってそこにアベニューの反対側が春先の陽光で白く輝いているのが反射して見える。

大都会のアピアランスとはそのように微妙な太陽と光の具合で千変万化するのだ。だから同じ場所を歩いていてもいちどとして同じ光景にはではない。そこが面白い。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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