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2017年5月31日 (水)

❤️おかげさまで70歳🎌えうろぺパノラマ パリ1975

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昨年石原悦郎さんが亡くなった時にツアイトフォトサロンから私が撮影した200点以上のパノラマ写真のヴィンテージプリントの返還を受けた。
そのプリントの存在についてはつかり忘れていたのである。

1975年ごろから数年間かけてヨーロッパを旅行中にソ連製のパノラマカメラホリゾントで撮影したシリーズである。1981年にツアイトフォトサロンで開催された私の個展「エウロペ
」は石原さんのネーミングによるものだ。そこにパノラマシリーズも出品した。

7月29日までギャラリーバウハウスで開催中のコレクション展でもそのごく一部、4点が展示されている。
1985・パリでインタビューでお目にかかったジャックラルテイグのすぐ側に展示されているのが非常に嬉しい。

パノラマカメラで撮影した映像と言うのは写真家が通常我々の周囲を取り巻く現実をシンボリックに抽象化しようとする方向と全く逆である。
それはパノラマ写真の場合、写真家の存在を極めて形而上学的に表現するのである。
つまり写真家の立ち位置から何を切り取って作品化するかというのではなく写真家が立っている位置そのものがメッセージになるのだ。
後はカメラが勝手に広い角度をうつしてしまうのである。そこが面白い。

プラハの巨匠写真家ヨセフスデクは実に素敵な作品で有名だが彼は戦後ある時期にパノラマカメラの秘密と魅力に取りつかれて膨大な数のプラハのパノラマ写真を撮影した。
その写真集は20,000部も印刷されたのに今はレアな本になっている。そのため20年ほど前にオリジナルの原稿が偶然発見されたために復刻版を作った。
各国語のテキストが出版されたのがイタリア語が1番人気がなかったようで私はプラハでかろうじてそのイタリア語版を手に入れた。皮肉なのは1957年に出されたオリジナルの写真集よりも復刻版の方が印刷の質が高いのである。

このパリの作品は何かの用事で撮影に行った時に同時に携えて行ったホリゾントパノラマカメラで撮影したものだ
パノラマカメラは難しいものであって、例えば中古カメラ市で安かったなどと言ってカメラスズメすずめが入手しても、ものにはならない。
ちょっと実写してみて広い角度が映ると納得してそのままジャンク箱に突っ込んでしまうのである。

要するにパノラマ写真をものにするには最低限度ヨセフスデククラスの写真への認識が必要なのだ。その厳しいレベルで言うならば私なども最初から失格と言う訳なのである。

2017年5月30日 (火)

カメラ毎日1966年新年号

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1966年1月無音のカメラ毎日に掲載された高梨豊さんの名作「東京人」は巻頭三十数ページの大作だった。
私は高校3年生で4月から日大写真学科に進もうと言う時期だった。
雑誌であるから12月の20日には書店に並んでいたわけである。

高梨豊さんは当時最大のスター写真家であった。日本デザインセンターで広告の仕事もしながら同時に自分の作品も撮っていたと言うのが素晴らしかった。

日本の高度成長期のスタートの時代には写真家としてそういう生き方が理想的だし可能だと思われていたのである。

私は憧れの日本デザインセンターに入ろうと決心して入学してからすぐに4年間就職活動のようなものをしていたに違いない。
何年生の時であるかすでに忘れたが「高梨豊論 」と言う拙い一文を書いて、それを日本デザインセンターの受付に届けた。高梨さんはそれを読んでくれたと言うのも優しい次第である。

約300倍と言うケタ外れな競争率であるにもかかわらず私は日本デザインセンターに入社できた。その時の二次面接の試験官が高梨さんであった。別に何かを聞かれたと言うわけではない。写真部長が高梨君何かありませんかと聞いたら高梨さんは、別に何もありませんと答えたのであった。

期待に胸を膨らませて日本デザインセンターに入ったら高梨さんは既に退社された後であった。

夢と現実と言うのはいつもかけ離れているということを最初に教えられたわけである。同じ時代に入った同期の仲間は1年で止め2年で辞めていったが、私はとにかく3年間はこの会社にいようと思った。それは私にとっての「生きた大学」のようなものだった。

それで3年我慢して1973年の5月5日と言う日に横浜から船に乗ってモスクワ経由でウインに行った。
これが日本に戻るまで7年と6ヶ月の長いハネムーンのようなものになった。

「東京人」は高校生の時に買ったものがあったがとっくにバラバラになってしまった。それで後になってから新品みたいなきれいな雑誌を求めた。
神保町のギャラリーで東京造形大学のグループによる写真展が開かれた。田村東京カメラクラブ代表のすがたもあった。高梨さんのお相手は島尾さん。

高梨さんにお目にかかるのは10数年ぶりだと思う。毎日コミニケーションズで以前高梨さんの本が出たときに私もよんでいただいて高梨さんと対談をさせていただいた記憶がある。

ひさしぶりに高梨さんの姿を拝見してびっくりしたのは32歳で東京人を撮影したあの時代とほとんど変化がないことである。染色体の不思議とでも言うべきであろう。

サインをしていただいて私の50年以上にわたる東京人の夢はこれで完成したわけである。実にありがたいことだ。

トークが終わって質問の時間に私はどうしてもお聞きしておきたいことがあった。これは我々ゼラチンシルバープリントを扱う人間としては絶対に聞いておきたい秘密なのである。つまりプリントのサイズは何でしたかと言うことなのだ。

高梨さんの答えは普通の8x10。
これであった。
膨大なプリントを千鳥ヶ淵にかつてあったフェアモントホテルの大きな部屋に並べた。
これが実にゴージャスであるなと感心した。

この後世に残る仕事をしたときの高梨さんはまだ若干32歳なのである。そのことも素晴らしいと思う。今では40歳でも新人に思われたりする。
何があの頃と今では違うのかな。
ウィリアムクラインが写真集の撮影で東京に来た時も若干32歳だった。

2017年5月29日 (月)

ストラッセを斜めに横切る1

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偽ライカ愛好会があたしの写真家半世紀を残念がって、まあたらしいライカエム2をプレゼントしてくれた。その好意に応えるために撮影に使ってみた。

ボロボロのライカはたくさんあるからいただいたらいいかを使う必要は無いのだが、それは感謝と言うものである。

傷をつけてはならぬと言う強迫観念があるので、純正の革ケースに入れて持ち歩いた。逆にその方が撮影に区切りがつくようである。

ものすごい日差しの日で曙橋の上に立ったら、まるでカサブランカの真昼にいるようであった。北に向かって歩いていくとその先に巨大なモスクがあってその先に大西洋の荒波があるのだ。そこからさらに1,000キロほど北に行くと私の好きなポルトガルのリスボンなのである。

橋の上から見ると直角に交差する下のストラーセは不思議なことに無人である。自衛隊に通じる道路なので戒厳令でも発令されたのかなと思った。
見ているとそこを女の人が斜め横断をしている。世界中で先進国の斜め横断はよく見るが私が見る男女別の確率では90%が女性である。それも自分に自信がありそうな綺麗な人が多い。どうもしぎなものである。

Facebookにその様子をアップしたら出雲在住の呑川さんのコメントでは10年ほど前に中学生がわざと社会に反抗するとかの理由で道を ななめに渡っていたりしたそうである。

それで私が思い出したのはカイロとかハノイの大通りの渡り方である。
あそこら辺は車は人が渡ろうとしても別に速度は落とさない。そのかわり車と人間がうまくシンクロしてその間の隙間をダイナミズムに積分計算をしながら歩くのである。

私のようなこういうクラシックな大都会に初めて来た人間は非常にびっくりさせられた。
でも彼らの道路の斜めの渡り方を見ていると車の動態予測をちゃんとやっているのである。それで私も信号機を使わないで大通りを通るときに最初は初心者だから彼らにくっついて道を斜め横断の練習をした。

1週間ほどこの訓練を受けるとちゃんと1人でも大通りを斜め横断できるようになる。

カイロの街の場合は何しろ数千年前から自然発生的にできた袋小路とか行き止まりとか私の好きなタイプの道がたくさんある。

そこにエジプトの近代化が押し寄せてきたときにえらいお役人がおそらく地図の上に定規でまっすぐに大通りの線を引いたのである。
そこで何が起こるかと言うと私が楽しんで路地裏のそのまた裏などで通行人や猫を撮影しているとその裏がいきなりストラーせになったりする。
普通の大都会のセオリーではこういう事は絶対に起こらない路地裏の裏が表通りと言うトリックがそこには存在する。

それで1世紀前にできた新しい道路を渡るときにはもちろん横断歩道なんかなかったりするから交通がかなり激しくても通行する車の動きを予測して斜め横断をした。

2017年5月28日 (日)

ライツ ライカカメラ および其の付属品定価表 昭和十一年十一月

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もう四半世紀前になるが四国かどこかのお医者様から貴重なライカの戦前の資料の寄贈を受けた。

その方はライカを買おうとしてすべてのカタログ等を取り寄せたが結局は買わなかったということであった。それでもう見ない資料を丸ごと私に送ってくださったのである。だからライカの雑文を書くときにはこの四半世紀以来非常にお世話になっているのはこれである。

昭和11年11月発行の定価表を眺めてみるに、 50ミリエルマー付きのライカD3は580円だった。
大変高価なカメラである。
当時の労働者の月給はちょっとわからないが林文子が同じ時代の小説で書いていたのを思い出す。その小説の中の働き手の月給が40円だった。昭和11年の月給40円が高給であったか安給料だったのかはちょっとわからない。

月給40円と言うのはそれよりもずっと前の時代つまり明治の終わり頃には正岡子規が自分の墓碑銘に書かせたのである。それも月給40円であった。だから明治の終わりと昭和の初めとでは貨幣価値がずいぶん違うと思うがどのような価値を持っていたのであろうか。

それでも当時のライカカメラは月給の15倍したわけである。
今の時代の勤労者の月給がいくらか私は知らない。でも仮に月給500,000とすると7,500,000円と言うことになる。それに比べればライカスズメが欲しがっている最新型のライカデジタルカメラ等は1,000,000円だから安いものである。
ライカの大衆化と言うのもここに至って極まったと言うべきだろう。

愚考するにライカカメラはそれがフイルムであろうとデジタルであろうと、やはり長い時間付き合うと言うのが本当だろうと思う。
周りの皆さんを見てみるとライカ最新型が出るとすぐ買い換えて下取り価格が良かったなどと喜んでいるがこれはライカ使いとしては誰かに精神を売ってしまったと言う感じがして残念だ。

私の知っている中で数少ないライカの精神がわかっている人にマンハッタンの怪人チョーセイさんがいる。彼が持っているライカは二台だけで10年ほど前に出たライカM8と父上が使っていたライカの戦前モデル。
これだけである。
チョーセイさんはそのデジタルライカに50ミリf 1.0ノクチルックスをつけっぱなしにしていて外には交換レンズを持っていないのだ。
まずライカ使いの鏡と言うべきであろう。

戦前のライカ関係のカタログは全てドイツで印刷されたものだ。
それでカタログの左下もしくは裏の角に印刷された年月と印刷数が表示されている。これは1936年11月に15,000部印刷されている。

2017年5月27日 (土)

オプラレックス愛好会 会員二名

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フォカというのはフランスの有名な光学機械メーカーであってフランス海軍がその35ミリレンジファインダカメラのアウトフィットを軍用カメラに指定したにもかかわらず、いまひとつ人気がない。思うにその存在が非常に際立っているので、ライカに飽きた人間が最後のわがままの行き詰まりでフォカに手を出すと言うようなことになるのである。

黒田慶樹さんがご結婚なさった頃であるから10年以上昔のことになると思うが
当時黒田さんから質問があった。フォカの1番明るいレンズオプラレックスと言うのはどういう描写なのですかと言うのである。

私は以下のようにお答えした。
レンズの描写に飛び抜けた進化と言うのはありません。オプラレックスがどのような性格の描写をするレンズであるのかということを考えるには、他社のレンズの時間的な歴史のスケールを考えること、もう一つはそのメーカーの時間スケールを考えることである程度想像することができます。でもベストアンサーは自分で実際に使ってみることだと思います。

簡単に言ってしまえばフランスのオプラレックスはズミタールレンズの後、同時にズミクロンレンズの手前と言う過渡期の描写をします。

その勢いがついて黒田さんとオプラレックスレンズ同好会と言うのを結成した。
会員は私と黒田さん2名のみである。黒田さんは超有名人であるし私はカメラメーカーのブラックリストに載っているような人間であるから、公安の偉い人がこの2名の通信記録を調べていてこの怪しい団体に興味を示しているかもしれない。
2名いればカメラレンズ等共謀罪構成要因になるのであろうか。

オプラレックス愛好会はそれ以来何の活動もしていないが活動していないと言う事は現在地下に潜伏していて、将来に向けてけしからんことをすると言うのでカメラ公安調査庁関係はマークしてるかもしれない。

フォカと言うカメラは初期型モデルがスクリューマウントであるから簡単にアダプターもできて他のカメラに流用できたが、ユニバーサルになってからは非常に特殊なバヨネットマントになってしまった。

私の知り合いのマウントアダプターの専門家がフォカユニバーサルのアダプタを作ろうとしてずいぶん苦労したが結局作れなかったそうである。思うにこれはフランスのエスプリとその頭脳が海外に流出するのを防ぐ手立てであったのであろうか。

であるからフォカのその優秀オプラレックスの描写を知るためにはオリジナルの本体を使う以外にはないのである。

フランス万歳!!

2017年5月26日 (金)

GR

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GRは歴史そのものである。
最初は28ミリのレンズが固定されたフイルムカメラとして登場した。
あれは 20世紀の末の話だったかしら。

実に大昔の話であって当時のフイルムのコンパクトカメラは各社申し合わせたようにパノラマ機能というのが付いていた。
単に画面の上と下をちょんぎるだけなのであるが、そういう意味不明テクニックが流行だったのだ。
今のデジタルカメラの時代の機能の流行も5年10年経ったらお笑いになるかもしれない。

開発のコンセプトは28ミリのレンズが優秀でそれは一眼レフの28ミリレンズと同等と言う目標があった。
私はそれがちょっと変に感じた。
28ミリレンズのスタンダードと言うのはライカマウントのものだと思っていた。だからどうせならライカマウントのレンズも出したらどうですかなどとリコーにサゼッションした。

その私のサゼッションを聞いてくれたかどうかは別として、実際にGR 1の28ミリレンズがそのままライカマウントで発売になったのだ。でも最初は紆余曲折があって試作品のスクリューがカメラにちゃんと入らなかったりした。何かネジのピッチをインチとセンチで間違えたと言うような関係者の話があったが真相はわからない。

当時はまだプロの世界でも特にドキュメンタリーの世界ではライカでフィルムというのがメジャーであったから限定と言うことも手伝って、このGR 28ミリレンズは非常によく売れた。
私の周囲の国際的なグラフジャーナリズムで活躍する写真家も愛用していた。

ブランドとしてのGRと言う名前をどういう理由でつけたのかということをリコーの偉い人に聞いてみた。これは企業秘密に属するだろうから私などには教えてくれなかったが愚考するにグレードリコーの意味ではないかと考えた。大昔のプロレスラーのリングネームみたいでなかなかいいと思う。

GRレンズと言うブランドは個性的である。やはり以降の生え抜きの人はリケノンと言う名前を使いたかったようであるが私がサゼッションしたのはリケノンだとアマチュアの大衆レンズのブランドが定着しているからそれは損ですと申し上げた。

コンパクトカメラそしてコンパクトデジタルカメラがプロの道具として認知されるようになったのはこれが最初であった。

フィルムカメラ時代には私はライカエム5を使っていたからそれと同じようにカメラ本体をストラップで縦につるのが良いのではないかなどとサジェスチョンした。それはその通りになった。

私の場合はそれからすぐにこういうカメラはポケットに入れてしまって外からはカメラが見えないようにするのは良いのではと考えた。

これがいわゆる「GRストラップレスアナーキスト同盟」の始まりである。
文芸評論家の福田和也さんなどが私のこの遊びに協賛してくれて歴史的に有名な「福田組あの写真部」などを作って東京じゅうを午前10時から飲み歩いていたのも今となっては懐かしい。

北京の新華通信社が主催して中国のプロの報道写真家のフォトコンテストの授賞式に審査委員長で出席したことがあった。非常に巨大なセレモニーであってびっくりした。私が選評を述べるとそれがすぐ中国語に翻訳されると言うような次第だった。

これは晴れがましい席に呼ばれて私も偉くなったなどと浮かれてうきうきしていたのであるが、それから数年後になぜ私があのような晴れがましい席に呼ばれたのかがわかった。

北京の公式行事では乾杯をしてマオタイのような強い酒を飲むのである。
同行した日本の会社の偉い人は紳士であるから強い酒は強くない。それで私はいわゆる人間の盾として使われたようなのである。つまり私がグラスを干すとその後にアルコールはあまり飲めない人が隠れるという具合である。

私はちっとも迷惑ではなかった。面白いのは北京などでは強い茅台酒のグラスを重ねるとこの男は立派な人物だということになるらしい。
吉田健一のエッセイを読んでいたらそれがソ連のレセプションでウォッカを立て続けに飲んだので認められたと言う話もあった。
どうも吉田健一さんの事は別として私の場合は単なる酔っ払いである。でもGRのことで20世紀末を思い出すとあの時の北京の新華社の茅台酒の連続暴れ飲みを思い出す。
やっぱりGRはいいと思う。

2017年5月25日 (木)

ギャラリーバウハウスの写真のある生活

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ギャラリーバウハウスで写真のある生活とタイトルされた写真展が今日から7月29日まで開催される。
バウハウスのレアなコレクションのほかに現存作家のプリントは即売で展示される。
入場料は徴収されるがコンビニでガリガリ君を買って食べるよりもはるかにあなたの頭脳はクールになるはずである。

展示写真家の中に私がザルツブルグのワークショップで写真を教えた吉村 朗が含まれているのが嬉しい。吉村は1980年にザルツブルグで最初に会った時は変な奴と言う印象だった。ザルツブルグ中央駅で迎えに行ったら初対面の私に英語で挨拶をしてきた。その後吉村はどんどん頭角を現して今の私の中の写真番付ではロバートフランクと同じクラスと認識しているのだ。

物故作家の中で私が思い出が深いのはジャックラルティーグである。
1985年であったと思うがカメラ雑誌の取材でパリのラルティングに会いに行った。奥さんが出てきてジャックは今散歩に行っているからと言われた。エントランスで待っていたらふかふかの白いセーターのジャックが戻ってきた。元気な彼は当時すでに80は超えていたであろう。

だから私の記憶は1985年の晩秋か初冬であったことになる。ライカについて話題が沸騰したのは私が取材ように持参したのが戦前のD2であったからだ。ジャックの写真を始めた時にライカは既にこの世に存在したであろうがそれは当時最新型のD2であったのだ。
その時使っていたレンズは今と同じジュピターの木星玉なのである。つまり私の機材が半世紀全く変わっていないと言うことになる。

撮影はすぐ終わって、彼の写真芸術の話をちょっとだけ聞いてそれから雑談になった。
実はこの雑談の小一時間が私にとって非常に貴重な体験となったのである。

ジャックは自分のアルバムを取り出してきて自分の幼少の写真を見せてくれた。そして私がその場で撮影したポラロイドSX 70のプリントをその写真の脇に置いて彼の右手の人差し指と中指でその2つの写真を指し示してくれたのだ。
こういうのは言葉などは必要ないから私はその場ですかさずポラロイドで写真を撮った。あと彼の居室に並んでいるクラシックな品物をたくさん撮らせてもらった。

1,982 ー3年頃であったか、某ギャラリーの企画展で神田神保町の質屋の蔵の中でグループ展をやった。それはもともと蔵であったのだが後に活版屋さんが活字を収蔵するところになったのだそうである。私は大きな額縁にラルティーグとの対談を10点位のポラロイドの作品で構成して展示した。
当時思い切って100,000円の値段をつけたのだが作品が売れなかった。私はだらしがないのでその作品をピックアップしに行くことがなかったので今はどっかに行ってしまって行方不明である。

カメラトークの後半でラルティングは私に彼が愛用のライカM2を見せてくれた。それは二台のクローム仕上げのボディーだった。一眼レフはペンタックスを使っていると言う話だった。

私はいろいろいいチャンスがあって世界的な写真家と会話を交わしたことが多くある。しかしこの時は雑誌の取材であったから写真芸術についておざなりの質問をしたけれども、それは本来立派な写真評論家のやることであろう。
本物の大写真家は皆さんシャイだから自分の写真芸術については語ることがない。
しかし彼らは好きなカメラの話になると止まることがなくなるのだ。

その意味でカメラのある暮らしも写真のある暮らしもどちらも同じ位大切なのである。


2017年5月24日 (水)

ニコンエスマウント5センチのF2いーな

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ライカエム型の場合ズミクロン50ミリのF2が業界のスタンダードと言うことになっている。
それより明るいf 1.4 は特殊レンズと言う趣がある。レンジファインダ時代のニコンはその逆であって当時のライツが 1番明るいレンズのエフ1、5の時代により明るいf 1.4を目指していた。

歴史的な名著である「明るい暗箱」などを読んでいると当時の開発者関係者はニッコールの5センチf 1.5無理矢理改良してf 1.4として世界で1番明るいレンズにした苦労話がある。それは冒険的であって非常によろしい。

しかし収差は取りきれていなかったようで逆に 1・4ニッコールは個性的なレンズであった。 5センチf 1.4のレンズを1メートルの最短距離で絞り開放でポートレートを撮るのである。収差が残っているから印象派めたなかなかいい画像になってそのマイナスポイントが逆に作用してこのレンズの人気を高めたのであった。

当時のコンタックスを見てもライカを見てもレンズのラインナップと言うのは標準レンズは明るさが2、8なのである。それでF2のレンズは明るいレンズでf 1.5とかf 1.4のレンズは最高の明るさを持つと言う市場構成になっていた。

ところがニコンカメラはそうではなくて明るさf 1.4を標準に据えたのである。これはすごいことであった。
ところがそれから60年以上の時間が経過して手元にある5センチF2のレンズを手に取ってみるとなかなか様子が良い。
まずフィルターが40.5ミリなのでコンタックスのゾナーなど共用ができる。
重さもやや軽量である。
絞りF2で室内をとってみたら当然のことながらちゃんと映る。これが明るいf 1.4になると私のような昔人間は構えてしまうのである。

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2017年5月23日 (火)

ウエルミーワイドの時代今も

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昭和30年代にレンズシャッターのシンプルなカメラに35ミリの広角レンズを装着したワイドカメラのブームがあった。当時のうたい文句は広角レンズ1本の値段で広角レンズ付きのカメラが買えると言うものだった。
これはかなりトリッキーな言い方であって正しくは交換レンズが使えるカメラを持っていてそれに広角レンズをつけるのが正しいやり方なのである。

でもこれから高度成長が起きると言う時代の背景であるからカメラは1台よりも二台のほうがゴージャスと言うポイントでこれが市場に訴えたのであった。

そのパイオニアはオリンパスワイドであった。その後各社が競争するようにいろいろなワイドカメラを出した。このウェルミーワイドはその戦線の1番最後に遅れてきたカメラである。
レンズはほとんど知られていない35ミリのエフ3、5であるしシャッターも初心者向きの300分の1秒まであるやつだった。
当時のアマチュアカメラマンは今のデジタルカメラおたくさんと似ているから、実際に使いもしないのに精工舎やコンパーラピッドは500分の1秒までないとダメだなどと言っていたのである。

私が最初にウェルミーワイドを求めたのは高田馬場の鈴木商会であった。値段は記憶していないが最初からキュリオシティーなカメラを買うつもりで手にしたのである。

1973年から80年までのwin滞在に出発する直前になんとなく気まぐれでウェルミーワイドをテストしてみた。テストしてびっくりしたのはその写りが異常に良いのである。といっても中心部がシャープなだけで周辺はレンズの性能なりに衰えていくのである。でもすごいと思った。

実際にwinに持参したのは明るさがf2のレンズがついたオリンパスワイドスーパーであった。それから何十年か経過して偶然の機会からウェルミーワイドを二台手に入れた。

数年前の偽ライカ愛好会の秋の撮影でこのカメラを持っていった。場所は千住の夏祭りというか秋祭りなのである。がらんとした路上にちょうちんが並んで空は初秋の雲が青空に浮かんでいる。簡単に言えば日本の懐かしい風景の原型を見たと言うわけだ。
その作品を日本カメラの連載に掲載した。

知り合いの一級建築士がこのカメラについてコメントしてくれたのが面白い。我々の世代だと何か奇をてらったキンキーなカメラデザインであると思っていた。ところがそれから半世紀以上経過してみると一級建築士の鋭い目はこのカメラのデザインを高く評価しているのである。

カメラとしては高級品では無いから部品の作りがなんとなく安っぽいと言うふうに半世紀前にを感じた。つまりあらものやで売っている鍋やブリキのちりとりの感じなのである。
ところがあれから半世紀経過して実際にカメラを手に取ってみると金属製であることにびっくりした。つまり周りのカメラがプラになってしまったので多少当時は仕上げの悪かった金属カメラが二階級特進アップグレードされてしまったわけだ。
赤瀬川原平さんが予言していた金属人類学入門が、ここに予言のとおり成就したわけである。

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2017年5月22日 (月)

偽ラの熨斗袋

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ライカ愛好会と言うのは最初に渋谷の東急文化センターか何かで私が教えていた講座の名前である。
建物が建て替えで会社が多摩川のほうに行ってしまったので、出かけるのがめんどくさいからその講座を止めたのである。そしたら有志が個人的に同じ講座を作ってくれた。しかし同じ講座では間違いが起きるので偽と言う文字を1文字加えたのである。そして既に10年が経過した。

毎月1回メンバーが世話役になって撮影会を企画するのである。だから東京の方々ありとあらゆる場所に撮影に行った。貴重な体験だった。

このところちょっとお休みしていたのであるが私の写真家生活50年と70歳の誕生日をメンバーが残念がってくれると言う企画があって、横浜の北部の海岸線を歩いた。
もとの海岸線で浦島太郎が亀を助けたポイントなど歴史的な重要ポイントを歩いた。
6年ぶりに撮影して歩いた。これは歴史的事実であって例えて言えばウォータールーの戦いでウェリントン将軍がどっちから来たのかと歴史学者が検証するのと同じことなのである。

JR大口駅のそばの無人のシャッター街でカメラ店だけが2店開店していて焼鳥屋だけが開いていると言うフェリーニの映画に出てきそうな場所も楽しんだ。

それで反町の真ん前にある中山飯店と言う中華屋さんで大宴会となった。
ライカM2の新品と山のようなトライエックス直期限切れをプレゼントされて70爺は大喜びであった。

ところが私を祝ってくれた偽ライカ悪の枢軸の面々には、法律が成立したばかりの共謀罪の疑いもあって上の証拠写真に示すようなのし袋をくれたのである。

意外な展開であったので嬉しかった。
これが羊羹の箱であったりしたら突きかえそうと思っていたのである。
のし袋のような形態の日本独特の包装を受け取ったのは思い返してみると1968年以来なのである。それはニッコールフォトコンテストの特賞を取ったので賞金ののし袋を授賞式の時にもらったのであった。

亡くなった佐藤明先生がニッコールクラブの重鎮であったので直接手渡していただいた。こっちは大学生であるから感激だった。その賞金の50,000円に18,000円を足して須田一政さんからフォコマートを購入したのである。
これが私が間違って写真家の第一歩を踏み出した最初の時点であった。
であるから実に半世紀ぶりにのし袋をいただいたと言うことになる。ありがたいのでお仏壇に飾ろうと思ったが家には仏壇がないので家人のピアノの上に安置した。

紙袋に装飾が付いていて中に何かが入っていると言うので思い出したのは南方熊楠の書いた民俗学的な1文で、「山の神おこぜを好む」というのがある。
これは紀伊半島のほうの伝説そして民俗学的なストーリーなのであるが山の神と言うのはおこぜをこのむ。で村人は山の神にお願い事をするときにオコゼを見せるからこれこれの願い事を叶えてほしいとお願いするのだそうである。
しかし山の神よりも人間の方がしたたかであるから、本物のおこぜは見せない。おこぜは干物にしてあってそれを奉書で包んであるのである。それで山の神に願いを聞き届けてくれたらこの紙を破って中のおこぜを見せてやると言うのだそうだ。それでオコゼを簡単に見られては困るので奉書を何枚も重ねて分厚い紙包ができてしまう。それが何百年も伝来されるのだからその真ん中にはおこぜが入っているかどうかもわからなくなるそうである。

その説話を思い出して面白かったのは私は写真家としての山の神である。
偽ライカ愛好会の皆さんは村人である。そして村人が私にもっと写真を撮ってくれと言う指示で紙に包んだオコゼを見せるわけである。

だからこの民俗学的な神と村人との契約関係ではのし袋を開けるとすべての契約が反故になると言うわけだ。そう思って見ると日本の伝承と言うのは何か旧約聖書と通じるようなところがある。これは契約なのである。
それで副賞としてもらったのが真新しいライカエム2のカメラとさらに大量の期限切れのトライエックスをいただいた。ライカと期限切れのトライエックスの出所は私も大体見当がついている。期限切れのフイルムは非常にありがたい。巨匠ヨセフスデクはわざわざ期限切れのフイルムをプラハの専門店で買っていたからだ。

2017年5月21日 (日)

天狗の団扇のつかいかた

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OROLFはライツの迅速にレンズ交換ができる3本ターレットの装置である。非常に巧妙にできていてライカの底蓋と交換して使う。装置の背面は三脚の蝶ネジの流用だと思われるが非常に似たものが付いていてそれを回転させてレンズ交換をするのである。蝶ネジをちょっと回転するとまずレンズのロックが緩んでターレットの全体が前に出もうちょっと回すと120度ターレットが回転する。そして蝶ネジを反対方向にしめると完全に固定されると言う、これはドイツ人にはかなり頭の良い人がいると言う証拠である。

その生産数がたった250個しかないにも関わらずライカ人類はこれに興味を示さない。私は2つ持っているがもちろんもうこれ以上増やすつもりはない。

当時のこの日本で言うところの、てんぐのうちわなのであるがそれの細かいインストラクションを見ていると使えないレンズが当時のものとしてもたくさんある。レンズの下の部分が直径が大きいとぶつかってしまうのである。さらに使えるレンズでも調整のために本社に遅れと言うなことが書いてある。

実際に使ってみると皮肉なことだが非常に使いにくいものである。だからこれに広角レンズ標準レンズ望遠レンズをつけるとそれが明るいレンズであったりするとレンズだけで大変な重さになってしまって持ち歩くのも嫌と言うことになる。

このターレットの1番正しい使い方と言うのは1つしかない。レンズを最小限にすることだ。例えば35ミリと50ミリとか、50ミリと90ミリ、さらには50ミリと135ミリそれもソ連製のアルミニュームの軽量なレンズが良い。

でもこの魅力的な付属品を完璧に使いこなすにはレンズ1本だけつけて使うのがベストなのである。そしたらレンズ交換をする意味がなくなってしまうではないかとあなたは言うかもしれないが、このデバイスの魅力というのはそのデザインにあるのだ。だからレンズは1本だけにしてデザインを楽しむと言うのが逆説的ではあるが1番正しい。じだいが違うけど南坊録に出てきそうな名物なのである。この使い方と言うのはもちろん私の個人的な意見ですよ。

2017年5月20日 (土)

これからはこれが私流(主流)になる モメッタスーパーワイド

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戦後の我らの世界は貧しくてフイルムが貴重であった。
だから世界のどこでも36枚撮りのフィルムをもっと使えるようにしようと言うので40枚撮りにしていた。ミノルタの最初のカメラもそうだった。日本光学工業のニコンもそうであるしチェコのオペマもそうであった。ハンガリーのモメッタもその方向の設計をしていた。これはハンガリー製のモメッタ2である。

ハンガリー製のカメラと言えば世界で初めてクイックリターンのミラーを装備したガンマと言うカメラも持っていたが構造が複雑すぎて使いにくかった。一方これは一般的な市場向けに作られたカメラである。


最初のモデルは固定式の50ミリレンズが付いている。レンズ交換はできない。それが2形になって改良されたのだが面白いのはライカマウントではないことだ。ペンタックススクリューマウントというかプラクチカマウントなのである。

標準レンズの50ミリだけは距離計に連動するようになっている。これは探してもなかなかないレアなハンガリー製カメラだ。私の持っているのは日本の市場で買ったのだが巻き上げ機構が精密なので40枚撮りで画面と画面の間隔は非常に精密である。それはライカをしのぐほとである。

プラクチカマウントであればどのレンズでも使えるが私が主に使っている超広角レンズはもともとピントを合わせる必要は無いから、そのまま問題なくパンフォーカスで使うことができる。

そうなると手持ちの1番短い広角レンズは30年前にオランダのアムステルダムで買ったこのノリタの17ミリなのである。
今日2017年5月20日は我が偽ライカ愛好会のメンバーが私の写真家生活50周年+70歳を残念がってくれるイベントの大撮影会を開催してくれることになった。
場所は東神奈川である。
確か10年近く前に同じコースを歩いたことがあったがその時はくにや会長が機材をたくさん持って来すぎて途中で落伍したこともあった。
みんな歳をとっているから重い機材はやめてもらいたい。

かといって普通のライカデジタル絵無住と言うのも面白くない。
楽しいのは遠足ではないがその2 3日前からもっていくカメラを色々ととっかえひっかえすることである。
それで最終的に決定したのがこのカメラとレンズの組み合わせである。
40枚撮りなのでもちろんフイルムは1本しか持っていかない。
お天気どうかな?

2017年5月18日 (木)

あたし流ライカの使い方

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20年ほど前に出した私のライカの本でよく思い出すのはライカのクオリティーが良かったのはM2とM3まででM4も1967年生のは良いがそれ以降でM42 とかM4pになったらもうダメだと警鐘鳴らしていたのを思い出す。

それは正しいのであるがその当時の若いライカ人類もM2 M3の良さを知らないので何が何やらわからないようであった。それから時代が何十年も経過してライカと言えばデジタルものが普通と言う時代になったのでもう説明してもしょうがないから、そういうこと言うのはやめた。

それでM4以降のカメラでこの10数年使っているのはこのカメラM4pなのである。
1,970年代の終わりにオーストリアのグラーツのワークショップに招待されたアメリカの巨匠リーフィードランダーに会った時、彼は新しいM4pを使っていた。聞いたら何でも奨学金が出たのでそれで買ったのだと言っていた1,100何ドルと言うから当時としても結構な買い物である。

その時、、リーがつけていた35ミリのズミクロンは極東の我々ライカスズメが信仰する8枚玉ではなくて普通のレンズであった。

リーの影響受けてエム4ピーを使い出したと言うわけではないが、長いこと私と一緒に撮影をしているカメラである。
数年前についに巻き上げレバが戻らなくなった。そんなマイナーな問題で修理に出すのは情けないのでエイブラハム村のラピッドワインダーをつけた。
そうなるとレバー巻き上げではなくてライカビットスタイルの巻き上げになるので軽快で非常によろしい。
ラピッドワインダーをつけると撮影のテンポが一気に上がるのである。だから仕事には良いかもしれないが考えながら撮影して歩くのには向かない。
さっきも佃の住吉様から佃小橋を通って家に戻るまでのたかだか15分間の間に FOMA400で36枚撮りを1本撮影した。普通のライカ人類だとお正月にライカに入れたフィルムがクリスマスまであるそうである。私の場合はそれとはちょっと違います。

今回の新機軸は半世紀の間ミラーアップをして使うニッコール21ミリをアダプターに付けて使っていたのであるが実験としてニッコールのレトロフォーカスの20ミリを使うようになった。
周辺光量はこちらの方が均一で良いであろうが陣笠形のディストーションがこれが出るのである。若い頃はそれが気になってしょうがなかったがもう大人になったのでその程度のディストーションは許せるような気もする。

さてこれから現像だ。


2017年5月17日 (水)

ご愛機がオートマットでないと恥をかきます

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中野のカメラ店に3年ぶりに行ってお客さんと店員さんの立ち話を聞いていたらなかなか面白い。
曰くやはり30,000,000画素ないとダメとか言っている。アメリカ方式で物量は大きい方が正義であると言うわけだ。

新型のカメラが登場してその発表会などでも関係者がしたり顔にい
っているのはこれからはこれが主流になるということなのだが、どうもそういうのは感心しない。
そういう皆さんはカタログスペックの評論家なので実際には写真をとらないのである。つまりカメラを使っての表現が完全にお留守になっているのである。
それが業界と言うものだ。

60数年前の時代に何が業界の最先端であったのかなどを見るとこれがまた面白い。当時はネットが無いから情報収集はカメラ雑誌の広告に限るのである。マミヤの二眼レフはフイルムの自動装填、いわゆるオートマットで他社に先駆けていた。
それもすごいアイデアであって当時の最高級機のローライフレックスオートマット、有名なところではアーヴィングペンとかリチャードアベドンが愛用した世界最高峰の二眼レフであるがマミヤがそれに対抗してスタートマークを合わせなくてもフィルムの1枚めが出る装置を発明した。

ローライはカメラのフィルムローラーの間を通して1枚目を検知するのであるが、マミヤの場合はそうではなくて単にフイルムを装填して巻いていくと1枚目を検知するのである。これは当時としては凄い事だった。

だから当時のカメラ雑誌の広告のメインのコピーがなかなか凄いのである。曰く

ーーご愛機がオートマットでないと恥をかきますーーー

戦前から戦後戦後、そして現代のカメラのコピーとしてはこれは空前絶後なかなり人間の弱みにつけ込んだ心理作戦とでも言うことができよう。

だからこのコピーを今風に翻訳してみると
ーーーあなたのミラーレスカメラも30,000,000画素以下では恥をかきますーーー
と言うことになるのであろう。

2017年5月16日 (火)

ニコンS4がベストスナップシューター

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ウィリアムクラインが1,950年代の後半に写真集東京を撮影するために来日した時彼が持参したカメラはニコンS3のクローム仕上げだった。

その後当時の日本光学工業株式会社からニコンFとニコンSPと21ミリから500ミリまでのレンズの提供を受けたらしい。日本光学は会社の方針としてどんなに有名な写真家でも機材を提供すると言う事は無いと言う話を聞いた。機材を差し上げるのはニッコールフォトコンテストの最上位の入賞者に限られる。

だからその背景はわからないが80年代後半にクラインに東京で会ったときに彼が持ちかけてきた話は受け取ったニコンがもう何十年も使ってボロボロだからチョートクさん何とかニコンの上層部にお願いしてくれないかと言うものであった。

残念ながらその話は上まで届かなかったようである。それが理由でもなかろうがウィリアムクラインはその翌年にライカを使うようになった。それで意外だったのはライカのレンジファインダカメラではなくて当時最新型のライカR6なのである。

彼の自伝的な映画の中でクラインはずっとライカの一眼レフを使っているのが変な感じがした。それもそのはずで私が80年代の後半にプラハでクラインのアシスタントめいたことをした時、彼はライカの一眼レフに28ミリをつけて前に前に進んでいくと言う戦闘的な撮影スタイルであったからだ。

でも私の個人的な考えとしてはやはりクラインには最初に来日した時のようにレンジファインダーのニコンを使ってもらいたかった。

その影響と言って良いだろう。私はニコンのS3のボロボロになったのを使っている。距離計等は10数年前に上下がずれてしまったが別に距離を合わせるような撮影はしていない自分である。

もう1台愛用しているのがS4である。これはS3モデルとほぼ同じようなものだがフィルムカウンターがオートリセットでないのとセルフタイマーがついていないところだけさらにプロっぽいのである。

海外のコレクターの間ではこのニコンレンジファインダーの最終モデル4形は生産台数が少ないので引っ張りだこである。
でも日本ではそういう市場の状況は反映されないので安く手に入れることができる。

2017年5月15日 (月)

文京区関口の原爆の樹木

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6月の14日から開始される京都のギャラリーメインで今回展示する作品のうちの3点のヴィンテージプリントの1枚がこれだ。

日大芸術学部写真学科の卒業制作のアルバムにもこの作品は含まれている。私が気になるのは何十年も前の写真学科の卒業制作が水洗が悪いのでもう色が変わっているのではないかということだ。若いやつに調べてもらいに行ったらまだちゃんとしているそうである。
ありがたいことである。

この巨大なえのきだと思うがそれに寄生樹がくっついているのは、私が生まれ暮らした文京区音羽の界隈では最も有名な私にとってのランドスケープであった。

大体えのきの木とかケヤキの木と言うのはモノノ怪がついて狐狸妖怪つまり狐や狸がそこに住んで悪さをすると言う事は江戸時代からの記述によく見えている。

幕末に麻布にあった俗に言う「お化けえのき」などは非常に大きな樹木であったそうで幕末を記録した外来の写真家フェリーチェ ベアトーの作品の中に見えている。

この樹木は関口の東京カテドラルと独協大学の間を通る狭い小路にあった。
原爆の樹とは勝手な私のイメージなのであるが周囲からもうまい名前をつけたとほめられたものであった。

その原爆の樹をちゃんととろうと日本デザインセンター時代にアシスタント仲間の遠藤知有から大判カメラのジナーを借りてきたこともある。当時のアシスタントは薄給であったから遠藤がなぜジナーを持っていたのかは未だにわからない。おそらく月給の20倍はしたと思われるからである。多分亡くなったおばあさんの遺産が入ったのであろうか。

金属ケースの大きなのにに入ったジナーをこの現場まで持ってきてジッツオの三脚に乗せてエクタクロームで撮影をした。スーパーアングロン90で撮ったのが結果は惨憺たるものであった。
当時はまだ駆け出しだから大型カメラの使い方を知らなかったのである。

この35ミリのモノクロームは10年以上前に出した私の写真集「チョートク@ワーク」にも掲載されている。

このオリジナルの巨木は伐採されてしまって以前はそれがすごく残念に思ったのである。ところが10年位前にこの小道を通ったら誰が植えたのが小さなえのきがそこに枝を伸ばしていた。
もちろんこのような巨木ではないし何のヤドリギもついていないがこれからが楽しみである。

発見されたヴィンテージプリントと言うのはおそらく三菱製紙の月光と言うブランドであると思う。当時はこれが写真学生が使うトップブランドの印画紙であった。それとこのヴィンテージプリントはシングルウェイトのペーパーなのだ。

当時は学生の間でもシングルウエイトのペーパーが大流行であって分厚いダブルエイトのペーパー等はあれは写真館のような遅れきった連中が使うものだと言う認識があった。若気の至りとは言いながら情けないことである。
だから今回のギャラリーメインでの展示では3点のヴィンテージ以外は全てモダンプリンのダブルウエイトのペーパーである。

しかし尊敬するチェコの大写真家ヨセフスデクの作品を研究してみると彼の仕事はほとんどがシングルのペーパーでプリントされている。
1部の人には知られていることであるがスデクが購入していた印画紙と言うのはこれは今はもう存在しないけれどもいわゆるサープラスの品物を扱う店で買っていたのだそうである。

2017年5月14日 (日)

東京都文京区音羽1960年代

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6月半ばから京都のギャラリーメインで開催する私のモノクローム写真半世紀の展覧会の写真をセレクトした。
今回の発見は60年代半ばにプリントされたいわゆるヴィンテージプリントが三点発見されたことにある。
そのプリントはファイバーペーパーであるがサイズは8x10なのである。フェロタイプがかかっているのもあるし、いわゆる裏フェロ、つまり自然乾燥させたのもある。

当時のモノクロ写真は写真印刷の原稿と言う認識しかなかった。だからフェロタイプをかけてピカピカに表面を加工するのが普通だった。
アサヒカメラ教室の石元泰博さんの書かれた記事を読んで初めてアメリカではフェロタイプをかけないということを教わった。モノクロ写真半世紀の記事の中でこのことが1番ビックバンなのである。

これはまだ都電が走っていた頃の文京区の音羽通りである。

仔細に観察すると看板建築がなかなか面白い。森永のエンゼルマークがあったりコカコーラのプリミティブな広告が建物の上のほうに大事に掲げてあったりブリヂストンタイヤの看板が出ていたりする。

私はニコンの一眼レフかライカのエム型にニッコール21をつけて天気の良い昼過に道の反対側からパラレルな角度で撮影をしたのであった。

このモチーフのアプローチというのはこの半世紀何も変わっていないということになる。

永井荷風は断腸亭日乗の中で書いているが、たしか昭和12年の1月2日に父親の墓参りに雑司ヶ谷墓地に行っている。
その記事によれば音羽通りの西側が広められて道幅が広くなったと書かれている。
それで音羽通りの東側なのであるのが私の記憶に間違いがなければ、これは私がwinに行っていた七年半の間に拡張されたのである。つまり1973年から80年の間に工事が行われたのであった。

ヨーロッパから帰国して音羽の実家に行った時、道幅がずいぶん広くなったと言う印象があった。
それの直前に地下鉄有楽町線も開通している。

しかしそれから既に 40年近くが経過したのであって道幅を広くした位では交通渋滞は解消しないものと見える。

2017年5月13日 (土)

35ミリの広角レンズでf3,5と言うのに何故かひかれた

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新宿の人気タウン誌でJGというのがある。
それのインタビューを今週初めに受けた。
インタビューをする人の質問の内容が広くて深いのでなかなか面白かった。
私はインタビュー嫌いではないが退屈なインタビュアーだとすぐ眠くなるのである。ところが月曜日のインタビュアーは私を眠くさせなかった。

90分ほどいろいろな質問を投げてきてそれに答えたのだが質問の最後で新宿のタウン誌であるから新宿のどの街がが撮りたいかという質問があった。

新宿を撮影した偉大な写真家に森山大道さんがいる。
20年近く前に私が大道さんと四谷3丁目のJALシティーと言うホテルでお目にかかったときに私は最新鋭のリコーGR 1を大道さんにお渡ししたのであった。
そのカメラを1年間使って大道さんはヒステリックグラマーから分厚い新宿の写真集を出した。

でも私はタウン誌JGのインタビュアーの質問に対して直感的に新宿でとりたいと街と答えたのが四谷荒木町の北側にある、私にとって謎のセクションの夏目漱石の山房があったあたりまでがいいと言った。
この界隈は漱石が書いている時代、つまり明治時代も不便だったのだが今もかなり不便なところである。交通の便があまり良くないのでそれに惹かれるのだ。つまり私にとってのフォトジェニックな度合いが非常に高い。
それでこの地域を歩いていて未知の光景に遭遇するのも非常にすばらしい。

昨日、金曜日のお昼前に例のガラクタやニュースの取材で我楽多屋さんに四谷三丁目から向かっていた時に向こうから来た紳士に声をかけられた。
チョートク先生、ガラクタ屋さんで良い買い物をしましたと言うので聞いてみたらキャノンのFDレンズの24ミリをお求めになったのだそうである。

その表情が実に晴れ晴れとしているのがよかった。つまり新しい中古レンズを買うと言う事は人間を回復してくれると言うことなのである。
これはすべてのカメラとレンズを買う人にとっての福音であろう。

それに対して何やら情けないのは新製品が出たニュースだけで実物がないのに右往左往している我々カメラ人類である。やはりカメラと言うものがそれが市場に出て社会的な役割を果たしてさらに10年20年経ってから本物のカメラやレンズの価値が定まると言うことらしい。

ガラクタ屋さんに行ってガラクタニュースを取材してついでに聞いてみたら今日はお客さんのほとんどがキャノンのFDレンズを買ったのだそうである。

私も人の影響をすぐうかるたちなので新入会の棚を見たらそこにキャノンFDレンズの35ミリで明るさが3、5と言うのがあったのでそれを求めた。

考えてれば私は広角レンズは大口径主義ではなくて小口径主義者なのである。カメラ好きのお金持ちで35ミリの明るさが1.4等を手にして自慢をしている人をよく見かけるが、私のそれに対するコメントは「あとはとるだけだ」と言うやつなのである。

私は撮影の時日中に明るさをf8よりも開ける事はないし、暗いところは三脚を使うから明るいレンズは必要は無い。私のwin時代のレンズでもビオゴンは2・8で最も明るかったがオリオン28がf6だしテッサーは28ミリがf8であった。それでやっていけるのである。

それでキャノンの35の3・5のレンズを手に取ってこれで新宿の東はずれの謎めいた地域をとってやろうと決意したのである。
ーーーあとはとるだけだなーーー

2017年5月12日 (金)

ウインの部屋

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ウインで7年半住んだのはドナウ運河を見下ろす100年以上古い建物の二階だった。
いつも窓からドナウ運河の流れが見えた。
その後帰国してからは、つげ善春さんがお住まいの近くの建物で多摩川のすぐ側にもすんだし、今はおんなじで隅田川を見下ろす部屋に住んでいる。

6月10日に東京の四谷3丁目のホテルで開催される、私の写真家生活50年と生誕70年を皆で残念がる催しの肝になるのが、写真家加納満さんが制作した限定写真集である。

この画像は加納さんがFacebookにアップしてくれたものだが、彼が偉いのは私の計画中の写真集は純粋なwinのスナップショットの写真集であるから、こういう楽屋落ちの写真は掲載しないそうだ。
非核三原則ではないが写真集を出すときの三原則がそこに提示されているのは偉いと思う。

部屋の大きな鏡に映ったあたしを見るに、三脚に乗せているカメラはソ連製コンタックスキエフであってついているレンズはジュピターの35ミリである。
振り返ってみるとwin時代に1番使ったのはジュピターの35、50ミリそしてオリオンの28だった。あと建物のクローズアップなどでジュピターの85ミリと135ミリも使った。

要するにソ連製レンズのフルラインナップなのである。
だからwinの当時のカメラ屋さんがチョートクはソ連のカメラレンズにこれだけ貢献しているのだから、モスクワに銅像を立てても良いと冗談めかして言っていた。

実際に日本でソ連製カメラの本も出した。それはヘンテコリンなタイトルで「ロシアカメラがむせぶ夜は」と言うのである。
KGBのスタッフがイズマイルスかやパークの蚤の市で私にKGBのスパイカメラを売りに来るという件がある。
これなどは今でも謎のままだ。その黒ずくめの青年は私にミスタータナカと呼びかけてきたのである。どうして私の名前がわかったのであろう。それは彼がKGBであるからだと答える以外にはない。

win時代の部屋ががらんとした部屋であってベッドとテーブルと戸棚の外には何もないような空間であった。

カメラはもっぱらライカとキエフであったが7年半キエフを使うとシャッターが壊れるのである。シャッターを修理に出すと10,000円は取られるから、それはしないで 5,000円で新しいキエフを買った。ジュピターの50ミリは中古で買うと必ずついてくるから、テーブルの上には 50ミリが整列をするようになった。

2017年5月11日 (木)

コルビジエのコンタクトシート

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仕事の関係で世界中の集合住宅を見てきたがその中でルコルビジェの仕事はあまり好きではない。それは戦後の日本などでもコルビジェの影響が拡大しすぎて、乾燥している集合住宅と言うとすべてコルビジェ風なのである。

1,930年代のドイツの集合住宅のなども取材して回ったがやはり人間の暮らしている空間を最低限にカットしたと言う、当時のつまり今の時代に受け継がれている住居の狭苦しさと言うものの元祖がコルビジェと言うふうに私は考えている。

結局コルビジェで1番面白いのは彼の人生の終わりの頃に住んでいた南フランスの小さな茶室めく丸太小屋に行き着くようだ。
そしてコルビジェは海に出かけて行って再び戻らなかった。

コルビジェの業績は後の時代になって企画展のキュレーターなどがいささか大げさに取り扱うようになってしまった。
例えばコルビジェのパリのアトリエの屋根裏部屋をそのままに復刻してみたりそのコルビジェの仕事場に置かれている彼のメガネと言うのが特徴的な丸い眼鏡で、それを外したらもはやキャラクターの喪失してしまうようなあのメガネである。

それと愛犬の皮で作ったブックカバーと言うのもちょっと不気味であった。これは日本人と欧米人のペットに対する考えが根本違うからである。
マンハッタンに住んでいた時に聞いた話だが長年飼っていた愛猫が死んだときにペットの葬儀屋さんが毛皮はいりますかと聞いたそうだ。
ペットに対する認識が世界の西と東では異なるのだ。

これは一昨年の今頃にパリで開催されたルコルビジェのポンピドーセンターでの大回顧展である。
その中で私が1番興味を示したのは彼が個人的に撮影した写真のコンタクトプリントであった。

偉大な建築家と言うよりも1人の人間がそこに息遣いを感じるのである。
息遣いというのはカメラの向け方とアングルのこと、つまり生きている人間が現実世界に反応したそのルーカスなのである。

どうも写真の面白さはそこら辺にありそうだ。
建築家にしろ芸術家にしろ彼らの身体を通過した後に副次的に作られるのがアートと呼ばれる創作物である。
ところが写真にはそういうプロセスがなくて現実にそのまま反応するところが写真の面白さなのかもしれない。

1,970年代に北井一夫さんとドイツを旅行していた時に北井さんはハインリッヒ チーレの作品よりも彼がイラスト参考ように撮影したスナップショットの方が面白いと言った。
まさしくその通りであった。

これと同じセオリーで考えるのならば、アジエがユトリロのために撮影したイラスト参考用のパリの古い写真の方がユトリロが描いたパリの風景よりもビビットであると言うことになる。
事実、これは正しいことだと思う。

その意味で私がポンピドーセンターで面白いと思ったコルビジェのコンタクトシートは建築が生まれる以前の原風景としてのコルビジェの環境に対するオートマチックな反応と言う意味である。それが面白い。

2017年5月10日 (水)

エウロペ1975

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ヨーロッパでパノラマ写真を本格的にとり出したのは1975年のことだ。東ベルリンでソ連製のパノラマカメラホリゾントを入手した。
西の経済地域と違って東ドイツは弱いカレンシーの国だからかなり安かった。そのカメラを持ってヨーロッパ中を旅行したのは1975年から80年にかけてだ。

1979年に北井一夫さんのドイツ表現派建築
の撮影をお手伝いした時にもパノラマカメラを持参した。

この長い旅行は翌年の冬にもあったのだが教えられるところが多かった。
それまでの私は写真表現と言うのは鉛筆の先を鋭いナイフでさらに鉛筆の芯をとがらせることが写真の美学だと思っていた。それを北井さんは私の前で一挙に払拭して見せてくれた。これが私の写真に対する思想の一大転換であった。

1980年11月に帰国して1981年に日本での写真展は石原悦郎さんが起こしたツアイトフォトサロンだった。
石原さんを紹介してくれたのも北井さんである。
東京に戻ってから北井さんは私にプラハのパノラマ写真集を見せてくれた。これが有名なヨセフスデクのプラハパノラマなのである。
今ではオリジナルは稀覯本であるが北井さんはこれを神田の古書店で500円で買ったと言う。
見返しは宛名として日本人の女性の名前があり、それを贈った人はプラハ人であることもわかって当時のドラマを想像させた。

ヨセフススデクのパノラマ写真集に影響を受けてその後の私のプラハでの生活の20年はもっぱらスデクとパノラマカメラに向けられた。

1981年のツアイトフォトサロンでの私の個展のタイトルは「エウロペ」であった。石原さんがつけたタイトルである。このヨーロッパの古語つまり古い言葉をタイトルにつけるのはさすが石原さんであると思った。

最初の個展でパノラマ写真も売れた。石原さんは他のパノラマ写真をまとめて第二弾をやる可能性がありそうだと言った。
そして200点以上のプリントをツアイトフォトに預けてあったが、私は多忙でその後の30年間に石原さんとは日本橋の路上で2回遭遇しただけなのである。

最後に石原さんにお目にかかったのは数年前の東京都写真美術館の北井さんの展覧会の時に北井さんと私のトークショーに石原さんは飛び入りで参加してくださった。ブレッソンのモノマネもしてくれた。こういうのは主催者としては面白くないのかもしれないが、私には素晴らしいことであった。
おめにかったのは前にも後にもこの時だけなのである。
その二百点のプリントはwinで制作したものである。30数年が経過しているからこれがヴィンテージと呼んでも良いであろう。


昨年の春にそのプリントの返却を受けた。フォトサロンにプリントを受け取りに行ったらギャラリーの方が石原さんの遺骨は今墓地に向かいましたと言われた。それで空になった祭壇に向かって私は一礼でしたのである。

知り合いの出版社に相談してみた。その出版社は私の佃日記が大手出版社でボツになったのを助けてくれた優秀な小出版社なのである。

二つ返事で出版を受けてぶれたのだが、それから半年ほど経ってあちらの事情でこの企画はボツになった。それで返却されたプリントが今、私の手元にある。

稲垣タルホは自分の作品が戦前から戦後にかけて10本の指を超えるほどの出版社でたらい回しにされて結局戦後になって、それが本になったのは伊達得夫が起こしたしょし書肆ユリイカなのである。
1番最後に1番素晴らしい出版社から出たと言うのが事実なわけだ。

最初の計画では限定200部にヴィンテージプリントを封入してコレクターに販売する。残りの若干部数はプリントなしで普通の写真集として販売するというものである。
この考えは今も変わっていない。

出版は新しい可能性を見出したのでゆっくり前に進んでいるところだ。

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Img_2738 JOSEF SUDEK 1950


2017年5月 9日 (火)

石ねか メメヲちゃん

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世の中には猫カフェと言うものがあるらしい。カフェに行って猫を見て気持ちが癒されると言うのである。
最近ではハリネズミカフェと言うものもあるらしい。うちは1,985年頃からハリネズミをかっていたのでハリネズミに関しては元祖と言うことができる。

当時はハリネズミは珍しいのでその後坂崎幸之助さんとか羽仁進監督とハリネズミが可愛いと言う話をした。
今ではハリネズミはどんなに地方の街に行ってもそーゆーグッズが売っているようである。数十年前に比べてハリネズミは出世したものだと思う。

猫は大好きであるが歳をとるとなかなかかえない。それに猫の一生のことを思うとかうのは猫に対して失礼のようでなかなかそうはいかない。
1,972年頃にごく短い間白黒の猫を飼っていた。ミミヲというのである。ところが1973年にwinに行く必要があったのでその白黒ミミヲは新潟の実家に預けて旅だったのである。これも猫に関しては大変失礼なことをしたと反省している。

工藤ゆきと言うひとは20年位前に私のアシスタントをやってくれた人でよく気のつく女子であった。
芸術のほうもなかなか上手くて粘土ででお人形を作ったりもしていた。それをねんどーるというので彼女の個展で買ったりした。

彼女の親戚のアーティストで河原で石を拾ってきてそれに彩色をして猫を作る人がいると聞いて、
かっていた白黒の猫の石猫を作ってもらった。それが我が家の玄関に鎮座しているこの猫である。

石を探して拾ってくると言うのは何かつげ義春さんの漫画の中の人物のようでいい感じである。それでこの石猫は私が何千回も家を出たり入ったりするときに見送りと出迎えをしてくれているわけだ。

2017年5月 8日 (月)

🇻🇳『田中長徳×銀塩写真 50年の歴史展』きゃうとお知らせ

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🎌追加募集のおしらせ

『田中長徳×銀塩写真 50年の歴史展』のお知らせ
京都 gallery main にて6月14日~6月25日で開催決定

写真界にゲリラ戦線を仕掛けて半世紀。
生誕から70年。
これを期にFCR kyoto のセイリー育緒とGallery main の中澤有基が大回顧展を企画いたしました。
膨大な作品を5つのテーマからセレクトし、撮影に使われたカメラと共に展示するという大規模展示です。

展示の詳細は後日またリリースさせて頂くとして
まずは『ボス 70th バースデーパーティー』のお知らせです。
6月17日(土)19:00-21:00
ホテルサンルート京都 10階イタリアンレストラン
参加費 7000円
(イタリアンビュフェ+ビールとワイン飲み放題)
40名の募集。どなたでも申込みいただけます。

トークショー形式ではなく、ホストのセイリーが皆さんのテーブルへとボスを引きずり回す(笑)超フレンドリーなパーティーです!

予約ご希望の方はこちらへ!!
https://www.film-cr.com/田中長徳パーティお申し込み/
フォームを送信して頂きますと振込先の連絡を差し上げます。
お待ちしてます!
ーーー

🇻🇳ギャラリーメインの写真展へのステイトメント

ご来場ありがとうございます。

今回の写真展『田中長徳×銀塩写真 50年の歴史展』は私の半世紀に及ぶモノクロシルバーゼラチンプリントの集大成です。

時代別に五つのセクションに分けたのはギャラリーデイレクションからの提案ですが、私の昔を5つ重ねた時間軸をうまくつかんだやり方だと思います。

長い写真家生活で1番痛感したのは、数十年前のいわゆるRC パーの登場でした。早くて便利なのですがやはり本気の
写真術には向きません。

その後にやってきたデジタルカメラのビックウエイブもシャープで便利なのですが、写真を長い時間軸で考えるにはどうも不適当です。それに無限に再現できると言う点でもマイナスです。
もしワルターベンヤミンが生きていたら、そこら辺を酷評するかもしれません。

京都と言う、歴史的文化的時間軸が東都よりずっと長いこの街で、私の半世紀を振り返ることができるのは大変な喜びです。

どうもありがとうございます。
田中長徳Img_3040
TOKYO 1968 LEICA M2 HEXAR 50 VINTAGE PRINT

パリの極東から来たホーボー

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パリでの写真展がようやく終了した。売り上げはどうなったか知らないが初日から二点売れると言うのは成功に入れて良いであろう。
写真関係者とかコレクターとか写真評論家などフランス語をしゃべる多くの人に出会ったのも大変な成果であった。この機会を作ってくれた中藤さんとパリのギャラリーのクルーに感謝する。

類似店長が私をギャラリーの近くのパサージュに案内してくれた。それは何か日本の明治時代の向島にありそうなパサージュであった。つまりパサージュと言うよりも路地裏に近いのである。そこでパリでここだ残ってるこうもり傘の修理屋さんと言うのも教えられた。

そういうのを見ながらバゲットサンドとオレンジーナを口に口に運びながら小走りに移動したのである。それで感心したのは私がバゲットを3分の1も食べていない間に類似店長はペロリとたいらげているのである。
彼の生まれはアメリカのシカゴであるがやはり長くパリに滞在しているとバゲット早食いテクニックというのが身に付くようである。これはこれからの私の課題かな。

それで食べ残しのバゲットは我楽多屋さんのトートバックにしまって残りのオランジーナ、いや、そうではなくてオレンジーナは売り切れだったのでファンタオレンジだったが、それを飲みながら食後の休憩をした。

その写真を見るとどうしてもベトナムから来たホーボーの老人である。

ジョナスメカスの古い映画を見ていたらローわーイーストサイド歩いているホーボーのおっさんがいた。カメラに接近してきてよく見るとこれが私の尊敬するロバートフランクなのである。この場合は極東の老人ではなくアシュケナージのおっさんがむしろリアルである。
やはり移民の歴史と言うのはそのバックグラウンドにホーボーの骨を持っていなければならない。


私がこのようなホーチミンひげで青いジャケットで公園なんかで休憩していると通りがかりの英語をしゃべる微酔のパリジャンがーーベトナムから来たのか?と冗談めかして声をかけてくる。
こういうのはジョークとしては非常に嬉しい。
だからそういう時は、そうだ!ディエンビエンフーを忘れるな!と言ってやる。そうすると相手は笑うののである。これがフランスのジョークというものであろう。日本人とアメリカンでこれをやってパールハーバーを忘れるな!では喧嘩になってしまう。

ハノイの軍事博物館にはベトナムがフランスを撤退させるきっかけとなったディエンビエンフーの戦場が巨大なパノラマになって展示されている。それは畳三十畳位の大きさなのである。そこで豆電球の砲弾が爆発したり煙が流れたりしてディエンビエンフーの朝が来るのだ。

ベトナムは凄い国で中国日本フランスそしてアメリカに対して勝利しているのだ。日本のようなアメリカの手下になって未来もそれを求めていると言うのとは方向がちょっと違うのである。

歩いても歩いてもメダリスト。歩いても歩いても富久町。

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PASMOオートチャージするときに例えば10,000円を入れて10円だけチャージすると言うやり方があるらしい。
我楽多屋のにだいめさんがそのことを書いていたので不思議に思って取材に行った。
要するにお店のお釣りに困るのである。
銀行と言うやつは高い利息をとっていい商売をしているくせに休みばっかりである。それで東京メトロのPASMOに救われていると言うのは我楽多屋さんだけではなく近所の飲食店さんもそうだと聞いた。そのそのうちに有料になるかもしれないねと言ったら、にだいめさんは肩をすくめていた。

でも売り手の釣り銭切れの問題に対して買い手の方からすれば、例えば10,000円札はなけなしでゴールデンウィークに持っていたのだからこれで思い切って買い物しようと言うのは清水の舞台から飛び降りたようなものである。

飲み友達の浜ちゃんがそこに来て予約しておいたコンバーチブルホースマンを手に入れて満足していた。このカメラはあたしの義理の弟が愛用していたカメラで彼は東京都公害研究所に勤務していた30数年間ずっとこれを保持して趣味の写真に使っていたのである。
私もこのカメラは半世紀近く使っている。

要するにここまでいってしまうともうすでに古くならないのだ。新型のデジタルカメラと言うのは何か新しい性能を入れなければいけないと言う強迫観念で新製品ができているから、要するに競馬の鼻の差で勝利と言うようなものなのであろう。そーゆーハナノサの写真判定はしらける。

買取名人が出場してきて今日届いたカメラを見ろと言うので拝見に行った。
きれいな中判カメラが3ダースぐらい並んでいる。その中でコダックの有名なカメラ、メダリストの1型から二型までずらりと整列しているのにはびっくりした。

どれも去年の末にイーストマン・コダックが作りましたと言う位きれいなのである。
数えてみたら全部で10台あったのでびっくりした。メダリストは私も好きなカメラであるが持っているのは1台のみである。これだけたくさんのメダリストが整列したと言うのは北朝鮮のパレードの軍事訓練のような感じがしてゴージャスである。

歩いても歩いてもメダリストというフレーズが頭に浮かんだ。
それで考え直して曙橋から北のほうの岡に分け入ったのである。

場所は新宿区富久町である。
私は永井荷風の実家があった余丁町に行きたかったのであるが富久町は異常に広いのだ。
歩いても歩いても富久町なのである。
結局1時間ほど富久町を徘徊してその末に抜け弁天に出た。

2017年5月 7日 (日)

30年ぶりに自分でモノクロフィルムを現像する

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30年近く前から自分でモノクロフィルムを現像するのをやめた。

その時大量のステンレスタンクとリールを捨てたのである。以来フイルム現像はラボに頼んでいた。

最近イタリア製のガミ16のアウトフィットを手に入れてそれについてきた金属製の自動装填のタンクが面白いのでまた現像を始めた。
そしたらどういう風の吹き回しか不明だが30年近く止めていたフィルム現像をまたやりたくなった。確か1年以上前に我楽多屋さんに6本用のステンレスタンクがあったことを思い出した。でもそんな昔であるからもう在庫しているはずがないと思っていた。

ところが二代目さんと話していてその話を出したら、実はまだありますと言う。
大笑いしたのであるが典型的な不良在庫である。

突撃隊長が私のトークを聞きに来ていた時に私のすぐ右側に座り込んでその現像タンクをいじくっていたのを思い出した。
ヤフオクなどで調べると最近は売り手市場でステンレス製のタンクは非常に高い。
これは6本のステンレスのリールが入ってしかもお値段は3,000円ちょっとなのである。それで手に入れた。
二代目さんの話によると初心者さんは1本か二本用の小さなタンクを買うのだそうである。6本と言う数は一生かかってもとれないと言うような本数であるらしい。

それで昔の手順に従って現像してみたら当然のことながらちゃんと現像できたので感心した。

味気ないのはデジタルカメラにメモリーを突っ込むと勝手に画像ができてくるてんである。アナログカメラは一定のシステムを踏まないと画像は登場しない。

自分で現像した方が良いなと思ったのは実は一昨年11月に行ったリスボンでの撮影だった。イコンタでモノクロの感度100のフィルムを50本撮影した。
それをまとめてラボに出したらネガの濃度が薄いのである。ヴァリアブルペーパーでエクストラハードの5号のフィルターでも焼けないほど薄いのである。
スキャナーでとるとちゃんと画像は上がるのだが私の本命はゼラチンシルバープリントにあるから50本も撮影して1本のものにならないと言うのはまず大失敗と言ってよいであろう。

それで本数はわずかだが自分で現像することにした。しかし現像道具と言うのはダークバッグと現像タンクの他に何もない。メスシリンダーもない。撹拌棒もない。だからキッチンにある片手鍋で現像液を解いたり溶解するときにはおたまをつかったりした。

現像の上がったフイルムをバスルームにぶら下げた。意外と早く乾燥するのである。その長いフイルムを手にしていざスキャナにかけようと思ったら、スキャナは6コマごとに切ってないとかからないのである。

ヨドバシカメラでネガカバーを買おうとしたがネガカバーでは検索に引っかからない。それでいろいろ苦労して探していたが、昔私が考えていたネガカバーと言う品物は今は別の名称になっているらしい。

アメリカの現代詩人であったジャックケラワックのことであるが今はそういう言い方がしなくて何かもっと別の発音の仕方があるようである。
時間が半世紀近く経つと物の名称も変貌するようである。

それでそのモノクロフィルムを格納するファイルを50枚買った。値段は1,080円である。それが送料無料で届くのである。
いつか我楽多屋の二代目さんが嘆いていたが、飼っているメダカの餌を100円かそこいらのそれも送料無料で届いたそうである。
こういうコマーシャルのやり方をしていては日本中がシャッター街だらけになるのは目に見えている。

2017年5月 6日 (土)

六本木の米軍ヘリポート

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49階に仕事場があったのは六本木ヒルズができた時から10年だからよく記憶していないが、おそらく2003年から2,013年頃の間ではなかったかと思う。

非常に眺めの良いオフィスであった。路上から見ているとわからないが上から見ているとかなり大きなアメリカ軍のヘリポートがある。
10年と言う時間は割と長い時間であって私がその10年間に上から東京を眺めていた限りでは、東京スカイツリーがどんどん高さを伸ばしていたり、すぐ向かいの東京ミッドタウンは地鎮祭の時から見ている。さらにアメリカ軍のヘリポートのすぐそばにはガラス張りのナショナルギャラリーが建設して既にできあがっている。

10年と言うのはそういう意味で結構長い時間の流れなのである。

ヘリポートは普段は静まり返っているが時々大型の車が着陸して慌ただしく人が大型ヘリに乗り込んで西の空に飛び立っていった。これはアメリカ軍の偉い人を横田基地あたりに送るための作業であろう。

それはそれで結構だが、いささか腹が立ったのは週末の暗くなった頃にこちら側から見ているとどうしても仲間内の楽しみのために東京の遊覧をやっているように見える。

離陸した軍用ヘリはヒルズのタワーのすぐそばをかすめて飛んでいくのである。それも中途半端な近さではなくて本当にパイロットがどういう顔してるのかわかると言う位の至近距離だった。
当時のブログなどを見ると私はよほど腹が立ったのかヘリコプターのパイロットの子供と書いているが確かに青二才なのである。
東京ねずみ園のほうに飛んでいたと思うとしばらく経って帰ってくるから飛行時間はせいぜい20分だがこれは、普通の偵察業務ではなくてどうしても週末のお遊びのように思えてならなかった。

日中ヘリが飛来してくると私は仕事場のロッカーの中からアリフレックス16 SRを出してそれを撮影した。そこには400尺の今は現像ができないコダクロームが装填されていた。だからそのフーテージを撮影したのはスイスはジュネーブのコダクロームの現像ラボが動いていた時であるから、それほど大昔の話ではない。

アローカメラ我楽多屋さんの二代目さんが撮影したその界隈のモノクロームのショットを見て私は感ずることがあったのでわざわざガラクタ屋さんにインタビューに行ったのであった。自転車通勤でない時に、彼は通勤でこのバス路線を使っているのである。

その風景がなかなか良くて私が東京の街のデモを撮影していた当時の60年後半の街並みがそのまま生きていると言う印象があった。聞いてみれば二代目さんはそれをバスの中から iPhoneでとっているのである。すごいなと思った。

確かに画像はモノクロームなのであるがその視点が東京がデモに明け暮れていた頃のノスタルジーが保存されているのである。彼はその時代に生まれた人間だから体験はしてないはずであるが私には過去の記憶の共通項が呼び戻されたのであった。

考えてみれば私は10年間49階の高さからこの地域を見ていたのである。だから路上から見えたらどのように見えるかということに関してはほとんど認識はなかった。
たまにバス停の墓地下にあるラーメン屋に行く時もそこに急いでいるから周囲がどうなっているかほとんど覚えていない。

二代目さんの話によるとウェブで調べたらそこにはアメリカ軍の宿泊施設があってアメリカ軍に知り合いがいるような人なら日本人でも宿泊できるのだそうである。
私は考えてしまった。
知り合いのアメリカ人でもっと原子力潜水艦に乗っていた男がいる。彼は退役してその後ウエスティングハウス原子炉の仕事をしていてそれに嫌気がさして数十年来ノースウエストオリエント奥のチーフパーサーをやっている。
いざ必要となったらその男に頼んでみよう。

彼は元原子力潜水艦乗りであったから大抵のことにはびっくりしない。東日本大震災のちょうどその日彼は新宿の勤務明けのホテルで東日本大震災のあの揺れを体験しているのである。その瞬間私はマンハッタンでシャワーを浴びた後にホテルでビールを飲んでいて第一報を知ったのだ。

pパーサー曰く自分はロサンゼルス大地震を体験しているが、あれほどではなかった大した事なかったと言っていた。気流の悪い北太平洋路線を飛んでいる職業人には地震等はそれほど影響がないものと見える。

どうもありがとうございます!

ガラクタ屋さんからの 公式メッサージュ。
🇻🇳田中長徳先生の古希お祝い「CT70(Siebzig)パーティー」。
おかげさまで、追加募集分も含めて参加申込の受付を終了いたしました。たくさんのお申込みをいただきまして、ありがとうございました。Img_2647


2017年5月 5日 (金)

47年ぶりに自分の卒業記念アルバムを初めて見た

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日大写真学科の1年先輩である小泉定弘さんの写真展が日大の写真学科で開催されているそうだ。小泉さんは自分の世界をずっと探求しているシリアスな写真家である。

その小泉写真展を見に行ったFacebookの友人が会場で1970年に発行された私たちの卒業記念アルバム、ルーカスの中で私の作品を見たとメンションしてくれた。

それがこのモノクローム作品である。
おそらく池袋から音羽の実家に戻る途中に都電の上からニコンエフに28ミリで縦位置でとっている。場所は豊島区日出町なのである。

今の東池袋ですね。荒川線との交差点の手前に金物屋と果物屋があった。これは果物屋の日よけをとったものだ。

都電荒川線は東京桜トラムと言うヘンテコリンな名前になってしまったようだが、ちゃんと王子電車と呼んでもらいたい。
王子と言う綴りは「 わうじ 」と書くのである。その写真をアップしたら1,970年代生まれの人が勘違いをしてメンションしてくれたのが滑稽であった。
つまり私が1970年に出した図録ではなくて1970年生まれの人が日大を卒業して出した図録と勘違いしたのである。
この場合日本語には主語述語動詞目的格時制がないからこういう困難が起きる。

この卒業記念写真集ルーカスにはネガティブな思い出しかなかった。当時のお金としてもかなりの別料金をとられた上に卒業の時に宛名のシールを自分たちそれぞれ学生が書かされたのである。にもかかわらず何十年たってもついにその図録は到着しなかった。

だから私のエッセイとかいろいろなところでの講演会で日大芸術学部闘争委員会の話に付帯してルーカスと言う卒業アルバムはついに自分には届かなかったから日大を信用してないと言うこともずいぶん話した。
その1970年発行のルーカスは出版されていたことが今回47年ぶりに明らかになったのだが、自分で宛名シールをかかされたのにそれが到着していないと言う事は、結局は元の木阿弥で日大写真学科はダメと言うことにいささかも変わりは無い。

もっともこの時代私は生意気ざかりの新人であったから1966年のカメラ雑誌にほとんど毎月8ページと言う大作をこれは東京のシリーズなのであるが、掲載していたから「鼻が高かった」のである。だからルーカスなどは無視していた。

この卒業アルバムの作品を見ていて面白いのは、当時の私の視点と現在の私の視点は、ぶれることがなくて一本のルーカスでつながっていると言うことだ。

それが発見できたのは今回の手柄と言うことになる。
思えば今日までパリで開催されている、今日が千秋楽の「東京1966」と言う写真展もこの時代の視神経そのものなのである。

まず何が嬉しいと言って写真を始めてから半世紀経過して自分の視点が振れないという事はありがたいことだ。
これをメンションしてくれたFacebookの友人に感謝。

2017年5月 4日 (木)

ガミのフィルムの準備で神経の第六感を使う

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イタリア製のガミのカメラを使うようになって指先と頭を働かせるようになった。デジタルカメラは単にメモリーを突っ込むだけだからやはり頭が老化してくるのは間違いない。

16ミリフィルムで最大の問題点はフィルムを用意することである。今回入手したアウトフィットにはイタリアガミの専用フイルムカッターが付属していた。1本の36枚撮りのフィルムから二本の30枚撮りのフィルムをカットすることができる。
カラシニコフのマガジンのショットは30発である。ガミも30発なのが何かいい感じだ。

これは四角いマッチ箱のようなもので左側からだましだましフイルムの先端を差し込んで反対側のスロットにフイルムがちょっと出たところで、それからはダークルームでいっきょに1.6メートルを引っ張るのである。そうするとパーフォレーションのない16ミリフィルムができあがる。

最初に二本撮影して3本目をカットしようと思ったらカッターの具合がおかしい。それで分解して清掃したらまた元のようにスムースにカットできるようになった。

要するにカメラ頭の第六感を働かしているとうまく行くようである。
チェコ製のFOMA400の使い残しがあるのでそれをデイロールで普通のパトローネにまず巻き取る。それを今度はフイルムカッターで16ミリ幅に切るわけである。フィルムを真ん中から二分割すると二本の30枚撮りになる。

金属製のガミのマガジンはスチールなので非常に頑丈である。
しかしできてから70年近くがたっているのでどれもテレンプがおかしくなっている。それで盛大に光線引きするのが問題だがまぁそれはそれで仕方がない。

逆に面白いのは予期しないような光線漏れがあることだ。
いわゆる私の言うところの光の惨劇なのである。
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😎CT70計画 いい残席若干あります

来たる6月10日に計画されている😎CT70計画 残席若干あります。

私の写真家生活50周年を皆で残念がろうと言う集いです。
私家本のwinのモノクロ写真集を遺作集として当日お集まりいただいた方にお持ち帰りいただきます。
私の生前葬でもあります。
なおお供物御供花は固くご辞退申し上げます。

詳しくは左のリンクをご覧ください。Img_2626
この写真集はイメージです。

2017年5月 3日 (水)

ウイン1977夜の部屋 モスクワの亡命教授から買ったクラスノゴルスク16

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winで使っていた映画機材は最初はボレックスのダブルエイトだった。それからボリュームのスーパー8になった。その次のステップが16ミリなのだがスイスのボレックスなどは高価で買えないので、チェコスロバキアのアドミラと言う名前カメラを使いだした。これはバッテリーで電動式なのである。

その次に手に入れたのはwinの蚤の市で出会ったモスクワから亡命してきた大学教授から買ったのがこのクラスノゴルスク16ミリ撮影機である。

回転式のロータリーミラーシャッターを使うアリフレックスと同じ位のかなり高度なメカであった。
そのモスクワ大学教授の家族はwinの難民キャンプを経由してロサンゼルスに行くと言っていた。

200ドルでこのカメラを買う約束をしてそこでは手渡しせず夕方にwinの郊外の指定された公園に行った。ところが約束の時間に行ってもそこには誰もいないのである。

いきなり背後の茂みが動いてそこからモスクワの大学教授が登場した。手早く現金で取引をした後彼はほっとしたような表情で自分の家族を紹介するといった。

少し先の公園のベンチで金髪の綺麗な奥さんと女の子2人が静かにトランプをしていた。まるでチエホフの世界だなぁと感心したのは彼女たちが夕暮れの暮れ残った光で綺麗に見えたせいであろう。

その大学教授はロサンゼルスに行くと言っていた。向こうに着いたら連絡すると言っていたがそれから何十年も経過して別に連絡は無い。それはそれで良いのである。

家族は皆でコカコーラのプルトップのカンを手にしていた。それをストローでちょっとすってからプルトップの金具丁寧に閉めるのである。
まるで初めて手に入れた西側の自由をそこから漏らさないようにするかのように私には見えた。

2017年5月 2日 (火)

ペリネトガッセ1/8の寄木細工の床

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来たる6月10日に予定されているCT70計画はおかげさまで予定の募集人数を超えて追加募集も満員になった。あと数名様のラスト追加募集をやっているところだ。
皆さんの参加に感謝します。

今度の大集会の目玉は加納満さんが編集プリントしてくれたアトランダムに選出した私の1,970年代のwinである。いわゆる抽選のやり方と同じで大きな箱に入った2,000本からあ私が無作為に選び出して加納さんに 49本のモノクロームのネガを渡したのである。
この計画秋の写真集は6月10日の大集会の時にお土産としてお渡しする予定である。私家本であるからその刷数は100冊に満たないであろう。

加納さんはそれ以彼の暗室で暮らして、いろいろ私のwin時代のプリントをしてくれているようである。ありがたいことだ。

今朝加納さんがFacebookでメンションしてくれたのがこのカメラの写真である。一瞥すると40数年前も今も使っているカメラには全く変化がない。そういうのがわかって面白い。

進化がないと言うのは通常ネガティブに考えられることだが、この場合はカメラがトラディショナルでこれ以上変化する必要がないのか。さらにいいなと思うのはこの当時はデジタルカメラなどなかった。

あの頃はデジカメがなかったと言うのがせめてもの救いである。
現代のカメラ人類は新型のデジタルカメラに追っかけられてあたふたしているだけで自分の写真を撮る時間など全くない。
大変な悲劇である。善良なアマチュア写真家さんが次の休みに撮影に行く時に自慢のデジタル一眼レフとたくさんの交換レンズを揃えて、さて持ち出そうとしたら重くて歩けないなどは滑稽と言うよりカメラ人類の悲劇である。

win時代に使っていたのはこういう陣容であるが、そのことよりも私にとって懐かしいのは長年住んだドナウ運河沿いのアパートの床が精密な寄木細工であると言う点だ。

昨年の年末に宿泊したこのアパートの運河の反対側のアパートも100数十年前のものであったからやはり床は寄木細工なのである。

当時は若かったので私自身が環境の見る目がなかったと言うのが正しい。
7年半の寄木細工の壮大な家に住んでいたと言うのは、今思うと大変な贅沢であったとその幸せを噛み締めている。

今の寓居は寄木細工の床ではないが、win時代との共通点は窓からすぐそばに川の流れが見えることだ。これはありがたい次第である。

2017年5月 1日 (月)

中田稔さんの撮影する猫が良いのは猫と平等の関係にあるからだ

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Facebookで猫写真が人気の中田さんは元は高輪でお豆腐屋さんがご実家だったそうである。

彼がまだ少年の頃にそのお豆腐屋さんが絵本に登場していたのを見せてもらった。
そのタイトルが「猫のご苦労」と言うのである。猫が豆腐屋さんになると言うような内容であった。

私は現在のこの異常な猫写真ブームに批判的な人間である。どんなマイナーなギャラリーでどんな無名の写真家が撮影しても猫写真展には行列ができると言うのも変だ。

猫写真のトップは武田はなさんであってそれ以降は全部エピゴーネンであると言う認識が私にはある。
猫写真がダメなのは撮影者が自分目線で偉そうに猫を見下している点にある。
猫が可愛いと言うのだって見下し視線の1つであることを忘れてはならない。

そこにまた複雑な人間の欲望が絡んできて、ライカのエム十でとってアポ済み:だから猫の描写がいいとかわけのわからない展開になってくる。そういうことを誇るならまずちゃーとでも撮れば良いのであるがなかなかそこら辺が理解しないようだ。

中田さんの都市猫写真が私が好きなのは、路上で出会った猫と撮影者が平等なのである。これが偉いと思う。

だからこのように路上ですれ違った猫にもそれなりの尊厳とか意志の力が現れているのである。
その理由は中田さんが福祉関係のお仕事をなさっているということにも関係があるのかもしれない。

とにかく楽しめる良い視点なのだ。

もう一つ中田さんの猫写真で面白いのは複雑な都会風景を前提に撮影してその中に猫が隠れているのを探し出させると言うやり方である。どこにいるか見えるかにゃーなどときゃぷションがついている。

私などは必死にそういう画像を拡大して見るのだが、知力散漫なのでなかなか画面の細部に隠れている猫を発見することができない。
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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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