フォト

オンラインギャラリー

バナー

無料ブログはココログ

チョートクカメラ塾ブログ

Chotokuぶらり パチ塾

« 2017年3月 | トップページ | 2017年5月 »

2017年4月30日 (日)

日本海産ほたるいか

Img_2552
生鮮食品の流通が進化している。ホタルイカといえば東京では茹でたものが普通であった。
それが20年位前から生のホタルイカが直送で届くようになった。生のホタルイカの数は1枚がサッカー選手の数よりもちょっと多い。

あまりに味が濃厚なのでおいしいのは最初の3匹か4匹位である。それ以上は食べることができないのだ。これは生のホタルイカがあまりにも美味であるからである。
茹でたものはおいしいなりにたくさん食べられる。

行きつけで何十年も通っている板橋の浜出屋さんでは先代の修ちゃんが元気だった頃は季節になるとホタルイカが出た。
これは茹でてあるのだが丁寧に全部目玉が取り除かれているのである。

その理由を聞いたら目玉は気持ちが悪いから取ると言うのである。
なるほどこれがガストロノミーのサービスと言うものであるのかと感心した。今は二代目の大将が店を引き受けているから心配はないが、彼も先代と同じようにホタルイカの豚目玉を取るのである。
そのことを二代目の兄ちゃんに聞いてみたら、ホタルイカの下準備は母と一緒にやっていますがやはり慣れているので目玉を取る速さは母のほうが早いんですと言っていた。なるほどそういうものかと感心した。

このホタルイカの干物である。食事の時に家人が小さい頃ホタルイカの干物を食べたことがあるといったのである。ホタルイカの干物はうまそうだと思ってすぐにネットで検索してみたら案の定まだちゃんと存在していた。それで注文した最小の注文が袋2パックで1,800円なのである。送料は無料である。思うに単価が安すぎるので1袋では商売にならないと言うことなのであろうか。

そのことをFacebookにアップしたらそれぞれの答えが面白かった。
これを目の前にすると自然に日本酒に手が伸びると言うのはごく普通の反応であるが、ライターであぶるとおいしいよ。これはかなりの酒豪である。だからそれの返答として家にはライター、はありますお答えした。

関東ではあまりお馴染みのないホタルイカの干物であるが、舞鶴の方ではこれがお酒のあてで食べ放題と言うところもあるらしい。
さらに大阪のスーパーなのでは定番商品であると言うことを教えてもらった。

ちょっと理解できないのは商品の名前が日本海産ホタルイカであるのに対して、生産地は熊本なのである。そのギャップと言うのがいいと思うが、いまひとつよくわからない。
おそらく熊本は馬さしが名物であるからちょっと遠慮しているというところがあるのかもしれない。

次回のヨーロッパ行では長距離飛行の最中にこれを少しずつかじったら暇つぶしになってよかろうと考えている。

2017年4月29日 (土)

ミラノのガミの専用現像タンク

ガミ16のアウトフィットを手に入れた。世界で最も高級でなおかつ付属品の多いカメラである。だから50年代後半のアメリカでは爆発的なブームになった。

このアウトフィットは4倍と8倍のコンバージョンレンズが付いていてライフルスコープのような感じである。もっともミラノのガリレオ社はライフルスコープも作っているからそちらの技術も十分に入っているであろう。

でも私がこのアウトフィットで興味を持ったのは専用の現像タンクなのである。
16ミリのミニチュアカメラのフォーマットが人気がないのはまず現像が面倒なことである。ラボに持っていくと普通よりも高い料金を請求されたりするのもその理由の1つだ。

ガリレオ社はガミ16を作るのに完璧なシステムカメラを目指していたから現像タンクもあれば専用の引き伸ばし機もある。

このアウトプットには現像タンクが付いているので非常に興味を持った。画像を見ていた限りではこれは普通のベークライトなどではなくてどうも金属製であるようなことが直感で分かったのである。果たして到着した現像タンクはずっしりと重いダイカストなのであった。

ないコールのステンレス製の現像タンクは知っているが私はダイキャスト製の現像タンクと言うのは他に知らない。物質としての存在感が異常にヘビーなのである。へびめただな。

だから現像タンクの底に刻印されたガリレオのマークが非常に立ち上がっているのだしかも100フィーとのフィルムをマガジンに装填するための巻き取り機もあるが、現在では100フィートのフイルムそれも映画のネガを入手するのは面倒である。そのせいであろうか35ミリのパトローネから16ミリに切り出すための別の付属品がついている。

到着してびっくりしたのはその35ミリから切り出す小さな装置がなんとガリレオのオリジナルであったことだ。
普通は小さなサードパーティーが手作り的に制作するのが常識であるが、これはオリジナルのミラノ製と言うところが恐れ入った。

私はフィルム現像はすでに25年以上止めている。ところがこの現像タンクがあるので手元にある16ミリの小型カメラが一挙に全部使えることになった。

引き伸ばし機は最初から考えていない。現在のスキャンの方式で16ミリのミニチュアで撮影したのが全部発表できるからだ。これは素晴らしいことだ。

それでヨドバシカメラのオンラインで懐かしいフィルム現像剤D76と定着剤を買った。薬品を買うのは実に30年ぶり近くのご無沙汰である。
ガミのアウトフィットと同時にヨドバシカメラから送料無料で現像液が届いた。そのパケットを手にした家人が何か中でジャブジャブ音がすると言っているのである。
宅配便で液体の配達と言うのはワインや焼酎しかないので非常に不審に思ったようである。

Img_2550


Img_2549_15


2017年4月28日 (金)

ガリレオの長い双眼鏡

Img_2538


Img_2540
イタリアの光学機械には不思議な魅力がある。
だからイタリア製のカメラとか双眼鏡を集める人も多い。

光学製品の主要な会社で1番有名なのはミラノにあるガリレオ社である。それからローマにあったレクタフレックスの一眼レフの会社もそうだ。

芸術の都フィレンツェにすらライカコピーのメーカーがあった。イタリアのカメラは安い入門カメラであると言う認識があるが実際にはそうでは無い。

ミラノのガリレオが制作したガミ16等は1,950年代のアメリカ市場で大ヒットしたのである。
このガリレオの双眼鏡は手に入れて20年ぐらいになるが最初にeBayでこれを見たときにはびっくりした。その双眼鏡のバレルの長さを示すためにワインの瓶が脇に置いてあったのだ。
普通のワインの瓶よりもはるかに長いのでびっくりした。

家のバルコニーから対
が10センチで25倍の双眼鏡が専用の三脚に据えてあってそれで羽田を離陸した飛行機をずっと追跡していた。駿河湾の上空ぐらいまで追尾するとそこでレンズの分解能力の限界になるので視野の中で飛行機の影がふっと消えるのである。

それがいかにも光学機械を使っているという感じがあった。
このミラノの双眼鏡がその存在が不思議なのは通常の軍用の双眼鏡のバレルだけが長くなっているアンバランスさである。このタイプのレンズの直径が5センチのものは定番で倍率は7倍と決まっている。にもかかわらずこの特殊モデルはその倍率が34倍なのだ。

視野の中には高さと幅を精密に図るためのレテイクルも付いている。つまり本物の軍用なのである。
このように高倍率であるから三脚に乗せて使うのが普通なのにこの個体では三脚のための金具等は一切ついていない。

要するにイタリアの軍隊のユニフォームと同じであって、すごくかっこいいのであるが実用からは程遠いと言う感じがする。

その華やかだが実用から程遠いと言うところが不思議な魅力になっている。
例えばミラノのドームのプロムナードを歩いているときにあれは軍隊の憲兵なのであろうか、カラビニエリと言うすばらしいユニフォームの2人組である。ただそれを見ている限りその連中が軍事力とか制圧力を持っていると言う風には全く見えないのだ。
この派手な双眼鏡にもそれと非常に似たようなところがある。


2017年4月27日 (木)

ヌスクラッカー

Img_2545

ギャラリーバウハウスでくるみ割りを扱うようになったのが面白い。その代価1,200円。
なかなかよくできたしっかりした構造である。

win時代にはくるみはよく割って食べていたが、使っていたのはいわゆるハサミのような形のクローム仕上げの金属製のタイプのくるみ割りであった。

これはくるみをお皿の中に入れて外からネジでしめて割ると言うタイプである。
くるみには飛び抜けて大きいと言うものは存在しないから、これで充分である。

ハサミのようなタイプは単に力で割ると言う感覚があるが、このタイプはネジで締めるようになっている。その方が胡桃を割ると言う動作を象徴しているようである。

winに暮らしていたときのwinの友人は中心部の屋根裏部屋に住んでいたが、同時に市電の終点の北東部の郊外にビラを持っていた。

これはwinの当局がそういう庶民に便宜を与えた別荘地のようであって、その敷地は幅は5メーター位に過ぎないが奥行きは300メーター位あるのだ。つまり winの丘の斜面に沿った細長い敷地が何十となく並んでいるのである。

普通のwin 人はそこに花を植えたり樹木を植えたりするわけだが、私の友人はくるみの木を植えていた。外には一切、手を入れていないのでそこだけがwinの森の続きのようであった。
だからそこの細長い敷地に行くと敷地のはてに野生の鹿の姿が見え隠れすることもあった。

その人はチェコのズデーテン地方からwinに出奔してきたいわゆるズデーテンドイツ人なのである。
膨大なカメラのコレクションを持っていたがそのカメラで遊ぶだけで実際にフイルムを入れて撮影することは1度もなかった。まぁそういう人の方がカメラの機械学を正しく理解しているということができる。

その人が自分の庭からとったくるみは大きな麻袋に目一杯詰まっていた。どうもくるみが主食のようであった。私もそれを少し分けてもらってくるみ割りで割ってぽつぽつ食べた。

生のくるみと言うのには味わいがある。色々と物事を考えながらくるみを食べるのは楽しみなものだ。


くるみを割って食べるそして味わうと言うのは食生活と言うよりも、むしろちょっと哲学的な行為そして思考に思われる。

ギャラリーバウハウスがくるみ割りを販売するようになったと言うのは、写真ギャラリーとしては画期的なことだと思う。

というのも写真を撮る行為と胡桃を割る行為と言うのは、それが何であるか指摘することができないのだがある共通項がありそうだ。

撮影から戻ったらお皿の上にからから取り出したくるみがたくさん置かれている。
家人によると手間を省くために手元の包みを全部くるみ割りで割ってくれたのだそうである。

それはそれで非常に親切でありがたいが、くるみはくるみ割りでわると言う楽しみがあるのだ。
その楽しみを私は奪われてしまった。

2017年4月26日 (水)

ギャラリーバウハウス稲垣徳文展でアジエに大接近

Img_2513

土曜日の夜にギャラリーバウハウスで稲垣徳文さんの個展のトークがあった。私と野々宮さん、芦原さんも参加した。この3人はこの間パリで私の写真展であれやこれや言った連中だ。

野々宮は50年前のパリ製のダブル8のカメラ、カメックスを持参してそれでパリを撮影したのである。しかしフイルムが手に入らなかったのでものすごく期限切れのコダクロームで撮影した。今はコダクロームはモノクロなら現像ができるそうだ。
パリをモノクロで撮影するなどはいかにもクラシックで良いと思う。

芦原のほうは大判カメラを持参し、ものすごい距離を移動して撮影した。彼の撮影のスタンスは東京でも変わらなくてすごくエネルギッシュなのである。実に頭が下がる思いがする。

芦原の撮影は今回トラブルがあって1部のショットが二重露光になっていたそうだ。要するに初心者的な問題であって撮影済と未撮影のフイルムをダークバッグの中でごちゃごちゃにしてしまったのである。

私のような手練になるとそこら辺は絶対間違いはしないからダークバックの中の空間世界を最初から分離している。例えばダークバッグ世界の右では未撮影で左手は撮影済みと言うふうに頭脳の中で最初から世界を分離している。

しかし彼のアップした二重露光画像を見てみるとそんなに悪くは無い。
表現上で二重露光にしてそれを発表した事は私もあるがトラブルで二重露光になってしまったのが編集者の目に留まって、それが書籍の表紙になったものがある。
それは新潮社から出た「屋根裏プラハ」と言う本の表紙なのである。

話は戻って稲垣さんのトークは超満員であった。
日本経済新聞などに紹介がが出たようである。すごいことであると思う。なかなか力の入った講演会で100分ぐらいの長さがあったが退屈しなかった。

アジエの仕事の紹介をパリのそれぞれの街区に分類して1区から順に説明をして元の作品と自分が今回撮影したのを対比して見せてくれるのは面白かった。

要するにパリと言う街は100年ほとんど変わっていないと言うことがこれでわかる。身近なアジエであるが今年が没後90年になるそうだ。
パリの10区の仕事を紹介した。私は10区の大ファンなのである。泊まったホテルも十区であるし毎日通っていたサンマルタン運河もそうである。
アジエの作品を順繰りに見せてもらっていていきなりサンマルタン運河の先日あたしが毎日座っていたベンチからのショットが登場したのにはすごくびっくりした。

要するに私が座っていたベンチの数メートル先にアジエが三脚を立てて外で撮影したのである。運河から上流を見て眼鏡橋がある所のショットだ。最初は別の場所ではないのかと疑ったのである。その理由は両岸にマロニエの木がほとんどないか、小さいからであった。

しかし100年前に撮影された写真である。
マロニエとクロワッサンはマリーアントワネットと一緒にウインからフランスにもたらされたと何かの本で読んだことがあるが、そのマロニエは成長が非常に早いともあった。だから100年前にアジエがとったサンマルタン運河の写真にマロニエの木が小さくてもそれは何の不思議もないのである。

それ以前のパリを記録した写真家にマルヴィルいる。その作品はパリの通りを真正面から見据えたものでしかもカロタイプの非常に大きなカメラで撮っている。それに比較するとアジエの仕事は何か気楽にとっているような感じがしてその比較が面白かった。

稲垣さんは自分で制作した鶏卵紙の制作方法も話した。
卵の白身を大量に使うので卵の黄身が余ってしまう。それで仕方ないので残った意味でフレンチトーストを作った話はユーモアがあってよかった。

1983年に私がニューヨークで大型カメラでモノクロームでマンハッタンを撮影していた時に鶏卵紙プリントを作ろうと思い立ってコダックに問い合わせをしたことがある。当時コダックはまだ鶏卵紙を製品として作っていたのだ。
ところが最低のロットが一グロスであると言うので諦めた。1箱には50枚のペーパーが入っていてそれが12箱つまり600枚が1ダースである。さらにそれの12倍だからとても使い切れないと思った。

稲垣さんの講演を聞いて痛感したのは彼が何もノスタルジーに駆られて写真を撮っているのではないと言うことだ。その正反対であって学究的な感じがする。言い方を変えるとアジエが目指していた未来の時点が今ここにあるという見方である。

このフレキシブルな時間感覚の捉え方が良い。
そこにアジエの薄味がうまくついているというのが好ましい。
翻って極東のこの町について考えてみると、つまらないことに全てが昭和情緒とか江戸情緒と言うような安もんのテレビ番組のようなアイディアが下敷きになっているのは情けない。

いってみれば東京人よりパリジャンの方が風景論を持っているということだろうか。

2017年4月25日 (火)

東京都練馬区大泉学園町2,207番地

Img_2530
私の古い友人の高木松寿くんから先週の土曜日のシドニーで彼のお嬢さんから封筒を受け取った。開けたら1,970年頃の懐かしい写真出てきた。場所は大泉学園町2207番地である。この家には友人知人がたくさん来たので来るたびにビジターと言うタイトルで記念写真を撮った。

これは高木が自分のに混ニコンで撮影してくれたものである。そんな事はとっくに忘れてしまったのでいきなり50年近く前の自分に出会ったのにはびっくりした。

この写真がいつ撮影されたかということにはちゃんと時代考証がある。大阪のバンコク博覧会の最終日1970年の9月の何日かは忘れたがその最終日の頃にそれぞれのパビリオンでお土産をダンピングしてうると言う催しがあった。

右の私が着ているのはその時に買ったインドで作られたシャツなのである。 70年代ファッションを一見すればわかるように、みんな幅広い革ベルトできてるものは体にフィットしている。私の買ったインドのシャツはルーズフィットだったので、それが嫌で家人に頼んで体にフィットに縫い直してもらったのだ。今思うと愚かな次第である。

この2,207番地の家には色々な人が来た。家人の友人でオーストリア人で日本で何か研究している女性もきた。ただしその人は日本語が堪能なので少しもドイツ語の勉強にはならなかった。日本デザインセンターの同級生の青山達雄などは今にして思えばポタリングの元祖と言ってよいであろう。彼が住んでいた中野のアパートからツーリング自転車で家にやってきた。

今にして思うと凄い時代だったなと思うのは、青山が到着したときに顔も手も煤煙で真っ黒だったことである。牛込柳町の日本一の大気汚染ではないが、当時はそういう状態だったのだ。

まぁ昔の話だから今思い出すと何やら懐かしい。

大泉学園町2,207番地の1番近いバスの停留所は北園と言うのである。日大の後輩の戸倉元に会ったのは大泉学園の駅前で彼は私の住まいから数カ所おくのバス停、都民農園セコニック前、近くのお屋敷の離れの一室に住んでいた。

まぁそういうわけで大泉学園町2,207番地の小さな一戸建てを中心にして我々の人間模様が交錯することになった。
これを撮影した3年後に私は日本デザインセンターを止めて家人と新婚旅行と言ってよいであろうがオーストリーのwinに行った。そこで7年半を過ごしたのである。
ながーーーーーーいハネムーンであった。

2017年4月24日 (月)

にせゴープロに にせサハトラー

Img_2515_4

映画とかビデオ用のプロ三脚と言うのはこれが三脚の値段なのかと疑われるほとに高価である。
その代表的なブランドがドイツはミュンヘンで制作されているザハトラーだ。

私の5,000円のニセ5プロはもともと大きな三脚など必要ではないが何となく映画用の高級三脚に似ているミニ三脚が欲しくなったと深層心理で考えていたようである。
この前のアローカメラ我楽多屋さんのシドニーで発見したのがこれであった。その定価200円の古いオリンパスの何かのカメラ用のミニ三脚である。

ブラックとクロームの組み合わせがドイツの高級映画用三脚に似ているので手に入れた。それまで使っていたのはやはりガラクタ屋さんで手に入れた国産のチェリーと言うメーカーのグリップで、本体の下から小さい足が出てきて三脚として使えるようになっている。

この2月の京都のギャラリーメインで開催されたロックユーノーのときにはそのチェリーのグリップを持参した。非常に気にいっていたのだがどうも作りがよくなくてカメラを固定する三脚ネジのところがグラグラになってしまった。

それと前後してフランスはパリのカメックスと言う8ミリカメラを買った時に付いていたハンドグリップを使うようになった。これはアルミニュームの削り出しでなかなかいい感じなのである。しかもそのブランドネームがルミエールと言うのが良い。

このルミエールハンドグリップの唯一の欠点はミニ三脚としては使えないと言うことである。しかしその底の部分が平なので注意してそっと机の上におけば三脚としても使えない事はないがすぐに倒れてしまう。これでは自称プロのつまり私は困るわけだ。

この前のパリではもっぱらこルミエールを使ったのだが長い時間のショットではグリップを外してカメラ本体を平らなところに置いて使っていた。

そこで今回はにせザハトラーの登場である。撮影テクニックと言うのは日進月歩というのがこの良い例である。

ギャラリーバウハウスで開催中の稲垣さんのアジエを追想する写真展であるが彼はパリの撮影では雲台を使わない三脚にデイアドルフを乗せて使ったそうだ。かのヨセフスデクも同じように雲台は使っていなかった。
このニセ5プロの姿写真をアップしたら野々宮が雲台がついていないと言うコメントをくれたがそれは当たっていない。雲台は小さいがちゃんとついているのである。

ニセ5プロを常に三脚につけていると言うのは理由があってそうでないといつも持ち歩いているガラクタ屋さんのトートバックの中にどこに入っているのかを見うしなってしまうのか。手を突っ込んで手探りで探しているときに三脚がついていればすぐに探し当てることができる。

2017年4月23日 (日)

1,950年生のパリのカメックスのカメラケースの不思議

Img_2506
パリでの滞在中に泊まっていたホテルから徒歩10分位にかつてのカメックスを作っていた工場ERCSAMを訪問した。建物は今でも残っているし当時は産業は水運、つまり船が運ぶのが大事であったからサンマルタン運河もその場所のすぐ近くにある。

それでパリ訪問記念にカメックスの最初期モデルを買った。もっともパリで買ったのではなくてeBayでイタリアのジェノバからかったのである。それが数日前に到着した。

私はこれをクリストファーコロンブスのエステートであると勝手に命名しているが、到着したカメラはイタリア人の梱包の癖をはっきり表していてカメラの皮ケースをそのままプチプチで包んだ荷姿であった。

これはやられているのではないかなぁとドキドキしながら包装を開けてみたら皮ケースがしっかりしているので別に何のダメージもなかった。

その皮ケースを見て私は惚れ惚れしてしまった。
ライカのケースにしても50年代後半のやつはダメである。ボロボロに風化てくるのだ。

もともとカメラの皮ケースと言うものはそれが50年以上も使われると言う事は最初から想定外のことのようである。私が持っている数多くの皮ケースの中で1番しっかりしているのはイタリアのレクタフレックス用の革ケースである。これはまるで先月作られたと言うようなフレッシュさである。

このカメックスの最初期モデルは1,950年生だ。だからすでに70年近く経過しているのにその皮ケースはまるで去年の今頃作られたと言うようなフレッシュさなのである。

届いたダブル8-8ミリカメラで実際に撮影することがなくてそれはドアストッパーがわりに部屋の中に置いておくだけであるが、こういう立派な革ケースが一緒に来ると非常に嬉しくなる。しかもオリジナルの取扱説明書付。

2017年4月22日 (土)

38口径マグナムより45口径マグナムが良いそうです

Img_2459

パリのインビツインギャラリーでフィリップと言う紳士にあった。写真評論家だ。
雑談をしていたらさっき日本料理店でランチを食べてきたがそれがいいから行ってみろと言うのでお店の名刺をもらった。「海」と言うお店つまり らメール である。その名刺の表のカリオグラフィーがいいなと思っていて記憶に残った。

東京に戻ってから家人に話を聞いたらドビッシーの「海」と言う曲のことをテレビでやっていて大作曲家がインスピレーションを受けた文字と言うのが私がパリでフィリップと言う人からもらった名刺の表面にある文字と同じであったそうだ。
こういう話は非常に面白い。

そのフィリップさんと写真芸術は語らなかったがパリの最近について雑談していたら、いきなり私に向かってナントカカントカをもっているが、今見るかと聞かれた。
外国人同士の英語だからそれが何かよくわからなかった。

立派な黒いナイロンケースから出てきたのが黒光りする38口径マグナムなのである。スミス&ウェエッソんか。
トリガーが引けないようにないように厳重なロックが付いていてそれを外して見せてくれた。
私はwin時代ちょっとだけ射撃の経験があるので、基本的ルールは知っている。
射撃場では実包が入っていなくても、銃口は絶対に人に向けてはいけないのだ。だからこのようなスタイルが定番である。

ちょうどラリークラークの傑作「タルサ」に出てきたレボルバーを持った青年を思い出した。こういう場合はオートマチックではダメでやはりレボルバーなのである。
稲垣タルホも彼の作品で、自殺する直前に赤ワインをいっぱい飲んでその脇には装填したレボルバーが置いてあると書いている。

それで、拳銃のいろいろな話に私の話したの小学校の行き帰りの交番で勤務中のお巡りさんにピストルを見せてもらったことである。
当時はそういうことができる時代だった。おまわりさんの持っているのは45口径のレボルバーでこれは軍用だから殺傷能力がありすぎて町中のポリスには実は向かないのである。
引き金を間違って引かないように小学生の持っている消しゴムのような形のゴムがトリガーの内側にぴったりはまるようになってそれで抑えられていた。

時代がずっと降って1,970年代の後半に山下洋介さんがトリオと一緒にwinに演奏に来たときに一緒にワインを飲む機会があった。その時に私のウインの友人でズデーテンドイツ人が拳銃のコレクターなので山下さんをそこにお連れしたら大変喜んでくれた。
そのドイツ人の持っているライセンスと言うのはポリスのようにピストルを外に携帯して持ち歩けると言う種類のものであった。物騒な話である。

いろいろな拳銃を見せてくれた後に最後にそのドイツ人はルガーの銃身だけと言うピストルを山下さんに見せた。
それはドイツ軍の将校がブーツの中に隠し持っていざという時に銃身を取り出していっぱつだけたまが出ると言うものなのである。これなどをエクストリームですごいなと思った。一枚どりライカだな。

後年日本に戻ってから山下洋輔さんの著作の中にその時の話が掲載されているのでびっくりした。

それでそんな話をしてからパリのフィリップさんに1番好きな銃はなんですかと聞いたら、これが45口径のマグナムなのだそうである。45のマグナムはウインの射撃場で隣の人が撃っていたがものすごい迫力で重厚
銃口の先に大きな花火が出るような感じなのである。まるで両国の川開きのようであった。

ピストルと言うものはカメラと同じで、やはり超高性能でライカのレンズでフルサイズでないとダメなのなのであろうかと、私は考えてしまった。


2017年4月21日 (金)

ミシガン1987

Img_2503
20世紀後半に撮った膨大な大判カメラのスライドフィルムのストックを持っている。デジタル画像では無いからちゃんと手に取れる。これは私の重要な財産である。

これはちょうど30年前にミシガン州の商務省の仕事でミシガンを旅行したときのショットである。最初はデトロイトに降りてそこからずっといくつかの湖を越えてレイクの1番北の国境あたりまで行った。その旅程は3,000キロでは効かないからその話を地元の人にすると彼らもそんなにミシガンを旅行したことがないと言ってびっくりした。

これはそういう無数にある湖のほとりの街で撮影したワンショットである。午後の長い夕暮れの光の中にある寂れた商店のウィンドーには40歳の私が写っている。

カメラはエボニーワイドであってレンズはフジノン75ミリだったと思う。
三脚は小型軽量な大型カメラだからマンフロットのようである。実はこのショットは富士フイルムが画期的な新フィルムベルビアを出したときの仕事でもあった。
発表前のまだ秘密のフイルムでパッケージはフジカラーに偽装しているフィルムを膨大に持って旅行した。

このショットで私が興味を示したのは街角で撮った通りの斜め向かいにある白いガソリンスタンドなのである。それを写してから今度は店の角の反対側に回ってその白いガソリンスタンドが私自身と一緒に鏡の中に写っているのを撮影したという次第だ。

まぁどうでもいいことであるがそういう些細なカメラアングルの違いとか街のウィンドの映り込みなどが私の興味の中心なのだ。
わたしの好きな本、「ウォーカーエバンス@ワーク」を私が細かく見ている理由と言うのも実は写真芸術の大義名分をそこに探しているのではなくエバンスと言う撮影者の細かい撮影の癖に興味があるのだ。


2017年4月20日 (木)

マイクロSDの取り扱いに苦労する

Img_2453
老写真家から老人映像作家に転向した。

と言うよりも今流行なのはいろいろなことができますと言うのを並べることらしい。
だからその意味では写真家で作家で映像作家でホーボーもやってますと言うことになる。以前あるカメラ
某メーカーの偉い人が私をさして「旅人ですね」と言ったがこの言葉は安いテレビの番組みたいで嫌いである。
旅人よりも徘徊者そしてホーボーになりたい。まずパリの10日間でメトロに乗らないという行動はその資格があると思う。
まあ、方々を見て歩けるわけです。

それで愛用しているのはもっぱらこの偽5プロである。使い方にかなり習熟してきたので面白い画像が撮れる。使い始めて10ヶ月になった。値段は5,000円で全部の付属品がついていた。すごいね。

最大の問題点はマイクロエスディーカードにある。

何世紀も前に伝書鳩を軍用で使っていたときにはいかに小さな文字を軽い紙に書いてそれを鳩に持たせるかが研究の課題であった。軍用の鳩は国策の重要なポイントであった。

10年以上前にその当時はパリでホテルのテレビを見ていた。これは中東情勢が沸騰していた時代である。その時にフォックステレビが中東で銃撃に合ったライブをやっていた。その隣のチャンネルを見たら伝統の伝書鳩の話でこれが面白かった。別に中東情勢で伝書鳩を使っているわけではありません。

メモリがこれだけ小さくなると膨大なデータが移動できる。マイクロSDメモリーを最初に目にしたのは6年ほど前にiPhone5を手に入れたときになぜか同梱でマイクロSDメモリーが入っていた。当時はそれを何に使うのかもわからなかった。

マイクロSDメモリは便利なのだがなくすリスクが非常に大きい。だから1番安全なのはデバイスに入れっぱなしにしておいてそこから出さないのに限る。

この偽)5プロの場合もカードスロットの内側にバネが仕込んであるらしく下手に取り出すとちょうど蚤がはねたようにカードが飛び出してどこに行ったのか分からなくなる。これを屋外でやったらまずアウトであろう。そういうわけでマイクロエスディーの保管場所と言うのは結局私の場合偽ゴープロの内部が1番安全なのだ。

蚤で思い出した。
蚤の市を日本でフリーマーケットというのが何故かわからない。とんでもない誤訳であろう。

2017年4月19日 (水)

神田川の時間に流れ行く風景

Img_2444
子供の頃の私の行動半径は音羽通りから南に下ると江戸川橋がその限界だった。

小学校高学年になってから山吹町にある学習塾に通うようになったのでその範囲は少し広がった。さらに中学生になって行動が、さらに広がって新江戸川公園のあたりまでいけるようになった。

そっちの方面まで遊びに行くと言う形になって新江戸川公園のあたりにある肉屋でコロッケを買うなどと言う悪いことを覚えた。

この知らない街でコロッケを買うと言うのは、私の町歩きの基本になっているらしい。
例えばリスボンでも旧市街を歩いていてあの先にある川のそばのバーでコロッケをいっこつまんでやろうなどと考える。ただし少年の頃と違うのはそこにいっぱいのグラスのビールが加わることだ。
だから偉大な詩人フェルナンドペソアだって案外リスボンの旧市街を歩きながら3つ先の角にあるバーのコロッケのことを考えていない事は無いのだ。

先日、この辺つまり神田川の付近をうろうろしていて私は無意識のうちに少年時代にすでに失ったコロッケ店を自分の方向感覚として探していることに気がついて面白く思った。

この街角は私の知り合いの猫が住んでいるマンションの辺りである。茶猫横丁にも非常に近い。

知り合いの猫の兄弟は実際には会ったことがなくてFacebookで見ただけなのだがそれはそれで良い。知り合いの鳥とか猫とか犬などは実際に会っていなくてもFacebookであったような気になっている。いやそのように実際に会っているのである。

久しぶりにこの街角に立ったら自転車屋さんの手前の角地が売地になっていた。これは私の風景では大きな変化であった。そして私の好きな自転車屋さんを久しぶりに眺めた。この店には美学があってお店の日よけがほんのわずか左側に下がっているのである。
私がいつも提唱しているところの「左下りの日よけの美学」ですね。

でも親しみ馴染んだこの街角で私が1番びっくりしたのは、私が好きだったオブジェがなくなってしまったことである。
奥のほうに見える8階建ての新築マンションがそれなのだ。
かつてはボロボロの平屋建ての木造建築でそれを雨漏り防止のためにビニールでカバーしていたのだが、そのビニールが雨風によってバラバラにちぎれているのである。
その家の前に立って私はその風とシンクロして動くビニールのすだれを見るのが好きだった。これこそこの界隈の私にとっては重大な愛すべきランドマークだったのだ。
それは永久に失われてしまった。

Img_2493

❤️2年前のショット。中田ぼたんかなさん提供。

2017年4月18日 (火)

🇻🇳CT70計画 6/10大集会 と 私家本ウインの写真集のこと

Img_2463


Img_2464


Img_2465

2017年は私がライカを使いだしてちょうど50年にあたる。それ以前から仕事はしていたが写真の面白さに気がついたのは1964年の東京オリンピックの時である。
現在パリで5月5日まで開催されている私の写真展はタイトルが東京1966とあるのもこの時代の仕事である。

振り返ってみると半世紀写真を真面目にとっているのでその間、進路がぶれると言うことがないのは我ながら手柄だと思っている。

それで私の通っている唯一のカメラ店つまり四谷荒木町の我楽多屋さんの二代目さんが中心になって、悪の枢軸を結成した。
私の写真家生活半世紀を祝ってくれると言うのである。実にありがたい。
それで我楽多屋さんの常連さん、ばかりではなく何時もこのブログでお世話になっている皆さんとかそのお友達とかつまりあなたにぜひ来ていただきたいのでブログでご案内することになった。

期日は6月10日の夕である。詳しくは左のリンクをクリックしてください。

今回企画の中で1番面白いのは私家版の写真集を出すことにある。

私は今まで百二十五冊以上の書籍や写真集を出しているがそれらは取次店を通して流通しているものである。ところが今回はそうではなくて私家版なのだ。

私が仕事を認めている写真家の加納さんが私がアトランダムにネガの箱から掴み取った49本をチェックしてセレクトしてレイアウトして写真集を作ってくれることになった。

私家版と言うのはいろいろあるがその極北はニューヨーク近代美術館で見たロバートフランクの1連の私家版の写真集だ。
あれはオリジナルプリント張り込んだ限定の1部である。
フランクがあちらで学校を卒業する時恩師のアレクセイ ブロドヴィッチに献呈した写真集がある。まだ写真学生らしい初々しさが伝わってくる作品集だ。

フランクのその次の私家本の写真集は「ブラックホワイト&シングス」と言うやつだ。
ニューヨークの近代美術館で私はこの2冊をあまりに頻繁に借り出すのでミュージアムは不審に思っていたようである。どちらも稀覯本で鍵のかかるロッカーに入っていた。だからこの2冊のフランクの私家本写真集には私の汗とか指先の脂がわずかについているはずだ。

そういう大先輩を真似して今回の写真集はwinで撮影した未発表作品を加納さんが選んでくれた。
楽しみなの私もこの写真集は6月10日の本番まで見ることができないことにある。今まで自分の本は自分自分で構成していたので自分の作品集なのに見れないと言うところが何かワクワクする。
まあ、一種の生前葬だな。

それで思い出すのは60年代後半の伝説となった「プロボーク」のことだ。今は復刻版が出てオリジナルが天文学的な数字らしいが、これが出た頃は実は売れなくて私もこれを出版した写真家のシンパの人から売りつけられた記憶がある。確か値段は1,000円位だった。

森山大道さんの最初の写真集「日本劇場写真帳」は鎌倉書房から出ているがこれも出版当時は売れなくてこっちは森山さんのお弟子さんからかわされた記憶がある。
いずれの出版物も今では私の宝物だ。

winの写真集は今回の私家版が4冊目になる。しかし最初の写真集は売れに売れて40000部でさらに増刷がかかった。今回の本は100部くらいではないだろうか。
出来上がったばかりのwinの写真集を肴に四谷でいっぱいやろうと言う趣向である。

銀座八丁庵 店主敬白😎
Img_2504
❤️
おかげさまで6/10のCT70計画は早々に定員に達しました。ありがとうございます。今日のコミッテイからの連絡ではホテルとの折衝で、会場をひろくしてもらい若干の追加募集をするそうです。どうぞよろしくおねがいします。

😎おかげさまで追加募集分も定員になりました。多数のご参加ありがとうございます。コミッテイからの連絡ではあと数名さまの再追加募集をするそうです。よろしくおねがいします。

2017年4月17日 (月)

パウリスタ

Img_2447

友人の写真家の小松義夫さんが打ち合わせで銀座のパウリスタに行ってびっくりしたそうだ。
私もパウリスタのことを完全に忘れていたのである。今年で創業100何年とか言っているが実際には関東大震災の時に休養して再開したのが1970年である。私がパウリスタに親しくなったのはそのころのことである。といってもすでに40数年ですね。
芥川の短編にカフェパウリスタが出てくるのも思い出した。

佃島から歩き出して勝どき橋を渡って松坂屋の後に建て替えられた何とか言う、ブランド品ばかりうっている、しょうもないデパの前を通ってニコンサロンに行った。

銀座のニコンサロンはこれが移転して三つめであるが私はその 場所がわからなかったので確認に行ったのだ。
一旦銀座通りに出てパウリスタを探した。ラオックスの前は中国人のツーリストの人たちがいっぱいで北京の王府井に行かなくても済むと言うほどの混雑であった。

そのちょっと先にパウリスタはあったが実に存在が地味なので通り過ぎてしまった。
入ってみるとこれが完全に昭和40年代の純喫茶である。


客の中で私が若い人間に見えるのが面白い。隣のテーブルで話をしている先輩連中はメイドインおっぱいどジャパンの時代に仕事をしていて儲かったと言う話をしていた。それにダグラスのDC 3に乗ってアメリカに行った話などもしていた。こういう話が今聞けるのは非常にありがたい。

お店の内装の仕方はクラシックと言うよりか全然改装してないのであろうからまるで自分が20歳代に戻ったような錯覚がそこにもたらされる。
しかもコーヒーの値段がが安い。これはマークしておかなければならない。

10年近く前、銀座八丁庵、中銀カプセルタワーで仕事をしていて、銀座8丁目から中央通りをゆるゆる銀ブラをして銀座一丁目まで行きそこからメトロで家に帰ったこともあった。
しかしその時カフェパウリスタの事は完全に忘れていたのである。

佃ニュースの取材でニセ5プロで短いムービーを撮ったが、室内が静寂なのにびっくりした。銀座のど真ん中で何の音もしないのである。
これは現代では貴重だな。

2017年4月16日 (日)

時計の文字盤の読み間違いを防ぐ


プラハの時計屋さんが面白いのは初めてプラハに行った時に気がついたから1,975年頃の話だ。

プリムと言う名前のチェコ製の時計があった。シンプルな手巻きの機械式である。チェコの空軍が使っていた時計は国産のメカニズムではなくてレマニアを使っていた。だからかなり当時の貴重な外貨をスイスのメカニズムのために支払っていたのである。

それがビロード革命になってから軍用の時計も国産にしなければと言うので国内のメカを使うようになった。

実は時計を買うのは私の場合時計屋さんではなくて、昔、いや今もあるけれどもプラハ市内のあちこちにあるバザールと言う生活用品一式を売っている中古商品扱い店で買うのである。

この時計を手に入れたのは正確に覚えていないが、ビロード革命の前であったような気がする。値段も覚えていないが高価なものではない。

それを時計のガラクタの箱の奥のほうに発見して、この数年来これを使っているのである。別に手入れもしていないが機械が偶然良いものだったらしくクロノメーターなみの正確さである。

もっともスイスのクロノメーターと言うのはいくつか持っているが、私がそういう時計に親しみを感じているのはその時計が時間がずれてきたときに合わせるのが楽しいのである。
ところがこのチェコ製の時計はあまりに正確すぎてクオルツなみであるから、時間を合わせると言うことが最近ほとんどない。
これは面白くない次第だ。


旅行に行く時はオートマチックではなくて手巻きの時計が良い。朝目覚めて竜頭で時を巻くと言うのが良いのである。このチェコ製の時計はその意味で満足しているが唯一の問題点は文字盤が見えにくいことにある。

要するにトップの12と言うのが通常よりちょっと太いバーになっているから、飛行機の中なので見ると午前1時だと思うと深夜0時であったり、あるいはその逆であったりする。これは非常に困る。

それで小さなシールをこのように貼ってみた。全くデザイン的にはめちゃめちゃだが、実用の上では何の問題もない。これで時間を見誤ると言う事はなくなった。

Img_2443


2017年4月15日 (土)

東京ラーメンタリー 非腕組み系

Img_2431
私はラーメンの名店が嫌いである。
Facebookでも取り沙汰されているようならそこに行っただけで名誉であるとか何時間待ったとか自慢話をするのようなお店が嫌いである。

それで以前も書いたが街を歩いていていきなりであったラーメン屋に入ることにしている。
出会い系いきなりラーメンタリーです。

雑司が谷の宣教師館はどこのメトロの駅からも遠いところにあってなかなか行くのは大変である。
その雑司が谷宣教師館の隣に黒田さんと言うオタクがあってそこは普通の家なのだが奥さんがコーヒーやハンバーグを出してくれると言ういわゆる「奥様カフェ」なのである。

こういう自分の家の1部を片手間で喫茶店にしたようなものを東京中で以前探して歩いていたらその数は5本の指に満たなかった。
雑司が谷宣教師館の隣の黒田さんの家もまるで親戚の家にきたような感じで靴を脱いで上に上がるのである。

でも今ではそこはマンションになってしまった。
その工事に入る手前の右側にターキーと言う名前の中華屋さんががあった。この間歩いていたらそこが更地になっているのでアレと思った。
ところがそれは私の勘違いであって更地の隣にターキーはあったのだ。
そこでラーメンを頼んだ。値段は550円である。
この後550円と言うのは個人のお店で出すラーメンの上の価格の限界のようである。

私がラーメンを注文した直後に専門学校生らしい青年が入ってきた。彼はラーメンと餃子を頼んだ。ところが店の手順が悪いのかどうか知らないが、私が食べ終わってお勘定しようとする頃にようやく餃子が出てラーメンが出てきた。他のお客さんはいないのだからこれは手順が悪いと言うべきなのであろう。

他人の店の営業の手順を通りがかりの客である私が言っても仕方がないが、ラーメン屋さんで時間がかかると言うのはある意味で1つの貴重な体験なのである。

私の数少ない経験で1番時間がかかったのはしのばず通りの根津駅の近くにある角地のラーメン屋さんでこれはすごかった。注文してから30分ぐらいかかるのである。

視野を広げてこの半世紀ほどのラーメン屋さんに行ったそれほど多くない経験で1番面白かったのは東長崎あたりのラーメン屋さんで、入って注文したら、店主が水を沸かし始めたのである。これには感激しましたね。これが一番。

記憶で2番目にすごかったのは一年ほど前、渋谷区の私鉄の駅から降りてちょっと歩いたところにある中華屋さんでウィークデイのお昼過ぎと言うから普通は客で賑わっているはずなのに私が入ったときそれが最初の客のようであった。それで店主の顔見ると、あーめんどくさいなあ、、客が来たと言うような反応されたので、こういう店は通う価値があると思った。

2017年4月14日 (金)

サンマルタン運河のあたしのベンチ

Img_2408

六本木ヒルズの仕事場を止めてから佃煮ヒルズの他には路上のベンチが私の仕事場になっている。

パリのサンマルタン運河の木のベンチもそのうちの1つだ。つまり世界中にいろいろな場所に私の椅子があるということです。

日本と比べてヨーロッパはどこも公園はパブリックなものだし、そこにすえられたベンチはさらにパブリックな存在と言う認識の歴史がある。
しかもエントランスにはちゃんとしたドアがあって公園の中と外を完全に区切っていると言うのは個人意識の表れというものであろうか。

このタイプのベンチはパリにあるベンチの中ではかなりスタイルが古い方である。その後になって構造がもっと簡単なものが作られたがやはり座りにくい。

アンリカルティエブレッソンの傑作の中でパリのチユイルリー公園でそれが誰だか忘れたが、作家が同じタイプのベンチに深く腰掛けてリラックスしているショットがあって、それが傑作だと思った。
その作家は長いレインコートを着て足をすっと伸ばしてリラックスしているのであるが、その人の属性が男性か女性かもわからないのである。
ただしその人がベンチの上でリラックスしていると言う事だけがわかる。

このベンチは 3マルタン運河の水門の前の1番背の高い眼鏡橋の前に据えられている。
だからここから運河の全部を見るとには非常にふさわしい。
考えてみれば3マルタン運河はダゲールが写真術を発明した以前から存在していた。だから風景画家シスレーが描いているのである。

シスレーの時代に座っているベンチがその当時あったとは信じがたいが、シスレーの油絵の中で似たようなアングルがあるから案外そこに座ったとは言えないにせよ、近くにシスレーがたっていたと言う事は理解できる。

今間のパリでの滞在ではここで仕事をしたと言うのではなくて、毎日決まった時間にこのベンチにやってきてそこでクラブエダムごっこをしたのであった。

このベンチはかなり貫禄がついていて、マロニエの大きな木の下にあるから鳥のフンで結構座る面が白くなっている。でもそれもカラカラに乾いているので別にその上に座って困ると言うような事もない。

ホテルの看板を鑑賞する

Img_2399


プチホテル通りという名前はここの地名。
芸術家とか偉い人の名前をかぶせた通りの名前が多いパリのアベニューや小路でこれはちょっと個性的だと思う。

パリの北駅からすぐ南に下ったところにある細い道なのであるが、もともとは小さなホテルがたくさんあったのであろう。
ところが実際に調べてみたらこのあまり長くない小路に営業している旅館は2件しかなくて、そのうちの小さいほうに今回泊まったのである。

小さなホテル通りにある本当に小さなホテルであって、部屋数は30に満たない。私はヨーロッパのホテルに宿泊する時はなるべく部屋数の少ないホテルを使うことにしている。理由は不明だが要するにアメリカンスタイルのホテルの逆を行っているのが良いと言うことになる。ホテルの部屋が10以下と言うのが理想だが今時そういうのはなかなかない。1つ星が理想だがそれもなかなか不可能である。

三ツ星には泊まりたくない。四つ星はホテルによっては荷物を自分で運ばなければならないからやはりいやだ。
五つ星のホテルは取材で行って体験がオーバーフローしているのでもう御免である。そうなると2つ星のホテルが私の理想と言うことになる。

それでこのホテルの部屋は16平米しかないが、天井が高く大理石の暖炉あり。その窓から見えるホテルの看板が楽しみである。電気代の節約のためにホテルの名前の大きな電飾看板はいつも消えている。
これもありがたい。部屋の選び方がまずかったりするとホテルの看板の明かりが煌々と室内に入ってきて寝られないことなどがある。

一昨年のカサブランカのホテルも小さなホテルで良かったが、建物に作り付けのガス灯が夜になると室内を照らすのでカーテンを閉めなければならない。
ところがカーテンを閉めると普通の暗室になってまた面白くないと言うツーリストの身勝手と言うやつだ。

写真家リー フリードランタンがごく初期に自費出版したセルフポートレートと言う小さな写真集が好きだ。それはリーがアメリカじゅう旅行したときの記録なのであるが、特に好きなのは裸電球が一個、バスルームにぶら下がっているような小さな小さなホテルのセルフポートレートである。そこにまだ若いリーがライカを持って、おぼつかない様子で映り込んでいるのだ。

ホテルの看板をましたに眺めて視線を移すと向かいは学校である。
ホテルを出て左手つまり北駅のほうに行くと最初に交差するのがマゼンタ通りであってその角に私が40年代通っている大きな市場がある。
その市場の鉄骨構造と言うのは紛れもなくワルターベンヤミンがパサージュ論で語っているところの巨大な鉄の構築物なのだ。

2017年4月13日 (木)

中田さん撮影。ライオン猫の大西君

Img_2381

Facebook友達の中田さんに早稲田の神田川の奥の一角にある茶色の猫がよく集まっている場所を教えてもらったのは数年前だ。
私はそれを茶色の猫が集まっているポイントなので「ちゃねか横丁」とよんでいる。うちの方言では猫は、ねか、と変化する。

その場所はそこだけ樹木の茂みがこんもりしている場所で木造の趣味のある建物が集まっている。
だから何か映画のセットであるかのような錯覚がもたらされる。
それ以外はモダンな現代の東京の国籍不明な建築物が並んでいる。

茶色の猫が集合している中でこの猫は中田さんの命名によると「ライオン猫の大西くん」と言うのだ。
私の知り合いの大西と言う人は大西みつぐ、つまり大西教授である。

だから大西さんをイメージしていたが実はそうではなくて、中田さんの説明によるとタレントさんのお笑い芸人で大西くんと言う人がいるそうだ。

カメラの名前はたくさん知っている私であるが、お笑い芸人さんの名前は全く知らないのでそこら辺は謎のままである。お笑い芸人さんで実際に会ったことがあるのは火花の又吉さんくらいだ。私は彼の撮影した線香花火の写真を絶賛したのであった。

うちの表現で言えばこれはライオン猫の大西くんではなくて、「大恩ねかの大西君」ですね。

中田さんが撮影したこのショットが非常に良いので感心した。
友人スミスの名作に似たような構図のものがあると思い出した。ヒューマンタッチのというかキャットタッチの良い作品である。

この写真できいていているのは左の無限遠のところで後ろ姿で去っていく人間の後ろ姿である。つまり猫と人間がイコールの権利で登場していると言うところが良い。

2017年4月12日 (水)

CDG空港からPARIS北駅がやすくなった謎

Img_2375
一昨年5月にパリに行ったのである。
あたしの佃日記が2,001年から2003年の記述であるが、その当時のパリの訪問の記録を見てみると当時は資金が潤沢にあったから、空港からタクシーで行ったりしている。最近は老人になって落ちぶれたのでなるべく経費を安くする必要がある。

それでシャルル・ドゴール空港からバスを使っていたがバスはいきなりオペラ座の前に着くので都合が悪い。というのもこの10年来は主に北駅の近くの安宿に凝っているのである。

これはその必要もあるのだが以前フランス政府観光局の仕事でパリなどでも名前を出すのがはばかられるような五つ星のホテルに泊まらされたのである。その経験からすると安ホテルと言うのは小説に出てきそうでなかなか味があるし、しかも値段が安いのだから一石二鳥と言うわけだ。

辻潤が息子と一緒に泊まっていたホテルバッファローと言うのはどこにあるのか知らないが案外そのまま同じ名前でパリのどこかの場末で営業していそうだ。
武林無想庵はやはり奥さんやお嬢さんとパリを転々とアパートを変えたがこれもその実アパートと言うのはホテルのことなのである。ベッドの下からいきなりトランクを引っ張り出してアルコールランプを取り出しそれで飯を炊くのである。これが当時のそういう階級の日本人のパリでの生活のやり方だった。

金子光晴もホテル暮らしだった。ホテルを引き払ってどこかに出稼ぎに行って戻ってきて同じホテルの2階上に入ると、今まで見慣れた向かいの馬肉屋の馬のトルソーがはるか下に見渡せ朝日にキラキラ光っていると言うことを書いている。さすが詩人である。これなども旅情があって良い。

ブレッソンのアパートは訪問したことがないが、リーヴォリ通りを見渡す最上階でブルジョアっぽいがそんなに広いようではなさそうだ。
ただしインタビューなどでブレッソンの室内を見ているといわゆる新建築なので何となく安っぽい。私が実際に知っているのはジャックラルテイグのアパートメントであった。彼は大富豪であるがパリのアパートメントは私が今住んでいる佃の寓居などより狭いというのが何か皮肉でもある。

私の数少ないパリジャンの家庭の訪問で1番大きかったのはフランスの科学コンツェルンの会長の家であった。これは16区アベニューフォッシュと言うとこにあって外見は地味な建物だが中は宮殿のようであった。そこでランチをご馳走になったが黒いメイド服を着たメイドさんがサーブしてくれてその食卓のテーブルの長さが10メートル以上あるのだ。化学コンツェルンの会長ははるか遠く霞の彼方に見えるようであった。

こういうのは例外中の例外としても一般的にパリジャンはパリ市内城壁の内側に住んでいる人はこせこせと狭苦しい長屋めいたところに住んでいるのはいい感じだ。

話を戻すとシャルル・ドゴール空港からパリの北駅に向かうのであるが2年前までは確か12ユーロちょっととかした。それが今回は10ユーロポッキリである。世界の交通機関で値段が下がると言うのは最近のメトロもそうかもしれないが、これは東京のことだが、いずれにしても珍しい例である。

ところがチケットのオートマットのシステムが変わっていてびっくりした。この最新鋭のマシンはお札を受け付けないのである。受け付けるのはコインとそれからクレジットカードだけだ。ドイツの券売機はお札を受け付けないでコインだけ受け付けるところが結構ある。

最初に券売機で言葉を選ぶことができて英語ドイツ語フランス語イタリア語スペイン語などがある。まだ日本語は入っていない。私が買おうとした券売機は前にそこに立っていたのがドイツ人で新しくドイツ語になっていた。つまりドイツのツーリストはやり方がわからなくてそのまま撤退したのである。アドルフヒトラーと同じでだらしのない奴である。

私もパリに入場しながら市内までいけないのはしゃくである。いちどは野々宮のようにパリ市内まで50ユーロのお金を払ってタクシーで行こうかと思ったが、私は1人だしラゲッジの重さは13キロしかないのでそれしゃくである。フランス国鉄の案内に聞いたら何の事は無い。隣の窓口で買えと言われた。その窓口で買ったのがこのチケットである。

フランス政府観光局はツーリストの招致には非常に力を入れているが空港から電車に乗るときに間違えて北の方、イールドフランスの奥地、つまりパリと反対側に行ってしまうアメリカ人が多い。つまりパリのアメリカ人と言うやつだ。数年前にようやくこっちがパリと言う案内矢印ができたこれは大進化である。

それでも私は用心深いから、拙いフランス語で
エクスクザモア、、あ、パリ?
と聞いたら素敵なパリジェンヌがイエスと答えてくれた。
英国がEUを脱退しようと言うのでパリはそれを引き留めにかかっているから簡単な英語が通じるようである。

約40分ほど真っ暗な車窓からなんて寂しい世界の果てのようなところに来たのであろう。この先にほんとに華のパリがあるのであろうかと私は疑問に思っていた。

パリの北駅に着いて荷物を転がしてホテルに行くのにも周囲が暗いのである。まぁ旅行のはじめと言うのはそんなものだ。

2017年4月11日 (火)

カセグレン式グリンピース 光学性能高し

Img_2372


昔から光学少年であったあたしにしてみると反射望遠鏡は憧れの的であった。

カセグレン式反射鏡と言うのもある。
稲垣タルホが明石に住んでいた時代に子供らを集めて怪しげな天体望遠鏡を持ち歩いて火星や月を見せたりしていたそうだが、本人の証言によればそれは5センチの反射鏡であると言う。すなわち玩具めいたものであったのであろう。

カセグレンの反射鏡に手を加えて視野を大きくしたのがシュミットカメラであった。少年時代に読んだ天体望遠鏡の本では手間がかかるので非常に高価であると書かれていた。

レフレックスニコールが登場するずっと前に反射鏡レンズで有名なのがソ連製の2種類のレンズすなわち500ミリと1,000ミリであった。
アサヒカメラの作品で外人カメラマンでこの2つのレンズを使って撮影した自動車レースの写真があってそれにはテクニカルデータとして反射傘で撮影したとあった。レフレクターをそのまま誤訳してしまったのである。
アンブレラで写真が撮れるのかと少年の私は首をひねった。

先日のパリでのワークショップで類似店長が教えてくれたのがインビツインギャラリーのすぐそばにある秘密のパサージュである。
私はワルターベンヤミンのファンなのでパサージュ論を持ってパリに行ったのだ。 類似店長からとベンヤミンで話が盛り上がった。
そのパサージュは120年前の向島のような植木が立て込んだ細い緑の多い路地なのであるが、そこにあるこうもり傘の直し屋さんと言うのは今ではパリに一件だけある特殊なお店になってしまったそうだ。これもアンブレラであることには違いない。

毎日買い物に行っていた市場で見つけたのがこのグリンピースの缶詰である。手に取ってびっくりした。そのブランドをカセグレインと言うのである。カセグレンは光学系のタイプの名前だとずっと思っていたのでまさかグリンピースに同じ名前があるとは考えてもいなかった。

それでカセグレンとは人の名前であると言うことに思い当たった。それで連続して私の頭脳の中から発掘されたのはフランクフルトアムマインの中央駅にあるソーセージ屋さんの名前である。そのブランドはツアイスと言うのである。

そのソーセージを買って小分けにしてもらってそれぞれに包み紙で包んでもらって東京で皆さんに配るとびっくりされたり喜ばれたりした。
何しろ天下の光学メーカーのブランドのソーセージであるからだ。カールツアイスがソーセージにも手を出したのかと勘違いされたりもした。

カセグレン色のグリンピースはなかなか良い味であった。

2017年4月10日 (月)

SORTIL PARIS ブレッソンさん二つ星 田中さんひとつ星

Img_2360


Img_2357

インビツインギャラりの類似店長から「パリで権威あるアートのレビュー」にあたしの写真展が紹介されたろ教えられた。

しかもブレッソン、クーデルカ、マッカランなどのスター写真家という顔ぶれの最後が東洋人のあたしである。
そのレビューの筆者のイントロダクションに「60年代の東京と6年前の福島」の語句が出て、福島を取材の写真家の/写真展も紹介されてる。
まことにありがたいことだ。

面白いのはレビュのクラスにそのレビューのシンボルのTマークが付いている。ミシュランの星みたいなものか。
クーデルカ写真展は三つのTであるが、巨匠ブレッソン展はTマークが二つである。
日本の写真評論家ならすぐにブレッソンは三つのTにするであろうが、そこらへんの採点の辛口なのが良い。
ぞれであたしは「ひとつT」をもらった。
これはうれしい。
なにか巣鴨のラーメン屋さんがミシュランガイドブッのひとつ星をゲットした気分である。

2017年4月 9日 (日)

アトジエさんと稲垣さん@ギャラリーバウハウス

Img_2340
東京に戻ってギャラリーバウハウスハウスで小瀧さんとの打ち合わせに行った。
もう一つの目的は現在開催中の稲垣さんが撮影したアトジエの「本歌録りの写真展」である。

1,960年代に活躍した写真評論家津田新一はアトジエと呼んでいたが、私はアトジエットと呼んでいた。フランス語は不思議な言葉でティーを発音しなかったりするから面倒である。

稲垣さんはなくなった宝田久人さんのアシスタントをしていたそうだ。これも何かの縁だと思うのは宝田さんが昔ゴールドに関する写真集を制作しているときに、ずいぶん多様なゴールドの宝物や何かを撮影したが最後に撮影できないのが国会議員のバッチである。

私のところに相談に来たので存じ上げている議員の方の秘書さんにお願いしてバッチを撮影させていただいた。
このバッチは大変な威力があるもので、仮にバッチをつけ忘れてきた場合その人が安倍晋三だとわかっても入れてもらえないそうである。
つまり人よりもバッチが重要なのだ。
それにも秘密があって実は忘れたり紛失のためのプロテクションとして2つ支給されているのだそうである。我々が戦場にカメラを二台持っていくのと同じですね。

その宝田さんのお弟子さんが稲垣さんと言うのが嬉しい。私は稲垣タルホのファンだから稲垣はイナガキなのである。

私も1,970年代にパリに出かけて一白23フランのムフタールの街の安ホテルに泊まって大型カメラでアトジエが撮影した記念的街角を撮影していた。

その直後にフランスから出版されたガイドブックでアトジエが撮影したほとんどの作品とそれの地図へのプロット、さらにカメラが向けられた方向が記録されているものがある。その話を稲垣さんにしたら彼はそのガイドではなく別の資料を探して自分で撮影に歩いたそうである。
労作と言わざるを得ない。

稲垣さんの作品展がすごいのはアトジエが当時使っていたクラシックなメソッドの鶏卵紙をプリントに使用していることだ。アトジエのヴィンテージプリントに見える例の薄茶色というか紫色の印画紙である。

私がニューヨークに写真の勉強に行っているときに、このペーパーが使いたくなってコダックに問い合わせたらコダックは当時まだこのペーパーを生産していた。ところがオーダーの最低ロットが1グロスと言うのであまりに大きいから断念したことがある。

鶏卵紙は当時のコダックのインストラクションを見るとこのペーパーは1時的なプルーフプリントのための紙なのでアーカイバル性は無いと書かれていた。

それで稲垣さんはクラシックな仕事に並べてゼラチンシルバープリントも制作してそちらのほうはプリントサイズが10%ほど大きいのである。その2つのプリントの対比というのがまた見ていて面白い。

カメラはデアドルフでレンズは旧ータイプのフジノン180ミリef 56であると言う。これも私が長年使っていたのと同じ組み合わせで何か近親感を持った。

稲垣徳文写真展
HOMMAGE アジェ再訪は 5/20まで
http://www.gallery-bauhaus.com/170329_inagaki.html

2017年4月 8日 (土)

パリのパテの鶏肉

Img_2334_2
私は食べ物の好みに関しては気にいるとそれを食べ続けると言う癖がある。

9泊10日のパリの生活は今回はちょっと変わっていて、ルートはまるでコピーされたように決まっていた。1つのルートは安ホテルからギャラリーに行くのと、もう一つは午前中にサンマルタン運河に行って運河の岸辺でベンチに座って考えたり、クラブエダムごっこをしたりである。ベンチで飲酒するジジの特権である。

それからフランプリと言う名前の大手スーパーで買い物をして、もう一軒 40年代通っている サンクエンティンのクラシックなマルシェで買い物して戻ってくるのがお昼頃だ。

ほとんど毎日買って食べていたのはこの「シャルルパテ風のチキン」である。
勝手に付けた名前だが映画の開拓者となったパテはもともと出身が鶏肉や鳥料理屋であったそうだ。

吉田健一が昔の本で鶏のグリルとバタで味付けをしたグリンピースの組み合わせと言うのは、ごく当たり前の料理なのに、フランスで食べるところがうまいと書いてある。
毎日食べても飽きないのでしかも3ユーロ90という値段で、まず私の胃袋では2食分があるからそれを食べていた。

売り場の前で労働者がどれが盛りが良いか真剣にチキンの棚を見ているのもいい感じである。私は鳥の足のボリュームよりも付け合わせのじゃがいもとニンジンの量に注目する。
私はそれは大抵たくさん並んでいるパッケージの1番右側のを買う。
でも私は外国人だからルペン候補の支持者と言うわけでもない。

極東出発するときに割り箸のパッキングを忘れたので、チキンは手づかみで食べるのは良いがジャガイモとニンジンを食べることができない。歯ブラシだけが4本あったのでこれをはしにしようと思ったがなかなかうまくいかない。

それでエアフランスの機内で出た赤いスプーンを使った。これは調子が良い。どこにでもあるチキンのお弁当がシャルルパテ風と私の中で勝手に名前をつけたのは、言うまでもなく私の好きな稲垣足穂の「パテの赤い雄鶏を求めて」によるものなのである。

2017年4月 7日 (金)

エルフランスのさーびすの考え方

2年前にエールフランスでパリに行った時と今回エールフランスでパリに行ったときのチェックインの内容はかなり違うので面白いと思った。

基本的には全部セルフチェックインで自分でラゲッジラベルを印刷して自分でそれをカウンターで預けるのである。

同じエールフランスでも羽田から出発した時は私はオンラインでチェックインしているにもかかわらず、もう一回空港のスタッフが紙に印刷されたボーディングパスをくれた。

インターネットのメールがまた黎明期だった頃に、メールを送ったことを確認するためにファックス送ったり、さらにそれをもう一度確認するために電話で問い合わせていたような時代もあった。

2年前の5月のシャルル・ドゴール空港でのチェックインはバゲージドロップはすでにしていたが実際に私のラゲッジを受けてくれた人は身体障害を持つ男性だった。そういうところにそういう才能の人を配置するというのはパブリックな目的にかなっている。

今回チェックインカウンターで私が目を疑ったと言うのは、いいかえれば今まで見たことのない光景というのには非常にびっくりした。

チェックインカウンターの向かい側に人間のスタッフが座っているということが今回はなかったからである。

ずらりと並んだカウンターは全部が 無人であってそれぞれ自分でスキャナーでバッグについたラゲッジのタグを読み取ってそれをローラーに載せるのだ。

スーパーマーケットのチェックアウトと全く同じだ。でもマシンのやることだから気がしないこともあって、以前の人間のチェックインだと多少のオーバーウェートは大目に見てくれると言うこともあった。

私のラゲッジは行きも帰りも13キロだったからそういう問題にはならないがおそらく23キロちょっとでも超えると追加料金が発生するようなシステムになっているのであろう。

こういうシンプルな単純作業と言うのはこれからどんどん職場が少なくて行くのであろう。

サンテグジュペリの「南方郵便機」の中で、過去に数多くの飛行術の成功をもたらした熟練のエンジニアが定年になって仕事の延長をマネージャーに頼んだにもかかわらず、マネージャーはそれを無残に解雇する件がある。

家人の親戚が堀口大学つまりこの小説の翻訳者である事はずっと後に結婚して知ったわけだが、そういう当時の最先端の航空業界は意外とシビアなものであったということを私は中学生時代に知った。
過去の状況というのが今では現実のものとなってサンテグジュペリが活躍した頃のフレンチエアポスタルカンパニー、今のエールフランスも今や人手をなるべく減らす方向に行っているのである。

Img_2339


2017年4月 6日 (木)

本日移動日 CDG HND

Img_2322


2017年4月 5日 (水)

一本のフィルム

Img_2316_2
パリの中藤さんとのワークショップで1時間ほど私のバックグラウンドでお話しした後に参加者の皆さんと撮影に行った。ギャラリーの近くに120年前の向島の路地裏と言うような感じの和風なパサージュがある。パリで唯一残っているこうもり傘の修理屋さんもある。

類似が私が数年型遅れのデジタルカメラとか偽5プロを使っているので心配して彼のライカを貸してくれた。極東から来た有名写真家と言う触れ込みであるから、やはりマゴにも衣装、爺にもライカである。

彼が自らフイルムを装填してくれたのである。それを一本近く撮影してカメラを返却するときに数枚残っているはずのフィルムで類似は私を連続してうつした。
ところが無限にとれるものである。つまりフイルムがちゃんと装填されていなかったのだ。

私は類似のギャラリーストとしての腕は信用するがライカのフイルム装填に関しては信用しない。
まぁそんなものだ。

下の写真はワークショップ参加者の女性写真家でファッション雑誌エルの仕事をしていて、これからマグナムのメンバーになろうと言う人の作品である。これで見ると手のひらを広げていてライカをを片手に持ってなかなか巨匠に見える。ところが実際にはフイルムが回っていないのである。

大笑い。
Img_2317


Img_2318


2017年4月 4日 (火)

パリで売れた最初の一枚

Img_2295
私の写真はいろいろなコレクターさんに収集してもらっているがコレクターには2つのタイプがある。1つはオーディナリーの傑作写真を収集する人だ。2つ目はこれは面白いのだが後からいきなり殴られたような感じだ。

つまりこれは絶対に売れないでないであろうと私が思っている写真を収集する人なのである。
昨年の中富士山のギャラリーニエプスで展覧会をやらせてもらった時もそうだった。

私がこれは絶対に売れないであろうと自信を持っていた横断歩道の写真を買ってくれた若いコレクターがいたのである。その意味でコレクターはテロリストだからわれわれは油断してはならない。

1969年7月。つまり私が22歳の頃の東京の写真を展示してるわけだ。これらの写真の1部は日大の卒業制作として提出したがその卒業展と言うのは日大闘争で結局できなかった。
だから今回のパリでの写真展は半世紀遅れた卒業制作展なのである。

ワインでもそうだが半世紀も遅れれば逆に価値が付くと言うものだ。

それでこの写真だが22歳のときに私が中学の頃のガールフレンドと銀座でデートしたときに彼女にとってもらった。
その時の私はライカのエム2のブラックとニコンエフのブラックを持っていた。このショットはライカで撮影されたものである。1969年の7月23日だった。

今回のワークショップの参加者でなかなかいい写真を撮るELLEの仕事してる女性写真家がこの写真を指差してアンリカルティエブレッソンの作品に似ていると言っていた。確かに構図からすればブレッソンに似ているのである。

コレクターと言うと日本ではお金持ちのお年寄りの暇仕事と言う感じがあるが作品を買ってくれたコレクターは非常に若い。そこら辺はまたそれで面白いと思う。
✴️LUIGI類似店長が撮影。

写真を買ってくれた人は上。とってくれたのはこの人.。Img_2299


2017年4月 3日 (月)

巴里青衣団

Img_2275
インビとウィンギャラリーではいろいろな話をしたが1番大事なのは私と中藤さんの着ている青い労働者の上着のことだった。ここでいきなり自分の写真世界とか現代写真を語らないところが中富士さんも私も大人なのだと思う。
何か辛亥革命の頃の怪しい革命集団の感じがして非常に良い。

その元祖はニューヨークタイムスのファッションフォトグラファーで自転車でマンハッタン走り回っているビルカニンガムであった。その影響でジョナスメカスなども同じ青い上着を着ているのである。

ワークショップの会場で中藤さんと私が青い上着。
これは東洋人が着ると何か軍隊組織のように見えてしまうのである。
そこが面白い。

ワークショップに参加のムッシュで息子さんがロンドンでデザイナーをやっている方がいる。その話によるとその息子さんも同じ青い上着をきているそうである。
これは気をつけないと青衣文化大革命になって世界中が全部青い上着になってしまいそうだ。

その青い上着を手に入れた場所が市庁舎の向かいのデパートであると言う話をしたらパリジャンが大笑いした。何故かと言うとそのデパートメントストアは外国のおのぼりさんが来るところなのである。つまりマンハッタンから来たり東京から来た人が買うようなところなのだ。

極東のおのぼりさんである野々宮夫妻もここに行ってJTBの本部長から依頼された青い上着を買ったらしい。それもちゃんとサイズを指定されてきたのであるからバイヤーとしては立派なものだと思う。

Img_2274


2017年4月 2日 (日)

ライカを借りる

パリのインブツインギャラリーで中富士山と2人のワークショップがスタートした。

午前11時からスタートして最初は私の写真との腐れ縁を話した。それから全員でパサージュを撮影して歩いた。ワルターベンヤミンのパサージュ論ではパリがナポレオン時代以降工業都市として大発展した記録がパサージュ論としてまとめている。

ベルリン生まれのアシュケナージが調べたパリの当時の記憶には大変な重みがある。これはフランス人てないから可能だったことかもしれない。「失われた時を求めて」では当事者すぎる背景がある。
あのアドルフもパリが欲しいので駄々をこねてああいうことになったではないか。

ワークショップの先生が型遅れのデジタルカメラとiPhoneしか持っていないというのはワークショップの沽券に関わるということであろう。
類似店長が私にライカを貸してくれた。

それでワークショップの先生として一応格好がついたのである。感謝。

Img_2265_2


2017年4月 1日 (土)

フェルにサージュ

Img_2259
インブツインギャラリーのオープニングレセプションは大盛況であった。広いギャラリーではないがどこからこんなにたくさん人が来たのかと思うほとで一階も地下も満員で人間の熱気で熱くなるほどであった。
春休みなのでご両親とやってきた中富士さんの小学校三年のお嬢さんは人気であった。さらに生まれたばかりの新人の赤ちゃんもかわいいというので引っ張りだこであった。
こういうファミリーな感じがギャラリーに持ち込まれるのはいい感じである。

ニューヨークのソーホーに住んでいた当時、そこはインディペンデント系のギャラリーがずらりと並んでいて私がいたロフトの一階ももそういうギャラリーであったが、向かいもそうであった。

それで夕刻のオープニングレセプションは路上にまで人々が流れてきて皆さん紙コップを片手に芸術のことを話しているのかゴシップのことを話しているかわからないとにかく、そのことを思い出した。

私はそれを肴に非常階段に椅子を出してビールを飲んだりしたのである。

野々宮特派員撮影

« 2017年3月 | トップページ | 2017年5月 »

ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30