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チョートクカメラ塾ブログ

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2017年3月31日 (金)

パリの水

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1,970年代の最初のパリ訪問の時の水道の水はまずくてうがいをすることができなかった。

それが数年前からだったかいやもっと前からかももしれないが気がついたらうまいのである。

中藤さんと私の写真展のオープニングに来てくれたパリジャンにそのことを聞いたら水がうまいのは認めるがやはりミネラルウォーターを飲んでいるそうである。

でも我々ツーリストが短期間飲むのは何の問題もなかろう。それよりも東京の水にはもっといろいろ放射能とかあるしそちらの方が問題だと思う。

プラハやパリの水の方が口当たりが良い。それだけ軟水なのであろう。

ギャラリーのオープニングは大盛況でさして広いギャラリーではないにもかかわらずよくこんなに人間が入れるなと思えるほどの混み方であった。
パリでは 30以上の写真のギャラリーがコラボレーションして写真月間をやっているそうだ。その中心的な存在がインビツイーンぎゃらりーなのである。


オープニングレセプションで中藤さんと私の作品をラベルに使ったワインもなかなか良かったかが、私は主に水道の水をペットボトルに詰め替えてそれを飲んでいた。

何かパリの水で自分の年齢が洗われるような気がしたのである。

撮影は野々宮特派員。Img_2258


2017年3月29日 (水)

ワインが幸せ

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今から20数年前にフランス政府観光局の仕事で主にストラスブールとデイジョンそしてブルゴーニュのワイン蔵を取材して回ったことがある。
ピジョンでは有名なからし屋さんのお店を取材してその後カサノバが座ったと言い伝えられる石のベンチに座ってみた。これで少しはモテるかなと当時の私は考えたら別にその効果はなかったようである。

2週間の日程でフランスじゅうを走り回って泊まるところところがちゃんとした宿泊施設、そして食事は最低が一つ星と言うのだったらこれは私の人生の財産になった。

ワイン蔵もいろいろ回ったがデギスタシオンをやって若かった私は調子づいて数は数箱のワインを日本に空輸した。素人だから申告書の書き方からないので成田税関で散々いじめられた。それはともかくとしてワインは現地で飲むもので10000キロ移動してはいけないと言うことがわかった。

ロマネコンティの畑を見学してあまりにも小さいので驚いたことも忘れられない。ロマネコンティの畑のすぐそばの小さな小さな教会があったのも記憶に残っている。

日本で飲んでいるのはチリ産のワインでどうも舌がチリチリになっているらしい。それで久しぶりにこちらのワインのちょっといいやつを飲むとそれはそれで幸せなことだ。

昔フランスに取材に来たときに専門家からレストランで飲むのはセレモニーだから除外するとして、街で買うワインで100フランを払えばいいワインが飲めると教わった。だからこの二本は私にとってそれなりのものなのである。

アメリカの雑誌の仕事をしていた時に、そこそこのレストランとそこで飲んだワインのラベルをはがしてアイロンをかけて額に入れてくれると言うサービスがあったので呆れた。
ワインを飲むとではなくてこれはラベルのコレクションなのである。

写真を撮らないでカメラをコレクションするのと何かにているところがある。

大理石の上のカメラ

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皮肉なものでエールフランスなどヨーロッパの航空会社は数年前までエコノミークラスは23キロの荷物が1個だけであった。それが規則が変わって二個、つまり46キロ持てるようになった。
ヨーロッパは極東から来た連中にお土産をかわそうと言う手段なのであろうがその手にはのらない。

大昔はたくさんの機材を持ち歩いて今は利口なトラベラーでトラベルライトで小さなスーツケースがいっこである。これはガラクタ屋さんで数年前に買ったブランドものである。

パゲッチクライムで同じ黒い鞄はたくさんあるから絶対に取り違えが起こる。それを防止するためにちょっと変わったラゲッジカードが貼ってある。それはカタール航空のビジネスクラスのラゲッジタグなのだ。これを持っている人はほとんどいないからそれでぱっと見分けられる。

昨夜シャルルドゴールに着いた時もそのレア物のタグが役に立った。

カメラはこの二台である。数年型遅れのデジタルカメラとニセ5プロだ。これはムービー撮影に使う。
スチル撮影はiPhoneとiPadに任せてある。こういうヘンテコリンな時代が来るとは想像できなかったので面白い。

その2台が大理石で作られたマントルピースの上に乗っているのは何か非常にちぐはぐな感じでこれも愉快である。

ギャラリーバウハウスの小瀧さんはこの前のベニスに取材に行った時、彼のブログで見たのだが10台ほどのフィルムカメラを持っていったようである。
アナログ物量作戦で第二次世界大戦のアメリカみたいな感じがする。
それに比べるとこちらは竹槍のデジタル精神主義と言う所だ。

しかし考えてみるとカメラのハンドリングがめんどくさいのは、フイルムの量にあったことに気がついた。フィルムでは最低300本持ってそれだけで別の大きなスーツケースが1個必要だった。

今は32ギガのマイクロエスディーを2枚カメラに入れているだけだから、実際的な記録媒体の重さは無視してよろしい。

大理石のマントルピースの部分を見ていると、何かパンテオンの偉人のお墓の中にいるような気がしてそれも愉快である。
アジエの作品でこんな室内の部分があった。

2017年3月28日 (火)

レトロフォーカスのニッコール20ミリ

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パリにー到着
あつい。
もう夏時間か、、、
ホテルの部屋に立派な大理石の暖炉あり。
そのちぐはぐがパリのエスプリ。

1,950年代にニコンの一眼レフシステムができた当時1番の広角レンズは28ミリだった。21ミリはレトロフォーカス広角レンズの設計がまだできていなかったのでニコンエス型の21ミリをミラーアップして一眼レに突っ込んでそして補助ファインダーを使っていた。

まるでボディーキャップをつけたかのような戦闘的なデザインで私はそれが好きだった。東松照明さんはまだ復帰前の沖縄を取材してアサヒカメラに膨大な作品シリーズを掲載した時もメインのレンズはミラーアップをする21ミリだった。

それはともかくとしてあの時代のカメラ雑誌と言うものは十分に政治的であったことがわかって面白い。言い方を変えると政治的であるスタイルをとることが有効であったと言い直すことができる。

私は大学1年に入学したときにそのミラーアップするタイプの21ミリを手に入れた。それをニコンにつけたり手製のアダプタでライカにつけたりして延々と使っているのである。それは半世紀経った今でも使っているのである。
こんなことをされてはカメラメーカーはたまったものではないと思う。

winに滞在してきた1973年から80年の足掛け8年の間にも同じレンズを使っていた。でも時代は20ミリのレトロフォーカスになっていた。

winに当時住んでいた日本人の友人からその20ミリを貸してもらって使ったこともあった。でも20代後半の私のレンズの価値からするとミラーアップする 21ミリの方が線がストレートに表示されるがレトロフォーカスの20ミリの方がディストーションが結構出るのである。

それからさらに37 8年が経過してしまった。それでレトロフォーカスの今ではもうクラシックなタイプになってしまったレンズの前玉の大きい72ミリのフィルターサイズのレンズを手に入れたのは昨年のことなのである。

何か一眼レフファインダーで構図を確認するというやり方を過去何十年もしてこなかったので新しいレトロフォーカスのレンズでもわざとニコンをミラーアップにしてノーカインダで使っている。私は変わり者だ。

2017年3月27日 (月)

HND CDG 本日移動日


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2017年3月26日 (日)

バスの二階から

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winのバス路線で1番有名なものに13番のバスのLINEがあった。

これはwinの南駅からずっと北に向かって細い小路をうねうねと曲がって最終的にはwinの北西部に当たるアルザーストラーせまで行く路線である。

これが面白いことにダブルデッカーつまりロンドンと同じにかいだてなのである。 winの中高年の人に聞いてみると少年の頃にこのバスの2階席の1番前を占領してそこから移動していくwinの街並みを見るのが最大の楽しみであったと言う話をよく聞く。

ところが新しいメトロの路線ができたので輸送力は少し落としても良いだろうと言う旨当局の考えらしくて13番バスはあるがにかいだてから普通のつまらないバスになってしまった。
その異変に気がついたのは数年前のことである。

つまり今の中高年のwin人の懐かしい記憶はそのまま切断されてしまったわけである。
これは私の写真集のその当時つまり70年代のバスのにかいから見たワンショットだ。長い路線であるが最大の見所はここフィルム映画館というやつである。

看板がそのままミラになっていて街のスカイラインを写し込むのがなんとも素晴らしい都市風景である。

残念なことにここも映画館はやめてしまって今はそのまま看板を残してカジノになっている。だからフイルムカジノと言うわけだ。まず看板が完全になくなるかったのは許せるがそれにしても残念な次第である。
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2017年3月25日 (土)

パリのギャラリーの展示が気に入った

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中富士さんとの2人の展覧会が30日から5月の5日までパリで開催される。
ルイジからその展示の様子が送られてきてそれはおそらくiPhoneのパノラマでとられたようであるがなかなか感じが良い。

写真展と言うのは過ぎ去ってゆくものであるから、例えば1976年から77年にかけてヨーロッパを巡回した現代日本写真家展もそうだが、記録として残っているのは図録だけで実際には展示されたそのものと言うのは写真に頼る他は無いのである。

このワンショットはシャープではないが後々貴重なものになると思う。それで展示の第一印象であるがニューヨークのギャラリー291で展示された100年前の展示にすこぶる似ているのが良い。

日本は作品史上主義なのでマットに入れた写真を横一列に並べると言うのが普通である。それはそれでニートな感じがして好きなのだが、一方でこのように作品を塊として見せるという方法がある。数年前であるが中富士さんが企画した 神田あたりをテーマにしたグループ展では私が展示した写真は1つの塊のようにしたのである。

今回のパリでの展示は私が別に展示方法を指示したのではなくディレクターがこのように展示したのでこれはなんというか一瞬の以心伝心と言うやつであろう。

ギャラリーで写真を観察するときに通常、日本などでは視神経の運動方向が横方向なのであるがこの場合だと視神経がが上下に移動するのでそこにリズムが生じる。

映画の撮影テクニックでカメラを水平に振るパンニングと言うのが日本的な展示方法であるが、これはチルト、つまりカメラを上下に振ると言うのに近い。その方が視神経の刺激が複雑化してくるのである。そこが面白い。

今回のパリの滞在は短いのであるが、私はオープニングレセプションにはいちどだけ顔を出すが、後は自分なりの撮影の予定があるのでもともと人間嫌いであるからそれ以上はギャラリーには行かないつもりである。

思えば20代から定期的あるいは不定期的にwinからパリを訪問して膨大な写真を撮影した。その一部はツアイトフォトサロンの石原さんが40年近く保管してくれていた1連の膨大なパノラマ写真があってそこにはパリも含まれている。

今回のパリで私はスチールフォトグラフィーは止めにしてジョナスメカスの真似をしてムービーを撮るつもりだ。言い換えれば、「いかれる老人のパリの映画」なのである。
そのスタンスは言うまでもなくジョナスメカスと同じ映画の方法論である。

怒れる老人のパリのムービー。
これは言い換えれば
いかれた老人のパリのホームムービーと言うわけだ。

2017年3月24日 (金)

カメフレックスの旗

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フランスはパリで制作された亀フレックスは1,950年代から60年代のシネマヴェリテ時代の代表的なカメラであった。

サイレントカメラでは無いからスタジオで撮影するには大きくて重いブリンプが必要だった。
それは本体だけで70キロもあるのでとても手持ち等は無理である。もっともその時代の映画撮影は後から音声をレコーディングするのが普通だったらこれで問題はなかった。

亀フレックスは以前から欲しかった。何が面白いかと言えばこれは世界でも稀な 35ミリのスタンダード映画と16ミリの小型映画を簡単な切り替えてコンバッチブルに使えると言う点にある。
これが亀フレックススタンダード16 /35である。

10年ほど前に竹橋の国立近代美術館でブレッソンの展覧会があった時、ライカについての講演会をやった。その時にミュージアムショップで置かれている書籍を見たらその中にウィリアムクラインの本でその表紙がクラインが亀フレックスを構えている写真なのである。

クラインとはその数年前にプラハで彼のアシスタントめいたことをやったこともある。
亀フレックスを手に入れなければいけないと思った。これは社会主義的な政治問題といってもよかった。割と短い2年間位の間に数台の亀プレックスが手元に集合した。

プラハの中古カメラ店で大きなトランクに入った亀フレックスのアウトフィットを買ったこともある。これは日本に帰るときに飛行場に行くまでに大変苦労した。それ以前にプラハのアパートの6階までエレベーターのない階段を持ち上げるのでくたくたになった。

その数年後、パリ滞在しているときにウイーンに巨大な亀フレックスのアウトプットが出た。値段が安かったのでこれを購入した。

東京に戻った時マンションのエントランス荷物が山になっていた。
まずいことに私がパリから東京に戻るよりも早く亀フレックスのアウトフィットが到着していたのであったのである。

それでおかげで今では亀フレックスのフィルムマガジンとか細かい付属品等をほとんど持っている。
この背の低い奥行きのあるフィルムマガジンは本来アクアフレックスと言う名前の水中撮影装置の中に入れるものなのである。

でも1部のカメラマンはこのマガジンが正面から見るとロウプロフィールであるということでドキュメンタリー撮影にも利用した。

それでアウトフィット一式を揃えて部屋の三脚に載せたり下ろしたりして、この10年間遊んでいるわけである。こういう老後の楽しみがあるとは思わなかった。

エドワードスタイケンは晩年近くになって、自分の邸宅の庭を35ミリのアリフレックスでで1本の巨木を撮影したのであった。
彼のー真似をしたければ、私は目の前の流れる隅田川を撮影すればよいのである。
しかし実際にフィルムストックを撮影して、プリントしてスキャンすると言うのは大変であって隠居の趣味ではない。
手元のマイクロフォーサーズのデジタルカメラを持ってもっぱら映画撮影の専用カメラとして使っているのである。

ゆえに亀フレックスはおもちゃなのであるが、こういう贅沢な時代が来るとは私が若い頃には想像もできなかった。

真鍮のプレートで作られた精密な亀フレックスの銘板がすばらしい。
それはパリ5月革命の風を受けて翩翻と翻っている。

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2017年3月23日 (木)

鼻の黒い犬のような135ミリレンズが好き

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友達がメンションしてくれたウェブサイトで60年代から70年代の外国の有名人がニコンを持っている1連の画像を楽しく見た。
朝鮮戦争の時にデビットダグラスダンカンがこれから前線に行こうと言う前に東京でいちどに7台のライカを買ったと言うのでアメリカ人はお金持ちと言う印象があった。

それから時代が20年近く下ってもやはり外国人はお金持ちであって高いニコンを自由に使っている。

彼らの使っているニコンのレンズを見ると案外と望遠レンズが多い。
もっともこの種類の写真は随行しているパパラッチが大女優にちょっと自分の使っているカメラ思ってもらって撮影したと言うこともあり得るから注意を要する。

135ミリのレンズと言うのはデビットダグラスダンカンが朝鮮戦争を取材に行く時に持参したのが5センチのニッコールと13.5センチのニコールなのである。要するに戦争写真を撮る基本のレンズがこれなのだ。

だから135ミリは重要なレンズである。
1,970年代の初頭にカメラ毎日の編集部の後に編集長となった山岸さんは影響力のある編集者で俗に山岸天皇と呼ばれていた。
その山岸さんから聞いた言葉だが、先週高梨豊さんが来て135ミリのレンズが面白いと言っていたがそんなことは俺は関係ねえーーと啖呵を切っていらした。

私は高梨さんの135ミリレンズの面白さkと言うのはわかるがトップクラスの編集者であってもそういう写真家同士がわかる息遣いと言うのは理解していないようだ。というよりそれを理解したらもはや編集者ではなくなってしまう。

135ミリのニッコールレンズの一眼ようでやはり明るさがf3,5がベストである。明るさが2.8のレンズは大きくなるし、さらに明るさがf2では大きすぎてピントのずれたアマチュアさんの女性ポートレート撮影レンズになってしまう。

135ミリのレンズで初期型が私は好きなのだが、それもレンズ存在の理想としてはものすごく使い込んでいてグリスが切れていてスカスカの状態のやつが1番良い。

そういうふうに40年代信じてきたのだが、最近手に入れたこの135ミリのレンズはそれとはちょっと趣が違う。このバージョンがレアかどうかは知らないが、このレンズが1番前の枠までがブラック加工されているやつだ。

何か鼻の黒い犬という感じがしてそれがかわいい。マルチコーティングだから結構後期に作られたレンズであると思われる。

2017年3月21日 (火)

ニッコールの初期モデルの20センチのレンズフードについているポチがわからん

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小学校の3年生か4年生の頃に冬の日光に父親といったのである。その時は私はペンタックスを使っていた。

華厳の滝は凍っていた。東照宮の眠り猫の前でペンタックスで写真を撮っていたらどっかのおじさんがやってきてボストンバッグから出したのがクロームのニコンエフとニッコールの20センチなのである。それがすごくかっこいいと思った。
大人になったらああいうカメラとレンズが欲しいと思った。それで今そのようになってさらに何十年も経過しているのである。


眠り猫の前で外人の観光客が父に何か英語で聞いていた。父はおぼつかない英語でそれに対応していた。私が父親の英語を聞いたのは前後この1回だけである。
それでも何とか意味は通じたようであった。


ニッコール20センチの伸縮式のレンズフードの表面についている銀色のポチが何十年来の謎である。
レンズフード伸ばしたときのロックボタンなのかと思ったがそんなロックは付いていない。

デザイン上のアクセントとしてこのポチをつけたとしか考えられないのである。
40年近く前アメリカのモダンフォトグラフィーの特派員をしていた時に当時のニコンのトップクラスの人と会食する機会があった。

私はこれは絶好の機会だと思ってくだんの20センチのポチについて質問をしたのがやはり会社のトップもよくわからないようであった。

でも私の好きなレンズにそのようなそれが何であるのかわからないようなものがついていると言うのは、それなりに楽しみなものなのである。

CT70計画 雪のザルツブルグ

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CT70計画
6月10日土曜日の午後5時から四谷のJALシティーホテルであたしの写真家生活50周年のイベントである。

大昔に日大写真学科の渡辺義夫先生が、これはやはり写真家生活半世紀であったと思われるが、そのパーティーを帝国ホテルの大広間で開いた。
われわれは皆まだひよっこであるからいっか所に若い連中は固まっていた。

そのひよっこのメンバーが篠山紀信さんとか大倉瞬ニさんとかさらにくだって、あたしなのだからいかに大昔であるかがわかる。
その会費の30,000円の調達は苦労体験だった。
これは当時の日本写真家協会の年会費とほぼ同じなのである。

地球が何十回か空回りして、今度は私の番になったと言うわけだが、こっちの方は会費は安いので皆さんおいでいただきたい。
といっても定員は40名様なのである。そこで特製の写真集をお土産で差し上げると言う仕組みである。
そのプリントは私が注目している写真家加納満さんが担当してくれる。だから私のプリントよりずっときれいなはずである。これも楽しみだ。

これは1,970年代半ばに撮影されたと思われる、ザルツブルグの雪景色だ。
真ん中の山がザルツブルグのお城であって、私が立っているとこはホーヘンザルツブルグと言うお城でそこにザルツブルグカレッジがあった。
映画サウンドオブミュージックの撮影の舞台になった場所であるが私は映画は見たことがない。

ザルツブルグの旧市街からザルツブルグカレッジに来るのに地上の道を通ると結構遠回りなのである。それで私は若かったからザルツブルグの旧市街つまりゲトライデマルクトから祝典歌劇場の脇の急な坂をお城の上まで登るのである。
そこから急な石段を下で降りた平原がここと言うわけだ。

一面の雪景色というのが私には非常に珍しくてほんとにこんなところにいたのだろうかと、未だに半信半疑である。しかもそこにステッキをついたいかにも映画の主役級のしとがこちらに向かって歩いて来るである。

写真と言うのは夢を定着したものでは無いかと本気で考えてしまう。

でも当時使っていたカメラはソ連製のコンタックスであるキエフと、ソ連製のオリオンと言う名前の28ミリの広角レンズであった。
後年、ザルツブルグカレッジで日本からやってきた吉村朗が興味を示したので彼の持っていたミノルタと キエフを交換したこともあった。
吉村はそのキエフで彼の優れた1連の作品を撮影したのも記憶に残る次第である。


2017年3月20日 (月)

パリで写真をめくるベレー帽のしとが

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パリのギャラリーでの写真展が接近してきた。同時展示の中藤さんは家族ぐるみでパリにいかれるそうである。ファミリーパパは偉いなと思う。アパルトマンもパリにに用意したそうだ。

プロモーションようにインビトウィーンギャラリーのルイジがアップした短い映像がなかなか良い。これがそれだ。

どなたかは知らないがメガネをかけたベレー帽の男性が私のプリントを見ている。短いフランス語のメッセージも録音されている。

モノクロの映像なので何かフランスレジスタンスの映画を見ているようである。

ベレー帽に私が反感を感じているのはベトナム戦争時代に大量虐殺をしたアメリカのグリーンベレーの連中がいた。これはネガティブである。日本だと何か文化人志向の人がベレー帽被ると言う風潮が大昔にあった。これもいただけない。

このベレー帽の人がそういうベレー帽の私のネガティブなイメージを一掃してくれた。そこが良い。

映像には音声が付いているのでギャラリーストとのやりとりのようなものがあってフランス映画の1部を見ているようだ。ここら辺が我々のコンプレックスですね。映画はやっぱりフランスで 言葉はフランス語でないといけないというわけだ。しかし宗主国であったフランスに対してベトナムはそのようなコンプレックスは無いであろう。
ベトナムにとってフランスは戦うべき相手なのだ。デイエンビエンフーを見ればそれがよくわかる。

ベレー帽の男性の写真のめくり方が我々極東とちょっと違うのも面白い。
裏返しにしたプリントを正面に据えるのである。

写っているのは1966年当時の羽田空港である。ボーイングの727である。この後の搭乗口から五木寛之さんが乗るところを高梨豊さんが撮影した。

写真をめくっているパリジャンは私には何となくロベルドアノーのように見える。そこら辺もパリが写真文化国であることがわかる。

2017年3月18日 (土)

CT70計画1 老人の花束

Pict0262CT70計画というものが発足した。

私の70歳になった今年を写真家としてスタートした半世紀というふうに捉えて、周囲で何かやろうということになった。 それの第一回の打ち合わせが昨日木曜日の夜にあった。
準備委員会のメンバーはガラクタ屋二代目さん、らあぱぱ本部長さん、そして写真家の加納満さんである。 内容はすでに決定して6月の10日土曜日午後5時から四谷のホテルJALシティーで勇士を集めて私のトークもちょっとやって飲食して未発表のwinの70年代のモノクロの写真集をお渡ししてシャンシャンというわけである。
詳しいことはこのブログそして我楽多屋さんのホームページなどで告知するのでみなさんぜひお集まりいただきたい。 生前葬のつもりだぞ。 CT70最高幹部会いうのは大げさだが、このトライアングル3人衆にウイン時代の未発表のモノクロ作品を所望された。
しかもありがたいことに私が注目している写真家加納満さんがプリントをしてくださるそうだ。 それで大昔桑原甲子雄先生の写真展のプリントを荒木さんがしたことを思い出した。世代が巡るというやつであろう。 そのプリントはこの夏にギャラリーニエプスで展示するという計画もあって出版する写真集のイントロは中藤さんがが書いてくれると言うことになった。 まことにありがたい次第である。
それで大急ぎで大きなトランクの中からウィーン時代のネガを一掴みつかみ出して、それを宅配便で送った。これは実にアトランダムな作業であってそこには私の意思は働いていないのだ。 私の写真のセレクションはそれがポイントであって今回のパリの東京1966の写真展でもネガは意図的に選んでいない。私の体が無意識につかみ出したネガからセレクトした作品シリーズと言うことになる。 50枚と思っていたが数えてみたらネガの数は43枚だった。まあそれはそれでよい。 だから私がここにアップした写真がそのまま写真集に掲載されるという訳では無い。
それで 1回目は既に撮影したことも完全に忘れていた初老の男性が大きな花束を抱えているショットである。ロバートフランクの戦後のパリ滞在の作品で無名戦士の墓に花束を捧げる数人の男性の作品をちょっと思い出したのである。 若い男性が花を持っていると恋愛関係のベクトルが感じられて微笑ましいが、中年以降の男性が花束を抱えていると無名戦士の墓に詣でるレジスタンスという感じがしてまた別の趣がある。
若い男性の花束は個別な異性への愛情であるが、老人の持つ花束は人類全体への愛ということであろうか。

2017年3月17日 (金)

😎お知らせ❤️

次回のチョートクカメラ塾は3月22日水曜日の配信です。
テーマは

チョートクカメラ塾2017032

デジタルカメラのフォーマットの選び方とアナログカメラのフォーマットの選び方は本質はかなり違う

遊ぶムービー 使うムービー

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マンハッタンの怪人調整さんによると「ダブル8をドアストッパーにしないための市民の会」というのをフェイスブックに作ってもうすぐ半年になるそうだ。

完璧なプロフェッショナルで最先端の仕事をしていた調整さんがいきなり70年も時代が昔のダブル8の優雅さに気がついて、しかもそれで作品を作ろうと燃えているのにはびっくりした。

それで目下大雪の警報が出ていたニューヨークで撮影中のダブルエイトのカメラを構えた調整さんの勇姿がこれなのである。
調整さんがすごいのは実際にダブル8を各種テストをしてようやくキヤノンのカメラに行き着いたという点にある。

私などはめんどくさがり屋なので手元にダブル8がたくさん集まってきたが、それは部屋の中でスプリングを巻き上げてカメラを回転させて遊ぶためのおもちゃなのである。
実際にはオリンパスの数年遅れのデジタルカメラをムービーモードにしてムービーカメラ専用機として使っているのだ。これはなかなか面白い。

初期の手回し式の35ミリの標準映画撮影機の場合メジャーなレンズは50ミリのテッサであった。これは4マイ構成だから私が今使っている3枚玉のトリプレットと言うのは映画撮影機も歴史でもそれほど例がないのかもしれない。

そして不思議な描写をするのである。

メトロのパリ フォカフレックスのパリ

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1,970年代はwinに住んでいた。
それで私はアジエの信奉者であったから、時々木製の大型カメラと木製の東ドイツ製三脚を持ってwinの西駅から夜行列車に乗ってパリに行った。

パリでの定宿がパリの五区のムフタール街であった。ムッシュイヘイキムラがよくとっていた下町である。 1泊23フランの安宿であるが今思うと何か懐かしい。

ホテルの近くにいつも行くカフェがあって撮影の行き帰りにはそこでカフェを立ち飲みした。その店の隣が小さなカメラ店があって、小さな雑多なカメラがガラクタ屋さんめいて詰め込まれていた。それを見るのも楽しみだった。

その中にこのカメラつまりフォカフレックスがあった。これは結構複雑な構造のレンズシャッター式の一眼レフなのである。そのイラストの断面図などを見るとあまりに複雑で頭がこんがらかってきそうだ。

でもそれから何十年後かにフォカフレックスを手に入れて日本カメラの雑誌の連載でも発表したことがある。50ミリレンズで固定式だが発色は良かった。

何年にもわたるパリの撮影で最後に訪問した時は確かパリのメトロをモノクロのライカで撮影した。それを当時のアサヒカメラに9ページから10ページ発表してもらった。

タイトルは「メトロのパリ」にした。これは地下鉄のザジのまねなのである。ところが編集部は頭の良い人が多いから、これは間違いで「パリのメトロ」であろうと考えてくれて発表された紙面にはパリのメトロとなっていた。そんなことも何か懐かしい。

だからこのカメラもパリのフォカフレックスではなく、「フォカフレックスのパリ」としたいわけだ。

2017年3月15日 (水)

カーボンペーパー会社はなぜ破産しないのか??10枚入りを25年前に買った。あと二十五年は使える。私はー95歳。

カーボンペーパー会社はなぜ破産しないのか??10枚入りを25年前に買った。あと二十五年は使える。私はー95歳。

万年筆が大ブームのようである。カメラ雑誌の名編集長だった清水さんなどは最近は文房具の雑誌が忙しくて日本中飛び回っている。カメラの本は既に忘れられた感じだ。

うちはじいさんが小規模な万年筆製造をやっていたスプリング万年筆といった。
昭和30年代初めには日本橋の高島屋などにパイロットやセイラーと並んで売り場があった。でもそれも大恐慌でなくなった。不渡り手形と言うのにやられたのである。

実家が万年筆メーカーであったので私は万年筆は使わない。趣味の万年筆は結構だがあれはアナログの道具なので私のように仕事で文字を入力する人間には向いていない。

入力したものがそのまま転用する方法でないとダメである。
カーボンペーパーとか大和のりとかステンぺらーと言うようなものは日常生活には全く使わない。使うのは、毎年今頃に面倒な書類を提出する時だけだ。

25年前に月島の商店街の虎屋と言う小さな文房具店でカーボンペーパーを買った。10枚入りである。それを毎年1回だけ使っているのである。
25年経過したがまだ新品同様である。
あと25年は使えるであろう。
私は95歳になっているはずだ。

カーボンペーパーの会社はなぜ倒産しないのか?
これが不思議である。


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iPhoneと大きさがほぼ同じルーペ

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私は老眼になったのは同世代の連中から比較するとかなり遅い方である。周りの連中が手元が見えないとと騒いでいた時に私は手元のものを細かいところまで読めた。

しかし今年70になるとなるとそんなことも言っていられなくてやはり手元があまりよく見えなくなった。
iPadを使っていると老眼のわれわれは便利である。小さいものはスクイーズして大きくすればいいだけのことだ。ところが困るのは確定申告の書類等である。あれは国が老人をいじめるために作ったとしか思えない。しかも印刷が薄くて文字が小さいのである。

10年前にアサヒカメラの連載で「還暦からの写真楽入門」と言うのをやった。それはそのページだけ文字の級数を大きくしてもらったのである。

だからその連載の内容はともかくとして文字が大きいので人生の先輩連中からは大変喜ばれた。その後アサヒカメラは外部に編集を委託したのかどうか知らないが、そういう勝手なことができなくなってしまった。これは残念なことである。

iPhoneの最近のモデル、、、何と言ったっけiPhone 6でしたっけ、、あれがあたしは大嫌いである。
あの中途半端な大きさにアレルギーを催すのである。

iPhoneも最初の世代から使っていた人間にしてみるとあの大きいのが嫌なのだ。
それで知恵を巡らして小さいほうのiPhoneと同じサイズのルーペをiPhoneと同時にポケットの中に入れている。これはすこぶる調子が良い。

かなり細かい文字でも楽々と読み取ることができる。そうすれば私の今やっているカメラ日記などもiPhoneで入力ができるわけであるがやはり面倒臭いので、従来の通りiPadの普通の大きさのを使っている。
しかし時代は便利になったものである。

2017年3月14日 (火)

アーロンチエア 座り続けて四半世紀

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佃島に暮らして四半世紀上になる。六本木ヒルズの49階に仕事場はちょうど10年間持っていた。
佃島でも六本木でも座り続けていたのはアーロンチェアである。


2001年から3年分の佃日記などを見ていると佃の部屋でほとんど1日中これに座って仕事をしていた。そうなると一瞬のタイムラプスの効果が生まれて、今登った太陽がすぐに南中して、さらにすぐに日没となるのである。

こんなことが体にいいわけがないからつとめて東京やヨーロッパを歩くようにした。

アーロンチェアは四半世紀経過しても私の椅子は別にどこも悪くなっていない。パーツも壊れていない。しかし最大の謎というものがある。アーロンチエアの謎である。

アーロンチェアの肘掛けが実に謎だ。1日中座っていると肘掛けに大変な体重がかかるようである。だから10日位のインターバルで肘掛けを1番上の位置に固定して力いっぱいネジを締めておく。ところが数日後に見ると肘掛けは自然に下のほうに下がっているのだ。

それでまた上に引き上げて締め付けておくのだが2日後に
また下がってくるのだ。これは構造上の欠陥と言うよりも何か本来そういう性質のものなのではないかと思う。

それでアーロンチェアに長く座り続けている人の意見を聞いてみたいのだが、残念ながら私の周囲にはそれほどアーロンチェアのユーザーが多くない。

それでいまだにこの1件は謎のまま解決されていない。


2017年3月13日 (月)

ひだりてでらいかがもてるありがたさ

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Facebookで2年前の今日の投稿を見ていたら左手が激痛で大変な目にあっている。

でもこの年はその春5月にパリに、9月にはカサブランカに行き、そして11月にはリスボンに行っている。
一昨年の5月のパリでは左手は全く使えなかったので移動中のカートを引くのも右手だけであった。それはそれでヨーロッパでは良いのだが、日本でメトロのエントランスに入る時などは、まず右手でチケットを入れて右手でカートを引き、さらに右手でチケットを取ると言う連続的な複雑かつ面倒な動作があった。

ヨーロッパは私のように例えば左手が不自由な人間に対しては、非常に親切でまずシャルル・ドゴール空港から北駅に行く途中でも向かいに座っていた若い奴が荷物をおろすのを手伝ってくれたし、スーパーマーケットでもキャッシャーが買ったものを袋に入れるのを手伝ってくれた。非常にありがたい次第である。

その当時は左手はもう使えなくなるのではないかと思っていたし、左手で軽いものでもいいから下げて歩けるんだったらいいなと思っていた。それが徐々に回復して9月のカサブランカに行った時はなんとか左手で軽いものは持てるようになった。

そして一昨年の11月のリスボンではスーパーイコンタで撮影をしたのだが左手も不自由ながら何とか補助をできるようになった。

今はありがたいと思うのはライカを左手で持っていることである。
小型カメラと言うのはまず利き手の右手で操作するものだが、ちょうどキャッチボールのように右手と左手そして左手から右手にカメラを移動させると全体の撮影のテンポというのが非常に調子よくなるものだ。

だからおととしの5月のパリでの撮影ではニコンのレンジファインダーのフイルム交換の時にはパリのそこら中にあるベンチにとりあえず腰を下ろしてそしてベンチの上にカメラとフイルムをおいてゆっくりフイルム交換をした。

今ではそういうことをしないでいいほどに回復したのはありがたいが、振り返ってみるとあのフイルム交換の仕方というのは、一本の写真を撮った後にそれを思い出すという意味で結構重要な儀式であったように今更ながら思われる。

だから今月末のパリではフィルム交換はあの時と同じ様にやってみたいと考えている。

2017年3月12日 (日)

マンハッタントランスファー

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ロックユーと言うのは、レコードジャケットをイメージしてそのカバーとレコードの真ん中のレベルに自分の写真を貼り付けて展示すると言う企画展で京都と東京展が終了した。なかなかの話題性があった。

そのトークショーがこの前の土曜日にあった。司会者の方はなんととんねるずのデビューレコードの写真を撮ったので聞いてびっくりした。

人材が広いと言うには幅広すぎてそれがすごいことだと思った。ロックユウは今回第一回として続けて行けたら面白いと思って整理ーさんにお願いした。

出品したレコードのそのうちの1つがこれである。ニューヨークのマンハッタンはSOHOに住んでる時にロフトから郵便局に行くのに道を出て最初にこのカフェの前を通ったのである。

その郵便局は今ではApple Storeになってしまったと言うのも皮肉だ。郵便とEメールの位置関係がそこに象徴的に示されているからである。

それと住んでいるところにあまりに近いカフェバーにはいかないものである。佃の近くにあるマンションの物件のパンフレットの仕事をして近くのバーに取材に行ったこともあるがその時はその時で話は弾むがそれはおざなりになってしまってその後1回も行かない。

吉田健一が飲み屋の話で書いていることであるが、酒飲みと言うものは自宅から1分や2分で行けるようなバーにはいかないものである。要するにそれはおうちバーの延長だから嫌われるのであろう。

このレコードジャケットは私が中学生か高校生だった時に好きだったボーカルグループ、マンハッタントランスファーのタイトルをそのままもらった。

ディレクターの腕の冴えてレベルの丸い方にはわんアワーフォトの鏡に映った私のセルフポートレートを使ってもらった。要するにレコードジャケットにしろポスターにしろ重要なのはアートディレクションで写真家の腕はあんまり関係がないという事はこれを見ても明らかである。

2017年3月11日 (土)

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iPadのOSにはベッドタイムと言うものがあってもう寝たほうがいいですよと言う時間を教えてくれる。しかしこれはどうも面白くない。

それで私が使っているのはフライトレーダー24である。羽田発シャルル・ドゴール行きの293便をウォッチしている。

飛行機の運行であるから多少の遅れがあって最大1時間位遅れたりすることもある。でもそこら辺のいい加減さが人間のバイオリズムには合っていると思う。
それでこのように293便の飛行機の航路を見て寝る前に楽しんでいる。どういう加減なのか知らないが今の季節だと南に離陸して三浦半島から相模湾に出てそこから北に海岸線をつける。

そのルートが微妙に毎晩異なっていて1番東寄りだと江ノ島あたりで1番西だと相模川のあたりから北に入っていくのだ。航路上のいろいろな都合があってそのようになっているのであろうが、それを見るのも楽しみである。海岸線のあっちこっちには友人知人がたくさん住んでいるから、今日はあいつの頭の上を飛んでいるななどと想像できる。
そして北上した293便は私の寝ている佃のベッドの近くまで来るのである。

直線距離にして50キロメートルを切るぐらいだからこれは航空路で考えてみると、飛行機が家の玄関まで来たような感じがする。

なんでそんなことを考えたのかと言うと数ヶ月前にレンタルダークルームのアウラ舎で知り合ったパリジャンがマンフレッドと言って、エールフランスの副操縦士であるからだ。
これは人生上の貴重な出会いである。何かアントワーヌ ド サンテグジュペリが友達になったようなもんだ。
フランス人なのにドイツ人みたいな名前で変ですねと言ったら、彼は父親がドイツ人なんですと笑っていた。
知り合いがコクピットに座っているかもしれない想像力というのはなかなか楽しい。

2017年3月10日 (金)

コンタックスのトリオターをルーペに


ジェームスジョイスは大昔の人だと思っていたら、ある時、カラー写真があったので非常に驚いた。

意味もなくeBayで品物を買ってダブリンから送ってもらったりしたのは20年ほど前である。
こういう風変わりな趣味、すなわち、尊敬するアーティストや作家の関係している土地から品物を送ってもらうと言うのは私だけではない。
BMW野々宮などもそれをやっていてボリューのダブルエイトのカメラをわざわざリトアニアのビルにゅすからかったりした。

その珍しいジョイスのポートレートであるが、メガネをかけたジョイスがさらにルーペで細かい文献を読んでいるカラー写真がある。
これには知的な飛躍感が感じられて非常に良い。

普通のイメージは老人が、天眼鏡でスポーツ新聞を読んでいるという感じなのである。これでは話にならない。

、私は手元にある適当なルーペを使ったりしていたのだが、戦前のコンタックス用のトリオターン8、5センチのレンズが手元にあってそれをカメラバックに入れるのを忘れていて、机の上にあったのでそのレンズをルーペの代わりに使ってみたら非常に塩梅が良い。

それでトリオターは撮影用レンズの任務をちょっとはなれてずっと仕事机の上に乗っているわけである。
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2017年3月 9日 (木)

潮田登久子さんの個展とPGI

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潮田登久子さんの個展が現在東京の3カ所で同時に開催されている。当時多発テロは願い下げだが同時多発写真集展は大歓迎である。
そのうちの1つ東麻布のフォトギャラリーインターナショナルの個展の初日にお伺いした。

私は人付き合いが悪いせいでこういう展覧会にはほとんど行くことがない。だから私がいったと言うことが珍しいと言うので噂になったりするようである。
これは人から聞いた。

潮田さんは新しい写真集を出版なさった。タイトルをビブロテイクと言うのである。この20年ほどに各地で撮影した本の風景を自分の芸術に昇華したものである。
その仕事の厚みがすごい。

私などでもwinの王宮のナショナルビブロテイクとかポルトガルはコインブラの大学図書館を取材したことがある。でもそれは単なる取材と言うことであって潮田さんの場合はビブローテイクを自分の世界にしてそこに住んでいると言うこと凄いと思う。それとビブロテイクの存在する空間が極東であるからラフカディオハーンのレアなちりめん本などを題材として扱っているのもすごい。

だから今回の潮田登久子さんの仕事を拝見して1番私が強烈に感じたのは西欧文明と同時にそれが置かれている極東の風景と言うものであった。ここら辺は西欧人の知識関連では撮影が不可能なものなのだ。

フォトギャラリーインターナショナルは思い返せば1984年の1月から2月にかけて私がマンハッタンで撮影した 8 × 10の作品を展示していただいた。指折り数えればもう33年の昔なのである。

今の新しいギャラリーには一昨年の秋からだそうだが東麻布のなかなか閑静な場所にある。すぐ隣が野田岩の別館だったりするのも奥ゆかしい。
ギャラリーのある建物はオートロックなのでメインのエントランスを開けてもらうと言うのも気にいった。ルイスヴァルツのサンクエンティンポイントをマンハッタンの57丁目のギャラリーに見に行った時もやはりギャラリーはオートロックであった。いやあの場合はアポイントメントオンリーであったような記憶もある。

展示している写真がクオリテイが高いので非常にびっくりした。聞けば専門家にプリントしてもらったそうである。写真そのものを自分がプリントするかそれとも専門家に依頼するかは、これは写真家本人の世界観の問題であるから私は全然問題がないと思う。

同じタイトルの写真集が非常によかった。業界の用語で言えば。丸背でかがりとじである。
これも印刷が非常に良いがその理由は印刷された用紙が異常に高級なものであることだ。
潮田さんにそのことをお伺いしたらとにかく 1番高い用紙を使ったそうだ。その効果はよく出ている。

写真家の仕事のスタイルは写真展に特化する人と、写真集に特化する人に分けられると思う。潮田さんの場合はもうキャリアが長いからそこら辺のバランスをよく知っていらして、両方に均等に力がかかっていると言う感じがする。ある意味これは非常にうらやましいことである。

このシリーズはブロニカエス2の75ミリと50ミリで主に作成されたと言う。
それで私の脳内のブロニカブランドがストップ高になってしまった。
写真展は4月28日金曜日まで開催。

フランスから中身の入っていない封筒が届く


このところダブル8-8ミリの研究に勤しんでいるのでカメラ本体よりもレアな当時のカタログ等を収集している。
それでフランスからカメックスのカタログが出品されたのでそれを落札した。

書留郵便で送ってもらって開けてみたら封筒だけで中身は入っていない。もっともカタログを保護するための厚紙は入っていた。非常に皮肉なことであるがすぐにクレームを入れた。

このセラーのフィードバックを見ると結構クレームが多い。品物を送り間違えたりしているようである。

それで思い出したのは島尾伸三さんのことであった。

1970年の終わりに私がwinに滞在しているときにオーストリアのグラーツで若手写真家のグループ展を企画した。それで日本の島尾さんに取りまとめを頼んでプリントを送っていただいたのである。そのプリントがwinに到着してびっくり仰天。

なんとーパッケージの表面に貼り付けた宛名シールだけが届いたのだ。あの時は本当にびっくりした。要するに真面目で確実な方法をいつもやっている島尾さんが、何かの弾みで接着力のあまりない粘着テープで梱包に宛名をー貼り付けたのである。

それで1万キロの距離を郵便物が旅する間に写真の入ったパッケージの本体と宛名ラベルがバラバラになってしまったのだ。それで宛名ラベルだけが届いたわけである。

その時は丁重に島尾さんに謝って確かもう一回プリントを制作していただいて送っていただいた。
というのはその展覧会を開催した記憶は私にあるからだ。

東京とヨーロッパはこうしてみるとネットならすぐだが、物が移動するのはやはり 10,000キロあると言うことがわかる。

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2017年3月 8日 (水)

パテの雄鶏を探して

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かのルミエールが最初の映画術を発明して世界をー驚かせたのと、シャルルパテ兄弟が映画術で世界に映画撮影を広めたのとはそんなに時代がが異ならない。

パテは20世紀に一世風靡してヨーロッパ中に雄鶏のマークを看板に付けたパテキノと言う映画館がそこら中にあった。
でも彼らのビジネスの最初の部分はやはり艱難辛苦の連続であったらしい。例のエジソンの蓄音機をフランス中のお祭りなどに持ち歩いてお金をとって機械の音を聞かせると興業が当初のパテの商売であった。

パテが映画産業で成功すると次はそのコンテンツを独占しようと言うので、いろいろな映画を作りそれを世界中の映画館で上映することになった。

その過程を見ていると何やら今のIT産業とそのコンテンツの大戦争とに似ている感じがして面白い。

稲垣タルホが好きだったのは 9ミリ半のフィルムを持つアマチュア用のパテbabyであった。タルホが東京にいた頃には中村パテー商会と言うのは存在したであろうが、何しろタルホにはそんなものを買うようなお金のゆとりはなかった。

それであっちこっち断れたエッセイ集を戦後ユリイカの伊達得夫に出してもらうことになった。これは500限定の白い本であって、今では稀覯本になっている。

私も苦労して10数年前に1冊手に入れた。その表紙であるがフランス装でフランス語の表紙の本だからちょっと見るとフランスの本にしか見えない。

そしてパテの雄鶏が時を告げているのが表紙の真ん中に印刷されている。なんでもタルホの親しい大学生が苦労してこれを探し出してくれたのだそうだ。今のようにインターネットでフリー素材が選べる時代ではないから大変な苦労だったと思われる。

戦後になってパテー株式会社はプロアマチュア向け16ミリの撮影機を販売していた。その宣伝が非常に面白くて当時の有名なハリウッドの映画スターがパテーを構えてにっこりしていると言うそういう広告なのである。一体どうやってこういう広告を制作したのだろうか未だに謎である。

私は趣味で当時のパテーのカタログとか広告集めているのであるが、そこに一貫して流れている広告のポリシーと言うのはパテーの16ミリカメラの撮影風景と言うのはどこか悪者めいているというところが好きだ。言い換えればフランスのレジスタンス的なのである。
要するに反体制ドキュメンタリーを制作中と言う感じなのである。

この写真でお分かりになるようにパテーの16ミリカメラと言うのは映画が登場した最初の頃のカメラシステムを忠実に守っているようなところがある。

だからカメラ本体の上に120メートルのフイルムを収蔵する巨大なマガジンをつけたり、カメラの前に巨大なベローズをつけたりするから、本来小型軽量なカメラであるにもかかわらずフル装備になるとまず手持ちは不可能と言うようなすごい格好になる。

winに7年半過ごした時にwinのマリアシルファ通りにムービーセンターと言うプロ用の機材を扱っているお店があった。そこのウィンドーにこれと全く同じシステムカメラとしてのパテが飾られていてそれがあまりにかっこいいので私は散歩の途中に必ずムービーセンタまで行って、それを鑑賞して戻ると言うのが日常生活の1部になっていた。

別の例をあげれば桑原甲子雄先生が日本橋十軒店(じゅっけんだな)のライカの輸入代理店の前にそこに飾られているクセノン50ミリef 1.5のついたライカをためつすがめつ眺めたのと同じことである。

カメラにはそのような物神、つまりものが神と化すような要素が本当に必要であり、それがまた魅力なのである。
今のデジタルカメラは高性能でまことに結構であるが、そういうアニミズムの崇拝対象としての魅力には全く欠けているのがつまらない。

2017年3月 7日 (火)

ルミエールという名前のグリップ

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Facebookで大昔のダブル8-8ミリカメラの愛好会を作った。

それでメンバーがそれぞれに興味のあるカメラが違っているわけだが私はフランスのパリのカメックスと言うカメラに興味があってそれを集めている。

しかし今のデジタルカメラが1年に何度も新製品を出すのとは異なり、カメックスの会社が9・5ミリと8ミリを制作していたが、その種類は非常に少ない。まずこれが本物のというか60年代のカメラメーカーの本来あるべき姿であろう。

それでオークションで見ていたら既に挿入しているのと同じカメラが出ているのだけれど、そこに付属しているクリップがすごく気になった。そのカメラはフランスのナンシーのセラーが持っているやつで100円落札して数日でカメラが届いた。私のような病気になるとカメラ本体よりも付属品に対して欲望が行くのだ。

興味があるのはそのハンドグリップである。アルミの削り出しであって中は中空になっている。3つで構成されているその3分の1下のほうはネジで外することができる。
すべすべした作りで何か稲垣タルホの「少年愛の美学」あたりに出てきそうな円筒形のオブジェである。

これはカメックスを製造していたエルクサムという会社のものではなくて、サードパーティー製のもののようだ。そのブランドを見るとルミエールとあるのでこれはパリのエスプリだなと思った。

1,950年代後半に木村伊兵衛がフランスに撮影旅行に行った時にいろいろな当時の著名な写真家に会っているがその中にロベール ドアノーがいた。木村伊兵衛と会ったときの挨拶が「今日はルミエールがいいね」と言うのである。

これはフランス語の通常の挨拶なのか。それとも写真の特別な挨拶の言葉なのかそれは知らない。

それはともかくとして、ルミエールのことを話題にするというのはとてもしゃれていると思う。

月末は私もパリなのでパリジャンと挨拶にルミエールのことを話題に出してみたいと思うが、、
さて、、、
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ペンタコン人民公社のカタログ

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東西のドイツが合併してもうすぐ30年になるわけだから、東ドイツの時代の街並みを覚えている人はもうそれほど多くはいないに違いない。

1,970年代の半ばごろに私は東ベルリンによく行った。今の東西ベルリンは壁がなくなってからその個性が希釈されてしまった。
つまり赤と白のペンキが大きな浴槽に入っていてその仕切りが外されてかき回されたので全体がピンク一色になってしまったわけである。これが面白くない。

東ベルリンで印刷された本は海外にも輸出されて優秀な印刷と定評が高かったが、国内で使用されているポスターとかカタログなどはあまり質の良いものではなかった。全体の色合いがさえないのである。

東ベルリンの町並みを歩いて色のさめたポスターなどを見ると私はそこにそぞろ東ヨーロッパを旅していると言う旅情を感じたものであった。
当時ソ連が主導するコスモノートの宇宙探査計画で東独出身の宇宙飛行士がその計画に参加して国民的英雄になっていた。

そのポスターが東ベルリンの街のあちこちに貼られていたが、少し時間が経過して、これが見事に退色しているのである。赤のインクが弱いようでフェードしたポスターは黄色と青が基調になっていて何か不思議な感じであった。
それをフォトジェニックだと思って私は当時はまだ存在したコダクロームを装填してエキザクタなどで撮影していたのであった。

このダブル8のカメラは1,950年代終わりに当時最も進んだ技術で作られたものでペンタフレックス8と言う。日本ではちょうどにニコンエフが登場した時期で同時代的なのだが、私は当時のアサヒカメラでこの新型の8ミリ撮影機の紹介記事を読んでびっくりしたものだった。

私が四半世紀澄んだプラハでこのカメラをプラハのカメラ店で見つけた。チェコはチェコ製のモノクロの8ミリフィルムもまだあるのでそれでちょっと映画を撮っていたこともある。

カメラは市場ににわりと現れるが、カタログが滅多に出ないのだ。

それでようやく登場したのを入手した。このようにオンラインでうつしてしまうと結構派手に見えるが実際にはくすんだ色合いのカタログである。
カタログは正方形であってかつてのライカとかかつてのニコンと同じフォーマットだ。表四の左下の角に印刷された年代と擦った部数が小さくプリントされているのも特徴である。

二枚目の写真の東ドイツの美女がマスゲームの旗を手にしてニコニコしているというのも、いかにも健全な東ドイツの体育文化と言う感じがする。

2017年3月 6日 (月)

ベニスで買ったカボチャのスープ入れ

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小瀧さんが今ベニスで作品制作中である。
カーニバルは私などは撮影する気はないがその後のあっけらかんとした早春のベニスは好きだ。今がミモザの花の盛りであると言う。私が長く暮らしたwinはずっと北だからミモザの花は咲くのがもうちょっと遅い。ベニスは南国である。

部屋の隅のほうにかぼちゃのスープ入れがあるのを思い出した。
これは1981年にベニスに行ったときに買ったものである。サンマルコ広場のすぐ裏手の古道具屋で買った。その古道具屋はもう存在しなくてその後も場所を覚えているのでいつもその前でちょっと勝ち止まってみたりする。

旅行中こういう欲しいものが出てくるのは非常に困る。いっそのことあまりに大きな持ち歩きができないものならばそこであきらめるのだ。
ヘルムートニュートンの相撲と言う名前の巨大な写真集をベルリンで発見したときにはあきらめがついた。あまりにも大きくて重いからである。でもこのかぼちゃのスープ入れは旅行中持ち歩けるので買ってしまった。

まずいことにその時はベニスを皮切りにしてその後ヨーロッパ中を回ったのである。だからヨーロッパの国内線でかぼちゃのスープいれば常に飛行機の座席の私の膝の上にあった。

それから40年近く時間が経過してそのスープ入れは部屋の中に安全に呼吸をしている。
時代がいつのものかわからないが、素材を見るとそんな近世のものでは無いようである。素朴な絵付けがなかなか枯れた感じを出していて好きな道具である。

このかぼちゃを見て私が思い出すのは正岡子規が晩年に描いた1連の果物とか野菜の日日である。それは国立図書館の所蔵になっているので画像データはいつでも見ることができる。まるでこのかぼちゃのスープ入れをモデルにして描いたのかと危ぶまれるような不思議な存在感がある。

このスープ入れの中には何か大事なものを入れたと言う記憶がある。しかしもう30数年になるがこの蓋を取った事は無い。

その当時大事なものは今おそらく大事なものでは無いのかもしれないが、蓋をとると何かかぼちゃのスープ入れの魔法が解けてかぼちゃのスープ入れがただのかぼちゃになってしまいそうな気がする。

ちょうどシンデレラのストーリーの午前0時になるとかぼちゃの馬車が単なるかぼちゃになってしまうのとこれは同じシステムになっているのであろう。

だから我が家の家訓としてかぼちゃのスープ入れの蓋は絶対に開けてはいけないと言うことにしてある。

お知らせ😎

次回のチョートクカメラ塾は水曜日に配信です。
テーマは
「カメラのフォーマットの選び方」

2017年3月 4日 (土)

ベル&ハウエルのトランク

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実に不思議なことである。

一昨日の晩に40年以上前に使っていたトランクのことをふと思い出した。それは1,960年代のテレビ取材などで活躍したベル&ハウエルの16ミリ撮影機フィルモのトランクのことだ。

1970年の日本デザインセンター時代に銀座一丁目の銀一カメラでそのトランクを手に入れた。それは16ミリ撮影機の専用トランクなのである。その本体は当時の輸入代理店大沢商会で一番安い標準レンズが1本ついただけで30 万円もした超高価なカメラだった。もちろん個人で持てるようなものではない。当時のアングラ映画の作家ケネス・アンガーとか金坂健二が使っていたカメラである。
憧れのカメラであった。

当時、そのカメラが将来手に入るかどうかはわからないが、とりあえずトランクケースを手にいれたのである。そのトランクケースには上に大きな穴が切り取られてついていた。

お店の人の話では日本テレビが東ベルリンを取材に行った時に16ミリカメラを表に出しているとやばいと言うので穴を開けて中にカメラを押し込んで隠しカメラで撮影をしたそうである。

私は東ベルリンがまだ存在していた時に何度も訪問しているが確かにあの時代に撮影をすると言うのはなかなか度胸の要ることであった。

東ドイツにあるレンガ造りの工場建築を撮影する時もあそこは密告制度になっているので地元の人に頼んで車をチャーターしてあちこち走り回っていたが、三脚に乗せると通報される恐れがあるので、大型カメラの手持ち撮影で東ベルリンをあっちこっち移動した。その仕事は当時のアサヒグラフに掲載されている。

それで隠しカメラ用に作られたと言うよりも改造されたケースは中から物が落ちてしまうので、銀座通りのカバン屋さんでアルミニウムを加工して蓋をしてもらった。その修理代は今でもよく覚えている。3,500円だった。私の初任給が3万五千円の頃の話だ。それに私の写真展のステッカーを貼ったりして会社に通うときにカバンとして愛用していたのであった。

そのトランクケースはもう手元にないのだがふと思い出したのである。本当に不思議なことなのだが我々がやっている「ダブル8カメラをドアストッパーにしないための市民の会」と言う名前のFacebookのグループに新たに加入した友人が実はその鞄の持ち主であることをFacebookで教えてくれた。

私との最初の出会いというのがそのトランクを譲り受けたと言うのである。その前後関係はこちらはしっかり覚えていないが…それで思い出のカバンの所在が明らかになり写真まで送っていただいたので私は大変満足である。

そのトランクの底側面には確かベルリンヒルトンホテルのステッカーが付いていたはずなのでそのことをメールしたらその写真も送ってくれた。人生の大事な事はよく忘れる私なのに半世紀近く前の古いキャリングケースの細かいデテイルを覚えているのも変だ。


2017年3月 3日 (金)

iPhoneを探して雨の夜の散歩

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皆さんよく国内とか海外でiPhoneをなくされるようである。それで不思議なことにちゃんとまた戻ってくるのである。私の場合は部屋の中でiPhoneを探すのが大変な苦労である。 5年前にiPhoneファイブを買ったに白いやつを買おうと思った。ところがミスタッチで黒いのになってしまった。部屋の中で黒いiPhoneが裏返っていたりするともう見えない。それでくまもんのシールをはった。

当時はまたまだネットの環境が悪いのでアップルが1番最初にテザリングを開始したのである。でもあれから5年経ってしまうと今ではどんな環境でも大抵その場にネットがあるから心配ない。それで私の場合は室内でどこかに置き忘れたiPhoneを探すのにiPhoneを探すが役に立っている。

水曜日の雨の夜に仕事が一段落してiPhoneが見当たらないので別のiPadでiPhoneを探した。そしたらびっくりしたことに私の部屋から北100メートルのところにiPhoneがあるというのである。慌ててコートを着て外に出てみたら外は雨である。

最初は私が思ったのはいつも使っているまからん宮殿にあるかと思って行ってみたらそこでiPhoneの位置を探すと100メーターほど北になるのである。そこは隅田川の遊歩道であるが私はその日にはその地域は歩いていない。これは位置測定が狂っているのだと考えた。

諦めて家に戻ってきて再度位置を確認したらやはり自分のいる場所から100メーター北に表示されている。それでもサウンドを再生してみたらなんという事は無い、私の仕事机の上の一升升の中に入っていた。

アップルに誘導されるままにOS を最新型にすると何か具合が悪いようだ。この「iPhoneを探す」も同様であって100メーターの誤差が出るというのは困る。100メーター程度の誤差というのは大変正確と言えるかもしれないが以前のOSではちゃんとドンピシャのいちにデバイスは探すと存在したのである。

しかし一方でおかげで水曜日の夜11時ぐらいに雨の寒い中を散歩できたと言うのはこれは狂った「iPhoneを探す」のおかげであると感謝している。

2017年3月 2日 (木)

トランプ大統領の欠席届

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トランプ大統領が大昔からホワイトハウスの伝統になっているプレス関係とのパーティーに欠席届を出したそうである。
そのことをNHKなども報道していた。

1982年に私がニューヨーク近代美術館で写真を研究しているときにトランプタワーが建築中であった。

SOHOのロフトからメトロでアップタウンに行ってニューヨーク近代美術館まで歩いて行くときにちょうどトランプタワーの建築現場があった。
それはクリスマスイヴのことで途中まで建設されたまだそれほど高くはなっていないタワーの最上階で建築労働者がサンタの格好をしてジャズを演奏していたのである。
クリスマスキャロルもあったと思う。なかなか粋なことをするなと言うので道をゆくニューヨーカーも見上げて声援を送っていた。

その時のトランプは私よりちょっと年上だからまだ30代の小僧であったわけだ。

今までの大統領の報道システムとだいぶ違ったことをやるのでまずマスメディアにトランプは睨まれている。それでCNNとかニューヨークタイムスはトランプをこき下ろすのだが、皮肉なことにニューヨークタイムスの電子板等はトランプのこき下ろし形で購読者数が増えたそうである。

それでトランプ大統領が Twitter を使って情報を発信すること自身が非常に面白い。2011年の東日本大震災の時に唯一の通信可能だった手段は、ちょうど大震災が起きた直後に私はマンハッタンにいたのだが皮肉なことに通信可能な唯一の手段がTwitterであったのだ。

通常なら報道関係が大統領報道官から受けたステートメントを自社でいろいろニュースのネタにするわけであるがトランプ大統領は思ったまんまだからあまりにもダイレクトである。
それで報道各社が結構困っているようである。というよりも大統領の報道システムそのものが変貌しつつあるのであろう。

いろいろと悪者であると言われているトランプであるが、私は長年のアメリカの覇権制度がこれで衰退して新たな世界の構造づくりができればと密かに期待しているものである。

ロシアと中国を敵対視していたアメリカが自らの覇権をゆるゆると脱ぎ捨てて覇権国家をシフトさせていると言うのは非常に重要だと思う。
日本は第二次大戦後にずっとアメリカに従属しているからさぞ困ることであろう。それが見ていて面白い。

2017年3月 1日 (水)

天皇陛下のタラップ

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天皇皇后両陛下のベトナム友好のご訪問である。ベトナムは初めておいでになるそうであるがありがたいことだ。

ハノイの空港でタラップを下りられる両陛下を拝見して矍鑠となさっているのに感激した。
今の80代はそれ以下の世代よりもお元気なようである。

しかし恐れ多いことながら、やはりお足元が私などは気になってしまう。
世界各国の要人もそうであるがかタラップで足元がもつれたりするとすぐそれが報道のネタになったりする。

だから今回のご訪問で1番重要なのは空港に到着されてからタラップを降りられると言うのがメインのポイントではないかと思う。

最近では我々下々はサテライトがあるから全く不自由は無い。安全快適である。
何も国賓であるからといってご老体に高度6メーターの高さから手すりなしの階段で下に降りていただく事はないと思う。
オリンピックの有名選手などでもちゃんとサテライトから出てくるではないか。

実に皮肉なものだが、私が乗るような飛行機はVIP待遇でタラップから降りてくる場合が多い。この間のwinからモスクワ経由で帰国した時もタラップであった。
しかもモスクワの空港は気温がマイナス9度で雪が降っていてそこで足元の悪いタラップで降りるのだ。

偉い方々の苦労が偲ばれると言う次第である。

それと以前から気になっているのであるが、交通博物館で見たいわゆる御料車と言うものがある。飛行機でもそのようなものがあって良いのではないかと思った。

要するに私の言いたい事は一般人である総理大臣と同じ飛行機におのせ申し上げるのは気が引けるということなのだ。そこら辺は誰も気にしてないのであろうか。
天皇陛下の退位の問題よりも私は以前から皇室専用機は無いのかと言うその方が気になっていた。

英国王室には王室専用の飛行機があるそうだ。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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