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ロック ユー

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2017年2月28日 (火)

転倒石

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20年ほど前にひどい腰痛にやられて私はいまでも右足の外側の感覚が鈍い。この10年位でだいぶ良くなってきたのはやはりちょっと眠いのである。

以前はそれでよく転倒したものであった。柔道の心得があるから、転倒は結構得意で膝を打ってもそんなひどいことにはならない。

この1年はほとんど転倒しなくなった。前回転倒したのは昨年の春であってシドニーのトークショーに行く時に四谷の駅のプラットホームで転倒した。ここぞとばかりガードマンさんが駆けつけて助けてくれたので日本は安全である。

それ以来転倒してないなと思ったら2週間ほど前にホッともっとにお弁当買いに行った帰り、佃島の佃煮家の前で転倒した。実に不思議なことだが転倒したときに私はその転倒の原因になった石を探して必ずポケットに入れる。そしてマジックで転倒した年月日をそこに書いておく。そのコレクションは結構溜まっている。

そうなると一瞬のパフォーマンスで転倒は自分の意思でやったことではないが、それにつまずいた石をコレクションすることが目的になっていないこともない。

数年ほど前に春夕暮れの新江戸川公園を歩いていた時にも転倒した。これはわりと大きな石だったので良い記念になった。その翌年3年ほど前に北千住の古い神社の境内でやはり転倒した。

それで内心ちょっと喜んでその石を拾うと思ったらそれは無理だった。非常に大きな敷石の1部が浮き上がっていたのである。それで転倒した石をコレクションするのは諦めた。痛めた膝が急に痛くなった。

若葉町界隈

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四谷三丁目から南のほうに谷をゆるゆると下って、総武線の路線の手前までをあっちこっちするのが好きだ。この界隈は私にとっては全く未知の地帯だった。

2年ほど前の12月に日本青年館に1週間ほどとまってそこで本を1冊書くつもりであった。ところが周囲があまりに面白いので本の原稿は書けなくてそのかわりあっちこっちを徘徊することになった。それはそれで私の仕事にはプラスになっていると考えている。

この界隈の面白さはリスボンと同じで地軸に対して地盤が傾いていることにある。
特に新宿通りから南にゆるゆると下がってゆく路面はダイナミックで好きだ。

この画像は最近もっぱら愛用している旧型のオリンパスのデジタルカメラで撮影した。他の所でも書いたたが、これはスチルカメラとしては全く使わずに、もっぱらムービー専用機として使っているのである。これほど素晴らしいデジタルムービーカメラというのは今までなかった。

デジタルスチルカメラはどれもムービーのすばらしい機能を備えているのに、どうもそっちの方が宣伝をしないようである。何か背後に規制がしかれているのであろうか。それとも開発者の人がムービーはせいぜい子供の運動会ぐらいのことしか考えていないのであろうか。

このワンショットはそのムービーの中から切り出したものなので、うるさい人に言わせれば全くシャープではない。

ところが私はそれが気にいっていて、例えば歴史的なフィルムで延安における毛沢東主席のようなショットは当時はテクノロジーが充分でないから映画のニュースリールから画像を切り出したりしている。

記録映画の監督ヨリスイボンヌによれば革命当初の中国では1台のムービーカメラも存在しなかったのだそうである。そこにアメリカ製の35ミリのアイモカメラが初めて投入されてわれわれは歴史を知ることになったそうだ。

シャープではないから逆に変なリアリティーがある。この切り出したワンショットもそれと似た効果をあげていると思う。

John F. Kennedyがダラスで暗殺されたときその瞬間をとらえていたのはアマチュアが撮影していた8ミリのダブル8であった。

それが世界中に配信されて一大センセーショナルになった。映像というのは不思議なものでその現場でカメラが回っていないと実は何も残っていないのである。

この坂をダラダラ下っていくと時代劇に出てきそうな二股の道がある。左は奥州街道、右は東海道と言う感じであるがいつも 無人のその通りに先日行った時は若い連中がたむろしていた。

ぴんときたのはこの近くの須加神社のことである。その映画は知らないがなんでも
君のなわ、とか言う子供向けの映画でいわゆる生地巡礼で子供がたくさん集まってくるようである。

もっともこれは人のことを笑うことができなくて、私もレクタフレックスの聖地を訪ねてローマに行ったりそして今度はカメックスの聖地巡礼てパリに行こうとしたりしてるから人を笑うことができない。

2017年2月27日 (月)

さ〜て、帰るとするか!(笑)

Img_1916カメラ屋のウィンドウの前に立って頭の中から出て来る言葉をそのまま音声に出しているというのは本当のカメラ好きで本当に正直な人である。

そういうカメラ人類を私は世界じゅうで見てきた。パリの中古カメラ屋街区でもケルンのカメラ屋でもウインのカメラ屋でも同じことだ。日本にもそういう人がいてその語りを黙って聞いてるのは面白い。

常識の範囲内の情けない連中は音声をミュートにしているからそれが外に伝わることがない。

ガラクタや二代目さんに聞いた話であるが、この間来たお客さんはカメラに関する思考、カメラに対する哲学、そしてカメラの株式市況が音声認識になって、そのまま声になっているという人だったらしい。それで40分ぐらいの講演会があって聞いていると面白かったそうである。

それで長い滞在時間でいろいろと我楽多屋さんの品物を評論してそれが終わってから、さて帰るとするかと言って退出したのは大人物であると思う。 私は月一回の我楽多屋さんでのトークをやっているが、これは考えてみれば実のところこのお客さんと同じことをやっているのである。

この写真は日本デザインセンタの同期の高木くんのお嬢さんがとってくれたものだ。 なかなかうまくとれている。それで今朝方、家人にそのことを話してそれから散歩に出たのであるが、佃島のノースポイントの先で昨日あった高木くんのお嬢さん高木マリコさんが手を振っているのでびっくりした。最初は誰だか気がつかなかったが彼女の持っている我楽多屋さんのトートバッグに私がハリネズミを落書きしたのでそれを持っていたので判明したのだ。 ドラマの脚本でもこーゆー出会いと言うのはなかなかないのではないか。

2017年2月26日 (日)

ペンギンズばあ

P2250024四谷三丁目の裏側のラビリンスのような場所が好きである。

実際には四谷三丁目ではなくて新宿区若葉というらしい・
毎月の第4土曜日の午後2時から始まるガラクタやさんのトークショーシドニーに行く前に時間があったのでまたこの界隈を徘徊した。
商店のシャッターというのは不思議なものであって商店が閉まっているときしか鑑賞することはできないのだ。 先週の京都の錦小路で非常に面白かったのはお店が閉まった後のシャッターが普通のシャッターではなく江戸時代の画家若冲の作品がシャッターに描かれているのだ。 要するにお店が開いてるときに見ることのできないギャラリーということになる。しかし皮肉なことにギャラリーが開館したとき、つまり言い換えればお店のしまった後には錦小路も誰も歩いていないのだ。だからギャラリーメインのトークショーのあとによる9時半ごろだったが私は錦小路を東から西に歩いて十分にそのギャラリーが堪能できた。
これは25年ほど前にサントリーの広告で大流行したその名前をペンギンズバーいった。それで思い出すのはギャルリールワタリが
そこのオープニングレセプションに出かけたときのことである。ワタリさんがパーティーの時に提供してくれるのがペンギンズバーの1番小さい缶ビールなのだ。 私は直感でこれは将来芸術品としての価値をもつのではないかと思って1つずっと保存していた。30年近いかんビールであるから中身がどうなっているか知らない。しかし時代が変わったなと思うのはこの缶ビールはアルミカンではなくしスチール缶なのである。
ギャルリールワタリといえば
ヨセフボイスを思い出す。そこでボイスは黒板に何かドロウイングしだ。これもギャルリルワタリのオーナーは樹脂で固定してちゃんと持っていたはずである。そこら辺の即興性というか時間を芸術的に止めようとする意思が感じられてすごいと思った。
四谷若葉界隈を歩いているときに、そういう30年前の昔のペンギンズバートとかヨゼフボイスが一気にしかしゆっくりと私の頭脳に浮上してきた。

2017年2月25日 (土)

ちょーせいさんとちょーとくさん

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マンハッタンの怪人船原長生さんは2011年にお目にかかったきりだがネット上では親しい友人である。

Facebookにダブル8をドアストッパーにしないための市民の会というのを昨年作った。さっき来た調整さんからのFacebookの書き込みではこの同好会ができて4ヶ月と何週間になるそうである。

それでダブル8-8ミリカメラの件で調整さんがメンションしてくれたのはカールツアイスの当時の超高級カメラのことである。

スーパーエイトと言うのであるがそれはフィルムフォーマットのスーパーエイトと言う意味ではなくて当時の商品戦略でスーパーなダブル8ということをであった。
そのカメラを見ていて思い出したのはそれに対抗して作られたと思われる東独のダブル8-8ミリカメラペンタフレックス8のことだ。

そこで四半世紀暮らしたプラハのアトリエはもう存在しないがアトリエがあった頃この画像の右側にあるカメラを私は時々使っていた。プラハのカメラ店で購入したのである。値段はよく記憶していないが確か2,500コルナだったかな。

それでプラハで使っていたカメラが今どこにあるかと言う事はわからない。これはここで書くと面倒な複雑な事情があるのでとりあえずここではプラハのアトリエにあったペンタフレックスの8ミリカメラは紛失してしまったということにしておく。

それで急にこのカメラが欲しくなったのである。最近病気になっているフランスはパリ製のカメックスもそうであるがカメラへの欲望と言うのはどうも数十年前にそれを使った記憶というのが重要なポイントになっているようだ。

eBayで探したら適当なのがあったから手に入れた。値段は安いものなのだがドイツから買うときにeBayのセラーが郵送料が高いぞと念を押してくるのである。私は「国際的なバイヤー」だからそんなことを気にしない。

フェデックスでもディーエッチエルでも何でも使うのが1番。

あたしが依頼したクーリエで一番面白かったライカ社の社長さんに私が依頼しハンガリー製のカメラでデユフレックスの修理が上がったので、それをお願いして持ってきてもらったこともある。

ライカ社の社長さんが同じ鞄に入れてきたのがウルライカなのであるから、かなりゴージャスだ。

マンハッタンの怪人調整さんは今までプロ用のデジタルムービーでプロフェッショナルとして仕事をしていて、ついこないだ6kの映像作品を完成させたそうである。

そこで調整さんは方向を転じてデジタルムービーはコンピューターにレンズがついたものだから面白くないと宣言したのであった。それでアナログのダブル8に変更したわけだ。

こういう方向変換は本物のプロでなければできないであろう。
横浜で開催中のカメラの見本市などはあれは全部コンピューターにレンズがついたものの競争と言うことになる。

調整さんのコメントで面白いのはこういうことだ。

曰くデジタルカメラの異常な発展の中でアナログシステムはダメだと言われているが、ダブル8のカメラはその中で唯一進化の可能性を持っているメディアであると。

それで調整さんは1ダースほどのダブル8のカメラを買ってそれを自分でテストして結局ボレックスが使えるというので自分はコレクターでは無いから残りのカメラも売ってしまうと言うのである。

私の場合はこれとはかなり方向が違う。
春のパリの展覧会の関係でパリで作られたダブル8-8ミリカメラをたくさん手に入れた。しかしそれはからシャッターを切って遊んでいるだけで実際にそれにフイルムを装填して撮影しようと言うのではない。

このところ私は自称写真家から自称映像作家に転向しているのか。それで愛用しているカメラは型遅れの二台のオリンパスのマイクロフォーサーズなのである。ただしスティールは一切とらなくてすべてムービーカメラとして使っているがこれが非常に面白い。

モダンなデジタルカメラをムービーで使って50年以上前のダブル8は観賞用に置いておくと言う変な展開が起こっているのである。

さあてどうなるかな。

どうやってここに入れたのか??

数十年前に地下鉄はどこから線路に入れたのかと言う漫才があったと聞いた。

工事中の佃小橋であるが1週間近く京都に行っていたのでその進行状態を見なかった。買い物の帰りに見にいって非常に驚いた。
こういうことになっている。

巨大な幅の広いキャタピラがついているパワーショベルである。
こんな巨大なものをどうやってここまで持ってきたのかそれがまず最大の謎である。

佃小橋の下を通すには無理だし水路の先は行き止まりになっている。そこに信じられないような巨大な重機が川底に置かれているわけだ。

この前までは川底が見えたので白さぎちゃんが喜んで魚を食べていたが、これだけ大きな怪物が来られるともうそれどころでは無い。写真のように慌てて逃げていくのが見えた。

部屋に戻って歌人にその話をした。
家人は常識人であるから佃小橋の上までトレーラーで運んできてそれをクレーンで釣りを下ろしたのであろうと言う推測である。

確かに常識的にはそれが1番理解ができるやり方である。しかしこのブルーの重機の巨大なキャタピラと言うのはほぼ川幅の4分の1位あるのだ。我楽多屋のにだいめがこの間鴻巣市に行って食べてきた川幅のうどんみたいなものだ。

こんなものをつめるトレーラーと言うのがこの世に存在するのであろうか。

しかも佃1丁目は結構細い路地の奥にあるの:だ。まぁ謎は謎でそのまま放置しておく方が人生面白いと言うものだ。
この70年にちょっとかける人生でもこれほど面白い光景に遭遇したことがない。
土地の古老もびっくりという光景である。
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2017年2月23日 (木)

僕もコダクローム

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初めて自分のカラー作品を発表したのはカメラ毎日であったと思う。1971年のことである。

当時はまだコダクローム2と呼ばれていてコダクローム25ではなかった。
巨匠エルンスト・ハースはその前の世代のコダクロームを愛用していた。

それで1形がなくなって新型になる時にあまりにも最初のコダクロームを愛していたので数100本のコダクロームを買ってそれを冷蔵庫にずっと保管したそうである。

そのコダクロームがだんだん現像ができなくなって今は完全にサービスは廃止されてしまったのである。
私は趣味で16ミリ映画を撮っていたのでドイツから買った400尺の特別なコダクロームを愛用していた。ありフレックスSRでやく十二分ほどの映画が取れる。

現像はベルギーに送っていたのである。それで最後にもうこれから後はコダクロームが現像できなくなると言う時に最後の週にブリュッセルにコダクロームを送って現像してもらった。おそらくこれが世界で最後に現像されたコダクロームの400フィートのムービーロールであったと思う。

ダブルエイトをドアストッパーにしない市民の会というのが昨年できて数人の仲間でダブル8を楽しんでいる。私はフランスで作られた最高級の一眼のダブル8カメックスを集めている。

フランスから届いたバックの中に撮影中のコダクローム25が数個入っていた。

カメックスのような高級なカメラを使う人はやはり当時の最高の保存性があるコダクロームを使っていたと言うことがわかる。

僕のコダクロームではなくて僕もコダクロームなのだ。

2017年2月22日 (水)

8桁のニコン

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ニコンのレンジファインダーの最初のモデルはニコン1型である。製造番号は6091から始まっている。その6091 は製品にはならなくて仕掛け部品として捨てられたのを後で拾い上げられて今はニコンミュージアムに展示されている。

ライカの製造番号に興味を示す人が多いがニコンの製造番号に興味を示す人はあまりいない。ただし6091 はこれはニコン1形から始まってニコンエスに至るシリーズであるがこれには興味を持つ人が結構いる。まず好事家と言ってよいであろう。

俗に8桁のニコンと呼ばれているのは製造番号が6091から始まってどんどん増加していったときに繰り上げる時609はそのまま保存して9999から10,000で単位が上がったのである。

普通のニコンの製造番号は7桁であるがこれは8桁で1けた多い。それで何か非常にゴージャスな感じがすると言うのも単なる物好きの興味から来ている。

私はニコンエスは609から始まるのがニコンらしくて良いのでそれを愛用している。ロバートキャパが使っていたのはこの8桁番号の後に作られた61から始まる7桁番号のカメラである。

フイルムのサイズの長いほうの長さは36ミリではない。これはニコン1形はニコン版の34ミリであったのを無理矢理伸ばしたのだ。
だから実測の値としてはライカサイズよりもほんのちょっとすん足らずなのである。これは逆に便利であって膨大なネガを見ていてもニコンエスで撮影したものは長辺がちょっと短いからすぐ見分けることができる。

どこまでがきゃうとか?ハッピー六原のベーコンロール

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旅先で地元のパンを買うのは楽しみなことである。今回は六波羅蜜寺の近くのパン屋さんでローカルなパンを買った。
ゴスペラーズのさかいさんはその道の達人である。私はさかいさんほどではないが初心者のローカルパンハンターである。

京都の鴨川の東、六波羅密寺の近くになかなかいい感じのショッピングセンターがある。以前は栄えたようだが今はこじんまりとしている。

そのエントランスの右側にあるのが小さなパン屋さんでお菓子屋さんである。
その名もハッピー六原と言うのが良い。そこの店先にちょっと立ち寄って思いつきで買ったのがこのパンである。パンを買うと言うよりも私が子供の頃の食料品店のガラスケースと言うのにひかれたのだ。

平らなガラスの板が木製のフレームに入っていてそれで食品の箱を覆うようになっている。考えてみたらこれを垂直にすると我々が普段商売にしている写真のフレームになるわけだ。

ベーコンを入れたロールを買ったのである。試食してみたらこれが非常にうまいのでびっくりした。世界中でいろいろな都市でパンは食べているがこれだけのクオリティーはパリでもなかなかないと思った。

感心してその夜のFacebookにそのことをアップした。そしたら京都のロック優に参加した東京の偽ライカ同盟の会員が京都から東京に戻るときに新幹線のアーケードで同じパンを買っていたのでアップして教えてくれた。

それでこのうまいパンがどこで手に入るのかがわかって非常に助かった。月曜日の帰りの高速バスに乗る前にそのお店に行ってパンを買うことが私の重要なミッションとなった。
京都は奥が深い。

2017年2月21日 (火)

終バスで京都に出かけて終バスで京都から戻る

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京都や大阪に行く時はいつも飛行機で出かける。数年前に友人と馬鹿な遊びをしていてファーストクラスで森伊蔵が何杯飲めるのかと言うゲームをやっていた。大阪行きはヘッドウィンドーだから時間があるが大阪からの戻りはテールウィンドーなので水平飛行時間は20分ちょっとしかない。それでなかなか遊べた。

考えてみれば新幹線も早く着きすぎるしじっくり時間をかけて京都にロックユウをやりに行きたいと思った。それで時刻表を調べてリバーシティーの前から出る終バス赤バスに乗った。これが午後9時44分なのである。

時間があったので駅の2階のコンコースで帰宅の人々を見ながらブラックニッカのポケットで良い気持ちになった。それで午後11時30分発の大阪バスの 3列シートと言うのに搭乗。京都には午前5時45分に到着したので長いいちにちを使うことができた。

それで京都から帰ってくる時はお昼12時10分発のキラキラ号と言うバスに乗った。これは10数年前にいちど乗ったことがある。消防車のように真っ赤な車体で犬と猫がでっかく描かれている。

新宿の新しいバスターミナル、バスタに到着した。そこから中央線の快速で東京駅まで来て佃ゆきのバスに乗ろうと思ったら驚いたことにまた時間は早いのにそれが最終バスなのである。しかも満員。

最終バスは午後8時20分なのである。子供の頃最終バスを見て当時は行き先表示の脇に赤い豆ランプがついてそれが子供心にかっこいいと思った。

今は最終バスに注意していなかったから気にして見てみたら、何の事は無い行き先の周りを赤いLEDで囲むのである。何か情緒がなくなりましたね。

それでも京都行きの行きと帰りが最終バスであったということを何か自慢したい気分だ。

😎おしらせ

チョートクカメラ塾は明日配信です。
タイトルは

「レコードジャケットっていいな
京都メインギャラリーのロックユー展でかんじたこと」l

2017年2月19日 (日)

おひなさまのプロフィール

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京都は今京都マラソンで盛り上がっている。
京都は今ロックユーで燃え上がっている。

京都御所の南側烏丸通りの角が京都マラソンの折り返し地点であった。
歩いていたら偶然出会ったのである。

ものすごい数のランナーが通過していった。後で立て札を見たらそこが35キロ地点というのでびっくりした。
皆さんものすごいスピードである。

ずっと歩いて京都ホテルまで来た。これは今のホテルオークラのことだ。1976年に現代日本の写真家展の準備で京都に来たときに私はここに宿泊したが、当時は白い7階建てのクラシックなホテルだった。車寄せは南側に付いていたな。今は東家についている。

ロビに座ったらちょうどひな祭りの季節である。


7段飾りのお雛様を脇から見たのが面白かった。要するにこれはかつてロバートフランクが撮影したローリングストーンズのフィルムのステージを脇から見たようなものだ。バックステージではないがサイドステージから見てると何かその現実の 骨格が見えてくる。

家人が大昔、東京芸術大学の受験生の頃に目白の親戚に下宿していた。その下宿先のすぐ近くに徳川様と言う家があった。言うまでもなく徳川家の徳川様なのである。

ひな祭りの季節になるとその末裔のお嬢様がお持ちのお雛様を近所の人々が拝見に行った。大変な名誉である。そのお雛様が不思議なのは雛人形が全部犬なのである。

だからこれをお犬様と呼んでいた。

そーゆー昔話が思い出されるのも春が近いと言うことなのであろう。京都の街はポカポカする陽気かと思って次の角を曲がるといきなり寒い風がさっと吹いてくる。それが早春の京都と言うものなのであろうか

2017年2月18日 (土)

あらーきーが若い1976

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1976年に発行されたヨーロッパでドイツ語圏を巡回した現代日本写真家展カタログをめくっている。

1976年であるから41年前の写真である。アラーキーさんが非常に若い。
私がヨーロッパから帰国してあれは1981年頃だったろうか、アラーキーはまだスーパースターではなかった。それで新宿の東口の名前は忘れたが大きなテーブルのある喫茶店で彼に会って真面目な写真の話をした。

それは別にアポイントメントを取ってあったと言うのではなくて行くとたまたま荒木さんがそこにいたと言うことなのかもしれない。

話した内容はウオーカーエバンスの写真がいかに素晴らしいかということだった。彼は寝るときにニューヨーク近代美術館で発行されたエバンスの写真集を枕元に置いて寝るのだそうである。彼はそういう真面目な写真家なのである。

その当時の彼は旧日本陸軍の歩兵のガバガバの大きな兵隊服を着ていた。それが変な風に似合っていた。ちょうどつげ義春の漫画の中に出てくるようなキャラクターであった。


あと、話をしたのはプロフェッショナルな写真家の話である。電通で彼は冷蔵庫をとっていた。私は日本デザインセンターで冷蔵庫をとっていた。だから4/5の大型カメラで冷蔵庫のボリュームを出すには210ミリのレンズが良いのかそれとも240ミリのレンズがいいのかと言うかなり真剣なプロ写真家のディスカッションをやったのだが…
今思うとそういう広告写真の話を彼としたことが実に不思議に思える。

石原悦郎さんのツアイトフォトサロンのクロージングのイベントで荒木さんと森山大道さんのトークセッションがあった。約10年ぶりにアラーキーに挨拶したら彼は私を抱きしめてくれた。

要するにそういうグッドオールドフレンズなのである。

2017年2月17日 (金)

吉田大朋さん

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吉田大朋さんが昇天した。82歳だった。

日大写真学科の学生の頃に我々の間で流行していた言葉が売れっ子ファッションカメラマンと言うものだった。もちろんこれには独特の批判的な意味合いもあるのだが、掛け値なしでファッションフォトグラファーとして尊敬していたのが吉田大朋さんであった。

何しろ5月革命が潰えた後のパリが舞台なのである。
当時の日本のパリとの距離はそれほどに遠かった。だからファッション写真と言うのも今のようなユニクロの安売りのカタロムと言う意味合いではなく憧れの未来に向かってまなざしを高く上げると言うような意味合いが非常に強かった。

そういう状況の中で70年代に吉田大朋さんな本場パリでファッション写真を撮影していたと言う事は当時学生の我々から見ると人類が月に行ったと言うよりももっとスーパーなことなのであった。

売れっ子ファッションフォトグラファーがまだパリに行っていた時より数年前だったと思う。六本木とか赤坂とかそういうマンションに吉田大朋さんの事務所があってそこのアシスタントが我々の友人なのであった。

それで先生がいない間に事務所に押し掛けて先生の機材を見せてもらったりした。そのアシスタントさんが話してくれた中で1番シンボリックだったのは、先生は街中を歩いていてどこであってもいきなりアシスタントさんにおい!ー1,200ミリを出せと言うのだそうである。1,200ミリと言うのは東京オリンピックの開会式でも使われたあのニッコール1,200ミリ、それで明るさがF11と言うものであった。

私も物好きで同じレンズを持っていたがそれを常に持ち歩いてアシスタントに請求するというのはこれは写真家の中でも尋常な視神経と言うものではない。それで吉田大朋さんを信用する気になったのである。

本物の吉田大朋さんに初めて会ったのは石原逸郎さんのツアイトフォトサロンであったと思う。ちょうどパリの写真集がされたばかりでそこで購入した。

吉田大朋さん父は上機嫌でその刷り立ての写真集にサインをしてくださった。この写真家の視神経の凄いところは85ミリと135ミリのレンズの使い分けがちゃんとできていることで、その視神経はほぼ完璧に近いと言う点である。
私などは広角レンズでいい加減に撮影する方だから確かな視神経が構築されているなと思ってそれも尊敬のうちの1つの要因になっていた。

東京をテーマにしたシリーズもたくさん出されているが、いつだったかある有名な東京をテーマにした月刊雑誌でそこに吉田大朋さんは企画を売り込んできたと話しておられた。ところが編集部にしてみるとそーゆー巨匠が頭ごなしに企画を持ち出して全部自分でやるというのはこれは面白くないことであろう。

それでその企画は実現しなかったようであった。

言い方を変えれば吉田大朋さんが大活躍なさっていた時代つまり60年代後半から70年代初めにかけてはスーパースターが何でも自分で自由にできるという時代であった。

それが80年代になってから編集作業と言うのは全て分業化になってしまったのである。

3月の終わりのパリ訪問に際して私は吉田大朋さんのパリの写真集を見ておこうと思う。

2017年2月16日 (木)

大朋さんが2月10日に心筋梗塞で亡くなられました。享年82歳でした

ジョナスメカス 94歳


ジョナスメカスは尊敬するアーティストだ。

彼は何十年も映画と一緒に戦い続けてきた。マンハッタンのチョーセイさんがメンションしてくれた記事によるとメカスは彼の映画アーカイブスの中から資金の調達のために3月初めにオークションをやるそうである。
今年のドクメンタではメカスも出品するそうだ。それは移民のストーリーなのである。

私はジョナスメカスには都合二回だけあったことがある。
1983年の11月の第一金曜日の夕方にニューヨークのブロードウェイとスプリングストリートの角で遭遇したのだ。彼は当時その角のビルの上に住んでいた。それは私は自伝映画で知っているのである。

ジョナスは金曜日の買い物から帰ってきたところでショッピングバッグを下げていた。私もそうだった。それで角でちょっとだけ立ち話をして別れた。
その日は興奮して握手の手を洗わなかった。

もともとジョナスはオーストリーのwinに勉強に来る予定だったのである。それがナチスドイツの関係で当時の西ドイツの収容所に入れられて二回めに脱走に成功した。それで移民船でシカゴに行く予定が途中で気が変わってマンハッタンに降りてそれが彼のキャリアのスタートラインだった。

マンハッタンで偶然遭遇した翌月12月に原美術館でメカスの回顧展か何かがあった。
会場に現れたメカスが先月マンハッタンで遭遇した変な東洋人である私を発見してまっすぐに歩いてきてまた握手をしてくれた。
主催者としてはさぞ面白くなかったことであろうと思う。

以前はメカスの映画を見るのはめったにない貴重な体験で、例えばオーストリアフィルムミュージアムで創設10周年記念の1974年だったかメカスの一大映画祭があった。

それを見に来た私は唯一の東洋人であったせいか地元のテレビ局にインタビューされた。今にして面白いのは撮影機材はビデオではなくてエクレールのフィルムカメラであった件だ。

翌日にその放映されたニュースを私は偶然見ることができた。当時の私はドイツ語がしゃべれないので英語で説明した。その下にドイツ語のアンダータイトルがかぶさった。外国人のステートメントだからこれはこれで良いのだと思った。

アパレルのアニエスベーがメカスの全作品を収録したボックスを作ったので最初はありがたかったが最近はあまりありがたさが感じられない。映画もいつでも見れると思うと愛情が減少してしまう。

それでメカスはよくwinにもきていたしオーストリアフイルムミュージアムの近くにある大きな市場ナッシュマルクトが火事になった時もブレックスの16ミリでニュース映画を撮影していた。

マンハッタンに滞在の1年間に私はどこかメカスに遭遇したいと念じていた。その信仰の心がおそらくつうじたのであろう。それが滞在の最終日のしかもその日の夕方にメカスニ会えたと言うことなのである。

SOHOの奇跡とというやつだ。Img_1846


2017年2月15日 (水)

1976年の22名の写真家

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NEUE FOTOGRAFIE AUS JAPAN
1976年から77年にかけて主にドイツ語圏の公立の美術館を巡回したのがこれであった。

それの準備で1976年の6月にチーフディレクターのブライヒャ博士と来日した。
田中とか言う名前の目のつり上がった29歳の若者がいきなり外人さんを連れて写真家の事務所を順繰りに回ったので日本側もびっくりしたようである。

ブライヒャ博士とアメ横のラーメン屋でビール飲みつつ、アリ猪木戦を見たのも懐かしい。

要するに全く信用されなかったわけだが、当時カメラ毎日の編集長だった山岸章二さんは激励してくれた。別れ際に学士会館でカレーライスを奢ってくれた。山岸さんが亡くなったのはそれからあまり年月は立っていなかった。

それで巡回展の直前にオーストリアからそれぞれの写真家に30部ずつの分厚いカタログを送ったのでそれでようやく信用されるようになった。

そのカタログはウイーンの友人知人に全て上げてしまって私が1冊も持っていなかった。その後探してもなかなか手に入るものではない。

それがeBayに出ていると知人が教えてくれた。それで探し始めて40年ぶりにようやく1冊手に入れた。程度は割と良かった。

写真家の中で1番若かったのは私とか田村さん、十文字さんで当時29歳であった。あれから40年が経過したのだからわれわれは最年少ではあったがもう70に手が届くのである。

カタログをめくって面白いのは森山大道さんもアラーキーもまだ30代であって若々しいことだ。
残念なことに数えてみたら既に昇天した写真家も五人を数えている。

それは40年と言う長い時間がもたらしたことなのである。

2017年2月14日 (火)

バレンタインチョコ

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バレンタインの日にチョコレートを贈る奇習と言うのはこれは日本独特のものなのではないか?

ニューヨークに行く前1980頃、多摩川のほとりの多摩川住宅に住んでいた。近くに漫画家のつげ義春さんがお住まいだったので団地中央と言う場所の喫茶店でよくあってカメラの話をした。その団地中央に松坂屋ストアと言うスーパーがあってバレンタインデーの1週間位前からチョコレートの詰め合わせを並べていた。

これが私の知る限り日本でのバレンタインチョコの発祥の地と言うことになる。

バレンタインデーが終わった時に店員さんが数人でぼやきながらそのチョコレートの詰め合わせをパッケージをバラバラにしてそれぞれの単品に戻しているのである。

側で聞いてみると
「-^_^^_^-こんなもの売れるわけねーよな」と言っていた。

今はバレンタインチョコが全盛のようであるが、どうもこれは日本のチョコレート業界が仕掛けたものではないのか。例の馬鹿騒ぎの節分の恵方巻と同じであろう。

さらに恐ろしいのは女子が作る手作りチョコレートと言うやつだ。何の事は無い市販のチョコレートをドロドロに溶かしていい加減な型に入れて固めるだけのものらしい。カカオ豆から作るのならえらいが1回溶かしたチョコレートはまずいものである。

小学校などで男の子がもらったチョコの数をオリンピック自慢するのも非常に不健康だし、義理チョコと言うのもあれは現体制ファシズムのやり方である。

私は撮影に行くときにチョコレートの小さいかけらをいっこだけもっていく。それと炭酸水を持参する。その1個の小さなチョコレートが疲労困憊したときにどれだけエネルギーになるかそれは実際にやってみないとわからないものだ。

ベルギー政府観光局の取材でベルギーを毎年訪問したことがあった。当時はサヴェナベルギー航空が就航していた。そこではゴディバのチョコレートが提供されるのである。

しかし地元のベルギー人に言わせるとあんなのはチョコレートではないらしい。彼らは田舎町のローカルなチョコレート屋さんで大人買いをするのである。その単位というのが最低キログラムなので恐れ入る。

2017年2月13日 (月)

フランス中のカメックスを、、、、

Img_1832これはフランス製のダブルエイトのカメラ、カメックスである。 その会社ERCSMは1947年に設立されてその10年後1957年に世界で恐らくはじめてのミラーリフレックス式のダブルエイトの撮影機を発売した。

おそらくその生産台数は少なかったに違いない。というのも私はウィーンに7年半住んでいたがついぞこのカメラを見たことがなかったからだ。 しかしある時いきつけの映画機材の専門店でセットケースに入ったこのカメラを発見して早速手に入れた。それで当時はごく普通だったコダクロームを装填して10本ほどとってみたら、その結果はすばらしいものであった。

でも70年代の終わりはすでにダブルからスーパー8時代に移行していたのでわたしはほかにボリューのスーパー8をもっていた。だから移行していた。だからコダクロームを10本とっただけなのである。でもその時の記憶は長く保存されていて素晴らしいカメラだと思った。

ごく最近になってebayを検索したら40年前に使ったカメラが結構出品されてることに気がついた。値段は安いものである。 それでフランスのカメックスをはしからかっていった。これも競争がなくて競争相手といったらせいぜいが私が主宰しているfacebookの「ダブルをドアストッパーにしないための市民の会」ぐらいなものである。

資料によればこの会社はフランスのパリにあったそうだ。ところが不思議なのは今まで買ったカメックスの中には取り扱い説明書も付いているし保証書もついているのだけれども、ついぞその会社の所在地が印刷されていないのである。これはユーザーが修理を依頼するときに購入したカメラ店を通じて修理を依頼するのであろうか。 秘密警察ならぬ秘密映画機材製作会社というのは存在するのだろうか。

2017年2月12日 (日)

デジタルカメラをムービーカメラの専用機として使う

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私は映画好きと言うわけではなくて映画のカメラが好きなので小学生の頃はダブルエイトを使い始めwinにいた頃は本格的な16ミリ映画を撮っていた。

その後プロフェッショナルな機材を集めることに真剣になってありふれクスの35ミリからプロ用の16ミリまでほとんどすべてのカメラを入手して喜んでいた。

ただしそれで実際には撮影することがあっても撮影のフィート数はたかが知れたものである。

デジタルカメラがどんどん進化してムービーも音で取れるようになったのを、最初は私はバカにしていた。何か写真学校の学生の自主制作映画のように思えるのが格好悪いと思ったのだ。

私のように映画撮影の黎明期を知っている人間にしてみるとやはり映画は上に大きなフィルムマガジンが付いているのが本格的な映画撮影のダイナミズムと言うわけだ。

だから手元にあるデジタルカメラをムービーモードにして撮影しようなどとは考えたこともなかった。

この間愛用している偽ゴープロプロの電源のチャージャーのケーブルがどっかに行ってしまった。それで急遽手元のデジカメをムービーモードにして撮影してみたらこれが非常に具合が良い。

そのきっかけは1週間ほど前に今度パリで展覧会を一緒にやる中藤さんとの対談をギャラリーニエプスで収録した時だ。プロフェッショナルではないにせよアマチュアでもこの程度の画質が取れてそれをFacebookにアップするならこれで充分なのである。

それでガラクタやニュースとか佃ブロードキャスティングとか思いつきの名前をつけて短いフーテージをとってみたら具合が良い。

これをフイルムカメラそれもバジェットの安い16ミリで撮影するにしてもカメラマンとアシスタントそしてサウンドマンそしてディレクターの最低4人が必要なのである。

それをワンマンバンドで全部こなしてしまえるから意識の疎通は完璧にできるわけだ。監督とカメラマンと俳優が同一人物であるからだ。

巨匠フォルカーシュレンドルフは非常に人使いの荒い監督で彼の仕事を手伝ったときには12時間労働は普通であった。それでドイツの映画の製作者のユニオンとの軋轢があってそっちの方が大変だった。つまりこれは監督の意思がクリューにちゃんと伝わっていないのである。

デジタルカメラのムービーモードで感心したのはスタビライザーの機構である。スタビライザーは1,970年代の終わりにステディカムと言う機材が発明されてそれ以来劇的な進歩をした。

それ以前の移動ショットと言うのはトラックレールの上にカメラ乗せて動かしていたのである。

それが手持ちで自由に取れるようになった。
とは言えカメラマンは大きくて重いハーネスをつけてその先にカメラ乗せているのである。フォトキナで70年代の終わりに会場で実際にそのハーネスをつけてテストをさせてもらったことがあるが当時20代の私にしても自分の体の重心が目の前2メートルにあるような感じなのである。

だからステディカムを操作するにはフットボールの選手並の体力が必要であって当時は特殊な職業であって名刺にステディーカムオペレーターと刷り込んでいたりした。

それが今では自動的にスタビライジングができるようになっているから実に大変な進歩であると思う。そーゆー優れたデジタルカメラが手元にあるのにいつもしょうもないステイルばっかり撮っていた自分がアホらしくなる。


2017年2月11日 (土)

ズノーレンズの値段

Img_1820 Img_1824 Facebookでメンバー10人ぐらいの小規模な小型映画の研究会をやっている。その名前をダブルエイトをドアストッパーにしないための市民の会と言うのである。 スーパーエイトは面白くない。ダブルエイトが面白いと言うのがこの研究会のメインテーマである。それで黎明期のダブルエイトの研究をしているのである。 まぁ研究といっても大した事は無い。どのような撮影スタイルがかっこいいのかとか、撮影に行くときにどのようなバックに入れたらいいのかと言うような低次元な、しかし同時に写真術の本質をついているようなところをやり取りしているのである。主に東京都ニューヨークのマンハッタンでメンバーがトークしあっている。 マンハッタンの怪人チョーセイさんはもともとプロフェッショナルなフイルムのディレクターである。それでつい最近デジタルムービーのレッドを投げ捨てて、ダブルエイトに「グレードアップ」したサムライである。 そうなると使いたいレンズは日本の黎明期の帝国光学のズノーレンズである。 チョーセイさんの研究によればこの13ミリの明るさがF1・1のレンズは素晴らしい。ところがフランジバックの関係で残念なことにこのズノーのレンズは初期のエルモには着くが彼が愛用しているボレックスのダブルエイトにはつかないのである。 彼は本物のプロフェッショナルであるからアマチュアが使っていたダブルエイトでもちゃんとレフレックスファインダーで構図とピントが見れなければだめだと言うのだ。 無い物ねだりですね。 頭脳のレンズは1部の好事家が法外な値段をつけているが1,950年代後半に一体どのくらいの値段がしたのかが気なるところであった。 昨日我楽多屋さんにガラクタやニュースを取材に行った時に、資料として二代目さんが提供してくれたのが1957年発行のフォトワードの別冊の小型映画の雑誌である。 こーゆー考古学資料が貴重なのはコンテンツの中で特に当時のメーカーの広告が出ている点にある。 ズノーのレンズの広告が出ていた。 ご覧になると分かるように実に高い。 びっくりするほど高額だ。 1957年と言うと私は10歳の時であるが、当時の勤労者の月収は1万3,800円であった。そういう流行歌があったのだ。それからすると1番安い頭脳の13ミリのダブルゲート用のてもほぼ月収に等しいのである。 小学校の運動会の時などに8ミリカメラを持ってくるお父さんはお金持ちのお父さんであると言うふうに相場が決まっていた。 頭脳に関しては以前いろいろ調べたことがあるがその1ページの広告に出ていた本社の所在地が東京は中野区の大和町と言うところであるのも思い出して懐かしかった。

東京1966

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3月末から5月初めにパリの「淫靡ギャラリー」で中藤さんと開催する東京の写真展のこれは葉書である。

すでに51年も昔に撮影されたショットだ。日比谷の映画館のたくさん並んだところでこれをとった。
当時の私は19歳の生意気な少年であった。

映画の看板と言うのは今と違うから写真を拡大したものではない。

これは拡大した手書きのペンキ看板なのである。1,980年代の初めに私が初めて中国の広州に行った時、巨大看板は全部手書きのペンキ絵であった。それにノスタルジーを感じている。この石原裕次郎の映画看板も20世紀のノスタルジーに属しているのだ。

一昨年モロッコのカサブランカに行った時、街の中心部にクラシックな映画館があってそこにあの有名な映画のカサブランカの巨大看板がかかっていた。

これも手書きの拡大されたペンキ絵なのだ。実際にカサブランカを上映していたのかどうかはわからなかったが映画の看板と言うのはそれが巨大になると文化そのものになるのである。

今回の 1966と言うタイトルは私の日大写真学科1年生のときの年代がそれなのである。
当時はまだ人生生まれたてだから銀座が面白くて明日の9時ごろから夕方の6時ごろまで銀座をあっちこっち徘徊して撮影していた。だから私の精密な銀座の記憶と言うのは60年代後半のそれなのだ。

フイルムはトライエックスであったからそこら辺は今も全く変わらない。最初にライカを手にしたのは1967年だからこれはその1年前なのでミラーをアップしたニコンエフにニッコール 2.1センチで全部撮影している。

私は実は日本映画が大嫌いである。
オズもくろさわも嫌いである。だから私の周りの連中がケンサンは最高の俳優というのでミュージアムに行くのは脇で感心しているだけで彼らの価値観がわからない。
私が尊敬している映画監督はエイゼンシュタインとメカスそしてゴダール、タルコフスキーぐらいなものだ。

稲垣足穂も述べているが、彼は無類の映画好きだが足穂が映画に感じている魅力はその映画の機械学であって、お涙頂戴の筋書きの方ではないと明言している。まさに同感である。もともと映画は大衆娯楽であるからそこら辺に興味がないのだ。
一方で前衛映画も時間の経過には耐えられない。これも映画の不幸だ。

2017年2月10日 (金)

偽のホタテをカワウソのお皿に

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昔のいらないものを出してそれを大量に捨てている。もちろんその中で気に入ったものは手元に残してあるのである。これは最近気にいっているコンビニのホタテの貝柱。
これにオリーブオイルをかけて何も味をつけずに酒のつまみにするとうまい。

そこに10年ほど前に北京で買ったこのお皿が出てきた。もちろんそんなお皿の存在はすっかり忘れていたが出てきたらそのことを思い出した。
お皿の裏には清の時代に作られた年号が入っているがもちろんこれはレプリカである。

カワウソの皿を買ったのは10年以上前であろう。その後、北京でオリンピックになる前とオリンピックの後1年ぐらいは混乱に巻き込まれたくないから北京にはいっていない。

最初に北京に行ったのは80年代の終わりそれはカメラメーカーの報道写真コンテストの審査委員長と言う役割で行ったのである。
新華社のプロ写真家の写真コンテストで中国中から第一線の写真家の傑作が集まった。私はそれを審査したと言うのではなくて最終的に確認して。新華社の本社の大ホールで受賞者に症状を渡す役割であった。

その頃は北京の環境が珍しくて古道具屋などを軒なみはしごしたので撮影は全然できなかった。北京の下の裏町を本格的に歩いて撮影をするようになったのはだからたかだか7ー8年前からなのである。

このカワウソのお皿はそういう10年以上前に買ったのであろうが、どこで買ったのかいくらしたのか全くわからない。それで今回初めて使ってみた。

何か池の辺りに登場したかわうそさんと私がさしで飲んでいると言う感じが非常に気にいっている。

2017年2月 9日 (木)

ゼニット5というカメラ

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1,950年代の後半にレンズシャッター式の一眼レフと言うブームがあった。その発端はフォクトレンダーが作ったベサチックである。

レンズシャッターを利用した一眼レフと言うのはシャッターのサイズで制約があるから光学設計はかなり難しいはずなのである。しかし当時この種類のカメラは大ブームになった。

それを当時のソ連でコピーしたのがゼニット4…5…6のモデルであった。
当時のソ連が作った西方のカメラのコピーで1番有名なのはライカのコピーのフェドなどである。さらにハッセルブラッドのコピーのサリュートとかレンジファインダのコンタックスのコピーのキエフなどがある。

それぞれにコピーがなされているがフォクトレンダーベサマチックのコピーはかなり高度な術がないと作られなかったに違いない。
修理屋さんに聞いてもオリジナルのカメラですら非常に複雑で修理が難しそうである。

ソ連製のゼニット4型から6型まではそのせいかどうかわからないがとにかく製造台数が少ない。
それぞれ数千台から1万台なのである。ソ連製のカメラは数100万台から数千万台のコピーが作られるのが普通だったから、このぐらい数が少ないカメラの生産台数と言うのはソ連にしてみるとほぼ試作品と言っても良いのかもしれない。

この3種類のゼニットは似たような性能なのだけれども5型は変わっていて、これは世界で初めてのモータードライブそれも電気式のそれを内蔵をしたカメラなのである。

しかもセレン式のメーターが連動するのだ。それだけ高級機なのであるが市場では全く人気がなくて安い価格で売られている。
だからこのゼニットの各モデルはお買い得なのである。標準レンズは50ミリであるがその他に38ミリから80ミリのこれもフォクトレンダーのズームレンズを完全にコピーしたモデルが存在する。

最初期ズームレンズであるがオートニッコールズーム35ミリ80ミリと言うのは実際に製品にはならなかったがこちらのソ連製のズームレンズはちゃんと市販されていたのだから大したものだと思う。

しかし当時の光学設計であるから非常に巨大で重いので、まず通常の撮影には伝わない。それで地味で真面目でよく映るこの50ミリの明るさが2.8のレンズを多用しているのだ。


2017年2月 8日 (水)

出雲よりの使者 生姜ネズミ

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うちのハリネズミが昇天したのは1988年のクリスマスイブのことであった。
すでに三十年近く前のことである。


あの頃はハリネズミはまだ世の中に知られてなかった。ハリネズミが体調を崩したのでどうぶつ病院につれていったら、先生が珍しがった。
当時、黎明期のハリネズミについてお話ができたのは坂崎幸之助さん、羽仁進監督くらいなものであった。

ハリネズミはプラハでは人間の一番近くにいる野生動物であった。人はお皿にミルクを入れて出しておくと、夜中にハリネズミの家族が飲みに来る。
そのお礼にハリネズミは棘にリンゴを刺して届けにくるというのである。

無論、そんなことはないんだがこれは民話であって、プラハあたりではハリネズミがリンゴを背負ったフィギュアがある。

大田区の小池さんが結婚して十数年、いまでは奥さんのご実家に近い出雲にお住まいを建てた。
出雲はあたしもいったことがある。
雲はやく動き光の明暗が激しい神の国だ。

小池さんの奥様がハリネズミのフィギュアをショップに見つけて送ってくださった。
ありがたいことだ。

うちのハリネズミは俗名をハーくんと言った。ハリネズミだからハーくんである。
名物の生姜糖も一緒に送られて来た。

家人は生姜糖を紅茶で楽しんでいる。
それで思い出したのが、しょうがねずみのことだ。
ハリネズミが悪さをすると、しょうがないネズミなので、しょうがネズミとしかった。

しょうがねずみとは、生姜ネズミであったことが判明したわけである。


プラハのハリネズミはリンゴであるが、出雲のハリネズミは生姜糖がお土産というのもなにか奥ゆかしい。


2017年2月 6日 (月)

創業五十五年 おはる

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佃島に暮らして30年近くになるのだ。
当時の相生橋は架け替え中であって完成するまでに数年かかった。
それで仮の橋を渡って江東区のほうに行き朝潮運河の北側をえんえんと歩いた。

北に向かう水路があってちょっと行ったところに福島橋という小さな橋がある。その脇にあるまるで映画のセットのようなラーメン屋さんがおはるであった。

30年近く前と言うのは、今のようなラーメンの天下分け目の決戦があったのかどうか知らないが、私はもともとお店のマスターが腕組みをして恐い顔をしているようなラーメン屋さん、そして何時間も待ったと言うことが自慢になるよなラーメン屋さんは苦手である。

それで数年来東京ラーメンタリーと言うククラブを作って行きあたりばったりに街中で最初に出会ったラーメン屋さんに入ると言うことにしている。
頼むものはいつもラーメンでそれ以外のものはオーダーしない。

それでずっとおはるのラーメンを食べてお店の人と無駄話をした。
六本木ヒルズができてからほとんど毎日六本木に行っていて、この方面は方向としては反対側なのでいかなくなった。十年はあっという間に年月が流れるものである。

六本木ヒルズを卒業してから、2年ぐらい後に思い出しておはるに行った。おかみさんは姿が見えなくて写真がカウンターの脇に飾ってあった。

ああ、、、そう言うことなのかと思った。それで親父さんと息子さんがキッチンに立っていた。

それから1年ぐらいしてから行ってみたら今度は親父さんがいなかったので、これは大変だと内心思っていたらそうではなくて、 80代になって今でも元気に魚河岸にに通っているそうである。

先月のアローカメラのシドニーの終わりに有志でおはるに行こうと相談したが、おはる前に到着したのが5時15分だった。そこの飲み時間は午後6時からなのであるわれわれは45分の時間が待てないので残念ながら中止した。

それでその次の週の半ばに隅田川を歩いて月と金星と火星が何かイスラム圏の旗の一部になっているような夕方空の下を歩いておはるに6時に到着した。

暖かい日だったので息子さんはガラスを全部開けてスポーツ新聞を読んでいた。
それからチューハイを頼んだ。チューハイは私が有楽町のガード下で飲むと160円であるがここは500円するのである。

誠に当然な話でここでのマスターとの会話がレベルが高いからチューハイとか麦酒の350シーシーが500円でもまだまだ安いと言う感じがする。

おつまみも500円のが1種類しかなくてこれは私が長年食べてきたおはるのラーメンに入っているシナチクと焼き豚とゆで卵とそして夏に使う紅しょうがなのである。

それでチューハイをニ本飲んだら実にいい気持ちになってそのまま今度は永代橋を通って新川経由で中央橋を渡り家に帰ってきた。

行きも帰りも陋屋のある街を通らずにいきなり舞台のセットのようなお店にいけると言うのも大変不思議であり幸せなことである。

2017年2月 5日 (日)

にせもんがほんもんをこえる シシリーのホタテ

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本物と偽物の戦いは比較文化論になっていくから色々と掘り下げてみたいものだ。

日本の今のカメラの大ブームでももともとはドイツのカメラのコピーから始まっている。
最近の若い方はそういうことをご存じないから昔から日本がカメラが世界一であると言うようなふうに考えている人もいる。

佃島小学校の下校時にたまたま買い物に行くので子供たちの列に取り巻かれてしまったら、彼らが言葉遊びをしている。その言葉遊びに曰く

「正義が勝つとは限らない」

と言うのである。
これはなかなかこの世界の真実をとらえている。

魚肉のすり身製品と言うのは今では完全に市民権を得ている。しかし1982年にニューヨークにいた頃にはエンパイアステートビルのすぐそばのランニング寿司でニューヨーカーが食べているのはカニカマなのであるが彼らの表情を見るとどうもそれが本物のカニの肉と思っているようであった。
こういうのが1種の信仰心であって現代には大切なのである。

ニューヨーカーが我々極東の人間より味覚の件で優れていると思うのは、そのカニカマの寿司を食べながらお砂糖をどっぷり入れたお茶を飲んでいることであった。

最近のパリの寿司ブームにしてもそうだが日本の難しいしきたりとかそういうのは極めてローカルなものであって、彼らが食べる寿司の方式が実は正統派なのかもしれない。

佃小学校の子供たちが言葉遊びで言っていたように、正義が勝つとは限らないのである。

私の場合この正義が勝つとは限らないという食べ物の一例を挙げるのならば、全盛期にイタリーのシシリー島2週間ほど旅行したときのことである。
これはイタリア政府観光局のプレスツアーであるのだがシシリー島のその場所が既に特定できないレストランに出かけた。そこでの帆立貝のグリエの味と言うのは生涯忘れないのだが、ホタテ貝をさっと炙り焼きにした何とか言う 1皿であってそれが記憶に強く残っている。

しかし自分の味覚の記憶が非常にいい加減であるなと言うことを今回再度認識したのは、近くのコンビニで買ってきた練り製品の貝柱に上質のオリーブオイルをかけて食すと、そのシシリー島の最高級のホタテのグリルと同じ味がすることだった。

いくら我々がストレートフォトグラフィーだなどとほざいてもなかなか世間様がそれを認識してくれないのとこれは同じことだ。

ホタテの貝柱に関しては築地の場内で買ったりとか、いろいろ試しているがコンビニで売っている偽ホタテが気に入ったのはいつ買っても味が同一であると言う点だ。

これはなかなか捨てがたい信頼感である。


2017年2月 4日 (土)

佃堀の川底を覗く

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先週佃小橋の上で重機が土嚢のようなものを積み上げていた。それで今日見に行ったらすごい引き潮だと思った。
それは勘違いであって、引き潮ではなくポンプでお堀の水を全部出していたのである。
佃に30年近く住んでいるが、堀の底が見えたのは今回初めてだった。

それでいろいろ面白いことがわかった。最大の成果はこの川は思ったより浅いと言うことである。

別に日本海溝と争うほとの深さとは言わないけれど少なくとも5メーターか 10 メーターの深さがあると思っていたのだ。それがせいぜい2メーターが3メーターなのである。

今回の川の底が見えたことで1番喜んでいるのは白鷺である。
白鷺は川辺の鳥があるから水の中には入れない。それで岸辺で魚を突いていたのだが今回は川底まで全部白鷺の行動範囲になっていた。それでたらふく食べてお腹がいっぱいになってちょっと歩きにくそうではあるが。

川の底が見えたのを逆光で佃小橋の上から眺めていたら私の少年の頃の記憶がいきなり浮上した。

それは東京に大雪が降ったときの記憶である。おそらく昭和29年の今頃だと思うのだがその時に見た東京の大雪の風景である。川底は泥であるがそれを逆光で見たときに東京のとけつつある大雪の様子とその光のデテイルが非常に似ていたのが妙であった。

別の発見もあった。
佃堀の南側に一定間隔でかつてはそれほど大きくはないが樹木が生えていたということがわかったのだ。つまり佃堀の幅と言うのは以前はもっと狭くてその幅が広がったところで樹木が根本からきられてその上が水になってしまったのだ。

謎の大陸アトランティスを発見した感じですね。

土地の古老の私としては川底が見えたというのはまさにビックイベントである。長生きをしてよかったと思った。
でもまず喜んでいるのは白鷺ちゃんと私ぐらいなものであろう。


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2017年2月 3日 (金)

下校の児童 高円寺から環七

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高円寺の南の方角つまり環七から新青梅街道を中野駅方面に行く通りが好きである。 数年前そこで路上で老眼鏡を拾った。 その頃は私はまだ目がそんなに上がっていなかったので老眼鏡等何になるかと思っていた。ところがそれから数年で老眼が進化して最近ではしっかりした老眼鏡がないと目の前30センチが不確かになってくる。ただしiPadで原稿書いてる時は文字のサイズが自由になるからそういうものは必要ない。 新青梅街道のあたりを歩いていたら巨大な建物の前を学校帰りの小学生2人が歩いている。小学生と言うのは実に危険な存在であって、単に近づくと地球を破壊するほどの大きな音の出るアラートを持っていたりするから油断がならない。 だからそういう小鬼のような連中が通る時は老人はなるべく静かにして通過願うことにしている。 10年以上前に出した東京ニコン日記でもそうなのだが私は下校時の小学生の制服と言うものに何かひかれているところがあるようだ。 その理由は私は文京区の小日向台町小学校で音羽の家のすぐ裏手の山と言うのはお茶の水女子大の附属と教育大学の付属の小学校中学校があった。 その教育大学附属の小学生のジャンパースカートというのが今思っても非常に不気味な色なのである。大震災直前の青空とでも言って良いだろう。あたしは区立だから制服はなかった。その制服のないことが何か自分のコンプレックスになっているようなのである。 それがストレスになっていたと言うわけではないが制服のない私の小学生の6年間は何かとりとめのない時間がそのまま通過したと言う印象だった。 そういう深層心理上の深いコンプレックスのスライスが学校帰りの小学生の少女の列を見ると何となく頭の深いところで浮上してきて、そしてそれは何か憧れと言うよりも淡い懐かしい思い出になっているようなのである。

❤️お知らせ

次回のチョートクカメラ塾は水曜に配信です。テーマは
チョートクカメラ塾2017021

「ライカの命長く
デジカメの命短し」

2017年2月 2日 (木)

ニセモンがほんもんを超える パリのベンチ

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前回パリに行ったのは2015年だからもう一昨年の5月になる。誰にも会わないで撮影をしていた。あったのはホテルのレセプションのムッシュとスーパーのレジのマドモアゼル位のものである。

話題沸騰の印ビトウィーンギャラリーは様子を見に行ったが別にスタッフに声はかけなかった。それから1年たったらそのギャラリーは既に別のところに移動していたのでこれはビジネスが成功したのではないかと思う。

4月から5月にかけて私をこのギャラリー紹介してくれた中藤さんと2人展を開催するのである。
中藤さんは今回も現地でワークショップを開催するそうだ。

私はオープニングに行く位の用しかないのだがおりあしくその頃かなり多忙になりそうなので今のところ春にパリに行ける確率は50%である。別に現地で自分の写真を見ても自分の写真が変わるわけではない。

さらに新しいビジネスチャンスを開こうと思うほど若くはないので極東に潜伏して自分の過去の仕事を分析しようと思っている。

この佃界隈はシラクが市長であったと言うからかなり昔の話になるが、隅田川とジエヌビエーブが姉妹にになったのでパリの環境をかなり招いているところがある。
その一例がこのベンチである。

1つの背もたれで同時に複数の人間を収容できるベンチはいかにもフランス的である。メトロの車両の捕まる棒にしても人間の手の触れる高さは3本に分かれているので非常に合理的である。

一昨年の5月のパリでフイルムで撮影していた時は左手が帯状疱疹で全く使えなかった。それでフイルム交換はパリのあちこちに無数にあるこれと同じタイプのベンチで腰を下ろして右手だけでフイルム交換をやったのも懐かしい。

それが今では立って歩きながらフイルム交換をできるまでに回復したのはありがたいことである。

デジタルカメラであればフイルム交換をせずに何千枚も取れるわけだが、それでは写真の醍醐味を最初からぶち壊してしまっている。

やはり36枚撮って考えながらフイルムを巻き戻してそれを右のポケットに入れて左のポケットから新しいフイルムロールを出すというのが精神衛生上よろしい。

これはパリのベンチそのものであるから今パリだと言い張っても良いのだが、ばれるのは背景が赤土であるからだ。パリは砂のようなグレーの地なのである。そこが本物と偽物の違いであるがそんならPhotoshopを使って赤土をグレーに変換することもできるのだがそこまではしたくないと言うものだ。

追記
一昨年の5月のパリのベンチがこれである。こうしてみると路面の色はそんなに違ってはいないな。Image


ニッポンの技が世界で1番

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月曜日の夕方にメールをチェックしたらこう言うライフスタイルマガジンから取材の依頼の企画書が届いていた。それで時間をやりくりして翌日の火曜日にインタビューうけることにした。

おしゃれな青年と仕事のできるカメラマンのお二人が見えて私を1時間半ほど取材していった。その日から2週間たたないうちにもうその雑誌ができて送ってきたのにはびっくりした。こういうのを電光石火と言うのであろう。

「ニッポンの技が世界で1番」と言う特集でトップは手塚治虫である。その次が黒澤明で日本の映画がすごいと言う話で、以下十ほどトピックが特集されていた。

私はミラーレス一眼レフの技術とその影響についての話をしたのである。

雑誌が出来上がってみると3ページ構成で非常にうまくまとまっているので感心した。冒頭ページは私が話したことをインタビュアーさんがうまく記事にしてくれて、3ページ目はあたしが生で話していると言うような展開になっている。見せ方が実にうまい。

ミラーレスカメラと言うことだったのだが、私は手元にあるカメラはこの表紙に出ているものしか持っていない。しかもそれは数年前のモデルなのである。

でもこの雑誌の全体の構成と言うのは歴史的なバックグラウンドに立っているから、カメラ雑誌なら3ー4年前のカメラについて話すのではお話にもならないであろうが、この場合は歴史的な展開があるから別に問題はないと思った。

何しろ登場人物がソニーの創業者とか手塚治虫とか黒澤明なのである。生存している有名人はその中ではビートたけしぐらいだ。

デザインを見てびっくりしたのは、これはまさに袖ヶ浦ナンバーのシャコタンの青年が着ているジャンパーみたいな感じでなるほどと感心した。

それで気になったのはライカのデジタルカメラの最新型の液晶表示のことだった。
私の周りの連中が皆さん競争であのライカを購入して中には初期不良に当たった幸運な人もいるのである。こういうのはライカの女神が微笑んだと言うのであろう。

昔、最初のモデルのライカエム8を何かのメディアでテストした時の事だったが、日本語表記にするとその日本語の字体が非常にクラシックなので、何かへんであった。

大東亜戦争末期の南方で日本軍の投降を促するビラにその字体は見ているのだ。

それでライカエム10の日本語表記はどうなっているのかが気になって、数日前に銀座の数寄屋橋まで行ったのでよほど銀座日の丸やにそれを確かめに行こうかと思ったが、それも大人げないので結局やめにした。

Facebookを見ていると最新型ライカ入手した人の手記が出ていてそれによると、「日本兵に告ぐ」という時代ほど古いロゴでは無いようだ。
でもよく見るとやはり変な日本語のロゴに思える。

インタビューを受けたのでアイディアが兆してこのミラーレスカメラを持って撮影に出かけた。
実に迅速かつ綺麗に映る。だからデジカメは数年落ちのものがいいと言っているのではありません。

早速画像チェックしようと思ったら、仕事場にあるカードリーダーが全部紛失している。
写真家を半世紀やっていて家にカードリーダーが1個もないと言うのは私ぐらいなものであろう。それでアマゾンに注文したらすぐに到着した。

でも配送の箱が大き過ぎて開けるのが面倒で開封せずそのまま。

2017年2月 1日 (水)

白い船

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30年近く前の佃小橋は土橋めいていた。
その色は冴えない材木の色なのである。

それでは観光地にならないというわけであろうか立派な赤い橋になった。「東京ニコン日記」に登場する昔の佃小橋はそこでお祭りの獅子舞をしているところをとったのだがそれは1,966年頃であったと思う。

田舎にあるような地味な橋でそれはそれでよかった。

この細いクリークは佃堀と言われている。もともとは住吉様の脇から入って南に直角に水路は曲がってさらに南につながっていたようだが、佃大橋ができてしまってから途中で寸断されてしまった。

いつの頃からかそこに小さな白い古いボートが係留されていた。佃の船着場の専門家に聞いたら何でも排水量50トン以下の船は東京湾から外洋に航行することができない決まりになっているそうだ。

私がいつも利用している飛行機の場合は際限なくどこにでも行ってしまっえるので、逆にこの小舟は行動半径が限定されているのがローカルで良い感じだ。

しかしこの白い船の様子を見るともうエンジンがないのではないかと思われた。
昔のモスクワとか昔のローマとか最近の回路等で路上に廃車がそのまま家捨てられているのを見るのが好きである。要するに実用の自動車からもっと崇高なオブジェにどんどん移行していくわけだ。

東京オリンピックが来て外人さんが佃に来たときに後進国であるのは恥ずかしいと言う意味なのであろうか、最近あちこちで工事をしている。
佃小橋も何か重機が入って大掛かりな工事が行われている。
こういうのが、おもてなし なのか?

住吉様の裏手の水路に新しい船をもうやるための柱が数本打ち付けられたので何が始まるのかと思った。そしたらその次の週に佃小橋の工事が始まって私の好きな白い船はいなくなってしまった。

私は散歩の帰りに水路の脇からこの疲れた白い船を見て自分にオーバラップしたりして楽しんでいるのであるが、実際にはゴイサギがここにきて羽を休めたりして結構自然環境の為にも役に立っているのである。

そういう鳥連中も泊まり慣れた白い船がなくなったのは困ったことであろう。どこに持っていかれたのかなと思って橋の先を見たら、ちょうど住吉様の裏手の、さっき水路の新しくぼっくいができたところに私の好きな白い船はもやってあった。

それでやや安心して実際にこの小さな白い船を観察すると、やはり不思議なのはその船の名前がマジックインキか何かで書かれているような不確かな不完全な不鮮明さなのである。

名もなき船と言うのは変だがすごいアマチュアリズムを貫徹しているような船である。
関口丸 というらしいがよくわからん。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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