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チョートクカメラ塾ブログ

Chotokuぶらり パチ塾

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2017年1月31日 (火)

羅馬の一眼レフ

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レクタフレックスはイタリアのローマの一眼レフである。20年位前は東京のカメラ屋さんで持て余し気味であって中古が出るとみんな私のところにやってきた。

たいていはどっかが具合が悪かったりFinderのルーペがなかったりするのである。
それでレクタフレックスがたくさん私のところにやってきた。

このカメラの故郷であるローマを見せてやろうと思ってレクタフレックスを持って会社のあったところに行ったこともある。

ローマの中心部の「甘い生活」の映画のロケをしたカフェのすぐ近くがアメリカ大使館であってそこから歩いて5分ぐらいのところにレクタフレックスの本社があった。

誰だったか忘れたが1,950年代のローマ法王がカメラが好きなのでバチカンからわざわざ会社までやってきた。それで金メッキのフレックスを贈呈されたりしている。

レクタフレックスの会社はいわゆファハシズ風の建築でなかなか立派であった。ファシズムはごめんだがファシズム風の建築物と言うのは良い。確かミラノの駅もそうであったと思う。

レクタフレックスを忘れるといけないので時々埃を払ってこうして使うようにしているが使い方で間違えるのは、ライカやコンタックスとフイルムの巻き上げ方向が完全に逆である。これはマニュアルにちゃんと書いておかねばならない。

それとファインダーの見え方が普通の一眼レフと比べると変なので初心者がファインダーで構図を決めようとしてめまいを起こしたりする。

このカメラのファインダーと言うのはちらっと眺めるだけ。深く観察すると体に毒なのである。そういうクラシックカメラの重要な使い方というのは最近のカメラ雑誌には書いてない。

仕事場の机の上にレクタフレックスを置いていつものように今は亡き有名写真家誰誰と書こうと思って、ふと気がついたのはこんなカメラを使っていた有名写真家と言うのはもともと存在しないのであった。

だからこの場合1番正しいキャッチフレーズと言うのはまだ生きている写真家田中長徳を偲んでと言うのが1番ぴったりくる。

このカメラが最初に世に出たのは1947年だった。
実に私と同じ70歳なのだ。

2017年1月30日 (月)

ファミチキ ロックユー

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京都と東京でロックユーといういう誰でも参加できるロックな写真展がある。昨日の我楽多屋さんの土曜日の参加者さんも参加を表明していた。

ところで私はファミチキと言う食品を知らなかった。
ガラクタ屋二代目がーこれを食べ過ぎると体に悪いから死ぬとか言って食べているあれである。

去年の6月の初めに四国に行った時に初めてファミマの店頭にファミチキ1億突破と言う垂れ幕が出ていたので試しに食べてみた。
確かに体に悪そうでこれを大量にとると死に至るという食品ではあろう。


しかしどんな食品を食べていても我々は死に至るわけであるから、むしろ健康には良いのではないかと思う。天国への階段ですね。
お酒は少量なら体に良いと言うのは欺瞞であってファミチキが少量でも体に悪いというのは真実である。


それで私は時々ガラクタ屋さんに行く時に別に緩慢な殺人と言うわけではないが、 二代目さんにファミチキを持っていった。私もこの世に執着は無いので同じ毒を食うと言うので1つずつ食べた。

毒をもって毒を制す。体調はすこぶる好調である。

二代目さんに関して言えば、私は彼の写真の才能を認めているものである。昨年あたりから非常に写真が良い。その良いと言う理由は彼がそれで商売をしようと言うことではなくて、自分の表現としてやっているからである。

これは非常にえらいことだ。何かの写真の賞取ろうとかパリで写真展をやって有名になろうとか、私のようにいい加減な本を書いて生活の足しにしようとかそういう軽佻浮薄なところがない。二代目はその意味で本物の写真表現者の中に入っている。

二代目さんも京都と東京のロックユーの企画に参加しているが、最初はいわゆるアマチュア写真家が撮るような都市伝説のかっこいい写真をー制作していた。

それが考え直していつも私に毒を盛られているファミチキをテーマにした写真に差し替えた。

それがこれである。一種の綴り方教室なのである。説明すると自分の生活を1対1のレベルで真面目に直視していると言うことになる。

つまり生活の写真言い換えれば、正岡子規頃の写生になるわけだ。

2代目さんの出品作品の下のポートレートはまた凄みがある。

30年前のテレビの青春ドラマこういう人が主人公の敵役であって悪役で暗躍して彼は交通事故で死んだりしてそこに真実の友情が芽生えるどういう三流ドラマのの脚本に出てくる人だ。

その意味でファミチキのイメージキャラクターとしてはふさわしい。

ファミチキでロックユーの展開が楽しみである。

2017年1月29日 (日)

邪宗門

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邪宗門と言う名前の喫茶店が東京に何箇所かあるという事は以前から知っていたが、私が非常に魅力的に思ったのはそのカフェの狭さなのである。 winは1683年にコーヒー豆が伝来して最初の喫茶店ができたと言う伝説があるが、winの喫茶店と言うのはだだっ広いのが普通である。 ところがこの邪宗門は超絶的な狭さである。実際にそのサイズを計測したわけではないが間口1間の2階建てで、この店は荻窪駅の北口の商店街の中に存在していた。 過去形で書いたのは今現在どうなっているか知らないしこの撮影は3年以上前の事なのである。 こういうその装飾がフランスのアルザス中央というかシャモニーにあたりに、存在しそうなファサードを持っているのは、これは我々日本人の思いつきであって実際にはそのような建築物は無いのだ。極東の我々が空想したものの形がそのまま逆に現実味を帯びていて面白い。 以前の神田神保町のキャンドルと言う喫茶店は今は高層ビルの奥の1階に入っているが、当時の一戸建てのキャンドルもなかなか日本人が考えた西欧の美学というところに存在していてそれがよかった。 そういう駅のターミナルの広場に面した幅が狭いにかいだての喫茶店と言うのが好きだった。 この店は前後二回しか入ったことないが実に急な階段で上に上るのである。 そして女主人がその急な階段をバランスをとりながら香り高いコーヒーを客席に運んでくれるのですごい技術だなと思った。 日本家屋の急な階段を体のバランスをとりながら、しかもお盆に乗せたコーヒーカップを運び上げるというのはかなり高度な運動神経が必要なはずである。 ベルギー政府観光局の取材でブリュッセルとその近郊にある鐘突堂、いわゆるカリオンをたくさん取材したことがあった。 木製の急な梯子の上に鐘突堂の係りの人が居住する狭い部屋があるのだが、この喫茶店もその作りが何やらよく似ている。 だから私がこういう素敵な喫茶店で何を感じているかと言うと、それはコーヒーを飲む場所と言うのではなくて、何か数寄屋造りの茶室が2階建てになっている、と言うような印象を感じるのである。

2017年1月28日 (土)

オズのコンタックス

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佃島から深川経由で両国方向に歩いて行くと普通の街角に小津 安二郎の生まれた家であると言う石碑が立っている。

そのことがずっと気になっていたのだが私は小津 安二郎の映画をリアルタイムで見た事は無い。小津 安二郎は監督作品の中でカラー作品と言うのは1本しかないから、当時の観客はこのモノクロームの作品を見て感動し涙を流していたわけである。

今にして思うと当時の映画というのはなかなかアカデミックであり知的で情緒的だったということが今にしてわかる。

Facebookで昔の小型映画の撮影機テーマにしたのを遊びでやっている。
そのタイトルがかなり変わっていて、「ダブルエイトをドアストッパーにしないための市民の会」と言うのである。それに参加したのはマンハッタン在住のフイルムディレクター船原長生さんであった。

その船原さんがメンションしてくれたのがこの小津 安二郎がコンタックスを構えてどっかの旅館の鏡を覗き込んでいるというショットだった。

有名映画監督のセルフポートレートと言う意味でも非常に面白いが、これはコンタックスの3aなのである。不思議なのは小津 安二郎は鏡の中を覗き込んでいるがシャッターは押していないのである。それが不思議な浮遊感があるのだがこれはセルフタイマーでの撮影なのであろう。

コンタックスについているのは標準レンズだがどうもゾナーの5センチのef 1.5のように思われる。大映画監督であるからそのぐらいの高いレンズを買うのはもちろん何の問題もなかったに違いない。

小津 安二郎の生涯はエキセントリックであって人生の悲劇と言うよりも、人生に深く祝福されているように思えるのは12月12日の誕生日が同じく昇天日であったことだ。

60歳の還暦のその日に亡くなっているのである。

なくなったのは1963年であるからこのコンタックスはその数年前と言う感じで既にやや時代遅れのカメラになっていたようである。そこがまたいい感じだ。

それでその当時のツアイスのコンタックスとそれのコピーカメラであるニコンが当時どのような状況かにあったかを思い出すに面白いことがある。

地方の資産家であればまずライカがコンタックスを写真の趣味のトップに据えてそれを揃えるのであるが、ライカが一般的であってコンタックスの方がもうちょっとだけひねったというかハイブローなカメラ人類連中が手にしたものというふうに考えることができる。

実際にそのような人を私は知っていたが持っているカメラは 小津 安二郎と同じ露出型付きののコンタックスでもう1台はニコンのレンジファインダーカメラをもっていた。

それでその使い分けなのであるが、晴れた日には世界最高級のコンタックスカメラを使って雨の日にはコンタックスがもったいないから国産のレンジファインダーを使うと言うのである。

いかにもお金持ちのやりそうなイヤミなカメラの使い分けてあるが、これは当時の誰にでも許されるようなカメラ選びではなかった。

映画監督の鏡の中に向かってのセルフポートレートで有名なのは、スタンリーキューブリックが多分戦前に撮ったと思われるライカを手にしたセルフポートレートである。こちらの方はキューブリックはちゃんとシャッターボタンに指をかけているのである。

写真家の方でセルフポートレートで国際的に1番有名なのはリーフリードランダーがデビューした当時に自費出版した写真集「セルフポートレート」であろう。ここには古いライカM2が写っている。

木村伊兵衛もセルフポートレートが残っている。これが60年代初めにドイツのWETZLERに取材で行った時のものらしくて、初めて手にした最初のライカフレックスを持ってホテルの鏡の中を覗き込んでいる。

私も後年WETZLERに取材に行った時、木村が宿泊していた当時、もともと小さい町だから外国人の泊まるようないわゆる「高級ホテル」は1つしかなかった。
それはホテルWETZLER HOFと言うのである。そこで木村伊兵衛を偲んで私もライカを持ってバスルームの鏡の中を覗き込んだこともあった。

2017年1月27日 (金)

1966年柳沢信さんのカメラ毎日の作品「無国籍地」のその先

Img_1590この春にパリで二人展をやるのであるがそのあたしのタイトルが「東京1966」なのである。

1966年というのは私にとって重要な年であって日大の写真学科に入学して、大学にはいかずにカメラを持ってあっちこっちふらふらしていた時代である。 つまり私が本格的に東京の風景を撮り始めた年だ

当時の好きな写真家に柳沢信さんがいた。

柳沢さんはおもにカメラ毎日で大活躍していた。その中で最も印象に残った仕事は晴海の先、つまり国際展示場の当時の姿を撮ったドキュメンタリーである。そのタイトルが「無国籍地」というのである。かなり物騒なタイトルであるが当時の銀座からたかだか20分歩いた晴海というところはまだ埋立地のままでそういう荒っぽい雰囲気が残っていた。

それで写真学生の私は真似をして晴海あたりを撮影したのであった。当時はできたばかりのドーム型の国際展示場しかなくて、そこは日本の未来に向けての新しい窓のような存在だった。そこでアメリカのフードショーなどを見学して撮影してこれこそ未来なのかと感心した。時代はアンディウオーホールのキャンベルスープの缶がずらりと並んでいる時代であったから、脂っこいフライドチキンも何か輝かしいアメリカの近代生活というふうに思ったのである。

それ以来、晴海の先は全くのご無沙汰であった。晴海通りというのは1,960年代にはいきなりそこの先は海で終わってしまうのである。公団住宅の当時としてはかなりの高層建築があってその先は海であった。それが今回半世紀ぶりに歩いてみたらなんと橋がかかっている。晴海大橋とかいうのであるがその先は豊洲かなと思って歩いてみたらこれが非常に長い橋なのだ。フォン川にかかるハノイの鉄橋のレールの上を歩いていうような感じがした。それほど長い橋であった。

非常に懐かしくなおかつ驚いたのは1,960年代半ばに柳沢信さんが撮影した当時の無国籍地と名付けられるような光景が未だにそこら辺に点在していたことにある。つくだの私の住まいから歩いていけるところにあるのが実に新鮮であった。

 

2017年1月26日 (木)

高円寺乱れ桜

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吉田拓郎の歌でその歌詞の中に、君はどこに住んでいるのですか?高円寺じゃないよねーーというのがあってそれが記憶の深いところにこびりついていた。 環七を縦軸にすると中央線が横軸でその第1次元の空間にはよく行っていた。そこには私が主筆をしていたカメラジャーナルの編集部があったからである。 しかし中央線の南の方には行ったことがなかった。 別に中央線の呪いを気にしているわけではないが、単にチャンスがなかっただけなのだ。高円寺と言う名前のお寺があることも数年前に知ったのでかなりびっくりした。 しかし私はそれをよりびっくりしたのは高円寺のお寺の山門からやや環七に向かった通りの左側にあったこの廃屋である。 本格的な日本建築であって、その表札の名残を見ると踊りのお師匠さんか何かが住んでいたようである。 その建築物が無残に風化して建物の窓枠などは平行四辺形に歪んでいるので何かチェコのプラハから輸出されたキュビズム建築のように見えた。 その建物の真ん中にというか前に、巨大な1本桜が満開だった。 私は桜並木よりも一本桜を信仰するものである。 折しも桜が満開であってあまりにもその印象が凄まじいので、まともにそれを直視することができなかった。 もうすでにないが、隅田川のうちの反対側、中央区新川に隅田川に隅田川鉤型桜というのがあった。これは私が勝手に命名したものであるが、私の写真集、東京散歩カメラなどにも掲載されている。桜の幹がクランク状態になっていた。 その隅田川鉤型桜も無残に切り倒されて、今マンションになっているから、その切り株の上に寝ている人は桜の精霊の夢を見ている事は確かである。 その隅田川鉤型桜になぞらえて、私はこれを高円寺乱れ桜と命名した。かなり俗っぽい名前であるが、もともと桜は大衆芸能だからそういうのがいいのだ。 日本家屋の廃屋を背景とした満開の桜と言うのはあまりにも残酷なので私はそれに目を背けてそれから1ヶ月後にもう一回花が散った後の桜を見に行った。それがこのショットである。 これが2013年の春のことだ。だからこの建物もこの桜ももうこの地上には存在しない可能性が非常に高い。しかしその変化を見るのが怖くて私はそれ以来この地域つまり高円寺に足を踏み入れてはいない。

2017年1月25日 (水)

中野打越

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稲垣足穂の研究ではないが東京で彼が移動した住居をプロットしてずっと勉強している。それはこの数十年にwわたるの私の追跡ゲームなのである。 足穂が神楽坂を追いたてられて大空襲にあって戦後になって住んだところの一つが中野打越と言うところであった。 それは資料で知ったのだが私はそれがどこであるか全く見当がつかなかった。 戦後の居住区の名前改革と言うのは単に機械的に所番地が振り当てされるだけなので、昔からの伝統ある名前は全て抹殺されてしまったわけである。 私の個人的なカメラマガジン、カメラジャーナルと言うのは1990年代から10年ほど継続した1人カメラ雑誌といっても…最初は8ページほどのものでヨドバシカメラに平積みに置かれていたのである。 それを皆さんはヨドバシのポイントで買ってくれたりした。そのカメラジャーナルの編集部というのが中野駅から歩いて15分か20分位の結構不便な場所にあった。 そのカメラジャーナルが存在した時期が既に10数年の昔になって、私はノスタルジーと言うわけでもないがこの界隈を徘徊していた。 そこに町内会の掲示板に懐かしい文字すなわち中野打越を発見した時は嬉しかった。 編集者がそのアパートの2階も三畳だかに訪ねて行くと足穂は骨と皮ばかりになった手をを火鉢で炙ったりしていたのだそうである。 後に足穂を京都に引き取ることになる彼の再婚の奥さんもその打越の二階を訪問している。 そういう私にとって歴史的な事実が解明されたと言うのがひとえに昔の古い街の名前の町内会が残っているからである。文豪ギョエテの生家などより私には重要だ。 昭和20年代のこの界隈の風景を想像するのはすでに非常に困難であるが、そのルートを発見できたことが非常に嬉しかった。 私の想像の中の稲垣樽ほうは相変わらずこの界隈をモク拾い、つまりタバコの吸い殻を探して徘徊しているわけである。 彼こそ本物のホーボーである。

2017年1月24日 (火)

阪堺電車にのる

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1,970年代の大阪はカオスだった。新世界などは歩いていてほんとに怖いと思ったこともある。 天王寺駅からごみごみした街並みを南に延々と走る古めかしい市電があった。 大阪芸術大学の関係で天王寺の都ホテルに泊まるようになってその時ようやく数十年前その市電のことを思い出した。 それでずっと南の堺まで乗ってみたらこれが異常に面白い。 世界中でいろいろな都市の市電に乗っている私であるがこの路線はイスタンブールの市電と12を争そう面白さである。まず走り方がめちゃめちゃであって大通りを走るかと思うといきなり路地裏に入ったりするところが良い。しかも幾重にも折りたたまれた時間軸をもぐったり出たりするのがこの市電なのだ。 それで私は興奮して1日乗車券を買って何度もこの路線を行ったり来たりした。 しかも停留所の看板がいい具合に色あせているのが誠に優雅である。 東京はトプコン通りの工場の裏手に長いコンクリートの塀の真ん中に1つだけ小さなドアがついていた。それは大昔青色にペンキで塗られていたのだが、それが時間を経て退色してしかも粉を吹いているのである。 その白く粉を吹いた青い鉄の扉が好きで私の東京散歩カメラにもそのドアは収録されている。さらにそこに指で猫の似顔絵を書いたりして遊んだ。 残念ながらそのドアはもう存在しない。 この退色した青看板にも類似の趣向を感じるのである。いやそれよりももっと古くてメソポタミアの遺跡から出土した古代の木片と言う感じがする。 電車の中は長い長いベンチシートで何か聚楽台の大茶会の赤い毛氈を思い出させる。良い赤色である。 目まぐるしく変化していくる電車のすぐ脇の建物を見ているといきなりピンクの建物が眼前に飛び越えて突進してくる。 まさにPink Floydのライブと言う感じだ。 電車の終点の浜寺公園は非常につまらないところなので5分もいられなかった。それでまたすぐ上りの電車に乗って戻ってきた。

2017年1月23日 (月)

つげ義春さん


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芸術新潮の 2014年1月号の特集つげ義春はすぐ売り切れになってしまって手に入らなかったので知人にゼロックスコピーをしてもらった。
そうなると安心してしまっていつでも読める場所に置いてそのまま数年が経過した。
今朝から家人がそのコピーの束を読んで面白がっている。家人はつげさんからの電話を受けた最初の人なのである。

妙におどおどした自分の名前を名乗らない。まるでで地の底からかかってくるような声だったと。これが1981年のことで私は当時つげさんと同じ多摩川住宅に住んでいた。
しかしスーパー有名人のつげ義春がなぜ私の電話番号がわかったのかは未だにわからない。

それで団地中央という場所にある昔ながらの喫茶店で時々会ってカメラの話をするようになった。夏であったのでつげさんは素足に下駄履きでカッターシャツを着ていた。下はジーパンである。

つげさんの漫画はガロの頃からよく読んでいたが当時のガロは神田神保町の焼酎家の奥の奥の路地の真っ暗な木造建築の二階にあった。青い表紙のつげ全集をそこに買いに行った。お金を払って手渡しをしてくれたのは忘れもしない南伸坊さんである。あるいは南さんにすごく似ていた人と出会ったのかもしれない。そこら辺は不明である。

もちろんつげさんと喫茶店でオレンジジュースか何か飲みながら「ねじ式」の話などはしない。
もっぱら国産のクラシックカメラの話が展開した。

これはいい機会だと思ったのでつげさんにライカウィルスを感染させようと思ったがライカは高いからダメと言うので最初から相手にしてもらえなかった。

つげさんは赤瀬川原平さんの親友でもあったようだが原平さんの場合にもライカは高いと言うのが免疫体になっていた。

偽ライカ同盟の会長に片岡義男先生をお願いした時、先生は二つ返事で会長を引き受けてくださったがそのあとで私がライカを目の前に置いてどうぞお使いくださいと言ったら、片岡先生はそのライカに指1本触れなかった。ここら辺が正統派のカメラ人類の根性だと思う。
ライカなどなくても写真は撮れる。

つげさんとは国産の一眼レフの話になって彼がミランダの最初のモデルを探していると言った。私はその年の秋から1年間ニューヨークに写真を勉強しに行くことになっていたので向こうでミランダがあったら買ってきますと約束した。

果たして到着してすぐにグランドセントラルステーションのコンコースでミランダの1番最初のモデルを手に入れた。

1年が経過して多摩川住宅につげさんを訪問した。
その時私は多摩川住宅の2階のつげさんの仕事場の三畳に入れてもらったのだ。クラッシックな木製の本箱があってその中には国産のクラシックカメラがぎっしり入っていた。

ニューヨークで買ったミランダの最初のモデルを取り出した。つげさんはそれを手にしてほしそうにしていた。
キッチンの奥さんに声をかける。
おーい、、、二万円だって、、、
その答えが
、、、じゃあいただいておいたらであった。お金はどうやら奥さんのお財布から出たようである。

プラハの労働者街、ジシコフの丘に北から南に貫く長いトンネルがある。そのトンネルが好きなので隣村に行くつもりでわざわざワインを丘の反対側に買いに行ったりしていた。そのトンネルの内部が何かに似ていると常々思っていたが、それはつげさんの描いた漫画の光景なのであった。
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2017年1月22日 (日)

病院

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東京スカイツリーが竣工して何年になるのかわからない。まだ1度も上ったことがない。東京ディズニーランドは竣工して何十年になるだろうがまだ1度も行った事は無い。そういう意味で私は極東の変人なのである。 新しい東京スカイツリーの脇にあるレンタル暗室にはよく出かける。東京スカイツリーがまだ土台だけで天に向かって伸びていない頃、雑誌の取材などで頻繁にこの周囲を歩きまわった。 福田和也さんと雑誌の取材でここら辺を歩いてその時は私が野々宮にゲストとして来てもらった。それで全員でこれから空中にできる空中楼閣の巨大なイラストの前で記念写真を撮ったりしたのである。 なんでもそうだがこれから計画されているはずのものはそれが実態になってしまうとつまらなくてその想像図とか完成予想図の方が人間はワクワクするものである。単純なことでそこには夢が浮遊しているからだ。それが現実になってしまうと現実だから面白いはずもない。 トラウム&ビークリッヒカイトと言うわけだ。 この界隈で私が大好きなランドマークはスカイツリーのすぐ東側にある病院である。 何の病院か分からなくて建物の上に大きく病院とマークが出ている。しかもこれを深く味わうためには夜がよい。スカイツリーの手前にスカイラインが影絵のように浮かんで、そこに赤い文字で病院と言う2文字が浮き上がるのである。 これは東京スカイツリーが安っぽい大都会のダイナミズムであるのに対して、こちらの病院の2文字はレベルがはるかに高いのだ。 東京は病院である。 でもそれに注意をする人間はせいぜい私と私の周辺の数人だけである。

2017年1月21日 (土)

雑誌のインタビューでプロ写真家にポートレートを撮ってもらった

雑誌のインタビューでプロ写真家にポートレートを撮ってもらった。Img_1560

ヘイルメリーマガジンというライフスタイルマガジンの取材を受けた。
そのインタビューの内容がミラーレスデジタルカメラなのである。私はデジタルカメラは創世記からずっと使っているからデジカメの土地の古老のようなものである。

取材スタッフはお二方である。
カメラマンはペリカンの大きなケースに目一杯機材を入れてきたのでちょっと持たしてもらったが私などは重くて持ち上がらない。

ミラーレスとかマイクロフォーサーズの話なのである。私は歳をとってきたからそういうのが軽くて良いと話しているのだが、カメラマンさんが持っているのはフルサイズの一眼レフである。だから私はその前後関係を説明した。

今は仕事はマイクロフォーサーズでも10分なのだが、ギャラが発生する撮影となると間に立つ広告代理店は高い請求書を制作するためにフルサイズのデジタル一眼デフでないと困るのである。

私も大手広告代理店の仕事をアマチュア用の小さなカメラでやろうとしたらフルサイズの一眼レフレフをレンタルしましょうかと営業の人が聞いてきたのでお断りしたこともある。

どのようなカメラを使うかと言うのは社会通念上の格付けというものである。それ以外ではないのだということがわかって面白い。

室内の撮影と物撮りが終わって私のポートレートを外で撮ることになった。タワーマンションを出れば目の前が隅田川なので撮影には便利である。

私は財界と言う経済雑誌の表紙等でたくさん会社のトップの男性ポートレートには慣れている。
それでカメラマンさんが撮影がしやすいよう自然にポーズを決めてしまうのは我ながらちょっと情けない。
それが撮影のプラスになったかどうかは別の問題である。

左側に立っているのは担当のインタビュアーの方であるがなかなか大人でカメラマンの三脚ケースをちゃんと背負っている。
こういうチームワークと言うのが雑誌作りには意外にに大切なのだ。

スタッフはいずれも30代の若人なので、まず最初お歳を聞いてそれからお話をした。それでないと話がちぐはぐになってしまうのである。

久しぶりに若い皆さんと話をしたので頭脳明晰となった。
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2017年1月20日 (金)

カメックスの研究

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40年前にwinで使った非常にクラッシックなフランス製のダブル8カメラ、カメックスの研究をしている。
研究というのは非常に良い言葉だ。宇宙開発の小型ロケットを研究してそれが失敗するのも、悪の枢軸の博士が何か世界陰謀の悪い研究をして失敗するのも、ともに世の中の役に立っていないと言う点では結果として役に立っていると思う。

中古カメラ市場の研究と言う言葉にはまた特別な意味があって、壊れたカメラには壊れていますとは書いてなくて、研究用と言うレッテルが貼ってある。これもなかなか日本語に幅があって良い。

それでこの研究用のカメックスは別に壊れているわけでは無いのだが、今手元にフイルムがないので結果としては研究用と言うことになる。
そこが奥ゆかしい。

win時代にこの1台のカメックスとズームレンズが二本、そしてプライムレンズが数本のセットがギャジットバックに入ったのを私は持っていた。
それで当時のそして今も最高のカラーフィルムダブルエイトのコダクロームで撮影をしたらその結果が良かった。

そういう記憶と言うのは大脳記憶の大事な金庫にちゃんと収められているので、今更その優秀さを再確認するという気は起きないのである。

でも自分は研究心が旺盛なので、それ用の資料をパリから取り寄せた。もっともパリから取り寄せたのではなくて、1960年にパリで出版された研究書をフランスのノルマンディーから送ってもらったのである。

カメックスの本体のほうはフランス南部ツールズに近い名前も忘れた田舎町から送ってもらった。それが3泊4日で東京の極東に到着したのにはびっくりした。
実は12月に半ばの事だがwinで注文したドイツのニッツオヘリオ真チックと言うカメラはフランクフルトから送り出したのに東京に着くまでに4週間かかっている。

これはフランスアエロポスタル社とドイッチエブンデスポストのの実力の差なのであろうか。
しかもサンテックスの大ファンである私はその愛機ライトニングでグルノーブル方面で消息をたった戦う操縦士を撃墜したドイツのメッサーシュミットがにくいと言うこともある。

到着した文献は単なるアマチュア向けのカメラの手引書である。それはフランス語で書かれているので私には非常に難解になる。だからこの場合、原書をひもといていると言い換えても良いわけだ。
ドイツ語のマニアルをすらすら読むのとは大変な違いである。


しかもその文献が学術的な自分をさらに鍛えてくれるのは、中のイラストが全部写真ではなく手書きであると言うことに尽きる。
アメリカ軍のマニュアルなどもそうだが説明するには写真ではなくてイラスト版の方が説得力がある。
一例を示すとこのカメックスにパンシナーの16ミリ用の巨大なズームレンズをつけたイラストなどが実に惚れ惚れする。

10数年間名刺を作ってないので・今度私は日本語と英語とフランス語でカメックス研究家と言う名刺を作ろうと思っている。

2017年1月19日 (木)

❤️お知らせ

次回の長徳カメラ塾は1/25配信です。
テーマは

「ライカM10登場!
カメラは道具だ。カメラをお道具にしてはいけない」

win時代の機材を思い出す

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20代の終わりから30代の中頃までwinで暮らしていたわけである。その当時の写真は手元にたくさんあるが、当時暮らしていたときの環境の写真というのがない。
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これはドナウ運河の広いアパートのなんにもない部屋で家人が楽譜を開いて暗譜をしているところである。ネガの前後からするとこの1本のフィルムはカロワイトでとられていたことがわかる。プロミナーは優秀なレンズだ。

モノクロームのトライエックスをスキャンしてみるとテーブルの反対側にライカらしいカメラが置いてあるのが見える。
カメラの下の部分が不自然に膨らんでいるのでこれは例のプロ写真家になりたがる連中が高いお金を投じるライカビットエムピーなのであろう。

その同じネガでテーブルの上を別のアングルで撮ったショットがあってそれを拡大してみたら正しくライカであった。
しかもライカビットMPがついている。もう1台はニコンエフである。ニコンエフを見るとニッコールのフラッシュガイドナンバーをコントロールするGN45ミリがついている。

ライカは距離計のついていないライカエム1なのだ。それに迅速巻き上げ装置のライカビットをつけている。今から見てもなかなか粋な使い方だなと感心する。これはそのままアンドwinの中古カメラ店から買った。固定式のズミクロン50もついていた。値段は忘れたが、私が買えるのだから高い値段ではない。

レンズはニコンエフマウントのニッコール2・1センチを自家製のマウントアダプターでライカにつけているのだ。

だから冷静に考えてみると半世紀前の自分が使っていた機材と現在に自分が使っている機材は全く変わりがないと言うことになってしまう。

テクノロジーがこれほど進化したのに機材の進化しないというのは情けないような気もするがでもそれで良いのだとも考えられる。

一方で半世紀前のデジタルカメラを今でも使っているという事は想像の外である。

2017年1月18日 (水)

祝!田中長徳に遭遇 ハンサム団のメモ

十数年前の事、当時流行りのネットサーフィンなるものをしていたら、いきなり私の名前が登場した。
これは当時のブログの走りなのではないかと思う。
タイトルが 「祝!田中長徳に遭遇!」

それを書いたのはハンサム団と言う人だ。思いついて検索してみたらハンサム団はたくさんある。
どのハンサム男だかわからない。

その内容が面白い。
川崎の関東カメラサービスに行った時にハンサム団さんは私を始めて目撃したのだ。
そのプロットはこんな感じである。メモを取ったわけではないのであくまで私の記憶によるものだが、多少の間違いがあるかもしれない。

ーーチョートクは早足で歩いてきて受付の女の子の前に大きな箱に入ったカメラをどんと置く。
受付の女の子曰く今日は遅かったのね。私曰く撮影が長引いてね。ーーー

ユーモアである。牛乳配達みたいだ。
これはハンサム団さんがその女の子に好意を寄せているということの証明である。
ハンサム団さんはうらやましいと感想を述べている。
これは彼が願望している「記憶の充足」なのだ。

実際にはそういう事実はなかった。
第一受付の女性の顔を私は記憶していない。社長と副社長の顔は記憶しているのである。ここら辺が証言の食い違いですね。

第一カメラの具合が悪くなって修理に行くときにそれが箱いっぱいと言う大変な数であるはずがない。
私は関東カメラサービスずいぶんいろいろお願いしたが、それはコンタレックスの改造であったりライカにストラップアイレットをつけてオーバーホールしてもらうような、そういう真面目な修理なのである。

ハンサム団さんが初めて私を見たときの印象だがこれが面白い。
想像していたよりもっとシャープな感じに見えたとある。そしてミッキーロークとかにもちょっと似ている書いているのである。
そのミッキーを知らないのでウイキで調べたら。同世代のプロボクサー上がりの俳優だそうだ。確かにごついのは似ているよな。

なぎら健壱さんのことを思い出した。
なぎらさんは本来シャープな感じの人で例えばカメラ屋さんに1人で入ってくるとテレビに出ているあのなぎらにはちょっと思えない。

いつだったか岩波書店の写真集でなぎらさんと対談した。写真が必要でカメラを向けたら彼はいきなり表情がが変わって「いつものなぎら健壱」になってしまった。


ハンサム団が私を観察した短いショットが非常に面白かったので、私は彼にお礼のメールを出した。
声をかけてくださればよかったのに残念です。と。

別に返事はなかった。
ハンサム団に呆れられたと言うところが掛け値なしの状況なのであろう。

2017年1月17日 (火)

押上カサブランカの左手

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この春にパリで写真展を中藤さんとやるわけだがそのための追加のプリントを押上のアウラ舎で制作した。 出来上がったプリントを取りに家からバスで押上に向かった。 メトロと違ってバスは周りの風景が明るく見えるのが良い。ダークルームはクリエイティブな部分があるがメトロの場合は単なる暗黒の移動手段である。 早めに押上に着いてみると非常に寒い日である。 しかし光がドラマチックだ。 亡くなった写真評論家の長谷川明と30年ほど前に東京の真冬の日差しが低いのでそれがいかにドラマチックな風景を作るかという話をしたことを思い出した。稲垣足穂も東京の真冬の朝の光を称賛している。 京島の細い道をジグザグに抜けて北に向かった。次々と新鮮な風景が私の眼前に繰り出されてくるのである。それをデジタルカメラで撮影した。 デジタルカメラは28ミリ相当の広角レンズが付いているので、私が初めて東京を撮影したときのライカに28ミリの広角レンズと自分の感覚は同一である。 路地の突き当たりに白い家が輝くように出現した。 つまり一昨年のモロッコのカサブランカと記憶と行動が二重になったのである。 反射的に自分の左手をかばおうとした。それは一瞬のことなのだが思わず苦笑いしてしまった。というのも2年前の今日に私はひどい帯状疱疹を発病してそれがようやく快方に向かったのが一昨年の秋のことなのである。 当時は左手は全くものを触ることもできないし、下げることすらできなかった。だからカサブランカ行きではキャリーバックエッチは常に右手で必要な時はものを持ち変えてやはり右手で操作するのである。 モロッコではそーゆー習慣が身についてしまったので、偽モロッコの押上のカサブランカの光景に遭遇したときに、私は思わず反射的に左手をかばったのだ。 シグムントフロイトの精神分析学でも左足を切断した人がいまだにそこに自分の左足がある感覚を感じているという一説があったがそれと逆の状況が私の左手上に起こったのである。 身体の記憶と言うのは非常に面白いと思った。 それで日曜日で休みのキラキラ橘商店街を歩いたらお店は全部閉まっていた。あいていたのが例のコッペパンのハトヤだけである。 あの撮影禁止で有名なお店である。私はもう十分にここは撮影したのでハトヤは無視してさらに北のほうに歩行した。 ちょっと遅れてアウラ舎に行ったら日曜日はカフェのお客さんで満員であった。プリントはまだできていなかった。私が日曜日と月曜日を勘違いしたのであった。それでまたバスに乗って佃に戻ってきた。

2017年1月16日 (月)

Wien 集合住宅 労働者が英雄は正しい

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winにいた70年代に私は大規模な集合住宅をよく見に行った。 1,920年代にwinは赤いwinと呼ばれている社会主義の国であった。それで大規模な住宅の不足を補うために主に街の周辺部に巨大な規模の集合住宅が作られた。 日本なら既に取り壊しになるほどの古い建物であるがwinのはもともと作りが良いのであろうか、そういうクラシックな集合住宅を今でもちゃんと使用しているのである。 これはとても偉いことだと思う。 1980年であったか世界中を巡回した大規模なウインにまつわる展覧会で「win夢と現実」と言うのがあった。その中で当時の集合住宅の代表格カールマルクスホーフの内容が紹介されていたが単身者用の住宅というのは恐ろしく狭いのである。 まさに刑務所の独房よりはちょっと広いと言うようなサイズであった。 日本人は狭い部屋に慣れているからその日本人の私の目から見てこれは狭いと感じるほとであった。でも家族用の住宅はしっかり広くてゆとりがあるように思えた。 20世紀の建築のほとんどのスタイルの基盤となっているルコルビジェの単身者用住宅も非常に狭い。つまり人間のサイズな縮尺のもとになっているのである。 しばらく前に黒川紀章さんの設計した銀座8丁目のカプセルタワーを仕事場に使っていたことがある。これはちょうど広さが10平米なのである。そこに金屏風を立てて座り机を置いて仕事した。 これは快適であった。しかしそこに宿泊した事は1度もなかった。 新しくできたwinの中央駅のあるあたりはwinの第10区でもともとは労働者街であった。そこの酒場に行って立ち飲みをワインでやりながら周りにいる人々のちょっとスラングのある会話を聴くのが好きだった。 1,920年代に作られた労働者用の住宅もこの辺にはたくさんある。そのエントランスのシンボルが労働を賛美するというデザインなのも非常に良い。 労働者が社会の構成要素に表現されているのである。今ではマンションのエントランスに派遣労働者とかパート従業員をデザインとして採用するようなことをする開発会社はいないであろう。 要するに「この差があの差」なのである。

2017年1月15日 (日)

カメフレックスとカメックスは別のカメラです。

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プロ用の映画機材と言えばフランスのエクレールのカメフレックスが有名だ。私は亀フレックスのコレクターなのである。ほとんどのアクセサリーは持っているつもりだ。持っていないのはサウンドステージで撮影するブリンプである。これは本体が70キロ以上あるのでちょっと手が出ない。でも昔が本気でそれを手に入れようと考えたこともある。

カメックスと言うカメラがある。亀フレックスと亀ックスは一文字違いなので最初は同じメーカーと勘違いしていた。カメフレックスはフランスのメーカー、クータンアンドエクレール社の製品だ。
カメックスは1950に世界で初めてミラーレフレックスのダブルエイトのカメラを発売した。その会社をERCSAMという。
当時の8ミリカメラはまだ不十分なものであってボレックスがハーフミラーの一眼レフシステムを出していた。それに遅れてボリュームはミラー式の一眼レフを出したが元祖はこのカメックスなのである。

Facebookで「ダブル8をドアストッパーにしないための市民の会」というのを作って遊んでいる。スーパーエイトは古くてホントはダブルエイトであるというひねくれ者のクラブである。

1973年から1980年まで暮らしたwinで私は膨大な映画を撮影した。それは16ミリもあるが多くはダブルデートとスーパーエイトなのである。最初はボレックスのエイチ8レフレックスを使っていた。

1,970年代の後半に私はボリュームのスーパー8を使っていた。ある日、ゆきつけの映画機材店、マリアヒルファー通りのムービーセンターでこのカメックスのアウトプットを発見した。アンジエニューのズームが二本とベルトレのプライムが数本付いている「プロ用アウトフィット,」だった。

当時はスーパーエイトがメインであるから今更ダブルエイトに戻るのは時代に逆行しているような気がしたが、10本ほどコダクロームで写してみた。素晴らしい色彩のコダクロームのおかげもあったのだがこのフーテージが素晴らしかった。

撮影したのは冬のwinで雪がぱらつくようなシーンである。主に室内から撮影した。この1連の風景を私は忘れない。

それから40年ぐらい経過してこの間ノスタルジーの影響でこのカメックスをフランスのツールーズに近い田舎町から手に入れたのである。

値段は非常に安かった。程度が非常に良くてアンジェニューのプライムレンズ12.5ミリとズームレンズ9ミリ× 36ミリがついていた。
そのレンズの明るさが1.4と表記されていたので私はこれはミスタッチだとばかり思っていて実際に到着したら本当に明るさが 1.4 なのである。

アマチュアの機材でズームレンズで全域が1.4 と言うのは当時としてもすごいことである。私の持っている数歩プロ用のアンジエニューズームレンズの中で1番明るいのは、これは特殊などっキュメンタリーのために撮影する17ミリから始まる2.5倍の明るいズームがある。
そのレンズは非常に大きくて重くて発売当時値段は1万ドルに近かった。1,960年代に1万ドルだからこれはすごい。それで明るさは全域 F1.1なのである。Tストップでは1.3である。

そういうプロ用機材はともかくとして1,950年代の初めの頃にアマチュア機材でこういう明るいレンズができたのは凄いと思った。名門レンズだから値段もすごかったに違いない。

家にダブルエイトのプロジェクターがあると思って探したらない。これは10数年前に岡山にあるチョートク固執堂に保管されている。
それでそれを送り返してもらおうと考えたが、考えてみれば手元にはiPhoneとかニセゴープロがあるからいちいち40年近く前の思い出のためにフイルムを手に入れて撮影をするのも面倒である。

アンジエニューのレンズは作りが異常に良くてレンズキャップなどにも手をぬいていない。それが改めてすごいと思った。
これは1,950年頃にパリのショーで撮影された会社のブースのスナップである。
映写機も作っていたようだ。このメーカーに関する情報は非常に少ない。

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2017年1月14日 (土)

ライカマイライフの表紙の候補だった街角

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「ライカマイライフ」と言うのは3年前に出した私のライカに関する遺書のようなものである。 その中で尊敬する沢木耕太郎さんとの対談が非常に重要なポイントでもあった。その時のことを思い出すに私はひどい熱であれば2月の頃だったと思うが、時間通り山の上ホテルに行って沢木さんと対談してそのことを覚えているのだが、さてどうやって佃の家に帰ったのかも記憶にない。 大変の熱が出てるときに自分の意思だけが私を山の上ホテルに運ばせたと言う感じだ。今でもよく覚えているのは沢木さんは10分ほど遅れてこられて、いきなりそこで対談が始まったのである。対談そのものは1時間45分ほどであったろうか。 担当編集の人がコーヒーにしますか紅茶にしてますかなどと聞く時間のゆとりもなかった。だから沢木さんは水を飲みつつ1時間数10分を話して対談が終わるとそのまま風のように去っていった。実にかっこよかった。 ウイーンで巨匠リヒターのオルガンコンサートを聴いた時はそうであってリヒターは舞台上に登場とすると何の衒いもなくいきなり演奏が始まるのだ。まったくあれと同じなのである。 そのライカマイライフの表紙というのは全部で3つのパターンがあって結局市販されたのはあの表紙なのだが、ここに掲載するショットというのはこの間winに行った時にwinの南の街外れて電車の中から見てあーそうだここが第二候補の表紙のショットであったなと言うことに思いついた。 私が好きなのは町外れの光景なのである。 かつてのwinの旧市街でそういうところがなぜ面白いのかというのを、一種の波に例えるのならば町外れというのは都会の文化の波打ち際なのである。 現代のwinはそれどころではなくてかつての旧市街の周囲にさらに新しい街がどんどんできているからこれを説明するならば、1,950年代までのwinの街の限界線にノスタルジーを感じたと言うのが正しい。 外側に広がった新市街が最後にここまで力を伸ばしてその南はwinの野原なのだ。

2017年1月13日 (金)

お正月カフカ プラハ×アフリカ×病室

バウハウスの【ギャラリー・トーク】「お正月カフカ プラハ×アフリカ×病室」というのに行った。何か三題噺めいてどういう展開になるのか疑心暗鬼だったが、こういうカフカのパーテイもあるのかと感心した。
お三方は、頭木弘樹(カフカ研究者)×田中真知(作家・翻訳家・あひる商会CEO)×小瀧達郎というのである。小瀧さんの言い訳では大きな椅子は2つしかないと言うので館長は脇の小さな椅子に座っていた。これがまた舞台効果を上げていてよかった。

カフカはお正月の季語になることも今回判明した。

私は大脳の奥の右半分でコミカルで知的なカフカに関するお3人の会話を聞きながら、大脳の左半分で自分内のカフカのことを考えていた。

カフカとプラハとは非常に残酷な関係にあった。
カフカの生誕100年は世界中で祝福された。しかし当時のプラハは世界でただ1つカフカの生誕を祝福しないひねくれた街であった。

ビロード革命の後になってプラハはカフカ一色になった。カフカミュージアムなどは連日連夜長蛇の列である。それはそれで良いのだが非常に奇っ怪なことがカフカの顔のイラストがいわゆるユダヤ人差別の顔つまり耳がつり上がったようなそういう風貌にされているのだ。
シオニズムの関係者から文句が出なかったのであろうか。

カフカが住んでいたアパートは街の中心部であるがそのすぐ西側が巨大なゲットーだった。そこが今は名前だけが残されていて完全に新しい街並みになってしまった。私が言う新市街と言うのは百五十年前の時点での新市街と言う意味だ。

お三方のカフカの談義はほとんど無関係に見えてその実、不思議な連携性を浮上させる。それが良かった。
あっという間に二時間経過。

私は左脳で、カフカの時代のシオニズム運動とドイツ語が母国語のカフカのイーデイッシュ語はどれほど自分の言語化していたのであろうかということ、さらに関連してあの癖のある草稿のファクシミリが脳裏に浮かんだ。

いきなり小瀧館長からご指名で戦前のレンズに関して話すようにいわれた。どぎまぎして立ち上がったがその時、私はカフカが亡くなったウイーン郊外クロスターノイブルクのサナトリウムのことを考えていたのであった。

だからここの舞台はプラハなのに1938年製造のゾナーの話をしてしまった。大失敗だが、私にはウイーンのベルクガッセ19番地のフロイドの住居が眼に浮かんだのである。
その時のゾナーで私は前回のプラハの写真展の撮影をしたのだった。

お三方のベクトル方向が異なるので、結果としてお正月の三次元カフカ空間が構築された。


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2017年1月12日 (木)

ニコンエフヲモッタセルフポートレート

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この春パリで開催される中藤さんとの二人展のプリントが足りないので今セレクトしている。
その中で 1969年7月15日と記録されているネガファイルの中にこのセルフポートレートを発見した。
自分でシャッターをおしたのではないからセルフポートレートとは言えないと言う方がいるかもしれないがこれは私の指示で撮影したのだからこれもセルフポートレートになる。

この撮影場所は新宿駅西口の小田急百貨店の前の白い壁のスペースなのである。このショットは接近したものからロングショットまで10数カットある。だから私が誰かに依頼してこれをとってもらったわけだ。なぜそのようなことをしたのか?

1969年の8月末に私が最初の個展を銀座のニコンサロンで開催している。そのための案内葉書ようにこれを撮ってもらったと言うのが1番推理としては正しい。写真が面白いのはそういう使用目的等は50年近く経過すると完全に忘れ去られてしまってそこに単に写真が存在するだけなのである。

ところでニコンサロンの最初の個展が1969年でそれが1回目で1971年まで私は毎年3回連続でニコンサロンで展覧会をやった。
それから10年後ぐらいにいちどニコンサロンに応募したら、テーマ性がないとか言うのでボツになった。それ以来応募していないのですでに50年が経過している。
50年ぐらいたったらテーマ性がなくてもそろそろ写真展をやらせてもらえるかもしれない。

カメラを見るとこれはニコンのブラックに= 28ミリがついている。この画像を撮影したのはもう1台のカメラだからそれはライカである。
その1本のネガの下の方を見ていたら、今東京写真美術館で展示されている東京コレクションの中のいってんのショットが出てきた。
フォトむぜで展示されているのは当時の印画紙のテレビ用プロマイドと言うペーパーなのである。
この小さな女の子がすでに50代になっていると思うと写真はますます面白いと思う
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2017年1月11日 (水)

ゴルゴンゾーラのマナー

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ブルーチーズは酒のつまみになるので好きだが、1番好きなのはゴルゴンゾーラである。

ゴルゴンゾーラは高い。
しかし食べたい。

日本では近所の業務用のスーパーで買ってくることにしている。これは1つのカットが結構大きい。それで値段はちょうど消費税を込みで1,000円なのである。これは安いと思う。

ゴルゴンゾーラは中心部の青カビのある所と周辺部のややまろやかなところでは全然味が違う。だから小さいカットだとその両方が楽しめないので大きいカットは必須なのである。

これをやや大きめのお皿に入れて中心部を ナイフでカットして味わってそれから真ん中をちょっと食べて最後に外側の味が濃厚だが薄いところを食べてそれで初めてゴルゴンゾーラを食べたような気になる。

1つの食品でこっち側とその反対側が味が違うと言うのは実は珍しいことで食べる時にそれなりの考えが働く。それであっちを食べてこっちを食べたりしながら写真のことなどを考えている。

これをゴルゴンゾーラ作戦と呼んでいる。

2017年1月10日 (火)

オイミッヒというウイーン製映画撮影機

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「ダブルエイトの8ミリカメラをドアストッパーにしない市民の会」と言うのをFacebookでやっている。

最初のメンバーは私とニューヨークはマンハッタン5番街にお住まいの調整さんの2人だけだった。調整さんは意外と寂しがり屋で2人でダブル8についてキャッチボールをしているのはつまらないと言い出したのでメンバーの方をに入っていただいた。

調整さんは往年のスイスの有名な8ミリカメラボレックスの3本タレットを3台もバッグに詰めて真冬のマンハッタンを撮影している。

現像したものはそのままスキャンしてアップできるわけである。アンディーウォーホルにしてもジョナスメカスにしてもそうだが、まずボレックスの撮影機を手に入れてフイルムを手に入れて撮影をして現像をすると言うのがムービーメーカーの最初の重要なステップである。

ジョナスメカスの「ムービージャーナル」を読んでいて何に感動するかって言うと、たくさん撮影した16ミリフィルムが部屋の脇に積んであってお金がないので現像ができないと言う件である。
これこそ本物の映画作家の姿である。

ハリウッドのように湯水のごとくフイルムを使うのは全くナンセンスだと思う。

私が長く住んでいたオーストリアのウィーンはかつては有名なフィルムカメラの産地であった。ダブル8やスーパー8のカメラなどたくさん作ったし最後はOEMで日本にも発注していたようだ。


このカメラは私が実際に持って使っているカメラであって、その実物はカメラジャングルの中に入ってしまって発見できないがオイミッヒ16と言う。
そのデザインがいかにもウイーン風である。

このカメラのサブタイトルがコンチネンタルと言うのも非常にうまいネーミングだ。要するにこのカメラはアマチュアというかお金持ちが使うようなカメラで、プロ機材とはちょっと方向が違うのである。
その証拠に16ミリの映画カメラでありながらレンズ交換はできない。レンズ交換はできないがそのかわりコンバージョンレンズが付いていて広角と望遠はそれを使うのである。

大昔、カメラジャーナルのツアーでwinからパリに総勢20人ぐらいで旅行した時に私はこのカメラを持参した。いやこのカメラだけではなくて本物のプロ用カメラであるアトーン16も持参したのである。
その両方の機材を使ったのだがオイミッヒはなかなかよく映った。

ファボリーテンと言うのは南のほうの街であってそこはかつての工場地帯であった。労働者街であるから独特の話し方に訛りがあってそれがまた私は好きだった。こないだのwin行きでももっぱらこの界隈を徘徊してこのカメラが作られたいた1,950年代から60年代を懐かしんだ。

2017年1月 9日 (月)

トムエイブラハムソンを追悼する

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中山蛙さんからの報道によるとカナダのラピッドワインダーの創始者トム エイブラハムソンさんが亡くなったとのことである。

私の場合は実際にトムに会うよりも前にトムの作ったラピッドワインダーに会っている。

それは1988年だったかドイツはケルンのフォトキナの取材中に大聖堂の脇にくっついてできている小さなカメラ屋さんでブラックのリーペイントのライカのM3に怪しげな手作りのライカビットが付いているのを発見した。

当時私は名うての中古カメラバイヤーであったから、最初に店員さんと交渉したときには以下の言葉を発したのだ。
「あそこにあるあのライカは売らないんだろう?」

これは一種のフェイント作戦である。店員さんはお客さんちゃんと売りますよと言った。
またユーロになる前でドイツマルクでいくらだか忘れたが1,000マルクはしなかったと思う。私の本で初版が2万部と言うベストセラーになった「間違えだらけのカメラ選び」の表紙にそのトムのラピッドワインダー付きのライカM3が登場している。

当時、真面目なライカバイヤーの私は英文のライカプライスガイドをいつも携帯していたので早速製造番号を調べた。エム型ライカの刻印の形が変なので最初からカナダ製であろうと思っていて製造番号を確認したらその通りであった。

トムに東京で会ったのはそれからそんなに時間が経っていなかった。彼はその時東京で事業展開をすると言うので私も手伝っていろいろなメディアにこのラピッドワインダーのことを書いた。トムが来日した時点で200本は売れたようである。

そのお礼というわけでもないがトムは私にオリジナルのマグナムバージョンのワインダーをくれたのである。これは市販品とはかなり要素が異なっている。それから彼と親しくなってずいぶん一緒に飲んだり東京を徘徊したりした。ただしこの20年ほどはお付き合いがなかったので今回の訃報に驚いた。

彼がラピッドワインダーを作ったのは単純明快であって、スウェーデン出身の彼はプレスフォトグラファーとしてライカMPを使っていたのである。それについていたライカビットがある日壊れたので彼は自分でそれを作ると言う壮大な計画を立てたのであった。

自分で機械で工作するわけではなくて専門の工業団地がカナデンにあるのでそこにパーツを依頼してそれを組み立てたのである。

話を聞いて面白かったのはその金属の精密機械工作の会社というのが工業団地の中にあるのだが、それは下請けでNASAの宇宙服の腕のジョイントなどを作っているのである。

ある日依頼した部品に関して制作の担当者からお詫びのメールが来たそうだ。それは精度を間違えて何ミクロンほどサイズが違ってしまったと言うのである。
宇宙服のジョイントと言うのはそのぐらいの凄い精度で出てきてるものらしい。

でもライカの場合はその程度の誤差は何も問題ないであろう。エイブラハムソンのラピッドワインダーは実に美しい仕上げであって表面がすべすべしている。
ライカの真鍮のスタンプ製造のやつのほうが安っぽく見えるのは皮肉である。それはエイブラハムソンのワインダーが金属の精密な削り出しであるからだ。

最初のプロトタイプをマグナムのフォトグラファーに使ってもらってそのマグナムフォトグラファーはどこかの砂漠地帯で過酷な取材をしたそうである。それでサービスのためにワインダーが戻ってきて分解したら中から砂漠の砂がスプーンいっぱい分出てきたと言う話でこれは本人から聞いた。

このラピッドワインダに関して非常に謎なのはオリジナルのライカビットよりもその高さが五ミリ高いということである。なぜそんなことになったのかついに聞き漏らしてしまった。

私の知り合いの建築家でその5ミリほど背の高いラピッドワインダーを愛用の紳士がいるが彼のニックネームが「五高酷」ごこうこく、なのである。
要するに高さが5ミリだけ高いのでひどいと言う意味のあだ名なのである。その建築家はエイブラハムソンに特別に依頼して既に製造中止になっているはずのライカエムm2用のラピッドワインダーも特注したそうだ。

トムエイブラハムソンの功績は、ライカがフイルムであった最後の時代にそのフイルム巻き上げのダイナミズムと楽しみを世界に広げたことになる。
今のデジタルライカエムの最大のつまらないポイントはトムのラピッドワインダーがつけられないことにある。

この間も私がラピッドワインダーをつけたライカを持っていたらライカ女子が、それなんですかと聞いてきた。
「フイルムを迅速に巻き上げる道具です」と説明しても彼女はデジタルライカしか知らないからそれが何だかわからないのである。
トムが地上を去ってそういう悲劇が世界に起こりつつあるのだ。

エイブラハムソンと彼のラピッドワインダーが主の御心のままににあらんことを!
アーメン!!!


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2017年1月 7日 (土)

岸辺のマリア教会

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1月のウイン訪問で一番行きたかったところはシュテファン大聖堂ではなくてそれから北にややず れたドナウ運河のほとりにある岸辺のマリア教会であった。 観光客のいってるところはメジャーな教会ばかりなのでこの中心部からちょっと外れた小さな教会に来る人もいない。私のwin時代にはドナウ川運河のほとりの住まいから街の中心部に歩いて行く時に必ずこの教会の前を通って行った。 だからこの近辺から街の中心部への道路と言うのは手のひらのようにわかる。 最初にこの境界を知ってその名前が「岸辺のマリア教会」であるというのは非常に不思議であった。 ドナウ運河からは数百メーターも離れているからである。 調べたらこの教会ができた当時もちろん大昔のことだが、当時はドナウ運河の流れがこの下まで水が来ていたそうである。いやこの言い方は良くなくて、岸辺のそばに教会を立てたことになる。 大体winの普通の生活では教会に用はないものだ。これは私だけではなくて本物のwin人だって教会等は行かないのである。彼らには彼らの私には私の生活があったからだ。 ところがこの岸辺のマリア教会が私にとって接近してきたのは1,974年頃であったか、ベンジャミンブリッテンの宗教オペラ「隅田川」がここで上演されたことだ。 ブリッテンは日本人では無いから諸行無常というわけではなくてストーリーはキリストの勝利に書き換えられているのである。まぁ教会であるし宗教音楽だからこれは当然のことであって極東の異教徒のローカルストーリーなどは上演するはずもない。 でもブリッテンのおかげで私は岸辺のマリア教会に親しくなったし、今住んでいる佃島もまさに岸辺だし、ブリッテンの原曲の東下りなのである。そういう意味で人気のないこの界隈を今回も到着した翌日に行ったり来たりした。 カメラGR

ネガのセレクションの最初のステップ

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3月から4月にかけてパリのインビツイーンインギャラリーで中藤さんと2人展をを開催する。
昨年の夏に中藤さんらがやっているギャラリーニエプスでの私の個展のプリントを中藤さんがパリに持参したのがきっかけであった。

ついでに面白いことがあったのは押上のアウラ社で偶然会ったエアフランスのパイロット、マンフレッドが私のその写真展をギャラリーニエプスで見ているのである。
実際世の中は狭い。

中藤さんの説明によるとこれは2人展ではなくてギャラリーの 2つのフロアでやるので2つの個展なのだそうである。

すでに30点以上のプリントがあちらに行っているがギャラリーの方から追加を要求してきた。それで追加のプリントにかかる。

佃島は不便な所でネガカバーの上にちょっとはるポストイットのようなものが全くない。スーパーにもコンビニにもない。そのことのために銀座の伊東屋に行くのはしゃくである。
そんな状況が20年来続いていて結局どうするかというと、ガムテープの上に数字を書いてそれをライトテーブルの裏に貼っておく。

それでカットが決まったら指でちぎってネガの該当の場所に貼るわけだ。
実に原始的な方法だがネガの選びと言うのは実に難しいものであって、目のセレクションを緩くしてしまうと、いくらでもネガがセレクトできてしまうのである。これはセレクトとは逆な方向だから実に始末が悪い。
だから最初から40点とかそういうふうに決めておいた方が良い。

今までずっとそのようなやり方をやってきた。
プリントしたものをギャラリストに渡して最終的にセレクションはあちらにお任せするというのも1つの形だが、私は真面目なのでどうしてもプリントをたくさん作りすぎてしまう。
それでギャラリストにありがた迷惑をかけることが多いようだ。

今回パリで展示するものも1964年から68年頃に撮影したもので私の仕事の最もスタート地点になっている。

「TODAY~TOKYO」のシリーズだ。東京都写真美術館で展示中のコレクション展もこのシリーズに含まれる。
これは1969年に日大写真学科の学生として最年少で銀座のニコンサロンで個展を開催したものなのである。だから最初に展示してから既に50年近くが経過しているわけだ。
それはそれで非常に面白い。
その1部は1976年のヨーロッパで展開した現代日本写真家展でも1部を展示した。

ネガをセレクトしていて面白いのは1,960年代半ばに撮影された自分の視点というのは、そのまま現在まで続いていてその間に何の違和感も感じられないことだ。

私はもともと写真のテーマ主義者ではないし、思いつきのコンセプト(写真学生の課題みたいなもんだな)で撮影する写真家でもないので、そういう時間軸的な展覧が可能なのである。

春のパリと言うのはあまり好きではない。
でもその時期にパリをぶらぶらするのも面白いかもしれない。


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2017年1月 5日 (木)

ササキジュンイチのクリスマスストラップ2016

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ササキジュンイチは鵠沼海岸在住の田中長徳研究家である。
本職は不動産管理業である。
私の分厚い新書版の写真集東京ニコン日記の何ページだったか忘れたが、東京都千代田区の古い洋服屋さんの店先のウィンドウ撮影したものがあった。

それがササキジュンイチの実家であって彼はそこの長男であった。ある雑誌の写真コンテストで頭角を現してきたのが彼でなかなかいい写真を撮っていた。

私の著作のことを非常に研究しているので、わからない事は彼に聞くと本のタイトルの何ページの何行にに出てくると言う事まで教えてくれる。

一方で私は稲垣足穂の自称研究者で作古い作品から最新の作品まで細かい改訂箇所までそらんじているものである。現代思潮社が出したタルホの8巻の全集本の誤植もちゃんと覚えている。

十年ほど前からササキジュンイチはオリジナルのカスタムケースとかストラップを作ってくれるようになった。それで年に2回誕生日とクリスマスプレゼントにそれらを送ってくれるのである。複雑なケースがかなり上質で他にも欲しいと言う人がいたが実はこのカスタムケースを彼は私のためにだけ作ってくれるのである。

もっとも数年前ササキジュンイチは脳梗塞を患って今は回復したが以前のような手の込んだ革ケースは作れなくなった。
でも制作した皮ケースの型紙は全部とってあるそうである。この数年はもう少し作るのが楽なものを作って送ってくれる。
ーその 1つがこのストラップである。CHOTOKU@ WORKというブランドである。なかなか使いやすくて到着を心待ちにするようになっている。

それで元旦の日に初撮影と言うわけではないがクリスマスに到着した新しいストラップをつけて佃島のノースポイントまで撮影に行った。
重いキャノンのレンジファインダカメラに85ミリの大きなレンズをつけたのでカメラの重さはかなりある。それを肩から斜めにかけて撮影に行った。バランスが良くてなかなか快適であった。

ストラップに関してはエルンストライツ時代の良かった頃のストラップを高校生の時に神田のシュミット商会で二本買ったのが私のストラップの歴史の最初である。

大体カメラメーカーが作っているストラップは良くない。設計者が実際に撮影をしてないからストラップの肝を知らないのである。
ササキジュンイチのオリジナルストラップもベストと言う訳では無いが実用上は充分であるから当面それを使おうと思っている。

キヤノンブイ亭デラックスのソフトケースが良い件 🍾

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昨年のクリスマスにガラクタ屋さんで買ったキャノンのレンジファインダカメラの話の続き。
正式な名称はキヤノン五型tと言うのである。

小学生の頃に私の音羽の家の左隣が武蔵家さんと言う783 の家であった。質屋の店は別のところにあったようでそこは住居なのである。そこの私と同い年位の田近くんと言う子供がいきなりカメラに興味を持ったのだった。
雑誌などの聞きかじりの知識で話していて彼は「キヤノンブイテイデラックス」と呼んでいた。小学生に)はまだローマ数字は知らないから5というローマ数字をアルファベットと間違えるのは普通である。それで私にとってこのカメラはそういう名前になった。

そのブイ亭カメラはずいぶんたくさん持っているが、我楽多屋のにだいめさんがお年玉にくれたのがこの純正ソフトケースなのである。
手に取ってびっくりした。デザインが実に良いばかりか皮の質が非常に柔らかくて上質である。

ライカの速写ケースにしても1,950年代にできたものですら既に皮の質が良くないのでボロボロなのである。

唯一カメラケースで作られてから60年以上経過してちゃんとしているのはイタリアはローマのレクタフレックスの皮ケースである。
キヤノンのレンジファインダーの皮ケースに関しては速写ケースは持っているが、この種類のソフトケースは初めて目にしたのであった。それでその上質な作りと優れたデザインに実のところ非常にびっくりしたのである。

この皮ケースを見て最初に思い出したのは幼稚園の時に使った草履袋である。形が実際によく似ていて縦型であって手で下げられるようになっている。
このソフトケースの場合最初からカメラストラップをつけて使うと言う事は考えていない。そこがいかにもおしゃれである。当時のニコンとキヤノンを比較してみるとニコンは真面目一方で無骨であってキャノンはしなやかでおしゃれなところがある。

このソフトケースを目にしたのでこれは何と言うべきなのか、今までの戦後のキヤノンのレンジファインダーに対するイメージが、私の場合いっきょにそのスケールがポジティブな方向に移動してしまった。それをノッチの数で言うと3つぐらいノッチが前に進んだと言うところであろう。二階級特進なんてものではない。

Img_1265マンハッタンの長生さん提供。


2017年1月 4日 (水)

🎌観音ブい亭デラックスで 初空撃ち

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正月三日に佃界隈をかじんとちょっと歩いた。

住吉様に参拝してお賽銭といっても多くはあげられないので昔は100円だったが今回はご縁を差し上げようと言うのである。ここに住み始めた頃は住吉様も忘れられたような神社さんであって初詣等はガラガラだった。それが10年ほど前からミニブームになって境内の外側の鳥居にまでずらりと人が並ぶようになった。

元日に野々宮の亀戸天神レポートで、その上から見た写真はものすごい人で鳥肌が立った。
文化大革命はまだ終わらないのかというほどの人海であった。

ヨーロッパで見る東洋人は損な存在である。
ひとりでいると目立つし群衆になると何かを企んでいるのではないかと見えるのである。プラハの早朝のカレル橋の脇で向こうから人民解放軍の1団が隊列を組んで歩いてきた。これは凄いなと感心して見ていたら何の事は無い日本のエッチあいえすの観光団であった。

住吉様の人の列は10メーターほどであったがご縁を投げるのはやめにした。ここに住み始めた頃は変な地元民意識があって列に並ばないで賽銭箱の脇から直球でかなり遠くまで投げて小銭が見事賽銭箱に入るのを自慢にしていた。
これにはちゃんとした経験があって渋谷の駅から徒歩10分ほどの不便なところにある何とか言う写真専門学校の901教室で現代作家論を教えていたときに大教室の1番奥のほうにまでチョークを投げて後で騒いでいる学生を鎮圧したりしたのである。
チョークのコントロールに関しては自信がある。

佃小橋の下の定位置で穏やかな春の光を眺めたりして佃小橋の東詰のたもとにある夏みかんの木とそのみとその葉っぱをめでた。そこにいたら向こうから来た家族連れがやはり夏みかんの木をびっくりして褒めている。これは話がわかるなと感心していたらそうではなくて佃小橋の赤い橋のその先にあるリバーシティー21のタワーをほめているのであった。🎌の観光客である。

ちょうどアテネのお正月にこれと似た経験があった。アテネの街路樹はオレンジなのである。これはゴージャスですね。ただ日本とアテネが違うのは路上は全部不法駐車であって人間の歩く場所はない。極東のツーリストのあるくゾーンはないので仕方なくドブの中を歩いた。

相生橋のたもとまでイッテ隅田川を眺めて隣のタワーの1階にあるまからん宮殿で休憩した。
そこでフィルムを確認しようと思ったらどうも様子が変である。このキャノンのカメラは非常に調子が良いのでフイルムを装填していてもフイルムを入れてなくても巻き上げのトルクがほぼ同じなのである。優秀な機械と言うのはその意味で尊敬している。
これがデジタルカメラでやるのならカードが入っていませんと警告が出る。でも昭和32年当時の国産最高級機にはそんなフイルムが入っていませんなどと言う警告が出るわけない。

それで2017年の初から撃ちとなった。
儀礼兵の祝砲は空砲である。
これもまためでたしめでたし。


2017年1月 3日 (火)

お正月のキャナルグランデ

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イタリアのベニスには観光客で満員の真夏と2月の水が上がってくる季節にしか行ったことがなくてお正月は知らない。
隅田小橋をキャナルグランデに例えるのはかなり無理があるが、川の流れと丸い橋と言うことからすればその属性は似ているとも言える。

しかも橋の下から水の流れを見て太鼓橋の裏が見れれば、気分はもうペニスに死すである。
穏やかな午後で橋の欄干が水面に綺麗に写っているのも珍しい。

そこのベンチにローカルタイムの午後二時に座っていて、気がついたのが目の前にもやってある私の好きな白い小さな漁船の上にゴイサギが羽を休めていることだった。

私流に言えば五位コッコである。
五位鷺は寝ているのでそばまで行って口でちっちと音を鳴らしたら、目覚めてこっちの方を見た。ちゃんと意思が疎通しているわけである。

インターネット等よりダイレクトな連絡と言うのが非常に良いと思った。詳しく観察するとゴイサギの乗船している船はもやいに連れてゆっくりと数メーター上流下流と行ったり来たりしているのである。

だからゴイサギもゆっくり水の上を旅しているように見える。持参のニッカカメラでそれを撮影しながらずっと鳥を見ていたら、私が背中にしている小さい公園でお母さんと子供が羽根つきを始めた。

羽根突きの音と言うのは何十年ぶりに聞いたのである。さすが伝統芸能の佃島だなぁと感心したのはその羽子板の大きさの関係であろうか、2つの羽を打つ音が音階でで正しく三音階違うのも面白かった。

羽根突きのルールはテニスのルールとはだいぶ違うのであろうが、そこら辺はわからない。ただ羽根の音を聞いている私としてはなるべくその乾いた明るい天に届くような音が長く続いてほしいと思うのだが、最大で10回を超えなかった。

ゴイサギを見るのにも飽きてきたのでコンビニでチリの安ワインを買って、佃小橋のさっきの場所に戻ってきたら ゴイサギはまたそこで居眠りをしている。
親子の羽つきは先ほどよりも調子が出てきたようで羽の音が連続してつながるようになった。

手元の時計が四時を示したなと思ったらゴイサギは目が覚めて用有り気に佃掘の下流のほうに飛んで行った。Img_1234


2017年1月 2日 (月)

年頭所感 2017をキエフイヤーに

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年頭所感というものが嫌いである。
一国の首相がテレビ演説してもその激動の1年が読めないからピントはずれなことばかり言っているのが年頭所感である。

だから我々下々は、年頭所感に関してはどんなにいい加減を言っても許されるであろう。

昨年の写真関係で個人的に思い出すにギャラリーバウハウスの小滝さんの「プラハ年」というのは非常に的を得て大成功だったと思う。小瀧さんの写真展 「カフカとの対話」 に関しては1月の10日に豪華メンバーでのトークイベントもある。

カフカはなぜ自殺しなかったのかということがテーマになるのであろう。ワルターベンヤミンと比較してみたいし、ユリシーズのレオポルトブルームとも比べてみたい興味あるテーマだ。

それで昨年のプラハ年の真似をして私は今年はキエフ年で行こうと考えている。

このブログのプロフィール写真がキエフ10なのだ。
これを使っている人間は私以外には見たことがなく強いて資料を探せば大昔にそういうソユーズの乗組員が宇宙空間で使ったと言う記載がある。何しろ世界最初の自動露光の一眼レフと言うのは日本製ではなく当時のソ連製のこのカメラなのだ。

アメリカのマーキュリー計画でハッセルブラッドが宇宙スペースに行ったときに飛行士は露光音痴だから露出の案内ががハッセルの裏に手書きでシールが貼られていた。
実はこの方が実用的なのである。
ソユーズ乗組員のキエフの自動カメラは何しろセレン式で絞りの値を指の力で押さえ込むシステムらしい。逆光補正もないからその結果は散々なものであったに違いない。

考えてみればソ連のスペースカメラを地上で使っているからこれはゴージャスだ。
それで今年はキエフ10をカメラオブ座イヤー進行させていく。
もっとも年頭所感なので首相の年頭所感のようにまず1ヵ月もその内容は保持できないであろう。

トランプ次期大統領が今までの伝統になぞらえてロシアを敵視攻撃しているがこれに対してプーチンはそれに応じないのがさすが大人であると思う。
世界の覇権国のバランスが変わってきて 、英国アメリカではなくてソ連中国に移行してゆくことがわかる。日本はずっとアメリカの占領国であったからこれからどうなるのか。

トランプが大統領で勝利したときに安倍首相は慌ててゴルフ道具を届けに行ったし、ウラジミールが温泉にきた時は膝を突き合わせていっぱいだったようだが、そういうのは見ていてかなりコミックである。

シンゾーさんが悪いのでなく外務省の時代感覚が外れていることになるであろう。

それで私の場合はさらにピントがずれた「キエフ10型保護主義」なのだ。

2017年1月 1日 (日)

❤️キエフで謹賀新年❤️

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また1つ歳が改まった。
吉例の写真機蓬莱三段飾り。

本年もあい変りませず
よろしくお願いします。

元旦 長徳

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  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
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