フォト

ギャラリーバウハウスの展示

オンラインギャラリー

バナー

チョートクカメラ塾ブログ

Chotokuぶらり パチ塾

無料ブログはココログ

« 2016年11月 | トップページ | 2017年1月 »

2016年12月31日 (土)

我楽多屋の二代目さんが撮った中央郵便局

Img_1204

木村伊兵衛賞とか土門拳賞のノミネートのアンケートを何十年来いただいている。なかなか候補者を選定するのは至難の業である。

その理由は単純であって私は私の写真にかかりっきりで他の写真展を見に行くゆとりが全くない。だから数十年来そういう審査委員会に申し訳なく思っている。

今年2016年の私の個人的な写真に対する収穫と言うのは我楽多屋二代目さんの撮る写真がなかなかいいということだ。
写真がもともとすごくいいのは視神経が素晴らしいと言うことになる。私が以前から写真教育不可能論者であるが、写真と言うのは本来教えられるものではない。
これが私の信条である。

2代目の写真に注目しているのはこの1年ほどだが、彼がいいと思うのが何か賞を取ろうとかそういう目的がないことにある。

Facebookに時々アップされる写真が良いのだ。だから私はiPadの小さな画面で彼の写真芸術を評価しているのはけしからんと外からお叱りを受けるかもしれないが、写真と言うのはその最小限の構図でもある程度理解はできる。

険呑なのは世の中に大流行のレンズブランド主義である。1,000,000円のレンズだからやっぱりいいですね等とFacebook上でやりとりをしているのは大笑い。

この作品は東京中央郵便局なのである。私も何十年来ここが何とか撮影できないかと考えていたのであるがここは光の状態が非常に難しい。唯一のアングルと言うのはこのような郵便局を斜め後から見るのがベストだと思っている。

この強烈なモノクロームのコントラストを見て思い出すのはやはりドイツの戦後の写真のノイエザハリヒカイトの1連の仕事だ。
あるいは私の好きなヘルベルトバイヤーの作品にも通じるところがある。

写真がすばらしいので二代目さんに会ったとき、テクニカルデータなどを聞いたりはしない。
やっぱりトライエックスですかとか、iPhoneですかなどと聞く必要すらないのである。

2016年12月30日 (金)

小泉定弘さんの写真集が届く

小泉さんは日大写真学科の1年先輩である。

入学したときに外に入る部会がなかったので私は理論部に入った。その時の理論部の部長さんが小泉さんであったと思う。私は東松さんの所とか高梨さんのところに通っていたので日大の理論部会には1度も顔を出したことがない。

学生から助手になった頃の小泉さんの愛機はキャノンセブンのブラックであった。それが私の印象にすごい深く残って「名機礼賛」と言う本の第1巻には小泉さんのカメラの話が出ている。

小泉さんは今までに立派なハードカバーの写真集を何冊も出している。その最新号と言うわけだ。時間的には一種のクロニクルであって1964年から1973年に撮影した作品が掲載されている。

奈良のお寺とか昔の浦安とか非常に面白い。
その中に人物のシリーズもあって既に亡くなられた方々がたくさん登場してくるのも懐かしい。

その中で1番お世話になったのはつアイトフォトサロンの石原悦朗さんだ。石原さんは見開き2ページで登場するのである。撮影年代が1992年と言うから石原さんが1番脂が乗っていたと言う時期であろう。

ただし実際の石原さんには私が最初の個展以降一度しかお目にかかっていない。それは石原さんが亡くなる2、3年前に東京都写真美術館で北井さんの講演の相手に呼ばれたときに石原さんが飛び入りで入ったのである。写真展を企画する方としてはそういうのは面白いことではなかろうが何しろ石原さんはビックゲームであったから、そこに入ってくれて非常に話が楽しくなった。巨匠カルティエブレッソンがどのようにスナップするかを実際にやって見せてくれたのである。

小泉さんの仕事と言うのはまずいってみれば写真の王道と言うところに位置している。写真評論家からしてみれば1番評論がしにくいタイプの写真家のスタイルであると思う。そこがそこでまた痛快か。

人物スナップの中にオーストリアのマエストロカールベームが1963に来日した時のスナップがあってこれが素晴らしい。
私がマエストロに会ったのは1979年のザルツブルグ音楽祭の時であるからかなり時間が経っている。だから小泉さんの撮ったベームは青年のように見える。

写真集ではドクターカールベームと肩書がついているが彼はドクターではない。
だからザルツブルグで私がマエストロに呼びかけた時はあくまでヘル プロフェッサーベームなのである。マエストロはスケールが大きいから別に「俺はドクターじゃないよ」などと文句を言う筋合いは無いのだけれども。

ザルツブルグ音楽祭でベームの指揮するナクソスのアリアドネの総練習を見た。非常に怖い指揮者でヤノヴィッツをひどく叱っていた。
でも我々ファンには非常に優しくてリラックスした会話の最後に握手してもらった。その手の柔らかさが忘れられない。
その日から三日間私は手をあらわなかった。
Img_1201


Img_1200


2016年12月29日 (木)

路面電車五番と331番の交差点の少女

Image_2


ウイーンに長いこと通っていると面白いことに気がつく。

1973年の5月の11日にwinの南駅に着いたのが私のこの街の歩行の最初の一歩だった。
そこで7年と半年生活してその後は極東とwinの間を行ったり来たりした。
でもいつも感じているのはwinに到着して私が私の最初の一歩を開始するときはそれはその前の回の私の歩行の続きのその次の1歩であると言うことなのだ。

面白いのは他によく通うヨーロッパの街でパリとかプラハとかベルリンやリスボンにはこの感覚がない。そういう街で私は常に訪問者感覚を持っいぇいるが、ウインでは私は居住者であってその前の歩行の続きを紡いでいくと言う感覚なのである。

それが私にとってのwinである。

この寒いwinの街角の少女が立っているショットと言うのはおそらく1973年かその翌年に撮影されたものであろう。カメラはライカかキエフか、よく覚えていないがレンズはソ連製のジュピターの35ミリがあったのは確かだ。

それから40年が経っているからこの少女は既に成人して既に還暦をカウントダウンするような年齢に差し掛かっているはずである。それが言って見れば写真の不思議さ写真の面白さということになろうか。

この撮影の現場はwinの20区と言う所で5番の路面電車と331番の路面電車が交差するポイントなのである。それで今回のwin滞在でも最後の日の夕方にドナウ川を超えて遠くまで行った帰りに私のアパートの2つ手前の停留所で降りてこの界隈を歩いてみた。

夕暮れの光の中で私が無意識に探しているのは無論50代後半のウイーンのフラウではない。この写真を撮影した時の子のそのままの少女を夕暮れの中に探しているわけだ。

そーゆー写真の持っているノスタルジーは本来あまり好きでないのだが、今回そういう気分になってしまったのは一体いかなる私の前頭葉の変容なのであろうか。

2016年12月28日 (水)

フィルム カジノ

Img_1158


これはウインの中央駅からアルサーストラッセをつないでいる割と長いバス路線だった。
今でもあるがwinのバスの13番の路線が好きだった。

この言い方を訂正する⇒ winの南駅からアルサーストラスないのである。
今ではハウプトバーンほーふになってしまったのでだいぶ感じが異なっている。

13番のバスのチャームポイントはそれが二階建てであったということだ。それもロンドンのダブルデッカーなどよりもっとシャープで洗練されたフォルムなのである。

だからあたしと同世代からもうちょっと下のwinの連中と話をすると皆さん13番のバスの2階席の1番前に座るのが夢であったと言うような話になる。
この10年の13番は普通のバスなってしまったのでwinの子供から夢を奪ってしまったわけだ。

13番のバス路線の見所がたくさんあるのでそのうち本にできる位のボリュームなのであるが…その中で忘れられないのはwinのピルグラムガッセからちょっと行ったところにあるこの鏡で作られた看板である。

13番のバスの2階席の1番前から見ていると、移りすぎる風景の中に自分が乗っているバスが写ってそれが左から右に移動していくのである。
これが鏡の中の都市のダイナミズムと言うものだ。

もう2階建てのバスはないので昔を忍びながらこの街を徘徊していたらその映画館であった、看板が鏡張りのディスプレイはそのままに残っていた。

今はそれが映画館からカジノになっているのである。
それはそれで構わないがこの素敵なランドマークがそのまま何十年も残されているということにwinの善意を感じた。

2016年12月27日 (火)

卒業写真と結婚写真

Image

卒業写真と結婚写真と言うのは似て非なるものだと思う。
卒業写真の場合はユーミンの歌ではないがそこに遡るべき想いと言うのを内包している。

一方で結婚写真のほうはある時点から男性と女性もしくは似たような関係の人が一緒になって今まで歩いてきた時間を逆に振り返るので、そこには艱難辛苦も存在するに違いない。
まずそれが人生と言うものだ。

この作品は1,973年頃にwinで撮影されたものだ。
当時住んでいたアパートから私はライカM3にズミクロンの50ミリをつけて毎日撮影に歩いていた。
フイルムはあのコダクロームなのである。

大通りを郊外の方に歩いた左側に小さな写真館があった。

一枚だけ撮影した。
なぜ1枚だけであったのかそれはわからないが、その写真行為が当時の私の重要な生活の1部になっていたのであろうと思う。

この作品は1974年1月号のカメラ毎日に8ページ掲載された「win記憶の街」の中に収録されている。

そのコダクロームのオリジナルは野々宮コレクションに収蔵されている。
言うまでもないがこれはそのスキャンデータなのである。
この画像を見てつくづく思うに40年間なぜこの画像に惹かれるのかをずっと考えていて、あることに気がついた。

ここに写しとられているカップルの写真はすべてモノクロームなのだ。
カラーではない。1,970年代と言えばカラーの結婚写真もあったはずであるが、これはその写真館の親父がちょっと変わりものであったせいだろうか。

しかし撮影から40数年経過したこの画像を見る限りモノクロームの方が様になっているとしか言いようがない。

まぁそんなものである。

2016年12月26日 (月)

❤️ペトリのクリスマスツリーカメラ❤️

👗
クリスマスシーズンである。

うちのマンションは毎年エントランスに巨大なクリスマスツリーがあるし、今年は手作りのリースをもらってそれは部屋にかかっている。

もう一つ何かクリスマスツリー的なカメラを部屋に飾ろうと思った。

耶蘇教の教えによると使徒ペテロは自分の墓の上に教会を建てよと言ってそれがバチカンの教会になったそうである。
ペテロに関して言えば聖ペテロ工光学というのが昔あったが、そのカメラは手元にはないそれでペトロの名前を冠したカメラメーカーといえば東京は足立区にあるペトリである。

ペテロの日本語訳がペトリであると言うことを私はそれまで知らなかった。
ペトリセブンはペトリの一眼の最高級カメラであって 2016年に結成された日本ペトリ党では東京の私とニューヨークの調整さんがそれぞれ持っている。

調整さんのペトリセブンは東京の本部にドネーションしてくれたので都合二台という訳が信仰の中心と言うわけである。

それでペトリのカメラに何かクリスマスツリー的装飾を施そうと思ったが、星マークとか赤いサンタの洋服と言うのでは平凡すぎて面白くない。

たまたまテーブルの上にあった戦前のつアイスターレットFinderそれもレアな180ミリの対物レンズが付いているやつを上に載せたらこれが意外と似合うのである。
それでこのペトロの一眼レフにイエナファインダーをつけたのを今年の降誕祭の飾りと決定した。


Img_1156


2016年12月25日 (日)

ドナウ運河と隅田川

世界には似た場所が2つあるというのが私の以前からの都市の考え方である。
それを今回もウイーンに滞在して強烈に感じたのだ。
まずドナウがある。もう一つは隅田川がある。

そして私の住んでいるところは40年前も今も川のほとりなのである。さらに川の流れる方向が似ているので光が同じになる。

そうなると世界中のあらゆる場所で非常に似た舞台風景と言うのが出現するわけだ。winに暮らした7年半は私はいつもアパートから出てドナウ運河の左側を永遠と歩いて街の中心部まで行った。
極東の佃島に四半世紀暮らしても行動パタンは全く同じである。

寓居を出て目の前の川の流れに沿って延々と下流に向かって歩いていくのだ。
ここに掲載した2つの写真はどちらがどちらであるかなどはわざわざ説明する必要もないが、しっかりと空間の存在感が非常に似ているのが面白いと思う。

ただし川幅は大いに異なっていて隅田川の3分の1ぐらいしかドナウ運河だ。面白いのは隅田川にはちゃんと柵があって遊歩道になっている。
ドナウ運河の場合は単なる川岸であってそこには何も柵はない。だから落ちたらそれまでである。
こわごわ岸辺から下を覗くとドナウの青い水が私に向かって、「落ちたら死ぬぞ……落ちても知らんぞ」と言っているのである。

親水公園で歩行者の身の安全を図っているよりも実は人生に対して親切なのはドナウ運河のように安全のプロテクションもない方が良いと言うことに今回気がついた。Img_1155


Img_1154


2016年12月24日 (土)

❤️クリスマスに星を売る店❤️

Img_1144

稲垣足穂の小品に星を売る店と言うのがある。
キラキラ光る文章がある。

神戸の山手の路地の奥にそこだけぼーっと青く発光している光があって尋ねてみるとなんと天にあるあの星を売っていると言うお話だ。

ウイーンにいた時にその話に出会って何千回も読み直した。
昨年の夏に佃の路地裏を歩いていたら、もしタルホの作品が映画化されたらまさにこれがそのままセットで使えるであろうと言うような小さな店に出会った。
おしゃれな小物を売っているのだが星を売るにも最適な店構えである。

ところが不思議なことにこの間winに行く前の日にこの星を売る店が見たくなっていったら見つからなかった。
月島に四半世紀も住んでいる私であるから見逃すはずがない。それで絨毯爆撃的にすべての小路を歩きまわったのだがやはり発見できなかった。

実に不思議な次第である。
それはそれで良いのだが私が、店主になってここで何かうるとしたらまずやはり星を売りたいと思う。
ただしそれは天にあるあの金平糖のような星ではなくて、星の名前の写真レンズなのである。そうなれば言うまでもなくソ連製の1連のレンズだ。
ジュピターとかオリオンとかマーキュリーとか、そういうレンズをちらっと並べてそれのわかる人にだけうってみたい。

❤️クリスマス限定星販売店❤️
✴️屋号もS

2016年12月23日 (金)

キエフ5がセクシー

Img_1131
2週間ウインでの撮影ではライカのオリーブ色のカメラを使ってきた。
東京に戻ってカメラを持ちかえてコンタックスのシュトゥットガルトのやつを使い出した。撮影に出かけたらいきなりカメラが動かなくなった。シャッター落ちないのだがフイルムだけまけるのである。こういう故障が1番困る。

私の持っているコンタックスで調子が悪いけど使いやすいと言うのは例えば戦前のブラックコンタックスがある。200分の1より速いシャッターは幕がうまく合わないのでムラが出て使えない。
そのかわり100分の1は確実に使える。

これは大事なことだ。大昔メキシコシティーの古道具屋で買ったニコンのレンジファインダカメラはバルブと125分の一だけが使えた。だからそれで撮影してアサヒカメラに口絵を発表したりした。


テッサーの2.8センチが使いたいのでライカでもマウントアダプターで使えるのだがちょっと飽きたので壊れたコンタックスの代打としてキエフ5を起用をした。


1,975年後にwinのカメラ屋さんフォトオラーターでこのカメラを初めて見た。それまで自分の知らないコンタックスコピーだった。
1980年にアメリカのカメラ雑誌モダンフォトグラフィーの特派員をしていた。その時にこのソ連の謎のカメラが紹介されたのである。

市場には全く存在しなかった。だからそのカメラを持っていると言う話をどっかに書いたら関西のカメラコレクターが何も言わずに150,000円のお金を現金書留に入れて送ってきたこともあった。

今では十分に流通しているから市場価格はまず20,000円と言うところであろう。このカメラを見るにつくづく凄いと思うのはコンタックスの系譜で、これはコンタックスコピーのことを言っているのだがその中では唯一のレバー巻き上げのカメラなのである。

だから当時のソ連国内では非常に高価であったと思われる。セレンのメタモついているが壊れていることが多い。これももメーターは壊れている。

面白いのはコンタックスの外爪のバイオネットしか使えないことだ。大柄なボディーなので大きなレンズが似合う。その似合うレンズを1つ2つあげるならば、まずニッコール5センチ 1.1の大口径レンズの外爪がバランスがよくとれていい感じだ。それと戦前のカールツアイスのビオター7、5センチ 1.5もなかなか似合うのである。

でもそういう大口径レンズを使い趣味は私にはないので、もっぱら標準レンズのジュピターと3.5センチのツアイスビオゴン、さらにテッサー2.8センチ等を愛用している。

このカメラの何がセクシーであるかと言うに、フイルムを巻き上げるとカメラ本体の側面にある横を向いたフイルム巻き戻しクランクが連動してくるくる回るがこれが見ていて非常にセクシーでいい感じだ。

2016年12月22日 (木)

ファッション寿司


私の見聞したところによるとニューヨークはマンハタンで一般の人が寿司を食べるようになったのは1982年の日本の有名彫刻家のウイル伝シュタインのレセプションであったように思える。

シャンペンが回されて品の良いウエイターが銀のお盆に盛られた上品な寿司を周りにサービスしていた。ユダヤ人のお金持ちの婆等はこわごわ社交のつもりでその寿司を口にしていたのを見たことがある。

時代が違って今ヨーロッパの都市ではどこでも寿司屋がある。
その中で1番遅れて登場したらおそらくwinだと思う。7年前にモスクワを取材に行った時に体育館のような大きな寿司屋があった。千人は入れるのである。しかも奇妙なのはその寿司屋はチェーン店で名前を「焼き鳥」と言うのである。

サンクトペテルブルグにも取材に行った。プーチン大統領が好んでくる将軍とか言う名前の寿司屋であったがそこにプーチンさんとその一行が来るとセキュリティテの理由でその買い物大通りの端から端が全部封鎖されるのである。
ここら辺が独裁者の凄いところである。そのウラジーミルさんと膝を突き合わせて対談したしんぞうさんなどはまだまだ初心者だ。
周りの商店はたまったものではなかろう。

私の周りで外国人のお寿司の達人はライカショップのペーターである。
彼は最初日本に来た時事情を知らないで銀座の寿司屋でマグロを30かんとか食べて大変な散財をしたそうである。それはそれで良いのだがそれを見ていた日本の友人たちがこいつは大物であると思った。それでペーターは着々とそのビジネスを伸ばしていったのだ。

一方、極東人の某はおれ生粋の日本人だから日本人の握った寿司でないと食べないと言うような「寿司原理主義者」であった。だから近くの寿司屋で寿司を握っているのが日本人でない東洋人であると言って怒っていた^_^
こういうのは時代遅れも甚だしい。つまり非国際人なのである。コーシャの方が現実的だ。

このファッション寿司屋はwinの中心部のオペラ座の真向かいにある。ファッションヘルスではないけれどよく名前をつけたものだとそのネーミングに感心する。これはwinのでんつーあたりがつけたのではなかろうか。

お品書きを見ると別にたいしたものがないから入りたいと思う思わない。われわれはそれなりに寿司の専門家であるわけだがこういうお品書きを見ると我々日本人が考えている一般的なフランス料理と言うのもまぁせいぜいこの寿司のお品書き程度であるということをわかって興味深い。

ついでに思い出したのはニューヨークのウォルドルフアストリアホテルのメニューの貧困さである。要するにサイゼリヤクラスのチョイスがそこに展開されているのだから、トランプ新大統領に向いているということにであろうか。
もっともプレジデントオバマもそうであって彼が初めて大統領専用機に搭乗した時に頼んだのはハンバーガーであったそうだ。これはアメリカ人の味覚を馬鹿にするということではなくて彼らのおふくろの味なのであろう。
いずれにせよ政治家はグルメから離れている方が信用できる。美食等は暇人で金の余っている連中のすることだ。

私が20歳後半の時にリスボンで知り合って一緒に旅行したアメリカ人がいる。彼とは30数年ぶりに東京で再開して感激した。その人が大手航空会社のチーフパーサーなのである。私が六本木ヒルズに仕事場があった頃なのでヒルズのクラブでうまい鮨を食わせるよと言ったら彼はいきなり私に向き直って寿司より自分はハンバーガーいいといったのである。
これはこれで非常に正しい食事のチョイスであると思った。Img_1132


2016年12月21日 (水)

ドナウカナルのカモメのみなさん

Image


ドナウ運河のカモメのみなさんを見に来た。
しかしこれは今回の旅で撮影したのではなくて1,973に撮影したものでwinモノクロームセブンティーズに収録されている。これは私の非常に好きな見開きの作品である。

この平和橋というのがオーストリアが敗戦して10年間ソ連のブロックとアメリカの占領ブロックに分断されていたその境界である。
それで平和橋と言うのであろう。

しかしかもめのような水鳥は所属がないから自由にあっちこっち行ったり来たりすることができる。1973年にwinに来た頃に女性のピアニストでケイと言うのがいた。彼女からかもめのジョナサンと言う本を貸してもらった。
内容はアメリカ人の東洋思想かぶれで全く面白くなかったが、連鎖的に思い出したのは自分の住んでいるドナウ運河のカモメ連中である。つまり「かもめのジョナサン」ではなくてこれらは「カモメの皆さん」なのである。

ピアニストケイは家から現金為替を送金してもらった。それはwinでスタインウェイのピアノ買うためなのである。家人と私がピアニストケイの家に遊びに行っていた時にたまたま為替の配達員が来た。最高額の1000シリングの札をそこで数百枚支払ったのでわれわれはびっくりした。
今はそういうやり方があるのかどうか知らないが、オーストリアの郵便局は大量の現金を運ぶそういう部門の人がいたのである。
ピアニストケイはその大金でシュタインウエイを買った。
テレビドラマやなんかよりそこら辺の筋書きがすごいと思うのは彼女はそのピアノ屋の若い経営者と親密な仲になったのである。

それから数年後にピアニストケイはがんでなってしまう。
下世話な私はピアニストケイがボーイフレンドから買ったあのピアノは一体どうなったのかとそんなことが気になった。

これもすでに40年近く前の話。

だからこれは多分本当だと思うのだがドナウ運河でカモメの大群を見ているとその中にピアニストケイが変身してカモメのみなさんの中に混じっているような気がしてならない。
「かもめのジョナサン」を貸してくれたピアニストケイはカモメの皆さんの一部にならなくて一体何になると言うのであろうか。

こちらは2016年のカモメの皆さん。Img_1114


2016年12月20日 (火)

突き当たり左側は管理人の部屋です

突き当たり左側は管理人の部屋ですImg_1012_2

今回のウインのアパートメントは7年間住んだドナウ運河の昔のアパートメントの川の反対側にあった。
それが懐かしいと言うよりも川の流れを中心軸としたいわゆる鏡の中の関係になるわけだ。ウインは鏡の中の都市といわれるがそれを今回実践したことになる。

1,800年代の終わりに建築された建物であるから、天井は非常に高い。
高さが少なくとも4メーターはあるのだ。それがセントラルヒーティングで完全に暖房されているから部屋の中ではTシャツ1枚で過ごせる。

外はマイナス4度だが別に寒くは無い。部屋の中でいつも汗をかくので4回はシャワーを浴びていた。
ところでこの部屋は部屋番号からすると2号室なのである。つまりメインのエントランス入って突き当たりは中庭でその手前を左に曲がって最初の部屋がそれだ。

通常はここは建物の管理人が住んでいる所なのである。それをドイツ語でハウスベゾルガーと言う。家を心配する人と言うような意味かな。

管理人の仕事は大変であって回覧板の受け渡しはもちろん家の前の掃除そして1番大変なのは雪かきをしなければならない。

最近はwinでは今は少なくなったが以前はおばあさんと犬が大量に歩行していた。
そうすると犬はマーキングのために建物の角でおしっこをする。それでおしっこさせないためにあれは何と言うのか黄色い、犬が嫌がる臭いの粉があってそれを管理人は建物の角にかけたりするのだ。これも昔の風情があって最近は犬の散歩そのものないで、その黄色い粉が見られなくなったのは寂しい。

そういう意味で管理人さんが撤退してしまった後にどこか地元のデベロッパーがそーゆーアパートを借り入れて我々のようなイスラエルの流浪の民に賃貸しをしているのだ。

それでベニスの商人で暴利を貪っているかというとそうではなくて、今回の私のアパートメント70平米以上あるこれが10泊で6万円ほどなのである。
こうなると本当にwinにまた移住したくなる。

2016年12月19日 (月)

東京に戻ってきて写真集winとライカの日々を見直す


winに滞在中に1,970年代によく歩いた場所をもう一回歩いてみた。
それで知りたくなったのは現在と40年前の場所がどのように異なっていたかと言う点である。

日本の古本屋と言うサイトで私の昔の写真集「winとライカの日々」を探した。
こういうクラシックなタイトルはアマゾンには存在しないのである。

それで横浜の古書店に1冊あったので早速注文した。モスクワ経由で東京に戻ってきたらそれが届いていて、まず留守番をしていた家人がその本をめくって面白がっていた。
写真と言うものはそれが数十年たってから初めて面白みが増してくるものと見える。

誤解をされては困るのはそれは写真が記録と言う意味では無い。そこら辺ははっきり分けておかないと写真の意味が混乱することになる。

90年代に出されたこの本を見ると、私は昔から写真評論家を信用しないのであるが、この時代の職業的な写真評論家ではなく「写真を評論する人」は尊敬しているのだ。
桑原甲子雄先生の私の仕事のイントロダクションや、島尾伸三さんの解説があったりしてなかなか面白い。

1973年頃の最初期の私のwinでの仕事と言うのがこの写真集に掲載されているがどうもその1連のシリーズはプリントをするためにネガを別のとこに保管していたようで今私の手元にあるファイルには発見できないのである。これは大問題だと思う。

その中で1番面白かったのは1,979年頃にwinの中心部のカフェが閉店になってそこに使われていたTHONETの椅子が大量に捨てられていたことだ。これが話題になってwinのカタカナ関係者がそれを拾いに行ったのである。

そのカフェに入る小路の角に巨大な壁絵があってこれはレストランの広告なのであるが太ったウエイターと痩せたウエイターが料理を運んでいるデザインでこれが素晴らしいのである。

もっともそのデザインはとっくになくなってしまったから、今我々が見ることができなくて、私の写真でで見ることができる。

Img_1100


Img_1099


2016年12月18日 (日)

トロゼフネフスキー

Img_1094

winの1番中心部の小路の中を入った奥にこのお店がある。
ポーランド語である。

私の親しいポーランド語はナグラクーデルスキーであるがこれはスイス製の高級な録音機だった。
同じポーランド系の名前ならジョンシャカフスキーがいる。彼はニューヨーク近代美術館の写真部長であった。

トロゼフネフスキー。
このお店はオープンサンドの専門店なのである。
店は1947年にオープンしたwin有名カフェ、カフェハヴェルカの向かいにある。ハヴェルカの場合はカフェと書いてあるからわかるが1,973年当時ここに始めてきた私には長いポーランドの名前が店の上に掲げられているだけでは何かがわからない。

しかも専門店であるから中を見通すことができないので何屋さんだかわからない。その店を教えてくれたのは私のwinの古い友人のクリスティンだった。彼女は当時売れっ子の写真モデルで業界人であるから、20歳代の若さも手伝って、そーゆーとこで通ぶるのが好きだったのである。

普通のオープンサンドはwinの人もよく食べるが、これはその中のかなり高級な方で値段も高いから私はウインに滞在していた時はほとんど行ったことがなかった。

10数年前のクリスマスイブに私はしてシュテファンのすぐ裏のホテルに滞在していた。winのライカショップのペーターのお母さんがまだお元気な時で家族の記念写真を撮りたいので来て来てくれて呼ばれてそれを撮影に行った。
クリスマスの家族写真と言うのは向こうの人は非常に大事にするのである。それが終わって私はクリスマスのお祝いを言ってオペラ座の裏のホテルに戻ってきた。クリスマスイブだからオペラ座はお休みである。せっかくのこういう時だから何かちょっといいものが食べたくなってこの店に行って20個ほどのオープンサンドの折を作ってもらった。そしていつもよりちょっといいスパークリングワインを買って部屋に戻って自分のクリスマスになったのである。
その様子は写真集CHOTOKU X RD!にも載っている。

深夜になると、空からステファン教会の鐘の音が降ってきて非キリスト教徒の自分でも何か救われるような気がしたのは言うまでもない。


この店はオペラに行く人間がその前にちょっと立ち寄ってオープンサンド少しつまんでシャンペンで喉をうるをしていくと言うようなスノッブなお店なのである。できたのは1903年だったか忘れた。

今回のwin行きで数年ぶりにwinの西駅に行ってみた。最近は中央駅ができて人気はそっちのほうにあるのだが西駅と言うのはかつて東欧に囲まれたこのwinで本当の西側世界に通じる唯一の駅であった。その駅の正面の右手に大きなカウンターがあってそれが新しくオープンしたこの店の支店なのである。

ちょっと場違いな感じがしたのはここでオープンサンドをつまんでオペラに行くようなスノッブ連中はそれで良いがここでオープンサンドをつまんでそのまま駆け出してローカル列車に飛び乗ると言うのは一体どんな気持ちがするものなのかそれが知りたくなった。

2016年12月17日 (土)

オットーワグナードナウ運河水位監視所

Image_2

winと言う街は東京に比べると小さいからまずどこにでも歩いていくことができる。だから私の7年6カ月の生活は主にドナウ運河のアパートから歩いて街の中心部に行ってカメラ店を見たりカフェをはしごしてまた歩いて帰ってくると言うのが普通だった。

その生活から36年が経過して今回改めて当時どのような行動を自分がとっていたのかを調査したわけである。

実際にどれだけの距離を歩いたのかが地図で調べてないからよくわからない。
今回の実際の歩行では街の1番中心分のシュテファン教会まで行ってそこら辺をうろうろしてまた帰ってくると言う、休みなしの歩行で1時間55分だった。

これはわざわざ途中で道草を食わなかったのには理由があって何しろ寒冷前線の通過でものすごい突風と寒い雨が降りそそいだのである。

別に傘もささずにずっと歩いて撮影をしてきたわけだ。思うに30代初めの頃の体力と比較してもそれほど私の歩行に関する体力が低下していないと言うことがわかってそれが面白かった。

ドナウを歩いて行くときのランドマークがこのオットーワグナーがデザインにしたドナウ運河の推移監視所である。
私が住んでいた30数年前はこの歴史的建築物は荒れ果てていて誰もいなかった。その後ウィンブームが来た後に大規模な改築が行われて、どっかの建築家の事務所になっていた。それから20年ぐらい経って今回歩いて観察したらなんとカフェになっていた。

何でも歴史的な建築物を喫茶店にしてしまうのはスターバックスでは無いのだからやめてもらいたい。でも寒風吹きすさぶドナウ運河のカフェてあるからこれは来年の春までお休みなのである。
こんな所歩いてるのは犬の散歩もいないしほとんど私1人だけであった。

2016年12月16日 (金)

winの1,800年代の建物の特徴

Img_1045
winの人口が最大数を数えたのは19世紀の終わりである。それで新しい都市計画で集合住宅がたくさん作られた。私が今いるドナウ運河の建物などもそれである。

大ていp7階建てで当初はエレベーターがなかったから大変だったであろう。
入るとすぐ左側が管理人の部屋でその2号室に私はいるのである。

廊下の突き当たりがガラス戸になっていてその奥に小さい庭がある。それをホーフと言うので、公園が少なかったからそれぞれの建物が口の字の形に構築されてなかは空き地で小さな庭にしていた。

中庭から入る光をきれいに見せるためにガラスのドアにはステンドグラスのデザインの凝ったものがあった。私の今いる建物はそんなに立派ではなくて単に建築年代がステンドグラスと色ガラスで数字が掲げられている。

その左側に18と読めるが右は何しろその後第二次世界大戦もあったことだし、なくなっている。

70年代にはまだ誰でもこの中庭の場所まで立ち入ることができた。私もそれに目をつけてカラーフィルムを無理して買って中庭の豪華なドアを撮影した。

それを当時愛読していた暮らしの手帖にまとめて送ってみた。
写真はデジタルの時代では無いのだから勝手に送ってはいけないのだが当時はそんなことは考えない。
暮らしの手帖は当時毎月家人の実家新潟から送ってもらっていた。
暮らしの手帖編集部からは返事もなくてそのままになってしまったが、今思うとあの写真を送ってしまったのは痛恨である。

今ではwinの建物はすべてなオートロックになってしまうからこの秘密の花園を見る機会というのは永遠に失われたわけである。
私のいるアパートメントのガラスの工芸品は非常に地味であるがまずこれで満足しようと思う。


2016年12月15日 (木)

winの大手スーパーで初めてセルフチェックアウトマシーンを試した

winの大手スーパーで初めてセルフチェックアウトマシーンを試した。Img_1010

フランツヨセフ駅はオーストリア帝国の最初の敵である。winからプラハを結んでいた。1,973に私の最初のプラハ時代にはまだ昔の建物が残っていた。

そのことをwinの周りの人に言うと皆びっくりする。ここら辺がジジイの特権である。
滞在中の70年代半ばからもう新駅の建設が始まってそれができるまでに5年位かかったと思う。今でも駅の前で二本立っている大きなポプラの木は昔の名残なのである。
ここら辺は偉いな。
日本だとすぐ最初にこれを切り倒してしまうだろう。

5年前に家人とwinに来たのがつまり2011年の東日本大震災の前なのであるがwinの南駅に行ったら大きな爆撃があったのかそれとも彗星でも落下したのかと思った。
駅にに巨大な穴ぼこが空いていたのだ。

今回行ったらちゃんと立派な駅になっている。オーストリアは仕事は遅いがちゃんとした仕事をするようだ。

フランツヨセフ駅の中の大手スーパーで新しいセルフチェックアウトのマシンがずらりと並んでいる。それを早速試してみた。
使い方は簡単で要するに買った商品を次々とスキャンして袋に入れば良いのであるが、事前に自分の袋持っているかとか、袋は全部で何個かとかセキュリティの理由で聞いてくる。

機械の具合が悪いのかそれは分からないが時々エラーになるので脇に立っている金髪のお姉さんにいろいろ聞いて教えてもらった。

何か自分がスーパーのスタッフになったような感じがして痛快だったが、これを仕事で年がら年中やっていればやる気が滅入るであろうと考えた。

私はスーパーのキャッシャーより、街をライカでスキャンする方が向いている。

2016年12月14日 (水)

本日結婚記念日。45周年。本日移動日win東京。

本日結婚記念日。45周年。
本日移動日win東京。

短いwinの滞在が終わって東京に向かっている。
1971年の今日東京は関口の東京カテドラルで結婚したのである。
45年になります。
これから人生さらに面白くなってくる。

なくなった写真家の稲越さんは巨大な白いカーラーの花束を持ってきてくれた。
東京カメラクラブの田村代表はスーツがないのでお母さんに買ってもらってそれを着てきたそうである。

芸能人並みの大勢の数のカメラマンに囲まれてたくさん写真を撮られたが誰も写真をくれなかった。
要するにみんな写真作家志望だからそれを自分の作品にしてしまおうと言うことらしいのだ。

数年経ってwin時代に、日本デザインセンターのクラスメートの榎本が1枚の写真葉書を送ってくれた。それは結婚式の日の写真なのである。だから手元にある写真はそれ一枚。

もっとも集合写真にはちゃんと組み立てカメラで写真館が2枚撮影した。ところが家人は写真に撮られるのが下手なのでその2枚とも目をつぶってしまったらしい。
それで写真屋さんは得意の技で修正して目をあけさせたのだが、目というものは重要だから結婚式の私の隣に座っていが花嫁は全く知らない人に見えるのだ。
これも非常に面白い。

12月に結婚してそのよく翌年の5月にwin 7年半くらしたわけだ。つまりwinの7年半と言うのはハネムーン、それも非常に長いハネムーンと言うことになる

ハッピー結婚記念日!
これはカフェデンメルのクリスマスウインドウ。Image_2


2016年12月13日 (火)

カールマルクスホーフを見にゆく


カールマルクスホーフはwinのハイリゲンシュタットにある長さが1キロ以上ある巨大な集合住宅だ。
その昔にあるベートーベンの小道の方が有名だがベートーベンの小道がつまらない田舎の小路である。それより社会主義時代のwinの巨大集合住宅を見たほうがはるかにおもしろい。

40年前この建物は当時のカール・マルクスの思想を受け継いだのかもしれないが真っ赤な色であった。それが10年近く前に改装されて赤い色わいが抑えられたと言うのは、クレムリンから赤旗が下がったのと何か象徴してるような気がする。
当時の労働者のための建築物だから1人用の住宅等はまるで独房のように狭い。

ルコルビジェの作った集合住宅も非常に狭いのがあるから人間1人が生活できるスペースと言うのはそのくらいでいいというのが真実なのである。考えてくれば私の佃の寝室も非常に狭い。
今いるwinのアパートメントなどが非常に広いのでベッドから降りてコーヒーを作りに行くのも部屋の中を歩くのに疲れるほどである。
この巨大な集合住宅のほかにwinには当時1920年代から30年代に作られた巨大な集合住宅がいくつもある。でもその中でも1番個性的なのがこの建物だと思う。

40年らい、カメラアングルをいろいろ考えて撮影したのだがどうもうまくいかない。ハイリゲンシュタットの地下鉄の駅の方からだと駅を出たところにいきなり建物があるから至近距離すぎて全体が掴めないのだ。

それで考えを巡らして南北に走る建物の西側からカメラを向けて狙ったらこういうカメラアングルになった。
この建物の特徴は中庭をうまく使っていると言うことなのでこのショットが1番いいと思う。
Image


2016年12月12日 (月)

ドナウのたそがれ

Img_1046

ドナウ運河はドナウの本流から作った人工的な川である。
だから本物のドナウ川に比べると非常に見劣りがする。偽ドナウ川なのである。
ドイツのドナウ流れる街やブダペストは大河であるからそのドナウ本流が街のそばを流れるのはなかなかゆったりしてよろしい。

ところがwinのは作り物だからちょっとテーマパークのように見える。

winに住んだ7年半はもともと狭い街であるからドナウ運河のほとりのアパートメントから歩いて街の中心部に行っていた。
そんなに時間はかからない。

ドナウ運河には観光目的でマリアと言う名前の小さなボートが川を遡上していた。長年住んでいてそれに乗らないのはバカバカしいと思って家人と滞在の最後の年にのったのだが非常につまらないのでがっかりした。家ではこれをマリアではなくてママリア丸と呼んでいた。

ココシュカが1947年に描いた小さな油絵がある。
それはドナウ運河のこの辺の渡船を描いたものである。その渡船は私も好きなものであった。当時のお金で1オーストリアシリングの半分つまりグロッシエンを払って渡船に乗った。

対岸に用があると言うわけではない。船がゆったりと水辺を渡っているときに私は手のひらを差し出してドナウの水をつかんだのである。普通なら川に落ちないとなかなか水はつかめない。

その渡しもなくなってその同じ場所にコンピューター会社の名前をつけた立派な橋ができたのもすでに30年以上前の話である。

夕方その橋の上を通ったら昔乗ったことのある観光船がゆるゆると川を登って行く。ただし昔のとは違って大きく立派であって川幅を圧するするほどの大きさだ。

そのボートを眺めながらゆっくり40年近く前のwinの日々の暮らしを思い出すのも老人の楽しみというものだ。

2016年12月11日 (日)

写真集 ウイーンとライカの日々 をウイーンで注文

私のwinのことをあつかった写真集は2冊あって1つは20年前に出した「winとライカの日々」と言うタイトルである。2つ目は10年ちょっと前に出した「winモノクロームセブンティーズ」というやつだ。

最初に出した「ライカの日々」は手元にないのでアマゾンで調べたら当然ない。
日本の古本屋で探したら横浜にあったので早速注文した。2,700円である。

この写真集はロバートフランクさんでみてもらった。写真作家論ならロバートフランクで良いのだが個人的なつながりだから、これはフランクさんと言うべきだろう。
フランクさんの感想が今でも忘れない。
その概要は良い写真集だが別のフォーマットでとっているのはちょっと問題なのではないかと言うことだった。

詳しく説明するとこの写真集はモノクロームの35ミリで撮ったやつのほかにローライフレックスとプラウベルマキナプロシフトでとっているのだ。
要するにマルチフォーマットなのでそれがフランクさんにはちょっと分かりにくかったようである。

しかし私にしてみればフランクさんの仕事と言うのはマルチフォーマットメディアの上を行っていてMoveの仕事などはポラロイドだし映画もとっているし要するにミックスメディアの走りなのである。

私の写真集をフランクさんが手に取ってそれをめぐってくれて感想述べてくれたことが私にとっては大変ありがたい。ただしフランクさん自身は自分の表現でカメラのフォーマットを使い分けるということをちゃんと知っていたから、それに対して私の写真集のコメントが出たものなのであろう。

まぁそれもそれで非常にありがたいわけです。Img_1013


2016年12月10日 (土)

winの地酒の事

winの地酒の事
winに住んでいた7年年半の間は安酒ではあったが口にあったものがあった。
地元で取れるワインの地酒であるが2リッターのビンがある。ドッペラーと言うのである。
元は業務用だったらしいが一般の酒飲みもこれを好むのでスーパーなどで売っていた。

ところが以前はオーストリアのワインでじゅうぶん安かったのであるが、最近はオーストリア製のワインが高いのでなかなか買いにくくなった。
2リッタービンのワインでもメイドインヨーロッパと言う奴があってこれは安い。要するに東欧のワインを仕入れてきてまぜこぜに入れたものであろう。
でもそれはそれでおいしい。

2年ぶりにwinにやってきてくだんの一升瓶を探したら大手スーパーでもない。私の探し方が悪いのかもしれないが何度見ても見慣れた大瓶が発見できなかった。それで東京と同じで普段はチリのワインとかスペインの安ワインを飲んでいるのでそれに従った。

スペイン製のワインで1ユーロ99と言うのがあってこれがなかなか飲める。パリに行った時などはスーパーで呑み助ジジイの後をついていくと彼らはちゃんと安くて美味い酒を知っている。
これは私がパリに何十年も通って覚えた秘密のテクニックである。

しかし今回は踏ん張ってwinを撮影しているので昔を懐かしんでやはりオーストリア製のワインを飲もうと思った。それでお店で値段を調べるとテーブルワインにするにはなかなか高い。大体750シーシーのワインに10ユーロ払うのは馬鹿げている。
もともとそれは水であるからだ。

しかしwinを表敬訪問しているのであるからそーゆーわけにもいかずwinの北にある11世紀からの、修道院クロスターノイブルグの赤ワインを買ってみた。味は飲めない事はないが甘すぎるのである。普段チリとかスペインのタンニンの利いたボディーの重いやつを飲んでいると何かおままごとと言う感じの味なのだ。

いつも言っていることだがワインの味とレンズの味と言うのは実は一種の共通性がある。要するにブランド志向である。高ければ良いという錯覚がある。そして生産地を固執するのである。ここに並んだ3本のワインじゃなかった1本のワインと二本のレンズであるが左は原産地がちゃんとしている奴だ。そして右にはファーイーストで作られている。フランスの農業は厳しいから例えばシャブリと言うブランドはフランス以外で作る事はできない。でも、ツアイスがオーケーを出しているのだからまぁそれはそれで良いとしよう。

それで真ん中のレンズの1本じゃなかったワインの1本であるがこれも原産地は非常に正確に設定されている。しかしどうもあたしの貧困な味覚には美味しく感じられないのである。言い換えればいつもソ連製のレンズばかり使っているから、さらに安ワインばかり飲んでいるからこういうひどいことになるのであろう。Img_1008


2016年12月 9日 (金)

あまりにも有名な大観覧車ですが


1973年にwinに居住するようになって最初にこの大観覧車に乗ったのは数年後であったかと思う。今にして思うと路地裏が好きなのでルナパークが好きではない。いや私が好きなのはルナパーク的な気分が良いのであってルナパークそのものはあんまりと言うわけである。
だから本当に好きなのはwinでは本家のプラター公園ではなくボヘミア人のプラターと呼ばれているwinの南のほうにある寂しいルナパークの方だ。

しかし日本から来た知り合いに頼まれてガイドの役割で乗ってがっかりした。
もともと上からの眺めは大観覧車の場所が変なばしょにあるので全くダメなのである。

その後も取材の仕事で何度か乗ったことがあるがこれは仕事だから仕方がない。
大観覧車に乗りたい人には、あれはつまらないからおよしなさい。後悔しますよと言うボランティアを何十年もやっている。
winの観光局には長年お世話になったのだが、一方でこういう業務妨害がわかったら観光局に叱られそうだ。

でもそれに乗らずに周辺から見る大観覧車は19世紀末の夢をはらんでいて素敵だと思う。
特に大観覧車の見頃は真冬なのである。それで実に良い日にやってきたと感心した。

3年前に出した「ライカマイライフ」の中でやはり大観覧車をロングショットで撮った作品がある。これも好きなものだ。

Img_0953


2016年12月 8日 (木)

しりの便利さと怖さ

Img_0932_2
アップルの音声入力システムSiriが登場したとき、かなり話題になった。

私は音声入力の原稿書きにしか使わない今回初めてしりに質問してみた。
ここはどこ?
と聞いたら稲今いるアパートメントの正確な住所つまり枝番まで出たのにびっくりした。

アメリカ軍が私を攻撃するのならば無人爆撃機をそこに差し向ければ良いのである。
昔エッセー集の屋根裏プラハで私は自分のアトリエの窓に小さな紙を貼り付けてあるのが軍事衛星から見えると言う事を書いた。
その、窓から東に4つ目の 窓にピンポイント攻撃するとそこが私のベットでちょうど枕の上なのである。今の精密爆撃はそんなものではないであろう。

ばかもんゴーやっている皆さんこのようにすべての人類がその場所を特定されていると思うとたいしたものと言うより恐ろしく感じる。

2016年12月 7日 (水)

ヒトレルの描いたウイーンの風景画

iPadから送信 Chotoku Tanaka 【ウィーン=笹沢教一】オーストリア大統領選のやり直し決選投票は4日の投開票の結果、リベラル・緑の党のファンデアベレン氏(72)が得票率51・7%で、極右・自由党のホーファー氏(45)の同48・3%を上回り、勝利した。
ーーーーニッポン危ないなあ、、、あたしは1988のウインをわすれない。
ーーーーー

かなり昔のことになるアドルフヒトラーがwinのアカデミーにいた頃の風景画を見たことがある。
だーネットで見たので正確な絵画のサイズはわからない。それは数点あってwin ミュンヘンなどの有名な建物を描いたものであった。

第一印象としては絵画での才能がないのであるが、妙に細かいディティールが書き込まれていた。それと全体の風景の空間がちょっと歪んだ感じであってキュビズムというのでは無いけれども何か不思議な印象であった。

Winのアカデミーの学生であったアドルフが絵画に見切りをつけてバイエルンに流れていってああいう、ホロコーストとカタストロフィーを起こしたわけだ。

ドイツもオーストリアも第3帝国時代のものを販売することを法律で禁じている。現在の日本の若者の第3帝国時代のファッションが流行しているのを見ると非常に不思議に思う。

1988年に私はウイン滞在していた。
winを引き上げてから8年後ということである。
私はオーストリアがドイツに併合されてオストマルクになって半世紀ということでその怒りと悲しみを忘れない行事を忘れない。

今のオーストリアの大統領選挙でエクストリームライトの40代の男性はそういう過去のことを知らない連中である。
銘菓モーツアルトクーゲルの他に、アドルフクーゲルができそうなのだ。
Winはと言うよりオーストリアはかの独裁者を生んだ国であるからそういう土壌があるのは勘違いじゃない。
そう街にいう街に八年くらしてそれから日本に2年滞在して、いきなりニューヨークに行った。まずニューヨークでびっくりしたのはユダヤの末裔の人々が自由であると言うことだった。

1939年にかのシグムントフロイトはwinを追われるようにロンドンに去って翌年その場所で客死している。
ワルターベンヤミンはベルリンから脱出してフランスも危なくなりスペインの国境で自殺してしまうのだ。殺害と言う話もある
アシュケナージ関係で1番幸せというか助かった人の中に、この間東京で作品を破壊されたロバートフランクがいた。
フランクの父親は1,920年代にドイツのパスポートを没収されてしまい機転ををきかして母親が息子のためにスイス国籍を取ったのである。これがフランクがスイス出身であると言う理由である。

1,970年代のwinの滞在中の大統領はルドルフキルシュレーがーであった。首相はブルーノクライスキーだった。クライスキーは第二次大戦中英国に亡命していたのである。
1974年5月1日のメーデーに私はボレックス撮影機を携えてwin市庁舎前の広場でメイデイの大集会を撮影していた。

クライスキー首相に接近してボレックスを回した。すばらしい5月の朝で青空に赤旗がひらめく背景で集まった全員がザ、インターナショナルを歌った。
オーストリアは当時オーストリア社会党なのである。

Img_0905


2016年12月 6日 (火)

✴️おしらせ

十二月のチョートクカメラ塾はウイーン取材でおやすみです。十一月までの月謝未納者はお支払い願います。

ウインの仕事カメラは

今回のwinでの撮影は短期間なのでカメラは最低限にした。

今年の1月のプラハでは持参したライカとコンタックスが壊れてさらに現地で購入したキエフも壊れて大変な目にあった。

それで今回はライカM3のオリーブの軍用カメラを持ってきた。これは私の写真のコレクターである野々宮の所有するものでずっと借りているのである。
ロバートフランクのオリジナルのマケットをジョエルマヤロビっつがニューヨークの近代美術館に預けてあるようなものである。

野々宮との信頼関係が構築されているわけだ。非常に大事にしているので、以前NHKの特別番組で私が撮影中と言う心をとるのに持参して佃の路地裏でオリーブのライカで撮影した。

ライカジャパンの二子玉の店ができた時にアサヒカメラの取材で持っていったら店長さんはオリーブの軍用ライカを知らなかった。まぁそれはそれでよろしい。

デジカメのほうはリコーを持ってきた。今回はローモードで撮影している。

Img_0894_2


2016年12月 5日 (月)

ウイーン

winに到着した。
夜なので真っ暗である。もともと電気を節約する町だがこんなに暗いとは思わなかった。
昔住んだパートの川の反対側のアパートに泊まるので探しだしたがとにかく真っ暗で管理会社に電話をすることもできない。今日のドイツ語で鍵の受け渡しについて電話があったそうである。
しかしマイナス3度と言う凄い寒さでこれは凍死すると思ってそれでフランツヨセフ駅のそばのホテルにとりあえず宿泊した。
夜勤のおじさんに俺は昔のフランツヨセフ駅を知っているんだぞと煙に巻いてやった。
時差時差なのでもう寝ます。

2016年12月 4日 (日)

本日移動日 成田 モスクワ ウイーン

Img_0877

昨年の2月ぶりのwinである。最近はロシア航空アエロフロートが激安値段にて驚くべきことにラウンドトリップが6万円ちょっとだった。トランプ次期大統領とプーチン首相が結託して競合他社のエアチケットを軒並みやっつけると言う作戦だろうか。
この数年来エミレーツとか中東系のチケットを使っていたのだがこのアエロフロートの最安値にはまいった。

2016年12月 3日 (土)

現場監督ズームの実力を見る

Fh000018Fh0000191

コニカ現場監督ズームの実力をここで示したところですでに手遅れだがこれは普通に使える優秀なレンズだ。

現場監督シリーズノ中では最高級で五万円近かったそうだ。それがオークションで500円というのもまんざらうれしくないこともない。 要するにバーゲンハンターの喜びなのだが私が普通のバーゲンハンターと違うところはカメラを手にしたら安心してしまってそれをクローゼットにしまうということがない。 工事用記録フィルムこそ現場監督には工事用記録フィルム。それを100本単位で買っているのでこれは水を得た魚とゆうか、工事用記録フィルムをえた現場監督ということになる。 そういうところに私と現場監督のクリエイティブな花が咲くのである。

工事現場というか新興住宅地のまっさらな建築物と言うと数年前に亡くなった私の好きなアメリカの写真家ルイスヴァルツを思い出す。 彼は南カリフォルニア出身であってなくなったときはパリに住んでいたがやはりこれは我々極東の人間と同じような意味で南カリフォルニアに対するコンプレックスがあって彼はパリに住んだのではなかろうか。

ヴァルツの初期の仕事はリンホフ6センチ× 9cmでとられていて非常にフラットな画面構成である。それが言い換えれば建築写真の記録のようにも見えるのだ。

このズームレンズは28ミリとその2倍の56ミリであるからたいていのシーンはこれで用が足りる。やツクダの街を歩いているとこういう街路樹を囲った白い柵が私の好むモチーフである。その表面的なテキスチャはアメリカ軍の基地が似たような白いフェンスで囲まれていて中は遠い国であったという点だ。 この小さな花園はその模型なのである。

2016年12月 2日 (金)

私の廃園趣味 RICOH 500

Pict0189Pict0190最近手に入れたカメラでリコーの500というモデルがある。 購入価格は2,500円だった。 レンズはリコーブランドであるがこれは富岡光学が作っていた。実に優秀なレンズである。そのカメラを1台だけ持って12月の東京の街を徘徊した。 私が好きなのは手入れの行き届いていてない公園なのである。 その公園の空間に耳をすまし目をシャープにして撮影をした。 仕上がったネガをスキャンしてみたら、これは自分が想像していた以上の好きな光景をキャッチしていた。要するに自分の好きなのはうちはてられ忘れ去られた公園、つまり廃園なのである。 別にイタリアの有名な忘れ去られた公園に行くまでもない。身近な中央区の手入れの悪い公園、これは地方行政からすれば問題なのだろうが私はそういう手入れの悪い公園が素晴らしい。

ウイーンの観光のスポット、シエンブルン宮殿の広大な庭園の正面の高みはグロリエッタと言って幾何学的な丘の頂上に凱旋門のようなものがある。 そこはつまらないから行かないが、その左手の公演の奥にこれはローマの遺跡をフェイクで作った泉がある。それが気に入っているのである。 どんなものか説明するとローマ時代の巨大な構築物が崩壊してそのまま草に覆われ苔むしてしているのだ。 これはキリスト教世界の通常考えるところと全く反対の世界である。神が勝利を収めて永遠の天国を作るというのが彼らのコンセプトだが、このフェイクの壊れた世界を見ているとそこにはこの世界にはなんの救いもないということが証明されてるように私は思う。 つまり西欧の哲学とは全く反対の東洋の哲学、言い換えれば諸行無常の有様がそこに具現化されていると言ってよい。 そこが気に入っている。廃園というのはその意味で私にはなかなか魅力的なモチーフである。

Img_0871

2016年12月 1日 (木)

フルシチョフ第一書記の愛機

フルシチョフ第一書記の愛機である。
Img_0858


Img_0857

300ミリの望遠レンズをフェドに付けたもの。
本物のガンストックがついている。
1,945年前後に赤軍のためにごく少数が作られた。これは本物の光学兵器である。
ソ連のフルシチョフ第一書記はカメラ好きでソチに休暇に行く時にソ連製のハッセルブラッドであるサリュートを持参した姿などが写真に残っている。

このフォトスナイパーはフルシチョフ第一書記の最もお気に入りのカメラだった。戦後になってご自慢のカメラを修理するためにモスクワ郊外のクラスのゴルスクにあるカメラの修理工場に行った。
そこで第一書記はもうこのカメラが生産されてないことを知って、指令を出して似たようなカメラを作らしたのである。
それが300ミリの望遠レンズをゼニット一眼レフにつけたフォトスナイパーである。政治のトップが指令でカメラを作らせると言うのはなかなかすばらしい独裁体制だ。
ここまで行かなければ本物ではない。安倍首相などはまだまだである。

winのライカショップの倉庫にこれを発見して手に入れた時は嬉しかった。東西ドイツ統合から10年目の1999年のことだった。そのままドライブしてサウスモラヴィアのテルチに行って古い町並みを300ミリの望遠レンズで圧縮して撮影した。

そのままベルリンまで行ってベルリンの四ツ星ホテルの窓からフォトスナイパーで撮影した。翌日にコンシェルジュが「お客さま、、、向かいの建物はドイツ外務省のビルでございますから撮影にはお気をつけ下さい」とサゼッションをされたのである。

しかしそれで撮影を止めるような私では無いからさらに撮影が楽しくなった。
このカメラはコンタックスのフレクトスコープと同じで目の高さでファインダーは見ることができるがファインダーの像は左右逆雑なのである。
しかしそれに慣れてしまうとむしろそのほうが使いやすい。カメラを水平に構えて右にふると画像は左に逃げるのだ。ローライフレックスの二眼レフやハッセルブラッドと同じである。

このカメラは非常に優秀な作りで手に入れてから1度もメンテナンスはしていない。それよりも制作されてから70年以上が経過しているのでストラップなどがボロボロになってしまった。
それは鵠沼のチョートク研究家であるササキジュンイチに依頼して新しくストラップをつけてもらった。

« 2016年11月 | トップページ | 2017年1月 »

ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30