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2016年11月30日 (水)

駄カメラ展に出品の作品

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友達の狐塚さんが祐天寺にペーパープールをやっていたときに、変な名前の写真展を開催した。
3,000円までの中古の駄カメラで撮るというのが出品のラインなのである。

昨年は出品できなかったが今年は興味が出てきてこれに私も参加させてもらうことになった。

なんでも大変な人気で参加希望者が多くて何回かに分けて展示するそうである。
私は1,970年代に住んでいたwinで撮影した作品を出すことにした。よく見ると実に変な写真である。第3の男の映画では廃墟のwinが出てくるが、これは爆撃されたと言うわけではなくて取り壊し中のビルだろう。

その前にまた異常にに人が集まっているというのが不可解である。

写真と言うのはそう言う不可解なことを記録して後になって不思議だ不思議だと言うふうに頭をひねるそういう楽しみがある。

撮影したカメラはソ連製のコンタックスキエフである。3,000円と言うのは中古の本体の価格であってそれにつけるレンズは別なのだが、まあ、この場合は3,000円と言うふうに言って良いだろう。

実際winに住んでいたときの7年半と言うもの、メインカメラはキエフであった。他に買えるカメラがなかったからである。
必要に迫られてしかたなくそれをやっていると言うことほど強い事は無いと稲垣足穂も言っている。

2016年11月29日 (火)

✴️お知らせ 田中長徳 Panorama Europe 1975 プロジェクト

ツアイトフォトサロンの石原悦郎さんが四十年近く秘蔵してくれた田中長徳ヨーロッパ世紀末のパノラマ写真群が公開され、写真集になります。
詳しくはリンクを!http://www.gallerymain.com/project/

❤️チョートクカメラ塾 2017011は今週水曜配信です。

「何でとるかではなく何をとるかだよな」

買取名人のオリーブ

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単に日本で有名なばかりではなくかつてドイツのライカの社長さんも表敬訪問した東京は四谷荒木町のアローカメラとガラクタ屋さんである。

そこの人間国宝の買取名人の野田さんがこの6月に体調をくずして長いこと入院なさっていた。くも膜下出血で女子医大に搬送されてそこで手術を受けられたそうである。

その後リハビリに励まれて最近またお店に出てきて活躍していらっしゃる。実に驚くべき回復力である。
しかも体重が20キロ落ちたとか言うので実にダンディーなジジイになっていた。
なんでもあと20年は命を保障すると主治医の先生に言われて、その答えが面白い。
買取名人はあと2年プラスしてくれれば百歳になるからそれでお願いしますと言ったそうである。

ロバートフランクにしても、ジョナスメカスにしても、そしてフェデロカストロにしてもやはり人間は長生きしないと本当の仕事はできない。

恒例の土曜日の午後2時からの私のトークの最初に買取名人のご挨拶があった。それで買取名人がいかに悪代官であるかなどを話していたら、いきなり買取名人が再度登場した。
何か手に山のように持っている。
見ると名人の故郷の小豆島のオリーブの実の浅漬けなのである。
これは非常にうまい。

それを参加者全員に買取名人は配ったのだ。20個以上の紙コップにそれぞれ6個ずつのオリーブが入っている。別に割り箸も添えてある。
そんなめんどくさい作業がよくできたと、参加者一同感心した。私のような健常者のジジイでもそんな細かい事はまずできない。

それで買取名人が完全に現場復帰したと言う証拠がここで確定したわけだ。

2016年11月28日 (月)

トップムゼの東京

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2年間休館していた東京都写真美術館がトップミュージアムと言うのでリニューアルした。私の作品もあるのでレセプションに行ってみた。

山手線の新宿駅の午前8時半と言うような混雑であった。そのぎゅうぎゅうした中に立っていたら向こうから偽ライカ同盟のなぎら健壱さんがやってきた。
ところがこちらに進行しようと思っても周りがラッシュの波でなかなか前に進むことができない。
それほどの大混雑なのである。
これは素晴らしいことであると思う。

オープニングセレモニーで東京都のどっかの偉い人がスピーチをしていた。大変結構な内容なのだがその中で「今回ここに登場の6人の作家さん」と言うのが気になったのである。
これは業界用語ではダメだな。大阪芸術大学で写真作家論を持っている私としては非常に気になる。
会社の営業の人がニコンさんとかソニーさんというのはまだいいが、作家さんはやめたほうがよい。何故かと言うに作家さんと言う言葉で検索してみるとわかるが、タダで原稿書いてくれる作家さん募集とか、タダでイラストを描いてくれる作家さん募集というような使われ方が最大なのだ。
非常にネガテイブなのである。

トップミュージアムという名前も皆さんびっくりしたようだが、数ヶ月も経ったのでかなり定着したようだ。でも私の場合それがあまり自分に合わないのでトップミュージアムではなくトップムゼと呼んでいる。
そのほうが高級な感じがしますですね。
パリのエス、、、
いや、実態はどうでも構わないが耳さわりが重要なのである。

このTOPという言葉は非英語圏に行くとちょっとチープな使われ方をしている。例えばインターネットの怪しげな教材とか怪しげな商品の販売のウェブで、やたらスクロールの長いのがあるが、あの販売ウェブの最後のところに
TOP!
とかついている。要するにあまり上品な言葉ではないのだ。
だからトップはその印象がキッチュなのであるが、最初からそのことを意図して名前をつけたなら別に問題もない。
キッチュこそがアートが目指すエルドラードであるのだから。

その.トップムゼに私の東京の作品が70点以上収蔵されている。今回はその収蔵展と言うことでそのうちの数点が出品されている。自分のプリントを注意してみた。1,960年代のプリントであるから変色しているのではないかと心配なのである。
でも色は変わってなかったので一安心した。これはそのカタログである。持ち帰ると居住スペースが圧迫されるので会場にいたパパラッチさんにこれをコピーした後、そのまま進呈した。
それで良いわけだ。


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CAIRO 2009

2016年11月27日 (日)

有楽町ガード下のBAR

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清澄通りの酒屋さんの名店クラブエダムがなくなって1年半になる。
それで仕方がないので有楽町のガード下の昔から通っている食安などに行っている。

有楽町から新橋にかけてのレンガ造りのカードというのは近代日本の夜明けと言う感じがして非常に素晴らしい。我々素人が見るとレンガで構築された壁というのはちょっと見にはその年代がわからない。明治時代初期は日本のわけだがヨーロッパに行っているとローマ時代のレンガ塀などがあるので油断ができない。
最近都心でタバコを吸うところはないのでこの立ち飲み屋は貴重なスモーカープレイスであるが、いつもオーバーブッキングのような感じがする。ただし外であるから換気が良いので喫煙しない私などもまず大丈夫である。

食安の私の定位置と言うのは正面から見た左側の角なのである。それは風の関係でタバコの煙が流れる上流ということになるであろう。
それが先週何かの加減でそこしか空いていなかったのでエントランスの1番右端に立ってみた。気がついたのはそこに垂直のBARが二本あるのだ。

これにつかまりながら酒を飲むとなかなか背筋が伸びて快適なのである。
言い換えれば自分から生えたしっかりしたステッキにつかまって飲んでいる酔っ払いと言うことになる。

どうもこれはガス管の端末であるらしい。だからしっかりしていてグラグラしない。こういうガス管の端末を佃の部屋にもあったら便利だろうと思うが、うちのマンションはオール電化なのでそれは果たせないのが残念である。

2016年11月26日 (土)

ミックスメディアよりもミックスフライいやそれよりもエビフライ

✴️30年以上のプラハ滞在の写真CHOTOKU PRAHA1985・2016はいよいよ、今週土曜千秋楽です。それを記念してセレモニーを虚構します。
午11/26午後7時のギャラリーバウハウスの写真展終了後、聖橋北詰でパフォーマンスを行います。参加の方はバウハウスの終了後コンビニでいっぱい飲む飲み物、ファミチキなどを買って聖橋北詰にお集まりください。
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これはロバートフランクの写真展のエンディングセレモニーの真似なのである。

エンディングセレモニーは何でもフランクの展示物を破壊してそこに強烈な光をピカピカやるものなので注意しろと言う注意書きが来た。
私は一昨日の夜当日は芸大にまで行ったが19時30分まで待つことができないので、エビフライを食べてそのままなじみのねずの甚八の飲み屋に行った。これは良かったと思う。

写真展をバリバリ壊すパフォーマンスの後に谷中の真っ暗な夜道をがっかりして戻るのはこりごりである。
前のブログでアレンギンズバーグが小さな画面の中で自分の詩を朗読しているのは情けないことだと書いた。これがミックスメディアの限界である。

だからミックスメディアよりミックスフライの方が好きだ。それで芸大のキャッスルの食堂に来たらミックスフライよりエビフライ。それを食べたのが先週でそしてもう一回フランクのパフォーマンスの日にそれを食べに来た。

付け合わせが微妙に違っているのとお皿の形も最初に来た時や円形であったがその後楕円形になった。日々料理は変化しているもののようである。それに対してロバートフランクは変化しない。
何か物足りないような気もする。

結果としてロバートフランク展示を考えるならば、私の半世紀のプログラムでフランクへの愛情が一気に冷めて冷静になったと言うことであろう。
それはシュタイドルの商売が上手すぎるせいなのかもしれない。
1番の問題点は今回のこの世界50カ所で開催されるプロジェクトをその目的を教育のためと言っている事だ。
これが結構危ない。
宣伝のためと言えば良いのである。

同じようなことが以前にあった。
私はジョナスメカスの大ファンで、40年前ニューヨークに滞在したときにその最後の週の金曜日の夕方にメカスにマンハッタンの路上で遭遇して言葉を交わしたのである。
その次の12月にメカスは原美術館の彼の展覧会でレセプションに登場した時、何を思ったかいきなり私にまっすぐ進んできて私と握手をしてくれた。
これは主催者としては非常に面白くない出来事であったことだろう。

でもこのメカスのハンドシエーくのおかげで私の半世紀にわたるメカスフィーバーは治ったのであった。
その手法で言えば今回は私のフランクディジーズはミックスフライとエビフライが治療してくれたことになる。Img_0829


2016年11月25日 (金)

✴️お知らせ/ギャラリーバウハウス 田中長徳プラハ写真展エンデイングセレモニーのお知らせ

✴️30年以上のプラハ滞在の写真CHOTOKU PRAHA1985・2016はいよいよ、今週土曜千秋楽です。それを記念してセレモニーを虚構します。
午後7時のギャラリーバウハウスの写真展終了後、聖橋北詰でパフォーマンスを行います。
参加の有志は近くのコンビニで自費にていっぱいの飲み物、ファミチキなどを買ってご参集ください。Img_0804


現場監督ずーむで

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コニカ現場監督がなかなか使えるカメラだ。10年ほど前に3台買ってそのままになっているのを最近使い出した。
ところが撮影しているとどうしても標準レンズで撮りたくなることがあるので困った。
カメラは28ミリが標準レンズである。現場監督ズームと言うカメラの存在を知った。これは28ミリから56ミリのズームがついている。

有名な写真家が仕事をするときに28ミリの広角と50ミリの標準があればこの世界は全て撮影できると言った。これは尊敬する東松照明さんである。

オークションでボロボロに使い込んだのを買った。値段は500円であった。
使ってみるとなかなか良いカメラだ。
フラッシュは自動であるから暗いところだと勝手に光る。それが何かアマチュアの初心者のような感じで逆に面白い。
野球の球場で大昔全景をとるのにフラッシュを光らせている人がいて、あれは一瞬の風情であったが、その感じが自分にも伝わってきた。

現場監督の場合フイルムを入れるだけで後は全部automaticなのである。フイルムカメラは世の中では人気がないが最後の進化形と言うのは実に大きな進歩であったこともわかる。

2016年11月24日 (木)

回路のイコフレックス

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回路は2週間ほどいただけで毎日公共交通機関を使わずに歩きまわった。
ギザのピラミッドに行く時は電車を使ったがそれ以外市内は全部歩きである。それもナイルのヒルトンから街の東の果てにある死者の街まで連日往復したのだから、歩けない距離では無いにしろけっこうな歩行距離であった。

これが2009年の9月の話なのである。
ツアイスのイコフレックスは1939年にできたカメラでそのデザイナーはツアイスの有名なスーパースターであった。

エジプトと言えば1942年に砂漠の狐ロンメル将軍のエルアラメインの戦いがあったから、このカメラはその4年前にできたということだ。もう完全に歴史の1部になっている。
だから私はエルアラメインのドイツの報道班員の気持ちでイコフレックスを持っていった。

当時のナチスの報道班員はヒトラー総統を撮影するときにはアグファカラーは使ったかもしれないが通常の戦争の記録なら無論モノクロームであろう。
それを時代がずっと降ったので私は天然色写真で撮ることができた。これは大変なテクノロジーの進化である。

撮影したフィルムはたった30本ぐらいだったらそれなりにちゃんと映っていた。

このイコフレックスにまつわる不思議な話がある。その前の月つまり2009年の8月に私は郷里の千葉県の銚子に行った。
いろいろなところに書きちらしたが私の家は老舗の醤油製造業者の末裔なのである。
瀟酒なぺンションに宿泊したら、そこのオーナーが私の名前を見て田中と言うので直感的にその醤油製造業の末裔であるということを見抜いた。
びっくりした。どのような形で出奔したのかは父親にも聞いてないしバックグラウンドはわからないがまず考えられるのはネガティブなそれであろう。
その翌日にくだんのオーナー、その人は郷土史家でもあるのでその醤油製造業の大元の工場の跡地を案内してもらった。

銚子の駅のそば最初の観音と言う駅の手前にその歴史的な場所はあった。建物の裏側の狭い廃墟である。竜の形をした水道の取水口があったりした。

その奥まで歩いて行こうとしたら同行の郷土史家は自分は霊魂を感じる才能があるのだが、その勢いがあまりにも強すぎるので、ここから先は怖くて自分では入ることができないと言った。

私は鈍感だからそのまま入って奥の廃墟の1番先まで行った。そこで持参のイコフレックスを構えて撮影しようと思ったらシャッターが切れないのである。
このカメラはその時、10年来使っていて調子が良いので非常に不思議だ。何かの霊が私のカメラを止めたとは思いたくないが常識では考えられないことなのだ。

そこを出て郷土史家と別れて私はぶらぶら観音様の参道のほうに行ってその五重塔の手前で水を飲んで一休みした。さっきのイコブレックスのトラブルは何であったのかと思ってカメラを操作してみると不思議なことにちゃんと動くのである。

今昔物語等で言えばこれは観音菩薩のご加護ということになるのであろう。そういう極東の神秘のパワーに触れたイコフレックスでカイロの街をとり歩いたのであった。

2016年11月23日 (水)

ロバートフランク展 ミックスメデイアよりミックスフライ

期間限定のロバートフランク展示に行ってきた。2度目である。

この前に、学生の文化祭のようだとあきれて帰ってきたのだが、友人の話では実は二階にも展示があるというのでびっくりした。受付に学生さんはいるが二階の事は誰も教えてくれなかった。

なんでそんな見落としがあったのかというと私の場合日本の展覧会の展示を最初から甘く見ているところがある。 1981年に西武の美術館で展示されたwinを特集した展覧会「win夢と現実」展というのがあった。

私はwinで開催されたそ最初の展示を見ている。その後パリとかニューヨークにも巡回した。
それで池袋の西武美術館に入ってエントランスを見てこれは全体の展覧会を要約した展示でその後に大きな展示用の部屋がいくつかあるのだと思っていた。
ところがそうではなくて私が最初の部屋だと思っていたのがすべての展示なのである。

何か浅草奥山のインチキな見世物を見せられた感じで不愉快になった。つまりダイジェストのダイジェストのそのまたダイジェストだったのだ。

それ以来私は日本の公的私的いずれの展覧会もそのスペースが小さいので信用しなくなった。こういうのは人生の不幸と言うものだ。

そういう展覧会に関して不幸な人生を送ってきた私てあるから今度のロバートフランクもエントランスの先の小さなスペースでそれが全てだと勘違いしたのである。

2階の展示室の収穫はフランクの歴代の仕事と言うよりも彼の製作した映画を時代別にほぼ全て見ることができたのがよかった。事実として私は「プルマイデイジー」を始めとするごく初期の作品をオーストリアフィルムミュージアムで見ただけなのである。

スクリーンの前に小さな椅子の置かれているだけでそれを見ている人は誰もいなかった。
上映されている映画がどれも全て古めかしい感じがしたのは非常に残念である。その理由は例えばあの偉大なアレンギンズバーグが詩をを朗読するショットにしてもそれを日中の簡易的な上映システムで見せられると何やらチャライ感じになってしまって何のありがたさもないと言うことになる。
これがこの種類の展覧会のミックスメディアでムービーが上映されるときのマイナスポイントだと痛感した。

展示物の中に私の興味はニューヨーク近代美術館で見た例の「ブラックホワイトアンドシングス」の印刷プロセスのマケットを見ることができたこと。そのオリジナルを私はMomaの研究室で手にしているがそのマケットの所有者はフランクではなくてジョエルマイヤロビッツなのであった。

他にも10年前にロバートフランクの「アメリカ人」の印刷用のプリントをニューヨークからドイツのゲッチンゲンに空輸するときの送り状、これはシュタイドル本人が本人が指定の用紙に手書きしたものだが、そのニューヨークからゲッチンゲンと言うディスティネーションが書き間違えられていて、それがボールペンで消されて書き直しされているという箇所が良かった。
そこら辺はプロの印刷技術者が絶対にできないことであるが、原稿の段階ではいかにも書き直すことができるからである。そこに私はシュタイドルの身体性に対する手の間違いの震えを感じてそれはよかった。
ちょうどマリアテレジアが朝食の席で戦争の報告書を手に取って間違えてそこにコーヒーのシミをつけてしまったのと同じ実在する人間の痕跡を感じたのである。

しかしながらミックスメディアで展示される映画のセクションの部分があまりに貧弱であったのでがっかりして私は芸大の反対はつまり音楽学部のキャッスルの食堂にミックスフライを食べに行ったのである。
ミックスフライとミックスメデイアを比較すればその歴史は前者のほうがはるかに古いこと。

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2016年11月22日 (火)

リスボンのくまもんとドーナツ

Facebookは面白いもので1年前から5年前までの今日何があったのかを教えている。
昨年の今日はリスボンの山や坂を登ったり降ったりしていたのだった。

開催中の東京芸大のロバートフランク展で面白いことに気がついた。
ロバートフランクが出身のスイスのいわゆるスイスドイツ語である。
日本語に訳してしまうと「山登ると山降る」というのが運動の方向性についての言葉として定着しているらしい。フランクはそのことをアメリカに半世紀以上住んで懐かしく思い出すのである。

京都あたりの上がる、下るとも似ているが京都あたりは北上が昇るで南下が降るである。
スイスドイツ語の場合はもっと実際の地形に関連して運動方向が決められているらしい。

そんなことを昨年の今頃のリスボンの山を登りに関連して思い出した。リスボンもスイスの山岳地帯と同じでやはり運動方向は山登りと山下りなのだ。

こちらはギリギリのエネルギーで運動しているからどうしても血糖値が下がってくる。そのために必ずドーナツと炭酸水を持ち歩いていた。

普段の東京ではキッツカッツを一個持ち歩いているがリスボンでなぜドーナツだったのかがわからない。多分そのブランドのチョコレートが手に入らなかったのではないだろうか?
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2016年11月21日 (月)

誰も知らないハンガリー製の玉

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ハンガリー製のライカタイプのカメラにモメッタというのがある。最初のモデルのレンズは固定式であったが2型になってレンズ交換ができるようになった。面白いことにこれがマウントがプラクチカマウントなのである。

レンジファインダータイプで連動してしかもエム42と言うのはこれしかない。
ただ残念なことにニコン判と同じでフィルムサイズが24ミリの32ミリなのだ。

レンズ構成はテッサータイプと思われる。だから間違いのない描写をする。最初にこのレンズの存在を知ったのはハンガリー製のカメラの研究ページであった。その作例ではブダペストの橋の上から撮った冬の光景であったが非常によかった。ただしこれはデジタルカメラで撮影しているのである。

ここに登場のレンズはそのプラクチカマウントをミノルタマウントにバヨネットアダプターで変換してさらにそれをライカエムアダプターでライカにつけている。
非常に複雑である。
こうするとレンズおたくである。でもそれはそれでいい。

昔のツアイスのテッサーが好きで何本か持っている。
シャープネスが良いと言うよりもボケ味が自然なので好きなのだ。向島百花園の萩のトンネルをとったときなんか空気感が非常に多くて参ってしまった。

おそらくこのレンズで同じ場所で撮影すれば同じような描写になるのであろうが、私は花鳥風月を愛でるタイプではないからそういう無駄な事はしない。

2016年11月20日 (日)

ディスタゴン40ミリモッテあっちこっちその6 大きな樹木

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幕末の写真家フェリーチェベアトの作品をミテいると麻布だか六本木あたりに巨大なえのきの木があった。
それはベアトの作品によく登場してくるのだがかなり遠方から撮影してもちゃんと見えるほどの巨大なキなのである。

新宿の女子偉大の奥あたりつまり抜け弁天に抜ける迷路のような一帯は私は大好きだ。その理由は風景がいってみれば乱拍子になっていて言い換えればその曲の展開がシンコペーションで予想がつかないからである。

数日前に背景のギクシャクビルを掲載したが実は天候と光がだいぶ違う。でも同じ日に撮影したのである。そういう雲の流れの速い日というのはありがたいものでまるで数日、日数が経過したような錯覚を写真家に与えてくれる。

小休止した小さな公園で背景が例のぎくしゃくしたビルでその手前にこれもえのきであろうか、巨大な樹木があることに気がついた。それを前景にして撮った1枚なのだが我ながらこういう上を向いたアングルが好きではない。 1970年代のハッセルブラッドのカタログにはよくこういう作例写真があって私はそれが嫌いであった。いかにもレンズの特徴をそのまま強調しているように見えるからほんものの作例写真なのである。

でも最近は自分もおとなになったので、あまりとやかく言わないようにはなってきた。午後遅く結構疲労しているのでその小さな公園で休んで、これから漱石山房まで足を伸ばそうかどうしようかと思案中の私であった。でも結局は行かなかった。

2016年11月19日 (土)

ディスタゴン40ミリ持ってあっちこっちその5 朝日豆腐店

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東京は山と谷の場所であるが、私はどちらかと言えば山と谷が南北に走っているよりも東西に走って高度差のあるほうがすきだ。これは牛込柳町から抜け弁天のほうに行く早稲田通りの坂をあがったすぐ右手の風景である。

1,980年代初めに東京を撮影し始めた頃に私はこの界隈を尊敬の気分で歩行していた。それは他でもなく私が生まれ育った昔の小石川の町並みがそのまま残っているような気がしたからだ。1980年にそのように思ったのである。

それから40年近くが経過して東京の街並みが一変してしまったけれども、この牛込柳町界隈の4軒長屋は奇跡的にそれが残っている。

朝日豆腐店というお店があった。その建物は今でものこっているが豆腐屋はもちろん営業していない。その豆腐屋をその甍の上に東京の空を眺め見るのが好きだった。この風景観察は今でも全く変わらない。

木造家屋の上に広がる広い東京の午後の空と白雲が自分にはリスボンのテージョ川越しに見る街並みとオーバーラップしてくるのである。 その見方からするとリスボンも東京も実は同じものに見える。要するに石造りの建物と木造建築などは些細な違いであって、都会の風貌というのは建物の高さとその上に広がる空の奥行きとでその印象が決定的に決まるということなのだろう。

そういう撮影をするのにはハッセルブラッドに40ミリは最適であるのだが、豆腐店の看板と広がった午後の白雲輝く青空とは明るさが異なり過ぎる。 それでPhotoshopの助けを借りてようやく両方がなんとか見栄えがするぐらいに明るさを近づけた。

2016年11月18日 (金)

ディスタゴン40ミリ持ってあっちこっちその4 ギクシャクビル

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建築家の仕事で1番撮影したのはルコルビジェだろう。日本では西洋美術館ばかりが有名になっているがヨーロッパのコルビジェの仕事は街に溶け込む感じがして好きだ。存在が大袈裟ではなく自然なのである。

最近のモダン建築はやり切れないなと思うのはそのデザインが大げさになってしまったことだ。プラハのプラハのモルダウ川沿いにある俗ににダンシングビルと言われているネジれ建築等がそうである。単純にツーリストのカメラの目標になっているのは気の毒だ。
winにあるフンデルトヴァッサーハウスなどもできた当時は観光バスが止まって実に惨憺たるものであった。

これはぎくしゃくビルと私がよんでいる物件で新宿の女子医大の奥にある。フレーム構造がギクシャクしている感じがするのは通常の建築物とその力のベクトル方向が異なっているのでそれは面白い。
偽物のキュビズム建築と言う存在感だ。

建築物を撮影するときにはその建築物を最初見たときの印象と言うのをそのまま正直に出すようにしている。
これがそのショットである。その後アングルを変えていろいろ周囲の環境との絡みなどをとったりするのだが大抵成功はしない。

建物と出会った第一印象は正直なものだ。

こーゆーショットの場合一般的に誤解されるのは、ファインダーを覗きながら移動して撮影アングルを決めるのではないかということだ。
そうでは無い。まず自分の視点でつまり自分の目で移動しつつベストアングルを決めてそこにカメラを持ってくれば良いだけの話だ。

このベストアングルのショットも当然ながらそのように撮影した。

2016年11月17日 (木)

ディスタゴン40ミリ持ってあっちこっちその3 アリスとテレス

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私は昔から新宿のゴールデン街とかああいう場に行くのは嫌いである。単に酒を楽しむならホテルのようなパブリックなところがいい。そこで生じる人間関係がめんどくさいのだ。特にアルコールを注入しながら写真芸術について熱くなるのは大きらいだ。それならまず街に行って撮影をした方がよっぽど良い。

最後に新宿のゴールデン街にあれは森山大道さんに誘われて二階のバーで飲んだ。それが最後であるからかなり前の話である。

以前ミシガン州を取材していた時にどこの街に行ってもパパヘミングウェイが来たと言うネーバーフッズばバーか必ずあった。しかも彼が座っていた場所には金属のプレートが打ち付けてある。 winのカフェでも戦前にアドルフヒトラーがよく来たと言うカフェがある。しかしアドルフの常連席には何にも真鍮のプレートは貼り付けられていない。

そこがその差なのである。

常連でないバーはよく利用する。パリでもリスボンでもベルリンでもどこでもそうだが、ホテルから1番近いバーに行くのである。私はエトランジエだから 2日目からはもう常連である。

四谷三丁目から曙橋に降りる坂の途中の左側にあるこの店は昔から前を通っているが好きだ。
言うまでもないことだが、好きと言うのはそこの常連になろうと言うことでは無い。
絵画とかアートのインスタレーションのようにその場のファサードを見るのが好きなのである。

ディスタゴン40ミリであるがその使い方は私の場合変わっていて、全部目測で撮影する。
ファインダーもあまり覗かない。このショップなどもハッセルをめいっぱい上に差し上げてノーファインダーで撮影したものである。

2016年11月16日 (水)

ディスタゴン40ミリ持ってあっちこっち その2 偽リスボン

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ハッセルSWCより 40ミリのディスタゴン付きのハッセルは非常に大きい。移動するのに手間もかかるしエネルギーも使う。
だから簡単に撮影することができない。
シーンに出くわすとそれをとるべきかとらざるべきかを迷っているのである。
SWCの場合はそういうことを考えずにどんどん撮影してしまう。
だから無駄なカットはどんどん増えて後でまた面倒なことになる。

東京を8x10で撮影したときにはワンカット 1枚のみだった。
その当時のカットを見るとそのくらいがちょうどいいのである。1つの風景にはそれに対応する1つの写真だけ生まれると言うわけだ。

昔のフジテレビのあった場所つまり曙橋の奥の方である。そこに相生公園というのがある。小さな公園でそこで休憩するのが好きなのだ。
そこから崖の上の小さい道を北に向かって歩く。いつもあたしが錯覚を起こすのはリスボンのロッシオ駅の裏手に立っているような気がすることだ。

言い換えると地理上の錯覚と言うのは記憶違いと言うよりも、自分が立っている周囲の土地の高低差の印象から形作られるもののようである。

だからリスボンにいた時の私はこれと全くそっくりの崖の上の一方道を歩きながらこれから見えないカメラ店に行くので、そこにあるカメラのの支払いをする胸算用などをしているのである。
リスボンのカメラカメラ店に関しては日本カメラの1,985年頃に書いたことだが面倒なのでここでは訳す。

本物のリスボンの見えないカメラ店は去年リスボンに行った時に既に消滅した事は確認した。
でも想像上の私の新宿のこの場所でのリスボンの幻視行はまだその先に見えないリスボンのカメラ店が存在しているのだ。


2016年11月15日 (火)

ディスタゴン40ミリを持ってあっちこっち その1

Img_0701 Pict00201,970年代のスライスのレンズはスバラシイと思う。特にハッセルブラッド用のレンズは憧れだった。まず値段が半端でなかった。私の初任給が3万5,000の時にハッセルブラッドの仕事で使うフルセットつまり50ミリ80ミリ150ミリ2カメラ本体にマガジンついて100万は軽く超えたのである。

篠山さんもそうであったが当時はハッセルを持ってないと仕事にならなかった。それで夢のハッセルを手にして満足している間にあっという間に数十年が経過して今では誰でも持てるるカメラになってしまったのが誠に残念である。

しかし当時のツアイスの超広角レンズデイスタゴン40ミリは特に高価で誰でも持てるというレンズではなかった。私が仕事をしていた日本デザインセンターにも1本あったがこれは不文律で写真部長専用ということになっていた。
その憧れのディスタゴン40を最近ようやく手に入れたので嬉しくて仕方がない。私でも手に入れられる価格にこなれてきたのだがだからといって性能が悪いというわけではない。

それでこれからしばらくそのデイスタゴン40ミリで撮影した作品を掲載しようと思う。

このレンズのフロントの直径は90ミリ以上あって私は貧乏性だからそういう高いレンズにキズをつけてはいけないと思って四谷のアローカメラ我楽多屋さんにフィルターを買いに行った。しかしそういうフィルターはなかなか手に入らない。思い余ってレンズのサイズよりほんのわずかに小さいフィルターを買った。ところがテストで撮影したのを見るとやはりビグネティングが起きて角がけられているのである。そのけられた写真も徐々に掲載していくが、これはその前つまりフィルターを買いに行く前の四谷3丁目からアローカメラに歩いていくときに撮った、東京の昼過ぎである。黄色いカンナの花は好きなモチーフだ。

2016年11月14日 (月)

現場監督の実力

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水中カメラで35ミリフィルムを使えるモダンなモデルにはフランスのカリプソがあった。スピロテクニックと言うアクアラングの会社が作ったそうである。 それを後にニコンが買収してニコノスとして登場するようになった。 ニコンの全てのカメラのデザインと言うのはやはり東京品川区の真面目な会社の直線を組み合わせたものであるのにもかかわらず、カリプソがモデルのニコノスはそうではなくてそこにフランスのエスプリが感じられるというのはもともと染色体が異なるからである。 数年前に四谷のガラクタ屋さんで三台のコニカ現場監督と言うのを買った。工事記録カメラなので水に濡れても大丈夫だし水洗いをすることができると言うハードカメラである。 水中カメラとして使うのはどうかと思われるが温泉等に持ち込むのはこれでいけるであろう。 その3台のカメラは立派な金属ケースに入っていた。しかもデータを写し込むためにカメラの前にアームをつけてそれに書き込んだメモを同時に写し込むことができると言うかなり凝った構造になっている。これはデジタルで文字を原始的に写し込む以前のクラシックなスタイルである。 現場監督には35ミリの広角レンズと28の広角レンズをつけたモデルがある。私が手に入れた3台がその28のモデルだ。28ミリは最初は私はライカのズマロン28ミリを使った。それがライカのレンズとの最初の出会いであった。 1,970年代にwinに住んでいた時にはソ連製のオリオン28ミリを使った。それが最近になって戦前のソ連製のフェド28ミリを使い、1番最近ではやはり戦前のツアイスのテッサー2,8センチを使ってしている。 そういう私の広角レンズの標準的価値観と言うのは戦前にあるのである。だから10年以上前に作られたコニカ現場監督についている最新レンズの優秀さにはびっくりした。歪みもないし周辺の光も落ちないのである。それがこの作例サンプルがある。 工事関係者が使うのでフールプルーフの設計になっている。それで私はフラッシュをオフにしたいのであるが電源をオンにした後にモードのボタンを4回押さないとフラッシュがオフにならない。でもそれはそれで慣れるからとりあえずそれでいいとしておく。 Img_0694 Image

2016年11月13日 (日)

ロバートフランクの雲

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東京芸術大学のロバートフランクと出版社のシュタイドルによる世界50カ国を巡回する展覧会の初日に行ってきた。

展示は成功したとは言えないが大成功したのは南ドイツ新聞をまるまる使ったロバートフランクの一代記であった。

こーゆーマルチメディアのパネル表示というものは本来すごい損をするものなのである。だからあのアレンギンズバーグが詩を朗読しているフランク撮影による短い映画等は現代の時点で見ると貧相で見ていられないのが気の毒だ。

ニューヨークタイムスほどは厚くはないが60ページ超える新聞であっていくつかのセクションに分かれている。それはポリティックスとかフィナンシャルとかローカルとかライフとかトラベルとかレジャーのセクションであるのだが、それをフランクの一生のそれぞれの年代に振り分けているのが面白い。

つまり11月10日に92歳の誕生日を迎えたロバートフランクはアートとしてではなくクロニクルとして捉えられているのが新しい見方である。
私はスタイドルのロバートフランクの写真集をたくさん持っているが、その中でこの今回のロバートフランクの号外が1番成功しているという皮肉な見方をするに至った、
しかもこのロバートフランク新聞は 5ドルで販売しているのである。これでは大写真集の出版社のスタイドルも儲けが出ないであろう。

そのロバートフランククロニクルの後半のセクションで私の目をひいたのはこの新聞見開き分のフランクが撮影した空と雲の写真である。
これはアルフレッドシュテイグリッツが彼の生涯をかけたエキュバレントと並び称することができるかもしれない。

しかもその新聞の全部のページは当然のことながらモノクロであるのだがこの見開き、それと最後のフランクのインタビューだけがカラーである。それも非常に効果が出ている。

もっともこのドイツ語の新聞がフランクフルターアルゲマイネであったとしたらこの代表ペーパーは写真をほとんど掲載しないからフランクを扱うには不向きである。

日本にある新聞で果たしてこのような用途に使うことができるものがあるかというとやはり存在しないと言うのが残念なところだ。

2016年11月12日 (土)

東京芸大のシュタイドル講演会と大浦食堂の豆腐バ(ライ)タ焼き

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ロバートフランクの1連の写真集で知られるドイツはゲッチンゲンの出版社ゲルハルト シュタイドル氏が来日して1連の活動を行っている。

11/10に東京芸術大学でその講演会があったので行くつもりであったが急用で行けなくなった。
ただシュタイドルの話が聞けないというのはそれほどダメージではない。
1985に憧れのロバートフランクにあったのだからその出版社のトップに会うと言う事はそんなに重要ではないのだ。

それよりも私が懐かしく思ったのはその講演会を聞く前に東京芸大の大浦食堂で名物の豆腐のバター焼き+もやしの定食を食べることにあった。

家人が芸大生であったころ初めてここで芸大名物のこの定食を食べた。
芸大の食堂には音楽学部にキャッスルがあり、美術学部の方には大浦食堂がある。
キャッスルは洋食であって大浦食堂は和食が基本であった。

その当時食堂は私の写真集「東京ニコン日記」にも掲載されている。この2つの食堂が当時は木造平屋建であったが何しろそれから50年が経過しているのだからモダンになったようだ。
芸大の秋の芸術祭と言うと私には思い出があって1969年私の個展TODAY TOKYOのハガキの一節が芸術祭のパンフレットに1部が引用されていたこと。
「田中長徳氏に答えて、あなたもトライXですか?ーーーというのである。

当時は若手写真家の騎手が高梨豊さん、中平卓馬さんだった。そういう時代であった。

それから半世紀が経過してドイツの出版社の出版者がロバートフランクの写真を新聞用紙に印刷してここに展示すると言うプロジェクトなのである。
言い換えれば私にとって半世紀前の大浦食堂の豆腐バタ焼き焼きとフランク作品はパラレルになっている。
まぁ豆腐とバライタペーパーの間には似ているところもある。

所用で実際にはいけなかったのだが、我が組織のアノニマス諜報メンバーに当日の様子をレポートしてもらった。
シュタイドル氏はなにか疲れているようで、翌日11日から開始される新聞紙に印刷したフランクの作品については何もその講演会では語らなかった。
自分の写真集のビジネスについて語ったそうである。

中央に演壇。
それが木製なので非常にクラシックな感じがした。
第一印象はニュルンベルグ裁判の軍事法廷のような感じなのである。言い方を変えれば浅沼稲次郎が暗殺されたときの舞台にも似ている。
最近のトークは肩のこらない舞台構成でやるのが普通だからそれが写真で見ていたら古めかしく感じた。

豆腐のバライタ焼きのことであるが50年前は確か200円をちょっと超えた位の価格だった記憶がある。今の値段を調べたらこれが480円するのだ。物価の上昇率としてはこれが適正であるのかそれとも安いのかよくわからない。

今回の展覧会のメインのプロジェクトになっているフランクの印刷物の展示の件であるが、これは南ドイツ新聞社から提供された新聞用紙に印刷してあるそうだ。そしてそれが会期が終わった後にパフォーマンスで破棄されるのだそうである。

1つ不思議なのはシュタイドルの「印刷物は死なず」と言うテーマで講演をしたのにもかかわらず最終的には自分が印刷物を抹殺してしまうというのが矛盾しているように思われる。

ロバートフランクのアメリカ人 が1,950年代後半に出版された時はアメリカでは出版する会社がなくフランスでそれが出された。その出版半世紀の記念本をドイツで出版と言うのも今昔の感じがして面白い。
フランクは出版社に対してイントロダクションは一切つけないと言うふうに言ってきたそうだが、その翌日に言葉を翻して後世の人がイントロダクションがないとなぜこの本ができたのか理解に苦しむであろうからやはりイントロダクションをつけ加えると言ったそうだ。

それで思い出すのは私の写真集1万円の重さ2.5キログラムの「ウイーンモノクロームセブンティーズ 」である。あれは最初からイントロダクションは入れなかった。それぞれごく短いキャプションを4カ国語で入れた。それは日本語英語ドイツ語中国語であった。

ロバートフランクには教育者の親切がある。


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2016年11月11日 (金)

ザイカノエルモノズーム

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ザイカブランドの交換レンズに関しては私もほとんど知るところがない。
1,950年代のはじめのことであったと思う。カメラ雑誌の広告ページで銀座モーターボート商会というのがあった。当時の語感としてはかなり先端を行くお店の名前であったが、そこでザイカのレンズを扱っていた。これからたくさんの8ミリの映画撮影機がどんどん売り出されると言う黎明期に当たっていてその代表メーカーがエルモとシネマックスで。あった。
光学会社はニッコールとかズノーレンズとかを提供していた。

当時のメーカーエルモは最初のズームレンズを出したのである。
これがザイカエルモズームだった。
本体はカメラのボディーに合わせて小豆色というか独特の色合いに塗装されている。細かい結晶仕上げで高級感がある。これは当時の世界最高峰のベル&ハウエルのカメラを意識したスタイルと塗装である。

最初の8ミリカメラのエルモは画期的であって、シネマスコープのアナモフィックレンズも用意されていた。

手に入れたズームレンズであるが取り付け方がわからない。レンズ本体をそのまま回転させる。
と当たってしまい装着することができないのだ。

この種類のズームレンズはマウントリングだけを本体から外して最初にカメラ本体にそのネジをつけてその後に本体を別につけると言うのがプロ用カメラの普通のやり方だがちょっと見当がつかない。

それでフイルムを入れて実際に撮影するわけではないので、カメラ本体とレンズを並べて楽しんでいる。

スイスの有名な映画撮影機の会社ボレックスも 19世紀はオルゴールの製造外会社であった。それがトーマスエジソンが録音機を作ったのでオルゴールメーカーから映画撮影機メーカーに転向したのである。そんな映画撮影機の歴史を回想しながら初期の国産の初めての 8ミリカメラを手に取ることは感慨深い。

2016年11月10日 (木)

11/12ギャリートーク プラハが天空の光を失う午後4時

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プラハもすでにヨーロッパの冬時間になった。

プラハのローカルタイムの午後4時と言うのは、空から光が一斉に消えてすべてのものがモノクロームの闇の中に新しくその姿を構築すると言う時刻である。

だから私にとってはそこが昼と夜との分岐点でさこれからいっぱい飲もうかと言うのでそこら辺のバーのドアを押したりする。
私は清教徒ではないから酒を飲む時間は関係ないのだがやはり写真家と言う仕事をしている関係上午後4時を過ぎないとハッピーアワーにはならない。

今週末の12日の午後7時から私のプラハのトークの2回目が開催される。前回の続編として実際40年近く暮らしたプラハの最後、つまりビロード革命から四半世紀が経過した2016年11月半ばのプラハのビロード革命四半世紀のセレモニーその日のことを話したいと思う。
11月のプラハであるからやはり午後4時には昼と夜の境界線をプラハを乗せた地球がぐるりと回って夜の領域になった。

この散歩する小型犬と女性の作品は私が個展をするその前の個展の女性写真家が購入してくれた。ありがたい次第である。
というのもこのプラハに十年暮らした女性写真家はプラハの写真を撮ってやろうと振りかぶって街を歩いていたのではなくて、ワンちゃんとの散歩の積み重ねが10年間堆積してそこに素晴らしい作品が生まれたということになる。
そういう出会いというのはなかなか素敵なことだと思う。

私の場合は状況はそうではなくて何しろ今回プラハの5人の写真家の中ではすでに亡くなったプラハの哲学者とまだ生きている私がただ2人がビロード革命のを大脳記憶に保持している人間なのである。
他の3人の写真家はいずれもプラハの赤い時代を知らないのだ。

プラハがかつて社会主義だったという事は今や学校の教科書で教わりましたと言う人がどんどん増えているような時代なのである。

昨年の6月に依頼されて私のエッセイの最終§、新潮に連載した「屋根裏プラハ」をまとめるためにこの1月にギャラリーバウハウス等での撮影などと同時に取材に行ったのだった。

その時の時系列的なことを元にしてプラハ最終エッセイを書こうと思う。
そのタイトルを「プラハ遁走曲」と言う 。

私のプラハ脱出記録である。

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ダリ的分解

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1,970年代の私のwin暮らしの時代に住んだのはドナウ運河のフリーデンス橋と言う駅から南に数ブロック下ったところであった。

私の川の流れに関する空間認識というのは北から南そして西から東に流れると言うのが常識になっている。だからプラハなどでモルダウ川を見ると流れが南から北に向かっているのである。当然のことでその下流はエルベ川なのである。

家人の出身の新潟に初めて行った時も何か変であった。信濃川は南から北に流れて日本海に注いでいる。

12月久しぶりのwinであるが、今回滞在するアパートメントは昔住んだアパートメントの運河の反対側になる。
川向こうの昔住んだアパートが見られると言うのはちょっと素敵だと思う。

Googleのストリートビューでそれを見ると私のiPadはメモリが不足しているので素晴らしい抽象画になって不思議な風景に変貌する。
ダリのような風景の分解が始まるのだ。
通常デバイスのメモリ不足と言うのは欠点であるが、この場合は芸術方向に加速してくれるのである。それが非常に面白い。

2016年11月 9日 (水)

ガラクタ屋さん二代目の写真がいい

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私は長年写真教育不可能論者である。

写真教育というのはいかに先生が熱心でも教わるほうの才能がないと最初からダメと言うことだ。写真教育の先生方の中には自分はもう可能性がなくてダメだけれども、君たちは若い世代だからがんばってもらいたいというのがある。これはかなり滑稽な次第だ。最初から写真家としての自分の勝負を投げてしまっているのだ。
だから教え子が写真家として出世したから嬉しいと言うのも実はナンセンスなのである。

アルフレッドシティーグリッツの例を引くまでもないが最も偉大な写真活動はアマチュア写真家であることだ。それで私の周辺にはそういう本物の写真的才能持った人が片手の指位は入るのである。これは大変な収穫だ。

そのうちの1人が我楽多屋の二代目である。
二代目は数年前から自分の住むタワーマンションからiPhoneにくっつけた双眼鏡で外界を観察していてその視点が面白いので私は興味を持っていた。

それが最近では都バスの中から撮ったショットとか、このショットに見られるようなヘリポートを横から写した不思議なショットで頭角を現している。

ヘリコプターと言うのは以前は私も取材で使ったことがあって着陸するポイントはこのローマ字のHを頼りに行くのである。
六本木ヒルズの脇にアメリカ軍のヘリポートがあってそこに離着陸するヘリを49fからずいぶん撮影したこともあった。
この小さな自転車が置かれたヘリポートの地上の風景と言うのは結構本質をついているところがあって好きなのである。

それにつけても思うのは写真家と言うのは自分の視神経を第三者に売り渡して自分とは関係のない価値観をいかにもそれが自分が信じているかのようにする一蹴の賎業であるから本当は写真家は職業としては成り立たないということに最近は気がついた。

職業人よりも趣味人の方がその物事の本質にかけていると言うのは、これは1種の神話であるのだが例えばウイーンの専門職、大学の先生とか医者がバイオリンを持たせるとウィーン・フィルハーモニーの第一バイオリンよりうまかったりする。
これがアートの本質に肉薄していると思う。写真に帰って言えば日本の場合は結構情けない次第で新型カメラのテストで満足してその先の表現まで行かないのだ。

二代目もカメラはスマホあたりでとっているに違いないが地滑り的にデジタルカメラからそういうデバイスに移動していくと言う現場は見過ごすことができない。


2016年11月 8日 (火)

旗の台の紅衛兵

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昨年の11月はリスボンで撮影をしていたが、その前にリスボンの山や坂に慣れるために私は大田区の東雪谷あたりの山や谷を登ったり降ったりして訓練をしていた。 あれから1年が経過してその界隈が全くご無沙汰になってしまったのである。それで土地勘を取り戻すために大田区のそちら方面に行った。昨年の今頃は頭の中で東急線の地図が浮かんでいたのであったが1年たったらすっかり白い紙になっている。 旗の台の駅で池上線に乗り変えて御岳山方面に行くので待っていたら目の前がいきなりざわざわしてきた。私が見間違ったのはそれは1960年後半当時のあの有名な文化大革命の紅衛兵の姿であった。 なんでそう見間違ったのかはわからない。これは1種のイリュージョンなのであるが私がベンチに座っているときに目の前に数百人の紅衛兵が通過したように思えたのだ。その理由は彼らの着ている軍服、いや制服がそれを助長させたのかもしれない。 1,980年代の後半には北京の周辺の忘れられたような街角に「偉大的文化大革命万歳!」と言うほとんど擦り切れたスローガンがレンガの塀にまだ残っていたりした。 10年前には河北省あたりの農村でやはりレンガの建物に「毛沢東主席万歳!」のスローガンがこれはややはっきり残っていた。 だからそういう記憶を持っている老人の私が旗の台の駅で制服を着た数100名の東洋人が目の前を通過すると別に赤い小さな本を手にしていなくてもそのように錯覚されるのである。 このような錯覚は以前にもあった。 プラハの早朝のカレル橋の下でカメラを構えて私は撮影のチャンスを狙っていた。そしたらそこに遥か向こうから数十人規模の紅衛兵が列を組んでやってきたのだ。 おや文化大革命はまだ終わっていないのかと本気で考えた。近くに来て分かった事はそれは同じ極東のさらにもっと遠い島国から来た旅行団なのである。 その軍旗にはHIS と読めたのである。

2016年11月 7日 (月)

ギャラリーバウハウスのプラハを旅する 7

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モルダウ川の右岸をやや遡った例のヴィシュハラドの岩山の先にあるのがこの工場である。
数十年もプラハに住んでいるのにしかもいつも市電の中から見ているのに私はこの工場が何であるかわからなかった。

私より年上のプラハに七十年以上住んでいるしかもジャーナリストに聞いても、さぁなんだろうなと言う位なのである。そういう無関心はヨーロッパ人に特有のものとは思わないにせよ私は腹を立てた。

建物は明るいコバルトブルーに塗られでいる。
何かエルミタージュ宮殿のような色合いである。
このままこの建物の使用目的がわからないままに人生を終わるのは残念なので、ある天気の良いお昼前にその工場に行ってみた。

モルダウ川の裏手の巨大な工場であるから大回りをしてそのエントランスに行って看板をしげしげと眺めたが私のチェコ語の理解能力ではやはりそれが何かわからなかった。

それ以来私はこの工場を「秘密のチョコレート工場」と勝手に名付けている。
まぁそれで良いと言うものだ。

こういう工場様式は19世紀後半のものであろうが非常に巨大な建築物である。
仔細に観察すると建物のウィングは完全にシンメトリカルになっていることがわかる。

これが数年前の話だが、今では安心して電車の中から通り過ぎるときに「秘密のチョコレート工場」だと納得をしているのである。
人間は知らないものは何らかの意味をつけて自分なりに理解をすると安心してしまうもののようである。

これは古いキエフカメラで撮影されたものだ。なぜならばアンダーパーフォレーションエフェクツになっているからだ。
ロバートキャパの写真などを、あるいはロバートフランクの写真など見て私がそこに35ミリフィルムの美学を感じるのはこの画面の下に点々と八つ連なっているパーフォレーションの闇なのである。

その闇と言うのはそんじょそこらのイヤミなのではなくこの時空間の一瞬に撮影されたときの本物の闇なのである。
そこが私が愛する35ミリカメラのマニエリスムだ。

ジャコウねかねかの珈琲の味

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この間のブログに書いた麝香猫に関わるコーヒーの味のことである。
結論から言ってしまえばこのコーヒーが他のコーヒーと際立って優れているという事にはならなかった。強いってその違いをあげればその値段が高価であるということだ。まずこれは徹底的なクラス分けだな。

その理由は私がコーヒーのテスターとしては不適格であるということに尽きている。
何しろ家で飲んでいるのはインスタントコーヒー なのである。エスプレッソなども作るのがめんどくさいから単にエスプレッソのカップにインスタントコーヒーを入れてきつめにするだけなのだ。でも家に来たゲストでかなり珈琲にうるさい連中がそれは本物のエスプレッソだと思っている。

ワインとかビールなどの広告の禁じ手で使われている目隠しテストと言うのがあるが、あれもいい加減なものだ。

思いついたのはコーヒーの味と言うのはワインの味の優劣に近い。つまり個人的な差が非常に大きいのだ。つまり個人的な、極めて個人的な思い込みと体調とか思考とか気温とか湿度とかそして気分によって左右するものである。

麝香猫のコーヒーの味の良さというのは考えてみればレンズの味と言うのにも近い。
いってみればライカの広角レンズの35ミリの8枚で構成された8まい玉ズミクロンというのがある。これが非常に高いレンズなのだが半世紀前のレンズであって当時はそれがその当時の光学技術で最高のレベルであった。

でも今見ると接着したバルサ分が変色して黄色くなっていたりして決して優秀レンズとは言い難い。そういうクラシックレンズを珍重してこれを高く評価する人もいるのである。

麝香猫のコーヒーを味わいながらそんなことを考えた。


2016年11月 6日 (日)

ギャラリーバウハウスのプラハを旅する 6

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これも今回のプラハの写真展のお買い上げ作品である。モルダウ川は南から北に流れている。国立劇場の前の橋を西に渡ってしばらく路面電車が走るとそこで突き当たりで線路は北と南に分かれる。

北に行くと私のアトリエがあるまラストランスカからプラハの丘の上に登って行く。確か22番の路線だ。この22番の電車は吉増剛三さんも彼の写真集で写している。
分岐した線路が南に行くとプラハの下町とも言えるアンデレの駅に行く。

この丁字形の分岐点で電車をわざとここに来るまで番号を間違えて乗ってそこで乗り換えることがあった。理由は古い建物家の入り口にベトナム人のグロッサリーがあってそこの新鮮で安い果物を買うためである。

この停留場を曲がって北に行くと2つ目のストップがかつてヨセフすデクの住んでいたアトリエの入り口である。スデクのアトリエはそのままギャラリーになっている。

この停留場から南に下ってちょっと丁字路を入ったところにプラハの私の友人が住んでいた。そこはなかなか素敵なアパートメントで5階か6階忘れたが、部屋から見るとそのアパートの位置が道の1番奥にあるのでまっすぐに続く道の遥か先にプラハ城が見渡せるのである。

その家族はもうここには住んでいないがプラハに来て電車で走っている時ついつい小路の奥の彼らが住んでいた窓辺を瞬間的に見てその頃を思い出すこともある。

その人と言うのは誰あろう、今回のギャラリーバウハウスの特別展「プラハイヤー」の私の前に個展をした10年間プラハに在住した水島さんなのである。


2016年11月 5日 (土)

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これはヨセフ スデクのアトリエである。現代のスデクのアトリエは後に設計図で作られたレプリカであるがこれは1985年に撮影されたオリジナルのアトリエなのだ。

その翌年だったか復活祭の月曜日に完全に更地になったアトリエの前の石に座って私はイースターの朝の教会の鐘を聞いていた。
何か非常に落ち着いた気分で全ての物事は消滅するのだと言う1種の満足感があった。

その数年後にアトリエのレプリカができたのである。今ではそこはギャラリーになっていて展示している作品は玉石混交である。

この作品はギャラリーで私が手持ちのiPhoneで撮ったので指の影が映り込んでいる。
今回の個展で最初にお買い上げいただいたのがこの作品だった。
後でまじまじとカメラアングルを見ると実に不思議なアングルである。

アトリエの柵の間からプラウベルマキナを差し込んでノーファインダーで撮影したものと思われるが夏の逆光の葉陰が美しく描写されている。

このオリジナルのアトリエの時代には広い中庭の突き当たりに人間の手の形をしたシンボルが右向きに表示されていて、そこにアトリエと表示があった。
それがはげかかっていていい感じであった。

今の復刻された表示はまっさらの新品と言う感じがするから、これは1種のテーマパークと呼んで良いのであろう。
でもそれは全くつまらない。

星を売る店

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月島界隈は私が住み始めた四半世紀前はそうでもなかったが、今はすべてもんじゃ通りになってしまった。父親の遺言で私はもんじゃは食べに行かないからそうなると月島のあの華やかな長い鳥は私にとっては全く関係のない別世界と言うわけだ。

もともと月島に住もうと思ったのは若い頃に西中通りの東の端のほうに岸田屋と言う名前の渋い飲み屋があってそこに毎日通いたいから佃島に引っ越してきたのであった。

ところが先代の親父さんが亡くなってから店のサービスの内容がそれ以前とはやや変わったものになって次第に足が遠のくようになった。今ではそのお店は列ができているほどだから何も列に並んで店に入るほどの事は無い。それで20年以上いかなくなった。

私の好きな作家に稲垣足穂がいる。
稲垣が想像で書いた神戸のどこかの路地裏に星を売っている店と言うのがあってそれは路地の奥のカギ型小路の先に青い光を放っている小さなお店なのである。もし稲垣タルホの星を売る店が映画化されるとしたらこれなどはかなり優秀なロケーションのセットになることであろう。

昨年のことであったが月島から佃島に帰る途中に道をショートカットしようと思ってジグザグに適当に工事から工事を歩いてこの店に出くわした時にはびっくりした。

曲面ガラスをこのような使い方をしていると言うのはパリには昔はあったが今は効率が悪いのでなくなってしまった。唯一私が知っているのはポルトガルのリスボンにある路地裏の小さなお店位なものだ。

この店を調べてみたら何の事は無い、レンタルスペースで下はお店になっていると言うどこかの好きな人が期間限定で作ったような未来志向のお店なのである。

お店の2階は何か集会所にも使えるようなことが書いてあったからそこでカメラ仲間を集めて集会を開くのも良いかもしれない。
でももともとはこういう場所は若い人のものであるから我々爺がそこに上がり込んで茶飲み話をするというのはあまりこういう場所の目的には向いていないようであるから、まず我々の世代は店の前を通行人として通り過ぎるのが1番良いのかもしれない。

2016年11月 4日 (金)

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まず普通のプラハ市民だったら絶対に行かない場所というのがここであろう。マラストラナからカレル橋に向かう観光のメインストリートである。

プラハ市民に話を聞いてみるとカレル橋を渡った事はこの10年来ないとか四半世紀ないと答えるのが彼らの自分の街に対するプライドなのである。

ここは外貨を落とすツーリストのストラーセになっている。そしてビロード革命以前はロシアの一個中隊がここに観光に来ていた。そういうロシアの兵士が記念撮影をするので通行中の東洋人の写真家つまり私に撮影を頼んできた。
それで7人組のユニフォームのロシア兵の7台のソ連製カメラ、ゾルキー、キエフ、スメナなどを首にかけて順番に彼らを撮影したのである。

あ、そうだ。
ついでに自分の持っていたライカで彼らをスナップショットすることも忘れなかった。
偽プラハ市民である私もここは取材で依頼された時以外は行ったことがない。

それがこの1月にこういう場所に行ったのはひとえに人がいなかったからである。
その時私は長いプラハの生活で初めてカレル橋の良さを体験したのであった。

この作品は私の作品を集めているコレクターさんがお買い上げくださった。誠にありがたい次第である。
ところでこの聳える城門なのであるがビロード革命以前つまり社会主義時代には良くここが少年少女向きの国際交流映画の舞台として使われたのであった。

少女がこの城門の上に住んでいると言う設定であった。考えてみれば非常に変なストーリー構成であるが当時の社会主義国の台本と言うのはそれが限界だったのであろう。

私も初めてプラハを訪問した1975年にいくばくかのコインを払ってこの城門の上に登ってみた。結果はがっかりして降りてきた。
それ以来二度とここに登った事は無いからその意味で私も偽プラハ市民の端くれを名乗る自信はある。

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ジャコウネカネカの珈琲

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友人からコピ ルワクをお土産にいただいた。インドネシアの特産品の貴重なコーヒーである。
ジャコウネカネカの製作したコーヒーである。

話には聞いていたが飲んだ事は無い。とにかくコーヒーの値段とは思えないまるでダイヤモンドの値段なのである。

箱に入っていて初代のiPhoneの豪華なパッケージを思い出した。

この間、我楽多やさんで二代目さんと話をしていると何故か麝香猫のコーヒーの話になった。
最近のテレビドラマの話題である。
どこかの出版社の校閲部門が主体になっているそうだ。

そこで編集者が作家からもらってきた原稿に麝香猫のコーヒーを飲んで朝、爽やかな気分になるとある。
麝香猫のうんこから抽出したコーヒーがさわやかと言うのは直した方が良いのではないかともめる話だそうである。

これはその台本書きが、校閲の仕事をよく理解していないことを露呈していて滑稽である。
校閲の最もシビアなところは新潮社の校閲室であろう。私が新潮社から教えられた事は作者が真実と信じて書いていることはそのままままで出すということだ。
これは表現に関する自由の基本的な問題である。

ただ事実関係とかなり異なるのではないかと言う場合、作者に聞いてくるのか。
私のエッセイ集「屋根裏プラハ」では真夜中にプラハの王宮のカテドラルが雪の中、ライトアップされていた件を書いていて、それに関して校閲から真夜中に明かりがついているのおかしいのではないかと聞かれたことがあった。
日本だと省エネのために明かりを消すのが常識であろうが、プラハのカテドラルの照明は夜中じゅうついているのでその旨を返事した。
テレビドラマの中の校閲が本物であるのならそんなバカなことで騒ぎになる事は無い。そこがフィクションの虚しさである。

麝香猫のコーヒーはそれは朝清々しい気分になることは間違いがない。
いつもインスタントコーヒーばかり飲んでいるのでこの◇クラスのコーヒーの味が楽しみである。それは後のお楽しみだ。

2016年11月 3日 (木)

ギャラリーバウハウスのプラハを旅する3

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ギャラリーバウハウスの今回の写真展のポストカードに使った画像の次のショットがこれなのだ。
これも小瀧館長がセレクションした作品だ。
ギャラリーバウハウスでの個展の作品の映像は一般的なものではない。
一般的なプラハと言えばやはり旧市街の天文時計でありカレル橋なのである。
でもそれでは面白くない。
私のプラハの真実はそういうところには存在しないからだ。

だから今回のギャラリーバウハウスでのプラハの写真展は全くプラハらしくないヨーロッパのどこかの街の無名の周辺部という話で撮影している。

プラハの写真の面白さは路面電車から撮影するところにある。
電車の窓から繰り出される風景と言うのは我々の単純な頭脳の理解の領域を超えている。言い換えればプラハの精神が人間の視神経の領域をこれ越えて勝手にそこに登場してくるのだ。

これは例の葉書に使われた映像の次のショットなのである。
肉屋の店先なのだがそれがプラハの解体新書のような展開を見せている。
そこが面白い。この類似ショットは今までに何点か発表しているが、以前のはおばあさんがこの肉屋の店先に立っていたものであった。

この肉屋は路面電車が急激に曲がるところにあるので、道の上から撮影するのはちょっと難しい状況にある。それで理想的なのはこのように電車の中からのショットなのである。

カメラはプラハで買ったキエフであってそれに戦前のゾナーの5センチをつけた。
この頃のキエフはまだ巻き上げがちゃんとしているのだが、その数日後から巻き上げおかしくなってハーフサイズのフィルム送りになってしまった。
これはそういう事故が起きる前のショットである。
すなわち普通の 35ミリカメラの働きをしている。

食物のファシズム

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ヨーロッパにばかり行っていて日本を旅行することがする事はあまり無い。しかし札幌に行ったり大阪に行ったりはする。そういう場合やはり食べるものは面倒なのでコンビニで買ってきたりする。 普通のツーリストだと地元の名物料理を食べに行ったりするものらしいが、私にはその興味は無い。街を歩いたり写真を撮ったりする方に時間をさきたいからだ。 東京にいるときは家人の飼育係が熟練しているのでちゃんとバランスのとれた食事をしているが、短い期間旅行中に不健康なコンビニの食品を取るのはそれなりの楽しみがある。 バブル時代の頃からその後期にかけて取材で世界中のワイナリーを訪問したりミシュランの星付きのレストランを取材することが日常生活だったので私はそれに飽きているというのは嘘である実際問題としてガストロノミーには少し飽きているのである。 人間の五感の中で私は写真に関してはいつも前衛的でありたいと考えている。エッセイに関しても風変わりなものを書きたいといつも念願している。 しかし人間は悲しい存在であって酒とか食べ物はコンサバティブな域をを全く出ないのである。いつもの食物が1番うまいと思う。 だからリスボンに行ったりプラハにいたりするとそこでの食事も必然的に決まってくる。日本の場合はコンビニのお世話になっているがコンビニは日本中どこにでもおんなじ味のものが食べられると言うこれは短所と言うよりも長所であるのかもしれない。 このことを私は「食べ物のファシズム」 と呼んでいるのだ。現今の政治のファシズムは困ったものであるが、食生活のファシズムと言うのはそれなりに意義があるものなのではなかろうか。

2016年11月 2日 (水)

ギャラリーバウハウスのプラハを旅する2

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今回のギャラリーバウハウスでのプラハ展のお買い上げ作品である。この手の作品は私が俗に「光の惨劇」と呼んでいるシリーズである。

ロールフィルムの撮影済のリーダーペーパーから光が漏れて押し寄せる光の洪水がエマルジョンにまで達している。

ここで重要なのはこの画面の周囲にあふれている光はその場所のその時間に風景と一緒に記録された光の惨劇なのである。
ここが重要なポイントだ。

この種類の作品はなかなか難しいレベルなのである。私はその場にいなかったがギャラリーの方に聞いたら40代ぐらいの男性がお買い上げくださったそうである。なぜこの作品を選んだのか実際にお目にかかって聞いてみたかった。

写真家を長くやっていると写真展の展示でこれは絶対に売れるなと思うような作品を並べてそれが売れたと言うのは実はあまり嬉しくないのだ。
コレクターさんを野生動物の捕獲に例えるのは失礼ではあるが仕掛けた罠にかかった動物が予想どうりででは面白くない。
その意味でこの作品は31年前に撮影されたものであるが、自分の意識の潜在下から急激にに浮上してきた。
その理由は言うまでもないことで単なるプラハの郊外の建物の写真ではなくてそこに外部から光が侵入してきたと言う非常事態宣言とでも言えるワンショットなのである。

カメラはプラウベルマッケンナプロシフトスーパーアングロン47ミリ ORWO21

呑川に飲まれる

昨年の秋に大田区の御嶽山に行ったので今年も出かける。石川台から歩く。去年、かぼちゃのお化けは去年と同じところにあるものもあり撤去されたものもある。
のみかわを撮影しようとしてみないで一足前に踏み出したらそこに段差あり。左足をいためる。転倒しそうになったのだが額のところに桜の木の枝があったのでそこに頭をぶつけてかろうじて停止。
桜の木が命の恩人。
あの界隈は大田区のチベットであってどこの駅に行くにも距離がある。足を引きずって御嶽山駅までイッテ蒲田まで出て京急蒲田からようように佃に戻る。
老人だから注意をしていてもつまずくものである。のみかわに飲み込まれそうになったわけだ。

ここまではFacebookの記述である。つらつら思うに老人だから歩行するときは目の前のつま先はよく見ているのである。 しかし撮影をしようと思った瞬間にそのことを忘れているときがある。これが危ない。 20年ほど前にローマで撮影中にサンタンジェロ城の前でアングルを変えようと思って右にステップを踏んだらそこに地面がなかった。 あの時がひどい目にあった。

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2016年11月 1日 (火)

西新井のニコマートとリコーフレックス

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旅先の小さなお店で中古のカメラを見て胸算用をするのは楽しいものだ。 四半世紀前にベルギーをずっと旅行したことがあった。ベルギーは関東地方位の大きさであるから我々からするとベルギー全土を旅行してもそれほど大変では無いのだが、ベルギー人にしてみると自分の国をくまなく旅行するというのはあまり無いようである。これはその取材の時に観光局の偉い人から聞いた話だ。私はベルギー政府観光局のマニュアルを制作していたので全国を回るのはこれは業務上なのである。 ベルギーの南部にあるつまりフランス語圏の小さな町で、かたつむりが街のシンボルになっているその名前は忘れてしまった場所なのであるが、そこを取材してこれから別の地点に移動しようとしたときに小さな町の中古カメラ屋さんでドイツ製のロボットの古いモデルがあって思わず買おうかと思った。 あるいはこれもベルギー南部のこちらは街の名前をちゃんと覚えている町中が階段だらけのナミュールと言うところがあるが、そこのカメラ屋さんでプロ用の映画撮影機エクレールNPRを見てそれも買おうかどうか迷ったことがあった。 しかし旅の途中でカメラを買っていては仕事にならないから買わないのは事実である。 30年近く前にアメリカのミシガン州を取材したことがあった。ミシガンの1番北の小さな町ペトスキーに行った時そこでカメラスピードグラフィックが40ドルでパウンショップに出ていた。その日の夕方にBARで飲んでホテルに帰る帰り道にそのカメラを発見した。翌日は早い出発の予定であったが出発をちょっと伸ばしてそのカメラを買った。 スピードグラフィックはそのまま私の撮影道具となって旅の後半はすべてそのカメラで撮影したのである。そのカメラには小さな金属製のプレートが付いていて以前はその地方の森林局と言うようなところで使われていたカメラであることが分かった。 こういうのはなかなか趣がある。 ここにあるリコーフレックスとニコマートは西新井の質屋さんのウィンドウで見かけたものだ。私にとっては西新井もミシガン州の田舎町も同じ旅の途中なのである。

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