足に優しい地面
チエ ゲバラは革命に自分を投入する前の短い間、社会主義国時代のプラハに潜伏していた。そのことは記録にあるのだがその場所が特定できない。
以前プラハでゲバラが住んでいた場所が特定できないかと調べてもらおうと依頼したのだが、プラハの知識人の彼らにしてみると社会主義国の体側の人間など最初から相手にしていないようなところがある。だから私の依頼はそのままになってしまった。
ゲバラの日記によるとそれは一部屋しかないプラハの狭いアパートで週末には郊外に出かけてそこにある山荘で過ごしたそうである。
まことにブルジョワジーのようであるがこれはオーストリアハンガリー帝国の市民が昔からやっていた普通の生活様式なのだ。
プラハの六区のアトリエに住む前に私も宿なしで行帰りバスを乗り継いでプラハのボヘミアの森の中の田舎家に住んだことがあった。
だからプラハの都心に向かうターミナルなどで詳しく観察してみるとそういう人は靴の裏ににボヘミアの大地の泥をつけている。
これは田舎者が来たと言う感じではない。
全くその逆で優雅なカントリーから来た優越した人と言う感じがする。
私もプラハで暮らした30年近くの間アトリエから最寄りの地下鉄の終点に行くまでにわざと泥の道の上を歩いた。たかだか数百メートルの小さな広場なのであるが、そこはボヘミアの大地が露出しているのだ。
土の上を歩くと言う事をジョナスメカスも彼の日記で書いているが、プラハは全部が石畳の道だから歩行しているとこれが頭に響くのである。
だから私が30年近く歩いたプラハでの何百キロにも歩行のほとんどは石畳の上で頭をガンガンと刺激されていたわけだ。
アトリエからメトロの駅に行くまでの10分ほどの歩行が大地の感触を教えてくれたことになる。
そのプラハのアトリエと別れてもう数年になるが、今の佃の住まいからメトロの駅に行くまでにつくだ神社住吉様の境内の25メーターほど、つまり土の上を歩くことができるのだ。
自他共に許すシティーボーイのくせにこの短い区間の土の上の歩行、実際は佃島だから砂の上の方向であるのだがそれを楽しんでいる。
70年代終わりにレヴィストロースが佃島にやってきて住吉様の石灯籠の前で撮影した記念写真が残っている。レヴィストロースにとってここは南アメリカなどよりはるかにエキゾチックな場所であったのだろう。
彼はここに住みたいと漏らしたそうだ。