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ロック ユー

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2016年10月31日 (月)

ダリ的分解

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1,970年代の私のwin暮らしの時代に住んだのはドナウ運河のフリーデンス橋と言う駅から南に数ブロック下ったところであった。

私の川の流れに関する空間認識というのは北から南そして西から東に流れると言うのが常識になっている。だからプラハなどでモルダウ川を見ると流れが南から北に向かっているのである。当然のことでその下流はエルベ川なのである。

家人の出身の新潟に初めて行った時も何か変であった。信濃川は南から北に流れて日本海に注いでいる。

12月久しぶりのwinであるが、今回滞在するアパートメントは昔住んだアパートメントの運河の反対側になる。
川向こうの昔住んだアパートが見られると言うのはちょっと素敵だと思う。

Googleのストリートビューでそれを見ると私のiPadはメモリが不足しているので素晴らしい抽象画になって不思議な風景に変貌する。
ダリのような風景の分解が始まるのだ。
通常デバイスのメモリ不足と言うのは欠点であるが、この場合は芸術方向に加速してくれるのである。それが非常に面白い。

IMAIcollectionには何万台のカメラがあるのか?

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私はカメラ関係の本をたくさん出しているのでよく読者の方から一体何1,000台のカメラを持っているのですかと聞かれることがある。
答えはいつも決まっていて3,000台ですと言うことにしている。
これはたくさんあるので数えたことがないと言う意味であって実際に3,000台をカウントしたという意味ではない。

10年ほど前だがモノマガジンで私の持っているカメラを全部紹介しようと言う企画があった。
1,000ページの本を計画したが実際にそこに登場しているのは360台位である。その360台のカメラを部屋から取り除けたら別にカメラの量が減ったと言う感じがしなかった。だからこれは統計学的な予想であってその10倍はあろうと踏んだのである。
そうすると私のカメラは3,000台よりちょっと上ということになる。

今井コレクションの場合、最初にコレクションを日本カメラ博物館の市川さんと一緒に拝見した時、市川さんはたくさんのカメラを見るのがご専門であるが、さすがにうなった。

コレクションは2階から4階まで3つのフロアにウィンドウにぎっしりと詰まっている。
それをいちいちカウンターで数えるのは大変なので市川さんがやったカウントというのは1つのウィンドウの1つのフレームを数えてそれを全部のウィンドウの倍数をかけるのである。

その計算で得た数値は市川さんの言によればおそらく50台位の誤差ではないかと言うお話であった。なるほど頭が良いなと感心した。
6年以上前の話なんでその数はもう記憶していないが今度市川さんにお目にかかったときに聞いてみようと思う。

だから今井コレクションの数は今の私の記憶では数え切れない位たくさんと申し上げる以外には無いのである。
これはニコンコーナーのほんの1部である。拡大していただければわかるがレアモデルがたくさんある。ただしこのコーナーはニコンの一眼レフとモータードライブ交換レンズのコレクションの1部であってその隣のウィンドウはレンジファインダーのセクションである。

昔のウエッツラーのライカツリーを何度も取材したことがあるが、間違いなく今井コレクションの方がライカの数は多いであろう。
ニコンはどうか知らないが品川のニコンミュージアムのコレクションにカメラの数は匹敵するような気がする。

2016年10月30日 (日)

ギャラリーバウハウスのプラハを旅する1

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今回のギャラリーバウハウスでのプラハの写真展は2つのセクションに分かれている。1f
が1985年のプラハでそれは写真家ヨセフsudekのアトリエを撮影したものだ。

地下1階の展示室は2016年の1月つまり今年の雪のプラハで撮影したものだ。来場者の意見で面白いのは31年前のモダンなカメラで撮ったシリーズが現代の写真のようであって,地下の展示、戦前のコンタックスで撮ったのは第3帝国時代のナチスの宣伝写真のように見えると言う意見がある。

まさにその通りであってレンズと言うのはその時代の光を写す忠実な鏡なのである。その地下の1番最初に展示されているのがこの作品だ。
宇部山口にお住まいのコレクターさんが日帰りで飛行機で東京に来て買ってくださった。誠にありがたい次第である。

とは言えこれは私が考えて制作した作品ではなくて私の壊れたソ連のコンタックスであるキエフカメラが勝手に撮影したものである。

他の所でも書いたが持参した二台のカメラが具合が悪くなって3台目のカメラをプラハの中古カメラ店で手に入れた。それを調子よく使っていたら数日後に36枚撮りのフィルムで70枚以上とれるようになってしまった。ぴんときたのはこれは巻き上げの具合が悪いということである。

私は今までに何度か多重露光の作品を写真集に掲載している。その代表的なものはチョートク@ワークと言う作品集の巻頭に乗せたエンパイアステートビルディングを二重露光をしたものだ。
これはそのタイトルが「エドワードスタイケンに捧げる」とあるように最初から意図的に二重露光で撮影したものである。しかしそうではなくて間違って多重録音にしてしまったショットもある。
その代表的なものは数年前に新潮社から出版した「屋根裏プラハ」と言うエッセイの表紙である。

プラハの街並みが二重露光になっているのだ。要するに私がポカをやってフイルム巻き上げを1回忘れてしまっただけの事なんだが、それがデザイナーの目に留まって表紙と言う栄冠を得ることができた。

今回もそれと同じ原理であって、自分の意思で撮影したものでは無い。しかし全体の写真展の構成をお任せした小瀧館長が最初にこの作品を展示したと言うのはさすがであると思う。
展示の途中にこれはアレクサンダーロドチエンコみたいだねなどと冗談を言っていた。

ところがロドチエンコは天才写真家であるから事前にフォトモンタージュのデッサンを作ってその制作意図に合うように厳密に映像を貼り込んでいるのである。つまり意識の内でのフォトモンタージュだ。

私の方はそうではなくて巻き上げの具合の悪いカメラが勝手にやったことなのである。
そこが違いですね。
意識の先、無意識の領域に壊れたキエフが踏み込んでいるわけだ。
そこが面白い。

2016年10月29日 (土)

古いレイバンを直す

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いつも使っているものが壊れると言うのは連続的に起こるもののようである。

10月25日はハッセルブラッドをギャラリーバウハウスの床に落下させた。その日の午前中に足立区を撮影中にいつも使っているレイバンのサングラスのガラスが落下したのである。その2ー 3日前にはもう一つのほうのレイバンのサングラスのツルのネジが抜けてしまってバラバラになった。

要するに日常のメンテナンスが悪いからそういう時にいっきょに不具合が噴出するわけである。

目を酷使して半世紀になるので普段は目を保護するために黒眼鏡をかけている。
10月26日は快晴の日である。

それでその前の日に撮影に行った足立区の足立1丁目15番地に快晴の日でまた撮影に行った。

その前に有楽町のビックカメラにレイバンを2つ持っていった。果たしてすぐに修理ができるのかと思ったが、私の前に私より一回り位の先輩のおじいさんが補聴器について店員さんに話をしている。

これが終わりそうで終わらないのでじっくりそのおじいさんの話を聞いた。将来的も補聴器のブランドに凝ったりするようになるであろうから注意深く補聴器の選び方などを聞いた。

その後に私の番になってメガネがバラバラになったと言ったら、すぐ親切な店員さんがドライバーで直してくれた。これが奇跡であって1ミリ位のネジをメガネのツルにねじ込むのが私にはなかなかできないのである。写真家の目の能力と言うのは実用とはかけ離れたところにあるので細かい作業はできない。

それで持参したレイバンのサングラスを2つとも完璧な状態にしてもらって撮影に行った。代金はサービスですと言うことなので、ギャラリーバウハウスの案内状をお礼に差し上げた。眼鏡売り場の人がギャラリーバウハウス行くのはそれなりに職業的に意味があると思う。

2016年10月28日 (金)

去年のハロウィン今年のハロウィン

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東京の北部の足立区にばかりいっていたので南に行こうと思った。去年のハロウィンの時に石川台の駅からちょっと歩いたところに小路の入り口に大きなかぼちゃのお化けがいたので今年もいるかどうか見に行った。

そのかぼちゃのお化けがいなくて道のちょっと奥の右側には新しいマンションができた模様である。東京の街が1年間見ていないと大幅に変わるものである。
かぼちゃのお化けがいなくて残念がっていたらそこに茶髪のお姉さんが2人通りかかったのでまぁそれでも良いと言うことにした。

ハロウィンのことに関してはもうこれ以上書きたくないが実に日本では不思議である。
ハロウィンを私の周りで日本で最初に紹介したのは今はもうないギャラリーミンであった。オーナーの城田さんはアメリカに長くいたのでハロウィンの習慣を知っていてその時期になると子供たちに仮装させて夜間近所を廻らせたりした。

今のハロウィンは商業主義の手先である。魔女とコウモリと骸骨とかぼちゃがそれに加担している。つまりアメリカ帝国主義の手先である。
この言い方はクラシックでいいな。

winのハロウィンは11月1日である。いやハロウィンではなく万聖節と言うのである。
ヨーロッパのお墓参りの季節である。万物が枯れ果てこれから冬に向かう季節でもある。

日本の場合はこれから始まるクリスマスの馬鹿騒ぎの序章と言う感じであるな。

2016年10月27日 (木)

足に優しい地面

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チエ ゲバラは革命に自分を投入する前の短い間、社会主義国時代のプラハに潜伏していた。そのことは記録にあるのだがその場所が特定できない。 以前プラハでゲバラが住んでいた場所が特定できないかと調べてもらおうと依頼したのだが、プラハの知識人の彼らにしてみると社会主義国の体側の人間など最初から相手にしていないようなところがある。だから私の依頼はそのままになってしまった。 ゲバラの日記によるとそれは一部屋しかないプラハの狭いアパートで週末には郊外に出かけてそこにある山荘で過ごしたそうである。 まことにブルジョワジーのようであるがこれはオーストリアハンガリー帝国の市民が昔からやっていた普通の生活様式なのだ。 プラハの六区のアトリエに住む前に私も宿なしで行帰りバスを乗り継いでプラハのボヘミアの森の中の田舎家に住んだことがあった。 だからプラハの都心に向かうターミナルなどで詳しく観察してみるとそういう人は靴の裏ににボヘミアの大地の泥をつけている。 これは田舎者が来たと言う感じではない。 全くその逆で優雅なカントリーから来た優越した人と言う感じがする。 私もプラハで暮らした30年近くの間アトリエから最寄りの地下鉄の終点に行くまでにわざと泥の道の上を歩いた。たかだか数百メートルの小さな広場なのであるが、そこはボヘミアの大地が露出しているのだ。 土の上を歩くと言う事をジョナスメカスも彼の日記で書いているが、プラハは全部が石畳の道だから歩行しているとこれが頭に響くのである。 だから私が30年近く歩いたプラハでの何百キロにも歩行のほとんどは石畳の上で頭をガンガンと刺激されていたわけだ。 アトリエからメトロの駅に行くまでの10分ほどの歩行が大地の感触を教えてくれたことになる。 そのプラハのアトリエと別れてもう数年になるが、今の佃の住まいからメトロの駅に行くまでにつくだ神社住吉様の境内の25メーターほど、つまり土の上を歩くことができるのだ。 自他共に許すシティーボーイのくせにこの短い区間の土の上の歩行、実際は佃島だから砂の上の方向であるのだがそれを楽しんでいる。 70年代終わりにレヴィストロースが佃島にやってきて住吉様の石灯籠の前で撮影した記念写真が残っている。レヴィストロースにとってここは南アメリカなどよりはるかにエキゾチックな場所であったのだろう。 彼はここに住みたいと漏らしたそうだ。

2016年10月26日 (水)

足立区カサブランカ

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この世界には非常に似た場所が必ず対になって2つあるというのが私の持論である。

そういう対になっている風景と言うのはふいに現れるのである。予告なしに出現するからびっくりするのである。
足立区の五反野駅からかなり離れたところに千代田商店街というのがある。ユメロード千代田と言うネーミングがいかにも寂しそうで良い。
ほとんどがシャッターが降りている街でそこに情緒のある音楽が有線放送で流されている。こういうのはしみる。

その商店街の中ほどにこのカサブランカ公園を発見したのでびっくりした。雰囲気が似ているなどと言うものではなくまさにAとAダッシュの存在感なのだ。

昨年の9月の2週間のカサブランカ滞在で私がよく休憩したオールドメデイナの中にある公園と全く同じだ。なんでこんなイスラムっぽい公園が極東の足立区にあるのかが謎である。

火曜日の日にこのカサブランカ公園を発見してその日は曇りだったので、翌日水曜日に快晴の空の下、同じ場所に行ってみた。真っ青な空である。その空の下に本当に白い家が立っているからこれは文字通りのカサブランカである。

近くの厚焼き卵の店に行って買い物ついでに親父さんに話を聞いたらそこにある石が何か有名なものであるらしい。その厚焼き卵の店の並びにある製麺場で焼きそばと焼きそばソースを買ったついでに店の女将さんに店の名前を聞いたら要領を得ない返事だった。

その製麺所はくだんのカサブランカ公園の隣の隣にあるのだがその公園の名前を知らないと言う。まず地元の人そんなものでしょうね。

仔細にカサブランカ公園の周りを調査したが公園の名前と言うのはどこにも表示されていない。要するにごみを捨てるな、とかそういう足立区のめんどくさい禁止事項等は一切ない。それでいて公園の名前もないと言うかなりハイレベルな環境芸術といってもいい。

西新井の駅からちょっと歩いたところに私がリスボン公園と名付けていた上公園があったがそこが今春に施設が作られると言うので閉鎖されている。それを失った損失は大きいけれども、 その代わりにカサブランカ公園が私に与えられたと言うことになる。

人生はわからないものだ。

ハッセルを落下

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ギャラリーバウハウスのあたしのプラハの個展の週明け。

その前に足立区を撮影するつもりでハッセルブラッドSWCを持参した。五反野の駅で降りでフイルムを装填しようと思ってマガジンを開けたら巻き上げスプールがない。

全くうかつなことで前回他のカメラに利用してそれを戻しておかなかったのだ。仕事ではないのでこういうときの頭の切り替えが早い。
ハッセルはカバンにしまって偽ゴープロを出して撮影をした。足立区の五反野から足立区の足立そして梅田あたりを徘徊して結構面白いロケーションを発見した。

足立梅田町のバス停から都バスに乗って町屋まで行きそこから千代田線で新御茶ノ水で降りてギャラリーバウハウスに来た。

昨年あたしの個展の作品を5点かってくださったコレクターさんが留守の間に見えてお買い上げ。ありがたし。

ギャラリーのテーブルの上に私のハッセルブラッドを置いた。
手元のiPadを操作しているときに誤ってハッセルを床に落とした。それでビオゴン38の前枠がぐにゃりと潰れた。
ハッセルを落下させたのは半世紀近くハッセルを使って初めてのことである。
2016年10月25日は「ハッセル落下記念日」である。

レンズは別にやられていないので問題無し。それでギャラリーに預けてあるハッセルブラッド500cのマガジンを交換して展示中の様子を撮影した。マガジン交換式のカメラはちょうどデジタルカメラでメモリを交換するのと同じように簡単にメディアを交換できるのがいい。

2016年10月25日 (火)

梅島駅の人々

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カメラメーカーは大都会の周辺部に存在する。 今日の南部に日本光学や精機光学があった。北部にあるのはトプコンでありペンタックスである。 それらのリストに加わったのが最近の私のマイブームペトリカメラだ。 ペトリは西新井と梅島の間にある。 海外向けの雑誌広告に工場のイラストが掲載されているのを人が教えてくれた。 非常に長い工場である。ドレスデンのツアイスより、ウエッツラーのライツより雄大な感じがする。 とにかく長いのである。その長い敷地は今では巨大なマンションになっている。その場所がもとの工場の跡地であろう。 駅の周辺を行ったり来たりして撮影をした。 通行する人々の存在感がなかなかいい感じである。つまり私が10年間仕事をしていた六本木のような嫌味と言うものがなくて、自然体でみんな歩いている。自然体で皆仕事をしている。 こう文章にしてみると簡単だが実際にその現場を見てみるとやはり自然体な街は凄いことだなと感心する。

2016年10月24日 (月)

大宴会

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ギャラリーバウハウスで開催中の私のプラハの展覧会の第一回目のトークショーがあった。満員御礼だった。

話のクライマックスは私がなぜ25年間滞在したプラハを見限ったのかということなのだが、その事は話さなかった。
それは11月12日の二度目のトークでやる予定なのである。何か紙芝居屋さんが黄金バットの続き物の紙芝居を最後まで全部見せないのと似ている。
この卑劣なテクニックは昔の紙芝居屋さんから私が受け継いだ手法なのである。

カメラクラブ関係の身近な友達とアローカメラの土曜日のシドニーカメラ寄席をやったので、そこから丸ノ内線で移動して御茶ノ水まで行った。
座れれば非常に快適で全員座ることができたが長い丸の内線の路線をぐるりと回って四谷三丁目から御茶ノ水と言うのは東京の理想のエクスカーションである。

トークショーは非常に面白かった。それをニセゴープロで撮影したのであるが、最初の40分と最後の20分が不思議なことに録画されていないのである。

今回の写真展の展示でも二台のカメラが現地で壊れて買った3台目のソ連製のキエフが撮影中に書巻き上げが壊れて多重露光になってしまった。それをわざわざプリントして展示したのであるがこれが意外と好評で買い手がついたりしたのである。

つまりこれは国会議員風に言えば自分は関知していなくて秘書が勝手にやったことだということになる。このダブルエクスポージャーのシリーズは私は全く知らなくてキエフがやったことと言うことになる。

トークが終わってからそのまま皆さん帰宅するのはもったいないのでギャラリーの最寄りのファミマでそれぞれハイボールを買った。そのハイボールを御茶ノ水の聖橋の北側で飲んだ。これは非常に盛りあがった。クラブエダムがなくなったのは昨年の4月であるから1年半ぶりの快楽であった。

仲間内で野々宮副司令と言うとカメラの趣味は良いし、BMWはM3だし、オーディオの趣味も良いが写真が下手であると言う定評がある。宴たけなわの時に野々宮が距離をちょっと置いてiPhoneを構えたのでどうせろくな写真が撮れていないだろうと思っていたら、それをFacebookにアップしたら非常に良い写真なので驚いた。だから私の脳内では野々宮=写真が下手と言うレッテルを昨日限りで剥がしたのである。

人間はやはり進化し続ける動物であるということが野々宮のiPhoneのワンショットでもよくわかる。しかしこれだけiPhoneは優秀になってくるとデジタルカメラメーカーは気をつけねばならない。デジタルカメラ問題は競合他社に鼻の差で勝つことではなくて、共同戦線を張ってiPhoneに対抗することではないのか?
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HIDEO UCHIDA


2016年10月23日 (日)

IMAI collection 日本光学の鍵

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今回の今井コレクション研究会の研究題目はたくさんあったが、私が高く評価しているものの1つはこの鍵である。
これは魚眼レンズカメラニッコール16.3ミリのカメラの木製の格納箱をロックするための鍵なのである。
みたところ非常にシンプルな鍵である。そこに日本光学の刻印が素人っぽく入っているのはユーモラスだ。

なぜそんなことが面白く感じたのかと言うとつアイスイコンは光学メーカーとしても有名だが一般的にはそれよりも鍵のメーカーとして有名だからだ。

以前フランクフルトで普通の家庭用品のお店でつアイスイコンのシリンダー錠の一式を購入した。ヨーロッパではツアイスの鍵は高級ブランドである。ここはレンズやカメラと同じですね。

ウイーンでよく利用したホテルの鍵がやはりつアイスイコンを使っていた。その鍵を手にしていると何か安心と言う2文字を手にしているような気がする。

このレアな魚眼レンズのカメラについている木製の箱の日本光学の刻印が付いた鍵は自社製というわけではなくて何か市販の安い鍵に慌てて日本光学の刻印を入れたと言う印象が強い。、

かの日本光学もそこまでは手が回らなかったということであろうか。しかしコレクションとしては魚眼カメラは資料では見ても実物を見たのは今井コレクションが初めてである。

なんでもそうであるが資料だけで調べているとわからない点がある。
これが資料をもとに文献を書いている人々の最大の問題点である。
実物に当たるとそういう細かいディティールが浮かび上がってくる。

つまり高度成長期の勢いのあったあの時代が立体化してくるわけだ。

2016年10月22日 (土)

札幌から中国のライカ紅旗の本が届く

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「陸田三郎著 紅旗 271奇跡」が届く。
文化大革命の頃、江青女史の大号令で制作された、レアカメラでその生産台数は200台余と言われている。
しばらく前、北京に頻繁に行っていた当時、私はこのカメラがどうしても欲しくて街中のアンティーク屋さんを巡ったこともあった。
当時でもこのカメラは非常に高価で私の予算価格をはるかに超えていた。

その後大阪に行くようになって大阪のカメラ屋さんでこのカメラを3台も見せられて目が回ったこともある。当時の銀座の銀一カメラさんで、紅旗と交換レンズを3本拝借して撮影させてもらったことがあった。その3本のレンズは中国製であるのだが、その描写は1,960年代のライカのレンズに非常によく似ているのである。
まるでズミルックスレンズを中国製のレンズバレルに入れたのではないかなと思うほどであった。
そういういろいろなレッドフラッグに関する疑問がのこの1冊の本で解けるということになる。

1,980年代初頭の中国と言うのは、まだ経済大国でもなくて未開の国であった。
私がアメリカの雑誌の極東通信員をしていた時に、私のボス、ハーバードケプラーさんが中国の現代カメラ取材に行かれてその成果を本にされた。

当時の私のボスはトップクラスカメラ雑誌の編集長で、中国の現代カメラ取材に行かれた。
ケプラーさんの本のテーマになっているのに、ハッセルブラッドのコピーの東風も取材していた。


その数年後に私は新華社から依頼され報道写真コンテストの審査委員長などを仰せ付かったが、新華社の社内にはカメラの売店があって中古カメラもそこで販売しているのである。

ハッセルブラッドのコピーのほうはレンズが3つ付いてかなり高い値段で販売されていた。そこの売店は実際に新華社の写真記者が使っていてもう廃盤になったカメラを販売していると言う非常にハイブローなお店なのである。

現地で知り合った博報堂の支店長さんがやはりカメラ付きだったのでこの体験のことを教えてあげた。売店はエントランスに人民解放軍が実弾の入った銃をを構えて立っているから、おそらく世界で1番入りにくいカメラ屋さんだろう。

博報堂の所長さんはそこに行って多分文化大革命のときのあの歴史的事実を記録したであろうライカM3カメラとレンズセットを購入した。これは非常に良い買い物だと思った。

話は前後するがその数年前のドイツはケルンのフォトキナでフランスの映画撮影機エクレールのコピーが展示されていた。 予想価格を聞いたら6,000ドルとか言うのでこれは本気で欲しいと思った。
でもその直後に本物のフランス製のエクレールを何台も購入して話はそのままになった。

中国の紅旗はライカm5のようであるが中身はm4に非常に似ている。
その価格も高かったのがこのカメラを最終的に購入しなかったというのは単純なことだった。
レザーの革張りがあまりよくなく端から剥がれてきてしまうのである。

こちらはこういうカメラを携えて世界の果てまで行きたいと思っているのであるから、世界の果てに行く前に革張りが剥がれてしまっては困るのだ。


2016年10月21日 (金)

ロバートフランクの不可解

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物心がついて以来ずっと好きだったロバートフランクであるが私の価値観に異変が起きている。世界50カ国の巡回展の話が以前からあって11月に東京芸大でその展覧会が開催される。
日本での開催は第10番目だそうだ。

私がえた情報は何かの業界紙のプレスレリースであろうが不可解なことが書いてある。それを説明するにはゆうに本を1冊書かなければならない位のバックグランドがあるのだが、今日ギャラリーバウハウスの初日にそのことをぜひメモしておきたいと思った。

フランクに対する不可解な点を最初に上げてしまえば、写真集を出版したドイツのゲッチンゲンにあるシュタイドルとの共同作業のようであるが、東京芸大でシュタイドルのワークショップを開催すると言うのである。それは大いに結構なことだ。

簡単に説明してしまえばフランクの作品はアメリカの美術館などで8000万円の値が付いていて、それを海外に出さないようにしているとその解説にはある。
これはばかばかしい話だ。
たかだか8,000万円の価格のプリントを海外に貸し出さないほどアメリカのミュージアムのディレクションは馬鹿ではなかろう。

同じ20世紀の新人アーティストのパブロピカソの場合はその何十倍何百倍もするが平気で海外に貸し出されている。

ゲッチンゲンの出版社シュタイドルはフランクとタイアップしてたくさんの写真集を出している。それでミュージアムのプリントが高くなりすぎたことへの反発として、南ドイツ新聞社から用紙を提供してもらい、それを印刷したものを期間限定で世界中で展示するのだそうである。

その理由は教育的な見地からであると言う。確かに筋は通りそうだ。

そこまでは非常にけっこうな話だが私が愕然としたのはその展示した印刷物を最後に地元のアーティストがパフォーマンスで破壊するのだそうである。

スイス出身の典型的なユダヤ人の名前であるロバートフランク(彼は50代の頃そのように英文で書かれたTシャツを着てうれしそうにしていた)はまさか大戦中の第3帝国ナチスドイツの焚書を知らないはずはあるまい。

複製技術時代の先鞭をつけたワルターベンヤミンはナチスドイツから逃れてスペインに脱出する際に国境で亡くなっている。そういうバックグラウンドのあるワルターベンヤミンにも申し訳がないということにならないか。

ここでトリッキーなのはシュタイドルは印刷媒体、つまり複製技術を扱っている出版社であるという点だ。
複製技術の印刷物を展示の最後に抹殺すること。
これが私の視点から見れば「焚書」なのである。

フランクの今回の1連の展示の事はもちろんフランク自身の意思によるものではあろうがそのアイディアが出たのは周囲からではなかろうか。

なぜならば10年前の英国の放送局の彼の80歳のときのインタビューでフランクは自分がコンセプトで写真を撮ったことが1度もない。コンセプトのある写真が嫌いだと自ら語っている。

展示した作品をこれは印刷物であるにせよ最後に焚書にしてしまうのはコンセプトそのものではないのか。
フランクの十一月は偉大な謎だ。

それについてすぐ私の脳裏に浮かぶのは環境芸術家クリストのことである。
クリストは各方面から資金援助を受けているがその作品をギャラリストの手に渡さないために、全て展示作品を破棄しているのである。
これはクリストの仕事がアイディアと記録だけで後に残らないということそのものが基本的コンセプトになっているからだ。それは正しいと思う。

11月の24日の東京の上野でフランクの作品がどのように破壊されるのか。それには興味あるが今までのフランクの全体の仕事の流れからするとこれはフランク自身のバックグラウンドを全て否定してしまうことになりそうで、私はそのことを心配している。

今日は金曜日だ。
明日の土曜日にギャラリーバウハウスで午後7時から私のトークがあるのでその話もじっくりお話ししようと思っている。

ワルターベンヤミンの影を我々は引きずっているわけだ。

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2016年10月20日 (木)

70にして40ミリを使い始める

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ライカとかローライの次にお付き合いの古いカメラはハッセブランドである。おや音声入力だとハッセルブラッドにならないんだ。ブランドだからこれでいいな。

スエーデンのヨーテボリにビクターハッセルブラッドさんの生誕100年の取材に行ったのも、もう10年以上前のことであった。

私も若かったからその時、目立とうとして、わざとハッセルブラッド1,000f持参したりした。3月のヨーテボリは異常な寒さでマイナス20度位だったが、あのフラギリテイトな金属製のシャッターはちゃんと作動してくれた。
ハッセルブランドの500cを使いだしてすでに40数年が経過している。

日本デザインセンターで仕事をしていた時はハッセルの基本機材は本体とマガジン二個。それに交換レンズは50ミリ80ミリ150ミリだった。
月給が50,000の時にそのセットで100万円以上したのだから一生のうちにハッセルなど買えないと思っていた。

それが今では佃のカメラ倉庫でハッセルをまたいだりしているのであるから、これが人生の不幸でなくてなんだろうか。

超広角のレンズは38ミリのビオゴンがついたswcを何十年も使っている。当時のレトロフォーカスレンズディスタゴン40ミリは私の仕事場だった日本デザインセンターには非常に高価なレンズなので1本しかなかった。それはほぼ写真部長専用のレンズなのである。それはそうですね下っ端のカメラマンがそんな高級なレンズをリクエストはできません。それでハッセルなら50ミリというふうにずっと仕事をしてきたのである。

ところが最近40ミリのデイっすタゴンを手にいれたのでもう嬉しくて仕方がない。ところが大きくて重いレンズなのでつけるとフロントヘビーになってしまう。

フィルターはバヨネットの93ミリだからそんじょそこらにある代物ではない。それでちょっと小さめのフィルターを買ってそれをパーマセルテープで固定した。いい加減に固定したのでフィルターの面がちょっと斜めになっているのであるが、逆にゴーストでなくていいかもしれない。

我楽多屋さんのハッセルコーナーを物色していたらエル字型のハンドグリップがあったのでそれも求めた。40数年ハッセルで仕事をしていてそんなへんてこな付属品が欲しいと思ったことは1度もない。これはディスタゴンの超広角レンズが大きくて重いからなのである。

ギャラリーバウハウスの小瀧館長がこの夏、英国で久しぶりにハッセルブラッドを使ったと言うお話だったので私も真似して次回のヨーロッパ行にはハッセルブラッドを持参することにした。

ディスタゴンの40ミリはビオゴンの38ミリに比べるとレトロフォーカスであるから光学的に歪みがある。その歪みが私は許せなくて30年前にはレトロフォーカスの超広角レンズを使う気はしなかった。でも最近は70近くになってだいぶ大人になったのでディストーションなどは年の功だと思っている。

あーそうそう、この画像ですがこれは偽ゴープロから切り出したものです。もちろんシャープじゃないし、変な画像だ。
でもブログだと逆にやる気があって良いと思う。私のiPhoneはすでにメモリを使い尽くして1枚もとることができないから。

2016年10月19日 (水)

ペトリプロ7はプロのカメラ

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ペトリプロセブンと言うカメラをヤフオクで手に入れた。東十条から送られてきた。価格は500円で送料が1,200円である。感心したのは巻き上げろ感覚が非常によくて巻き上げも軽いし使いやすいことだ。

しかもシャッターボタンがカメラの前の方についていてそれがイエローで結構大きいのである。昔のIWCのクロノグラフで似たようなのがあったのを思い出した。

スナップ撮影の時に1番重要なのはフイルムのレバー巻き上げの感覚とシャッターの落ち方である。ファインダーがどうのこうのと言うのは全く関係ない。それでこのペトリプロセブンは長年使っているライカと同じ位操作感覚な快適なのである。

ライカの場合は巻き上げにメリハリがあって巻き上げの終わりがカツンと言うクリック感があるのが使いやすい。このペトリはそれと同じ操作感覚なのだが巻き上げの終わりのカツンと言う感じがもっと強烈である。これが撮影のリズムを作ってくれるわけか。

さらに特筆すべきは巻き上げが異常に軽いのである。このカメラが到着したときにフィルム巻き上げを何度か操作してみたが、見るとカメラの巻き戻しクランクが回転してることに気がついた。つまり前の人がフィルムを入れたままにしていたのである。その巻き上げと言うのはフイルムを入れてない時よりももっと軽いと言う感じがした。

1,960年代初頭のしかも一般アマチュア向けのカメラでこれほど巻き上げとシャッターレリーズの感覚がいいと言うカメラは他にない。それで非常に気に入った。

ペトリには皮ケースの下側だけが付属していた。それを斜め掛けして良い気分で佃島から撮影を開始した。中央大橋を渡る所で4枚ぐらい撮影が終わってカメラを手に取ろうとしたらいきなりストラップが切れたのである。
調べてみると古い皮ケースの付け根から引きちぎったようになっている。60年前のカメラだからこれは当然かもしれない。
急いでカメラを点検したら巻き上げもできないしシャッターもレリーズできないようになってしまった。これは故障であるが実にプロのカメラの故障の仕方である。

プロ用のカメラで大切なのは故障がはっきり分かることだ。
故障がはっきりわからないと中途半端に撮影をしてしまって写真が1枚も使い物にならないということになる。その故障の仕方と言えば1番理想的なのはこのペトリのようにフイルムも巻き上げられないしシャッタも切れないということ。これが1番故障の場合の理想である。

20年ほど前香港に撮影に行った。カメラはペンタックス645で数10本撮影したが昼間は1枚もとれていなかった。シャッター音はするし巻き上げも動いているのだがシャッターが開いていなくて日中とると信号機の明かりしか写っていないのである。かろうじて夜間撮影で三脚で撮影した分はシャッターがバルブになっているのでちゃんと映っていた。それで仕事をしたことがあるが実にヒヤヒヤものであった。

本物のプロ用カメラペトリの修理は友達のテッシナさんにお願いしようと考えている。

2016年10月18日 (火)

狸小路のザガメチャンズメモリアルパビリオン

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ザガメチャンズはザビートルズと同じコガネムシ2人の人気ユニットであった。
惜しくも2匹とも昇天してしまった。そのふたりめがガメ二号であってこれが10月10日にななったのである。

それで今回の札幌今井コレクション研究会はその実、私にとっては傷心旅行と言う事でもあった。

人間の思いと言うのは亡くなった人でも猫でも犬でもハリネズミでも小鳥でも虫でもメダカでもその悲しみは同じである。
私は親不孝なのでその中では両親の亡くなった日等は忘れていると言う道楽息子だ。

今井コレクション研究会の翌日になぜか狸小路を歩行していた。普段はこういうところに行かないのであるがこれは何者かに導かれたと説明する以外にはない。

狸小路の中程にこういうパビリオンがあったので、あーそうかと納得した。

ザガメチャンズメモリアルパビリオンなのである。
正面の顔もそっくり。
こういう見たては心を和らげてくれる。

2009年の7月にライカインコが昇天した時はまだ東京スカイツリーは建設が始まったばかりであった。
それでこれをライカインコメモリアルタワーと命名した。

そういう勝手な命名はなかなか効果があるので、それを皆さんにお勧めする記事を拙著 カメラは詩的な遊びなのだ に書いたこともある。

2016年10月17日 (月)

IMAI collectionから戻ったらマンハッタンと東十条からペトリが届いた

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今回のIMAI collection研究会は主にコンパスのフィルムシステムと先が尖っていて非常に危険な三脚について研究した。

翌日はフォトンを持って中島公園を撮影した。

土曜日の午後のおそくにつくだに戻ったらパーセルが2つあった。1つは東十条から出されたものである。もう一つはマンハッタンから出されたものだ。
十条とマンハッタンはどちらも私の大好きな街であるが、その全く異なる地球上の2つの地点からここ佃に向けて出された2つのパーセルがいずれも中身がペトリであるというのが何か楽しくなる。

マンハッタンから出されたのは例のマンハッタンの怪人チョーセイさんが出したもので、これはニッポンペトリ党へのドネーションなのである。
中身は最高級の一眼レフカメラペトリフレックス7が入っている。
もう一つのパーセルは私がヤフオクで落札したもので中身はレンジファインダーのペトリプロセブンが入っている。

札幌ではジャガールクルトのコンパスを研究し東京に戻ってきて足立区梅田で生産された日本のカメラを研究したりしているのだ。その材料がマンハッタンから到着したりするのはいかにもインターナショナルである。

インターナショナルと言うのは例のあの共産党のザ インターナショナルのことである。ソ連邦が崩壊してしまってもう何十年が経過したのかわからないがあのインターナショナルの歌というのは我々若かった頃には青少年の血を沸騰させたものであった。
その意味での海を隔てて我ら手をつなぐと言う意味であってこれはザ カメラインターナショナルと言えば良いのであろうか?

四半世紀前の話になるがパリのルーブルの北側の路地裏を歩いている時に私はカメラを手に撮影をしていたのであるがいきなり細い路地の天空から口笛のインターナショナルが聞こえてきたことがあった。
空を見ると上で仕事をしている屋根を修理している若い職人が口笛でインターナショナルの旋律を吹いているのだ。それで私は非常に感激して連帯の意味でそれに合わせて低いほうのコードで口笛でインターナショナルを吹きながら路地を回ったことがあった。

そんなことを考えるのもマンハッタンと東十条からペトリカメラが届いたからだ。ペトリカメラは労働組合が勝利してその記念のカメラだかなんだかを野々宮がアップしていたな。

IMAI collectionも、ザカメラインターナショナルも勝利せねばならない。
ウラーーー!!Img_0514


2016年10月16日 (日)

働く船

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私の住んでいるところはどうも川に縁があるようだ。1,970年代のwinではドナウのそば、これは本物のドナウ川ではなくて市内を流れているドナウキャナルと言うものがあるのだ。

日本に戻ってから多摩川のほとりに住んでいた。漫画家のつげ義春さんのお宅のすぐそばなのでカメラの縁でつげさんによく合うことがあった。つげさんのお住まいの団地の2階の三畳にお邪魔したこともある。これはファンならずとも貴重な体験だろう。

30年近く通ったプラハは川の側ではなかったが川が大きく蛇行した U字型の地形の真ん中に住んでいた。
それで今、ベンジャミンブリッテンの東下りの例にならって東都江戸東京の隅田川のはとりに暮らしているわけだ。

観光船も多いが私が好きなのはこういう働く船である。
土砂を満載したと船はガキの頃からよく記憶に残っている。でも私の少年時代の隅田川は真っ黒でメタンメタンがぶくぶくしていた。
今の隅田川は魚が住んでいるし空の色を映して青い。

東京の2020年のオリンピックが決まった直後から部屋から見ていると仕事をしている船の数がいきなり増えた。いずれも土砂を満載した船なのである。
景気が回復するというのはまず最初に土木業界と言うことなのであろう。

札幌の川がいいなと思うのはせせらぎにある。きれいな水が凄い強いで流れている。その流れの名前は知らないがこの7月にパークホテルに泊まった時、中島公園の近辺を散策した。そこにかかる橋の名前がユニークなので未だに記憶している。その橋は鴨鴨橋と言うのである。
おそらく開拓時代にそこら辺に鴨が多かったのであろうか。

2016年10月15日 (土)

IMAI collection 時計台から徒歩一分

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札幌の今井カメラコレクションは時計台から徒歩1分のところにある。私の足で歩いてまずそのくらいの距離だから道に迷う事は無い。

時計台と今井コレクションの間に交差点が1つあるがこれは札幌独特のスクランブル交差点であるからそこで2分ぐらい増すことになる。でも青信号ならまっすぐであるから1分ぐらいであろう。さらにすごいのは今井コレクションは時計台よりも札幌駅に近いのだ。
ここがポイントですね。

しかし、天の摂理とゆうか神様の采配というかそんなに便利なところにあるのに今井コレクションは非公開である。限られた専門家とかスペシャリストだけが許可をもらって見学することができる。

誰でも知っている世界の有名なカメラメーカーの偉い人がここにきてコンパスと言うスイスの時計メーカー製の超小型精密カメラを見て、そのウィンドウの前から動かなくなった。
何時間もそこにいてああでもないこうでもないないと楽しい時を過ごしているのである。立ち合いの今井館長は深夜になってレストランも閉まってしまうだろうしお腹が減ってお付き合いで困ったと言っていた。
その同じコンパスと言うカメラをそのカメラメーカーの偉い人はすぐに買ったそうである。これはライカが欲しいとかソニーのカメラが、ニコンが欲しいと言う一般の消費者の欲望とは全く別の所にある。カメラ欲望の天国ということですね。

最近の世界の有名なカメラメーカーはマネジメントの様式が変わってきてトップに座る人は案外カメラに趣味がなかったりする。別の言い方をすれば経費を削って売り上げを上げると言う専門家集団がトップに座っている。なんとかかんとかホールディングスと言うような会社は大抵それであろう。

今井カメラコレクションの天国の門はそういう人には開いていない。言い方を変えれば本気ででカメラが好きでカメラを設計製作して販売する人々のみここに来ることができる。

私がこのカメラコレクションの巡礼はちょうど6年前の秋であった。だから今から7年目に突入するわけである。

日本カメラ博物館の市川さんから札幌にすごいカメラ集団があるから来ませんかと誘われたのが7年前の晩秋であった。事務局からカメラの1部のリストをCDで送ってもらってびっくりした。世界のカメラコレクションを私はわりとよく見ている方であるがこれはすごいと思った。それで。6年間おりにつけてここに巡礼に来た。でも今井カメラコレクションの全貌などと書くと簡単だがそんなに簡単にこのカメラ宇宙が分かるものでもない。

しかもそのロケーションが時計台から徒歩1分なのである。にもかかわらずそこは一般に公開されていないのである。
私が滞在しているこのホテルはカメラコレクションまで30秒である。時計台まで30秒である。
これを書いていたら時計台の鐘の音が聞こえてきた。

サンチャゴデコンポステラ。
来年はIMAI collection大巡礼年でもある。

2016年10月14日 (金)

札幌はフォトン

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定例の札幌の今井カメラコレクション研究会である。

今井カメラコレクション研究会は最初の訪問が2010年の秋であった。だからすでに6年が経過して7年目に突入するわけである。
カメラと人間の歴史をこれほどつぶさに面白く観察できる機会はなかなかないので毎回楽しみにしている。

今井コレクション研究会の終了後に毎回札幌を撮影することにしている。そのカメラはデジタルカメラありフィルムカメラありなのであるが、今回はわざとフィルムカメラを持参した。

フイルムカメラと言えばベル&ハウエル株式会社のフォトンである。これは私が生まれ年と同じ1947年であるから既に年齢70歳である。
私もまだまだ元気だがフォトンはそれ以上に元気だ。ベル&ハウエルは世界を席巻した有名な映画撮影機の会社である。

チャーリーチャップリンを映し出し、第二次世界大戦の貴重な記録もベル&ハウエルで撮影された。
ロバートキャパもこの撮影機35ミリフィルムを使うアイモというのを使っている。

その伝統あるベル&ハウエルが制作した唯一のスチルカメラはこれなのだ。当時700ドルで販売してなか売れないので2年後に500ドルに値下げしたらそれでも売れなかった。それでトータルで700台しか生産されていないのである。70年経過した後に一体何台がこの世に存在するのだろうか

毎秒六枚の撮影をするがそれは優秀なスプリングモーターによっている。今のデジカメと違ってバッテリー切れからは完全にフリーであるから、人間が生きている限り使えるぜんまい巻き上げのカメラと言うわけだ。

ベル&ハウエルの会社は残念ながらこのフォトンを出しただけでスチルカメラからは撤退してしまった。
映画撮影機のトップクラスの会社でも普通のスチールカメラを作るのは非常にマーケティングが難しいと言うこれはその実例と言えるかもしれない。

テーラーホブソンのクックの2インチのレンズが付いている。これは非常に評価の高いレンズである。

自分と同い年のアメリカ製の当時の最新型カメラを持って札幌の街をあっちこっちと撮影している。今井コレクションもさることながらこの札幌撮影の楽しみは捨てがたい。

2016年10月13日 (木)

モータリゼーションは記憶のかなた

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日本のモータリゼーションの黎明期はワタシが日本デザインセンターで最初トヨタパブリカを磨いていてころいたころがその本格化の始まりだったと思う。それ以前はモータリゼーションは夢のまた夢という感じだ。

私の生まれた文京区音羽は当時は都電が行き交うだけで後は馬車とか牛車が交通していたと言うと誰も信じないだろうがそれは真実である。あ、それと進駐軍の車がよく走っていましたね。

音羽の通りに橘さんという油屋さんがあった。これはしょきのガソリンスタンドの意味である。油屋さんがガソリンスタンドであった。

私の古い友人でピアニストの長島さんという女性がウィーンに留学したのは1,970年代の初めであるがその時あちらで出会った日本人でやはり私の友達の栗田くんというのがいた。栗田くんの友人が写真家のフルヤ誠一なのである。

ピアニストの長島さんが栗田くんに初めて会ったときに長島さんが何してらっしゃるんですかと聞いたら栗田くんはぶっきらぼうに油だ・といったそうである。長島さんのその答えが、あ、、油屋さん?であった。

栗田くんは油絵を学んでいたからそう言ったのであるが、長島さんはそう聞かずに油屋さんつまりガソリンスタンドやっていると勘違いしたのである。

そこらへんの日本語の意思疎通ができないところが非常に面白い。

音羽通りの油屋さんの橘さんのところには排気量500ぐらいのそれが名前もわからない群青色に乗られた小型トラックがあった。小学校低学年の時にそのトラックの荷台に乗せてもらった。

歩いていけば10分かかるエドガワバシまでたった1分でまたすぐ音羽通りを北上して護国寺の山門の前まで行きまた戻ってきて3分もかからなかった。

私の人生のはじめての車の経験がトラックの荷台であったというのは象徴的である。後年メキシコの遺跡を取材に行った時に、交通機関がないのでやはりトラックをヒッチしてその荷台に乗せてもらったこともある。

当時のアブラヤさんというのはこの写真でもわかるけども木造建築がたくさん並んだ街中に白い壁を巡らせてなかなかモダンな商売に見えた。働いている人も粋な制服であった。

油屋さんの前を通る時に水面に広がったガソリンの皮膜に虹の七色を見てそれをコダクロームで撮影しようとしたのは何十年も後のことである。油屋さんの前を通る時にそのガソリンの匂いが好きで夢心地になったこともあった。それはガソリン自動車への憧れではなくてペトロールそのものの近未来的な香りなのであった。

もう1枚の写真はどうみますか?

これは東京ニコン日記に掲載された1枚の写真なのだが今までその素性が全くわからなかった。今ならベトナムのハノイの郊外でもこんなにすがれった寂れた感じの自動車修理工場というのはそんざいしない。

腰に手を当てて店の中をのぞきこんでいるチエックのシャツの青年がいったい誰であったのかが判明したのである。

これは1966年の10月ごろの話で大学の同期の野口康が新しくパブリカを購入したのでそれに乗って東京をドライブしたのであった。パブリカはグレーのスタンダードで何の装備本付いていなかった。

当時はそれがカッコ悪いと思った。今ではスタンダード仕様のパブリカわかっこ良いと思うが当時の私は若かったからその分別がなかった。開発途上国の日本のモータリゼーションは車の脇に自家用とでかでかとペイントしたり、あるいはオーナー田中と書いたでかいネームプレートを車の後ろに掲げるようなそういう時代だったのだ。

このショットで思い出したのはその野口くんとのドライブ中にほかの車に追突されたのである。車のオーナーは事故にするとまずいというので確かこれは砂町かどうかのこういう修理屋さんにツレテいかれた。そこで修理をしてもらって事故沙汰にはしなかった。

写真が記録であるとは思わないけれど老人のかすれた記録をつなぎあわせてくれるのにはずいぶんと効果があることが分かった。

2016年10月12日 (水)

ペトリ街

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Pa050120ペトリカメラという戦後から70年代にかけてほとんど輸出用で外貨稼ぎに活躍した普及用のカメラがあった。その工場がずっと足立区の梅田町にあったのでそのあとを訪ねたくなった。
西欧の物好きがウォータールーの古戦場を訪ねるようなものである。
ペトリカメラ研究会というのでは名前が面白くないのでニッポンペトリ党と名付けた。こうすると何か憲法改正をしたがる結社のような感じがしてなかなかよろしい。

古い資料で調べるとペトリカメラの本社と工場は東武線の梅島駅のそばにあったようだ。おそらく今マンションが延々と線路沿いに立っているが、そこが工場の跡地であったのではないかと推測している。

手元にはたくさんのフィルムカメラがあるからわざわざペトリカメラを使う必要がないのであるがそれは考古学的な見地から現地調査をするときにはやはりペトリカメラを持参するのが礼儀というものだ。
この界隈はなかなか下町の濃度が高くてよいのであるが、面白いのは区画整理の影響がここにも出ているという点だ。
この近くの鐘淵にしてもそうであるが計画の時に役人がまっすぐ新しい道路の線を定規でひいてしまったものらしく、従来の庶民のミチとはそれが120度ぐらい交差しているのである。
だから梅島もそうだし鐘淵もそうであるが、後で作られた道に対して従来の道はみんな斜めになっているのである。この斜めの角度が何かレンズの光学設計とかあるいはペトリカメラの鋭角なペンタプリズムの角度を想い出させていいカンジだ。
街角が斜めになっているのはそこに都市のダイナミズムがあるのパリの都市計画でも明白な事実である。

それがなにかわからない店舗の出窓のガラス窓にきいろいばらの造花だから生花ダカわからないない、それが一瞬私の視神経を横切った。反射的にシャッターを押したが後で考えてみるとイエローというのはペトリカメラのシンボルカラなのである。
だからこの界隈にはペトリカメラの妖精がまだ飛び交っているのであろう。


2016年10月11日 (火)

秋の東大前

000127560032東京駅北口から東大前を通って荒川土手まで行くバス路線が好きな事は度々書いている。

本郷通りのこのセクションが実に不思議なのは私がバスに乗る時間帯にはいつもガラガラであることだ。これは数年前に撮影したのだが銀杏が色づいて綺麗だ。

吉田健一の戦前のこの界隈を記録した話によれば当然のことながらもっと鬱蒼とした森林のような茂みであってその下におでん屋台がたくさん軒を並べていたそうである。

吉田健一は家のそばにたくさん酒屋もあるのにそこまでわざわざ円タクを利用して出かけたらしい。それはそれで文豪のその時代の行動が分かって面白いのだが。私が注目しているのは当時のタクシー乗合自動車にはこれは1円で東京市のどこまでも行けたという時代の話であるが、その多くは外国製の車であってしかもクルマにはヒーターが装備されていなかったという事実である。

吉田健一がたまたま使っていた乗合自動車がそうであったのかどうかは分からないが東大のまっすぐな通りを走っているときに私はいつもそのことを思い出す。

その先の向ケ丘界隈の本郷通りのまっすぐなのも非常に好ましくて、私の東京ニコン日記で1,960年代後半にやはり都バスでこの界隈を都心に向かって走っているときの車窓からの風景がある。これも路上には人影もなければ都電も走っていないし車の姿がない。その写真集を見ているときにこれは60年代であるから車の数が少ないのだと思っていた。ところが現代に特定の時間帯を走るとやはりここはグレーのアスファルトだけが延々と広い空間なのである。そういう東京が好きだ。

2016年10月10日 (月)

天にのぼるような階段

000125650031 000125680012ヨーロッパを取材しているとずいぶん高いところにのぼることもある。

ケルンの大聖堂の階段とかそういうメジャーな高い場所にのぼるということいってるのではない。

この場合はもっとプライベートな建物の急な階段を上るという意味である。ここらへんがパブリックとプライベートな階段の違いである。

ベルギー政府観光局の仕事で毎年ベルギーに行っていたときにはあそこの名物がいわゆる鐘突堂、カリオンなのである。

これはプライベートと言うよりも管理している人の専用の場所だからその人達が上り下りするだけである。だからとんでもない急な階段とかはしごがある。

そういう鐘突堂に100ほどではないにせよ50回は上り下りしたのである。鐘突堂は今は全部自動で制御されているが以前は人間が操作していたのでいったん当の上にのぼるとおいてこられないから簡易なトイレの設備などもあった。

そういうところを昇り降りしていたので私は急な階段には慣れているはずである。ところが東京の風景というのはそういう私の単純な経験を全く消し去ってしまうようなすごいバショがある。

丸ノ内線の新大塚の駅でその近くにあるこの場所などは天に登る階段と言うにはいささか大げさではあるが、そのアイガー北壁ナミのそらにつながるような高度感覚が素晴らしい

それでパリの街を歩いていたりすると、ふっと東京は新大塚のあの天に登る階段がみたくなる。もちろんプライベートな領域であるから私がそこにのぼることはないのであるが階段というのは実際に使用するよりかそれを眺めていろいろ想像するするほうが楽しいのだろう。

そういえばこの近くの雑司ヶ谷に世界で1番きけんな階段というのがあってこれはハパブリックなものだからその住宅地の間にちょうど水の流れ落ちる滝のように作られた急な13段ほどの石段を昇り降りして楽しんだこともあった。

残念ながらここは数年前に改装されて今では危険度の高い普通の階段になっているのが残念だ。

2016年10月 9日 (日)

足立区関原3丁目のメッサーシュミット

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メッサーシュミットというドイツの戦闘機があることは知っていたがメッサーシュミットの200ccのまるででんでん虫の顔のような形の超小型バブルカーが同じ会社の製品であると言う事は知らなかった。 戦後のドイツのやむを得ず転向した平和産業と言う訳なのである。そこら辺が何かスバルの背景に似ているし戦艦ヤマトのレンジファインダーを作っていたのがニコンに方向変換したと言うのにも似ている。 BMWにもやはりバブルカーがあってこれは私にとって印象深いのはヴェンダースのリスボン物語で疾走した映画監督がリスボンの裏町の空き地でこのBMWの中にヒキコモっているシーンが忘れられないからである。 一方でこの前後タンデム座席のバブルカーには、そのスタイルから見てもあまり引きこもりがしやすいような環境では無い。 この車は私がウイーンに住んでいた当時ではまた現役モデルであって、老夫婦がこの車に前と後ろの2人乗りで走っていたことを思い出す。 似たような車は確か東ヨーロッパのチェコあたりでも生産されていたはずだ。しかしそーゆー大昔のバブル家の記憶が完全に頭の深いとこに格納された後で、足立区関原3丁目の角曲がったらそこにこの黄色いメッサーシュミットが停車していたのである。 この国は動態保存をしたがるのが日本人の常であるがすでにモニュメントとかしているのであるから、動かなくてもかまわない。単にそこにオブジェとして存在しているだけで充分にありがたいのである。 逆にそこら辺をちょこまか走り回られては今どこにいるのかわからないから迷惑である。 関原3丁目商店街の幻の名物に関原3丁目商店街のバイクというのがあった。私はハノイから戻ってこれを商店街で見たので非常に驚いた。 普通の型遅れのラウドスピーカーが前と後ろに付いていてそれで宣伝文句を流しながらあんまり早くない速度で走りまわるのである。 例の寂しいライオンの銅像のある前の道でその広報のオートバイに出会った。 反射的に私は撮影していてそのバイクの後ろ姿を撮影することができた。 ついでにバイクのライダーに話が聞いてみたくなって追いかけたのであるが、60代の私の走る速度とゆっくり走っているそば屋の出前のカブとは所詮速度が違う。 私はどんどん距離をはなされて広報班のバイクはずっとの交番と呉服店の間の道を右折してどっかに行ってしまった。 後で調べてみたらテレビ映画の月光仮面も乗っていたのは本田のカブであったそうな。 以来、五年近く関原3丁目商店街を徘徊しているのが、ラウドスピーカーを前と後に日本斜め刺しにした宣伝用バイクは見かけたことがない。古典芸能の継承者がいなくなるのは寂しいことだ。

2016年10月 8日 (土)

プラハ 敷石の博物学

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この展示が一体何を意味していたのかはわからないのである。ただプラハもウイーンもいわゆるマニエリスムの本場であるから、そういう人々の古い血液の中に流れている一種の分類癖というものが図らずも路上に展開し展示されたのだと、見るのが妥当な考え方であろう。

確か数年前にプラハの街を歩いてる時にこの展示に出会ったのだ。
それはプラハの中央駅からちょっと東に外れたところで小高い丘になっていて上にはボルシェビキの革命の記念碑などがある場所だ。地元の人間にはその場所の評価はあまり高くない。
言い換えれば自由とは反対側の方向に向かっている象徴的な、モニュメントが展示されているからだ。
その公園に行く途中にこの展示物があった。

石畳の急な坂を上っていくその縁石の上に、色も大きさも形も時代も違いそうなプラハの敷石が整然と分類され展示されているのである。
これが面白いのは単なる美術学生がーうすっぺらコンセプトで人を驚かせるパフォーマンスと言うのではなくて、その背景にプラハの敷石のことをよく知りつくした知識人が自分の研究成果を展示するためにここにそれぞれのサンプルを並べたと言うように受け取ることができる。

言い換えればプラハの人々の歩行を支えたり、車の運行を受け止めたり、路面電車の車輪の下敷きになったりしている通常のプラハの無名の石連が、ここではちゃんとそれぞれの個性として展示されていると言うところにある。

何か非常に博物学的な見地をそこに見るような気がした。
それは例えばウイーンの自然史博物館の2階の展示室で、既にないハプスブルグ家がコレクションした膨大な動物標本を見るような感じだった。

2016年10月 7日 (金)

大隅書店の大隅さんのおじさまがノーベル賞

私の本も出してくれている湖西の大隅書店の大隅さんのおじ様の大隅名誉教授が今年度のノーベル賞受賞者に選ばれた。
誠におめでたいことである。

大隅書店の大隅さんと私の出版の打ち合わせをした後に、ちょっとのみにいったときなど、大隅さんは例の地下出版のボソボソいった語り口で、実は前からおじがノーベル賞の候補になっているのですが、今年あたり決まるかもしれませんと話していた。
それで昨年のノーベル賞の発表の時は私は勘違いをして裏も取らずに速報をしてしまい慌てて記事を取り消したことがあった。苗字が一字違いだったので勘違いをしたのである。

その時聞いた話では大隅書店の大隅さんは大隅名誉教授に、今までの研究のお仕事のインタビューをしてそれを本にまとめるつもりであるのだが、そのインタビューをなかなか受けてもらえないとこぼしていた。しかしいくところまで行ったのだから、もうそのインタビューは完成であろう。
それで本も出版されて話題沸騰になるのは明らかなことである。

あまり詳しく聞いた事はないが大隅さんの家系と言うのは研究者や大学の先生やお医者様で占められているらしい。
なくなった吉村朗とのザルツブルグのワークショップでの出会いが私の場合場合最初であったのだが、吉村もその存在が何か研究者めいて、物事を一途に見つめて周囲の批判など全く気にしないようなところがあった。吉村が出した写真集をめくってそのことを考えている。

それにしてもおじさまがノーベル賞と言うのは一体どのような気持ちがするのであろうか、今度大隅書店の大隅さんに会ったら聞いてみたい。

ずいぶん前の事、雑誌中央公論の巻頭グラビアを担当していた時に京都賞の受賞者がノーベル財団であった。それで偶然の機会からノーベル財団の皆さんと立ち話をしたことがある。それは蹴上の都ホテルの中庭であってそこは枯山水を模しているので、ノーベル財団の中の1人の紳士が私にそのことを聞いてきたのであった。その時の諧謔とユーモア溢れる会話は今でも忘れない。

大隅書店の大隅さんのおじ様がノーベル賞受賞であるということと、ノーベル財団の紳士と雑談をしたと言うのが私のただ2つのノーベル賞関係の記憶であるが、それはそれで非常に光栄なことではないかと考えている。
そういえばなくなったツアイトサロンの石原悦郎さんが 30年以上保管してくれていた私のヨーロッパのパノラマ写真のビンテージプリントも来年大隅書店から刊行される予定だ。
これもありがたいことである。

2016年10月 6日 (木)

荒川土手行き

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初めて東京の都バスに乗ったのは、と言うよりも都バスから撮影する面白さに気がついたのは大学生の頃だから1,960年代だ。
その後は70年代はウイーン時代にもバスに乗り、80年代はニューヨークでバスに乗った。さらにリスボンとかパリで市バスに乗って街の周辺部まで勝手に運ばれていると言う楽しみを知った。

1,950年代の後半にロバートフランクがマンハッタンでバスの中から撮影をしてそれまでの通常のスナップショットとしての方法論を完全に覆してしまった。
これは凄い事であった。
その影響受けてバスの中からたくさんスナップショットをやった。
その一部は新書版の700ページを超える写真集「東京ニコン日記」に掲載されている。

都バスはもともと人間を運ぶのが目的であるから、私のように勝手に移動する車内から「芸術写真」を撮るなどは想定の外であろう。
実にに迷惑なことであると思う。

6年ほど前にデジタルカメラマガジン連載最終回に登場したのが市場の籠もってライカ持って都バスに乗るジイの私である。それが影響したかどうか知らないがバスの中からシュートすると言うのは結構一部には流行したのである。

最近またその都バスシューティングが復活してきた。東京都内のバスのほとんどの路線には乗車しているが1番好きなのはこれ、東京駅北口から御茶ノ水を経由して駒込病院を過ぎて荒川区を北に進み荒川を超えて荒川土手に至るコースである。

外国人のお客様が来たら是非このコースを案内しようと思っているのであるが、最近は外人の知り合いというのがいないのでまだ果たせていない。
実際問題として東京の経済的な断層そして人の暮らしを地域別にサンプル化して観察するにはこのバスはは最高のルートである。


1日都バスで乗車するときには500円の1日乗車券を必ず買うことにしている。700円の都営線全線が有効なパスもあるが、素人考えなら200円プラスして東映の交通ネットワークに全部乗れるほうが得だと思うかもしれないが、これは素人考えである。

広い範囲を旅行すると言うことを最初に考えてしまって、じっくりと見ることができないのである。都バスの窓から見るのが重要なのであって、地下鉄の階段を降りたり地下鉄の窓から真っ暗な闇をを見るのでは無い。だから一旦乗ったら日が暮れるまでバスに乗るのがこの場合は正しい。


2016年10月 5日 (水)

ファイブかセブンか ペトリ皿戦争

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往年のフィルムカメラと現在のデジタルカメラの性能を比べてフイルムカメラは駄目だったが、デジタルカメラが良いと言うのは間違っていると思う。

もともと別のメソッドであって比較にはならないのだ。
腕時計のことを考えてみればよい。
iPhoneに時計は入っているのに人々はバーゼルショーやジュネーブサロンに行って機械式のメカニカルウォッチにうつつをぬかしている。

時間を知るだけならそういう機械式ウォッチはいらないのだが、そこの無駄なところにテクノロジーと関わる人間の喜びがある。
デジタルカメラに対するアナログカメラというのはそういうスタンスである。

ニッポンペトリ党が結成をされて一ヶ月になる。
それで私の周辺にも党員が集まってきた。
大昔からの雑誌の決まりテーマであるが、やはりやりたいのは例えばここに2種類のペトリを取り上げてそのどちらが優れているかと言う100年競争である。

実際にはどちらでとっても全く同じなのであるが、そこで細かい性能を比べて旧型より新型のほうは1,000分の1秒のシャッターがついているから動体撮影に向いているとかつまらない理屈付けをする。まぁそれはディベートであるからそれでよしとしよう。

ペットリフレックスセブンはそのデザインがコンタレックスに似ているので中古市場だと結構価値がある。
要するに写真を撮る人間のそうありたいと思う欲の原型がそこに形成されているのだ。

それ以前のペトリカメラはこのように独特なスタイルをしていた。私はスタイルとしてはこのクラシックの方が好きだ。ちょうどライカがバルナックからMに移行していったようなものである。

ペトリペンタで何がチャーミングかと言うとペンタプリズムの絶頂感が素晴らしい。
ペンタプリズムのトップは鋭く尖っているし、そこに金色のアローが象嵌されているのだ。
その金色の矢の下には製造番号が刻印されている。こういう凝ったデザインの一眼レフと言うのを私は他に知らない。

ニッポンペトリ党ウラーーーー!!

2016年10月 4日 (火)

ハガキの裏のステートメント

PRAHA ・Chotoku
1985 ・2016

あたしの経歴でプラハ六区にアトリエがあったのは1989ー2014とあるが、これはビロード革命が起こって四半世紀が経過して記念行事があった年をそのまま引き写したのである。どんな革命でも四半世紀が過ぎればまず一段落というものだ。
実際にはその数年前からプラハに住んでいた。その話は文芸誌「新潮」に二年間連載され単行本「屋根裏プラハ」になった。

今回のギャラリーバウハウスの「プラハ年」はオーナーの小滝さんが昨年夏にプラハに滞在したことがシリーズ展の直接のきっかけになっている。
世界はミロスラフ・クベシュという哲学者の眼を持つ写真家を発見した。偉大な発見だ。今回の一年間の展示は彼の仕事が中核になっている。

今回、あたしは1985夏と今年の一月のプラハを展示する。1985にプラハは未曽有の市内大改築をした。敷石は掘り返されまるで内戦のような風景だった。その四年後のビロード革命などは予知するはずもなかったが、あたしは旧市街を何かの天啓を聴いたように撮影した。

尊敬するヨセフ・スデクの中庭のアトリエも主のないまま残っていた。スデクの庭と住まいは今回初めて展示される。
思えば1985のプラハは「変身の為の準備」をしていたのだ。

2016の冬は珍しい雪景色だった。
実はあたしの人生の時間割ではもうプラハにはゆかないつもりだった。あたしは二十代から七十近くまで深情けの悪女、プラハに深入りし過ぎたのである。
一月のプラハへの旅は小滝さんの勧めもあり実行したが、雪景色は過去三十年を回想するにぴったりだった。
革命当時、友人がハベル大統領の友達だったので丘の上の王宮の大統領府にいったこと。その大統領閣下をカフェで見かけたらどっかの大学教授みたいに見えたこと。ベラ・チャスラフスカさんにインタビューしたことなどなど忘れられない。

今回の「プラハ年」はあたしの「プラハ三十年」の終了宣言でもある。
あたしはもうプラハには行かない。
その理由は今ここには書きたくない。
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これが10月20日から始まるギャラリーバウハウスの案内ハガキの裏に書かれたステートメントである。
ハガキの裏に印刷すると言う意識はなかったのでやったら長い文章になってしまったが、これでもかなり削っているのである。

過去数十年にわたるプラハの思いを綴るとどうしても一千文字でもこんなことになってしまう。
私の周辺でも最近は老眼鏡を使う人が多くなったのでこの文字は虫眼鏡がないと見えないかもしれない。

ジョイスが虫眼鏡で細かい文献を見ているカラー写真が残っている。彼のカラー写真は珍しいが眼鏡をかけてさらに虫眼鏡を使っていると言うのはなかなかダンディーである。

しかしこれはジョイスだからダンディーなのであってわれわれは普通の高齢者である。それでハガキの裏を複写してここにアップした。
手元に虫眼鏡のない方はこちらをご覧いただきたい。Image


2016年10月 3日 (月)

コンタックスVsキエフ

Image_2

今回のギャラリーバウハウスで20日から開催する私のプラハの写真展の機材のことだ。
ライカm5とコンタックス1を持参した。
レンズは二本だけで戦前のテッサー2.8センチと同じく戦前のゾナー5センチである。

撮影を開始したらいきなりライカの巻き戻しクランクが壊れた。巻き戻しクランクが壊れると言うのは撮影ができないということである。
それでブラックコンタックスで撮影を開始したら2ー 3日してこれもシャッターの具合が悪くなった。
こういういい加減な機材選びができるのは、それがアサインメントではなくて自分の創造的な写真撮影だから許されるのである。

ウキウキした気持ちでプラハのフォトシュコダにキエフの中古を買いに行った。
キエフの中古が3台あって値段は同じであったがその中で1番新しいのを買った。実はキエフは古い方が好きなのだがこの場合実際の撮影に使うのだから新しい方が良いであろうと実用的な考えを持ったのである。
大雪のプラハで新しく手にしたキエフを使って撮影をした。そのキエフにはソ連製のレンズがついていたがそれははずしてわざと戦前のゾナーf 1.5を使った。
当時世界で最も高い鏡玉であった。

ところが数日撮影を続けているうちにその新しい古いキエフも巻き上げがおかしくなった。
フイルムで取り進んでいくと1本のロールの真ん中あたりで巻き上げがおかしくなってハーフサイズぐらいしかフィルムが進まなくなるようである。

それでまた元の通り戦前のブラックコンタックスを使い始めた。
不思議なことなのだがこれは自然治癒というやつである。

3台のカメラのうち3台とも具合が悪くなると言うのはプロ写真家としては失格であるが、とにかく使っているカメラが数十年前のライカとか第三帝国時代のコンタックスとか、信用のできないソ連製のカメラなのだからトラブルが起こるのは当然である。

ギャラリーバウハウスのディレクターの小瀧さんが心配をしてメールをくれた。
ちゃんと写っていますか、と言うのである。
全然信用されていないということがわかって苦笑してしまった。

それでもなんとかかんとかプリントを仕上げて今や展示する最終段階にある。
誠にありがたいことである。
Image_5


2016年10月 2日 (日)

ギャラリーバウハウスで水島さんのプラハのギャラリートーク

R0320165_2神田明神のトナリのギャラリーバウハウスで開催中の水島さんのプラハの展覧会のギャラリーツアーに参加した。

事前に主催者側から水島さんのトークがトラブルが起こったら手伝ってくれという風に言われていた。しかし実際は水島さんのキャリアはフリーアナウンサーなのであって2時間退屈もせずに楽しい話をしてくれた。彼女は写真も素晴らしいがトークの才能も凄いと言うこれはなんというのか言葉がワカラナイが文武両道というのかな。

水島さんの作品がいいと思うのは思いつきの短期滞在で撮影された作品ではないということだ。あたしモ含めて日本在住の写真家とかワナビー写真家志望者は思いつきで2週間ぐらい外国に行って慌てて写真を撮影して帰ってくる。それでいっぱしの先生になろうというのもひどい話である。

水島さんが愛用しているローライフレックスは東ドイツのカールツアイスのバイオメーター80ミリである。これはプラハの中古カメラ屋さんで買ったものなのだが非常にレアなので数年前、水島ファミリーに招待されたときにそのローライを見せられて私はびっくりした。ローライコレクターが慌てるようなレアなモデルなのだ。

写真家にはそれぞれの撮影の方法があるが、水島さんの場合は被写体が来るまで待ち伏せをするのである。あたしは気が短いからそういうことは絶対出来ない通りすがりの辻斬りが一般のやりかただ。

もう一つ面白いのはローライフレックスのフイルムは12枚であるが彼女の場合最後の12枚目にシャッターチャンスが訪れるということなのである。これはやはり人生についていると分析するべきなのだろうか?

写真展は10月15日まで。

2016年10月 1日 (土)

夏目漱石を探して

R0320128

数年ぶりに漱石が住んでいた新宿の奥に出向いた。漱石自身も書いているが明治のころここは非常に不便な場所で、家族で芝居見物に行くのに早朝から神田川までちょうちんを持って出てそこから神田川を下るのである。
芝居見物にしても大変な苦労であったようだ。

この山荘に漱石の弟子たちが集まって木曜会というのを開催した。
今では公園になっている。ここには私は30年以上行っているがいちばん初期の頃はすがれた感じでとてもよかった。それから10数年経過したら少し公園としての体裁が整ってきた。

前回この山荘に行ったのは2ー3年前であろうか。都営線の牛込柳町から北に歩いた。 この道が大好きである。一方通行のゆるゆるした坂を下っていくとこの先通り抜けできませんという表示がたびたび現れる。 そこをどんどん進んでいくと道はどんどん狭くなって最後には本当に狭い小路になってしまう。東京でこういう武蔵野の風情が残っているというところはもう少ないのではないか。

数年ぶりに行ったので途中で道をロストしてしまったがその理由がある。
おやこれはマンション建設かなと思った。

がっかりである。金属の塀は所々窓がつくられていて中を見ることができる。建物は基礎ができていて、ようやく一階ができている最中であった。
係りの人に聞いて嬉しいニュースがあった。 この建物はマンションではなくて夏目漱石記念館を建設中なのである。
夏目漱石がここに住み始めたのは明治の末の9月29日だった。すなわちいちにち違いではあるが漱石が住み始めた日に限りなく近い時にここを再訪できたのである。

これはいいニュースであった。しかしすでに千円札になるような「俗な偉人」であるから記念館ができたところでそこでマジメにベンキョウするという気にはならない。 私は半年ほど前に膨大な漱石全集をゴミ箱に捨てたばかりなのである。

漱石の人生で私が1番面白いのと思うのは彼がロンドンに留学していた時の日記である。下宿のおばさんがお前、トンネルという言葉を知っているかとか、ストローという文字が書けるかなどと色々秀才に聞いてきたというのが記憶に残っている。

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