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ロック ユー

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2016年9月30日 (金)

夏草やツワモノどもが、、、、、

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東京都バス大徘徊。
メトロは窓から外が見えない。
バスはちゃんと外が見える。
交通機関として面白いのは後者の方である。

ニッポンペトリ党も立ち上げたので久しぶりに足立区のペトリカメラの遺跡を訪ねようと思った。その近くは関原商店街もあるしあたしの大好きな小さな公園に1人でいらっしゃる、さむしいライオンも居る。

この界隈のこの場合バス停を言うのであるが、それは足立梅田町なのである。
このバスの終点は非常に風情があるものであって普通の細い道の突き当たりにいきなりかろうじて数台のバスがとまれるスペースがあってそこでバスはループ状に方向変換をして戻ってくるのだ。

周囲には何もないし最寄りの駅まではかなり歩かなければならない。似たようなバスの終点には東新小岩東4丁目と言うのもある。これも線の先の点でで止まっていてその周囲には何もない。それが都バスの終点の美学と言うものだ。

この終点、足立梅田町のバス停の路線の反対側が浅草寿町なのである。
この浅草寿町も非常に不便な停留所であって近くに何もない。1番近くのメトロは確か稲荷町か何かであった。だから足立梅田町に行くためにはこの系統のバスのどこかでつかまえて乗り換えなければならない。

今日はその方向空間感覚を間違えたので、まず都バスで亀戸まで行った。そこから日暮里駅行きのバスに乗ったのだが、乗り換え駅の西浅草3丁目と言うのにはヒットしなかった。これは私が老眼なのでバスの路線を見間違えているのである。

そのまま日暮里の駅に着いてしまったので日暮里のタワービルの3階にある駄菓子屋さんで植田のあんこ玉を買った。当たりくじのついている500円のではなく安いほうのやつにした。いつも乾燥させてカチカチにしてしまうからである。
そこから小台を経由して荒川を超えて扇橋方面に行くバス路線があった。
それに乗って荒川を超えて舎人ライナーと平行して走っているある駅で降りた。
大石記念病院のバス停があってそこは西新井駅に連絡しているのである。

そのバスでいったん西新井駅まで行ってそれからペトリの遺跡を徘徊した。

関原3丁目商店街にあるコロッケ屋でチキンステーキを買いその並びの酒屋でしかカップを二本買った。

私の目的はかのリスボン公園にあった。ここはリスボンに行く前やリスボンから帰ってきたときによく訪問していた。東京の一二を争う好きな公園なのだが、この春に何か新しい施設が立てられると言うので閉鎖になっていた。
それから7ヶ月も経過しているのだからさぞかし立派な施設ができただろうと期待して行った。草ぼうぼうである。
こういうのを豊洲状態と言うのであろうか。

近くお店の女将さんに聞いたら何でも工事が中断しているそうだ。
ちょっと拍子抜けでした。
それから今日の目的地である足立梅田バス停終点まで行った。
そこから町屋経由で西浅草3丁目を経由して浅草寿町まで戻った。
今言ったように浅草寿町は非常に不便なところにあるのでそこから徒歩20分ぐらいかけて隅田川を渡って東京スカイツリー駅入口のバス停から豊海水産埠頭行きのバスに乗った。

浅草の隅田川に架かる橋の上は外国人観光客でいっぱいで、まるでパリのポンヌッフのようである。異国情緒満点で面白かったが、ツーリストと言うやつは私も含めて安直な連中である。

あまり素敵な知的レベルとは関係ない方向に彼らの興味は向いている。しかしボードレールも言っているが、旅行と言うのは家に帰ってきて友人知人に自慢するために行くのだとある。
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2016年9月29日 (木)

秋を追っていかばや末は小松川

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ペンタックスM42期同窓会というのが設立された。Facebookの仲良しクラブなのでどんな変わった同好会でも1分で設立ができる。便利なものだ。

せっかく設立されたので何か役に立たないことをしようと思った。
ペンタックスのカメラにイエナの50ミリのテッサーをつけた。
1,950年頃のレンズである。

家の前からやってきた亀戸行きの都バスに飛び乗った。
東京スカイツリーを経由して亀戸に到着した。

そこをウロウロして今度は亀戸駅から上野公園行きのバスに乗った。この路線は今回初めて乗ったのだが上野桜木から谷中を経由して池之端に出るのである。それが面白い。

吉村朗がまだ元気だった頃に、上野桜木に良いおでん屋があるから行こうと誘われたことがある。
その吉村は昇天してしまって上野桜木のバス停の近くにそのおでん屋はまだ存在した。ただし営業しているかどうかは不明だ。

池之端7軒町のあたりにあった超高層タワーのホテルコジマと言うこれは有名建築家が設計したホテルであった。そこにも行こうと思っていたのにもう取り壊されて別のマンションが立っている。

上野公園から亀戸行きのバスで亀戸にいったん戻った。
夕暮れの亀戸駅に降り立ったら目の前に一之江経由の今井行きのバスが今発車しようとしているのでそれに飛び乗った。

1,980年頃ウイーンから戻って東京をうろうろしていた。
この新中川のはずれの今井のバスの終点にきて感激したことがあった。何か新劇の舞台のような感じがそこにあったのだ。

しかし今回見たら終点のバス停留所は都営住宅の1階にこじんまりと作られていて何の風情もなかった。それでそのまま戻りのバスに乗って亀戸まで行き、さらにそこから豊海水産埠頭行きのバスに乗って佃島に戻った。
芭蕉が憧れていた秋の小松川と言うのは一体どこあたりなのであろう。
江戸川の向こうの辺り一面が全部小松川なのである。

撮影二本。

2016年9月28日 (水)

東京都北区十条仲原3丁目4番地

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北区の十条仲原には私の好きなランドマークがたくさんある。これもその一つである。ここで問題にしているのはほとんど地上すれすれに置かれている住居表示の表示版のことだ。

なぜ表示版がこんな低いところに置かれているのかよくわからない。壊れて外れた表示板をそこに置いているというわけでもない。
と言うのは私がこれを発見してかなりの時間が経過しているが、表示版はいつもこの位置にちゃんと固定されて安定しているからだ。

それで考えるにこの表示版がなぜここに設定されているかと言うのは、通行中の犬とか猫のために場所を示していると言う以外にちょっと考え方がない。

これは理由のないことではなくてどこかドイツの地方都市の駅の自動券売機上で券売機の恐ろしく下の方からチケットが出てくると言うのがあった。
あちらでは犬や猫のような小動物はチケットを買えば同伴して乗ることができる。だからこれは犬や猫様のチケットを取り出す窓なのである。

それと同じようにこの界隈は犬猫が多いから犬や猫の皆さんのために表示版が設置されていると考えるのが自然である。
これはギネスブックに登録できるほどの地上にすれすれに設置された住居表示板なのである。

東京では不思議なものは他にもあって江戸川区江戸川1丁目界隈に設置されている表示板はアルミニュームの板ではなく段ボールもしくは厚紙で作られている。それがプラスチックでカバーされていて町の角に貼られているのだ。
これも謎である。

2016年9月27日 (火)

泪橋のボールト ナット屋

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東京の山谷もニューヨークのバワリーも以前は怖いところであった。
山谷のマンモス交番等はいつも地元の民衆に攻撃されていたりした。
その攻撃していた元気な青年そして中年が何十年経過すると老人になって静かになってしまった。
それで町は静かな秋の午後になる。

涙橋の交差点に酒屋があった。
客が店の外まで溢れていて路上に寝ている人がいるから交差点を通る時はその上をまたいで歩くというのは大げさだが、まさにそんな感じであった。

確か焼酎の測り売りで半分というのがあったと記憶している。
それはガラスのコップ半分だけ売ると言う意味だ。
難波の天王寺の立ち飲み屋に行ったらその伝統的な半分が残っていたのが非常に嬉しかった。要するにお客様本位なのである。
世界一と言う名の銘酒を売っていたので世界一酒場と呼んでいたと記憶するがあまり確かではない。
今は普通のコンビニになっている。

そこを交差点を渡った反対側白髭橋の方向に行く角から2軒目にこのボルトナット屋があった。
私が知ったときには既に閉店していたが、その看板がランドマークだったので、いつもこの界隈を歩いている時には、とりあえずあのボルトナット屋までと言うのが目的になっていた。
こういう味わいのあるランドマークと言うのは私などは楽天的だから永遠に存在するように勘違いをするのである。
それである日、ボルトナット家の看板を見に行ったらなくなっていた。
ある部分の私の時代がそこで終わったということを納得した。

山谷が変わったのはバックパッカーが多くなったことだ。そこら辺が今のニューヨークのローワーイーストサイドとも非常に似ている。
宿泊所のホテル太陽の糧物の脇にこれは私は見た事はないが、伝説的な屋台があったと言う。それは寿司屋の屋台なのである。
今の時点で考えれば冷蔵庫がないのでなんで寿司屋ができるのかと思うのは考え違いだ。その寿司を味わう機会がなかったのは残念だったと時折この界隈を歩行しているときに考える。

2016年9月26日 (月)

✴️おしらせ

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✴️おかげさまで1600万ページビューになりました。ご愛読ありがとうございます。

✴️田中長徳写真展 「PRAHA Chotoku 1985・2016」
10/20---11/26 ギャラリーバウハウス

アトリエをかまえ、約三十年の間プラハと深いかかわりを続けてきた作者の集大成ともいえる写真展。
最初に訪れた1975年夏と、最後に訪れた2016年冬の写真を展示。
作者のプラハとの決別宣言ともいえる写真展です。
ギャラリー・トーク
田中長徳プラハを語る
本展では一階展示室で1985年のプラハ、地下展示室では2016年冬に訪れたプラハの写真を展示。
写真展に伴い二度のギャラリー・トークを開催いたします。

【第一回】
始めて訪れた1975年のプラハの印象や当時の暮らしぶり、ビロード革命前後のプラハの街の変遷などについて語っていただきます。
日  時 / 2016年10月22日(土) 19:00~ (当日は18:00閉廊、18:30より受付開始)
参加費 / 2000円

【第ニ回】
最後に訪れた2016年1月の雪のプラハ。約三十年間アトリエをかまえ過ごしたプラハへの想いや、決別の理由まで、クラシック・カメラの話なども交えてお話いただきます。
日  時 / 2016年11月12日(土) 19:00~ (当日は18:00閉廊、18:30より受付開始)
参加費 / 2000円

mailもしくはお電話にて要予約。


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★チョートクカメラ日記 アクセス解析
女性読者の数が増加。ほぼ半々。世代はあたしの予想に反して若い人が多い。


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✴️来年の 2月と3月京都と東京で不穏なアート活動あり 。
「六区YOU」と申す。
ーーーーレコードジャケットは古いものだと思ったらそうではなくて新しいものらしい。
1970・私の青年の頃はレコジャ撮るのがが夢だった。リーフリードランダーがプラドスエット& tearsの
レコジャをとっていたのだ。老人になってようやく長年の私のレコジャの夢が実現した。
詳しくは左のリンク見てね。


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✴️今度の水曜日に配信。チョートクカメラ塾2016112

「皆さん写真とりすぎ撮影は1カ所ワンカットで良い」

ニッポンのレクタフレックス

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イタリア製の初期の35ミリ一眼レフカメラにレクタフレックスというのがある。ローマで作られた数少ない精密35ミリカメラである。
私はレクタフレックスのコレクターと言うのはおこがましいが製造台数の少ない、一説に60代台と言われるレクタフレックスローターと言う3本ターレットの特殊なカメラを二台所有している。だから一応レクタフレックスのコレクターの末席のその末には座ることができるであろう。

先週の土曜日にニッポンペトリ党の臨時党大会が党本部であった。党本部はアローカメラの会場と同一である。その臨時党大会が無事終了していろいろ話をして帰る時にこのレクタフレックスが目に入った。

これは日本製ので2フレックスなのである。大昔の記憶をたどると何十年か前に外国のカメラ雑誌のこぼれ話のコーナーでイタリアのレクタフレックスではなくて日本製の二眼レフの同じ名前のカメラがあるというコラムを記憶している。

あるいはその記事は例のレクタフレックスの専門のハードカバーの本に掲載されていたのかと思って後で調べてみたがその本には掲載されていなかった。

ウェブで検索してみるとに二代目さんもおっしゃっていたがこれはツバサフレックスと言う名前のカメラの海外向けバージョンであったようである。

スペックとしては当時人気だったリコーフレックスにすごく似ている。回転式のギアで噛み合うフォーカシングシステムでレンズは80ミリのエフ3.5というのも非常によく似ている。

当時、 リコーフレックスが大ヒットで他のメーカーがそれを真似していたという時代が彷仏とされる。

カメラは一応作動をするので写真がとれない事はないが、 購入したものはまさに人類の写真の歴史の文化遺産であるからそれで撮影しようなどと言う大それたことは考えない。

レンズのブランドをルーペで拡大して驚いた。なんとそのレンズブランドは写真術の基礎ダゲールと同じ名前なのである。

いやはや参った。
尊敬すべきであると思う。

2016年9月25日 (日)

ワインレッドのペトリ

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ペトリの一眼レフにワインレッドのスエードを貼ったものがこれである。もちろんこれはオリジナルではなくて誰か手先の器用な人が作ったのだ。

オリジナルの赤い革張りのカメラと言えばスイスのアルパがある。これは高級カメラだが仕上げが良すぎてちゃんとしたオリジナルにもかかわらず何か偽物っぽく見えるのはへんだ。

それに対してこのペトリのワインレッドの一眼レフは本物ではないが、存在感が非常に自然であると思う。

スウェードなので手によく馴染む。
知り合いの一級建築士が以前、スエードライカM2というハンドル名を名乗っていた。彼のライカは見たことがないがおそらくスエードが貼ってあるのだろう。
グッタペルカの革張りも悪くないが、ソフトなスエード貼りのカメラと言うのは手に対するときの感覚がかなり違ってくるのが面白い。

赤いカメラと言うと例えば赤瀬川原平さんが活動していた時期のハイレッドセンター等を思い出す。これは赤旗の赤である。だからワインレッドとはかなりその思想が違う。赤旗と言うと何か物騒な革命的な感じになるのであるが、ワインレッドは色相がちょっと変わっただけで大人の雰囲気と言うのも変だが、ゆったりした印象になるのが面白い。
それは撮影のときの気分をちょっとだけ和らげてくれるので、とても良いことだと思っている。

任意団体のニッポンペトリ党だと日の丸至上主義の右翼集団のように勘違いされてしまう。
しかし私が目指しているのは赤ワインをちょっと飲んでほろほろと歩くプラハの街角と言うのが本来の撮影の楽しみなのである。

アイランドギャラリーのプラハ展示もおかげさまで本日千秋楽。
感謝!

2016年9月24日 (土)

9/23下赤塚 ギャラリーバウハウス 大林

天候がどうもはっきりしない。

台風の後の台風一過と言う快晴の日が全然なくてくらいモノトーンの日々が続いている。そういう日はけっこう好きである。
メトロで有楽町線を北上して下赤塚まで行った。
下赤塚の駅は以前は営団下赤塚と言ったのだが最近では地下鉄下赤塚になっている。でも東武東上線の踏切の付近はいつも大混雑になっていて30年前と全く変わらない。そういう凝縮した風景はヨーロッパにはないので撮影する気になる。

持ってきたカメラはミノルタのV2である。
当時2,000分の1までの高速シャッターがついて話題になったカメラだ。駅前で350円の牛丼を食べてそのまま都心に戻って方向を転じて御茶ノ水に 行く。

ギャラリーバウハウスで開催中の水島さんのプラハのモノクロームの個展を見るためである。今回が2度目。昨日アイランドギャラリーで私はトークショーやって私が撮影したプラハのカラーの作品をずっと見ていたのでいささか視神経が疲れたのである。
それでモノクロームカラーの実際的な違いと言うのは何であるのかということが体験学習できた。

水島さんの作品でB1の最初に展示されているのがモルダウ川の川面にボートがあってそこに人が1人乗っている。ボートはゆっくり進んでいて微妙なさざ波が立っているのだ。それが実に不思議なモノクロームのプリントなのである。
ルーペを持ってきて細かく観察したのが興味津々であった。

館長の小滝さんがどうしているかを聞いたらなんと私の京橋のアイランドギャラリーでの展覧会を見るために今不在であると言う。ちょうど行き違いというのが何か滑稽でもあり真面目でもあり偶然でもあり良い感じだった。
10/1土曜日の夕刻に開催される水島さんのギャラリートークに申し込みをしてきた。

そこからメトロでさらに北に進んで千代田線で北千住まで行き、日比谷線で南千住に戻った。実にほぼ1年ぶりに大林に飲みに行った。名物の親父さんは健在であった。ここの泡盛は実に不思議なことなのだがうまい。それを2杯飲んで焼き海苔とか山かけとかつまんでまた南千住から日比谷線で茅場町までいって、そこから歩いて佃に戻った。

光は貧しかったがプラハの光とアルコールで幸せな午後であった。大林は見識のあるお店なので店内の撮影は禁止である。

それで本日は画像なし。

2016年9月23日 (金)

フォトンの正しい使い方

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ベル&ハウエルは映画撮影機の専門メーカーである。その映画撮影機は世界のマーケットを席巻していた。

その映画撮影機の専門メーカーが制作したこれは唯一のスチールカメラなのである。登場したのは1947年だから私が生まれた年だ。その価格は発売当時700ドルであったと言う。週休が35ドル位の時代の長100ドルだからこれは天文学的な値段である。それであまり売れなかったのでその数年後に価格は500ドルにしたそうだがやはりでなかなか売れなかった。

その名前をフォトンと言うのもすごい。光子、みつこではなく、こうしである。
1秒間にフルサイズで6枚上の撮影ができるので主に報道関係などに使われた。当時それだけのカメラは市場になかった。1秒に6枚以上の撮影ができると言うのはそれから実に30数年いやもっとか、経過したニコンF3まで存在しなかった。

私は今までに3台のフォトンを買ったが連続撮影などはしたことがない。もともと壱発必中のスナックシューターだから1秒間に6コマ等は不必要なのである。

私が生まれた時代1940年代後半のデザインは何と言うのかアールヌーボー崩れのデザインでそれが好きである。本体の茶色だかなんだかわからないような微妙な色相の仕上げが好きだ。

20年以上前の話だが、私が電車に乗っているときに偶然に向かいに家族連れがいた。いや家族のそのお父さんがフォトンを首からかけているのである。それも速写ケースに入っているので外見からはちょっとわからないフォトンなのである。こうい偶然がちょっとこの地球上で起こるとは思なかったので今だによく記憶している。
同じiPhoneが1つのメトロの車両を占拠するというのとはこれはかなりその確率は違うのだ。

その標準レンズはテーラーホブソンのクックがついている。このレンズはその絞りのストップに特徴があって普通の写真レンズはFストップで表示されているが、これはTストップで表示されている。
ここで説明がめんどくさいので省略するけど、要するに実際にレンズを通過するなりの強さを絞りの値に置き換えたものだ。これは映画撮影機など映画関係者が標準的に使う絞りの値であったがビデオになってたおそらく使われていないのではないかと思う。

スプリングモータードライブのスチルカメラと言うのは各社かなり苦労しているようだが、ベル&ハウエルの場合は最初からフイルムを連続的に進行させると言う映画撮影機のノーハウが生きているからその動作の安定性には定評がある。

2016年9月22日 (木)

レニングラード決死隊

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Facebookで新たにソ連製のスプリング式のモータードライブカメラレニングラードの愛好会を作った。単にレーニングラード愛好会では面白くないので、何か社会主義時代のソ連にふさわしい名前を考えようと思ってその団体の名前をレニングラード戦線とした。

スターリングラードもそうだがレニングラードも第二次大戦のときの攻防戦が非常に激しかった。実際にレニングラードつまり今のサンクトペテルブルグを取材に行ったことがあるが、最も激戦の所には巨大な兵士の戦闘モニュメントが作られている。
それは巨大なモニュメントですごい迫力だった。

それでレニングラード戦線である。思いついて佃の家から北に向かって歩き出した。
レニングラードを持っての撮影である。
そうなるとレニングラード戦線なのだから、かなり歳をとった老兵ではあるがそのミッションはレニングラード決死隊と言うことになる。

戦闘能力はかなり劣っているのは間違いがないが、何しろもうすぐ死ぬ体であるから死ぬことが怖くない。そこが決死隊の士気盛んなところである。

深川に出て富岡八幡宮から数ブロック東側の角を延々と北に向かって歩いた。これは非常にまっすぐ 北に向く通りなのであるが面白いことにコンビニとか食堂とかが一切ない。
商業と言うのは事前にマーケットをチェックして人がいないところには作らないというのがルールなのである。

それで通りに見るのは普通の住居とか小さな工場であって時々運河の上を立派な鉄の橋がかかっている。
思いがけなく地理学者も間宮林蔵のお墓に出くわした。それも不思議なのはお寺の境内のお墓ではなくて普通の家のサイズの敷地にいきなりお墓が立っているのだ。

両国の総武線のガードの下も潜ったがやはり食堂もコンビニも何もないのである。
そのままさらに延々と歩き続けた。撮影をしているから速度は速くは無い。佃を出てから3時間後に東京スカイツリーに出くわした。

東京は便利な所だというのは実は幻想であってルートを選ぶとほんとに途中で倒れそうな状況になるのである。
だからこれこそがレーニングラード決死隊の本領ということになる。

さらに歩行してスカイツリーの脇にある私がいつも暗室を借りているアウラしゃまで行って、今日は休みなのでそこの椅子に座って休憩して帰ってきた。

もちろん帰りはメトロ使った。

2016年9月21日 (水)

プラハで意識と無意識の限界を歩行する

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東京京橋のアイランドギャラリーの私の個展も中盤に入った。明日木曜日は午後3時から二回めのトークショーを開催する。

このプリントを買ってくれたのは20代の青年だそうである。非常にびっくりした。
この中に展示されている50点の作品の中で最も無意識の領域に近い部分で撮影されたのがこのショットであるからだ。

言い換えればプラハをさまよっていてほんの一瞬何かに惹かれたときに反射的に私の右の手の人差し指が動いているわけだ。
だから観光名所ではなくこれはプラハのどこにでもある路面電車の石畳の交差点の午後の光のレールの反射なのである。
それが好きになってこのプリントを購入したことがすごいと思う。

私のプリントを所蔵してくれる若い人に私が逆に覚醒させられていると言う感じなのである。
この不思議な現象は今に始まったことではなくて、つい先日も四谷のインディーギャラリーニエプスで私のプリントを買ってくれた若い人はやはり同じように私を目覚めさせたのである。

それは40年以上前のどこかの自動車教習所の横断歩道のショットなのだ。絵面が非常に悪いのでまさかこういう作品は売れないと思っていたら、それが売れたのであった。
このプラハの石畳の交差点の路面電車の クロスのポイントにも似たような要素がある。

プラハは歴史的な美しい街で私自身のそちらのほうに視神経がいってしまうのだが、一方で日曜生活に流れている私の時間と言うのは、こういうプラハの午後の斜めの光を横切って行きつけのビアホールにいっぱい飲みに行ったり、あるいはワインショップにワインを買いに行くと言うのが私の真実の時間なのだ。

もっともこの路面電車の石畳のショットにも捨てがたいところがあって、例えばこれは90度に交差しているレールの部分がよく映っているが、こんな複雑な構成物を作っているプラハの交通局はすごい仕事してると思う。

さらに不思議なのはドイツなどでは大抵路面電車はアスファルトやコンクリートの道の上にレールが敷かれているのであるが、プラハとかリスボンはその上を馬車が走っていた当時と同じ石畳なのである。そこら辺の皮膚感覚というのがやはりプラハは面白いなと思った。

でもそういうことよりも何よりも、私が非常に力づけられるのはこのような私が撮影するプラハ時間の意識と無意識のその境界線で仕事をしている、そういう視線を評価してくれる若い人なのだ。
これは非常に感謝しなければならない。

このプリントが売れたのは9月19日だそうだ。
まずは最高のあたしへの敬老の日のプレゼントと言うことだ。

2016年9月20日 (火)

9283

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東京は京橋のアイランドギャラリーで開催中の私のプラハの展覧会がある。これはプラハの市電の終点、これから出発しようとする電車のフロントを撮影したそのクローズアップだ。
見たところ何の変哲もない。ただ車体番号が9283なのである。

ギャラリーに行ったら偽ライカ愛好会の国や会長が先生、これいただきますという。
ああそうか番号は928なのかなと思った。
国谷さんはカメラやレンズの製造番号の刻印が928のコレクターである。だから私も気をつけているのであるが注意してみるとなかなかこの3桁の番号でもビンゴは少ない。千に対して1の確率ではあろう。
ところがこれは9283だから国谷さんと読める。
そうなると確率的には1万分の1ということになるのであろうか。

だから私も日常的に注意していて例えば我楽多屋さんに登場した中古カメラで末尾が928などがあるとうちの会長に連絡しておくのである。

しかし4桁というのは非常に珍しいので私もびっくりした。もちろん撮影の時に路面電車の車体番号等は全く注意を払ってないからこれは単なる偶然の産物なのであるがそういうコレクターもいるということなのである。

いつであったが国谷さんが東京のライカの会社に最新型のライカのデジタルカメラを買いに行った。その1台をカウンターで受け取る時にその番号の文字列がやはり928だった。これは凄いことである。
悪運が強いというか数字との出会いが奇跡的であると言うしか言いようがない。

私は別に鉄道ファンと言う事では無いがプラハの市電の終点が好きなのである。それはプラハの市電がループ色であるから、列車が終点でぐるりと円を描いてまたこちらに戻ってくるのだ。スイッチバック式は昔の東京の都電などがそうであったが方式として私はスイッチバックバックよりもループがすきだ。

それが永久運動に思えるのである。

だからこのワンショットは永久運動で動き続ける国谷さんと言うふうに翻訳することができる。

2016年9月19日 (月)

6月18日アイランドギャラリーのトークで分かった事

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東京京橋のアイランドギャラリーの私の個展の3日目。
例のごとくトークショーを午後3時から開催した。
昨年もカサブランカながら帰った直後に同じ日付でトークショーやっている。
さらに同じ日付で6年前に明治神宮の大きなホールで坂崎幸之助さんとゴスペラーズの酒井さんを招きしてやはりトークセッションをやったのを思い出した。

私が大阪芸大での講義は90分なのである。90分は話をしている方は一瞬だが聞くほうは大変な苦労だろう。それで今日は石島ディレクター、吉田店長と打ち合わせ をして1時間だけトークで残り時間は質問に当てた。
トークが私にとって重要なのは何が分かっていて何が分かっていないかということである。わかっている事はちゃんと話せるがわかっていないこともそれがわかっていないと言うことをちゃんと話せる。
だから別の言い方をするとトークの真実というのはその両方ではないと言うところにある。つまり私が話しをしなかった部分に真実があると言うことなのだ。
まぁここら辺は禅問答ですね。

今日も多数お買い上げがあったが、面白いのは買い上げてくださった方の前で私がその写真を撮ったときの状況説明をすると言うのは実に面白い。
要するにその写真を撮ったポイントで私が何を考えていたのかとかどういうアングルで苦労したのかということが表面的には全て忘れているのであるが、その作品を前にすると心理の深いところからいきなり浮上してくるのである。

トークショーは22日の午後2時からも開催します。

2016年9月18日 (日)

写真家は死んでからが本当の活動期に入る

普段はプラハとかパリとか東京の街をカメラを持ってふらふらしているのである。

それが9月16日と言う日には京橋のアイランドギャラリーで私の個展が始まったのでスケジュールが押せ押せになってなんと1日に五ヶ所の場所を回った。

老人が健康のためにギャラリーを1ダースも回ると言うのが流行っているようであるがスタンプラリーでは無いのだからそれはよくないと思う。

家で飼っていたザビートルズのガメ1号が9月の15日に昇天してがっくりしていたらFacebookで友人が9月の15日はプラハの巨匠ヨセフすスデクの命日であることを教えてくれた。それで気分が晴れた。Facebookの家のコガネムシの弔問は100人近くあってありがたい次第である。
金子光晴の詩集の中にコガネムシというのがあったな。

よく16日は午前11時に京橋のツアイトフォトサロンに石原逸郎さん追悼展の作品を納品に行った。
メトロで四谷三丁目まで行ったら雨が激しくなってきた。ここからは撮影なのである。でもアースダイブと言う言葉を10年ぶりに思い出して左門町から菅神社を経由して盆地に入った。

とんねるずが紹介した食物番組に登場の中華屋に入ってラーメン500円。私は野々宮とは違うからラーメンのピンポイント攻撃ではなくて行き当たりばったりにラーメンを食べる、東京ラーメンたりストなのである。
ラーメン原理主義。

大雨の中を信濃町の駅まで行って喫茶店で雨が過ぎるのを待った。
時間があるので神宮絵画館の家を見に行った。3年ぶりであった。エントランスまで行くのにマセラティの一大フェスティバルをやっているのでその中を通過して行くのが不思議な体験だった。

神宮外苑の庭園の中にある建物で東京アートブックフェアと言うのが開催されているのでそれを見に行った。タカザワケンジさんと赤城耕一さんが一緒になって作ったユニットの集団があって赤城さんが出した小さな写真集は写真家の顔をテーマにしている。

それをペラペラめくったら日本を代表する写真家の末席に私の顔写真も出ていた。末席と言うよりも最初が十文字美信さんで次が私である。ありがたいことだ。

そこで写真家をカウントしたら半数近くがすでに亡くなった方である。これは私にとって非常に重要なことで大阪芸術大学の写真作家論などでもいつも話しているのだが他の芸術家もそうであるがパフォーミングアート系でないビジュアル系のアーティストは死んでからが本番であると言うことだ。

赤城さんがそれを意識してこの冊子を出したかどうかは不明であるがなかなか面白いところを突いている。例えばロバートキャパ展で今日はロバートキャパが在廊していないと残念がるのは馬鹿である。写真家はいなくなってからが本番だということを再認識した。

アートブックフェアではTシャツで有名な那須さんとかワークショップ2bのさとる師匠を偽5プロで取材したのだがカメラの調子が悪くて何も写っていなかった。
写っているのは私が移動中のルイヴィトンのカバンの中なのである。だから真っ暗でゴソゴソ音ばかりしていた。やはり安いカメラは本番には弱い。

それから京橋のアイランドギャラリーに行ってお客さんといろいろ話をしたのも面白かった。本日9月18日は午後3時からアイランドギャラリーで私のトークイベントがある。入場無料参加自由であるので立ち見大歓迎。お待ちしています。
これが赤城さんの写真集。撮影は漂流者さん。Image


2016年9月17日 (土)

アイランドギャラリー初日

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多忙ないちにち。
京橋のアイランドギャラリーの初日。

その前に午前11時に京橋のツアイトフォトサロンに納品に行った。11月の石原悦郎さん追悼展のためのプリント。
雨降り出す。

四谷三丁目まで地下鉄で行きそこからアローカメラ方面にはいかず南の方向にアースダイブ。
須賀神社に至る。
若い連中がたくさん来ているので聞いてみたらこれはPokémon GOではなくて今流行している何とか言う映画の舞台にこの神社が出てくるそうだ。

そこから四谷のすり鉢型の地形の底まで行ったら雨がはげしくなる。
信濃町駅前の喫茶店で雨をやり過ごして神宮外苑の絵画館前に2年ぶりで行く。

絵画館に入るときにその手前でマセラティの会社の展示会をやっていた。その展示会場の中をぬけていくというのは実に効率が悪い。明治天皇の業績を誰もいない美術館の中で見て時間ちょうどに東京アートブックフェアに至る。

まずご自身のTシャツで有名な那須さんに遭遇する。それからワークショップ2bの師匠にお目にかかる。貴重なインタビューを二本5プロで撮った。後で見たら何も記憶されていない。ここら辺が安い機材は信用できない。

5時前に初日の京橋のアイランドギャラリーに到着。すでに多数のお買い上げまことにありがたい。来場者さんとプラハの話をする。

2016年9月16日 (金)

ミノルタV2のケースの犬の耳がデカイ件

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ミノルタV2。
このカメラも昭和30年代の製品である。当時は2,000分の1秒が使えると言うので話題になった。レンズシャッターは500分の1秒までの時代だから大変な宇宙時代だったわけだ。

このカメラの操作感覚というのは面白くて金内使用していると巻き上げレバーが指に痛かったりする。
使いにくいのだが一旦フイルムを装填すると実にバランスよく撮影が出ている。巻き上げも適度なトルクがあるし何よりも魅力的なのはフイルムをを巻き上げるときのパーフォレーションに噛み合う音がちゃんと確認できるのである。
こういうすごいテクニックはライカやコンタックスにもない。

先日は十条仲原あたりを撮影に行ってフイルムを二本持っていったが、あっという間にそれを撮り尽くししてしまった。
たくさん撮れるカメラが良いカメラとは言わないが、たくさん撮れるカメラは悪いカメラであるはずはない。

注目すべきはこのエバレデイケースなのである。30年代これは1,930年代ではなく昭和30年代のこと。あの当時のカメラケースはライカのそれでももうボロボロになったり、ストラップが切れたりしている。
ところがこのケースはそうでは無い。
真剣に作られているのである。

カメラケースとストラップをつなぐアイレット、俗ににわれわれは「犬の耳」と呼んでいるのだがそのサイズが尋常ではない。
おそらく世界で最大のネックストラップアイレットとしてギネスブックに出そうだ。

2016年9月15日 (木)

錦鯉とソ連製レンズ

歌人がNHKのラジオのすっぴんを聞いていてその話をしてくれた。
私がすっぴんを聞かないのは男性の俳優さんが自分は芝居命みたいな話をいつもしていてそれが実に退屈だからである。

でも番組の初めの方にはそういう専門家に対するインタビューがあるようでそれは面白いらしい。それで内容というのが錦鯉の話なのである。

錦鯉は何でも70年代に目白の田中角栄が下駄を履いて庭の立派な錦鯉に餌をやると言うあたりからブームが始まったらしい。
私の知り合いの駒込の人でその父上が錦鯉のコレクターと言うのか 、愛好家であった。
その錦鯉の愛好家のご子息は錦鯉の方には行かなくてカメラのコレクターになった。だからカメラはご先祖を大事にするために仏壇の下の格納庫に入っているらしい。これは噂話なので実際には見た事は無い。

その錦鯉の専門家のラジオの話で面白かったのは、500円の錦鯉でも一億円の錦鯉でもまず同じ価値を持っているという点である。言い換えると500円の錦鯉てもうまく育てればコンクールに入賞するような錦鯉になれるらしい。
錦鯉平等主義。

その話を聞いて私が思い出したのはソ連製レンズのことである。ソ連のレンズは高価なドイツ製のレンズのコピーであるわけだから悪かろうはずがない。それでも1,970年代には私がソ連製のジュピターを使っていると言うのでずいぶん差別されたものであった。人種差別ならぬレンズ差別。
ジュピター差別と言うのであろう。
それに反発してあらしはレンズ民権運動を起こした。ライカの高級レンズとソ連製のレンズを同じ条件でとって11 × 14インチのプリントにして専門家に見せたらだれもどちらがどっちなのか指摘ができなかった。それで私は自信を持ったのだった。

考えてみると1973年に始まって現在までの40年以上ソ連製そしてロシア製のレンズは実によく使っている。ニッコールやライカのレンズよりも多いくらいである。Image


2016年9月14日 (水)

ギャラリーバウハウスで水島さんのプラハ展を見る

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神田明神の脇のギャラリーバウハウスが今年は特別にプラハ年と言うことでプラハをテーマにした写真展を五回連続で開催している。9月13日からその第3弾として水島さんのプラハのモノクロ展示が始まった。
その次の第4弾が私のプラハの写真展なのである。それで初日に早速拝見に行った。水島さんはご主人のお仕事の関係で12年ほどプラハに滞在していらした。そのうちの10年ぐらいかけてこのモノクロームのプラハのシリーズを撮影した。

私が興味を示したのはモルダウの付近が非常に精密かつ美しいトーンで撮影されていることである。その行動範囲はそんなに広くないのだが、10年間プラハに日々を暮らした人の非常に複雑かつデリケートな眼差しがモノクロームのちょっと沈んだトーンの中に反映されている。

それが非常に美しい。
この個人的な足取りの範囲というのは実は愛犬の散歩の時に携えたカメラで撮影されたものなのだ。そのカメラは多岐にわたるが1番印象深いのはローライフレックスなのである。
彼女はライカの使い手でもあるのだがローライフレックスを始めとするスクエアな画面で撮影した1連のモルダウ川のショットには見るべきものがある。

数年前にモルダウ川河畔の瀟洒なアパートにお邪魔してお使いのカメラを見せていただいたことがあった。その中の1台がローライフレックスなのだがこれは西ドイツのツアイスのプラナーがついているのではなくて東ドイツのビオメターレンズが付いているのだ。
これはコレクターからすると垂涎の非常にレアな東ドイツのツアイスのレンズがついたローライフレックスなのである。

私がそれに感心していたら水島さんが言うにはそういう高級カメラではなくてもっと安いボックスカメラみたいなのでも撮影したと言うので私は非常に驚いた。

あたしのカメラ仲間の呑川さんはボックスカメラのコレクターであって驚くようなピントの良い写真を安いカメラで撮る名人であるのだが、いつだったかカメラクラブの例会で見せられた写真がやはり非常にシャープで聞いたらボックスカメラで撮影していたのだ。
その画質と言うのは8x10にプリントした限りでは私の持っているハッセルと変わらなかった。

水島さんの作品のトーンに私は非常にひかれたところがある。それはプラハの典型的な曇り日そして早朝とか夕暮れさらに雨の日とか日々の日のグルーミーなグレーの中に沈んだ、しかしその中に光が浮上してくると言う美学なのである。

もっとも水島さんはプラハに滞在していた時に高級な引伸し機フォコマートをウイーンのカメラ屋さんで手に入れたりしている。その高級引伸し機でプリントしたのだから優れたプリントであるとは言いながらギャラリーオーナーの小滝さんの指導で1年ほどかけてこのプリントを完成させたらしい。
魅惑のプリントなのである。
そのプリントのサイズが小さめに作られているということが新鮮に感じられた。
印画紙はチェコ製のFOMAであると言う。
1,970年代にFOMAと言うブランドは東ヨーロッパの安くて粗悪な印画紙と言う誤解が西側のマーケットではなされていた。

写真の巨匠ヨセフsudekはそのFOMAの期限切れの印画紙を安く手に入れてそれでプリントをしていたと言う神話も存在するほどである。
フォマの印画紙がいかにトーンがなめらかで優れているかの、これは実証の証拠と言う展覧会にも思える。
いい写真展を見たので帰りがけの曇り空の東京、そして隅田川を渡る時も何かあたしがまだプラハの曇った日を歩いているような気がして楽しかった。


gallery bauhaus 10周年記念『プラハ年』特別展  第三弾
Solitude やさしい孤独に包まれて
水島雅美写真展
会 期 / 2016年9月13(火)~2016年10月15日(土)
時 間 / 11:00~19:00


2016年9月13日 (火)

ニッポンペトリ党😘🎌奉祝家人生誕日

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Facebook上でペトリカメラの愛好グループを作ろうと思いついた。
これは単なる思いつきである。

ペトリと言うと私は何十年も前にその背景はわからないがペトリペンタと言う非常に初期の一眼レフを使ったことがあった。
ああ、今思い出した。それは高輪にあった高輪カメラで買ったのである。確か1,000円位だった。そのカメラを見てびっくりしたのはペトリペンタのファインダーである。Finderの視野の下のほうにペトリフレックスと言う英文の文字列が見えたのである。Finderの中でも常に今使っているカメラが確認できると言うこんな素晴らしいカメラがあるのかと感激した。
もちろんレンズも優秀でよく映った。さらにそのデザインがちょっと複雑で良い感じがあった。

これはペンタプリズム一眼レフの話してある。ペトリの一眼レフは最後には確か輸出専用だったと思うがフレックス7というのがあってこれは当時の世界の最高級機コンタレックスとそっくりさんであった。
コンタレックスとペトリフレックスを並べてみると国産カメラの方が軽いのではるかに使いやすいと言うのは皮肉な現象である。

ペトリは私の周りの話を聞いてみると50代の人がその父上が最初に買ったのがペトリの一眼で風だったりする。当時3万円台半ばだから決して安い買い物ではなかったがあの頃の最高級機のニコンの一眼レフはその倍近くしたのだからなかなかうまいマーケット戦略だったと思う。


ペトリにはその他に35ミリのレンジファインダカメラそして同じくコンパクトカメラがあった。我楽多屋の二代目さんは特に好きなのがペトレキャメラなのだがその中でカラー35とか言うローライ35に似たカメラにご執心である。これは本来は流通させなければいけないのだが、品物が来るとついついため込んでしまうそうである。
カメラ屋さんはもともとカメラ付きから発しているのであるからこういう退蔵品には私は好感が持てる。

グループはなるべく政治的な響きがあってしかも右翼っぽいのがいいと思ったのでニッポンペトリ党と命名した。我楽多や二代目をその総統に任命したのである。
マンハッタンの有名人船原長生さんペトリに興味を示した。この人はプロの映像作家であるからアマチュア向けの安いカメラ等に興味がないと思っていたのに意外な展開だった。それでチョーセイさん総書記に任命した。
布陣は完璧であるからこれで単独過半数がカメラ国会で取れるのは間違いではない。

秋山庄太郎先生が大昔ペトリカメラの広告に出演されていた。これも懐かしい。まだお若い頃の秋山先生である。
ニッポンペトリ党は平和ニッポンの歴史について深く思いをいたすことも重要であるが、それよりも実際にペトリで撮影をするということに我が党の方針の方針に置いている。食べて応援というような与党の姑息なやり方は我が党はやらない。

我が党はペトリを使うことをペトルーシュカというのである。これはソ連共産党時代の古い用語であるから日本語では「ペトル」という。
プラハをペトル、とか、いきなり濾胞の花に駆け寄って、ペトッタというふうに使う。

2016年9月12日 (月)

すぐに戻ります

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マンハッタンの風物詩といえば例の地上にスチームが煙突で吹き出しているところであろう。これは1番人気である。しかし私がマンハッタンを強烈に感じるのはこの写真のようなショットだ。

ティファニーのような大きなお店ではなくて1人で経営をしているお店には人間がいる。
店主がちょっとサンドイッチを買いに行く時などにこのようなカートンでできた時計に戻る予定時間を書いてエントランスに下げておく。

個人的なショップオーナーとカスタマのつながりと言うのに1種の人間の絆が感じられるのである。

私はカメラを買うのはオンラインで済ましているが、唯一の例外が四谷のアローカメラの我楽多屋さんだ。我楽多屋さんの二代目は商売熱心だから開店から閉店までお店でがんばっているのであろうがこれをシステムにすればカートンでできた時計をエントランスにぶら下げればちょっとお弁当買いに行くこともできる。
それでここに行くような人はそれで怒る事はなくてまたちゃんと戻ってくるのである。

この時計はニューヨーク土産として私は最も欲しいものであった。しかしどこで売っているのかはわからない。だからこうやって写真を撮ってそれを記念としてもって帰ってくるのがやはり1番良いのかもしれない。
しかもこの時計は写真になるとその存在感が際立つのである。その理由は時計の形をしたオブジェであるせいだろう。この時計に対抗できるのは東松照明さんの名作「11時02分Nagasaki」の針のとれた時計である。

2016年9月11日 (日)

羽田空港の裏手でエンジントラブル

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東京は大田区のずっと東、つまり羽田空港と水路を隔てたすぐ西側というのは私には未知の領域である。

交通機関は大田区と言うのはなかなか便利ではなくて、主要な電車も走っていない。だから都心であるにもかかわらずこの界隈は歩いてると、結構小型乗用車を持っている家が多い。それと自転車も数多く見られる。自転車が主要な交通手段になっているのである。
京浜急行の梅屋敷駅から産業道路を越えてずっと東に歩行して、途中で道に迷いながら結局羽田空港の手前まで行った。歩行していて面白いのは自転車美人がなかなか多いことだ。
これなどはジジイの視神経の楽しみである。

以前地元民ののみかわさんに教えてもらった、非常に高いところに設置してある飲み物の自販機を撮影に行き、そのまま産業道路を越えて東に進んだのである。

海老取り川の流れに沿って歩いて橋を越えが高速道路の下で 3本めのモノクロフイルムを交換した。カメラはライカm2である。
フィルムを交換して数カット撮影したら、またいつもの事故が起こった。
エンジントラブルである。巻き上げができないしシャッターも押せない。
ライカを航空機に例えるのならばこれは重大なアクシデントだ。
早速メイデイを発信して修理にかかった。
フイルムをぬいてレンズを外して布幕のシャッターを指でチョメチョメするのである。
これで一発で治るのだから私の指はマジックフィンガーである。

この事故は3年から5年一度起こるのであってライカのm形だとこのやり方でほぼ直すことができる。もっともこの1月に起こった事故では結局治らなくて修理をしてもらった。
m2は何十年も使っているので体が慣れているのだ。 21ミリのレンズをつけているがもちろんファインダー等は覗かなくて全部ノーファインダーで撮影している。

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2016年9月10日 (土)

十条仲原カラフルな街

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この数年来東京北区の十条仲原商店街を歩くのが楽しみである。

ここに行くのはJRの10条駅から1番近いがそれでは面白くないので、東京メトロの赤羽岩淵駅から歩き出して南に歩行して急な崖を上って環七を超えるとそこが十条仲原商店街がある。
ここで売っているうなぎのかば焼きは安くてなかなかうまい。ただし火曜日が定休日なのである。その定休日にはシャッターが閉まっていてその前に漬物屋さんが店を出すと言ううまい共存関係になっている。

その先の肉屋さんのハンバーグ弁当等はハンバーグが結構歯ごたえがあって時々食べたくなる。地元の買い物スタンプがあるのでそれを集めるのも楽しみである。

買い物通りの環七に近い部分にこの春に便利屋さんの手作りの看板が実に前衛劇の舞台のようで良かった。ところが所轄の警察の張り紙1枚つまり何とか違反になるからすぐ撤去しなさいと言うので数日後にはなくなってしまった。それが残念である。

買い物通りからかなり奥に入った住宅街の真っ只中に中華屋さんがあるのも面白い。それを目当てにこの界隈に行くこともあるが定休日がよく理解できていないのでいくとお店は閉まっている。要するに私は新参者なのでまだ勉強不足なのだ。

これらの画像はデジタルではなくカラーネガで撮影したものだ。この春に撮影したものであってカメラの種類はわからない。レンズはおそらくイエナのビオゴン3.5センチだと思う。

2016年9月 9日 (金)

まんはったんをバスで

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マンハッタンのブリーカーストリートのギャラリーで写真フェスティバル「宝船」が始まった。現地からの電送写真によればオープニングは大盛況のようであった。

私も極東にじっとしていられないので、何かためになることをやろうと思った。それで思い出すのはロバートフランクが1,950年代後半に撮影した有名なシリーズ、ニューヨークをバスから撮ったあの作品である。
あのバスからの作品に気がついたのは私には60年代の後半であったから、私は写真家としては結構早熟であったわけだ。

その時は文京区の音羽の停留所からバスに乗って東京駅北口まで旅をした。
雪の日であってそのシリーズは私の新書版の分厚い写真集「東京ニコン日記」にも1部が掲載されている。

ここがポイントなのであるが別にフランクを真似してニューヨークで撮る必要は全くない。それでも私がニューヨークに滞在していた1983年にはやはり名所旧跡を尋ねると言う意味で、ファーストアベニューから2ブロックずつ停車するバスでサウスブロンクスのグランドコンコースまで行った。
大変な道のりであった。
途中でドライバーが交代するので終点から終点まで乗った人間は結局私私1人なのである。

今回は「ブリーカーストリート宝船フェスティバル」の初日でもあるし何か記念になることをしようと思って、我楽多屋さんに行った後に曙橋からいきなり練馬車庫行きのバスに飛び乗った。これだけで日常生活から非日常にジャンプできるのだから、私などは安上がりで大変良い。合計13時間飛行機に乗らなくてもちゃんと違う次元にジャンプできる。

不思議だったのは木曜日の午後と言うのに目白通りがまるで戒厳令があるかのように交通量が異常にに少なくてGLAYのまんはったんはではなく、目白通りの路面がちゃんと見えたことである。
それが良かった。

終点のブロンクスグランドコンコースではなくて練馬車庫前まで乗ってそこのコンビニで消費税込み59円のミネラルウォーターを手にして、また新宿駅西口行きのバスに飛び乗った。

地下鉄は別に日常から非日常生活にジャンプするという感じはしないが、バスにはそのような不思議なパワーがある。
新宿駅西口行きのバスの帰りの旅では新宿まで行くのが面倒なので、牛込柳町で下車し売り場が非常に深い不思議なスーパーで煮込みハンバーグを買って大江戸線で戻った。
佃に戻ったら家人がちょうど煮込みハンバーグが食べたかったと言っていたので、これも1種のバスの魔法かもしれない。

カメラは相変わらずにライカでレンズは21でモノクロフィルムを二本撮影した。結局機材としては半世紀前といささかの進歩もないと言うことだ。
この進歩がないと言うのは実は大変なことなんではないかと、うすうす感じはじめている。

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2016年9月 8日 (木)

偽GOプロのタイムスタンプがずれている件

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アマゾンのトップページを開いたら5プロもどきが出ていたので買ったのが2週間ほど前である。
ハイビジョンと言う新時代の高解像のビデオカメラは1,980年代の終わりにwinに私が取材に行っていた時に、NHKのハイビジョンの撮影班がwinの世紀末建築を撮影していた。まず2トン車位の大きさの車に搭載されたカメラ本体があってそこからズルズル太くて長いケーブルを引っ張り出して大きなカメラを三脚につけて撮影するのである。
ハイビジョンであるのだからそのぐらいの重装備は仕方がないと私も考えていた。

それから20年ぐらい経過して私の家に取材に来たテレビ局のチームが持っているカメラが方載せ式でそれがハイビジョンであると聞いたときには非常に驚いた。
80年以上も前のフイルムカメラを使っている身としてはカメラの進化は日進月歩であるということをこれほど強く感じた事は無い。

それがハイビジョンがマッチ箱サイズでポケットに入るようになってしまったのだから驚くほかはない。しかもその値段が5,300円と言うのは世の中狂っているとしか思えない。

面白いのでビデオ日記をつけだした。それをアップすると大変な数の方が見て下さるので励みになる。

ところが画面のタイムスタンプが狂っていると言うので真面目な紳士淑女が私にそのことを知らせて下さるのだ。2016年の秋なのに私のタイムスタンプは2015年の冬なのである。カメラの値段も安くてくるっているがタイムスタンプも狂っていたことになる。

それを直そうと思って小さなカメラをあっちこっちひっくり返して、さらに小さな取扱説明書を見たのだがタイムスタンプを変更する方法が見当たらない。それは私の見方が悪いのであろうがそれが結果なのでとりあえずタイムスタンプは1年半前でそのまま使うことにした。

1970年当時のベストセラーのキャノンネットカメラが日付を写し込むことができるようになった。キャノンネットデートとか言うのである。当然自動で日付がつくのではなくて機械式にダイヤルを回して年月日を設定するのである。
天才アラーキーが早速その機構を悪用して自分のものにしてしまった。要するにアトランダムに勝手に年月日をつけてそれを画面に映しこむのである。

アラーキーほどのパンチ力はないが私もとりあえず5プロもどきでデートは1年半遅れと言うことにしておく。

2016年9月 7日 (水)

マンハッタンの宝船

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マンハッタンのSOHOに居候していたのは1,980年代だから大昔のことになるが、その場所がウスターストリートのノースエンドなのである。今ではSOHOも随分変わってしまっで有名なショップばかりが軒をを連ねているが、30年以上前はまだ新進のギャラリーでこれから頑張ると言う時代だった。
あたしのいた建物の一階にはバーバラグラッドストンがあった。

マンハッタンでは当時は一番話題の場所なので私がSOHOのロフトにいるときにアップタウンの大金持ちなどが様子を見に来たりした。

私がお世話になったロフトはSOHOの草分け的な存在の日本人画家の仕事場でそのアーティスト夫妻が日本に祇園祭を見物に行く時に留守番として私と家人が住んだのである。
これは貴重な体験であった。

目の前がウエストハウストンストリートでその北側はビレッジになるのであろう。通りを渡って北のそこの大きなスーパーに毎日買い物に行ったりしたが、そのスーパーの北がブリーカーストリートなのである。すなわち本日9月7日から1週間写真のフェスティバルを開催しているチューリッヒャーギャラリーのあるところだ。
ここら辺は私にとっていわゆるネイバーフッズなのでなかなか懐かしい。パリのin)(between galleryがここで1週間だけフォトフェスティバル をやるというのである。

これに私も参加しているが、この7月の東京のギャラリーニエプスで中藤受賞者が私の展示プリントをパリに持参して、その関係でこの12月にパリで東京をテーマにしたグループ展を開催することになった。それとは別に今回のフォトフェスティバルがマンハッタンで開催されるわけである。

全体のタイトルが宝船というのはなかなかすごいコピーの能力だと思う。
もっとも宝船は七福神であるからすでにメンバーが決まっているところに私が後から追いついて、船を戻せと言うことで宝船に便乗して無理矢理それに乗り込んで8人めの乗客になった。つまり七福神プラスワンである。もっとも東京の七福神巡りの中では差別化をさせるために八福神と言うのもあるからまず問題は無いであろう。
その意味で関係者の気遣いに大変感謝している。

写真展の会場はブリーカーストリートである。1970当時はまだグリニッジビレッジがメジャーであってて、SOHOはまだ存在しない時代だった。
ジョナスメカスが撮影したロバートフランクのショットにしても彼はショッピングバッグをたくさんぶら下げたホーボーのような格好で歩いていたのがブレイカーストリートではなかったか。

今回の写真展の案内でギャラリーのエントランスのドアが閉じられて、その前でブロンドの女の子が腰に手を当てて何かうんざりしているという感じが非常に良い。

中藤受賞者はこのフェスティバルのオープニングに馳せ参じるために昨日成田空港から離陸している。あたしの東京ニコン日記と、CHOTOKU@WORKをニューヨーカーに見せるために機内に持ち込んだようだ。重いのにご苦労様ですと言ったら、機内での楽しみがありますとの答え。
中藤受賞者の動きは本当の国際人と言うのであろう。

彼からのFacebookによればバワリーにホテルを取ったそうである。周りも30年以上前は剣吞で結構人がよらないようなところだったが時代は変わったと思う。

2016年9月 6日 (火)

dP PRAHA

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9月16日から京橋のアイランドギャラリーで開催される私の写真展の葉書が上がってきた。こうしてみるといつもながら嬉しい。写真展をやる気になるのである。
今は情報の告知ならすべてインターネットで用がたりいるわけであるが、1枚の葉書を手に取ると言うのは単なる情報の伝達と言うよりも別の意味の充実感がある。

でも私の昔のクラシックな思いこみによるものであることを間違いは無い。私と同年代の爺さん写真家などは行きつけのカメラ屋さんとか喫茶店などに行き、さも重大なことをお願いするような感じでバッグから自分の写真展の葉書を取り出したりする。これはお店にとっても迷惑なことであろう。このようなやり方をあたしは好まない。

それでも1枚の葉書が持っている存在感というのはいいものである。
今度の写真展は今年の冬に雪の多い寒いプラハの街を行ったり来たりしてシグマのデジタルカメラで撮影をしたものだ。例のあの格好が個性的な横長のデジタルカメラである。私はこれをニックネームで天使のハンマーと呼んでいる。

10月には神田明神の脇にあるギャラリーバウハウスで同じ時期に撮影したモノクロゼラチンシルバープリントを展示する。同じ時期に撮った写真とは思えないほどその内容が異なっているのは我ながら写真と言うのは不思議なものだと感心しているのである。

さてこのプラハの旧市庁舎の天文時計から教会を見たショットであるが、ここはプラハで最も有名な街角であってありとあらゆる絵描きがこのコーナーから絵をかいているのだ。だから写真術の発明以前からここは記録されているわけだ。

石島ディレクターの話ではこの画像をハガキに選んだのは吉田店長であると言う。通俗の写真なのであるが私にしてもプラハの最もプラハらしい1枚を選べと言われたらやはり躊躇なくこの写真を選ぶに違いない。
その意味で吉田店長のディレクションは正確かつ成功だと思う。

2016年9月 5日 (月)

和光市紀行2

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Image_7建築関係の仕事で世界中でずいぶんたくさんの集合住宅を撮影した経験がある。

そういう歴史的な建築はアサイメントとして面白いのだが個人的にはあまり興味がない。ここにですんでみたいと思いような場所ではないのだ。

それに対して例えばバルセロナのゴシック地区とかリスボンの丘の上の城壁の裏にある家などは年をとったら実際にそこに住んでみたいと思ったことがある。

実際には今がそのときなのでなかなかそういうわけにいかないのである。

周りがハワイに行ったりクアラルンプールに行ったり夏休みをとっているので私の夏休みを取りたいと思った。プラハにいったりパリに行ったりするのは仕事の愚痴であるからこれもおもしろくない。

考えてみれパリとかプラハよりも行っていないところがある。それは東武東上線の池袋からちょっと先のあたりの街並みである。

東京メトロのいちにち乗車券でいちばん遠くに行けるとこ。

それが和光市だ。

北口を歩いていいなと思ったのはそこらへんにひっそりと残っている住宅群であった。要するにこれは利休の南方録に書かれている茶室と同じことなのではないか。

さらに私が若い頃住んでいた練馬区大泉学園町2,207番地の記憶にもつながる。こういう建物でワタシが懐かしく思うのはどうもプロパンガスのボンベのようなのだ。外国のプロパンガスのボンベはもちろんスタイルとか色が違うのだが日本のそれは工業製品としての美的感覚を満足さしていると思う。

グレーに塗られてれているのだ。グレーに塗られた物品とか機材といえば2001年以降は飛行機のコックピットに立ち入れなくなってしまったので、もう見る機会はないが、コックピットのスロットルレバーがそういう灰色に塗られていた。しかも傷がついてそれがはがれて地金の金属が見えているのだ。

それが好きだった。

プロパンガスの存在は私にとってこれは変な言い方かもしれないが、アビエーションと共通の項目で認識しているのである。

知り合いの一級建築士で彼が最近住み始めたというのが彼自身の言葉によればドラエモンののび太の家であってそういうのが好きだという。彼は最近facebookに掲載する写真もよくなってどこかの小川に赤い花がポツポツ咲いていてそれがいい写真なので私はそれを褒めた。

そしたらその建築家の答えが面白くてそういう川端の地味な家に住んでみたいというのである。これが生活者としてのライフスタイルとしては非常に正しい。

パパブッシュの時代だから大昔だがテキサスを取材してあそこはガラス建築のビルディングの発祥地といわれているがそういうグラスオールの建物を作った建築家にインタビューことがある。その建築家の答えで面白かったのは自分が作ったグラスオールの建物に休みたくなくてごくごく普通のカントリーハウスに住みたいというのである。さらにインタビュが終わったときに話をしたけども白かったのは実は自分は建築家ではなく写真家になりたかったのだと言っていた。

写真家は食うや食わずの職業だからやめたほうがいいと申し上げた。

写真家に憧れる写真家以外の職業の人に片岡義男さんがいる。彼の小説の中のキャラクターというのは40代の写真家なのである。片岡さんは飛行機の雑誌の中などであり得もしない素敵な恋愛小説を書いたりするからそういう小説の主人公としては40代の写真家というのがキャラクターとしていいらしい。

その片岡さんは写真が非常に良いので実は写真家のほうでも有名になってしまっている。これも皮肉と言えないことはない。

 

2016年9月 4日 (日)

ペトリの広告塔と電線工事

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ペトリというカメラがあった。初心者向きのラインナップなのであるが、なかなか渋い35ミリ一眼レフととかコンパクトの35ミリカメラを製造していた。

当時、私も若かったから写真を始めた頃はペトリカメラをバカにしていたのであった。ライカやニコンをを使っているとペトリなどは最初から頭にはいらない。
ペトリの良さを初めて知ったのは30代も後半になってからである。
最初の一眼レフを中古屋さんで買ってファインダーを覗いてびっくりした。ファインダーの視野の下側にカメラの名前がちゃんと見えるようになっている。
そういうカメラは他には無い。

ペトリというブランドは写真撮影の面白さを知るようになってようやくわかるのである。だからペトリを馬鹿にする人はどうもカメラの本質が分かっていないようなところがある。

ペトリが最初に自分が手に入れたカメラであるというのは、私の周りに非常に多い。ニコンの2分の1位の値段で買えたのである。
秋山庄太郎さんが当時のこのカメラの広告に出ていらした。
また若い秋山さんである。そのコメントを見ると3万円位でこういうカメラができたのはまったく大したものだというようなことを言っていらっしゃる。。まさにその通りであって当時一眼レフと言うのは大変な価格であったのだ。

東京を撮影しているときに私の記憶に残っているのは新宿の東口の都電の終点にある巨大なこのカメラの広告塔であった。

写真を整理したらそれが出てきた。そのショットがこれなのだが私がスナップしたのは上海雑技団のような電線で空中にぶら下がってるお兄さんのほうに興味があったのだ。その背景にこのカメラの広告塔がたまたま写り込んでいたのである。

ペトリカメラ党というのが今設立されるであろう。
やはり総裁はアローカメラ二代目になるであろう。彼は昔からこのカメラこのブランドに対する信頼が非常に高い。
幹事長を選出するなら私がダークルームを借りているヒットオンの社長の林先輩がそうだ。林先輩は私の日大写真学科の先輩という意味であるが、最初に手にに入れたのがペトリnの一眼レフであったそうだ。
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2016年9月 3日 (土)

和光市紀行

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東京メトロの一日乗車券が10円安くなったのは最近のことである。しかも24時間の使用開始から24時間以内に入場すればいい。
ヨーロッパのメトロのシステムとにているがヨーロッパの場合は24時間経過するとそこで有効期限が切れてしまう。その意味で日本の地下鉄システムの方が親切である。

1日乗車券で1番遠いところというか東は西船橋で西は和光市である。それで三年ぶり和光市に出かけていった。プラハやパリなどよりも和光市の方が久しく行ってないのである。

東上線が開通した頃は駅名を 新倉と言ったそうである。その武器工場などになって、戦後アメリカ軍に取られた。それが返還されてその跡地に日本の工場が入ったりそしてさらに数十年が経過して大規模な都市開発が行われた。

当時は何でも北側の出口と言うのはなくて南口だけだったそうである。

3年前に来た時は駅の南側つまり新しい街をどんどん南に歩いて行った。そこでつまらなくなったのは日本のどこにでもある新しい街と変わらないのである。それで戻って駅の北口に出たらこちらはひなびていて私の好みであった。

駅の北口のスレートぶきの一軒家が気にいっていた。その家の向かい側に蕎麦屋のスタンドがあったのでそこでそばを食べた。ところが3年経って行ってみるとその蕎麦屋さんはすっかりなくなっていた。

北がわは道を1本入っただけで風景は私が高校時代の記憶にある赤塚とか新座とか成増などとほとんど同じ佇まいがある。そのまま進むと荒川にに出るはずである。
あまりの猛暑でそれはやめてまた駅に戻った。

2016年9月 2日 (金)

レクタフレックスにノリタの17ミリをつける

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レクタフレックスはイタリアのローマで作られた唯一の35ミリ一眼レフである。
1947年に最初のモデルが作られた。1,950年代の半ばまでアメリカでは日本の一眼レフが世界市場を席巻するまでは一眼レフと言えばこのレクタフレックスそして東ドイツ製のコンタックスsとエキザクタだった。

クラシックでなかなか良いカメラなので数台が手元にある。

特殊なバイオネットマウントなのであるがエム42つまりプラクチカマウントのアダプターがある。だからそこらにあるペンタックスのレンズが全部使える。

以前オランダのアムステルダムにオランダ製のレンズであるオールドデルフトを探しに行った。でもそれは発見できなくて、そのかわり運河のそばにあった小さなカメラ屋さんで発見したのがこれだった。ノリタの17ミリである。ノリタは知られていないブランドであるがOEMでかなりいろいろなものを作っている。1番有名なのはグラフレックスの中判カメラ用である。いやこれは本来のノリタと言う名前で製品を提供していた。
このレンズもエム 42なのでマウントアダプターでそのままでレクタフレックスにつけることができる。17ミリの超広角レンズと言うと吉村朗を思い出す。私の1980年のザルツブルグのワークショップで参加した受講者が吉村であった。
彼はミノルタの一眼レフに17ミリのレンズをつけていて撮影では
旧市街の中心部にあるゲトライデマルクトで通行中のおっさんを異常にクローズアップして撮影して顰蹙を買ったりしていた。
私はそれを見てあーこいつは写真ができるなと思った。
スナップのアプローチが半端ではないからだ。

あれから30数年が経過して今私は17ミリのレンズをレクタフレックスにつけてストリートスナップをやろうと思っているが、とても当時の吉村のようにモチーフに踏み込むことができない。
それが時間の流れと言うものであろう。

2016年9月 1日 (木)

北鎌倉 澁澤龍彦 邸 1969

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日本読書というのは60年代になかなか人気の左翼系の図書新聞だった。
記者の人と一緒に私は駆け出しのカメラマンで出かけていった。

初めて人物写真を撮影したのもこのときの貴重な体験である。
おかげで60年代の貴重な文化人の風貌に接することができた。

北鎌倉の澁澤龍彦さんの仕事場にお伺いした。当時は澁澤龍彦の作品はそんなに読んでいなかったらこの訪問で澁澤龍彦カラーが私についてしまったのだ。

インタビューが非常に長くなってしまったので一泊とめていただいた。偉大なフランス文学者はなかなか客あしらいの上手い人で我々にウイスキーをすめてくれた。
それでいい気持ちになったが、ご本人がウイスキーを飲んだのかどうかはよく記憶していない。

三島由紀夫とも親交のあった澁澤龍彦であるが、三島と澁澤龍彦には何か共通点がある。
今にして面白いのは初めて訪問した 1,960年代には立派な西洋館に思えたのである。
それから半世紀が経過して今これを眺めてみるとそのインテリはやはり日本人の欧州に対する憧れがそのように出ている。これは批判しているのでなく正しいフランス文学の美学が50年前にここに花開いたということなのだ。

70年代の澁澤の欧州旅行記など読んでいると面白い。三島由紀夫のヨーロッパ旅行もそうであるが当時はクレジットカードのない時代であるから三島はノートブックの最後に所持金の残金を細かく記録しているのである。これなども微笑ましい。

フランス文学の達人は彼の動向を読むとプラハにも来ている。しかかもその訪問先はHISの団体さんが行くような俗な場所なのである。でも大文学者もそういう退屈なヨーロッパ観光しなければならない。この事は今の時代から振り返ってみると何か痛々しい感じがする。

プラハのベルベデーレ宮殿の「歌う噴水」に観光した時、若い編集者の藤岡某にあった記述がある。その人は私がお世話になった出版社の社長の父上にある人であった。


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