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チョートクカメラ塾ブログ

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2016年8月31日 (水)

ニコンサロン1,969年8月31日 TODAY TOKYO 初日

08262016_15 08262016_168月31日日は夏の終わりというだけでなく、私には特別な意味がある。
銀座ニコンサロンで日大の学生として1番最初に個展を開催したのである。

こちらも初めての展覧会なんで結構やる気になって会場内に流すテープは東京の23区の田中という名前の人々の電話番号を読み上げるプログラムをつくった。葉書は大きな赤い文字でTODAY TOKYOというロゴを配置してその背景にはごく細かい片仮名の文字で私の東京に対する質問をを細かく打ち込んだ。

その中にあなたもトライエックスですかという一文があった。これは当時の同世代の連中から結構人気があってその年の東京芸大の芸術祭のパンフレットにそのまま引用引用されたりしたのである。___田中長徳氏に答えて自分もトライXだが、、うんぬんというのである。

思えば五十年前に使っていたのがトライエックスで今も同じものを使っているので進歩がない。カメラもライカでこれも全く進歩がない。

その1969年に撮影した東京のショットを半世紀経過して先週、押上の暗室でプリントしたのである。

リーフリードランダさんと話をした時に自分は撮影してすぐにプリントしない。まず一年は寝かしてからプリントすると言ってたが、撮影から半世紀も寝かしては寝かしすぎであろう。

これはソニービルのエントランスである。このおもいでの場所も壊されて公園になるらしい。

ライカでさっと撮影したので誰も気がつかないな。右の女の子は少なくとも70歳近くになっているはずである。

これが写真の面白さというか写真の怖さというか写真のミラクルということになるのであろう。

2016年8月30日 (火)

美豚

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家人からもう使わないと言うバッグをもらった。
これは1977年にパリの凱旋門近くの店で買ったものである。当時は日本にはこのメーカーの代理店はなかった。

これは私の趣味ではなくて当時のアサヒカメラの編集長の非常にダンディーな紳士がパリに行くついでがあったら買ってきてくれと言うのでいくつかの型番を私の教えたのである。その買い物したついでに自分用に1個買ってきた。

しかし私にはこういう高級なブランドが似合わないので、ライカを下げて自転車に乗って板橋の路地の奥を走っているとガラリとドアが開いて、「ちょっと新聞屋さん……」と言われたことも複数回あった。

その後このバックは家人の所有になってニューヨークに行ったときとか、winに行く時も使っていた。
20歳代から使っていて半世紀も経つと体力が低下してくるのは自然の摂理である。
このバッグが重く感じられるようになったのである。それで私のもとに戻って普段使うカメラバックにした。

このようにライカが1台ゴープロプロもどきが1台、小型三脚と黄色いお財布が入っている。
収納のスペースはあまりないのだがファスナーを開けたままにしておくとトートのように使えるのだ。そうするとかなりいろいろ格納できる。

問題なのはファスナーがYKKではなくフランスのローカルなものが付いているのでジッパーの滑りが悪いことだ。まぁ使い込んでいくうちに慣れるのであろう。

2016年8月29日 (月)

レクタフレックスの正しい使い方

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スタンダードな大きさのiPadと言うのは手に持って操作するにはちょっと大きすぎるではと思っている。初代のiPadができた時は友人の突撃体調がそれを斜めにして使えるイーゼルのようなものを作ってくれた。
それはそれでありがたいが持ち歩くのが面倒である。

それ以来ずっと四年近くiPad miniを使っていて今回第4世代のiPadを中古で買った。これがちょっと傷がついていると言うので13,000円。もちろん使いかっては非常に良い。

注意するべきは初代のiPadの頃はそれを両手に持ってiPadをよじることによってで両手を運動させるiPad体操というのをやっていた。
しかし第4世代のこの個体はいちど落下したことがあるので液晶が若干浮いているのである。
だから余分な力をかけてはいけない。
大体iPadを運動用具にしてはいけないのだ。

今iPadをどう使っているかというと本体を斜めにするのにレクタフレックスのボディーを使っている。

それには鵠沼のブレッソンが作ってくれた手縫いの豪華な革ケースがついている。
そのほうがiPadの背面の摩擦が良いのでこれが1番使いやすい。

仕事を開始するときはについているソ連製のレンズ58ミリを最初に外す。これはつアイスのビオターのコピーなのである。それで細かい作業をするときはそのレンズをルーペがわりにするのだ。作業が終わるとまた元通りにレンズをカメラ本体にねじ込んでおく。

iPadを斜めにする台とルーペなのであるが、その2つを組み合わせるとカメラになるというのは実に不思議だ。

2016年8月28日 (日)

ハッピーキッチン

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メトロの終点に興味があるのでこの春から赤羽岩渕駅で降りずっと南下して十条仲原の崖を登り十条仲原商店街を経由して、王子神谷の駅に行く。
これが基本ルートである。

その間は結構長いルートであるからそれぞれに魅力的なランドマークがある。
このハッピーキッチンは十条の駅のそばにあるのが初めて見たときには驚いた。

プラハにある珍しい建築様式の立体派建築に似ているのである。
仔細に観察してみるとお店のファサードに上がボリュームを持たせた装飾がなされているだけなのであるが、もともと建築様式は表面がどのように感じるかということを第一印象がその建築の属性のポイントになっているということがわかる。

こういう光景に出会ったときの私のカメラアングルも
と言うのはこれも何十年来の伝統芸能のようになっていてわざとカメラのアングルを傾けるのである。撮影中にそのような癖が長年にわたってできてしまったので、これは老人の歩き方の癖と言うのと結構似ているようなところがある。

19世紀末のパリをとり続けた写真家アジエが撮影した1連の建物のファサードがやはり似たような建築のファサードなのである。そういう世紀末の建築物と言うのはもう既にこの世には存在しないものが大部分なので、その視神経の記憶を媒介しているのはやはり写真家の仕事によるものなのである。

歴史的に著名な建築物と言うのは残る可能性が高いが、いやこの極東の日本ではそれすらもあっという間に存在しなくなってしまうが、その背景で写真家が撮影したこれらの名もなき建築物と言うのはやはり写真家の重要な時間軸の上の保存活動と言う事になるのであろう。

2016年8月27日 (土)

偽ゴープロを手に入れた

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ゴープロと言う小さなカメラの普及しているという事は知っていた。
私の周りでこれを最初に使い出したのはマンハッタンの舟原長生さんだと思う。

アマゾンで32gbのマイクロエスディーカードとカードリーダーを買った。そしたら中国製のゴープロもどきなアマゾンのトップに広告されていた。特別プライスがある。値段は3,500円のカードリーダー、カードの値段とほぼ同じである。

それで注文したら翌日の午前中にはアマゾンから送られてきた。こういうプロ用の特殊な目的の機材が考えられないような値段で売られているというのは価格破壊である。
実にありがたいことだ。

カメラはは到着したが同時に注文したマイクロエスディーカードは下のポストの投函になってしまうので下まで行くのがめんどくさい。
ダークルーム作業が押上のアウラ舎てあったのでちょっとそちらにつかまっていた。それで郵便ポストからメモリを取り出したのはその2日後であった。

バイシクルにつけたりヘルメットにつけたりいろいろな使い方ができる部品が20個ぐらいも付いている。これでパッケージのキットが3,300円というのがまず信じられない。

フィルムカメラ時代のアクションカメラで1番使われたのはアメリカが空中戦の記録に使っていたときの偵察カメラ🌟GSAPである。これは50フィートのマガジンが簡単に装填できるものであるが、撮影時間は1分ぐらいしかない。それをヘルメットにつけてパラシュートで降下したりなどしていたのだ。
しかし撮影時間が短いからなかなかシャッターチャンスが難しかったと思う。

早速テストしてみたらよく映る。これなら普通のデジタルビデオカメラは必要ないと思った。こういう価格のカメラがどんどん出てくるから価格破壊でカメラ産業はどんどん大波にやられてしまうわけだ。

1,980年代にwinで世紀末建築を撮影しているときに、NHKのハイビジョンカメラというのが取材に来ていた。冷凍車位の大きな車があってそこからケーブルを引っ張り出してそのケーブルについているのはハイビジョンカメラである。

だから車からケーブル全部でないと撮影ができない。
大変な進化というほかはない。

ただし、私の場合同時に80年前のライカで撮影をしているわけだか5、これは何と言うのか文武両道ではなくて、デジアナ両道ですね。

とりあえず9月にはアイランドギャラリーでのプラハのトークショー二度やるのでこれで収録をしてみようと思う。というのもやっつけの思いつきでトークをやっているのでその時に結構人の悪口とか面白い話をしているのである。
この偽ゴープロが私のトークをサポートしてくれるであろう。

2016年8月26日 (金)

花は一輪

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マンションの中庭の池はこの数年来手入れがされすぎて何も水生植物はなかった。マネージメントが交代したのであろうか。
最近はぼつぼつ水生植物が見られるようになった。

10年以上前にあった名前を知らない睡蓮の一種がなかなか良い感じであった。見事な睡蓮とか立派な蓮の花は嫌いであってみすぼらしいのが良い。

花はすがれたのがいい。

種田山頭火の日記を愛読しているが、そこら辺の野の花を1輪だけ取ってきて適当な器にさして自然と花との存在を楽しんでいる。
山頭火のそこら辺は好きなのだが、嫌いなのは彼があまりにも人間好きであるという点だ。人間好きと言うのは入が人生の第一であると考える人々である。私は稲垣タルホ直伝の非人間ラインを擁護しているのでまず人間よりも人のいない風景が好きだ。

しかもあたしは猫と同じで子供嫌いなので、自分の写真の中で子供が、これは学校の登下校のガキであるがそいつらへのカメラの角度距離というのは微妙な距離感がある。
人間よりももの、物より風景で、そして風景よりもその空間のアピアランスが好きなのだ。

花に駆け寄る人、と言うのは私の極めて否定的な短いフレーズであって、例えばワークショップで10人ほどで撮影に行くとその中に必ずいきなり路傍の花に駆け寄ってそれをクローズアップで撮る人がいるのである。表現の自由であるとは言いながらなかなか理解しがたい。
そういう人は花はクローズアップで撮るだけで周りの環境をうつさない。そして花の美しさを1人でも多くの人に理解してもらえれば、、、などと言っている。
これでは三流芸能人の記者会見だな。

花はその周辺の環境をうまく活かしてこそその花の存在感があると言うのがあたしの考えだ。だからロバートフランクとかリーフリードランダーとか東松照明の花が好きだが、アマチュアさんの撮る花のクローズアップが嫌いである。

中庭の蓮の端がいい具合にスタンドアローンでその周辺の空気がうまく映り込んでいると思う。花は多数ではなくて1つに限る。パリでモネの睡蓮の部屋の真ん中に座って、私はそこに三十秒も座っていることができなかった。
つまり「偉大な芸術」には最初から関係のない輩なのである。

2016年8月25日 (木)

偽アインシュタイン塔

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ベルリン近郊のポツダムにあるアインシュタイン塔を実際に見た人は少ないだろう。
奇妙な天文台のドームなのである。
しかも天文台の敷地の奥にあるから外からはその姿を見ることができない。
1979年の夏であったか北井一夫さんの手伝いでドイツ表現派建築の撮影をしてヨーロッパじゅうを旅したことがある。

ポツダムの天文台の入り口で来意を告げたら撮影許可が必要だと言う。
それでも敷地内を案内してもらって塔は見せてもらった。それから半年後だから翌年の2月ごろに雪の中を再訪した。ここら辺が取材と言う物の息の長さなのである。

アインシュタインはカメリア好きであってライカの特殊なモデルもライカ社からもらったりしているし、レンズ設計会社のハインツキルフィットは親友だった。アインシュタインの研究のコロナスペクトルグラフの超望遠カメラはキルフィットに設計を依頼している。
その青写真が私の手元にある。

アインシュタイン塔はあまりにも個性的な建築物であるが、東京の四谷の我楽多やの近所、自衛隊があるすぐ近くにアインシュタインに非常によく似た建築物があるので時々見に行く。
それがこれである。
ブラウンに塗られているが本物は白である。しかしその巻貝のような感じが非常に似ている。
仔細に観察すると何の事は無い。これは建物の外階段の螺旋状の部分を覆ったカバーなのである。

今更ですがカメラはキエフ。レンズはジュピター35mm。

2016年8月24日 (水)

冬景色

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これは1973年の冬のウイーンの光景である。実際にウイーンにに行ったのは73年5月11日、つまり初夏である。だから最初の雪はその歳の暮れか、あるいは翌年74年度始めということになる。

住んでいたアパートはドナウ運河のそば環状線の駅でフリーデンスブリュッケと言うところから歩いて5分位だった。ただしその駅はドナウ運河の西側にある。私の住まいは川を越えた東側だから必ずあるかなければならない。
そこで7年の年月をすごしたわけだが住み始めた頃はまだガス灯が遊歩道に残っていた。それが非常に時代を感じさせた。ただし実際にともっていたのではない。

当時のネガファイルを見るとだからアパートから最寄りの駅までは必然的にたくさん撮影している。これもそのうちのワンカットである。思うにカメラがソ連製のコンタックスでレンズは当然のことながらジュピター50ミリがついていた。
あちこちに書き古るしたことだがライカとキエフで同じ5センチのレンズをつけてそれを四つ切りに引き伸ばしたのをプロの写真家に見せたら彼はどちらがどっちかが全くわからなかった。その意味でソ連製レンズが非常に優秀である。ライカにつけていたレンズはズミクロンの50ミリだった。

当時は非常に寒くてマイナス二十度位まで行ったものであった。このようなみぞれ混じりの天候が実は1番寒いのである。雪が降ってしまうと体感的にはやや暖かく感じる。

当時の撮影はソ連製のレンズ50ミリそして35…28ミリであった。考えてみるとあれから40年以上経過したのに今でも使っているカメラはそしてレンズは全く同じでのである。
全く進歩がないと言えないこともない。

2016年8月23日 (火)

ニコンで気分だけ十九歳

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若い頃はニコンとニッコールのカタログの撮影を担当していたわけだ。私が手に入れた広角レンズは2.1センチのf4のやつでミラーアップしてレンズの後をカメラの中に突っ込むモデルである。
それはあまりにも時代遅れと言うので、レトロフォーカスの 20ミリのレンズが出た。

レンズの直径が72もあってなかなかカッコ良いレンズだった。当時のいわゆる20ミリのレンズはカールツアイスイエナ20ミリもそうだが第一面のレンズが非常に大きい。
それが光学レンズのダイナミズムと言うものであった。

winに住んでいた7年半の間に友人のカメラ好きがこのレンズを持っていたので借りて使ったこともある。あたしにとって超広角レンズはミラーアップして使うのが当たり前だからファインダーで直接見れるのは何か変な感じだった。
しかも歪曲があるのだ。当時の設定技術では陣笠型ののディストーションが出るのはこれはレンズの運命と言うものだった。

このレンズはレンズ構成が11枚。豪華版である。実に半世紀ぶりにこのレンズを手に入れた。若い頃に比べてこのレンズの描写はディストーションが少ないように思えたのは、私がレンズの収差にに対してぼけているというか優しくなっている星である。

早速使ってみた。
レンズがでかいからバランスが悪い。我楽多屋さんに行ってまず最初に72ミリの保護用のフィルターを買った。

その翌日にこのレンズで赤羽の撮影をしているときにネックストラップが具合が悪くなったのでまた我楽多屋さんに行ってニコンの黄色い幅広のストラップを買った。
さて帰ろうとするときにこの小型卓上三脚が目についたのである。

卓上三脚の脚の部分もちゃんと金属が使ってるのは凄い。高級感があるのでどこのブランドかと思ったらこれがヤシカなのであった。半世紀前にヤシカエレクトロ35と言う当時としては画期的な自動カメラがあってそれ用の卓上三脚なのである。

昔はライツの卓上三脚を使っていたのだが、あれは重過ぎるのである。だから取り回しが悪い。それに比べるとヤシカの卓上三脚は全体のバランスが取れているのでいいと思う。

2016年8月22日 (月)

コーワswの何が珍しいかと言うと

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コーワswは東京オリンピックの時に発売されたカメラであるから半世紀以上が経過している。今でこそ28ミリ月の専用35ミリカメラは珍しくないが、当時は35ミリの広角レンズをつけるのがワイドカメラの標準だったから実に画期的であった。

カメラ雑誌の広告で松田ニ三男さんがモノクロ見開きで広告写真を撮っていたが野球少年がグラブを広げているのを接近して撮影した不思議な写真であった。
要するに写真家も当時は「超広角28ミリ」の使い方がわからなかったものらしい。
ケプラー式の明るいファインダーを備えたスナップ撮影専用機である。

今まで20台以上のカメラを手にしていたがいつも共通の問題点があった。それはシャッターの2段オチなのである。
撮影しようかどうしようかと迷っている時に写真家はシャッターボタンを半分押してして待機するものである。ところがこのカメラは半分押すと巻上げが解除されてしまってとらないうちに巻き上げることができてしまうのだ。
これは非常に困る。だからこのカメラを使うときにはスナップ撮影では不用意にシャッターボタンに指をかけないというのがこの何十年も私のこのカメラの使い方の基本的なルーチンであった。

今回、手に入れた同じ形のカメラは最初にチェックしたときにシャッターの2段オチがないので非常にびっくりした。私が今まで手にしてきたすべてのこのカメラは二段落ちなのである。このカメラを使わなくなった理由というのがシャッターの2段オチだったからだ。

そのような理由で今度は20台目にしてようやく使えるような気持ちになってきた。

2016年8月21日 (日)

ベルリンの地下鉄の窓の風景

ベルリンの地下鉄の窓の風景Image

東西ベルリンのが一緒になってから四半世紀が経過したので当時の記憶を持っている人がだんだん少なくなってきた。私もベルリンの昔を知っている土地の古老の1人である。

西ベルリンと東ベルリンが複雑に入り混じっている当時は東ベルリンの領域を西ベルリンの地下鉄が通っていることがあった。当然敵対する異なる国であるから西ベルリンの地下鉄はその間は駅をスキップして停車はしない。
窓から見ていると東ドイツの警備兵がプラットホームに立っている 。私はその光景を見るのが好きだった。
フリードリヒシュトラーセから北にに行くいくつかの駅は東の領域なのでメトロが止まらずにいくつか駅を通り越して初めて西ベルリンに入った所で電車が止まるのである。その駅の名前をゲズントブルンネンといった。健康な泉と訳せるから皮肉である。

東西が一緒になってずいぶん時間が経ったが東西ベルリンの時代の地下鉄のことを知っている人は多くは無い。ここはベルリンの中心からほんのちょっと南に下ったところでグレイスドライエクというのである。有り体に言えば1種の荒地であって東西ベルリンの分断している頃は経済が疲弊しているからそうなっているのだと思っていたが、統一された後もここは草ボーボーの荒地である。逆にそこら辺にベルリンの都市開発のゆとりを感じさせる。

ベルリンの壁ができて50周年と言う時に取材に行ったのは数年前のことである。ベルリンのメトロがいたずらが多くてダイヤモンドカッターで窓などにはめちゃめちゃに落書きがされている。そこら辺のモラルはベルリンは結構低いのである。

ベルリン市当局はそれに対抗して面白い手をあみだした。ベルリンのブランデンブルグ門とかそういう有名な歴史的記念物をイラストにしたものをエングレービングしてメトロの窓ガラスに貼ってあるのだ。これだとかなり傷をつけても目立たないのでグッドアイデアである。いたずらの傷をベルリンの歴史的な記念物が吸収してしまうということになる。

例によってこれもライカエムスリーにスーパーアングロン21ミリのf4で撮影した。手元に残っていた数本のモノクロフィルムを持参してそれなりの仕事ができたのが面白い。持参するフィルムは最低限の本数に限る。

2016年8月20日 (土)

大雨の日にコニカの現場監督を持ち出す

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これはタフな防水カメラであって踏んづけても落下させても大丈夫である。

大昔の獨逸のライカの工場見学の時に案内してくれたおじさんが名物男で何が有名かと言うとライカの一眼レフを床に投げ出すのである。これだけ頑丈だというパフォーマンスであるが、もちろん精密機械であるか床に叩きつけたりはしない。

時代がもっと昔になると木村伊兵衛さんがライツの見学に行った時にM3にヘクトールの135ミリがついたのが天井から下がっていてそれにぶら下がったそうであった。もちろんレンズはカメラについて水平に保持されているのではない。いくらなんでも水平に保持されているレンズにぶら下がったら大変なストレスがかかる。
だからこの見学コースの実験現場はヘクトール135ミリが下に向けてぶら下がれるように設定されていたのである。
最近のライカテーマパークはカメラがデリケートにできているからまさかそういう展示物はないと思う。

カメラの防水機能の話に戻るが大昔クアラルンプールに取材に行った。JTBの仕事であった。車をチャーターしてクアラルンプール名物のスコールが来たらとってやろうと言うのでニコノスを二台用意した。ところがそのように用意してあると雨は降らない。

東洋最大のモスクというのがあってそれを取材したときにはライカを持ち出した。モスクに行く途中でいきなり天候が変わって大雨になった。結局私もライカもずぶ濡れ。

暑い盛りに東京を撮影した。
四谷三丁目で大雨になったので我楽多屋さんに避難した。しばらくいても雨を止まないので我楽多屋さんの出口の階段の所で iPhoneで高校野球を聞いていた。このやり方はまるでローワーイーストサイドのホーボーである。

雨が小止みになって都営新宿線に乗って東の終点まで行ったら雨は激しくなる。また電車で都心に戻ったら荒川を超えるところで大きな落雷があった。地下鉄の乗客は慣れていないので橋の上なので皆さん怖がっていた。
森下駅までいってそこから都バスの豊海水産埠頭行きに乗って月島に帰ってきた。結局コニカ現場監督はずぶ濡れになって私もずぶ濡れになった。
それが唯一の成果であって写真はあまりとれなかった

2016年8月19日 (金)

エドワードウエストンが撮影したクラシックコンタックス

エドワードウエストンが撮影したクラシックコンタックス
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ニューヨークはマンハッタンの怪人チョーセイさんがシェアしてくれた画像がこれである。戦前のブラックコンタックスを構えた男性が写っている。キャプションを見るとびっくりする。

これはエドワードウエストンが撮影したアンセルアダムスがコンタックスを構えたポートレートなのである。だから単なるカメラのプロモーション写真ではなくて、エドワードウエストンの作品ということになるであろう。たまたまモデルが往年の著名な写真家であったと言うだけだ。

私が持っているのはカメラを構えたアンセルアダムスのポートレートであるがこれは斜めから撮影しているのでその人がアダムスであったということがよくわかる。

アンドレアス ファイニンガーがとったライカを構えた男性の写真、これは真正面から撮影した有名な作品があるがあれはモデルの名前は分かっていない。
カメラを持った男の、言い換えればカメラと人間が一緒になって何かをやっていくということを示唆する名作であると思う。

アンセルアダムスと言うと大型カメラの専門家とわれわれは認識しているが、ニューヨーク近代美術館のコレクションを調べてみると数は少ないが35ミリで撮影された作品がコンタクトと一緒に残っている。
それは戦後かなり経過してからの撮影なので、戦前のコンタックスではなくて戦後のモダンなコンタレックスで撮影している。
面白いと思ったのは35ミリで撮影のアンセルアダムスの作品はありていに言えば、あんまり スナップは上手でないということである。
やはり写真家はフォーマットによって作品が決定されるということがわかって面白い。

2016年8月18日 (木)

去年のゴスペラーズがダウンロードできた

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ゴスペラーズの酒井さんと知り合ったのは67年前のことだ。ヒルズの仕事場でなんとなくラジオを聴いていたら東京タワーの上から実況放送している人がいる。

それで友達になった相手はゴスペラーズですと言うのであるが、そのゴスペラーズがなんだかわからない。早速ウィキペディアで調べたら有名なグループであることが判明した。
世間知らずだから20数年前でも私は坂崎さんに会っていながらアルフィーを知らなかったのである。

昨年の夏のギャラリーバウハウスの写真展で酒井さんは私の作品をお買い上げくださった。
それもありがたいのにさらにお祝いとか言うのでゴスペラーズの最新版のミュージックG
20をiTunesで送ってくれたのである。

大変にありがたいことだが、私のハードウェアはメモリがいつもいっぱいいっぱいでiTunesでダウンロードしようとするといつもエラーになってしまう。

あれから1年が経過して中古のiPadの第4世代を買ったのである。そしたらいきなり 1年前のゴスペラーズの曲がiPadの上で流出したので非常にびっくりした。

これは初めてのことではなくて去年のちょうど今頃暑い盛りに我楽多屋さんに行く近道を探そうと思って、新宿の奥の奥、余丁町あたりを徘徊してる時に私のポケットに入っているiPhoneからいきなりゴスペラーズが流出したことがあった。

どこか近くでゴスペラーズG10を聞いている家があるのかなと思ったら…歩くとゴスペラーズがあたしに追いついてくるのである。
私のiPhoneにはゴスペラーズのジー10と言う昔のヒット曲アルバムが入っている。それが尻ポケットに入ってる時に何かで稼働して勝手に音楽が流れだしたようである。ジーテンはいつも私が好きで聴くのは飛行機の乱気流の中で聞くのが好きなのである。

酒井さんとはロックなカメラ友達であってファン倶楽部が作っている機関誌で対談で呼んでいただいたこともあった。
誠にありがたい次第である。

G20も乱気流の中で聞こうと思っているがこれはヨーロッパ便でないとダメである。国内線はあまりにも飛行時間が短いからだ。

2016年8月17日 (水)

ハスの花に駆け寄る人

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マンションの中庭に池がある。
もともと石川島の造船所の上に作られた地形であるからその地面は実は駐車場の上、二階にあるのだ。

四半世紀以上この池を見て暮らしている。
以前は池に鴨がやってきたりしてなかなか面白かった。それが数年前に管理のマネージメントが変わったようでやったら池をを掃除するようになってしまった。
すぐに水を抜いてブラシで池の底のタイルを磨き上げている。そこに水を張るのだからたまらない。これでは野生動物は来ない。

最近はマネジメントはやり方が変わったようであって、水生植物を水の上に浮かすようになった。
これで少しは自然な感じの自然の風景になったので喜んでいる。

池の真ん中に茎の非常に長い蓮の花がある。
花がたくさん咲いているのではなくていつも1つだけである。
買い物の行き帰りにこの蓮の花を見たくてわざわざ遠回りをしているのは良いことだと思う。

しばらく蓮の花を観察した。
日本的感覚だと蓮の花は仏教くさくてあまり好きでは無い。私が考えているのはヨーロッパの古い池に見る蓮の花である。偽物のモネの庭と言う感じである。

モネの睡蓮はたくさんの花が咲いているが日本的な美学から言うとやはり花は1本だけが良いと思う。

思いついて持っているiPad miniで1枚だけ撮影をした。その理由は花にかけよる人と言うフレーズを思い出したからである。
ワークショップとか撮影会で複数人数で歩いているとその中にいきなり路傍の花に駆け寄ってクローズアップをする人がいる。
ストレートフォトグラフィーとかストリートグラフィーを半世紀やってきた私には理解ができない。
うちの近所でもよく見かけるがすみだ川の遊歩道で私のようにいい年をした爺が大型デジタル一眼レフでそれこそ必死になって花のクローズアップを撮影している。
そこら辺の犯行の動機と言うのは私は未だに不明なのである。

花の写真は写真芸術に目覚めた偉大な写真家が撮ると素晴らしい。ロバートフランクもそうだしリーフリードランダもそうである。でもそこには哲学的なスタンスがある。アマチュアの方が撮る花というのは端に花がクローズアップされているだけなのだ。
あれで面白いのかしら?

2016年8月16日 (火)

夏向きカメラでスペースカメラ

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白いカメラが涼しげで夏向きであるとか、エナメルホワイトのカメラはもっと涼しげであるとかばかを言っているわけであるが、究極の夏向きカメラと言うのはこういうホワイトというかアイボリーの仕上げであろう。

ミノルタα 8700iミールである。
前世紀にアメリカとソ連がまだ宇宙開発競争していた当時、ミール計画で秋山宇宙飛行士がコスモノーツとして使ったカメラである。
ホワイト仕上げであるのだがスペースカメラと言うのには仕上げが2種類あるようでニコンに代表されるようなマットブラック仕上げそしてこのミールホワイト仕上げである。

どちらが宇宙空間で有効なのかよくわからない。白と黒では性格が完全に反対だからである。
ミノルタのα8700上は仕事で前世紀によく使っていた。同じ種類のカメラを白と黒と持って区別していたのである。大学の1年後輩の直原洋二はもともと津田新一のアングラゼミ出身のストレートフォトグラファーである。

私の展覧会などに年一度ぐらい来るからそれで旧交を温めるが、感心なのは彼の持っているカメラはミノルタのα9なのである。
今の時代感覚から見るとカメラの背面に大型の液晶が付いているのでちょっとみると
とフルサイズのデジタル一眼レフを写真の下手なおじさんが持っているように見えるというのも、彼独特のカメラのフェイント攻撃といえよう。

それで彼の真似をしてまたオートフォーカスの一眼を使ってみようと思った。今の時代で考えてみるとフイルムを装填するカメラというのが逆に非常に新鮮である。
36枚撮影するとそれで一旦休憩になるというのが良い。さもないとデジタルカメラの場合撮影の区切りと言うものがつかないのである。
使っているのが80年前のライカであるからフイルムは手で巻くし距離は目測だし露光はヤマカンで設定するわけだ。そういう事は全部カメラまかせにして右手の人差し指を動かすだけで写真が撮れると言うのはこれは写真のオートメーションの究極と言うものであろう。

でも気をつけなければならないのはそういう写真撮影のオートメーション化は別に写真家の感性を飛躍的に高めてくれるというわけでは無いのだ。
ここら辺が重要ポイントですね。

2016年8月15日 (月)

マンハッタン2011年3月14日曇り

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東日本大震災が起こったのは金曜日であった。私はニューヨークに飛んで同じ日の夕方にマンハッタンに到着した。リムジンで32丁目のホテルエンパイアステートビルのすぐ側であるが、それは乗り合いリモであったのでマンハッタンを北から南までそれぞれのホテルに客をドロップしてゆくのである。私が1番最後の客だった。リモの中でイスラエルからついた青年蓮と雑談をしたのは面白かった。しかしホテルに着くまでには結局2時間以上かかった。

成田から都心まで2時間と言う事はあるであろうが、マンハッタンは小さいからこれはかなりの時間がかかっていることになる。
ホテルに荷物を置いて斜め向かいのグロッサリーでコーヒーとビールを買って部屋に戻ってシャワー浴びて最初の缶をあけたらTwitteで野の宮が書き込んでいた。地震が起きた。大きいぞ震度4かと言うのである。これが私の東日本大震災の最初の情報であった。震度4で大きいと言うのは理不尽であるが彼はそのように実体験したのであった。
眠れなかった。

私はマンハッタンのポートフォリオを作るつもりで1台のライカと11本のフイルムを持参していた。つまりマンハッタンイレブン。これがその時のポートフォリオのタイトルである。

持参したモノクロフィルムは仕事場をかき集めたらそれだけ出てきたのだ。その数年後に沢木耕太郎さんと対談したときに彼はロバートキャパの足跡を求めてコルドバに行った時に持参したフィルムはモノクロームが三本であった。それで2人で大笑いした。でも田中さんロバートキャパがスペイン戦戦で崩れ落ちる兵士を撮影した時に持っていったフイルムは全部で5本だったそうですよと沢木さんは言った。

最近ではトライエックスお大尽と言う人々がいて何100本のフイルムを所有しているのがじまんになっている。彼らはそれで安心しているのである。何百本のフイルムを撮影したのならプライドにもなるであろうが未撮影の何100本のフィルムではカメラ屋さんの倉庫を作っているのと同じことだ。


戦前のツアイスのビオゴン35ミリにアダプターを付けてライカにつけた。これはもともとコンタックスマントであるからひょっとしたらロバートキャパが使っていたレンズそのものであるかもしれないなどと思うのは夢があって良い。

5番街を57丁目まで行ってティファニーの前まで。そこで踵を返して6番街に入ってずっと降ってきた。横断歩道で待っていてとりとめもなく東京、これは日本のことであるを考えてる時に目の前に巨大なトレーラーが来て何か舞台のような舞台の書き割りのような感じになった。そしたらそこにイエローキャブが入ってきた。視神経の視野のほんのわずかのところにTOKYOと言う文字が認識された。不思議な偶然だった。
それをほとんど無意識のうちに撮影していたのだ。私が東京に関する思考を先鋭化するためにまるでマンハッタンの神様は私の視野の背景を巨大なトレーラートラックでおおってイエローキャブの東京と言う文字を浮き立たせてくれたということになるのかもしれない。

それが何の東京なのかわからないまま6年が経過した。それで今さっきルーペでイエローキャブの上の東京と言う文字を拡大してみた。それは航空会社が東京に毎日飛行機を運行しているという広告なのである。会社の名前は看板を見ている限りではわからなわからなかった。

マンハッタンと言うところはそういう不思議な年風景を構築してくれる場所なのである。それが魅力なのであろう。最後にマンハッタンに行ってからもう6年になるのだが手元に11本のフイルムがあるから今更マンハッタンに行く必要もない。その11本のモノクロフィルムで十分にマンハッタンを味わうことができるのだ。

2016年8月14日 (日)

カメラ小物入れの使い方

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四谷の荒木町のアローカメラ我楽多屋さんには第4土曜日にシドニーという通称カメラ寄席をやっているので月1には必ず行くことにしている。毎回面白い掘り出し物があるのだが、何もない時はこういったカメラの小物入れを買う。500円位だ。

最初にこれを買ったのはいわゆる手元に適当なストラップがないのでカメラストラップの代用にするつもりであった。カメラの本体にはリングをつけておいてストラップを交換すれば理論的には効率が良いわけだ。
そうやってこの10年近く撮影を続けてきた。というのも私は常にストラップ日照りであってまともなストラップを持っていないのである。
10年以上前に大昔のライツのストラップをアクセサリーメーカーに復刻してもらった。その時はギャラは要らないと言ってそのかわりにそのストラップを50本ぐらいもらったのである。それをなくしたわけではないが人にあげたりしてるうちについに手持ちは1本だけになってしまった。元の木阿弥である。

昨年の秋に6 × 9センチのスパーイコン他を手に入れた。その戦前モデルのオリジナルの皮ケースはケースの上に短いハンドストラップが付いているのである。これが意外と取り回しが良い。それでこのストラップはカメラの小物入れに短いのと長いのが2つ付いている。以前は長い方をつけただけであったが短いのもつけると持ち歩くときに非常に具合がよろしい。

このカメラの小物入れは他にも使い道がある。
何の事は無い、本来の小物入れとして使うのだ。
いつも出かけるときにあちこち携帯品を探し出すのが大変であった。アイフォン、キャッシュ、カード、家の鍵、保険証、目薬、等々である。それにサングラスも加わる。
以前はそれを部屋のあちこちで探すのはまず大変でそれだけで疲れてしまった。思いついて小物入れに全部を格納した。当たり前の事なのであろうが私にはそれが理解できなかった。その小物入れを一回り大きな黒いバックに入れるのである。落下したら困るから小物入れは外側のバックにストラップで繋いでやる。

近所にビールを買いに行く時などはその小物入れだけを黒いバッグから外して斜め掛けして買い物に行く。
これで私の老人生活は少しは機能的になった。

2016年8月13日 (土)

緑陰のロード

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撮影に行くときに使っているのは実はライカばかりではない。この半世紀を振り返って実際に街で写真を撮るときに使っているのは軽量小型の35ミリレンジファインダーカメラなのである。
その中でロードというカメラを1番長く使っている。

1970年の大阪の万国博に撮影に行った時もそのロードであった。労働、ロドン一号ですね。
かなり年季が入っているわけである。それで撮影した写真を1971年の東京は銀座のニコンサロンの個展で発表したりました。その労働はクローム仕上げであって長年ブラック仕上げの労働を探していただが最近はよくヤフオクなどで登場するようになった。だからブラックロードに関しては欲望は満たされているわけである。

東京の周辺を歩いていてひなびた印刷屋さんの看板を観察するのが好きである。これは西新井の辺りで見かけた印刷所の看板である。日本路地裏学会のMomoki会長などと東京を歩いているとき彼女はデザインに詳しくのでそういう手書きの看板を見て感心していた。
通常使っているMacのフォントとは比べ物にもならないような個性的なロゴがあると言う。。

こういう看板はこのように色彩が錆びているのは年季を感じさせて非常に良い。
看板灯木の原緑でカメラのケースが緑である。つまり緑陰である。
こういうのはワンショットしか撮影しない。私の時間軸と私が徘徊する世界線は一点で交差しているわけだから1枚の写真しか必要ないのだ。

足立区関原を徘徊していたら緑陰の看板の小さな印刷所のその隣の小さな町工場めいた家で、そこでは小さな船のおもちゃを作っていた。

これもつげ義春の世界のようでよかった。

2016年8月12日 (金)

傷だらけのiPadを買った

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3年ほど前にiPhoneでテザリングが初めてできるようになったときこれは便利だと思って手に入れた。同時にiPad miniも手に入れた。それでずっと仕事をしてきた。ところがiPad miniは容量が16ギガしかないので手狭になってきた。
それでオークションで中古のiPadの第4世代を手に入れた。そのオークションの説明で私が心をひかれたのは「傷だらけのiPad」と言うフレーズである。

ボロボロのiPadと言うのは何か格好が良いので入札した。現物が到着してびっくりしたのは、そのiPadはほとんど新品なのである。それでセラーに間違った商品を送ったのではないかと問い合わせた。後でよく組めるとそのセラーが角が当たっていると言うところをクローズアップしてオークションの写真に載せている。

それで送られてきたモデルが私が落札したものそのものであると言うことに気がついた。
こういうモダンなデバイスの程度を評価する人々と言うのは私のように80年前のライカやコンタックスをその程度を評価するクラシック人間とはだいぶ違うようである。
私の目には送られてきたiPadが新品に見えたからだ。でも考えてみればモダンなデバイスの命は短くてせいぜい3年である。
私のフイルムカメラは寿命が長くて100年を目指している。そこら辺がカメラと電子デバイスに関するタイムライン上の最大の認識の違いである。

iOSが新しくなったので便利かと思ったら結構めんどくさい。最初のiPad miniのかた遅れのアイOSの方が直感的に操作できる。iPadは普通の大きさと言うことで両手でホールドしていてはなかなか操作ができない 。
それで3年半使ったiPad miniも並行して使うことにしたのだがiPad miniの良さというのが逆に今回よく理解できた。第4世代のiPadがこれであるがデスクトップ上では何かにもたせかけないと作業がしにくい。それで手元にある適当なもので1番ぴったりしているのはレクタフレックスの皮ケース入りであることがわかった。
これは鵠沼のブレッソンと呼ばれる男の手縫いの皮ケースなのである。

2016年8月11日 (木)

アローカメラ二代目が撮影するストーリートフォトグラフィーの不思議

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写真家と言うのは因果な商売なもので自分の意思とは全く関係ないものを撮影させられることがある。もちろん生活のためである。アルフレッド シュテイグリッツも言うように本当の写真はアマチュアでなければとれないと言うところがある。

だから私も含めてプロ写真家と言うのは実は写真があまりうまくないのだ。それどころかわざと自分のレベルを落としてわかりやすくしているような写真家もいる。要するに私の嫌いなポピュリズムというやつだ。

だから風景が綺麗とか猫がかわいいとかお花が素晴らしいとか言うようなテーマ主義とは最初からあまりお付き合いをしたくないものだと思っている。

ここで数年来思っているのはアローカメラ二代目が撮る写真のことだ。彼の仕事は写真のカメラのほうの売買である。撮影のほうは趣味と言うわけで、しがらみとか義理がないから自分の思うようにとっている。
にだいめ野田の写真に気がついたのは数年前からだった。彼は港区の高層マンションに住んでいてそこからiPhoneでウォーターフロントに集う人々などを撮影していた。しかも双眼鏡の片側の接眼レンズに押し付けて撮影するのが何か秘密の組織がかろうじて撮影した秘密の証拠写真と言うリアリティがそこにはある。
このマンションの自分の部屋から見たシリーズと言うのはそのまま小さな写真集にしても良いと言うような優れものなのである。

野田はお台場から自転車通勤をしている。
しかも好みの自転車を取り替えて自分の走行を楽しんでいるような趣味人である。お台場から四谷のアローカメラに行く間にも撮影をしている。

ところが彼はなかなか口うるさい起業家であって警察官が交通違反をそのまま見逃したりすることに対して社会的な憤りをFacebookなどで上げている。それはそれで正義の味方だから別に悪い事は無い。

この通勤写真の中に時々きらりと光るようなものがある。たいていはサイクルコンピューターの温度を記録しているのでこれはあまり面白くない。野田には不思議な記録癖があるようで休みの日は東京のあらゆるメトロの駅を調査して、そのメトロの駅の海抜を記録するというのが彼の仕事なのだ。こういうのはコンセプチュアルアートでよくあることであるから別にそれほど評価しない。

私の評価するのは私と同じフィールドでやっているストリートフォトグラフィである。この写真は昨日のFacebookにアップされたのだが非常に良い。

画面上にいろいろな要素が分散しているのである。ここで主役になるのは画面中央からやや右にあるやせ衰えたようなというかまだ子供の街路樹だ。
脇役はその左でエントランスに顔が半分入って肖像権を守られている若い男性である。そしてその若い男性のシルエットはそのまま画面右上の赤信号の人間のフォルムと 二重露光されている。

さらに右手の手前にある運搬用の通い箱がブルーで男性のシャツが同系色なので、そこら辺が画面上に点在している色相の関連性を無意識のうちに感じるのが気持ちが良い。

一昨年であったかオリンパスの雑誌広告で冬のウィーンを撮影した私のショットがある。画面左側にドラマがありそうなおじさんがいて、画面右側に松葉杖大付いた青年が道を渡かけている。画面のあちらこちらに歩き、無関係ないモチーフが深層心理のレベルで深く融合している。野田の写真に同様な魅力を感じるのだ。
そういうところに写真の不思議な魅力があるのであって、画面の中心にクローズアップしたかわいい女の子がいてそれが流行のファッションで背景は代官山と言うのは全く興味は無いのだ。
野田の持っているまなざしは写真家のスタンダードな視神系のクオリティーとほぼ同等である。これは最高だと思う。
大学などで教えていてもだめな人は最初からダメなのである。私が写真教育不可論を唱えているというのはそのような背景なのである。Image_2


2016年8月10日 (水)

夏向きカメラ

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こう暑くなると黒いカメラを持つのは火傷しそうになる。
理想的なのは大昔ミノルタが作っていたソ連の宇宙計画に使われたオートフォーカスの白い一眼とか、さらに時代が降ればイルフォードが作っていた白いエナメルの35分にの広角レンズ付きのカメラ、アドボケートなどが好ましい。

アンセルアダムスは砂漠地帯とかそういう太陽の強い所で撮影をした写真家であった。だから彼の写真の本を読んでいると撮影機材は全部白くペイントした方が良いと書いてある。
カメラやレンズだけではなくてそれを運ぶハードケースも白くペイントしようとアンセルアダムスは書いている。
私の持っている16ミリのプロ用機材でもそういうのがある。それはミッチェルの16ミリカメラでアメリカの軍隊が使ったものだ。このカメラは全部が白くペイントされているのだ。要するに砂漠等で太陽が非常に強い所で使うために熱を吸収せずに反射するということなのである。

ところで宇宙カメラには2つの考え方があるようだ。
初期の例えば宇宙で使われるウォッチなどはハードケースに入っていてそのハードケースは白くペイントされていた。カメラ関連に対して言うならばミノルタが作ったスペースメーターと言うのも白にぬられているのである。
一方でニコン が作った宇宙カメラと言うのはどれも申し合わせたようにマットブラックなようだ。白と黒では大変な違いだが一体どちらが真実のスペースカメラの色なのかこの年になっていまだにわからない。

それでいってんして我々の地球上での撮影機材になるが、ブラックのカメラは手がアチチになってやはり不愉快である。
初期のニコンの一眼レフ等がふさわしい。初期のニッコールの交換レンズで私が非常に気にいっているのはこのレンズである。
35ミリでef 2.8と言う一般的には暗いレンズと思われている。何が暗いレンズであるものか。私はこのレンズを絞り開放で撮影した事は全くない。
像面がフラットだし優秀なレンズである。私の場合解像力と言うよりも歪みがなくて像面がフラットなレンズフレンズがいい。 35ミリで明るさがf2のレンズも持っているが、あれは逆光だとフレアが凄いので使う気がしない。35ミリef 1.4のレンズは最初から大きくて重いから使った事は無い。

35ミリF2. 8のレンズで好きな作品がある。作者は忘れてしまったが1,970年代の後半のスイスのスイスカメラに10ページほど掲載された作品であった。確かにその特集が超陳腐主義とか言った。それはヨーロッパのどこかの冬の畑をただ単に馬鹿みたいに横位置で撮影したと言う作品群であった。

それは冬の光景があって雪がわずかに畑に積もっているのが良いコントラストになっている。しかもそのショットは何かを調査する役人がただその畑を持参のカメラで撮影したと言うだけの写真なのだ。もちろんこれはものの例えである。
そういう一見して非常に退屈なシーンというものは実はストレートフォト
のかなり重要な魅力になっているのではないかと思う。

1,970年代の世界の写真世界にはビッグネームが三人いた。ニューヨーク近代美術館のジョンシャカフスキー、スイスカメラの編集長アランポーター、そしてカメラ毎日編集長山岸章二であった。その中でアラーンポーターの編集感覚というのが1番好きだった。
退屈というこの怪物をストレートフォトグラフィーの写真芸術にまで変身さしてしまうのがポーターであった。
だから10年に1度この雑誌にポートフォリオが掲載されればそれは写真家にとって大変なプライドであった。
私は1971年と1980年にポートフォリオを掲載している。

手に取ってニコンの素振りをしているとヨーロッパの冬の退屈な畑が目に浮かぶのである。それが写真の楽しみというものなのであろうか?

2016年8月 9日 (火)

大昔のプラハのアトリエ

エプソンのレンジファインダのデジタルカメラで撮影した写真集が出てきた。
10年以上前の本であろう。

このカメラは画素数が600万位だから今でもちゃんと使うことができる。新製品カメラの宣伝の定番
というのはたくさんの画素数を誇るということのようだが、実際には画素数はそんなに必要ない。

ハードカバーの写真集をめくって当時撮影したヨーロッパの街が浮上してきて面白かった。でもそれよりも面白かったのはご覧に入れるこの表紙である。

これはなんとアトリエが改装される前の状況なのだ。だから撮影は2,000年すぎではなかったかと思うがこの室内はこの屋根裏部屋ができた1,930年代の半ばをそのまま保っているのである。

アトリエは天窓で構成されているが、その天窓は二重になっていて重い鉄の窓枠であるからほとんど開けることができなかった。だから、窓に隙間をつけるためにはまずビール一杯飲んでその空き瓶をドアの隙間に挟み込むのである。

暑い東京で思い出したのはこのアトリエでは今の東京などよりずっと暑かったということだ。そういうときに人間は利口になるものであるから、シャワーを浴びって体を全くふかないで
裸で部屋の椅子に座っていたりした。これは蒸発熱でかなり涼しい。

アトリエが大改造されて軽いサッシに交換されてそれが目一杯開けられるようになって初めて私は椅子に乗ってアトリエの外の世界を見ることができた。

これは新しい発見で世界が開けた気がした。アトリエの窓は世界に向けて開いていると書いたら新潮の矢野編集長がほめてくれたので嬉しかった。何しろあたしは何の修行もなく新潮で二年間の連載をいわゆる檜舞台を踏んだのである。
しかし改装される前のアトリエは非常に暑かった。気分を転換するためにアトリエから歩いて近くのカフェに行って深呼吸していたりしたのである。
新しい窓ができて部屋から世界を観察できようになるとると私はそこに行くことがなくなった。長い原稿書くときなどは3日も4日もアトリエに篭るようになった。アトリエは建物の最上階つまり6階にあるのでそこを上下するだけでもなかなかの運動になった。
戦前のプラハの建築であるから天井と床は異常に高いのである。Image_2


2016年8月 8日 (月)

横断歩道

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横断歩道の不思議な写真をギャラリーニエプスで買ってくれた人の話の続きである。

先月開いた写真展で30数点の写真を展示したのだがその中でこれは難しいから絶対に買い手がつかないであろうと思う写真があった。その事は以前にも書いたがその作品を買ってくれた人が中藤館長にメールをくれたのである。
関係者から許可を得たわけではないがこれは非常に私にとっては重要なポイントなのでここに再録させてもらう。
というのも私が 19歳の時に撮影した意識の1番深いところに存在した作品が50年という時間を経ていきなり浮上したのである。
潜水艦だって半世紀も潜っているわけにはいかない。その意味でこのプリントに目をつけた若い人は私にとって非常に貴重な存在なのである。
確かにその影響で最近の私の撮影は何か50ミリの標準レンズで縦位置というふうになっている。1969年に銀座の松島眼鏡店の上で開催したニコンサロンでの写真展、これは日大の写真学科の学生では1番最初に開催された写真展なのであるが、その中で縦位置50ミリの面白さということに初めて気がついた。その意味は当時の現役バリバリの写真家例えば木村伊兵衛さんとか土門拳さんだって50ミリの標準レンズでたくさん優れた仕事をしているが、私の50ミリの使い方と言うのはそれとはかなり異なる当てずっぽうな投げやりな視点なのである。

それが現実を無意識のうちに切り取ると言う不思議な鍵になるのではないかと思って、しかしその秘密をそのまま忘れてしまったのだ。それが半世紀ぶりに浮上したというわけなのである。だから冗談でもなく誤解を恐れずに言うならばこれは半世紀前に撮影した当時の江戸の風景が映っているといってもよい。よく冗談で親の顔が見たいなって言うけれども、私の場合はこの偽横断歩道を買ってくれた若者の顔が見たいと言うことになる。その若い人はこのように書いている。
ーーー以下引用

中藤様

こんばんは
長徳さんのオリジナルプリント昨日無事に届きました!ありがとうございます。
やはり本物のすごみがあって感動です。
この間、長徳さんのブログで偽横断歩道の件を少し触れていらしたのはビックリですが
横断歩道がなにやら大きな大陸に続く階段ならぬ梯子の様に見えるような気がして
そこに青年時代の長徳さんの野望の様な目標の様な感じが表現されているのではないかと
勝手に妄想しております!本当にありがとうございました。
山田雄介

2016年8月 7日 (日)

東京オリンピック村の机と椅子

世間は四年後の東京オリンピックに向かって沸騰しているようだが、私の場合には1964年に開催された東京オリンピックのことをすぐに思い出す。

これは老人の大脳の皮質の古い方が記憶をちゃんと蓄えているせいであるらしい。当時開発途上国である日本はオリンピックに全力を集中していたからその活動や宣伝と言うのは村祭りのようであった。
当時はそれが恥ずかしかったのだが、今になって50年前を回想するに、なかなか人間味のある良い活動であったと思う。

しかし一方では当時選手団として来日したその頃の先進国の人々にとっては東京での体験、特に選手村での体験は1周以上であったのではないかと思う。
1990年であったかプラハで1964年の東京オリンピックで大活躍したベラ・チャスラフスカにインタビューしたのもそんな内容だった。
選手村と言うのは代々木にあった。当時の受け入れ側の日本のやり方は異常にに神経質とも言えるものでまず日本人の選手村は外国人の居住地からかなり離れて構築されたそうである。その理由と言うのが今ではちょっと信じられないのだが外国人は味噌汁が臭いと思うからなるべく離して場所が作られたと言うのである。当時のNHKのニュースではそれを極めて真面目に放送して日本人の気配りの見本であるようなコメントであった。マンハッタンの日本料理店などだと地元の人が味噌汁の味噌の種類にまでこだわったりするような時代になってきたから今昔の感がある。

私の父は新しい物好きなのでオリンピックが終わった翌年であったかその代々木の選手村の家具を一般に払い下げると言うのに申し込んだ。それで、ゲットしたのが選手村で使われていた机と椅子なのである。当時高校生の私がそれが到着したときにはびっくりした。作りが粗雑であってラワンかなにかでできているのであろうが、その表面はささくれていて指にトゲが刺さるほどひどいのである。当然のことながら4つ付いている引き出しはまともに開け閉めすることができない。この机と椅子の品質が悪いと言うのは私がヨーロッパでちゃんとした家具を見て帰ってきてからそれが分かったのではない。まだ何も知らない高校生の頃に高校生の体験からしてもこれはひどいと言うことがすぐにわかったのである。その払い下げの机と椅子は1年もたたない内に邪魔になるのでお払い箱になった。地元の東京の高校生だった私がその家具をひどいと思うのだから、選手村に滞在した先進国の人々は一体どのように感じたのかは想像するまでもない。
言い方を変えれば私は私の生涯で最もひどい机と椅子を見たと言うことになる。これは1種のシュールレアリズムの記憶である。

佃垂直長屋の爺の古い話なので画像なし。

2016年8月 6日 (土)

カロワイドで街が戦闘体勢に

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リオデジャネイロのオリンピックが始まった。最初のサッカーはほんのわずかの差で負けてしまった。私がオリンピックが問題だと思うのはそれが 1種の代理戦争であるから。

1964年の東京オリンピックのころは参加することに意義があると言うので誰も勝敗に関してはそれほどこだわらなかった。学校の授業でもクーベルタンとか言う人が参加することに意味があるのだということを教えられたのである。
それがいつの間にか金メダル、金メダルと騒いでるのも変だ。金目鯛ならおいしいから好きだが金メダル金メダルコールはどうもゲンナリである。

その1964東京オリンピックが始まる数年前から東京過労ワイド(音声入力間違いです カロワイド)で撮影していた写真家が春日さんである。平凡社の世界写真年鑑に春日さんの仕事を見て感激した。当時私が使っていたのはオリンパスワイドであったが春日さんが使っていたカロワイドはオリンパスのズイコーよりも何かプロミナーレンズの方が良いような気がした。実際に手に入れたのはそれから数十年もあとである。

板橋の奥の写真屋さんで買った。値段は高くても2万円以上した。それから何台もの過労ワイドが手元に集まった。最近ではこの種類のカメラは人気がないようであって私が1番最近に私が買ったのは3,000数百円なのである。そういう役に立つカメラは発見次第
手に入れた方が良い。

過労ワイドは2種類ある。音声入力だと面白い変換ができるな。通常のモデルにはついていない露出計が後期のモデルにはついている。メーターにスペースをとられたので仕方なく後期モデルは巻き上げレバーはカメラ本体の下のほうに異動している。

メーターがあろうがなかろうが撮影の結果には全く変わりないが、後期のモデルの方が使いやすいのは絞りの操作がしやすいことだ。最初のモデルつまりメーターのついていないカロワイドでは絞りの部分が穴になっていてそこから数字が見える。
我々が実際に撮影しているときに重要なのは設定された絞りの前後の絞りに移動させるために常に幅のある絞りを観察している点にある。このカメラの設計者さんはそれに気がつかなくてF8ならその数値だけやってれば良いと言うふうに考えたもののようだ。


プロ皆のレンズはもともと映画撮影をから始まった。おそらくごろ合わせでプロフェッショナルがみんな使うからと言うような単純なところからこのブランドになったのではなかろうか?
ー 6枚構成の優秀なレンズだがごく少数だけライカマウントが存在した。これは価値があるので登場しただけですぐに2,000ドルもするのである。私が1番最近に手に入れたカロワイドはちゃんとカメラ本体がついて3,000数百円だった。

2016年8月 5日 (金)

ゴールドフィンガー のコンタックス

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カメラ好きであるからたくさんのゴールドカメラを持っている。
カメラメーカーが売れ行きがダメになると限定のゴールド仕上げのカメラを出すというのが昔からのマーケティングの定番である。

ゴールド仕上げのカメラで最もレアなのは戦前のゴールドライカであろう。数が少ないのでその後でプリカが制作されてそれもコレクターズアイテムになっている。

しかし高級なカメラがゴールドになるより私は安いカメラがゴールド化したほうが好きだ。ゴールデンパックスと言う名前の安価な小型の35ミリレンジファインダーのカメラなどはその会社がゴールド仕上げを作っていた。
これなどはなかなか可愛らしい。
リコーが作っていった16ミリの小型フイルムを使うステキーと言うのもゴールデンステキーとして好事家の間に珍重されている。

コンタックスは一眼レフの京セラの時代になってから意味不明のゴールド仕上げの一眼レフをオフィシャルに出したがあまり成功はしなかった。要するに桐の箱に入って白手袋がついているというやつである。

レンジファインダー時代の戦前のコンタックスはもっと真面目に作られていたのでゴールド仕上げと言うのは公式には存在しない。ベージュ色のトップカバーにアイボリーの貼り革のあるレアなコンタックスというのが存在した。
知り合いのカメラ人類リチャード・クーさんがこれを持っていた。彼のコレクションはライカではなくてコンタックスに集中している。それで二台目のアイボリー仕上げのコンタックスを手に入れてクーさんはは非常に困ったそうである。なんと製造番号がその二台は同じなのだ。つまりどちらかがフェイクなのですと困っている。

この金色のコンタックスは大昔にまだ銀座のスキヤカメラが路面店だった頃に手に入れた。好事家が依頼して作らせたものらしい。ワシントン条約云々というのは最近の話であって、これはそういう条約から自由であった時代のちゃんとしたリザートが貼られている。

10年ほどこの金色のコンタックスを使っていたらある日シャッターがおりなくなった。修理しても良いのだがコンタックスは他に好きな機種がたくさんあるのでそのままにしている。

それで時々動かない金色のコンタックスを手にしてファインダーで隅田川を見ている。それはそれで楽しいのだ。

2016年8月 4日 (木)

ニッカ3Lでオンザロード

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ニッカ3Lと言うカメラは国産のライカコピーカメラである.。
その最終モデルがこの3Lというやつだ。
ニッカの歴史を見ていると戦前のバルナックライカから始まって最後はライカM3にまで到達している。
頭の黒い犬のようなフラットなトップカバーを持ったカメラでレバー巻き上げがなかなかモダンである。何かパリのデザイナーがデザインしたような感じがする。
最近のデザイナーを起用したデジタルカメラなどは吹き飛んでしまうような優れたデザインであった。

レンズはニッコールの5センチF2のライカスクリューマウントである。Finderて両眼を開けるとアルバダファインダーがコンツールFinderのように使える。

1970年から73年まで日本デザインセンターにアシスタントをしていた時によくロケに行った。
クラウンのステーションワゴンの前の席が私のいつも座る場所であった。これは写真部長の無言の了解があったはずである。

要するにロケ地に行くまでの路上を撮影するのだ。東京ニコン日記にも掲載されているが水戸街道でどこかのガソリンスタンドの赤馬のシンボルを撮影したことがあった。それが見方によると赤い馬が空に彫刻されているように見えるのでそれが私の好きな作品であった。

森山大道さんの膨大なカメラ雑誌に掲載された作品の中で好きなのは1971年のカメラ毎日だったと思うがオンザロードと言うのである。タイトルがケラワックの真似だなと思ったが、作品は非常に良かった。東京の福生とかあのあたりの環状道路を撮影したもので印刷はセピアというか紫色のインクであった。しかも雑誌を横位置に使って画像を大きくしているのだ。つまり森山さんのシリーズだけは雑誌を90度回転させていなければならないのである。これは編集者は嫌がる印刷の仕方であるが私は好きであった。

森山おんざろーどを真似して私のおんざろーどが存在したわけである。そのシリーズを撮影したのがこのカメラであったので急に思い出して使ってみた。何が進化したかといえばオリジナルはニコールがついているのだけれども、今回は木星玉を使ったことにある。真鍮のレンズからアルミニュームのレンズになったのでかなり軽い。これは69歳の写真家にとっては非常にメリットになると思う。

8月2日は豊島区東池袋の名もなきころっけやが閉店しているのでがっかりした。そして気を取り直してその界隈を二本撮影したのであった。

2016年8月 3日 (水)

大手饅頭のやりとり

Image_2現在と違って戦前は物流が今のような状態ではなかったから同じ日本国内でありながら数百キロ離れたところの特産物を自分の手元に取り寄せるというのは容易なことではなかった。 その実例を内田百閒の随筆で見ることができる。 彼が東京に出てきてから、これは彼のエッセイの上で調べたのであるが故郷の大手饅頭を食べたのはいちどか二度なのである。しかも時間がかかって小包で郵送されてきたのでかび臭くなっていた。

10数年前のこと岡山に遊びに行ってその後に広島に回る予定であった。新幹線の駅のホームでいきなり旧友の戸倉がホームであたしに大きな箱を手渡した。これは大手饅頭の30個入りとかそういう巨大な箱なのである。

旅先で荷物になるとは思ったがありがたく頂戴した。列車に乗ってその大きな箱をどうしようかと思った。私は岡山から広島に行ってそこを撮影する予定だった。 グリーン車の指定の席に座ったらしばらくしてから私に挨拶をする人がいた。 小学校の1年上のクラスの小宮英明のご両親なのであった。小宮のご両親は数回あっただけであったが私を覚えていてくださったのである。 小宮は大学卒業と同時にヘルシンキの音楽大学で教鞭をとってそこに今は永住している。 そのご両親に会ったので私は感激して戸倉から受け取った大きな大手饅頭の箱を贈呈したのである。 ご両親は以前は私が生まれた文京区音羽の近くにお住まいだったが、今は九州にお住まいとのことであった。それで新幹線でその稀な出会いが起きたのである。 6ー7年前にフィンランド航空でヘルシンキ経由でリスボンに行く予定であった。ところがヘルシンキから先の飛行機が飛ばなくなった。というのは例の火山の爆発でリスボン行きの飛行機がキャンセルされたのであった。それで考えてリスボンをキャンセルして初めてのヘルシンキに2週間ほど滞在したのである。 ヘルシンキに滞在と言うことをFacebookに書いたらヘルシンキ在住のアーティストからすぐ連絡があった。初対面の方であるがいろいろ情報を聞きたいのでお目にかかった。 その方にお目にかかる前に私は大昔の友人で今フィンランドに住んでいるはずの小宮を探しているとメールで伝えた。なんと驚いたことに20分で彼のメールアドレスがわかったのである。 これはそのヘルシンキ在住のアーティストのパワーなのである。 小宮英明とは連絡が取れたが今から会おうと書いたら、彼はヘルシンキから北に数百キロのところに住んでいると言うのでそれは諦めた。 それで数年前にご両親に新幹線の中であって大手饅頭をお渡ししたと言う事後報告をしたのである。 内田百閒がかわいそうなのは当時の物流の事情で大手饅頭を夢に見てもそれを食べる機会が数回しかなかったことだ。鉄道便か何かで送られてきた大手饅頭を蒸したのだがそれはカビ臭くて奥さんは食べなくて百鬼園だけが全部食べたそうである。 知人が岡山の大手饅頭をくれた。 渋いお茶を入れて小宮のご両親に大手饅頭を新幹線の中で差し上げたこととか内田百閒のことなどを思い出している。

 

2016年8月 2日 (火)

雪のプラハの二本のレンズ

Imageこの秋に神田明神脇のギャラリーバウハウスで展示する作品を納入してきた。いつもは展示ギリギリになるのだが今回は3ヶ月以上前に搬入できたのは、いつも使っているレンタル暗室が改装中で数ヶ月休みというのがその理由である。その代打として押上の新しい暗室を使った。結果はなかなかよかった。

そのプリントのな話は問題ないのだがこの1月にプラハに今回の写真展の撮影に出かけたときはじっさいトラブルが満載であった。持参したのはライカ1台とコンタックスの最初期モデル一台である。それに戦前のゾナーの5センチとテッサの2.8センチを持参した。撮影を開始した初日にライカの巻き戻し部分のパーツが落下してしまった。撮影できても巻き戻しができないというのは大変な欠陥でアウトである。

コンタックスのブラックモデルは使っているうちにシャッター動かなくなくなった。それで中心部のカメラ屋でだいだとしてキエフを買ったのである。キエフはウイーン時代から40数年に渡って使い続けているから問題ないと思ったのである。ところがこのキエフがくせもので撮影のフイルムの真ん中あ、たりでいきなりフィルムがまけなくなるのだ。 完全にまけなくなるのではなく完全にはまけていない。それでネガの仕上がりを見たら所々画面が半分ずつ二重露光になっている。

 

これはダメだと思った。ギャラリーの小滝館長も今回の私のプラハの撮影は心配していてちゃんとれていますかなどとメールが来た。これは

ところが暗室の段階で私に天からの声が降ったのである。要するに私の双子座の二重人格のもう一つの方が頭の中でぶつぶつ何かものを言っているのだ。それに耳を傾けてみると要するにこの二重露光はハリーキャラハンよりもすごいというのである。

キャラハンは石元先生の先生であるが彼の多重録音は厳密に頭の中で計算しているのである。私の場合はカメラが勝手に故障して芸術的な意思は全く関係なく機械的に二重露光をしているのだ。意識と無意識の領域というところから考えてみれば意識の領域を超越したところで撮影される故障したソ連製のカメラの方が撮影に関してははるかにウエであるという事は間違いない。

それで注意深くネガのコマのダブったのをプリントしてみたらこれが意外と面白かった。だから今回のバウハウスのプラハ年の私の展示作品は私が撮ったというよりも調子悪いソ連製のカメラが制作したということになる。

おっと本題からかなり外れてしまったのだ私が言いたいのは冬のプラハに持参した二本のカールツアイスイエナの宣伝のレンズが素晴らしいということだ。

これはまったく予期しなかったことで実際にプリントを伸ばしてみて初めて気がついたことなのだ。あからこの冬のプラハの撮影はカメラにはついていなかったが結果として助けられたということが1つ。それとレンズが非常に優秀であったということに気づかされたことこれら2つ目である。信州中野のツアイスも結構ではあろうがやはりレンズは戦前の本場に限るのではなかろうか。

2016年8月 1日 (月)

押上 写真喫茶アウラ舎の金銭登録機

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家の近くにあるレンタルラボが現在改装中なので代打として押上のスカイツリーのすぐそばにあるアウラ舎を使っている。

ここが貴重なのは現在の時点で東京で利用できる唯一のフォコマートが置いてあるダークルームなのだ。調査によれば日本カメラ博物館などにもフォコマート は置いてあるそうだが、それはただ単に置いてあるだけで使う事はできない。カメラでも引き伸ばし機でもそうだがここは1番重要なポイントである。それで最近はもっぱら押上に行く。

レンタルの代金が安いのも非常に良い。
大島さんと言う東京工芸大学の大学院を出たエリートが経営者だ。私はダークルームとBARは全く別のものと考えている。
だからダークルームの脇のBARで写真芸術を語ったりするのは好まない。でもここがそういうのとは違うって長い作業が終わった後でいっぱのビール飲むと言うのは楽しみだ。川越あたりので小江戸ビールと言うのである。

一階はクラシックな写真カフェになっている。プラハの80年代には街のあちこちに文学カフェというのがあった。ここと同じく手作り感満載なのであるが、どれも長くは続かなかった。
だからアウラ舎は長く続けてもらいたいものである。
私にとって押上に行くというのは暗室に行くというのと同義語になってほしい。

写真カフェの1階にあるのがクラシックな金銭登録機である。オーナーに聞いたら何でも関西の蚤の市で発見して買ってきたそうだ。プロ用映画機材の銀座さくらやも記憶するに似たようなクラシックな金銭登録機を使っていた。
これはあまりに古いので現在の金額を打ち込むことができない。それでデノミ方式で使っていたのだが、アウラ舎のそれは一応100万円まで金銭登録でき出きるそうである。

ニューヨークに住んでいた頃に知り合いのユダヤ人のお金持ちに誘われてステイツの北のほうに仕事の会手伝いに行ったことがあった。彼は下はシーモアワインシュトックという典型的なユダヤ人の名前であるが仕事は金銭登録機のセールスビジネスなのである。その時の彼の名前はジョンスミスと言うアングロサクソン系の名前なのも面白い。

ステイツの北にキャッシュレジスターを納品するので彼のキャデラックに乗って下に旅行したことがあった。その時わかったのはキャッシュレジスターと言うのは100キロ近い重さがあるということだった。
盗難等で簡単に移動できないと言うのがその理由であろう。おかげで翌日から腰痛になってしまった。
もう一つステイツの北に行ってもらってきた病気がある。仕事が終わってミッドタウンに帰ってきたときに夕方のマンハッタンが私の目にはいきなりかすみ出したのだ。
要するに新型の花粉症もらってきたのである。この花粉症が治るまで25年位の年月がかかった。
そんなこんな理由で金銭登録機は私にとってメランコリーオブジェなのである。

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