フォト

オンラインギャラリー

バナー

無料ブログはココログ

チョートクカメラ塾ブログ

Chotokuぶらり パチ塾

« 2016年6月 | トップページ | 2016年8月 »

2016年7月31日 (日)

東京をノーファインダーで突っ切る十九歳 マルセルデユシャンのスーザフォン

Image_3

高校の時は50ミリと28ミリのレンズをNikonFに付けていた。日大写真学科に入って21mmを手に入れた。その超広角レンズをミラーアップして私はノーファインダーで東京の街を斜めにつきで撮影をした。

体当たり作戦というか実際にフィルムの現像が上がるまで何が写っているか分からないと言う戦術であった。これは石元さんから教わったことで石元さんがノーファインダーテクニックのことをアサヒカメラの教室の単行本に書いていたのである。

ただし石元さんの作品は35ミリの広角レンズであって、私の場合は21mmだからさらにモチーフに接近することができる。そのアサヒカメラ教室の中で石元さんは意識の領域を超えて無意識の領域に踏み込むと言う意味のことを書いている。

これは非常に大切なことだ。
今の世の中に横行している写真術なるものは大きな画面でシャープなデジカメで撮って、キレイキレイとバンザイと言うものである。

そこでさらにPhotoshopを使って色合いをなおしたりするとあの人は絵心があるからすごいと言う。
本来の写真の目的とは全く違った方向で評価されたりする。
まず乱世と言う所ですね。

私は中学の時にブラスバンド部に入っていたが、予算の関係でスーザフォンと言うのはなかった。
低音楽器は大バスまでなのである。だからスーザフォンが2つに分解できるということを知らなかった。この青年が楽器を分解しているところに私はマルセルデシャンを直感したのである。

2016年7月30日 (土)

東京の街を斜めに突っ切る十九歳 氷屋のギヤかー

Image_4

1967年にもう存在しないカメラ時代と言う名前の写真雑誌にほぼ毎月8ページの作品を紹介していた。
出版元は写真同人社と言うのである。
小さな出版社であったがなかなか気骨のある仕事をしていた。
その8ページのポートフォリオを私が好きだったのはその印刷方法がオフセット印刷ではなくてグラビア印刷であったこと。
今は技術がなくなってコストも高いからグラビア印刷と言うのは雑誌では存在しない。
当時は1冊の雑誌にオフセット印刷とグラビア印刷の2つがあった。
だから土門拳も木村伊兵衛もその作品はグラビア印刷で鑑賞するのが正しいと若い頃の私は思っていた。

オフセット印刷はモダンな印刷方法であるという印象があるから例えば高梨豊の名作東京人などは巻頭にカメラ毎日で30ページほどの掲載であってオフセット印刷なのである。
もし高梨さんの東京人がグラビア印刷であったら60年代のあの未来を志向するようなモダンな感じが出なかったであろう。

一方で木村伊兵衛さんの名作がアサヒカメラの巻頭でオフセット印刷で出版されたとき私は何か変な感じがした。木村伊兵衛の名作はグラビア印刷でなければわからないと大学生の頃の私は直感でそれを認識していたのである。

それで今思うと贅沢なことだが19歳の私は東京の街をファインダーで撮り歩いて、それがグラビア印刷で印刷されるものであるという直感を持っていたわけである。
今にして思うとこれは大変贅沢なことだ。
というのも今の私は撮影したものをせいぜいブログにアップするという程度、あるいは写真展で展示販売するということを念頭に置いているからだ。カメラ雑誌と言う選択肢が最初から頭の中から欠落しているのである。

氷屋さんがリヤカーに氷をたくさん積んでそこらを配達して歩くと言う商売の方法は今は存在しないのであろうか。永井荷風が小説の中でいわゆる書き癖がついているのであるが、これは正しくはリヤカーではなくギヤカーなのである。

このショットの撮影もちょうど今から半世紀前であるから、この氷屋のおじさんも今は存命していないのかもしれない。写真と言うのはその意味で非常に残酷な表現手段である。

2016年7月29日 (金)

悪日を楽しむ

我楽多屋二代目の話では、アマタツが今日関東地方は梅雨明けだと言っていたと顔本に書いた。果たして7月28日に関東地方は梅雨明けしたとみられると言う例のあいまいな表現が発表されたわけである。
日本が不気味に思うのは気象予報士という存在である。私が気象予報士を不気味に思うのはお天気の話と暮らしのメモぐらいのことを言って「偉そうにしている」点にある。そのせいか最近若い女性がなりたい職業が予報士なのだそうである。
その気象予報しさんに梅雨明けしたとみられると宣言されてもこちらが困ってしまう。

今日はあくび、つまり悪い日であったようだ。
まず午前中にヤフオクでアップルの製品を型番を間違えて落札してしまった。全く使えないからこれは値段を下げて再度オークションにかけようと思う。

それはそれで良いが佃の家ノ前から反方向に行くバスに乗ろうと思ってお昼の非常に暑いときにバス停で待った。時計をカウントして27分でバスが来た。大変な忍耐力である。

1日乗車券を買うつもりでドライバーさんに700円渡したらドライバーさんは操作を勘違いして都バスの1日乗車券と200円のお釣りが出てきた。彼にとっても今日は悪い日なのであろう。
ドライバーさんはそれを訂正して700円の乗車券を発券させようとするのだがこれがなかなかうまく行かない。ダイヤに乱れが出るのではないかと思うほどに時間がかかった。

数年ぶりに東京ビックサイトに行った。梅雨明けしたと思われる天候なので海からの風が心地よい。ビックサイトから深川のほうに行こうと思ったのだがこれは私の勘違いだった。
大体マーシーの法則というのが私の場合には当たっていて佃のバス停から乗るときにいつも東京駅方面に行くときはバスは全く来なくて反対車線のバスが3台も4台も来る。
その反対車線で今日はバスを待っていたらバスは全く来なくて東京駅方面のバスが団子になって来るのである。私の人生のスタイルそのものだな。

ビックサイトからまた東京駅八重洲口に行くのはつまらないので別の路線つまり東京駅南口行きのバスを待った。これがまた見事に来ないのである。ようやく来たバスに乗って銀座4丁目経由で東京駅南口。
東京駅は動物園状態煮て、南口から北口に行って自由通路を通過して八重洲口に出てまた南口方面まで南下して東京ビックサイト行きのバスに乗った。まるでバスゲームのようである。
その3台目のセッションのバもなかなか来ない上にものすごい混雑だった。われわれの人生と言うのはなかなか来ないバスを待ってそれにぎゅうずめなると言う人生ゲームのようだ。まさに煉獄そのものだ。

今日が悪日なことの要素をさらに付け加えておくならば、パノラマカメラで撮影に行って最初のカットでフイルムが終わっていた頃だ。スペアのロールをバッグに探したらこれがないのである。2つ目はiPhone忘れたこと。でもそれは結構プラスであって、フィルムカメラも持たずiPhoneも持たずにバスの中からこの世界を観察すると言う事は人生の中の楽しみであるということに気がついた。その意味でもロバートフランクは偉大である。

本日画像なし。

2016年7月28日 (木)

ミデイアムレアの「写真よ さようなら」

Image


Image_2

このタイトルの本は中平卓馬と森山大道の写真に関する対談集であってその収録は奥付を見ればわかるな大昔の8月2日と言う日に山の上ホテルで収録された。

こうい同時代的な本が皮肉なのはそこに書かれている内容と言うのはその時代を断ち切った金太郎飴のようなものでその前後の洞察と言うのは最初から欠如していることにある。
だからそれはドキュメンタリーであってそこが面白いのだ。

この本は人気がなくて神田の古本屋などにぞっき本なみに置かれていたのだがそれは30年以上前の話であって最近では外国でこの手の本をコレクションする好きものが増えた関係でばか値段のようである。

この写真よさようならはそんじょそこらにある同じタイトルの本とは違う。これは四谷のギャラリーニエプス秘蔵のコレクションである。なぜならばギャラリーがかなり前にまた代官山にあったときに火事で瑠るい焼を受けてほとんどのものは燃えてしまった後にこの本だけ消防の水がかかって半焼け、つまりミディアムレアの状態で発見されたのであった。

そのミディアムレアの本に中藤館長は森山さんに頼んでサインをしてもらったのである。そのご神体がアクリルケースに入っているからそのアウラ度数は大変なもので文物と言う感じがする。

これほど立派なご神体があるのならギャラリーはそのまま写真よさようなら神社と言うのを作ってお賽銭箱を備えれば宗教法人で上がりがあると思うのにそこまでしないのは残念なことである。

山の上ホテルというのはこの手の対談に最適と見えて私も何度か呼ばれてデジタルカメラの話などをしたことがある。あれは近くにあるコンシューマ雑誌であったな。一方でちゃんとした真面目の対談はやはり数年前に沢木耕太郎さんとこのホテルでやったことがある。その時の私は90分間の対談の時はちゃんと意識があったのだがひどいインフルエンザの高熱でどうやって山の上ホテルまで到着したのかまたどうして帰ったのかは一向に記憶になかった。

写真よさようならの対談の中平さんと森山さんのことを考えてみに私は中平さんは東松照明さんから紹介してもらったのが1968年の8月であった。
当時の中平さんは編集者で雑誌「現代の眼」の打ち合わせで新宿の東松さんのオフィスにきたのだ。私がポートフォリオをもって東松さんに写真を見てもらったのである。編集者としてお世辞で中平卓馬さんは私の写真を褒めてくれた。

森山さんに会ったのはもっと後で1976年6月にヨーロッパで巡回した現代日本写真家展の準備でギャラリープリズムかどっかでお目にかかったのである。30代後半の森山さんは黒いTシャツでそこにはトンボの模様が刺繍されていた。

あのミディアムレアの写真よさようならの本を見せられて私が思い出したのは、ニューヨーク近代美術館で一年間膨大な量のオリジナルプリントを見たときに確かアンセルアダムスコレクションだったと思うがその中に火事で半分焼けた8x10のモノクロネガを見たことである。そのことは非常によく覚えていてエマルジョンがくしゃくしゃになった大判カメラのモノクロームのネガティブであった。
このミディアムレアの写真をさようならはそれに対抗できる素晴らしい立体物であると思う。


2016年7月27日 (水)

ボールト ナット製作販売

Image

押上駅のスカイツリーのすぐ下にあるレンタル暗室アウラ舎は現在フォコマートが置かれている唯一のレンタルダークルームだ。いつも使用している家の近くのヒットオンのレンタル暗室が現在改装中なので、使えるフォコマートがあるダークルームというのは実に貴重である。

必然的にパノラマカメラを持ってこの近くを徘徊するようになった。
四ッ目通りと言うのは押上からずっと北に向かって東武亀戸線を越えて京島のほうに行く。
坂崎幸之助さんのご実家の酒屋さん武蔵屋さんは平井のほうにあるので四ッ目通りを大回りしてよくそこまで行ったこともあった。
これは坂崎さんのお父上が元気だった頃の話である。

このボルトナット製造販売のお店はつい最近までその存在に気がつかなかった。四ッ目通りを南から北に歩いていくと案外見過ごしてしまうのだ。
それが京島から押上に戻ってくるときにその傾き方がドラマチックなのでこれはいいランドマークだと思った。

傾いた建物に我々がノスタルジーを感じるのはピサの斜塔に始まるのかもしれない。建物の存在に一種のムーブメントが加わるのである。
ピサの斜塔を見た事はないがプラハでムーブメントのある建築物と言えば立体派建築である。

この古いボルトナットのお店はそういう視点から見ていると立体派建築の隣に存在するように思えてくるのは愉快だ。
矩形に圧力が加わって平行四辺形になるところに建築のドラマがある。これは建築にだけと言うわけでもない。
いつぞや話題になったコンタックスG3のファインダーがひゃげたマッチ箱になっているのもかっこよかった。あれは一体その後どうなったのだろうか?

2016年7月26日 (火)

プラクチカよりプラクチナ

プラクチカは東ドイツの一眼レフである。プラクチナも東ドイツの一眼レフである。この名前が紛らわしいので日本カメラの前田編集長も混同していた。

1,950年代半ば過ぎまでアメリカの市場を席巻していたのはこのプラクチカとプラクチカであった。プラクチカはプラクチカマウント、つまりペンタックスマウントであってこれはブランドが変わってコンタックスSと言う名前で販売されていた。
プラクチナのほうはバヨネット式のレンズ交換でシステムカメラとしてははるかに進んでいた。スブリングモータードライブとか長尺マガジンとか電動のモータードライブなどが使えたのである。

1,950年代の後半までアメリカの市場ではプラクチカは最高のシステムカメラであった。それが日本からペンタックスとかニコンFなどが登場したので東ドイツの一眼レフは崩れ去ってしまったのである。

プラハのカメラ店で私はプラクチカをよく買った。1回分のちょっと豪華な食事位の値段なので非常に安い。
プラクチナは2種類ある。FXが最初のモデルでその次はこれはカメラの名前の傾向からするといきなりジャンプするのであるが2aというのである。

この2つはレンズマウントは同一であるが、自動絞りの方式がまったく異なるので互換性はないと言うところが面倒である。
もっとも後期モデルの自動絞りのレンズを前期モデルのFXにつければ絞りは絞られたままでファインダーは暗いがそのまま使う事はできる。

そのためでもあるまいがプラクチナにはコンタックスのレンジファインダーと同じようなファインダーがついている。これは50ミリ専用であるが実際に使うのにはこれで充分である。
プラクチナの利点はシャッターの音が非常に静かなことだ。その理由はミラーがクイックリターンではないからだ。
これはシャッター音が静かなのでスナップショットには好適である。

プラチナを使っている人はほとんどいないのでこれを持ち歩いていると通りがかりのカメラ人類が珍しがってくれるたりするのも楽しみなものである。
かつての東ドイツの高級カメラと言うのは時代遅れのように見えるが今でも立派に使えるところが大事なポイントである。Image

 

2016年7月25日 (月)

寓話としての小公園

Image_8

私には公園に関する趣味がある。整備された公園ではなく荒れ果てた庭が好きなのだ。
イタリアのボルケーノの庭などが最も好む者であるが、winのシーエンブルン宮殿などはわざと破壊されたローマ時代の庭園が広大な庭の1部に作ってある。
それはローマ時代の遺跡が時の流れで完全に破壊されたと言う設定の1種のフェイク、フェイントのテーマパークなのである。

佃から歩いてすぐの相生橋のそばの堤防の裏側にそういう感じの良い公園があった。
これはもちろん最初から廃れた庭園と言う設定にしたのではなくて手を入れていないので自然に古い庭になってしまったのである。

それが好きだった。わざわざイタリアに廃園を見に行く必要がなくて徒歩5分のところにそういう庭があるのだ。

しかし東京都中央区としては面白くないようでこの古い庭に費用を投入して最新の庭にしてしまった。そうなると結果としてお母さんと子供たちばかりがやってくるようになって、あたしのような不健康な風景を好むジジイは行くことができなくなる。

この間天気の非常に悪い日にその公園に行った。
天気が悪いから普通の人は誰も来ていない。それで久しぶりにその公園の細かい様子を見渡すと、こーゆーうさぎの遊具がある。

その先は樹木があってさらにその先には堤防があって視線はそこで区切られている。その全体の構図を見渡すと何かプリミテイブなフォルクローレの絵画のように見えるのが非常に奇妙であった。

別にイソップ物語のウサギとカメの競争を言うのではない。でもここにはなんというかちょっと想像できないような寓話的な絵の構図が広がっていてそれは拾いものであった。

撮影は型遅れのiPhone。

2016年7月24日 (日)

お知らせ

Image


親愛なる中古カメラ党同志諸君
出ました!
「我楽多屋で買ったモノマガジン 」
私家本(アローカメラ地下出版局印刷製本)
過去十数年の赤裸々なカメラレンズ買いの興奮の実話二百本収録。
非検閲地下出版。
限定二百部。カンパ2980円。
初版十部は三分で完売。重版出来。
我楽多屋のハトロン紙の袋を用紙にした奇書。
万国の中古カメラ党同志必携!

✴️詳しくはこちら
http://camera-kaukau.lekumo.biz/arrow/2016/07/magazine-7283.html

✴️お知らせ
チョートクカメラ塾 は今度の水曜日です。

チョートクカメラ塾

「新学期になったので新しいデジタルデバイスで遊んでます」

✴️九月の写真展Image_3

田中長徳写真展 dp PRAHA
会  期 9月16日[金]-25日[日] 11:00-19:00
入場無料 会期中無休
会  場 Island Gallery
     東京都中央区京橋1-5-5 B1
     phone / 03-3517-2125
協  賛 マルマン株式会社 Canson Infinity
     フランス菓子 エリティエ
     EIZO株式会社

トークライブ
9月18日[日] ・22日[木] / 15:00 start
参加自由 入場無料

✴️ビロード革命以来、四半世紀訪問した古都プラハの最終章。
dp PRAHAって何か強豪のサッカーチームのような名前ですが、これは使用したカメラのイニシアルなのです。 / 田中長徳

Today Tokyo 1966 スバルとキリン

Image_4

この間の四谷のギャラリーニエプスで開催された私の写真展示で購入された作品を紹介しておく。

タイトルが決まっているわけではないが仮に「スバルとキリンビール」と命名した。スバルは当時の画期的な車であっててんとう虫とも呼ばれたがその基本的なコンセプトはまさにポルシェでありフォルクスワーゲンである。

1970年代オーストリアのウィーンに滞在しているときに街中を走るクラシックなポルシェ、あれは356であったかその後ろ姿に日本の開発途上国として頑張っているスバル360の後ろ姿がオーバーラップしたこともある。

私の好きなのは黄色いポルシェではなく、黄色いスバルであってこれは早稲田の神田川の奥の駐車場にいつも止まっているのだが、それを探しにわざわざ行ってそれが発見できなくて地元にお住まいの中田さんという方に路上で偶然お目にかかって正確な場所を教えていただいたこともある。

黄色いポルシェは絵にならないが黄色いスバルはフォトジェニックである。

このショットは1966年に撮影だからスバルがまだバリバリの現役時代と言うことになる。脇にはキリンビールのタワーが建っている。
キリンビールの本社は家のそば、中央区のの新川にあって今は中野のほうに移転してしまってその跡地にに巨大なタワーマンションが建設中だ。
こっちの1966当時のキリンのタワーに接近してみるとこれがプラスチックの通い箱ではなくて木製なのである。
1966年に新宿の街をニコンエフに21ミリをつけてノーファインダーで斜めに横切っている時も偶然そこに映り込んだビールの箱と言うのは申し合わせたように材木でできていた。

その木材のキリンビール箱がこのように高層タワーを構築するとそこに何か「違法建築の模型」のような感覚がにじみ出ていて面白い。

この作品を購入してくれた方は名古屋の方でわざわざ私のトークショーに駆けつけてくれたのだが、20年前の名古屋三越での私のトークショーにも来てくださったそうである。
ありがたいことである。
それで父上をを思い出すとか言うのでこの作品を買ってくれた。その背景は別に聞きもしなかったがスバルとキリンビールというのは今の世代の1つ上の人々にとって戦後復興と言う意味合いでなかなかゴージャスなものだと思う。

写真展の作品がほとんどニコンでとられたのに対してこのワンショットはペンタックスに魚眼レンズをつけてとった。焦点距離18ミリで明るさはF11と言う非常にプロフェッショナル好みのレンズであった。

 

2016年7月23日 (土)

ウイーンとライカの日々

Image

Image_2写真集ウィーンとライカの日々は10数年前に出したものであるが、当時は気がつかなかったが、今にしてみると写真家というのはその一生はが長い一本の時間軸の上に構築されているということがよくわかる。

職業としての写真家は仕事であるからときには全く自分に関係のない、例えばベルギーのダイヤモンドシンジケートの取材に行かされたり、あるいはテキサスのスペースセンターのスペースシャトルの内部を撮影に行かされたりするわけである。

しかしほんとの仕事というのはそういうところになくて、自分の生きている一本の時間軸のことなのである。そのことに気がついたのは四半世紀ほど前であって私はそれまでのいわゆる仕事の写真を全部捨てたのであった。 仕事というのはその意味でお金儲けも大事だが反れ以上の自分の仕事という場合には、それは自分の写真のことなのである。

オーストリアのウイーンに暮らしたのは7年半ほどだったが、今、思うとそこに展開された時間というのは何も日本から観光客として行った素晴らしい時間ではなくて、ウイーンの生の生活の時間が一対1であたしに迫ってくるから、簡単に言えば退屈そのものなのである。 カールクラスなどもそういう退屈にはかなり辟易していたようであるから、ああいう仕事ができたのだろう。 フェルナンドペソアにしても彼の日録で私が興味を示すのは日々のリスボンの内側で葛藤しているその退屈した煉獄そのものなのである。 私のウィーンの暮らしを回想してみるのならば、ドナウ運河沿いのアパートの2階から毎日出かける前に退屈な中庭の風景を見て、それからカメラと数本のフイルムと若干の紙幣を持って歩きだす。 その毎日、毎週、毎月、毎年は退屈極まりないものであったのだが、あれから何十年もたって極東の部屋の隅から発掘されネガフィルムをアトランダムにピックアップしてそれをスキャンしてみると、そこには全く新しい事実と驚きが展開するのが、これがなんといっていのか写真家が写真家だけがえられる1つの報酬とでも言えるだろう。

でもそこで考えることは、あのウイーンの時代が自分とはまったく無関係なのではなくて、そこに一本の時間軸の上に存在するということ。 これが唯一確かなことなのである。

ウイーンとライカの日々といっても実際にはソ連のキエフとかそしてソ連製のジュピターレンズで撮影して来たこともあるわけで、でもそれは写真の本質には何も関係はないというよりも、むしろソ連のレンズのほうが西側世界のレンズよりもちゃんと写っていたりするという皮肉なおまけももたらされる。

 

2016年7月22日 (金)

プラハ マニエリスムな肉屋

Image_2

プラハの中心部から北西に行った丘の上の街コビリシ、ここからはプラハ市街が見渡せる。

そこにある肉屋の看板が好きでプラハに行くと足を運ぶ。路面電車が大きく曲がる角のところに店があるのだが道の反対側からでは距離が遠すぎて写真が上手く撮れない。だから路面電車に乗って坂上の角を曲がる時に壱発勝負で撮影するわけだ。

肉屋の看板としては不思議でもなんでもないのだが、食肉のそれぞれの場所をイラストで示したものが2つ掲げられている。その前に枝肉に似たおばあさんが立って品物を見ている。

チェコ独特の1種のブラックユーモアでそこにカニバリズムを感じるというのがこのショットの面白さというわけだ。

古い話になるがビロード革命以前のプラハの町並みの中にあった肉屋とか魚屋はそれぞれ前世紀の特徴のある独特なデザインで人目を引いていた

それが自由と自由経済を引き換えにしてそういうクラシックな店はきれいさっぱりなくなってしまった。

だから我々のプラハを観察するときのマニエリズムをベースとした視点はそれなりに方向を変えなければならない。その中でこの肉屋の解剖された食肉部位のスタイルはなかなかいい線を行っている。

最近人気になったプラハからはるか南にある古い町テルチの広場を歩いていると、その広場はルネッサンスに作られバロック期にスタイルがちょっと変わったのであるが、コリドールを歩いているとその軒先にそれぞれのオリジナルのお店の職業を象徴化した石で彫刻した飾りが下がっている。
肉屋さんの場合は肉を切る頑丈な鉈が表現されている。

でもそれは何世紀も前のこの場所の職業だったわけで、その職業を表すシンボルはそのまま残ってもそのスペースは今はスマートフォン屋さんになったりしているわけだ。

プラハの坂の上の肉屋と言うのはその意味で看板と内容が一致しているということも可能である。

2016年7月21日 (木)

フランクフルトでリュック忘れてうウイスバーデン駅に取りに行った人

Image

Image_2

ビクトリーは国際的に活躍する服飾デザイナーである。国際的なデザイナーだからちゃんとドイツにプレゼンに行ったりする。
そこら辺は国際的で良いのだがフランクフルト駅に到着した列車の中に貴重品の入ったリュックを置き忘れてきたそうだ。
プレゼン用の大きなカバンには南京錠がかけてあるがその南京錠の鍵はリュックに入ってるからホテルにチェックインしてまずフロントから工具を借りて南京錠をこじ開ける破壊工作に入ると言うFacebookの報告が入った。
イスラムステートも顔負けの破壊行為である。これはどうしても阻止せねばならない。

Facebookのやりとりというのは皆無責任なものであって、そういうクリティカルな状態になっているのにも関わらず常套文句で「良い旅を!」などと言っている奴もいる。こいつらは状況が全然わかってない。

私は30数年前にハンブルグ駅で荷物を忘れて、これはリュックサックであったがそのままベルリンに行ってベルリンから電話をかけてハンブルグ駅に保管されているのでハンブルグまでいちにち旅行したことがある。ビクトリーの場合はウイスバーデンで保管されているのだから、フランクフルト鳥栖は電話で車で30分もかからない。フランクフルトのホテルが米の時に私はヴィースバーデンのホテルに泊まったりしていたのだ。

駅の遺失物保管所は日本語での表示はもちろんないしロストアンドファウンドとも書いてない。ドイツ語で書いてあるのである。だから引き取りが心配でホントは私が行ってやりたいがそうもいかないので誰かドイツ語のわかる人を同行できればいいなと思った。

とりあえずFacebookで彼に知らせた事はそういうものは必ず出てくると言う私の経験を伝えた。パスポートは持っているのかそれともリュックの中に入っていたのか、パスポートの再発行になると時間がかかるので面倒だから、帰国証明書をもらえばもっと早くできてタイトなスケジュールに慌てなくて済むと言うなことを書いた。

それから数時間後にFacebookを見たら幸いにして彼が忘れたリュックはミスバーゲンの中央駅に保管されているそうである。そこまではわかったのだがビクトリーはそれで安心してしまって結局荷物を取りに行かないのではないかと余計なこと心配した。

遺失物保管所で忘れたリュックを受け取るときには当然IDが必要になるのでそれを用意しておいた方がいいという話もした。

なくし物で思い出したのは30年前にカメラカメラジャーナルのツアーで初めてベルリンに行った時中川編集長が全員のチケットを取られるといけないと言うので預かって、その鞄をベルリンのバスの中に忘れてきたのである。

翌日未明にホテルの受付に連絡があった。彼が泊まっているホテルの宿泊カーか領収証を入れてあったのは良かったのだ。
未明にタクシーでベルリンの市営バスの遺失物保管所に出かけた。そういうのは大抵バスの終点にあるからとんでもない郊外なのである。ヨーロッパはどこにしても遺失物はよき人の意思で正しく扱われると言うのが私が今までの体験である。
それでバスの営業所でそれを取得してくれた人のお礼と言うのでこれは最初から決まっているのであるが確か20ドイツマルクを支払った。だからこれはヨーロッパがユーロになる前のずっと以前の話であることがわかる。今回のビクトリーのリュック紛失事件にしてもそうだが彼はウイスバーデン中央駅の遺失物保管所ででいくらかユーロ支払わなければならないだろう。
それにしてもビクトリーはプレゼン用の資料の入った大きなカバンはちゃんと持っていて貴重品の入ったリュックをなくしたと言うのは実に運が強い男だと思う。
これが逆だったらお笑いにもならないからだ。

2016年7月20日 (水)

母の形見の万年筆で書いたあたしの写真展の感想

Image
ササキジュンイチと言うのは鵠沼海岸に住んでいる私のことを研究する趣味人である。
私が発表した本とか写真集の事は私よりも彼の方がよく知っている。
世の中には田中長徳研究家と言う変な人がいるが彼はその筆頭株主だ。

彼と知り合ったきっかけと言うのは写真集東京ニコン日記の中で佐々木の先代の洋服屋さんが千代田区の富士見にあってそこのウィンドウを撮影したことにある。
その数年後に私がある写真雑誌の新車をしているときにその中でいいいい写真を撮影する人がいた。その人がその人だったわけである。

彼がすごいのは今の時代にインターネットを一切使わないと言うことである。何の事は無い30年前の我々の暮らしをしているわけだ。
だからSasakiが私に連絡をくれるのは封書が葉書だけである。こういうコミニケーションの仕方も良いと思う。

ササキは四谷のギャラリーニエプスの展覧会に来てくれてそれに対する長い感想の手紙をくれた。
その手紙はいつもは自分の好きなペリカンだかモンブランの万年筆に鳩居堂の便箋なのだが今回はちょっと違っていた。よく読むとお母様の形見の万年筆で書いたのだと言う。しかもそのインクが紫色というかセピア色ていうか薄いのだ。読む方としては迷惑なことであるがそれが彼の表現なのだから文句は言えない。
こういう筆記用具の遊びとゆうか趣味と言うのはショートメールでやりとりをしている時代には逆に非常に貴重なものだと思う。

その手紙の様子をここに掲載しておく。ササキの私の扱いは送った写真集や本をいつも江ノ島をバックにして撮影することにある。
70年代にケンジョセフソンと言う写真家がヨーロッパの有名な観光地を背景にしてそこに自分で撮影したその場所の写真を手に持って写し込むというコンセプトの仕事があった。ササキの江ノ島バックの私のはがきの案内と言うのは何か同族に属するようでいてそれが面白い。
ササキは私の写真展の前だか後だか知らないがお母様のお墓のある四谷に参詣に行ったそうである。これもいくようになるであろう。写真展と言うものはもともと生前葬みたいなものだ。

江ノ島は語録年前に夏の暑い盛りにSasakiと一緒に中な坂を登ったり降りたりしたことがある。でも最近のあたし江ノ島の記憶と言うのは実は羽田を離陸した直後に飛行機の上空から見た江ノ島の全景である。南に離陸した飛行機は大きくカーブして江ノ島まで行ってそっからまっすぐ北に向かって新潟のジョークを通日本海からトランスシベリアンルートに入るのだ。

sasakiから来た手紙はメールとは違って手に取ることができる。それがなんとも不思議である。

2016年7月19日 (火)

Today Tokyo 1966 偽物の横断歩道 私の撮影の限界点

Image

四谷のギャラリーニエプスでの展覧会の最終日にこの作品を買ってくれた方がいた。
これはどこかの自動車教習所のコース内の横断歩道なのである。

要するに交通法の理論上の横断歩道であって実際に歩行するわけではない。だから横断歩道の先はそのまま植え込みになっていると言う異様な空間だ。

まず偽物の横断歩道ですね。

この間、札幌の今井コレクションを見に行った時にホテルはパークホテルであった。
中島公園のメトロの出口から出て私は迷ってしまった。というのは横断歩道のゼブラストライプがそこには存在しないのだ。
おそらくスパイクタイヤなどできれいに剥がされてしまうのであろう。地元の人はそこが横断歩道であると分かっているから平気で横断しているが、私は最初それがわからなかった。

マンハッタンの横断歩道のストライプもはげてすごいが、札幌の中島公園の横断歩道のストライプはそれ以上で全く見えない。

東京を徘徊しているとあちこちに子供の教育のための交通安全教室みたいな公園がある。
それらは信号とか横断歩道がミニチュアサイズで見ていて実に楽しい。しかしこの横断歩道、1966年に撮影したそれはそういうものとは全く異なる不思議な圏外の存在である。

写真家をやっていて半世紀になるが、今回この作品を展示するかどうかについてはかなり迷った。こういう作品を理解してくれる人がいないのではないかと言うのが、こちらの通常の考え方であったし、別の見方をすると、これは私の撮影できる「視圏の限界」とも言えるものなのである。

だからそれを展示してくれたギャラリーニエプスに、さらにそれをコレクションに加えてくれた人と言うのはもっとすごいと思う。

いちど会って話がしてみたいものだ。
いわゆるスナップショットのキビキビした魅力と言うものとは全くかけ離れた、まずこれは表現の極北とでも言うものなのであろう。

2016年7月18日 (月)

中 悠紀 写真展 「AUTUMN LEAVES2」 展示期間:7月12日(火)〜24日(日) ギャラリ_ニエプス

中 悠紀 写真展 「AUTUMN LEAVES2」 展示期間:7月12日(火)〜24日(日) 13:00〜19:00

中 悠紀のパリの1連の作品は普通の我々が考えているパリのちょうど裏返しの現実世界が写っているのが面白い。
60年代の半ばのアサヒカメラで名前は失念してしまっただが、パリ在住のフランス人写真家のパリで撮影した仕事があった。そのタイトルを「死すべきパリ」と言うのである。
そのモノクロームの仕事を中 悠紀を見て思い出した。

例えばそれはHISでパリにきたツーリストが体験するパリとは全く異質のものなのである。

中 悠紀さんとそのことに対で話したらパリの周辺部、しかもフランス人この場合は人種的なものであるが、我々と同じ有色人種の暮らしているパリのキャンデイッドなのである。

カメラはリコーGRDでカメラが斜めになっているショットが多い。私などはそういうショットはセレクトする時極力排除しようとするのだが、彼の場合はそういうカメラの震えとか体の反応をこのまま生かしている。

全部の作品はリコーのデジタルカメラで撮られたものだがその理由も答えが面白かった。フイルム代が自分で管理できないほど高くなっているので、デジタルカメラを使ったと言うのである。これは正しい今の時代の写真家の仕事のやり方であると思う。

私の周辺のライカ愛好家の最近の話題はフイルムをどこでどれだけ安く買って自分は何100本あるというのが自慢なのである。
この場合はモノクロフィルムのトライXのことを指している。
こういう自慢話が貧困である事は言うまでもない。
何か大昔の社会の羊を何百頭持っていると言うのといささかも変わらないからだ。

トライXを数百本所有していると言う事は何の自慢にもならない。
トライXを数百本撮影したと言う事はこれはプライドになるのだ。

その意味で中 悠紀さんの写真に対する態度は真面目で正しいと思う。

Image_7

2016年7月17日 (日)

ホワイトハウスカメラマンのカメラ

Image

Image_2
アサヒカメラに出ていた古いニコンの広告がある。それは見開き2ページでモノクロのグラビア印刷で大統領執務室で後姿を見せるケネディー大統領の姿だった。
大統領専属の写真家がそれを撮影したのである。

ちょうどキューバ危機の時の苦渋の大統領の判断をその1枚のショットは見事に表現している。
それがニコンに35ミリの広角レンズで撮影された。
子供の時に父親が定期購読していたアサヒカメラを見てそういう写真とりたいと思い、そういうカメラが欲しいと思った。

顔本友達がウェブ上で今のホワイトハウスのカメラマンが使っている機材のことが載っていると教えてくれた。それはこういう展開なのである。
フルサイズのキヤノンの一眼レフは大統領と同行しているときに誰がカメラマンであるかを明らかにするためのシグナルに過ぎない。
ちょうど核ミサイル発射装置の鞄、フットボールを持った人が誰であるのかすぐわかるのと同じである。

夢がなくなったと言うのはあまりにも浅はかな言い方だが、この現代のホワイトハウスカメラマンの機材を見てそれが欲しくなると言う気持ちには私はならない。
せいぜいがてっちゃんのちょっと凝っている人の機材と言う感じがする。

ついこの間私が展覧会をギャラリーニエプスでやった、ちょうど半世紀、1966年頃の話だ。
ニコンとライカを手に入れると言う事は一生の究極の目標であった。
しかしメーカーからしてみると一生に一台のカメラを買われただけでは商売にならない。それで今のような状態になった。

カメラを手に入れるのが簡単になった時代と言うのは逆に言うとカメラの夢を見ることができない時代と言うことなのだ。つまらない時代である。
中にはカメラのスペックだけ見て実際に使わない人もいる。

2016年7月16日 (土)

2016 暑中お見舞い申し上げ候

Image
このショットは1974年の1月に撮影したものだと思う。ウイーンは実は雪と言うのはあまり降らない所なのだ。当時は今より寒くてマイナス20度位には平気で気温が下がっただから雪は降らない。

Winの街の西にある友人のところでしたたかワインを飲んで終電ギリギリの路面電車で自分のアトリエに帰るときにリング通りの乗り換えで撮ったものらしい。

そういう前後関係はほとんど忘れているのに使ったレンズだけはちゃんと覚えている。これはライカマウントのレアなニッコール5センチF1,5で撮影されたものなのだ。
Nikon最初期のSマウントでは若干あるが当時何かのリクエストでそれをライカマウントにしたレンズのようである。
当時の世界の基準ではf 1.5が最高の明るさであってツアイスとかライツがこれを自慢していた。そのレベルを抜き去るために日本では改良して明るさf0.1だけ上げてf 1.4として発売したレンズがブームになった。
名著「明るい暗箱」を読んでいるとこれにはかなりの苦労があって外に言えないような背景もあったらしい。当時の設計のトップの更田さんがそのことを漏らしている。

シトロエンのアヒルが雪をかぶっているのだ。自分の頭の中には石元泰博さんのシカゴで撮影された雪をかぶった車の名作が常にあった。

この間、新潮社の車雑誌で車を使った写真芸術の特集がありその中で私はその石元さんの名作を紹介させていただいた。そのオリジナルは高知県立美術館にあるのでその縁で私は高知に初めて行ったりしたのである。

私のwinでのこの車のショットと石元先輩の名作を比べてみると石元さんのは雪が降り始めたときに撮っている。私のはかなり降り積もった時点で撮っているからシトロエン2cvのシャーベットのように見える。

このショットをFacebookで毎年暑い盛りに使っているとその反応が良い。100以上のいいねを下さるのである。それで思いついてこちらでも使ってみることにした。

2016年7月15日 (金)

ケイイチさん

Image

今回の私のギャラリーニエプスの個展で1番嬉しかったのは田原桂一さんが来てくれたことだ。
あたしはいなかったが、こんなの撮っていたんだ、と興味津々であったそうだ。
光栄なことである。

その時に田原さんも言っていたが私に会ったのは1980年だというのである。
つまり36年間会っていないわけだが写真家の付き合いと言うのはそれで良いと思う。

田原さんもいちどwinに私のアパートに遊びに来たことがあって、その時何をしたか記憶してないがおそらく中古カメラ屋巡りとワイン酒場巡りだったのだろう。

36年前のパリで私があったのは他にジャックラルテイグさんと、ピクトのピエールガスマンさんであるからケイイチさんは懐かしい前世紀のパリの私にとっての唯一の生存者と言うことになる。
写真家の仕事は常に遺作の気分を漂わせているのが本物だ。

田原さんと私とはカメラの話ばかりしていたと中藤館長に言ったそうだ。私がフリードランダーとかロバートフランクとか、ウイリアムクラインとかエルンストハースとか石元泰博にあった時だって、写真家同士の会話はカメラの話に限る。
写真芸術の話を戦わせること自体意味がないし失礼である。
だからバーの二階などで写真芸術について熱く語るのはもともと三流の写真家なのである。

中藤館長によくケイイチさんが来たのが分かりましたねと言ったらパリの中藤館長の個展にケイイチさんが来てくれたらしい。
人間は何十年もたつと当然風貌が変わるがケイイチさんも昔より今の方がいい感じになった。

70年代のパリでケイイチさんとはよく飲みに行ったが彼のアパートに遊びに行ったこともある。
カルチェラタンにあるベトナム料理屋でそこの彼推薦の細いラーメンがなかなか良かった。青くて辛いチリを乗っけて一緒に食べるのだ。
これは国際的な写真家が好む国際的なラーメンである。

その数年のみ日本のメジャーなメディアの取材でパリに行った時その店にスタッフを伴って行ったらみんなそのベトナムラーメンをバカにしていたのでがっかりした。
(不)通の日本のお客さんは日本のラーメンでないとだめなのであった。

パリに行くとケイイチさんのことを思い出してその最初に教えてくれたベトナム料理屋に行こうとするのだがついに発見できなかった。
昨年の5月もその前の5月もそのラーメン屋を探して発見できなかった。

しかし本物のケイイチさんが来てくれたんだから良しとしよう。

2016年7月14日 (木)

チエコの腕時計Prim

Image_3

神田明神脇のギャラリーバウハウスで展示中のプラハの写真家ミロスラフクベシュの写真展が面白い。チェコスロバキアの二顔レフフレクサレットで全部撮影しているのである。

このカメラは最近は人気機種で10年ほど前にプラハに遊びに来た友人が中古カメラ屋にずらりと並んだプレクサレッドを全部買って日本に持って帰った。そのためにしばらくはそこの店が空洞になっていた。

このカメラを実際によく使ったチェコの有名な山岳写真家が世界中の高峰で悪天候でもう撤退しなければならないとなったときに、フレクサレットのフイルムを抜いてそれだけ持ち帰ったのである。ちょうど月の表面から帰還するときにハッセルブラッドのマガジンだけ持ち帰って本体を置いてきたのと同じアイディアである。

その写真家によると世界中の山岳の高峰上に少なくとも数台のフレクサレットを残してきたそうだ。これがローライだったらそれがおしくて遭難してしまったかもしれないと書いている。

そのカメラも面白いが、実際に私が面白いと思っているのはミロスラフの撮影した写真の時代である。これはビロード革命といっても1989年のことであるが、そのの前後に撮影しているからだ。

つまり部外者から言えば古き良き時代のプラハ、彼らからしてみれば不便で暗くて自分が圧殺された時代の記録なのである。

チェコは一次大戦に世界で最も進んだ工業国でイギリスをしのいでいた。それで優秀な工業製品が生まれた。有名なところではシュコダ自動車工場が作ったスイス製の高級乗用イスパノズイザがある。

ビロード革命以前のプラハの街角にある小さな時計屋さんが好きだった。本当のメカニカル時計の好きな連中がそこに集まっていた。
国産のチェコの腕時計はプリムと言うのである。

新品で買って友達のお土産に持って帰ったこともあったが、市内内に幾つかかある言われる中古の生活用品を売っている店、これをバザールと言うのであるがそこでもよく買った。値段は500円、千円以下なのである。
これもその一つである。17石の金メッキであってベゼルの周囲はバーク仕上げのなかなか高級感を漂わせたモデルである。非常に機械のあたりがいいのか正確であってその精度はクオーツと全く同じだ。

クオルツと全く同じと言うのは失礼な言い方であってそれなら700円の時計と同じなのかと言われたら回答のしようもない。ここはひとつクロノメーターと同じだと書き直さなければなるまい。

撮影で歩いてるとブレスレットのピンが落ちてしまうこともよくある。パリのモンパルナスの広場を歩いてる時にやはり機械式の時計のブレスレットが外れた。それで最寄りの時計屋さんに入って600円位でピンを入れてもらってすぐ修理してもらった。

この金張り時計のピンが外れてブレスレットがバラバラになったのでビックカメラに持っていった。最初は780円で治るということであったが、30分たって行ってみたら工場送りで7,000円かかると言う。それで修理の依頼を止めにして歩いて佃島に帰る途中にあった小さな時計屋さんで依頼したら800円で30分で直してくれた。

ライカとかロレックスと言うのはどうも修理依頼する人はそれがドイツ送りになったりスイス送りになって数万円の修理代に満足してるようなところがある。

これは病院の待合室の病気自慢のようなところがあるので滑稽である。

2016年7月13日 (水)

✴️お知らせ

✴️チョートクカメラ塾は毎月第二水曜日と第4水曜日の配信です。それを私が勘違いして前回の配信は7月6日にお送りしましたが、これは本来7月13日に配信するものでした。よって7月の次回の配信は7月27日に水曜日になります。

✴️ミロスラフ・クベシュ
「ドキュメンタリー・フィルム上映とフレクサレットの夕べ」
ゲスト: 田中長徳(写真家)・横山佳美(写真家)
ミロスラフ・クベシュの貴重なドキュメンタリー・フィルム(監督ダニエル・シュペルル 日本語字幕)の上映と、生前クベシュと親交のあったチェコ在住の写真家横山佳美氏が来日して、クベシュの人となりについて語ります。
また田中長徳氏には、チェコ製二眼レフカメラ、フレクサレットへの想いやエピソードなどをお話いただきます。
日  時 / 2016年7月22日(金) 19:00~ (当日は18:00閉廊、18:30より受付開始)映画上映は20:00より
参加費 / 2000円

二十八ミリレンズは僕の視覚 東松照明

Image_4

尊敬する東松松明さんのレンズは一眼レフNikonFであった。
私の好きな写真集が確か名古屋大学の探検隊に同行したのだと思うが、アフガニスタンで撮影した1連のシリーズがあってそれが好きであった。タイトルは「泥の王国アフガニスタン」と言うのである。

ハードカバーの真四角な写真集を何度も繰り返してみた。調べてみると使っているレンズは非常にシンプルで28ミリと50ミリと105ミリなのである。

当時のスターだった高梨豊さんはライカの使い手であったからそれを比べると何か写真と真面目に取り組んでいるのは東松さんで、高梨さんは西洋風であって東松さんは日本男児であると言う感じがした。
これは当時の私の国際的な感覚のズレなのは確かである。なんせハタチの当時の世界観だ。

ニコンの広告などでもホワイトハウスの専属写真家は皆Nikonを使っていたからだ。

28ミリf 3.5と言うレンズを私も高校生の時に真似をして買った。7月1日から開催し満員御礼お買い上げ多数ギャラリーニエプで、この広角レンズで撮った方が多い。当時の28ミリは超広角デンズであると言うふうに分類されていた。一眼で35mmより短いのはなかなか製造が難しかったと言う時代が1,950年代終わりにあったのだ。

浜谷浩さんもそうであってペンタックスが作ったタクマー28ミリを持って西ドイツのアーヘンで鉄工所を撮影していた。それがダイナミックな視野でなかなかすばらしいと思った。私の場合は28ミリの遍歴を繰り返して今は最も初期の戦前の2.8センチの広角レンズテッサーであること気づいた。
明るさというか暗さf8であるがスナップシューターの私としてはこれで全く困らない。
コンタックス、Nikon、そしてアダプターを付けてライカに使っている。

2016年7月12日 (火)

オオミヤの永六輔さん

Image_2
永六輔さんが亡くなった。83歳。

1,967年頃であったか。悪友の須田一政さんと東京をカローラ1100でウロウロしていた。
一日のと言うよりか夜遊びの締めくくりは神田淡路町の洋菓子店オオミヤでコーヒーを飲むことであった。

今ではもうやっていないが当時はオオミヤは早朝から営業してバッハが流れていたのである。
顎のしゃくれた派手なジャケットの若い男性があの喫茶店の長いカウンターでコーヒーを飲んでいる姿は今もありありと思い出す。

須田さんと私がその長いカウンターの1番奥に座った。永六輔さんはいつもエントランス近くでホットコーヒーとミートパイなのである。

須田さんが私に耳打ちした。あそこに座っているのがいま売り出し中の放送作家永六輔さん、、、。

今でもそうだがこの喫茶店は天井が非常に高くて私などはヨーロッパに行く前、その練習としてこの喫茶店によく行ったのだった。
実際にwinなどに行ってみるとこの喫茶店より本物のwinの方が、天井はずっと低かったりして戸惑ったこともある。

それから四十年ぐらいが経過して永六輔さんの番組土曜ワイドでご一緒したことがある。
といっても実際にスタジオでお目にかかったのではなくて私は放送車で六本木界隈を歩き回ってラジオごしに彼 と話をした。
こういう会話というのは興味津々で私は永六輔さんを試す意味ではないが、最初に数十年前の朝の神田の喫茶店の長いカウンターの端でコーヒーを飲んでいらっしゃいましたねと、まず第一声を投げかけた。
永六輔さんはそのことをちゃんと覚えていらしてそこから会話がスタートしたのである。こういう大昔の記憶の会話のキャッチボールと言うのは非常に楽しい。

当時私は六本木ヒルズに仕事場があってマイクを持ってその敷地内で話を始めたら、いきなりガードマンさんが飛んできた。ここで勝手にやられては困るというのである。それもそのはずだ。
それで六本木ヒルズの敷地の1歩外に踏み出したら彼は何も文句を言わなくなった。これが仕事と言うものがあるであろう。

FM放送のインタビューなどは実際に小さな機材でやってくる。ところが中波と言うのはなかなか面倒な装置であるようであって、結構大きめのジープのような車が来てそこから中継用のアンテナを上に伸ばすのであるそれは10メートル近くあった。

放送の手順の打ち合わせをして私がちょっと席をはずしてその場所に戻ったら中継車がいなくなっていた。それで私は焦ったのである。何かバス旅行で集合の時間に遅れてきたためにバスが先に行ってしまったような焦燥感がそこにはあった。

今にして考えてみるに、彼に実際に会ったのは1967年の、神田カルチェラタンが出現する前の年で あった。
だからどうということはない。
人生ににいちど合えればそれで充分なのである。

なくなった写真家の宝田久人さんが彼のデビュー作写真集の表紙の帯を永六輔さんにお願いしていたことを今になって思い出した。そのタイトルは「停まらない汽車」と言うのである。

2016年7月11日 (月)

古いビアグラスの風景画を愛でる

Image_4
1980年の晩秋にそれまで住んでいたwinを引き払って極東に移住したわけである。

その時に持ち帰ったわずかなヨーロッパの記憶の断片がそのままクローゼットに保管されていたのはこのたび家人が発見した。36年ぶりの発見であるからこれは実にタイムカプセルといってもよい。

その中にボヘミアでおそらくどこかの古道具屋で買ったと思われる古いビアグラスがある。今の俗な観光地のビアグラスとは異なりなかなか風格がある。

当時の旅行者はこういうヨーロッパのあっちこっちにある教会名所旧跡などをめぐってこういうグラスを買い集めていたのであろう。文字から判別するとこではボヘミアのクスナホラだと思う。

何度か行ったことがあるが教会の真ん中の通路が教会の列柱によって進行が阻止されていると言う不思議な建築構造であった。こういう不思議な教会建築は他に見たことがなかった。

それで350ccのビール、実際には発泡酒をこれに注ぐとピタリと収まるのである。オーストリアハンガリー文化圏ではワインもジョッキで飲むがそれはサイズが4分の1リッターなのである。これは350ccだからビール用のグラスであることがわかる。

これにビールを注いでにわか仕込みのビアガーデンをバルコニーで開催した。
最近気にいっている十勝のチーズを一個だけ持ってそれでビアホールごっこをするのである。オープンエアの中で飲むビールで気がついた事は、時間をかけて中の飲み物が常温になっても十分に楽しめると言うことだ。何か忘れられていたことを思い出したような気がして嬉しかった。

2016年7月10日 (日)

第一面が凹んだレンズが好き

Image_3

腰な北斗レンダーブランドがえらいのはその当時実際に使えるライカマウントのレンズが市場に全くなかったことにある。

任意団体コシナ研究会が今年で20周年になるそうだ。実に大したものだと思う。もともと腰な研究会は我楽多屋さんが主宰して開催したものだった。我楽多屋さんの隣の喫茶店にんじんで腰なの話をしたら、たまたま最前列に座っていた男性2人が後のコシナ研究会の会長と風会長になる人であった。私もコシナ北斗レンダーのカメラやレンズはよく使った。

その中で好きなレンズはいっぱいあるが、1番気に入っているのはこの玉である。私はレンズに変な好みがあって、第一面が凹んでいる鏡玉が好きなのだ。これがウルトロン35ミリである。

第一面が凹んでいる1番有名なレンズはシュナイダーのマクロシネコン10ミリであった。ほかにイカレックスのウルトロン50ミリも第一面のレンズが凹面になっている。実際の映りがどうこうと言うのではなく、写りも良いのに決まっているが、一面が凹んでいるのが好きなのだ。

1976年に現代日本写真家展の準備のために来日した時、大倉瞬二さんに北新宿のアトリエでお目にかかった。2人ともレンズ大好き人間なのでレンズじゃんけんが始まり大倉さんは秘蔵の頭脳35ミリf 1.7を見せてくれた。彼はガキ大将であるから「このレンズは俺が死んでもチョートクおめえには絶対やらねー」と啖呵を切っていた。
ウルトロンのこのレンズが35ミリf 1.7と言うのは小林さんがやはり幻の頭脳のレンズがお好きだったせいなのではなかろうか。

2016年7月 9日 (土)

アラーキーが撮った 写真集 道の 先の道を行く

Image


Image_2

以下は7/7の顔本より引用
7/7七夕大徘徊 快晴気温三十五度 梅ヶ丘のアラーキーバウハウス観光にゃ。美登利寿司は二時間待ちだが、アラーキーハウスは待ち時間なし。そこの三階から写真集 道 を撮影したのか。そのアラーキー撮影の道の先の小公園できうけい。その名をスミレ公園という。アンダルシアの酷暑の中、豪徳寺。おじかで氷小豆。おかみさんにアラーキーの話をしたら、写真集「冬の旅」を出してきて昔の店舗を示す。アラーキーに縁のある七夕なり。

アラーキーさんとは電通を彼が辞めた当時からの友人だ。小田急線の電車の中で遭遇することもあった。二年前の写真集 道 はアラーキーが梅ヶ丘の家の三階から撮影した写真集だ。これは「東京は秋」と並ぶ名作である。アラーキーの仕事には二種類あって エロス 関係はあたしはダメである。編集者さんが勘違いしてSM雑誌の使い残しを自分の雑誌に掲載するなどは同断だ。

写真集 道 は 木村伊兵衛さんが晩年に自宅の病室から隣の床屋を見下ろしたのと同じ生きていることへの切迫感がある。そこがいい。

同業者としては荒木が3階の窓から撮影した南に続く道のその角のカギ型小路の先に行ってみたくなるのは当然である。
それで7月7日の東京の最高気温がお昼過ぎに36.7度と言うアンダルシア日和に荒木バウハウスのその先に行軍を開始したのである。

世田谷のこの辺の街並みが私の眼に不思議に思えるのは、そのような町並みは日本の町以外になかなか存在しないということにある。マッチ箱の家が密集しているとは言うまい。めったやたらに違う時代の建築サンプルのレプリカが密集した住宅展示場と言うのが正しい。
ベルリンの郊外に30年代に制作された集合住宅の展示場がいまだに残っている。その中でルコルビジェの作った小さな建築があるがその印象に1番近い。

そういう住宅展示場のアンダルシアの昼過ぎの熱風の中を歩いていたら、小さな公園に出会った。非常に太い大木が数本あってそこだけが涼しい木陰を作っている。その下のベンチで休憩して持ってきたミネラルウォーターの瓶が空になったので水道の水に詰め替えた。公園の名前は代田橋3丁目第3児童公園かと思ったらすみれ公園と言うのであった。Image_5


2016年7月 8日 (金)

ウイリアムクラインのNikonS3

Image
ウィリアムクラインが来日したのは1957年だったか…
羽田空港のタラップを降りながら撮影を開始したと言う伝説もある。彼はモノクロフィルムを感度1000で撮影していたという神話もある。東京で撮影した数100本のフィルムは日本の現像のプロがそれを現像したので細かいデータも残っている。

クラインはこの撮影で大判の写真集「東京」を出版したのである。
世界的写真家が来日と言うので当時の日本光学は数台のNikonと21ミリから500ミリまでのレンズ寄贈している。歴代の日本光学でカメラを寄贈するというのは極めて稀な例であるからこれは何か背景に約束があったかもしれない。

30年ほど前にプランタンのオープニングでクラインが来日した時にたまたま私に相談があった。
チョートクさん、、、大昔にニコンから受け取った機材はもうすでにボロボロなので新しい機材の提供を頼んでくれないか、と言うのである。
実際には私のお使いはうまくいかなかった。どうもニコンの偉い人はクラインを知らなかったようである。それで彼はその直後にクライアントをライカにしてしまった。そのライカR6で二十年年また写真を撮影したのである。ニコンは大事な広告塔を失ってしまったわけだ。クラインはその後ソニーのフォトアンバサダーにもなっている。

ところでクラインがが初来日した時に持参したカメラはニコンのS3なのである。それもクローム仕上げのニコンだ。
クラインが奥さんらしい人と日本庭園を散歩している写真があってそのニコンをぶら下げている。クラインの場合は奥さんが航空会社の客室乗務員であったかどうかは知らないが、なくなったエドヴァンデル エルスケンの奥さんはTWAの客室乗務員でそのために配偶者の無料チケットで世界中を取材できたのだそうである。

今では格安航空券で誰でも世界に自由に行ける時代であるが当時この場合は1,950年代だがあの当時は飛行機に乗ると言う事が大変なステータスであった。値段も高かった。

クラインの初来日の時、その話は当時のカメラ雑誌にたくさん掲載された。その中で桑原甲子雄先生が編集長だった産経カメラであったか、浅草の三社祭を撮影しているクラインのコンタクトプリントがそのまま掲載されている。S3に28ミリをつけてクラインはほとんどノーファインダーでお神輿にぐんぐん接近していくのである。
神輿かつぎのおっさんの顔が見切れるほどクローズアップしている。これは彼がその直後に方向変換した映画撮影の技そのままである。

20数年前にプラハでクラインのアシスタントを数日間務めた時、脇で見ていたら彼のライカR6にエrマリット28付のカメラは撮影者本人の意思に関係なくどんどん前に前にと進むのである。
さすが天才写真だなと感心した記憶がある。

2016年7月 7日 (木)

さらば あたしの 青い上着よ、、、

Image

このブログの数日前にも書いたが6月25日にマンハッタンのビルカニンガムが87歳でなくなってびっくりしていた。その次は土曜日だったらその次の土曜日札幌の今井コレクションから東京に帰ってくるときに私が札幌空港でビルとお揃いの上着をどっかに忘れてきたのである。東京は猛暑だったから問題は無いのだが何か大事なものを札幌に置いてきたと言う気がした。

このiPhoneのセルフポートレートは昨年の5月にパリでとられものである。中藤林忠彦賞受賞者が個展を行ったパリのIn betweenギャラリーの小路である。

このセルフポートレートを仔細に観察する1年前の私は何かパリ在住老ベトナム人労働者と言う感じである。我楽多屋さんで買った500円のピンクのハンドバックを斜めから下げている。これには理由があって当時の私は帯状疱疹がひどくて左手が全く使えなかった。それで斜め掛けしたハンドバッグからNikonを取り出したりしていたのである。

左手の使えないのはかなり完璧なひどさであって、例えばブレックファーストの時にコーヒーに薄紙で包装した角砂糖を指で紙を剥くことができない。それで歯で紙を外してコーヒーをかき混ぜていたりしたのである。一年経過してみると今の私は当時に比べると非常に状況がよくなっていてありがたいことである。

それでビルの真似をして買った青い上髭だが、先週の土曜日は札幌は非常に寒かったから空港に到着するまではずっときていたのを覚えている。それから人生初めてのフードコートに入って590円を支払って醤油ラーメンを食べた。
そして展望台に上ったのである。小雨で凄い寒かった。その時点では上着はきているのだ。それからラウンジに入って牛乳を飲んだりマッサージチェアにかかったりした。チェアーにかかっている時は上着は脱いでいる。それからセキリティーチェックに入ってチェックを抜けてサテライトのそばの椅子に座っているときに紛失していることが判明した。
今まで飛行機の中でツイードの上着を脱いでそれで羽田に到着した後に飛行機から出てきてそれに気が付アテンダントさんに取りに行ってもらうことがある。しかし今回だと時間がせまっているのでそれをやる時間もなかった。

Facebookさんでその方面つまり空港の運行関係に詳しい方が青い上着の所在を調べてくれた。つまりラウンジとかセキュリティーチェックのオフィスが紛失物に関しては一括してコントロールされているそうなのである。でも発見できなかった。何しろボロボロの上着だからこれはゴミとして間違って捨てられてしまった可能性も高い。

そういうわけでビルカニンガムの青い上着の思い出とともに、私の青い上着も札幌のどこかに置き忘れられているというのも私の記憶の中では重要な宝物となったのだ。

2016年7月 6日 (水)

原平さんの金属人類学入門

Image_2


Image_3

赤瀬川原平さんが亡くなってもう随分時が経ったがいまだに私は原平さんの昇天が信じられない。というのは私の日常的なカメラとかモノへの考え方であっちこっちに原平さんが登場するからだ。

対談もずいぶんやらしてもらったし、原平さんの著書に帯を書かせてもらったこともあるし、また私の本仁原平さんが帯を書いてくれたこともある。

20年ほど前にその関係では最も早い時期に出されたのがライカ大図鑑と言うCDであった。それに関連した当時のスタッフの岡野さんが原平さんと私が対談をしている貴重な立体画像を送ってくださった。これを交差法で見ると原平さん生きているのである。

その対談はは蓼科の山荘で行われたことになっているが、東京は恵比寿のどこかの事務所である。立派な庭があるのでそこでやったが、何しろモスキートが多かった。それで対談の中に今年の蓼科はモスキート多いですねなどと言う冗談も出てくるのである。

佃の居室の大テーブルの乱雑は別に気にしない。ヨセフスデクも、マンレイもそして最近ではスティーブ・ジョブズも彼らの仕事場の机はジャングル状態だった。そういう先人の例をそのまま受けてこちらは安心しているのである。

風邪気味なので魔法瓶の麦茶を飲んでいる。その間にその金属光沢を見て思い出したのは最近はめっきりやらなくなったナイコール現像タンクを思い出したことだ。
そこら辺も原平さんの金属人類学入門の教えが生きているわけである。そういうステンレス製の魔法瓶に対抗できるようなカメラと言うのは最近のデジタルカメラには存在しなくてやはり60年以上前に作られたカメラに金属学の本質が露出してしているのである。

1,950年代に作れたと言う35ミリのレンジファインダカメラである。その名前をNovoという。小さなメーカーであったようだがレンズが富岡の3枚構成がついているからこれは悪いはずもない。後のコンタックス用のレンズを日本で制作していたところだからである。しかも私の大好きな3枚構成玉と言うのはなかなか発見できないものだ。

このカメラの仕上げを見ると最近のそんじょそこらのデジタルカメラよりもはるかに高級なのである。

預言者ムハンマド ゲンペイ アカセーゲルの予言がここに成就したことになる。

2016年7月 5日 (火)

インデイギャラリーのちから

Image
札幌から帰った翌日の午後に7月の10日まで開催している私の写真展を見に四谷のギャラリーニエプスに行った。

場所は四谷3丁目を新宿方面に行ってJAL系のホテルの先を右に曲がったすぐ左というふうに記事に書いてある。
ここに行くのは10年ぶりなのである。
新宿通を角を右に曲がってどこら辺だったのか見当がつかなくてどんどん歩いて行ったら道が行き止まりになってそこから石段になっていた。
これがいつものあたしの東京での道の迷い方なのである。それで新宿通に戻って行ったらなんとギャラリニエプスは新宿通りを入った最初の角にあったのだ。
これが私を驚かせた。インディ系のギャラリーと言うのはレントが安いから大抵表通りから1番遠いところにあると言うのはルールなのである。

エントランスで声をかけてくれた人がエッセイスト漂流者さんであった。彼のエッセイを私は愛読しているのだ。要するに四谷田んぼで道に迷っているところを漂流者さんに助けられた日本昔話と言う感じである。

エントランスは狭くて東京の昭和40年代の香りがした。それがとてもいい感じだった。というのは建物に入るステップのコンクリにコケが生えていたりするのである。これは江戸の風情でもある。

二階にあるギャラリーに行く。広くは無いが意外に思ったのは狭いとは感じなかった。そこに私の1966年の作品が30数点みっしりと展示してあるのだ。

半世紀前、高校3年生から日大写真から1年の時に撮った作品である。まだライカは買っていなくて全部ニコンとオリンパスワイドそしてペンタックスで撮った作品だ。
おや、なかなかプリントが上手いなと思ったがこれは大学の時のプリントではなくて1月前にプリントしたものである。だからプリントの腕はだいぶ良くなっているので下手なわけは無い。

当時の東京もよく歩いたものであって新宿駅東口から半蔵門経由で銀座を経て月島まで歩いた。今はその先の佃に住んでいるので何かこのルートは懐かしい。10年近く前に雑誌の取材で石川直樹さんと真夏の暑い日それは参議院選の前の日だったが、同じルートを編集の人と石川さんと一緒に歩いたのだが、
石川三番町あたりでもうヘトヘトになったので福田和也レフェリーがタオルを投げ入れて、近くの蕎麦屋でいっぱいやってそこで解散した。その後私は月島まで歩いたのである。

要するに石川直樹は高いとこで無酸素とかでは得意だが、真夏の東京で平坦な道を歩くと言うのには向いていないようである。これはその時にわかった真実である。

ギャラリーに行きその展示を見て面白かったのは50年前に撮影した私の写真と現在69歳の私が時間軸で完全に一本に結ばれていると言うことに今更ながら気がついたこと。これはギャラリーニエプスのディレクターさん恩恵によるものである。

トークショーはそこから歩いて数分の四谷ひろば、これは小学校を改造したものだがそこに行った。椅子が足りないので皆さん椅子をエキストラで持たされたりして会場に行った。音楽室の完全の防音のところでなかなかトークはしやすかった。立ち席が出るほどの盛況であった。感謝。

1966年から1976年。つまりこの10年間の私の写真家活動つまり東京からオーストリアのウィーンの10年間の話をした。最後に私は写真のポピュリズムは嫌いだという話をした。私の真実のファンの方は全世界で500名位であろうがそのうちの選りすぐった30名の使徒の皆様が四谷ひろばに集結したのであるという話をした。

ちょうど20年前に名古屋の三越で開催した私のトークに参加してくれた方がわざわざ来てくださった。その時の記念写真をその紳士はスマートフォンの中から選び出して見せてくれた。20年前の私が写っている。髪の毛真っ黒ヒゲも真っ黒だ。これが20年の私の足跡の成果というものだ。その紳士は父を思い出すとか言うお話にて作品の中で木製のビール箱が摩天楼のように高く積み重なっている脇にポルシェならぬ、フォルクスワーゲンならぬスバルが止まっている作品をお買い上げくださった。これはペンタックスにタクマー18ミリで撮影したものなのである。

京都からも京都写真会館のお姉さん整理ーさんが駆けつけてくれた。感謝。
来年の私のパノラマ写真集の出版企画に関していろいろ打ち合わせをした。クラウドファンディングでお客様を募るのであるが会議の途中で想いだしたのは、来年2017年我が偽ライカ同盟創立20周年でもある。東京であたしの古希大パーティーを開くというのはその企画の骨子らしいのだが、それなら坂崎さんをお呼びして偽ライカ同盟大パーティーをやろうかという話になった。これはまず坂崎さん個人のスケジュールをチェックしていただくために、棚瀬マネージャーにお願いせばなるまい。というわけで今年もまだ半年が過ぎたばかりだが来年が楽しみである。

ギャラリーニエプスそうだが四谷にはモールもあったしインディー系のギャラリー率が非常に高いのはいい傾向である。モールなどはかのロバートフランクがお忍びで来たと言うのもすごいことだ。

2016年7月 4日 (月)

さらば青い上着の人

Image

ニューヨークタイムスの有名な名物カメラマンビルカニングハムは6月25日の土曜日に87歳で亡くなった。
1983年の春であったか、私がセントラルパークをディアドルフ8x10で撮影して戻るときに、カーネギーホールの前でボロボロの自転車に乗った50がらみのかっこいいおじさんと信号が青に変わるまでの間短い立ち話をした。

マンハッタンの赤信号はなかなか変わらないので、それを待っている間に見ず知らずの人が会話をするというのは結構あることなのだ。
おばあさんから家庭の愚痴を聞かされたことも1度や2度ではない。

その自転車に乗ったかっこいいオヤジはクロームのニコンFをたすき掛けにして50ミリのレンズを付けていた。彼から先に声をかけてくれたのである。というのも場所に不釣り合いな大型の木製カメラを私は背負っていたからだ。

これは絶大な効果があって当時8番街42丁目のジャンキーだらけの危ない所でもよくジャンキーさんからあんちゃんお前の持っているそのカメラはいくらするんだい?などと聞かれたこともあった。

ボロ自転車でマンハッタンを徘徊するこの親父さんは私が見たのは二度三度では無い。しかし話をしたのはこの時だけだった。

それから30年以上が経過して日本でもビルカニングハムの映画が公開されてそれを東京都写真美術館に見に行った。ビルは掃除人夫の着ている青い上着でパリに行き、何か勲章を受賞したりしたシーンがあった。青い上着の下にネクタイを締めればそれで正装になるのである。これはすごいと思った。
その映画の中に30年前のビルカニングハムのインタビューが出ていた。これは16ミリフィルムでのインタビューである。だから今と違ってアカデミーサイズの画面であるのは何か知的で素晴らしかった。
その時に私は初めて気がついたのである。30数年前にカーネギーホールの前の赤信号で声をかけてくれたのはこの人であったのかと。

2年前の5月にビルが着てるのと同じ青いジャケットを探しにパリに行った。そこでわかったのはこれは道路掃除人のジャケットではなく普通の労働者の上っ張りであると言うことだった。クリニャンクールに行ったらそんなものはあるはずもない。

メゾンドライカの前でウィンドウで品定めをしているときにここにもう何十年も住んでいる日本人の絵描きさん朝比奈さんに遭遇した。彼を近くのカフェに伴ってその話をしたらそういう古着屋さんに一緒に連れて行ってくれたのである。その裏には白いペイントの飛沫がついているなかなかの貫禄のあるものだった。それを日本で来ていたのである。

それから1年が経過して友人がくだんのジャケットはパリ市庁舎の向かいにある外人観光客向けのデパートで売っているという情報が入ってきた。
それで昨年の5月という時にまたその青いジャケットを買いに出かけたのである。オテルデビルと言うこのデパートは7階建てであるがそんな変わったジャケットが簡単に見つかるはずもない。
探しあぐねてから地下の日曜大工のコーナーのペンキを売っている脇に置かれていた。ビルのが買ったときの値段は20ユーロ代であったそうだが年代が経過してすでに40ユーロ後半になっていた。

この青いジャケットは尊敬するジョナスメカスも着ているのである。これはビルからの影響であろう。数日前の札幌行きではこの青い上着は役に立った。何しろ涼しいからだ。
ところがなんとしたことか帰りの札幌空港のセキュリティチェックで私はその上着を忘れてきたのである。チェックの時に私が1つにまとめた荷物をいくつかのトレイに分散と言う面倒なことをするので私の目が届かなかったのである。
しかも空港内は暑いからもともと上着などいらない。それでビルの昇天と同時に私の青い上にも消滅してしまった。
まぁこれからどんどん暑くなるからビルの青い上着は当分は必要ない。さらに私にはその前の年に買った白いペンキがたくさんついている青い上着がある。当分はこれで大丈夫だ。

2016年7月 3日 (日)

中島公園の夕暮れにマーラーの五番

Image


札幌の中島公園に面したパークホテルで仕事をやっていて原稿書きにも飽きた。
この界隈のホテルとまらないとなかなか中島公園を散歩する機会は無いのだ。実に3年ぶりである。

晴れた日の静かなゆうぐれである。光が暮れ残っているのが実にヨーロッパの光景だ。
中島公園の作りはイングリッシュガーデンであろう。だから広さはそんなにないのに結構長い距離を歩いたような錯覚がもたらされるのが散策には良い。
何かウイーンのシュタットパークを歩いているような気になって、いやシュタットパークよりこちらの方が公園の作りはうまくできていると考えた。シュタットパークの場合は売り物がヨハンストラウスがあるから最初からぶち壊してある。

公園を南に歩行すると右手に、天文台のドームが見えるところも非常に良い。公園と、ドームと言うのは素敵な組み合わせであるがそれは19世紀的なのである。

公園の中にあるガラスばりのコンサートホールはデザインは感心しないが今回初めて中に入ってみた。7時の開演前なので中庭には数人の人がテラスでくつろいでいる。

いきなりマーラーの5番がという声が電波のように伝わってきた。見ると品の良い紳士が8分の1リッターの赤ワインを前に連れと話をしているのだ。聞こえたのはマーラーの五番という言葉だけである。それでますますウイーンにいるような気になって私もBARに行って8分の1リッターの赤ワインのグラスを持ってきた。

7時になるとコンサートの開演であろうかくだんの紳士は姿を消した。別にその晩の演奏曲目がマーラー必要は全然ない。

札幌は文化都市で素敵だなと思うのはマーラーの五番などをYouTubeで見るのではなく、ちゃんと公園の中を歩いてコンサートホールで聞くということである。
これはなかなか真似できない文化的アクションだ。
Image_3


2016年7月 2日 (土)

札幌今井コレクションのピッケル

Image


Image_2

札幌のコレクションのあるビルの一階はカフェになっている。その展示のウィンドウの奥に登山用品が並んでいる。
ミュージアムなどでそういうものを見るとそれは何か遭難した探検隊の遺品のように見えるのが常である。
この登山用品を実際に使っていた今井さんはピンピンしてるからそれとは異なるのだが、ピッケルが誰か有明登山家の遺品のように見えるというのはそこに生命を分ける危険性が伴っているせいだ。

Facebookを見ていたら友人の石川直樹がどっかの山の頂上を極めたそうである。今の登山家はこういうピッケルを使っているのであろうか?
それとももっとモダンな登山用品を使っているのであろうか。
戦前のライカを使っている私にとってみればこういうクラシックな登山用品でも使えると思うのだが、今はそうでは無いのだろう。

私にとってピッケルが残酷な武器に見えるのはトロツキーがメキシコで暗殺された時に使われた凶器がピッケルがあるからだ。何かサイレンサー付きの拳銃よりもピッケルで殺される方が痛いのではないかと思われる。

その今井さん愛用のピッケルを見せていただいた。これは札幌の有名なその手の専門店から買ったものであると言う。その店の名前は秀岳荘という。ピッケルは門田と言うメーカーである。

鍛えられた鋼というのはなかなか凄みがある。

2016年7月 1日 (金)

1967年新宿最初のライカを買ったラッキーカメラ

Image

札幌快晴2日目。日本カメラ博物館の市川さんと一緒に今井コレクション定例研究会の2日目である。

Facebookの友達が珍しい写真を送ってくれた。どこか極東のカメラ店のファサードの写真である。お店の名前見たらそれがラッキーカメラと言うのである。

びっくりした。

私が1967年の11月に最初のライカM2のブラックペイントを買ったお店である。113万0262の製造番号でたしか値段は12万5,000円だった。大金である。

7月1日から開催する四谷のギャラリーニエプスの写真展「Today Tokyo 1966」は実はライカで撮影した写真は1枚もない。その理由は1966年には私はまだNikon Fしか使っていなかったからだ。そのニコンにニッコールの2.1センチをつけて東京の街を斜めにノーファインダーで突っ切るという撮影をしていた。
その翌年1967年の晩秋に新宿のラッキーカメラで私の最初のライカを買ったのである。その意味でラッキーカメラは自分のマイルストンということになる。

お店のファサードを見るとライカM3にズミクロンの50ミリがついたのがイラストで掲げられている。ずいぶん前の、つまり数十年前の看板だと思ってよく見るとウェブサイトのアドレスが出ているからこれはそんなに古くはないらしい。ドイツやパリの中古カメラ店のファサードをよく眺めていた私にしてみると非常にクラシックで良い。

しかしついぞ私はこの巨大看板に気がつかなかった。その理由は接近してウィンドのライカの品定めばかりしていたからだ。

« 2016年6月 | トップページ | 2016年8月 »

ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31