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2016年6月30日 (木)

札幌の夏はヨーロッパと同じだ

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高温多湿の6月末の東京脱出して札幌滞在である。
例によって札幌の今井カメラコレクション研究会だ。

札幌のヨーロッパ的な気候と言うのはこれは誰の責任でもないのだが、やはり古いカメラを保存するためにはベストな環境である。

ミュンヘン札幌ミルウォーキーだ。

3泊4日で今井カメラコレクションを研究の予定。

2016年6月29日 (水)

クックレンズで撮る

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私の生まれた年1947年にアメリカのベル&ハウエルが出した唯一のスティールカメラ、それがフォトンであった。光子と言うのは凄い時代を先取りした名前である。みつこではないぞ。

スプリングモーターで秒速六コマ写真が撮れるのである。これはニコンF3がモータードライブ付きで登場するまで何十年も昔の話なのであった。
もっとも私は高速撮影カメラとしては使わずにスナップシューターとして使っている。だからひとこましかとらない。

レンズは英国のフックが付いている。クックのレンズは趣味人が好む玉であるが、彼らが作例と称して見せてくれるのはいつもきれいな自慢の自分のお庭に咲いたバラである。これはあまりにも退屈である。
大英帝国のレンズは極東でスナップショットに使ったほうがはるかに意味があると思う。

フォトンと言うカメラはどら焼きのような形をしていていかにも渋いお茶が似合いそうである。四半世紀前に私がフォトンをぶら下げて西武所沢線に乗っていたら向かいの男の子を連れた家族連れがいてお父さんがやはりフォトンを首からぶら下げていた。
同じ機種のカメラが接近するのは今ではよくあるが、1947年に700ドルしたカメラの異常接近と言うのは非常に寺で記録に残していと思う。理科年表には載っているかもしれない。

私がクックのレンズをつけて困るのはこれが標準レンであると言う点だ。それより短いレンズと言うのは作られていなかったのだ。要するにスポーツの分解撮影などに使うから50ミリから長いレンズがしっかり揃っていた。100ミリとか250ミリなども持っている。

しかし私としてはやはり広角レンズが欲しい。東京光学が出していたトプコんウインクミラーと言うカメラは優秀なレンズシャッター式の一眼レスであるがやはり設計者が広角がないと不便と思ったのかワイドコンバージョンレンズが発売された。これがフィルタ直径が37とか38ミリで今は相手にされない中途半端なサイズなのである。カメラジャングルから出てきたそのワイドアングルコンバーターを何気なくクックに点けたらピッタリ。思わず歓声をあげた。
無論、距離は連動しないけれども私の撮影する世界は10メートルよりも遠方にあるからレンズは無限にセットしておけばそれで使えるのである。

レンズのスタイルはこのようにそっちのレトロフォーカスの広角レンズに似ている。にていると言うよりもレンズ構成はレトロフォーカスそのものなのだ。
上中里駅の寂れた私の大好きな街をこれで撮影した。

現代のわびサビがここには滲み出ていると思う。

2016年6月28日 (火)

岡山のトランプさんでコニカ1

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トランプと言えばアメリカの大統領戦で有名だが日本の岡山にもトランプさんがいる。

彼を知ったのはえい出版の文具の雑誌に登場したのであってそこで万年筆何かの名人と言うことで紹介されていた。同じくカメラも本格であってライカ1を使っているのである。
この間高知に行った時大雨の中、
岡山から来た3人の人が声をかけてくれた。その中のお一人がトランプさんだった。

こちらはお顔とお名前が一致してないのでご本人が私はトランプですと言ったのでそれでわかったのである。

トランプさんは私にここで遭遇するのならライカの1を持ってくればよかったと残念がっていた。それほどトランプさんのライカ1と言うのは夢があって彼はそれしか使っていないのだ。

その日のトランプさんの機材はチェコ製のライカコピーオペマであってこれもなかなか立派なものである。

東京に戻ってきてから私はライカはもう卒業したつもりなので何かそれに似たカメラを探そうと思ってカメラジャングルを捜索して出てきたのがこれである。

コニカの1だ。

第二次大戦直後にできた非常に質実剛健という言葉がぴったりのカメラである。ずいぶんあちこちで講演会のカメラ話をしたが15年ほど前にこのコニカの最初のモデルを命と感じている人がいた。こういう人はは最新型のデジタルライカを持っている連中よりずっと信用ができる。

コニカのレンズシャッター式のレンジファインダカメラと言うとどうしても最高クラスの「生きているファインダー」が付いているものに皆さん行ってしまうのである。あたしもそうであった。
でもそこを越してしまうとやはり原点回帰ということになるのだ。

コニカの最初期カメラの比重がずっしりしていてなかなか良い。それにいかにも手で作りましたと言う操作感覚が良い。

セルフコッキングではないから巻上げの解除ボタンを押してノブを回すのであるがそのノブの感覚がぬるっとしているのである。
それだけでもギアの精度が高いと言うことがわかる。おそらくライカよりも良いのではないかというような、うっとりする巻き上げ感なのだ。


コニカ1は四半世紀前に遊びに使ってみてびっくりした。
当時の中級カメラのメーカーがレンジファインダー式ならコニカが目標であった。だから日暮里で作られた名前がよく似たドルカと言うカメラなどがそうであってスタイルも似てるのである。

沈胴レンズを引き出して1枚とってそれからフィルム巻き上げて次の撮影のためにシャッターセットする。まるで大判カメラと同じ撮影手順がそこにある。それがいい感じだ。注目すべきは私のこのカメラは10年ほど前に本箱付きで買った。
平和ニッポンという感じのデザインだ。
長崎の中心地の思案橋の思案橋カメラで買ったので。これは旅の良い思い出になる。それにしても先々週訪問してはりまや橋の側にはりまや橋カメラがないのは残念。

2016年6月27日 (月)

ニコンに五十ミリは目測で撮るのがトラッド

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昨年の春ごろに私の周辺のカメラ人類の間でニコンSをブラックにしようという計画が持ち上がった。名付けて言うならこれはマンハッタン計画ではなくて大井森前町計画と言うわけである。それは一級建築士の細谷と突撃隊長とテッシナさんと言う3人で完成されたのである。
一級建築士は多忙だからなかなかクロームのニコンのカバーをブラックに変換するのに時間がかかった。それでお正月を超えてこの春にそれが出来上がった。

それをアメリカにアーティストの追っかけで巡業していた突撃隊長が日本に戻ったので彼がニコンを組んでブラックのカスタムバージョンのニコンSライフもマグナムも怖くねーモデルができあがったわけである。

私の手元にソ連製のキエフ5型がある。これはコンタックスの長い歴史の中でついぞ完成しなかった巻き上げレバー式のモデルなのである。それはともかく私が興味を持ったのはそれについていた例のジュピターつまり木星玉の5センチであった。

このレンズは普通の子センチはバヨネットの内側の爪で固定するのに対して、外側の爪が付けられている。外側の爪の付いた5センチレンズは数が少なくてまずニッコールの5センチf1.1がある。
あと信州のコシナの作った50ミリのf 1.5と言うレンズがある。おそらくこの2つであろうと思う。だから第三のレンズとしてこの外バイオネットのレンズをニコンにつけようと思った。

ところがソ連のレンズは自分の国の企画があるのか、それとも作りがいい加減なのかそこら辺がよくわからないが外爪の場合はコンタックスやニコンエスにはつかないのである。

私にとってはこれが十数年来の頭痛の種であった。そこに非常にレベルの高い3人の技術者テクニシャンが登場したので私の長年の夢が叶うことになった。

というのは大げさで何の事は無い、月1のアローカメラのシドニーのトークショーの現場でいきなり突撃隊長さんとテッシナさんが私のジュピターレンズを分解してこれを無理矢理合わせようとしたのである。突撃隊長は部品の1部が突出しているからこれはどうしてもヤスリを使わなければダメだと諦めた。そうしたらテッシナさんは懐から小型のヤスリを取り出してその出っ張っている部品を削り出したのである。全くすごいやつだなと思った。

ニコンSにこのジュピターレンズ、木星玉をつけてこの3月31日のニコンの101号館の工場の最後の日を撮影したのである。ご承知のようにその時、妖しい光が映っていたこれはゴーストも違っていまだに解析不明である。

このレンズは目測でしか使えない。というのもアローカメラで分解をしているときにレンズの距離計の連動カムが邪魔にあると言うので取り外してしまったわけだ。そこら辺の大英断が何かアメリカのスペースカメラNASAの特殊なレンズのように思えてきた。

このレンズは突撃隊長が手の力が強いので無理やりにニコンにつけたので外すことができない。
要するに特殊カメラがあるから外す必要は全然ないのだが、そうなると他の交換レンズ、例えばテッサーの2.8センチなどがつけられない。
それで今回テッシナさんにお願いしてもう少し楽な手の力でレンズの交換ができるようにしてもらった。
それ本来のニコンのレンズ交換式のカメラとしてちゃんとレンズ交換ができるようになった。それ以前は私は間違ってレンズマウントのバヨネットで指を切ったりしていたのである。
これでめでたしめでたし。
ーーーー
と言うような話を「ニコン101号館最後の日」というタイトルで日本カメラの連載「名機礼讃」の最後に書こうと思っていた。ところがそれは私と編集長の勘違いでスケジュールがずれていたので結局執筆には至らなかった。だからそのアウトラインを記録しておく。

2016年6月26日 (日)

wien 1974

06242016_10 06242016_606242016_706242016_806242016_9ウイーンの古いモノクロームのネガを発見してその一本のネガの最初の6コマの1番目から五番目をスキャンしたのがこの5枚の画像である。 1974年に撮影されたものと思われる。ウィーンのアパートはドナウ運河に面した天井の高い何もないない空箱のような部屋であった。そこに7年間生活したのである。 この写真を見て時間がとくとできるのは1973に開催したWinの7人の現代写真家展のオープニングレセプションのスナップショットが壁に貼られていることからも分かる。

生活の写真を撮らせて1番うまいのはロバートフランクだと思う。 フランクの暮らしぶりというのは移民の外国人としてアメリカにきたときのそのままの姿が保存されているのがいい。最近のフランクはなかなかいい暮らしぶりになって、というのはゴージャスなというわけではなくて彼の出発した移民としての暮らしの特性がさらにそこに強調されているからだ。

ロバートブラックの好きな私はそんなことすぐ真似したくなるのである。

今回発展したこの一本のネガに連続的に記録されている画像はこのような時間軸になっている。面白いのはカメラは何を使っていたかが3コマ目で明らかになることだ。これはコーワが作っていたカロワイドなのである。つまりテスト撮影であるから壁のポスターを撮ったり鏡に映った自分の姿を取ったり部屋にいる家人の姿を取ったりしている。 そこにてらいの無いのは非常によい。芸術写真などとは程遠い日常生活の写真というものはそれが撮影されてから40数年経過するとなかなかその価値が浮上してくる。 これは写真が記録だというふうに勘違いされては困る。全く別の位相で写真がその静かなテンションをあげてくるという意味だ。

4コマ目の画像では当時使っていたカメラがテーブルの上ある。びっくりするのは今使っているカメラも40数年前のカメラも別に何も変わっていないということ

 

2016年6月25日 (土)

戦前のレンズがいいなどという戯言

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レンズは戦前のものに限るなどとFacebook上で戯言を言っている私である。しかしこれには真実がある。
ツアイスの明るいレンズにしても、当時のライツの明るいレンズにしてもその時代の価格を調べるととんでもない高い値段がついている。製造も難しかったのであろうがそれなりに世界がそういう明るいレンズを求めていたのだ。

そうなのだ、、、コンタックス用などは今は誠に安い値段であってカメラに付録で付いてくると言うような格好だ。だからあまり高い評価を受けていないのであるがいつだったかレンズ交換式のデジタルカメラにそれぞれの戦前のレンズ、そして最新レンズをつけてテストしてみたらほとんど差異はみられなかった。

もっとも私はモダンなデジタルカメラで使っているのでわざわざアダプター等をつけて戦前のレンズをデジタルカメラにつけるほど酔狂人間ではない。

戦前のコンタックス用のレンズはやはり戦前の環境、つまりフイルムでモノクロームでとると言うのが正しいのである。
私が長いこと使っている28mmのレンズはソ連製のオリオンであってこれは1,970年代から使っていた。それから同じソ連製のレンズでも戦前のフェドのレンズになった。時間軸からするとどんどん昔に交代していくのである。

イエナの2.8ミリも以前から使っているが、個体に性能の差がかなりあるようである。それで今まで使ったテッサーの2.8センチのレンズはそれほど感激すると言う事はなかった。ところが偶然の機会から戦前のブラック仕上げの、つまりこれは最初のテッサの広角レンズであるが、を手に入れてこれがかなり良い個体であることに気がついた。それでコンタックスとアダプターでライカにつけたりなどして使っているのである。

このレンズはもともとは岡山とかあちらの辺の方が持っていたものでその方のお仕事が帽子屋さんなのである。帽子屋さんの好むテッサーの広角レンズと言うのは非常に洒落ていてそこに夢がある。

ギャラリーバウハウスで今年の秋個展をやる予定のプラハ撮影で今年の1月のプラハに行っていた。
プラハは珍しく雪であって私の四半世紀のプラハ滞在の中でも実は雪は割と少ないのである。雪というのはバロックの建築にアクセントのトリムラインで写真をドラマチックにするのである。そのことは私も長いことヨセフスデクの名作で教えられたのである。

プラハに持参したレンズは二本だけであってテッサー2.8センチとゾナー5センチの1.5だけであった。それをコンタックス最初のモデル、つまりブラックコンタックスにつけるのだから時代考証は合っているわけである。

ところがコンタックスをライカもシャッタの調子が悪く使えなくなった。それでこの写真に写っているキエフカメラを購入した。
そのコンタックスもだんだん具合が悪くなってきた。撮影を始めるとフィルムの真ん中あたりで理由は不明ながらフィルムの巻き上げが停滞するのである。だから無意識の多重露光がそこに生成されるのだ。
石元さんの先生であったアートインスティテュートのキャラハン先生は多重露光の名手としても知られている。石元さんはその影響でご自分でも多重露光の実験をしている。

多重露光と言うのは非常に難しいもので人間の不用意な芸術的な意図がそこに介在するとむしろ失敗に終わるものである。

チョートクアットワークと言うタイトルの昔の写真集の扉のニューヨークのエンパイアステートビルディングを多重露光で撮影したものがある。
エドワードスタイケンに捧げるなどと若い頃の私は格好つけているがこのエンパイアステートビルはそんなに成功したとは言えない。

これが1,98年の話で、その3年後1985年私はプラハで夏にずっと撮影していた。その時の機材はプラウベルマキナプロシフトと言うのである。これはセルフコッキングでは無いからフイルムを巻いたら必ず二重露光を起こさないように注意が必要である。ところが例によって私の注意不足から二重露光をやってしまった。ところがそれが私のプラハのエッセイ集「屋根裏プラハ」の新潮社のアートディレクターの目に留まってそれを表紙にすることになった。

表紙にしてみるとなかなか悪くいので感心していたのである。その理由はその多重露光は私の意思によって作られたのではなく、マシンが作ったからにある。

それでこの秋にギャラリーバウハウスで展示する私のプラハのシリーズだが、キエフの巻き上げ不良によって面白い効果の作品が誕生した。だからそのシリーズのアートディレクターは当然壊れたキエフになるわけだ。

2016年6月24日 (金)

ミロスラフ・クベシュ 哲学者の網膜 ギャラリーバウハウスの「プラハ年」

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ミロスラフ・クベシュ写真展がギャラリーバウハウスで始まった。今年のテーマ、プラハ年シリーズの五人の写真家中、最も重要な写真家だ。
フレクサレット (チエコ製二眼レフ)で撮影のプラハの人々は作者の哲学者としての深い洞察である。

ギャラリーバウハウスの緻密なプリントは視神経を楽しませてくれる。それはこれらの作品を撮影したのがチエコの二眼レフ、レフフレクサレットであるのもその理由の1つかもしれない。
ミロスラフ・クベシュはビビアン メイヤーと同様に最近の世界の写真界の新たな発見である。その2人が共通して66の二眼レフを使っていたと言うことも面白い。

ビビアンメイヤーは家政婦であってミロスラフ・クベシュは大学の先生であった。これは1種の偶然にして起こった暗合と言うべきであろう。その心は、どちらも「子供を相手にした職業」ということになる。だから結果として視神経の観察がより深くなるのであろう。

ミロスラフ・クベシュの写真集は2008年プラハから出版されている。これはプラハ市の経済的サポートがあって完成した写真集であると奥付に書いている。そこら辺がわが国と基本的に写真文化に対する認識の度合いが違うのである。

ミロスラフ・クベシュの作品集の表紙はこのようなものだ。この本を私が以前プラハの書店に見てそこに日本語のタイトルがついていることを不思議に思っていた。それは今回の写真展の前のトップバッターで、個展を開いたプラハ在住の写真家横山佳美さんの仕事になるものであった。

その写真集の表紙を見てうれしかったのは画面の左下のボーダーのところにF PAN 17 文字列を見たことだ。つまりこの画像はチェコのモノクロフィルムフォマでとられているのである。

それで思い出したのは1985年のことである。
当時の私はプラハに長いこと滞在してプラハの百貨店で膨大な数のFOMAのモノクロフィルムを買ったのであった。といってもたった300本ばかりであるが、それはデパートメントストアで買ったということが忘れられない。
当時のチェコスロバキアが統制経済であるから自由競争と言うものがそこにはない。それで安売り店は存在しなくて全国一律にフィルムも同一価格なのである。
逆にそういう時代が懐かしい。

ミロスラフ・クベシュの仕事を私から見ればこれは哲学者の網膜がプレクサレットを介してそこに開示ているというふうに見ることができる。

よく私が書いている事だがこの写真家は自分が置かれたその世界に驚き、それが一体何であるのかをカメラを通じて理解しようとしているのだ。
これが非常に重要なポイントである。

メルロポンテイの「眼と精神」などを読んでいるとこの現象学者が写真の可能性についてはかなり否定的なのである。一方で、ミロスラフ・クベシュのように哲学者が文章ではなくて哲学を写真で表現するというのはこれは大したパワーだと思う。

今見るべき写真展。

2016年6月23日 (木)

不機嫌なオナガドリ

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オナガドリの存在を最初に知ったのは幼児の時代絵本の中である。やたらしっぽの長い鶏が高い台の上に立って尾っぽを長く垂らしていた。天然記念物と言う言葉を母親から初めてきかされた。
そのてんねんと言う言葉にしっぽの長い曲線が二重に記憶された。

オナガドリとの縁はそれっきりでオナガドリの言葉は私の大脳中枢の非常に深いところに格納されてそのまま七十年近くが経過したわけである。

高知の街のメインストリートは歩いていて坂本亮馬さんとか板垣退助さんの顔出し看板を見て角を曲がったらいきなりオナガドリ銀色像に出くわしたので非常に驚いた。

オナガドリの尾っぽはもともとは参勤交代の時に槍の穂先につけられた羽飾りなのだそうである。

明治の元勲とか幕末の志士が顔出し看板で平面であったのに対して、オナガドリ様は3次元の立体であるからその迫力は比較にならない。
しかしその眼を見ると非常に不機嫌そうである。とっさに「不機嫌なオナガドリ」と言う言葉が脳裏に浮かんだ。これはエッセイに使えるなと思った。

そのオナガドリが江戸時代にはその羽根の長さが10メーターあったそうだ。それが近親交配のせいであろうか最近のオナガドリは3メーターそこそこになってしまったのだと。

このオナガドリさんの銅像を見てもそうだがしっぽの長さは3メートルどころか1メートルちょっとと言うところである。
これは特徴をそのまま再現したのではなくて銅像を作るための町の予算の関係ではなかったのであろうか。

2016年6月22日 (水)

ミノルタスーパーAのファインダー採光窓にしびれる

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ミノルタスーパーAと言うレンズシャッターでレンズ交換式のカメラは1,957年頃の製品だ。当時のカメラ雑誌を見るとニコンSPなどと並んでいるからかなり昔のカメラになる。
レンズは35ミリから135でまで交換ができる。もっとも私が使うのは35ミリレンズと50ミリレンズだから外も持っているが使った事は1度もない。

当時のフォーカルプレーンレンズ交換カメラは非常に高価であったからその隙間の市場にあったものと思われる。しかしそれにしても当時の価格からすると十分に高いカメラであった。

私がこのカメラに魅力を感じるのはそのファインダーの採光窓の窓の位置にある。ライカのMなどは3つの窓のうち真ん中が採光のウィンドウであるが、こちらは正面から見ると1番右の端に採光ウィンドウを寄せてある。
それがなかなか格好が良い。
最近発表されたコンタックスの最新型のデジタルカメラはファインダーが斜めにひしゃげているようであるが、あれはどうもデザインの遊びにしか見えない。

しかもこれは昭和30年代のカメラなのでまだプラスティック、つまり当時の言葉で合成樹脂がちゃんとしたものでは無いから表面がなんとなく凸凹しているのである。そこら辺に戦後日本の努力が感じられる。

レンズがロッコール35ミリf 3.5というのが付いている。これがライカマウントもあった。緑色のコーティングである。石元さんがシカゴで使い、トシ若林がニューヨークで絶賛したグリーンコーテイングだ。35ミリレンズで明るさは無理していないからすばらしいレンズである。

巻き上げは分割式であって撮影のテンポを作ってくれる。さらに大型の折りたたみ式の巻き戻しクランクも非常に使いやすい。言い方を変えればライカやコンタックスでせこせことと使うより、こっちのほうがより写真の楽しみを感じることができると言うことになる。

2016年6月21日 (火)

コーチの食い違い交差点

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高知は海岸線が迫っていて北が山なので東西に非常に長い街だ。日本で言えば近くの街で似ているのが神戸と言うことになる。しかし街の感じは神戸よりもバルセロナに非常に似ている。サグラダファミリアがないとか言うのは全く問題にならない。
さらに街の感じは南に開けている海ではなくて海が北に開けているというふうに方向を180度転換してやればカサブランカにも似ているのである。
街のあちこちに白い建物があるので気分はカサブランカだ。

しかし高知城の近くは昔ながらの街並みで歩くのが嫌になるほどの長い白い土塀が続いていたりする。幕末そのものである。
宿泊したホテルの十階から下を観察するに細い道が交差している。それが食い違いになっているのが面白い。これは典型的な昔の道の作り方である。

今の都市計画なら単純に定規で90度線を二本ひいてそれでおしまいである。見通しがが効かないようになっているのだ。それが江戸であり幕末であり何か奥ゆかしい。

10階の部屋から下の食い違い交差点を見て時間を過ごした。
煙る雨の中を傘をさした女性が行き来しているなどと言うのはいい感じである。さらに感じが良いのは横断歩道の路面の塗装がハゲかかっている点だ。そこに古都、古い都の風情を感じるのである。

ホテルの裏手がコーチの最大の歓楽街になっているようで0時を過ぎると帰宅する人たちの酒に酔った声が湧き上がってくる。3泊4日の間その声の中身をよく調査したが喧嘩をしているグループ等は1人もいない。大酒のみのコーチであるが酒癖は非常に良いと思える。

コーチの終電は何時だか知らないが12時半に下で元気な声がして1時半になってもまだ帰りがけの声がする。さらに午前2時半になっても皆さんちゃんと挨拶をして分かれているのだから大変な紳士淑女の国であると思った。

食い違いの交差点は歩行者も車も注意してゆくので交通事故の防止にもなる。

2016年6月20日 (月)

板垣さんと稲垣さん

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実際にはあの顔出し看板は何と言うのか知らない。
坂本龍馬の姿があって顔の部分に穴が開いていてその後から顔を出して記念写真を撮ると言う例のアレである。

コーチの中心部を仔細に調査した結果最も数の多いのは坂本龍馬の顔出し看板であった。
有名なお坊さんがさんがかんざしを買う顔出し看板ははりまや橋の脇にはあるがそれ以外には見られないようである。

とさでんの東西に走るメインストリートの23本北側にパラレルに走る買い物通りがあってこれが非常に立派なので感心した。

例えて言えばミラノのギャレリアのようなのである。いやギャレリアよりも新しい。だからこっちの方が格が上であるように思われる。

その買い物通りをずっと西にアーケードが途切れたその先の地味な街の商店街を歩いていたらこの板垣退助さんの顔出し看板が登場した。私は稲垣足穂さんのファンであって板垣退助のファンではない。
板垣さんよりも稲垣さんの方が好きなのだ。

この顔出し看板は板垣さんの顔とその脇に100円札があって100円札に印刷されたもう一つの板垣さんの顔の方からも顔を出すことができる。ダブル顔出し看板と言うわけだ。

私の少年時代にお年玉でこの100円札をもらうと非常に嬉しかった。その上の1,000円札は聖徳太子なのである。まだ一万円札が出るか出ないかと言う時代の話である。

もっとも時代を追って考えてみると戦前の内田百閒の時代には100円札というのは大変な高額紙幣だった100円札が1枚がま口に入っていたらもう天下を取った気分であったそうだ。その時の100円札はおそらく聖徳太子であったと思うが、戦後の民主日本になってからの100円札の板垣さんはそれに比べるとかなり価値は下がっているのはやむを得ない。

2016年6月19日 (日)

カツオのタタキワークショップ

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コーチの名物はカツオのたたきである。大昔家人がオペラの公演で高知に巡業した時に帰りに、空港で食べたカツオのたたきが絶品であったといつも言っている。それで私も本場のカツオのたたきを食べたくなった。

しかし初めてのコーチであるし、全くの道不案内であるからなかなかこれが難しいのではと思っていた。街の中心部にカツオのたたきの専門店はあるが、私の目からすると出張サラリーマン相手と言う感じがして、怪しそうだ。その理由は看板が派手すぎるのである。どうしたものかと思っていたら高知県立美術館で出会った読者の方の中に地元の方がいらした。そのお名前を私と同じ田中さんとおっしゃるのである。

これも実に不思議な縁であって、早朝に東京から飛行機で来た私は空腹なのでちょうどお昼に県立美術館のレストランに入ろうとした。外は雨だし県立美術館の場所と言うのは町外れであるから他に何の食堂もないのである。

ところがこれは日曜日の昼であるし美術館に来た地元の皆さんは芸術に触れた後でおいしいランチを食べようと言うのが通常の文化的な楽しみと言う訳なのである。
だから私の席などは全くなかった。

それで仕方ないのでミュージアムのエントランスのタクシー待ちのベンチに座って東京の羽田空港から持ってきたワンカップの日本酒を飲み始めようとした。そこに先ほどの4名の読者さんが偶然通りかかったのである。
地元の田中さんがおいしいカツオのたたきを紹介してくださると言うので車で出かけた。どこをどう走ったのかのか知らないがその店は郊外にあった。
つまりカツオのたたきワークショップである。

実地にカツオのたたきを作れるようになっている。藁を燃やしてカツオの表面を炙るのだが、稲藁の火力と言うのは非常に強いのでびっくりした。

戦前から戦後にかけてチベットを10年間の放浪した人の話に内蒙古あたりでラマ教のお寺があってそこでは通常の燃料が手に入らないので、1世紀近く稲藁を燃料にしていると言うことが書いてあった。藁を燃料にすると言うのは火力が弱いのではないかと勝手に思っていたら、実は燃え上がるとすごい火力なのである。それも勉強になった。ー

カツオのたたき定食は1,300円であって非常に美味しかった。こちらの流行ではいわゆる調合した醤油を使うのではなくて塩で食べるのがおしゃれなのである。それを真似て見たら実によかった。こういう料理はイタリアの白ワインなんかもあいそうである。

あまりに良い体験をしたので翌日ホテルの近くの大丸デパートでカツオのたたきを買ってみたらこれはまったくだめであった。

カツオのタタキも人を選ぶものとみえる。

2016年6月18日 (土)

石元泰博さんの居室

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高知県立美術館の石元さんの展示を見てきた。会場の一角に石元さんのリビングルームが再現してあった。
数年前このコレクションができたときのニュースに家具、日用品、食器、書籍、そして撮影機材などを膨大なプリントネガと一緒に寄贈したという話を聞いて感心した。
それが東京のその関係のミュージアムに寄贈したのではなく地元に寄贈したと言うところに意味があるなと思った。

当時私がよく寄稿をしていたカメラマガジンで取材に行くつもりで計画を立ててもらったが、その当時山コレクションは整理されていないと言う返事だった。それから3年経ってみたら今度はそのメディアが休刊になっているのである。そういう皮肉もある。
それで帰りは自費で取材に行った。これが1番良い。

石元さんの居室は狭い。そこにおしゃれな家具が並んでいるのはいかにも生活が落ち着いている。ちょうど日本のおしゃれな若者がよく行く輸入神谷さんのショップという感じだ。

ジャックラルディグがまだ元気だった頃、これは1,980年頃であるがパリのパリのアパルトマンに取材でお邪魔したことがある。巨匠と意気投合をして非常に楽しかったが大金持ちのラルテイグのパリのアパーも狭いのである。これが本当の心が豊かな人の暮らし方なのかなと感心した記憶がある。

10年ほど前に東京の森美術館で開催されたコルビジェの回顧展では彼のパリの屋根裏のアトリエが再現されていた。

非常に広いアトリエであった。これを再現するのは大変な労力であったろうと思われる。当時私はまだプラハにアトリエがあったから無意識のうちにプラハのアトリエと大建築家のアトリエと比較してみたりした。

ところで石元さんの居室の再現だが展示では窓がないのが残念。もちろん本物のリビングルームに窓はあるのである。だから実際の部屋の印象とはかなり異なってしまうのはやむを得ない。

リビングルームの片隅に石元さんの写真集などがいわば乱雑な感じに作られて積まれているのだがその中に石元さんが晩年近くにアメリカで巡回した写真集「桂」の1冊が1番上に無造作に置かれていた。

最後に石元さんにお目にかかったのは東京国際文化会館での石元さんの講演会の時である。その時はそのアメリカの巡回展のカタログを購入してサインを頂戴した。
それ以前に石元さんにお目にかかったのは大体撮影の現場なのである。
トータルすると石元さんにお目にかかったのは私の人生で4回。そしてトータルのお目にかかった時間は全部でも2時間に満たないのではなかろうか。

いやもっと少ないかな?

にもかかわらず石元さんから教えられたことは膨大である。
大写真家の家に住み込んで薪割りをしたりするのも結構かもしれないが、やはり写真家は距離を置いているという方がもっと賢い生き方に思える。

2016年6月17日 (金)

ボーデイングブリッジのベストショット

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我々が若い頃の最も重要な写真集にネイサンライオンズが編集したコンテンポラリーフォトグラファーズがある。その中の数人の写真家の中でギャリーウイノグランドが撮影したどこかの空港のショットがある。これは当時、それが空港には違いないなそれが何であるかわからなかった。それは当時日本にはまだなかった空港のサテライトなのである。そのボーディングゲートが極めて不思議なオブジェに見えた。

ボーディングブリッジと言うのは今から500年も経過すると20世紀大の典型的な風景画のイラストレーションの代表的なものになると思う。

例えて言えば500年前の銅版画でヨーロッパの風景で旅人が小さな祠のわきで休んでいて、その遥か彼方に大聖堂を中心にした古典的な街があるのと似た構図なのであろう。

世界中の空港でこのボーディングブリッジを無意味に撮影していたのは何のためだったのだろうか。少なくとも1,000カットはとっているはずである。

この間の高知空港から羽田に戻ってくるときのボーディングブリッジのアピアランスが非常に心に染みた。
今まで数多く撮影したボーディングブリッジのこれはベストショットではないかと思う。それに感激していたらすぐに私が搭乗する日航機が入ってきて風景の印象は雑駁で退屈な地方空港のようになってしまった。ボーディングブリッジは飛行機なしで撮影するのがベストだと思った。

2016年6月16日 (木)

高知 写真

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今回の高知は県立美術館で写真展を見に行ったわけだが、そうなると街中を歩行しているときに写真と言う文字が視神経に引っかかるのである。

空港からバスではりまや橋まで行ってうろ覚えでホテルの名前がわかったので地元の人にその場所を聞いた。それが間違いであった。プリンスホテルはどこですかと聞いたらそれはずっと待ちの東のほうにあるとの事だった。

私が予約したのはパレスホテルなのであるが同じPで始まっているのでそこで年寄りの勘違いが起きたわけである。

高知の中心部を東西に走るストラーセをしばらく歩いて若い男女にもう一回聞いた。その若いふたりは私が東京から来たということに非常に興味を示してくれたが、同時に東京の人はよく歩くとやや批判的であった。まぁ私の場合、佃島から堀切菖蒲園まで歩くくちだからよく歩くクラスにはなるであろう。

くだんのプリンスホテルにチェックインしようとしたら私の名前がない。それでJALのパッケージツアーの控えを再度確認したらホテル違いであった。

プリンスホテルではなくてパレスホテルである。はりまや橋のすぐそばであった。ホテルのスタッフはあたしがはりまや橋から歩いてきたと言うのでいささか呆れたような顔をしていた。

しかしその途中で収穫があった。

この写真と言う2文字がその日の朝の収穫である。
地方に行くとこのような古い写真館と言うのはあちこちにあって大抵看板はこの2文字の写真と言うロゴなのである。つまり日本のどこにいても私は写真館に写真家としての意識を鼓舞されているわけだ。これはありがたい次第である。

そこで小雨のモンスーン気候の日曜日の朝に写真の2文字で10分に写真への思いをレベルアップしておいて県立美術館に行ったと言う次第である。

2016年6月15日 (水)

コーチのレニングラード

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初めてのコーチで真面目な写真を撮ろうと思ってモノクロフィルムを12本持ってきた。タイトルは高知twelveである。

こう書くと誤解を呼ぶようだが、だからといってデジタルカメラの画像が不真面目で銀塩のモノクロームフィルムでとることが真面目と言うわけではない。
しかしながら7月の始めからギャラリーニエプスで開催する1966年の私が撮影した写真も銀塩モノクロなのである。
当時はデジタルカメラはなかったからそれは仕方がないか。

レニングラードと言うのは当時非常に高価なカメラであってモスクワなどではなかなか手に入らなかったそうである。300ルーブル以上したそうである。当時の固定レートにすればそれはアメリカ通貨で700ドル位だから、考えてみればベル&ハウエルのフォトンが700ドルしたのと同じ位で大変な高級カメラであった。

レニングラードカメラでレニングラードに撮影に行こうと言う夢が昔からあって、それは10年近く前に叶えられた。JTBの取材でモスクワとサンクトペテルブルグを撮影したときにプライベートようにレニングラードを持っていったのである。
これは満足した。

高知でレニングラードで撮影すると言う計画が頓挫したのは梅雨前線のせいである。
「晴れたらレニングラード、雨ならデジカメ」と言うわけである。
豪雨の中でこのカメラでフイルム交換をするというのはあまり賢い方法では無い。

それでレニングラードはホテルの部屋で夕方おうちBARをする時に素振りの目的で使われた。これは撮影以上にフイルムカメラ金属カメラの重要な使用方法である。

もちろんカメラで本気出すだけではなくて、カメラに本気出すつもりだから、レンズはこの1月にプラハで撮影した組み合わせ、つまりゾナーの5センチf1.5とテッサーの2.8センチF8である。いずれも戦前レンズだ。

今まで50台ほどのレニングラードを手にした経験があるが今回持参したこのレニングラードがすごいのはレンジファインダがちゃんと合っていることである。
また誤解を生むのであるがレニングラードと言うのはレンジファインダーが狂っているのが普通なのだ。

それでもっぱら標準から短いレンズを使うから距離計は必要なかったのである。しかし今回のこの個体はちゃんと無限まで合うから何か望遠レンズをつけて撮りたくなる。

このカメラのファインダーシステムは非常に凝っていて、実像式ファインダーなのである。それでフォーカシングリングを動かすと距離計の真ん中の像は不動であってその周囲つまりファインダーで見れる画面が左右に動くのだ。
真剣に見てるとめまいがするようであってそれがまた面白い。フレームは35ミリから135ミリまで使えるのである。もちろん1957年にブリュッセルのグランプリで大賞を取ったカメラであるからフレームはいい加減である。50年代の終わりには必要十分なFinderの精度であったと言う意味である。Image_4


2016年6月14日 (火)

Haruo Ohara展最終日 高知豪雨

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初高知である。梅雨前線で高知のアプローチは六千あたりで結構タービュランス。
とさでんで町の東に行き豪雨の中を何とか言う川を越えて北に歩いた。高知県立美術館の初印象はあまり良くなくて和食レストランさと という感じであった。

最初にYasuhiro Ishimotoのシリーズ展示を見る。シカゴの子供のシリーズ。石元さんの居室が再現されている。ルコルビジュエのパリのアトリエを六本木の森ミュージアムで再現した時はスペースが大きいので大変であったが石元さんの居室はずっと小さいから再現は楽である。
今の若い子の好む50年代のモダンな家具屋さんのショールームのようである。やはり石元さんはニューバウハウスであり「桂」の人だなと思った。

今月号の新潮社の車雑誌エンジンに石元さんのシカゴの雪をかぶった車の写真を掲載した。それで画像データを高知県立美術館から拝借しているのである。3年前だったかえい出版のカメラマガジンで石元さんのコレクションを取材しようと計画したがその当時はまだ全部完成していなくて見送りになってしまった。気がついたらカメラマガジンは休刊だから今回個人的に見学に来た訳である。つくづく来て良かったと思った。

Haruo Ohharaの仕事は非常に良かった。
アマチュア写真家の方がプロ写真家よりか遥かに優れた仕事をするというのはその背景に生活と言う基盤、そして土台があるからだ。
50年代当時の木村伊兵衛先生が地方写真を鼓舞しようとして何度も秋田に行って苦労したりしているが結局そういう事は虚しい意味の文化運動なのである。

Haruo Ohharaの仕事はエントランスの巨大プリントはダメである。しかしそれ以外の大きめのプリントは非常によかった。デテイルをよく観察するために私はよくやる手なのだ手でフードのような形を作ってそれで写真そのものを細かく観察する。マットの白い部分をカットするのである。これはヨセフスデクの方式なのだ。

カメラの初心者さんはフレーム屋さんにマットを依頼してそれでスタンダードの展示であると満足しているが私の場合は逆である。プリントはマットをしないで生で手に取って見るのが1番良いのだがそれはできないからとりあえずこういう形にしてあるというわけだ。

会場で偶然岡山の私の知り合いに出会った。もう一方地元コーチの写真愛好家の紳士がいらしてその後車でおいしいカツオのたたきを食べに行ったのも出会いというものであった。
さらにその勢いでちょっと離れたところにある鍾乳洞を見学に行った。
三十年前にベルギー政府観光局の仕事でベルギーの鍾乳洞をずいぶん見て歩いたことがあった。あのベルギーの鍾乳洞と今回見た鍾乳洞はその性質が違うのも面白かった。1キロ近い高低差のあるラビリンスを歩いてくたくたになったが、69歳としては体力のある方であろう。

2016年6月13日 (月)

サリュート

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サリュートはハッセルブラッドの1600fのコピーである。最初期モデルのハッセルブラッドは故障が起きてもそれを修理できる職人さんがほとんどいない。そのあとシャッタースピードをゆっくりにしたハッセルブラッド1,000エフのコピーが登場した。
今ではハッセルブラッドを整理できる人も数が減ってきた。それに対してこの最初のハッセルブラッドのコピーであるサリュートはまだちゃんと動いているから大したものだと思う。

ソ連製のハッセルブラッドのコピーはいろいろなブランド名がある。一般的なのはゼニット88というやつだ。シャッター速度は1,000分の1までだが実用にはこれが1番いい。

1,980年代の終わりごろにこのハッセルのコピーサリュートを持ってイタリアのミラノに撮影に行った。
ミラノはイタリアのファッションの中心地であるからファッション写真を撮るカメラマンもたくさんいる。私がサリュートで撮影していると、通りがかりのそういうカメラマンからそのカメラを見せてくれと結構リクエストがあった。

というのも彼らが使っている本物のハッセルブラッドはスタンダードモデルであるから差別化を図るために何か別のカメラの方がオシャレと言う感覚なのであろう。もともとイタリア共産党が強かったイタリアという国にはソ連製のカメラには良い印象持っているのである。

ソ連製のハッセルを使うなどというのは仕事の場合には全くタブーというのは常識であるが、私はひねくれものだから経済雑誌の表紙の撮影にソ連製のハッセルを使っていた。

調子が悪くなったらそれでアウトだからバックアップのために同じものをもう1台持参したのである。それで何とか仕事になったのは面白かった。

2016年6月12日 (日)

フットボールという黒いバッグ

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アメリカ大統領が来日して広島に到着するのを家人の部屋のテレビで見ていた。私がテレビを見るというものは非常に珍しいことである。大型ヘリコプターが二機あってのためにそのどちらに大統領閣下が搭乗しているのかは秘密と言うことになっている。それはそれで良いが私が見たかったのは大統領の側近がいつも携帯している黒いブリーフケース、つまり核戦争の発射ボタン用の装置であった。

ライブで見ていたら確かにその黒いブリーフケースが確認できた。オフィサーが持ち運んでいるのである。彼は左手に黒いブリーフケースを下げて画面の右から左にゆっくりと歩いて行った。それがその動作が緩やかなのでこれはかなり重いケースなのではないかと私は推測した。この数秒間のライブは非常に重要な視神経の体験だった。

後でウイキで調べたらこの黒いブリーフケースはフットボールと言う名前なのだそうである。本体はゼロハリバートンであってそれに黒い革のケースがかぶさっている。驚いたのはその重さが20キロ。ということだ。20キロ+の機材はゼロハリバートンに入れたまま普通に私も携帯しているが、思い当たったのはそのオフィサーのゆっくりした歩行速度である。20キロの重さの荷物を片手にぶら下げているのだからそのくらいの速度でなければ歩けないわけだ。

中に入っているのは小型のコンピューターと核ミサイルを発射するときの大統領だけが知っている専用のコードやマニュアルであると言う。その他にも攻撃センターに連絡するためのデバイスがいくつか入っているようだ。ウイキでその鞄の内部を見るにパソコンはかなり旧型のようである。大統領専用機エアフォースワンもあれはボーイングのかなり初期のモデルであるし、このフットボールと言う黒いブリーフケースの中の通信機器も何か頑丈一点張りの割にはかなり型遅れという感じがする。

現代のテクノロジーを持ってすれば核の発射ボタンなどはポケットに入るiPhone並みの大きさになるのではなかろうか。

拙著「裏プラハ」では冷戦時代にブレジネフ第一書記がプラハの迎賓館に宿泊したときにその広い部屋にソ連の昔の発射ボタンのブリーフケースを置くと言う件がある。実際にはそんな事はなくて専門の将校が持っているのであろうが何か不思議な気分になる。

2016年6月11日 (土)

ガンマのペルラ

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メイドインイタリーというカメラがある。一眼レフならできたフレックス、そしてレンジファインダーならライカマウントのレンズ交換式のガンマである。

レンズ交換式のマンマは眺めて楽しいカメラであるが、撮影にはあまり向かない。というのはこの1947年にローマで作られた最初の、そして唯一のカメラはフイルムの巻き戻し機構がついていないのである。要するに120フィルムと同じように片方からもう一方にスプールで巻き取ってしまうというやり方だから巻き戻しの時間が省略できたというわけだ。しかしこの方式はメジャーにはならなかった。

同じガンマの会社で作られたこれはアマチュア向けの安いカメラである。廉価版といってもその仕上げは非常に高級で何かローマの古い大理石の家のその表面のディティールを見てるような豪華な気持ちになる。要するに70年ほど前のカメラなのにそこにローマの長い歴史が込められているような錯覚が起きるのだ。そういうカメラがー良いカメラである。

ガンマベルラというカメラが高級なガンマより優れているのは巻き戻し機構がついていると言う点だ。だから1回撮影に行って二本以上の撮影をするときにはこのカメラでなければならない。レンズ交換式のガンマの場合はフィルム交換の暗室が必要だからである。だからこの場合は1本しか撮影ができないのだ。

当時のイタリアのカメラはミラノで作られたガリレオ社のレンズも使われたが、どうもそれよりも高級と目されていたのがドイツで作られたレンズなのである。このガンマペルラにはシュナイダークスナー50ミリがついている。これは非常に優秀なレンジである。シュナイダーのクスナーというのはアマチュア向けの安いレンズであると認識があるがそんな事は絶対にない。エルマーと肩を比べられるほどのレンズだが、エルマーよりもその描写はかなり難い。それが私の好みに合っている。

2016年6月10日 (金)

十条仲原環七に面したすき家にポリスがきた

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東京では佃のまからん宮殿で仕事する以外には十条仲原の崖下のベンチに行く。ここは仕事がしやすい。 10条の駅から徒歩20分はかかるし。赤羽の駅からも同じ位かかるからここで打ち合わせをしましょうと言っても誰も来てくれる人はいない。だから仕事に熱中できる。 食事は崖の上、つまり南側に登って環七を越えたところにある角のすき家で食べる。長年の研究によればすき家のベストコストパフォーマンスは1番良いのは牛丼の並350円である。 もっともチョイスはそれだけではなくて10条中原商店街に入った右側に鰻屋がある。もっともそこで食べる事はなくてこれは家人のお土産になることが多い。その鰻屋は火曜日が休みなので休みの日はシャッターの前に漬物屋が出ると言うように具合のよいことになっている。 ある日の午後すき家で350円の牛丼を食べていたら、ポリスが入ってきた。お店は1人でやっているスタッフさんである。ポリスは人を探しているのだがお店の前に設置してある防犯カメラを見せてくれないかと言う。 お店の人の答え。カメラは店内のアングルでは設置してあるが道路に退けては設置してないと言う。またそれらの画像はこの店で見る事はできないが本部に行けばそこで見られるとのことだった。それでポリスはそのままお店から出て行った。 思うに十条仲原商店街と言う所には今流行の防犯カメラシステムは設置されていないようである。 逆に言えばそれだけ治安が良いと言うことになるのであろうか。

2016年6月 9日 (木)

500円のカツと言う素敵な買い物

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写真展の準備で家から歩いて10分ちょっとのところにあるレンタルダークルームによく出かけている。
ランチは大抵すぐ近くの揚げ物屋さんで買ってくる。家族4人で経営しているお店だ。そこのカツ弁当というのが500円で揚げたてがなかなかうまい。結構良いコストパフォーマンスだと思う。

カツが300円のでそれにライスとキャベツとソースとからしがつくとトータルで500円になる。
ある日買い物をしていたらガテン系の青年がカツのあがるのを待っている。そのカツと言うのは私がランチで買っている参佰宴のに比べるとずっと大きくて存在感がある。

子供の時に何かの漫画で見た自分は肉が食べたいと思ったときの肉というのが、その漫画ではすごいボリュームで真ん中に骨が刺さっていたのである。肉食の欲望を漫画にしたようなのがそのにくのイラストであるとすれば、こちらはカツが食いたいと思ったイメージをそのまま実物にしたと言う感じがある。

お店のお姉さんにこれはなんですかと聞いたらそれは裏メニューであると言う。飲み屋等の裏メニューは知っていたが、こういうお店にも裏メニューがあるとは知らなかった。

何と言う名前の商品ですかと聞いたらその答えが面白かった。
500円のカツ
と言うのである。実に現代詩人な言い方であって表現がフラットであるのはすごく気にいった。その日は既に500円のとんかつ弁当を買っていたのでその500円のカツを別の日に買ってやろうと決心したのである。

東京が梅雨に入ったどんよりした日の午後にこれは500円のカツを買うには最適な日だなと言うことがわかった。銀座でエービーシー・マートで靴を買う用があったのでその途中にそのコロッケ屋さんによった。お店のお母さんに今日は遅かったですねと言われるほどの私は常連さんなのである。そのお店には制服のお巡りさんもやってきてやはりポケットから小銭を出して弁当を買ったりしているのである。
そのお巡りさんはもう長いことこのお店に通っているようでお店のお母さんに今日は遅かったわねなどと言われている。
私は数ヶ月の新参者であるがVIPクラスの扱いが非常に嬉しい。
500円のカツを2枚頼んで奥からご主人が出てきてそれをあげている間に家族でお話をしたのも面白かった。1970年からここで営業なさっているそうだ。

当時は町工場とか小さな事業所も多かったのでお客さんがたくさんきたが、最近はそれが全部マンションになってしまってここからよそに通って行くのでお客さんはかなり減ったそうである。
話を聞くとお母さんは私と同じ年齢なのである。

お母さんが魅力的なのはご商売をなさっているのに計算ができないということである。例えば500円のとんかつ弁当買って130円のサラダを買って千円札を出すと紙の上で筆算をしているのだ。
私も計算ができないので非常に近親感を持った。カツがあがって油を切っている間にまたいろいろな話ができて面白かった。
500円のカツ2枚でやはりお母さんは紙の上で計算するのかなと思っていたら千円というのはちゃんと暗算でできたのでなかなか凄いと思った。

今回の発見はカツはソースで食べるのではなく、塩で食べると非常にうまいと言うことである。とんかつ弁当だとお母さんがウスターソースをかけてくれるのでその味がわからなくなってしまう。だからカツは塩で食べるというのは何かウイーンでウインナーシュニッツエルを食べているのと同じ味がする。

2016年6月 8日 (水)

ヤグオクで売れのこりのライカM5

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10数年前に岡山にチョートク固執堂と言う名前のカメラ倉庫を作ってもらって大半のカメラのガラクタがそちらに格納したのであるが、何しろそれから10数年が経過しているので佃の住まいのほうが油断が出てまたカメラジャンルとなってしまった。

それでとりあえず居住スペースを作る意味でこの数週間、時間を割いて部屋の片付けをしている。
その中から13点だけヤフオクに出品した。以前もモノマガジンで千ページの私のカメラ本を作った時は最初のアイデアでは持っているカメラを全部収録しようと言うことだった。
ところがそれは全く不可能な話で実際には350点ほどのカメラが紹介されただけであった。それは氷山のの一角なのである。

今回13点だけ出展したから別にそれが全部売れたところで居住スペースが広くなると言う話でもない。でもこれは気は心というやつである。十二点売れてこれだけ入札なし。

ちゃんとしたカメラコレクションは私の周囲には札幌の今井さんなどが立派なものをお持ちだから何も我々カメラ雀が巣を作る必要はないのである。

それで13点の品物をヤフオクに出したわけだが、オークションと言うのは本当に不思議なものである。結構安く値付けしたきれいなM5は売れなかった。それでこれは神様の提啓示でこのカメラをもっと使い続よと言う指示だと思ってまた使い続けることにした。

1976年の6月に私は現代日本写真家展の準備で東京と京都などに行きひと月ほど滞在した。その時にシュミット商会で手に入れた当時のライカの価格表を見るとライカM5ズミクロンがついて50万円以上するのである。

このライカが実際にはライカM4になる予定のモデルであった。当時のライツはそれが経済的にも無理で結局M4と言うのは例のクランクが斜めになったあのモデルになったわけである。
M5は1971年の登場だから私がウイーンに住んでいた1973年には最新型のカメラだった。

ヤフオクでその当時のカタログ、これはバルナック生誕100年を記念しての出版なのでそれをおまけにつけたのである。当時のTTLの測光方式というのはまだ過渡期であったからスーパーアングロン21ミリ等は測光はできない。
でもそれで当時のプロ写真家は不便と思わず使っていたのだった。

2016年6月 7日 (火)

深川のゲルニカ

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ゲルニカには行った事は無い。
ずいぶん前になるが仕事でバルセロナオリンピックの前の年だかにバルセロナにひと月滞在してそこからスペイン国内あっちこっち飛行機で往復した。
シーズンだったのかスペインの国内線が非常に混雑していていつもスタンバイチケットであった。最後に自分の名前が呼ばれる呼ばれないか、一緒のゲーム感覚と言うようなところがあった。
しかも小型機なのでなかなかスリルがあった。

ゲルニカに行く用事がなかったのはやっていた仕事がスペインの美食のための雑誌なのである。そうなるとどうしてもゲルニカは外れてしまう。それから何十年かたって自分でスペインを旅行した時に思ったのはどうせピカソを見に行くならゲルニカよりもピカソの生まれた家を見に行こうと思った。それでマラガに行ったのである。

ピカソの実家はマラガ中心の立派な広場に面したところにあった。要するに資産家の道楽息子と言うところであろう。その広場を横断して行くのが実は大変だった。紫色の花をつけた潅木が広場一面にあってその果実がボタボタ広場に落ちている。これが足に粘りつくのである。ピカソへの道は遠いと痛感した。

ゲルニカの複製が世界中にただあるが東京で1番顔見知りのゲルニカは東京駅の北口の大きな書店のエントランスにあるやつだ。これはかなり大きい。しかしゲルニカなどを見ている人がいないのも事実である。

私の好きなゲルニカは深川にある。俗に言うのらくろ横丁にあるのだ。これは屋外にあるので非常に目立つ。サイズは小さいのだが背景の空がゲルニカの空というふうに共通の背景をそこに持っている。

ゲルニカを掲げてがあるお店の職種が10年来何であるかわからない。喫茶店のようでもあり美容室のようでもありケーキ屋さんのようでもあるのだがよくわからない。でもそれは大した問題ではないと言うのはこの深川のゲルニカを見るには道の反対側から見る必要があるのだ。それでお店に接近してしまうとアーケードの下に入ってしまうからゲルニカは見えなくなってしまう。

ゲルニカと言うのは遠くに置いて眺めるものであるということを私は教えられたわけである。

2016年6月 6日 (月)

Znowレンズの描写を考える

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すでに半世紀以上カメラとレンズで遊んでいるわけだが、いまだによくわからないのがレンズの描写というやつである。

かなり前になるが有名なメーカーのレンズの設計者の方と対談をする機会があった。雑誌に収録するのはオフィシャルな話であるから問題がないとして、それが終わってからの雑談でその有名な方が私に向かって、田中さん、実は私はレンズの味というものがわからないのですと漏らした。

これはもっともなことであって最近のレンズは味を重視していない。なんとか曲線と言うのでその数値が高い方が良いと言うような形でそれで全てがすんでいるわけである。

頭脳と言うレンズは数多くのブランドの中でも謎のレンズである。その描写が何がいいかといえばシャープでソフトということになろうか。
要するに設定が矛盾したところにレンズが存在しているということになる。この作例はネオカレンジファインダーのZnow45ミリで撮ったものである。
それも普通のカラーネガであるから他のカメラと何の違いもないのだが何かトーンが柔らかく感じるのである。もっともこれはビールの目隠しテストとかワインのそれとは違うから最初から私がこのショットは頭脳レンズでとっているという事は知っているわけだ。だから事前に私が何のレンズで撮ったか知らされなければ案外とんちんかんな答えをしていることになるかもしれない。

その事はさておきこのレンズの描写と言うものはやはり魅力的である。最近私が凝っているのはジュピターの50ミリとかテッサーの2,8センチであるがそれらの描写の価値基準というのはシャープで描写が硬いそして画面の周辺部まで均一の描写と言うのがそのポイントである。

頭脳レンズの場合はこれとはかなり違っているように思える。要するにトーンはパステル調であって描写はソフトなのだがその中にシャープネスも含んでいると言う言葉にすればそういう描写なのだ。

いずれにしてもワインの味とかレンズの描写と言うのを言葉で表現するのは難しい。

2016年6月 5日 (日)

From Russia with Leica

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我楽多屋さんに行った。
本来の目的は四谷のすぐそばにある今度7月1日から写真展を開催するギャラリーニエプスに行く予定だったが、人がいない可能性が高いのでより安全な手段を選んだわけである。我楽多屋さんなら水曜日を除けばスタッフが常駐しているからむしろプリントの受け渡しには好都合なので無理をお願いした。

ギャラリーオーナーの中藤さんも我楽多屋さんにはよく来るという話だった。

用件が終わったら二代目さんがカウンターの奥から何やら大事そうに写真集を出して私に見せてくれた。古本屋さんのようにしっかりとパラフィン紙のカバーがかかっている。これは前のオーナーさんがカバーをかけたものだそうだ。それだけに本への愛着が感じられる。

モスクワをライカM6で撮影したスナップ写真集であった。確か20年ほど前に出したこの写真集も締め切りがギリギリでまずモスクワでトランジットして数日間の撮影をした後にプラハで急いで現像して東京に戻って慌ててプリントを制作した記憶がある。

いってみればやっつけ仕事には違いないのだがページをめくっていくと当時の私の記憶の時間軸が浮上してくるのが非常に面白い。
映画ではないけれどもこれは写真で構成された一種のタイムラプスなのである。
写真集の巻末にその時の詳しい日記が掲載されているようだがそれはめんどくさいので見なかった。そういう細々したことよりも私の記憶の方を信用したいと言う気分もある。

今はどうか知らないが20年前はモスクワの近郊のイズマイルスカヤパークと言うところで蚤の市が開催されていた。メトロを何度も乗り換えてそこに到着したのだがよくいけたものである。ロシア語の読めない私はメトロの駅はロシア語の表示だけなので非常に緊張した。

非常に広い蚤の市の1部が中古カメラ市場になっている。そこを物色していたらいきなり後ろから若いモスクビッチに声をかけられた。
その時はぞっとしたのである。
その理由はその青年はミスタータナカと呼びかけてきたのだ。これは疑うこともないKGBのスタッフである。

蚤の市で誰も私の名前などは知らないのは常識だからだ。あたしの名前とロシアカメラ趣味はあっちにファイルされているわけである。

ミスタータナカと呼びかけた彼はKGBのスパイカメラの映画撮影機を買わないかと私に持ちかけてきた。
彼がさげている小さなハンドバッグの中に16ミリの映画撮影機が組み込まれているのである。価格は2,000ドルだと言う。青年は実際にそのカメラを回して見せたが混雑している蚤の市で彼が2.5メーターの距離から映画撮影機を回すと結構大きな音がするのである。そんな大きな音がしては秘密の撮影には使えないからこれはいらないよと言って断った。

数秒後に見るとその黒ずくめはかき消えたように姿がなくなっていた。
KGBもよほど暇になったので私のような人間を監視していたのであろうか。
逆にKGBも暇になったので私のような人間に冗談を仕掛けてくるのだなと理解した。それでクレムリンの方に戻って悪名高いKGBの本部を正面から撮影したら手前をトロリーバスが通る。そのトロリーバスの広告にはミノルタと大きなマークが付いていた。

時代は変わるなぁと感心したものであった。

2016年6月 4日 (土)

お知らせ

✴️ゲリラギャラリートーク満員御礼。写真展最終日です。
✴️救国じゃない、急告。7/9土曜日の午後二時からギャラリーニエプスにてゲリラギャラリートークやります。無料、予約不要。中藤館長にも内緒。フロンぽピュレ〜る!!!
✴️田中長徳写真展 TODAY TOKYO 1966
7/1ー7/10@ギャラリーニエプス
ギャラリーニエプスで展示するのは1966年に撮影したもので高校3年生から日大写真学科に入学した間の作品です。

最も初期のネガでそれは文明堂のカステラの木箱に入っていました。
あたしが実際にデビューしたのは1969年のニコンサロンの写真展で、カメラ雑誌では1967年の津田新一さんが主宰の「カメラ時代」(写真同人社)と言う雑誌に大量の作品を発表していました。
今回の展示作品が私のデビュー以前の軌跡と言うことになります。

✴️満員お礼!!
7/3 日曜トークショー「Today Tokio 1966」開催。
開始時間は14時。ギャラリー近くの四谷ひろばという施設のスタジオにて。会場へは15分前くらいにギャラリー前に集合して一緒に移動。
完全予約制、定員20名、参加費1000円(当日徴収)。
ご参加希望はギャラリーあて確認メールを。十九歳当時の写真家活動の話をします。
宜しくお願い申し上げます。Image_4

Today Tokio 1966 撮影当時の機材(同型機) ただし、レンズは当時使用していたモノ。

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Tokyo 1966 NikonF Nikkor 2.1cm

✴️チョートクカメラ塾は今度の水曜日配信
チョートクカメラ塾
マンハッタンのスター写真家ビルの愛機はなぜニコンか?Image_4


プラハ アトリエの窓から 2011

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ビロード革命の時から四半世紀プラハに住んでいたわけになる。
実際にはその最初の訪問は1975年だから40年ほどになるわけだが、プラハのアトリエの窓から見た日々の空の様子が年がたって今見てみるとなかなか感慨深い。

アトリエは北の空に面していてその窓は全部で8個あった。その家の西側の2つはバスルームとキッチンの窓なのである。初期のGoogle マップでアトリエの屋根を拡大するとそのバスルームに貼られた窓のサッシのブランドの広告の紙が見えた。偵察衛星の解像力と言うのがすごいと思ったのはその時が最初である。
アトリエの窓からはいろいろなものが見えた。晴れたり曇ったり雪が降ったり稲光が光ったたり虹が見えたり、さらには人工衛星が飛んで行くのが見えたし、白鳥の家族連れが一瞬、窓の上を横切るのも見えた。その時はあまりに感激したのであわてて東京の家人に電話連絡をしてその感慨を共有したこともあった。

しかし窓からの風景と言うものは日常のレベルになってしまうとそれなりに退屈なものである。アトリエで何か非常に長い本を書いていて数日間一歩も外に出ないこともあった。でも室内で歩き回るには十分な広さがあるからそれで退屈はしないのである。

そんな日の5月の夕方にそれまで重く垂れこめていた雲が西の方が開いて、夕空がその先に切り抜かれたように見えた。

よく美術館でバルビゾン派の名作などを見ていて、これは絵描きが無理矢理強調した空の、そして光の、雲の様子ではないかとずっと思っていたのだが、実際にこのような風景をみるとあれは絵空事では無いということがわかるのである。

カメラはコンタックスとそれのコピーのキエフである。フイルムは安いコダックのカラーネガがである。レンズはビオゴン3.5センチともう一本が珍しいビオター7.5センチf 1.5のレンズだった。

2016年6月 3日 (金)

天王寺花山商店

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大阪芸術大学に写真の講義に行くのが本筋なのであるが、天王寺の都ホテルが宿泊所になっていてそこから歩いて5分ぐらいでこの立ち飲み屋さんに行くことができる。
花野商店と言うのである。

ここの名物お母さんが亡くなって6月でもう1年になる。
お母さんの話は素晴らし芸であって私は感激してiPhoneでその一部を収録したことすらあった。今はその息子さんがカウンターに立っているがこの人もお母さん譲りで話術の名人だ。

ここで1人で立って飲んでいると大阪の近況というか世界情勢が手に取るようにわかるのだ。

今回、ご主人の話を聞いたら私がこの店に来るのに天王寺のホームの上のクラシックな跨線橋を渡ってこっち側に来るということが話題になった。
ご主人のおばあさんの話として、大阪大空襲の時にこの橋を渡って避難をしたのだそうである。その橋の名前をくろはしと言う。
漢字でどういう風に書くんでしょうと聞いたら、黒い橋とちゃいまっかと答えが返ってきた。

だから黒橋である。

2016年6月 2日 (木)

来年の誕生日に出す写真集Europe1975

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5月31日は私の誕生日である。
木村伊兵衛先生のご命日でもある。

それでこの10年来というか20年来、誕生日に行っているのが誕生日ウオークだ。
今年も文京区音羽にある私の生まれた場所、実際にあそこは駐車場になっていてマンホールのふたがあるのでこれを名付けて「生誕マンホール」と言う、そこに行ってきた。

この前京都で大隈書店を中心に私の来年の写真集の出版の委員会が立ち上がってその概要が決定した。来年2017年の5月31日にパノラマ写真集を出すことになった。

去年私の佃日記を出した湖西の書肆である。詳しいお知らせは近々申し上げたいと思う。

日本橋にあった石原悦郎さんのZeit Foto が今年末で終わりになるのでエステートの人からプリントを250ほど預かっていると連絡が来たのが数ヶ月前だった。
行ってみると1975年に撮影した膨大なヨーロッパのパノラマ写真だった。こっちは預けてあったことも既に忘れていたのである。
40数年前のゼラチンシルバープリントだからこれはヴィンテージプリントである。あたしの真面目な読者さんは多く見ても三百人ほどであろう。そのみなさんにヴィンテージプリントを分配しようと思った。
限定写真集を作ってそれぞれ一点ずつプリントを添付しようというやり方である。
ヴィンテージプリントだから実際にはかなりの値段になりそうなのだが、それはやめにして普通のプリントがついていると言うような価格設定で販売したいと思う。
書店ではこれをクラウドファンディングでお客さんを募集したいと考えているようだ。それはそれで良い方法だと思う。

このシリーズはパリ、ベルリン、プラハ、ウイーン、ベニス、アムステルダムなどヨーロッパじゅうを移動して撮影したパノラマだ。
上に掲載しているのはそのシリーズとは別のシリーズで数年前にプラハで撮影したものだ。
拙著屋根裏プラハにはこの立体派建徳が登場してくる。その舞台では私は1968年に21歳で、キュビズムのアパートに住んでいる若労働者と言う設定になっている。
ソ連軍の戦車が進攻してきた八月末も私は何の疑問も持たずにモルダウ川を越えて反対側の小さな鉄工所に仕事に行くのである。

プラハと言えば巨匠ヨセフスデクの撮影したプラハパノラマの写真集が有名だ。今私が計画しているのはそのスデクへのオマージュとしてのパノラマ写真集なのである。

2016年6月 1日 (水)

エンジン

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新潮社の車雑誌エンジンにの7月号にエッセイを書いた。

巻頭特集でクルマと写真というのである。
イシモトヤスヒロさんのシカゴの雪をかぶった車のスタイリングについて書いたのだが、テキストの長さが600字である。
六千字の雑文よりも600字の短文の方が難しい。長文だと起承転結になるが短文だとそれができないから論を起こしてすぐ結論させるということになってしまう。

当初はイシモトさんのほかにウィリアムクラインとヨセフスデクが撮影した車の写真を掲載するつもりだった。それで写真を指定して編集部に向こうのエージエントに当たってもらったら、どうも間に合わないらしい。日本のの連休は10日間だが欧州は5月だと言うとそれ以上の休みがあったりするから、画像をリクエストして来週までと言うのはまず無理である。

高知美術館提供のイシモトさんの作品の解説だけにした。

他に現存写真家の十数人の車の写真がその後に掲載されている。私が最年長なのでトップに登場した。それは1996年にリコーGR1の写真集の撮影でウイーンとプラハで撮影したものだった。
編集からそのデータか紙焼きを数日以内に送ってほしいというリクエストが来た。これは土台無理である。
20年前の写真集であるならそんなデータがあるわけがない。それでウイーンで撮影した雪の中のシトロエンの写真でどうですかと言ったら、やはり写真集の中に入っているのでないと具合が悪いらしい。
それは無理ですと申しあげたら、写真集から直接複写すると言う。
半信半疑だったが画像が仕上がったらこれが非常に良い出来栄えである。
アナログ時代だったらボケボケになって色がおかしくなるのにデジタル時代だからちゃんと写るのである。
だから見開きの写真でなければ写真の複製はこれでいけそうだということがわかった。
今回はそれが最大の発見だった。
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