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2016年5月31日 (火)

ロングタイムフレンド

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マンハッタンの怪人こと船原長生さんと顔本友達になってから5年が経過した。そんな事は忘れてしまうがFacebookが教えてくれるのである。
ロングタイムフレンドとか言うので教えてくれるのである。
そこに掲載されていたチョーセイさんが私を撮った写真は2011年3月の東日本大震災の直後にマンハッタンを散歩した時のショットであった。
チョーセイさんは最初のライカM8を使っている。レンズは1本しか持っていなくてノクチのf1である。その脇に並んでいるのがライカm8-2である。レンズはソ連製のオリオン28ミリがある。これは私の所有ではなくて野々宮から借りてマンハッタンに持っていったのだ。
この二台がロングタイムフレンドである。

その2つが並んでいると最近のデジタルカメラの新型などは吹けば飛ぶような存在に見える。コンタックスのあのマッチ箱がひしゃげたようなファインダーの新型デジカメにしても非常に心もとない。

チョーセイさんが撮影してくれたマンハッタン歩行中の私のショットが面白いと思った。
あごひげから下、肘から上が写っているのである。
私は左手にライカを構えてレンズは内側、つまり体のほうに向けている。これは町歩きの時の私の標準スタイルである。
それで街の波動が高まってきてこれは写真になるぞと感じ始めると、カメラは右手に持ち変える。そしてひじを曲げてやはりレンズは体に向けて歩いているのである。
だからこの写真を見るとあまり面白くないところを歩いていると言うことがわかる。
背景はローワーイーストサイドの退屈な公園のようだからまずこれはカメラは左手で持つのが妥当であろう。

チョーセイさんは50ミリレンズ1本しか持っていない。それも明るいレンズのノクチである。それを昼間でも持ち歩いて使っているのはさすがアメリカ人だと思う。
私はライカM8にソ連製広角レンズである。要するにライカのデジタルを使うにしてもそのユーザーによってレンズの選択肢が非常に異なるということがわかってこれは面白い。


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NYC 2011

2016年5月30日 (月)

木のテロですか?

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赤羽西2丁目と十条仲原の間にこんな樹木がある。
ダリの絵画のような感じの木なのである。あるいは何か爆弾が破裂して天に高く伸びていくその瞬間をとらえたような形の木なのである。この木をFacebookで見た人が樹木のテロリズムですかと聞いてきたがまさにその表現がぴったりだ。

新潟地震かどっかの大震災の時にプランとが火災にあって、黒煙が上がったときの感じにも似ていた。人間の時間で考えるならば一瞬の爆発の時間でも、木対してはタイムラプスすればやはり爆発の瞬間なのであろう。

赤羽西から十条仲原界隈で道に迷ったときにはこの爆発する木というのが非常に良い目印になる。ただしそんなに高いわけでは無いから見失うこともある。

今度7月に四谷のギャラリーニエプスでToday東京1966という写真展を開催する。高校3年の時から日大i一年の頃に撮影したごく初期の作品を展示するわけである。

文京区の音羽の通りから関口台町の東京カテドラルに上がる急な坂道、ちょうど独協学園の間の左に巨木ががあり、若かった頃の私が「原爆の木」と名付けた。

その理由は明らかではないがその大樹の様子が原爆のイメージなのである。それから10年がいつも重なって、そのオリジナルの原爆の木はすでに代が変わって新しい木になって、そこに植えられていた。これは若々しくて細くて原爆の木と言うイメージとはよほど異なる。でも私にとってそれは二代目の原爆の木なのである。

ジョナス メカスがニューヨークのウースターストリートで彼の友人のジョージマチューナスがポリスの警告を無視して自分で植えた木というのが25年も経つと建物を超えるほどの大木になっていた。
マンハッタンはセントラルパークを除けば大きな樹というのは全くない。特に5番街からSOHOのトライベッカがそうである。

だからウースターの木は素晴らしいランドマークになっていたのだが数年前に伐採されてしまった。その切り株の前にしゃがみ込んで亡くなった木を追悼するメカスの姿が記憶に残っている。
木というのは記憶の中にしか存在できないのか。Image_3


2016年5月29日 (日)

オペマノナマエガオモイダセナイ

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オペマはかつてのチエコスロバキアの35ミリレンジファインダカメラである。
フィルムサイズはライカサイズより4ミリ短い長辺が32ミリ、それで40枚の写真が撮れる。
不思議なのは世界各国で戦争が終わった後に作られたカメラがこのすん足らずのフィルムサイズであることが多い。ニコンの日本版がそうだしミノルタが作ったミノルタ35もすん足らずの32mmであった。
当時のカメラはアメリカに輸出して外貨を獲得するのが必須であったから先進国アメリカのカラーフィルムのマウントをする自動カッターにはかからないので隠して慌てて24ミリ× 32ミリ2から4ミリだけ長さを伸ばしたのであった。

ニコンSのようにどうしても長さが構造上足りなくて幅が1.5ミリ短いカメラを作ったりした。

このオペマは社会主義国のカメラであったから別にアメリカの現像所のコダクロームの自動カッターを気にする必要は無い。それでライカサイズよりも4枚多く40枚とれるという特徴をずっと保有していた。これはまさにマルクスレーニン主義マルクス写真術の勝利であった。

チェコの製品だからその製作の精度が非常に高くて操作していて気持ちが良い。しかもファインダーが撮影レンズの上に付いているのでパララックスの心配もないのである。外見のクローム仕上げも素晴らしい。
でもプラハの写真家はそんなカメラは使っていない。当時の、これは共産主義時代の話だが気鋭のジャーナリストはみんな西に向かって西側の精神を尊敬していたからやはり小型カメラはライカやコンタックスでないといけないのである。

私はプラハにいた頃はこのカメラをよく使った。ただしモノクロフィルムで現像した写真は自分でプリントするのである。
そのプロポーションが4x5の大型カメラと同じだから何か大型カメラ29
小型化した機材で撮影してるような気分になっていた。

私のエッセイ「新屋根裏プラハ」の中に狂言回しの役で登場してくる人にプラハのPがいる。10年ほど前に彼とネトロのプラハのラッシュの中にいた時にそのカメラの話になった。それでお互いに歳をとったからそのオペマと言う名前が思い出せないのである。
老人ボケだから1分で思い出そうと言うふうに時間を決めて1分間たった。私が思い出したのである。それでちょうどムステクの駅に着いたので、話題になったそのカメラの良いのがあったら買おうと言うのでカメラ屋にでかけていった。その時に買ったのはこのオペマである。

これには明るい標準レンズF2レンズがついている。通常はf 2.8のレンズなのだがこれはレアものであろう。

それから数年が経過してやはりプラハのPと一緒にメトロに乗っているときにその昔の話が思い出された。
「えーと、、、なんていったっけあのチェコ製のよく写るちょっと寸法足らずのライカは?」
と私が言い出したのだが、そこでそのカメラの名前を忘れてしまったのだ。前よりも数年歳をとってるから物忘れの度合いが酷くなったものと見える。

2016年5月28日 (土)

堀切P7サミット

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ネットを見ていたら例の有名な立石バーガーがバーガーがやめて餅屋になったという情報を確認した。日本の古いことわざに餅屋はもちやなどというのがあるが、果たしてアメリカ仕込みのハンバーガーショップが餅屋に変身できるのだろうか?

そこで急遽その新しい店の名前をとってもっちーピザ調査団を結成した。団員はスケジュールと費用の点で私1人である。ちょうど伊勢志摩でG7が開催されているのでこっちはピザの名前をとってP7と名付けた。これはなかなか政治感があって良い名前だと思う。

行ってみると節電中とエントランスに貼られている張り紙がそのままだし店内もまた変わっていない。変わったのは畳1畳サイズの看板だけである。

マスターも相変わらずで入ったらお昼として商売物のピザを食べているのは好感が持てた。つまりこれはマカナイ食なのである。

カウンターのところにもちをベースにした七種の異なる料理.といっても中身は餅だけど、そのサンプル写真が貼ってある。その一番下のすき焼きもちピザはまだ準備中であるが全ぶでもっちーピザの種類は七種である。だからG7になぞらえてこれを堀切菖蒲園P7と命名した。なかなかいい名前である。

私の注文したのはカレーモッチーピザである。フォークとスプーンで食べるのである。フォークとナイフのほうがいいだと思ったら実際に食べ始めてみたらもちを千切るのにはナイフよりもスプーンの方が良いということがわかった。それが鉄製のトレイに入ってるのは非常にプロフェッショナルっぽい。よく考えられている。あたしはウラミシュランの覆面調査員のつもりだったが、すでに顔がしれているからというかマスターとは数年来の知り合いだからその属性が分かってしまっている。 そういう意味ではどうもフェアではないということがわかった。しかしこれは裏ミシュランの1つ星にあたるクラスのユニークなお店である。

ポーションが大きいのでカレーモッチーピザだけ頼んで、あと2種類オリジナルのモッチーピザとミートモッチーピザをテイクアウトした。 これは佃にに持ち帰って食べてみたら本物の堀切菖蒲園の味がしたので素晴らしかった。近々モッチーピザショップ堀切本店の前に長い列ができるだろうがマスターはやる気がないのでピザはすぐにはできないのである。そこら辺が問題だからこれは全国展開をはからねばならないであろう。なお餅は最初期型の電気餅つき機でついているので、伸び方は半端ではない。以前ハンバーガーショップをやっていた時にパンの生地をこねる機械が壊れてしまって最後は手でこねていたのである。不測の事態に備えて餅つきマシンは二台あるそうだ。エアホース1もプレジデント専用乗用車もそしてヘリコプターのネイビー1もそれぞれ2台ずつあるのと同じ道理である。

2016年5月27日 (金)

佃煮まからん宮殿のゆらい

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ちょうど2年前の今頃のことである。
パリから東京の佃に電話をしたら家人がとなりのタワーのロビーがどっかの大会社の重役室のようになっているという話だった。

そこはのマンションができてから30年近くもっぱら通路として使われていたところなのである。

こういうのは口で説明されても実際に見ると聴くとでは大違いである。
私は10年間というもの六本木ヒルズの49回が仕事場になっていて考えてみれば賃料も馬鹿にしたものではなかった。

東京に戻ってきたら確かに広い空間に座りやすいソファがあって、上には巨大なシャンデリアがぶら下がっている。ただし省エネの事態だからシャンデリアはLEDである。
ここで自分の原稿書きをしている。
もっとも同じ環境で飽きたときには十条仲原とか北千住の公園のベンチに行ったりして仕事することもある。

もとよりパブリックスペースがあるから病院通いの老人が座っていたり子供がゲームをやっていたり使い方は様々である。

だから込み入った打ち合わせはできない。打ち合わせの場合は私の住んでいるタワーのクローズドなロビーがあるのでそこを使うようにしている。

このホールの設備は半年に1回ほどサービスがあるようである。イントレを組んで作業員が作業しているそれを見るのも楽しみである。実際に足場を見るとその天井の高さがよくわかる。

何かローマのパンテオンにいるような気がしてくる。

2016年5月26日 (木)

「斜に構えた」コンタックスG3カメラ考

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新型のコンタックスと言われる情報がウェブ上を歩きまわっている。
第一印象はひしゃげたカメラと言う感じやな。
ひしゃげた建築物と言えばプラハの立体派の建築物を思い出すのが私の場合。常である。
立体派の建築物と言うのは絵画や彫刻ではあったが、建築としては非常に数が少なくてそれはプラハのその時代にだけしか見ることのできないという意味で面白い建築なのである。もともと建築は立体物であるから、それをさらに立体派の属性を加えるというのはなかなか面倒なことであろう。

このフロント部分から観察してファインダー窓のようなものが斜めになっているというのは、まずひしゃげたマッチ箱を思い出した。6ー7年前にカイロの街を歩いている時に路上で拾ったマッチ箱はラベルは馬のマークで明らかにこれと同じくひしゃげていたのである。

このカメラが発売されればまずこれを求める人はその性能に惹かれて買うのではなくてひしゃげたマッチ箱のウィンドウに惹かれて買うのだろう。
これは正しい。そういうデザイン上から入っていくのがカメラの正しい恋愛の仕方、カメラの正しい選び方なのである。

京セラから出るのかな?

コンタックスはライカと並ぶ世界の人類が記憶すべきカメラブランドである。それを京セラが商売上儲からないと言うので簡単に投げ出してしまったのを私は非常に不愉快に思っていた。
京セラはコンタックスと言うブランドに対して1種の社会責任と言うものがある。だからこのカメラが現実に登場したらその責任の1部を果たしたことになる。
この世界をコンタックだけにしてはいけない。

カメラ好きの林忠彦賞の中藤などがヘビーコンタックスユーザーであるから最初に手にするかもしれない。
カメラコレクターの野々宮はこのカメラを見て一目でツガミエイトに似てると看破したがこれは素晴らしいカメラ愛だと思う。早速ツガミ8を出してみたらなるほどかなり似ている。そこで最初のコンタックス1932年生の1型を出してみたらそれはツガミ8に似ているのである。

林忠彦賞の中藤がFacebookでロシアアバンギャルドのキエフ10にも似ていると書き込んでいた。それでキエフ10を取り出してみたらなるほどやはり膝を打つ相似点があった。

野々宮や中藤のカメラ愛も非常に的を得ているが、それよりも不気味なのはそういうカメラを指摘されてすぐカメラのロッカーからそれが出てくる私の異常さである。

というカメラ存在から分類すれば、これは「斜に構えたカメラ」であろう。
もともとカメラと言う存在は、町のあんちゃんが好むもので斜に構えるところにその本質がある。
しかしこのきたるべきコンタックスのデザインを細かく拝見するにこれは単にカメラ上でのデザインの遊びなのである。

ここに紹介するのはカメラ本体が本気で斜に構えていて、カメラの全体のフォルムが斜に構えているソ連製の16ミリプロ用撮影機である。
カメラを肩に乗せて撮影するときにそれが飛行機の上だったりソユーズ宇宙船の中だったりすると大きなヘルメットをつけているし他の装備も大きい。それでレンズとフィルムの後、つまりマガジン部分を120度の角度で斜めに逃しているのである。だから上から見るとカメラ全体のフォルムは「くの字形」をしている。
こういうのが本当の意味での斜に構えたカメラだろう。このKinor 16Pと言うのは10ユニットは生産されていない。
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2016年5月25日 (水)

外伝 我楽多屋さんで 買ったモノマガジン デジカメのアトラッペ

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スイスのカメラと言う写真雑誌は戦前からある権威あるカメラ雑誌だった。1,970年代には日本の若い写真家はスイスカメラに写真を掲載するのが夢だった。

あたしも1970年と1980年に2回ポートフォリオを掲載した。最初の号は写真家の浜谷浩さんと、次の号には美術評論家で写真家に転向したニューヨークのマックスコズロフさんと一緒の号であった。後にニューヨークに短期間住んでいた時にウスターストリートのロフトの1階上にコズロフさんが住んでいた。その出会いというのはゴミを捨てに行ったときにお互いの認識したのだった。ゴミ捨ては重要な人間の出会いの場である。
これに仕事を発表するのは非常にステータスの高いことで今の若い連中がヒトツボテンとかオナエバとかやっているのとはそのレベルが異なる。その理由はその背景に経済的な儲け話がないからだ。最初から檜舞台と言う訳なのである。

スイスカメラのカリスマ編集長はアランポーターと言って、当時ニューヨーク近代美術館美術館のジョンシャカフスキー、そして日本のカメラ毎日の山岸章二、この3人で世界の写真ディレクターのトライアングルを作っている有名人だった。

スイスはルッツエルンにあるアランポーターの自宅に遊びに行ったとき彼の居室のフォコマートの引き伸ばし機の1番上のつまり柱の上にクローム仕上げのライカエM4が乗っかっていた。
これは危ないねと言うとアランはニヤリとして触ってみろと言う。
なんとそれはアトラッペであったのだ。英語で言えばダミー、つまり機械の入っていないライカなのである。

当時はアトラッペはライカではないと言うので非常に安かったが最近はコレクターの投資の対象になって本物のライカより高くなったりしているようである。

これは10年近く前にガラクタ屋さんで買ったオリンパスのデジタルカメラのアトラッペである。プラスチックの箱に4つ入っていて4つで400円とか言う安さであった。

以来ずっとその箱の中に入っていた。カメラの形をしているがカメラでは無いから写真を撮る事はできない。そこが存在学的にカメラの存在を超えているところがすごいと思う。

カメラはデザインを検討するときにモックアップを作る。モックアップはプロフェッショナルな仕事であるから1個の単価が高くて200万円位するそうである。以前リコーの最初のモデルGR1というカメラを本にしていたときに、そのモックアップモデルを預かった。
1年ほどしてその会社から帳簿上の整理がつかないから返却てくれと言ってきた。それほど貴重なものなのである。モックアップとダミーとは別のものである。ダミーは販売店の展示用に外側だけで機構は無い展示モデルのことであるからだ。

このアトラッペを手にしてみると本物のデジカメよりもズシリと重い。液晶部分に犬の写真なんかが貼ってある。そこがいかにも安っぽいアトラッペらしくて良い。思うに当時のアトラッペ業者さんはカメラは精密機器だからと言うので実物のカメラよりも余計な重さのウェイトを中に封じこんでしまったようである。
コンデジは軽いものと言う常識があるが、コンデジのダミーは重いものと言う常識を覆す面白さがここにはある。

2016年5月24日 (火)

ロシアカメラがむせぶ夜は

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金沢工芸大学の3回生のaさんて言う人からメールが来た。
zenitを買ったのだがロシアカメラの歴史について教えて欲しいと言うのだ。

なんでも芸術専攻のゼミナールで買い物ゼミというのがあるそうである。13人の受講生がいてその中でいろいろ買い物があるがaさんはロシアカメラを選んだそうである。

ロシアカメラは赤瀬川さんや私の時代には変人が愛好する変態カメラだった。それが女子高生がキエフを使っているドラマができたりして値段が安いということもあって若い連中に普及しているようだ。

金沢からバスでやってきたaさんはこの前、代官山で買ったぜニットとスパイカメラのキエフそれとおじい様の遺品オリンパスペンを持参した。

何しろデジタルカメラが生まれたときにあったと言う世代があるからフイルムカメラは非常にファッショナブルで謎めいているように見えるそうだ。
持参の27枚撮りのネガフィルムを装填しようと思ったが巻き上げ軸のスリットが具合が悪いようでうまく装填できない。
それでガムテープを使ってフィルムを巻き上げることにした。これが懐かしかった。ロシアカメラで撮影に行くときは必ずカメラバックの中にガムテープを入れていたのである。

その買い物ゼミナールであるがどのようなものを買っているのかと聞いたらどれも生活に関係のないものばかりなのである。
ここが大事なポイントだな。
暮らしの手帖と言う有名な雑誌あるがあそこで扱われているのは実用と言うのがベースになっている。これは日本の高度成長期の基本のテーマであった。

その時代がすでに過去のものとなって今は遊びたいもの趣味のものワクワクするものな買い物のポイントになっている。そして実用と言うところからほど遠いところに来ている。
それが面白いと思った。

2016年5月23日 (月)

熊本大地震ゼラチンシルバープリントでボランティア

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写真友達の狐塚さんからメールが来た。
熊本大震災のチャリティーのためにプリントを提供してもらいたいと言うのだ。私のような爺が現地のボランティアに行くのは全く不可能だからシルバー世代で、ゼラチンシルバープリントを提供すると言うのは最も賢い方法である。

狐塚さんは忙しいのに仕事の後に佃の寓居にプリントを受け取りに来てくれた。誠にありがたいことである。よく皆さんの目に触れているプリントがいいと思ってwinで1973年に当時住んでいたアパートのそばの路上で女の子を写したやつを選んだ。
エディションを外してちゃんとサインも入れた。

そのサインをよく見ると40年前からやっているのと同じサインなのである。1975年にスイスのチューリヒで出たプリントレターと言う出版社の厚い本に当時の私の作品とサインが掲載されている。それを見ると今と同じオートグラフなのである。サインの正当性がこれで明らかである。

価格に関しては狐塚さんに一任することにした。実際にお金が動かなければボランティアとしている意味が全くないから東京のギャラリーで扱ってるような値段をそのままつけるわけにはいかない。お金が動いてなんぼのものであるからである。

このショットは当時コンタックスかソ連製のキエフで撮影したと記憶している。それでモノクロフィルムのパーフォレーションは見る人が見ると分かるが、これはポジ目ではなくてネガ目なのである。
すなわちパーフォレーションが丸くなっているのだ。
昨年の夏の私の神田明神の枠のギャラリーバウハウスでの個展に狐塚さんが来てくれた時、彼はプレゼントに映画用のモノクロフィルムダブルエックスをくれたのであった。このフイルムもネガ目なのである。そういうわけで単にプリントをボランティアで出品するだけではなくてそこら辺のバックグランドはそれなりに私は楽しい。

2016年5月22日 (日)

二十年ぶりにチエコ製のクロノグラフを使う

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チエコ精のプリムというウォッチは機械式であった。工業国チェコだからその性能も悪いはずはない。
ところがチェコの軍用時計はそれが気に食わないのか外国製のムーブメントを使っていた。

レマニアであった。しかしビロード革命の後、共和国になってやはりスイス製のムーブメントは国防費が高いと言うことで国内のムーブメントを使うようになった。

雑誌新潮に屋根裏プラハと言う連載エッセイを掲載していた。
その中でチェコのシュコダという車のメーカーに取材に行った話がある。
その話はもう既に今から20年も前の話である。

シュコダと言うメーカーは日本のトヨタなどより数十年古い歴史があって、幻の名車イスパノスイザなども制作していた。

その話はここでは書かないけれども、このシュコダの街を散策しているときに出会った旧市街の小さな時計店で買ったのがこのクロノグラフだった。

プリムと言うブランドで値段はシュコダの工場労働者の月給の3分の1と言うからあちらではかなり高い。
時計屋の店主がこのウオッチはチェコ製ですがムーブメントは日本製のクオーツですから安心ですよと言われて内心ちょっとがっかりしたことがあった。

この1週間ほど佃のカメラジャングルを整理していてその時出てきたのがこの20年前に買ったウォッチである。
電池を入れて防水のチェックもしてもらったらちゃんと10気圧対応になっていた。

時計は高いものは買えないがこの四半世紀子遊んだのである。それがある時バーゼルいやあれはジュネーブのサロンでバチエロンコンスタンティンの発表会に出かけて、その時知ったのは同社の時計は50万円、と500万円と5000万円のウオッチを出していると言うことだった。

そういうことがわかってしまって急に時計の熱が冷めるのである。それで使い出したのがソ連製のウオッチとかそこらにある安物のウォッチ、つまりヨドバシカメラ売っている980円均一と言うようなやつだった。
1番使っているのはクオーツのタイメックスである。
クオーツのチェコ製のクロノグラフが今回ラインナップに加わった。

スイスの自動巻き上げの時計に慣れているのでクオルツのクロノグラフは何が心配なところがある。というのは歩いたり動いたりしてるときにはウォッチのネジが自動的に巻かれているという意識があるのだが、そういう運動の対価としての時計のネジの巻き上げと言うのはここには全くないのだ。それがどうも面白くない。

2016年5月21日 (土)

どこまでがきゃうとか? 丼もの一式

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30年どころか40年近く京都を徘徊していて1番困るのは食事のことである。
食のファシズムと言う事をよく書いているが、コンビニの食物は日本中どこ行っても同じであるからそれはそれで逆にに許せるところもある。

しかし徘徊中にランチを取るのにそれ食のファシズムになってしまうと日本全国どこにいても全く変化がないと言うことになってこれは面白くない。

以前は京都の坂の途中や路地の角に食堂があって、そこには丼もの一式などと書かれた看板があった。だからどこにでも最寄りのそういう店に飛び込めばよいのである。

その丼もの一式やさんが決定的に数が少なくなったのはこの10年来だと思う。

六波羅蜜寺の近くにハッピー六波羅、いやもっと安直な名前で、ハッピー六原と言う地味ないい感じを出している商店街がある。
その先の坂をあがっていくと右側にあるのが力餅食堂である。

適当な丼もの一式が無いので最近はそこに行くことにしている。私は東京から来た部外者であるからま違いのないところで親子どんぶりを頼んでビールの小瓶を前にしばしゆっくりしたりする。

後から来たお客さんが鳥打帽の紳士でいきなりきつね丼を頼んだ。
なるほど本当の京都人やったらこれだなと、そのセレクトを尊敬するようになった。
私などに比べれば丼もの意識のキャリアがはるかに高いのである。

木の葉丼とかも食べてみたい。
そこに入ってきた若い労働者風の男の人がきざみうどんにかやくご飯と頼んでいた。店主はそっけなくかやくご飯はやめましたと言っていた。それでいなり寿司か何かを頼んでいるのである。ここら辺の変幻自在の感覚がいかにも生活者らしくて良い。

あと中華そばもよく売れている。その中華そば値段が550円なのである。東京ラーメンたりーの私から言わせれば550円は高い。日高屋が390円で設定しているがこれは大チエーンだからできることであって個人商店ではやはり550円と言うのが最低ラインになるであろう。

2016年5月20日 (金)

どこまでがきゃうとか? 天使突き抜町

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京都の五條通りちょっと上がったところにある天使突抜町は何十年来の同じである。
最初にこのシュールレアリズムな通の名前を知ったのは30年位前だったか赤瀬川原平さんと何かの雑誌の対談だったかあるいはその前後の雑談の時に聞いたのである。

天使が街を一気に突き抜けると言うのが凄いと言うのが赤瀬川さんと話題になった。その時は深く考えずにユダヤ教の過越の祭り、パスオーバーみたいですねと答えを介したが、今冷静に考えるとこれはパスオーバーでは無い。
神の怒りが走って街を突き抜けるのであるからこの場合は災いが過ぎ越されるのではなくて、すべての人間の初子と動物の初子を撃つ、つまり殺すわけだ。ホロコーストの街なのである。
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日本の神様の御幸はそれは目に見えて金色の御幣のようなものがひらひらと空を飛んで行くそうである。それを下から見た人々は伏拝むのだそうである。

天使突抜町はその後も度々出かけた。1985年にアサヒカメラの特写で京都をとったときの作品の中にもこれが入っていた記憶がある。当時はニコンのF3にPC 35ミリで上方向に目一杯あおって撮ったりした。フイルムはトライエックスであった。

京都五條通りをちょっと上ったところにあるのだが、道がわかりにくい。郵便配達の人に聞いたら自分はわかりませんと謝っていたので郵便の人は最近はその街の通りを良く知っているということでは無いということがわかった。

仕方がないので該当する通りつまり5条通から上に上がって、横の通りに出たらまた下がると言うジグザグ路線をとってようやく発見したが、河原町通りから八本くらいは西に行った所であった。
久しぶりにこの界隈を歩いてもうマンションに変わってしまったかなと心配していたら昔の話までそこにあったのは嬉しかった。

佃日記2002年の項目を読んでいたらその時も訪問している。この場合は表札を調べていた。田中の隣は浅井。これは家人の旧姓なのである。この2つの表札を今回見たら変わっていなかったのも嬉しかった。

2016年5月19日 (木)

未来の夢のスカイライン

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北区神谷町の私が名付けた東京ミナレットの周辺の風景が面白い。かなり大きな空き地ができていてその向こうにはモダン建築がずらりと建っている。その建築スタイルは何と言うのかわからないが極めて未来的様相である。 この画一的な二階建て建築物はここにあるだけではなく、東京というか日本のあらゆるとこに建っている。北区神谷町の近くならば私が仕事をしている赤羽西2丁目のベンチから坂を上ったお寺の手前にも同じ建築物が八棟ほど建っている。 風景の喪失とは大げさながら、以前には浅草には浅草のそして羽田には羽田の伝統的な木造建築というものがあった。ところが今ではそういうのがユニットの建築になってしまったために、東京の地域性が完全に失われてしまった。 まぁそれはそれで仕方がない。 しかしどこもかしこもテーマパークのようになってしまっているのがやっぱり面白くないと思うのである。 そこで感心して見ていたらその前を自転車乗り少年が一緒に横切って行った。反射的にシャッターを切ってこれは写っていないのではないかなと思ったら、ドンピシャに写っていたのである。そのシャッターチャンスの自慢をすると言うのではなくて、私の目の前を瞬時に通り過ぎた少年の未来の記憶の中にこの町並みは一体どのように映るのだろうか。 やはり昔はよかったというハンコで押したような懐古主義で見られるのであろうか。

2016年5月18日 (水)

レニングラードが続々出土

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レニングラードは50年代の終わりにソ連で作られたレンジファインダのモータードライブの超高級カメラであった。
部屋の整理をしていたらそれの程度が良いのが二台出てきたのでびっくりした。このカメラの標準レンズは木星玉こと、ジュピターである。
木星玉クラブができて10数年になるがもともとの起こりはレニングラードについていたジュピターであった。これはアルミバレルで非常に軽いゾナーのコピーだから優秀なレンズである。

当時のニコンもでアルミバレルの50ミリレンズを少数作ったがなかなかうまくいかなかったらしい。

スプリングモーターで18枚から20枚の撮影ができる。問題なのはロボットとかフォトンのようにスプロケットをレジストレーションにする巻き上げ方式では無いのだ。単に強引に巻き上げ軸のパワーだけでフィルムを巻くのである。
だからコマ間隔が不正確で36枚撮りではなく34枚撮りである。
しかしプロラボの機械にかけることができるし自分でもプリントができるから画面の間がちょっと開いているというだけで実用上の問題は無い。

1,950年代の終わりにこのカメラはモスクワ市民が買うことのできる最高級のカメラであったと何かの資料で読んだ記憶がある。その価格はぼんやりとしか覚えてないが確か250ルーブル位だったようだ。もっともこれは不確かな話であって為替管理の国だから何を基準にして設定するかと言うことで価格はかなり異なるであろう。江戸時代の物価がわからないのと同じことだ。

実像ファインダーで35ミリから135ミリまでのフレームを備えている。しかしそのフレームはかなりいい加減である。ただコンタフレックスの二眼レフのいい加減なアルバダ式ファインダに比べるとまだ正確であると言うこともできる。

実際に使ってみるとちょっと癖があるが使いやすい。一時はこれを3台持ち歩いたこともあった。レニングラードにJTBの取材で行ったことがある。その時はレニングラード、今のサンクトペテルブルグであるがそこでレニングラードで撮影をすると言うのが夢だった。もちろん仕事で使ったわけではなくてプライベートの時間にこのカメラで撮影をしたのである。そして実によく映っていた。

2016年5月17日 (火)

名取洋之助のベビーローライ

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名取洋之助はあれは1930年代の終わりであったか,アメリカを広く旅行した。
名取の書いた文章を読むとその時の機材はライカと小型のローライフレックスつまりベビーローライであったと言う。

八年ほど前に岩波写真文庫が復刻版されるので、田中長徳コレクションと言うことで何点かの写真文庫を復刻した。その時に普段はなかなか入ることができない岩波書店のフロンガスで充満する防火設備のついた書庫に入る機会があった。

そこで名取のアメリカ旅行のコンタクトプリントが膨大にあったので打ち合わせはそっちのけで何時間もそれを見ていたのである。
その中に明らかにベビーローライフレックスで撮影したと思われるコンタクトプリントもあった。

木村伊兵衛は大掛かりな撮影のときにはライカと66判のローライを持参した。名取はそれに対してより小型の44番のローライを持参したわけだ。
その理由は想像するほかはないが、両者は大きさと重さがかなり違うからそこら辺のバランスと全体の旅行のベビーさを考えて小型のローライフレックスにしたのであろう。

カメラ付きからすればこのまるで縮小したようなミニチュアサイズのローライフレックスは手に持って快感なのである。フランケ ハイデッケ社はこの小型のカメラを最初は婦人向きと言うことで販売したようだ。

2016年5月16日 (月)

文物1976 現代日本写真家、

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部屋のゴミとか段ボールを捨てるので部屋を整理していたら1976年の現代日本写真家展のポスターが発見された。
時間軸上の距離感というのは、時間軸がずっと長くなってくると時間像のパースペクティブが変化していろいろ面白いものが出てくる。

1976年の秋から79年だと思うがオーストリアのグラーツを皮切りにヨーロッパのドイツ語圏を巡回したのがこの現代日本写真家展であった。

メンバーを一瞥するに当時の大家ばかりであって1番の若造が私とか田村代表とか十文字さんなのである。そういう連中がもう70になろうとするのだから時間の経過と言うのは面白いものだ。

非常に分厚いカタログなどを制作したが残念ながら今手元にはない。その表紙は一村哲也さんの作品で鯉のぼりが泳いでいるカラー写真であった。

金子光晴の時代からヨーロッパ人は日本の風物でそういうローカル
性に引っかかるものと見える。それはそれで仕方がない。

このテロリスト手配のようなポスターは私がデザインしたものである。40数年前だと言う事はマックのフォントなどがないから、私がこの現代日本写真家展の文字は写真植字で打ったものをウイーンに持って帰ったのであった。

当時のテロリストで有名なのはバーダーマインホーフであって。手配書は黄色いバックグラウンドに墨で印刷してあるのである。それをパロディーにしてわれわれは黄色人種、イエローであるからそれを強調してみた。
この大判のポスターがウイーンのリング通りの目抜き通りにに貼られるとそれはそれは大変な効果があって人だまりができるほどであった。

当時は東洋人などはまだ珍しい時代であるから、その東洋人が30人以上顔見せ興業をするというのはそれ自体がカタストロフィーであるのだ。

2016年5月15日 (日)

どこまでがきゃうとか?貝殻ウイドウ

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京都の路地裏の小路を行ったり来たりするのは何十年来の楽しみがある。
人間の記憶と言うのは非常に深いものであって記憶の底のほうに残っていて普段は記憶してないような街角が目の前に運ばれてくるのには感激する。

これは今出川と堀川の角の西であるが雨が降ってきた。6時間歩行しているその後半の3時間半ぐらいは小雨がずっと降っていたのである。

しかし撮影の時は傘はささないのがルールであるからそのまま気がつかないまま歩いていた。後でコンビニで買い物するときキャッシャーの前に立ったら私のハットの端から水がポタポタと落ちている。まるで昔の北ベトナム軍の将校のような感じで面白く思った。

さてこの小路の角にある青く塗られたウィンドウである。
中に南洋の貝殻などが展示してある。このウィンドウがすごいのはそこに商店の看板もなければ、その置かれている貝殻の説明も何も全くないということだ。
そこが非常にシュールなのである。
確か30数年前にもこの貝殻のウィンドウがあったような気がする。

2016年5月14日 (土)

物干し場に惹かれる

P5040427木村伊兵衛さんの古い作品など見て、それは東京の路地裏の光景なのであるが、子供が元気に路地裏を走り回っていて、物干し場があってカミサンが洗濯物ほしている。そういう体験は私の幼児の時にも近くの長屋の路地などで見かけたものだった。

路地裏の洗濯物の干場というのは下町コミューンの中心なんだけど、あれから七十年は経過してるから時間に流されてしまった。 私が調査した物干し場だが、東京で私の好きなちょっと写真なるような物干し場がわずかに残ってるのは荒川区三河島と足立区の北千住である。 時々、そういう物干し場が見たくなって出かけることもある。
この物干し場はごく最近発見したのであって、その場所は十条仲原の環七から1本北に入った道、それも環七とパラレルに走っている路地なのである。何か地理学の大発見をしたというような気になってうれしかった。
しかし路上には元気な子供の姿はない。子供はみんな部屋の中で静かにゲームに熱中しているのであろう。だからそのこと考えるとここの洗濯干場は何か映画のセットのように見えるのである。

2016年5月13日 (金)

どこまでがきゃうとか?百鬼園に似たしと

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京都のホテルオークラに整理ーさんのロコモコ風の写真展を見に行った帰りホテルのロビーで仕事をした。ここは便利なので前から使っている。仕事場の要素としてはトイレのそばにあって水が飲めれば上等でそして通信ができれば良いわけだ。

もっとも六本木ヒルズ以来通常使ってるのは東京の公園であるから、公園のベンチに比べればホテルオークラの椅子は非常に座りやすい。

仕事を始めてふと気がつくと目の前に内田百閒そっくりのじじいがいる。お未わず見惚れてしまった。爺さんの何を鑑賞するかと言うと、どれだけ老人としての年季が入っているかはそのステッキの扱いによるのだ。
ちょうどライカ思っている人がそのライカはどのように扱うかでカメラの年季、写真の腕前がわかるんと同じである。

もっとも内田百閒の書生の頃は若造の学生でもステッキを持ち歩いていた。
それで高いステッキを取り違えられては困るので、牛肉家の2階にステッキを持ってあがったら、別の書生の客が「あの野郎ステッキを持って上がってきやがった^_^こん畜生」と言ったそうである。全く乱暴な言葉遣いだがやはり牛肉家の2階にステッキを持ち込んではいけない。

それでつくづくこの老紳士のステッキの扱いを見るに感心したなかなかこうはいかないものである。

その文豪っぽい感じがなかなか良いのでそれをを鑑賞していたら奥さんとそのお連れさんが来た。
何の事は無い。何か世話になった人にランチをご馳走してやると言うだけの話なのである。

だから奥さんが前に来ると突然普通の老人になってしまうのでちょっとがっかりした。

その奥さんが同じ年配の女性、これはお客さんだと思うが、ランチをご馳走するのでなんでも好きなものをとか言っている。そこら辺が京都のお方の攻防戦があって面白かった。
ホテルの中にいいお寿司屋さんもありますが予約ででないとダメです。
とあらかじめ予防線をひいたりしている。
それでどこに行くか見ていたら、この文豪が座っていたソファーのすぐ後ろにある安直なグリルに入ってしまった。
ちょっとがっかりであるが、まぁそれでめでたしめでたし。

2016年5月12日 (木)

仰ぎ見る高い場所が好き

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町を歩行中に、ふと気がついて仰ぎ見るはるかに上のほうにある建物の細かい部分と言うものが好きである。

稲垣足穂はこの都会の観察の美学に早くから気がついていて、そのことを「建物の高いところにくるくる回っている風車」のようなものとかと言っている。
あるいは風車ではなくて電線のがいし、またはラウドスピーカーでも良いのだが、現代の都市社会ではそういうものはすでになくなってしまっている。これらは19世紀から2世紀にかけての大都会をシンボライズしたノスタルジーオブジェであるからだ。

あるいは集合住宅が建物の上の方で複雑な形を形成しているのでも良い。

その建物の不思議な高い所を見る目的のためにパリでよく歩く道がある。
それはモンマルトルの付け根の所の安物を売っているデパートの間をぬけて入れるとモンマルトルの丘に登って行く所の側にある。

パリは良く見ているつもりであるが、数多くの街角の中で今言ったこの場所ほど高度感が際立っているというところは他になかった。

先日、東十条商店街の歩き慣れた道を気まぐれからほんのちょっとだけ出てみたらこの光景に出くわした。これは発見といっても良いことであって、要するに私の好きなモンマルトルの仰ぎ見る高い所と同じなのである。
嬉しかった。

手元にすぐ使えるカメラがiPhoneしかなかったのでメモリの残りを気にしながら1枚だけ撮影した。iPhoneと言うのはいざというときそういうことに役に立ってくれる。しかもご覧のように実用上のシャープネスはこれで充分なのである。

2016年5月11日 (水)

どこまでがきゃうとか? ホテルオークラ整理ーさんの個展がいい


京都ホテル、今のホテルオークラは私は昔からのお客である。
最初は1976年の夏にまだ白亜の6階建ての建物の頃に宿泊した。欧州で開催された、現代日本写真勝展の準備に「来日」してきゃうとに遊んだのである。二十九歳だった。
それがホテルの名前が変わってからすでに20年近くなる。

そこの立派なギャラリーでセイリーイクオさんが個展をを展開しているというので見に行った。
彼女の写真集で、森山大道さんが絶賛した写真が非常に立派なフレームに入っている。
作品としてはアナーキーなのが、こういう場所でロココ調の額縁に入ると、不思議な効果を生んでいる。
まるでルーブル美術館の貯蔵品のように見えるのが面白い。

しかもタイトルがNobleっていうのがシニカルでいい。
よく企画が通ったものと感心している。

フレームと作品とのミスマッチが非常に良い。
それで思い出したのはオーストリアの前衛アーティスト アーノルフ ライナーのことである。ライナーはマニエリスムの有名な彫刻を元にしてその画像の上にいろいろ描き重ねた作品でで有名になった。

ホテルオークラに展示中のロココ様式の立派な額縁に整理ーさんの写真が入ると不思議な核分裂効果がそこに生じるのである。

それは梶井基次郎が京都の丸善の洋書売り場に檸檬を置いてきたなどと言う昔とは、その破壊力がまるっきり違う。メガトンクラスだな。

セーリーイクオはカメラアルカイダであるまいか。

オークラの仕事場にて記す。


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2016年5月10日 (火)

ヨクコ

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小学校の時に最初に覚えたのはひらがなであった。それから徐々にカタカナを覚えた。最初は新聞の上で知っている文字を指差してその文字をピックアップするのである。ひらがなよりカタカナのほうが描きやすいということもその時に知った。

私の小学校は文京区立小日向台町小学校と言って私は音羽の谷に住んでいたから、毎日、鼠坂と言う急な石段を上って小学校に行った。帰りはそれを降ってくるわけである。

これは江戸切り絵図にもある有名な坂である。永井荷風もこの坂を上下したし、家人の遠縁にあたる堀口大学などもここ歩いたに違いない。大学の家はこの近くにあったからだ。

小学校への通学路で最初に私が出会ったカタカナの看板がこれであった。当時の看板は今の様ではなくm右書きであるからそれをヨクコと私は読み下した。
何か良い子に関連する言葉なのではないかと思ったのである。それから時代が下って普通の左から右に書くカタカナ表記になった。つまりコクヨである。

コクヨの事務用品の看板は日本中を歩くときの私の非常に親しいノスタルジックなランドマークになっている。

この手の看板はいずれも非常に風雨にさらされていて、わびさびがそこに浮き出ているのが良い。でも何十年もこの看板を見ているとその審美眼が非常に厳しくなってくるのが面白い。

北区神谷町をさまよっていた時に発見したこの看板が今まで見てきた同じ種類の看板のランキングの中でもトップファイブに入るものだと思う。

理想はこのファサードをそのままどこかの美術館に移植してそれを展示するというのが1番良いのかもしれない。しかしそれはなかなか手間と暇とお金がかかるのでこのようにとりあえず写真で撮影しておくわけである。

カメラはNikon レンズはテッサー2.8cmImage


2016年5月 9日 (月)

40数年前のポラロイドSX 70のピクチャーが14点発見された

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Zeit Foto Salonの石原悦郎さんがこの春になくなって時間が経った。この秋から石原さんの追悼展が年末まで開催するそうである。

石原さんに最初にあったのは1980年の秋であった。その翌年にツアイトフォトサロンで帰国後最初の個展を開催した。
その内容はあちらで制作したゼラチンシルバープリントとやはり当時ポラロイド社から依頼されてヨーロッパを撮影したSX 70ピクチャーであった。

ポラロイド本社のエリコヴォルフと言う人から頼まれて当時最新型のSX 70と膨大なピクチャーロールを持たされてヨーロッパを徘徊した。その成果はポラロイド社に納入されたが若干のプリントが手元に残っていた。

10年ほど前ギャラリーバウハウスで開催した個展の時にも若干のSX 70プリントを展示した。それは一点きりのプリントであるからコレクターさんがまず最初に買ってくれた。それで2番目のコレクターさんは何しろエディション1なのだから買えないわけである。

制作から四十数年が経過したのでもうSX 70のプリントはないと思っていたら、今回ツアイトから返還された中にポラロイドが14点あったわけである。これはちょっとした私にとっての新発見だった。

撮影場所はパリとかウイーンとか色々な場所であるが、その中で面白かったのは私の写真集「ウイーンとライカの日々」に出ている作品でポルトガルはコインブラで撮影した1枚である。それは私の写真集ではモノクロームの公園のシンプルな木馬を撮影したものなのだが、同時に私はポラロイドカメラを持っていてそれをカラーで撮影していたわけである。
そんな事は完全に忘れていたのだった。

ここには懐かしい20世紀の光が写っている。
すなわちアナログの光である。Image_3


2016年5月 8日 (日)

赤羽の「久野ちゃん段々」

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家人の歌のお弟子さんで久野さんという素敵な女性がいる。写真もうまい。
いや実際には久野さんではなくて久野ちゃんである。
彼女とは歌人がサンレモの音楽祭ワークショップに行った時にそこで知り合ったので、もう十数年来の知り合いと言うことになる。
久野ちゃんは今は市川に住んでいるが以前赤羽に住んでいた。それがクラシックな木造の家屋で庭にがまがえるが出たりなかなか風流な家であったそうだ。こういう隠れ里的なところに住むのはまず理想というものであろう。

十条仲原の深い谷からその北側の西が丘2丁目に登るにはいくつかサウスコルのルートがある。それらはいずれも非常に急な階段なのである。
北区教育委員会の立て札によるとその一つには水車小屋階段とある。以前は多分、下は田んぼであってそこに用水が流落ちていたのであろう。
そうなれば単に灌漑用水を流すだけではもったいないからそこに水車小屋を据えて粉を轢いたりするわけである。

その急な石段のうちの1番分かりにくいのがこれである。その理由は単純で小路の奥の非常にわかりにくいところにあるのだ。
私は最近この秘密の急な階段を発見したのである。

その階段の脇にあるお宅が別の久野さん宅なのである。
それで19世紀の冒険家ではないがその名前をとってここを「久野ちゃん段々」と命名した。

🌠お詫び。人名に人物の取り違えがありました。実際にはそのちゃんと言う人でした。久野ちゃんは家人の別のお弟子さんです。しかしこのまま雑文として読んでください。

2016年5月 7日 (土)

文明堂のカステラの木箱に入った1966年に撮影したネガからその1

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7月1日から7月10日まで四谷のギャラリーニエプスで写真展をやる。内容は1966年に撮影した私のモノクロームから選んだものである。

私のデビューは1969年の8月に開催された銀座ニコンサロンての「Today Tokyo」だった。
日大写真学科の学生として初めて個展を開催したと言うのが私のバックグラウンドであった。
「Today Tokyo」はその後何十年に渡って使っているあたしのあたり狂言である。
日本カメラとアサヒカメラでもこのタイトルで連載をした。

今回は初個展に展示されなかった、つまり高校3年生から大学1年の頃に撮影した東京のスナップショットを展示する。その最も初期のネガは古い文明堂のカステラの箱に入っていた。
南方熊楠が昭和天皇に献上した粘菌の標本というのはキャラメルの大きな箱に入っていたそうだが、あたしのはカステラの箱。それの形式をここに踏んでいるわけである。

その写真展を前にこのブログで何点かの作品を紹介していこうと思う。これは1966年3月13日の東京都立志村高等学校の卒業式である。
当時はキャビネ版の暗箱で写真屋さんが護謨のボールを握ってクラシックな撮影をしたはずである。まだマミヤプレスのようなプレスカメラの時代にはなっていなかったと思う。その撮影が終わって春の突風が吹いてきた。
それを高校3年生、いや卒業したばかりの私が撮影したのがこれである。カメラはブラックのNikonFで5センチレンズがついていたはずだ。

中央の2人の男性の右は校長先生だろうが50年が経過してみると若く見える。左のほうは私のクラスの担任で桝元正数先生である。この方も既になくなっている。

半世紀前の古いネガは別に酸っぱい匂いもしないしカビも生えてないし変色もしていなかった。これは当時住んでいた文京区音羽の水道の水が良かったのだろうか。

Facebookにこの画像をアップしたら、「写真は記録である」とコメントを寄せてくれた人がいた。その人は私のプリントをコレクションしているハンドル名副司令と言う人なのである。彼はは冗談で言ってるのか本気で言ってるのかわからないところがあって、いつも書き込みが両方の意味に取れるのが面白いのである。
だから写真は記録であると言うのは、本来の意味で使っているとしたらちょっとがっかりである。写真は記録係であるかもしれないが、それ以上の時空間を超越した何ものかであると言うこと、これが今回のギャラリーニエプスでの写真展の目的と言えるかもしれない。

7月の2日にトークショーも開催の予定だ。
非常に面白くなってきた69歳の夏。

2016年5月 6日 (金)

我楽多屋さんで買ったモノマガジン二百号 特番カメラ

四谷荒木町のアローカメラの我楽多屋さんで月1ウェブで連載中の」我楽多屋さんで買ったモノマガジン」が今回二百号になった。 200というのは十数年の歴史があることである。日本カメラの連載は先ごろ終了したがあれは四半世紀やっていた。それにはかなわないが、まことにありがたい。それで言い方はいささか大げさだが二百号の特番というのをやることになった。それは今度出版される本の中に掲載されるのであるがこの画像はそれを取材したときのものである。長い歴史の伝統を破って、というのは今まではいつもカメラだけを写して、その持ち主はウツサないというのがルールであったが、今回は特番なのでそれをやめて二代目さんがガラクタ屋さんで買ったモノマガジンということで、二代目さんさんを写して3台カメラを持っていただいた。その画像はここでは掲載しない。 仔細に3台のカメラを拝見スルトすると、まずカメラの趣味は私と似たり寄ったりである。ここにあるカメラは安物ではあるがカメラ好きの本質のようなものをそこにもっている。世の中一般は値段が高ければ高いほど良いと価値観を持っているが、ここには真実のセコハンカメラ道いうものがありそうである。 そのカメラの話は本誌の方でやるけれど、撮影の時に小道具として貸してもらった画面左上の買取名人ブランドのカップ麺というのが気になっている。 こういう印刷物は数千枚単位でなければ受注実しないだろうし一体どのような方法でシールを手に入れたのであろうか。 まあ、上に貼るだけだから中身は普通のカップ麺には違いないが象徴的に思うのは、このやり方というのは現代のデジタルカメラのOEM生産そのものであるということだ。 ここにある3台のフィルムカメラはそうではなくてそれぞれのメーカーがそれぞれにこしらえたところが異なっていると思う。おっと一言付け加えるならばレンズはOEMで他社から入れてきたというのもある。またそうでないのもある。 カップ麺づくりもカメラ作りも随分と変わったと思う。P5030274

2016年5月 5日 (木)

花咲か爺さんならぬレール切り爺さんにであう

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この数ヶ月いつも北区赤羽界隈を徘徊してる。特に興味があるのは十条仲原の谷と丘である。 それはそんなにおおきくはなくてせいぜいが東西に800メーター、南北200メーターぐらいの範囲でその北側と南側が小高い丘になっている。 河岸段丘の典型的な地形である
おそらくもとは川であったとこは埋めたてらられたと思える曲がりくねった道を、曇った午後に歩いていたら、老人がかみ込んで何か作業しているのに気づいた。 通常にここら辺で路地なら、草花の手入れというところだ。接近して気がついたのは彼は鉄道のレールを工具で切断中であったことだ。凄まじい勢いで私が見ている間にどんどん切断されていく。
あこの人は工業関係、しかも重工業関係の人なのと尊敬した。なんでそんなことを連想したのかといえば前世前にベルリンを取材していてそこでシーメンスの巨大な重工業の工場の内部で一万トンプレスを操作する青い上っ張りを着たドイツ人の職工さんを写したことがある。
人間が鉄を加工するというのは何か非常に気高い尊敬する感じがそこに感じられたたからだが、赤羽の路地裏でレールを切っている老人に私は工業を感じるのである。
この曲がりくねった道をそのまま行くと、私が毎日そこに座って原稿書いたり考え事をしている木製のベンチがある。 ほぼ毎日この道を歩いているとそれなりに季節の移ろいがわかったり、着工中の新築の建築というのは1週間でほとんど出来上がっているということもわかる。
以前は北千住の公園を仕事場にしていてそこで新調のゲラを直したりしていたのだが、最近は北区十条仲原4丁目の崖下に仕事場を持ってるわけだ 六本木ヒルズいたころはお客さんに来てもらえるけれども、ここに来てもらって打ち合わせをするというのはちょっとスマートすぎてあんまりやりたくないと思う。 自分の時間が完璧に保たれるのはありがたい。

2016年5月 4日 (水)

山門不幸

P5040377P5040378赤羽はこの地域の仮想な概念であって実際には細かく分かれている。私が歩くのはで赤羽西2丁目と十条仲原4丁目の高地に挟まれたほそい地帯を歩くのである。 この界隈は山の上にはお寺があり谷のほうはもともとは田んぼであったのだろうか、そこには住宅は密集している。

稲付山というのがこのお寺さんの名前である。 山門不幸という立て札が立っている。私は東京を歩いているから、それもかなり広く歩いてるので時々お寺さんのエントランスにこの立て札を見ることがある。 何か慄然とするものがある。その理由は宗教といえども生死を免れることができないという普遍的な現実である。それをつつみ隠さずにちゃんと表示しているというところが何か良い感じがして好きである。遷化した先代のご住職は62歳というからまだ今の感覚で言えばずいぶん若いと思うが、昔だったらこれは大往生ということなんだろう。
このお寺はなかなか渋くて好きだ。山門を入るとすぐ左に鐘楼があり立派なものである。この尾根道から南を見た、言い換えれば赤羽西2丁目から谷を挟んで十条中原4丁目界隈を望んだ光景が好きだ。 鬱蒼とした木々と甍、その後ろに東京の空というよりも江戸の空がある。 言い換えればフェリーチェベアトが撮影した幕末の江戸から明治かけての光景に意外と近いのである。それが良い感じだ。

2016年5月 3日 (火)

ロードのモナカケース

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ライカとかニコンの次に使っている頻度の多いフィルムカメラは岡谷光学のロードではないかと思う。
私が10歳の頃のカメラで当時のトップカメラはニコンSPであった。しかしスナップシューターとしてはレンズ交換はあまり必要ないからこれで充分なのである。
ロードはその種類はあまりないがモデルチェンジをするたびにそのデザインが完全に変わっている。
当時の小メーカーはそのようにしないと時代の流れについていけなかったのであろう。

ロードのその前のモデルはロード4 SBと言うのだ。それには40ミリのF2.8のレンズがついている。ロード5Dになってからかなりレンズは奢って40mmのF2がつくようになった。大変な進歩である。
しかしこのレンズを絞り開放で使った事は1度もない。私は昼間の写真家であって、夜はお酒を飲んでいるので解放絞りでとるということががないのだ。

このカメラの魅力はその皮ケースにある。実はカメラ本体よりも速写ケースのほうがレアなのだ。仔細に観察すると最中の皮にその構造が似ている。
要するにリアとフロントのエレメントが前と後ろにかぱっと開くのである。

革ケースの構造と言うのが例のカメラ人類の間で伝説になっている頭脳フレックスの速写ケースにに似てるのが面白い。
ズノーが1957年、ロード5D同じ年の制作であるから、普通に考えると革ケースは外注をするものであるから同じケースのメーカーに注文したケースが高いと思う。

カメラワーク

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家人のソプラノリサイタルが浜離宮ホールで先週末にあった。
1980年代の初めから定期的にコンサートを開催しているので数えて見ればすでに35年を超えている。その間に新しく来てくれたお客さんもいれば昇天してこれなかったお客さんもいる。
今回も色々な意味でプリマは体調が優れないので直前までは心配していたが、演奏を始めてしまえばなかなか底力があるのでまずまず大丈夫だった。

朝日の浜離宮ホールは他のホール同じ同じだろうがセキュリティが非常にタイトになっていて、まず事前に登録した私がエントランスでプレスパスというかステージパスを受け取らなければ中に入れない。
開場のずっと前に中に入って観客はいない無人のコンサートホールというのは調律の人がいるだけでなかなか広い空間で私は好きである。

しかもピアノはベーゼンドルファーのフルコンサートだ。l
以前ウイーンで楽友会ホールのステージの中央にベーゼンドルファーのフルコンをすえると言うシチュエーションで撮影をしたことがある。同じ建物中にベーゼンドルファーのショールームがあるのだがそこから巨大なピアノをどうやって持ってくるのかと思ったら、足を外して縦にして数人の人が台車で運んできたのでびっくりした。これはプロの技である。

さて、会場の係り人十人ほどでブリーフィングをしていると言うのは何か飛行場で出発前のキャビンクルーのブリーフィングに似た感じがして面白かった。フライトもコンサートも進行する時空間時軸での移動だから似ているのは当然なのかもしれない。

開場直前にクリューが全部の座席の様子をフラッシュライトでチェックしている。この結赤痢ティーのチェックは以前はなかったので興味深く思った。

私は「公式カメラマン」である。
以前日本郵船の仕事で横浜の氷川丸の千ページの写真集を作ったときに私の肩書はオフィシャルカメラであってそういう風に描かれた大きな造花の胸飾りをつけさせられた。1番大きな造花であってそれは横浜の市長さんと同じ大きさであった。

さて、開演。大きなハコなのにほぼ満員御礼と言う入りである。これもありがたい。

20分の休憩の間に色々な方と挨拶したがこれが私の仕事である。しかしたくさんの方が私に挨拶をしに来るので、何しろ演奏者が楽屋にいるからそういうことになるので、挨拶の時間は極力短くしないと皆さんにご挨拶が原ないわけである。それなので結局そばまで来て順番が間に合っなくてご挨拶をし損ねた方もいるのである。
何かが田舎の冠婚葬祭であり、生前葬という感じだが、これがエンタメの本質であろう。

リサイタルの後半は私のカメラは平土間に降りて自由に動き回った。こういう撮影は昔は最低3人いないといけない。しかもカメラはRED(業界の標準カメラ)それがステディカム(これも手持ち撮影用の機材)の上に乗っていなければならない。
それと同じことが小型のデジタルカメラでムービーモードでとれてしまうのだから時代は変わったものである。というのもほんとの高画質は必要なくてハイビジョンがYouTubeにアップする程度であるというのだ。

あたしのカメラは客席を右から左へ舞台をいっぱいに左に動いてそれからステージ上に上がってアーティストの裏側から時計方向に回り込んだ。
それで最後の演奏が終わってアーティスト、と言うよりも家人が楽屋に戻るまでを同時にカメラは追ってて行く。要するに有名アーティストの引退公演のカメラワークをパロデイでやったわけだがこれが意外と好評だった。

YouTubeにアップした画像を見てまるでドローンで撮ったようですねと褒めてくれる人もいた。
カメラのアクションに関しては何しろヨーロッパでフォルカーシュレンドルフとか有名な映画監督のカメラワークを見ている。それが参考になったのであろう。
https://m.youtube.com/watch?v=H-lUXj7Uhek&feature=em-upload_owner

2016年5月 2日 (月)

桜の見本のようなもの

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十条仲原の環七を超えるとその先は急な崖になる。
桜の咲く前にこの崖の上とか家の下を歩いていてここら辺に桜があったら素敵だろうと思った。ところが崖の斜面は住宅で密集しているから桜の咲きようもない。

吉野の山の桜のような急な斜面に咲いた桜があって良いと思うのだが、十条仲原にそれがないのが残念だった。

路地を歩行していて出会ったのがこの桜の木である。
今さっき植木屋さんから買ってきたと言うような感じであるが、これでも1本桜には違いない。

仔細に観察するとちゃんとラベルがつけてあってそこには正しく「桜」と表記されている。
シーボルトが日本から持ち帰った極東の植物のサンプルのように見えるのが気高い感じである。

お花見の下の桜と言う通俗的なものではなく、これは植物図鑑の学術的な崇高さをそこに漂わせているので非常に気に入った。

今年の桜の季節も私は桜を見ると言うよりも桜の花をとっている人を仔細に観察したのであった。これがどうも面白い。桜の花のクローズアップを高級デジタルカメラで撮っているというのは見ているとつらくなる。

今年の桜の季節に通過した数万本の桜の中で、この細い桜が桜としての種の保存を確定していたのが面白かった。

カメラはこれ。
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2016年5月 1日 (日)

倒れる少年兵

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改造してもらったブラックペイントのNikonであるが気にいって使っている。レンズはキエフ5型の外爪のジュピターを無理矢理付けてもらったので一旦付けると外すことがかなり困難である。それほどの手の力が必要なのだ。距離計にも連動しないがそれは目測でとるので全く問題無し。

だからこのニコンS、ニックネームは「ライフもマグナムも怖くねえよバージョン」であるが5センチのレンズだけを使うことにしている。5センチのレンズを使い出して分かった事はニコンエスの最も有名なユーザーであったロバートキャパの視点が少しは理解できるようになったことだ。

ロバートキャパがインドシナで亡くなった時にNikonSの外にS2も持っていった。レンズが5センチと3.5センチの2つだけであったそうだがこの標準レンズと広角レンズの表現の違いというものがなかなか今のズームレンズ万能の時代には理解することができない。

私も小型カメラを使い始めて50年になろうとして3.5センチと5センチの違いを面白く感じるようになった。この2つのレンズの最大の違いは何なのかと一言で言ってしまえば、それは撮影する角度が広い狭いではなくて、空間の距離感が違うと言うことなのである。

この作例は戯れに「倒れる少年兵」と名付けた。はるみ水産埠頭の児童公園で遊んでいる母と坊やをとったものだが、こういう風に画面を切り取ってみると何か少年兵が倒れているのを衛生兵が助けていると言う風に見える。しかも縦位置で画面に緊迫感がある。

少年兵と言うにはちょっと若すぎて実際には幼年兵である。標準レンズというのは何か物事は起きているその現場を冷静に伝えていると言うような印象もある。

ロバートキャパが第二次大戦中のヨーロッパ戦線で撮影した忘れられないワンショットがある。それは戦場といっても屋外ではなくて部屋の入り口からバルコニーの方に向かって撮影したワンショットなのであるが、そこに兵士が倒れていて血がが床の上に広がっている凄惨な写真である。

公園のベンチで座っていた私の右側でこのような倒れる少年兵の惨劇が起きたので、私の頭脳の中の画像のファイルのストックが反応してキャパの名作を思い出したのであった。

よく戯れに「街に戦場あり」などと言うがこれも戦場の一場面なのである。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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