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2016年4月30日 (土)

招き猫

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四谷荒木町の我楽多屋さんに行くにはいくつかのルートがある。1番確実なのは佃の家から日比谷を経由して半蔵門に出て四谷までぶらぶら歩いていくことだ。しかしこれはかなり時間がないとできないので普段は公共交通機関を使うことになる。

メトロの場合は丸ノ内線で行くか、それとも都営新宿線で行くかがいつも迷うところだ。このいずれかを使うかによって私のこの界隈の撮影ルートは大幅に異なるからである。

この日は新宿線を使って曙橋駅で下車した。この駅は四谷の高台と谷の部分のちょうど一番低いところに当たる。海抜は分からない。我楽多屋さんの二代目さんは東京メトロの駅のエントランスに表示してある海抜表示をコレクションしている人だが、都営地下鉄にはこの表示がない。困ったものだ。ここから南に行けば我楽多屋さんで北に行けば市ヶ谷の大地のほうに通じている。

このルートで行くと大抵我楽多屋さんに行く前に駅から出たところにあるインド料理屋で辛いカレーにナンをつけて食べて行く。いつも食べるのは1種類できまっていてラムカレーなのである。他のものは一切食べたことがない。

働いているのはあちらの方なのでまさにデリーのチャンドにチョークにいるような感じがして好きなお店だ。知り合いの有名な編集者でこの手の彼方の本格カレーがだめな人がいる。どういう体の構造なのか知らないが必ずお腹を壊すのだそうだ。それでその人は日本のお蕎麦屋さんで売っている典型的なカレーが好きなのである。まぁそれはそれで良い。

曙橋の端を登るので近所の小路を歩いていたらこの招き猫に気がついた。婆BARのエントランスの小さな小窓にある飾り棚である。
この店は大昔からあるからこの飾り窓も大昔からあったはずであるが、この日初めて気がついたのである。要するにこれは光のトリックなのであっていつもは影になってはっきりその窓の存在がわからない。その日は快晴の照り返しで窓の中の招き猫がうっすらと浮かび上がっているのが私のフォトジェニックな目に反応したのである。

私のNikonSのシャッター速度はいつも200分の1秒に設定してある。500分の1秒は壊れて使うことができないのだ。目分量で絞りはF8にして距離は目測で1.5メーターにしてすぐ撮影した。

私はこういう飾り窓の展示物はとらないというのが世界中の街を歩いているときの基本的お約束なのである。だからこれは捨てカットのつもりでそのまま忘れていたのだが、現像が上って見ると何となく面白い。
その面白さを分析して見るに、招き猫そのものにあるのではなくて晴れた日のお昼すぎの影の中でうっすらとした反射光に照らされてオブジェが浮き上がっているのが面白いのである。

2016年4月29日 (金)

品川区大井森前町3/31日没

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Nikonの歴史を作った品川区大井森前町の101号館の最後の日に立ち会ったのは、私のカメラの記憶の中で重要なイベントであった。
2016年3月31日の日のことである。

アメリカの写真雑誌の取材などで何度かこの建物を訪問しているが、当然取材であるから応接室にとうされるのが普通である。だから応接室の中とかそこへ至るまでの廊下の感じを記憶しているので全体を見ると言う事は部外者であるから当然のことながらなかった。

それが機会があって下から上までさらに屋上まで全部拝見することができたのは貴重な体験だった。
この記念すべき午後のために私が用意したのが最初のNikon、つまり製造番号は609系統で始まるロットである。実際にはNikon1は寸法が寸足らずだから、609の製造ロットと言えばニコSと言うことになる。それを持参した。

くれなずむ屋上の煙突をアングルを変えて撮影した。
フィルムは1本しか持ってなくてそれ以前に西大井の街並みをいろいろ撮影してきたので屋上に上って撮影したこのショットが最後の最後であった。
何か101号館の歴史に立ち会った象徴的な気分であった。

現像が上がってみると101号館に向かう途中の街並みのストリートスナップに不思議な現象が映っていた。言葉では説明するのは難しいがこういう風になっているのである。

カメラの光線引きと言うのはもっとシャープなものでそういう事故は今まで経験している。ところがこれはそうではなくて何かがレンズの前にあってそれをうつしているように見える。

1,970年代にライカにニッコール5センチクラシックタイプをつけて使っていて画面に光のシャワーが降り注いでいた。その写真は松岡正剛さん編集のoffという写真集にも掲載されている。
この光のシャワーはレンズのフレアであるから問題がない。
でも今回のはどうも説明がつかないのである。

フィルムの最後のショットの工場の屋上から撮ったが、それにはさすがに写っていなかった。それはそれでカメラとレンズが真面目になったと言う事になるのであろうか。

2016年4月28日 (木)

神谷町カイロ

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大都会にある清掃工場が好きである。
長く住んだオーストリアのウイーンではドナウ川の近く街北に清掃工場があった。巨大な煙突が清掃工場のトレードマークである。オーストリアのアーティスト、フンデルトヴァッサーがデザインした工場で彼の作品がそのまま清掃工場の本体とその上に立っている煙突になっていた。だから観光名所として人気でもある。

北区の清掃工場はシンプルなスタイルがうりものであるが、それがイスラム圏のモスクのミナレットのように見えるのが面白いと前から思っていた。
モスクのクラスで言えばこれはかなり大きな格式の高いモスクに付属しているミナレットだから、いちにちに何回かここからアザーンがラウドスピーカーから聞こえてきそうだ。

モスクにはそのスタイルがいろいろあって、この手のミナレットはイスラム世界の東側にあるスタイルのやつだ。それがカサブランカあたりまでつまり西に行くとミナレットが四角くなるのである。だからこの北区の清掃所のミナレットはまずカイロと考えてもよい。なぜか北区のこの界隈、北区神谷町であるがそこがカイロに似ているなと思った理由は他にもある。

エジプトのカイロは5000年の歴史を誇る町である。もともと太古からあった路地にずっと後になって政府が大きな道路を定規でまっすぐに引いたのである。
だから面白いのは路地裏のその裏の迷路のようなとこに迷い込んでずいぶん裏のほうに来たなと思っているとその先にいきなり巨大な道路がまっすぐに走っている。路地裏の裏が実は表であると言うこのトリックがいかにもアラビアンナイトである。

北区神谷部長もそれと同じで、路地裏の狭い隙間からいきなりミナレットが覗いて、そこは広い大通りなのだ。そこが回路に似ている。
北区神谷町とカイロは姉妹都市になっても良いと思う。

カメラはニコンSライフもマグナムも怖くねーバージョンで撮影。

2016年4月27日 (水)

帽子の木

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佃の寓居から月島に行く通勤路の途中にこういう帽子の形をした木がある。手入れをしてこうなっているのであろうがこの前を通るたびごとにヨーロッパの歩き慣れた道を思い出す。

実際にはヨーロッパの私が住んでいた街ではこのような形の木は無いのだが、不思議なことに一般的なイメージとしてこういう刈り込まれた木のスタイルがヨーロッパだという思い込みが私の心の中に非常に強いのだ。おそらくポールデルヴォーとかルネマグリットとかが深層心理にあるのであろう。

家から月島の駅に行く時に1番路上で注意を払うのがこの帽子の形をした木だ。しかもその前を通行して行く人の組み合わせをかなり見ているのである。言い換えるとこれが舞台面であってそこで寸劇が行われているというふうに観ても良い。
このお二人はその意味でかなり上級な役者さんと言ってよかろう。

四半世紀ほど前にこの佃堀の鉄の柵に小さな募金箱がかかっていた。
それはこの界隈で怪我をした茶トラの猫を助けるための募金箱なのである。
その会の名前を茶トラ会と言った。その募金箱の文字が下手なのでちゃとらとは読めなくてなくてチトラに読めてしまうのだ。だからウチではチトラ会と呼んでいた。
そこに義援金として1,000円札を押し込んだこともある。思えばのどかな時代であったがその時以来、この帽子の木のことを忘れない。

NikonS ライフもマグナムも怖くないバージョンで撮影
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2016年4月26日 (火)

頑張ろう十条仲原

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東日本大震災の後の「頑張ろう日本」と言う言葉が私は嫌いだった。なぜならそれはお上が国民に対して命令を飛ばしているからだ。欲しがりません勝つまでは、と同じことだ。下から上のステートメントではなくてその逆だからである。

当時10年ほど六本木ヒルズに仕事場があったのでその行き帰りにメトロの連絡通路にその巨大な看板があるので不快に思っていた。だからそれをもじって頑張ろう日本ではなくて、ニンバロウ ガッポンと呼んで言葉遊びにしていた。

10条の商店街から環七のほうに行くとアーケードが途切れて空が見えるようになってしばらく歩行した右側にこの「頑張ろう屋があった。屋台があるではなくて屋台があったと言うのは既に先週だったか警察からの警告があってそれにすぐ反応し撤去されたからである。

これは成田空港の団結小屋のような意味合いで、私のような全共闘世代の生き残りには社会に対するステートメントなのである。だからこういう砦は死守しなければならないと思っていたのが意外と簡単にこれを作った人が撤去してしまったのは残念である。

実際、十条仲原の長い人気の買い物通りでこの展示物だけが異彩を放っていてそこには1種のバーバリズムが感じられた。立体化されたゴーギャンといってもいいし現代版の写楽と見てもいい。それが道交法違反なのである。それはまた別の視点だ。

この近くの児童公園のベンチで原稿書いているとこの展示物の製作者のおっちゃんが台車に4リッターのペットボトルを4本ほど持って公園の水をくみに来ていた。それが生活者としていい感じだった。公園の水を飲んでいるのは私だけだと思っていたらこのおっちゃんがいたので心強くなった。
その意味ではこの屋台の制作者と私は同じ公園の水道の水を飲んだ同志なのである。

頑張ろう十条仲原!

2016年4月25日 (月)

タイムゲーム

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東京メトロの24時間チケットと言うものがある。ヨーロッパにも同じようなものがあってよく利用している。ヨーロッパのは24時間のほかに72時間とか5日とか1週間と言う長い時期のものもある。撮影には非常に便利である。

東京メトロの以前の1日乗車券と言うのは始発から終電まの期間であった。それが3月26日から様式が変わって24時間有効のチケットになった。それで600円なのだから非常に安い。これを使わない手は無い。

新しいシステムではチケットを買ってから最初にエントランスを通るときに時間が記録される。買った日の翌日の何時何分までと言うふうに券面に表記されている。

何十年もヨーロッパで使っているチケット方式が同じだと思ったのでこれはエントランスを入ってから出るまでが24時間の時間だとばっかり思っていた。

駅員さんに聞いてみるとそうではなくて最初に入場してから24時間以内に最後の旅行の改札口を通れば良いと言うことなのである。言い換えれば東京メトロの方式は24時間+最後の旅行1回分と言うことになる。
安価でとても良いシステムだと思う。
そうなると全体の時間の割り振りが非常にうまくバランスを考えて使うことができる。

2016年4月24日 (日)

空と海 風と波

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住まいから歩いて佃島を1番南まで行くと豊海水産埠頭の一番先に出る。
私の場合はテーマが街とか建物とかスナップがなので、たまには海と空を見てそれにカメラを向けてみる。レインボーブリッジが光の加減で見えたり見えなかったりするのはこれはもやとか大気の湿気のせいである。

時間を選び抜いてベストなショットを撮影すると言うのではない。持参したアルコールをちびちび飲みながら時間の移ろいを見ているのだ。それで気が向くとクラシックなニコンのフィルムカメラを持ち上げてファインダーは覗かずに撮影する。

波の表面を見ているとそこにまた風が吹いていてなめらかな波の表面にまた細かい小波が立つということに気がついた。これは長いこと写真家をやっていて今まで気がつかなかった新しい発見だった。あまり細かい神経をしていないと言う事のこれはその証拠なのである。

カメラは「ニコンSマグナムやライフなんて怖くないバージョン」。レンズはソ連製のジュピター35ミリ。
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2016年4月23日 (土)

タルコフスキーのポラロイド あたしのポラロイド

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映画の巨人タルコフスキーがプライベートに撮影したポラロイドの画像を収録した本は私も持っている。
面白いのはこの大監督の映像のドラマとは全く別の画像のベクトル方向で展開しているという点だ。

要するにポラロイドのSX 70というのはもともとクローズした映像体系であるからデビットホックニーがとってもタルコフスキーがとってもアマチュアがとっても画像の出方はみんな同一なのである。

一種の映像の民主主義と言うところであろう。この映像の民主主義は当時つまりアナログカメラが全盛の頃にはなかなか得難いサンプルであった。
それが今ではデジタルカメラになって誰でもかれでも全く同じような画像が撮れるようになった。これも同一の画像の民主主義と言うやつである。

1,980年頃に私はマサチューセッツのポラロイドとその代理店の日本ポラロイド社のSX 70の仕事のお手伝いをしていた。
それで山のようなピクチャロールを持たされてヨーロッパを徘徊したのであった。

SX 70で撮影した画像は当時の雑誌などにも掲載したがそれで面白かったのはオリジナルのピクチャーロールと印刷されたものでは色の発色の仕方が全く違うということだ。つまりオリジナルのどんよりした言えるような、言い換えればタルコフスキーの映画世界のような画像は印刷してしまうと全くなくなってすべてきれいな画像になってなのである
石原悦郎さんが亡くなってツアイトフォトサロンは年末でクローズ予定だ。それで何回かに分けて追悼展を開催する。
石原悦郎さんが持っていたあたしの作品を35年ぶりに返却してもらった。その中にポラロイドSX 70の画像が14点あった。その画像の封筒の表書きは正しく石原悦郎さんの筆跡であった。これは当然の話であって私の最初にして最後の個展で私は膨大なポラロイドの画像の中から彼に写真を選んでもらったのである。それがこの14点ということになる。

2016年4月22日 (金)

オールドレモン

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板橋の志村坂上の手前中山道沿い、高校の頃都電で通学していた。ここは東京都立志村高校と言うのであって直接都電がつながっているわけではない。志村坂上から今度は国際興業バスに乗り換えて坂を下って延々といくのである。

その都電の車窓から見た進行方向左手に地味な焼鳥屋があった。当時は全部瓦葺の家が延々と永遠に並んでいるのがこの界隈の風景であった。いやこの界隈と言うよりか東京すべてがそのようなスカイラインだった。
1964年の東京オリンピックの数年前の話をしているのである。それを見ながら大人になった。
大人になったらこういう飲み屋でいっぱい飲んでみたいと心に決めていた。

大人になってみると案外と多忙でウイーンに行ってしまったりしてなかなか飲み屋に行くことができなかった。
その飲み屋の数件手前にある喫茶店がこれなのである。

都電の走行速度が意外と高速なので当時このレモンと言う名前の喫茶店があったかどうかはよくわからない。でも仔細に観察してみるとファサードの看板がいい具合に色あせていて1,960年代からあったと言っても良さそうである。

レモンと言う屋号がいかにも60年代のフォークソングから出てきたと言う感じでそれがまた良い。こういう黄昏看板とか、退色したポスターと言うのは昔から私の写真家としてのテーマなのであるが、これは再現するのが意外と難しいのだ。

要するにPhotoshopで自動補正してはいけない。いわゆる羊羹色に色が変わった紋付袴と言う感じなのである。

人間もカメラも看板も色がさめてからが本物であるということに気がついてきた。これは還暦過ぎた頃に気がつかなかった人生の真実であって70歳近くなるとそういうことがわかってくるのである。

だから人生はそれで面白い。

2016年4月21日 (木)

号外 ギャラリーバウハウスでヨシミ ヨコヤマ の 「Praha モノローグ」を観る

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神田明神のとなりにあるギャラリーバウハウスの新年度が始まった。ギャラリーバウスは今年はプラハ年なのである。5人の日本人とチェコ人の写真家の連続展示がほぼ2ヶ月ごとに年末まで展開される。

そのスタートがヨシミ ヨコヤマのプラハである。この写真家の作品は10年近く前に東京のチェコ大使館の特別展でも見たことがある。その時はそれほど深い印象はなかったが今回は何かが変わっていることに気がついてそれが面白かった。

その何かが変わったことを一言で言うのは非常に難しいが、ギャラリーの写真群の前で瞬間的に言葉が出たのは「これはズームレンズを使ったヨセフクーデルカ」というところだなということである。
勘違いされると困るのはヨコヤマが別にズームレンズを使ってスナップショットを撮影したという意味ではない。ヨセフクーデルカはフレクトゴン25ミリでジタンを撮影したが、それと比較すると撮影距離とか画角が非常にバリアブルなのである。
それが面白いと思った。

その後、ヨコヤマに聞いたらなんと最近彼女はどこかの展覧会のオープニングレセプションで本物のヨセフクーデルカ先生に彼女のNikonF3を壊されたのだそうだ。いや、ニッコール35ミリF1.4だったかも知れない。その修理代は相当なものだったそうである。こういうのは有名写真家のゴシップとしては最適であるから、まず有名税と考えて処理したほうがいいだろう。

ヨコヤマの作品系列には2つあって1つは人が集まるフェスティバルとかそういうショットを切り取った要するにスナップの快感とでも言える作品群である。それは結構皮肉な視点であって、早世したイギリスの写真家トニーレイジョーンズとちょっと似たとこもある。それが面白いと思った。

しかし私がそれよりも認めるのはこの「広場の曲がった木の雪景色」のようないわいる風景写真としては普通の写真家の視野には入ってこない、いってみれば風景の周辺部に注がれるカメラアイである。それを私は非常に高く評価したいと思う。

豊洲水産埠頭

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水産埠頭は自宅から歩いて行ける1番近い海であるにもかかわらず、数年に1度行くだけだ。

今年はそのことに気がついて割と頻繁に行くようにしている。特に何をすると言うわけではなくて陸が尽きて海が始まるところまで行ってレインボーブリッジを見る。

ついでにクラブエダムがもうないのでそこで持参したカップを傾けてクラブ枝村ごっこをするのである。

豊洲水産埠頭に向かう道のトラック集積所の手前右側に、銀座方面に水辺が開けているところがある。
歩いているとこれは案外と見落としてしまうのであるが、ある日の午後にちょっと立ち止まって観察したら非常に良い都会の風景である。

何が良いのか?
要するに建物と水辺と手前の陸地がうまいコンビネーションになっていて、何か安手のフリー素材集の中にありそうな風景なのである。

それでニコンエスにソ連製のジュピター35が付いていたのでそれで撮影した。ワンカットしか撮ってなくて後で見直してみたらそれなりの風景であったのでここに掲載してみた。

東京は水の町である。

2016年4月20日 (水)

巨木

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幕末の江戸から東京の風景を撮影した写真家、フェリーチエ ベアトーが撮影した東京の風景に高輪のお化け榎というのがある。雲まで達すると思われるほどの巨木であった。
こういう巨大な樹木はその当時の江戸から明治にかけての街のランドマークになっていた。今のなんとかタワーと言うのと違って、ずっと自然的存在なのである。

この大きな樹は十条駅からちょっと歩いたところにある。木があまりにも大きいのでそれが生えている建物の敷地も家も非常に矮小に見えるのが面白い。
その巨木の周りはトタン板で塀になっているのだがその塀も木に合わせて面白い曲線を描いている。

私が生まれた文京区の音羽あたりでもこういう大きな樹と言うものは存在した。私の記憶しているのは巨大な銀杏木なのである。小学校の行き帰りに、いや登校は最短距離で行ったが帰りにはわざわざ遠回りをしてその銀杏の木を眺めて帰るのが楽しみなものであった。
文京区では後楽園とか1部の庭園をのぞいてそのような大きな木はなくなってしまった。だから今私が北区の1部を歩いていて郷愁を感じるのはそこに子供の頃から親しんだ巨木があると言うものがその理由なのである。

カメラはこれで撮影。Image


2016年4月19日 (火)

本日の遊撃手

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ニッコールクラブの1番最初の設立趣意書を見るとライフのマーガレットパークホワイトとか、そうそうたるメンバー、作家、芸術家、芸能人が名前を連ねている。

カメラ関係ではライカコピーのニッカカメラの名前も見える。ニッカはその交換レンズがニッコールであったので ニコンとは関係が深い。
カメラとレンズメーカーの格付けから考えるとこれはどう見てもニコンの方が上である。戦前の国産最初のレンジファインダーハンザキヤノンにはニッコールが装着されていた。これはどういう格付けかちょっとわからないがやはり大井森前町百一号館の方が格が上だったのではなかろうか?

このニッカカメラはメイドインオキュパイドジャパン時代のものである。シンプルで1番使いやすい。それにアダプターで戦前のコンタックスのブラックテッサー2.8センチがついている。

私が自慢したいのはそのことではなくて、その皮ケースなのである。ニッカカメラとは別に手に入れたものだ。これはその裏側にメイドインオキュパイドジャパンの刻印がついているのだ。デッドストックであって先週工場から出てきましたと言う感じなのである。
占領国日本時代の皮ケースであるから通常はボロボロというか、ずたずたというか既に風化したのは普通なのだけれども、この皮ケースはどのような保存をされていたのかちょっと想像がつかない。

ロバートキャパが日本の戦後の撮影をニコンでやっているときに彼はちゃんとカメラをケースに入れていた。インドシナで彼が亡くなった時もやはりカメラは革ケースに入っていた。
あるシーンに出会ってそれを撮影するかしないかの決定をするときに、つまり革ケースのフラップを開けるかかどうかの決定というのが、かなり重要な写真のディシジョンになっているということだ。

毎日持ってゆくカメラは持ち変えるようにしている。一種の気まぐれだが何しろ古い古いカメラがあるから。私と同世代であるから、状態に故障が出るのは普通のことである。

その意味も込めて毎日Facebookで今日の打者などとふざけてカメラの写真を紹介していた。
しかし考えてみるとカメラマンはあっちこっち走り回ってこぼれ球を拾って投げ返すのが仕事であるから、これは打者と言うよりも遊撃手と名付けたほうが正しいと思う。

2016年4月18日 (月)

ロープロフィールなキャメラ

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フランス製の映画撮影機カメフレックスが好きである。
1976年代に開催された欧州の現代日本写真家展の準備でその年の6月に来日してたくさんの写真家にあった。
当時売れっ子のカメラマン立木義浩話さんに会ったときこのカメラを見せていただいた。
お話を聞くと何でもパリに撮影に行ったときにこのカメラを発見して素敵なので買ってきたと言う。当時60万したと言う。これは1976年の60万円である。すごいなと思った。

実際に撮影するわけではないが部屋の隅にこういうカメラがあったら素晴らしいと何十年も思ってきた。四半世紀位前からそういう中古のカメフレックス、そしてレンズ、そしてアクセサリーを少しずつ集めて位までは世間に自慢できるほどではないが、なかなかのカメフレックス持ちになった。お金持ちならぬオカメ持ちだ。

中には非常にレアなモノもある。これはアクアフレックスと言う水中撮影装置用の400ftマガジンである。
水中撮影装置は水の抵抗を減らすためなるべく高さを低くして、奥行きはあっても構わない。それで通常のマガジンは館高さがあるのだがこの場合は高さはなくて奥行きがあるのだ。
フイルムカメラのマガジンというのはその容量によってスタイルが違うからマガジンを交換すると全体のカメラの印象が全く異なってしまうのが面白い。

映画監督のオーソンウェルズがカメフレックス100フィートの小さなマガジンをつけてファインダーを覗いているなどは映画人の粋の極みであった。

プロフィールの低いカメラ、これが正面から見たときに目立たないという利点があるので何も水中撮影だけではなくて一般のドキュメンタリー撮影の時にも効果がある。
某映画監督がドキュメンタリーの撮影でこの組み合わせ、つまりロープロフィールマガジンをつけて撮影していたのがカッコよかった。

それでほしいと思って十年探していたがようやく発見できた。

2016年4月17日 (日)

コニーアイランドめく十条仲原

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長年写真家をやっていると出会った光景が以前どこかで同じような光景に出会ったということをいつも頭の中で反芻しているものである。
風景と言うよりもその場所の光景をパターン化して記憶しているのを頭脳の中から選び出して比較しているようなところがある。

十条仲原のこの何屋さんか分からないような建物のファサードを見た瞬間に、撮影すると言う以前の記憶に浮上したのはニューヨークのコニーアイランドの2月の快晴の午後の光景だった。

サブウエイを乗り継いで季節外れのコニーアイランドに来たのだが誰も歩いていない。
でも日差しは強くて寒くて歩けないと言うほどでは無い。
海岸通りの商店街の中にクラムチャウダーを売っている店があるのでそこで立ち食いをした。それは異常に塩からかった

30数年前のコニーアイランドがこのお店の前に立った時に呼び戻されたのである。
全く違う世界で非常に似た場所があるというのは以前から気がついていることである。地球上であちらこちらがカップルになっているのだ。

これで撮影。気分はキャパ。Image_6

2016年4月16日 (土)

Europe

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Zeit Foto Salonの石原悦郎さんの追悼展が九月から始まる。その打ち合わせではじめてギャラリーに行った。三十数年ぶりのご無沙汰であった。

私がここで最初に個展をしたのは1981年のことだ。今ギャラリーがあるのは3度目の移転先で最初は三越本店の向かいだった。
その時、石原さんが私にくれたタイトルが Europe なのである。

その時以来、ギャラリーの所蔵していた250点ほどのヨーロッパのパノラマ写真があった。今日それを返還してもらいに行ったのである。
プリントを制作してから35年が経過している。これはヴィンテージプリントと呼んで良いであろう。自分で持っていたらおそらく持ち切れなくてすでに散逸してしまったであろう。その意味で石原さんは偉大な人である。

その250点のプリントをみたら面白いのは70年代のヨーロッパの空気が写っていることだ。
1番心配したのは40年近い年月が経ってプリントが変色しているのではないかと思ったことだが、それは大丈夫だった。

佃日記がなかなか好評だったので、今度は250部限定の写真集にして、それぞれがオリジナルプリントを一点ずつ添付してあると言うのも面白いかもしれない。
ハードカバーの本にして、しかしその値段は私のヴィンテージプリントの価格よりずっと安くしたら皆さん買ってくれるかもしれない。

今日は偶然とか言うものではなくて、これは石原さんのパワーだと思うが、ギャラリーに行ったら今日が実は石原さんの納骨の日であった。事務所の奥のいつも彼が座っていた場所に祭壇があって遺骨はすでに納骨に出発していたが遺影に対して黙祷することができた。

写真家というのは半世紀単位で仕事をすると言う面白さが分かってきたのである。

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2016年4月15日 (金)

真駒内 iPhone6で撮影をiPhone5で複写

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札幌の今井コレクション研究会である。

この前に行ったのは昨年の12月だった。
1月にはプラハに行って2月3月は雑事に追われていたので久しぶりである。

地下鉄南北線の真駒内に行った。
ここはヘルシンキの郊外と言う感じがすることだ。
その理由は駅の前が広いロータリーになっていてそこには一切お店がないことだ。

その地域を抜けて行くといかにも北欧風な寒さに強そうな集合住宅が並んでいる。それがいい感じだ。

ケンタッキーフライドチキンでランチを済ませてそこらを歩いてまた駅に戻ったらこの広告看板があった。
iPhoneの最新型で撮影したと言う画像である。接近してみると確かにその通りであってシャープでは無い。しかしこのフルサイズの大きなポスターと言うのを25センチの距離から見て画質を云々するというのはカメラ店にレンズを探しに行く時に高倍率のルーペとLEDランプを持参するようなもので、無礼なことである。

数メートルの距離から見えたこのポートレートは充分先鋭なのである。
デジタルカメラ業界は同じ土俵の中で競争していてピント合わせが0.1秒早いとかなんとかやっているが本当の敵は実はiPhoneなどのスマートフォンであるのだ。

最近の私の写真への興味はフィルムカメラにシフトしているので持っているのは古いニコン、古いライカ、そして古いロードなどとデジタルカメラはiPhoneなのである。

半世紀近く前に日本の雑誌広告の仕事をしていた時に当時は電子製版がまだなかったから例えばニッコールの作例でレンズを、これはやってはいけないことなのだが上の方からの指示で4x5で撮ったものを画面を合わせればいいじゃないかなどと言われて、若かった私は憤慨したことがあった。
それを拒絶して結局その仕事から外されたのである。

それから四半世紀ほど経ってニッコールレンズのカタログ等を撮影した時はまさに今昔の間があった。

2016年4月14日 (木)

環七の歩道橋 無酸素で登はんする人類

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東京の環七の道路は戦前に作られたもので当時は改正道路と言ったそうだ。北区の十条仲原のあたりでも見事に街を南北に切断しているというのはこないだ書いた。

しかもこの近辺は横断歩道橋ばかりで高齢者が普通に渡れるような平面交差の横断歩道と言うのはほとんどない。
回り道でも横断歩道を渡りませう、は警察の標語であるが、回り道すると凄く遠くの横断歩道に行かねばならないから、高齢者はエベレスト並みの横断歩道橋を渡ることになる。

横断歩道橋を渡る人の意思というのは非常に堅固なものであって、その後ろ姿を見ていると何かエベレストの無酸素で登はんする姿にも共通項が感じられる。
石川直樹さんにエベレストの無酸素の話を聞いたことがあるが、そのスケールとこの環七の歩道橋もあまり変わらないのではないかと思う。
そこに強い人間の意志が感じられるからだ。

このショットを撮ってアップした印象はこれは高齢者が苦労していてかわいそうではなくて、私の印象は人間の輝かしい姿という風に映ったのだ。

それでカメラはブラックペイントのNikonSである。いわゆるライフマガジンもマグナムも怖くないモデルというやつだ。
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2016年4月13日 (水)

丸善の書棚

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義兄は大手町だか有楽町にある大手の銀行を卒業してもう10年以上になるが時々OB会と言うやつで東京に出てくる。
もっとも酒は一擲も飲めない人なので何が楽しいのかは知らない。そのOB会の後に東京駅の丸善で私の本が書棚に並んでいるのを見て嬉しかったようで家人にその画像を送ってきた。

義兄によれば私のコーナーができているとメールにあったそうだがこれは正しくない。業界用語で言うと私のコーナーであるのならそれは平積みになってないといけないのである。これは単に書棚に私の在庫があるというふうに考えてもらいたい。

しかし義理の兄のような昔の典型的な文化人知識人の場合やはり丸善の本店で本が在庫しているというのは嬉しいもののようである。丸善と言えば以前坂崎さんと一緒にそこの大きなホールでトークショーやったこともあって懐かしい。

一方で地方都市と言うのは伝統的な書籍文化を大事にしているのも事実だ。いつだったか岡山に行った時に岡山の丸善にやはり岩波書店のコーナーがあってそこに私の出した本がずらりと並んでいてびっくりしたことがあった。世間ではそのような受け取り方をしているのかと思って意外な感じがした。

実際に紙に印刷した印刷物はそれで存在感があって好きであるが、この画面の真ん中に出ている佃日記にしてもその脇にある屋根裏プラハにしても私は実際にこれを読んでいるのはキンドルの画面の上なのである。
丸善といえば檸檬。

2016年4月12日 (火)

十条で田の神様に出会う

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4/11午後三時のことである。
十条仲原の深い谷の手前でその爺さんはいきなりあたしの前に現れた。
ラクダの股引の上下でつるっぱげの小さい人で、右手に大きなペットボトルを下げている。
水木しげるの妖怪のキャラに似ている。

あたしがとすれ違う時に
「xxばかりやってるとあたしのようになってしまいますよ」
と言った。
冒頭のXXは聞き取れなかった。
その声音は青年なのである。

あたしは言葉は出さずに頷いた。

すれ違って三秒後に振り返ったら、その爺さんは居なかった。
角の小路を曲がった可能性もあるが、
あ!
これは産土神が挨拶に来たのだなと直感した。

この数週間、あたしはいなつけの城址、古い谷と小高い丘の古木の間を遊行していたからだ。
田の神がそういう風に登場するのは霊界異聞にも書かれている。

おそらく産土神はあたしをどっかのフウテンの神と勘違いしたのであろう。
こういうのは撮影を鼓舞してくれるものである。

2016年4月11日 (月)

あたしは心霊写真は信じないが、、、

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以前どこかのテレビ局から連絡があって、私に心霊写真の事について語ってくれと言う出演依頼があった。写真界で唯一「笑っていいとも!」に出演したのがあたしであると知り合いが言っていたがそれはいいとして、心霊写真の先生にはなりたくないのでお断りした。

この間突撃体調さんたちに作ってもらったニコンSのブラック仕上げのことである。3月31日に大井町の日本光学工業株式会社101号館の最後の日を撮影に行くのでカメラを用意していたのがそのブラックNikonなのである。

午前中から出かけていてまず家の外に出てマンションのエントランスを撮影した。なの花が生けてあるのでそれがきれいだと思ったのだ。現像が上がってると何か左に霊魂が写っている。

それから橋を越えてようやく咲き始めた桜を撮ったのがこの画像である。桜の花の上に何か不思議な雲が写っているのだ。

心霊写真と言うのではないがこれは非常に良い効果をあげていて私は好きになった。というのも10数年前父親の葬儀の日がちょうど桜の盛りであって、

「咲け桜 ひつぎの行く手 花の雲」

と、よんだのである。それから20年近くが経過してあの時の気持ちを写真に表現したらおそらくこうなるんだろうなという点で非常に合点がいったのだ。

写真家を長年やっているとカメラの光漏れは大敵である。カメラが明るい暗箱になってしまって外部から光が入ってくる時はもっとシャープな光の矢印になってフィルムのエマルジョンを直撃する。

でもこのての不思議な画像は今まで経験したことがないので、これは何かNikonの101号館の最後の日に私のNikonは反応して何事かをやっているのではないかと考えるのが非常に自然なことであるように思える。

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2016年4月10日 (日)

ギヤカーと沈丁花

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最近では東京は北区の10条中原がマイブームになっている。この町は歴史は古いがおそらく昭和初期に環七通りが出来て、北と南に分断されてしまった。だから街の北と南ではかなり表情が違う。この説明はちょっと強引だがかつての東西ドイツというか東西ベルリンの感じなのだ。

あたしの場合、環状7号線の北側にやはり興味が集中している。永井荷風は独特の言葉の使い方をしている。その例はいくつかあるのだが私が1番印象に強く残っているのは彼の時代の主要の交通機関というか物の運搬の手段だったところのリヤカーのことである。断腸亭はこれをリアカーではなくてギヤカーと書き記しているのだ。
書き間違えと言うのではなくてこの言葉はいろいろなところに出てくるから意図的に書いているとしか思えない。というよりも耳で聞いたときの印象はギヤカーに近いのである。

十条仲原のラビリンスを歩行していた。カメラは例のニコンエスのニセライフブラック仕上げである。このカメラにはツアイスイエナのビオゴンソ連製コピーであるジュピターがついている。

大昔それがどこであったか忘れてしまったけれども確か2,000円とかで購入したレンズである。

あたしが全幅の信頼を置いているのはビオゴンの戦前の3.5センチだ。でもそれにひけを取らない描写をするので非常に驚いている。

ファインダーなんかもちろん覗いていやしない。それでネガをみたらちゃんと映っていたので感激した。

この作品、あえて作品と言わせてもらおう。
の魅力はギヤカーに並んで展示されている沈丁花である。
私は生まれて以来この花の名前を沈丁花だと思っていた。今自動変換でジンチョウゲと入力しても同じ沈丁花に変換された。
ぎゃか〜はダメだけどこの花はどちらでも変換してくれるようである。

いずれにしてもギヤカーと沈丁花の本場は十条仲原の文物なのである。
ウイーンの馬車はあれはフィアかーね。

2016年4月 9日 (土)

隠れ里としての上中里

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上中里は隠れ里である。
東京のターミナルに非常に近いのに駅前にここには広場と言うものはない。いきなり路地裏になるのである。それが東京に慣れてしまった自分には非常に面白い。

上中里駅は西口より東口が面白い。以前は大変な階段で外に出るまでが大変だったが最近は改良されて非常に楽になった。上中里駅のホームにはいっこのベンチがないというのも実に不思議なことである。

何が面白いかというと出口を出るといきなり路地裏になるという感覚がもたらされるのである。
JR東日本の駅前でこれほど静寂の枯淡の趣を持っている街というのは他にない。駅の枯山水だな。

それで1歩進むととそこら中は1960年代初頭と言う感じがするのである。このスナックの看板なども1,960年代の赤坂と言う雰囲気が充満している。

駅のすぐ側に小さな定食屋さんがある。忘れられたようなお店なのだがランチタイムに行くと満員である。要するにこの近所で仕事をしている人が全てこの店に集まってくるのだ。それで定食などはなかなかよくできていて値段も安いのである。

上中里駅の東口の面白さは駅から離れようとすると別の線路に付き合ったってしまうことだ。要するに2つの線路で挟まれた非常に狭い細長い街なのである。そういう街の面白さはよく理解しているのだがついつい忘れてしまって、今回もほぼ3年ぶりにここら辺に行った。

そして面白いと思った。

2016年4月 8日 (金)

空に溶けるまち

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東京の王子の駅は東京に典型的な雑駁な駅前の風景である。

午後遅くになって東口のバスターミナルでほとんど無意識で1枚の写真を撮影した。それは目の前に入ってきた都バスの色彩が全体の風景の中のキートーンになっていると思ったからだ。

これはフイルムカメラにカラーネガで撮影したのである。現像が上がって非常にびっくりしたのは私の意図とは裏腹に全く想像もしてなかった世界がそこに写っていたことだ。

普通の写真家は自分の意図通りの写真が撮れたと言うことで満足する。私は全く逆であって自分が全く意図していなかった写真が撮れると非常に喜ぶ。だからこれは写真のそれ自身の発見だって自分の写真が失敗したと言う意味では無い。

驚いたのは何か街が空に溶けているような感じがそこにもたらされたからだ。

言い換えると都バスの背景にあるグラスウオールのビルディングが背景の空の明るさとほぼ同じになっているので極めてビルディングの存在感が希薄になってしまったと言うことにある。

それは非常に面白い写真のトリックなのだ。
NikonS Jupiter 35mm

2016年4月 7日 (木)

四十年ぶりにKFC

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赤羽の駅でケンタッキーフライドチキンの店に入った。
前回は1976年の夏に入ったのだから、実に40年ぶりの訪問である。
注文の仕方が慣れていないのでカウンターの人は変なジジイが来たと思ったに違いない。

バリウセットで490円、いや間違えた590円のを頼んでチョイスがいろいろあるのでそれを聞かれたのだがすぐに答えることができなかった。40年ぶりだから慣れていないのである。

ケンタッキーフライドチキンが70年代の日本にあったということをもう若い人は知らない。明治時代からずっとあると思っているようだ。

それで40年前と今回の訪問と味を比べてみると40年前のほうがはるかに味が濃くて馬バタ臭いとゆうか、正しく西洋の味がした。

今のは国産の鶏肉が使ってあるとかうたってあるがいずれにしてもヘルシー志向でありにはキックが足りないのである。

コーネルサンダースの有名なキャラも40年経ったら私がずっと年上になってしまった。まず赤羽のフライドチキンの店でコーネルのキャラクターに1番似た客があたしということになる。

ライカを長年使っていて知らない間にオスカーバルナックよりも自分の方が年上になってしまったということに危機感を感じていた私であるが、まさかコーネルサンダースの風貌より年寄りになるというのは考えもしなかった。

これも人生の面白さと言う奴だな。

2016年4月 6日 (水)

指の力が強すぎる

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ライカなら半世紀も使っているからそのフイルム巻き上げのフリクションは体が覚えている。
最近よく使っているカメラの中でズノーレンズ付きのネオカがあるがこれは巻き上げレバーが非常に重い。
カメラが壊れるのではないかと思うほどの指の力が必要である。

久しぶりに東ドイツ製の高級一眼レフプラクチナを使った。普段はカメラの下にスプリングワインダーをつけている。これは非常に具合が良いのだが重さが結構ある。それでスプリングワインダを外して手巻きで使った。
一本撮影をして巻戻そうと思ったら様子がおかしい。開けてみたら撮影の終わりの方でフィルムが切れているのである。

それまで巻き上げの重いカメラをずっと使っていたので、それに慣れてしまっていてプラクチナのフィルムを指の力で切断してしまったのだ。ちょっとやそっとのことでフィルムは切断するようなことはない。だから自分の指の力に吃驚しているのである。

十条仲原のいつも原稿書いたり水を飲んだりする崖下の1個だけあるベンチでさすがにがっかりした。その日に限っていいショットがたくさんとれたと思っていた。釣りのがした魚と同じものでフイルムを開けてけてしまえばもう何も残っていないと言うことだ。

これが銀塩写真の潔さでもある。

それで次のフィルムを装填して撮影を続けた。そういうのが何か人生にも似ている。

2016年4月 5日 (火)

ニコンメーター考

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カメラの上につけるセレンメーターは数あるが、ニコンのレンジファインダー用のそれはデザイン的にもなかなかうまくできていると思う。
ただ当時の常識としては外付けメーターと言うのはアマチュアの使うものであってプロ写真家は使わないと言うのが常識であった。

私もニコンメーターは1個持っているがこれは動かない。当時のセレンメーターはほとんどが動かない。ニコンメーターの場合動くと非常に市場価格は高値になるのである。しかし私は人間露出計でであるから別にメーターをつけていなくても撮影に支障は生じない。

こうしてメーターをつけてみるのは当時の時代背景とその時代にどっぷりとつかりたい気分の時である。
アクセサリーシューというのはファインダーなどをーつけるためのものであってその場合はカメラの後から前方に向かって差し込むものであるが、ニコンメーターの場合は操作が逆であって手前から奥に差し込んで固定するのだ。そこら辺が愉快である。

メーター本体の他に暗いところで使うためのブースター、各種のアダプターも持っている。1番面白いのはこれを手持ちで使うためのアダプターとストラップがあるのだ。そのストラップの素材がいかにも昭和という感じがして面白い。
木村伊兵衛さんはライカメーターをカメラに着けずにポケットから取り出してちょこっと露出を計ったそうである。木村伊兵衛さんはニッコールクラブの会長でもあったからそういう使い方をこのメーターでやったら粋なモンです。

2016年4月 4日 (月)

桜より青柳

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石川島から佃神社の間に抜ける狭い水路は水門になっていて船はそのギリギリの幅の水道通って神社裏手の船だまりに入るのである。

石川島と佃島を結ぶこの大河に1番近い橋が以前はなかった。確かに20年位前に作られたものである。今木橋であるならできてからかなり時間が経っているので最近はいい具合に周囲の風景に馴染んできた。

その橋の両側に柳の木がある。江戸の小話と言えば柳の木は幽霊と身投げの背景に決まっているが、そんなことわない。
私は自他共に許す変わりものであるが、桜の花よりもはるかに青柳が好きである。
桜が満開を過ぎた後にその満開の桜を尻目に橋の上を通過して若い柳の顔を見るのが大好きだ。

プラハの川辺にも柳はある。そういう柳を見ると私は東洋人だからすぐに東洋の春を連想してしまうのである。
この時期の若い柳の下の美しさというのはなかなか口では言い表せない。

レンズの話になるが、このショットはソ連製のジュピター35ミリで撮影されたものだ。つまりこれは美ビオゴン3.5センチのコピーレンズなのである。大昔に確か2,000円位で買ったものだ。長いこと使わなかった理由はレンズマウントに若干のガタがあるのでそれでピントがずれるのが怖かった。でも実際に使ってみると何の問題もないので安心した。

ここ1番という時は本家のビオゴンばかり使っていたが、これからはソ連製のビオゴンをもつかおうと思っている。

青柳に関して言えば橋の上の柳を見るたびに、バカ貝の青柳の方でいっぱいやりたくなる。

2016年4月 3日 (日)

路地裏の地鎮祭


月島の駅に行く途中にいつも通る小路がある。ここら辺は歴史が異常に古くて江戸時代からの道幅がそのままに残っている。
先週の土曜日の我楽多屋さんのシドニーに急ぐのでいつもより足早にそこを通ったら地鎮祭をやっていた。神官の外にはお父さんとお母さんと小さな男の子がいるばかりである。

神官に導かれてお父さんが敷地の四方にに紙を小さく切ったのを撒き散らしている。それを見て坊やが、パパーーー何やってるの!?
と聞いている。

私も民俗学的な日本の習慣を見る思いがしてしばらくそこに立ち止まって地鎮祭を見学した。ナショナルジオグラフィックマガジン等には格好のテーマになりそうな題材である。というのも地鎮祭の裏手に小さな造船所だった跡地があってそこは現在小さなマンションが建設中である。
その目隠しのために「日本の有名な犯罪現場を隠す目的」などに使われているジャパニーズブルーシート目一杯の高さに下げられている。

これが不思議なスタジオ効果を生んでいて、何かクロマキーの撮影でも始まりそうな勢いである。
だからそこで演じられる小さな家族の地鎮祭と言うのは現代劇のように見えた。

シドニーを終わって普段ならばそこらでみんなで飲みに行くのであるが私は4月末の歌人のリサイタルの手伝いなどがあるので直帰したのである。

同じ角を曲がったら地鎮祭はとうに終わっていて4方向にしめ縄をめぐらしたオブジェがあった。今度は民俗学的な興味と言うよりもベネチアビエンナーレの作品と言う感じがした。

地面の神様は怒る神様なのでそれを鎮めると言うのが日本の本来の信仰のあり方のようである。これほど地面が暴れて地震が起きたり、空からは悪魔の放射能が降ってくるような大変な国なのである。
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2016年4月 2日 (土)

品川区大井森前町日本光学百一号館最後の日

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カメラ人類の間で話題になっていた品川区大井森前町の日本光学工業の101号館が3月31日で最後の日なった。
特別に許可を得て見学させてもらった。
この建物には思い出が多い。雑誌の取材で何度もきてるし、アメリカのカメラ雑誌の極東駐在員だった時にハーバートケプラーさんとここに取材に来たことがある。
世界を代表する光学工場であるからセキュリテイは厳重であって用件のあるセクションにしか入れないのは当然である。それが全ての人すべての機材が撤去された状態で下から屋上までを全部見学することができた

世界の名だたるカメラ工場は随分見せてもらっている。ウエッツラーもそうだしイエナもそうだしオーバーコッヘンやヨーテボリもそうである。

最初にここに来たのはまだ西大井の駅ができる前だった。赤瀬川原平さんいうところの大井町から光学通りを歩いていてここまで行った。いわゆる「マットブラック仕上げの通り」である。

約束の時間まで赤羽で撮影をしていたので新宿ライナーでいきなり南下して西大井に駅に降りた。
ちょうど桜の季節も満開にはやや早いと言う日静かな夕方の駅の中に白亜の建物が傾いた日差しを浴びてそこに立っていた。
何十年も見慣れた101号館であるのにこんなにきれいに輝いて見えた事は初めてであった。雨が降って一気に建物が洗い上げられたような白さにキラキラしているのである。今まで見た101号館の中でこの日の夕方に見たのが新しいと言う気がしたのは不思議だった。普段はボロビルなのであるから建物は生きている。欧州でロマネスク建築がいきなりモダーンに見えるのと同じだ。建築は生きている。

すでに工作機械等は全て撤去された空間である。それを1階から屋上まで全部案内してもらった。
すべてのニコン製品とニッコールの誕生の原点の場所だからまずカメラのエルサレムといってもよい。

無人の組み立て室などを見てある感覚に打たれた。それは誰もいないのにそこに念というかエネルギーが充満しているのである。
これは当然のことで世界のカメラを支えてきた、人々の叡智と念がそこに残っているのだ。そういう魂の波動と言うものは決して消えることはない。

いつも見学の時は冗談ばっかり言っている私であるが、見学を案内してくれた皆さんと歩いているときに私は非常に寡黙になった。1つには自分と101号館のことを反芻していたこともあるが、それよりも考えていたのはそのパワーのことなのである。
ここは世界で有数のカメラのパワースポットと言ってよいであろう。

この最後の日の記念のために私はNikonSを持参したのである。それでNikonのシンボルになるようなショットを撮影した。
今までの数多くの世界中の光学工場の見学の中で最も忘れられない夕べであった。

2016年4月 1日 (金)

洋品店のある街

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洋品店と言うのは私がガキの頃は街中に必ずひとつはあって各種のお店の中では1番モダンな印象を与えるものだった。私の生まれた家文京区音羽の通りにもあってその屋号いまだに覚えている。それはカマヤ洋品店と言うのである。夏祭りの子供用の揃いのハッピを買ってもらった記憶がある。

非常にクラシックな感じのマネキンが飾り窓にあって、当時の今風のブラウスなどを着ていたが、今思うとあのウインドウのあり方と言うのは20世紀初頭のパリの街並みとあまり変わっていないように思える。

洋品店のある街のあり方というのは特徴があって、まずマクドナルドなどのような最先端のお店とは反比例の存在関係にある。だから言い方を変えれば、洋品店のある街というのはクラシックで昔ながらで、落ち着いていて老人がゆっくり歩いていて、街角に猫がたくさんいると言う街だ。

これは東十条から十条に向かって商店街の左手にある洋品店である。

洋品店を発見したら必ず撮影するということにしておけば良いのだが、なかなかそうもいかなくて自分のカメラアイにヒットした洋品店を撮影し続けてきた。その意味でこの洋品店はそれほどモチーフとしてのレベルは高くないのがあったが、持ち歩いているNikon Sを目よりも高く差し上げて1枚だけ撮影をした。

仕上がった写真をタブレットで見ていると何となくよさそうである。その理由は典型的なお店の展示物ということにあるのではなくて、道を斜めに奥行きを見透かしたカメラアングルで撮影しているのがなんとなく街の空気が映り込んでいるという点が気にいったのだ。

こういうお店で買い物をしたいと言うことを昔から思っているがなかなか果たせない。買うとしたらせいぜい夏にこういうお店で汗拭き用のタオルを1本買うというのが私の心づもりである。その意味で早く夏になればいいなと思っている。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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