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チョートクカメラ塾ブログ

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2016年3月31日 (木)

1976年のマグロ納豆

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40年も前のことになるのだが、現代日本写真家展と言う大きなスケールの巡回展覧会をオーストリア、ドイツ、スイスで開催した。
主催はグラーツのミュージアム。グラーツと言うのはオーストリア第二の都会であるが、そこのミュージアムが主催したものである。ヨハネスケプラーがこの町のギムナジウムで教鞭をとっていた。それはヨーロッパのそれぞれの美術館が企画を持ち合ってそれを巡回するのである。この現代日本写真家は戦後にドイツ語権で開催された最初の大きなスケールの展覧会があった。

第二次世界大戦を時間スケールで言うと1976年と言うのはずっと戦争に近かったのである。

その準備のために担当のディレクターとあたしが76年の6月に来日したのであった。
担当ディレクターは生粋の知識人であるから日本のこの高温多湿で言葉のわからないストレスやられてしまって早々に私に残りの仕事を託して帰国してしまった。

当時29歳の若造、見も知らぬ若い奴がwinから来て勝手を言うので出品していただいた写真家の先生方にはかなり疑心暗鬼だったと思う。アラーキーも森山さんもまだ若造三十代であった。

300ページ以上ある立派なカタログが20部ずつそれぞれの出品者のもとに届いて、ようやく私の信用度が回復されたのであった。

日本側の事務局は同僚の写真家中川政昭であった。彼が亡くなってもう10数年になるであろう。当時彼は池尻のアパートのクリーニング屋さんの2階に仕事場と住居を持っていた。

それで中川と近所の普通の飲み屋で酒を酌み交わすることもあった。この普通の飲み屋と言うキーワードが大切なのであって40年前にはそういう店があったのである。
今はチェーン店でつまらない酒飲みの場所になってしまった。

そこで私のブームになっていたのがマグロ納豆なのである。何軒もはしごしてそれぞれの店でマグロ納豆を食べた。これほど店によってそれぞれの個性が違う食物もないと思った。

当時のwinには日本料理店もあったが値段が高すぎて入れない。
しかもマグロ納豆というのは日本の食物の中ではかなり上級者のコースなのである。

だから40年前、1976年の初夏の東京の記憶と言うのは実は現代日本写真家展の準備の記憶と言うよりもその実、マグロ納豆食った日々の記憶なのである。

記憶と言うのは実は味覚がベースになっていることが多いのだ。40年前のマグロ納豆懐かしんでその味を再現したのがこの1皿である。

2016年3月30日 (水)

レクタフレックスにはカールツアイスイエナレンズ

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1950年代イタリア製のローマで作られたレクタフレックスというカメラはいつも中古カメラ屋さんの片隅で人気のないカメラの代表選手があった。

その人気がリバイバルしたのはイタリアで出版されたレクタフレックスの本である。このハードカバーの本でメイドインイタリーの優秀なカメラとその歴史が一挙に脚光浴びることになった。

最初のモデルは1947年に作られた。これはプロトタイプであってモデル1947というのである。すなわち私の生まれた時と同一である。

その後いろいろなモデルの変遷があって1部はアメリカ軍の軍用カメラに採用されたりして、そして最後はタックスヘイブンのリヒテンシュタインでまた作られるようになってその歴史を閉じた。10年間の間で一万ぐらいの製造台数なのである。

スイスのアルパが製造台数が少ないので有名だがそれでもアルパの場合は5万台を超えている。

日本製の一眼レフがアメリカで市場に登場するちょうど10年位前は一眼でカメラの人気機種というのはこのカメラとツアイスのコンタックスS、そしてエグザクタに限られていた。いやそのカメラしかなかったのである。

このモデルはモデル25000と言うタイプで1番売れたカメラである。それは理由があってアメリカ軍が何かの契約で2,000台ほどのカメラを発注したのである。だから市場にあるレクタフレックスと言うとほとんどこのモデルになってしまう。

レクタフレックスは調子の悪いものが多いので私も高く評価していなかったのだが、最近テッシナさんと言うカメラ分解組み立ての専門家に半世紀ぶりに再会していろいろお願いしているのである。その彼が分解してシャッターの軸受にルビーが使ってある大変なことがわかった。
それでレクタフレックスの株が私の中で急上昇、ストップ高になっている。
レクタフレックスはレンズとセットで実に多様な組み合わせで販売していた。その当時の定価表を見ると目がくらむようである。というのは旧リラの価格表示だからやたら0が多いのだ。

オリジナルのカールツアイスイエナのレンズがついたものは非常に高い。
ただしレクタフレックスマウントと言うのはプラクチカマウントにアダプターをつけてそのままレクタフレックスに使えるのである。だからこのようにプラクチカのレンズにアダプタをつけて使ったほうがその汎用性ははるかに高い
しかもデザインはその当時のオリジナルのレクタフレックスマウントと同一なのである。

クラシック一眼レフも趣味として年季を重ねてくるとこのように全体のデザインのバランスが良いか悪いかでその評価が決まるのである。周辺がどうの写りがどうのと言っているのはまだ入門者初心者素人の意見なのだ。

2016年3月29日 (火)

カイロ、カサブランカ、神谷町

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カイロ、カサブランカ、神谷町。
なにか私の写真集Wien、ニューヨーク、新潟を連想してしまう。
この前者のグループの街に共通しているのは言うまでもなく街にそびえ立つミナレットである。

カイロとカサブランカの街の作りは違うしミナレットのスタイルも違う。神谷町のそれはミナレットではなくて清掃設備のであるがスタイルは似ているからこれは同じグループに入れてよいであろう。

テキサス州のジョンソンスペースセンターにあった巨大なジュピターのロケットなどもミナレットの仲間に入れて良い。電信柱などもミナレットの子分と言うべきである。

日本に巨大なミナレットがないのでイスラーム的な風景が見たいときには私は神谷町から赤羽あたりの街を歩いて天を切り裂くこの巨大な建築物を楽しんでいる。

カイロの街を歩いていて面白いのは元々の狭い小路が数千年前からある道であるが、そういう道に迷いながら歩いているといきなり広大な環状道路がその小路とは全く関係なく目の前に現れることだ。これが政府の都市計画と言うものなのである。

だから自分が歩行していてこれは小路のウラの裏であるなと言う認識が、いきなり完全に広大な環状道路が現れるので自分のいるところは裏ではなくて表であると言うふうにいきなり空間の認識が転覆ということがある。
これが非常に面白い。

2016年3月28日 (月)

父の命日にがらくたやさんで

田中 長徳
たった今 ·
昨日はシドニー。父の命日。
供養のために読経の代わりに突撃隊帳とテッシナさんがシドニーライブでこの作業をする。すなわちキエフ5のレンズをニコンに移植。南無阿弥陀仏
ーーーーー
これは最近のFacebookの私の書き込みである。
1999年の4月の26日と言う日に父がなくなった。
葬儀の段取りをしてからそれからもうやることがないのでその日も我楽多屋さんに行った。

買取名人がさっと香典袋を差し出してくださった。こういう対応は非常にありがたい。
カメラ好きの父に何か買って回向の気持ちがあったので、早速我楽多屋さんでカメラを買ったのである。それはロイヤル35と言うちょっとコンタックスのレンジファインダに似たカメラだった。
そのロイヤル35は今でも大切にしている。

さて突撃隊長ら、Nikon原理主義者が昨年の春から1年間かけて私のニコンエスをブラック仕上げにしてくれた。そのカメラの名前をニコンSブラックライフもマグナムも怖くねーぞと言うのである。これが銘である。

豊海水産埠頭の波止場にシャッタレリーズボタンを落としてしまって発見できなかったからその上にニコンのソフトレリーズをーつけて使っていた。10本以上撮影したところでそれもう動かなくなった。
それで急遽突撃隊長サービスメカニックが出張してくれたのである。私の手元にはキエフ5の50ミリの外爪バヨネットのレンズがある。
シャッターを修理してもらった後にこのレンズはニコン上でにはどこかが当たって装着できないが何とかならないかと突撃と、テッシナさんに相談した。テッシナさんというのは日本カメラの私の今月号の連載に登場しているがいつも精密ドライバーを持ち歩いていて立ったままその場でカメラの分解するしとである

私のシドニーのトークショーの間に突撃隊帳さんとテッシナさんが二代目さんの許可を得て脇にテーブルというか椅子を借りてその椅子をテーブルがわりにして2人の医師団が難しいオペに取り組んでくれた。
15分おきにちょうどテレビのライブの中継のように突撃隊帳地震津波課長が皆さんに進行状況を説明した。これは臨場感があってなかなか良かった。

それで90分間が終わる頃に驚くべし、キエフマウントをニコン化するオペレーションは完成したのである。
キエフのレンズがどこか当たって入らないのでここはヤスリで削らなければだめだなと突撃がこれ以上の進行を諦めたときにテッシナさんは胸のポケットから小さなヤスリを取りだしたので会場は騒然となった。とんでもないカメラ修理テロリスト集団である。

この改造した50ミリ外爪のブラックのかっこいいレンズは実は距離連動は外してある。それがついてるとうまく合わないのである。しかし50ミリなど私は通常目測で撮ってるから何の問題もない。目測の距離はというのは無限に合わせておくということである。
すなわち、常に見えない的を狙っているのである。

それで父の命日に思いもかけぬいいエコー、じゃなく回向、供養ができたと思って喜んでいる。
生身陀仏。
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2016年3月27日 (日)

飲み屋の定休日

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街を徘徊して写真を撮影する以外にこれといった特徴もない私であるが、強いて特技をあげるならば思いついて出かけた飲み屋が必ずと言っていほど定休日であるという点だ。

これはこの数十年の私の特技であって周りの友人ではこのことをよく知っている人も少なくは無い。反省するに特定のお店をピンポイント攻撃するからこういうことになるのである。出会い頭の店に飲んでさっと帰れば良いのであるが、ここで問題なのは日本のカフェとかバーと言うのは昼間からアルコールが飲みにくいと言うような思想統制なされている点にある。
これはその背景に儒教的なバックグラウンドがあるのかもしれない。もっと進んでイスラム圏内であれば最初からアルコールなど存在しないのだから歩いていても気が楽である。

福田和也さんがカフェの文化論を語っていて、これは私も深く同感したのであるが欧州のカフェは時間に関係なくアルコールが飲みたいときに飲める。アメリカの場合は清教徒革命でなかなかそうはいかない。酒瓶を裸で持ち歩くのも法律違反である。

飲みたいときに飲めないというのは非常に精神衛生上悪いので積極ウイスキーのポケット瓶をカメラバックの中に入れて公園か何かで飲むということになる。

ここはめったに行かない場所であるが、こないだ赤羽の南の方を歩いていることに気がついたので数年ぶりにお店の前まで行ってみた。定休日はオーナーによって不定期に変わったりするのでこのようにちゃんと張り紙があるお店はありがたい。

私のようなその達人になるとそのお店の前に定休日の案内を見てそれで満足して帰ってくるというレベルにまでステップが上がったのである。

日本国内を旅をしていて1番困るのは新幹線であるが以前は鉄道弘済会でちゃんとウイスキーのポケット瓶を売っていた。これを買い込んでゆるゆる関西に行くなどは楽しみであったのが今はその品物がなくなってしまったようだ。

新幹線は北海道までつうじたようであるがそういう私のような暇人の楽しみというのはどんどん失われているのは問題だ。

2016年3月26日 (土)

十条仲原の桜の大木

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十条仲原の長い長い商店街のアーケードをちょっと西に入るとそこに見事な桜の大木がある。
私には花見をするという習慣がない。日本のこの文化に気がついたのは1981年の桜の季節だった。
四谷の上手で花見をしたのである。
非常にびっくりした。私と家人が参加したが、他のメンバーにやはり民族学的な珍しい行事に驚いているパリに長年住んでいた日本人の学者がいた。

主催は友人の絵描きで大工さんだ。だから彼らのやっているお花見の宴会そのままなるのである。
口三味線で、すちゃらかちゃん、すちゃらかちゃん、、つきがーーでたでーーたーー、つきがーーでたーー、あ、よいよい、、♬
で始まるのだ。

それがそれで大変面白いアトラクションであった。隣の工務店の団体と合体してそこからいただいたサントリーのだるまを2つお土産に持って帰ったと言う役得もあった。

友達の大工さんはそのサントリーのウイスキーの化粧箱に両足を突っ込んでそれを下駄のかわりにして歌い踊るのである。
これはまさに極東の美学と言わずして何であろうか。

その翌々年ニューヨークに1年間滞在したときにやはり現地の友人にさそわれてマンハッタン島の西ニューアークにある有名な桜の名所を訪問した。

ここでもアメリカ人っが花見をやっていたがこれは静かで、すちゃらかちゃん、はなかった。桜そのものは日本から移植されたと言うような話だったが、お花見の大宴会はこの時点ではまだ輸出されていなかったようである。
もっとも現代はアニメ文化が世界中に輸出される時代だからこのお花見のすちゃらかちゃん、も世界中に展開しているかもしれない。

それで十条仲原の桜の大木の話になる。
この桜の大木のある場所は道が広くなっていて十条仲原界隈としてはちょっと見られない通りなのである。

毎年桜の時期になると私は十条仲原商店街をウロウロしてそこら辺でコップ酒を買ってこの桜の木の下に来て1人で立ち飲みをしていたものだった。

この2週間ほど十条仲原に凝っているので先日桜の場所の位置を確認に行った。忙しいので3年ぶりに行ったのである。
大木はなくなって普通のつまらない通りになっていた。あまり行かない場所であるから道を間違えたのかと桜吹雪の中で私が立ち飲みで酔っ払っているときに確かこの通りの向かい側の理髪店の名前をちゃんと記憶していた。

それはシャレールと言うのである。これはシャネルのもじりだな。

それで改めて日にちを変えて現場に行ってみたら桜の巨木二本はやはりなくてただのアスファルトの通りになっていた。
去年か一昨年に切り倒されされてしまったものと見える。

今はもうない桜の大木は満開の時よりもその花吹雪がすごかった。広い通りが桜の花びらで埋め尽くされてしまうのだ。

2016年3月25日 (金)

1980年3月24日の新聞広告!

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1980年3月24日の新聞広告! 曰く「プロの魂に響け!明日! スーパーニコン新発売!!!」あの日から36年か・・・

これは友人のFacebookの書き込みである。この人はカメラカタログ関係の国会図書館と言われている人でありとあらゆるカタログを持っている。
この時点で私はwin滞在の最後の年の春であった。その半年後の11月に七年半ぶりに日本に戻ったのである。
なくなった白岡順さんが持っているのはニコンF3なのである。最新型のカメラであると思っていたのだがそれは私のカメラの時間軸の歴史がずれているからであって、すでに40年近く前の昔のことなのである。

とにかく私の場合まだニコンのレンジファインダの最初期モデルを使っているような状況だからこのスーパーNikonまで到達するのはまだずっと先のことになるのであろう。

その翌年1981年に私はNikonの交換レンズカタログの仕事でヨーロッパを走り回った。その時のメーンカメラと言うのは実はF3ではなくてその前のモデルF2であった。

写真家というのはその意味では非常に保守的だから絞り優先のシャッター速度がフラフラするようなカメラと言うのは使えないのである。
3台の持参したニコンの内訳はF3が1台そしてF2二台であった。

ベニスに到着早々夜景を撮影に行くので三脚を持ってF3持参したらバッテリーが切れていた。これは私の機材チエックミスとニコンの貸し出し機材のチェックのミスの両方に問題がある。でもF3のシャッターは緊急の場合バルブで動くので撮影にはなんら問題がなかった。それでやはり従来の機械式のF2の方がいいと言うことになってその後の旅ではほとんどF3を使った記憶もある。
.
あの時、一緒に仕事をしたアートディレクターさんは若くして亡くなってしまった。

2016年3月24日 (木)

娯楽の殿堂 夜と朝

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20年位前に広島に行ったのが私の最後のヒロシマ訪問である。
原爆資料館でモデルは忘れたが国産の破壊されたカメラを見て沈黙した。

広島に行ったら私の読者の方が迎えて下さってお好み村とかあちこち案内してくれた。私はあの広島弁の言葉の抑揚がスイスドイツ語のようで好きなのだが、地元の方が私に話しかけるときはちゃんと標準語で話してくれる。その気遣いがありがたくもありまたちょっと迷惑でもあった。

さて、第一劇場である。
私はこの手のエンターテイメントは行ったことがない。
こうしてオンとオフの写真を比べてみると私が知っている都市風景というのはやはりオフ、つまり朝のストリップ劇場なのである。

リスボンの旧市街ロッシオ広場から南に行く小路の右手にやはりストリップ劇場である。客はたくさん入っているように見えない。それも開店している時ではなくて早朝に店が静まり返っているの見るのが好きである。

私の長い人生の唯一の体験でストリップ劇場に入ったのは1968年夏の新宿だった。新宿はデモで沸騰していた。偉大な写真家東松照明さんとストリップ見物に行ったと書けば誰もがびっくりするであろう。

これは当時のカメラ毎日と言うカメラ雑誌の新宿特集で東松照明さんのアシスタントを務めたのである。当時最も過激だと言われていたストリップ小屋で東松さんは真正面からカメラを構えて大股開きを撮影した。
常連さんというのもラジカルで過激になって非常に政治的な存在に思えたのも1968年の時代背景と言うものだ。
数日間、東松さんのアシスタントをやって新宿にポリスラインが埋め尽くされるのも撮影した。
これは東松さんの代表作「OH!新宿」に収録されているものだ。
当時の東松照明さんのカメラはキヤノンのFLであった。当時はこれはアマチュアのカメラと言うふうに
思われていた。キヤノンF1などはまだ登場する以前の話なのだ。それ以前の東松さんはNikon一辺倒だった。劣勢挽回しようとしてキヤノンがスポンサーになったようである。
東松さんはその素人一眼レフを携えて北海道の小樽倉庫街なども撮影している。これもカメラ毎日の東松照明日録に掲載されている。
そのことが記憶の隅に残っていて小樽に来ると東松さんのことを思い出す。
でも騒乱罪の荒れる新宿のストリップ劇場で私と東松さんが並んでカメラを構えていたと言うのはここに記録しておきたい。

2016年3月23日 (水)

撮影中にニコンSのシャッターボタンを紛失する

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佃島から南にずっと歩いて豊海水産埠頭まで撮影して波止場の石の上に座ってフィルムを交換しようとしたらシャッターボタンがなくなっていることに気がついた。

まず今の自分が座っているところの1メートル四方をくまなく探したが発見できない。という事は最後にシャッターを押した後フイルム交換をするまでの間の路上に落ちているはずである。

ザルツブルグで吉村朗などが参加したワークショップをやっていたとき、これは1,979年か80年頃であるがアルプスの山の上で皆で撮影していたらアメリカの女子生が何か探し物をしている。

聞いてみたらコンタクトレンズを落としたと言う。それで私のワークショップの参加者を横一列に並ばせてずっと前進させて捜索した。あたりは砂利道である。
それにもかかわらず奇跡的にコンタクトレンズが発見されたのである。皆から歓声があがったのは言うまでもない。

一方で私のシャッターボタンは発見できなかった。Nikonのシャッターボタンはその部分だけ非常に使い混んでいて真鍮が出ているのである。それが非常に気に入っていたので残念なことだ。

でもこれで写真が撮れるのではないかと思って指先を深くシャッターのボタンの受けのリングに差し込むとそれなりにシャッターが走るのである。とりあえずそれで大丈夫だと思った。

家に戻ってニコン用のソフトシャッターレリーズボタンをねじ込んだら問題なく使えたので撮影には支障はなかった。
考えるに撮影中に部品のパーツがなくなるという事は何十年も写真家をやっているとよくあることなのである。まだ学生時代に早稲田闘争を撮影に行っていたことがある。その時は一体どうしたことかニコンエフを使っていてフィルム交換のため裏蓋を開けたらフイルムプレッシャープレートがなかった。

これは致命的な事故である。そのプレッシャープレートは報道写真家用にわずか作られたトライエックス用のものなのである。この事を知っている人も皆無なのではないか。
でも撮影に夢中になっていて最後にプレッシャープレートなしで撮った写真は見事に全部ボケていた。

これは大失敗だった。

2016年3月22日 (火)

人民洗衣店

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中国の「偉大な文化大革命」の当時は日本からジャーナリストのカメラが入ることそのものが大変であった。
だから紅衛兵がトラックに乗っているのを撮影しただけでそれがスクープになるほどの状態であった。
文化大革命が収束して何十年も経過してもちょうど20年位前までは駅の周辺で偉大的毛沢東思想万歳という壁画が残っていたものである。

偉大的文化大革命万歳の巨大な壁のスローガンを見たのは北京の中心部から車で西に1時間ほど行った河北省の小さな村であった。夏の盛りで農民が城壁の北側の日陰で暑さを避けているのである。そのレンガ塀にまだありありと偉大な文化大革命万歳のスローガンが残っていた。

私が初めて中国に行ったのは1981年の頃て今とはかなり状態が違っていた。つまりあの時代は文化大革命のほうに時間軸が近かったのである。

当時の中国で私がひかれたのは手書きの看板なのであった。そのプリミティブな感じと意匠がそのままモダンアートになっているというところがよかった。同じ看板は1つとして存在しないわけである。

中十条の商店街からちょっと入ったところ、つまり桜の巨木が切り倒されてしまった通りのすぐ手前のクリーニング店の看板を発見して感動した。今まで何度もその巨木を見に行っていたのだが、桜のほうに目がいってしまってこのクリーニング店の看板はその反対側にあるので見なかったのである。言い換えれば桜の巨木がなくなったのでその置き土産として桜がこの看板を私に見せてくれたと言うことになる。

この画像をFacebookにアップしたら速やかに30年ほど前にこの界隈に住んでいたFacebook友達が懐かしがってコメントをくれたのである。その人は今愛知県の方にお住まいで、この看板を見た瞬間に30年前の記憶がフラッシュバックしたそうである。
これが写真の凄いところだと思う。
その写真1枚から連鎖的に当時の時空間が浮上してすでに忘れていた事実が大脳の深いところから呼び覚まされるのである。

文化大革命時代のスローガンもそうだが、同時に私が思い出したのはまだ東独時代の政治ポスターである。東ドイツの宇宙飛行士が初めてソユーズ飛行船に搭乗したポスターが東ベルリンのあちこちにあったそれがインキが薄くなってこのような青い色になってしまっていた。
東ヨーロッパの印刷インクは光に弱いので三色のインクのまず最初に赤と黄色が退色して残るのは青のインクだけになってしまうのだ。これは1970年代のWienも同じことであってそういう退色ポスターを探して撮影して歩いた。それを撮影するためには色彩が精密に再現されるコダクロームでなければならなかった。

2016年3月21日 (月)

チョートクカメラ塾

❤️次回の新学期第三回配信は5/25水曜日。
テーマは「間違いだらけのデジカメ選び そのカメラの構えは間違ってる」
入塾、継続はhttp://chotoku.thebase.in/まで。
🌃お詫び BASEのショップ表示が現在できません。復旧中です。Image_3

一番遠い場所

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この1週間ほど北区の十条仲原ばかり行っている。ほとんど連日の出撃である。しかし一昨日は雨だったので佃地方にいた。それが午後になって雨が上がりそうになったので外に出た。近所徘徊するつもりが無意識のうちに清澄通りを南に向かって歩行していた。2キロも歩くとそれがいきなり道が海になってしまうのである。 まるでポルトガルであるが、豊海水産埠頭である。

思いつきで行く場所がパリであったりwinであったりプラハであったりはてまたリスボンやカサブランカカイロなどであるのだが豊海水産埠頭に行くというのはなかなか思いつきにくい目的地なのである。

しかもその最も行かない場所には歩いて30分もかからずに行けるのである。だから今の時代と言うのは飛行機の飛行時間とか歩行時間は全く無関係でどこに行きたいかということをよく考えることが必要なのかもしれない。

家から歩いて海まで行ったということになる。イスタンブールの中心街に宿泊していて、それはブルーモスク向かいなのだがそこからマルマラ海を見ようと思って道を南にとって坂を下っていくと坂から上がってくるトルコ人が、皆海に行くのか?と聞いて道を教えたがるのである。これが彼らのどのような親切心によるものなのかいまだにわからない。

一方の清澄通りを南に歩いてる私は周りの人が海に行くのか?とは誰も聞いてくれない。それが寂しいといえば寂しいことなのだ。
水産埠頭は道の先で終わっていてそこから先はいきなり海である。

天気が急に変わってきて視野の左側はまだ雨の部分で右側だけに太陽が輝いている。そういう不思議な瞬間を撮影することができた。あたりは無人である。そして目の前に波がある。水面は落ちたら知らんぞ死ぬぞと言っているのである。この当たり前のことを水が言っているのは極めて当然のことで私は納得をする。

クラブエダムがなくなってもうすぐ1年になるので私は居場所がない。それでさっきコンビニで宝せうちうを1つ買ってきたのだ。
それを少しずつ飲みながらしっかりと雲と光の方向がどっちにあるのかを観察した。
また30分かけて家に戻ってきたが、何か世界で1番遠いところに旅したような感じがしている。

2016年3月20日 (日)

石段現代彫刻に感動する

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赤羽の駅から行っても良いが十条の駅から行ってもいい。
十条仲原に感動的な石段がある。
いずれにしても駅から徒歩16分である。これは不動産屋さんの正確な所用時間であるから実際には我々高齢者はもっと時間がかかるであろう。

ただし私の場合は歩行するのが仕事だから例外である。
迷路の奥にあるこういう石段はは大抵が私道であって地元の篤志家が真面目に作ったような存在感がある。私道であるから通行禁止と言う立て札のある場所もある。そういうところも平気で歩いている私だが、いつも思い出すのは建物の中からショットガン持った住民がこっちを警戒しているように思えることだ。これは少年の頃の西部劇テレビドラマの影響だろう。

十条から赤羽にかけての地域はマイブームになっているのは荒川の河岸段丘の名残があちこちにあることだ。
十条仲原と赤羽の間は非常に急な崖になっている。その間を結んでいるのは非常に急な高度差のある階段である。それに沿って歩くのが私の好みだ。

ここに紹介するのはそのような高さのある石段ではなくて十条仲原の路地裏にあるやつだ。石段の数はステップにして十段もない。

住宅地の中で高さが異なる土地を連絡する、このような石段というのは昔からに気になるオブジエであった。
10代の時は平気でこういう石段をぴょんぴょん飛びこえて徘徊していたのである。
それがだんだんに高さが増してきて、最近ではその立体物の様子を事前に観察してから最初の一歩を踏み込むのである。
足元が危ないから注意するのは言うまでもない。
しかも手すりがないから何か現代彫刻によじ登っているような錯覚がもたらされる。

自分にとって意外な発見だったのは現代彫刻の立体の存在感と、こういう石段を登る前にその立体物を観察するその視神経とはどうも同一の感覚であるということだ。

この石段はグーグルアースでもちゃんと確認できる。
これは凄い事であると思う。

2016年3月19日 (土)

あさしゆの廃業

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町内の銭湯で非常に熱いお湯のところがある。以前、突撃隊長が門前仲町に住んでいた時にこの風呂屋に出張して暑いので水うめたら地元のうるさいジジイに叱られたそうである。

他の証言ではクラブ枝村のお母さんもあついお湯がだめなやつは来なければいいと言っていた。そういうような難易度の高いゼニ湯なのだ。

今朝その前を通過したらこのような張り紙が出ていた。感情を押し殺し廃業の次第を書いているのが男ららしくて良いと思った。

これは記録せねばならないと思ってズボンのポケットを探ったらあたしのiPhoneがない。
仕事場の3階のトイレのキャビネットの中に忘れてきたことをに気がついてすぐに取りに戻った。

前後関係から説明すれば銭湯の廃業の札があったから自分のiPhoneの置き忘れに気がついた。
年寄りはよく物忘れる。この前の大阪行きの時は帰りに日航機の座席にキャップを忘れた。昨年の5月のパリ行きの時はエールフランスの座席にツイードのジャケットを忘れた。いずれもアテンダントさんに取りに行ってもらったから問題はないが。年寄りは一旦ものをそこにおくとそれをピックアップすることを忘れて次の目的地に行ってしまうのである。

偽ライカ愛好会の連中と佃島あたりを撮影したことがあった。その中のメンバーの1人がいきなり神隠しにでもあったようにいなくなってしまう。10分ほどで頭から湯気を出して戻ってくる。この人は早銭湯の達人であった。

2016年3月18日 (金)

白岡順さん

白岡順さんが亡くなった。
行年七十二歳。

白岡順さんとは1,979年の確かちょうど今頃にパリでお目にかかった。
記憶がはっきりしないがその前か後にやはりパリに住んでいた田原桂一さんにも会っている。
田原さんと以前から面識があったが白岡さんの場合はそのパリで会ったときが初対面であった。
私が白岡さんのパリの仕事場にお邪魔したのである。
どのような関係で白岡さんにあったのか、誰が紹介したのかそれがいまだに不明である。

白岡さんはニューヨークからパリにやってきたその直後であった。さして広くないアパルトマンにフォコマート1cの引き伸ばし機、それも支柱の長いやつがボンと置かれていた。

最初はカメラの話になってそれから写真のテクニックの話になった。スイスカメラに掲載された白岡さんの作品で四国の郷里をとった真っ黒い写真があるのでそれがもっぱら話題になった。私も当時は黒い写真を撮っていたが白岡の写真はそれを遥かに超えた黒さなのである。商業カメラ雑誌としてこれが出版できるかどうかと言うほとんど限界の黒さであったのでそれに驚いたのだ。
カメラはニコンの一眼レフで35ミリしか使わないと言うような話だった。
写真芸術の話などはしなかった。
ゆうも愚かであるが本物の写真家はワインの瓶を前にして写真芸術の話題などでは盛り上がらない。そういう話題で盛り上がるのは偽物である。

話が面白くなってきたので夕方から彼のアトリエで赤ワインを飲みつつ会話を始めて終わったのが午前3時ごろであった。
それで彼のアトリエは右岸にあったのでそこから40分ほど歩いて深夜のパリの街をぬけてカルチェラタンの私のホテルに戻ってきた。

いまだに忘れられないのは、そのことはどっかにも書き散らした記憶があるがその道筋で1人の通行人にも会わなかったことだ。例外を書けばパトロール中のポリスマンにあったのみである。

白岡さんの話ではニューヨークで苦労して身体一つでパリに逃げてきたというような話の内容であった。詳しい事は聴く必要すらない。
彼とはただ写真の話で波長があったそれだけである。
しかも私の知っている白岡は30代なのである。
当然私も30代だった。

それから白岡の話題を聞いたのはアムステルダムかどこかで取材中にひったくりにあってそれを取り返そうとして犯罪者を追跡してナイフで手にひどい傷を負ったという話だった。
十針以上縫うと言う重症だったそうである。
あれだけ光と影を執拗におっている白岡だからそのくらいのことはやるであろうなと思った。

東京に戻って大学の先生をしたり作品を発表している白岡に関しては全く知らない。それで本人の画像検索したら最初にヒットしたのが漂流者さんのこの写真であった。その風貌を見ると私がパリの70年代に合った白岡順と全く変わらないように見える。Image_3


トプコールのデカ目ファインダー

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銀座の晴海通りにまだ柳が揺れている頃だから40年ほど前である。既に都電は撤去されてなかった。
当時は建物も一階にあったスキヤカメラのお店の奥のほうのウィンドウにこの大きな瞳のファインダーを発見した。

その価格はいまだによく覚えていて日本円で七千だった。ずいぶん高いような気がしたがそれを購入した。
ライカのファインダーの付いていないカメラ、ライカMDにつけてみた。実に格好が良い。スナップシューターの神様と言う感じがする。
ところが実際に使ってみると全然駄目であって、街中をスナップしているときにこのギョロ目が光るのである。それも当然の話であってアルバダ式ファインダーであるからミラーが中に入っている。これが路上で反射してスナップされる人の注意を必要以上にひくのである。

それで使うのはやめにした。テーブルの上に置いて眺めものにしているのには最適なファインダーであるが実際の撮影には使えないのがこのファインダーだ。

35ミリ広角レンズを使うのでいろいろ試してみたが見え方の1番いいのはライツのファインダーである。でも大昔から手元にあるミノルタの完全な逆ガリレオ色のファインダーが1番使いやすいので愛用している。ブライトブレーム式のファインダーが使いやすいように思えるが、実は写真の撮影というのは意識と無意識の境界線は曖昧にしておいた方が面白いのだ。
だから輪郭のはっきりしない逆ガリレオ式の方が予想外のものが入ってくるので面白い。

そういうあやふやな見え方のファインダーを愛用するという四半世紀が経過して、数年前から35ミリのレンズはノーファインダーで使うようになった。
何の事は無い。50ミリレンズのフレームの一周り外側を想像すればそれで足りるのである。

2016年3月17日 (木)

あたしのソファ

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10年間六本木ヒルズの仕事場を借りてそこで仕事をしていた。しかし10年経過してもういい加減に卒業しようと思ってそこを止めた。
一昨年の5月にパリに行っているときに家人からメールがあって佃のパブリックスペースでなかなか豪華のができたと聞いた。東京に戻ってみるとなかなか使いやすそうなので以来2年近くここを使っている。
このソファーは別にあたしの所有と言うわけではないがとりあえず自分の椅子と勝手に決めて使っているのだ。

昨年2015年の1月17日に左腕がひどい帯状疱疹になって大変な痛みであった。
いつも思い出すのはプラハの写真家ヨセフスデクのことであった。有名な話だがスデクは第一次世界大戦の時にイタリア戦線で友軍にに撃たれて右腕を失っているのである。

腕の痛みがひどくなるといつもこの腕を切断した方が良いのではないかなど短絡的なことを考える、それほどの痛みであった。

しかし仕事は普通にしていて昨年は5月と9月と11月にヨーロッパに出かけた。5月がパリ、9月カサブランカそして11月はリスボンであった。

外国から帰ってくるとこのソファーに座って仕事をしていた。ソファーには肘掛けが2つある。右手を置くのは何の問題もないが左手を肘掛けにおくと非常に痛い。肘掛けの表面を覆っているものの繊維がまるで針の筵の様に感じられるのである。

その不思議な感覚で左手はソファーの物の上に探りながら最も痛みが少ないポイントを探して左腕をそれこそ非常にデリケートな美術品であるかのようにそっと置いてそして仕事をした。

おかげで今ではその左手の感覚もようやく通常に戻りつつある。
左手てカメラを支えることができるようになったのは非常にありがたい。

2016年3月16日 (水)

森永純さんと九十分一本勝負

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森永純さんは非常に寡黙な写真作家である。しかもその作風は変わることなくデビューから60年近く1つの道を貫いている。
1976年にヨーロッパ主にオーストリア、ドイツ、スイスを巡回した現代日本写真家展のメンバーは32名だったが、その中に森永さんも加わっている。
その時に森永さんにお目にかかったのが最初であったと思う。私より10歳年長だから当時の森永さんは 39歳、私は29歳であった。
その次にお目にかかったのは1,980年頃でカメラ毎日のインタビューであった。その時に代々木の素晴らしい暗室でお話を聞いたのであった。

3回目は昨年のことでギャラリーバウハウスで森永さんのトークを聞いた。
そして4回目が今回である。森永さんの個展で直接お話しを聴く機会を得た。

写真界の伝説としてユージンスミスのアシスタントをする前に、これは1962年のことだが、森永さんはスミスに自分の写真、有名などぶ川のシリーズを見せた。それを見てスミスは泣いたのである。
一体に写真を見て泣くと言うのは非常に複雑な感情である。

安物映画の100万人観客動員全員が泣きました、というのはしょうもない宣伝文句であるが、その手の下劣な反応とこのスミスの涙とはもとより全く次元が異なるものであると言うことを最初に理解しなければならない。

時代が50年経過してしまうと時代背景が異なるから、今の安直なレベルの反応で想像するとスミスは森永さんは日大写真学科を出た秀才であるのにしょうもないドブ川の写真ではないかと想像する向きもあるかもしれない。これもとんでもない勘違いである。

スミスはマグナムの強力メンバーであったからその汚れきった川を見て日本の環境はもっと良くならなければならないと思ったのであろうか?これも的外れなスミスの涙への理解の仕方である。

スミスはそういった分別とか目的とは全く別に直接森永さんの視神経に触れて涙腺が緩くなったのだ。これに間違いはあるまい。

それで森永さんは1年半と言うものスミスのアシスタントをすることになる。スミスの撮影風景は当時の写真でも有名だが首から6台のカメラをさげるのである。
森永さんもそれに対抗して同じ数のカメラを下げて師匠から指示があるとそれを首から外して渡していたと言う。それで首がほんと痛くなったそうだ。

スミスは完璧なジャーナリストであるから大型カメラを使わなくてそれでライフの写真部と喧嘩して別れたりしていた。本物のジャーナリストがあるから常にモノクロームとカラー用の二台のカメラを携帯していた。だから望遠と標準と広角のレンズがそれぞれ着いた3台のカメラなのであるが、カラーとモノクロと言う両面対応になるとその数が倍になるわけである。

今の時代からするとカメラはロバートフランクにしても、リーフリードランダーにしても、ウィリアムクラインにしても一台のカメラの時代である。

そこら辺の違いがなんとなく重要な気もするし、単にカメラの数の問題ではないとも考えられる。それはこれから研究される課題に入るであろう。
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2016年3月15日 (火)

どこまでがきゃうとか?十日目 ペプシ

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古いペプシコーラの看板が気になっている。東京にも三島由紀夫の住まいの近くにこれと同じような看板がある。時々それを見に行くのだが私の価値観は三島の古い家よりも古いペプシの看板のほうに興味がある。
看板からそれが風化して自然のものに進化というか変貌しつつある 過程で、その色相が非常に美しい。紫色と黄色がミックスした不思議な色合いなのである。

コカコーラの看板のほうは最近はこの店のような看板は見ないのはなぜであろうか。
写真家ウォーカーエバンスは1,930年代から40年代にかけてアメリカのカントリーサイドの建物とかガソリンスタンドをたくさん撮影している。

その中にはコカコーラの看板がたくさん見られる。彼の仕事をテーマにしたエバンスアットワークと言う本を見ているとエバンスはかなり偏執狂的なモノに対する興味が突出しているとこがあってそれが面白い。
1,940年代にとられたエバンスの代表作で木造のグロッサリーストアのような建物の脇にコカコーラの看板が打ち付けてある。それが彼の居間に掲げられているのである。私が言いたいのは写真ではなくて看板そのものがエバンスの部屋のインテリアになっていると言うわけだ。
それは今風のおしゃれなインテリアと言う存在感ではない。もっとシャープな、ちょっと怖いような即物学的な存在感を持ってコカコーラの看板が室内にあるのだ。

エバンスには癖があって、例えば洗面場、これは実際に使っているのでは無いのだがその洗面所の流しの上に缶のブルドックの金具がずらっと並んでいる。そしてその脇にメモがあってプルトップの位置をずらすな!と書いてあるのである。これなども写真家の綿密な性格を超えた何か非常に精神的なものを感じるのである。

しかしながらこの藤原商店の場合もそうであるが、古びた看板と言うのは実際にその商店が機能しているその状態で観察するのが1番良いと言うふうに思われる。

2016年3月14日 (月)

どこまでがきゃうとか?九日目 キースへリング

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マンハッタンの落書きキッズ、キースへリングがなくなってもう何十年が経過したのであろうか。
私がマンハッタンに暮らした1,980年代初頭はちょうどキースヘリングが売り出した時であった。
SOHOの建物の壁とか変圧器のトランスなどに黒い紙を貼ってそこに不思議な犬とか人間のデザインが白いペイントで描かれていた。

私などは商売などを全く考えつかないからそれを単にカメラで撮影しただけだった。その写真はチョートク@ワークと言う毎日新聞が出した写真集の中に掲載されている。

私のマンハッタン暮らしは1年だけの短いものであったがその滞在の終わりのほうにメキメキ有名になってホイットニーミュージアムで個展をすることになった。
その展覧会も見に行ったがそれよりも面白かったのはホイットニーの北側に住んでいたユダヤ人のお金持ちの家に遊びに行ったとき彼のリビングルームから窓越しにキースへリングの展覧会の会場が見えたことである。

私はがっかりした。
何ががっかりしたのか言うまでもない。
それまで落書きキッズで街を荒らしまわっていたキースが見事にミュージアムの檻の中に取り込まれてしまったのだ。これ以上の悲劇は無い。い

それから数年後に仕事でミラノのスカラ座の音楽ディレクターの家に遊びに行った。そのお嬢さんと私はひょんなことからお付き合いがあったのである。

ディレクターの立派な居間にはキースリングの巨大な壁画が二点かかっていた。
これは地下鉄の構内の看板に落書きをしたものと思われる。画商はそういうものをちゃんと商売にしているのだ。

それから数年後だったがベルギー政府観光局の仕事で毎年ベルギーに行ったことがあった。ベルギーの北、クノッケンハイストというところで私はびっくりした。賭博場の大広間にへリングの巨大な壁画が描かれているのである。その向かいは巨匠ポールデルヴォーなのだからこれはびっくりするほかはない。

落書きキッズの存在は非常に重要なことである。それがさらに落胆したのはその翌年だったかマンハッタンのMoMAの売店に行った時に彼の仕事が卓上カレンダーになっているのでさらにがっかりした。
どのような巨匠の作品であろうが、それが卓上カレンダーになってしまったらもうアウトである。それ以来、キースの事は忘れたしまった。

何か日本に世界で唯一のキースへリング個人美術館があるそうである。

これは寺町で見たキースへリングの残骸である。
彼が活躍していた時代というのは実はインターネットなど存在する前の時代なのである。アップルが登場したのは1984年だから、Apple紀元前に活動した作家ということになる。
その作品が今では無限に再生されてiPhoneのカバー等になっているのはおそろしき未来というものであろう。

2016年3月13日 (日)

どこまでがきゃうとか?八日目 Vespa

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1981年から82年の大晦日から元旦にかけて京都を取材したことがあった。
これはアサヒカメラの写真年鑑にあたる「現代の写真」と言う増刊号の特写なのである。
当時の朝日新聞の規定と言うのはなかなか面白いと思ったのは、年末年始でホテルが規定の旅費の値段をはるかに超えていたことだ。それで編集部は内部規定があるらしい。同行の編集部の随行取材と言う形で予算を出してくれた。詳しい事はわからないがいかにも新聞社らしいなと思った。

それでテニスの選手並の運動レベルの人がついてきてくれた。ずっと京都を交通機関を使用しないで歩行した。もちろんまだ地下鉄ができるずっと前のことである。編集者さんは途中で落伍したのである。

ご本人が編集後記に落伍と書いているからそれは確かに私の歩行についてこれなかったに違いない。あれから30数年経過して今でも京都の街をそのように歩いているというのは実に不思議なことだ。

確か10ページ位のモノクロ掲載作品であったが全部縦位置なのである。それもNikonF3にPCニッコール35ミリをつけてレンズは思い切りシフトしていた。
だからそこに出現するのは昔ながらの京都の町家が京都のどんよりした冬の空の下に並んでいる広い空ということになる。

ラビットと言うのは昭和30年代よく売れたスクーターである。そのラビットを扱っているモーターズ、つまり言い換えればラピッドモーターズを撮影した。

その時の記憶が私の80年代の京都の中核をなす視神経の1部になっている。だから私が京都の西、今出川通りを北に向かって歩いていて私の視神経に共鳴するのはこういう光景なのである。
ラビットスクーターはすでに過去のものとなって今ならそのオリジナルのベスパである。
実際ベスパは京都の街によく似合う。1,960年代のローマに行っているといってもよい。そこには古い都であるという共通性があるからそうなるのであろう。
しかもその隣が私の好きな銃砲火薬店なのだ。ローマの街等を徘徊していて私が歩みを止めるのはこの手の猟銃拳銃を扱っている店なのである。
だからベスパと銃砲店が並んでいるというのは極めてヨーロッパ的な印象がある。

2016年3月12日 (土)

再録 マンハッタン2011 03 11

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犬Yに到着する。日本は大地震。

犬Yというのは、6年前の「ツアイス紀行」でも書いたが、1983年の夏に、100年来の暑さというのでSOHOの犬がYの字になって寝ていたので、それから犬Yになった。

6年ぶりのマンハッタンだが、あまり変わっているように見えないのは、到着が木曜の雨の夕刻であるせいだ。

安ホテルに入って、ああ犬Yだなと思うのは、例の大統領の使うような電話機と、デイランシーストリートあたりで売ってそうな、安ピカもののスタンド。
それに、部屋の窓を閉めれきれずに、間で挟んである、クーラーである。
こういう室内だけ見ていると、なんだ、1983年とちっとも変わっていないじゃないかと思う。だから午後のウオールストリートでまだツインタワーの碧い陰の中を歩行できるような気がしている。

東京から犬Yに来て困るのは、一日が24時間プラス14時間で合計36時間になってしまうことだ。それで6年前もブログの日付が一日ずれてしまった。

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ここまで書いてツイッターを見たら、BMW野々宮の大地震の第一報あり。佃の家人にスカイプで電話。あたしの大ガラスの部屋のカメラやプレートが落下。40階建てのマンションのエレベーターは休止中。

携帯はなかなかつながらないが、スカイプは大丈夫のようだ。

被害が出ているのが気になる。以前の新潟の大地震の時はベルリンに居たのだった。家人の話では佃に20余年居るがこれだけの部屋の揺れは未経験とのこと。震度5強だからさもあるべし。

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2016年3月11日 (金)

どこまでがきゃうとか?7日目 西陣京極

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京都にはすでに半世紀以上通っているわけであるが、やはり最初に歩き回った街が心に残っていて、そこを徘徊することになる。
これは人間の性格と似ていてなかなか変える事はできない。
旧友が西陣にいて今もそこに住んでいるがこれが典型的な町家づくりである。
そこに泊めてもらって界隈を歩き回ったというのもその背景にはある。

やはり上七軒あたりから東にずっと歩いて西陣京極あたりが面白い。
うらぶれた同性愛の映画を上映している映画館があったりして少年愛の美学が噴出しているのである。

もちろん京都であるから普通の生活がそこに隣接して存在する。食品店に卵が籾殻の中に埋まってきれいに配置されている。その卵の値段なのだが11円、12、13、14円と言うように4クラスが1円ずつ値段が高くなっている。
ここら辺に京都人の経済観念がにじみ出ていて面白いなと思った。
西陣京極への道順を以前交番で聞いたらお巡りさんがちゃんとその地区の手作りの案内をくれたりしたものであった。
今は面影もない。

京都のランドマークはこのような西洋建築である。今は市バスが走っているがこれがちんちん電車が走っているのならば典型的な京都の都大路になるわけだ。これは建物が傾いているわけではない。私が意図的に構図を少し傾けているのである。そこにダイナミズムが発生する。このわずかに地平線を傾けると言うテクニックは東松照明さんから教わったものだ。

2016年3月10日 (木)

どこまでがきゃうとか?六日目 元アルマーニ会場のお客様

先週の京都のトークショーでの会場にはまったくびっくりした。巨大なファッションビルのパテイオからエスカレーターで上に上った2階のどんつきが写真展会場なのである。アルマーニがいたところだと言うが私はミラノの本店でアルマーニと大喧嘩をしたことがある。
それは馬鹿な話なのであるが建物の反対側からかなり距離を置いて写真を撮ったのだ。

店員さんがすごい剣幕で飛び出してきた。写真を撮るなと言うのである。思うに今はそういう事はないと思うがパリやミラノの真夜中に新作が登場したショーウインドーとる日本人カメラマンがいたそうだ。それをアルバムにして日本のアパレルさんに資料として高く売るのである。
だから守るあちら側も非常に神経質になっていてウィンドウとるなと言うのである。しかしこれは知的財産権とは言いながら非常にばかげたものだと思う。ウィンドウと言うのはパブリックに公開されるものであるからだ。

そんなに撮られるのが嫌だったらウィンドウに出さないで金庫にしまっておきなさいと。そういう変な認識がそのまま延長してこの国などは肖像権をやったら路上で振り回す連中がいる。困ったものである。

それとは全く無関係にアルマーニの遺跡は素晴らしいところだと思った。こういう言い方も愚かながら、日本の真面目にやっているインデイ系のギャラリーと言うのは大体雑居ビルの2階の狭いところにあったりするものである。それはそれで精神が込められていて大歓迎である。しかし巨大な商業施設のゆとりのある空間で見る写真もまた面白い。

来場してくださったお客様は予想をはるかに超えていた。木戸銭をいただいてもきてくださるので実にありがたいと思う。
私のこのブログの年代構成と言うのは実は20代から40代まで約90%で残りの10パーセントが10代と50代+ なのだ。
参加してくださったお客様の構成もほぼ同じであった。男女比率は男性3に対して女性1なのである。この状況も大体反映しているのではないかと思う。
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2016年3月 9日 (水)

どこまでがきゃうとか?5日目

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京都の目抜き通りの新風館は15年前にできた大型大規模小売店である。
3月末に全部を閉店してその後に高級ホテルが建設されるそうだ。

建設が決まったのはおそらくその方がお金になるということには間違いがなかろう。女子供相手の商売よりもオリンピック前に京都に来る観光客で一儲けしようと言う考えがあるかもしれない。

4階建ての店舗のエントランスから入って左側の2階の1番広いスペースがアルマーニである。いやアルマーニであったと言うべきで今店舗は撤退して空きスペースになっている。そこを関係者が借りて期間限定で写真のセンターを開催しているのである。

それでこの前の日曜日に私がそこで話をさせてもらって、満員御礼でさらに佃日記もたくさん買っていただいた。まことありがたい次第である。

店の奥にフィッティングルームがある。
とゆうか試着室である。本当のプロのモデルさんの試着室というのはけして立派なものではなくてありあわせの場所を仕切った安鏡があるのみである。

こちらはアマチュアのお客様から高いお金をいただけるのであるからなかなかよくできている。それでちょっとそこに入って今は倉庫になっているがも写真を撮ったのがこれだ。

照明はトップライトで割と強烈な光を使っている。つまり洋服のエッジがはっきり浮き立つようなライトのようである。
そして鏡はこの作例を見ると分かるが、68歳のジジイの体重80キロに近いのがうつっても、それなりのうぬぼれ鏡なのである。
きゃうとあるまーに商魂恐るべし。

2016年3月 7日 (月)

どこまでが きゃうと か? 4日目

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京都の新風館のセイリーさんとのトークは爆笑の連続であった。セイリーさんは全体の進行の手配がうまいからそれでもちゃんとフイルムカメラのこれからの進む方向を指し示していて、うまい構成作家だと思った。気鋭のギャラリストとか消ユニークな写ルンですを屋台で売るベンダーさんなどがいて、実に幅広い人脈なのである。何かとっ拍子もない面白いものが出てきそうだ。大隈書店さんも飛び入りで参加して真面目な話をしてくれたのがとてもよかった。私の佃日記も結構たくさん売れたので感謝。

予定では90分だたのが2時間以上のロングになってしまってあたりが薄暗くなってきた。皆さんと別れて私は北西に進路をとった。日大の写真学科時代の旧友に会うためである。バスの路線がよくわからないのと電車乗り継ぎがめんどくさいのでとりあえず歩いてゆくことにした。

まだ3月のはじめであるから暗くなどが早い。風景がフェードアウトして色温度がどんどん上がって街中のライトが輝きを増してくる。LEDが輝きを増してくるのでは面白くない。やはりタングステンランプだと思いたいのである。

せんぼん通りとか大宮通、堀川通りに出てしまうと交通渋滞で道が広いし面白くないからわざと南北に走る狭い通りを歩いた。

こういう夕方の明るさが変わっていく瞬間というのは実にドラマチックなものである。暗かった床屋さんの照明された店内がこうこうと光るようになって、それを取り巻いている町家の存在はどんどん闇の中におち込んでいく。
その床屋さんのロケーションが角地であるというのもドラマチックでよかった。正岡子規の墨汁一滴だったと思うが、江戸時代の日本画家の描いた1連のシリーズを正岡子規は筆に乗せて説明している。その中で記憶に残っているのは谷川の端の側に立っている小さな粗末な小屋の描写である。それが髪結いなのであっキハダブキの屋根から、店の内部からそこでヒゲを当たっているひげ武者の細かいデテイルまでがよく描かれている。
その実際の絵をを見ていないのであるが正岡子規の描写でまさに切り取るように光景が浮かんでくる。私がこのショットを撮ったのは0.5秒位であるがこういうのを子規先生に文章で説明してもらったらまた面白いだろう。単なる思いつきのショットの中に実は大変な量のデータが含まれているということだ。

どこまでが きゃうと か? 3日目

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京都の街は長年歩いているが地図を使ったことはない。地紋航法、つまり記憶にたどって歩いているのだ。それでサンテグジュペリと同じでナイル川を超えたのかと勘違いしていたらまだその手前でリビアの砂漠に墜落したりすることもある。それはそれで面白い。

日本路地裏学会会長のMomokiさんが仕事で京都に住んでいた当時彼女を伴って京都の大徘徊をしたことがあった。このブログの数年前の項目にそれがあるはずだが面倒なので探すことはしない。お暇な方は探してください。その時は初夏の非常に暑い日があって鴨川と高瀬川の2つで蛇が泳いでいるのを見て非常に珍しかった。暑い日には蛇も泳ぐのかと思った。

その時にこの力餅食堂で何か食べたのである。その場所は判然としないがなんとなく歩いていたらその食堂に到着してしまった。祇園の奥、六波羅の手前。
暖簾をよく見ると加藤商店と言うのである。その食堂のシンボルが極めてドイツ的で面白かった。ドイツのウィークデーのシンボルと言うのは時刻表などを見るとわかるが、ハンマーがぶっちがいになっているやつである。日本のこの場合は餅つきの杵をシンボル化しているのであるが、私から見るとどうしてもハンマーがクロスしてるように見えてしまう。その上に書かれているカタカナのカと言う文字かと思ったらそうではなくてこれは力、ちから、という文字のようである。画数が同じだからどちらでも構わない。

お客さんは京都観光の女子連中と言うのではなくて地元の人々である。だから注文が極めて京都的で良い。きつねうどんを頼んでかやくご飯を中を頼んだのだが途中で気が変わってかやくご飯は大に変更してもらうなどはいい感じだ。要するに生活者のリアリティがそこに出ているのである。

大昔まだ京都に市電が走っている当時このような食堂は街の中にたくさんあった。そういう中で1番しょぼい寂れた食堂を狙って食事をしていたことがあった。
先客の老夫婦がキツネうどんにはご飯がついているのかいないかを店の人に質問をしていた。その様子が一生の一大事と言う感じだのである。これも実に京都だなと思った。

加藤商会では私はビールの小瓶を頼んで親子丼を食べた。その親子丼の味が典型的な京都の丼ものの味でよかった。さらに痛快なのは香の物が小さなお皿で量が少なくて味が良くて京都のエッセンスなのである。

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2016年3月 6日 (日)

どこまでがきゃうとか? 二日目

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きゃうと滞在2日目。
9時前に四条大宮のホテルを出てすぐの角にある嵐山電鉄の電車に乗って終点まで行こうと思ったら、これが京都を散策する女子連が満員で私などは乗ることができない。

方向転換して千本通りをひたすら北に向かう。上七軒まで来る。今出川通りを東に向かう。本西願寺通りを東に向かう。
京都御所まで来て中に入り北から南にける。玉砂利は非常に歩きにくいので閉口する。

御所の通りの反対側にあった古道具屋はまだあるかなと思って行ってみたら店はそのままに残っていたので感激した。ただし閉店していてウィンドウには白い布がかけてある。

日大の大学生の頃に京都の友人家に新幹線で月一回ほど通っていたことがあった。大学生のくせに金があったものである。

京都ぶらぶらしていて1番印象に残ったのはその御所の前の通りの古道具屋、それは店は北に向いているのであるが、そのウィンドウの真ん中にキャノンのレンジファインダーのラピッドワインダー付きカメラつまり4 SBに明るいセレナーレンズf1.5のついたのが飾ってあった。素晴らしいなと思って見とれていた。同じ組み合わせは後に買ったわけであるが、あの時御所の向かで見たキャノンのボデーの美しさは忘れられない。

つまり自然光で北側に開いた窓で照明される光学機械と言うのはその美しさが際立つのである。
プラハに長年住んだわけであるが、プラハのアトリエは窓が北側に開いた、それも天窓であった。天宮から降り注ぐ自然光の美しさに感激した四半世紀だった。

赤かぶ検事で有名な和久俊三先生と対談したときに、大昔まだ駆け出しの弁護士であったときにコニカのレンジファインダーカメラをその店で買ったと言うようなお話をお聞きした。時代考証は会うわけである。

寺町通りを南下して鴨川を超えて八坂神社のほうにいった。その辺をうろうろして五條楽園の辺りを撮影し打ち合わせのために京都写真会館に午後3時に入った。

トータルで11時間ほどの京都大徘徊だった。

2016年3月 5日 (土)

どこまでがきゃうとか?初日

数年ぶりに京都に来た。きゃうと新風館で日曜にセイリーさんのナビで開催の「今さらチョートク」のトークショー出演である。

確かこの前京都に来たのは3年前の夏であってその時は思いついて大阪のホテルから阪急だか京阪に寄ってきたのである。駅の改札を出てあまりにも高温多湿で天気が悪く光が悪いのでそのまままた電車に乗って大阪に戻ってほっとした。ライカのお茶やはんなど滅相もない。

私は映画の大監督ではないが大写真家であるから自分のイメージに合わない京都はとりたくないというのでそのまま踵を返したのである。最高のわがままの贅沢ですね。

この10年近く京都に行くのはいつも日航機である。ファーストクラスで森伊蔵を何杯飲めるかのかけにも飽きたし、クラスJは千円高いだけなので出張族に買い占められ、で普通席できた。隣の女子の2人で大学の3年生で就活の話をいろいろしているので非常に参考になる。あたしも就活の専門家になれる位の知識が吸収できた。
着陸直前に女の子がバス代は1,310円だよねというので彼女たちが伊丹から高速バスで京都に行くことが判明した。

いつも不思議に思うのは伊丹の空港の荷物のピックアップに行くところのエスカレーターと言うのはあれは東京の続きだということである。関西は右側通行だがそこだけが左側だ。どうやら京都や大阪の新幹線のエスカレーターも同じルールである。東京がそこまで引力の腕を伸ばしているのだ。不気味ですね。

私が荷物をピックアップして高速バスの伊丹空港の乗り場に来たら隣の席に座っていたその女子の2人連れがバスを待っていた。それで相変わらず就活の話である。飛行機の中ずっと就活の話を浴びせられてそれからまた就活の話を1時間講座を受けるのは嫌なので彼女らが私が1番離れて聞こえない席に座った。

すぐ後にバスを待ってたっていたおばはんの携帯の会話が面白かった。要するに内容要約すれば、おばあちゃんからきつく言われているのだが、飛行機は家族ではいちどに乗らない。飛行機が落ちると別荘の相続のことで揉めるからと言うその話を真面目にやっている。何か大相撲のロンドン場所のような感じがして面白かった。大資産家はお笑いタレントよりおもろい。

それで きゃうと さんパック四日の始まり。

京都8条口にバスが到着したらこれがひどい有様である。私の好きな乱雑な工事風景なのであるが、それを超えるほどの乱雑さで気持ちが悪くなった。オリンピックか何か知らないがこれでは外国人に恥ずかしい。地下鉄と市電を乗り継いで四条大宮のあたりの安ホテルに。

目の前に嵐電というのが走っている。
プラハでこないだ宿泊した部屋がやはり五階であって目の前にプラハの市電が走っていた。だからプラハのような気分であると書こうと思ったが、路面電車以外は完全に東洋の神秘の風景である。これではまとめようがない。

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2016年3月 4日 (金)

日の出町の日の出

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豊島区の東池袋界隈は以前は日出町と言って都電荒川線に並行したなかなか賑わった買い物通りであった。
東京電力の大昔の広告で「僕は3丁目の電柱です」と言う電信柱をテーマにしたコマーシャルがあってそれはなかなか良かった。
それが今ではすっかり寂れてしまって古い商店は小さなマンションになったり,シャッター街だったりしている。実に寂しい次第である。

私が昔の日出町商店街に行くのはその真ん中あたりに例の「名もなきコロッケ屋さん」があるからだ。先日は片道だけ歩いてそこに行ってみた。大手町に出てお堀の東側を通り飯田橋から大塚に抜けるのである。

地下鉄の有楽町線だとあっという間に着いてしまうけ、窓の外は真っ暗で何も見えないからできればこのように徒歩で行った方が良いのである。でも歳が歳だから帰りは疲労するのでちゃんと公共交通機関を使って佃に帰る。

その「名もなきコロッケ屋さん」のすぐ近くに日ノ出町の日の出をテーマにした小さな公園がある。まるでラスベガスにでもありそうなキッチュな公園である。

セールスマンの人などがここでコーヒーを持って休憩などをしているとその背景に巨大な日の出のシンボルがあるから何か青春ドラマ映画の冒頭の画面のように思えてくる。
界隈には個性的な小さな公園がたくさんある。その理由はよくわからないがおそらく小さな個人の家がそのまま公園の敷地に使用されたのであろう。

その中のいくつかを上げればまるでスイスの山岳地帯を真似たようなエーデルワイスの如き植物を植えたアルプス的公園とか、もうもう広場と言って巨大なホルスタインが小さな公園を占拠しているのもある。

この界隈はもともと非常にたて込んで地域であるから道に迷っているといきなりそういう公園が登場するのは面白い。でも私の場合この地域を観察し尽くしてしまったのでこの角を曲がると何があるなと言うのが既にわかっている。それがどうも面白くない。

2016年3月 3日 (木)

エデンの園

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ヨーロッパには存在しなくて日本に存在する面白いものがある。
それは街路樹の根元に地元の人が作ったミニチュアガーデンのようなものを指す。
地元民がそれぞれの個人的な楽しみとそれぞれの人が小さな花を植えたりするのは都市計画のパブリックなものとは完全に方向が違うのだ。

だから整然と並んだ街路樹にはそれの個性というのは全く感じられないが、その根本のせいぜい50センチ× 50センチ位の小さなスペースに地元の人が作ったその世界と言うのは見ていて面白い。

他の言い方をするとそこに個人が出ていると言うよりもそれは反国家的な存在なのである。
無名の個人が制作したアナーキーなガーデンの特徴はそのエッジが白い柵で区切られているということにある。この白いサクから内は俺のシマだからはいるなというわけだ。

今はどうなっているか知らないが、60年代70年代の日本にあるアメリカ軍の基地というものはなかなかオシャレな存在でその外側は白いペンキ塗りの柵で囲まれていたものだった。
言い方を変えればその先はアメリカ、自分の存在が感じられない未知の国なのだ。

だからずいぶん多く実際にアメリカを旅したのであるが、私にとってのほんもののアメリカの感じは柵で遮断された異国なのだ。

もう一つ面白いのはその囲まれた冊の中でそれが象徴的なのはその製作者の心理学的反映であると言うことだ。そして多くの場合それは病的な構成なのである。そういう精神分析があったな。

だからヨーロッパになくて日本にあるこの精神的な箱庭と言うのは私は大好きだしそこから目を離すことができない。

2016年3月 2日 (水)

NYC2011その十

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マンハッタンのデランシーストリートはアメリカの移民が最初に根付いた街の1つである。そのデランシーストリートが大好きなのであるが、街を歩行していて気がついたのはマンハッタンの安ピカ物の店の魅力それだけではないことだ。

ウィンドウのディスプレイの仕方がまさにそうである。19世紀末から20世紀初頭の巴里を記録したユジーヌ アジエの写真に非常に近い。このウィンドの前でしばし立ち止まって私は考えた。

要するにこれは染色体の問題なのではなかろうか。言い換えれば19世紀のヨーロッパのショーウインドウの基本がそのまま何のてらいもなくここに移植されているのである。

マンハッタンはパスオーバー、過越の祭りのころであって、やはりヨーロッパの古い風習と同じように街行く人は猫柳がこれから芽吹くそういう小枝を手にしている。

そして街中にはユダヤ教の教えの伝統を守った種の入っていないパンを売っている店がたくさんある。

ウイーンもユダヤ教の盛んな土地柄であったがそういうウイーンの春の記憶と言うのは別に日本のように桜の花が咲くと言うのではなくて町ゆく猫柳がパスオーバー前後の春の情景なのである。

私のような異邦人ですらユダヤ教の伝統の祭りにそこはかとない郷愁を感じたりするのはすごいことだと思う。何しろ預言者モーセがエジプトを出国した時からの伝統なのであるから、電通が考え出した節分の恵方巻等とは比べるべきもない。Image_7


2016年3月 1日 (火)

石原悦郎さん

日本のフォトギャラリーの草分けZeit Foto Salonの石原悦郎さんがなくなった。七十四歳。

木村伊兵衛先生も同じ行年だったと思うが、木村先生は1970年代の話である。当時と今とでは70代という世代に関する認識が全く異なっている。
だから石原さんが亡くなったのは何か若死であるという感覚が拭えない。

1,980年代初頭に私はウイーンから日本に戻ってきて、さてこれからどうしようと思っているときに最初に私を発見してくれたのは石原悦郎さんであった。
新しいギャラリー作ったんだが小さいんだ。三越本店の向かいの鰹節屋さんの五階です、と言うのは最初の彼からの言葉だったから思うに、別のところでお目にかかっていたのかも知れない。

8年間のヨーロッパでの行方不明の間に私があちらで何をしたと言うその存在証明のチャンスを石原さんは与えてくれた。1981年のことであるから35年前である。

あれから35年も経過してこの国でオリジナルプリントを売るというビジネスは決して成功したとは言えない。しかし石原さんがいなかったらもっとひどい状況だったことは確かだ。

その意味で石原悦郎さんは数少ないオリジナルプリントの神々の中の聖人に列聖されていいと思う。

1985年につくば万博の開催に合わせて石原さんは自力でつくば写真ミュージアムを立ち上げた。そこにも参加させてもらった。
ニューヨークの近代美術館のトートバックを真似てつくば写真美術館のトートバッグを作った。私はそれを愛用したが生地が薄くて重いカメラを入れるのには十分な強度ではなかった。
これは実に象徴的なことで30数年前に日本でオリジナルプリントの存在がどのように理解されていたかということの一種のバロメーターとして今は思い出せるのである。

石原さんとの30年のお付き合いはえにしの弱いものであって、その後私の仕事が忙しくなり次お目にかかったのは最初の私の展覧会から四半世紀経過していた。
石原さんに新しい写真を見てもらおうと思ってプリントを始めた矢先のことなので非常に残念である。

石原さんは磊落で今の世界では既に絶滅した遊び人なのである。藤田嗣治の奥さんから絵画を買うときにダレスバックに現金をいっぱい入れていったそうである。その鞄のロックの番号はいつも123だと自慢して大笑いしていた。
こういう貴重な存在の人はもう現れないと思う。

北井一夫さんとヨーロッパを取材していた時にパリの宿が取れなくて石原さんに紹介してもらった。それはカルチエラタンのいわゆる連れ込みホテルなのである。北井一夫さんとは随分ヨーロッパを旅行したが狭いダブルベッドに一緒に寝たのはこの時初めてだった。それで腰が痛くなった。

最後に石原さんにお目にかかったのは3年前、東京都写真美術館での北井一夫さんの個展で対談をした時である。急遽予定が変わってそこに石原さんも飛び入り参加して3人トークとなった。
ブレッソンの作品を買い付けに行った時に巨匠がカフェでいきなり立ち上がってスナップするその様を実際に演じてみせてくれたりした。
石原さんはそういうエンターテイメントの人でもあった。Image


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NYC2011その9

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マンハッタンのローワーイーストサイドの撮影日和は理想的には雨の日の夕方である。街の明かりがついて人が地下室から湧き出してきて勝手放題の事をしているという、ちょうどボッシュの絵画みたいな感じである。その時間帯が好きだ。

しかしマンハッタンといえどもいつも天気の悪い夕方だけというわけでは無いから、こういうからりと晴れた3月の午前中の白い光の朝ということだってある。
そういうふうに自分のイメージに合わなくても写真をとらなければならないというのが写真家として生まれた因縁ということになるであろう。

エントランスのところに青年が手持ち無沙汰で立っている。その後はドアに通じるステップであってその白い壁面に何か落書きがしてある。
青年が先ほどから興味を示しているのはどうも彼の右手のしまっている商店の中にあるトルソのようである。
青年とウィンドウの中のトルソーという全く無関係な2つの物体、ここでは物体と呼んで良いのであるがそれが相互に電磁波で共鳴しているというふうに私には見えた。そういうことを言葉で理解する前に私の右手の人差し指が勝手に動いて私の頭脳のほうに許可を求める以前にそのシーンを撮影しているのである。

ここら辺は写真の面白さであると思う。つまり私個人の貧困な想像力以前に視神経の直感的な反応の方が真実を捉えているのである。

モノクロのネガをスキャンしてみたらそのトルソーの下に女性の首が落ちていることに気がついた。そうなるとまたこの青年とトルソとその女性の首の三角関係が複雑になってくる。
メヂューサの首というところだ。

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