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2016年2月29日 (月)

NYC2011その八

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30年以上前のマンハッタンのローワーイーストサイドはなかなに危険なところであった。
実際にはそういう事はなかったが、胸のポケットに20ドル札を入れておくようにとサジェスチョンされた。ホールドアップされたらそれを渡してその場を立ち去ると言うのである。

他にポケットには必ずダイムとかクオーターをジャラジャラ入れていた。ワンブロックごとにおっちゃんが小銭をねだりに来るのである。それをさっと渡して次の交差点まで普通に歩いていくのである。

そういうマンハッタンローワーイーストサイドのしきたりに慣れてしまうと逆にアメリカの他の街に行った時に面食らう。
デトロイトのバスターミナルを歩いていたら身なりの良い紳士が私に話しかけてきた。彼の立ち話を5分ぐらい聞いていると失業で家族が病気でお金がないのでクオーターをめぐんでくれないかというのである。
こちらとしてはイントロダクションをずっと聴いて5分間相手の話に付き合うのは大変なので最初から金をくれという言ってくれればいいのだがなかなかそうはいかない。

マンハッタンの9.11以降、大戦争であったが、少なくとも路上は安全になったようだ。

それで改めて仔細にビルの看板などを見てみると面白い。やはり世界中の最大の脅威は税金と離婚とイミグレーションにあるのだ。
それを商売で売っているこういう店もあるのがローワーマンハッタンである。

2016年2月28日 (日)

NYC2011 その七

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2011年にマンハッタンでの使用レンズは二本だけだった。
使ったのは戦前のカールツアイスイエナのビオゴン3.5センチである。これはコンタックスマウントなんでアダプターでライカに使用した。
距離連動のカムがあたるので撮影は全部目測である。それで全く問題ない。約7割以上のショットをこのレンズで撮った。
二本目はライツのスーパーアングロン21ミリで明るさがf4のである。
マンハッタンの狭い通りに入るとこのレンズに交換した。その他にデジタルカメラはライカM8-2にソ連製のオリオン28ミリである。ただしこのレンズをフィルムライカに使うと言う事はなかった。それぞれのグループが専用のレンズと言うわけだ。

この人物のスナップショットはアサヒカメラに10ページほど掲載した1番最初のページである。デザイナーさんにしてみればこれはタイトルが入りやすいのである。エディトリアルの仕事を長くしているとわざと空間を開けてそこに文字が入れやすいようにしたりしたものだが、そういう古い習慣と言うのがまだ生きている。

いずれにしても撮影時にファインダーは一切覗いていない。ノーファインダーである。

ちょっと実際のテクニック的なことを紹介したのは、テクニックはそれほど重要なのではないということだ。よくそこら辺を間違える人がいる。
足で歩いて揺らめく時空間に踏み込むことそちらの方が大事なのだ。

2016年2月27日 (土)

NYC2011 その六

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マンハッタンの路上はアートであるなどとよく言われるが、これはどういう意味だろうか。
普通の人の考えだと三流映画で舞台がマンハッタンで若い男女がつまらない会話をしながらあるく、そういう街並みがおしゃれというふうに認識されているのであろう。
全く商業映画のボーイミーツガール式の会話というのは全くなっていないから見る気がしない。

私がマンハッタンの路上に魅力を感じるのはこのショットでもそうだが予期もしない人物が予想もしないものを持ってただ歩行している事にある。それがアートに思えるのだ。

例えばマンハッタンでフルクサス運動などで公衆電話からパリに通話してその公衆電話を花で飾ってありフルクサスの連中がその周りに集まって、さらにサルバドールダリが踊っていたりする。
こういうのはその時点で見れば大変なアートであったのであろうが、今ならiPhoneで地球上のどこにでも電話できるからこれは日常を1歩も出ることはない。

前衛芸術家といえどもその時代のバリアから外に出ることはできないのだ。私が言うのはそういう方向ではなくて意識していない人が無意識のうちにそういう行動しているところに魅力があるのだ。

男性が長い棒を持って歩いている。私はそれに惹かれてこの男性を何ブロックも追跡してたくさん写真を撮った。ただそれだけの事なのであるがそれが心に残るのだ。

例えば人間が長い棒持って歩いている。と言うのは別に驚くことでは無い。ベトナムだともっとすごくてバイクの後ろと前で何10本もの長い棒を担いでそのまま走ったりしている。
ただそれをハノイの街並で見るとそれは実用の範疇で行われていることで、建築現場に資材を運んでいるという目的を脱することができないのだ。

これをマンハッタンでみるで見ると状況はかなり変わっている。つまり言い方を変えれば日常生活を突破するアートとして認識できるような社会環境なのである。

マンハッタンの風景で面白いのは男性にしろ女性にしろそういうちょっと日常から外れた自己表現をしている人がいて、そういうのは本当のアートより強烈であるのが面白い。

マンハッタンの57丁目の信号のところで立ち話をしたボロボロの自転車に乗ってニコンをすたすき掛けにしたイケメンが、それから30年が経過してビルカニングハムであったことが分かった。
彼は写真家としても有名だがそれ以前に彼のパフォーミングが既にアートになっているのである。

5番街の中心部をバリッとしたアルマーニを着てボロボロのスニーカーを履いている男性がいた。私はその人の後をついていった。要するにこれも彼がアートとは言わないにせよ、自己表現として親指が穴から出ているスニーカーを履いているとしか思えないのである。

人と物が偶然に遭遇してそこに核分裂が起こる。これがマンハッタンの面白さだ。

2016年2月26日 (金)

NYC2011 その五

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かつてマンハッタンの新しいギャラリーの中心となったSohoのそのまた中心地のウスターストリートのh変貌には驚くばかりだ。

ウスターストリートの住人の草分けであったマンハッタン在住の日本人画家Sさんなどにここに住み始めた当時の話を聞くと非常に面白い。何しろ当時は工場地区で居住禁止あったから家から出るゴミを外に捨てることができないので何ブロックも夜中に歩いてすてに行ったのだそうである。

そのSOHOに住んでいて朝ゴミ出しに私が降りたらそこで出会ったのがロフトの1階上に住んでいたマックスコズロフであった。彼はアートフォーラム等の執筆で有名な美術評論家で80年代初頭に写真家に転向した。スイスカメラ誌の同じ号に私も作品を発表していたのでゴミ捨て場で立ち話になった。そういうとき人にはフランクになるから彼のバックグランドを色々と話してくれた。

美術評論家から写真家に転向するというのは非常に危険なことで、アメリカの写真界から袋叩きにあったそうである。そのマックスさんは最近のDVDで映画ソウルライターのトップでライターの事について語っているので懐かしく思った。
何しろウースターストリートのゴミ捨て場で立ち話をしてから30数年は経過しているのである。

ウースターをもう少し南に下るとこの通りで唯一の大木が道の脇から伸びていた。フルクサス運動のジョージマチューナスが60年代に「勝手に植えた」のである。ポリスがその苗木を撤去しろと文句を言いに来たらマチューナスはそれを受けつけなかった。それから数十年、大木になって、私がSohoに行く時のいつも訪問するランドマークとなった。

そこら辺のいきさつは映画作家ジョナスメカスが書いている。ところが残念なことにその大木は理由は不明だが伐採されてしまったのである。
そのことを悼む人々は多かった。でもその木の1部が持ち帰られてそこから若い芽が伸びてまた別の世代になったそうである。

現在のウスターストリートはこのような状況で、30年以上前も寂れた街並を懐かしく思う私にとっては、もはや歩行することが不可能である。

2016年2月25日 (木)

NYC2011 その四

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マンハッタンに住んでいた時には、チャイナタウンにはよく行った。食事をしに行くと言うのではなくて食材の買い出しに行くのである。

Sohoに住んでいた時にはまさに20分ぐらいでキャナルストリートにゆけるのである。週末のチャイナタウンは大変な混雑でほとんど歩けないぐらいだった。
アメリカは路上で人間を撮影するのに特に問題は無い。この国のように肖像権がどうこうと言う事で騒ぐ幼稚さはないのである。

ロバートフランクの仕事などを見ていると5番街にたたずむ男性にかなりクローズアップして撮影している。これはなかなか度胸のいることである。一方でウィリアムクラインのニューヨークの写真集などを見ると彼が撮影しているのはカーニバルとかフェスティバルとかパレードとか人がたくさん集まっている場所だ。群集を撮っているのである。

そういうパブリックな集まりになるとモデルになる人も気分はオープンになっているから撮影しやすいと思われる。

以前プラハに展覧会でクラインが来た時に現地でアシスタントをしたことがある。その場合もクラインはは自分の展覧会のオープニングパーティーとかレセプションとかそういう特定多数の人間が集まっているところにカメラを持ち込むのである。

当時の位クラインはライカのフイルムを使う一眼レフR6-2を持ってそれに28'ミリ広角レンズだった。
それ50年代のアメリカのカメラマンのような派手なジャケットを着てカメラバックを肩から下げているから撮影される連中は街の写真屋さんが来たと思っていた。何も世界的に有名な写真家であることを表明する必要などは全然ない。

そんなクラインのことがマンハッタンを撮影していると時折思い出された。私の場合はライカをなるべく頭の上にかざしてノーファインダーで撮影するのである。
昔の報道カメラマンは高いところから撮影するために必ず脚立持参で歩いていた。でも私は両腕をその代用にするわけだ。

2016年2月24日 (水)

NYC2011 ぞの三

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ニューヨークに行って私の考えが完全に変わったのは、ビジネスという言葉の意味である。
日本人が考えているビジネスと言うのはよく映画やテレビなどでやっている、あんまり名優ではないギャラの安い男性のモデルがスーツを着て2人出会ってそこで握手するというイメージである。実はこれがかなり強いあたしのビジネスに対するステレオタイプであった。

私のビジネスに対するイメージが激減したのはニューヨークの5番街の路上である。この人物を見ていた私は最初は何かダダイズムのパフォーマンスではないかと思った。ところがこれが衣類の販売の広告なのである。サンドイッチマンと言う職種も日本では失われてしまったので非常にクラシックな感じがして懐かしかった。

まだ肌寒いマンハッタンの5番街の3月の天気の悪い午前中に人はまばらである。そういう状況でこの広告業務の人がどれだけ客を集められるかどうかは甚だ疑問だ。

でもそこには私が今まで考えていたビジネスと言う既成のイメージを完全に払拭してくれるだけの力があった。ビジネスと言うのはスーツケースを持った若い男性が握手をするのではなくてマンハッタンの路上でホットドックを売ったり、あるいは衣料品を運んだり、そしてこのようにサンドイッチマンをやることなんだ。それで小銭を細かく稼ぐこと、それが真実のビジネスなのである。

2016年2月23日 (火)

NYC2011 その2

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東日本大震災のとき私は狂ったようにマンハッタンを歩き回った。日本のことが気になるのでそのことを頭から払拭しようとしてマンハッタンを歩行をしたというのがこの場合正確であろう。

当時は街の角にまだ1時間で仕上げる写真屋があった。いや今でもマンハッタンはトラッドだからそういうサービスがあって、こういうネオンが輝いているかもしれない。

こういう現像所はアマチュアの人が利用するものと、ずっと思っていた。その考えが完全に変わったのはニューヨークタイムスのファッションページを担当している超有名な写真家ビルカニンガムがカラーネガで撮影して現像はこういう街中の小さい店に出しているのである。彼の仕事振りを扱った映画でそのことを初めて知った。

私の駆け出しカメラマンの頃は現像所を選んだりしていたのがバカバカしく思えてきた。

それで1時間写真屋の前を通るとそこには鏡があって老東洋人が写っている。こういう場合セルフポートレートを撮影するのは自然の成り行きである。マンハッタンの3月はまだ春には程遠いという寒さである。

それで鏡に映った東洋人を細かく観察してみるとカメラはライカである。

私のマンハッタン時代は1,973年と言う大昔である。8x10で撮影したエクタクロームはフラットアイアンビルディングの脇にあるラボに出していた。モノクローム8x10はSohoのロフトのバスルームで現像するのである。


2016年2月22日 (月)

NYC 2011 その一

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2011年の3月。マンハッタンに到着したその日の夜おそくに東日本大震災が起こった。
これは思いこみなのだが、成田を離陸直後、左側の窓から最後に見た、三陸沖が異様な緑色であったのをまざまざと思います。

JFKに到着して混載のリムジンなのでマンハッタンのそれぞれのホテルを行ったり来たりして2時間ちかくかかった。それでホテルに入って下のグロッサリーにコーヒーとビールを買いに行ってシャワーを浴びた直後に野々宮から大震災の一報入ったのであった。

日本の番組をケーブルテレビで見ながらなかなか眠ることができなかった。それで朝になればカメラを持って撮影に行くのである。10数時間と言う時差がうまい具合に配分されて夜中は日本の状況をずっと見ていた。そんなことが1週間も続いたのでよく体を持ったものだと思う。撮影中にイエローキャブの看板のTokyoという文字が不安をつのらせた。

もうすでに5年前のことなのだ。
持参したカメラについて非常に面白いのは、持参したデジタルカメラがどんなモデルであったか、それをすっかり忘れていることである。

ただしライカはフイルムはM3で撮影してデジタルはM8-2で撮影した記憶はある。

ここにアップするのはその不安な三月にマンハッタンで撮影した十一本のモノクロフィルムからの抜粋である。
フイルムカメラで実際に写真を撮影したという記憶が鮮明なのは、マンハッタンのストリートで立ち止まってフィルムを巻き戻して撮影済のフィルムを左のポケットから右のポケットに移動する、その繰り返しがはっきりと記憶されているからだ。

使用したレンズは戦前のコンタックス用のビオゴン3.5cmをライカマウントアダプターに入れて使っている。このレンズのリアは大きいので連動カムのコロに当たってしまうから撮影は目測でしかできない。

でも実際に私が撮影する世界は6メーターから10メーターの間にあるから全くそれで問題がない。400のモノクロで絞りは5.6でシャッターは500分の1秒でそれも一切変更しなかった。それで現像が上がってちゃんと写っているのだから写真術は不思議なものだと思う。

2016年2月21日 (日)

金子酒店のエントランスに磨りガラス

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東京の堀切菖蒲園駅の南側にある金子酒店は東都にその名有りの有名店である。最初にここに出会ったのは有名な書肆青木書店を探して行った時であった。
駅からずっと歩いて書店が見えないので角の酒屋さんでお店の位置を聞いたのである。それによると雨が降りそうな日にはお店を開けないとのことであった。

私が最初の青木書店を訪問したのはそういう雨模様の日であったからシャッターが降りていて気がつかなかったのだ。

そのまま戻るのも残念なので金子酒店でいっぱい飲んだ。当時はメインのというか表通りに面した売り場で営業をしていてその裏の倉庫を取り払ったようなところに卓球台が置いてあった。
常連さんはすべて地元の皆さんである。

それから数年してエントランスのメインの売り場は閉鎖されて元倉庫にビールの空箱などを並べて営業するようになった。
野々宮とここに行った時に、私が持参した昔の物価の本を私が朗読して野々宮が値段を当てるいうような遊びをした。それをお店のあがりがまちでおばあさんがニコニコして聞いていたのを思い出す。

そのおばあさんがなくなってしばらくは仮の祭壇のようなものがそこに出来出ていた。それからその場所は壁に地元のバザーのような商品を並べたりもしていた。何か買った記憶もある。もちろん立ち飲み屋はそのまま営業しているのである。
日本カメラのポラロイドSX70の取材記事でここを撮影したこともあった。

それから10年以上時間が経過した日、しばらくぶりに行ったらお店にはカウンターが作られてちゃんとした居酒屋のような構造になっていた。
私はビールの空箱が積み重なっている時代の金子酒店が馴染みだった。福田和也さんとそのカンパニーご一行で来たこともある。

1週間ほど前に堀切菖蒲園まで徒歩で来たので金子酒店に行こうと思ったら満員で入れなかった。それで数日前、堀切菖蒲園を目指して歩いたときには、目的地は金子酒店であって青木書店ではなかった。
世界の人類で佃島から堀切菖蒲園までわけもなく、つまり「冒険家として」踏破したのは私が初めてではないかと思う。

いってびっくりした。エントランスに磨りガラスが貼られていたことだ。中を見通すことができないのでやたらお店の存在自身がゴージャスになってくる。
女将さんに聞いたら何でも一昨日交換したそうで、これはそういうシートがガラスの上に貼ってあるのだそうである。

2016年2月20日 (土)

ネオカタロンさん

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ネオカは大衆カメラであるが、同時にレアな頭脳のレンズを乗せた事で後世に名を残した。
ネオカを使っていると大阪のカメラコレクターズニュースにエッセイを書いていたネオカタロンさんを思い出す。もともとはお魚屋さんでそれからコレクターに転身した方である。

この人のエッセイを愛読していたのは文章、そして大阪と言う文化に深く関わっていてご本人が大阪そのものであった点だ。
さらにネオカタロンさんが良いのはお酒を飲まないことである。食い倒れの大阪というのを彷彿とさせる人生である。どこかで安くてうまい食物があるとそれをレアなカメラを発見したのと同じような感じで書いている。
安くて面白いカメラをオモカメと言うのだが、そのオモカメ分野では第一人者と私は評価している。

後には国際的な活躍をしてアメリカのスワップショーなどにも度々ネオカタロンさんは訪問しているがそこでの外人さんとの付き合いが完全にインターナショナルなのもすごいと思った。
高級なカメラとか高級なレンズを自分のペンネームにする人は多いが、ネオカとかカロンあたりを自分の雅号にするというのはレベルが高い。
だから東の都でネオカを持って歩いていると何かこの人が背後に見守っていてくれるような気分になるのも不思議である。ネオカタロンさんはカメラコレクターであるから写真は撮らなかったようだ。でもそれはそれで立派なコレクターの態度だと思う。

2016年2月19日 (金)

80年前の古いカメラで撮影をする

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1月の撮影のプラハでは、ライカM5で撮影するつもりであったが、サブカメラで戦前のコンタックスの1を持参した。
ライカの巻き上げの具合がおかしくなってしまって、これはスプールの問題なのであるが使えなくなった。それでブラックコンタックスで残りのカラーフイルムをレジデンスの窓から撮影した最初の1枚がこれである。

このコンタックスは何しろ80年以上経過しているからあちこち具合が悪い。まず高速シャッターは幕が正確に開かないので画面の上が暗くなる。
風景写真などで効果を得ることもあるがまず普通の撮影には向かない。それで100 分の1秒はちゃんとしてるのでそれだけを使うことにしている。

100年以上前の小型カメラは大体そんなものであってシャッターはバルブとインスタントの2種類しかなかった。実用はこれ充分なのである。
だからこの下のトラムのショットはゾナーの5センチf 1.5をつけてシャッターは100分の1で絞りは忘れたが、それでちゃんと写っているのだからたいしたものだ。

小型カメラはバルブとインスタントだけで充分というのは実は経験がある。1982年にメキシコシティーに旅をしたときに場末の古道具屋で買ったのがニコンS2の中古であった。これはシャッターが壊れていたと言うよりも125分の1秒しか使えないのである。
実用上問題ないのでそれで撮影をして当時のアサヒカメラに何ページか作品を掲載したこともあった。

戦前のゾナーはフレアが多くて使えないというのが一般の見方であるが、部屋でバスルームに映った自分の姿の画像をよく見るとそのフレアが逆に効果は出ているようである。
当時はこういうフレアの多いレンズしか作れなかったのであろうが、今はこういうフレアの出るレンズを作るのは大変なるかもしれない。
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2016年2月18日 (木)

ギャラリーバウハウスで森永純写真展に遊ぶ

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森永純さんの個展が4月まで神田明神隣のギャラリーバウハウスで開催されている。思うところあって佃からてくてく歩いてギャラリーに行った。

これは老人が健脚を自慢するのではなくて、ギャラリーバウハウスまで行ってその間に写真を撮影するということ、そして森永さんの仕事に触れてやる気スイッチがオンになってまた写真をとりながら帰ってくるという効果があるのだ。

森永さんは巨匠ユージン(友人)スミスの助手をつとめていたことでも有名である。スミスと森永ではその世界が完全に違うというのが非常に面白い。

スミスは当時のマグナムの主要メンバーであったから写真を通じて世界を変えようという当時のジャーナリズムの方向に乗って仕事をしていた。一方で森永さんは自分の周りの環境をこれは一体何であるのかという哲学的な視座で撮影している。だからスミスに比べると森永の仕事は自分の世界の中に哲学的に深く降りていくという感じがする。

ギャラリーに置いてあるテーブルに座って写真展会場を一望しながらゆっくりと作品を見て歩いた。
昨年の夏の私の個展の時も私はそのように自分の写真と向き合っていたのだ。だからこれは錯覚であるが自分が森永純になったような気がするのも面白い。

作品の中で深く印象に残ったのは作品16、作品17、そして作品27番である。

特に作品27番は、いわゆる「イスラエルの神の光」とでもタイトルがつけられる作品である。
午後の海に光が雲の間から降り注ぐという構図で、これはフォトジェニックで森永の作品の中では1番通俗的な構図なのである。
でもそれを超越した何者かがあって長くその作品の前で私は立ち止まっていた。

16番と17番にも別にタイトルがついていないが、私はそれに勝手に「静謐な渚にて」、そしてもう一つは「生命の海」と言うタイトルを勝手に付けてみた。

森永純の仕事は他のどの写真家の仕事にも似ていない。
それが素晴らしい。
3月になったらギャラリーバウハウスで森永さんと対談の予定がある。
これも楽しみだ。

2016年2月17日 (水)

永代橋の木

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スイスの総合雑誌「Du」はなかなかいい仕事をしていた。60年代初めのロバートフランク特集等はヨーロッパの古本屋で探して買ったものであった。
ロバートフランクは60年代初めに発表したメディアが良いのである。
なんでもそうだが写真はその写真が旬である時に味わうのが1番である。

森山大道なども旬で味わうのが1番であったが最近は古典芸能の伝承者になってしまった。
もっとも森山がデビューした当時のことを知っている人がもういないからである。

私の好きなリー フリードランダーがデビューした直後のスイスの「Du」もなかなか良かった。これは大特集ではなくて10ページほどの作品の発表なのであるが、撮影したのは冬のセントラルパークなのだ。
もともとセントラルパークという場所は写真になりにくいものであるがそれが冬であるからさらに写真になりにくい。写っているのは枯れ木と枯れ枝だ。その向こうに見えるマンハッタンのスカイスクレーパーである。

Winに住んでいた70年代の初めにこの仕事に非常に影響受けて私は目が覚めた思いがあった。
そういう視神経の遺伝子が頭の深い所に潜っていて、この間隅田川を歩いている時に永代橋で立ち止まった。
枯れ木も山の賑わいがフリードランダーの視神経を思い出させたのである。

しかもこのショットはシャッターが調整されていないブラックコンタックスで撮ったので画面の上の方が露光不足になっている。それも気にいった。

シャッター幕が調整されていないブラックコンタックスは私のノスタルジーなのである。
1,970年代半ばにプラハに行った時も同じブラックコンタックスだった。レンズはゾナーではなくてジュピター3、つまり明るさが1.5のゾナーコピーである。横位置で撮影するとシャッタムラで空がいい具合に落ちるのである。しかし縦位置だとなかなかそうはいかないから横位置専用カメラというわけだ。

2016年2月16日 (火)

オプラレックス研究会活動再開

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前の話であるが黒田慶樹さんがご婚約時代に私が銀座のスキヤカメラに行ったらそこに黒田さんがいて私に声をかけてくれた。
黒田さんはVIPであるから警備の警察官が2人ついていた。1人はカメラ屋さんの入り口にいてもう1人は黒田さんのすぐそばにいるのである。

その時黒田さんと30分ぐらい立ち話をして面白かった。警察官の人はずっと付き添っているので黒田さんの行き先に同行するわけだ。噂によるとその影響で同行の警察官の人がクラシックカメラが好きになってしまったようである。これは非常にまずい傾向だな。

その黒田さんとフランス製のライカのフォカッチャについている明るいレンズ、つまりオプラレックスと言うのであるがそれの研究会を結成した。メンバーは黒田さんと私しかいない。

だからオプラレックス研究会の総裁は黒田さんで副総裁私ということになる。

ライカ等のレンズに詳しくなるとそういう昔の明るいレンズに興味が出てくるのは当然である。黒田さんがオプラレックスはどのような描写をするレンズでしょうかと聞くので、私は以下のように答えた。
レンズというものは日進月歩ですから、オプラレックスはその時代相応の描写をします。あまり期待してはいけませんが、あなどるのもいけません。
これが回答であった。

オプラレックス研究会はそれから何の活動もせずに10年ほどの年月が経過した。
この間、ライカのシャッターが壊れたので代打でフォカッチャを使おうと思った。フォカッチャの不良在庫を調べてみたらオプラレックスを複数持っていることに気がついた。今まで1本しか持っていないと思っていたのに何か得をした気分である。

フォカッチャには私はいつも28ミリの広角レンズ近付けていないので何か世界がぐっと標準方向に広がった感じがする。

仔細に観察してみると、どうもレンジファインダの有効基線長が足りないのではないかという気がしてきた。
フォカッチャにつける標準レンズは今までオプラーと言う50ミリのf2.8/8しか使ってなかったからだ。大体路上で撮影するときにこれより明るいレンズは不要なのである。

距離計の長さが不足しても実際には目測で撮るから問題は無いのかもしれない。

2016年2月15日 (月)

日本橋白木屋の前でライカのシャッター壊れる

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ギャラリーバウハウスに行くのに日本橋を経由して神田明神まで歩いた。江戸時代を考えてみればまぁそんなのは普通の距離であろう。
江戸時代の物価を調べてみると幕末に近い頃でも今のタクシーにあたる駕籠の料金は結構高くて四谷大木戸から上野あたりまで間を頼んでも700文位したそうである。これは当時の日記に書かれている事だから間違いはなかろう。
二八蕎麦の値段が16文であるからそれから換算するといっぱいが400円と計算しても今の物価と比較するとやはりかなり高い。私は町人の老人写真師であるから歩くに限る。

日本橋の角の白木屋は今は別の名前になっているらしいがその名前は知らない。
そのお店の角に座りやすそうな椅子があったので腰かけてみた。
これがなかなか具合が良い。というのは目の前を行き来する人をスナップするには格好のカメラアングルなのである。

気温が20度もある金曜日の午後であったので私はTシャツ1枚であった。路上の外人観光客さんもTシャツ1枚である。しかし現地の人は厚いコートを着てその上にさらにマフラーまで巻いている。その姿で暖房が効きすぎのデパートメントストアに入っていくのですごいなと思った。

チベットの五体投地も凄いがこういう暑い日の午後にフル装備でデパートに入っていくというのは逆に考えると1種の我慢会、別の言い方をすればこれは信仰の力なのではなかろうか。

それで私は椅子に座って1本ほどライカM3で写真を撮った。
いきなり巻き上げもシャッターレリーズもできなくなった。
何十年もライカを使っているがこういうトラブルは大体12年から15年にいっぺん起こるようである。外国でこのトラブルにあうと困ってしまうがベースキャンプに戻ればバックアップのライカはたくさんあるから問題なしである。不動になったら修理iすればよいのである。ここら辺がデジカメと違いますね。

この日本橋の交差点の角はあるなぁということを思い出した。10数年前ライカ本社の社長コーンさんをお連れて東京の北西の労働者街にある(これは社長本人のステートメント)シャーロックホームズというお店に飲みに行った。車が必要なので野々宮を煩わせて彼は当時ジャガーに乗っていたがもちろん接待中はアルコールはいってきも飲まない。何しろ国賓なのでまず表敬訪問でアローカメラにお連れした。気分としては車からお店のエントランスまで赤絨毯をひいたのである。そこで買取名人とライカの社長が歓談するというひと幕もあった。

ライカ社の社長さんのご接待がすんで都心に戻ってくる時、コーン社長はいきなりトイレに行きたいとジャンプして日本橋の信号の角でいきなり車を飛び出した。
日本語が不自由なライカ社の社長が一体どうするのだろうと心配したら、すぐに戻ってきて、聞けばメトロの中にあるトイレに駆け込んだという。
なかなか東京慣れしている人だなと感心した。

日本橋は私にとってはジンクスとなって社長がトイレに飛び込んだりライカのシャッターが動かなくなったりするところと理解している。

2016年2月14日 (日)

名もなきコロッケ店まで歩く

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東京大徘徊である。
佃を出てあまり考えずに無意識の状態でどこに行くかを決めるのである。いきなり東池袋の名もなきコロッケ店に行こうと思いついた。

ほぼ反射的に頭の中で飛行ルートではないが歩行ルートを考えている。
経験によれば東池袋と佃を結ぶ最短距離というのは大手町からお堀端に出て九段下から飯田橋を経由して音羽通りを北に行くのが1番早い。これで約10キロである。

そのように歩行した。
お堀端に出る手前の右側にシティーバンクがあった。私はシティーバンクの長年の客であるが最近別の銀行になったのである。それでシティーバンクの本店の前を通ったらちゃんと別の銀行の名前になっていた。世の中の経済と自分の歩行がシンクロしている感じがして嬉しい。

お堀端にはアマチュアのランナーがいるので歩行には注意を要する。こちらがいきなり車線変更等をすると追突されるのである。皇居東御苑と言うのは月曜日と金曜日がお休みであるということを知った。その事情を知らない外人観光客さんが前まで行ってうろうろしている。

和気清麻呂、おっと、音声入力で壱発で変換ができて偉いな。の像の前は大規模な修復工事をやっている。こういうクラシックな銅像がロシアあたりだとスターリンとかレーニンがどんどん取り壊されてしまうのだが日本は伝統の国である。
その工事現場でこれは何か銅像の補修工事かなと思ったらそうではなくて地下鉄の工事であった。和気清麻呂さんは工事機械に挟まれてきうくつそうだった。

パレスサイドビル毎日新聞の建物の前を通る。アルフィーの坂崎さんと確かアルフィー創設20周年の豪華なプログラムの中での対談でこの建物の1階の喫茶店で話をしたことがあった。これも昔の話だ。
パレスサイドビルが建設されたとき、高層建築であるから上階から大内山が見えるからけしからんとか言う問題になったことがあった。でも今のパレスサイドのほとんどのビルはパレスサイドビルよりも何倍も高い高さである。

その先の日本武道館の手前のお堀で白鳥にあった。広い水面に一羽だけいる白鳥が私を見つけてゆっくり船をこいできた。
プラハの白鳥とはおなじみであるが日本の白鳥はお堀にいるので道の上とお堀の水面とではかなり高さにギャップがある。それで白鳥はあたしのすぐそばまで来て下の方から首をかしげて、なんだお土産はないのかと言った。何も持てないので謝ってそのまま歩行続けたら私をおいかけてくるのである。

飯田橋まで出てそのまま江戸川橋から音羽通りを北上しようかと思ったが、それではワンパターンでつまらないので方向を変えて茗荷谷の裏手に出た。

いくつかの公園を経由して新大塚の駅から裏通りを斜めに抜けて名もなきコロッケ店に到着した。見たらお店のコロッケもメンチカツもとんかつもトレーが全部空である。おやじさんに聞いたら午前中は病院に行ってきたらしい。
おかげで揚げたてを買うことができた。

2016年2月13日 (土)

犬の骨専門店

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佃の家から砂町銀座を目指して歩いた。
ナビゲーションを間違えて砂町銀座の手前で北上してしまったので結果として錦糸町についてしまった。それはそれで仕方がない。晴れた日の南北に走る通りの左側を歩きながら視線は右側の建物のファサードに注意している。

つまり通りの反対側から撮影すると言うカメラアングルなのである。これは無意識にやっていることなのだけど、1982にマンハッタンを大型カメラで撮影したときの作品を、朝日新聞の大阪版の文化欄で指摘してくれた人がいた。自分では気がつかないことなので誠に新発見であった。

太陽が傾いた通りを北上していたら黒っぽい家に大きな骨のサインが出ている。つまり犬関係のお店なのであろう。

犬が好きなのは骨であるからこれは犬の骨専門店ということになるであろうか。
実際には犬の骨ではなくて犬が好むおもちゃにする骨と言う意味だから豚の骨かもしれない。

犬の好物、おもちゃというのはこの場合重要なキーワードであって、つまりカメラ人類にとってのライカに、コンタックスと同じような存在感がこの方面に凝縮されていると見ることができるであろう。

だからこれは犬向けクラシックカメラ専門店という見方ができる。
骨に関してうるさい犬連中になると、やはり骨はドイツ製に限るとか、昔の骨のほうがよかった最近は骨の品質が落ちていると言っているかもしれない。

それで愛用の骨のが悪くなると犬の骨の専門店に持っていって、これは日本では治らないからドイツ本国に修理に出します、などと言われて高い修理代を払って、それで満足している犬もいるかもしれない。実に犬の骨は犬にとっては重要なものなのである。
それは人間のライカ愛好の比ではない。

2016年2月12日 (金)

窓からの眺め

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部屋からはこんな風景を見ている。正面の中央大橋で右手にはスカイツリーがある。
先日2月9日の夜にいつもは9時に消える中央大橋が深夜までライトアップされていた
東日本大震災が起こって一年ぐらい電力節約ということで中央大橋は消灯された。真っ暗だった。
それが1年ぐらい経過してから最低の照明で何か寄席の幽霊が出るような感じの弱い光でライトアップを始めた。
今でもその照明はかなり節約しているのである。ところが2月9日だけはフルライトではないが結構明るかった。
なぜ明るくしているのか考えた。まさか北朝鮮の人工衛星打ち上げ祝賀と言うわけでもあるまい。バレンタインデーかと思ったけどそれは来週のことである。

ようやく春節のために中国から来たお客さんを歓迎するためのライトアップではないのかなと思いついたのだが実際には不明である。

田中長徳佃日記の分厚い本にはサイン入りオリジナルプリントが添付されている。それもここから撮影したものだ。
金屏風は六曲二双のもので加賀の古い家から出たものである。
画面の左上にあるのは1973年にWinの古美術店で求めたバロック時代の像である。両腕が失われているがなかなか逸品であるらしい。

その右にある油絵はプラハのピカソと言われる有名な方の仕事である。というのは冗談でアトリエをたたむときにゴミ捨て場にあったものなのだ。
名画と言うものは有名な作品が人知れずに捨てられているというのは普通の状況であるからこれも名画には違いない。

2016年2月11日 (木)

江東ゼロメートル地帯

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このタイトルの言い方がもう完全に過去の言葉になってしまって、今この言葉を聞いてピンと来る人は還暦から上の世代に違いない。
少年時代私の住んでいたところが東京は文京区音羽であって、当時は風の便りというかこれはラジオとかでは報道しないのであるが、要するに人の噂である。台風の時に水が出て大河が浸水したという話はそれこそインターネットよりも早く隅田川の東から文京区まで伝わってきたのである。

当時のキーワードは床上浸水、床下浸水というものでどちらにしても大変なことであった。

今でも江東区あたりを徘徊しているといわゆる天井川、つまり橋に着くまでに急な坂を上って橋の上が1番見晴らしが良いという状況はなぜか懐かしい。

東陽町の辺りを徘徊していたら公園にきれいなオベリスクがある。オベリスクには違いないがそれは過去の水害の時の最高の水位を示したモニュメントなのである。

似たようなモニュメントはプラハにもあってモルダウ川のすぐ脇に立っている建物の壁面に300年前とか500年前の水位が刻んである。
それとは比較にならないかもしれないが、東陽町の公園で見たこの大水の時の水位を記録したものとはなかなか心に染みたのであった。

モニュメントの1番上の部分、私の目ではよく確認できない遠いところに赤い文字で何やら書いてあるのが気がついた。撮影して後で拡大してみたら今の護岸工事の堤防の高さなのである。
だからどのような台風、高潮、そして津波が来てもここは大丈夫であるということらしい。それでちょっと安心した。

2016年2月10日 (水)

土砂降りの雨の夕刻

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まだインターネットもなくて、フイルムカメラだけの時代に、観光写真を写真の代理店に売って仕事をするいわゆるエージェントカメラマンさんという職業があった。
私もウイーンに住んでいた当時はそういう皆さんとお付き合いがあって、エージェントカメラマンは儲かるから田中さんもどうですかと勧められたのだがなかなかその気にならなかった。

1,973年にヨーロッパに行った時に生活の足しにしようと思って世界文化フォトというエージェントと契約していたのだが、結局1枚も写真は送らなかった。

それも当然であって、当時のカメラ雑誌「カメラ毎日」などに作品を掲載しているのではなかなか頭を切り替えて万人が美しいと感じるような写真を撮るのは無理と言うものである。

一般の写真を見る人の価値からするときれいな写真と言うのは観光名所であって快晴の昼間、白い雲に青い空なのである。写真のポピュリズムである。
ところが私はそういう体験を得ているので逆に天気の悪い日は撮影日和ということになってしまう。
まだ東京の墨田区にスカイツリーが立つ20年も以前のこと、京島3丁目あたりが非常に気にいってマミヤの中判カメラで三脚に乗せて撮影して歩いていたことがあった。
路地裏にある街灯は裸電球であった時代である。これはなかなか風情があって良いのであるが町内会の会長などやる気満々だとこれを蛍光灯に変えてしまう。それで痴漢撃退町内安全になったと自己満足するわけである。

それは時代の移り変わりで仕方がない。最近はその街灯がLEDにかえられてしまって風情等はもはやどこにも求められなくなってしまった。
これは1週間ほど前に板橋の行きつけの飲み屋に行く時に時間が早いので路地裏を徘徊したときのショットである。蛍光灯であるのはもう仕方がないとしてこういう雨が激しい日の夕方というのはなかなか写真になるのです。

2016年2月 9日 (火)

ひかりとかげ

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今年はプラハの写真展を都内の二箇所のギャラリーで開催するのでそれで1月に撮影に行ったのである。
四半世紀プラハに住んで一昨年の11月にビロード革命から四半世紀をチェコ共和国は祝ったのでもうそこら辺でプラハに行くのはやめようと思った。

14ヶ月ぶりに行ってみたらプラハはプラハでなかなか面白い。全く性懲りもないという次第だ。

私の場合グローバルな視点が裏返しになっているようなところがあって、プラハから極東に戻ってきたらこれはこれで非常に面白いという感じなのである。

プラハではカメラに色気を出して80年前のブラックコンタックスを持参したら具合が悪くなり、その代打として最新型のキエフを手に入れたらそれも巻き上げの具合が悪くなってまさにふんだりけったりの状況であった。

それでもモノクロフィルム17本が上がってきてよく見たらそれなりに写っているので一安心した。作品の内容と撮影した本数と言うのは実は全く関係がないということをこの30年来感じているのだ。2011年の東日本大震災の初日からマンハッタンで撮影を開始したのだがその時はフィルム本数は11本であった。
沢木耕太郎さんと対談をしているときに沢木さんはロバートキャパがスペイン戦に持参したフィルムはたった六本であったということを教えてくれた。
だから本数が少ないほうがいいというのはキャパに失礼であるが、本数の少ない撮影はそれなりにその中に真実を含んでいる。

佃から歩き出して砂町銀座に行く予定がナビゲーションを間違えたので錦糸町に着いてしまった。こういう事は別に珍しいことではなかろう。
私の場合は本格的路上生活者なので、適当な公園のベンチでiPhoneで原稿を書いたりする。この時も原稿書きをしてさてと思って立ち上がったら冬の低い日差しに照らされたニコンが存在感があるのでこれを撮影した。

出来損ないのポールデルヴォーのような画像になってしまった。

2016年2月 8日 (月)

お知らせボード

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🌃ギャラリーバウハウス
ギャラリー・トーク開催決定!!

森永純×田中長徳(写真家)写真家 田中長徳氏をゲストにお迎えし、ギャラリー・トークを行います。
お二人の出会いから今日に至る経緯、長年にわたり真摯に写真と向き合ってきた二人の写真家の軌跡と、その写真人生について語っていただきます。

日  時 / 2016年3月12日(土) 19:00~ (当日は18:00閉廊、18:30より受付開始)
参加費 / 2000円

フルストレッチリモ

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モスクワが西側の国になった時、アメリカの三流映画の悪い影響なのであろうか、モスクワの街はアメリカ製のフルストレッチのリムジンだらけになった。

プラハも西側の国になったのでそれを真似をしている。
この白いリムジンは数年前からプラハの旧市街に止まっているのを見るようになった。要するにキャバレーの広告なのである。
東ドイツの乗用車の段ボールでできていると褒められているトラバントがレストランの広告を載せてヴァーツラフ広場に長いこと止まっていたが、これがいい感じだった。
それとチェコ製の乗用車シュコダの昔のモデルのスポーツタイプがやはりレストランの看板をしょっている奴があってこれもほほえましかった。

こういうのは駐車禁止がゆるいプラハだからできる技であるが、これだけ長いリムジンになると観光客の歩行障害になりそうである。

リムジンが1番似合うのはマンハッタンのバッテリーパックからSOHOだろう。
いちど仕事も必要で黒いストレッチリモを雇ったことがあった。
数人のクルーでマンハッタンからブルックリンそしてクインズを行ったり来たりしたのである。
外見からするとすごい長い車だが中は意外と狭くて居心地が良いものでは無い。
リムジンにはサンルーフがついているのでそこから体を乗り出して撮影をしようと思ったらシエーファーにやめろと言われた。
法令が変わって走行中にサンルーフから体を出す事は違法なのだそうである。

ブルックリンの無人地帯の工場街をリムジンから降りて撮影した。その百フィート後を私が雇ったリムジンが私の歩行と同じ速度でゆるゆると追尾してくるのである。
あたしのチャーターした車だから別になんと無いが、こういう無人の工場地帯で撮影をしていて後からそういう車、知らない車がついてきたらこれはパニックだろう。
撮影は無事終わって確か5時間ほどのチャーター代で300ドルほどだった。なかなか便利な乗り物だと思った。
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2016年2月 7日 (日)

黄昏の工場街の看板が好き

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東京徘徊しているときに、私の興味は周辺部の工場や会社の看板に向けられている。
好きなのは白い普通の地に黒いペンキで描かれた会社や工場の看板である。

これが時が経ってくると文字が薄くなってきて白に近くなってくる。すなわち看板の文字が読みにくくなるのだ。
昭和の時代の看板と言うものは大抵白地に黒い文字で書かれていたものである。今ではカラフルな看板が多いので逆にそういうシンプルなものは印象が深い。
しかもそれが退色してくると街を徘徊していて一瞬でその名称が読めないから思わず立ち止まって見返してしまう。

見返り美人というのがあったが、これは見返り看板というわけだ。

私などうまくフェードアウトした看板は読めないのだけれども、中にはそういう薄い看板を読めるような視神経の天才もいる。これはすごいことだと思う。

週末も雨の日の夕方に、板橋区の蓮沼の裏通りで見た工場の看板である。
さてうまく読めますか?
私にはうまく読めない。
写真に撮影して細かいところを解析して無理なのである。

こういう看板はどうしてできるのか。管理者がそういう貫禄の看板がすきなのであろうか。
要するにカメラの貫禄と同じような気がする。

2016年2月 6日 (土)

蝶ネクタイ

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今では私の服装はホームレスクラスマイナスと言われているが、1,970年代にはなかなかおしゃれなおやじであったのだ。
別にお金をかけたと言うわけではなく行きつけの古道具屋に私と似た体型の親父のワードローブ一式があったのでそれをまとめて買ったのである。
体型は私にぴったりだった。それから40年以上経過してその服がきれるのだから私の体型はちょっと多めだが変わっていないということになる。

ワードローブは高級なものではなくウイーンのよく知られた日本で言えば洋服の青山のようなところの商品だった。
しかしこれは半世紀以上前の話なので、その仕立てはなかなか上等なのである。

1980年に東京に戻ってきてから、当時はまだ社交性があったので、あっちこっちのレセプションなどに出かけていた。当時の親しい友人はなくなった写真家の有田泰而さんであった。
六本木のアクシスギャラリーでの誰かの展覧会等のレセプションの日に夕方有田さんから電話がかかってくる。
「ちょートクさん、、、今日はボータイして行く?」
なのである。

それでしめしあわせて蝶ネクタイ出てかけると混雑した会場で蝶ネクタイは有田さんと私の2人だけということになる。
蝶ネクタイに関して日本が間違っているのは、何かお笑い芸人さんとかバーテンダーさんの衣装と言う感じなのである。ウイーンの人はおしゃれだから蝶ネクタイはよく使っていた。
カフェハベルカの店主、レオポルドなどは蝶ネクタイがトレードマークだった。

この間の話だが和田濡れ板写真館でモデルさんで登場した浜ちゃんがやはり蝶ネクタイなのである。聞けばおじいさんのおしゃれな人で帽子に蝶ネクタイにステッキというスタイルであったらしい。
でもこれは三代前の時代を考えてみれば別におしゃれでもなんでもなくて普通な紳士の身だしなみであったということになるのかな。

2016年2月 5日 (金)

バンタムスパシャルみたいなネオカ

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頭脳レンズ、Zunowレンズに関しては今さらもう書くことはないが、ネオカに装着したこのレンズの話をちょっと書いておきたい。

頭脳レンズではいろいろな伝説神話が一人歩きしているようであるが、要するにその当時の普通の収差の補正されてないレンズというのが正しい評価なのだろう。

大衆的なレンジファインダー、レンズシャッタのネオカカメラにこの伝説のレンズが装着されたと言うのは今になってみるとなかなかゴシップで面白いが、当時は適当なレンズがないからあわててつけたということになるのかもしれない。

ゼンザブロニカやアイレスにニッコールレンズがついた方がブランドとしては当時はまだ遥かに上であったように思われる。

頭脳レンズ付きネオカカメラは長年使っているが結局飽きてしまう。ところが最近手に入れたこの個体にははまっているのである。
なぜか?

レンズのカバーリングがないために何か非常にプロトタイプ的な存在感を際立たせているからだ。
頭の中でこれに似たスタイリングのレンズを思い出してみたらコダックのバンタムスペシャルなのである。
エクターの47ミリ、やはり伝説のレンズが付いているが、このいかにもとってつけたと言うような不具合な感じがプロトタイプっぽくてよいのだ。

それでせっかく手に入れたので撮影に使おうと思って持ち歩いている。やはり頭脳使うカメラマンは開放でそのにじみとかアウトフォーカスのぐるぐるボケコッコーした感じを指摘して、自分こそレンズグルメであるということを外に表明するというのが正しいこのレンズの使い方のようである。

2016年2月 4日 (木)

恵方巻の怪

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節分である。立春である。
子供の頃は音羽の家で豆を撒いたものであった。子供だから一升枡が非常に大きく感じられた。そこに大豆が上まで入っていたのではないがそれでも大変な量の豆を撒いたものである。

それと自分の歳の数だけ豆を食べると言うのもあったな。食料不足の昭和20年代であるから可能であって今では誰も大豆を大量に食べようなると思わない。

恵方巻に関して私は不気味に思っている1人である。正岡子規が古いエッセイでこれは明治の中期の話であるが、節分に豆をまくことも今は廃れたとか言っている。だから豆をまくと言う行事そのものは明治の頃には既に過去のことになっていたようである。それが今では豆まきから転じて恵方巻の食品ファシズムの勢いである。不気味だと思う。

マンハッタンとかウイーンとか早春の町を歩いているとパスオーバーの為にタネの入っていない四角いパンが大きな箱に詰められて売っている。もう何十年も見慣れた風景であるが、これはこれから春だという感じがする。
要するに歴史と宗教的なバックグラウンドに配置されてるからそういう食べ物の文化を感じるのである。

恵方巻に関して私が記憶しているのはこの四半世紀以前にはなかった。だから今思うに、恵方巻はスーパーが一晩で大儲けをするため手段というようにしか思えない。

今日は東京の東の部分を大徘徊した。最初は青砥から歩き出して堀切菖蒲園に向かった。それから
千住経由して西新井のほうに行った。どちらも駅のエントランスで恵方巻の大販売をやっている。それが何か恵方巻を買わないと非国民になるというような圧迫感を感じるのである。日本も怖いことになってくると思う。

2016年2月 3日 (水)

黄昏のビルの赤いネオン

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マンハッタンの夜に強いアルコールを探してローわ〜イーストサイドを徘徊したことがあった。
赤いネオンと言うのはこういう場合ほっとするものである。
Sohoに暮らしていた時も、すぐ近くにある昔ながらのカフェのレオンは真っ赤であった。それを見るとそこに入って何か飲みたいと言うよりもマンハッタンの夕暮れの街が安定しているという点に嬉しさを感じるのである。

先日の雨の日の夕方に板橋の蓮沼界隈を徘徊していた。文化財のような古い長屋門があったり、その向かいに岩山のようなお寺があったりする。

中山道に出る角に細長いビルがあってその屋上に赤いネオンが輝いているのが好きな光景である。しかもこの場合は雨の日の夕方と言うのがベストなシュチエーションである。

デジタルカメラにしてもiPhoneにしてもそうだが撮影すると全く普通の明るい光景に写ってしまうのは問題だ。現場で補正するのはめんどくさいので、後で実際に見た感じにちょっと修正するのである。
その時は古いコンタックスにゾナー5センチのF1-5も持っていた。その明るさ、というよりも暗さは絞りは開放で100分の1をきればちゃんと雨の日の夕方の好きな感じに映るのである。

普段はデジタルカメラが手がかからなくてフイルムカメラは操作が面倒だという認識はあるが、こういう状況では逆である。露光の補正が必要なのはデジタルカメラの方なのだ。。

2016年2月 2日 (火)

我楽多屋主催 和田濡れ板写真館 夜の部

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我楽多やさん主催の濡れ板写真体験撮影会の二回目があったのでギャラリーとして見学してきた。なかなか面白かった。
スタートは午後8時からなのでお客さんは3名だけだった。それでないと終電に間に合わない。

前回あたしの写真を撮影してもらった濡れ板写真スタジオに比べると、スタジオの照明は改良したようで、今回、ライティングががらりと変わっている。
何しろ見えない光線、この場合は紫外線メインで画面撮影するので濡れ板に感じる光と影と言うのは目に見えないものらしい。

コロジオンのほうもだいぶ研究が進んでいて前回より若干露光時間は短くなった。前回は私の場合は5秒半であったが、今回は全般的に露出は時間が短くなっている。つまり感剤が高速になっているのである。

ゴスペラーズの酒井さんも参加した。何か友人からもらった縁のあるマイクロフォンを前にポーズを決めていたがなかなかかっこいい。サムライゴスペラーズだと五本のマイクロフォンであるがそのうちの5分の一だから1本のマイクロフォンで良いわけだ。

モデルになった皆さんの風貌をその場で拝見するとやはり明治時代の名士有名人と言う感じになるのが面白い。
撮影の風景をiPhoneでちらっと撮影したのであるがiPhoneの再現性はが非常に良い。これをもしカラネガで撮ったらとんでもない色相のズレが出ているに違いない。その意味で濡れ板写真おそるべしべしであるが、同時にiPhone恐るべしなのである。

2016年2月 1日 (月)

プラハのマニエリスムな肉屋さん

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プラハにもいくつか好きなランドマークがあるが、そのトップに位置するのがこの肉屋さんのウィンドウである。

プラハの中心部から見て北東の丘の上にあるのだ。このファサードを観察するには実は路上からでは路面電車の中からがベストアングルなのである。
要するに食肉用の部材の名前を記した地図が掲げられているそれだけのことなのだが、そこにマニエリズムの香りを強烈に感じるのだ。

言い方を変えればマニエリズムが数世紀経過してマンネリズムになって退屈視されていたわけであるが、それからさらに数世紀経過してそのマンネリズムの中にあるマニエリズムが実はかなりキッチュな内容であったということが面白いというわけだ。

30年ほど前に当時プラハで活躍していた美術館の学芸員の女性に、ルネッサンスとマニエリズムは一体どこが違うんですかと聞いたことがある。
これは禅問答のようなものでなかなか的確な答えは出ないと思っていた。ところが彼女はそれを一言で済ましてしまったのでびっくりした。これは非常に明確な真実をついた回答なのである。

「ルネッサンスの美術で女性の裸体が普通に立っているという場合、それに体の捻りを入れたものがマニエリズムなのよね」
彼女はそういう意味のこと言った。非常に感心した。

私はプラハで見て歩いているマニエリズム的な面白さというのは、美術史的な範囲ではなくて単に面白がって見て歩いているだけなのである。しかし神聖ローマ帝国の中心地であったこの街にはそういう過去の美学の亡霊がうろうろしている。そこが面白い。
そういう美学の染色体はこういう肉屋さんの店先にまで浸透するわけである。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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