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ロック ユー

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2016年1月31日 (日)

プラハで2016のブリューゲル

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今回のプラハの短い滞在では私がいた2週間だけが異常に寒くて、今また暖かくなっている。
1,970年代の終わりごろにポーランドを撮影しているときにやはり大変な寒波であった。-25度ぐらいなのである。それで何かに理由をつけて街中にあるバーに飛び込んでそこでウオッカをやった。

これは酒飲みが寒いからと言う理由で酔っ払いに行くのとは違って、アルコールを内部に入れないと体がうまく回転してくれないのである。

今回のプラハはそれほどの寒さではないけれど、それでも歩行しているとヒゲが凍っくる位だからやはり寒い事は寒い。

撮影の定番になっているカレル橋のちょっと下流の白鳥が遊んでいるポイントに来た。
そこで撮影を終了して、カバンの中からウオッカを取り出した。雪見酒という話ではなく、体を内側から活性させるためである。だからカップの中には2口しか入ってない。その1口分で循環機能が正常になる。

撮影した画像をiPhoneで見ていると気がついたことがあった。ウイーンの美術館で見たブリューゲルの一面の雪景色を描いたものがあった。
時間軸では数百年ずれている。でも目の前にあるセグウエイはなかなかポイントになっているのが面白かった。
だからこれは現代のブリューゲルの光景であると、遊ぶこともできる。

2016年1月30日 (土)

意志の力より指の力が大切

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今回のプラハ撮影では17本のフィルムを撮影した。数の多い少ないでどうこうと言うわけでは無いが、それなりの成績であった。犬のマンハッタン計画で撮影で撮影したのは11本のフィルムだった。だから今回のシリーズのタイトルは「プラハ17」ということになる。

1,932年生のコンタックスで17本というのは大変な指の力が必要だ。
写真を撮るのはクリエイティブな眼だなどと言われるがあれば嘘である。それよりも強靭な指の皮の厚さが必要なのだ。

コンタックスは最初のモデルはボディー前面に巻き上げノブがついている。なかなかおしゃれでエレガントだが実際巻いてみると大変な力を要する。それをコピーして作った観音カメラの最初のモデルなども同じようにノブが本体の前面についている。

しかし最初のコンタックスでもっとすごいのは巻き上げよりも巻き戻しが指が痛くなると言うことだ。当時はデザイン重視であまりそういうことを考えなかったのかもしれない。それにフィルムも高価だったからいちにち20本撮るなどと言う事は最初から想像の外にあったのであろうか。

あまりに指が痛いのでプラハでコンタックス2のコピーであるキエフを購入した。
こちらの方がそれほど指が痛くならなかった。

2016年1月29日 (金)

那須潔さんの「光と影」

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南池袋で開催中の那須潔さんの個展「光と影」を見に行った。
私が人の個展を見に行くのは年に1度位である。
彼の仕事はiPhoneの画面では見ているが、実際にはどうなのか全く見当がつかなかったのでそれを実況見分に行ったである。

南池袋二ノ37-11というのが所在地である。Googleにデータを出しておいたにもかかわらず場所がわからない。37番地のブロックを二回回って分からないので日本郵便の若い人に聞いた。
ビルの名前はわかりますかと若い人は私に聞く。いえ、建物名称はわからないんです。とあたし。
これで郵便配達の人は地番ではなくてビルの名称を配達の目安にしていることがわかって面白かった。

路面にあるギャラリーなんですけどと私が言ったら、若い人はノアノアギャラリーですかと言った。あたしはその小さい看板がよく見えなくて私が見落としていたのである。パリの普通のギャラリーのつもりでいたからフロントが大きなガラス窓でその中に写真が並んでいると思ったのだ。日本郵便の人はノアノアだと思ってたが、実はあのあのギャラリー。

20数点のフレームの展示とギャラリーの中央で写真をインスタレーションした立体という構成である。

この写真家の仕事が面白いと思ったのは、テーマ主義いうところを完全に逸脱している点だ。その意味では石川直樹越えである。にもかかわらず非常にヨーロッパ的な美学がその根底にあるのである。だけどモチーフは装飾美術館とか最も遠方ではで鎌倉あたりまでで撮影をしているらしい。

カメラはライカモノクロームだそうである。ライカモノクロームで撮った写真と言うのはお金持ちが撮影したつまらないのはほとんどだが、こういう使い方もあるのかと思った。
写真家中藤も同じのを使っているがその写真を内容は全く異なる。それが正しい道具の使い方と言うものだ。

那須さんとプリントのプライスとエデイション数について話をした。

喉が渇いたのでビリンガムのカメラバックの中から、空たからカップの容器を出して那須さんに水を汲んできてもらった。
南大塚地域の水はなかなかうまい。

そのギャラリーを出てまだ光が明るいので、コンタックス1形にテッサー2.8cmで大塚の裏を撮影して歩いた。
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2016年1月28日 (木)

コンタックスの粋なレンズフード

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1,970年代の中頃に当時住んでいたウイーンのアパートメントの近くにあった小さなカメラ店でツアイスの総合カタログを買った。
1935年版だった。それをパラパラ見ていて1番興味を持ったのはつアイスの純正レンズフードであった。
非常に複雑な構造でそれを何にたとえいいかと言うと幼稚園の時に遠足に持っていった伸び縮み式のコップなのである。
構造は3段になっていて、レンズの前面には画面に合わせてちゃんとマットが切ってある
ゾナーレンズはフレアが多いからこのくらいしっかりしたフードでないとなかなかうまく使えないわけだ。

撮影の時にフレアが多いと言うのはツアイスの特徴である。広告写真を撮っていた時にハッセルブラッドゾナー150というのは商品撮影の定番であった。
これもフレアが多いのでスタジオでブラックペッパーを使ってきれいにマットを作ってそれをレンズの前に置いて撮影した。これをしないとレンズの中にフレアが入る。

手持ち小型写真機でこのようなマットフードというのはなかなかない。それほどレアものでは無いはずなのだがなかなか見つけることができなかった。それから20年ほど経って手にいれたのである。
このレンズフードには似合うカメラと似合わないカメラがある。

クローム仕上げのコンタックスにはどうも似合わない。やはりブラックコンタックスが1番似合う。

こうしてみると何かカメラではないような存在感がある。

2016年1月27日 (水)

究極のウオッカマルテイニ

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1981年。当時のメジャーなアメリカのカメラ雑誌、モダンフォトグラフィーの極東通信員をしていた。
当時九十万部近い発行部数を誇っていたカメラ雑誌である。ボスのケプラーさんが日本に来たときにその通訳とアシスタントをやっていた。

ケプラーさんからいろいろ重要なことを教わったが、1番面白かったのは彼から日本文化を教えてもらったことだ。
すなわち京都の老舗旅館に宿泊したり、山の中にある露天風呂の正しい入浴の仕方を教えてもらったりした。ホテルオークラでのカジュアルなオーダーの方法もボスから伝授された。

しかしそれより1番私が勉強になったのは、マンハッタンで当時流行していたアルコール飲料のことだった。それはドライマルテイニであるのだがそのベースはジンではなくてウオッカなのである。

当時のアメリカのジャーナリストの間にこれはずいぶん流行したようである。それで私も真似してウオッカマルテイニを飲むようになった。この悪い癖はそのまま引き継がれて10年間にわたった六本木ヒルズクラブでも、私も音飲み物はいつもこれであった。

こういう酒の好みと言うのは面倒なもので要するにウォッカに入れるマルティニの量が少ない方とおしゃれということになるのである。
これはマルティニの会社にとっては大変迷惑なことだと思う。
でも私もその風潮に押されていかにマルティニの量少なくするかということを研究した。
そういう連中の間で究極の方法はストレートでウオッカをやって、カウンターの上に置いてあるマルテイニの瓶を見つつ味わうということなのである。

アメリカは社交社会であるから単にハードリカーをストレートでやるというのは紳士の範疇から外れるわけである。それでちょっとsweetなご婦人向けの飲み物をそこに加えてごまかしたということになるのであろうか。

それで私の究極のウオッカマルテイニというのは結局ウオッカをストレートでやるということにある。
でもそれでは社交社会の紳士の範疇から外れるので、かといって目の前にフルボトルのマルティニを置くのはちょっともったいない。
それで私の場合はウオッカをストレートで飲みながら目の前、というか前頭葉の部分にマルテイニをイメージするわけである。これこそ究極の非常にドライなマルテイニだ。

いつもイメージしているのは1,970年代のウイーンのグンペンドルファーストラーセの駅のホームから見える巨大なマルテイニの広告である。
この広告は30年前にすでに建物が壊されて存在しないのであるが、ウオッカマルテイニを飲むときの格好なイメージではある。

2016年1月26日 (火)

ワルシャワ空港発b78に電気系統の不具合


ワルシャワ発成田行きのポーランド航空のLO79便の出発が3時間ほど遅れた。
滑走路の脇でトラックの上にグリグリめだまのコントローラーが載っている氷結防止の液体をかける作業、デアイシングをしてゆっくりランウエイに向かってこれから、離陸というときになって
キャプテンから電気系統のトラブルで出発できない。ひき返すというアナウンスがあった。
787と言えば数年前からバッテリーが発火したり電気系統でいつもトラブルがあった。これはどうなるのかなと思って3時間ほど機内で待っていた。
3時間遅れで出発した。
陸上にいるときにはのろまな飛行機だが、一旦離陸すると非常に速い.不思議なのりものだ。
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2016年1月25日 (月)

プラハのとんがらし

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プラハ3区にあるスカイブルーに塗装されたネオバロックの建物に住むようになって数年になる。
以前はプラハのアトリエのストーブが壊れたときなどにこちらに避難していた。

路面電車の停留所が目の前で向かいにタバック、これはタバコ屋だがチケットとか必要なもの売っているので便利である。

ただしタバコ屋のほうは14ヶ月ぶりに来たらなくなってそのかわりにハンドバック屋さんになっていた。タバコ屋は儲からないのであろうか?

60年代から70年代のスナップショットの理想的な哲学と言うやつで日常性がうんぬんされたことがあった。それで当時は角のタバコ屋までの旅というフレーズが一人歩きをしていた。
世界的なタバコ嫌いになってしまったらしいいが、当時私が仕事で撮影し文化人は渋澤龍彦さんにしても小川国夫さんにしても全部くわえタバコであった。

向かいのグロッサリーはベトナム人の男性がオーナーである。年格好からすると1,970年代に私がプラハにいた頃に街角でシガレットボーイをやっていたのではないか。当時はこれがプラハの名物だった。
洋モク売りである。そういう少年が成功してこういう商店を構えているのかもしれない。
私はチリが好きなのでここでチリの袋をよく買うのである。これはハノイで売っているのと同じで非常に辛い。日に1つか2つを薬味に使うのである。そしてそれがなくなるとまた極東に戻るという次第になる。

今回のプラハはショートプログラムだったので到着した日の夕方に買ったチリの袋を見るとほとんど減っていない。これはよくないな。もっと時間管理をしてプラハ滞在を長くしなければならない。これが今回の教訓だ。

2016年1月24日 (日)

本日移動日PRG WAW NRT

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2016年1月23日 (土)

四十年間のプラハ撮影税一万八千円也

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一昨年の11月に路面電車の停留所で電車を待っていたらジーパンの尻ポケットに何か人の指が触れる気がした。無意識に手をやったら私の後ろに立っている金髪の美青年と指が触れ合った。同性で指が触れたのは四半世紀前に新宿のカメラ市の売り場で坂崎幸之助さんと同じレンズに手を出して指が触れた時以来である。
要するに彼はプラハのスリ専門学校の実習生というわけで別に被害には合わなかった。まだ修行が足りないのである。

スナップシューターやピックポケッターはその性格が非常に似ていると思う。私はスナップショトではかなりの有段者だからまず撮影しても相手に気がつかれる事は無い。

撮影から戻った翌朝のことである。肩から斜めに下がっている小さな黒いバックの1番体に向いたほうに入れておいた日本銀行券が封筒ごとなくなっている。
一万円とと五千円が1枚づつ1,000円札3枚がその被害の全容である。

クレジットカードとか現金とかは分けて持って歩いてるからこれが大変な被害にはならなかったのは良かった。面白いのはそのポケットに入っているクレジットカードとチェコの通貨は取られなかったことだ。これは相手が親切というのではなくて、瞬間的な芸術だからそこまで時間がなかったのであろう。

プラハでの1万八千円は大きいが、考えてみたらこれは40年間のプラハ撮影税と考えることができる。そうすると何か自分の気持ちに折り合いがついた気がする。

ピックポケットは芸術だなと思うのは、プラハは人がほとんど歩いていないからやられたのはメトロであろう。しかしメトロの中というのは非常に気をつかっているからあたしに接近してくる人間はすぐわかるはずだ。だからそこでやられる筈がない。
プラハの長い長いエスカレーターに乗っている間に後からやられたようである。
しかしその手ぎわがあまりに素晴らしいのでこういうのは人間国宝に入れてよいのだろうと思う。

2016年1月22日 (金)

実に四十年ぶりにカレル橋をいいなと思った

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プラハの市民はカレル橋をあまりよく言わない。つまり外国人ツーリストに占拠されているからひがみなのである。実際問題としてプラハ市民で橋に用のある人というのはいないであろう。

プランがまだ東ヨーロッパであった当時ここはソ連軍の兵士が必ず訪れる一大観光地だった。そういう制服組の連中に頼まれて私は彼らの集合写真を何度かとったやったことがある。彼らのカメラはキエフは少なくて大抵がソ連製ライカのフェドであった。

プラハが西側の国になってすでに30年近くになろうとしている。歴史的な大洪水の前だったか後だったか日本国の天皇もここをお通りになったのである。

私の古いエッセイでビロード革命の10年後に書いたのだが、カレル橋はツーリストの靴の裏でその石の床が1インチは減ったとかいた。これは例えである。

しかしプラハ当局はそのような世界中からのツーリストの靴に対抗して何年もかけて端を整備した。橋の右側をまず1年かけて、その反対の左側をまた一年と言う巧みな工事方法である。

私はプラサ市民ではないが気持ちとしてはプラハっこだ。それでカレル橋には行かなかった。
橋の上で会いたくもない人間に会ったりするのが嫌いと言うわけではない。そうではなくて橋の上にたくさんいる土産物腕さんが邪魔で仕方がないのだ。
気温マイナス10度の午前中に橋の手前から橋の上を伺ったら何かいつもと様子が違う。
橋の上には1人のベンダーもいないのである。それで橋をゆっくりわたってみるとこれこそがカレル橋のの正しい楽しみ方であるということが分かった。

プラハ市が橋の上のベンダーを禁止したのか、それとも何かの都合でベンダー組合が休みになったのかそこら辺は知らない。でもヨセフスデクが撮影した頃の静かなプラハの橋の上の感覚が戻ってきたのが嬉しい。

2016年1月21日 (木)

悪魔のソーセージ

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テルチエはプラハからは車で2時間以上かかる。オーストリアの国境の北側にある古い町である。
かなり以前にユネスコの文化遺産になったりした。街の中央にある広場とそれを取り囲む家並みと街の北にあるお城がそのまま残ってしまったのだ。
社会主義国の時代には西川に知られるとまずいのでその地域は旅行者立入禁止にしていたそうである。

30年前にこの街を「発見」してびっくりした。それで20年ほど前にカメラジャーナルのツアーでご一行様20数名をここに案内したのである。みんなかなりびっくりしたらしい。

その時はウイーンから観光バスを仕立てて行ったのだが観光バスは大きい。しかしテルチエの広場のお城の門は狭い。当然のことであって自動車ができる前にこの歴史的建築物が作られたのだ。

それで門の手前で観光バスから荷物を降ろして小型の乗用車でホテルに往復した。なんでも我々は日本から来る最初の客であったそうだ。
黒鷲亭と言う屋号のホテルは街の市庁舎の北隣にあった。当時はそれしか宿泊施設がなかった。
この街にはそれ以来何度か行っているが時間の感覚がなくなってしまっような不思議な町である。

今いるプラハのレジデンスの向かい側にいつも買い物をするグロッサリーがある。そこに悪魔のソーセージと言うのを売っているので買ってみた。
とんがらしの辛さは大したことないがルーペでパッケージを細かく見ていたらその製造元がテルチエなのであるこれは懐かしかった。

悪魔の何々と言うので思い出すのは、イスタンブールのブルーモスクの向かいにあるホテルで執筆した「カメラ悪魔の辞典」が思い出される。2週間ほどホテルに滞在してほとんど外には出なかった。3階の広場に面した部屋で目の前には例のエジプトのオベリスクがあるのだ。
この間起こったイスタンブールでのテロ事件でそこが現場になったあの場所である。

ホテルとかその周辺に被害が出ていないか気にかかるところだ。
このホテルのエントランスにはクリスマス時期になると立派なクリスマスツリーを立てたのである。そして目の前はブルーモスクである。
言い換えればこれは宗教戦争の最前線という構図になる。

2016年1月20日 (水)

プラハのカメラトリオ

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一昨年の11月にプラハにきたので、今回は実に14ヶ月ぶりのプラハになる。1番長いインターバルで、今まで例がない。

仕事に使うカメラを並べてみてびっくりしたのはその14ヶ月前と全く同じであるという点だ。
持参したライカにトラブルが起きたのでこっちでキエフを調達したのは例外であるが、本来ライカで撮影するべきなのである。
鏡玉はモノクロームの撮影には28ミリと50ミリだけである。
1,970年代にベルリンのプロジェクトを手がけた時に使っていたカメラと言うのがキエフ二台と28ミリと50ミリのレンズだけであった。その経験があるのでキエフと言うと何かちゃんと写真が撮れるきになる。
東京カメラクラブの田村代表にも似たようなところがあって面白かった。彼はリンホ、ジナーなどの高級カメラ持っているのに、撮影にはシンプルで安いトヨフィールドを使うのだ。そのカメラに慣れていると言うのがその理由である。

あとはAPS-Cサイズのデジタルカメラを二台持ってきている。クールピックスはあたしの常用カメラで、シグマのほうは大型カメラとして使っている..

その理由は昨年京橋のアイランドギャラリーで開催した展覧会でディレクターが8x10のモノクロネガをシグマでスキャンしたのである。その画質にびっくりした。

撮影のスピードは通常のデジタルカメラに比べて遅いけれど、考え方を変えれば8x10カメラ相当の機材をセットアップすることを考えればこれは非常に速い。

あいにくというか幸運とゆうか雪が降ったのでちょっとプラハの雪景色を撮影することができた。
プラハに住んだ25年の最初の15年ぐらいは全く雪に遭遇することがなかった。
ところが最後の数年で凄い雪に-あってアトリエに行くまでに雪で遭難しそうになったこともある。その話は私のエッセイ「屋根裏プラハ」に書いてある。

2016年1月19日 (火)

エカチエリーナブルー

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四半世紀住んだプラハのアトリエを畳んでから住んでいるのがこのレジデンスである。
プラハのアトリエはプラハ工科大学の1部にあってできたのは1,930年代であった。こっちのほうはプラハ3区の工業化が進んだときに作られた建物で1890年代のものだそうだ。

規模が小さいので気にいっている。今いる部屋が一番上の右端である。
目の前が路面電車の駅なのでどこに行くにも便利だ。しかも路面電車が運行が運行は正確なので時計の代わりになる。

さらに近くにある教会の鐘が時刻を知らせてくれるので非常に便利だ。

この建物の明るいブルーの色を正式には何と言うのか知らないが、以前エカチエリーナ宮殿を取材した時その色と同じなのである。
モスクワ正教会には不思議な色があって目を欺くようなピンクとかおしゃれな明るいブルーなどがある。
別にディズニーランドの向こうを張っているわけではない。こちらの方がはるかにふるいのだ。

このレジデデンスを発見したのは、プラハにある数百の宿泊施設を写真で見て決めたのである。それは10年ほど前のことで私は結構真剣だった。
ある晩秋の晴れた日に電車に乗ってこのジジコフの建物を見に来てすぐに決めた。

最近のプラハは宿泊施設はたくさんあるが中には奇をてらったようなものも少なくない。でもこの建物は非常にクラシックだがそのクオリティーはなかなかと思う。

プラハから成田に到着して都心にリムジンで向かっているときに左側に変な工場設備が見えたなと思ってよく振り返るとそれが東京ネズミ園であったりするのだ。
あれはシンデレラ城のコピーであるらしいが全くいただけない。

2016年1月18日 (月)

フランコフカがあればそれで充分

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プラハはビールが有名だが、ワインもなかなかいいのがある。ただしその生産量が少ないので日本ではほとんど流通していない。
サウスモラヴィアのドナウ川の北側で良いワインができる。ドナウ川の南側がオーストリアで有名なワインの産地である。
その界隈はオーストリーハンガリー帝国時代のちょっと洒落たお城があちこちにあってそのお城がそれぞれに申し合わせたようにワインセラーなのである。

その頃プラハのカレル大学の古美術を修復する大学教授が引退して、長年の夢であったワインセラーを設立した。確か数百年前の古い建物であった。

私も見よう見真似でワインの味見等をして何ケースか東京の佃に送ったのである。しかし失敗したのは通関業務と言うのは業者専門であるから税関の人にすごく意地悪をされた。それでワインは現地で飲むということに決めたのである。

プラハでいつも飲んでいるのはフランコフカと言う普通のテーブルワインである。しかしこれは馬鹿にできなくてなかなかいける。

フランコフカさえあればもう私の人生には何もいらない。
ただし、今はライカが壊れたのであとはキエフがあれば充分である。

2016年1月17日 (日)

二回の裏ピッチャー交代

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撮影を開始したライカM5の巻き上げトラブル発生。それでコンタックスのブラックを指名したら、時々シャッターが変な動きをする。
一応半世紀写真家をやっているので、あたしは「ちょーとく写真家」と申します。
失敗したら困るので信頼できるカメラをプラハで購入した。
キエフは1,970年代にベルリンのプロジェクトでそれを二台持参してちゃんと仕事をしたことがある。コンタックスカメラで1番怖いのはシャッターのリボン切れてある。この問題がなければ非常に優秀なカメラである。

それでプラハのカメラ屋で3台あるうちの1番新しいやつを買った。値段に関しては差し障りがあるので、あまりに安いのでここでは表示できない。
新製品のデジタルカメラが価格を表示できないのに似ているな。

それで試合の2回の裏にライカ君に代わってピッチャーはキエフ君となった。

2016年1月16日 (土)

ライカM5にアクシデント

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プラハで撮影初日にアクシデント発生。
i二本撮影して3本めを装填しようとしたらうまくいかない。スプールに差し込んでも空回りして巻き上げができないのだ。

今年の初めからこの問題が起こっていたが椅子に座って落ち着いて十回フィルムを装填してもフイルムが巻き上げられないと言うのは撮影に支障が起こる。

プラハのメトロの駅でベンチで座ってフィルム交換をしているときに底蓋をベンチに置いた。
こういう時はまが悪いと言うのであろうか。金属床のベンチには小さい丸い穴がたくさん開いている。デザイン的に良いのだが底蓋がその穴の1つに引っかかってなかなか取れない。
ようやく底蓋がその穴にはまった状態から外れたのだが、どうも巻き戻しクランクの軸の先端の部品を紛失してしまったようである。
シャッターとかはちゃんと動いているのであるが、フイルムが進行しないというのはこれでは仕事にならない。

1,933年生のコンタックスのブラックそ持ってきている。だからそれにバトンタッチして撮影を続けようと思う。

朝1番でフォトシュコダにフイルムを調達しに行った。その時中古売り場を見てなんとなくキエフの値段を見ていたのである。それはコンタックスが壊れたらこれを買って使おうと思っていたのだ。ところが意外にもライカの方が事故になってしまった。
皮肉なものである。

2016年1月15日 (金)

プラハの宵

ワルシャワ経由でプラハ入り。何時もの普通のプラハの宵である。不思議だなあ、、、Image_3


2016年1月14日 (木)

本日移動日 九年前のプラハ日記

本日移動日。
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WAW
PRG

ポーランド航空本日からワルシャワゆき開業Image
2007年10月30日 (火) プラハ。
滞在最終日。
昨日の日曜は午後にやや天候回復。
それまでモノクロの世界であったのが、いきなり「総天然色」になったのだから、視神経は驚愕した。
初期の写真術で、カラーが登場した時もおそらくこんな具合であったのだろう。
自分は最初に手にしたカラー写真を鮮明に覚えている。
フジカラーというのであるが、それはプリントではなくスライドであった。しかもすでに存在しなくなった、コダクロームと同様な「外式」のフィルム現像なのである。
ペンタックスにそのフジカラーを入れて、少年時代に近所の護国寺を撮影した。小学生のがきが「古寺巡礼」をしていたのだから、半世紀の早熟であった。

その仕上がりの上がったフィルムをみて、「いいなあ、、、」とおもったのは、それに色彩が付いているというよりも別の所にあった。フィルムの膜面を斜めに透かしてみると、そこに現実の風景がミニチュアそのままにレリーフされているのである。

これは凄いことだと思った。
当時の外式のフジカラーはその未熟なせいであったのであろうか、やたらに膜面が厚かったのでこのような印象を残したのだけど、写真は現実の縮小であるという真理に少年はきずいたわけだ。

この2週間の天候は暗い日だが、今朝と昨夜は良い月夜であった。
午前2時頃にトイレに立って、上から何か光が射していることに気が付いた。
アトリエには、トイレもキッチンも同じ巨大な天窓がある。

はて、この建物の屋上にネオンなどないはずだが、、、と思った。
月であった。
この場合、お月様と言った方があたっている。そのお月様がアトリエをのぞき込んでいるわけだ。
天窓の窓枠で仕切られた月光の影がアトリエにくっきりと刻まれている。

それをベッドで見るうちに、不思議なことに気が付いた。
アトリエの居室の窓枠は合計6つある。それに平行に36万8千キロ(であったっけ?)から、この場合、平行な光が注がれているのだから、窓枠に落ちる月光の影は、それぞれに同一角度をとるのが理論であろう。

ところがそうではなかった。
お月様はすでに南中していたので、やや西側から光を降らしていたのだけど、その窓枠の西に近い方から、順番にその影の角度が異なっていたのである。

すなわち、アトリエの左端のお月様の影がかなり急角度であるとすると、アトリエの右端のその影はかなり斜めになっている。

こんなことはあり得る筈がないと思った。
しかしその影がそれぞれの窓枠に落とす影はそれぞれに違っている。
とても悠久の遠方からの光とは思えない。

唯一、考えられることは、お月様がこのニコリテスリーの屋根の上、70メーターほどに下ってくるのなら、その事実は説明できる。
その距離になれば、もはや月光は水平光であるとは言えないからだ。

その日の午後、モルダウ河で見たツーリスト相手の係留気球のことを思いだした。http://www.baloncentrum.cz/cs/fotogalerie

これはお一人様30ユーロかで、カレル橋の上に気球をあげて、観光をさせるのだ。係留気球はもともと、軍用であってその起源は古い。

その気球がお月様であるのなら、頭上70メーターあたりから月光を放射すれば、上のようなアトリエでの「非平行な月光の影は可能であろう。

それで今朝もお月様がどうなっているか、それを観察した。
冬時間になった最初の深夜の2時頃、よく見ると月光は昨夜よりも東から照射していた。つまりお月様は昨晩のことを気にして、遅く登場したわけである。

子細に観察したら、今度はアトリエの右端の月光の影が一番に急角度で床に影を落としている。それがだんだんと緩やかな角度になって、アトリエの右端の窓の影は斜めである。
前夜と逆だけどやはり角度は窓によって異なることが判明した。

午前4時頃に、お月様はどうなっているか、アトリエの窓から視た。
影が見えなくなったので、それを気にしたのである。空は一面の雲に覆われていた。

やはり、今朝と昨晩、深夜に見たお月様、あれは本物であった。カレル橋に係留されている、気球に化けたお月様が、深夜、夜回りをしているのであるという確信を得た。
だって、偽ライカじゃあるまいし、フェイクムーンなんてあるわけがないじゃないか。
ねえ。

あ、忘れたけど、撮影カメラは例によってキャプリオR7。

これで昨日は雑誌の連載の仕事も2本やりました。擦れ違う、世界のツーリストさんの方が自分よりずっと立派なデジカメを持っている。自分は実にらくちんだけど、他のツーリストさんは「オーバースペック」ではないのか?それが心配だ。

自分には当分はデジタル一眼レフはいらない。
あれは、どうもじじいむさい。第一、もともとじじいなんだから、これ以上じじいにはなりたくない。

デジ一持ってるとそこに「ライフワーク」を想起させるのが良くない。ライフワークは銀塩写真ににまかせれば良いのである。

これが本日の撮影機材。

R7と、スパーブ。それとタイメックス。フォマパン200を5本。(そのうち1本はすでに装填してある)

スパーブは「自己増殖」して、スコパー付きとヘリアー付きの2台になっている。これはヘリアー付きの後期モデル。

でも、やはり猫耳のストラップアイレットの前期モデルがいいな。

これを撮影したのはエプソンR−D1Sだけど、ゾナー50ミリF1,5を付けたので、スパーブが後ピンだ。ときどきこういう間違えをする。

いや、実に吃驚した。

撮影を終わって最後の夜をアトリエで楽しんでいた。

天窓から何気なく、東を見たら巨大なお月様が着陸しているのである。

なにかのイヴェントか、撮影であろうが、巨大な人工のお月様が目の前の広場を制圧していた。冗談で書いたことが本当になってしまった。


その人工のお月様のこと。

深夜に起きたら、本物のお月様も出て、競演ですごかった。やはり偽物の方が立派で本物っぽく見えるのは、これはカメラでもクルマでも人間でも同様な次第であろう。

本物のお月様は迷惑そうであった。写真説明。右の小さいのがモンモノ。

これより(上の日記は予定校だから、こっちがリアルタイム)プラハ空港に行くのである。

日本の午後2時であって、プラハの午前6時だ。もうあのお月様は退場じたかと、窓から視たら、まだ煌々としている。

映画の撮影にしては時間が長すぎるし(昨夜以来だから)工事にしては時間が変だし、これはやはりアートのたぐいなのであろうか?

不明。

2016年1月13日 (水)

ブラックコンタックスは親指の筋力トレーニングに絶好である

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写真家アンセルアダムスがまだ若い頃、ブラックコンタックスを構えて得意げなポートレートが残っている。私の知っているアンセルアダムスは大判写真家であり、ホロゴンウルトラワイドのユーザーでもあった。
コンタックスを構えているアダムスの写真を見て私が思ったのは彼も指が痛くなってフイルム巻き上げに苦労したのであろうということである。
当時日本ではお金持ちしか買えない高価なコンタックスであったがお金持ちがカメラとレンズを磨いている分には何の問題もない。

しかし一度フイルムを装填して写真を撮影するだんになるとブラックコンタックスの本体の前に出ている巻き上げノブというのは非常に指の力を必要とするのである。つまり指の筋力トレーニングには非常に有効である。

ブラックコンタックスで二本撮影して指が本当に痛くなる。親指と人差し指の負荷が非常に高いのだ。しかも巻き戻しにも非常な力が必要で指がボロボロになりそうだ。
ライカにライカピストルがあったようにコンタックスにコンタックスビットがあっても良いと思う。

別にカメラ本体に固定しているものでなくても良い。大昔のラムネの瓶を開ける木でできた道具のようなものがあったがあれと同じで良い。巻き上げる時だけそれをノブにはめてぐるっとやれば良いのである。
しかしコンタックス2には巻き上げの補助装置はあるがブラックコンタックスにはそれがない。

だからブラックコンタックスユーザーは親指と人差し指の力を補強するか、あるいはその痛みになれるようにしなければいけない。


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2016年1月12日 (火)

かつしかの狐やコンタにだまされたか、、、

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ヨーロッパに出発する直前には東京の馬鹿な街歩きをするのはいつもの状態である。
その恒例の馬鹿な方向で葛飾区を歩いたらどうもきつねに騙されたようである。
今日の撮影は時代考証を明らかにするために戦前のコンタックスを持参した。レンズはいつものテッサー2.8センチだ。

最初に市川の方まで行ってそれから青砥まで戻った。あまり馬鹿歩きをするのはばかばかしいので、今日は青戸の駅から軽く立石まで歩いて、立石の寿司屋でオリを買って帰ろうと思っていた。先週の木曜日に同じ事をしようと思っててお休みであったからだ。

いつも知っている道なのだが歩き始めたらどうも様子が違う。自分は立石に向かっているのにいきなり水戸街道に当たってしまったりするからこれおかしいなと思った。
それでもあたしは立石に向かっているつもりであった。そうすると平和橋通りが出てきてしまう。これは妖怪にばかされているのだからあまり逆らわないほうが良いと思った。

平和橋通りの横断歩道渡ったら記憶にある飲み屋がある。
まりっぺと言う店である。これで完全に方向ロストして堀切菖蒲園に来てしまったことがわかった。

サンテグジュペリが無謀な飛行やって回路に向かうはずがリビアの砂漠に不時着したようなものだ。堀切菖蒲園駅前の金子酒店の前に出てしまった。こうなればいっぱいやるしかない。しかし目の前は平和橋通りなのでそこをこうして立石まで歩いてそして寿司屋に行ってやろうと思った。

普段のコースは立石から堀切菖蒲園なのだが今日は逆である。だから平和橋通りの反対側を歩ことになったので新たな発見がもたらされた。これは今日の最大のきつねにばかされた成果である。

ようようにに立石の寿司屋に着いたら暖簾が取り払らわれて大将がつけばの後につったっている。なんでもお客が来すぎてネタが切れたので今日は早じまいだと言う。
それで仕方ないのでそのまま電車に乗った。

人形町で降りて天ぷら屋で持ち帰りの天丼を作ってもらって、そこから日比谷線に乗ると遠回りになるので隅田川沿いを歩いて家に帰ってきた。

葛飾のきつねもなかなか悪さをするが、戦前のコンタックスがいけないのであろう。
キツネとコンタは共同作戦をはっているらしい。

2016年1月11日 (月)

Nizoのカメラデザイン

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コダックが50年ぶりにスーパー8カメラをリバイバルさせたので私の興味は最近スーパー8カメラのほうに傾いている。
9月発売予定の新製品は60年代の監視カメラみたいなひどいデザインであるが、手元にある往年のスーパー8カメラを取り出してそのデザインを評価しているのである。
ボリューとかライキナとか名機はいろいろあるが、ニッツオもなかなかのデザインである。
この三つはそれぞれのデザイン全く異なる。

つまりそのカメラを一瞬見ただけで反射的に分かるようになっている。これはデザインのコンセプトとしては非常に重要なことだと思う。
今のフルサイズのデジタル一眼レフはどれも同じスタイルでカメラメーカーのロゴをよく見ないとわからない。そういう時代になってしまったのだ。

実はニッツオはスーパーエイト以前のダブル8のカメラの方が私は好きであった。要するにゼンマイで巻き上げる完全なメカニカル構造のカメラであった。
ヘリオマチックなどというレンズターレットが四つついた非常にメカメカしいカメラも持っていた。
それがスーパー8の電気式になってしまったので私は面食らったのである。
ブラウンのデザインを上から見るとこのように全てが文字と数字で表示されているのである。

今の時代で見れば完全なアナログ式のメーターなのだが、1970年代にこれをウイーンのウインドウにみたときは完全なデジタルスケールに見えたのである。
ドイツの輸入品の朝高級カメラであったから7年半滞在していた時には買うことができなかった。ウィンドウで見るだけである。

日本に戻って数年経ったらアメリカの大学で使われていたこのカメラは徐々に廃棄になった。それで入手して使うようになった。
数年ぶりに取り出してびっくりしたのはその重さである。現在に使えるムービーと言うのはiPhoneとかコンパクトデジタルカメラのムービーモードが普通になっているから体感的には重さがないと言ってもいいくらいである。
このカメラはサウンドではなくサイレントだしいろいろなことができるが映像をとると言う目的のためだけに作られたというのがプロフェッショナルで良いと思う。

コダックのおかげでスーパー8カセットは当分は大丈夫そうであるからまたフィルムに戻ろうかと思っている。

2016年1月10日 (日)

この土手に登るへからず警視庁

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天気の良い1月の午前中に中野から桃園緑道を東に歩いた。
中野区が管理している桃園緑道の部分には座るところが一切ない。植え込みと植え込みの間には鉄の棒が渡してあるのだが、それはおしりをのせるにはちょっと細すぎるのである。

中野区の管轄地域で一箇所休めるのは途中にある結構大きな公園である。
ベンチも揃っていてここは休憩にはちょうど良い。
冬の日差しを浴びながらその公園の真ん中にあるベンチとテーブルで、トイレの脇にある自動販売機からホットコーヒーを買ってコーヒーブレイクした。

そこの公衆トイレとそこにその自動販売機と言うのは災害時の停電の場合でも使えるという中野区の表示板があった。なかなか大したものだと思う。

ベンチからトイレの裏側の隣に置いてある物置を仔細に観察した。そこに張り紙がしてある。
屋根に登るな 中野区
とあるのでびっくりした。
お役所の表示と言うのはなかなか高圧的である。やってはいけないことを箇条書きにしているのは明治時代からの伝統なのであろうか。

正岡子規が随筆で書いていたが明治の初め頃の警察の高札で、

このどてにのぼるへからず けいしちょう

というのがあったそうだ。
これは明治の市民の狂歌である。そういうお上の精神と言うものは100年以上たっても全く変わらないものとみえる。
明治市民の方が自由民権で今より自由だったのではないか?

2016年1月 9日 (土)

コダックのスーパー8カメラ

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私がウイーンに住んでいる時には膨大なロールの数のスーパーエイトで暮らしを撮影した。当時16ミリでも撮影したがコストの点からするとスーパー8の方が圧倒的に多かった。それは1,200ftのロングリールに繋いであるので見たいときにはいつでもボリューの最高級のフィルムプロジェクター707ELで見ることができる。

アメリカで新らたに発表されたコダックのスーパー8カメラは今年がその映画システムが発売されてちょうど半世紀になるその区切りということがあるようだ。
iPhoneで誰でもすぐにムービーがとれてそれを瞬時にアップすることができる時代にいわゆる時代遅れのクラシックスタイルの映像システムをどれだけの人が使うかというのはちょっと興味がある。

映画の世界の巨匠が自分はスーパーエイトから始まったということをバックグランドにして宣伝するようであるが、当時まだ無名だった映画少年はフィルムが高くて買えないからやむを得ずスーパーエイトに手を出しただけなのだ。
マーケットの担当者はその事実を完全に忘れている。

新しいシステムの内容はウェブサイトを見ればすぐわかるが、私がびっくりしたのはそのデザインの悪さである。
歴代のコダックのナローゲージのフイルムカメラで1番成功したのはスペシャルシネコダック2であってそれ以外には無いと断言できる。
新しいコダックカメラは何か半世紀前の監視カメラのようなスタイルをしている。
交換レンズにはリコーの6ミリのプライムと8倍のズームレンズこれもリコーブランドが用意されるそうだ。
スーパーエイトのカセットの規格はそのままであろうからこれはCマウントなのであろうか。
この秋が楽しみだ。

2016年1月 8日 (金)

七草に大林

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新年早々から滑ったり転んだりである。
去年は帯状疱疹の影響で飲みに行くという事はほとんどなかった。おまけに近所の枝村酒店も閉店してしまった。

その状況を打ち破ると言う意味でもないけれど、撮影に行く時にいきなりむらむらっと山谷の大林に行きたくなった。
ひょっとしたらもう暖簾がかかっていないのではないかと心配したが、山谷のあっちこっち歩き回って午後3時ちょうどに行ったらお店は開いていた。既にできあがっているお客がいたからひょっとしたら午後2時には空いているのかもしれない。

その前に土手のいせやの前を通ったら閉店していた。大工さんが入ってお店を直しているのである。こちらのお店には四半世紀以上前に須田さんと行った以来であるから今世紀になっては行っていない。

大林は相変わらずであるが、お店のカウンター以外の窓際のテーブルはテーブルがなくなっていた。それでお店が広く見えるようになった。
泡盛とやまかけと焼き海苔とそれから卵汁である。ここら辺はいつもかわらない。

親父さんが寄ってきて、あたしの顔を覗き込んで、、、、写真屋さん?
と聞いてきた。そうだよ、とこたえた。
帽子をかぶっているのと、ヒゲが長くなったので分からなかったと言っていた。数千人のお客を扱っているこのお店で私を識別してくれたのは光栄である。
帰りにお年賀の手ぬぐいをもらったのも嬉しかった。

その戻りに近くのお寿司屋さんの金太郎寿司でオリを買って帰ろうと思ったらシャッターが閉まっていた。そこら辺が私のジンクスということだ。
実は朝出かける時に立石の栄寿しに行こうと思っていて木曜が定休日であることに気がついたのである。

2016年1月 7日 (木)

カモメのみなさん

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お正月に八丁堀の橋の上にいた。
パンのかけらを水の上を泳いでいる数匹の鴨にやろうと思ってパンくずを投げたのである。
パンが水面に落ちる直前に白い影がそれくわえて横に飛んでいった。
かもめである。

その数秒後には100羽ほどのカモメが橋の欄干に横1列に並んだ。
反射的にポケットに入っているiPhoneを出してそれを連写した。ファインダーなんか見ていない。
ノーファインダーである。
手前から右に3羽目のやつが万歳をしているのだけ目に見えたのでそれを撮影したのである。
画像が上がってか仔細に見たら左から2番目のしとがカメラ目線。

これには笑ってしまった。
最近はパンを持ち歩いてどっかの公園に行って鳥連中を探すのだがなかなかやってこない。しばらく待っているとはとぽっぽが1匹来たりして私の与えたパンを半ば義理のように食べてそのまま去っていったりする。それからスズメがゆっくりやってくるというのが普通である。

それなのにほんの数秒の間に目の前がかもめで真っ白になるほどの繁盛ぶりというのにびっくりした。しかしパンの残りがもう無くなってしまったのである。

カモメの皆さんも、なんだ、、お年玉は無いのかという顔をしていた。

2016年1月 6日 (水)

桃園緑道を歩く

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モノマガジンの連載をやっていた時は、よくこの界隈を歩きまわった。
桃園川は杉並区天沼に弁天様があってそこから流れ出た桃園川という小さな流れだ。それは杉並区から中野区を横断して新宿で神田川に接するのである。

中野駅を南に行くと桃園の手前、今は駐車場になっているが三十年前にはクラシックなBAがあった。バーラムプというのである。夢か現実かわからないがそのBARに1回だけ入ったという記憶がある。しかしこれはどうも私の夢の1部であったようだ。

その先に桃園ハイツと言う古い古いアパートのエントランスにこの絵がかかっている。それは30数年来私の記憶の底のほうにあるなのであるが、そこに数年ぶりに行ってみた。

入るとお掃除の人がいる。これはまずいなと思った。要するに警察が住居侵入罪で別件逮捕できるような状況である。
それでこんにちはとあいさつしてこの絵の由来を聞いた。
記憶の中のこの絵というのは実際に見るとは大違いである。記憶の中では私がザルツブルグ写真を教えていたときの、目の前の湖そしてその先にヒトラーの山荘のあったべリヒテスガルテンが見えた。そんな感じ絵とかだと思っていた。

実物を見てみるとどうも様子が違う。まず明るさのトーンが変である.
ウイーンにギャラリーオットーという売り絵屋があって、これは金持ち好みの変な絵ばかり置いていた。家人とギャラリーオットーみたいな絵と言うとこれはとんでもない酷い絵であるという意味なのである。

ギャラリーオットーの絵と言うのはそういう意味だが、桃園ハイツのエントランスこの風景を見ていてそれに似た絵を見たことがあるなと思って思い出したのが、まだ独裁者として自立するのアドルフヒトラーの描いた風景画に似ているのである。
アドルフはウイーンの美術アカデミーに留学しようと思って果たせなかった。それでWin工科大学の向かいの喫茶店カフェシュペールと言う所にとぐろを巻いていた。
この絵のトーンがアドルフが若い頃に描いた絵とちょっと似ているのである。アドルフの名誉のために言うならばアドルフのほうがずっとうまいと思う。

お掃除の人に、これは何か有名な先生が描かれたものですか聞いたら、彼はスマートな人だったら、今度聞いておきます、と会話を和らげてくれた。
その桃園ハイツの脇に遊歩道がある。これが桃園緑地という散歩のプロムナードなのだ。
1月とは思えない非常に明るい極東の午前中にそこから私は歩行を開始した。

2016年1月 5日 (火)

新年早々スリーアウト

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お正月の3が日は佃を中心に全部徒歩で歩いてライカで撮影していたが、4日になって初メトロということで東西線で浦安まで行った。

浦安の当代島あたりを撮影したかった。四半世紀前のことだが真夏に浦安橋の上から下の江戸川見ていたら、暴力団関係者とみられる一団が大型のモーターボートにのって遡上してきた。そのメンバーが私に向かってニコニコ手を振ったのでびっくりした。強面の暴力団員も嬉しい時は愛想が良くなるものらしい。浦安橋を超える時いつもそのことを思い出すのが常である。

千葉県と東京都の界、つまり橋の上に指標が掲げられているのだがこれが非常に良い具合にブルーのペイントがあせているのである。Artである。それが今回の発見だった。

葛西の辺りを歩行し始めてからなんとなくトイレに行きたくなった。この2週間ぐらいノロウィルスと言うのだろうか、いつもお腹がゴロゴロ鳴っているので時々お腹に向かって、うるさい黙れ!などと言っている私である。

葛西の住宅地歩いていてようやく公園にトイレを発見したら、いたずらが多いので閉鎖しています。ご迷惑をおかけしますの文字。全く迷惑である。

ヨーロッパでも、そしてハノイでもそうだったがお腹の具合が悪くなったときにはそこら辺のカフェに飛び込めば良いのである。ところが日本と言うのは住宅地では全くカフェがない。またあったとしても正月も4日ではあいているところはない。
それで時間との戦いになった。

こういう人生のスペクタクルというのはその場では切羽詰まっいるが、後で思い出すと笑えてくる。葛西駅の近くの大きな児童公園にようやくトイレを発見してなんとか間に合った。

これは飛行機がエンジントラブルで近くの空港に緊急着陸するのに似ているな。考えてみればジェットエンジンと人間の消化器と言うのは非常に似たところがある。

上りの東西線は非常に混んでいた。門前仲町までいってそこからまた歩き出した。東京シティーエアターミナル、私は低キャットと呼んでいる。漢字説明をすると低い猫、低猫なのだ。
その低猫で100円払ってマクドナルドでコーヒーをもらって連載の原稿1本。そしてそこからまた歩いて佃。
1月4日というのに快晴でwinの5月の街並みを歩いているような感じだった。
どうも良くないな。
新年早々スリーアウト。

2016年1月 4日 (月)

新年早々ツーアウト

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正月中は交通機関を使わないで佃とその周辺を歩きまわっている。交通費を節約しているというわけではないが結果としてはそうなるわけだ。リスボンもカサブランカもハノイも、そしてカイロも交通機関は一切使わなかった。そうすると街が面白く見えてくる。

隅田川の右岸を遡上してTcatまで来た^_^
M5には戦前のテッサー28ミリがついている。訂正2.8センチである。

Tcatでマクドナルド100円のコーヒーを飲みながら慎重にフィルム交換した。
水天宮はまだ工事をやっている。
日本カメラに連載の打ち合わせに来たのは既に1年の昔である。全く時間の経過早い。もうちょっと打ち合わせで編集者さんにあいたいと思う。

人形焼きのビルの角が現代都市で良いのでそれを撮影したときに、テッサーの距離が3フィートつまり1メートルになっていることに気がついた。
がっくりである。
おそらく元日からずっとそのままでとっていた。1メーターでとっていたということになる。

ライカの場合は正面から見て時計周りに回すと至近距離になる。ツアイスやニコンのRFの場合はその逆である。という事はもう半世紀も慣れていたはずなのにこれは一体どういう失敗なのかと心配になってくる。
老人力では済まされない。

思うにその原因はコンタックスの2.8センチのレンズのリングのスケールの文字の小ささにある。
Sマウントのニッコールレンズを付けているときには正面から見てちゃんと確認しているのであるがコンタックスのレンズがあまりにも薄いので何かライカマウントと勘違いして撮影をしていたようである。

14日からのワルシャワに備えて環境に慣れるためにTcatまで行ったのが良かったが、コンタックスレンズの環境にもなれなければならない。
これもテッサーからのwarningというわけでこれでツーストライク。

2016年1月 3日 (日)

新年早々

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ライカM5は40年以上使っているのに、フイルム装填で十数年に一度トラブルが起きる。
カメラもホールディングとか持ち歩きやすさとかスローシャッターでブレないというのは最高のカメラだだがフィルム装填で問題が起きる。

元日にM5で1本とって2日に二本とった。
M5はライカM4のフイルム装填をさらに改良したものである。
M4のフィルムジャムが起きるとスプールが外れないので大問題になる。そういう緊急事態に備えてM5の場合はフィルムスプールは外せるようになっている。

昨年の5月はパリでニコンS3にフイルムを装填するのにベンチに座ってゆっくりやっていた。
今年の年の初めにM5で撮影していると、そのフイルム装填がうまくいかないのである。
普段は歩きながらフイルム装填して、そのまま撮影が開始されるような経験者であるのにこれは困ったことだ。

それで京橋の高速道路の下のベンチに座ってゆっくりフイルムを装填したのだが、フィルムスプールが
が空回りだ。ちゃんと数えていないが7回はやり直した。八度目のフイルム装填でようやくフィルムが正常に巻き上げられるようになった。

ライカ初心者が最大にトラブルを起こすのはフイルムを巻き上げているはずが巻き上げていないと言うトラブルである。初心者の人は偉いからそれで諦めていて別に残念がることもない。しかし私はそうでは無い。

今月半ばのワルシャワ経由のプラハではライカM5を持参する予定だがそのために、カメラの方が私にワーニングをしているようなのである。フイルム装填は撮影よりも重要な撮影の基本であるからこれは必ず指差し確認をしなければいけない。

その意味で新年早々勉強になった。

2016年1月 2日 (土)

人生2つの道

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これは10年ほど前に出した写真集の表4、つまり裏表紙である。
このウィンモノクロームseventiesという本は最初から目的があって、その存在感は1,970年代のポーランドのどっかの博物館が出した悪い印刷の展示会のカタログというものであった。

印刷の段階になっていろいろコストを調べてみると、ザラ紙というのは結構値段が高くて、出版社がそれを使わせてくれなかった。だから普通の本文用紙になっている。
ハイデルベルグスピードマスターという印刷機が好きなのでそれを探して印刷所の孫受けをやっている板橋区のはずれの印刷所で刷った。
軒が傾いたスレート瓦で親子でやっている印刷所でいい感じだった。

写真の構成は信頼できる気鋭のデザイナーがやってくれた。それは写真のセレクションからレイアウトからすべてそうなのである。だから私はスキャンした画像データを彼に渡しただけなのだ。これが思わぬ効果を生んでいると思う。つまり大成功と言うわけだ。

表4の写真はどっかの看板で→が右と左についている。そこの看板の前を2人の少年が横切っている。この少年ももう還暦近いと言う年頃であろう。写真は時間の缶詰だからその時間軸の封印が面白い。

写真の歴史で言うと19世紀のビクトリアリズムの頃に、切り張りした合成写真でつまらない芸術テーマを扱った時代があった。その中に当時名作と言われていた巨大な切り張り合成写真で、人生2つの道というのがあった。これは極めて人生の寓意的な当時の論理的人生観に基づくもので、遊んでいると人間ダメになって働けば明るい未来がくるというのを寓意的に表現したものである。

そういうのはつまらんと言うので20世紀初頭にいわゆるストレートフォトグラフィーの新しい波は起こったというわけだ。
表四の写真は私がもちろん選んだものでは無い。しかし極めて人生の寓意的な表現である。

ついでに言っておくと、この500ページを超える写真集の画像データというのは驚くなかれ当時の1枚のCDに入ってなおかつ余裕があったということだ。
だからぜこの全部の写真集の全体の画像データの大きさというのは500メガバイトぐらいなものである。
それを10年前の正月の3が日にまだ初期型のミノルタのフィルムスキャナでスキャンした。しかしこれは何か大きな仕事をしたというような充実感はあった。

2016年1月 1日 (金)

ベルリン 壁の記憶も失せて

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いささか不真面目な言い方だが、私にとってベルリンは壁があったときの方が記憶に深い。
1980年、西ベルリンのコレクターから依頼されて東ベルリンの撮影に通った。その後アサヒグラフの仕事で東ベルリンの工場街等を撮影した。

冷戦時代の象徴としてのベルリンの東と西と言うのは、壁が崩壊して十年をいくつも重ねる今になってみるとその記憶が薄れている。

東ベルリンの中心地のアレキサンダープラッツから地下鉄で北に行くと買い物通りシエーネハウザーアレーがあって、その西側は南北に走る壁であった。
壁の向こうはウエーディングという地区であって、壁のそばなのでrentが安くて私の好きな労働者街であった。
でもこのウエーディングから東ベルリンの検問所を通って当時の東ベルリンに行ってさらに北に歩いて買い物通り、シエーネハウザーアレーに行くには2時間はかかった。

壁がなくなって私が1番驚愕したのはこの隔絶された2つの街は歩いて往き来ができるということである。要するに壁がなくなれば完全に隣町なのだ。

この地域の空間感覚の混乱というのが私には何とも奇妙なのである。

このショットはベルリンの壁が作られて50周年の記念式典のあった夏に撮影した。
運動公園のように見えるところはその先がサッカースタジアムでかつての東ベルリンである。この左手に壁があってその先が西ベルリンのウェディングであった。

何か「憂鬱なニューカラー」というような雰囲気が画面に漂っているように思えるのは、私の昔の東西ベルリン分断の苦い記憶がそこに沈殿しているせいかもしれない。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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