フォト

オンラインギャラリー

バナー

無料ブログはココログ

チョートクカメラ塾ブログ

« 2015年11月 | トップページ | 2016年1月 »

2015年12月31日 (木)

スカイツリーのカメラアングル

Image_3

まだスカイツリーは影も形もなくて土台の基盤工事をやっていた頃に雑誌円タクシーの取材で福田和也さんらと今スカイツリーがたっている界隈を徘徊した。

そこには完成予想の看板があった。とてもそんな巨大なタワーができるとは考えにくかった。当時は私の生活というのは今の生活と同じでしょっちゅうヨーロッパと日本を行ったりしていたのである。

ある日、それは2009年のことであったが部屋のバルコニーから下を見ると隅田川の先に何か変な格好の建築物がスカイラインの上から頭出していた。

ビルかなと思っていたのが、私がヨーロッパに行って帰ってくるたびにちょうどジャックと豆の樹のあの豆の樹みたいな感じでそのビルはとどまるところを知らずぐんぐん天空に伸びていった。それが新しいテレタワーであると言う事を知ったのはもっとあとである。

巨大な商業施設のセンターであるからその周囲にある忘れ去られたような小さな個人営業の店なども何らかの恩恵を受けるのかなと私などは期待していたのだ。
ところが実際にスカイツリーができてみると商業施設でもうかっているのは付属の空町ばっかりで、電車のレールの反対側にあったガラス屋さんなども全くその様子は変わっていない。ガラスと言う3文字の看板文字が 落ちそうなのもそのままである。商業主義の厳しい現実ということなのであろう。

スカイツリーは一千万のデジタルカメラの目にさらさられてその鉄骨材料が幾分質量が少なくなっているかもしれない。
既にスカイツリーを撮影する名所と言うのはプロットされ尽くした感があるが、私がお勧めするのは豊海水産埠頭から押上経由で亀戸に行くバス路線である。
左側に乗車するとリアルタイムでスカイツリーがどんどん接近してそしてどんどん遠ざかってゆくのが楽しめる。
Image


2015年12月30日 (水)

やおはちだと思ってたこの半世紀

Image_2

私だけの事かもしれないが私は視神経が散漫である。

このクラシックな八百屋さんは月島の西仲通り真ん中あたりにある。半世紀前に私が日大写真学科の学生だった頃にライカに21ミリをつけてやはりこれを撮影に来た。
このトタンでつくられた建物というのは懐かしくて半世紀前も東京の建築物と言うのはトタン仕立てが結構多かった。より高級なのが木造モルタル作りとやつだった。

ベトナムハノイの代表的なカソリック建築はまさにフランスの存在そのものであるが、この前、そばに寄ってみたらこれがまたモルタル作りなのである。それで非常に近親感を感じたことがあった。

偽ライか愛好会の撮影会等で私はメンバーの人々をこの八百屋さんの前に連れて行って撮影をしたことがある。
先週の事トリトンスクエアの成城石井に買い物に行ってぶらぶら歩いて帰るとき、良い天気でこの八百屋さんの手前の角を曲がった。その時によくよく見たらこの半世紀私はお店の名前を間違って理解していたことに気がついたのだった。

お店の名前をやおはちだとばかり思っていたのである。よく見るとこの3文字の1番右側の文字は八ではなくて入るという字であることに気がついた。やおいりと読むのだろうか。

このくらい注意力が散漫な自分てあるから、この68年間に見てきたこの世界構造と言うのは全て私の思い込みと視神経の曖昧さで構築されているもののようである。
いまさらどうしようもない。このままゆくしかない。

2015年12月29日 (火)

大ちゃんの思い出

Image

月島の枝村酒店がなくなって九カ月ほど
になる。
これはなかなか寂しい。枝村酒店は我々のたまり場であったが何か永遠にそこに存在してるように思っていた。そういう場所はなくなってから本当の存在感が浮上してくるものである。

枝村酒店でもずいぶんいろんな人々にあったが、その中で忘れられないトップクラスの人は大ちゃんである。恰幅の良いおっさんであって本名は知らない。いつも隅田川の橋のそばのマンションから買い物自転車で清澄通りを南下して、決まった時刻に枝村にやってくる。
いよっ!チョートクさん…!
と声をいつもかけてくれた。大ちゃんは枝村酒店でいつも立つ位置が決まっていてそこでうれしいワインという安ワインをいつも飲んでいた。
それを1本空けてまた自転車で帰っていくのである。お店には大ちゃん専用のワイングラスもあった。

その大ちゃんが亡くなってもう1年になるのかな。今でも私は清澄通りを歩いていて、向こうから同じ年格好の男性が自転車でやってくると、イヨッチョートクさん!と声をかけられるのではと期待しているのだ。

この間立石に行っていつもの立石公園に向かう時に立石仲見世通りを越えた所のたこ焼き屋さんにこの看板を見つけた。そこに大ちゃんがいる気がしたのである。

大ちゃんの経歴を知らないが生粋の労働者であったのではなかろうか。というのはなかなかおしゃれな人で普段着の着こなしがうまいのである。そこにたむろしている我々若輩のデザイナー関係のやつが、大ちゃんがきていたアルプス工芸と縫い取りのあるジャンパーにいたく感激して同じものを制作しようなどと言う話が出たこともある。
労働者のきているものはデザイナーの遊びではなくて普段着だからもともと同一のものとして語れる性質のものでもない。格が違うのである。

2015年12月28日 (月)

テイクアウトショップ交差点

Image_2

今では東京都墨田区はスカイツリーで有名になってしまったが、二十年前は墨田区京島というところはまだ江戸時代がしゃがみ込んでいるような街であった。
路地裏の角に大昔の白色電球の街灯が立っていたのである。それに惹かれて間宮セブンを持って三脚を持って夜暗い路地裏をうろうろした。

墨田区の町内会は連携がしっかりしているからそういう暗い路地裏の痴漢が出そうなところをどんどん白色電球から蛍光灯に変えていったのである。今ではLEDかもしれない。

このクラシックなハンバーガーショップが実際に営業をしているところ見た事は私にはない。
閉店からかなり時間が経っているのかもしれないがその看板の色が微妙にあせていい感じになっている。

今年の5月にパリのポンピドーセンターにルコルビジェの展覧会を見に行った時、それは面白くなかったけどもポンピドーセンターの常設館で展示していたフランスのモダンアーティストが描いた食品の看板がやはり色あせたように描かれているのは面白かった。

しかしアーティストが意思を持って作りものよりもはるかに素晴らしいのは実際に路上で風雪を経て時間を経て自然に退色した看板のほうがいいに決まっている。

今回数年ぶりに京島のキラキラ橘商店街を歩いて発見したのは、角にあった交番が撤去されていたことであった。これは大賛成である。

界隈の風景が激変したのは小路の向こうにスカイツリーが見えるようになったことだ。これも新しい風景である。
古いハンバーガーショップの前に立ってしばらくその看板を現代アートとして鑑賞じて感心した。ちょうど信号待ちの交差点の手前なのである。でも地元の人は別にこの看板に何ら興味を示していなかった。
彼らは生活者である。

つまりパリでパリジャンがパリが素敵だななどと感激していないのと同じことだ。そこには生活者の態度がある。これは素晴らしいことだと思う。

2015年12月27日 (日)

東京大徘徊の機材

Image_5

2015年の私のビックニュースは1月の17日にひどい帯状疱疹を発症したことだった。
左手の痛みで全くものに触れることができない。

何とか日常生活が出来るようになるまで10ヶ月以上かかった。この5月にはパリに行ったのだが、その時には我楽多屋さんで買ったピンクの500円のハンドバックをたすき掛けにして行った。左手が使えない
からだ。
それが9月のカサブランカではだいぶ回復してきた。

そして12月になってようやく左手でキャリーのカートを引っ張ることができるようになった。誠にありがありがたい次第である。

先日我楽多屋さんで買った新しいバックがこの黒い小さいやつである。
二代目さんの個人的な意見としては、ブラックにオレンジのカラーコンビネーションは嫌いなのだそうである。私はそんなに嫌いでは無い。

この小さな黒いバックには仕切りが4つ付いている。だからカメラを入れたハンカチを入れたり、くまもんの黄色いショッピングバックを入れたり小銭を入れたりうまく分類することができる。

使い勝手の良い東京大徘徊用のバックである。バッグではなくバックね。

2015年12月26日 (土)

濡れ板写真館

Image


Image_2

日暮里駅西口下車徒歩3分の濡れ板写真館に行ってきた。友人の写真家和田さんが経営しているスタジオである。
アンブロタイプという技法でガラス板にコロジオン感光液を塗ってエマルジョンが乾かないうちに撮影すると言う古典技法である。
我々が19世紀の人々の姿を視神経に記憶しているのはこのアンブロタイプのおかげなのである。
その前にはダゲレオタイプだったが、ダゲレオタイプは高価だし撮影時間もかかった。
それで当時の斬新な写真技術を普及させたのがこのアンブロタイプであった。

ダゲレオタイプだと1分以上じっとしていなくてはならないがアンブロタイプだと坂本竜馬の時代には20秒ほどだったそうである。これは露光時間のことである。

それでアンブロタイプのスタジオに行く一週間ほど前から私は動かない練習と息を止める練習、死んだふりの練習をした。
それぞれ古典的な人物に扮して、まあ写真のコスプレですね。
私はアメリカ大統領専属の写真家岡本洋一の真似をするつもりだった。
それで岡本の写真を見てポーズの研究をしたりした。

ところが仕上がった濡れ板写真を見てびっくりしたのは19世紀のロシアの極東探検隊が撮影したイヌイットの部族の長老みたいな風に映っていた。
これはフイルムというか観光材料の感色性、つまり見え方が違うせいである。

だから同行した他の6人の人々もそれぞれ100年以上前の有名人のように写っている。これは絶大なアンブロタイプの効果だと思う。

このことは写真論としてちゃんとまとめて考えてみたいことだ。

2015年12月25日 (金)

ウクライナからプリスマスプレゼント

Image


Image_2

子供の頃にサンタクロースの正体が両親であったということに気がついたのはいつのことであったか既に忘れた。
歳をとると物忘れをするのでこれは非常に便利である。ウクライナから本当にクリスマスプレゼントが届いたのだ。
よく考えてみると2週間ほど前に注文した品物なのであるがそれを忘れているから事実上はサンタクロースからプレゼントもらったのと同じことになる。歳をとってこういうところが面白くなるとは思ってもいなかった。

ライカインコとハリネズミも注目しているがクリスマスプレゼントはこのぐらいの小さな箱であるのが一番よろしい。煙突から投入するのだから。

中から出てきたのはつやつやのブラックペイントの50ミリの明るさが3.5のレンズである。
1974年だったか初めてウイーンから列車を乗り継いでイスタンブールに行った時、イスタンブールのバザールで買ったのはこれと同じレンズだった。それまで私は28ミリとか21ミリの広角レンズで街をスナップしていたのだが初めてイスタンブールで標準レンズの面白さに触れたのであった。
この時代のこのレンズにはバージョンがいくつかあってブラック仕上げはブラックのマットとブラックのつやつやのペイントがある。
これはその後者の方である。最初にスタンブールで買ったのはブラックのマットの方であったがやはり写真レンズはつやつやのブラックペイントががよろしいと思う。

ウクライナのセントニコラウスに感謝。

2015年12月24日 (木)

捨て石劇場公園でチュンにパンをあげる

Image_8ゴスペラーズの酒井さんの真似をして最近の私はローカルハンターになっている。

東京のあっちに行ったりこっちに来たりしながら大手のパン屋さんではなくて個人でパンを焼いているところから食パンおかのである。そうなると食パンの耳が溜まってくるからそれを家人が小さく切って鳥にやるようなバージョンにして袋に入れてくれる。

問題はそれから先のプロセスである。人生の皮肉というのかベンチに座ってはとぽっぽを待っていると絶対に来ないのだ。北池袋の捨て石劇場公演のベンチに座っていてトリを待っていても一向に来ない。ようやくハトポッポが1人やってきたのでそれにパンをあげたらお腹いっぱいいっぱいでもう飛べなくなるぐらいまで食べてよろよろと去っていった。

それから、雀の集団が1ダースやってきた。地面にたくさんパンくずをまいているのだがスズメ集団はきのうえに縮こまっていてなかなかおりてこない。その理由をみて気がついたのだが木の上にひわ、あるいはかけすのような鳥がいるのだ。チュンが下におりてくるとそいつが飛び降りてきて邪魔するのである。正岡子規の明治に書かれたエッセイを読んでいると彼の庭には大きな鳥かごがあって、そこに各種の鳥をかっていたが、水を入れてやると鳥の種類によって大きい強い奴から順番に浴びるのだそうである。最初にひわがおりてきて水浴びをしてほとんど水を外に出してしてしまう。その後にじゃがたらすずめとか小型の鳥が降りてきて残りの水でつましく水浴びをする。

それと同じような状況がここでも展開しているのである。

すずめを見ていると地面におりてきてそこで食べるやつと大きなパンくずをくわえてツィクアウトするのがいる。それで思い出したのは消費税の減税率の話である。その場で食べるすずめは10パーセントであってテイクアウトは8パーセントのパンくずを食べているということになる。

 

2015年12月23日 (水)

立石公園の怪しいひとびと

Image_4

京成立石駅前にうまい寿司屋がある。10数年前ライカのビデオを上下二巻制作した。エム型の撮影は当時ライカM型は建設中の代官山のタワーの周辺で行った。
バルナック型は京成の立石周辺で行った。撮影が終わって連れていかれた寿司屋がその店でえらく気に入ったのでそれ以来通っている。

お店の主人はカメラ付き、特にハッセルブラッドが好きと見えて最初の頃にそのことをいろいろ聞いた。その次に行ったらお店の角に、これは店内であるが、きれいな風景写真がライトテーブル上の照明で飾ってあるのでびっくりした。寿司もうまいが写真もうまい。
文武両道である。

その寿司屋のそばには東京で有名な注文の仕方が難しい焼鳥屋がある。符丁で
ないと注文が通じないのである。まるで外国にいるようだ。そして立石仲見世があってその先に小さな公園がある。

ここは座るベンチには2つしかない。それで地元住民とベンチの争奪になったりする。
この前ベンチに座って公園を見ていたら数人の男性が怪しい挙動をしている。
最初は覚せい剤の取り締まりか何かで刑事が不審者の服をチェックしてるのかと思った。

よく見ると若い男性が和服を着ていて数人の年配の男性がそれを直しているのである。若い男性は年配の男性を会長と呼んでいるからこれは偽ライカ愛好会も会長ではなく多分町内会の会長さんであろう。
その男性がつける帯をまず全部解いて公園で長く引っ張っている。何か赤瀬川原平さんの1,000円札裁判の法廷の場面を思い出した。

公園で着付けをやるというのはなかなかワイルドで良い。

2015年12月22日 (火)

一千億円相当の紙幣(用紙)

Image_4

今回の札幌訪問では数年ぶりに小樽に行ったのである。
家人の父はその先祖が海運関係をやっていて、新潟と小樽との商売を広くやっていたようである。
その関係から当時の樺太に両陛下がおいでになったときの写真なども残っている。
その式典に参加するための正装のシルクハットなども残っている。

さらに撮影者は不明であるが両陛下が行幸するときの貴重な写真も残っている。ただし素人写真であるから殿上人はすごく遠くを歩いていらして豆のように見える。

日本銀行小樽支店の中は金融のミュージアムになっているので、今まで前は歩いていただけだが今回初めて中に入ってみて面白かった。

この日本銀行の建物ができたのが明治の45年と言うからちょうど私の父とか義理の父が生まれた時代にあたるのである。そう思うと実に昔の感じがする。

当時の大金庫の中に1万円札の紙幣の紙で作られたダミーが積んである。
これで一千億円相当であると言う。これは非常に参考になった。ニュースなどで国家予算のことをよく話している。この体積を見てこれの10倍とか100倍というふうに直感的に理解できる。
そういえば知り合いの資産家で5000万円の札束をリックサックで運搬したという話を聞いたことがある。

ミュージアムに1億円相当の札束を持ち上げると言うコーナーがあった。私の力などでは容易に持ち上げることができない。お金持ちには体力が必要だなということを痛感したのだった。

それで売店でこの金満家にあやかろうと言うので金貨を買って帰った。
訂正金貨チョコレートである。

砂漠に二つぶの砂を探す

ギャラリーバウハウスで開催した写真展の追加分のプリントでネガを探しているが見つからない。
2,000本のネガから適当につかみ出してそこから選んだ写真展であった。写真集もそうだが、あたしのセレクションはアトランダムであって、それがやり方なのだ。
写真を選ぶ枚数を限定するために100枚のポストイットを用意してそれで塩梅しているのである。

私の不注意だがプリントが終わったネガはそのままポストイットをはがしてウイーンのモノクロームの海に放流してやるのだ。判断が甘かったが複数枚売れるプリントがあるとは思っていなかったので、一旦放流してしまったネガをもう一度探すのは大問題なのである。

まるで砂漠の中で2粒の砂を探すようなものだ。
マンハッタンの怪人チョーセイさんが顔本に書き込みしてくれた。


Chosei Funahara ねが探しね。サウジアラビアの砂漠の真ん中で地平線しか見えないところでどっちにオアシスがあるかみたいな気分です・
ええやん!取り消し · 返信 · 2 · 2時間前

Chosei Funahara それも一人で、水筒一つに徒歩で。
ええやん!取り消し · 返信 · 1 · 2時間前

Chosei Funahara サバンナの動物が勘で水の在り処を見つけるみたいなもんで、長徳さんには屁みたいなもんだと思います。
ええやん! · 返信 · 2時間前

応援もあるしこれは絶対発見せねばならない。コレクターの方々に申し訳ない。
今回捜索している2,000本の中で不思議だなと思っているのは、そこにダーマトグラフでマーキングしてあるのは10年前に制作した写真集、ウイーンモノクロームセブンティズのネガがたくさん出てくることだ。
だからバウハウスのネガは私の記憶違いで別の所に保管してあるのかもしれない。歳をとるとそういうことの判断力が鈍るわけである。

一方で何十年探していたネガがひょっこり顔を出す。これは1980年にリーフリードランダーさんとのツーショット。Image

リーの若い頃
Image


2015年12月21日 (月)

リスボンのタルホ

Image

私は稲垣足穂ファンなのでリスボンに行くのは楽しみだ。というのはリスボンの肉屋の店先には看板にカタカナでいや間違えたローマ字でTalhoと書いてある。
TarhoではなくTalhoの方が感じが似合っている。

この事実に気がついたのは初めてリスボンを訪問した1980年であった。それでリスボンに行く時が来たらタルホの文庫などを持っていったが、最近はオンラインで読めるのでそれも持っていったずにタブレットで読むようになった。

ところでこの肉屋はリスボンの名物である29番の市電の西の終点の近くにある。
その終点は墓場である。非常に大きな墓地であってリスボンの旧市街と言うのは巨大なデコレーションケーキのような形をしているからそのおしまいの部分は切り立った崖なのだ。
その崖っぷちに墓地があってその先は断崖絶壁である。これも極めて現世的なこの世とあの世の区別を模型化したものと見ることができる。黄色い路面電車で運ばれていく乗客の終点が墓地と言うのが気が利いている。

2015年12月20日 (日)

京急線内のねかシャツ

Image_4 我が家では何十年も前から動物の猫のことを「ネカ」と呼んでいる。なぜそう呼ぶのかとよく人に問われるのだが猫よりもネカの方が猫らしく感じるからである。 京急線の梅屋敷から都心に戻るので各駅停車に乗った。 旅行用のキャリアバッグをたくさん持った中年の男女が乗ってきた。 その女性のきているのがコレなのである。 我が家の呼び方で言えばこれが猫シャツである。 ねかしゃつと発音します。 猫のキャラクターの付いた衣類とかアクセサリーとかバッグと言うのは実は使い方は非常に難しいものである。 猫好きの女性はアクセサリーからバックからシャツから全部猫がついていたりする。猫を愛する気持ちはよくわかりますがそれでは猫共和国の親善大使になってしまう。 その女性もストレートに猫の存在が出ていてその人の顔はよく覚えていない。白い猫の衣装があるだけである。 途中の駅からヨロヨロの老夫妻が乗ってきた。そしたらこの猫の女性はすっと立って席を譲ったのである。 これには非常に感心した。 その女性が老人夫妻に席を譲ったのではなく、白猫が譲ったのである。まさにそのように見えた。

2015年12月19日 (土)

30年前

Image

カメラ人類の友人の、のみかわさんが私の古い写真を送ってくれた。
品川の駅前で挙動不審だった私を呼び止めてカメラの話をしたのである。
スーパーセミイコンタを持っていたのみかわさんは蒲田梅屋敷の人であった。それで彼の影響で蒲田の面白さを知るようになってあちこち歩き回るようになった。

この写真をくれたのみかわさんが撮影年代が不明であると言ううが、私が判断するとこれは1985年前半だと思う。なぜその年代に特定できるかと言うとまだあごひげがないからだ。

1985年夏にウイーンに行っていた時に私はひどい腰痛にやられてアパートで寝たきりであった。中央病院に行く時はタクシーを呼んでエントランスまでびっこ引きながらおりて行ったのである。
その時からあごひげを伸ばすようになった。
だから私の推測が正しければこれは今からちょうど30年前、つまり38歳のときだ。68歳の私から見る30年前の私はどこか頼りなくて信頼ができないという感じがする。

下げているカメラはフジGS645だ。多分広角45ミリのレンズのついているやつだと思う。それに220のフイルムを入れて東京をあちこちと徘徊した。
十八歳から徘徊が始まって半世紀だな。昔も今もやる事は変わらないというわけだ。
Image
それがこうなった。ウオーカーエバンスの写真集で彼の20代と晩年のポートレートが並んでいるのを見て大笑いしたな、人のこと笑ってられない。

2015年12月18日 (金)

東京ラーメンタリー 閉店のご案内

Image


Image_2


東京ラーメンたりもその終焉を迎える時がある。
例によって立石駅から斜めに水戸街道を突っ切って堀切菖蒲園に歩行ルートを設定した。ただしこのルートはよく知っているのでなるべく知らない道を歩いた。

しかし結局、堀切菖蒲園に向かうフラワー通りに出てしまう。立石バーガーとか気合豆腐とかボルケイノなどの名店がある通りである。

左側にいつでも行けると思っていた中華屋があるのだが閉店案内の札が出ていた。
人間の一生と同じようにラーメン屋の一生もこのような形で終わるという当然の事実に今更ながら打たれた。

編集者の校閲ミスではないが最後に、店主と結んでいてそこを消して文字の間違いを訂正しているところが逆に効果をあげている。
人間味がある。
それが気にいった。

この店のファサードは電話番号がまだ3桁であるしスプライトのグリーンの広告がなかなか店を引き立てていた。

2015年12月17日 (木)

アイランドギャラリーで売れているクルマの写真

Image_4
私が契約している京橋のアイランドギャラリーが2016年で創業10周年である。もう一つの契約ギャラリー神田明神脇のギャラリーバウハウスも来年で10周年である。それぞれ特別企画を用意しているようだがアイランドギャラリーでは1月に10周年記念展を開催するのでそこに私も出品する。

ところで私のブログにアイランドギャラリーのオンラインギャラリーが設置されているのがその中でこの画像がよく売れているのである。
ウィーンの中心部の路地裏に停車した古い車を撮影したものだ。
車好きによるとこれは戦前のブガッテイの何とかいうモデルで貴重なのだそうである。

撮影したのは車がそういうものだとは知らなかったが、私はトヨタの自動車のカタログ撮影などをしていた関係上、空から降り注いでくる光が車の本体を非常にきれいに照明しているのに感心して撮影をしたのだ。

実はスタジオでこのようなライトの照明をやるのはなかなか大変な作業なのである。

撮影したカメラはオリンパスワイドスーパーである。当時はライカとニコンとこのカメラしか持ってなかったから実に少数精鋭主義で撮影していて楽しかった。

フィルムはコダクロームであったがこのフィルムもなくなってずいぶん時間が経っている。

舞台裏をあかすと私はこのオリジナルのフィルムを5,000円で売っているスキャナーで画像を取り込んだのである。そのひどい画像をアイランドギャラリーに納品したらさすがに石島ディレクターがびっくりしてそれにもう一度手を入れてちゃんとした画像にしてくれた。

こういうのを見ているとやはりウイーンの光はきれいだなと思う。それは単に私のノスタルジーで言っているのでは無い事は確かだ。なぜならばこのプリントを購入してくれた方がたくさんいるからだ。

感謝。

この作品はオンラインからでも購入できる。

2015年12月16日 (水)

ライカ3Gにソ連製ゾナーで東池袋徘徊

Image_2

1973年にウイーンに到着して最初に使った機材はズミクロン90ミリのF2だった。
そういうものを手に入れてうれしいから使うのは当然である。ところがこのレンズはもともとレポーター用レンズと言われていてその開放F2という明るさで夜間撮影などに使われるのが本来の目的だった。

真夏のウイーンで撮影するのだから絞りは16よりも明るくなる事は無い。せっかくf2なのにもったいない次第である。

そのレンズは売り払ってしまって数年後に手に入れたのがソ連製のゾナーコピーのジュピター85ミリF2だった。コンタックスコピーのキエフにソ連製の28ミリ、35ミリ、50ミリ、85ミリ、そして135ミリというのは私の標準機材だった。

1,970年代の中頃になってブラックペイントの85ミリゾナーコピーが登場した。写真のレンズだ。ただしこれはコンタックスマウントなのでる。ウイーン時代にはコンタックスキエフに付けて使っていた。日本に戻ってきてからライカに変換するアダプターを東京カメラクラブの山製作所が作ってくれた。それでこの四半世紀以上は今タックスマウントレンズはライカにも使えると言う非常に便利な状態になっている。

豊島区東池袋の名もなきころっけやさんから北にちょっと歩いたところに不思議なまちかどがある。そこだけ昭和30年代が取り残されているのだ。夕方コロッケ屋さんに行った時かそのまえか忘れたがこういうラッパ型の花が咲いている。名前は知らないがこれは好きな花だ。おっさんとすれ違っておっさんがあちらに行った直後、彼をバックにしてこのラッパ型花を撮ろうと思って瞬時にふりかえって撮影したのがこれだ。

一期一会というわけでは無い。しかし絞り開放で1,000分の1秒で撮っていて、ワンショットしか撮影していない。そういうのは意外と想像以上のいい写真が撮れる場合もある。

Image_3


2015年12月15日 (火)

結婚記念日に洗濯機を買いに行く

Image


Image_2

先月リスボンから戻ってきたら家人から洗濯機が壊れたと言う報告があった。
本体はちゃんと動くのだが水を取り入れる所の故障である。ヨーロッパならこれは修理を依頼するところだが、何しろ買ったのは10年以上前である。

これが機械式のライカなら80年前でもちゃんと修理ができるのだが、洗濯機は電気じかけだからそうはいかない。つまりデジカメのほうに近いのだ。

12月14日はうちの44回目の結婚記念日にあたるのでそれを記念して洗濯機を買いに行った。
周囲を見ていると結婚記念日には奥さんに車を買ってあげたりするそうである。しかしうちは階級が違うので生活のための重要な機材を買うというわけだ。
適材適所だな。

購入した洗濯機は10数年前に買ったのに今回のは値段がほぼ半分である。売り場の親切なお姉さんが玉川さんというのも気にいった。最近は多摩川方面にばかり行っているからその多摩川の精霊が登場したのだと思った。

1番びっくりしたのはそのサービスの速さである。ヨーロッパだったら注文から据え付けまで1ヵ月かかったりするのが普通である。ドイツ人の流通関係者が日本に視察に来てやはりその速さにびっくりしたそうだ。

支払いをするときにテーブルの上を見たらさらにシニア割引でポイントが2%つくそうである。全く至れり尽くせりで感心した。長生きしてよかった。
Image_3


2015年12月14日 (月)

ライカM3は革ケースで使う

Image

昔のカメラ雑誌で木村伊兵衛や土門拳の撮影中のスナップを見ていると、みんなちゃんと皮ケースに入れて使っている。これはライカのエム型の時代の話である。
ライカの純正のケースもどんどんダメになってM6の頃からもこれは使えないと思っていたら、デジタルライカになってそのクオリティはまたとんでもないものになった。

だから革ケースつきでちゃんと使おうと思うとやはり1,950年代後半のものになってしまうのは仕方がない。しかしこれとても戦後のドイツが生産したものであるから完璧な皮のクオリティーなどは求められない。
何十年も使うとまずフロントカバーのフラップのところから切れてくる。ストラップも同様である。

先にネタをバラしてしまえば戦後に作られた世界のカメラの皮ケースで最高のクオリティーを持つものはイタリアのレクタフレックス用である。いくつか持っているレクタフレックスのケースはいずれも昨年できましたという顔をしている。これは皮の質がイタリアでは良いのであろう。

それでライカエム型のケースの話になるが、日本の市場では大ネジの皮ケースはほとんど相手にされない。ところが皮肉なもので私が使おうと思っているライカは大根ネジなのである。

手元のガラクタ箱の中から大ネジを小ネジに変換するアダプターを探したがそういう時に限って見つからない。それでやむを得ず手元のchromeの小ネジの底蓋をつけた。上が黒くて下が白いライカであるがそんな事は撮影には何の問題もない。

革ケースがなぜ良いのかと言うと、あるシーンに遭遇してそれをとるかとるまいか迷っている時、意思
決定が発揮できるからである。
裸のカメラを持っていると犬のおしっこのようにあちこちとり散らかすのである。

この秘密はスーパーイコンタをケースに入れて持ち歩いていたことから学んだ。

2015年12月13日 (日)

例の大森中3丁目の手の届かない自販機に踏み台ついた。

Image Image_2 Image_3 例の大森中3丁目の手の届かない自販機に踏み台ついた。 これは大ニュースである。 数年前であったかカメラ友達の吞川さんにここで会ったことがある。 本当は小池さんと言うのだが、これは芸名とゆうかペンネームというかそういうものである。吞川さんは出雲に今はお住まいだ。 吞川は大田区では非常に重要な川で蒲田のあたりからずっと北西に流れている。 吞川さんは小学生の頃に友達と吞川を上流まで探検したと言う。 この手の届かない高いところに設置してある自販機は東京を徘徊している時に偶然発見したものである。大変なモダンアートであって、かの有名な芸術作品「泉」以来の傑作ではないかと思っていた。 吞川さんが最近Facebookで15年位前の東京のモノクロームのショットを発表しているのを見てこの界隈の自動販売機を思い出したのである。 京急の梅屋敷駅から行ってみたらちゃんと改良が行われていて自販機の前にブロックが置いてある。それで苦労しなくても飲み物が買えるようになった。 こういうのトヨタのアイデアと言うのであろう。 それで当たり前の自動販売機になってしまって芸術性は完全にゼロになってしまった。 私は以前にはこの上のほうの飲料水を買うのにまず下のほうのコーヒー缶を買ってそれを利用して上のボタンをしたりしていたものだ。 あるいはライカに着いた135ミリの望遠レンズで上のボタンをして水を買ったこともある。

2015年12月12日 (土)

小樽ラーメンタリー

Image


Image_2


思いつきで電車に乗って小樽についた。中国のツーリストの人々は例によってだらだら坂を下って小樽の倉庫街のほうに行く。

私はそこに行っても仕方ないのでシャッター街の商店街にある中華屋さんのあんかけ焼きそばを食べてコップ酒をいっぱい飲んで戻ろうと思った。

ところが行ってみるとお店は月に6回のお休みのその当日であった。私にはジンクスがあって久しぶりにお店に行ったりすると必ず定休日でそのまま戻ってきたりするのである。

小樽ラーメンタリー調査であるからラーメンを食べなければならないのである。
商店街の先に別の中華屋さんがあった。そこに入ってあんかけ焼きそばを頼もうかと思った。しかしそこには日本酒は置いてない。ビールだけなのだ。

そこで本来の真面目な調査に戻って野菜入り醤油ラーメンというのを頼んで調査は無事終了した。

2015年12月11日 (金)

小樽方面に岩を見に行く

Image_3


札幌は暖かい。午前中ぶらぶら駅のほうに行ってそのまま小樽行きの電車に乗った。

小樽に行くのは数年ぶりである。小樽に行くと言うよりも列車で途中に海岸沿いに大きな岩がある。このブログの以前にもそのことを書いたがその岩を見たくなった。

中国人のツーリストが非常に多い。宿泊しているグランドホテルでも朝食の時はまるで香港のホテルに入るような感じでそれがエキゾチックである。
電車の中でも周りは中国語がガンガン聞こえてくる。

その巨大な岩と言うのは場所からしたら小樽築港のかなり手前になる。
急行電車ので別に速度を落とすこともなくあっという間に岩は後に走り去っていった。岩のすぐ側に住居があるのが不思議である。
こういうところに住んでみたら面白いだろうなと思った。

2015年12月10日 (木)

キュビズムの大都会札幌

Image

これは1種のデジャヴ体験と言うのだろうか。札幌グランドホテルの15階の部屋から東の空を見たらそこにキュービズムめいた風景が見えるのである。

なぜこれが立体派に見えるのかということを早朝起きの頭で考えたがよくわからなかった。
目が覚めて下にブレックファーストを食べに下りて二杯めコーヒーを飲みほした時に思い出したことがあった。

キュビズムは絵画とか彫刻にはあるけども建築としてもそれは非常に少ない。その一例がプラハでごく短い時期に作られたいわゆる立体派建築なのである。

確かヨセフホホールであったと思うが彼の立体派建築のスケッチが残されていて、それはもちろん彼の仕事のカタログで見たのだがその中に何かこのようなデッサンがあったことを思い出した。

当時のチェコスロバキアで出版された印刷の悪い紙に印刷された粗悪なカタロムのしかも小さな図版の中に見たイメージをそのまま記憶に保存してそれが40年後に大脳の中で生還したのである。

これはいつか見た風景だなというデジャヴ感覚というのはずいぶん長いこと前頭葉の深いところにとどまっているものであることがわかって面白かった。

でもその立体派大都会は光のトリックでそのように見えるのである。数分後にはいつもの札幌の普通の朝の風景になっていた。

2015年12月 9日 (水)

札幌ラーメンタリー

Image

数ヶ月ぶりに札幌にやってきた。今井コレクションの今井さんが忘年会をやりましょうと言うお誘いである。天気は良かったが札幌空港は混んでいてアプローチで結構時間がかかった。

空港の案内所でグランドホテルに行くのに便利なバスの路線を聞いたら3分以上スタッフが説明をしてくれた。これがきれいなお姉さんなので何か得をした気がした。
それでバスは案内所のウランの14番から出ていると言うのである。高速道路が空いていたが市内に入ってから急に混雑してグランドホテルに着くまでに意外と時間がかかった。

それで別に約束の時間を決めたわけではなかったが他の皆さんに、めいわくをかけた。
そこでフォトメンタリー関連行事の札幌ラーメンタリーである。

時計台の向かいにある再来というカフェバーで出すラーメンはカレー味でなかなかいける。しかも温野菜が付いているのである。
もちろん非ミシュラン系です。

2015年12月 8日 (火)

げひん阿弥陀如来とー読んでしまう

Image_2

Image_3自由が丘の1つサキ先の駅の九品仏に行ったのは今回が3度目である_。

最初に行ったのは30年以上前のことだった。それは夏のお祭りであってすごい暑い日だった。本堂から阿弥陀堂に向かって歌舞伎の花道のようなものがしつらえられていた。そこを善男善女善男が阿弥陀様の金色の被り物をかぶってしずしずとワタルのである。

しかし夏の暑い盛りがあるから如来連中はゼーゼー言っていたのが何か気の毒であった。亡くなった写真評論家の平木収がこの界隈に住んでいるという話をキイタのでらきのことを考えていると彼の風貌はその顔貌からして阿弥陀さまに似ているのである。まことにありがたい次第だ。

リスボンにイク直前に九品仏を訪問した。その時は曇りで3つあるあみだ堂のそれぞれの参拝の皆様が闇の中に浮かんでいて厳かであった。浄土宗というのは不思議なところで極楽往生をクラス分けするもののようである。ちょうど今航空会社のファーストビジネスエコノミーがあってその間にさらにプレミアムエコノミーを入れるな感じでクラスわけである。

大昔の火葬場では焼き方にクラスがあったことを思い出した。別にがミディアムレアというわけではなかろうがこのしきたりが最近は火葬場ではなくなったようである。

仏様が立派である。上品中品下品の3つに分かれていてそれぞれにまた3つのクラス分けがある。クワシク観察すると上品でも下品でもその作りが全く同じようである。私は出生が下品だからいつも下品の下の仏様のほうにキョウカンをモッテイル。

言うまでもないなこれは上じょうぼん、ちゅうぼん、げぼんなのであるが私の言い方からすればやはりじょうひん、げひんのほうがよい。おどうの中を覗いていたらそこに来た小学生の女子がこの仏様げひんなんだ、と言っていた。まさにそのとおりである。

 

2015年12月 7日 (月)

本物のフェイクライカ

Image

ライカカメラが世界のカメラ業界のスタンダードになってから世界中でライカをコピーしたカメラが作られたわけである。
ソ連では1932年のライカD2登場ですぐさまそれのコピーが制作された。
それがフェイドである。これは国家的プロジェクトであった

その理由は不明ながら行きがけの駄賃と言うような感じでライカのフェイクが作られた。
当時は偽物というので世の中から排斥されていたのだ。

ところが皮肉なもので最近ではライカのコピー機であるニッカとかレオタックスとかカードとかあるいは上海のようなものが珍重されているのである。

このfakeライカの持ち主は本物のライカを買ったのでもういらないと言って私に譲ってくれた。
あたしはたくさんライカを持っているので偽物のライカがいいと言うのでこれを買った。

戦前のフェドをベースにして作られている。
戦前のフェドは当時のライカの完全なコピーである。だからそこ蓋の引っ掛ける止め金も小さいサイズになっている。その後の後期のライカとは大きさが異なる。
シャッターも整備されているようでそのシャッター感覚はなかなか優秀である。

フェイクはライカよりもライカっぽい存在に感じるのは、フェイクはライカを目指して努力しているからだ。
一方でライカは既に生まれた時からライカであるから根本存在の努力がそこに欠如していると見ることができる。

2015年12月 6日 (日)

東京ラーメンたりー板橋区弥生

Image


Image_2


ミシュランの一つ星を獲得したというのでラーメン通が盛り上がっているがこれからはミシュラン系と非ミシュラン系に分かれるので分類がしやすくなった。

以前の私のラーメンのお店の分類方法は腕組みをしているかしていないかであったので、今1つ分類が分かりにくかったのである。

先週の火曜日に小竹向原から王子まで5時間かけて歩行したのだがその途中にあった名もなきラーメン屋を再度訪問した。
この言い方は正しくなくて前回は前を通過しただけである。というのはその前に板橋区小茂根でスタンドアローンの周囲に何もない環境でラーメンを食べたからその後すぐ食べるわけにはちょっといかない。

こういう映画のセットでも作れないような高度な貫禄の入っているファサードである。

木造家屋の引き違い戸なので真ん中から入ろうと思ったらそこは故障で開くことができない。
お店の常連さんが右側に座っていて内側から戸を開けてくれたのだがそれも力いっぱいじゃないとあかないのである。
この店は入るまでにそれなりのライセンスが必要と言うことだ。

ラーメンを食べ終わったらアイスコーヒーが出てきた。
500円玉をパチリと置いてお店を出た。所在地は板橋区弥生町。環七の東山町のバス停から新宿行きのバスに乗った。


田中 長徳 一番侘び寂びのラーメン屋は浦安の猫実にあった。桂離宮の書院のようだった。1981頃。
ええやん! · 返信 · 12分前

2015年12月 5日 (土)

東京ラーメンタリー 戸越公園

Image_2

東京大徘徊を記念して特別企画。
すなわち東京ラーメンタリーである。

出会いがしら系ラーメンというのは街をむやみに徘徊していて街の寂しいところ、つまり独立系とゆうかスタンドアロンでやっているラーメン屋でいきなりラーメンを頼む
と言う1種の冒険である。イスラムステート系ラーメン自爆テロである。

1日乗車券で九品仏に行ってそのまま勢いで大井町線の適当な駅で降りて歩行を開始した。戸越公園近くの中華屋さんに入った。

この店がユニークなのは暖簾を掲げていないことである。我々ラーメンタリーは暖簾が出ているか出ていないかで営業中かそうでないかを決めるのでしばらくエントランスを注目した。
営業中の札を見てはいった。

ラーメンを頼んだらとんでもない時間に客が来たという顔をされてお湯を沸かし始めたのでラーメンをすするまでにかなり時間がかかった。

お昼の12時半と言うのにあたし1人しかいないというのは非常にゴージャスな雰囲気である。

ラーメンは普通の味である。それを普通に食べて500円玉をパチリとおいて店を出た。

2015年12月 4日 (金)

リスボンのこの家に住む

リスボンのα間の奥をちょっと上に上がったら、口ではなかなか説明できない奥に公園がある。
その先に古い時計屋さんがあった。
そこは角地で3階建てで35年前、リスボンを徘徊しているときにはよくその時計屋のウィンドを覗いたものであった。

前世紀の90年代にリスボンでexpoがあったときに私はリスボン訪問を遠慮して数年間行っていなかった。リスボンのランドマークはたくさんあるが、例えば有名なマニエリズム建築であるくちばしの家などは有名なのでノーベル賞作家のミュージアムになってしまったりする。

何かそう言う有名な場所になってしまうのは建物としての不幸があるのではないか。建物は無名でそこに存在しているのがいち番良いのだ。

この小さな時計屋さんはすでに25年位前営業やめてしまって建物は荒れ放題になっていた。
実は世界に何箇所かここに住んでみたいと思う場所があるのだがそのリストの1つがこの建物なのである。

しばらくぶりにこの元時計屋さんを尋ねたらそこは完全に修復がされていて売り物の札が出ていた。
この場所に住んでみたいなと思った。これはあたしではなく分身のチョートクソアレスのアイデアである。ただしここから東京に通勤するにはちょっと遠すぎる。

資金繰りの事は別に考えるとしてここに住んだらこの近所のどこで買い物しようかなどと考えている空想が楽しいのである。

この愛すべき建物の全景をとろうと思って、建物全体を見たら上の方に不動産販売会社の社長の顔がでかでかと出ている。それで買う気がしなくなった。

せっかくの極東からの顧客候補を逃したわけてある。なんでもそうだが営業に行くのにドイツの高級車に乗ったりチャライ眼鏡をかけたりしてるとせっかくの契約成立が全部ダメになってしまう。

そういうことはセールスのハウツー本に書いてありそうだ。
ここに住む予定はなくなってしまったのでその角のバーに入って赤ワインと炭酸水を頼んだ。Image


2015年12月 3日 (木)

最初に発見した中華屋さんでラーメンを

Image_2

長年使用したタイトルが東京大周遊から、今回年齢に応じて東京大徘徊になった。
目指すは徘徊老人のエキスパートと言うわけである。

千日回峰行とは大げさながら街を徘徊するときにはストイックにならねばならない。
石川直樹さんはこの月に2か月分ヒマラヤに行ってきたらしい。それをシャネルのギャラリーで写真展やるというのが今風なのであろう。

石川直樹さんとヒマラヤの登り方を話したことがある。今は登山会社がサポートしてくれるから誰でも登れますよ、というのがその答えであった。
詳しい事は聞かなかったけれどもやはり資本とかお金のことも重要なのかもしれない。しかし私はやはりヒマラヤはダメだな。
東京を石川さんと歩いた。真夏に新宿から四谷に歩いた位で何か石川さんやる気がなくなっているのである。ヒマラヤのような急な山は楽だけれども彼の場合真の東京の平地は苦手なのかもしれない。

それで東京大徘徊である。
住宅地などずっと歩いていて飲食店が全くないというのは普通にある状況である。東京オアシスでやる気のでるものはいつも必ずラーメンだ。
一般のラーメンのファンは必ずお兄ちゃんが腕組みをして怖い顔してるような店がいいと言う。私の場合はそうではなくて地味な親父さんが家族経営でそれが哲学というようなところが好きだ。
ラーメンは闘争ではなくて生活であるからフォトメンタリーしつつ、ラーメンタリーですね。

それで東京の砂漠の中のオアシスでいっぱいのラーメンをすすってそれから風に吹かれつつまた次の目的地まで歩行するのである。
私が歩いている街は誰も通行人がいないというのも不思議な話でてある。

これは飛行機からの平山山系Image


2015年12月 2日 (水)

東京大徘徊 小竹向原 王子

Image

この10年近く東京大周遊というタイトルで雑文を書いてきた。しかし歳が歳なのでこれからはタイトルを改めて東京大徘徊にしようと思う。

徘徊老人を東京で実際見る事は稀であるが、本格的徘徊老人を20年以上前に見たことがある。胸に所属の部隊名とマイナンバーと氏名住所の小さなタグの縫い取りをつけて歩いている老人のその速度が速いのでびっくりした。
しかもはいているのはつっかけサンダルなのである。これは我々通常人の能力の
範疇を超えている。

それを理想として大周遊から大徘徊に切り替えるわけである。ただ大徘徊をしているだけではもったいないのでスーパーシックスを肩から斜めにかけた。写真も撮れるわけだ。

東京メトロの1日乗車券600円である。これで小竹向原まで行った。
これはさはら砂漠やリビア砂漠に飛び立つサンテグジュペリと同じ冒険物語なのである。一度東京メトロの路線を離れて北に行くと公共交通機関はない。

東上線があるがそれをスキップしてさらにその北の三田線の駅を斜めにつきった。
東京大徘徊にはちゃんとしたルールがあって、1日乗車券を買ってしまったらその1日乗車券で1筆書きのように徘徊するわけである。
それで5時間ほどのコースで到着したのは東京メトロの王子駅だった。5時間歩行であって5時間飛行ならかなり遠くまで行ける。

撮影したのこのような看板建築、そして建物のファサードが不思議な平行四辺形になっているそういう形を撮影。

2015年12月 1日 (火)

ペタンク富岡

Image

ペタンクと言う遊びを実際に見たのは1,970年代の初めのパリであった。
リュクサンブール公園であったか数人のじいさんが銀色の玉を転がしてあそんでいた。
傍で見ていると運動量はあまり無いようであるが、逆に戦略的な要素がありそうで見ていて面白かった。

あのアラーキーがかつて芸名でペタンク荒木というのを名乗っていたことがあるがこれは70年代後半の話だ。門前仲町の裏の富岡公園でいつもペタンクで遊んでいるじじい連がいる。いや数十年前のパリで見たときはじじいだと思ったがご同輩である。

不思議なのは高齢者の男性の遊びと言うイメージが私に住み着いていることだ。高齢者の女性はやらないのであろうか。女子高生がこれに興じていたり何かいいと思うが…

それでルールがわからないのだが1時間ちかく彼らの競技を見ていた。この公園にその前に来たのは確か二年位前の夏なのである。
その時のことをペタンク見ていて思い出した。

その前にこの公園に来たのをいつだったか考えてみたら福田和也さんとあの写真部の撮影会でここに来たのであった。

私がお世話になった文芸雑誌enTaxiは12月で休刊になるそうである。その最終号に目を通していたら福田和也さんが私のことを書いてくれていた。
ありがたいことである。
その時であったかそれとは別の時期だったか既に記憶にないが福田和也さんとあの写真部と一緒に門前仲町のうおさんで飲んだのも懐かしい。
ペタンクという遊びはそれをプレイしている人よりも脇で見物している人のほうが時間軸を昔に遡ることができてなかなか興味深い。

« 2015年11月 | トップページ | 2016年1月 »

ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30