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チョートクカメラ塾ブログ

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2015年10月31日 (土)

東急池上線 御嶽山のスーパーイコンタ

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リスボンに出発する前に東京の南部を徘徊している。11月は尊敬する写真家、昨年の11月に亡くなったルイスヴァルツを追悼するために彼の使っていた6 × 9サイズの中判カメラを持ってリスボンに行くのである。

ルイスヴァルツの場合は車を使っていたから重さのあるリンホフを使っていたが私は全行程歩きであるから軽いカメラを用意した。それがスーパーイコンタである。

リスボンは7つの丘のある街と言われているが、かなりフィジカルに大変なわけであるのでそれを想定して似たような環境で高地トレーニングをしたのである。
大田区の南部、特に雪が谷から馬込にかけては馬籠の九十九坂と言われている。つくもと読む。だから似たような環境で高地トレーニングをするには最適である。
車も登れないような坂があって、主婦の自転車はみんなパワーアシストである。それがなければここら辺では生活できないようだ。

そして東急池上線の御嶽山駅がベースキャンプという見立てである。
そのキャンプで喫茶店を探していたらちょうど新幹線との交差点、ここでは新幹線は上の方ではなく下を走っているのであるが、のそばで何か測量をしている人々がいた。
その側に立っているガードマンがこっちを見ている。私は知りあいかと思った。というのはガードマンさんは私のカメラ本の読者であることが非常に多い。今までに何度か東京の路上で声をかけてくれたガードマンさんがいるがいずれも彼らはカメラジャーナルの時代からの読者ですというのである。これは俺はお前の古い読者だぞと言っているのである。

それで遠方からスーパーイコンタの蛇腹をかちんと開いて1枚撮影をした。これが私の挨拶なのである。何もガードマンさんがすべて私のカメラ本の読者であるというはずもない。

新幹線の凄い風きり音がした。私が大田区にノスタルジーを感じるのは新幹線の風切り音が高架線あるいは溝の下から聞こえてくることだ。

2015年10月30日 (金)

石川台のハロハロウインとスーパーイコンタ

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ハロウインはよく知らない。ヨーロッパにいた時は11月1日が万聖節なのである。冬になって万物が全てかれ果てる時にお墓参りに行くのである。
当時は毎年11月1日にはウイーンの北にある修道院にあるクロスターノイブルヒの万聖節のお祭りを見に行った。帰りに地元のワイン酒場でお酒を飲むのも楽しみだった。

11月1日の夜と言うのはそれこそ本格的な冬である。人間が生死を考える時はやはり寒いときに限る。日本の場合は先祖の霊を弔う時期が遺体が腐敗しそうなお盆の時期なのでどうも宗教観
が異なるようである。

ハロウィンがあたしにとって極めて不可解なのはその背景に宗教的なものは何もないからだ。日本でおそらく1番最初にハロウィンの伝統を守っていたのは1985年と言うから30年前、碑文谷にあった真面目なフォトギャラリーMinであった。
オーナーの城田さんはあちらのハロウィンパーティーをそのまま日本に持ってきたのである。子供たちに仮装させて近所を回ってお菓子をねだるとである。それが本来のハロウインなのだが、日本だと単なる商売と結びついたコスプレの馬鹿騒ぎになってしまう。

子供たちが近所を回ってトリック orトリートとやる、これはアメリカのなまはげ祭りのようなものなのであろうか。

日本だと魔女のお嬢さんとかぼちゃ野郎とコウモリじじいの3人のお笑い芸人の登場である。
それでおめでたい商売繁盛日本の村おこしと言うわけだ。

東急線石川台の商店街のワンブロックごとにこういうかぼちゃの雪だるまがあった。これはこれで良い。中国製の安いやつを大量に仕入れたのであろうか。かぼちゃの戒厳令だな。

2015年10月29日 (木)

キボーが丘理髪店のスーパーイコンタ

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東急線の石川台駅は非常に不思議な地形のところにある。急な坂の途中なのだ。普通ならそこに商店街があるはずなのに坂の途中なので商店街がない。
商店街は坂を下ったところから延々と続いている。

東雪谷への急な坂の右の角に理髪店がある。それがカタカナでこのような音引きのお店の名前なのである。ちょっとしたアイデアだが逆に印象が非常に強い。
希望と言う文字は何かネガティブな印象もあるのが逆に記憶に深く刻まれいるようである。

ウイーンのちょっと街外れの市電の駅の真ん前にやはりドイツ語で希望という名前のワインバーがあった。いろいろ通った他のワインバーの名前は全て忘れているのにそのあまり行った事もない、つまり路面電車の上から見たその店の名前が記憶に深く刻まれているのである。それと同じようにこの希望理髪店はもちろん1度も入った事は無いが私の記憶にしっかり残っている。

この坂を上ると標高はどんどん高くなっていってその高さというのはこの前カサブランカらから帰ってくるときに飛行機の中で見たヒマラヤ山系よりも高いのではないかという錯覚を私に起こさせる。そのコード感覚が非常に良い。

ぶらぶら散歩をしながらスーパーイコンタの1,934年生で撮影をした。当時の世界のトップカメラであるからうつりは悪いはずがない。往年のノンコートのレンズも空気感をうまく描写している。

2015年10月28日 (水)

イコンタ物語

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リスボンに出発する前に持参するモノクローム撮影用のカメラで考えている。
昨年の11月は敬愛するルイスヴァルツのなくなった月だ。
偉大な写真家を偲んで中判カメラで撮影をしたいと思った。

ヴァルツが10数年前に来日した時には木製の大型カメラとライカにニッコールの2.8センチをつけて北海道を撮影していた。
それにならって100年前のサンダーソントロピカルの5x4カメラを最初は考えていた。リスボンでシートフィルムを使うのは面倒である。せっかくゆっくりしたいのに大型カメラの撮影では本格的な仕事になってしまうからだ。

それでジョージイーストマンに敬意を払って1898年以来のロールフィルムカメラを持っていくことにした。調べてみるとルイスヴァルツはリンホフの6x9カメラを使っていた。だから同じカメラを持って行こうとしたがおそらく彼はサンシティーの撮影などでは車を使ったものと思われる。こっちは全行程歩きであるから重い機材は無理だ。

それで新たにスーパーイコンタの69サイズを手に入れた。

これならリスボンの散歩の途中で中判カメラで撮影が可能である。
同じような中判カメラはグラフレックスエックスエルとかフジカGLとかマーシャルプレスとかいろいろ持っているのだが、取り出してみる母とどれも重く非常にかさばる。
つまり本格的なプロ用カメラであっておりたためるスーパーイコンタのようなアマチュア用ではないのだ。

これが1,934年生の1番最初のモデルである。もちろんテッサーレンズはノンコートである。
戦前のレンズにはその戦前のレンズの味があるからこういうカメを相手にして今のレンズのような描写にはならないと文句を言うのは全く的外れの期間である。
80年前のレンズが今と同じ描写をするのであれば、それはこの80年間のレンズ光学の進化、そして研究者を冒涜することになるわけだ。

それで東京の南部品川区とか大田区をぶらぶら歩いて1枚とるとカメラの裏の赤窓を覗いてゆっくりフイルムを巻き上げて散歩をした。

2015年10月27日 (火)

池上食堂

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一昨年の夏に東急線の池上駅から徒歩1分にある池上食堂にはよく行った。
当時は私はJRに乗務していて電車の中で原稿書いていたのである。JR線で武蔵野線を反時計回りして最終的には川崎から蒲田まで行った。

そこから池上線に乗って池上駅で降りて徒歩1分の池上食堂である。
東京では稀な本格的食堂であって、そういう場所はヨーロッパのパブリックバーと同じだから時間に関係なくアルコールが摂取できるのである。福田和也さんが指摘していたところのいわゆる大人の公共施設というやつだ。

会社員の人々だと午後5時以降でないとアルコールを摂取するのはタブーになっている。これはおそらくコーランで規定されていることなのであろう。

池上食堂は私の友人が近くに住んでいてFacebookで教えてくれたのである。
食べられるものは数が少なくて刺身のような生物は置いてない。しかし逆に厚揚げの煮付けが非常に美味しかったりするのが魅力である。

ビールはアサヒのスーパードライとキリンラガーしかないが、ここではなんとなくキリンラガーを飲みたくなる。ジジイっぽく振る舞うのならやはりキリンのあの瓶の格好が良いのだ。もっともジジイっぽく振る舞うと言ってもー実際にジジイの真っ只中であるからそんなこと気にする必要は無い。

池上食堂出て池上通りを東にえんえん歩いて大森駅に行くのであるが途中から気が変わって池上本門寺の北側を退けて都営線の西馬込に出る。これは結構な距離になる。

いつもそのルートで面白くないので、この前は池上本門寺の山門からすぐ左に曲がって、つまりお寺の6時から9時の方向の道に沿って歩いた。本門寺に付属したと言うのかクラシックなお寺がたくさんあってこの道はなかなか良かった。しかも都営の西馬込駅はそれほど遠くは無い。

2015年10月26日 (月)

東急線を旅する

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1,960年代に写真表現の最先端の会話で、ともすると「角の煙草屋までの旅」という言葉が使われた。
この言い方が私は嫌いだった。
要するに写真のモチーフの日常性ということを語っているのであるが、私はこのフレーズが嫌いであった。タバコを吸わないこともあるが何か言葉の印象がくさいのである。この場合はタバコくさいと言った方がいい。

パリでも公共交通機関の路線図と言うのはワクワクする。パリのメトロの路線図であればそれぞれの駅を見てその風景が頭に浮かぶような勉強家の私である。

東京の南部を走っている東急線の木造建築代表にされるようなクラシックな駅は私にとってはまだ外国の位置にある。

それをおさらいしようと思って1日乗車券を使ってリスボンに行く前の週に東京の南部を旅した。

記憶から1番興味があるのは御嶽山であるが、それ以外にも面白いところがたくさんある。
池上線と多摩川線が平行に走っているというのを頭では理解できるのだが、実際にここを歩とこれが土地感覚が混乱してくるのも面白い。

多摩川線の鵜の木から歩き出して大岡山方面に出ようと思ったのだが行く手を山に阻まれて歩行しているうちに多摩川線の隣の駅の沼部に到着してしまった。

確かに自分の足で東海道新幹線の線路をこえているから起こりようがないはずなのだが1時間ちかく歩行してついたところが多摩川線の隣駅である。こういう都会の魔術と言うのはくたびれもうけの感じがあるが、夕方ビールをいっぱい飲みながらその日の旅を思い出すと興味がある。

多摩川線の地名で想像外だったのは武蔵新田 、むさししんでんだと思ったらこれをむさしにったと読むのである。これも東京の北部に住んでいる人間には非常に新鮮に感じる。
付け加えておくが人気のある街の駅に降りないのである。だから田園調布や自由が丘には降りない。そのまま通過である。

九品仏の駅はなかなか良いのだがその次の自由が丘はどうも面白くない。自由が丘に来ると客のほとんど降りて電車がガラガラになってしまうことだ。そんなに自由が丘は日本人民の趣味に合うのであろうか。

2015年10月25日 (日)

鵠沼海岸写真日記

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鵠沼海岸に住んでいる田中長徳研究家のササキジュンイチが鵠沼海岸写真日記というタイトルでこんな写真を送ってくれた。

ササキジュンイチは私のカメラのカスタムケースの製作者として知られているが、実はそれよりも私の仕事を真面目に研究している1人である。彼はインターネット等は一切使わないのでこれが目に触れる心配もないからここで書くのである。

佃日記の最大の犯行上の動機は文字データは重さがないが、それを3次元の立体物として質量のあるものにしようと言うことにあった。
そこら辺のアイデアを佐佐木はよく理解してくれたようで佃日記を自分の家のエントランスに置いたりいつも使っている環境において遊んでいる。

さらに江ノ島をみはらす鵠沼海岸にキャンバスを立ててその上に3次元立体物としての佃日記を置いてありして遊んでいるのだ。
まずは私の本来の制作の意図をよく理解してくれていてさすがであると思った。


2015年10月24日 (土)

いわきこかこーら

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尊敬する写真家高梨豊さんが60年代初めに撮影したコカコーラの配送車の作品がある。 戦後のモダニズムを代表するような、というよりも戦後の高度成長の甘い夢がこれから育とうと言う時代の社会を連想するような作品だった。しかもそのタイトルがTomorrowなのである。

私などはこの高梨さんの作品に影響を受けて日本デザインセンターに入社したのである。聞けば300倍の競争率であったそうだ。

広告写真を撮りながら自分の作品を撮ると言う当時の理想的な写真家生活というのは幻想に過ぎなかったわけだがその夢から現実に引き戻されるまで3年の時間がかかった。

この3年間の時間というのは自分にとって生きた写真の大学であった。そこから教えたものが今の私の写真家の土台になっているといってもよい。

コカコーラの文字列は私にとって信仰の対象でありモチーフなのである。世界中でその国でコカコーラがどのような状態で展開しているかということが私の撮影の重要なポイントにもなっている。

だからこの9月にはモロッコのカサブランカでやはりコカコーラの配送車を見ると撮影をしたものであった。
さてこれが現在個展を開催中の、いわきのギャラリーコールピットにトークに行った時に撮影した写真である。

それが広告なのか芸術作品なのかわからないが駅前のメインストリートにこのようなオブジェがあってたまたまそこにコカコーラの配送車が停止したのである。横断歩をわたっていた私はこれは写真になるのではないかと思いながら横断歩道を渡りきって歩道上から見たらこの何とかザウルスを配合した不思議な看板の前にちょうど良い位置にコカコーラが止まっていたのだ。

それをツーショット撮影してその中から選んだのがこれである。コカコーラの配送車のパネルに木漏れ日があたっているのがいいと思うが、撮影は数秒かかっていないからそんなことには気がつかない。後で気がついてこれは日本の、というよりも亜細亜の光だなと思った。カサブランカのコカコーラの配送車はもっと強烈な太陽の照明がされていて、こんなに柔和ではない。

2015年10月23日 (金)

おんたけさん

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その理由は何かわからないが数年前にいわゆる東京の南部にある東急線の沿線に良く来たことがあった。
池上線大井町線などで、まだ戦後がそのまま残っている鉄道の駅である。

しかしこういう旅の記憶、そう、私にとっては旅なのであるが鉄道に興味がゆくのは私がてっちゃんではないのですぐに忘れてしまう。
それでまたこの地域のおさらいをしてみることにした。

通常の私のルートは都営線で西馬込まで行ってその終点から西に向けて歩くのである。
新幹線が掘割の中を通っていたりいきなり高度が高くなってガードの上を通ったりする起伏の多い道を延々と西に歩く。
おそらく新幹線ができた当時と思われる線路沿いの標識があって大阪まで何キロ東京まで何キロなどと書かれている文字が既に薄くなっているのも興味がある。

そのままずっと歩いて東急池上線の蒲田にわりと近い御嶽山に到着するとそれで一段落である。
御嶽山はこの場合、おんたけさんとひらがな表記であるのが好ましい。
ニューヨークから帰った後にNとこの界隈を徘徊して最終的に行き着いたこの駅であった。

その時の私はまだ30代でNは20歳になったばかりであったから若さの勢いでおそらくとんでもない距離を歩いたと思われる。中目黒から歩行したのではなかったか。
真夏の午後に汗みどろになって御嶽山駅に到着した。そこでNがおんたけさんと言う音が良いと言う事を口に出した。
Nは女子美の出身であってスナップショットに頭角を現してカメラ雑誌などにも作品を発表していたがその後その消息はわからなくなった。しかし女子美出身であるのに御嶽山と言う文字列の密教的な響きに魅力を感じると言うのはなかなかできるなと感心したのである。

この界隈はかの稲垣足穂が住処を失って久が原の友達の家に居候していたりした日がある。
思えば私の場合、新宿の横寺町とか、中野打越とか、青梅の中神とか、
稲垣足穂が転々とした後を追跡していることになる。東京大周遊と言うのは別に面白いと言うわけでなく歩いていると退屈になってくる。だからそのような記憶の中のポイントをいくつか持っているということが退屈気分から逃れるための1種の方便なのである。

2015年10月22日 (木)

新しいニコンミュージアムで1番古いニコンに再会する

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品川のニコンの本社に先週末から新しくニコンミュージアムが開館した。
早速見学に行ってきた。

総合受付の脇ににエントランスがあって別に受付を通さなくても自由にミュージアムに入ることができる。その広さは1,000平方メートルはあるのではないかという広大な空間であって、しかも宇宙的な闇の中にニコンや各種のデバイスが浮かんでいるので宗教的な殿堂と言う感じがする。なかなかうまく作られている。

オープン直後と言うので外国のお客さんが多かった。特に経済発展の中国からのツーリストさんが多い。1,980年代の後半に新華社が企画したプロの報道写真家のフォトコンテストの表彰式に呼ばれて行ったことがある。私は表彰式の冒頭にステートメントをやる役割だった。結構緊張した。人民日報とか解放軍報などのトップの人と名刺交換をしたりした。これは外交的なビジネスなのである。
ニコンは中国でもトップブランドなのである。

エントランスはミュージアムショップがあるが、これがおしゃれで全部オートマットなのである。必要な品物と個数を入力すればカードにチャージされるようになっている。英語に堪能な受付のスタッフが外国人のゲストのアテンドをしていた。国際水準であっていいなと思った。

おーぷん直後ということでエントランスは胡蝶蘭の放列ができている。
その中央に木村伊兵衛さんの肖像と代表作の秋田おばこの作品が並んでいる。
一瞬、木村先生没後何十年のセレモニーかと思った。これは胡蝶蘭のなせる技なのである。

我々ニコンスズメはニコンと言うとDavidダンカン、三木淳さんのラインを想像するが木村さんをトップに序列というのはニッコールクラブという存在を座標の中心に据えた言うことなのであろう。

会場の左側の側面を全部埋めているのが最初のニコンから最新まで膨大な数のニコンの群である。よくこんなにたくさんニコンを並べたなと感心してすぐにニコンを作っている会社そのものなうだから別に不思議でもなんでもないということに気がついた。

昨年のちょうど今頃だったか大井町に行ってその設立準備の製品を、製品ではなくて記念物であるがそれを拝見したことがある。その中に伝説の1番最初のニコン、実際にはカメラとしては誕生しなかったからそのトップカバーが残っているのだが製造番号6091のUr Nikonに出会った。

その最初のニコンにほぼ1年ぶりに再会できたのは嬉しかった。

2015年10月21日 (水)

ツクダ1938

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オーストリアのウィーンに住んでいたのは1973年から80年までだが、日本に引き上げてしばらくたってウィーンを再訪した。
それは1988年であった。

1938と言うのは特別な記憶を私に与えている。

アドルフヒトラーがオーストリアを併合した年なのである。それから、半世紀経った1988年に私はウィーンを再訪したのだがその歴史的事実を忘れないための数多くのセレモニーそして記念の展覧会を開催していた。

手元にあるカメラ関係の資料で忘れられないのは英国の写真年鑑である。いくつかあるがたまたま積んである1番上の号が1938年度版なのだ。

表紙のすぐ次がAgfaゲバルトのフィルムの大きな宣伝が出ていて、その次がツアイスコンタックスの3型である。ライカ、ローライの広告もたくさん入っている。要するに第3帝国が連合軍に、これは結果的にという意味だが、大攻勢をかけた最初の年代なのである。

写真年鑑の奥の方にはいわゆるビクトリアリズム風の美しい写真作品がたくさん収録されている。何かそれを真似したくなって佃の堀に止まっている小舟を撮影したものをモノクロームにしたがこれである。

ストレートフォトグラフィーとはちょっと意味が違って写真芸術志向のほうに指標がややずれているというのはそれなりに面白い。

タイトルは「佃1938」ということにした。

2015年10月20日 (火)

新小岩商店街のサイクルショップ

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新小岩駅の南口から出て大きな商店街がある。そのアーケードは非常に長くてシャッター帰りなうとんどない。間違っになっているのである。

その商店街のアーケードが尽きようとするあたりの右側の角に自転車店がある。
その自転車店は私が少年時代の頃の記憶に残っている自転車店そのままである。
それもかなり大きな繁盛している自転車、という風格がある。

最近では自転車と言うものは庶民の足というか主婦のお友達の地位が与えられているが、もともとは非常にモダンな遊び道具だった。

飛行機を発明したライト兄弟ももともと自転車屋さんであった。
サイクルと言うのはというベレー帽を後ろ前に被ってカントリーロードを走って自然に親しむというようなモダンスポーツであったのだ。

ライト兄弟が初めて飛ばしたキティーホークを見ているとその存在感は飛行機と言うよりも自転車の部品を集めて作ったと言う印象がある。

私が新小岩に行くととりあえずあそこの角の自転車屋までと言うのが通常のコースだ。それはそのまま商店街を全部歩いて往復することになるからだ。

商店街往復して戻ってきてそこで終わりかというとそうではなくて堀切菖蒲園につながっている平和橋通りを延々と北に向かって歩いていくのである。
私は徒歩であるが私の歩く脇から自転車がどんどん追い抜いて行く。自転車は人の歩行速度よりはるかに速い。大変な発明であると痛感するのはそういう時だ。

30年ほど前に東京を自転車で走りまわっていた時があった。一日百キロ走らないと安心して眠れないと言うような異常状態である。何かの雑誌でなぎら健一さんと対談したときに、なぎらさんは江戸っ子の負けず嫌いだからポタリングの話が出て俺の方がお前よりポタリングはずっと早くからやっていたということの話が出た。

80年代に東京を自転車で走りまわったのを東京自転車日記にした。ところがこれは古いキャノンワードのワープロに保存したので読めない。1部だけ救してそれを当時のカメラジャーナルに掲載したことがあった。しかしそれすらすでに四半世紀昔の話なのである。


2015年10月19日 (月)

クラシックレトロフォーカス

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35ミリの一眼レフが登場した当初は広角レンズの撮影はできないと言うことになっていた。ツアイスのレンズでも焦点距離4センチテッサーが広角レンズとみなされていたのである。
その後になってフレクトゴンと言とかフランス製のアンジエニューのレンズが35ミリレンズを発売した。

要するに通常の標準レンズの前に凹レンズをつけて画像を縮小するわけである。
単純なやり方だからか効果があって初めてフレクトゴン35を使ったときはその画質にびっくりしたものだった。

しかし広角レンズもその当時に超広角レンズと言われていた28ミリあたりになると凹レンズを1枚では足りなくて複数投入しないと間に合わなくなる。
ニッコールの一眼レフ用の28ミリを手に入れた時は感動した。それはレンズのほとんど全部をガラスが占めるほどのレンズフロントである。
だからレンズの名前を記入するところがなくてレンズのブランドと焦点距離はレンズバレルの外側に刻印されていたのであった。それが広角レンズ、レトロフォーカスレンズのダイナミズムというものだった。

ここにある画角が85度から90度以上のレンズはいずれもクラシックな設計であるから前玉が異常に多い。
1部のレンズ人類はそのアンバランスな前玉の大きさにしびれて、そこにまた美学を感じたりするのである。

2015年10月18日 (日)

プラクチナの巻き上げ

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プラクチナは1,950年代半ばに世界を席巻した一眼レフシステムカメラだった。
ありとあらゆる撮影目的にシステムを組むというのは当時の高級カメラの理想とするところだった。だから日本の一眼レフでもそうだがシステム構成図が大きければ大きいほどそのカメラが進化している印象があった。

これは1種の錯覚なのかもしれないな商品を売るときのパワーはこれに限る。

プラクチナは巻き上げノブが普通の方式である。しかし本体の下の部分に巻き上げようのカップラーがついている。
1,950年代というのは半ばにライカが巻き上げのM3を登場させたのでレバー巻き上げ主流になりつつあった。
そこでプラクチナも本体の下に巻き上げレバーのアダプターがつくアクセサリーを発売した。結構使いにくいのはレチナが同じ時代にやはりフイルム巻き上げを本体の下でやっていたのと同じである。

このカップリングのシャフトでスプリング式のモータードライブも装着できる。音は大きいがなかなか歯切れが良くて快適に使える。しかも当時のニコンFのモータードライブはサービスセンターに送って調整を必要としたのに、プラクチナの場合は調整なしでいきなりつくのである。そこら辺がスマートである。

しかしここら辺にカメラ操作のトリックというものがありそうである。ライカにつけるライカビットも同じである。余分な付属品が付くと何かカメラが有能になったような錯覚を起こすのであるが、ライカビットはついても使い勝手は一向にに向上しない。

結局このカメラの場合コンタックスと同じような円形のノブをただただ回して撮影するのが1番理想的な撮影方であることに気がついたのは使い始めてから20年も経った後であった。

2015年10月17日 (土)

プラクチナである プラクチカではない

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日本のカメラ、特に35ミリ一眼レフがメジャーな市場を占めるようになる以前の、アメリカでのメジャーなカメラはエキザクタとプラクチナであった。

でも当時のドイツの精密機械工業のメッカドレスデンの製品である。
エクザクタは戦前からの基本があるから逆に改良がしにくい。増築建築のようなゴテゴテとしたデザインになってしまう。

それに対してプラクチナのほうは基本設計のバックグランドがないから自由自在に設計ができた。1,950年代初頭にこれだけのシステムカメラができたと言う事は凄い事なのである。
だから当時、このカメラはアメリカでは結構な高値で売られていた。

プラクチナを最初に入手したのはマンハッタンであった。グランドセントラルステーションの中二階で定期的にカメラ市が開かれていたのである。オイスターBARの奥だ。
1982年のことだ。
スプリングモータードライブ付きで15メートルのフィルムカセットのついたすごくゴージャスなカメラであった。

1,980年代にプラハに住むようになってからプラハのカメラ店で同じカメラをよく見かけた。値段が安いので馬鹿にしていたが、実際に使ってみるとその作り込みと精密感がいいのである。
ギアの仕上げ等はフィルムを巻き上げてみるとこれは本物の精密機械であるなということがよくわかる。

当時のシステムカメラ、それはニコンFより数年前に登場したので大変な高性能であるのだが、システムカメラが1番使いやすいのは何もアクセサリーをつけない時が最上のパフォーマンスを演じる。

eBay等でこのカメラを検索するとコンピューターがサジェスチョンをしてくれてプラクチナではなくプラクチカに誘導されるのはありがた迷惑なことである。だから検査の時にトップにKWと会社の名前を入れるとちゃんと検索してくれる。

交換レンズは各種準備されていたがやはり標準から広角が1番使いやすい。
このカメラを使っていて良いのはシャッターの音が静かなことである。クイックリターのシャッターではないのでミラーは上がりきりになる。だから結果としてシャッターの音は小さくなるのだ。

2015年10月16日 (金)

吉村朗に再会

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この夏のギャラリーバウハウスでの個展のプリントの追加注文があった。
11月はリスボンに行くのでその前にプリントを作ろうとネガを探したのだが簡単には見つからない。
老人力を発揮しているのである。前回出品したネガは別にしておいたつもりなのだがそれが記憶から飛んでいるのである。

それで柳行李に入っている2,000本のネガを端から見ているのだが大変な量である。

そういうわけでご注文下さったコレクターの皆様には今しばらくお時間をいただきたいと思う。ギャラリーバウハウスに代わってお詫び申し上げます。

人生の皮肉な法則というのはこういう場合にも感じている。
バス停でバスを待っていると、必ず反対側のバスが最初にくるのである。

それと同じことで今まで探していてどうしても発見できなかったショットが次々と登場してくる。
これは1980年にザルツブルグカレッジのあたしのワークショップに参加した写真家の吉村朗のショットである。右の人物がそれだ。吉村がなくなってもう何年か。
吉村はザルツブルグから帰国後に頭角を現して活躍するようになった。これは写真家の卵時代というわけだ。

2,000本のネガの中から1枚だけのこのショットが発見されたと言うのは偶然のいたずらと言うやつだ。
しかしギャラリーバウハウスで展示した関係のネガが全部発見できないというのも実に運命のいたずらと言うのであろうか。

2015年10月15日 (木)

「新」石器時代

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いわきの展覧会でトークショーが終わって時間が午後5時のバスにまがあったので街を徘徊した。
青空市みたいなところで地元ソーセージの安いのを買って焼酎のプラのカップを買って買い物通りのベンチに座ってそのソーセージのビニールの袋を破ろうとしたの破れない。
簡単には破れないような非常に頑丈な素材でできているのだ。

袋の金色のテープを剥がそうと思ったらこれも剥がれない。
工業用の接着剤と言うのか普通の力では開かないような大変な接着である。
普段飛行機で移動なのでハサミも何も持っていない。
それで考えたのは海外とかこの前は大阪であったが、食品の袋開けるときに腕につけているタイメックスのベルトの金具を使っているのである。
貧者の知恵というやつだ。

尾錠の真ん中にあるとんがった金属でソーセージの袋を突き破ろうとしたがこれもうまくいかない。
それほどハイテクの頑丈な素材でできているらしい 手元には焼酎があり炭酸があり後はつまみが必要なのにその最後の突破口が突破できないのである。

それで無意識のうちに冷静に周囲を見回してナイフの代わりになるようなものを探した。付近は割石が一面に敷き詰められている。この石の中からなるべく刃先が鋭いのを探してそれを使ってようやくソーセージの袋を開けたのである。
これは新石器時代なのである。こういうハイテク時代石器を使うというのは逆に一瞬満足感があった。

2015年10月14日 (水)

いわきとウイーン

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いわきの写真ギャラリーコールピットで個展を開催中であるが、同時にトークショーを行った。
最初はテーブルが出来であってその向かいにまっすぐに椅子が並んでいた。
どっかの文化講演会のようになってしまって面白くないので椅子はコールピットの林さん、ヒットオンの林さんを中心にして丸く並べてもらった。

満員御礼であった。

北茨城とか仙台から駆けつけてくれたカメラ人類さんもいた。ありがたいことである。

いわきは想像以上にフォトジェニックな街であった。それはこれからおいおいとかこう思う。

展示写真の前に戯れにおいでになったカメラ人類さんのライカを配置して撮影した。

1台はライカモノクロームでもう1台はオリーブの何とか言う限定モデルだと言う。
その写真をFacebookにアップしたら、すぐオーストリアのウィーンから反応があった。何十年来の古い友人のBodoである。これはマリアヒルファーストラーセて撮影したのかという質問なのだ。

少年が路面電車のレールの上を走っているという単純な構図で写っている範囲は狭いからなかなかこれで場所が特定できるという人は多くない。
2人を渡なのである。

トークでウイーンと言う街はこれが撮影された当時1,970年代と今と変わっているのかそうでないのかという質問があった。 私は街はそんなに変わっていないのではないかと答えたのだがその事実が今ウイーンに住んでいる友人から発せられてそれが証明されることになった。ここら辺がFacebookの面白さということであろう。

2015年10月13日 (火)

いわき大周遊

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いわきのギャラリーコールピットで個展を開催している。24日までである。
それで本日12日午後1時からトークショーやるのでいわきに来ている。

東京から日帰り往復してもつまらないので1泊で写真を撮って歩いた。なかなか面白い。

駐車場があって無機質な建物があって空があってしかもどんよりした曇りである。
何か自分がルイスバルツになったような気がする。

ただし私がバルツが好きなのは彼のストレートフォトグラフィの部分であって、後年に展開したへんてこなインスタレーションのほうは嫌いである。

環境芸術をやったり新幹線の内部をデコレーションしたりするのはやはり写真家の本筋ではないというのが私の意見だ。

JRのいわき駅のコンコースで少年2人がラジカセの音楽をかけてヒップホップの練習をしていた。それが何か映画のワンショットみたいで非常に良かった。それほど人影がまばらなのである。

2015年10月12日 (月)

Wien 1973 深夜のBar

01012014_8これも73年ごろに撮影されたシリーズである。夜の飲み屋というのは非常に不思議なものだ。ヨーロッパの飲み屋で時々こういう照明をしている店がある。つまりカウンターのいちばん中心のマスターも立っているところだけ非常に明るい証明がされているのである。

まるで小さな劇場で主演の俳優をSpotlightでてらしているかのようなに照明効果がある。

この店のマスターもなかなかウィーンの価値観でいうところの男前である。カップくも非常によい。ただしこの飲み屋で何を飲んだのかとかそういう記憶は一切忘却しているのである。写真の面白さとか不審者というのはどうもそういうところにあるようだ。まあ飲み屋で飲むといったらあたしの場合はビールではなくてワインであったのだろう。

7年と半年の滞在中に私が巡り歩いたカフェとかバーの数はそんなに多くはない。ひとつの店から次のカフェに歩行する間にしゃしんを撮っていたというなことになる。このお店は旧市街の奥まったところにあるのは認識しているが私の行きつけのバーであったというわけではない。何かの都合で友人かなかにあったのに違いない。アメリカの名画のナイトホークスのあの感覚をちょっと思い出した。

2015年10月11日 (日)

Wien 1973 隙間広告

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これは1973年にオーストリアのウィーンで撮影されたショットである。 数百年の都市計画の残骸がそのまま残っているからこのようなことになるのだ。 要するに道路の拡張計画がおきてそれに応じない建物はそこにい座りそれ以外の建物はセットバックして建設される。 そうするとそこに不連続な建物の側面が出現することになる。 そういう隙間を無駄なく使おうというのでこのような広告が登場した。正式には何と言うのかわからないが私はこれを隙間広告と呼んでいる。 それぞれのデザインは100年以上前のものであるから、逆に当時の人々がテクノロジーとか新製品の魅力をどのようなところに感じていたのかがわかって逆に面白い。 このようなエクレールをデザインに取り入れたものなどは当時の最先端であったのだろう。 私がウイーンに住んでいた40年前にはこのような隙間広告は街のあちらこちらにあって、とりあえず今日はあそこにある稲光の隙間広告まで歩いて行ってまた戻ってくるというような歩行の計画が立てられたものだった。 隙間広告に対するアーティストの執着というのは案外共通な物があって70年代にデビューしたウイーンを細かいタッチで街角の風景を描くモダンアーティスト、ペーターポングラッツ等もその1人だ。 写真家の場合隙間広告をとるには50ミリの標準レンズでは短すぎるのである。それで85ミリのレンズをよく使用した記憶がある。これなどもそうであっておそらくソ連製のジュピターのレンズで撮影したものであろう。その意味で木星球クラブ発祥の地はオーストリアのウィーンと言うわけだ。

2015年10月10日 (土)

東池袋 名もなきコロッケ店の幽玄

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豊島区東池袋の名前のないコロッケ店である。
中央区のギャラリーノットイコールギャラリーの画廊男こと
佐藤さんがまだ生きていた頃にそこにこの店のコロッケを差し入れたことがある。

そこに行き合わせたアーティストで自称コロッケ評論家の人がそのコロッケを1口食べて黙った。この人は酒はいってきも飲まない人なので味覚は信用ができると思う。

二十数人の大ぜいでこのお店の前まで行ってコロッケを大量に買ってそれをお店の向かいの小さな公園でみんなで食べた記憶もある。
メンチカツ80円でロースカツは200円だ。これだけのコストパフォーマンスの良いお店というの外に私は知らない。

お店のファサードがまた一瞬の幽玄というか、ユーゲントシュテイルしているのである。

あれは第一回の京都賞の授賞式だったと思うがノーベル財団が受賞した。蹴上の都ホテルの庭でノーベル財団の紳士連と雑談をした記憶がある。
つづめて言えば庭が枯山水であって細くはき清められたジャリの意味を聞かれたのである。踏み石が陸で他は海を象徴しているのだなどと答えてそれはそれなりに面白かった。もちろんそれは本番の前の時間つぶしなのである。

名もなきコロッケ店のファサードは私の価値観で言うと何か枯山水しているのだ。モルタル造り桂離宮と言い換えても良い。
建物二階にある絵は店主が描いたものである。これなどは重要文化財か国宝クラスであろう。

2015年10月 9日 (金)

バスの窓から撮影をする

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東京メトロで移動すると窓から外は見えない。
常に闇というか夜である。

バスに乗ってリアルタイムに移り変わる風景を見ていくのは実に痛快で愉快て不思議なな体験である。
東京駅北口から荒川土手行きというバスがある。これによく乗るのである。
そこが空いていれば最前列の左側のシートに座ることにしている。

バスが本郷追分にかかりそこから右折して駒込病院に行くがその界隈が面白い。
天気の悪い日とか雨の日の撮影は特に妙であって、想像もしないモチーフがいきなり眼前に飛び込んでくる。

バスの窓からいきなり白いフェンスが見えたりすると反射的に指はシャッターをおしている。そのことをなぜか考えてみたら、友人の田村さんが1,960年代に米軍基地を撮ったシリーズに白い柵を映しているのだ。確かニコンS3にニッコール2.8センチのレンズだった。

そういうテクニカルデータというのは私の記憶の貯蔵庫にしっかり保存されている。
基地の白いフェンスというのはメランコリーオブジェなのである。
カメラはオリンパスワイドスーパーのブラックで撮影した。

2015年10月 8日 (木)

あたしのスリークラウン

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先月のカサブランカ滞在中にアラジンカメラと言う架空のカメラ店、実際にはヤフオクであるが、で買ったライカ3Gを使い始めた。

その使い始めたきっかけというのはパリの朝比奈さんが送ってくれた写真集の中のブレッソンが同型のライカを持っている写真に影響されたのである。
今までライカ1gは使ってきたが3Gは使ったことがなかった。Finderのついてない1gはずっと愛用していたのである。

ライカ3Gを手に取った最初の印象では何かシャッター音が大きいような気がした。それには理由があってシンクロフラッシュのコンタクトのためにシャッターの軸に余計な接点がついているそうである。
だからシャッター音が大きい。

しかしこういう事はカメラを手に取って感じる印象であって実際の撮影には関係ないという事はいつも考えているのだ。
一旦フィルムを装填してしまって街に出てしまうとカメラと言うのは自分が手に取って感じる対象のものではなくて、自分のサイド、つまり自分の身体性の内側に保持されるものなのである。

デジタルカメラ便利であるがフイルムカメラは撮影数はデジタルに比べてはるかに少ないけれども撮影はワクワクする。
その理由と言うのは撮影した時点で画像を見ることができないと言うことにありそうだ。

ブラックのライカ3Gを持って歩いても面白くないので、フォトメンタリーのシールを背面に3つ並べて貼ってみた。
既にスウェーデン軍用のスリークラウンのこれはジョークなのである。

2015年10月 7日 (水)

ブレッソンのライカ3Gの真実

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一昨日のブログでアンリカルティエブレッソンの使っていたライカ3Gの話を書いた。

それに反応してパリ在住のアーティスト朝比奈さんが情報を送ってくれた。

朝比奈さんとはパリのメゾンドライカの前で偶然にお目にかかって以来のお付き合いである。
もう何十年もパリに住んでいるパリジャンだ。

朝比奈さんが送ってくれた画像はジャック ラルテイグの写真集の中にあったものだ。正しくライカ3Gであってそれにはブラックテープがベタベタ貼り付けられている。有名なブラックテープを張り巡らしたラカである。

あたしがラルテイグにパリのアパルトマンで会ったのはあれば何時であったのだろうか。

私がオーストリアのウィーンに住んでいた時期だから1980年だったと思う。ちょうど今頃の季節だった。という事は正しく35年前なのである。

私は持参したポラロイドSX70で彼の写真を撮った。ポラロイドの写真を並べて2人で遊んだ。そういうところがこの偉大な写真家の凄いところなのである。

この写真もそうである。ブレッソンはまるで少年のようにラルテイグのカメラの前で遊んでいるわけだ。
ライカの背中に貼られた原子力反対のシールは最近、突撃隊長が作ってくれた。それはコピーであってコピーではない。

その原発反対のシールは私のiPadの背中にも貼ってある。

2015年10月 6日 (火)

典型的な70年代デザインのライカ

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私が若い時代オーストリアのウィーンに住んでいた当時はライカエムファイブは高くて買える値段ではなかった。
1,975はライカが登場してちょうど50周年の記念すべき年であった。それで50周年の刻印をつけたらライカが発売されたりました。街の中心部にあるライツオーストリアに行ってその記念のカタログをもらってきた。
赤い表紙のカタログでそのサイズは正方形なのである。当時のライツのカタログが正方形がだったのを日本のカメラメーカーの真似をしたりしている。。

ライカ1形に始まって最新型のライカフレックスSL2までの機種が綺麗な印刷で紹介されていた。まだビデオのない時代だから撮影機はらいきなスペシャルであった。

私は何を使っていたがと言えば使い古しのボロボロのM2とか戦前のライカスタンダードにソ連製の28mmをつけてそれで撮影をしていた。
70年代の終わりごろにライカエムファイブをテストしてこれはすごいカメラだと思った。

それで使うようになった。当時かなり込み入った大型カメラの撮影をやっていてその当時はエムファイブをメーターとして使ったのである。

このライカの測光角度は90ミリに相当するので細かい露出を測定するには便利だった。
バロック教会の内部の祭壇などを細かくとるときにTTLメーターの代わりに使用したのである。

普通の撮影ではメータが使わなくて山カンとるのはordinaryなテクニックであるが、時々細かくメーターで測って撮影したくなることもある。
M6が出て1番問題があったのはアナログでの露出の段階を見ることができないと言う事にあった。エムファイブの場合は露光の幅というのがアナログで表示されるから直感的に露光をコントロールできるのだ。

そのデザインが70年代を蒸留したような格好なのも今見るといい感じだ。

2015年10月 5日 (月)

ブレッソンの黒いライカ

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アンリカルティエブレッソンの存在を初めて知ったのは中学生の頃である。朝日新聞社が出していた小型のソフトカバーの写真集をわけもわからず買った。水たまりの上を飛び越える人のショットばかりが記憶に残った。

その解説のところに書かれているライカのモデルがどうもライカ3Gのようであった。ただその解説者はライカに詳しくなかったのかモデル名は上げていなかった。

ブレッソン神話によれば使っているのはボロボロのブラック仕上げのライカM3でズミクロンの50ミリには赤いマニキュアが盛ってあって感触でピント合わせるということになっている。

その写真集で解説されているのはライカ3Gであるから時代としてはライカM3よりも後ということになるのであろう。
そのカメラのことを別のライカの文献で読んだことがある。それは試作品であってライカ3Gではあるがレンズのマウントがスクリューではなくバイオネットに特別に変えられているという話であった。

もっともブレッソンの場合は50ミリレンズしか使わない写真家であるからそのように迅速にレンズ交換ができても大した意味はない。

ブラック仕上げの3Gで有名なのはスエーデン軍が使っていたブラック仕上げてある。100台だとか125台というレアモデルで本体には3つのクラウンが刻印されている。

このライカはリペイントであるが黒の密度が非常に高いのでほとんど真っ黒でまるで存在していないかのように見える。せっかくなのでスウェーデン軍のブラックライカの真似をして本体の裏にフォトメンタリーのピーの小さなシールを3つ並べて貼ってみた。

2015年10月 4日 (日)

スーパーネッテル持って向島百花園

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普段はライカに広角レンズをつけて街のスナップしている。
だから写した写真はパンフォーカスであって手前から奥までシャープに写っている。

5センチの標準レンズでも1メートル近くで撮影して絞りを開けると前後がぼける。そういう写真をめったにとらないのでたまにそういう写真に遭遇すると我ながらフレッシュに感じることがある。

ツアイスのスーパーねってるというカメラを持って向島百花園に行った。5センチのテッサーが固定されているからレンズ交換はできない。コンタックスを使っているとすぐレンズ交換をしてしまって35ミリのレンズを使ったりする。それで標準レンズの出番が著しく少なくなる。

その意味で私にとってレンズが交換できないカメラと言うのは標準レンズでとことん撮影するという意味で貴重である。
季節にはまだ早かったが向島百花園には萩の花の通抜けの道がある。かろうじて咲いているひとつの花にピントを合わせて撮影してみた。
一眼レフでもないしデジタルカメラのライブビューでもないからピントの浅いとか深いかは全くわからない。それで上がってきたら実に不思議な空気感覚がそこにあったので嬉しくなった。

もっとも私の場合はレンズのボケには癖がある方が好きである。レンズの道に入った初心者さんが1番嫌う、いわゆるバックがぐるぐるとぼけるのがむしろ好きである。その意味でこのテッサーなどは時ボケコッコーがきれいすぎて逆に面白くない。

2015年10月 3日 (土)

島尾伸三さんと話をする

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アイランドギャラリーのマンハッタンの写真展の最終日に、田中長徳佃日記の発刊記念のトークショーを島尾伸三さんと行った。
満員御礼。

面白かったのは発行記念のトークショーだと通常そこでお客さんに本を売りつけるのであるが、アイランドギャラリーの在庫分は既に売り切れていたのでそれがなかった。これは非常にスマートなやり方だと思う。
それで本を手にとって説明することができないので既に購入して私にサインを求めてやってきたお客さんの本を借りてそれを手に取ってトークをした。これは極めて異例なやり方であるが商売繁盛のやり方でもある。

島尾伸三さんはお付き合いは半世紀に近いが実はお目にかかることというのは滅多にない。今回の本の付録でこの夏にお目にかかったのが実に10数年ぶりなのである。
彼は東京造形大学の関係で私は日大写真学科の関係だったからもともと軌道がずれているのである。それを結びつけたのは今岡山に住んでいる私の後輩戸倉元であった。

トプコンアールイースーパーというクラシックな一眼レフを使っていたり、リコーワイドという広角カメラでひばりヶ丘の駅で女子中学生のスカートの中にカメラを突っ込んで撮影しているというアナーキストがいるというふうに聞いたのである。

島尾さんは私の写真を正確に理解している世界でも数人のうちの1人である。私がよく写真論で書いている視神経の第3信号系というフレーズは島尾さんが私の写真を評論して書いてくれたものなのだ。
そこら辺にいる通りいっぺんの写真評論家とはその格が違うのである。

トークショーでは島尾さんはもっぱら私の話の聞き手に回ってくれた。これは島尾さんの表向きの顔であって実は面白いのはトークが終わった後月島で飲んだのだけどもそちらの方が本当の島尾さんなのである。

2015年10月 2日 (金)

秋はリスボン

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私の地理的認識ではリスボンは世界の果てである。というのは嘘でリスボンが世界の中心でこちら極東が世界の果てまである。最初にリスボンに行ってからもう30数年が経過している。それで時々リスボンに行きたくなる。

以前はロシアのアエロフロートがリスボンに週二回就航していた。水曜日と土曜日だった。ロシア人は街モスクワからリスボンよりもアンダルシアのリゾート地に飛ぶ方が良いと言うことになったのか、とばなくなった。アエロフロートはリスボンやめてマラガに飛んでいるのである。

こないだ行ったカサブランカはエアラインはカタールであった。ところがこの航空会社はリスボンには飛んでいない。リスボンに飛んでいるのはカタールの商売仇のエミレーツ航空である。
それで今回は11月にリスボンに行くのだがエミレーツ航空を利用することにした。

私は空港のトランジットの間にいろいろ仕事をしたりするのが好きなので、今度のエミレーツ航空は非常に気にいっている。

なんとトランジット時間が23時間50分もあるのだ。言い方を変えれば私がドバイに到着の前にドバイからリスボン行きの飛行機が離陸していることになる。
以前アエロフロートでモスクワ経由海外に行く時は帰りのトランジットの時間が15時間ほどあったが、今回はそれを上回る世界新記録であろう。

30年らいのリボンであるから細かい地理が全て頭に入っている。
それで今回はこの表示のあるレジデンスに滞在である。それで問題なのは画面の上の方に見えるこのプロパティーまで目で見ると近いが実は垂直の高度が非常に異なっている点だ。
リスボンにある急な坂の中でもサンタアポロニア駅からこの上の物件に行くまでの坂というのは1番か2番に入るほどの急な坂なのである。

だから空港からタクシーでそのまま行こうか、それともメトロでサンタアポロニア駅までいってこの急な坂というよりも石段を登って行こうか未だに思案中である。もっとも出発までまだ1月あるのでそれを検討する時間は十分にある。そういうのも旅の楽しみである。

2015年10月 1日 (木)

カサブランカのスマホ

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町にある広告を見るのが好きだ。40年前の中国の広州などで古い商店の壁に稚拙な感じて電話機の絵が描かれているのがよかった。そのものの存在のリアリティーが浮上しているからである。

6年前行ったカイロでも街の周辺部のほとんど閉店しているような商店に携帯電話のプリミティブな絵が描かれていてそれに感心した。

時代が変わると今はスマホの大流行である。乗り合わせた東京のメトロでほとんど全員がスマホの画面を見ているというのは最初は不気味だったかな今は慣れてしまって何でもない。
ハイル!スマホー!

カサブランカの場合は携帯を使っている人はいるがスマホ使っている人はほとんど見ない。歩きスマ方している人がいないから狭い小路で向こうから来た人にぶつかりそうになることもない。
それだけ街に住む人々の行動が文化的であるということだ。

旧市街の路地裏の壁に描かれたこのスマフォンのイラストはなかなかいい。
画面の中央に大きく羽根ペンのイラストが描かれているのが実に象徴的である。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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