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2015年8月31日 (月)

F250モーターで苦労した

Image_4昔、タイムライフが出していた写真講座のシリーズがあった。それは非常に重要な若かった我々の時代の教科書のようなものであった。

タイムライフのスタッフというのは当時の世界のトップクラスのフォトグラファー連中である。その集合写真に著名なカメラマンがずらりと並んで自慢の愛機を手にしていた。ところが面白いのはそれらのスター写真家よりももっと有名な写真家が写真の真ん中にいたのである。それは木製三脚につけられたニコンF2モータードライブの250枚撮りを装着した超望遠レンズ付きのカメラであった。今でもよく覚えているのはその超望遠レンズはアストロベルリンの1,000ミリレンズなのである。250枚撮りであるから他のスターフォトグラファーが使っているよりも7倍の撮影パワーがそこにはあった。その記念写真で私はしびれたのである。36のモータードライブのユニットですら非常に高価だった。ニコンの本体と同じ位の値段がした。その上のクラスの250枚撮りのモータードライブはさらにその倍の値段がしたのである。それと無理算段して手に入れて1973年の5月にオーストリアのういーんに行ったのであった。

大きなバッテリーパックを首から下げてそのモータードライブ付きのカメラには21ミリの超広角レンズがついていた。上のカメラがそれである。当時の有名な美術評論家と一緒にオーストリアのグラーツに行った時私はかれと歩きながら撮影をしていたのだがカメラのドライブのリレーが故障したらしく撮影中に暴発して止まらなくなった。 それで慌てて電源コードを引き抜いてカメラを止めたのである。 臨界に達してそれが制御できなくなった原子炉のようなものである。ところが何を勘違いしたのか評論家は、日本から来た田中というこの若造はすごい撮影のパフォーマンスをやるというふうに勘違いをしてくれたのである。その意味で私のモータードライブの暴走というのはマイナスにならずむしろプラスのパフォーマンスとして働いたのであった。そのことをこのカメラを手にすると今でも思い出す。

 

2015年8月30日 (日)

83倍のズームレンズでTOKYO スナップショット

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新しく使い出したニコンクールピックス900のテストをしている。カサブランカでまよわないためである。20年以上前にまだフイルムカメラのコンパクトカメラに高倍率のズームをつけるという商品が流行したことがあった。

当時からカメラ選びの相談員のような事をしていて、よく問い合わせを受けた。例をあげればバチカンのシスティーナ礼拝堂の天井の壁画をとりたいのですが7倍のズームレンズのついたフイルムを使うコンパクトカメラで良いのでしょうか。

それに対する私の答え。

それは無駄だからおよしなさい。フイルムの感度が低いので望遠側ではレンズが暗くなって全部ぶれてしまいますよ。それよりバチカンの土産物店で売っているカラースライドを買ったほうがよっぽどいいです。

これには前例がある。40年ほど前にいわゆるagentカメラマンと言う外国の写真を撮って大儲けをしていた皆さんがいた。ペンタックスの67で1枚撮影すると当時のお金でべロリ5万円なのである。

私も生活の足しにと思って当時世界文化フォトというエージェントと契約していたが、街をスナップするのとかワインを飲むのに忙しくてついに1枚も写真を送る事はなかった
エージェントカメラマンさんのプロになると、そういう教会などで自分では撮影はせずに土産物屋のカラースライドを買ってそれを売ってしまうのである。ビジネスと言うのはここまでいかなければ本望ではないと思う。

ところが時代が変わって高倍率ズームレンズをつけたコンパクトカメラの意味が全く変わってきた。一言で言ってしまえば素子が非常に良くなっているので、望遠側で暗くても全く問題なく撮影がでるのである
まず83倍のズームレンズがついたカメラがあれば路上でとれないものはない。

ただ1つ気になることがある。
私はこの1年間28ミリ相当のレンズが固定されたコンパクトデジタルカメラでずっと撮影をしてきた。だからそれが私の視点になっているのだ。

一方で83倍と言う想像絶する高倍率のズームレンズの視点のヒンヨクさというのは確かにスーパーなのではあろうが、作品と言う事から考えてみるとうまく使いこなせないという問題がある。
アメリカの巨匠アンドレアス ファイニンガーが超超望遠レンズでマンハッタンを撮影した傑作がたくさんある。
超望遠から超広角までが1本のレンズで足りると言うのはまさに夢のレンズではあるのだが、私の想像力は貧困なのでそれについていけない。まだまだ勉強が必要だと思う。

2015年8月29日 (土)

レンズフードの諸問題

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レンズフードをつけるかつけないかはその写真家の写真の哲学に関係しているようである。
エルスケンはレンズフードはつけていない。それどころかフィルターもついていないのである。エルスケンが面倒臭がりやであると見ることもできるが、その性格そのものが実は写真家の哲学ではないのか。

ロバートキャパがニコンSを構えている写真が残っているが、彼はちゃんとレンズフードをつけている。それがキャパが何か素人っぽい感じで逆に写真の基本をしっかり守っている優等生という感じがする。

洋一岡本の場合はSPに標準レンズは付けているがレンズフードをつけていない。
それも哲学かもしれないが、実はニコンのSP以降のレンズフードと言うのはスプリング式に着脱ができるのである。別の言い方をすれば当時のアメリカの公民権デモなどの時に撮影中に簡単にフードを落としてしまうということができる。

岡本の場合は大統領付きのカメラマンであったから大統領サイドで公民権デモは撮影しなかったかもしれないが当時の値段で10ドル近いフードをなくすという事はいくら彼がリッチであってもなかなか問題ではなかったのか。

私は初期型のニコンのレンズフードが好きである。要するに一型からSまでのレンズフードだ。
それはスプリング式ではなくてねじ込み式なので、紛失の心配がない。

紛失しやすいニコンのレンズフードの伝統はニコンFにも引き継がれていた。だからタフな写真家はスプリング式のフードを接着剤で固定して外れないようにしていたことである。

2015年8月28日 (金)

佃日記

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佃の日記である。佃25年住んだ。
10数年前に個人カメラ雑誌カメラジャーナルをやっていた。その最後の2年間は最初のペラペラの8ページから昇進して、ちゃんとした雑誌の体裁をとった。

当時の中川編集長が埋め草で何か書かないかということになって、日記を書くことにした。
その当時は印刷物であったのがそのままオンラインになって今のフォトメンタリーチョートクカメラ日記になっているわけだ。既に15年は経過している。

文芸評論家の福田和也さんと東京を飲み歩いていた時期に、終電車に飛び乗ってほっとした時、福田和也さんが私に向き直って、長徳先生、佃日記を出版なさいませんかと言ったのである。

その本が出る経緯は複雑なのでここでは書かないが、最終的に琵琶湖湖西の大隅書店が出版してくれることになった。昨年の晩秋に吉村朗写真集を出版した書肆である。

こういう本はもともとたくさん出版の必要は無いから250部の限定版としたのである。同時に本の体裁を整えるためにオリジナルプリントを一点添付した。これには1番から250番までのナンバーが入っている。

愛蔵版であるから決して安くない本だ。予約で出版社に申し込むとかなり割引になるようである。それはビジネスサイドの話だから私は関与しないが、印税はいらないから50部くださいとお願いして快諾してもらった。九月下旬刊行。

10年ほど前に出したウイーンモノクローム70sの場合と同じである。あの時は1,000部発行してそのうちの100部を印税がわりにもらった。
最初の週に350部が売れたので関係者はびっくりした。1番びっくりしたのはあたし自身である。

装丁は気鋭のデザイナー北尾さんが担当した。佃日記にふさわしい渋い感じになった。本の表紙は切り返しになっていてそれが私は嬉しい。というのはユリイカの伊達得夫が出した稲垣タルホ全集が同じデザインなっているからだ。そういうのがうれしい。

2015年8月27日 (木)

ラインズ オブ マイ レフトハンド

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帯状疱疹になったのが1月の17日である。
左手が全く使えなくなってしまったので非常に戸惑った。それでも様々に何とか動けるようになってこの5月にはパリに撮影に行った。パリの撮影で痛感したのはパリの人々が私に非常に親切にしてくれることである。
鉄道から乗り降りするときにラゲッジを持ってくれたり、スーパーのキャッシャーでも非常に親切にしてくれた。もともと向こうで私は80歳を超えた老人に見えるから敬老精神で親切にしてくれるというのがスタンダードなのであろうが、同時に片手が不自由と言うことでさらにその親切度がアップされるようであるらしい。

発病から8ヶ月が経過してようやく左手で物を支えることができるようになった。握ることできないからまだまだ中途半端である。それでも1番痛みがひどい時はヨセフスデクではないが手を切断したほうが楽になるのではなどと思ったりした。

今回痛感したのはコンタックスとかニコンのレンジファインファインダーモデルはこの場合非常に使いやすく楽だということだ。右手だけで操作できるからである。この写真でもわかるが通常はこのように広角レンズがついているからピント等は合わせる必要は無い。

しかし標準レンズなどで開放近くで撮影するときはいかに私がいい加減でもやはりピントは合わせたくなるものである。発病した直後は左手でカメラを支えるなどということも至難の業で無理であった。でも最近は左手でカメラを支えることができる。

原稿書きとか講演会等は普通に行っているのは原稿は音声入力だし、講演会はしゃべるわけてあるから別に問題は無いのだ。家人は10年ほど前にやはり帯状疱疹になったのでその意味ではお互いに痛みを分かちあえる、というか痛みが理解できるというこれはありがたいことだ。


そんなわけで私の左手はじょじょに回復しているがまだまだ時間がかかりそうである。

2015年8月26日 (水)

ラーメンの冒険家

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Image_2かなり前のことであるが東京の街を歩いていてその不思議さに驚いた。それは葛飾区の鐘淵から水戸街道に歩いていく道の印象なのである。

そういう地域は以前からかなり歩いていたのだが、そのことに気がつがなかった。そして自分の歩行するその先に展開する風景の展開するということの、その理由が理解できた。

なんということもないメインの通りに対して90度に直角に交わる小路というのはなくて皆120度以上もしくは反対側で見れば90度以下の角度でメイントリートに小路が接しているのである。

そういうマジックは東京のどこにでもあるが、葛飾区に関してはそれがまったくの例外もなく同じような通り、つまり90度に交差する道では無いということだ。ちょと考えるとそれはパリの近代的な街並みにもいる。パリの街並みの90度で交差する交差点というよりももっと狭い角度で道が交差しているから似て、そこに2つの消失点が出現して街がダイナミックに見えるのである。

先日数年ぶりに新小岩から葛飾区の真っ只中をお花茶屋を目指して平和橋通りを歩いた。実際には猛暑であってそこまで行くことができずに、その手前立石で歩行は中止した。その時に今いった直角に交差していない通りについて思い出して、それを検証したりたのである。

そういう風景がどのように不思議に見えるかといえば要するに建物の図面を見ているような感覚に非常に近い。あるいは建物の立体模型を作ってそれを圧力かけて平行四辺形にねじ曲げたというふうに見ることもできる。

平和橋通りを歩いていたら、まちのどこにでもありような普通の中華屋さんがあった。その中華屋さんのファサードと側面が同時に見えているので私は感動した。以前からやっていることであるが私はいわゆる腕組みをしたボスがこっちを睨みつけているようなポスターがあるようなラーメン屋が嫌いである。

普通の中華屋さんでそこで450円、以前は300円台後半で食べていたが、そのようなラーメンを飛び込みで食べるのが好きなのだ。これはラーメンのアナーキスト、あるいはラーメンを食べる向こう見ずな冒険家ということになる。それでこの店のラーメンも普通に味わって普通の印象で特にコメントもなく食べ終わって450払って外に出てあたしは平和橋通りを北に向かって歩き続けた。

 

2015年8月25日 (火)

ニッカ3Lのデザインがいい

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戦前にはライカのデッドコピー、ニッポンという名前のカメラを作っていたのがニッカカメラである。
その最新モデルがこのカメラだ。1番最初にこれを手に入れたのは高田の馬場の鈴木カメラから買ったのだ。
そのデザインが優秀でトップカバーにブラックペイントでそこにNiccaのロゴが浮き上がっている。
ファインダーが5センチの等倍でブライトフレームが見える。両眼をあけたまま撮影ができるというのはニコンS2と同じである。標準レンズを当時あまり使わなかった私であるが、このカメラは5センチをつけたままで大量の写真を撮った。

当時は日本デザインセンターのスタッフであったのでトヨタのロケでよく地方に行った。
ワゴンの前の席に座って例えば水戸街道を延々と北に向かっていくのである。
そういう時に私の傍には常にこのカメラがあった。等倍のファインダーで見た瞬間に路上の風景をキャッチできた。

その作品は1970年の銀座のニコンサロンの個展で展示されている。当時は5センチがこのカメラで2.8センチのレンズはニコンF、そして3.5センチはライカM2という組み合わせであった。

それで何十年ぶりかにこのカメラを出して使ってみるとなかなか調子が良い。ただしどこの具合が悪いのか知らないけれども、巻き戻しノブが格納できなくなってしまった。どんなに力を加えてもダメである。

NASA宇宙ライカでこれと同じようなのがあった。これはライカMDであって達が非常に大きいノブに変えられているのである。
この地上も宇宙の一部であるのだから、使うにはこれで全く問題がないわけだ。

2015年8月24日 (月)

二千ミリ

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実際には 二千ミリミリではなくて二千ミリ相当なのであるが、そんなことは問題ではない。
ニコンクールピックス900の望遠サイドは2,000ミリの超望遠レンズだ。
札幌のIMAI collectionでレフレックスニッコール2,000ミリを見せてもらったことがあった。巨大なレンズである。片手でようやく持ち上げられるほどの重さだから大変なものであった。

ドイツはミュンヘンのキルフィットがNASAのために作った100インチの望遠レンズがあった。2500 mmである。
ebayでそれを落札したのであるがそれは詐欺であった。他にも同様なレンズを同じセラーから落札した人が複数いて1時はアメリカを中心に被害者同盟を作ったりしたこともあった。でも結局お金は戻ってこなかった。

クールピックス900についているのはどこでも持ち歩ける2,000ミリと言うところがすごい。
レフレックスニッコールの2,000ミリで撮影してそれがいかに大変な重労働であるかが分かった。

このショットは部屋から永代橋を手持ち撮影したものである。手持ちで二千ミリはオリンピックの競技種目になりそうだ。
以前はニッコールの1,200ミリをもっていたが、今もっている1番長いレンズはアストロベルリンの800ミリである。これはチエコの国境警備隊が使っていたもののようである。大変な長さと大きさと重さのレンズだ。
作例を見てもわかるがこれだけ遠距離から人物が特定できるのだから大したものだと思う。
ニコンの作例写真を見ると月面と鳥ばかりである。やはり長すぎて撮影するものがないと見える。

2015年8月23日 (日)

茗荷谷の月光仮面の坂

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私の小学校は文京区立小日向大町小学校と言う。卒業したのはだいぶ前であるが地下鉄の丸ノ内線が開通した直後であった。当時はようやく公共放送でテレビが始まって月光仮面が人気だった。
正義の味方が白装束でホンダのカブ乗って走り回っていたのである。

格闘のシーンは大抵世田谷の静かなお屋敷街あたりで行われていた。それも昔の西部劇の映画と同じで、撮影は擬似夜景なのである。すなわち夜はいつも満月がこうこうと照っていて虫が鳴いているという設定だ。実際には真っ昼間に露出を非常にアンダーにして撮影しているのである。

月光仮面が悪を滅ぼすためにミニバイクに乗って走っているショットと言うのは大抵茗荷谷の駅の下の道路で行われていた。そこは電車のデポになっているのだがそのしたがコンクリート打ちっぱなしてなかなか当時はモダンに見えたものと見える。

それは小学校の裏で、キリシタン坂を下ったあたりであった。我々ガキはこれを月光仮面の坂と呼んでいた。先日久しぶりにその坂のたもとに行ってみた。坂と言うよりも階段である。
この場所はなかなかドラマチックで私の写真集東京ニコン日記にも出ている。しかも50年前に撮影したのと、現在では変わっていない。

低い階段を登りつめて坂上まで行ったら絶景である。そこに文京区教育委員会の立てた地名案内があった。その名前は庚申坂というのである。いかにもそこら中にありそうな名前なんでがっかりした。
江戸時代の土地の案内書に、これを切支丹坂と言うのは誤りであるという。
そんな事は我々小学生でも地元のものは知っていた。切支丹坂はこの坂の反対側つまり小日向台町のほうに登る坂のこと言うのだ。
私が子供の頃はまだ地下牢が残っていて子供どうしてそこに冒険に行ったりしたこともあった。

2015年8月22日 (土)

フォカッチャもこれだけあると嫌んなる

Imageフォカは

フランスのカメラである。第二次大戦の後に作られたのだが、よほどドイツ軍にいじめられたのかライカとは全く似てない。

世界的に有名な写真家アンリ カルテ ブレッソンは終生ライカを使っていた。彼が祖国を愛するのであればドイツのカメラではなく、フランスのカメラを使ったほうが愛国者としてはかなり尊敬を受けるはずである。

しかしそうではなかった。おそらくフォカには使いにくいところがあったのだろう。

しかしフランス海軍はちゃんと軍用カメラとして使っていた。パリのボンマルシェのカメラ屋通りで私などは軍用のフォカとレンズが数本入った革製のキャジトバックのアウトプットを見て買おうか買うまいかお百度を踏んだこともある。いよいよ買おうと決心して週明けのカメラ屋通りに行ったらすでに売れた後であった。カメラというのは買うときの時期というものがあってそれを逃してしまうともう永久に手に入らないということを私は教えられた。

つまりブレッソンが言うところの決定的瞬間と同じことなのである。

フォカの後期モデルは独特なバヨネットマウントであってこれはそれ以外のカメラマウントと全く異なっている。知り合いにレンズマウントアダプターを制作してありとあらゆるレンズの相互交換をしているカメラ人類が、彼の言葉によるとフォカユニバーサルのマウントは他に互換性が全くないのだそうである。だからマウントアダプターが作れないというのだ。

交換レンズは28ミリミリ35、50ミリ、90ミリ135ミリがあって、さらに200ミリ500ミリ、1000ミリもある。この500ミリと1000ミリは反射望遠レンズなのだ。つまりフランスという1つの大国が軍用で使うためのありとあらゆるレンズが揃っていた。

私が1番使ったのは、いや今でも使っているのは28ミリの広角レンズである。15年前に母親が亡くなった日の夕方それは7月の暑い盛りであったがショックで佃のマンションの最上階から西の空を見たらそこに茜雲のエッジが緑色の素晴らしい雲が出ていた。いわゆる阿弥陀来迎図などに登場の彩雲というやつである。

それを日本カメラの連載に掲載したこともある。

一度は必ずフォカを持ってフランスに行こうと思っているのである。その念願はいまだに達成されていない。

レニングラードというソ連製のスプリングモーター式のレンジファインダカメラを持って、名前が変わってしまったサンクトペテルブルグには行ったことがある。

 

2015年8月21日 (金)

日本ロード公団

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アメリカ政府の高官が70年ぶりにハバナに行ったそうである。国交が断絶してかなり長いことになる。
地理的にはキーウエストのすぐ南がハバナであった。私の好きな写真家のウオーカーエバンスはキューバの撮影をしている。これは戦前のことである。
撮影時、エバンスはパナマをかぶっていた。

私はずっとそのように思い込んでいたのだが、これは勘違いであった。エバンスが撮影した名作にハバナ市内で男性を撮影したショットがある。そのモデルの男性が粋なオヤジで、彼がパナマ帽をかぶっていたのである。
カメラの後ろのカメラマンはどのような格好していたかがわからないからだ。しかしどうもエバンスもパナマ帽をかぶっていたのではないかと思われる。

私のパナマは2009年にスペインのマラガで買った。帽子屋に入ったら店のオヤジが私の頭を目線でスキャンするのである。これは3次元の頭のサイズを測るスキャンであって親父が選び出した店間帽子は私にぴったりであった。これはプロフェッショナルというものであろう。

東京のカメラ関係の友人でおしゃれな人がクラッシャブルパナマの話をした。コラプシブルレンズと同じものでたためるのだ。くるくるっと丸めてカバンの中に入れられるのだそうである。
私のパナマはエコノミークラスであるからそういうことができない。飛行機に搭乗中は大事に上のラゲッジスペースにしまっておく。

先日札幌のIMAI collectionを拝見に行った時に、今井さんがクラッシャブルパナマをくれたのだ。レアなライカをもらうよりよほど嬉しかった。

パナマにライカでは木村大先生のようになってしまうので考えた。
クラッシャブルパナマにはロードカメラが似合うということに気がついたのである。
何か威厳をつけたいので日本ロード公団とした。

灼熱高温多湿の東京で日本ロード公団の向かうところ敵なしである。

2015年8月20日 (木)

牛込からアローカメラを目指す

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永井荷風の父親は漢文の学者で荷風が生まれたのは小石川の安藤坂の脇であった。その後、荷風の父親は牛込の余丁町に移転している。かなり大きな屋敷であったようだ。親不孝の荷風は父親が亡くなった時にそこを売却した下町の路地裏に隠遁したりしている。

ほぼ同じ時代に夏目漱石もその近所に住んでいた。例の木曜会の舞台になったところだ。内田百閒などは漱石先生のところに日参していた。今の漱石公園のある場所だが明治の時代にはここも草深い大変な辺鄙な場所であったそうだ。

正岡子規が夏目漱石と書生時代に早稲田界隈を歩いていて、正岡子規が驚いたのは夏目漱石はそこに生えている草が自分が食べている米であるということを知らなかったことだ。

漱石が書いているが浅草に芝居見物にときにはまだ暗いうちに起きて、提灯の明かりを頼りに神田川の川岸まで出てそこで仕立てた船に乗って大河まで行き浅草に向かったそうである。完全な江戸時代である。
アローカメラにガラクタを探しに行く時に私は四谷3丁目からは行かずにわざと都営線の駅で降りる。そして岡と谷ををいくつも越えてアローカメラに向かうのである。

この界隈は実にフォトジェニックであって昭和の昔の古い家があるかと思えばコルビジェばりのモダン建築もある。

カメラは必要に応じてこういうものに適当なレンズを付けた遊んでいる。これをフォトメンタリー気分と言うのであろう。Image_4

 

2015年8月19日 (水)

東京人

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毎日新聞社が出していたカメラ雑誌、カメラ毎日に作品を掲載するのが写真青年の夢であった。
高梨豊さんの名作、東京人が掲載されたのは1966年1月号だった。
当時の私は高校3年生でその春に卒業して日大写真学科への入学が決まっていた。

これは東京人ショックといってもよかった。

カメラ毎日巻頭に40ページ近い大特集なのである。時代が変わってしまって写真そのものが社会的な存在から趣味の1つに変貌してしまったので今ではこういう事は無い。
我々10代の青年は高梨さんにしびれたのであった。

それからの日大の四年間と言うものは、高梨さんが勤務しておられた日本デザインセンターに入社するというのが私の目標だった。競争率300倍近い難関を突破して日本デザインセンターに入ってみたら高梨さんはその前の年に既に会社を辞めておられた。高梨さんは私の入社試験の時は面接で色々と私に質問をされたのである。肩透かしである。

半世紀前の時代背景を説明しなければならないのだが、当時は広告写真家でありながら同時に作家生活をする、そういう写真家の存在が最もスマートな時代だった。
今とは時代が全く違うことがわかる。

その決定打となったカメラ毎日東京人の1月号の特集を20年来探していたのである。
ところが古本屋さんは頭いいから他の通常のカメラ毎日は普通の値段で売られているがこの号だけ異常に高いのである。古いカメラ雑誌が1冊2万円と言うのはちょっと手が出ない。
これはその4分の1の値段で入手したのである。

それで到着した雑誌を49年ぶりに眺めて気がついたことがある。それはオフセット印刷だったことだ。当時のカメラ雑誌はオフセット版とグラビア版が混在していた。
今ではグラビアはなくなってしまったが当時はオフセット印刷は非常にシャープでモダンと言う感じがしたのである。
もし東京人がオフセットでなくてグラビア印刷で印刷されていたらその印象は何か古めかしいものになっていた違いない。

高梨さんは広告写真の売れっ子でもあった。いわゆるハイキー、つまり明るい写真の撮り手でもあった。
作品の構成は山岸章二さんだと思うが実に見せ方の展開がうまい。特に見開きの構成は秀逸だ。

あまり頻繁に見ると体に毒だから時々深夜にそっと取り出してちょっとだけ見ることにしている。

2015年8月18日 (火)

平和橋のカンナ

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戦後70年である。

終戦後の混乱期に人はいろいろなものを信仰したようである。踊る宗教等と言うものもあったし、お伺いを立てるのにこっくりさんというのもあった。もともとこの日本はユーラシア大陸の東の果ての離島であって、アニミズムのメッカでもある。
一木一草にも神が宿る国である。

チベットを踏破した川口彗海は錫杖に占いを立ててその倒れた方向に旅をしたそうである。。
あたしは錫杖は持っていないのでもっぱらそれ専用の10円玉を持っていてその裏表で旅の方向決めるのである。

この日は北池袋か、それとも新小岩か迷って10円玉を投げたら10の数字の方が出た。それで行き先は新小岩に決まった。

平和橋通りというのは新小岩から北にまっすぐに伸びる通りであってその行く先は綾瀬である。

平和橋通りは研究の余地がある。私の脳内イメージで平和橋通りと言うと最初に浮かぶのは夏の終わりの頃の盛りを過ぎたカンナである。

平和橋通りの長い道路のどこかで数年前にそういうカンナを見た。それが私の脳内の画像ストックに入っていたのだ。8月14日の昼過ぎに無人の平和橋通りを北に歩いた。
平和橋通りにある小さな公園にそのカンナを発見した時は嬉しかった。旅の目的はこれで達成されたわけだ。

 

2015年8月17日 (月)

新小岩でかき氷

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ヨーロッパは猛暑であるそうだが、20代から30代をヨーロッパで過ごした私には夏はかき氷を食べる習慣は無い。 残り少ない人生であるからニッポンの夏は夏のようにかき氷を食べたいと思うようになったのは数年前からである。豪徳寺の駅前におじかという名前の氷屋がある。ここは三十年前に島尾伸三さんに教えてもらったが、一年中かき氷を売っているのだ。世の中にはかき氷のグルメという人類がいるものと見える。 豪徳寺の駅が新しくなったのに伴ってこの氷屋の店も新しいビルになった。季節はずれにここで氷を食べたりするのも一興であるが、まず数年に1度というところだ。 思い立って数年ぶりに新小岩の駅に降り立った。目的は商店街の南のはずれにある古い自転車屋を見るためである。その店がまだ存在したが営業はしていなかった。あるいはお盆休みのせいかもしれない。 自転車屋の向かいにある大判焼き屋に氷の看板を見て飛び込んだ。注文したら時間がかかるという。それで冷房の効いた室内で待ってた。 数分かかって宇治金時が出てきた。値段500円。 このように非常に芸術的にできているが、気がついたのは食べ進んでいっても氷が溶けないことである。何か削り方に新しいテクノロジーが採用されているのかもしれない。最近の非球面レンズは、大判焼きのように作るらしい。この店は大判焼きの店であるから、非球面レンズ的氷だな。 私の頭脳の中ではこれは氷とは読んでいない。永遠のえい、これは「なが」と読むのである。 百鬼園の小説に岡山の学生時代に友人が小さな氷屋を始めた。看板の字を間違えて、永、と書いてあった。それで仲間うちでは、なが、と呼んだそうである。 ながを一瞬のうちに食べ尽くし、あるいは飲み尽くしてまた暑い新小岩の街に出た。これからずっと平和橋通りを北に撮影に行くのかと思うとちょっとうんざりした。

2015年8月16日 (日)

新小岩で40倍ズーム

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パリのファッション写真などを手がけたスター写真家吉田大鵬さんのオフィスに行ったことがある。これは半世紀前の話で吉田先生がパリに行っているその空いている事務所で留守番をしていたアシスタントの人が私の友人だった。 そこでニッコールの1,200ミリを見せてもらった。東京オリンピック1964に合わせて製作された超望遠レンズである。バズーカ砲だった。 後年になって私も真似をして1,200ミリを手に入れた。その製造番号の末尾が2番であったのでこれは2番目に制作されたレンズかなと思っていたら、後年になってウイーンのニコンコレクターが出したニコンエフの歴史の3分冊の厚い本を見ていたら、このレンズは末尾ナンバーが2から始まっているのである。 話を戻せば、その時アシスタントの話では、吉田先生は撮影中に何か発見すると、オイ!1200ミリ!というのだそうである。だからアシスタントは常にその長いレンズを携帯していなければならなかったそうである。 ニコンの高倍率の40倍ズームがついたデジタルカメラを使ってみた。ニコンから借りたのではなくてアマチュアさんからちょっと借りたのである。セットの仕方がよくわからないので、後で見たらデートが入っていた。何かアラーキーの偽日記のような感じで逆に面白いと思った。 終戦記念日の前日は私は新小岩にいた。平和橋通りをどんどん北に歩いて行きたいと思ったからである。新小岩の南側の商店街はすごく活気があってシャッター街では無い。 40倍のズームレンズを試すために商店街をまず広角で撮影してそれから超望遠で撮影した。 大変な威力である。一体どこをクローズアップしたのか全くわからないほどの超望遠効果だ。 こういうのは大変有能なカメラという印象を受ける。人間の存在を超えている。 なぜならばこの1年私は28mm相当の広角レンズがfixしたデジタルカメラをずっと使ってきたからだ。 こういう貪欲なレンズで有りとあらゆるものを撮影しようと言うデジタルカメラは便利かもしれない。しかし一方で作品作りということから考えるとあまりに眼が良すぎて、逆に撮れないようではある。

2015年8月15日 (土)

TOKYOニコン日記

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日大の写真学科に入学したときに手に入れたカメラとレンズがこの組み合わせであった。
ニッコール2.1センチはニコンエスマウントもあった。今から思うと不思議であるが、当時はレトロフォーカスの兆候各レンズがまだ制作できなかった。

それで各社の21ミリクラスの超広角レンズは今までのレンジファインダータイプのものをそのまま使って、一眼レフのミラーが邪魔になるから、それをミラーアップして外付けファインダーをつけると言う変則的な撮影方法であった。

今の時代から見るとなんと面倒臭いというふうに思われるかもしれないが、当時はこれが唯一の兆候各レンズの使い方なのである。しかしレンズの大きさは極めて短いしミラーはアップしてあるから、ミラー色というものがない。もともと一眼レフと言うのはめんどくさいもので構図を考えすぎるのである。足を故障とfinderで迷っている間にモチーフは逃げてしまう。

だからミラーアップした超広角レンズの一眼デフは実に戦闘的な存在感であった。
東松照明さんが沖縄を取材に行った時にこれと同じ組み合わせで撮影したというのが話題になった。しかも東町さんは下駄履きで沖縄を撮影したのである。それがかっこよかった。

私も真似をして東京をこの組み合わせで撮影した。後にそれは東京ニコン日記という形で写真集になった。
私は父親と母親を相次いでなくしたのでその追悼の意味も込めて15年ほど前に八百刈次回写真集を出したのである。ただしそれは大判の写真集ではなく新書版の本なのでどこでも気楽に持ち運ぶことができる。

だから私の著書のサイン会なのでこの本をもって来てくれる方は実にありがたい。頭の下がる思いがするのである。
そして1966年以来であるから既に半世紀近くこの組み合わせでこの世界を撮影しているというわけだ。実に息の長いニコンである。

2015年8月14日 (金)

張り込み25年。捨て石劇場のご主人を目撃した。

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10年前の写真集「とうきょう散歩カメラ」に登場した豊島区北池袋の「すて石」を思いだして10年ぶりにいったら健在であったので嬉しかった。

頭狂(とうきょうと、読む)の変貌は池之端の菊竹さんの名作ホテルコシマに宿泊しようと思っているうちにある日、高層のタワーが消えてなくなったり、雑司ヶ谷宣教師館の隣の黒田さん宅の「奥様カフェ」でコーヒーとカレーライスのつもりで来たら、すでに更地になっていたりで、油断できない。

何時までもあると思うランドマークは消失し、風前ではないかと思われる建物が生存しているのはまさに人の消息に等しい。

実はすて石の前の小路はお店とT字路になっていて、その小路の左側が小高い位置にあり、そこが名もなき小公園である。綺麗に掃き清めされていて、細長い公園で遊具は昭和40年代感覚なのも好ましい。

先週、思いつきで浮間船渡で下車して、駅前から常盤台駅行きのバスに乗った。工藤ゆきゆかりの、天祖神社とか閉店した渋谷カメラを見て、シャーロックホームズのあった場所も訪問した。

東上線で北池袋まで来て、くだんのすて石がここで下車であることを思いだして、ふらりと降りた。ここから東に200メーターほどですて石である。西側からアプローチするにはその細長い小公園の北側に付属の路地を東に行く。その路地の入り口の左手にある、古い疑混土(コンクリートと読む)の古ビルは「東京宝石」とか言うのである。これもすがれたここらの環境に似つかわしくないので、なにか江戸川乱歩の世界だ。

小路の中程に小公園に上がる大谷石の階段がある。その前で老女が立ったまま、おむすびを食べている。この人もエキストラの通行人だか、通行人がものを食べて画立っているというのは新演出だ。ここらはつげ義春の漫画の世界だ。

小公園に2つしかない、古いベンチのひとつに腰掛けたら、眼前がすて石である。しかもことらの方が数メーター高い位置にあるので、なにか屋外劇場の感じがする。もう一つのベンチでは妙に大人びた綺麗な女子高生がパックのいちごミルクをストローで飲んでいる。ああ、これも実は前衛劇の俳優のひとりだなと思った。

真夏の太陽が時々雲に隠れるとその瞬間だけすらりと冷涼になる。これも前衛劇団の照明装置である。

頭にタオルを江戸時代の瓦版売りみたいにたたんで載せたじいさんが花道から登場。ゴミ箱のまえで七三で見栄をきる。ゴミ箱尾をを鍵で開けて、数個のごみ袋に仕分けしている。

ややあって、上手からばあさんが登場。

「この間の、年金のことだけど、あれ、税金の関係があるからああなってるんだけけど、、、分かった?」

じいさん返事せず。

「ちゃんと水飲んでる?」

「ああ、今日はもう4本飲んだよ」

ばあさんがそのまま下手に退場しようとしたら、

「もう京都にはいかない。ここに3日居ないだけで、他のやつが分別したんで、やり方が違うんだ。また全部やりなおしだ」

ばあさんを追いかけるように「貴船の床で一杯やろうとしたんだが、満員。それでつまらない高い店につれていかれちゃった」

「あたしは3年前に京都に行ったよ」とばあさん。

これでごみの分別をしている町内のじいさんの属性が明らかになった。

こういう会話はまったく、三流の台本書きを超越している。

町行く人。町に居る人はそれぞれに、とんでもない秘密を内包して生きているのだ。

この小公園を「すて石劇場」と命名した。
ーーーーーーー
これは2012年の夏のブログの記事である。この時に捨て石劇場と言うフレーズが誕生したわけだ。ここにはそれほど頻繁に行くのではなく、今回は昨年の8月以来の訪問だった。
お店は最初に私が行ったときにはすでに営業していなかった。

今回のスクープはお店の前でどこからか帰ってきたご主人を見たことにある。カッターシャツをした70代後半と思われる紳士であった。

まさかこのお店の関係者を見ることができるとは思ってなかったので、非常に嬉しかった。それで営業中の隣の中華屋さんに入って1人ビールで乾杯したのである。町歩きの面白さの真髄というところだ。

2015年8月13日 (木)

神様が水の上を行く

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佃に四半世紀住んでる古老なので、最近ボケてきてよく記憶違いがある。私は佃のボケコッコー様である。2011年の東日本大震災の後に本祭りはやっていなかったというのは老人の勘違いであった。

2012年の夏のブログを見ていたら本祭の御神輿の水上を行くショットがあった。
今はコンクリート堤防になってしまったが、それ以前では隅田川の水の中に神輿が入ったそうだ。
それがしばらくやめていて確か十五年ほど前からこのように台船の上にお神輿を安置して渡御するようになったのである。

こうして観察すると御神輿の周りにいる人々は、神官を除いては毎回その配置が違うようである。

300ミリのソ連製のレンズで撮影した。このレンズは戦後作られたが、そのオリジンは例のフェドのレンジファインダーにリフレックスボックスつけた偵察用カメラにも採用されている。ソ連のスペースプログラムでもこのレンズが使われた。非常に優秀なレンズである。

神様がお神輿によりまして、渡御をするというのは何か担がれてワッショイをやられるよりもこのほうが崇高な感じがする。

この色彩は何かナショナルジオグラフィックマガジン好みである。しかも住吉様にはレヴィストロースも来ている。民俗学的なポイントからしてもこれはエキゾチックでいいと思う。

2015年8月12日 (水)

神様が行く

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佃島に四半世紀住んでいるのに、佃祭りの全容を見たことがない。8月のこの時期は大抵プラハに行っていたのだ。その前はウイーンに行っていた。日航機の事故の時などもウイーンにいたのである。

昨年からプラハとは縁が切れたので今年は極東に居た。それで数年ぶりの佃祭り見ることができた。
御神輿のちょうちんを見て気がついたのだが、津久田と書いてある。
佃の漢字の1文字よりもこのほうが座りが良いのだろうか。

お祭りの最終日、月曜日の午後7時半に八角神輿に乗った佃の神様が、神社に戻るという行事がある。
宮入である。
江戸時代の霊界の話を記録した古文書によれば、神の御幸と言うのは、見えるものであるとしている。
金色の御幣のようなものが、空を静かに飛び行くのだそうである。その時には音はしないということである。
それを見上げる者たちは皆ひれ伏して神様が通行するのを拝むのである。

月島のレバーフライ屋さんの3代目のご主人、我々は持ち帰りの王道と呼んでいる店だが、そこのおじいさんつまり初代の人は石川島播磨で働いていたそうだ。お神輿は神様がいます所だから二階から見るのはとんでもないと叱られたそうである。

それに引き換え現代人は神様をスマホで撮ろうとして実に失礼な次第である。
神罰が降らないのは住吉の神様が優しいせいであろう。

お神輿が宮入するときにはわっしょいの掛け声はない。無言のまま通り過ぎるのである。
それがものすごい。
私にも信仰心が沸き上がった。

2015年8月11日 (火)

戦後70年 5000万代のTokyo にっこーる

Image戦後70年である。各種メディアで番組や特集をやっているようだ。

カメラとレンズということから考えてかんがえてみると、わたしの場合は戦後70年を考えるにあたって1番身近に思うのは、講和条約以前に製作された古い日本のカメラである。ニコンの場合は最初のモデルはもう天文学的な数字になってるから手に入らないけれど、Madeインoccupiedジャパンの時代のレンズはまだ入手できる。その理由はよく分からないが一般的な価格付からすればこれは単なる古いレンズにしか見えないカメラ屋さんもいるのであろう。


8月15日の終戦記念日前後にあたしがよく手にするのがこのレンズ、ニッコール5センチの製造番号が5,000万台というやつである。
ニッコールレンズの製造番号の付け方はなかなか変則的であって1部のレンズにこの5,000万台のシリアルナンバーがふられているのだ。ごく初期のニコンやレンズのカタログを見て面白いのは、その数字が非常に長いので何か逆にありがたいという印象をもつことである。

しかも当時のまだ質のよくないカタログの表紙の初期のNikonカメラについている同じレンズが取り回されて使われていたりする。戦後のごく初期だからおそらく撮影用のレンズの数が少ないしてそのようなことになったのであろうが、何か真面目な会社が一生懸命やってるという印象を受ける。

20年ほど前にごく初期のニコンを持っていてそれについていたのがやはりこれとおなじ五千万台の5センチレンズであった。そのレンズはバルサムの影響だろうか、非常に黄色いのである。これは私の好きなレンズだった。佃の暑い夏の午後遅くをこのレンズでとると全体的に思い出の中に入っていくようなそんな色合いなのである。

その夢のような色彩になる古いニッコールレンズも持っていない。これは数年前に四谷のガラクタ屋さんで買ったものだ。
こちらのほうは正常な発色をする。真鍮でできているからレンズは非常ににおもい。
戦後の日本の写真人は写真を撮るということにちゃんとしたエネルギーを使っていたなと感じるのはそんな瞬間である。
このレンズが製作された戦後間もない東京は品川区の大井森前町の空と雲がレンズに反射しているように思える。









 

2015年8月10日 (月)

クールピクス100の「叡智」

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これはニコンクールピックスピー100ではない。クールピックス100である。
もう20年ほど前のデジタルカメラであるが、そのコンセプトとスタイルがコンパクトデジタルカメラでは1番気に入っている。
そのスタイルは縦型であってジャケットの胸ポケットに差す。そして頭だけ、つまりカメラのレンズだけが見えている。、1番気に入っていたのは液晶モニタのないことであった。当時は液晶モニタはかなり電力を使うというので嫌われていたようである。

撮影のダイナミズムと言うのは実は液晶モニタ等はないほうが使いやすい、というのはレンジファインダカメラにしてもそうである。クールピクス100はブライトフレーファインダーであって他に何もついていない。シンプルなのがベストなのである。だから当時はニコンSPを首から下げクールピックス100はジャケットの胸ポケットに入れていた。

単三バッテリーケースを外すとこのようなスタイルになる。当時はまだ新しかったPCMCIAというスロットがあってPowerBookにそのまま差し込んで画像読み取った。この画像の取り込みがまたダイナミックでよかった。私の使っていたPowerBookにはそのカードスロットがなかったので、早速PCMCIAのスロットを自分で買ってきて取り付けたのも懐かしい。

このカメラは液晶モニタのないことが不評であったが、私に言わせればその潔さが良いのだ。
液晶のないデジタルカメラといえばライカデジタルエムモデルの最高級機で最近そういうのがある。その意味で言えば20年も前に先端を行っていたわけだ。

このカメラを取り出してきてまた使おうと思って、はたと困ったのはフルサイズのカードスロットと言うのは私のMacBookにはどこにもついていないということである。
33万画素というのは当時はスタンダードだった。雑誌の仕事でA4サイズをたちおとしにしてみるとボケボケなのである。それがいいと思った。つまり二十年前はフィルムカメラがスタンダードであって、同時にボケボケのデジタル写真のクオリティーと言うのはそれなりに使えると言う認識があった。

現在のデジタルカメラの面白くないところは写りすぎる点にあるのではなかろうか。

2015年8月 9日 (日)

ブラッククローム仕上げの涼しいカメラ

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ブラック仕上げはプロっぽくてかっこいいと言われている。それはいわゆるブラックペイントのことである。ブラック仕上げのカメラにはもう一つある。ブラッククロームのカメラである。こっちのほうは1971年に登場したライカM5からのようである。いや実際にはその前後にライカM4があったからブラッククロームはそれが1番最初であったのだろうか。

日大写真学科の青山君は同級生であるが、彼はライカエム4のブラッククロームを注文したがそれが在庫切れで、仕方なくブラックペイントのM4を手に入れたらしい。その後青山君の人生は何十年も経過して結婚してお子様ができてさらにお孫さんができたもしれないが,
ライカはペイントが剥がれてピカピカになっている。人間の一生の歴史とほぼ同じ長さでシンクロしているカメラと言うのは凄いなぁと思う。

1,960年代のカメラ雑誌の広告でライカM2のブラックペイントのadがあった。そのコピーは「握り心地も暖かく快い」というのであるが、これだけ暑い日々が続くと熱苦しくていけない。
このライカは家に何十年も前からあるものでその
由来がわからないが、非常に良い具合に擦れたブラックchromeのM4Pである。実際に手にしてみるとひんやりと涼しい。これがブラックペイントのライカでやったらヌメヌメ暖かくてやり切れない。

月島の枝村酒店は4月の終わりに閉店してしまったので、最近カメラ友達が集合する呑屋というものがない。その常連さんの人が言っていたのだが,
彼が探しているのはブラックchromeのニコンFなのである。ごく初期のフォーカルプレーンシャッターでチタンではなく布幕でできているものがある。
そのロットの中にわずかのブラッククローム仕上げのカメラがあるそうだ。私は高校生の頃からニコンFを使っていたのでカメラの修理の時に頼んで代わりのカメラを貸してもらったことがある。 それが珍品の布幕のFであった。
その布幕のニコンがもしブラックククローム仕上げだったのなら、いかにも涼しげな夏向きのカメラであるはずだ。

2015年8月 8日 (土)

プラハ最後の歩行 ベンチ

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公園などのレンチの背もたれが広告になっているというのは、 私の子供の頃は遊園地などの森永牛乳とかアイスクリームの広告があった。ベンチを広告の媒体に使うと言うのは大昔からある方法であるが、ベンチが人間で占領されていると広告効果が薄れてしまう。だからベンチはいつも空いていないとadvertisingにならないのだ。 プラハの周辺部を市電で回っているともともと人口密度が少ないからベンチは本来の、この場合広告の役割を果たしている。 実際にはどのような材料で作られているのかわからないが、私の好みとしてはこれはほうろう引きの看板であって欲しい。さらに私の場合はチエコ語が判読できないのでそこに登場している人物の画像とチェコ語のコピーはそのまま謎めいているので逆にアート作品としての存在感を持って私に迫ってくる。 プラハの路面電車の非常に長い路線、例えば22系統の始発から終点まで乗ってその間、こういう広告のベンチを見る自分を発見して大変な暇人であるなとびっくりすることもある。しかしこれは私の仕事なのである 数年前に出した小さなサイズの写真集の中で、長いベンチの背景の広告がなんとホームレスの男性がベンチに寝ているという画像であった。何の広告であるのかわからない。あふいは政治的な広告であるのかもしれない。それに痺れたのである。日本では到底達成不可能なアートということである。 カメラはライカMD2  ニッコール5cm

2015年8月 7日 (金)

夏向きの お写真

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大変な暑さである。東京地方も猛烈な暑さだがプラハに撮影に行ったギャラリーバウハウスの小滝さんも37度と言う暑さに遭遇している。
小滝さんがプラハから最初にFacebookにアップした写真がカレル橋の夕暮れの綺麗なショットであったが、その空の色が深いピンク色でまるで東チモールの日没という感じであった。

そしたら小滝さんから近況報告が来て気温は37度だそうである。winも同じ位の高い気温である。地球の気候が狂っているとしか思えない。

それで暑気払いにこういう涼しい写真をアップすると皆さん喜んでくださる。これは1974年の1月のwinでの大雪の夜に撮影したものだ。カメラがライカでそのモデルがなんであったか忘れてしまったが、撮影したレンズはニッコール5センチのef 1.5なのである。ベストセラーになったef 1.4の方ではなく、それより0.1暗いレンズである。これは非常にレアなレンズということになっている。

たまたまそのレンズを持っていただけで特にコレクターとして意識したという事は無い。確か友人の家でワインを飲んでいてかなり遅くなってから自分のアパートに帰ろうとしたら大雪になった。街の中心部のリング通りで撮影したものだが市電も走っていないようだから、おそらく雪の中を徒歩で自分のアパートに帰ったものと思われる。
これだけの大雪の中心部の写真はないのでそれなりに貴重だと思う。

知り合いのカメラ雑誌の編集者で私が連載をしているときに写真のやりとりがあった。
その人は辣腕なエディターなのであるが、不思議なのはお写真と言うのである。これがどうも写真表現と言う方向にはそぐわないので不思議に思っていた。最近はその人とはお付き合いがないが、彼は今でもお写真と呼んでいるのであろうか。

酷暑の夏にわざと我慢会というのをやったこともある。10年ほど前のやはり猛烈に暑い8月に今日は寒いから熱燗で天ぷらそばだというので雑司が谷の裏手にある日の丸食堂に入った。
そして天ぷらそばで熱燗を何本か飲んで暖まったのである。それだけではすまなくてその後、綾瀬にある友人が経営しているライムライトというバーに行った。

それだけの話であるのだが、その後、綾瀬でそのライムライトと言うバーをいくら探しても発見できないのである。駅から近い場所だから道に迷うと言う事は無い。これなども真夏の夜のミステリーということになるのであろう。

2015年8月 6日 (木)

プラハ最後の歩行 工事の小路

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先週個展を終えたばかりのギャラリーバウハウスのオーナーの小滝さんは今プラハに行っている。 ギャラリーで8年前にプラハをテーマ の個展を開催した。その影響が小滝さんに伝染したのかどうかは知らないが、今回はプラハに3週間滞在してライカで撮影をするそうだ。持参したフイルムがモノクロで120本と言うから大変な勢いでえらいと思う。 私などは最近は1つの都市に行くとワンテーマ10本から15本と言うところである。小滝さんにとって初めてのプラハというのは非常に興味深いものであろう。 プラハでも東京でもパリでも私の場合は大都会の周辺部をほっつき歩いている。一方の小滝さんはこれは写真浪漫派というのか、あるいは写真白樺派と言うのであろうか、美学が彼の中心に据えられている。まぁそれぞれ写真家によって興味のある視点が異なるわけである。 これは旧市街のカレル橋の周辺のショットである。私の興味は古い石の橋に寄り添うように工事用の居住の箱が置かれている点にある。そういうミスマッチとか不思議なコントラストと言うのが私の写真の基本になっている。一方で小滝さんは歴史とか美学を追求している人であるからこういう写真はまさか撮影する事はあるまい。 プラハ最後の散歩のショットは昨年の11月にライカにニッコール2.5センチをつけて撮影された。フイルムはカラーネガフィルムである。

2015年8月 5日 (水)

酷暑おみまい

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イケメンでフォトメン

ノクチ と ユピテル

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明るい標準レンズと言うのはあまり使ったことがない。また持っていてもうまく使いこなせない。
デジタルカメラの場合は感度が高いからレンズは2.8で充分である。フイルムの時代で感度が50とか100だった頃には明るいレンズは必須であった。

それでカメラ雑誌等の作例は、これは昭和30年代の話であるが、必ずどっかの暗いバーのカウンターで男がマッチでシガレットに火を付けるというやつだった。銀座の夜景も当時は今に比較すればかなり暗いから夜景をとるという事は大変な冒険であった。パリの巨匠ブラッサイが夜のパリを撮ったたりするのは尊敬されたわけだ。

ライカの明るいレンズにはノクチルクスがある。これは明るさがf1.2ほうだ。これは数が少ないが数が多い方つまり明るさがF1は長いこと使っていた。中古カメラ市場でこのレンズは25万円前後で売られていた。これは25年以上前の話である。しかしこのレンズを開放で東京でとるとなるとなかなか困難なのである。

その理由は当時は蛍光灯の照明が多かったので暗いレンズをシャッターを早くして撮影する場合、例えば250分の1秒以上でシャッターを切ると蛍光灯のフリッカーが出てしまう。

結局定常光の電灯でとらなければ大口径の効果は発揮できなかった。

だからヨーロッパの夜景などをとろうと思うのだが、実際にはこんな重いレンズを日中持ち歩くの。mは面倒である。
やはりこういうレンズはお金持ちが自慢の目的で持つというのが1番正しい所有の仕方なのであろう。巨匠アンリカルティエブレッソンは彼自身のポートレートは少ないがその数少ないポートレートを見るに50ミリズミクロンf2レンズを使っている。それ以外のレンズを使っているところはほとんど見たことがない。

私はソ連製の標準レンズユピテルを愛用している。そのレンズを使っている連中の同好会木製玉クラブも結成してもうすぐ10年だ。このレンズはゾナーのコピーなのであるが、アルミ製なので非常に軽い。以前のノクチとユピテルを比較してみたらノクチは非常に淡白な色合いが出た。それに対してユピテルのほうはコントラストが強くなかなか個性的な発色なのである。
だからユピテルを使っていると言う理由にはならないが、しかし撮影先で紛失してもユピテルならたったの2,000円であるから経済的ダメージはミニマムである。

2015年8月 4日 (火)

川面に佃囃子流れて

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佃祭りは3年に1度本祭があって大きな幟が立つ。
前回の本祭は2011年の予定であったが、東日本大震災で延期になってそれが今年の本祭になった。私は土地のぼけこっこーなので記憶があいまいであるが、もし間違いがなければ最後に本祭りの御神輿の水上を行くのを見たのは7年前のことであったと思う。

であるから今回は実に久々の御神輿の水上渡御であったわけだ。朝7時前に佃囃子が先頭の船でかなでられる。その後に本船というか台船の上にお神輿を安置したものが登場し、神官世話役、担ぎ手が威儀を正して乗っている。その後に随行の船が厳かに従うのである。

この夏に刊行される私の田中長徳佃日記2,001-2,003のハードカバーの表紙にはこの御神輿の水上をゆく様を撮影した作品が掲載される予定だ。
岸辺から見ていると特に感慨は無いのかもしれないが、高い建物上の上からお神輿が水の上を行くのを見るのはなかなかドラマチックである。そこに佃囃子が川面に流れてこれは何と言うのか。まず東洋の神秘というか民俗学的な興味もそこにはある。

記憶が曖昧なのだが、7年前の御神輿の行く方向は時計回りであったような気がしている。それが今回は反時計回りで巡航をした。いやこれ私の記憶違いかもしれない。

それでお神輿は佃島の周囲を1周して元のお社に戻ってくる。何かNYマンハッタンのサークルラインにも似ているし、ピザをデリバリーするのと同じ感じで、佃の住吉様が福を配って歩くというふうに見えるのも面白い。

私はここに四半世紀住んでいる土地のぼけこっこーであるのでこの雅なお祭りを少なくとも8回は見学しているはずである。若い頃には単に珍しさだけであったが、この年になるとやれやれ今回も生き延びることができたという感謝の気持ちの方が強い。

歳をとると言う事はそれなりに面白いことである。

飼い鳥も老いて佃の幟かな      長徳

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2015年8月 3日 (月)

マル秘 フォトメンタリーチョートクカメラ日記は若い人が読んでる

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フォトメンタリーチョートクカメラ日記はおかげさまでもうすぐ1500万ページビューを迎える。誠にありがたいことである。

私は面倒臭がり屋なので毎日のページビューの数とか全く見ていない。そういうのは本来管理職がやることなのであるが、私は1人でやっているので管理職と書き手が同一人物だからどうしても書くほうに力がいってしまう。

最近のブログのアクセス分析と言うのは非常に親切にできているものでこのグラフが最近のそれなのであるが、非常にびっくりしたことがある。
というのは私はこのブログを同世代の人が読んでいるとばかり今まで思っていたのだ。だから50代以上60代の人が圧倒的に多いと勝手に思い込んでいた。

ところがご覧のようにこのグラフを見ると分かるが圧倒的に多いのは30代なのである。これには非常にびっくりした。30代の読者がなぜ多いのかはなかなか想像できないが、いわゆる教育的見地とゆうかカメラの発達から見た昔の史実を知りたいという若い人々もいるのかもしれない。

メディアによっては慌てて若い人向きの話を作ったりする場合もあるが、私の場合はミニブログであるからそういうことを気にする必要は全くない。

もっとも読まれる世代と言うのは全く意識していないので、幅広くあらゆる年代に読んでもらえるならこれほど嬉しい事は無い。1500万頁ビューを前にしてひとことお礼と印象、そして感想を申し上げます。

 

2015年8月 2日 (日)

先輩のライカ

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50日間のギャラリーバウハウスの個展で楽しかったのはカメラ人類さんが持ってくるライカを見ることであった。私は人の顔と名前を覚えるのが非常に下手で初方面にご迷惑をおかけしているのであるがこの年になるとこれはもう治らない。

以前よくカメラ本でデパートなどでサイン会をしていたときのことだが、サイン会の列に並んでくれるカメラ人類さんは皆さんそれぞれにライカを下げている。私は椅子に座って本にサインをするのでちょうどライカ人類さんの首から下げているライカを目の前で見ることになる。
だからライカとレンズの組み合わせとそれを下げているストラップの組み合わせでそのライカ人類さんを特定することができる。
ただしその方のお顔と名前はなかなか記憶ができない。

ある日、バウハウスのテーブルに座っていたら向かいにゴスペラーズの酒井さんが来てその次にチョートクカメラ塾の新しい塾生さんが座った。さらに左にライカの大先輩が座った。そのライカの先輩は私に持持参のライカを見せてくださった。

そのライカが2Fであってレンズはキャノンの50ミリのレンズが付いていた。これに感心したのである。スローシャッターのついていないライカというのはスローシャッターの故障から無縁である。通常のスナップをやるのだったらスローシャッターは使わない。あのアンリカルティエブレッソンですらスローシャッターなどは使わなかった。だから当時のそういう廉価版のライカは今見るとなかなか達人のライトノベルのだ。

しかもレンズがキャノンの50f 1.8なのである。学生当時ライツのレンズは買えなくてニッコールも高かったので我々はキヤノンレンズを使ったものであった。これはなかなか優秀なレンズである。それとこの当時のライカマントのキヤノンレンズはレンズが曇ったりするのであるが、このレンズに限ってそのような事は無い。

だから初めてお目にかかったライカの先輩はもうライカ歴50年以上かと思ってお聞きしたら、なんと最近ライカを始められてまだフイルムが3本しか撮っていないそうだ。でもライカというのはすごいところがあってこのライカの先輩はそんな風には見えない。それがライカの良さというか自分のキャリアをちょっと別の方向に見せてくれると言う面白さがある。
新型デジタルライカなどは単なる新しいもの好きにしか見えないのは誠に気の毒な次第である。

2015年8月 1日 (土)

クラシックなデジカメがかっこいい

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ギャラリーバウハウスでの展覧会が終わった。50日間のロングランであった。
色々な人にあってカメラの話や写真の話ができたのが面白かった。

さらに今持っているカメラを鞄から出してもらって見せてもらうこともあった。
これは10年物のニコンのクールピックスである。

日大芸術学部の後輩の女性が持っていたものだ。
新しいデジタルカメラを見せてもらうのは何かサンプルを見ているようでその所有者の個性が感じられない。これがクラシックなデジタルカメラというか10年物の古いデジタルカメラになるとその使用者の個性がそこに感じられる。

つまり私が古いライカを見てそれを持っている人の写真の歴史を尊敬したりするように、デジタルカメラも10年が経過するとその存在感がそれを持ってる人の人格と合致するのである。

しかしカメラメーカーは新型カメラを出してそれまでのモデルを陳腐化するというのがビジネスの手段であるから、こういう1つのデジカメで10年というのはあまり喜ばれないマーケティングには違いない。

いつの頃か忘れてしまったが、初期の頃のデジタルカメラと言うのは進化が遅かったから、その意味で数年前のデジタルカメラを使っている人と言うのが多かった。
そういうデジタルカメラの黎明期を思い出してそぞろ懐かしく感じる、展覧会の五十日であった。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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