フォト

オンラインギャラリー

バナー

無料ブログはココログ

チョートクカメラ塾ブログ

Chotokuぶらり パチ塾

« 2015年6月 | トップページ | 2015年8月 »

2015年7月31日 (金)

プラハ最後の歩行 終点

000103880027

プラハの移動は路面電車に限る。地下鉄もあるがプラハの街が小さいのであっという間に終点についてしまう。 人間の生活する都市空間としてはプラハはまずちょうどいい大きさだと思う。パリはプラハよりかは大きいから未知の部分があって暮らしにはあまり快適でないかもしれない。 プラハが狭い街ではあるのだが丘と谷が交互ににしかもかなりたくさんあるので実際の街の広さよりもずっと広いような印象を受ける。そこを走る路面電車は旧市街ではのろのろしているが一旦郊外に出ると高速鉄道並みの速度になるのが面白い。 市電の終点が好きであるのは理由があって、線路はループになっているのでスイッチバックではなくぐるりと回ってまたこちらに戻ってくる。 ライカインコが面白かったのはこれと同様のことがあったからだ。鳥かごの上で走るときに必ず反時計回り回りに回ってこちらに戻ってくるのである。プラハの市電と同じである。 電車の運動が無限連鎖のように思えるのはこのループ状になって絶対に市電の運動が終わらないと言う点にある。それが好きなのだ。 終点は物事の始まり、つまり開始点と同じことである。 郊外の終点には必ずこのような高層マンションが建っている。 都会の密集地の高層マンションはそれなりにステータスがあって眺めもよかろうと思うけれども、郊外の1本だけ建って いるタワーと言うのは一体住んでみてどのような感じがするのだろうか。 ボヘミアンの野原がさらに遠くまで見渡せることは間違いがないと思う。そういう最上階でボヘミアの野原に夕立が来てそして見事な虹がかかるなどと言うのはこういうところに住んでいる人の楽しみというものかもしれない。 市電の終点のベンチには必ずこのような不可解な、しかも同時にそれがすでにアートになりきっているような看板がある。私は終点に来ても知り合いがそこにいるわけでもないから次にやってきた市電に乗って市内のほうに戻っていくのだ。おそらくプランに住んでいる人間で私ほど終点に最も多く行っている人間はいないと思う。通常の在住者とは全く違う異常な行動パタンといえよう。 レンズはニッコール2.5センチの広角をアダプターでライカMD2につけている。この組み合わせが意外と使いやすい。

2015年7月30日 (木)

プラハ最後の歩行 走る男

000103870036

これは昨年の11月の私の最後のプラハ訪問のシリーズである。

プラハの北西の丘の上の停留所に、ちょっときくとその音が日本語の「もつ煮込み」に似ている停留所がある。チエコ語と言うのは発音が入り難しくて子音がたくさんあるようであるが私の耳で聞いているとどうしてもそのように聞こえるのだ。 別にプラハにまでいってもつ煮込みが食べたいと言うわけではないのだが、なんとなく日本語に耳が寂しいので、路面電車のその自動のアナウンスを開きに行ったりする。

ライカMD2にレンズアダプターで Sマウントニッコール5センチレンズをつけてその周辺の田舎街を撮影した。そこら辺のバーに入ってビールをいっぱい飲んで満足して戻った。 帰りの路面電車の中から外を窺っていると、プラハの男性が走っているのである。体格が立派なので何か人間がマシンになっているような印象を受ける。戦前のマラソンの選手人間機関車ザトペックである。

歩行している人間と走行をしている人間のドラマのレベルというのはこのように見ているとかなり異なるもののようである。別にこの男性が会社の時間に遅れるとかデートの待ち合わせ時間に遅れるとか言う理由で走っているというようには思えない。 ただ人間が相当のクルージングスピードで一箇所もう1カ所に移動しているという感じだ。そこにはドラマがある。

何かこの場合背景の看板の字体のいかにもチエコらしい独特の字体と色彩などがまた良い効果を上げている。 プラハの11月の午後遅くなので実は光はかなり乏しい。レンズは開放の1.4で撮影した。実によく写っていると思う。

2015年7月29日 (水)

飼い鳥も老いて佃の幟かな 長徳

Image
飼い鳥も老いて佃の幟かな 長徳

ライカインコ民主主義人民共和国は、四代にわたって栄えたのである。この腰折れはその2代目のライカインコが亡くなった時に私がよんだものである。
もうすぐ佃だの住吉様の本祭である。2011年に東日本大震災があった関係で本祭はスキップしてしまったので今年は実に久しぶりである。そうなると土地の古老の私などもそぞろに懐かしくなる。

やはりお祭りの前とお祭りが終わった後が気分である。
高い幟の柱が建てられてそこに旗が引き上げられる前のただの丸太の柱が好きだ。それがドイツの南部、ミュンヘン地方のこれはキリスト教伝来以前の古い民間信仰であると思うが、「5月の木」という飾り物がある。初夏のバイエルン地方を車で走っているとそここの村落で非常に高い柱を立ててそこに飾り物がついている。

その土俗信仰にこの佃の伝統の幟も非常に似ているところが良い。
柱の頂上にその種類は何であるか知らないが、緑のふさふさした葉っぱが飾られている。これは幟の旗が下がってしまうと目立たなくなる。だからお祭りの前というのは柱の頂上にその榊のようなものと白い御幣が夏の風にゆらゆらしているのは実に美しい。

お祭りも後半になるとその榊は枯れてしまってどうもきれいというのとは違う印象になってしまう。
佃の本祭は今年は数年ぶりであるから、私のような土地の老人は、やれやれ、、ここまで生き延びたという感が強いのではなかろうか。

昨年のことだがこの界隈の新築マンションの広告媒体の仕事をしたことがある。その巻頭に佃に4半世紀と言うことで写真とエッセイを掲載した。
佃は哲学者でレヴィストロースも訪問したなかなか哲学なランドマークなのだ。

昨日のことだがエレベーターに乗ったら一緒のご婦人が、佃を撮影した写真家さんに似てますねといわれた。私はそれに応えて、もう25年住んでいますと言った。
そのご婦人の答えが雑誌で見ました。なのである。
よく私を特定できたものである。
それは小さな顔写真であって四谷のアローカメラの2階で野々宮が撮ってくれたものだ。その画像を私のフォトメンタリーチョートクカメラに日記から拾って原稿にしたのだから大したものである。この仕事のおかげで佃の街の人々と知り合うことができたのは大変良かった。

今度のお祭りを取り仕切っている講中の古老などは、慶応大学出身のモダンボーイなので何かちょっとイメージが違うと言うのも面白かった。

まぁそれで佃の暑い盛りにお祭りが来る。

2015年7月28日 (火)

名はサイモン ナイコン

Image_5

1,960年代のNikonの広告が好きである。それはアサヒカメラの見開きページで印刷はグラビア印刷であった。ブラックが深くしまるのである。
この広告は最も少年時代の私が記憶に残っているものだ。
ケープカナベラルのミサイル発射所で撮影しているアメリカのカメラマンの写真である。Nikonを愛するあまり自分の苗字をニコンに変えてしまったと言うニコンファンのカメラマンの話である。

その広告を記憶したまま45年が経過していつも頭の中にはその広告の画像があった。それを画像検索名人の名人突撃隊長が探し出してくれたのがこの画像である。
サイモンさんはブラック仕上げのモータードライブ付きのSPにreflexニッコールの千ミリをつけている。かっこいい。
コレクター価格なら大変な金額のアウトフィットである。

数十年ぶりにこの写真を見て面白かったのはサイモンさんは少年の時に見た印象は典型的なアメリカ人に見えたのが、今では普通の人に見えるという点である。しかも外人の親父さんであると言うふうに見えていたのが今では若い人に見えるというのが面白い。これが写真の面白さがある

冷静に考えてみたらこの広告のコピーはサイモン ナイコンさんというのが正しいと思う。アメリカ人はニコンと発音できなくてナイコンと言っていたからだ。

2015年7月27日 (月)

ビール箱の裏表

Image


Image_4


これは突撃隊長がくれた古い写真である。日付をみると2009年の2月28日とある。1周年のお祝いと書いてあるからその前の年からビール箱の上に立って荒木町のシドニーで神村演説をしていたことになる。

もっともカメラ寄席の歴史ははるかに古くて既に10数年になるのだが、このように立会演説会をやるようになったのが2008年からと言うことらしい。

箱の上でカメラの話をしていると思考が浮遊して想像していない話が展開するのが面白い。しかしこちらはご老体になってきたのでしばらく前から椅子に座って、そして参加者も座って話を聞くということになった。

2015年7月15日のシドニーは、ちょうど隅田川の花火大会の影響かどうかは知らないけれどもお客さんが少なくてちょうどやりやすかった。開催中の神田明神のギャラリーバウハウスの講演会は都合二回開催したのであるが、こちらは木戸扇を取っているのでやはり入場者が気になる。こちらのほうはおかげで2回の講演が満員であった。
シドニーのほうは入場無料だから私が入場者数を心配することはないので逆にお客さんが少ない方が冷房がきくので楽なのである。
話の内容はもっぱら札幌の今井コレクションで体験したカメラの珍しい話をやって楽しかった。

90分のトークの後15分で終わるっていう時にいきなり長身の青年が入ってきた。トーク中に買い物はできないという不文律があるはずなのであるが、その青年が無言でカメラを物色し始めた。
演説の弁士というのは意外とナイーブなものであるから、私の場合大阪芸大での講義は、学生が遅れてきてもいらっしゃいませと言って明るく対応するのであるが、シドニーのトークはそれこそ真剣勝負であるので目の前に人間がうろうろされるとそれが弁士妨害になるのである。それで管理責任者たる二代目さんの許可をえて、15分早くトークを終了した。

その理由は弁士妨害である。カメラ自由民権運動が侵害されているわけである。しかしそれは言えないので、二代目さんには「お客さんが来たので終了します」と言った。10数年のシドニーでこれは今回初めての例である。弁士妨害はやめてもらいたいものである。


2015年7月26日 (日)

ルサール20ミリの謎

Image

Image_2

ルサール20ミリは旧ソ連製の超広角レンズである。ルシノフと言う人が設計したもので非常に優秀なレンズである。もともと航空写真偵察用のレンズがあるからラージフォーマットで焦点距離は長い。これはそのレンズを小型カメラ用に直したものであるだから20ミリだ。

ちょうどトポゴンの超広角レンズが航空写真ようでそれを小型カメラように短くしたのがトポゴン25ミリであるのと同じ次第である。
その20ミリのレンズは私がヨーロッパに住んでいた1,970年代には幻のレンズであった。7年半の滞在中にいちどだけ見かけた。それも店で売っていたのではなくてプラハの写真家が所有していたものである。
どうしても欲しいので当時のお金で約1,000ドル相当のカメラレンズと交換してもらった。

当時のルサールは製造番号が3桁であった。その後のレンズのように最初の2つの番号が西暦をさしているというようなナンバリングではなかった。
それはクローム仕上げ、銀色のレンズである。ファインダーも結構凝ったものが付いていた。この画像にあるようなファインダーである。

ソ連が西側の国になってしばらく経ってから同じレンズがブラック仕上げで登場したのにはびっくりした。
幻のレンズが簡単に手に入るようになったのである。このレンズで撮影した作品が7月31日まで開催中のギャラリーバウハウスの私の個展の中に1点ある。優秀なレンズである。
面白いのはスーパーアングロン21ミリよりも1ミリ焦点距離が短いだけなのに、実際の写真を見るともっと超広角の描写なのが不思議である。その理由はわからない。

ウイーン時代にこのレンズのリアのガードを外すとライカM5に使えた。
通常はレンズのリア
が当たってしまうから測光ができなかった。

2015年7月25日 (土)

ウィンザーの高級カメラ

Image

月に1回四谷荒木町のアローカメラの我楽多屋で集会をやっている。名前がないのでシドニーカメラ寄席ーと呼んでいるがそれが既に10数年も連続して開催している。
たわいないカメラの酔多話であるが集まっている人数が少ないので言いたい放題である。これをブログでやるとすぐブログが炎上してしまうと言うようなスレスレの線なのでそこがまた面白い。

10数年前はビールの箱の上に乗って演説をしていた。ちょうどロンドンのグリーンパークでそのような伝統があって誰でも箱に乗って自分の政治的な見解
を披露できるものである。
それが民主主義と言うものだ。
しかしこのシドニーカメラ演説会では、弁士が歳をとってきたので数年前から椅子に着席して演説をするようにしている。聞き手のほうも歳をとってきたのでそれぞれにしゃがみこんだり体育会ずわりをしている。

それはともかくとして、カメラ演説をしているときに視神経と言うのはあちこちをスキャンしているのである。結構長いことお店にとどまっているカメラと言うのは、月に1度演説に行くからわりとよく目に留まる。そういうのは気になるし、同時に目障りであるから自分で手に入れたりする。

これは1,950年代に人気だったウィンザーというレンズシャッター型のカメラだ。それの高級品というのが実はこのモデルであってウィンザースーパーAと言うらしい。
ちょうど同時代のカメラにミノルタスーパーAというのもあった。同じ時代の制作年代ではないかと思うのは、ちゃんと理由があってシンクロ接点が、所謂犬のおっぱいのスタイルなのである。これはシンクロ
接点のドイツ式B型になる前の型である。

このカメラが長いことお店にとどまっていたのは壊れているからであった。しかしその明るいef 1.9のレンズなどには品格があるし各部分も非常に高級感にあふれている。ーアメリカのカメラジョークには壊れているカメラはドアストッパーに使うと言うのがあるがこれなどはドアストッパーにするのはもったいない。それでカメラ置き場のちゃんとしたしかるべきポジションに置いて鑑賞しているのである。

レンズをご覧になると分かりなるように、当時の有名なドイツのレンズと1字違いの非常にきわどい路線を狙っている。そこがまたカメラの向上心が感じられて好きである。

2015年7月24日 (金)

札幌大通公園のピースマーク

Image

札幌に来るとカメラ屋さんには行かないで今井コレクションを見学に行く。今回は某雑誌のために撮影という目的でカメラを借り出してそれにフイルム装填して札幌の街を撮影した。

私は観光地はとらない主義であるから、大通り公園も通過するだけで撮影した事は無い。でも今回はちょっとキッチュな写真が欲しいので行ったり来たりしてスナップを撮影した。

テレビ塔に向かって噴水が手前にある場所というのは記念写真のメッカのようである。
そこのベンチに座ってさてこれからどうしようかと考えていたら若いカップルがやってきた。まず女の子がブイサインを出してカメラに収まっている。
ヴイサインの元祖はChurchillではなかったか。

ベトナム戦争の頃にブラックパンサーを支持する黒人の連中がソールブラザーというアクションをやっていた。右手の拳を中途半端に挙げると言うスタイルなのである。それに対抗してワスプの連中がやったのがどうもブイサインマークのようであった。

そういうことが完全に忘れられて、以来何十年、極東の女の子が主に意味不明なVサインをやるのである。これもその典型的な例であるが、この場合はブイサインがダブルになっているのが何か迫力がある。
エリザベス女王陛下がまだ幼女の頃に宮殿の中でハイルヒトラーの挨拶を、つまりナチスドイツ的なあいさつをしたのが、英国の大衆紙で話題になっていた。

私にとって大通公園のこの女性のダブルVサインが不気味に思えるのはそこになんら政治的な要素がないからである。そういうのが怖い。
カメラはiPhone。

2015年7月23日 (木)

チョートクカメラ塾7/22未着のお詫び

チョートクカメラ塾受講生の方に
一部の方にチョートクカメラ塾の到着しないトラブルが発生しております。
お詫び申し上げます。
現在復旧中です。ご迷惑をおかけします。しばらくお待ちください.


*7/23午後に再配信します。よろしくお願いします。

*7/23 5pmに再送信しましたがテキストは途中で切れています。対応中です。しばらくお待ちください

*7/24 .0:00に再配信します。

札幌今井コレクション定例研究会

Image


Image_2


札幌のコレクター今井さんのカメラコレクションをこの数年来定期的に拝見している。

この4月には札幌でクラシックカメラに関する講演会をやらせてもらった。その記憶がながく残っていて、5月にパリに行った時は今井コレクションのカメラの思い出で満足していて実際に中古カメラ店に行くことはなかった。
それでパリ滞在中は撮影に専念できた。この状態をどういう言い方をするのがわからないがまぁ「今井効果」というのだろう。

6月はギャラリーバウハウスでの個展の準備に忙殺されていて、7月になって札幌の今井コレクションを再訪したのである。
そういう定期的な訪問をなんと言っていいのか考えて名前がないのも変なので、札幌今井コレクション定例研究会と勝手に命名した。
しかしこれにはなかなかステータスがある。というのも同行者は日本カメラ博物館の市川さんであるからだ。そうなると
かなり公式な感じがしますね。

どういう研究会かというと、まず館長
の今井さんが思いつきで選定したカメラをテーブルの上に乗せる。そして知識が豊富な市川さんがそれを解説して私に教えてくれる。私はそれに対して適当な思いつきの印象を述べるわけだ。そこで会話が1周してまた面白い展開などがある。

カメラレンズというのは不思議なもので、実際の品ものを目の前に置かれると想像力が膨らむのである。頭の中で考えているだけではダメで、生の物体が目の前にあると思考力が想像もしない方向に展開するのだ。カメラとかレンズと恋愛関係になるということなのである。

今回も2日に渡って大研究会の日程があったが、その中の1つをピックアップしてみればこんな感じだ。これはライツのズミルックス50ミリf 1.4である。それは元々超高級なレンズであるが、この個体は通常のバイオネットマントではなくてスクリュー マウントなのである。

そうなるとあらゆるライカマウントのカメラに装着できるわけだ。キヤノンの旧型のレンジファインダに装着するとちょっと想像もしていなかったような戦闘的なカメラのスタイルになる。

第三者から見ればこれは単なるカメラとレンズの組み合わせ遊びにすぎないかもしれないけれども、我々カメラ研究会のメンバーからすると、これはカメラとレンズのマニエリズムの研究という言い方もできる。

2015年7月22日 (水)

プラハ最後の歩行 肉屋さん

000103870025

プラハの街の面白さは、やはり市電から写真を撮ることに尽きる。プラハと言う街は巨大なうねり、これは地形上のうねりであるが、で構成されているから息が切れるような坂がえんえんと天までつずいているようなところがある。

だから移動するには市電がベストである。 旧市街ではノロノロと走っている市電でも、一度郊外に出ると高速鉄道に変身する。 これはプラハの北東の丘の上の小さな町でのショットである。

肉屋と言うのは日本の米屋に相当している店と言う存在感がある。 その店の前に老婦人が後ろ向きに立っている。何を覗いているのかわからない。ウィンドウの上には動物の身体の部位を書き込んだ細かいイラストが掲げられている。

それを見ているといかにも博物学のメッカ、マニエリスムの本家のプラハを感じるのである。 そういう不思議なイラストとか不思議な物体を4半世紀プラハを歩きながら、そして電車の窓から見てきたのである。これは貴重な体験だ。

カメラはライカMD2 レンズはニッコール5センチf 1.4

2015年7月21日 (火)

プラハ最後の歩行 窓枠とシャーシ

000103920022

四半世紀のプラハでの撮影の時間を回想してみるに、人物にクローズアップしてスナップと言うものはあまり撮影していない記憶がある。

その理由と言うのは何も極東のあの専制国家でよく言われている、肖像権の侵害とかいうようなピントはずれなマナーからでは無い。確かにプラハは人間も面白いが、古びた都市環境が面白いのである。

そのルールでずっと写真を撮ってきた。 ところがそれ意外に想像もしなかったような不思議なショットをとることができた。その一例がこのショットである。 何が不思議かと言う言えば. 私が考えている路上に展開する人間と物体等は軽く 否定してしまうほどのシュールさがそこにはあるのだ。

女の子とお婆ちゃんが歩いている。それはそれで良いのだがトラックのシャーシ つまり車の骸骨だけがある。そして左にはこれが実に謎めいているのであるが、男が窓枠を運搬しているのである。

窓枠と言うのは定位置にあるもので未来永劫移動する事は無い。それが移動しているのである。 何か我々が日常的に考えている全ての空間と物体との関係がそこで破壊されてしまっているように感じる。
それが面白い。

自分の意思で自由自在に移動する窓というわけだ。 カメラはライカMD2  ニッコール2.5cm

2015年7月20日 (月)

ホテルセントラル カサブランカ

Image

私が若い頃の旅行は外国などで到着したまだ知らない駅の前から歩き出してホテルを探し出すことになっった。
それは非常に面白い冒険だったのだが、最近ではオンラインであっという間にホテルの旅行の予約ができる。つまらない時代になったものである。
これは9月に行くカサブランカのホテルの地図である。最近ではGoogleマップで非常に正確に場所が示されてしまうのは便利なようでいて逆に面白くない。

ホテルが自己中心的に描いたイラストの方が真実なのではあるまいか。
この地図も下手なイラストでなかなか味がある。

6年前に宿泊したアラブの春以前の回路の名前は忘れてしまったホテルも面白かった。そのホテルの名刺を見ると向かいにある朝高級ホテルと並ぶほどの大きな建物が描かれている。こういう自己中心的な価値観というのは大切だと思う。我々ですら世界はそのように言っているからだ。

ホテルセントラルという名前は世界のあらゆる都市のあらゆる町にあるであろう。プラハの中心街の百貨店の屋上から旧市街を見た方向に今はもう存在してるかどうかわからないが、やはりホテルセントラルがあった。その屋上に掲げられているネオンサインの看板が半ば分解しそうになっていてそれが何とも言えない趣味を漂わせているので、わざわざデパートの屋上に上ってその壊れつつある看板を観察したこともあった。
その写真は私の著書「屋根裏プラハ」(新潮社)に掲載されている。

2015年7月19日 (日)

ピザ試食会

Dsc_3996
Dsc_3997

ピザという食品はイタリアの物だと言う気がしない。以前イタリアのナポリに行った時にそこがピザの発祥の地であるとか聞いて街中を探したがそれらしい店が見つからなかった。その代わりにあまり治安のよくない街角でエックスの時計をとられた。だから私のナポリに対する貸借対照表は貸方なのである。 一方でマンハッタンのタイムズスクエア等は町の角が全部ピザ屋である。ピザと言うのはどうもそういうアワリーとかホームレスが食べている食品と言う印象がある。これは私のいわれなき先入観であるのだがどうもそういう気がするのである。 表参道の裏の方で友人のアパレル屋さんの新社屋が落成したのでそこに見学に行った。落成したばかりのホワイトハウスには立派な屋上があって、酷暑の日であったがそこにパラソルが立てられてクライアント相手の商談をしてバーベキューなどをやるそう言うロケーションである。 ドミノのピザ宅配してもらって麦酒を飲みながら大宴会をした。ドミノのピザと言うのには思い出があって以前ミシガンかどこかの取材に行った時にドミノのピザの経営者のお宅を撮影に行った。 これがフランクロイドライトの設計による建築であったか、もしくはそのコピーだったか忘れたが、何か旧帝国ホテルにいるようであった。 私はピザを食べる習慣がないのでこのビザ試食会は面白かった。 プロミネントゲストの中にはそのピザメーカーのアップルパイがおいしいのでそれを買ってほしいというリクエストもあった。何とかデラックスというタレントさんがテレビでそれを褒めたのだそうである。大変な先制国家であってテレビで有名人が褒めるとそれがいいと思われるもののようである。そのアップルパイの味が試食しなかった。もともとアップルパイが嫌いだから、これは宗教上の理由でアップルパイを食べないというそれだけのことである。 ドミノがなくなったので名前は忘れたがそのアパレルメーカーのすぐ向かいにある別の店に追加の注文を出した。こちらの方がピザの生地がやらかくて食べやすかった。まず老人向けの味というところであろう。アメリカ人の悪趣味からピザにはタバスコをかけるということになっているが、アパレルの社長の好みできゃうとのえらく辛い唐辛子を試してみた。 これが口が曲がるほど辛いので非常に気に入った。

2015年7月18日 (土)

新社屋落成

Dsc_3994_2

表参道とか明治神宮前は私にとっては外国である。だからその界隈の事は全く知らない。数年前に京橋のアイランドギャラリーが企画した非常に大きな規模の展覧会で海森展、をやった。でもその時は明治神宮の内部の広大な展示場で開催したので、原宿の街にはいかなかった。 私の原宿とか竹下通りの記憶と言うのは40年から30年前の事なのである。東京散歩カメラと言う写真集を出したときに竹下通りの真ん中あたりにタバスコを売っているお店があった。そこでグッズを買ったりしたのが最後の体験であった。 表参道ヒルズでソニーが新型のデジタルカメラを出したときにそれを見に行って、当時は仕事場が六本木ヒルズであったから、ヒルズの4階から表参道は見えるので歩いて行ったら1時間ちかくかかった。 これはすごい錯覚であって、長崎から東京に向かう夜の飛行機で大阪と名古屋を一緒に見たことがある。 高いところから見た距離感の錯覚というやつだ。 偽ライカ愛好会の友人が「暴れる屋さん」で新社屋を立ち上げたので撮影会の時にメンバーで見学に行ったのである。まるでカサブランカのような迷路の奥にホワイトハウスがたっていた。もっともカサブランカと言うのは来月の終わりに行くのであって今では想像でしか街の様子がわからない。でも表参道の裏手カサブランカに似ていると信じている。 大都会のノスタルジーを私が感じるのはこのホワイトハウスの手前に立っている電信柱である。マンハッタンに住んでいたときに何か大都会のカタルシスというものを感じてよく考えてみたらマンハッタンには電信柱がない。それで地下鉄に乗ってブルックリンに行った。ブルックリンの奥のほうの坂の途中に規則正しく電信柱が並んでいるのを見て安心したのである。 映画監督には2種類あって1つには現実都市の風景をそのままフォトメンタリで撮影する人、もう1人は電信柱が邪魔だと言うので全部切り倒す人がいる。どんな巨匠の映画監督でもあっても私は後者は嫌いである。 私の支持政党は「電信柱パーティー」である。だから初めて会った人に単刀直入にあなたは電信柱が好きですかと聞くのは相手の政治的信条を確実にチェックすることができる。 そのホワイトハウスの斜め向かいに小洒落たカフェがあってワスプの女性がお茶を飲んでいる等はいかにもかつての占領国日本の便である。 その隣のテーブルでアメリカの先住民族みたいなかっこいいオヤジがいる。よく見たら友人の突撃隊長であった。

2015年7月17日 (金)

モーター付きライカという存在

Image

最近のカメラ人類はモータードライブ付きのカメラというものを知らない。当然の話であってデジタルカメラではフィルムが入っていないからフイルムをまきあげる必要がないのである。初期のフイルムカメラではモーターや電動式モーターを使ってフイルムを巻き上げる構造になっていた。

各カメラメーカーが工夫を凝らしたものであった。これは戦前のライカに装着するぜんまいじかけのライカモーターである。非常にずっしりして重いからまずアマチュア写真家がこれをつけて連続撮影をするなどと言う事はちょっと考えられない。

私の所有しているこの個体は実に使い込まれている。当時のライカのchromeの仕上げというのは非常に頑丈なものであって、ちょっとの摩擦などでは絶対にchromeが剥がれない構造になっている。ところがこのモーターはご覧のようにすれすれでハゲハゲである。おそらく軍用で使われた付属品だと思われる。

それを戦前のライカに装着してこのように使っている。ただしスナップショットで街を歩くときにはこんなに大きな重いのは持ち歩けない。
私がよく撮影しているとバスの中とか車の中からのショットでは意外とライカモーター付きのライカというのは便利なものである。
おそらく似たような状況が70年以上前のドイツの戦闘機の中などで撮影されていたのであろう。

2015年7月16日 (木)

都バス の静寂

Image_2

東京駅の丸の内北口から発車して荒川土手に行くバスがある。系統番号は忘れたが丸善のちょうど前から発しているバスだ。ただし1時間に1本しかないので事前に時刻表で発車時間をチェックしておいた方が良い。東京の中央部から北西に幾つもの丘と谷をを越えて最終的には荒川の土手まで行く。

それで荒川土手行きなのである。都心から荒川土手と言うととんでもない地名の段差があるがそこが面白い。私が好きなのは本郷の追分から駒込病院に行く間の停留所にして幾つかの区間である。この道路は不思議な雰囲気が漂っている。私の少年時代の閑散とした東京の都心の道路という感じがするのである。時間帯にもよるが車はほとんど走っていない。

バスの最前列に乗って流れ去る風景を見ていると昔にそのまま戻ったような気持ちになる。都バスの静寂だ。駒込病院からはいわゆる病院バスになってしまって病院から最寄りのJRの駅までの間は満員になる。しかしその先はまた閑散として工場の跡地とか都営住宅等の間をぐるぐる回って荒川放水路に架かる橋を越える。このわずかな間の都バスの静寂と言うのを愛していてわざわざこのバスに乗るのである。

2015年7月15日 (水)

金のアルパに銀のレンズ

Image_3

Image_4

カメラメーカーで金色の仕上げのカメラを出すようになったらおしまいである。メーカーにしてみるとカンフル剤で人気を回復しようと思って作るのであろうが、ほとんど逆効果になってしまう。
これもその一例である。

スイス製の一眼レフアルパのゴールドモデルだ。こういうカメラは大昔にスイスからアメリカに輸出されたのである。

当時は強いドルのアメリカであって世界の最も贅沢なカメラ消費国であった。このゴールドモデルは意外と生産台数が多くて100台と言う記録がある。アメリカ人がえらいのはそういう記念モデルを金庫にしまわずにちゃんと日常の撮影に使っていたことだ。
だからこのモデルも外見がかなり疲れている。私はそういうのが好きだ。

アルパのレンズはスイス製の純正から始まってフランス、ドイツなど各種のレンズがある。さらにアダプターを利用してニコンとかペンタックスのレンズが使える。

この銀色のゴージャスなレンズはソ連製である。カールツアイスイエナのゾナー180ミリをコピーしたものだ。
この2つを合わせるとこんな具合になってしまう。見かけはゴージャスだなこれを持って撮影に行くという気にはならない。

ソ連製のレンズは大抵が最初の製造番号の2ケタが西暦の最後の2桁を表している。しかしこのレンズは例外であってそのような表示はされていない。製造番号がなんと180である。180ミリの焦点距離のレンズが製造番号が180というのは何か薄気味が悪い。

2015年7月14日 (火)

裏原宿をゆく

Dsc_3975

友人の写真家が原宿に事務所を構えたのは1970年だった。その頃の原宿は狐や狸がでそうな寂しいところでまだ竹下通りの混雑もなかった。

時代を見る目がない私はその写真家の友人がなんであんま寂しいところに事務所を構えたのかと不思議だった。 これが竹下通りフィーバーの旧約聖書の1番最初のセクションである。

1,980年頃裏原宿のブームが起こって、あそこは川の上にできた道なのであるがそこをまだ若かった私は面白半分歩き回った。ピンクドラゴンとか言う名前のアンティークショップだけがあって後は下しもた屋ばかりだった。

その当時の原宿に行く用事と言えばヤシカコンタックスの会社がそこにあって機材を借りに行ったりした。表参道の角にはセントラルアパートがあってナショナルフォトというカメラ屋があった。その通りの反対側が八角亭という焼き肉屋であった。私の表参道と原宿の記憶はせいぜいその程度である。

偽ライカ愛好会のメンバーがアパレル屋さんをやっていて新社屋が完成したのでそれを 拝見に行った。その社長は親切なので何十年も原宿裏原宿に行ってない私を案内してくれた。もともと路地裏のしもた屋ばかりであったところに無理やり今風のショップがずらずら並んでいるので、何とも不思議な感じがした。

つまり映画のオープンセットなのである。 歩行している若い連中は別にエキストラさんではなくて実際にお店に入って買い物したり、高い二千円バーガーを食ったりするのである。すごいなと思った。バビロンの映画 栄華もこれにはかなうまい。

しかも日曜日の午後で気温は35度近い。しかも場所はアジアであるから何かベトナムの古い都ホイアンの猛暑を歩いている気分になった。爺は脱水症状に注意せねばならない。
クールピクスa

2015年7月13日 (月)

お知らせ

🌃フォトメンタリーチョートクカメラ日記1500万PV達成記念。
佃日記 絶賛発売中。詳しくは大隅書店HPをご覧ください。

http://ohsumishoten.com/books02-13.html


🌃いつもご愛読ありがとうございます。もうすぐカウンターが千五百万ページビューになります。これも皆様のおかげです。今後ともよろしくお願いします。ーーーーーーーーー

@@@@@@@@@@
カメラで本気出す カメラに本気出す
チョートクカメラ塾 入塾なう
http://chotoku.thebase.in
Image
🌃次回のチョートクカメラ塾は1/13水曜配信です。
テーマは
「2016 今年カメラでやりたいこと」

受講生は月謝納付お願いします。
ーーーーーーーーーー
Image

Image_2

Yoichi OkamotoのNikon

Image

Image_2

岡本の存在を知ったのはウイーン時代である。彼はウイーンのハードカバーの写真集を出していた。その本は今でも手元にある。

日系のフォトグラファーはニコンSPを手にしてポーズを決めている写真が写真集の帯にあった。それがなかなかかっこ良いのである。
ニコンには5センチのf1.4がついている。これこそフォトジャーナリストのカメラである。大きなレンズのF1.1のほうはあれはカメラ愛好家のレンズである。ゲバラが使っていたのもそのアマチュア用のレンズであった。

岡本の経歴を調べて彼がニューヨーク州のYonkersの生まれであることを知った。ニューヨークの大学を卒業してから陸軍通信隊のオフィサーとしてウイーンに赴いている。そこで撮影した写真は写真集になっていた。

1985年に岡本はバージニアの自宅で自殺してしまう。69歳であった。
ウィキペディアで調べたらなんと岡本はジョンソン大統領時代の公式カメラマン、つまりホワイトハウスカメラマンであった。

大統領付き写真家と言うのはJFKの時代には自由の象徴としてなかなか意味があったが、ジョンソンの時代になっては、北爆の親方であるからかなり大統領としての価値は低下したと思う。
岡本の自殺したのはまさか大統領写真家であったことをネガに捉えていたのではないと思うが、一連のホワイトハウスの写真よりも私はウイーンの作品のほうがはるかに好きである。

私が1,970年代にウイーン撮影した写真家であるとするならば、同じ外国人で60年代のウイーンを撮影した先輩が岡本ということになる。

当時のアメリカのジャーナリストはニコンを使用するのが非常にオフィシャルな感じであった。カメラはニコンとライカしかない時代であった。他のメーカーはまだ登場していなかった。

Image_6

2015年7月12日 (日)

スーパーリンクスをプレゼント

Image_2

このカメラの、の雑誌広告が素晴らしい。
私は結構この雑誌の広告を集めているのだがこの女性がカメラをプレゼントされたものなどはトップクラスである。
1,950年代初めの広告であるから、カメラと一緒にちゃんとカードと花束が添えられている。
その女性の表情がまた微妙なところを描写している

他の雑誌広告で見ると当時のスーパーリンクスはef 3.5のレンズが付いて4万フランもした。
時代が大昔であるから、4万フランがこれは旧フランであって新フランでいくらなのかはちょっとわからない。

それにしても女性を感動させるには充分なプレゼントであって、パリジャンの連中の真面目な気持ちにコミットするいい広告である。ーー

2015年7月11日 (土)

バックの中身

Image

カメラ雑誌の記事などでネタが尽きると必ずカメラマンのバックの中身というのやる。

バッグではなくバックである。東京の下町を歩いていて古い洋品店などを見ると、店主が手書きのポスターを店に貼っている。必ずバックである。音は濁らない。
特に下町の方でこの傾向は強いと思う。

思うにこれは神田なまりというのでもなかろうが、下町言葉なのだと思う。このバックはアローカメラ我楽多屋でしばらく前に買ったものだ。
その後に買ったピンクのバックがヨーロッパでだいぶ有名になってしまったので、こっちのほうに持ち替えた

実は1月に帯状疱疹を開始してから左腕にこのバックをかけるということが痛みで困難なっていたのである。それが徐々に快方に向かったのでようやくTシャツ1枚でこのバックを左肩から掛けても痛みは感じなくなった。

誠にありがたい次第である。もちろん完治したわけではないから、このバックを買った二代目さんのちちうえ、カメラ買取名人のお得意のポーズ、これがありますよ。これが、ーーーーそれは指でりングを作るお金意味なのであるが、それがまだできない。親指と人差し指を丸めてワッカにすることができないのだ。

私のバックの中にはこんなものが入っている。特に代わり映えはしない。
以前雑誌の企画で坂崎幸之助さんのバックの中身を見せてもらった時面白かった。旅から旅へのツアーの連続である。日常生活の必需品だけではなく万が一のものも入っている。健康保険証がバックの中の1番重要なものであった。私などは年寄りだからどこでどうなるかもしれないので私もバックの内ポケットに健康保険証は入っている。

トートバックを最初に使い始めたのは1982年のマンハッタン生活の時だ。ニューヨーク近代美術館で売っているトートバックを使っていた。結構頑丈な生地でできていたのだが1年間デイアドルフのカメラを持ってマンハッタン中を持ち歩くとそれでボロボロになった。

2015年7月10日 (金)

パリのスーパーリンクス

Image

フランス製のかっこいいカメラがあった。ボディーはアルミニウム磨きだしである。
そのデザインが、言い方は古いのはいかにもフランスのエスプリという感じなのである。
ライカもニコンもコンタックスも持っているからこういうカメラは実用とは無縁である。

だからますます欲しくなるというのはカメラ人類の特徴だ。
パリの十区と言うから東駅のすぐそばに工場があった。ここら辺はこの100年間ゴタゴタとした工場であった。フランスのパリのカメラ工場というのは意外に数が少ない。

スチルカメラではなく映画撮影機ならパリのオペラ座のすぐ南にかつてのパルボ、これは35ミリ撮影機であるが、その会社があった。建物はまだ残っているのでそれを昔、見に行ったものであった。

このカメラはその名前をポンテイアック スーパーリンクスという。目測の距離計のないシンプルなカメラでなぜスーパーを名乗るのかよくわからないが、それ以前のモデルは120フィルムを使うセミ版であったからそれに比べると35ミリフィルムはスーパーということになるのであろう。

1947年からの会社であって、1951年からは当時のフランス領モロッコに工場を移している。言い方を変えれば唯一のアフリカの小型カメラなのである。
カメラの仕上げはアルミの磨きだしであるがそれにブラックペイントを施していかにも黒い皮が貼られているかのように見せているモデルがある。

工場がモロッコに移転してからは当然のことながらモロッコ皮の本場であるのでちゃんとした皮がはられるようになった。
このカメラであるがピカピカに磨出されたアルミニウムである。数からするとこれが1番少ないような感じがする。
昔、坂崎幸之助さんが全国ツアーの間に夜は外に出れないから持参のライカM2を磨いて、皮を剥がして本体をピカピカにしたことがあった。そのカメラを中古カメラ市で見て夏向きライカと絶賛していたら、そこに勘違いのカメラ爺さんが来て、今度そこにせルイヴィトンの皮を貼ってやる。と言っていた。後で大笑いした。

2015年7月 9日 (木)

ギャラリーバウハウスでお買い上げの作品 赤カブ

Image_3 ="300" height="400" border="0" />


今回のギャラリーバウハウスの個展では集中的にプリントした。
その一番最初のプリントがこの作品である。

ウイーンの旧市街の北のほうにフライユングという場所がある。真っ黒にすすけた建物であってお化けが出そうなところだった。古い八百屋があって店先に赤かぶを並べていた。赤かぶと言うのはウイーンではよく食べられる野菜で塩ふってビールのつまみなどにもよい。この店でこの赤かぶをたまに買うこともあった。1束が5シリングにというのは当時の物価を思い出すよすがである。

ご来場のお客さんで私の著書をほとんど読んでいる人がいて、こないだもマンハッタンに旅行して帰ってきたばかりだと言う。 その方の風貌が赤瀬川原平さんにそっくりなので何か原平さんと話をしているような気になった。

その方のお買い上げがこの作品である。なかなか良い目をしていると思う。実は今回の膨大なプリントの中でこの作品を1番最初にプリントしたのである。数年ぶりのdarkroomで、全部かんでやっている。エルカンの引き伸ばしレンズで絞りが4.5で20秒と予想つけてプリントしたら壱発でうまい具合になった。
このフライユングのファサードは25年位前に整備されて今ではおしゃれな買い物通りになっている。ドルヒがングというのであっていわゆる建物の中を通路が貫いているのである。

カメラはソ連製のコンタックスキエフであってレンズはオリオン28ミリだった。そういうことはよく記憶しているのである。

2015年7月 8日 (水)

大竹昭子さんがウイーン二グラムの光について書いてくださいました

http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/2015-07-01.html

パリの不思議な劇場 影の男

06242015_15

パリが劇場のように見えるという最大の理由は、白い壁の前を人々が、何か歪んだ夢という感じで行き交うことに尽きる。しばらく前に出した本でもその大邸宅の白い壁のを行くユダヤ人の家族が行く瞬間をとらえた。

パリの本当の姿をとらえるならばもちろんツーリストの長いれつではなくて、アシュケナージの家族が歩いて行くの劇場のように撮影するのが本格派というものだ。 ポートロワイヤル細い道をまっすぐに東に進んでマレに至るまでのパリの最も古い空間を私は好んで撮影する。

路上の車を全部取り払って馬車走らせるせるようにすればそのまま18世紀終わりのパリがそこに登場するのである。 この白い壁は好きでよくここに来る。ただしその位置はよく記憶していないのだ。適当に歩いている間にその白い壁の劇場の前にくるのは一種の動物の帰巣本能というやつである。 何も考えずに歩いている後に自動的にそこに来るのだ。

壁の前を行く人々を選ぶとすればやはり女性ではなく男性が良い。スタンドアロンで歩いている人が良い。 それも群像ではなくて写真になるかもしれない。 この壁の前で私はそこに現れる人を待っているわけではないのだ。

運悪く時間軸が私の白い壁の前を通過する人と交差してるということ、これは人生の奇跡でなくてなんだ。 そのモノクロームの長いフィルムを見たらこの1コマが入っていて、それをスキャンしてみた。

面白い発見があった。白い壁のあちこちにちょうど少年がボールを壁に投げて遊んでいるような痕跡がついている。逆に見ればこれは時間の堆積はそのまま白壁に記録されているということなのか。 カメラはニコンのレンジファインダ。レンズは超広角レンズ2,5センチ。

2015年7月 7日 (火)

パリの不思議な劇場  ぱりじえんぬ

06242015_17

06242015_18

外国人の日本に対する不当なステレオタイプは「富士山芸者」であるのなら、私のパリジェンヌに対する不当なステレオタイプは「エッフェル塔とお針子」である。

母親が若い頃に音羽の家で見ていた古いモノクロのフランス映画であって、そのヒロインがお針子であった。真面目に見たわけではなくて脇でその音声を聞いただけである。こう言う刷り込み現象は怖いものだ。 黒っぽい服装をしてパリの裏通りを小走りに走っていく若い女性は私には全てお針子なのである。もっとも今のお針子はパリジェンヌではなくてベトナムとかカンボジアとかそっちのほうにたくさんいるのであろう。

パリでの撮影に疲れてよく行く小さな公園のベンチで私が休んでいた。向こうから人影のような人物がかなりの速度で歩いてくる。向こうからまるで人影のように見える人物がかなりの速度でこっちに向かってくる。これはお針子だなと思った。

その人間は私の前をすごい速度で通過していった。杖をついている。そして黒っぽい服装なのである。アメリカ人の金持ち娘がパリに来てパリジェンヌは洋服を十着着しか持っていないと書いたそうだ。これは本当だろうか。

考えてみたらお針子が若い娘である必要は全くない。お針子と言う存在部分から考えれば元お針子は十分ににお針子のパーセンテージが高いのだ。 ニッコール2.5cm

2015年7月 6日 (月)

パリの不思議な劇場 帽子屋

06242015_8

19世紀末から20世紀初めにかけてちょうどプルーストの写真版のような重要な役割を果たしたのが写真家ユジーヌアジエである。

彼が撮影した19世紀末のパリの街並み、特に商店のウィンドウというのは実に謎めいている。 私もオリジナルプリントを一点保有しているがそれは商店のファサードを正面から撮影したもので、そのガラスの表面に撮影者が写っている。

まだ板ガラスの生産は昔のままの時代であるから、ガラスの表面は完全な平面ではなく小状に波打っている。 だからそこに鏡の作用で写っている写真家も同様にキュビズムの画像のようにゆらゆらしている。

パリではまだそういう大昔のガラスがわずかに残っているところがあって、それを見に行くのが楽しみの1つだった。でもこれは1,970年代の話であって、今そのような立体派めく風景を反射させるガラスはもうパリには博物館以外では見られないであろう。

パリの路地裏にある小さな帽子屋さんを撮影した。いかにもクラシックの生活を守っているご婦人が被りそうな帽子である。 ウィンドウに鏡が置いてあるのは通行人の購買欲を増加させるためなのである。

ところが私はエトランゼであるから全く不似合いな風貌でそこに写り込んでしまった。 まぁそれがセルフポートレートの写真の面白さではある。 カメラはニコンレンジファインダ、レンズはニッコール2.5センチトポゴンタイプの当時の超広角レンズ。

2015年7月 5日 (日)

パリの不思議な劇場 逆光のひと

06242015_9

パリの中心部 の広大な公園の向かいのリボリ通りにアンリカルティエブレッソンが住んでいた。確か126番地であったかな。

なぜそんなことを記憶しているのかというと理由があって、当時のライカの会社がブレッソンに売ったライカの保証書にそのアドレスが記載されているのである。 これは1966年のことだ。おそらく写真家はそれを30年以上使っていたのである。

私が出版したライカ関係の本で、表紙に木村伊兵衛、澤田教一、アンリカルティエブレッソンの3人のライカ掲載しようと計画した。澤田とブレッソンは通信社の写真の使用で、すぐに問題解決したが、木村伊兵衛はの使用関係の許可が下りなくて駄目だった。
それで表紙のライカ人類は3人ではなく2人になった。

リボリ通りは東西に延びる非常に長いメインストリートである。その西の方と東のほうは多分、別の名前になっているかもしれない。 マイブームになっているアメリカニューヨークのファッションフォトグラファービルCunninghamが着ているブルーのジャケットを探して、パリ市庁舎の向かいにある同じ名前のdepartmentハウスに行く時に、それまで小雨が降っていたパリの4月のはっきりしない天気が一掃されて、いきなり大通りの向こうに光が出現した。

不思議なのはその瞬間に手前から遥か先まで全く車が見られなかったことである。渋滞の名所のパリの1番交通量の多い通りでこれは奇跡のような思いだった。 はるか先の横断歩道を1人の人間が渡っていく。

その存在が光の中に浮遊している。こういう状況はおそらく文章では書けないのである。 反射的に私の持っているニコンレンジファインダが反応して写真を撮った。視神経から直接に右手の人差し指に反応が起こったわけである。

2015年7月 4日 (土)

パリの不思議な劇場 パスカルの塔

06242015_6

サンジャックの塔だったっけ、、、、パスカルから誰かが重力の実験をするのでこのタワーを建てた。上から金属の球体を落下させて重力調査をしたそうである。 という逸話は私の最も古いパリの案内で読んだ風化した記録である。 いや今とは違うかもしれないが、あの当時のウィーンではJTBのガイドブックが唯一の旅行案内であった。もっともリーヴォリ通りに面したこの界隈は私には最もなじみのない街なのである。 この界隈の地下は地下鉄が複雑に交差しているパリで最も交通が煩雑な場所である。シャトレという地下鉄の駅の乗り換えはまさにラビリンスであって、しかも地下鉄を乗り換えるのに20分近くあるかなければならないところもある。 そのコレスポンデントの道を通ってたくさん地下鉄の人々を撮影した。だから地上のこの界隈は全くのご無沙汰であって接近したこともなければ、よく観察したこともない。 東駅のそばから歩いて市庁舎に行くのに今回は信号の待ち時間だけ時間をとってこの石でできた塔をよく観察した。 ものすごい高度感覚であった。エッフェル塔ができる以前この石の塔はもっと強烈なインパクトを当時のパリの人々に与えたに違いない。 でも私は極東の旅行者として忙しいので信号が緑に変わったらまたすぐ歩行を開始した。 カメラはニコンS3、2.5センチのニッコール。

2015年7月 3日 (金)

パリの不思議な劇場 行人

06242015_13

ー非常に高いしかも長い長い壁の脇を歩くのが好きである。かつてのベルリンの長い石の壁壁が存在した頃に私は西ベルリン側のベルリンの壁に沿ってどこまでも歩き続けたことがある。

これが一体何のノスタルジーであったのかと考えてその理由がわからなかった。 中国の北京の市庁舎でもレンガで作られた非常に高い非常に長い壁がある。そこを延々と歩き続けてやはり同様のノスタルジーを感じたのである。

今回のパリの滞在でポンピドーセンターの脇から東に向かって歩いた。そこはマレに向かうパリの最も古い町並みの1つであった。古い貴族の屋敷の敷地を構築している巨大な壁の前で向かいから不思議な人物が歩いてくる。

深い影の中を歩いてくる道化師のような服装をした人物である。これからポンピドーセンターに大道芸をしに行く人なのかと最初思った。その服装がそういう感じなのである。

この人物とすれ違う直前に別のストリートミュージシャンを見たのでその印象方向に引っ張ぱられたものと見える。 その人はワンマントランペットバンドであって、 トランペットの演奏以外は全部カラオケでやるというミュージシャンであった。

リハーサルのためであろうかちょっとだけ練習しながら歩いていた。それが長い石の壁に反射して実にすばらしい演奏に聞こえたのである。

長い壁の前をこちらに向かってくる,しかもやや逆光の人物の存在というのはドラマがある。

私は反射的にニコンのシャッターを押した。いや私が撮影をしたのではなくて私のニコンがその光の情景にオートマティックに反応したという言い方が正しい。

2015年7月 2日 (木)

パリの不思議な劇場 光の公園

06242015_5

パリには公園がたくさんあるが、大きな公園は嫌いだ。ルーブルのそばにある巨大公園などは歩くだけで疲れてしまう。私の好きなのは街中の忘れられたようなコーナーに突然登場する小さな公園である。

パリの宿は下町で雑踏の溢れるあまり上品ではない街並みだ。朝などまだ影の深い中の街を歩いていると突然に朝日がさしてくるゆくそこには建物がなくて緑あふれる小さい公園が広がっているのである。

これはパリの守護神ジュヌビエーブが私に与えてくれた最大のプレゼントだと思う。 東駅近くのホテルからポンピドーセンターのほうに行くのにメトロで数えれば四つほどの駅なのであるが、それはメトロに乗ってゆくは実にもったいない。

逆にぶらぶら歩いているうちにそこはゆるい下り坂であるからあまり苦労せずに、という日も気がついたらポンピドーセンターの広場に出ているという具合だ。 この公園はエントランスにメトロの出入り口がある。

朝の散歩でそこから吐き出されてくるパリジャンパリジェンヌの群れは皆急ぎ足でそれぞれの職場に向かって行く。明日のハードな時間帯には彼らには公園の安らぎと言うのは全く見えないのは当然である。

私は暇人な老人のエトランジエであるからカメラを持って撮影する以外には仕事は無い。 これは大変な贅沢と言うものでその公園のエントランスのドアを押して公園のベンチでゆっくりする。

それでペットボトルの水を1口飲んでゆっくり深呼吸をするのだ。これがパリの老人ツーリスト向けの楽しみである。

2015年7月 1日 (水)

パリの不思議な劇場 明るい家族

06242015_10

写真の印象はその光の明るさによって変化する。 私はどちらかと言えば暗めの写真を撮る写真家である。森山大道さんとかもそうである。明るい写真は滅多にとらない。

明るい写真はいわゆるハイキーという表現方法でポジティブな印象を与えるものである。パリの中心部の通りをNikonを持って歩いていたら向こうから子だくさんの家族連れが来た。 それをノーファインダーで1枚だけ撮影した。 スナップショットの出会いと言うのは時間軸の上の1カ所しかないから何かを発見しても撮影するのは1枚だけで充分なのである。

そのモノクロをスキャンしてみた。そのままプリントするかやや暗めのトーンにすると何かこの子沢山の家族連れの人生の苦痛と言うものが出てきてしまう。 それではパリのイメージとしては面白くないのでわざとハイキー、つまり明るい画像にしてみた。 そうすると全てが光が溢れて路上の雑踏も、走り去るおしゃれなパリジャンのバスもいきなものに見えてくる。

ジャンリュックゴダールの初期の作品でアリフレックスの手持ちカメラでシャンデリゼを行く男女のショットがある。あれは勝手にしやがれ、であったかな。 今その映画は見ることができないが想像ではかなり明るめの画面であった記憶がある。

しかもステディーカムが登場する前だから手持ちのアリフレックスは揺れ動き放題である。 思えばあれがいわゆるシネマヴェリテの元祖であったのだ。 ハイキーの画面と言うのは陽気なシネマヴェリテのようなものだ。

レンズは2.5センチ。最近はこのレンズばっかりだ。

« 2015年6月 | トップページ | 2015年8月 »

ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31