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2015年6月30日 (火)

パリの不思議な劇場 広告

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かつて広告の仕事に携わっていた人間として、こういう言い方は非常に不思議に思われるかもしれないが、広告もポスターの場合はそれがどのような環境にあるかということで見え方、見せ方そしてその効果が大幅に変わってくる。 パリとかベルリンとかウィーンなどでは広告ポスターは大きい方が良いと言うような前提があるようで巨大なビルボードが多い。 これは人を驚かすには良いのかもしれないが広告のポスターを作品として見た場合にはどうもあまり感心しない。 広告のポスターはスイスが1番良いのではないかと私は思っていた。これは70年代の昔の話なのであるが、当時はグラフィックそして印刷の最先端はスイスであったのだ。そのスイスのグラフィックのポスターがチューリヒなどの建て込んだ細い小路の狭い壁に貼られていると、これこそがグラフィックアートなのだという気がしたのだった。 だからそのポスターは大きくてもB0程度なのである。 パリの街の広告には非常に大きいものがある。 しかしそのような巨大なポスターは、結局のところA4サイズの雑誌を25センチの距離から見るのと同じ効果しか私には与えていないようである。 巨大な広告で人を驚かすというのはマンハッタンなどでも得意なところだが、結局それはツーリストのアトラクションみたいなところがある。 言い方を変えればあまり高級な広告とは言えないのである。 そのセオリーからするとこの男女の巨大な広告ポスターもあまり感心しない。しかも路上に置いてあるから人を驚かすその程度の効果しかない。 しかしその脇に仕事をしている人が等身大で後ろ向きになっていると人間の縮尺と、そのポスターの大きさを比較することができる。 ちょうどポンピドーセンターでルコルビジェの人間の尺度という展覧会を見た後だったので、このコントラストが面白いと思った。 Nikon S3 Nikkor 2.5cm

2015年6月29日 (月)

パリの不思議な劇場 市庁舎

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5月のパリ滞在で撮影したモノクロームの作品をぼちぼちアップしていこうと思う。カメラはニコンS3で2.5センチの広角レンズである。 ほかには使っていなかった。パリの市庁舎は私には最も無関係なパリの名所である。遠くから見るだけで最初にパリに行った1974年の時も距離をおいて見ていた。 市庁舎の建物の前に噴水があって、回転木馬があった。そのconfigurationは今でも変わっていない。予定調和を期待した非常に退屈な都市風景画なのでそこに行く気もしなかった。その気持ちは今でも全く変わっていない。 ビルカニングハムが着ていたブルーの労働者の上着を市庁舎の向かいのデパートで売っているという情報を受けたので買いに行った。 信号待ちで大通りの右手を見たらそこに市庁舎が40年前と同じようにあった。それをノーファインダーで撮影した。仕上がった写真を見たら私が想像したのとは全く違う光景がそこに写っていた。 フランス革命時代の歴史画、銅版画のような感じなのが面白いと思った。さらにセーヌ川の方向にノートルダムが見えていた。 それが舞台の書き割りのように見えたのも妙であった。

2015年6月28日 (日)

ハンガリー製のレンズなんて誰も知らない

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レンズのブランドというのはその生産国で左右されるものである。まず初心者はドイツ製、というよりもこれは日本で作ってるからドイツブランドというわけであるが、そういうレンズを信仰するのである。これは宗教の1種だ。

その信仰がさらに上昇すると今度はフランス製のレンズが良いなどと言い出してアンジエニィーどうの、キノプテイクがいいなどと言い出す。さらにアメリカ製のエクターだとかベルリンのアストロを信仰する人もいる。もっともこういう連中は新しいレンズを手に入れるとテスト撮影だけして後は安心して実際には撮影しないのも滑稽である。

チェコスロバキアとかハンガリー製のレンズはほとんど見向きもされない。チェコ製のレンズにはオペマという立派なブランドがありその数もかなり多い。しかしもう一つの国、つまりハンガリー、言い換えればロバートキャパとかアンドレ・ケルテスの出身の国であるが、こちらのほうは誰にも知られていない。.非常にレアなハンガリーの一眼レフ、デユフレックスを以前所有していた。ただしマウントが特殊すぎた。
それほどでレアでは無いハンガリー製のカメラにモミコンと モメッタがある。シンプルなフォーカルプレーンのレンジファインダーカメラである。最初はモミコンと言う名前であったがツアイスからクレームが来て後にモメッタに変更された。ヤマーという名前のレンズが付いている。日本人の感覚からすると何かヤンマーディーゼルを思い出す。

このカメラには何種類かあるが最初と2番目のモデルはレンズは固定式である。しかも画面サイズがちょうど日本のニコン判と同じで画面の長辺が2ミリ短い。最後のモデル三型はレンズ交換ができる。不思議なのはライカマウントではなくてそれはエム42のプラクチカマウントなのである。

これは当時のハンガリーのカメラ市場でもっとも手に入りやすい交換レンズのマウント方式であったのであろう。だからレンズは一眼レフに使えそうであるが、機種によっては連動カムに当たって使えない。しかしこのようにマウントアダプターでライカにつけることができる。目測撮影だ。オンラインでその作例があったのだが、なかなか優秀なレンズである。シンプルな4枚構成の玉であるからその描写が悪いはずはない。
レンズの道楽もライツの高級レンズに飽きるとその先のハンガリーレンズに行くようである。

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2015年6月27日 (土)

ギャラリーバウハウスでお買い上げいただいた作品

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ザルツブルグの猫である。
路地裏の白黒の猫は私を警戒している。

私はライカにソ連製の28ミリをつけてそれをスナップした。猫の写真は退屈なポピュリズムに通じるから出さないことにしているが、これは別格である。

ザルツブルグはゲトライデマルクトにしてもモーツァルトの生まれた家にしても実に退屈な極みなので興味は無い。しかし中心街の路地裏に1歩踏み込むとそこには面白い世界が展開する。

70年代の終わりに私はザルツブルグでマサチューセッツ工科大学の学生さんたちに写真ワークショップを教えていた。工科大学の学生だから頭がカチカチかと思っていたら、案外頭が柔らかいのでびっくりした。
今回のギャラリーバウハウスの個展の初日に来てくれたのがそのマサチューセッツ工科大学の先生である。この作品をお買い上げいただいた。

その先生と話をして面白かったのはMITの学生の単位取得に関しては文化系の講座もとらなければいけないのだそうである。その話を聞いて感心した。

フォトワークショップでは日本からの学生も参加していた。
その中に若き日の吉村朗もいたのである。彼は若くして亡くなってしまったがその仕事は昨年立派な写真集になった。その写真集は琵琶湖の西岸にある小さな書店が出したものだった。
この書肆なら私の佃日記を出してくれるのではないかと思って、今年の正月に相談をした。
そして今、田中長徳佃日記2,001ー03のゲラが出て、もうすぐオリジナルプリント付きの限定300冊の本になる。

何か吉村朗、ザルツブルグとあたしという不思議な人間都市関係のトライアングルをそこに感じるのである。

福田和也さんと数年前に飲み歩いていた時、終電の地下鉄丸ノ内線で、福田和也さんは私に向き直って長徳先生佃日記を出版なさいませんかと聞いたのである。
その後紆余曲折があってこの大隈書店から出ることになった。その意味で福田和也さんはここに初志を貫徹したことになる。

2015年6月26日 (金)

命の綱

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使っているアップルのデバイスはiPhoneとiPad miniである。この素晴らしいデバイスの最大の特徴は充電コードがすぐだめになることだ。

そういう消耗品で儲けるためにアップルが最初から計画しているのではないかと思われる。100円ショップでそれに代わるコードがあると聞いたのでいろいろ探したがどこでも売り切れだった。
5月のパリもそうであってこの唯一の充電コードをセロテープで補修して持参した。デバイスをそっと差し込んで、薄氷を踏む思いであった。

そんなものはすぐに買えば良いのであるがなかなか買いに行くのはめんどくさいし、オンラインで買うのはさらに面倒である。
しかし考えてみるにこの充電器のラインが壊れてしまったら私の生活はアウトである。こんな中途半端な弱いケーブルに私の人生がかかっているわけだ。
最近のモダンなデバイスに私が信用を置いてないのはかなり昔からのことである。
何か土砂崩れか何かの災害現場で復旧作業の自衛隊員が連絡をとっているのがガラケーなので非常にびっくりした。
第二次大戦中の映画、コンバットなどを見てもそうだが通信兵と言うものがいる。通信兵の通信機器は非常に大きくてそれを背中に背負ってアンテナの長さも2メートル以上ある。戦国時代の武将の旗指物という感じがしてかっこ良い。

重要な通信の任務をiPhoneとかでやられては何か信用ができない感じがする。コンピュータにしてもそうであって、SCSIの頃は引っ張ってもケーブルは絶対に外れなかった。今では猫が通って足を引っ掛けてもケーブルは簡単に外れてしまう。

そういう信用できない現代である。

2015年6月25日 (木)

聖橋のカメラアングル

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新チョートクカメラ塾(熱)のオフ会があって、御茶ノ水の聖橋をテーマに撮影会を開催した。
聖橋のカメラアングルというのが、非常に難しいということが今回改めて理解できたのである。

考えてみると私がこの橋を見た記憶と言うのは御茶ノ水のプラットホームの上とかあるいは丸ノ内線の淡路町駅と御茶ノ水駅の間で神田川の上を通るというその瞬間であった。

橋を撮影するには文京区サイドの道を通るのが良いのだが、これがなかなかその場所に行きにくいのである。それで当日のフォトコンテストの写真が今寄せられつつあるのだが、皆さんカメラアングルには非常に苦労している。

この橋は1926年に出来たそうで、そのスタイルはまずドイツ表現派と言うこともできる。橋のカメラアングルは難しいが、橋のたもとにあるこの石の柱が時代をしのばせている。おそらく同じ時代に作られたものであろう。
それで橋そのものをとらずにちょっとカメラアングルに工夫してこのような写真を撮影した。
ニコンのレンジファインダーカメラにニッコールの2.5センチであるこれは1,950年代半ばの最新鋭のレンズであった。もちろん今でも立派に使用できる。

2015年6月24日 (水)

誰も知らないウイーン

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ウイーンの誰も知らない場所

ウイーンの観光地といえばまずオペラ座、支シエーンブルン宮殿、そして美術館博物館というところだ。

これにお土産物屋さんのツアーが加わると一泊旅行では結局何も見ないのと同じことになってしまう。

今回のギャラリーバウハウスの私の個展で色々なお客さんが来てくれた。その中で非常に印象深かった人々がいるのだがそのうちのお一人が私のウイーン古都物語の愛読者さんであった。
ウイーンの区分で十区というのは南の方面のことである。

ここで有名なのは中央墓地である。ところが中央墓地の西の隣にウイーンの人ですらめったに行かないような場所があるのだ。その名前をラーベルクという。
郊外であってなだらかな丘陵である。19世紀終わりにここが工場地帯になった。工場といってもマニファクチャのレベルであるからその周囲にはまだ緑がたくさん残されていた。

当時の最新技術のガスタンクとかある地帯がその構築物を壊すのが面倒なので、新しいショピングセンターになった。
それ以外の全く手がつけられなかった昔の野原がいまだにそのままにそこに存在しているというのは奇跡を見る思いである。

それがラーベルクである。ウイーン訛りなら、ラーベルヒ。
ここに行くにはほとんど交通機関がなくて、1番手っ取り早いのは地下鉄の1番線の南の終点ロイマンス広場から6番の電車に乗ってシメリングという方向に向かうのである。停留所にして三つほどで降りで南に向かうと巨大なパン工場がある。アンカーブロートというオーストリアでは有名なパン屋である。パンと言って馬鹿にしてはいけない。パンこそはヨーロッパ人のパワーの源、つまり日本人の米のなのである。

だから政府はパンの価格に関しては非常にデリケートな感覚を持っていて金曜日の午後6時以降に来週から1キロ当たりパンの価格がいくら高くなるということをニュース発表するのだ。商店は土曜日曜が休みであるから、お店が閉まってから発表するのだ。

巨大なパン工場の先に森があり丘がある。そこが目的地だ。
この辺には郊外の酒場や小さな遊園地もある。遊園地といえば有名なのはプラター遊園地である。このプラターよりもずっと小さい遊園地で地元では特にボヘミア人のプラターと呼ばれている。

要するに出稼ぎの貧しい人が遊びに行った場所という意味であるが、実は今ではウイーンの文化人が非常に古き良きウイーンを思い出す郷愁の場所にもなっている。
私もここに撮影に行った時、ウイーンの著名な写真家に偶然出くわしてびっくりしたことがある。そしてその人からこの古き良き場所の歴史をかいつまんで教えてもらったりした。
そしてその日本の方は私の写真集のわかりにくい説明にもかかわらず、ちゃんとその現場に到着することができたのだ。
人のいないところだからそこにツーリストの東洋人が来たりすると非常に歓待される。それでそこの焼鳥屋さんの家族とお友達になって今でも家族ぐるみの付き合いが続いているのだそうである。

7年半のウイーン暮らしの最後の日の夕方に私はラーベルヒを訪問した。その時の話は私の写真集に掲載されている。こういう郷愁と言うのはなかなか断ちがたいものであって昨年の2月にウイーンにいた時も結局訪問の最後の日の夕方にラーベルヒに行ったのである。

この都会とも言えない田園ともいえないミックスされた場所の魅力というの考えている。要するにベートーベンの時代よりももうちょっと時代が下った産業革命の頃のロマンティックな田園と、そして近代的な都市構造がちょうどうまい具合にブレンドされたうまいコーヒーと言う感じがするのである。

2015年6月23日 (火)

フォカッチャのレンズをアルパにつける

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アルパ研究会と言うのは20年ほど前にあったスイス製一眼レフの研究会である。
いろいろ個性的な人が集まっていた。その中にテッシナさんという人がいた。テッシナと言うのはスイス製のスパイカメラである。ウォーターゲート事件の発端になった写真をこのスパイカメラが撮影したと言うことで有名になった。

私のテッシナの調子が悪くなったとき、テッシナさんに修理してもらった。なんでもカメラのシャッターの軸受けのボールベアリングが破損しているので、その代わりにライターの石を代用して入れたのだそうである。
そういう臨機応変な対応ができる人なのですごいなと思った。

その数年後に佃の界隈を散歩していたらテッシナさんに遭遇した。それがすでに20年前のことである。今回その人がバウハウスの写真展に来てくれたので嬉しかった。
どうして私の個展がわかったのですかと聞いたらこのブログを見たのだそうである。ありがたいことだ。
20年ぶりに見せてもらったのがアルパの一眼レフの7型である。びっくりしたのはフランス製のフォか50ミリ標準レンズが付いていたことだ。

これをどのようにアダプトしたのかはあまりに専門的なのでここでは書かないけど、私が驚いたのはフォカの標準レンズオプラーは非常に優秀なことであった。その優秀さはフォカについているレンズで撮影してちゃんと知っていたのだが、そのfinderの画像を一眼レフで見てびっくりしたのである。実にすばらしいレンズだ。
それでカメラジャングルの奥にしまってあったアルパを出してきて20年ぶりに私も使ってみようかと考えている。

2015年6月22日 (月)

ニコンS3か?それともSPか?

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クラシックカメラの話ばかりで恐縮だが、私の現役カメラはフルサイズのアナログカメラである。ニコンSPがあまりに高いカメラだったので、ファインダーを簡略化したニコンS3が登場した。

価格からするとその差は八千円ほどであったようである。今の貨幣感覚からするとたったそのくらいの価格差ならSPを買った方が良いと思うであろう。しかしこれは1950年代も終わろうとする大昔の時代の感覚である。大変な価格の差であったわけだ。SPはそれだけゴージャスなカメラ、ステータスであった。

私の新書サイズの写真集、東京ニコン日記を見ていると火災の現場で新聞社のカメラマンがSPで撮影をしているショットがある。それが当時何か非常にアマチュアっぽくてこのカメラマンは写真が下手なのではないかと思った。
一方で当時のカメラ毎日などに連載をしていた著名な報道写真家は使っているカメラがニコンS3なのである。Finderはパララックスも補正されていないようなワイルドなS3であるが何かそれを使いこなす人間の業というものがそこに反映されているような気がした。

デジタルカメラを批判するつもりは全くないが、デジタルカメラはあまりにも手がかからないので面白くない。だからカメラのブランドとかレンズのブランドとか限定判とか高いとか変な方向にマーケティングがいってしまう。

私もSPよりもS3が好きだ。それは私がfinderはあまり厳密に覗かないと言うことにその理由があるのであろう。
今話した東京ニコン日記で巻頭の口絵で画家にニコンSの油絵を描いてもらった。ところがこれをS3で複写したら何しろパララックスの補正のファインダーではないのでとんでもないずれた写真になってしまった。仕方がないので一眼レフで複写をし直したのである。

私はスナップ撮影の時にはほとんどノーファインダーである。構図などは最初から考えていない。それで失敗したり面白い写真になったりすることもあるが、やはりレンジファインダは複写には使えないということがわかった。

2015年6月21日 (日)

お買い上げ作品 ガウスプラッツの少女

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現在神田明神の脇のギャラリーバウハウスで開催中の私の写真、で、お買い上げいただいた作品を紹介している。
これはうちのアパートの前で撮影したショットである。ガウスプラッツというのがその場所の名前で市電のわりと通る交差点になっている。後ろに見える星のような形の建築物は、第二次大戦中の枢軸国の高射砲陣地なのである。この帽子のつばのような場所に高射砲をたくさん並べて飛来する連合軍の飛行機を撃墜したようである。

オーストリアが戦後の平和な国家になってからこの戦争の遺物を破壊しようとしたのであるが、コンクリートが硬くなっていて破壊に大変な費用がかかることが判明した。それでこの建築物はそのまま水族館になったり、軍隊の指令所になったりして今でも使われている。
後ろはアウガルテンという巨大な公園である。7年半ここに住んでいた時に私はこの庭園を自分の庭だと思っていた。そのような見たてをする生活と言うのは生活に潤いが帯びてくる。

皇帝フランツヨーゼフもこの庭園が好きであった。
それで住んでいる旧市街のお城からこの庭に遊びに来た。日本で考えれば天皇陛下がそこらの公園を歩いているようなものである。びっくりした市民は恭しくおじぎをした。しかし皇帝フランツ本人にしてみればこれは非常に迷惑なことである。早速おふれを出して、園内で自分を見かけても5お辞儀はするに及ばないとなったのである。

広場を行く少女なかなかの美人である。このネガの前後を調べてみたらこれはワンショットでその前と後はまったく別のものが写っている。
スナップショットと言うのはそういうもので1枚だけ撮ると言うのが正統派なのであろう。この少女もこの年代+ 40年が加えられなければならない。
それが写真を面白さというものだ。

2015年6月20日 (土)

ハンガリーライカ

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オーストリアハンガリー帝国の中で三つの大都市がある。プラハとウィーンとブダペストだ。プラハは工業都市であってブダペストは農業都市である。これが長いことこの大帝国の中心のウイーンの人が考えていた世界観である。

ハンガリーが社会主義の国になってからやはり光学兵器としてのカメラが必要になった。それでこのハンガリー生産のライカ モメッタが登場した。
そのの1型と2型はレンズが固定式である。三型になってレンズ交換ができるようになった。これがライカマウントではなくてプラクチカマウントなのである。このカメラは数が少ないのでなかなか見かけないが最近オークションで手に入れた。プラクチカマントなので手元にあるありとあらゆるレンズがそのまま使えるわけである。

それでこんな組み合わせで遊んでいる。もちろん写真もちゃんと撮れる。フィルムサイズはニコン版と同じ24ミリ× 34ミリで40枚取りである。だから町中のカメラ屋さんではスキャンができない。自分で画像をスキャンする必要がある。

2015年6月19日 (金)

ブルックリンブリッジ1983

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ブルックリンブリッジはマンハッタンの偉大なランドマークである。ブルックリンブリッジよりも上流にあるクインズボローブリッジも立派だが人気はブルックリンブリッジにある。

これは文化庁から派遣されてニューヨークに滞在していた1983年に撮影されたものだ。Sohoにあるロフトから午前と午後毎日撮影に行った。デイアドルフの8 × 10インチカメラで撮影した。
ミュージアムオブモダンアートのトートバックにカメラを入れて、フイルムホルダーは3枚持った。三脚はジッツオの中型のやつだ。1年間晴れても曇っても雨が降っても雪がふっても撮影に行った。古いカメラを持って歩く東洋人は結構有名になったようである。

ブルックリンブリッジは地下鉄や車や人が達が通るけど通行する人間の数が少ない。ジョギングをする人ぐらいである。あとは観光客である。ブルックリンブリッジはモチーフとしては非常に有名でウオーカーエバンスも当時ある詩人とのコラボレーションで彼は写真を担当している。そしてそのカメラアングルを見ると当時も現代もほとんど変わっていない。このように晴れた日には橋も猿行った日には非常に軽やかに見える。

私が滞在しているときにブルックリンブリッジはその150歳の誕生日を祝った。しかし残念ながらその日に私はウイーンにいたのである。ちょうどコーヒー豆が到来して300年のお祭りをやっていた。それで私はアドルフヒトラーが通っていたカフェで戦前のウイーンのことなどを考えながらうまいコーヒーをすすっていた。アメリカンコーヒーはどうも口にあわないのである。

2015年6月18日 (木)

お買い上げ作品 三少年

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私はどちらかと言えば黒っぽい写真を撮る。これはロバートフランクの影響なのであろうか。
リチャードアヴェドンはハイキーな写真を撮る。アベドンはヒューストンに撮影に行って客死した。なかなかの武士道である。

ハイキーな作品でアヴェドンのことを思い出すときに、頭に浮かぶのはアヴェドンが若い時に、シシリー島で撮影した1人の少年を真っ正面から撮った作品だ。写真家のカメラが少年を見ているのではなくて、悪魔めいた少年がアベドンを見据えているのである。

これが白っぽい写真なのだ。父親イスラエル阿部敦の死の直前に病院で撮った写真も非常に白っぽい。 アベドンにとって死は暗黒ではなく光溢れる白い空間なのであろう。

バウハウスで開催中の私の写真、でお買い上げいただいた作品の中にこれがある。ウイーンの市電の終点で3人の少年を撮影した作品である。この画像はオリジナルネガからのスキャンデータであるから普通に写っているが、それが面白くないので、Darkroomでプリントするときにわざともっと明るいトーンにした。私としてはかなり好きな作品なのであるが、この微妙な光の扱いが分かる人、別に言えばこの作品をお買い上げ下さる人はまずいないだろうなと思っていた。

ギャラリーである午後、埃及の回路から来た美女と話をした。その人は日本の人なのだが、何かベリーダンスの先生と言う感じなのだ。オールド回路の話とか死者の街のお話をして面白かった。その人が帰った後にくだんの紳士が現れて、私の白い3少年の写真をお買い上げくださったのである。
回路から70年代のwinに時空間の飛躍したのも痛快であった。その紳士には見覚えがあって2週間前、田村さんと島尾さんの対談でタイムキーパーをやっていた人なのだ。すぐ隣に座っていた私はその人のチャッカーブーツのつま先を眺めて写真のことを考えていた。

少年を真正面から取るのは難しい。しかもそれが3倍になってはなおさらのことである。この人たちももう50代になっているはずだ。
撮影はニコンSP。

2015年6月17日 (水)

カルボナーラ

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日暮里から都バスに乗るときに行き先は錦糸町と浅草寿町がある。
無意識のうちに浅草行きに乗ってしまう。乗り始めた当初はその理由と言うのが自分でもよくわからない。

しかし都バスが浅草方面に入ってきて小さな道から大通りに出て右折する時にちょうどパノラマのように周囲の風景が右から左へと大移動を始めるのだ。 廻り舞台のような視野の中に、この看板がゆっくりと回りながら登場する。
カルボと書かれたシンプルな大看板である。
リキテンスタインが描いた巨大版画のようである。戦前のイタリア共産党の政治プロパガンダポスターのようにも見える。

バスから見る東京の風景の意外性と無意識の領域から繰り出される風景の面白さというものがここには存在する。
実際にそのお店を検索してみたらごく普通の飲食店であってちょっとがっかりした。
要するにこういうお店には行かずにバスの中から美術として見ているのが1番良いということになるのである。
カメラはオリンパスワイドスーパー。

2015年6月16日 (火)

長徳カメラ熱第一回オフ会のご報告

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新しいチョートクカメラ塾の第一回オフ会が、6月13日に開催された。

Niftyのカメラ塾は一年半ほどであったが当初の企画ではオフ会もリストに入っていた。しかし大きな企業ではなかなかこういうことはできない。そこから離れてフリーになってスタッフは私1人だけだから融通のきくようになった。チョートクカメラ軸の受講生で1番遠方に住んでいる人はドイツのケルンである。その方とは昨年の夏に東京で会うことができた。今回は残念ながら参加できませんと丁寧なメールをいただいた。ありがたいことである。

もともとこれは塾であるから受講生の数を増やすつもりは最初からない。Niftyで最初に打ち合わせをしたときにはエンターテイメント部長さんという人が出てきて、メルマガのメンバーの数はホリエモンさん位にしてくださいと言われた。その数を聞いたらなんと2万人なのである。
こちらの数はその100分の1だからちゃんと周辺まで目がいく。今回のオフ会ではその1割弱の方が来てくれたので誠にありがたい次第だ。要するにヒット率は高いのである。

メルマガの最大の問題点は情報の流れ方が一方通行になってしまうことだ。つまり受け手の顔が見えないのである。今回は初めて相互通行になれたのでそれが嬉しい。だから3ヶ月ごとにきっちりとオフ会をやるつもりだ。

カメラで本気出す。カメラに本気出すが、本塾のモットーである。
だからどのようなカメラに本気を出しているのかは今回よくわかった。
フルサイズのデジタル一眼レフと言うのはほとんど見かけなくて、ミラーレスが多かった。
それとフイルムカメラは各種あってミュージアムクラスのようなレアなのを持ってくる人もいた。
あとスマートフォンで撮影をする人もいた。

カメラの階級にこだわらずにそれぞれにカメラ、スマートフォンに本気出してそれで真面目な写真を撮るということ。これが重要なのだ。

修学旅行の赤い旗は偽ライカ愛好会から拝借したものである。本来はチョートクカメラ塾の旗が欲しいのだがまだ注文をしていない。皆さんからの受講料をこれに当てて新しい端を新調するつもりである。

気楽なメルマガ友達になりましょう。皆さんの入塾を待ちしております。塾長敬白。

2015年6月15日 (月)

お花がライフワーク

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長年写真家をやっているがなかなか芽が出ないので他の職業に代わろうかなどと冗談を言っている。
フランスを、パリを撮影したアジエなどは売れない俳優から変身して写真家になって大成功した。
しかし私はこの年になって他の職業にはつけないから、まずは写真の題材を変えようなどと冗談を言っている。

そういうことになれば、お花写真家家か、石佛写真家になりたい。アマチュアの皆さんを指導してその写真クラブの名前は写壇太陽というのである。全員がベレー帽を着用してループタイをぶら下げていたりすればいかにも写真愛好家になりそうな気がする。

これは私の冗談にしても花に関しては興味を持っている。先日のパリ行きはロバートフランクの50年代の花に影響されて撮影に行った。しかしパリでは花もはや行重要な題材ではなくなって花屋の数が激減していたようである。パリジャンもパリジエンヌも花などを持たずに携帯を持って赤信号無視してサンジエルマンを行ったり来たりしているのだ。

稲垣タルホであったと思うが彼が書いた古い文書の中に、ロンドンの中心からちょっと外れたところに地元の人しか知らなこ小路があって、そこのマガキに赤いバラが咲くのである。それはささやかな楽しみではあるのだがその界隈の人だけが知っているささやかな秘密なのであると。

家の前に咲いているバラもそのような存在のバラである。住み始めて四半世紀経過してみると毎年1年間の感覚がどんどん短くなっていくのがわかる。
半年前に咲いたと思ったバラがもう咲いている。そしてもう枯れてしまって、手入れの行き届いた小路は普通の石畳に戻ってしまった。

2015年6月14日 (日)

待ち時間自慢

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東京のどっかで今話題の鳥獣戯画の展覧会をやっている。なんでもすごい列で入り口に到着するまで90分、それから話題の第1巻の展示に行くまでに140分かかるそうだ。私の本を何冊か出してくれている大出版社を今回退職してフリーになった女性編集者の人は、その展覧会を見に行った。ただし途中で心がめげて挫折して入場はやめたのである。

腹いせにパンダケーキを食べてやると書き込みあった。これはダイエットには非常に良くない。だからすぐに私は救助のメールを送ったのである。つまりそんなところに並ぶのは本当の文化人ではありません、と言うのだ。その人はほんとに文化人だからすぐ返事が来て、ありがとうございますほんとにそうでしたとあった。

以前、阿修羅像の時もそうであって、奈良の何とか美術館の前に大雨の中何キロも別ができてるのでびっくりした。中国の文化大革命がまだ終わっていないのかというようなすごい人の列だった。

日本であったそういう展覧会の中にフェルメール展があった。知り合いが仕事が終わって慌てて飛行機で関西の会場に駆け付けたらすごい混雑で人の頭しか見えなかったそうである。フェルメールを見に行って東洋人の頭の後ろを見て帰ってくるというのも芸術的な行為には違いない。

要するに秘仏の出開帳に皆さん踊らされているのである。

2015年6月13日 (土)

都バスの終点が好き

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パリにいるときにクリニャンクールとかアレンジやとかパリの街の周辺部に魅力をかんじている。東京でも同じであってこちらでは足立区葛飾区江戸川区あたりが好きだ。

最近凝っているのは都バスの終点にあるバスの操車場である。
荒川土手の終点でバスの方向変えて戻ってくるだけなのだが、これは見ていると非常に面白い。バスの操車場の詰所にいるおっさん連中は見ていると居眠りをしているように見えるけど、バスが入場してくるといきなり活発になってかっこいい仕事するようになる。
番号のついたペドルでバスを誘導している。飛行場のマーシャラーと同じように、フィールドで仕事をする男の現場というのはなかなかダンディーである。

面白いのはバックをしながら方向変換するバスのドライバーさんの運転操作である。通常のバスの運行は安全第1であるから絶対急なスピードは出さない。しかし駐車場でバックして方向転換するときは中ハンドルを切ってすごい勢いで突っ込んでくる。巨大なパワーを持つ1台3,000万円もするスーパーカーがすごい勢いでバックしてくるのはダイナミックで見るのは気持ちが良い。

私が推測するにバスのドライバーさんはどうもそういうところでストレスを解消してるのではないかと思う。最近の私の行き先はバスの操車場でベンチに座ってこれを専門に観察している。

2015年6月12日 (金)

高層マンションからペットボトルを落とす

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佃で高層マンションからペットボトルを少年が意図的に投げ落とすという事件があった。高いところに暮らしていると風景の縮尺が歪められるので本当は子供を育てるにはあまり良くないところだと以前から思っていた。

ギャラリーバウハウスでウイーンの四十年前の写真を展示している。それでいろいろその当時のことが思い出される。ドナウ川に面した私のアパートは短い小路であった。タクシーのドライバーはまずその名前を知らない。

ここが有名になったのは1,960年代に、前衛芸術のいわゆるハプニングで知られるようになった。アーティストが誤解からベッドとか椅子机などのものを投げおろすという行動である。もちろん事前に許可を取って道路封鎖してるから怪我なんかしやしない。その話は1976年にドイツとオーストリアで開催された現代日本写真家展、のディレクターから聞いた。彼は大手新聞の美術評論もやっていたのだ。

私もウイーン時代、アパートの窓からモノを落としたことがある。写真家以前の古屋誠一と一緒に飲んでいるときに思いつきでコンドームを膨らまして風船のようにした。それを窓から投げたらコンドームは風船になりゆらゆら空気の中を漂って路面に落ちた。
ちょうど犬を散歩させていた老婦人がそれ拾って犬と遊びながら去っていった。これは犯罪にはならないであろう。

コンドームは犯罪ではないが水の入ったペットボトルは犯罪になる。ここだな。

2015年6月11日 (木)

ギャラリーバウハウスへの道

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ギャラリーバウハウスは日本を代表するphotographyギャラリーと言って良いと思う。ここで50日間私の写真を展示することになった。ギャラリーバウハウスの歴史で今回の展覧会は47番目で51点の写真を展示する。 初日にギャラリーでいろいろな出会いがあってこれが面白かった。初日から沢山作品が売れた。 今回はギャラリーにいること、つまり老人が居るから在老というのをやってみようと思う。 どなたでも写真とカメラに関して私と雑談をしてみたいと思う方は大歓迎である。 バウハウスに向かう道というのは非常にドラマチックで御茶ノ水から聖橋の上を通過するのだ。 小林清親も絵に残しているが、東京で最も美しい橋が聖橋である。それは今回パリでポンヌフなどを観察してこれは確信となった。 聖橋のスタイルはローマやリスボンの水道橋に似ている。橋の上の水の流れるところを人や車が流れている。 メガロポリスの風景のダイナミズムというものはこういうところに集約されるのであろう。

2015年6月10日 (水)

ギャラリーバウハウスの写真展 本日初日

今日から7月31日まで、神田明神脇のギャラリーバウハウスで、「ウイーン2グラムの光写真展」が開催されます。

未発表作品多数。
1973ー1980 の仕事です。

本日は在老をしています。
お待ちしています。

https://m.youtube.com/watch?v=XZH-bm0Cdvc&feature=em-upload_owner

ハノイから来た老人

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パリの場末の公園で休んでいると、パリジャンにハノイから来たのかと聞かれる。

これは話を合わせたほうがいいから、そうだよくわかったな、ハノイは良いところだぞ、今度案内してやると答えることにしている。
フランスは長い間ベトナムの宗主国だったからこういうことになる。もっともフランスのベトナムに対する感覚はちょっと複雑で、何しろディエンビエンフーでフランスの精鋭が大敗を喫している。その様子をハノイの革命博物館のジオラマで見た。

ハノイから来た人と間違えられて、また歩行開始してアーケードの鏡に映る自分の姿を見たら、どう見ても太ったホーチミンである。
本物のホーチミンさんはハノイの霊廟でお目にかかったが痩身の老人であった。考えるに私の着ているのはビルCunninghamのブルーのジャケットなのであるが、東洋人がこういうジャケットを着るとどうしても軍服のようになる。

ハノイの市場で正規のベトナム軍の上着を買ったことがある。それはカーキ色であった。

2015年6月 9日 (火)

パリのホテルでいっぱいやる

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ちょうどバブルが終わりになる頃フランス政府観光局の仕事でフランスのミシュランのレストランを回った。2週間ほどの予定であったがこれは結構苦痛になるものである。毎日ミシュランの星付きレストランで食事をしなければならない。初日と2日は嬉しかったら3日目あたりから飽きてくるのである。人間の欲望と言うのはそんなものだ。

このときの異常な体験が元になっているので、それ以来フランスに行ってもレストランで食事をするということがなくなってしまった。ミシュランの三ツ星レストラン、つまり遠回りをしてもそこに行く価値があると評価されている所にばかり行っていたのだから、食事に関する理解が歪むのは同然である。 それでこの四半世紀はもっぱら安ホテルの部屋で1人宴会をやっている。

原稿書きが忙しくなると、近くの市場に行くのも面倒なので、屋根裏部屋の向かいにあるスーパーで買い物をしてくる。ノルマンディー産のサーモンのフィレである。私はまだ帯状疱疹で左手が不自由なので包丁を使うことができない。

それでどうするかというと100円ショップで買ってきたハサミでいきなり切ってぶつ切りにするのだ。YouTubeを見ていたら、兵士が片腕を打たれた時に次の弾丸のカセットを装填するかというのをやっていた。片腕生活になってみるとそういうことが非常に役に立つ。それでホテルのテーブルの上でこういう豪華なランチを楽しんでいる。
東京に戻ってきてからもサーモンのフィレが食べたくて近くのスーパーに買いに行く。それはパリで食べたノルマンディー産ではなくてノルウェー産であるが、どちらも固有名詞がNで始まっているからまず問題は無い。

2015年6月 8日 (月)

ポストモダン建築老人になる

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1,970年代にパリのポンピドーセンターができたときにはほんとにびっくりした。わざわざ建設中の現場を見に行ったもので、その頃私はパリえを大型カメラで撮影した。建設中のセンターの脇にはまだ古いレアールの市場は残っていた。要するにエミールゾラあたりが描いた古い市場に面したレストランである。巨大なカタツムリの看板を掲げた専門のレストランなどもあった。それをアジエの真似をして大型カメラで撮影した。
ポンピドーセンターが落成したときには未来の建築と言うのでもてはやされた。ところがあれから半世紀近くたってみると今の建築は配管は建物の外に配置されているなどは普通である。未来建築であったものが現代建築になりそれが過去の建築スタイルになってゆくのを見るのは面白い。

それより後にできたと思うが、バスティーユ広場に面した新オペラ座もできた時は未来感覚があった。しかしパリの経済が不調なせいかポストモダン建築はいつもきれいに磨き上げておかないとスラム化してしまうのである。新オペラはなんとなくすすけて見えてかわいそうだった。

ポンピドーセンターで開催されていたルコルビジェ展にもちょっと失望したのである。建築の専門家であったならば見るべき必要な資料もたくさん展示されていたが、私は一介のツーリストであるからそういうものには興味がない。

だからルコルビジェ展の印象というのはそこに展示されている貴重な資料よりもパリの街中に点在するポストモダン建築の方が活気があるように見えた。何事もそうであるがミュージアムに収納されてガラスの箱に収まっているようではもうおしまいである。

ポンピドーセンターは古ぼけてしまったがこの界隈を撮影した70年代にポンピドーセンターのちょうど向かいにあった小路はそのまま残っていて、それが一向に古くなっていないという印象を受けたのは実に不思議な次第である。

2015年6月 7日 (日)

決闘写真論

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東京造形大学の40数年前にナンバーという同人誌があった。
それが40年ぶりに発掘されたとかで関係者が御茶ノ水と神保町でグループ展をやった。 東京造形大学で高梨豊さんが個人的にwsかいq写真家と一緒に集まりをやっていた。私は高梨ファンなのでそれに参加したくて電話したのだが高梨さんに断られたのである。

それは私のような鉄砲玉がそういうところに飛び込んでは高梨さんに迷惑がかかるのは当然だ。でも20歳代の私にはその分別がなかった。ナンバーを記念した写真展は二箇所であったのだが会期の終わり近くにその2つ目のギャラリーのトークショーに行った。田村彰英と島尾伸三のトークだった。

会場がわからないから検索したらワシントンのホワイトハウスがトップヒットしたので驚いた。大雨の中にたくさんの人が詰めかけた。若い人も多いのでびっくりした。我々が20歳代の頃は大御所、つまり木村伊兵衛とか土門拳は敵であるからこてんぱに批判していた。

今は時代が変わってつまらなくなったので若い人が田村のような老人の話をちゃんと聞くようになったのである。これは儒教の影響であろうか。 島尾に言わせると田村は口では政治的なこと言ってるが、写真はそこから独立しているのが良いと言う。田村は天才だからそういうこと言われても全然本人にはその自覚がない。

田村は周りから取り立てられて出世して、そして困るとケンカするから、その意味では典型的な日本の人なのである。

写真が政治的である、というよりも写真が政治的なスタイルを持っているということがモダンに思われたのが1,970年代の特徴だ。70年代にそのような政治的なスタイルを伴った対談というのは篠山x中平の決闘写真論であった。

今の若い連中のギャラリーは全く政治的ではない。だからそれがいいことなのかと思う。パリ五月革命を懐かしんでパリに行ったのだけれど、サルトルが政治的な風情を見せていたようなサンジェルマンデプレの街並みは全くなくなってしまった。

まぁ五月革命も半世紀前の話。

2015年6月 6日 (土)

お知らせ

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6月20日のトークイベントには多数のご参加いただきありがとうございました。おかげさまで満員御礼でした。二回目のトークイベントは7月11日に開催いたします。ご期待ください。
【第ニ回】ウィーンでPHOTOMENTARY
写真を通した世界との出会い、そして感動。田中長徳が実践する人生における写真の楽しみ方を伝授いたします。
日  時 / 2015年7月11日(土) 19:00~ (当日は18:00閉廊、18:30より受付開始)
参加費 / 2000円

*各回共参加者にPHOTOMENTARY缶バッジ&シールのプレゼントあり。

PHOTOMENTARYとは
世界中、どの場所も、その表情は刻々と変わりつづけます。
その光景は、二度と見られないかもしれません。その感動は、忘れてしまうかもしれません。
写真はその大切な一瞬を、永遠に残します。

mailもしくはお電話にて要予約。
mailの際はお名前・ご住所・お電話番号を明記のうえ、送信して下さい。
後日、スタッフより予約確認のmailをお送りさせて頂きます。

新チョートクカメラ熱(塾)
掲示板、
6月13日の第1回オフ会には多数のご参加いただきありがとうございました。miniフォトコンテストを開催します。当日撮影の作品を上のアドレスまでお送りください。
新ーーー塾生を募集しています。詳しくはこちらまで。
http://chotoku.thebase.inImage_2


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次回のチョートクカメラ塾は7月8日水曜日午後3時に自動配信します。

🌃7月11日のギャラリーバウハウスでのトークイベント、まだ3-5残席があります。

チョートクカメラ塾7/08をお送りしました。
未着の方はお知らせください。

屋根の上のサクレクール寺院

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1,970年代に最初にパリ、モンマルトルのサクレクール寺院に行ったときには失望した。

ディズニーランドのシンデレラ城と同じようなフェイク感覚で、教会の建物に感じられなかったたからである。当時はウイーン住んでいたからまず大聖堂と言えばシュテファン大聖堂があった。これは数世紀洗ってなかったので真っ黒煤けているのである。

そういうのがカテドラルだと思っていた。だからパリで最初にノートルダムを見た時も白っぽいのでがっかりした。サクレクールはさらに真っ白で経費を節約した舞台のセットのように見えたのだ。もう一つサクレクールがつまらないのは人の前の階段に座っているツーリストの人たちで
ある。
三文オペラとは言わないにしろ、階段の観客はパリと言う素晴らしい劇場を観劇する観客とは思えないような人々なのである。だからそこに加わって観客と同じレベルになってしまうのが私は嫌だった。こういうのは20歳代の不遜ではなかったと思うのだけれど、還暦に行って見て再確認したらやはり私は観客の列には並んで座りたくないのだ。

サクレクールが美しく見えるのはその裏側の高速道路を車で行く時である。これはまさに前衛芸術というかオブジェである。昨年の5月に広告写真の仕事でしかたなくサクレクールに行ってやはり失望して帰ってきた。だから今回はほぼ同じ時期に暮らしていながらサクレクールにはいかなかった。  今回の発見はそのサクレクールが宿泊した屋根裏部屋から煙突の林の先 に見えたたことだ。
煙突の森と競い合うサクレクールというのはなかなか素敵なものである。
つまりパリの煙突もサクレクールの塔も平等であるということなのだ。これが今回の発見である。

2015年6月 5日 (金)

パリの市場に40年通う

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パリ東駅のすぐそばマゼンタ通りにある市場である。
いつもここで買い物をしているが、指折り数えたらもう40年以上になるのだ。

買うものは別に変わったものではないが果物とチーズと魚が多い。
肉屋にはいかない。

ホテル暮らしなので調理する手段がないからだ。大抵魚屋でマグロの切り身を買ってくる。持参した醤油とわさびで刺身を作っていっぱいやる。
ワインはレストランで頼むとびっくりするような値段のやつを買う。といっても1本100フランである。お店で100フランのワインと言うのは結構いいワインであって、これをユーロで15ユーロと言ってしまうとありがたみがない。フランからユーロに移行した頃はクリニャンクールの市場で計算尺を打売っていた。これはユーロ導入に際してフランとユーロを計算するためなのである。

行きつけの魚屋が二軒あるが、最近はあまり混んでないほうに行く。待ち時間が馬鹿にならないからである。その店でマグロの切り身をひと切れ買って5ユーロ75セント。常連のせいかどうかは知らないなそれを負けてくれて5ユーロ支払った。これは本マグロではなくて普通のバチマグロだが結構くえる。

私の泊まるパリのホテル等には冷蔵庫がないから、袋を二重にして窓の外にぶら下げておくのである。季節が秋から冬を経て春の間はこれで充分だ。
市場に買い物に行くというのは別の理由もあって、巨大な19世紀の空間に親しめるからである。これはスーパーなどではちょっと体験できない広い空間なのである。そこの売り手と買い物客との雑踏の声が広い空間に響く。その音響が好きである。それを大昔に聞いたと思ったら開店直後の銭湯の洗い場の響きなのであった。

2015年6月 4日 (木)

猫姉妹月に帰る

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猫バカの中田さんのカナさんが満月の夜に昇天した。ついこないだもう1人の愛猫が昇天したばかりなので猫バカの中田さんはショックだと思う。お悔やみ申し上げる。

この間妹のボタンさんが昇天したとき彼女は黄色いスバルで月に行った。今回はお姉さんのカナさんを来迎して黄色いスバルで月に行くなどと言うのはジュールベルヌの月世界旅行の時代には到底思いつかなかった。
天猫来迎図という構図である。かぐや姫でなく、カナや姫伝説だ。今では誰でも黄色いスバルで手軽に月に行ける時代だ。便利になったものだ。

うちのハリネズミは1988年のクリスマスイブに昇天したがやはり月に行ったのである。 古代からなくなった人や動物は皆月に行くと信じられている。
アーメン!

2015年6月 3日 (水)

ハンバーガーのガラパゴス

ハンバーガーのガラパゴス

お花茶屋の駅前にある立石バーガーはその方面の人には結構有名である。二十年来100円バーガーを販売しているのだ。

100円バーガーというのは私の高校生の時代には普通の食品だった。高校生のお小遣いで買えるからである。

立石バーガーは日本に残る雄一の100円バであったと思う。パリから戻って時差も解消したので立石の駅から徒歩、お花茶屋の立石バーガーに向かった。なぜお花茶屋に立石バーガーがあるかと言えば、もともとは開店時には立石の駅の前にあったからだ。

店内に入ったら相変わらず省エネで蛍光灯も1本しかついていないし冷房も入っていない。これがこのお店のルールのである。

入ってみてびっくりした。100円バーガー販売中止であった。もともと絶滅種のような100円バーガーであるから何時なくなるかと思っていたがその時期は案外早くなってきたのである。

実は名物の百円バーガーを買って神楽坂に行き新潮の矢野編集長に食べてもらうという計画があった。しかし新しいお店では300円のロイヤルバーガーしかない。それでは話題性がないので中止したのである。

このお店にはご馳走食パンというのがあった。これがなかなかうまい。前回野々宮といったときには前のお客さんにその食パンは買われてしまった。それが残念なので今度特注でお願いできたらいいかなと考えているのである。Dsc_3640

2015年6月 2日 (火)

矢野編集長とla kagu

Dsc_3644 ほぼ3年ぶりに新潮の矢野編集長にお目にかかった。以前は私の仕事場の六本木ヒルズにご足労願っていたのだが、そこを畳んでしまったので今回新潮社にお邪魔した。

矢野編集長の提案で昨年秋にオープンした話題のカフェスペース La kaguを案内していただいた。
外見のデザインを隈研吾さんが手がけたというからそこら辺は六本木ヒルズ同じコンセプトなのである。
パリの大学のカンテイナみたいなリラックスした感じの場所でワンパイントのビールを飲んでちょっとつまんで真面目な打ち合わせをした。Dsc_3642

この手のクラシックな施設のリユーズは昔からあってフィッシャーマンズワーフとか、トラッパーズアレーなんかをーアメリカ各地で見かける。

ここは新潮社の本の倉庫だったそうで、屋根の構造がクラシックで良い。なんというかラーメン構造というのだろうか。

神楽坂というところは起伏が飛んで隠れ家めいているが逆にこのような気の利いたピットというのはない。だからLa kaguはこれから使い道がありそうだ。Dsc_3643

建物の1番上から下を見たら結構高度感があってよかった。私のような老人は階段の上り下りには充分注意せねばならない。

2015年6月 1日 (月)

嗚呼 凱旋門

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パリの凱旋門にはほとんど縁がない。無論上に登ったこともない。 東京都知事は新橋のそばの虎ノ門を凱旋門のようにするといったとか。いやはやエルンストを超える大変なシュールレアリズムである。 凱旋門のそばに行った際のは1,970年代であって友人に頼まれてルイヴィトンのバックを買いに行った。当時はフランスのパリではここしか買うことができなかった。 凱旋門を仔細に観察するとアーチの内側に三色旗が下がっている。それがハーフマストのように見えて哀悼を表現していることがわかる。ここが1番有名になったのはロバートキャパが撮影した例のフランス開放の日であろう。しかしフランスが覇権国から降りてしまうと凱旋門の価値も急落したわけだ。 ロバートフランクの撮影した1,950年代のシャンデリゼの通りの良い写真がある。退役軍人のような人々が半ば軍服を着て花束を持って凱旋門に行進しているところをフランクは凱旋門を背中にして撮影している。 今回は1968年の5月革命を思ってパリに行ったのだが、考えてみれば第二次世界大戦から70年、そして5月革命も既に指を5つ折る時間経過である。 私はちょっと慄然とした。歩行者用の地下通路を通ってシャンデリゼに抜ける途中がデモ隊でブロックされていた。 5月革命はまだ健在なのか、と嬉しくなった。接近してみたらそうではなくて凱旋門の上にのぼる観光客の連中であった。 がっかりしてホテルに戻りエレベーターで上にのぼる時に箱の中でロンドンから来た若い人に会った。パリ5月革命を思い出してきたんだけどさっぱりだめと私が言ったら、おや専門は歴史ですか?と言われた。凱旋門も五月革命もフロンポピュレールもとっくに古代史になってしまった。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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