フォト

ギャラリーバウハウスの展示

オンラインギャラリー

バナー

チョートクカメラ塾ブログ

Chotokuぶらり パチ塾

無料ブログはココログ

« 2015年4月 | トップページ | 2015年6月 »

2015年5月31日 (日)

エッフェル塔

Dsc_3479

エッフェル塔と言うのはパリのかなり西にあるから街中からはよく見えない。 モンマルトルの丘に登ってようやく西のほうにちょっと出っ張りが見えるくらいのものである。

私がエッフェル塔のイラストを初めて見たのは子供の頃である。それはピーセンというおかきの缶の表面にイラストで示されていた。 そのイラストに東洋的な情緒を感じたのはその筆が最小限の書き方で何か風水画を思わせたのである。

この刷り込み現象が私の場合強烈だって今でもパリを移動中にエッフェル塔を見たときにそのおかきのイラストが印象の土台になっている。 人間のものの認識というのは面白いものだ。エッフェル塔に上ったのか登ったことがないのかは自分でもよくわからない。多分登った事は無いのであろう。

戦前によく売れたヨーロッパの旅行記に、大手新聞社の記者がヨーロッパ漫遊して書いた本でこれは版を重ねているのであるが、その頃は日本は三国同盟の下にあったから、エッフェル塔に登ってハイルヒトラーをした記念写真を本の巻頭に乗せているのである。

それでもその真似をしたと言うのは筆者も格好が悪いと見えて、そのように片手を上げる動作を自分はよくやるが、あれは元気があっていいぞと他の人から言われて、 エッフェル塔の上でそのポーズをとったと但し書きがある。なかなか苦しい説明である。

時代というのは面白いものでどのような真実であろうが流行ものは半世紀も経つと見向きもされない。カメラの場合もそうだとは言わないにせよ、やはり流行物のカメラは半世紀もたたないどころか、3年で忘れ去られてしまう。このことは方丈記の作者も書きたかったに違いない。

エッフェル塔はその実物よりもイラストとかミニチュアの方がエッフェル塔を具体化しているのだと思う。パリ滞在の最終日にエッフェル塔からオペラ座経由、東駅のホテルまで歩行したが結構な運動であった。Image

2015年5月30日 (土)

パリの買い物カート

Image

パリの風景でよく見かけるのは買い物のカートである。これはパリの生活の1部になっている。

よく観察するとカートには2種類ある。日本にもある普通の車輪が2個ついているやつのほかに、車輪が片方に三つ付いているのがある。つまり三つ葉のクローバーのようになっていてこれは階段で持って上がる時にそれぞれの3つの車輪がぐるぐる回転して簡単に階段の上り下りができる。

これはとても便利でいいなと思った。例のビルカニングハムの青い上着を探すのでデパートのBHVに行った時に、何しろどこで売ってるのか分からないので地階から6階まで全部売り場をシラミつぶしに探した。

大変な苦労だったなパリの人の生活でどのような品物が必要なのか分かってとても面白かった。
車輪がクローバー状態の買い物カートの値段を見たら60ユーロなのである。別にそれを買おうと言うわけではないが、これがあったらパリの生活も楽しくなるだろうと思った。

同じカートはストラスブールサンドニの商店街でも売っている。こちらは値段が20ユーロなので買うならこちらだと、細く見たら安いほうは車輪が分かれたやつではなくて1個だけである。つまりメトロの階段を上り下りする時には、エイヤッ!とー引っ張り上げねばならない。だから値段は高いけどこっちの
方がやはり便利だと思う。

2015年5月29日 (金)

黄色い観光バス

Dsc_3567

観光バスには乗ったことがない。しかしいちどだけパリで乗ったことがある。 1,970年代の半ばだった。ウイーン在住のピアニストのご両親が鎌倉から出てきて帰りにパリ観光の予定であった。

それで私にパリのガイドを頼んだのである。 当時は夜行列車でパリにいくのが普通だった。そのお金持ちのご夫妻は飛行機でオルリー空港に飛んだ。それで私も随行したのである。 有名なレストランや有名なカフェをご案内した。

ウイーンの日本人の間ではその人を殿様と呼んでいた。 ご夫妻は鎌倉の富豪で普段はお屋敷の金屏風の前に座っているという触れ込みだった。それで後でそのお宅にお邪魔して金屏風を拝見しに行ったことがあるがその話は省く。

ご夫妻は当然ながらホテル日航。私は近くの安ホテルである。二階建ての観光バスで上からパリを見たいと言うのでそれもご案内した。 殿様はいわゆる文化人のパトロンで小説家連とおつきあいがあった。当時の文化人は喫煙が普通である。それで2階建ての観光バスの上から最初のシガレットに火をつけたらドライバーに叱られた。ここは禁煙ですというのである。

パリで2階建てのバスを見ると40年も前のその時の話を思い出すのが懐かしい。 もう一つは道路標識である。これはドライバーのために作られているらしくわれわれ歩行者にはその裏側しか見えない。何かパリジャンのーけち加減がそのまま理解できるような看板である。

1968年にソ連軍がプラハに侵攻したときに、反抗の意味を込めてプラハのあらゆる道路標識に白いペンキをかけて匿名の街にしてしまったという。パリの街を歩きながらそのプラハのエピソードを思い出している。

2015年5月28日 (木)

パリと別れる朝

Dsc_3577

いつも世界を行ったり来たりしてるから旅立ちの朝などというのは極めて機械的なものである。要するに飛行機に乗り遅れないというだけの目的で移動しているのだ。

ところが今回のパリは早朝出発するときにあまりにも朝焼けが綺麗なのでなんとなく感傷的になってしまった。 これを日本語に翻訳すれば、

君は今駒形あたりホトトギス

パリのメトロの電車の横腹にはセーヌ川の流れを女性の横顔に例えた素敵なデザインのイラストがある。これがジュヌヴィエーブであると言うのだ。 パリの守護聖女がどのようなプロフィールであるのか知らないが、やはり巴里と別れるとき私はジュヌヴィエーブと恋をしていたのであろう。

東駅からいつもの通勤電車で10ユーロ払ってシャルル・ドゴール空港に向かった。途中の駅にいくつか工場や勤務の場所があるので電車の中は労働者でいっぱいである。旅行かばんをたくさん持ったアメリカ人のツーリストがいて私に心配そうに聞いてきた。

これほんとに空港に行くのかい?

2015年5月27日 (水)

ビクトルユーゴー界隈

Dsc_3538

パリのメトロの2番というのは地図の上で青いラインで表示されている。このラインはパリの東の方から発して北に伸びてさらに西に行く。ピガールあたりのあんまり品が良くないところを越えてさらに高級住宅地の16区の方まで行くのである。

私はピガールのホテルに暮らしていたことがあってそういう場所が1番自分に合っている。 この路線にはアレクサンドルデユマとか、ヴィクトルユーゴーというような駅の名前がある。ここら辺が文化的である。日本の場合は場合は夏目漱石とか芥川龍之介という駅の名前は無い。

その西の終点に近いヴィクトルユーゴー駅だ。なかなかスノッブなところでお店や食料品店もおしゃれである。町は歩ける人も何となく洗練されている。だから観察したり写真を撮ったするにはよいが、ここに住みたいと言う気はしない。

この界隈アベニューフォッシュいう場所に40年前に大金持ちが住んでいた。遊びに行ったことがある。外は地味だが中は大変な広さであった。でも普通パリに住んでいる人は皆小さなアパートが普通のようだ。

ジャックラルテイグの家に取材に行ったことがある。大変な資産家だがパリのアパルトマンが2LDKという感じだった。

2015年5月26日 (火)

パリの鳥連

Image


パリは花の都ではあるが鳥の都ではないのか残念である。

90年代以来私の住んでいる佃はなぜか鳥が豊富になって午前4時ごろから1日中、鳥の声が楽しめる。

ウイーンもプラハも大昔は建物の中庭に鳥がたくさんいたものである。それが最近では鳥の声があまりなくなってしまった。
オーストリアとかドイツは建物が中庭構造になっているので中庭の中央に大きな木があってそれで鳥が集まりやすいのだ。

パリの場合は集中化している街なので中庭というものがない。それで鳥連は仕方がないので屋根の煙突に集まってくる。その数もまぁこれは私が泊まったパリの東駅。と言うのは東京駅のようなものだから鳥が少ないのは当然かもしれない。

普通のプログラムだと早朝にBlackbirdが鳴き出して、カラスが鳴き出し、チュンが鳴き出し、鳩ぽっぽが鳴き出しそしてその他の小鳥の皆さんがなくのであるが、今はそういうプログラムが廃止になったようである。

屋根裏部屋から反対側の屋根の上にくる鳥を観察していて1番立派だったのはこのおっきな鳩のような鳥である。しかし二週間もいてこれが一番立派と言うのはどうも点数としては非常に低いので残念である。

2015年5月25日 (月)

建築家のメガネ

Image


Image_2


1年ぶりにパリに行ったらポンピドーセンターでルコルビジェの展覧会をやっていた。

ちょうど昨年ポンピドーセンターの正面にブレッソンの大きなポートレートが飾られていたが、それが特徴あるメガネのおじいさんの写真に変わっている。

展覧会は始まったばかりで8月までやっているらしい。こういう展覧会を建築家のような専門家がどう見るのかはわからないが、私のような素人から見るとあまり面白くなかった。
素人から見るとコルビジェのゴシップ的な要素があると喜ぶのである。数年前に六本木の森美術館で開催されたコルビジェ展はキワモノ的な展示が面白かった。

コルビジェのパリのアトリエがそのまま再現されていた。私は当時はプラハにアトリエがあったから、不遜にもコルビジェのアトリエと比較をしてしまったりして楽しかったのである。

それとアトリエの複製の中に彼の愛用のあのメガネがガラスケースに収まっていた。その隣には彼の愛犬の毛皮で作ったブックカバーが恭しく展示されていた。

建築家にはそのような側面があったほうが面白い。今回のパリの展示はむしろ専門家向きで細かい図面とか模型とかそして同時代の芸術で構成されていた。つまり今日的観点から展覧会が構成されているわけでそれはまずパリだから当然だろう。

コルビジェが南仏の海岸で行方不明になった1965年まで十数年間住んだ海岸の茶室めいたビラも六本木ではそれが複製されていたのである。今回の収穫はその時代に多分本人が撮影したとおぼしき6x6のコンタクトプリントがボール紙のフレームに入っていモノクロゼラチンプリントが展示されていた。小さなフレームに収まって会場の1番最後に展示されていたのだが、これが私にとって面白くて発見であった。

2015年5月24日 (日)

聖橋とサンマルタン運河の橋

Image_3

今回のパリ行きも時間があるとすぐホテルの近くのサンマルタン運河の橋を眺めていた。

水面上に扇のように、というか太鼓のように構築された橋は見ていて楽しい。橋を見ながら東京でこれに比較できるような橋があるかと考えて、すぐに御茶ノ水の聖橋を思い出した。

実際に聖橋は東京に掛かる橋の中でも最も姿が美しい。小林清親の名画もある。
その理由は神田川の堀が深いこともある。水面までの距離が長いのでダイナミックに見えるのだ。

両者を比較してみると規模は聖橋のほうがはるかに大きい。今回6月10日からギャラリーバウハウスで個展を開催するわけだが、打ち合わせの時はいつも御茶ノ水から歩いて行く関係で聖橋の上を通るのである。聖橋は確かライカができた頃に作られた現代の橋であるから車の通行の関係でもちろん橋の上は平らである。サンマルタンの橋は人が通行するのみだから階段上になって規模もはるかに小さい。
でもどちらも橋と言う水の流れの上を連絡するという機能ではその構造が合目的で明快で美しいと思う。
サンマルタ水流をせき止めてドックにして水の高さを変えて船を運行させる目的がある。神田川のほうはそうでは無いけれど、この数年、川の水面の部分で大きな工事やっていて何かちょっと見るとドックがあるように見える。だから共通点として錯覚してしまうのだ。

聖橋は昔から撮影している。確か朝日新聞の朝日ジャーナルの連載でも撮影したことがある。その時は大型カメラで撮影したのだがなかなかアングルが難しい。アーチ型の橋の全貌を見せるとなるとなかなか 場所は限られのだ。

Image_5

2015年5月23日 (土)

パリシャルル・ドゴール空港独裁者の肖像

かつての社会主義国家の時代に東ヨーロッパやソ連などの国は独裁者の肖像の使い方が非常にうまい。

モスクワの踊りなどは長い大道に1番見やすいところに巨大なディクテイターの肖像画を掲げるような仕組みになっている。

今のディクテイターはもっと頭がいいからそういう事はしないでSNSとか報道関係等の世論操作で顔は表には出ないようになっている。逆に怖いい時代ではある。

巨大な人間の肖像を見るとディクテイターの象徴であるという刷り込み現象が私の頭の中に出来ている。だからパリのシャルルドゴール空港で見たこの独裁者の肖像はかっこいいなと思った。実際にはアパレルの広告等であるが私にはそう見えないところが自分の脳内が混乱しているのがわかって面白い。

カメラ毎日の1974年の一月号にウイーンのカラー作品を八頁掲載した。

そこに写っているのは当時の独裁者つまり毛沢東、ホーチミン、ヒトラーなどの合成された肖像のポスターが街角に打ち捨てられているのである。
これが当時の新聞社の内部コードに引っかかってどうやら印刷所が徹夜でそのページを切り取ってお詫びの黄色い紙を挟んで出版したことがある。

今と異なりそういうフィルター、段取りがマニュアル化されていなかったのでこういう事になったのであろう。その点に関して当時の山岸章二さんから長いお詫びの手紙が来た。それを私は今でも大切に保管しているのである。 Image_2

2015年5月22日 (金)

華の巴里でクラブエダムごっこ

Image_19


シャルル・ドゴール空港から早朝に羽田空港に到着。着陸3000ですごい乱気流。放送中のCAさんがアッとー叫ぶほどであった。

月島の枝村酒店、通称クラブエダムが閉店してもうすぐ1ヵ月になる。常連さんがたくさんいるだろうが私なども月島で夕暮れにどこに行ったらいいのか戸惑ってしまう。

それでせめてもの慰めに巴里でクラブダムごっこやろうと思ってここにきた。
巴里の公園でる。宝焼酎のプラスチックの容器の中にはラム酒のハバナクラブが入っている。
ウィルキンソン炭酸の瓶の中はパリの水道の水である。これがなかなかうまい。

数年来東京のいろいろな公園で採取した水を飲んでいるのだが、この水はちゃんとホテルから汲んできた。

2015年5月21日 (木)

AF272

Image_3

東京からヨーロッパに行くには12時間ちょっとかかる。ヨーロッパから東京に来るには11時間30分ぐらいかかる。
若い頃はこの時間がなかなか苦痛であったが歳をとるとその時間を楽しめるようになった。十二時間は二時間のユニットが六個とー考える。

エアフランス272便はパリのシャルル・ドゴール空港を午前の11時に離陸して翌朝の5時30分に羽田空港に着く。

パリホテルでその飛行ルートをインターネットで見ながら航空無線を聞くのは暇つぶしになっていい。

エアフランスの機長と東京コントロールのオフィサーがジャパニーズイングリッシュとフレンチイングリッシュで会話するのがなかなかエンターテイメントである。

今朝は東京コントロールのオフィサーがエアフランス272便を別の便と間違えていた。それでキャプテンが違いますよこちらは272ですと訂正を求めていた。
早朝のこの時間に羽田空港に着く順番というのも大体決まっていてJALの1便がサンフランシスコから最初にやってくる。次がANAのバンコック発である。

2015年5月20日 (水)

本日移動日 ロバートフランクの花屋をさがす

Image_17


本日移動日。パリ羽田。
帰りはビジネスクラスをおごった。
パリで何も散財してないのだからそのくらいの御褒美はもらって当然だと思う。

ロバートフランクが50年代のパリで撮影したいわゆる花のシリーズを求めてパリを徘徊したのだがもうあのようなシーンはどこにもみられなかった。

週末に恋人や家族や友人に花を贈ると言うのは20世紀の美風であったことが分かった。今はパリの人は歩きながらスマホを見て赤信号を無視する時代なのである。

花に心を寄せると言うのはクラシックな生活スタイルなのであろう。ロバートフランクが撮影した50年代にはそれがあった。

それでせめてものランクへのオマージュとして撮影した花屋さんをモノクロ変換したのがこれである。

おことわり
自動更新ではないので明日のブログは羽田着陸後になります。

2015年5月19日 (火)

パリ五区 ムフタール街

Image_10


Image_16


70年代にドイツ表現は建築の撮影でウイーンにきた北井一夫さんからもらった写真集木村伊兵衛パリの中ににある庶民の街ムフタールの写真があった。それが気にいってわざわざパリに行ったのであるウイーンウイーンの友人のポールさんからパリの安ホテルを聞いた。パリ東駅から7番のメトロで狩りを行ったり来たりしたその先にホテルがあった。ホテルベルチオといったと思う。このホテルは名前が変わって今も存在するが小賢しいブティックホテルになってしまった。
当時ホテル代は1泊23フランだったから破格であった。金子光晴のパリ滞在もこのような安ホテルであった。
買い物はもっぱら近くの下町銀座のムフタール街区で済ませた。ゆるい坂になっている小路でそれを登りきるとちょうどパンテオンの裏手に出るのである。

この間は東駅のホテルからずっと歩いてノートルダムドパリを通過してシテを超えた。パンテオンの丸屋根が見えたので思いついて道を選んで適当に歩いていったらムフタール街区の北の端に出た。我ながら人間ナビゲーターとしてもまだまだ使えるとその土地勘に感心した。
当時よく買い物に行っていたおかず屋さんを思い出した。この店は40年前から比べればファサードはぐっとモダンになっている。店構えは昔の方が良かった。

2015年5月18日 (月)

パリ3区 Rue Chapon 39

Image_23


Image_32

話題のパリのインビトウィーンギャラリーを見に行ってきた。

いや実際には行ったのではなくてその前を通過していただけたある。ギャラリーはポンピドーセンターのわりと近くにある東西に伸びているこうじえである。

ちょうどアジエが撮影した時代と言って良いほどのクラシックな小路である。通の長さ結構長くて三百メーター以上はあるか。
そこには主にインデペンデント系のギャラリーが軒を連ねている。そのロケーションと言うのが非常に気に入った。

かつて私がマンハッタン のSohoに住んでいた時がまさにそうであって、いいギャラリーがあった。今ではメジャーなブランドのショップが軒を並べているつまらない街になってしまった。これはどうも面白くない。

この細い小路も全く同じであってそこからポンピドーセンターのほうに、つまり南のほうに歩いて行くといきなり メジャーなショップの通りになってしまう。実に危ないところであった。
インディペンデントのギャラリーを作るという場合1番重要なのはやっぱりロケーションだと思う。

こういう場所だから賃料は決して高くないと思うが実にうまいところに場所を作ったものだと思う。

だからギャラリーで実際に作品を見るのは大事だけれども、そうではなくこの通りを散歩の途中に行ったり来たりして何かを見つけようとするのは十分にパリに来た目的にかなっていると思う。

2015年5月17日 (日)

マレ区 ボージュ広場

Image


声楽家の村田健司がパリに留学していた時のことだ1,970年代の初めである。
初めて家人とパリに行ったときに村田に、ここ、ボージュ広場を教えてもらった。

それまでの古い町並が大改造されて新しいおしゃれな街になるのだと言う説明があった。
実際に古い肉屋がそのままの内装でカフェになったりしているのでびっくりした。いやカフェではなくてアンティークの店であったのかもしれない。

広場の北東の角のカフェに座って私は感心した。しかしそこに行かなくなってから40年が経過しているのである。その理由はあまりにもツーリストの行列だらけになってしまったからだ。

だから私の座る場所と言うのは外側の回廊の所にはなくて中の広場の空いているベンチである。
四半世紀まえの暑い夏の日の午後ににそこに座っていた。ちょうど前線が移動するときのようで熱い空気が一瞬にして冷涼な空気と入れ替わった。
それが何か私には一種の永遠体験のように感じられたのである。

この20年ぐらいは近くの中古カメラ屋でレンズを買ったときの最初のテストにここを使っている。高価なズマレックス85ミリf1.5などもここで最初の撮影をした。

2015年5月16日 (土)

ビルカニングガムのおしゃれなジャケット

Image_16


Image_21


ニューヨークタイムスのファッションフォトグラファー、ビルCunninghamの映画で彼の着てる青い労働者ジャケットが話題になったことがある。
その映画の中ではパリの道路掃除人のジャケットということになっていたので、去年私は5月にそれをパリに買いにきた。

これは情報が正しく伝達されていなかったのであって実際のパリの掃除人のジャケットは緑色なのである。今回ビルの短いインタビューのYouTubeを教えてくれた人がいてそれによるとビルのジャケットはなんとBHVで売っているのだ。これはツーリスト向けのデパートであるから私は1度も入ったことがない。しかしホテルから近いので歩いて探しに行った。日本だとツーリスト向けの商品がまとめて置いてあるコーナーがあるがここにはそのようなのがなくてこのジャケットはB1の東急ハンズみたいなところつまり工具とか工作材料を置いてあるフロアのわかりにくいところにあった。価格が20ドルとビルの映画の中ではあったがこれは昔の話であって今は40ユーロ近い。

しかしこのブルーのジャケットは私の尊敬するジョナスメカスも着てるので1つ買ったのである。

そのパッケージについているモデルの写真が実に滑稽で、これはまさにヨーロッパの日曜大工のおっさんである。
ビルは非常にスタイリッシュだから似合うが通常想定しているこの上着の目的はこれなのだ。
私が着てみるとホーチミンのようになってしまう。東洋人が着ると軍服のように見える。それは人種の違いというものであろう。Image_29


2015年5月15日 (金)

片手でフィルム交換リラックス

パリで撮影中である。
Nikon S3にニッコール2.5センチを付けて撮影している。
左手がまだ不自由なのでそれなりの撮影テクニックが上手くなった。

パリにはそこら中にベンチがある。これを利用しない手は無い。ベンチに座ってフイルム交換をしていてリラックスしている自分を発見する。半世紀、ライカやレンジファインダーのカメラで歩きながらフィルム交換ができることを自分は自慢にしていた。つまらない自慢をしていたものである。

新しいフイルムを装填してこれからどちらの方向に歩いて行くかとかいろいろ考える。
ただ闇雲に歩行していたときにはそういう考えは浮かばなかった。これはなかなかいい状況になってきたと思う。

フイルムは15本持参した。だから今回のシリーズのタイトルは「Paris 15」である。Image


2015年5月14日 (木)

屋根裏パリ

Image_6


プラハでの屋根裏の暮らしは四半世が経過して終了した。もう行かないつもりであるが、やはり忘れられない屋根裏暮らしである。

それでパリでも屋根裏で暮らすことにした。エレベータができる前のパリのアパートメントは上階のほうが安い。階段で上下することのエネルギーで上の方が賃料の安いわけだ。ところが最近の新しい建築だと最上階はペントハウスとか言われて人気である。この建物は6階まではエレベーターがある。

そこから屋根裏の7階まで階段で登るわけだ。ところがホテルにチェックインしたらエレベーターのガラスが壊れているとかで最上階まで階段で荷物を持って上がることになった。これは70歳近い老人には大変なエクササイズである。

パリは仕事が遅いからおそらく私の滞在中にエレベーターはなおらないのではないかと思う。それで無料でエクササイズができることになった。
武林無想庵がマルセイユのホテル暮らしの時、やはり屋根裏部屋だった。あの時代の日本人はエキセントリックだから部屋でアルコールランプで飯を炊いたりするのだ。まさに移民の歴史である。

しかし屋根裏部屋から見るパリのスカイラインは美しい。パリの空を鑑賞するには屋根裏部屋に限る。

2015年5月13日 (水)

サンマルタン運河ふたたび

Image_5

パリに来るたびごとにサンマルタン運河に来てしまう。これは四十年前に来たときに最初に出会ったのがこの運河であるからだ。

40年前のことを思い出すに、当時はまだ船に荷物を積んでこの狭い水路を往復していたのを見た記憶がある。

雑誌の暮らしの手帖でやはり70年代にそこに住む人々の暮らしを特集したことがあった。
それ出れを思い出すに、まさにこの周辺は前世紀の人々の生活がそのままに展開していたのである。

運河の両方は今では非常にきれいになってしまってむかしの面影はほとんどない。時々観光船船が行き来するだけである。この観光船はセーヌを下にトンネルの中を通っていきなり東駅の手前で地上に抜けるのである。
今の季節だとマロニエの花盛りで実に優雅なものである。私はこの観光船に乗った事は1度もない。むしろめがね橋の上から行き交う船を見る方の観客なのである。運河の真ん中あたりに橋がある。その橋は船が来るときには旋回して交通を止めるのである。交通が止まっている時は車の人も通行人もみんなのんびりしているように見える。パリジャンはこの道が船が来るときは使えない事は知っているからここを通る人は最初から時間にゆとりのある人に違いない。

2015年5月12日 (火)

ベンヤミンのパリ

Image_4

パリを撮り続けた写真家アジエの最大の理解者はワルターベンヤミンであったと思う。ベンヤミンのファサード論でもアジエに関するアプローチがよく見られる。

そのアジエを最初に発見した人はアメリカの女流写真家ベレニスアボットであった。女性にはそういう才能を発見する特異な能力が備わっているようである。
女子カメラブームで全てのカメラを持った女子がかわいいお花とかきれいなお菓子に接近して撮るのはカメラメーカーには結構な時代であろうが、何かもっと大事なところに才能を向けなさいと言う気がして老人から見るととても残念な次第である。

アジエが撮影したクラシックファサードはパリには今もたくさん残っている。その専門の地図などもあるようだ。それも面白いがパリの街を当てずっぽうに歩いてそこに見覚えのあるファサードが現れてくるのに出会うほうがはるかにおもしろい。なぜならば地図を目当てに歩く事は単なる名所巡りの域を出ないからである。ランダムな街歩には全く別の楽しみがある。

2015年5月11日 (月)

パリの空のしたは退屈である

Image_2

これがリアリテだ。パリの空の下は退屈な人生があるばかりである。戦前辻潤が一年間新聞社の特派員の真似事でパリにいたときには普通のホテル暮らしで、その名前をホテルバッファローと言うのである。読書をしているとあまりにも部屋が暗いので電気スタンドを買ってきたら管理人に取り上げられたりしている。パリは電気を非常に倹約するところであると辻潤は感激しているのである。

私が周辺部の安ホテルに滞在しているのはバジエットトラベラーな面もあるが人の暮らしが面白いのでそれを観察しているのだ。バブルの頃は五つ星のホテルに泊まって良い気になっていた私であるが、ようやく真実のパリを見ることができるようになった。
パリの道路のダイナミックな都市計画を見るには固定された場所からではダメであるこれはポンピドーセンターの上から見たな実に退屈なパリであってエッフェル塔よりも建設機材の方が背が高かったりする。ホントのパリを見ようとするならばGoogle viewで上空から走ってみるのが1番良い。そうするとパリの幾何学的な美しさがちゃんと見えてくるのである。

2015年5月10日 (日)

パリの空

Image

パリの空の色に関してはいろいろな詩人が書いているが、金子光晴は南から船でマルセイユ経由で来たのでパリの空に関しては否定的である。

冷たい青色だというのだ。私の場合は逆のルートで寒さの厳しいウイーンから初めてパリに来た時はその空が暖かい色なので感激した。

街角のカフェが道に張り出していてそこがガラスやビニールで覆われていて自由にそこで人が座って楽しんでいるのもすごいと思った。ウイーンは寒さが厳しいからそのようなことをしていたらすぐ凍え死んでしまうのである。

パリの空の色はこのような雲と青空微妙に混じった午後遅くがとてもいいと思う。もっとも日本から来たツーリストは皆無買い物に忙しくてそんなものは見る暇もないだろう。いきなりパリのにわか雨にふられて軒下に駆け込んだらそこがランセルの本店だったというので喜んで傘を買いに入るというようなレベルの人種なのである。

2015年5月 9日 (土)

本日移動日。HND CDG

Image_2

 

この30年間を回想。してみれば飛行機代というのは非常に安くなったものである。 80年代には欧州行のチケットは30万円に近かった。こないだオークションを見ていて欲しいカメラがあった。12万円位だったのがちょっとの差でアウトビットされてしまった。 それでエールフランスのヨーロッパ便の最安値を見たらこれが7万5,500円なのである。つまらないカメラを買ってすぐ飽きるよりもヨーロッパに行ってパリで道に迷ってやろうと思った。 それで今回のパリ行きになった。木村伊兵衛さんが最初に行った時は外貨管理が厳しい時だった。それ朝日新聞の社員と言うことにして資金を調達していったのである。 その意味では今昔である。大昔はパリに来ている人はちゃんとした任務を帯びたひとであったろうが、今パリを歩いている連中は私のような暇な老人のみである。 三島由紀夫はヨーロッパ往復を日記に書き記していて毎日の最後のページ残金を記載しているのである。これが非常に面白い。 お金の残りを気にしながら旅をしているという方が切迫感があって面白い。パリの問題点は宿泊費、ホテル代が高いことである。以前ルフトハンザのにいたビジネスマンは会社の規定で飛行機のチケットはほとんど無料に近いのだがホテルは自費である。それでパリに行っても宿泊がいちにち飛行機でフランクフルトに戻ってフランクフルトのホテルを利用していた。それでまた飛行機でパリに行くのである。まぁこれは東京小田原間を東海道線で往復するるようなものであろう。

2015年5月 8日 (金)

こういう街角がすき

Image_3

せっかくの華のパリにー行っても私は汚い街角ばかり撮っているという批判がある。全くその通りである。

しかしパリの巨匠写真家アジエの仕事を考えてみても彼は当時変貌しつつある世紀末のパリにもっぱらカメラを向けていた。
宮殿とか公園などよりもそのような無名の風景が私にとっては面白くてそれは写真家の仕事の本質であると思う。

これなどはパリの場末のしかも一戸建ての建物が壊されたところのまるっきりきれいでは無い風景であるがその建物の断面に時間が噴出しているのが非常に面白い。しかも天気はあまり良くなくて逆にそれぞれの建物のデテイルとか生活の日常のゴタゴタしたものがそこに現れているのが好きなのである。そういう街角と言うのは実際に歩いてみないと分からないからますますパリの街歩きが面白くなってくるわけだ。

2015年5月 7日 (木)

パリのカメフレックス

Image_6

パリと言えばヌーベルバーグ。ヌーベルバーグと言えば手持ちカメラ。手持ちの撮影と言えばやはりフランスはパリのかめフレックスである。

エクレールクータンが制作したこのカメラは戦後の映画製作のスタイルを一新した。三脚上のカメラから、手持ちでどんどん撮影ができるというそれまでの撮影機のアイデアを全くかえてしまったのである。

カメフレックスは35ミリのスタンダードと16ミリのナローゲージのcompatibleで数分でカメラフォーマットを転換できると言うのもすごかった。

パリの中古カメラ屋通りに映画機材を扱っている専門の店があってこの40年来そこのウィンドウを見るいうのがパリ訪問の定番であった。

しかしそこは10数年前になくなって今ではハーレーダビッドソンの店になってしまった。映画撮影機とオートバイと言うのは何か共通な素数がありそうである。

オーソンウエルズが100フィートの短いマガジンをつけて難しい顔をしてカメフレックスのファインダーを覗いているショットがあって欲しくなった。

パリ滞在中にウイーンのペーターの店のリストを見ていたらカメフレックスのフルセットがあったのでそれを注文した。

1週間後に私は東京に戻ったが、まずいことにそのカメフレックスアウトフィットは私の到着よりも先に佃についてしまって、私が戻ったらマンションのエントランスは段ボールのバリケードで中に入れない。カメフレックスの五月革命。カメチエラタンである。家人に叱られたのである。

2015年5月 6日 (水)

メトロのパリの

Image_6


1973年に最初にパリに行ったときにはメトロによく乗った。当時はまだメトロに一等車があったので物珍しいので乗った。どこの路線であったか忘れたがグリーンが二等で一等は赤なのである。その塗り分けのコントラストが実に目に痛かった。

当時のメトロは今と電気システムが違っていたようでいきなり暗くなって室内のタングステンランプ狩り点灯したりするのである。

70年代の後半にパリに3週間ほど行ってメトロをテーマに撮っていた。要するに朝起きてメトロに乗ってメトロの駅の中で食事して1日中メトロ暮らしなわけである。

パリのエンターテイメントはたくさんメトロの乗り継ぎ通路にあったが言わゆるメトロの有名人というかエンタテイメントの人がいて、アコーデオン弾きのおじいさんで犬を同伴していつも座り込んでいる人がいる。もちろん座り込んでいる駅は分からない。
今日はこの路線のこの辺にいそうだというので出かけて行ってそこでその人に会って うれしかったこともある。

こういうのは一種のアートだと思う。パリのメトロで1番混乱するのはまず地下鉄のそれぞれの終点の駅の名前を覚えなければならないことだ。それと私は外国人でフランス語ダメだから路線の色である。しかしすでに40年も乗っているのだから自由にあちこちに行くことができる。

でもパリと言う街では小さいので別にメトロに乗るまでもない。パリの北駅からオペラまではすぐに歩いて到達することができるし、シテを渡ってしまえばカルチェラタンももうすぐそこである。

2015年5月 5日 (火)

パリのニコンで悩む

Image

毎度の話だがパリに行く前に持っていくカメラの選定で頭を悩ましている。

これはデジタルカメラの場合には絶対ないことである。フイルムカメラを使う面白さというのはまず最初に持参するフイルムの種類と本数を決めることだ。
以前偽ライカ愛好会の会長から10本ほどの各種のモノクロフイルムをもらったのである。それを持っていこうと思ったらどうしても見つからない。それで急遽1番安いモノクロフイルムを買った。それは富士フイルムのアクロスと言う種類で3本で1,300円なのである。それを五箱買ったから15本。

今回のパリで撮影する写真のタイトルはこれで「パリ15」に決まった。安直なものである。

機材のほうは通常のニコンレンジファインダにするかぐにゃりニコンのクラシックモデルにするかで迷っている。これは多分出発直前まで迷うことになるのであろう。

木村伊兵衛さんは1954年の最初の欧州旅行でローマに到着した途端に子供にニコンを盗まれたと回想している。私は旅慣れているので盗まれないように注意しよう。

現在のスコアではぐにゃりニコンの方がやや優勢なのである。

ぐにゃりニコンにはごく初期のユニバーサルファインダーをつける。最初のニコンは寸法足らずであったので、このモデルはちゃんと24x36の刻印が入っている。その仕上げは素晴らしいものでちょっと外のファインダーはこれに及ばない。ライツのファインダーより仕上げが良いのだ。

2015年5月 4日 (月)

ビザンヴェルグの夕暮れ

Image_2


ウイーンの市電の終点の系統331番の路線はもうないけれど、そこにビザンベルクと言う丘があってそれはテレビの電波の中継所になっていた。

そこに住んでいたのは私のウイーンの友人のブッケルトという名前の人であった。彼はズデーテンドイツ人であって戦後ウイーンにやっててきたのである。
ブッケルト氏とは蚤の市で知りあったのだがカメラの他に銃器を扱う趣味があって、それは自分で携帯して歩けるというライセンスのクラスの人間なのである。

ピアニストの山下洋輔さんを連れてこの人に会っていろいろピストルを見せてもらったことがある。そのことは山下さんの「ピアノ弾き跳んだ」に書かれている。この田舎町はその先はもうドナウの平原という感じで非常にのんびりできるところだった。ワイン酒場もあるのでそこに飲みに行ったのである。

こういう郊外の夕暮れというのは独特なものであって、静寂がある。みんなそれぞれの自分の家に戻っていく。ちょうど鳥が夕方だってそれぞれのねぐらに飛んで行くのと同じ感じがして、人間にも帰巣本能があるのだなということがよくわかる。

ブッケルト氏から聞いた話で不思議なのは、ある雷の激しい大雨の夕方にテレビ中継所の上の空にテレビの画面が一瞬だけ見えたという話である。女性の顔が見えたという。
電磁波の関係でそういうことがあるかもしれないが、何か超現実的な話でそれが好きだった。
ブロッケンの怪が存在する国の話だ。

ニコンSP 5cm ニッコール

2015年5月 3日 (日)

Wien 1973 雪の夜の2CV

Image

車の中でもブリキ細工が実際に走るような感じのシトロエンのこのモデルは実際に運転してみてどうかは知らないが、外から見ている分には好きな車だった。下り坂で速くなるタイプであろう。

シトロエンは不思議な車メーカーで戦後は未来の宇宙船のようなDSシリーズんを作ったりこういうアヒルのような車を作ったりする。

ドイツではこの車をエンテと呼んでいたつまりアヒルである。
ウイーンの雪の夜に友人の家から帰に電車の乗り換えの場所でそのアヒルが止まっていた。
アヒル逆にほとんど雪をかぶってしまって車の本質がそこに現れているような感じがした。
これはライカにニッコーの50cmの1.5で撮ったものである。そう,
コレクターが探しているf 1.5なのだ。
この通りはウイーンのリング通りで1番交通量の多い所なのであるが深夜になると無人だ。何か郊外に乗り捨てられた車の風情があって面白い。

2015年5月 2日 (土)

ドナウ運河の眺め

Image_2

ウイーンの七年住んでいたアパートはドナウ運河の東側にあった。55年までここはソ連軍の占領地域だった。市電の駅の上にかかっている橋が平和橋というのでそこがチェックポイントになっていた。

当時のウイーンの冬は厳しくてドナ運河の水は凍ったそうである。その最寄りのフリーデンスブリュッケという市電の駅に七年行ったり来たりしていたわけだ。
だから私のネガファイルを見ていると必ずドナウ運河が出てくる。当時はそれが日常の現実だったから嫌であった。

撮影に行く往復のショットがすべてドナウ運河なのである。
しかしそれが40年近く前の現実であると言うことになると今ではそれがノスタルジックになってくる。

このショットは非常に珍しいものでドナウ運河を砂利の運搬船が上ってって行くところだ。

完全にこういうショッもがあったということを忘れていた。実は今住んでいる佃でこれをオリンピックの前の準備なのであろうか、やはり砂利の運搬船が頻繁に往復する。それはオリンピック開催が決まった翌日から開始されたのである。

だから佃の目の下の隅田川を日々その運搬船を見ていてその関連で40年前のウイーンのドナウカナルの砂利の運搬船を思い出したという時間軸が転倒したような感覚がそこにはある。

この作品に短いコメントを書き込んだのはそれは大して重要なことではない。むしろ重要なのは画像とその文字列が一緒のコントラストをなして何か語りかけてくるような構造になっているということ、つまり意味よりも視神経の見栄えの重要なのである。
いわゆるキャプションではない。もっとグラフィックな効果を狙っている。

2015年5月 1日 (金)

都心よりカンツリーーが好き

Image

これも6月にギャラリーバウハウスで開催する「ウイーン2グラムの光」の出品作のうちの1枚である。

ウイーンには沢山の路面電車があるが私が住み始めた当時つまり40年前には系統で最大の数字の多いのが331番と言う電車だった。
これはドナウ川を越えてウイーンの北西の郊外のかなり遠くのカントリーまで行くのである。

終点まで1時間ほどかかるのでその電車に乗ること自身が旅でなかなか良かった。そこはシュトレーバースドルフいう田舎町で良いワイン酒場があったりしてよく出かけたものだ。

こういう3人の少年の写真などはは撮ろうと思うとなかなか難しいものである。それぞれに民族衣装的なジャケットを着てそれぞれに帽子をかぶってなかなかいい表情している。こういう写真はやはりカラーではなくモノクロで撮るのが本筋だと思う。

リチャードアヴェドンのごく初期の作品にシシリー島で撮った少年のポートレートがあってそれは少年がカメラを見つめているのであるがそういう方法が有効なのである。

今の日本ではこのような写真は最も撮影がしにくい状況になっているのも不思議なことだ。ちょうど戦前の横須賀の軍港のような時代になってしまった。

ニコンSP  50ミリ イーストマン5222

« 2015年4月 | トップページ | 2015年6月 »

ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31