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ロック ユー

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2015年4月30日 (木)

巴里でクラインを真似る

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巨匠写真家ウィリアムクラインには親しい友人と言うわけではないが、私の差し出した彼の写真集ニューヨークにTo Chotoku Happy Newyork と書いてくれる程度の関係である。

今回パリに行くのは別にウィリアムクラインを目当てに 行くわけではない。それよりロバートフランクを標的で行くわけである。クラインはもうパリに住み古しているが、一方のフランクはスイス人でありながら結局パリでの思いを断ち切れないままにニューヨークに行ってしまったわけである。

だからちょっと意外なのはフランクのパリへの想いというのは想像以上に深刻だ。
フランクはパリへの思いを今も断ち切れずきれずにいるようなのだ。そこら辺のフランクの気持ちを汲んでフランクが見た1,950年代のパリをもう一回そこに重ね合わせてみようというのが今回のパリ行きの計画である。

しかし持っていく機材のほうはライカではなくニコンS3である。これはクラインが写真家としてスタートした当時に最も愛用したカメラなのだ。レンズは25ミリと35ミリを持っていく。東松照明さんが大昔のニッコール読本で28ミリのレンズのことを挙げて、28 と50ミリの2本があればこの世界は完全にとらえられると言っていた。これは写真家の視神経の哲学とするものだ。残念ながら2ミリはニコンマウントでは持っていないので代打として2.5センチのニッコールを持参するのである。

2015年4月29日 (水)

チョートクカメラ塾の受講生の皆さんに重要なお知らせ

チョートクカメラ塾受講の受講継続、新規受講の方は下のリンクからお願いします。

チョートクカメラ塾は一昨年の秋以来niftyの「大人の学び場」として好評のうちに展開してきました。
今回「大人の学び場」の終了に伴いBaseをベースとして新チョートクカメラ塾が六月第二水曜日からスタートします。新カメラ塾では塾生のみなさんとのより身近なコンタクトを目的として、オフ会と撮影会も企画しています。もちろん購読料以外に参加費は無料です。写真に写っているカメラ友達さんをスクーリングに呼んでみようと考えています。
わかりやすい文章で、かつ内容が深いと好評のチョートクカメラ塾をどうぞよろしくお願いします。
リンクはこちらです。
http://chotoku.thebase.in

沢山のお申し込みありがとうございます。購入手続きがわからないとのお問い合わせをいただきました。


ライカの画像をクリックしてください。

オフ会のお知らせです。チョートクカメラ塾撮影会の第一回として6/13土曜日2pmから御茶ノ水駅そばの聖橋の上、アキバ側に集合して撮影会。その後開催中のギャラリーバウハウスでの私の個展「ウイーン2グラムの光」のフロアトークをおこないます。申し込み不要。チョートクカメラ塾生は参加費無料です。旗を持ってお待ちしています。Image


オフ会のポイントから見た光景
ーー

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至急なお知らせ。
本日午後3時に新チョートクカメラ塾のメールマガジンを発送しました。ドメインの関係で一部の受講生の方にメールが届いていません。メールマガジン未着の方は
chotoku.tanaka@gmail.com にご連絡お願いします。すぐにメールマガジンを発送します。お手数おかけします。

ロバートフランクのペルー

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。ロバートフランクは1947年の2月にアントワープからマンハッタンに移住した。

その翌年にはペルーに撮影にでかけている。ペルーのシリーズは非常にこころのきずを癒す為の旅を感じさせるスナップショットである。

これは3年前にギャラリーバウハウスで展示された元村コレクションの作品である。許可を得て撮影したものだ。

この作品を見て、最初に神経が緊張するのはそこに写っている明るい大地となんとなく微笑んでカメラを見ている男性である。寄りかかるところがないというか、手がかりが何もないような不思議なペルーの大地をフランクは撮影している。

その舞台面を構築しているのは言うまでもなく画面の下のほうに並んでいるパーフォレーションの穴なのである。なぜ私がその八つの穴に惹かれるのか。言うまでもなくフランクがその時間軸とその世界点の場所が交差するところで、クラシックな戦前のライカで撮影したときにそこに立ちはだかっている闇がそのままに記録されているということなのだ。

写真の現象はよく光の惨劇というふうに語られるが、パーフォレーションの先に見えるというのは単なる闇ではなくてそこでしか、生成することができなかった闇、というところに興味がある。

2015年4月28日 (火)

季節がかわりまして、、、

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私は飛行機が好きなのでわりとよく乗る方だが、やはり飛行機と言うも最低2,000キロは飛ばないと飛んだ気がしない。

言い方を変えると東京から大阪あたりの距離だと陸上の交通機関と争ったりしているからダメなのである。超絶な遠距離でないと飛行機の醍醐味がない。

それで新千歳から伊丹まで飛行した。これは日本海ルートであってちょうど佐渡の真上を飛行するのである。それを楽しみにしていたのだが雲が多くて佐渡島は見えなかった。

しかし立山連峰あたりは奇跡的に晴れていて雪山をじっくり鑑賞できた。その1,500キロほどの飛行で1番感動したのはキャプテンのアナウンスであった。
「季節が変わりまして向かい風を受けている関係で御搭乗機は到着が20分ほど遅れます」というのである。

キャプテンは何気なく言ったのであろうがその季節が変わりましてという言葉に非常に「詩人」を感じた。

こういうものは将来には新しい俳句の季語になるのではないかと思う。

2015年4月27日 (月)

アンダーパーフォレーションのウイーン1973

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ワシントンナショナルギャラリーのロバートフランクの作品でいろいろ見ているがやはり魅力的なのは例のアンダーパーフォレーションエフェクツのある作品である。

画面の下のほうにパーフォレーションが八つ並んでいるのであるがそのパーフォレーションの形はスチール写真用のパーフォレーションだと四角いのであるが、映画撮影用のフイルムだと丸く写っている。これはネガ目という。この方が魅力的である。というのはライカを始めとした小型カメラで35ミリのフイルムを使うそのテクニックは、もともと映画カメラの私生児であったからだ。

この作品はウイーンに滞在していた初期の1,973年頃に撮影したものだ。当時はお金がなかったので普通のモノクロフィルムは買えなかった。それで期限切れの映画フィルムを買ってきてそれを相室で短く切ってスチールカメラ用に使っていた。このやり方はロバートフランクだけではなくてロバートキャパも同じようなことをしていた。つまり映画撮影と写真撮影は材料が同じだから平等なのである。

映画監フォルカーシュレンドルフの初期の作品のスチール写真を手伝った時、私は実際に撮影に使っているフイルムの端尺を分けてもらってそれでスチール写真を撮った。それはイーストマンの5222であった。

いわゆるダブルエックスと呼ばれている種類のモノクロフィルムである。この作品はそのフイルムでとられているが何しろ撮影年代は70年代であるからここに写っている女の子はすでに50代半ばに達しているであろう。

そういう写真を集めて6月には上神田明神の脇にあるギャラリーバウハウスで展覧会を開催するのである。

2015年4月26日 (日)

跡見の茶会

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その歴史が90年余りになる月島の越後屋酒店枝村商店は一昨日その歴史に幕を閉じて、最後のパーティーは夜遅くまでやっていたらしい。

私は天王寺都ホテルの第二会場で1人で立ち読みをしていたのでちょっと残念だった。

土曜日の朝に四谷荒木町のアローカメラでの月一回のトークショーのために伊丹を出て駿河湾を飛んでいるときに思い付いたのは以下のことである。

南坊録では太閤秀吉が茶会をした後にその様子を見るために別の茶人がそのお茶会の跡を拝見すると言うのがある。炭のつぎかたなどを拝見するのだ。これは普通に行われていたことである。それを跡見というのである。

それで枝村の跡見の会をしようと考えついた。
トークショーの後に有志が枝村酒店の前に集合した。
多くのメンバーは一昨日の深夜までヘロヘロになって飲んでいたわけだが、やはり枝村ロス症候群と言う訳であろう。
でもこの跡見で皆さん気持ちが落ち着いたようである。

2015年4月25日 (土)

琵琶湖八景

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琵琶湖と言うのは昔から歌に詠まれ、絵に描かれたりしているが、私の子供の頃は関西の写真の団体で琵琶湖を真面目にテーマにしている人たちがいた。そういう写真を見ていると何か非常に時代遅れな気がしたのだった。

つまり戦後の琵琶湖の写真を撮る芸術写真の写真家連中よりもそれよりも何百年も昔の俳人の俳句の方が時代にマッチしていると思ったのである。

もともと世界中の湖にはほとんど縁がない方で、上空を飛行した回数で1番多いのはカスピ海である。カスピ海上空を飛びながらキャビアのことを考えたりしていた。もっともファーストクラスがあった時代のアエロフロートは世界のエアラインで唯一キャビアをおかわりできるというレアな航空会社だった。

JRの湖西線の比叡山坂本駅から琵琶湖を目指した。それは10分ほどの距離であった。宮川と言う名前だったと思うが小川が流れていてその小川の両側を構成している砂州が琵琶湖に長く伸びていてその左右がちょっとアメリカ映画に出てきそうな住宅地が新たにできているのである。何千年と言う歴史からするとその小川の際に構築された陸地はすぐなくなってしまうのかもしれないが、

何か懐かしい感じがしたのは、ミシガン州を旅をしていたときのミシガン湖の岸辺の家であった。非常にアメリカっぽい感じがしたのである。そこから視線をやや南に移すと今度は江戸時代の風景画のように湖の上には和船が浮かんでいる。何か古い映画そのままそこに現れたという感じがした。

岸辺に寄って水の色をよく観察した。
明るいブルーであった。

2015年4月24日 (金)

さよならエダム

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4月23日 月島のお酒屋さん越後屋さん、通称クラブエダムがその90年に余る歴史を閉じた。

私は新参者であるからこの10数年のお付き合いである。六本木ヒルズが仕事場だった時は駅の1つ手前で降りて歩いて枝村さんでいっぱいやって戻るのがライフパタンであった。

カメラ関係の友人知人なとカメラ宴会したこともある。ニューヨークからお客さんが来たことがある。

私が関係してる雑誌でここを舞台にして何かとお世話になったこともあった。
などなど、、、思い出は尽きない。私は出張で札幌か東京スキップして直接大阪に行っているので最終日には駆け付けることができない。それでせめてもの心やりで、天王寺の花野商会に行って枝村さんへの別れの杯を掲げた。
立ち飲みなんて言うのはなかなか独特の楽しみがあるので、枝村さんのお店の真似をしようと思って部屋でつまりキッチンで立ち飲みをしてみたがどうも。それで今度はバルコニーに出てみたのだがこれも全くダメである。やはり角打ちと言うのはああいう環境があって、そしてああ人々が居るから楽しいのである。

天井もなければ椅子もないというようなneighborhoods Barというのはもうこれからは存在しなくなるのであろうか。そう思うとちょっと寂しいのである。

2015年4月23日 (木)

湖西に大隈さんを訪ねる

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昨年吉村朗の写真集で話題になった滋賀県の大隅書店に行ってきた。今度、そこからあたしの2001年の佃日記を出すのである。

界隈は琵琶湖の西側の歴史的な街である。堅い田んぼと書いてカタタと読む。

あたしの滞在している天王寺の寺田町からは1時間半から2時間かかるので結構な旅である。これは全くの思いつきである。

昨日、札幌から飛行機が伊丹空港にアプローチする時に窓から琵琶湖の西の岸がちらっと見えたので、それで思い出していきなり行きたくなったというわけだ。
事務所の大隈さんは新しいMacの24インチのレチナディスプレイを仕事場に備えてやる気充分だった。

比叡山の坂本に2人でお寺のそばの蕎麦屋で昼酒。これが非常に良かった。比叡山と言うと私は昔の人間だから夢想庵が山にこもってそこに辻潤がやってくるような昭和の初めの頃の話を思い出す。駅の近くは日本のどこにでもあるような普通の風景であるが、ちょっと歩くと琵琶湖の西岸に着くのである。それがとてもいい感じだった。

2015年4月22日 (水)

100cc以下の液体

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一般的に空港での保安検査は外国のほうが厳しくて液体は100cc以下の透明な容器
に入ったものしか持ち込めない。それはめんどくさいので大抵あたしは液体は持ち込まない。液体と言うのはアルコール飲料のことである。

今回、新千歳を出るときに初めての試みとして100ccの酒精を容器に入れたやつを提示した。セキュリティーチェックコードではこれは2 × × ×と言うのである。それで持ち込めたので札幌大阪までの飛行中の楽しみが増えた。

佐渡を上から見つつウイスキーをヤル計画は雲のためにできなかったが、一方で航路上反対方向に飛行するトラフィックを目視することができた。あたしは日航機で、トラフィックはおなじ機種 ANAのボーイング737-8である。2000くらいのセパレーション。素晴らしいスピードだった。


2015年4月21日 (火)

相撲写真集

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札幌にある今井コレクション講演会に来た。そこのカフェにこれが鎮座している。言うまでもなくヘルムートニュートンが撮影した「ちゃんとした写真集」ある。ギネスブックが目的の世界最大の写真集というのが他にあるが、それらはにでかいだけで内容が伴わない。

それに比較してこれは作品以上の存在である。10数年前にこの本に、当時ベルリンの古本屋で出会ってよほど買おうと思ったのは値段が4,000ユーロだったから。

しかし1人での走り旅だからこれをその後の旅で全部持ち歩くのも気が重いし梱包してそっから発送するのもめんどくさかった。それでそのままになったのだが、それから10数年経ってしまい今井コレクションの1階のカフェでこの相撲写真集に出会った。最近月に1回この場所に来るのだけれど来るごとに写真のページが変わっているのが楽しい。
ニュートンと言えばテレローライフレックスとか富士フイルムの中判カメラを使っていたのが懐かしい。それとヘルムートニュートンがキャデラックでラスベガスかどこかでなくなった時にあれは自殺だったのではないかという話がある。これはニューヨークタイムスで読んだ。

ニュートンに関して言えばあたしのウイーン時代に女友達がマンハッタンにニュートンに会いに行った。これは母国語がドイツ語 であるから問題なかった。そんな昔話を相撲写真集を前にして考えている。

2015年4月20日 (月)

人間とアンテナ

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写真展の準備のために膨大なネガを選んでいたらこんなワンショットが出てきた。 こういう場所に私はめったに行かないからそれがどこであるか覚えている。ザルツブルグのワークショップの日本人クラスを引率していった、おそらくヒトラーの山荘があったの近くである。

すっかり忘れていたネガの中からこれを選び出した。その前後のショットというのあるんだがそれは人間をとったものである。 このショットだけアンテナが写っているのだ。そしてアンテナと人間を比べてみた場合にセクシーな感じがするのはそれが人間が作ったものであるという印象がそこにありありと感じられるからだ。

つまりアンテナと人間はニヤリイコールなのである。 亡くなった吉村朗がそのワークショップに参加していた。初対面から吉村は非常に不思議なキャラクターの持ち主で切れる人間と言うよりも、突出しすぎてちょっと変わった男の子という感じがした。 こういうのを才能の芽生えと言うのであろうか。

後に吉村はどんどん頭角を現して、人間が見る視神経の不健全な、そして絶対は避けて通れないと言うネガティブな視線を構築するようになった。 でもこの時代の吉村はまだそこには到達していなかった。だからこの写真を見ると私は男性の後ろ姿よりも人間の作った吉村のシンボライズされたアンテナにシンパシーを感じるのである。

2015年4月19日 (日)

家族写真は

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ワシントンナショナルギャラリーの収蔵品であるロバートフランク撮影の子供たちの写真。

ファミリー写真の退屈と言うのは我が子が可愛いと言うスタンスが基本になっているからだ。
この場合はそれとはちょっと違うような気がする。というのもその撮影距離が子供に対する親の愛情の距離と言うのではなくてもっとひいたというか、覚めたものであるからだ。

その理由と言うのは何故かわからないがこれが撮影された時代にはおそらくフランクはグッゲンハイム奨学金を得てアメリカ中を家族で旅行していた時になるのであろう。
家族写真の環境と言うのはその意味でどこかのホテルのロビーでとられたような感じがそこにはある。生活感のないところ、そこがいい。
家族写真は個人と個人の関係で記憶されていくもので、その家その家族が存在しなくなってしまうと言うのが常のことである私はウイーンで1900年ころ。
に撮影されたオーストリアの1家族の写真の膨大なガラス乾板を所蔵していたことがある。

それは軍人に子供が生まれて数人の子供ができ最後のガラス甲板のショットは息子が立派なヒトラーユーゲントの服装をしてカメラに微笑んでいるというとこで終わっているのだ。

その先がないのはおそらく撮影者がガラス乾板からフィルムカメラに持ち替えた為であろう。この膨大なネガは古屋誠一の奥さんのクリスティーネに贈呈したがその後の行方と言うのは明らかではない。

家族写真がそのまま過去のものになってそこに写っている人がいなくなってしまうというのは常のことである。それはここに写っている2人の子供つまりアンドレアとパブロもすでに地上の人間ではないからだ。その意味でロバートフランクのこの家族写真と言うのは個人的な存在と言うよりも既に人類一般の写真になっているということになる。

2015年4月18日 (土)

From The Bus

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移動日 羽田 札幌

ワシントンナショナルギャラリーのロバートフランクコレクションである。

これが貴重なのはニューヨークをバスで走りながら撮影したコンタクトシートであるからだ。

コンタクトシートは写真家の息遣いと心臓の鼓動と神経の反応がそのままに映画化されているから貴重である。

別の言い方をすれば映画のタイムlapseのテクニックと同じだ。ジョナスメカスがとっている1連のフーテージがまさにそれなのである。

このコンタクトシートを見るとフランクの仕事には何の秘密もないことがわかる。しかも結構失敗したショットが多いのが微笑ましい。

フランクのバスのシリーズを真似して私が東京でバスから撮影を開始したのが1,968年である。インターネット等ないからどこから影響を受けたのかわからないが、当時銀座にあったNing You国際図書館の中にある写真年鑑か何かで見ていたのだろう。これは非常に強烈な影響受けた大好きなシリーズである。

2015年4月17日 (金)

片岡さんとあたし

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片岡義男さんと最初にお目にかかったのはもう10数年前である。

大手出版取次店の月刊誌で対談をしたのである。場所は神田の如水会館であった。初対面の片岡さんは文豪なのにすごく気さくな人であった。
それから機会があってよく東京の撮影をご一緒した。片岡さんがすごいのは非常に撮影のスタイルがストイックで例えば5時間撮影をするとその間喫茶店に入って一回しかコーヒーを飲まない。それで路地裏をしらみつぶしに端から端まで歩いて撮影するのである。

私のほうは鉄砲玉であるから一旦歩き出すと方向変えないでどんどんいってしまう。

つまり片岡さんの撮影方針と私の撮影のやり方というのは最初から違うのである。それで示し合わせて撮影のスタートが一緒だがその後はフリーになって夕方に場所を決めて落ち合うと言うことにした。
片岡さんにずいぶんご馳走になった。その中で最大のプレゼントは片岡さんがご自身で作ってくれたフィッシュバーガーのサンドイッチなのである。これは宝物なので持ち帰って家人と半分ずつ食べたがすばらしい味であった。片岡ファンだったら羨ましがること必須であろう。

2015年4月16日 (木)

眺めの良い酒場

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眺めの良いバーと言うのは酒飲みには理想の環境である。

バブルの時代に世界中の五つ星のホテル等を取材したときに必然的にバーを取材することになる。その中には素晴らしい眺めのバーもあったがやはり眺めが良いと逆に酒を飲む速度が遅くなってしまうと言う欠点もある。

これは昨年の1月に滞在したリスボンの旧市街の中心部のペンションの部屋の窓から見た光景である。ここが非常に気に入ったのでその時のリスボン訪問はいつも通っているブリティッシュバーなどには行かずに下の食品店で適当なワインとつまみを買ってきてもっぱらここで過ごした。

同時にその窓から撮影もするのでこれは  とにかく理想的な環境であった。東京で理想的な環境のBARと言えば家の近くになったギャラリーノットイコールギャラリーの佐藤さんがやっていた画廊の事務所が非常に良かった。その事務所の窓から夕方の亀島川などを見ていると何かベニスはキャナルグランデの1本裏側の小さな運河の建物の2階で酒を飲んでいるような気がしたものだった。
その画廊男の佐藤さんもいなくなって、もう何年になるか。

2015年4月15日 (水)

スミスはなぜニッコール2,5センチに2.1センチのファインダーなのか

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ユージンスミスが日立を取材しているときの写真が残っている。

大変な数のカメラを首から下げている。モータードライブ付きのカメラは当時はまだ試作品であったからスミスはそういう新時代に敏感であったことがわかる。

一眼とレンジファインダーを使い分けているようだが1番短いレンズを見るにそれはニッコール2.5センチをニコンエス2についているのである。

さらに詳しく観察するとそこについているファインダーは専ではなくてビオゴンの2ミリ用のファインダーがついている。これが私には非常に面白かった。私も経験があるが私のような裸眼の人間でもオリジナル2.5センチのファインダーはみにくい。それでスミスは手持ちのfinderの中からつアイスのファインダーを使ったと見える。スミスの場合は眼鏡をかけているからアイポイントの長いのが必要なのでその要求と言うのはさらに的確だと思う。

ところがこのファインダーは館横の比率がちょっと変なのである。ライカのサイズよりも横がちょっと短いのだ。それがどうも変であった。しかしスミスが実際に使っている見て2.5センチのレンズだからfinderの視野の長い辺のほうを基準で見ていればそれほど問題にはならないのかもしれない。

2015年4月14日 (火)

引き伸ばしレンズに凝る

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カメラの初心者はたいていライカのレンズに凝って100万円と言うような大金を投じてそれを自慢にする。
その段階が既に過ぎてしまったようでこれからは引伸しレンズに恋というのも非常に面白い方向なのではないかと思う。カナダ製のレアな日野橋レンズのことをFacebookに書いたらいきなり100近い反応があった。これはちょっと異常な状況である。家の近くの入船のレンタル暗室ヒットオンに初めて行った時に準備をしてくれた林さんが用意をしてくれたのがこのレンズである。

それはカナダライツの非常にレアな引伸しレンズエルカンであった。話には聞いていたが見るのは初めてだった。私がずっと使っていたのはドイツ製のフォコマートについていたフォコターであったからだ。レンズのバレルがフォコターと同じであるがレンズ本体の反射を見るとレンズそのものはやや大きい様なのである。
レンズ構成はわからないがおそらく4枚位のレンズだろうと思われる。
その結果は満足できるものであった。もともとコンデンサーに圧着して画面の中心から周辺まで均一な画像がえられるのはライツのフォコマートの特徴なのであるだから私がこのレンズを評価するというのはその意味を言っているのではない。

長年フォコマートのフォコターを使った経験からすればエルカンのコントラストはそれよりも0.5ほど高いようである。コントラストの高いというのは実はネガティブなのだ。それが私のネガの場合、今プリントしていているのは45年前のウイーンの作品であるもともとネガの濃度が非常に高くてコントラストも高いのである。

その理由というのが非常に酷なことであって当時お金がなかったので印画紙用の現像液は買えたがフイルム用の現像液は買えなかった。
それで印画紙用を稀釈し25度という高温で5分間とすると言う変なテクニックを自己流でやってきたのである。

ウイーン7年半のネガはほぼ例外なくそのテクニックとも言えないテクニックでつくられたから、コントラストも一般のネガに比べて非常に高い。だからレアなエルカンレンズを使う機会を得たのに実際にその性能が十分に発揮されていなかったということもある。それは残念なことではあった。

2015年4月13日 (月)

アシュケナージ ロバートフランクプリントの謎

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ギャラリーハウスのロバートフランク元村展のトークショーに行ってきた。倉石教授のフランク研究の内容も非常に興味深かった。

倉石さんも言ってるがフランクの仕事の興味の最大のポイントは、(自分にはコンセットがないと)いうことである。編集の仕事だと全部がコンセプトでスタッフ全員がコンセプトに踊らされることになるのでこれは非常にまずい。

写真家としていちどでも仕事をした人間ならこのコンセプトの病と言うのはよくわかっている。
その点フランクは幸せな写真家である。

トークショーの前に行って許可をもらって写真を 、複写させてもらったのがこれである。フレームが斜めになっている1955年に撮影されたデトロイトの自動車工場のビジターの写真である。なぜフレームが斜めなのかわからないが、 それが不思議な効果をあげている。 それでフランクの書き込みも文字列が斜めになっているのである。
ニューヨーク近代美術館コレクション でフランクの膨大な写真を見た時もこのようなプリントのやり方というのは  見ていないからこれは非常に珍しいプリントのやり方だと思う。

非常に勉強になった。  倉石さんも指摘していたがフランクは元はスイス国籍であった。母上の関係でスイス国籍になったのである。フランクの父上 はナチスの時代にドイツのパスポートを抹消されて無国籍になっていたからだ。

ここら辺のあの時代のユダヤ人、アシュケナージの苦労と言うのは我々が想像できるところではない。
時代はもっと遡るが私が7年半暮らした ウイーンの一番有名なアシュケナージはシグムントフロイトであった。彼は最終的に1939年にロンドンに亡命してそこでなくなっている。もう1人ベルリンのアシュケナージ、ワルターベンヤミンはナチスドイツから逃れようとしてフランススペインの国境で客死している。

そのような暗黒の時代であったことを我々はすでに忘れ去っているのである。

チェコの有名な写真キュレーターのアンナファロバ女史は数年前に80代でなくなった。彼女にも同じ背景があった。ファロバさんは後に有名になったヨセフクーデルカの仕事の紹介などで活躍したが。彼女は社会主義国家のチェコで頻繁に西に旅行できる数少ない人物の1人だった。

私はそれが彼女のジャーナリストとしての強さと勘違いしていたのである。

とんでもない話だ。

彼女はフランスのパスポートを持っていたからなのだ。なぜならば再婚した彼女の父親はフランスの外務省 の人であった。それでフランスのパスポートを手にしていただけた。

個人の芸術に関する意思とか熱意などは実は夢に等しいものである。それよりも旅券が重要なのだ。その意味でフランクがスイス国籍を取得したという事はこれは両親の偉大な作戦であったのかもしれない。それで我々はフランクの名作に触れることができるのだ。

2015年4月12日 (日)

理想的 ルーペ

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ご近所の理想的なダークルーム、ヒットオンでギャラリーバウハウスの個展のためのプリントにかかりきりである。

ネガを選ぶにはこのレンズを使っている。これはカールツアイスイエナのテッサー50ミリである。40数年前から家にあるレンズであるが、もともとはコンタックスSについていたのだと思う。

私は50ミリはライカのレンズよりもツアイスのレンズが好きである。明るさはF2.8で充分である。このプラクチカマウントのレンズはアダプターを付けてアルパに使ったりコンタックRTSに使ったりオリジナルのマウントのペンタックスに使ったりした。

唯一使えないのはレクタフレックスなのである。マウントアダプターはあるのだがレンズの後部がレクタフレックスの内部と接触して使えない。

このテッサーで中央公論の巻頭グラビアを撮ったりした。思い出深いレンズだ。それが今また自分のウイーん時代のネガをセレクトするために使われているというのは非常に面白い。

レンタルダークルームヒットオンの幻のレンズエルカンがフォコマートについていることだ。
このテッサーだって引き伸ばしレンズとしては優秀であると思う。
M42かライカに変換するアダプターがあるからこれでウイーンの40数年前をプリントしてみるのもまた一興であろう。

2015年4月11日 (土)

ヒットオンで仕事する

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ギャラリーバウハウスの6月から始まる個展のためにプリントを開始した。

私はめったにプリントをしない。30年前にプリントした膨大なストックがあってそれを個展で売っていたのだがその数がそこをついてきたので重い腰を上げてプリントを始めたのだ。

場所は家のすぐそばにあるヒットオンである。これはかなり使いやすいプロラボである。
30年前にパリで感心したのはモンパルナスのピクトである。これはブレッソンのプリントを引き受けていてていたピエールガスマンのラボだ。
そこでアジエのネガを見せられたりして非常に勉強になったのである。

我々素人はまずdarkroomは面倒である。それは薬品ををセットしたり室温ちゃんとしたりするのがまず面倒なのである。

若い頃でも面倒であったから還暦を過ぎるとさらに面倒になる。このプロラボは最初からそれを全部セットしてくれているので実にありがたい。そればかりか後処理と乾燥とフラット二ングをやってくれるのでさらにありがたい。それで非常に使いやすいdarkroomで40年前のウイーンの光に再会して感激しているのである。

2015年4月10日 (金)

十メーターライカ

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レアなライカは沢山あるがたくさんあるがそのうちの最右翼はこの10メーターライカであろう。通称ライカ250と呼ばれているが戦前カタログに登場に登場したときには10メーターライカと呼ばれた。つまり装填するフィルムの長さを意味しているのである。カメラコレクタにしてみると必ず1台はウインドウに飾っておきたいのはこのカメラである。

しかし値段が高価であるからなかなか誰でもが持てると言うわけでもない。私はウィンドウに飾っておくのではなく、実際に使ってみようと思って手に入れた。というのはそれ以前にはニコンFに250枚撮りのモータードライブをつけて実際に撮影したことがある。

若い頃はそういう目立ちたがりをしたがるものだ。それで1,970年代のウイーンでの展覧会にはわざわざそのカメラを構えているショットをカタログに使ったりもした。十メーターライカを手に入れて実際に問題が起きたのはそれを現像するためのリールがないことである。

それで普通の現像タンクで現像したものであるからフイルム1本分の長さで切ってしまうわけだ。つまり7本のフィルムを装填しているカメラなのに実際にはそれを切断して現像しているのだから大量のフイルム装填するという意味はほとんどない。これは気分の問題なのであろうがその画面と画面の間にあるハサミで切ってしまった画像が非常に良いような気がして残念であった。それで最近ではもっぱら家に飾りとして置いてあるだけで使うことにはならない。というのもデジタルカメラは異常ににたくさんの写真が撮れるので普通のメモリを入れても1,000枚上はゆうにとれるのである。つまらない時代になったのである。

2015年4月 9日 (木)

1970年代のNIKON SP

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1,970年代のWienの写真で写真展をやるので二千本ほどネガをセレクトしている。全く嫌になる仕事である。暗室にしてもそうだが初心者の人は楽しくてしょうがないと言う。何で楽しいことがあるものか。 ネガ選びもこれは1種の煉獄と言うにふさわしい。生きている限りやらなければならない仕事というのはなんでもそうだが決して楽なものでは無い。 ーーーーーーーーういーんのねがえらびまだやってる こんきあるにゃあ しかしさつえいしいたのはにじゅうだい これをろくじゅうだいこうはんに えらぶのがひろうのもと ーーーーーーーーーーーーーー これは顔本への書き込みだ。 そういう山のようなネガをセレクトていると時々楽しい写真も出てくる。これは1,970年代半ばの私のアパートのアトリエのテーブルの上である。NikonSPが置かれている。その脇には万年筆があってペリカンのインキも置かれている。 何か今風の文房具のムックのような感じであるがこれは別に格好つけたわけではない。言うもおろかであるが当時はインターネット等ないから薄いペーパーにインキで手紙を書いて世界に送るのが最も早いそして確実な通信の方法であった。 それでも欧州から船便で日本に行くのではないからまだ早くなった方である。澁澤龍彦と堀内誠一であったか70年代にヨーロッパと日本を行ったり来たりした書簡集があって、それはそのままファクシミリになっているのであるがこれは見ていてなかなか面白い。 単なるEメールのやりとりではその趣というのが全くないのである。そしてニコンSPのchromeとカスタムメイドのブラックの二台のカメラを持って街をさまよっていた時代を想いだした。私はまだ20代後半であったはずだ。

2015年4月 8日 (水)

ライカが戦闘的になること

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ライカM型の中で個性的なのはライカエム5である。それまでのライカとは全く異なったスタイルをしている。
実はライカM4が開発された時にそれはライカM5と同じスタイルのカメラになる予定であった。そのプロトタイプと言うのがライツ社に残っている。

しかしコストとか時期尚早と言う理由であったのだろうか、実践に登場したライカM4というのはライカM2を大幅に改良したようなモデルであった。

ライカM5を私に教えてくれたのは北井一夫さんである。ドイツを取材中にいろいろ手伝ったのだがその時北井さんはM5でメインに仕事をしていた。東欧の暗い冬での撮影ばかりであったのでこの方がブレないと北井さんは言っていた。

しかし当時はなかなか高価で手に入れることができなくてライカM6が出てて値段が崩れたのでようやく私でも使えるようになった。

この写真は昨年の1月のリスボンでの戦闘態勢にあるライカM5である。ホロゴンの15ミリが付いていて栗羊羹のシールとか地元リスボンのトマトのシールがついている。要するに移動祝祭日という感じで街がお祭りなわけである。M5はフロントの面積があるのでこうやっていろいろと遊びができるのが楽しい。

2015年4月 7日 (火)

LESの散歩

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35年前マンハッタンにいた時はSOHOに住んでいたのでLESとは東西の高さはほぼ同じなのである。

それでSOHOからどんどん東に歩いていくとだんだん治安が悪い感じがしてきてアベニューABCDあたりまで行くとその極みになった。
今では様子はすっかり変わってしまってSOHOから東にどんどん歩いていくと空が広がってきてなんとなく穏やかな感じになってくるのは時代の変貌というやつだ。

その代価としてニューヨークはワールドトレードセンタービルを失ったわけである。治安と言う事から考えれば簡単なことで30数年前の方が今よりはるかに治安が良かったと言う見方も可能である。

春のLESは天気が悪くて歩いているだけで全く気分が滅入るものであるがこういう春の1日で快晴のような天気には実に楽しくなる。

このときは11本のモノクロフィルムを持参した。それでシリーズのタイトルを「マンハッタンイレブン」と命名したのである。これは全く思いつきのタイトルであるがなかなかかっこよくて使えそうだ。それでその勢いで「パリ35」とか「リスボン36」とか名付けて遊んでいる。

カメラはライカM3であってそれに35ミリのレンズをつけるか21ミリのレンズをつける。選択肢はその2つしかない。
これは21ミリの短いほうのレンズで撮影したものである。その時のネガはとにかく11しかないのだから場所を取ることもなくてテーブルのいつもわかる場所に置いてある。それでマンハッタンのことを思い出すとやはりローワーイーストサイドのことを思い出し、イーストサイドなると晴れた日の午前11時を思い出すのである。撮影は4時間ほどするのであるがファーストアベニューにヒマラヤンカフェという小さなレストランがあって、これはマンハッタンの怪人ちょーせいさんに教えてもらった。毎日そこでカレーを食べていた。毎日食べに行くとお店の人とも話をするようになる。月曜日に行ったらお店はお休みであった。

2015年4月 6日 (月)

クラシックニッコール

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これは非常に古いアサヒカメラの雑誌広告である。感心するのはそのグラフィックなデザインが優秀であるということだ。それはバウハウス的なデザインの流れを汲んでいるのであって、当時はおそらくそういうデザインを真似したのであろうがそれが何十年も経過しているとなかなか存在感ある。

日本カメラに1年間お休みをいただいてきた後に新連載を開始するのであるがその第一回目は思い切ってライカのdigital cameraにクラシックなニッコールをつけてみた。それは大井森前町時代の2.8センチのニッコールレンズなのである。
確かメイドインオキュパイドジャパンから普通の日本製に変わった直後のレンズだと思う。当時の2.8センチは世界で最も明るい広角レンズであった。何しろツアイスの2.8センチはテッサーでその明るさがF8である。ライカの広角レンズはヘクトールで明るさはf6.3であったのだ。

このレンズの良さにびっくりしたのは20年位前にカメラジャーナル言う雑誌をやっていた時だ。作例をとるので試しに使ってみたら恐ろしくシャープなのである。私の周囲でもこのレンズを評価する人が多い。そういえばウィリアムクラインが昭和33年に初めて来日した時にもNikonS3にこのレンズを使っていた。

2015年4月 5日 (日)

今日は復活祭

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極東に戻ってきて何十年にもなるが毎年この季節になると思い出すことがある。

それはこの国では復活祭を祝わわないということだ。やよよろずの神がおられる極東であるから一木一草に神仏が宿るのはわかるが、商業関係でもほとんど復活祭が祝わわれる事は無い。

ウイーンの八ねんそしてプラハの四半世紀、まだ寒い季節から店のウィンドウに綺麗な卵が並んだり復活祭のウサギの飾りが並んだりしてそれが寒い冬をやり過ごすための必須の魔法の使い方になっていた。

とりあえず復活祭まで寒さをやりすごせば後はなんとかなると言う非常に楽観的な人々の暮らしがそこにあった。たび重なる戦乱を越えてきた人々であるからそのくらいのゆとりがあって当然なのである。

日本の不思議なのはあちらではほとんど問題にならないようなバレンタインが大賑わいとか、万聖節でコウモリとかぼちゃだけがスーパースターというのは商業のバックグランドがあって商売になるからであるが、復活祭はその意味商売にならないらしい。

もっとも実際のヨーロッパの復活祭は休みが取れるから旅行シーズンである。ところが皮肉なのはほとんど例外なくこの季節には天候は大荒れなのである。私の場合は別に復活祭の時に旅をしようと思ったわけではないが、たまたま復活祭の休日にかかる時期をリスボンに行ったりパリに行ったりして雨風が激しくとんでもない目にあった。

つまりそこで異教徒の私のような者でもキリスト教徒としての忍耐と信仰の度合いを試されているわけだ。

2015年4月 4日 (土)

このレンズがかっこいい

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戦後の交換レンズでレンジファインダーから初期の一眼レフに移行した当時の交換レンズというのは非常に興味がある。

要するにそれまで使われていたレンジファインダ用のレンズがそのまま一眼用になっているわけだ。有名なものにニッコール10.5cmf4がある。これは最初からニコンFマウントになっているが,それ以前に作られたニッコール13.5センチのレンズはニコンSのレンズヘッドをはずしてそのままフォーカシングマウントに付け替えられるようになっている。

このレンズはやはりごく初期のキヤノンのレンジファインダーレンズ100ミリのレンズベッドをそのまま当時の一眼レフキヤノンに変換して販売したものだ。その数は私の今までの体験ではニッコール10.5センチのニコンFマウントよりも少ないかもしれない。

行きつけの四谷荒木町の我楽多屋さんに行ったらこれが誰かが置き忘れたかのように台の上に乗っていたので早速求めた。

小さくて非常に使いやすい。中平卓馬さんはもっぱら100ミリのレンズをキャノン一眼に付けて使っていた。中平さんのレンズは明るいレンズであったがこちらは取り回しの良い3.5である。このレンズを持って東京の街を全部縦位置で撮影したら、中平卓馬流の写真が撮れるに違いない。

2015年4月 3日 (金)

信州からのおくりもの

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東京と長野を行ったり来たりしている古い友人がいる。
昔のカメラ研究会とか今の我楽多屋さんのシドニーの常連さんである。

この人がなぜか季節ごとに信州の品を送ってくれるのである。それは量が少ないというので逆に日常の生活の消費の楽しみになっている。

こういう品物の到来と言うのは一体どういうことかと考えてみた。正岡子規の墨汁一滴だと思うが彼は病床にあったから友人知人が遠くから近くからいろいろな食品を送ってくれる。

そのことを彼は病床の日記に書いているのである。日記に書いているから100年以上経過した我々はその物品の到来を知るわけである。

当時は運送手段がまだ未熟だったから加工品とか干物
とかそういうものが多かったのであろう。その中に珍しいものとしてアメリカのリンゴというのがあった。今なら外国の果物は普通であるが当時は実に珍しいものであったに違いない。

辻潤は奇想天外なことをしてパリに留学したり、天狗になって空を飛んだりしたがこの人が偉いのは最後には終戦になって新宿の落合で餓死したのであった。今の言葉で言えば即身成仏である。その末期の辻潤の愛人に宛てた手紙とかはがきの中で小豆を送ってくれとか生卵を送ってくれと言うリクエストがある。これは危機迫る感じがあってサドの獄中で書かれた手紙に通じるところがある。

最後の最後に「卵腐っても良いから送ってください」と書き残してしている。
現代の我々はそのてん幸せものであろう。

2015年4月 2日 (木)

ウイーンのファサード

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        これは私の写真集の70年代のショットからの3枚の作品である。

今のウイーンは非常にきれいになったが、残念なのはこのようなもともと新しかった広告年代を経て古びているというようなものはなくなった点にある。

最近は作り方が上手だから最初から、いかにも古びたように作ってあるのだ。ちょうどライカの作った店のてずれのあるデジタルライカエムモデルのようなものである。趣きなどない。

真ん中の飲み屋は今でもそこにあるがよく行ったお店である。→のは街の中心部にある古いピアノを扱う店であるが貧乏留学生であった家人は7年半の間そこからピアノを借りていた。

それは非常に古いピアノであって左右に燭台がついていたのである。もちろん電気の時代である燭台の跡であって実際に使えるようにはなっていなかった。アマデウス時代だな。

左の自転車の看板も非常に古びていていい味が出ている。
歳をとるということは結局は古い看板趣味にますます磨きがかかって、複製されたいかにも古い物を見破る目の力を持ってそれを自慢にしたがるなるようなところがある。
歳は取りたくないものである。

2015年4月 1日 (水)

お知らせ

新年度のスタートです。チョートクカメラ塾は読者増大なう。カメラと写真の重いテーマを軽い調子でわかりやすく伝授。詳しくは左をクリック。
日本カメラの新連載も五月号からスタート。
こちらもご贔屓に。
ギャラリーバウハウスとアイランドギャラリーの個展もあり。
「佃日記2001」は大隅書店から刊行。
「写真大学」をえい出版から刊行。
大阪芸大写真学科客員教授も拝命。
いそがしい新年度です。
'mmmmmmm配信なう チョートクカメラ塾第三十七時限
  ズームレンズか、、プライムレンズか? その2^_^^_^^_^^_^^_^^_^


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1973 ウイーンアカデミー

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これも1973年に撮影。こういう古写真は非常に面白い。 写っているのはまだ20代の家人と30代のピアノ奏者ワルタームーア氏である。

ムーアさんはフルブライトの奨学生としてBerkeleyカリフォルニアからオーストリアに来た。 その経歴も今の時点で見るとクラシックで良い。

家人のほうは留学生としてウイーンのアカデミーに行ったが当時は日本は後進国扱いされているので学費は免除されたというのも今昔の感がある。 非常に立派なピアノ室で練習をしているように見えるがこれはアカデミーの中では最低クラスの部屋なのである。

場所はメッテルニヒの旧宅だ。ウイーンの中心部にある。そこをアカデミーがそのまま音楽学校にしているわけだ。主任教授はメッテルニヒが使っていたバスルームといっても非常に広く、天井が高いnのを使っていた。だから部屋の隅にはメッテルニヒが使っていたバスタブの上にフタがしてあってそのまま保管されていたので。学生はお風呂場と呼んでいた。

ムーアさんはまだ新米であるから地位はコルペテイだった。仕事は伴奏合わせの下準備をすると言うな下積みの仕事である。これを誰が考えたのかウイーン国立オペラに行った日本人が副指揮者と名づけたのである。日本のサポーターに連絡するので使い走りでは具合が悪い。

ちょうど撮影の下地の仕事を日本では助監督と言うのと非常に似ている。まぁこれも若い向上志向のプライドが生んだトリッキーな名前なのかもしれない。

ライカM3 ズミクロン35

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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