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2015年3月31日 (火)

路上のウイーン

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これは1,973年頃のウイーンでのスナップである。ウイーンでの7年半の仕事というのは単に毎日カメラを持って旧市街のカフェからもう一つのカフェに移動をするということにあった。 カフェではコーヒーは飲まずに8分の1リッターの赤ワインを飲んだ。この習慣はいまだに続いている。4分の1リッターよりも8分の1リッターの方が飲み方をうまくするとうまく酔えるのである。 そしてカフェからカフェに移動する間にスナップをするわけだ。 当時は20歳代なので自意識が過剰すぎて、特に東洋人の自分は周囲から非常に珍しいがられた。 それでもっぱらノーfinderで知らんふりをして撮影するというテクニックが自然に編み出されたのである。70年代に東洋人がヨーロッパでいかに珍しくて撮影者本人がそのことが気になったかということは川田喜久治さんも以前おっしゃっていた。今は国際化でそんなことは全くない亜細亜人はごく普通の人種なのである。 このショットはウイーンの中心街の環状道路リング通りで撮影したものだ。見ているとダックスフンドも一人前のキャラクターを持って堂々と歩いている。その理由はこのリング通りは19世紀末には社交界のメインストリートであったからだ。カメラはコンタックス28ミリのソ連製、レンズたと思う。

2015年3月30日 (月)

5番街の田中長億

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六番街のスミスというのを昨日書いたのでこれはそれのパロディーで5番街の私という意味である。

2011年の東日本大震災のニュースはマンハッタンに到着した私にも非常にショックだった。別に何事もできないのでその心配な気持ちをそのまま5番街に持ち出してライM3にトライXを装填して金曜日の午前中の曇り日のマンハッタンを往復して撮影をしたワンショットがこれなのである。

80年代に1年間暮らした土地勘があるのでまず5番街をずっと北に行ってセントラルパークサウスまで行った。そしてまた戻ってきた。
この写真でもわかるが世界に有名な五番街と言うのは実は凸凹であり殺風景なところである。その理由は大型のトラックがひっきりなしに行ったり来たりしてることにもあるのかもしれない。
中心部の1部の観光客の歩いている場所をのぞけばけば工場街みたいな感じなのだ。

まぁそういう風景が私のマンハッタン島であって、それが好きということになる。大手百貨店の春のパレードというのは5番街の名物だがその時期だって天候が不順でほとんど良い事は無い。

ロバートフランクが撮影した有名な5番街の春のパレードなども憂鬱な都会の風景である。まだ外国人としてアメリカに溶け込んでいないフランクの気持ちを象徴していて好きな作品である。

やはり五番街は悪天候で曇りが良い。名作アルフレッドスティグリッツの五番街で撮影された鉄道馬車の名作は確か雪の朝だった。

2015年3月29日 (日)

六番街のユージン スミス

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森永純が撮影したユージンスミスの日撮影中のポートレートだが、それはポーズしたものらしいのだけれど、6台のニコンを首から下げてしばし休息をとっていると言う写真がある。

彼は実際にたくさんのカメラを下げて撮影していたようである。ここにあるのはネット上で発見してきたまだ若いスミスのポートレートである。

おそらく30代半ばでライフと大判カメラを使うように指示されてそれで喧嘩して仕事をしなくなった前後では無いかと思われる。初期型のライカM3をスミスは手にしているが、そのネックストラップの指さばきと言うのだそれが非常に粋な感じがする。

当時のスミスはマンハッタンはミッドタウンの6番街のそれほど高層階ではない場所を仕事場にしていて、そのウィンドウのブラインドの間から望遠レンズを路上に向けて通行人をスナップショットしていた。これはなかなかいい仕事あった。

でも本来のスミスの仕事というのはやはりこのように6番街の路上に降りてきて撮影をするということなのだ。
面白いのはこの画像の下に日本語の撮影データのキャプションがついている事だったそれはさっき気が付いたのである。それによるとこのショット撮影したカメラはニコンSであり、ニッコール5センチの1.4がついている。フィルムはコダックのスーパーXなのである。

ライカM3が出た当時やはりニコンSはクラシックな感じのカメラに思える。しかし実際にロバートキャパはそれで仕事をしていたし、木村伊兵衛三木淳もSで仕事をしていたのだ。

2015年3月28日 (土)

スーツケースの中が醤油でびちゃびちゃになる

スーツケースの中が醤油でびちゃびちゃになる

歳をとっていろいろ気をつけなければならないことがあるがまず1番怖いのは転倒である。

以前は年に何回か路上で転倒するのでその多くは小石を踏んで倒れたりするのである。それでその小石を拾ってマジックで転倒した日にちと時間を書いておく。

これは結構なコレクションになる。最近は歩行には注意しているのでこの一年間転倒はない。

もともと人と違ってかなり歩くのでその事故率は自然と高くなるわけである。

一方で老人ボケがとんでもないところに発生することがある。札幌滞在中にうまい刺身を食べていた。その刺には小瓶の昆布醤油を使っていた。東京に戻るときに荷物に何気に醤油の瓶をスーツケースに入れてしまった。

東京に戻ってきたらその醤油が全部漏れてスーツケースの中の白いシャツがビシャビシャの醤油漬けになっていた。これは当たり前の話であってその昆布醤油のボトルには何のキャップをついていないのである。年寄りの勘違いでキャップが付いていたと思っていたのは他の焼酎のボトルの方だった。

こういう勘違いは歳をとると起こりやすいようである。赤瀬川さんの老人力が遺憾なく発揮されているわけだ。

それで思い出したのはウイーンの博物館で見たマリアテレジアがこぼしたコーヒーの跡であった。これは女帝が戦争の報告書を見ている時に持っていたコーヒーカップをハッタと落としてしてその報告書の上に大きなコーヒーのシミがついたのである。
これには感動した。
マリアテレジアというといつも広場の真ん中に座っている太ったおばさんの銅像と言うしか認識はないのでである。それが実際に生きた人間でびっくりしてコーヒーをテーブルの上にこぼして書類にシミを付ける等はなかなかリアルなことだと思った。

それで私はそれ以来マリアテレジアが好きになった。Image

 

2015年3月27日 (金)

プラハ 路面電車のショット

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プラハの路面電車がなぜ面白いのかを考えてきた。プラハには四半世紀住んだわけたが、どうもこの十年はプラハと言うと私はいつも路面電車に乗って窓から街路をとっていたということになるらしい。

プラハの電車は社会主義の頃のクラシックモデルからシュコダ製の走ってる音のほとんどとはしない危険なモデルまでいろいろあるのだけれども、いずれも速度がかなり出るから撮影機材としてはなかなか上等なものだと思う。

カメラにモノクロームフィルムを詰めてたいていは電車の1番後ろに私は乗っている。電車の前よりも電車の後の方が撮影のスナップが面白いのは何かの時間軸が逆さまになっているように感じるからである。

これもその1枚で旧市内で撮影したものだが、線路の上を駆け抜ける少年の姿が何か非常に危険な感じをはらんでいるのはもちろんトリックなのである。別に少年が電車の直前を駆け抜けるわけではなくて電車が走り去った後の線路の上を走っているわけだ。

もっとも撮影してる時にはそういうことは全く考えないから結局後で撮影したネガをセレクトしてそこで不思議な光景を発見するということになる。だからスナップショップは面白いというわけだ。

2015年3月26日 (木)

果物帳

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果物帳は正岡子規の晩年の闘病生活で描いた日本画の画帳であるが、それを正岡子規自身自身が語っているのを文字の上だけで見ていろいろ想像していたのが私の30年代だった。
この想像でいろいろ考えてしまうというのは逆に問題がある。要するに見ていないものをイメージを膨らまし過ぎてしまって結果としてとんでもない方向に行ってしまっていることだ。

だからやはりビジュアルなものはその本物を見ると言う必要性があるのだ。勉強不足で国立国会図書館の正岡子規の果物帳をデータでちゃんと見ることができると言うのを知ったはたかだか数年前のことなのである。

この本は確か重文になっていると思うのだがその中身の絵のほうはともかくとして表紙を見て私はびっくりした。

なんと学芸員が貼ったシールがその素晴らしい本の表紙をめちゃくちゃにしているのである。図書館の本の分類の常としてそういう管理と言うのは大昔から決まっているのかもしれないが何か非常に無残な感じがする。

それでこの画像データを見るとき最初の表紙のページはなるべく見ないようにしているのだが、とりあえずこういうものなのである。なにか悲しい。

2015年3月25日 (水)

時計台とサングラス

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札幌にあるクラシックカメラの今井コレクションを研究するために札幌に来ているのだが、来る途中で数年使っているサングラスがついに壊れた。

私はヨーロッパにいるときはサングラスは使わないが、日本の蛍光灯とハロゲンランプが嫌いなので大抵色眼鏡をかけている。

札幌駅前のビックカメラに10時前から並んでサングラスを買いに行った。そういう量販店の開店直前と言うのは初めて行ったので面白かった。たくさんの子供が運動会のスタートラインのように群がっている。これはゲームソフトが買いに行くのだろうか。

私はサングラスを買って嬉しいのでまだ寒さの厳しい札幌の街を南に歩いて時計台の前まで行った。

今井コレクションは時計台の向かいなのである。中国のツーリストさんがが地鶏棒で時計台の前で写真を撮影している。あたしもムラムラと時計台の前でセルフポートレートが撮りたくなった。ただしそういう専門の棒は持っていないので自分で腕を伸ばして撮影したのがこれである。
日本写真家協会に入会して50年近くなるのでそこは技術でカバーしたわけだ。

2015年3月24日 (火)

タリム盆地に雲ひとつ

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タリム盆地に雲ひとつ

本日札幌。

旅行するときはボーイングのトリプルセブンに乗ることがほとんどである。時代はジャンボから移行したのだ。

長距離を飛行するときは最前列に座ることにしているが、そこは非常口座席なのでドアがついているが窓がついていないので外を見ることができない。

それで例えば東京からエミレーツ航空でパリに行くような時は頻繁にギャレーでウイスキーをもらったりする。それを飲みながら窓から下を見るのは楽しみなものである。

これはヨーロッパからの戻りにドバイを出て東京に飛行中のタリム盆地の光景である。タリム盆地の大きさを知らないが飛行時間からすると千キロ以上の大きさがあるようである。しかも快晴であって雲は全くない。

そのタリム盆地力飛行中に唯一見た小さな9雲がこれなのである。

タリム盆地に雲ひとつ一つ
影ひとつ

これが大発見だったのは1つの雲は地上に必ず1つの影を伴っているということだ。こんな真実をわれわれは日を生活では忘れているのである。
カメラはiPhone。

2015年3月23日 (月)

リスボンのブリテイッシュバー

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リスボン。ブリティッシュバーの看板のガラス絵。

iPhoneをいじくっていると忘れたような昔の画像が出てくる。これは昨年の1月に行ったリスボンの画像である。ブリティッシュバーはリスボンで必ず行く定番の飲み屋である。

ただし日曜日が閉まっているのが残念だがカソリックの国のしきたりなのだから仕方がない。
ブリティッシュバーの飲み物食い物は別になんということはないが、ドアを押して中に入るときにこの客船のガラスの絵がある。それを見ながら中に入るというところが楽しみなのである。

いつも賑わっているがたまたまリスボンの詩人フェルナンドペソに似た親父がカウンターで立ち飲みをしているところなどを見ることができる。
黒い長いコートにソフト帽子で全く同じ服装である。これはフェルナンドペソアの特殊性というよりもリスボンの紳士が普通にしているスタイルなのである。

この店にはもう30数年通っているがその長い時間経過の中で1度だけこのガラスの看板が新しくなった。最初のガラス看板はほぼ真っ二つに割れていたのを修理して無理矢理はめていたのである。それで20年ほど前に新しい看板になったのだけれど、新しすぎて何か白々しい感じで様子が変であった。

それも10年20年という時間が経過するとなんとなくポルトガルの太陽と雨に打たれていい感じに古びてくるものだ。丁度ライカの古くなるのと同じようなものなのであろう。

2015年3月22日 (日)

バウハウスの写真展

本日移動日。HND  CTS. 今井コレクション

神田明神のとなりにあるギャラリーバウハウスで6月から8月にかけて個展を開催することになった。
材料はたくさんあるのだが、私のウイーン時代の初期のモノクロ作品を展示することにした。

それで柳行李の中にいっぱいのネガから無作為につかみ出して写真をセレクションしている。このテクニックは私独特のものかもしれない。

と言うのはそこには最初から向上心とか傑作を選ぼうと言う邪な意思がないからである。
無作為に20束ぐらいのネガつかみ出してその中から気まぐれに写真をセレクトする。

2,000本ほどあるのでなかなか大変な作業である。これがそのサンプルである。ライカで6枚撮ったうちの4枚がこれである。こうしてみるとその打率が意外と高いものであるのかもしれない。 

10年ほど前に出した500ページ写真集ウイーンモノクロームseventiesも実は全く同じテクニックで写真をセレクトした。

いやテクニックと言うことですらない。これは単なる無作為な抽選、アトランダムな選出なのである。

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キエフ ライカ

2015年3月21日 (土)

モノクロライカで撮る 2

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ライカモノクロームで街を歩く。 現在帯状疱疹を患っていて左手の自由がきかない。皆様がお見舞いしてくれて大丈夫ですかと心配してくださるのはまことにありがたい。 しかし日常生活は不便だが撮影とか講演会とか原稿書きには全く問題は無いのである。

つまりそういう事は日常生活とは違ってちょっと日常から浮遊したところにあるようである。 ライカモノクロームを某カンパニーから拝借して東京の街をどこまでも歩いた。

長距離を歩くと体に悪いのではないかと心配される向きがあるが私の場合は歩いて痛みを忘れる方が効用がある。 前回に書いたがライカモノクロームを持って歩行していてカラーのモチーフを発見して残念がると言うのは実は邪道な方法なのである。 神経をモノクロームに切り替えることこそが大切なのだ。

唯一のこのカメラのプラスのポイントは現像に出す時間が節約できるということであろう。本体は100万円位するようであるが年間1,000本ぐらいモノクロフィルムを撮影するのだったら収支としてはむしろこちらの方が得になるという計算であろう。

それだけセバスチャンサルガド レベルの写真家が使うのであるからコストパフォーマンスとしてはむしろこんなところが妥当なのかもしれない。 こういう建物のはがれているタピエス風景などはまさに格好なモチーフだと思う。

レンズはニッコール2.8cm、デビットダグラスダンカンが愛したレンズ。

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2015年3月20日 (金)

ライカのスレ具合

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ライカM型のブラックchromeのカメラを40年ほど使うとこういう感じになる。ストラップアイレットの周辺の削り方は意外と少なくてまぁこの程度である。

だからライカ社が最近出したアーティストがデザインしたと言うダメージライカの剥げ方というのは現実離れしていてシュールレアリスムである。

ライカM4時代にはまだブラックペイントが普通でブラックchromeと言うのは 存在しなかった。しばらく経ってからブラックchromeが登場して当時は人気であった。ライカM5だけがブラックchromeであった。ブラックペイントに比べればブラックchromeの方が強いわけである。

リプリードランダーに最初にオーストリアで会った時彼が使っていたのはブラックchromeのライカM4-Pであった。その当時の私の目からすると何かあまりに新品すぎてかっこ悪いなと思ったのであるが大写真家と言うのは本来そんなライカの外見にこだわる種類の人間ではない。

ライカの外見にこだわるのは私とか突撃隊長とかの野々宮とかそういうライカ人類の下々なのである。
でもその事実を最初から理解しておけばライカが非常に楽しくなるのもまた事実である。

2015年3月19日 (木)

又吉さんの線香花火

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この人の小説の火花もいいがこの人のとった線香花火の写真が良かったと、笑っていいともでよく覚えている。 五年前のことだが7月7日の七夕の日に笑っていいともにあたしはゲスト出演した。

それは参加のタレントさんの持ってきた写真を私が審査委員長で選考すると言う遊びである。その中で又吉さんと言う髪の毛を真ん中から分けた全く笑わない男の人がいた。お笑いタレントと言うのだが全くそれらしくないのが妙であった。

それぞれのタレントさんの作品を見ていて1番良かったのが又吉さんの線香花火を撮った写真であった。線香花火と言うのは非常に写真に撮りにくいものであって私がコンテストの審査などやるとしたらまず最初に落とす種類の題材なのである。
それは家族団欒みたいな分かり切ったつまらない写真であるからだ。又吉さんの写真はそういうのではなくて存在としてとっているのが非常に個性的だった。

それでその写真をグランプリにしたのである。そのままそのことを忘れていて今朝テーブルの上を見たら家人そこの部分だけ折りたたんで私に見えるようにしてある。顔写真を見たら又吉さんであることがすぐわかった。
男は4年から5年経過するとその風貌が変わるものであるが、この人もその例に漏れない。何か哲学覚めた顔であった。

皮肉なのは25万部売れた小説のタイトルが火花で、私が最初にこの人に出会った時に感心したのは線香花火であったことだ。

2015年3月18日 (水)

ライカモノクロで撮る

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最近のライカ社は面白いことばかりやってくれる。 くまモンライカ大いにけっこう。昨年ライカモノクロームができたときはこれはすごいなと思った。 しかし考え直してみればフイルムライカにフイルムを詰めて撮影するのが36枚毎にフイルムを巻き戻したりしてなかなか面倒である。 それで試しに使ってみたら案外調子が良い。断っておくがライカひのまるやから借りるといろいろと褒めなければいけないのでこれは別のカンパニーから中立な立場で借りたのである。もっともパソコンの画面の上だけで見ているので実際のトーンはわからないが一見すると重厚なトーンに見える。 東京オリンピックの頃からずっとモノクロームで東京を撮っていたが、果たしてライカモノクロームで東京がうまく撮れるのかそれが気になってテストをしてみた。 混乱したのは今までのライカならカラーフイルムか、モノクロフィルム入れるかで最初から方針が決まるわけであるが、このライカはモノクロしか撮れないと言うことにある。これがライカモノクロームと言うカメラの運命なのだろう。時代は1925である。 東京の下町のあちこち歩いていて微妙にトーンの違うモチーフがあってそれはカラーに最適なのであるが持っているのはライカモノクロームなのでそれを撮ることができない。それでiPhoneで撮影。 これが現代の皮肉な状態というものである。 昔のカメラマンはフイルムは白黒でとっていてこれだけは絶対からで撮りたいと言う時のためにもう1台のカメラ持っていた。そういう使い方であった。 時代だけが我々が想像できない先に走り去っていく。 ライカモノクロームを発明した人はすごい頭脳の持ち主に違いない。それが今回よく理解できた。レンズはニッコール2.8センチライカマウント。ウィリアムクラインも使っていたレンズ。Image

2015年3月17日 (火)

全回転エルマー

全回転エルマー

ライカの標準レンズはエルマーである。コンタックスの標準レンズはテッサーである。

当時の標準レンズの明るさがF2.8とか3.5の場合にはその製造が比較的容易であったので価格も安かった。
それに対して明るさがf2により明るいレンズはコストがかかるので高級カメラの代名詞ともなった。

実際の腕には関係なく明るいレンズを付けている方が強いから尊敬されるような状況になったわけである。

ドイツを中心に活躍した有名女流フォトジャーナリストでライカ50ミリのf3.5のエルマーしか使わない写真家がいてその人の姿がなかなか格好が良かった。

標準レンズが暗いということ。これが何か正統的な写真家のスタイルに思えるのである。

このエルマーの50ミリはごく初期のものなのでヘリコイドは完全に1周回転するのである。ライカの1型の時代のエルマーレンズはそのようなヘリコイドであった。それをライツ社が改造して一般的な交換レンズにした場合でもヘリコイドは全部一回転するのである。これを全回転エルマーと呼んでいる。レンズの構成がクラシックなのでそういう昔のレンズはその時代の光を撮影するというのは当然の結果である。この個体は非常に貴重であって通常の当時のニッケル仕上げではなくてちょうど戦後に作られた赤エルマーと呼ばれるマットchromeの仕上げになっている。

オリジナルかそれともサードパーティーかは定かではないけど戦後のモダンな作りのライカ組むとなかなか見栄えがして格好の良いものである。

ただし距離は最短の1メートルで撮影するときにはぐるりと1回ヘリコイドを回転させなければならない。Image

 

2015年3月16日 (月)

銀座一丁目奥野ビル603号室

銀座一丁目奥野ビル603号室

銀座一丁目の日本デザインセンターに勤務していたのは1970年から3年間だけだが会社に行く途中に古いビルがあった。

それはテラコッタ作りか、あるいはスクラッチタイル作りなのであるが6階建ての戦前の建築物で70年代の東京の視点から見てもかなり古めかしく見えた。

よく観察とビルのあちこちから樹木が生えているのである。まさに空中庭園である。それから何十年か経過して私が銀座8丁目の中銀カプセルタワーを仕事場にしているときに何かの用事で銀座一丁目の奥野ビルに行ったことがある。

要するに銀座にある変わったビルを保存すると言うような小さな集まりであったようだが、それには興味がないのでこのビルへの訪問はただの1回きりであった。

それからまた時間が10数年経過して新人の写真家の山崎守が先週ここで初めての個展を開催した。それの最終日に慌てて展示を見に行ったのである。

603号室はもともと美容室か何かであったらしく当時のインテリアつまりすでに壁紙も離れ床も離剥離したごボロボロの建物なのであるが、その建物を細かく大型カメラで撮影した山崎はそのプリントをその現場に展示したのである。 

篠山紀信が三島由紀夫のテーマパークめいた西洋館を撮影したのは立派な写真集になっているが、山崎のアプローチはその逆であって古めかしい建物を撮影してそれを印刷物にしたのではなくその現場に展示したのである。

言い換えればおいなりさんの揚げの内側を撮影してそれをそのままそこに展示したような立体物の外側と内側に関するトリックがここにが存在するようだ。

赤瀬川原平さんが制作した世界を全部包み込む缶詰と同じセオリーなのである。それが面白かった。 Image_2

 

2015年3月15日 (日)

羅馬のライカ

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イタリアで考えられる工業生産国というのはやはりミラノである。
ローマ法王の居るローマに関しての一般的な印象というのはやはり真っ赤な大地に青い松、そして崩れかけた遺跡と言うイメージであろう。

ところがローマ真面目なカメラを作っていたのであった。1つは初期の一眼レフであるレクタフレックスであり、もう一つはこれも同じ時代のライカタイプ、カメラガンマであった。

ガンマは1947年に発表されてその年か翌年のトリノの見本市で話題になった。その当時の報道写真を見ていると今風な若い男女が最初のイタリア製のレンジファインダーをテストしている写真が残っていてなかなか良い感じであった。

実際にこのカメラは2,000台も作られなかったのでカメラメーカーとしては大失敗だった。しかもその存在がほとんど知られていないのでライカに感染した連中もここまでは手を出さないのである。

ガンマというカメラは金属製のフォーカルプレーンシャッターを備えているので本家のようにリボンが切れたり布幕に穴が開いたりするという心配がない。

そこら辺は非常に進んでいた。問題点はダブルマガジン方式なので巻き戻しの装置が最初から付いていないということにあった。だからダブルマガジンで撮影すれば問題ないのであるが、今ではそれは非常に面倒である。結局どういう撮影になるかと言うと一本のフィルムカセットを装填したらその日いちにちはその1本のフィルムだけで過ごすというやり方である。

これはこれでなかなか哲学的で良い。要するに思考を切り替えて36枚の8x10のフイルムを持参したと考えればいいわけだ。

ご覧のようにデザインはおそらくライカを超えていると思う。 

2015年3月14日 (土)

三月のマンハッタン2011

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自由の国アメリカに入国するときはいつもマンハッタンから入国する。

それで他の都市のイミグレがどうなっているか知らない。私はいつもマンハッタンなので、そのイミグレーションのエンターテイメント性を非常に楽しんでいる。

市内に行くのにリムジンを待っているとこれがまたエンターテイメント性が抜群である。係りの人が、はい次の方整理番号007殺しのライセンス、、とか言って私を笑わせるのだ。
これも歓迎のセレモニーの1つなのである。ぎゅうぎゅうづめの12人乗りの人間配送用のバンに乗ったらその過半数はイスラエルのテルアビブから来た若者連中である。

これも非常にニューヨークらしくて良い。この人間を荷物のように配送してくれる安上がりなトランスポートシステムは確か9ドルぐらいだったと思うがとにかくマンハッタンを北から南まで行ったり来たりするので時間が非常にかかる。

窓の外は本物の本当の夕暮れで小雨も降っているのでスナップショットには好適である。
それでローワイーストサイドあたりの町並みをゆっくり鑑賞した。

3時間近くかかってようやくホテルに着いて荷物を下ろし下のグロッサリーで熱いコーヒーを買い、半ダースのミラービールを手に入れて部屋に戻ってシャワーを浴び、ゆっくりして最初のビルの1口を飲んだら、極東に住んでいる野々宮からツイッターの第一報が入った。

地震だ!大きいぞ!というのである。

これが私の2011年3月11のマンハッタンにおける東日本大震災のドラマの幕開けであった。

真夜中は日本のニュースをずっと見ていて起きてコーヒーとドーナツみたいな極めてマンハッタンな朝食を慌ててとって、ライカM3を持って5番街を行ったり来たりするのである。

これが2週間続いた。こういう2週間というのは自分の生涯でもちょっと忘れられない体験であった。要するに私の思考と視神経は1万数千キロ離れた2つの空間を行ったり来たりしているわけだ。

エンパイアステートビルディングはその意味で私にとっては3月11日の象徴的な記憶になるわけだ。

2015年3月13日 (金)

ニッカ3Lというカメラ

ニッカと言うカメラは第二次大戦直後から発売された国産のライカコピーである。

その最終進化形がこの3Lというモデルだ。日大の写真学科の学生時代にこのカメラを高田の馬場の鈴木安兵衛商店で買った。ニッコーの5センチF2がついていた。当時はライカのM2は持っていたがM3は持っていなかった。

それでこのニッカを50ミリレンズを付けたスナップショット専用に使っていたのである。1970年に日本デザインセンターに入社して関東地方によくロケに行くことがあった。その時は車の前に座って例えば水戸街道等を走行して目的地に着くまでの光景を延々と標準レンズで撮影したのである。

当時森山大道さんがオンザroadというこれは東京の米軍基地の周辺をやはり車の中から撮影してカメラ毎日に掲載したことがあった。そんなことも背景にあったのだと思う。アラーキーも車の中から撮った膨大な写真を分厚い写真集にしている。

しかしそのルーツはやはりロバートフランクがマンハッタンの路上でバスの窓から撮った風景に行き着けると思う。

ニッカの最新型のモデルはその意味で私のノスタルジなのであるが、このカメラは両眼を開けたままで構図が取れるので非常に便利である。Image

 

2015年3月12日 (木)

ギャラリーバウハウスの元村フランク展

神田明神のすぐ脇にあるギャラリーバウハウスでロバートフランクの展覧会が開かれている。

これはフランクの写真集の出版で有名なさらにフランクのコレクションでも超有名な元村さんの所蔵するものを今回展示したのである。

1,970年代の初頭に元村さんと幡谷さんともう1人の日本人がマンハッタンはバワリーにあるフランクの住居を訪問した。
それはフランクの写真集を出版したいという元村さんがが持っている出版社の意向を伝えるためであった。

当時のブランクが写真のほうではもういい加減に人生に見切りをつけたという感じで映画の制作に没頭していたのである。そこに極東からサポーターが登場して、多分当時失意のフランクは勇気100倍であったに違いない。

その時にフランクにアドバンスとして支払った原稿料の1部が当時のお金の1,500ドルなのである。これは当時としても大金であった。お金の沙汰が全てとは言わないが、このお金がフランクを勇気づけたことには間違いがない。

皮肉な言い方だが元村さんは元は税務署のご出身で同時に行った幡谷さんは日銀のお仕事を以前なさっていたと聞く。経済の専門家である。
当時の70年代初頭の外貨為替管理が大変だった時代に何かスーパーコンビという感じがしたのを覚えている。

その時に持参したキャノンのダブルスーパー8のカメラでフランクがまだ若かったローリングストーンズを撮影したりしている。つまり極東からの3博士の来訪がフランクのその後の人生を徹底的に方向転換したわけだ。

今回のフランク展の凄いのは今まで見たこともなかったような新しいフランクの作品が展示されていることである。

実は元村さんが昨年お亡くなりになっていたという事実を私は知らなかった。何か関係者のお話によればそれは一般にはわざと訃報を秘めていたのだそうである。
それはそれで文化的態度であると思う。ギャラリーバウハウスで何度か企画されたロバートフランク展のレクチャーで私はいちどお話をさせていただいたことがある。

これは非常に有意義な私自身がフランクを理解するための思考の冒険だった。その次の会であったか元村さんご自身がフランクについて語ると言う企画があったのだけど、私はプラハに行っていて残念ながら参加することができなかった。

これがいまだに心残りである。ただし今回、今度の土曜日であるがフランクのレクチャーで森永純さんがお話をされる。

森永さんはユージンスミスのアシスタントであったがその関係で元村さんをロバートフランクに紹介したのだった。これは全く私の知らない人間関係で非常に興味深い。

森永さんには1976年の欧州巡回の現代日本写真家展、の30数名の日本人写真家の中で出展をお願いした。それ以来お目にかかってないから今度の土曜日のレクチャーでは森永さんには実に35年ぶりにお目にかかることになる。これも楽しみである。Image_2

 

2015年3月11日 (水)

大演習

205 206 偽ライカ愛好会の3月の撮影会を行った。今回のルートは我楽多や203高地から新宿の奥の細道を通って夏目漱石の旧居のあった公園までのかなり難易度の高いルートである。

新宿区の東方向は土地の高低差が大きくて実にに楽しめる。それで今回の撮影のテーマは偽パリの早春を歩くということで行った。

防衛省の通信用の鉄塔をエッフェル塔に見たてたり、せつ長澤のモードセミナーの急な石段をモンマルトルに見立てたりした。見立てはなかなか風景を楽しむための、と言うよりも退屈な風景を面白くするための手段である。

私などはパリのモンマルトルを歩いている時に逆に東京の新宿のこの辺を思い出したりするのである。それもまた楽しい。
ルートの途中に小さい公園があってそこで小休止した。
いつもは1人で歩いてるルートなので以前からいちどやってみたいと思っていたことがそこにある思想、つまりシーソーに乗るということである。
思想は1人では乗れない。それで体重が釣り合っている倶楽部のメンバーさんにお願いして遊んでいただいた。
後でその遊具を見たら6歳から12歳上なのでちょっと年齢が上であった。
このホーチミンルートが道を北にとるとどんどん狭くなっている。最終的には道がなくなるのであるそのなくなった道を無理矢理突破するとその先に夏目漱石の記念公園がある。今回は無事そこまで行き着けるかと心配していたがさすが土地勘のある私なのでこの獣道をうまく通過していっぱつで漱石公園の前に出た。
そこで小休止して日をまた南にとってあろうカメラの方向に向かったのであるがその途中が昭和40年代に大気汚染で全国トップクラスになった牛込柳町なのである。

その裏にあるお化けえのきの巨木を見に行った。幕末には東京、江戸の各地にお化けえのきがあってフェリーチェもその一つを撮影している。明治時代の東京の風景の中心となっていたのはこのお化けえのきなのである。

私の祖母の話では月夜の晩のお化けえのきの上に出ているもう一つの月はこれはタヌキが年を経たムジナの化けているものからそれ見るものでないと教えられたのである。

全コースを歩いて約1万3,000歩数というところであった。反省会はアローカメラの向かいにあるのんきという焼鳥屋であった。これはアローカメラの二代目さんなどと一緒に荒舟応援隊と言うのを結成しているそうだ。この青年団は荒木町と船町が合体した名前なのだそうである。Image

 

2015年3月10日 (火)

アルパの丸いケースについて

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スイス製の一眼アルパカメラに関しては10年間ぐらいアルパ研究会というのをやっていてかなり有名になった。
アルパも交換レンズを揃えている間は初心者であって上級者になるとケースを集めるようになる。

アルパは前期中期後期の3段階に分かれているが前期の皮ケースは特に個性的なものでは無い。また第3期の、つまりラストのケースも国産の安いカメラと同じような感じになっている。

それは国産の一眼がOEMでアルパを名乗っていたからである。そうなると中期のアルパが1番注目されることになる。これはアルネアというモデル用のスイス製のケースである。

何かその色の薄いのが当時のスイスの軍用の装備の皮ケースに似ているのが面白い。しかも全体のフォルムが丸いのである。こういう丸いケースと言うのは実はなかなか探す探してもなくて私の知る限りではイタリアローマのレクターフレックスというカメラのセットケースがやはり丸いのであるが、これは写真で見ただけで実物は見たことがない。

このアルパの丸いケースも確かオークションで買ったのだが結構な値段であった。レアだから高い価格がつくわけである。このケースにアルパカメラを入れた感じがなかなか良くて、何と言うのかアマチュアに戻ってこれから写真を一生懸命とろうと言うな気分にさせてくれる。ストラップは非常に長いのでもちろん肩から斜めにかけるのである。

ちょうど大昔のスイス国鉄の車掌のカバンがやはり皮のストラップが非常に長くて車掌の膝の下まで伸びていたのを思い出す。しかもその車掌カバンは真っ赤なのである。なぜ真っ赤でしかもストラップが長いのかこれはいまだにわからない。

2015年3月 9日 (月)

本物のそして最後のスパイカメラ

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ロボットというカメラは最初はドイツ空軍の空中戦でで使われたが、戦後の平和な時代になって東西スパイあるいは産業スパイの御用達のカメラとなった。

これはロボットの長い歴史の中で1番最後に作られたフイルムで撮影するカメラである。スパイカメラの最大の問題点は専門のスパイさんはフィルムの装填には慣れてないということである。

いくらスパイ活動が優秀でも本番で撮影できなくては何にもならない。NASAの船外活動でかつてツアイスのコンタレックスを使って宇宙遊泳をとろうとしてカメラが不調でうまく撮れなかったということもある。

本番が大事なわけだ。ロボットが作ったのは絶対に失敗しないという様式であって事前に装填されたフィルムカセットをそのままカメラ本体にはめるだけである。
このロボットのフィルム装填は結構難しいのだが。それはスパイを送り込む前に諜報機関の専門家が用意しておけば良いということになる。ほぼ正方形の画面が20枚ほどとれるがこれはフイルムを短く切ってマガジンに装填するつまりカメラのサイズを極力小さくしたいという方法なのである。

ここら辺が今のデジタルカメラのカードはサイズとは全く違いますね。

取り扱い説明書も付いている。説明書を読むと諜報活動には使わないでくださいとは書いてない。それもそのはずで最初からその目的にのために使われたカメラであるからだ。

この作例は日本郵船が世界に誇る巨大コンテナ船である。その撮影を依頼されたときに通信士官の部屋に潜入して撮影をしたのがこのショットだ。

これで私が日本郵船のコンテナ船で旅行しているときにどのような酒を飲んでいたかがよく思い出された。

これも立派な諜報活動である。思えば名古屋から乗船するときに1本のだるまを買っていったのだが3日でそれが足りなくて苦労したことがある。パナマ船籍のこの船はオフィサーがブルガリア人、セイラ〜フィリピン人であった。日本人は私を含め3人しか乗船しなかった。しかも仕事の船であるからアルコールは一切積んでいない。実に苦労した数日間のクルーズであった。

2015年3月 8日 (日)

アスカニア100cm f6.3

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アスカニアいうのはドイツはベルリンの有名な光学メーカーの名前である。

戦前にはかなり有名で日本から映画取材陣が言ってまずベルリンに行きこれは映画の撮影クルーなのである。そこでスペアに新しいアスカニア35ミリ映画撮影機を買おうとした。

しかしアスカニアの会社は各種のテストのために2週間は日にちがいるからすぐには売れないと断られたそうである。 当時の映画カメラのワンセットは大変な 値段であるからみすみすビジネスチャンスを逃したことになるがそこら辺がドイツの質実剛健というわけだ。

アスカニアの作った機材で有名なのはコリメーターがある。これは世界中の光学の会社工場で使われていた。 この巨大なレンズはアスカニアの代表的なミラーレンズで100センチ明るさが6.3である。

レンズに詳しい方がピンとくるかもしれないが、その通り。 ニッコールの非常にレアな100センチエフ6.3と同じものなのである。というよりニッコールレンズがアスカニアを元に制作したということになる。

このアスカニアレンズは私も1本持っている。もともとアメリカの情報関係の機関で使われているらしく、それが放出されたのであった。アメリカから買ったから業者さんがあと3本あるから一緒に買わないかないかと言われてお断りした。

こういうレンズは1本だけ持っていれば充分である。画面サイズは結構大きくで67もカバーできた。しかし日本の今の生活では100センチでとるようなものがないのでなかなか活躍できないのが残念である。

同じレンズつまり日本のアスカニアレンズを昨年札幌の今井コレクションでテスト撮影したことがあった。ミュージアムの中からなので最短撮影距離でも大通りの向方の木の枝ぐらいしか取れないのである。やはりこれはケープカナベラルのロケット発射場で使うのが最も正しい使い方なんだろう。

2015年3月 7日 (土)

だれでもタルコフスキーになれる

Imageタルコフスキー上は好きな映画監督である。

皮肉な言い方だが作品それ以上に映画を撮影中のタルコフスキーの撮影現場でのショットが好きである。

それは黒澤監督みたいな巨匠の素振りではなくて、常に何かと戦っている映画学生のような風に見えるからである。ドイツのニュージャーマンシネマの巨匠フォるかーカシュレンドルフと一緒に前に仕事をしたことがあった。

彼はまだ30代で監督の丘にエキストラとして戦争画面で最初に撃たれて死ぬ役などをしていた。つまり俺が監督と言う状況でありながら映画の中ではエキストラの1人でありたいと願っていたのである。

そのシュレンドルフ監督が今どうなったのかインターネットで調べてみたら非常に偉い人になって、その風貌も偉そうになっていたのでちょっとがっかりした。

一方でタルコフスキーは常に何かに不満な映画学生と言う風貌が良い。ソ連にいたときの 撮影機材はソ連製のミッチエルとか、赤軍が使っていた記録映画用のカメラのコンバスなどであった。
面白いのは10倍のズームレンズで何でも撮っていたよなのであるこれは香港の工夫映画と同じで制作コストを安くするうまいやり方なのであるが、安っぽい感じがする。
それはそれで非常に良かった。

イタリアに亡命、つまり西に来てからのタルコフスキーの仕事カメラはどうもレンタルのアリフレックス35BLであったようだ。
これにも普通の芸術家肌の監督は使わないアンジエニューズームレンズが付いていてそれが何か戦闘的で私は好きであった。

この写真集はイギリスの有名な出版社から出されたもので、彼のプライベートなポラロイド写真が何十マイカ掲載されている。

それで思い出したのはあたしも40年前にポラロイドの本社から依頼されて出たばかりのSX 70ポラロイドフィルムを使ったことである。

その作品はポラロイド社に買い上げてもらった。また日本の雑誌にも掲載した。当時のポラロイドが何が魅力かと言うと実は色が全く変であったということだ。

それが印刷媒体を通すと色が若干浮いていてきて何とか鑑賞に堪えるようなレベルになる。だからタルコフスキーのこの写真集を見ているとまず最初におかしいのはオリジナルはひどい色であるなという想像である。

デビットホックニーの時もそうであったが一般人民が誰でもホックニーのようになれるという勘違いが起こってだれでもホックニーいうのがあった。

今回のこのタルコフスキーも同じような方向にいきそうである。Facebookで見ていると皆さんタルコフスキーの写真集に騙されてポラロイドお高いのに買っている。

こういうのは一過性の病だから1週間もすれば鎮静するのであろう。私はもうポラロイドで撮影するつもりはない。私のポラロイドの仕事は40年前にエイトバイテンの大型で撮りSX seventyで撮りそれを展示販売して既に終わっているのだ。

残念なのはタルコフスキーは自分のプリントにサインを忘れていたことだ。大監督だからそういう些細な事は忘れていたのであろうが、もしサインが入っていたらすごい価値になっていたと思う。

 

 

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2015年3月 6日 (金)

フェド神話

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ハタチの時、最初にライカを手にしたときにはそれにつけるレンズはなかった。 当時の日本円で13万円と言うのは1,967年にしてみれば大変な金額だった。

それでレンズは他の人から借りなければならなかった。最初に同級生から借りたのがライツのズマロン28ミリだった。

レンズはそれしかないのでそれで東京を歩いた。その後にニッコールとかキヤノンのレンズを人から借りたりまた無理算段して自分で買ったりしたのである。

それから10数年が経ってプラハでソ連製のオリオンレンズを買ってそれをずっと使っていて、さらに30年が経過して東京で戦前のソ連製のレンズ28ミリのフェドを買った。

私などはその意味で全くカメラメーカーやレンズメーカーに嫌われるタイプである。何しろ使っているカメラレンズが戦前のものであるのだから大東亜共栄圏であって全く商売にはならない。

そうして手に入れたカメラのフェドとレンズのフェドはその箱書きを見たらGHQにいたアメリカ軍の偉い人の所有であったことが判明した。

そのことはいろいろなエッセイに書きちらしたとおりである。このフェドレンズと言うのは6枚構成でセメントで接合はされていない。しかし経年変化で曇っている。その曇ったレンズを友人の専門家にきれいにしてもらってちゃんと使えるようになった。 まず大抵はこのレンズ1本で充分なのであるがこの戦前のフェドと言うのは実は生産台数が非常に少ないそうである。

それで手元には同じものが3本ほどある。私の余生を考えてみればまずそんな数で充分と思える。このレンズは正式には当時のフェドのカメラに使うのがプロパーなのであるが、気分によってライカにつけたりキャノンにつけたりして遊んでいる。 それはそれで楽しい。

当時の2.8センチのテッサー広角レンズ、コンタックス用はレンズ構成が4枚である。そしてヘクトール28ミリはレンズ構成が5枚である。ところがこのレンズがレンズ構成が6枚と言うなかなか立派なレンズである。しかも他の西側のレンズのタイプを真似したようには見えないところがユニークである。

2015年3月 5日 (木)

ロバートキャパのコンタックスのアウトフィット

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ロバートキャパがノルマンディー上陸作戦の時に使用したコンタックスのアウトフィットというのを突撃隊長が探し出してきた。

一見して、当時の状況をリメイクした写真ではないかと思うのは、画面の左下に酒の小瓶などが置かれている点である。
要するに通販写真のまとまり方をこさえてしまったので偽物っぽく見える。

しかしこのアウトフィットではキャパは35ミリから135ミリまでのレンズを使ったことになっている。戦争写真家と言うタグの付いた制服とかヘルメットもうリアリティーがあって良い。

この機材がキャパが実際に使っていたかどうかと言う事は実は問題ではない。それよりも第二次大戦に使われたカメラがいまだに市場にちゃんと豊富にあって、しかも整備すればそれがちゃんと使えるということを方が実はすごいことなのである。背景に何か公文書のようなものがあるがこれもリメイクしたのではないかと思う

ただ全体の色調を見るにいかにも戦前のコダクロームでとられたような色合いなのが渋い。ロバートキャパのノルマンディー上陸作戦での活躍、そして恐怖、さらに失神をほうふつとさせる画像だ。

2015年3月 4日 (水)

シドニーカメラ寄席 それぞれのカメラアングル

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月一回恒例の、四谷荒木町のトークショーに行った。
私は蛍光灯が嫌いなのでこういう場所では色眼鏡をかけている。

帯状疱疹で左手に激痛が走っているんだが外見から見るといかにも危ない人のように見える。危ないのは私の風貌ではなくて私の健康状態そのものなのである。

それはさておきよくこういう怖いい人の話を聞きに来てくれると思う。知り合いの顔本友達のナスさんという人が私に似た風貌なのだが、自分の顔のTシャツを作って大人気である。

真似をしてTシャツを作りたいと思うのだがどうも顔が危険すぎてそれを買って着てくれる人いないだろう。それで計画が進行していない。

本当は内気で非常にデリケートであるのだが外見が非常事態警報なのでそういうことになる。シドニーはすでに20年近く開催している月1のトークショーである。怖いものが見たい人はぜひ見に来てください。木戸銭。無料です。

今回は3人の写真家が私のポートレートを撮ってくれた。これはFacebookにアップしたものである。写真家が実は1人だけであとの2人が社会的地位のある人である。こういう言い方よくないな、写真家がな地位がないいように誤解されてしまう。
訂正します。

それでそれぞれのカメラアングルがそれぞれ三様に異なっているのが面白いと思った。

1番のロングショットは某大手光学メーカーの重職にある人が撮影したものである。これはこのま広報写真として立派に使えそうである。しかもちゃんと自社製のコンパクトデジタルカメラを手にしているのでコマーシャルバリューがある。

ミドルショットのほうはこれも日本を代表する旅行会社の部長が撮影したものである。全体の環境がうまく描写されていてうまい写真だと思う。全体の環境というのも変であるがカメラに囲まれた不思議な環境の中でジジイ突っ張っているというのはうまく表現されている。

一番下のカットは現役の写真家が撮影してくれたものであるこの男は ガイジンバンドの追っかけ等をして楽屋口でボロなライカ無理矢理そのガイジンさんに渡したりするという変なくせが
ある。

ライブを撮り慣れているせいかこのアングルもロックスターに接近してとっているというところがいかにもライブ写真と言う感じがする。ただし私はライブ写真は嫌いである。

同じショットをとってもそれぞれのカメラアングルが違うと、それぞれの使用目的にちゃんと適合をした写真ができるというのが非常に面白かった。

皆様どうもありがとうございます。

2015年3月 3日 (火)

LIFE のニコン

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ニコンのカメラはかなりいろいろなモデルを使っているが、最近のマイブームは最初のレンジファインダーカメラのニコンSである。 最初に手に入れたレンジファインダーカメラがこれであった。その後いろいろ興味があってニコンSPとかも使用したがまた最初のモデルに戻ってきている。 その理由を考えるに私の場合は標準レンズより短いレンズしか使わないと言うことにありそうだ。報道カメラマンなどは85ミリを多用したのでやはり高倍率の距離計が欲しいのである。 でも私は35ミリ25ミリ21ミリを使っているので距離計は不要である。ほとんどが目測である。 このブラック仕上げのNikonは当時のライフマガジンの特注で少数生産されたものである。単なるブラック仕上げてある他は、巻き上げのノブが大型になっている。ニコンSの使い心地で1番問題なのはここであってノブの大きさが中途半端なのだ。だからこのライフの提案は実際にニコンを使っていた人間の指示によるもので実に的確である。 長いことこの巻き上げの上の部品だけ欲しいものだと思っていたが、これを単体で作るのはかなり高価になるのであろう。いちど東急ハンズの中で似たようなパーツを探してきたことがあるがどうもしっくりこない。それでいまだに私のニコンはオリジナルのままなのである。 

2015年3月 2日 (月)

中田ボタンさん黄色いスバルで猫の天国にGO!

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数年前のこと、神田川を面影橋から江戸川橋方面に歩いていたら、駐車場に忘れられたような黄色いスバルが止まっていた。

これが非常に気にいったのである。それからしばらくたってFacebook友達で中田さんという人に出会った。中田さんの飼っている2匹の猫は本物には会ったことがない。Facebookで夢見ているので、他猫と言う気がしなかった。

その妹さんの方のぼたんさんがこの前昇天したのである。
不思議な事は中田さんにこの黄色いスバルの位置を聞いた直後に愛猫は昇天したのであった。

今年になってから何度かこの黄色いスバルを探しに行ったのだがどうしても発見できなかったのである。

もう一つの茶色の猫の横丁のほうは中田さんからメールで場所を聞いてすぐにわかった。

これは不思議なことである。ぼたんさんの訃報を聞いてすぐにピンときたのはぼたんはあの黄色いスバルに乗って猫天に旅だったのだなと言うことである。

まさにその通りであってGoogle マップでに黄色いスバルの界隈を探したのだが発見できなかった。そしたら中田さんからこの証拠写真が届いたのである。

これはなかなかいい。

2015年3月 1日 (日)

写真集母と庭の肖像を見て考えたこと

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札幌から夕方の飛行機で羽田に着いてモノレールの中でめちゃめちゃに揺られながらようやく佃に戻ったらこの写真集が届いていたのである。

そのタイトルを「母と庭の肖像」。

最初の印象はNASAが撮影の月の写真という感じがした。これは誇張でも何でもなくて月面上ならぬ地球面ウエに足を下ろした人物とその地球上のある特定の位置の記録という意味である。

我々人間も宇宙人の存在の1つであると言う普遍性がここに証明されている。

ただしその地球上の庭のデザインはEnglishガルテンではなくどちらかと言えば桂離宮スタイルなのである。

そこが面白い。

2番目の面白さはこの図書の外装設計のことである。今の時代は何でもオンラインで見れるというお手軽な時代ではあるが、この作者の実際に母上を撮影した3,000枚ほどの画像がオンライン上にあったとしたらなかなか見る方の時間と根気が必要だろう。

この場合大事なのは本の外装設計が優れているということだ。最近思うのは紙で作られた本というのは実は立体作品であるという点である。
デジタルイメージは月夜の湖に浮かんだボートの上から湖面に映る月を手に取ろうというようなものだ。これは不可能である。
一方紙で設定されたイメージの群れはちゃんと手に取ることができる。そこが重大なポイントである。

表紙には森山大道さんのイントロダクションが短く掲載されている。この短いテキストを見て私は森山大道はやはり写真の表現に関してのスタンスが非常に広いなと思った。

通常の森山大道さんのエピゴーネンの連中は単にどす黒いプリントを焼いているだけであるからだ。

今ではコンタクトデジタルカメラでも大道モードというラフモノクロームが跋扈しているつまらない時代になってしまった。

その点森山さんが評価している写真表現の幅というのは実は広大無辺であることがわかる。
3つ目はこれは実に私的なバックブランドであるがこの作者は私が20年ほど前に教鞭をとっていた渋谷の専門学校の出身であり、今もそこで仕事をしているらしい。

写真のパーティーとしてはこれはなんとなく奥ゆかしいという点があるわけだ。
出版社の滋賀にある大隅書店と言うのはこれで十冊目の出版だと言う。私が最も注目している小出版社である。この写真集の前には吉村朗の作品集も出している。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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