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チョートクカメラ塾ブログ

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2015年2月28日 (土)

キャパのニコンS

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ロバートキャパは神はそのものである。コーネルがまだ存命ていた当時、東京の展覧会で来たコーネルは、「俺の兄貴はなかなかやり手だけどおっちょこちょいなとこがあってさ、、、」いう気分をを漂わせていた。

しかしそのコーネルキャパもなくなってしまうと彼らは兄弟で戦争写真の神殿の奥深くに入ってしまった。 2年前に横浜美術館で沢木耕太郎さんが講演会をやった。それは彼の著書「キャパの十字架」の集大成なのであるがそこら辺からキャパはその神々の位を一段と高くしたようである。

現実のキャパを追跡するにはキャパが生きていた当時実際にカメラを構えている姿を見るのが1番有効な手段である。 突撃隊長と言うのは私のカメラ友達であるが、彼は画像検索の名人である。しかもアイフォンの上でどんな画像でもあっという間に探してくる。これは画像検索に習熟していると言うよりはもっと別の天分が彼の中に隠されているのではないかと思う。

その突撃が探してきた撮影中のロバートキャパのカットがこれである。背景は懐かしい戦後の日本であって、タバコの看板とか背景の子供たちの服装、これは何かの晴れの日に撮影されたのではないか。

ロバートキャパのカメラの使い方を観察するにまことにアマチュアそのものである。 キャパの魅力というのは考えてみるとどうもそこら辺にあって熟練した戦争写真家というのはあまりイメージがわかない。 ノルマンディー上陸作戦の時におびえながら撮影して失神したと言うあたりが本物のキャパなのである。

それで探し出されてきたあまりはっきりしないこの画面を見て考えるに、縦位家qで撮影する写真家というのは意外とそのカメラの習熟度が分かるものである。 まずこの画像見るキャパは右手を下にして撮影している。私も同じような右手を下にする撮影方法なので何か兄弟という感覚を受ける。

縦位置で撮影するときに右手を上につまりこの状態からqカメラを180度転換させたのがあるが私はこれはどうも好きではない。 その理由は定かではないが何か現実を切り取る時に美学でカメラを構えるというな感じがするのである。だから私はキャパのように右手を下に構えるカメラ政党なのである。

ニコンの純正ケースをつけているのもなかなか良い感じである。私が20歳代の時は何かキャパが皮ケースをつけて、しかもそのフロントのフラップをぶらぶらさせているのが何かだらしがなくて嫌いであった。 今はそうでは無い。キャパのダンデイズムがその皮ケースのフロントフラップぶらぶらに強烈に感じられるのだ 。

2015年2月27日 (金)

ありがとうございます!

フォトメンタリーチョートクカメラ日記はアクセスカウンターが1,450万ページビューを超えました。
いつもご愛読ありがとうございます。

こういうのは感心しないなぁ

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私の周囲に偽貫禄同盟というのがある。新品のカメラを特殊メイクアップでいかにも使い込んだように見せると言う遊びのカメラ哲学である。

大体ストーンウオジーンズとか焼き物に年代をつけるというのは遊びの世界であるから元々のメーカーがやってはいけないことの1つだと思う。

それがびっくりしたのはライカ社がアーティストに依頼して「使いこんだライカデジタルのモデル」を出したと言う。

その価格が2万5,000ドルというのはコレクターズアイテムだから問題ないとして、問題なのはこういうものを制作するマーケティングの幅の広さである。
長いライカの歴史の中でこういう使い込んだ感じライカというのは今までにはなかった。その意味で大ライカ社の哲学は新段階に入ったと言うわけで、まことに賞賛すべきことである。

このライカが実際に使い込んだイメージからかけ離れているのはそのペイントの範囲が実際とはかなり違うことだ。

50年前に私が手に入れたライカM2のブラックペイントは塗装が悪かったので1週間経ってどんどんはがれて行ったがこのような剥がれ方ではなかった。
そして1ヶ月後には金ピカライカになってしまったのであった。

2015年2月26日 (木)

五本木

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このショットも妙蓮寺の駅からJRの大口駅に向かって歩いている時に撮影したものだ。 詳しくないのでこの樹木が何であるのかはわからないがこの五本並んだ木を見るたびに何かゴッホを思い出す。

何かそのような刷り込みみ現象ができてしまっているのである。 東京の周辺部を歩いている時にもこの糸杉に似た樹木の前で私はよく立ち止まる。その部分だけが別世界になっているのである。

地名としては非常にクラシックなもので5本木が並んでるから五本木で一本増えて六本木、三本松とか五本松というのもある。そういう地名というのは意外と長い時間残っているもののようである。 こういう植物を見るとその場所だけが何か額縁にはまった絵画のように見えるのが不思議だ。

そして同時にその木の周辺が何やらざわざわとヨーロッパの空間になってくるような気がするのは思い込みではあるが何か面白い。

五本松に三本松を足せば八本松になる。八本丸は私の日大芸術学部の時のクラスメートであった。なかなかやり手の男でニューヨークに行くから資金を出せなどとクラスメイトに電話をかけまくるようなやつであった。

それから10年は経っていないと思うがフジテレビのいわゆる事件番組のディレクターから私にメールがあった。いやメールでは無い電話であった。その八本松くんが鳥取の旅館で一緒にいた女性に刺し殺されたされたと言うのである。彼の写真があったら提供してくれと言うのである。

非常にびっくりした。 それでテレビの担当ディレクターにあったらその人がなんと私の中学時代の塾の先生だったのでさらにびっくりした。これはフジテレビなのである。東大出の横堀先生と言う人であった。

塾の授業の時横堀先生は昨日フジテレビの入社試験受けてきたと言った。その中で1960年の安保のデモのフイルムを見せられてそれをで解説せよという非常に難しい立場に立たされたと言われた。

当時の横堀先生の下宿は音羽六丁目の鳩山さんの御殿の下にあった木造モルタル3階建ての結構大きなアパートであった。

これが半世紀前の話なのであるが実は驚いたことにその古アパートが未だに存在するのである。 尾根道の5本の木を見ているうちにそれに三本足して既にもういない昔の友人のことを思い出すというのも不思議な思考の展開である。

2015年2月25日 (水)

オリオン15

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オリオン15と言うのはソ連製のトッポゴンタイプの広角レンズである。28ミリの焦点距離で明るさはF6だ。 最初に使い出したのは1974年でプラハで買った。

値段は確か5,000円ぐらいだった。当時のプラハは為替管理が厳重なので、その時カメラ雑誌に発表した作品の原稿料がキャッシュで持ち出せないのでカメラ店でこのレンズを買ったのである。 ところがこのレンズが意外と良いのでそれから延々と使って今に至っている。

これはその当時のソ連のこのレンズの広告なのであるが不思議なことが多い。まずレンズの外見は似てもにつかないものになっている。さらに不思議なのはレンズの表面の映り込みである。 何かトロピカルな風景が映り込んでいるのである。これは上手な画家が書いたものなのであろう。

本物のオリオン15、つまり28ミリで明るさがF6のレンズと言うのはビー玉のような非常に小さいレンジであるからこのような打ち込みが起きるはずがない。

1,950年代のソ連製のカメラやレンズの広告にはロシア構成主義的な不思議があって私はなかなか好きである。他にもいいソ連製カメラの広告がたくさんある。

このレンズの広告はおそらくイラストで表面に映り込みを書き込んだものであろうが、それで忘れられないのはソ連製の戦前の電気露出計フェドのことである。 円形の非常に大きな露出計であって、その露出計がいちどオークションのeBayに出品されたことがあった。

その受光素子にウクライナの空と雲と光が映り込んでいるのである。 これは写真のリアリズムとしては最高の存在で、もしそのメーターを落札したら一緒にウクライナの空と光がついてくるのではないかとすら思った。

2015年2月24日 (火)

LORD のコレクション

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ロードというカメラがある。これは1,950年代から50年代末までに作られたレンジファインダカメラである。 特筆すべきは順広角レンズの40ミリが固定されていたことだ。

スナップショットに少し経験を積んだ人ならすぐわかることだがスナップショットにはこのぐらいの距離のレンズが一番使いやすいのである。 だからロードは最初のモデルから最後のモデルまでレンズの明るさはそれぞれ異なっているが、レンズの焦点距離は40ミリしかない。 これは実にえらいことだと思う。

カメラメーカーは交換レンズで売って儲けるものであるが、その意味でロードを作った岡谷工学と言うのは最初から写真のスナップショットの真実に目覚めていたということができる。 しかし交換レンズが売れないのである。そのカメラメーカーとしての命は決して長くはなかった。

ロードが生産を中止して10年以上経った1970年に大阪に万国博覧会というのがあって、当時私は日本デザインセンターのスタッフであったが、未来の日本の進化の方向を確認するためと言うので業務で見物に行ったことがあった。 当時はすでにライカM2 とニコンFを持っていたが、こういう走り旅ではレンズシャッター付きのレンジファインダーカメラが便利である。それでこれ1台だけ持参した。40ミリだけの撮影と言うのはなかなかスナップショットにはこのぐらいの距離のレンズが一番使いやすいのである。

2015年2月23日 (月)

ECLAIRの時代

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映画撮影機の美学というものがある。最近のデジタルカメラはムービーも撮れてしまうので便利かもしれないが、そのカメラスタイルがどうも面白くない。

フイルムを使っていた長い映画の歴史の中で最大の問題点はフイルムを収納するマガジンをどこに設置するかという点にあった。 フイルムをマガジンに入れてカメラのどの位置に取り付けるかそれがカメラデザインの中で重要な位置を占めるのである。 エジソンのシネマトグラフの場合は120フィートのフイルムを単純に撮影機の上に乗せた。

しかしこれでは三脚の上でしか撮影ができない。フランスのエクレールがその後改良して着脱式のマガジンをカメラのapertureの後に置くと言うユニークな方法を開発した。これでカメラのプロフィールがずいぶん低くなったわけである。

当時のエクレールの代表的カメラはカメフレックスと言って35ミリ準映画と16ミリのナローゲージが同時に撮影出来るような極めてトリッキーな構造になっていた。その後放送局が16ミリフィルム主に使用するようになった。

そこで登場したのがエクレールNPRである。このカメラは世界で最初の回転音がしないカメラだった。デジタルの時代ではこんな事は起こらないが、フイルムを動かすためには複雑なギアが必要でそのギアの回転音がかなり高いので同時録音には使えないのである。それを改良した画期的カメラがこれだった。

エクレールの登場で世界のドキュメンタリーの映画の心は完全に新しくなった。ここにあるのはその後期モデルである。映画カメラというのはこのように前後に長いが正面から見るとプロフィールが低いというのがフイルム時代の映画撮影機の美学というものであった。 だから三脚に乗せて時々20世紀の映画の美学を鑑賞しているわけである。

2015年2月22日 (日)

橋からの眺め

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本日札幌滞在, 30代の半ばに文化庁派遣芸術家というポストを得て1年間ニューヨーク近代美術館で言わゆるアメリカ現代写真真を研究したのだった。 オーストリアに7年半滞在してその後東京に2年滞在してさらに1年間留学したので、ほぼ10年間日本にいなかったと同じことになった。

36歳で東京に戻って当時はタウン誌ブームで月刊日本橋と言うそこそこメジャーな雑誌があった。そこの依頼で「橋からの眺め」という連載を開始した。2--3年で終わらせるつもりだったのが何しろ当時から世界中の橋を見に行って撮影をしていたので連載は長くなって、もう1年もう1年というので十年間の長期連載になった。10年間とは一昔である。

橋からの眺めというタイトルは当時ニューヨークの近代美術館でウォーカーエバンスの作品を研究してい るときにごく初期の作品にニューヨークのブルックリンブリッジを撮影したものがあってそれはハート クラインの詩集のために共著で撮影したのであるがそれが心に残っていた。

橋というやつは真剣に取り組むとなかなか奥が深いものである。ところが残念なことに日本ではカメラメーカーさんがカメラの宣伝のプロモーションのための撮影でアマチュアカメラマンさんを集めるに、すぐ日本中にある巨大な吊り橋や何かをテーマにしてそこにレッスンプロの先生呼んで撮影指導したりするので面倒なことになる。

何も先生にカメラアングルを教えてもらって撮るまでもない。橋はそれぞれ自分の好きなアングルで撮るのがが1番良いのだ。 偽ライカ愛好会はもう6年からやっているが、これは3年前の夏も暑いさかりに東京の南にあるなんとかいう新しい橋をテーマに撮影会に行った時のものだ。

使ったカメラは戦前のツアイスのカメラでスーパーネッテルというのである。 カラーネガで撮影して現像があったら自分が予想したのとは全く違う画像になったので嬉しかった。 写真家は普通は自分が思う通りのイメージになってそれで優秀な写真家と言うわけであるが私の場合は全くその逆である。想像外のものが撮影できたのでそれがうれしかった。

2015年2月21日 (土)

理想の中判カメラ

198デジタルカメラのフォーマット論というのは不思議なもので一種錯

覚の中に存在するのではないかと思っている。
画面サイズの大きさはたくさんの情報量があってそれがいい写真であるということこれがまず最初のつまずきである。

フルサイズのデジタル一眼レフが全てのトップにあると考えているのはそれを使ったことのないアマチュアさんの考えではないかと思う。

私などは通常はコンパクトなデジタルカメラを使っているが、仕事であればちゃんとフルサイズのデジタル一眼レフを使っているそれは社会的な約束事と言うようなもので海外ロケに行く時などは同行のデザイナーとかクライアントさんがフルサイズのデジタル一眼レフを持ってないと私を写真家として認めてくれないのである。

デジタルカメラのフォーマットと言うのは一種の約束事というか通貨のようなものである。つまり支払いの手段の日本円か、ドルかユーロか、それとも人民元であるかと言うようなささいな違いなのである。

フルサイズのカメラを使っている人がある日フイルムの中判カメラに目覚めたりするとこれはまた面白いことになる。
記録する画像のサイズとしてはもちろんフルサイズのデジタルの方がたとえば6センチ× 9センチの中判カメラのフィルムより多分、多いと思うのだが、初心者さんは中判のフィルムと言うものを新鮮に感じているからそちらの方が文化的な一大確信のようである。

市場ではまだ中判サイズの新品のカメラというのが売られているのかどうか分からないが、最近のブームに便乗して作られた中判サイズのフイルムのカメラというのは私などに言わせればどうも感心しないものが多い。

ここにあるのは戦前のツアイスの中判カメラである。その名前をイデアールという。日本語で言えばアイデアルですね。大昔植木等のやっていた広告で同じ名前の折り畳み傘があった。

戦前の手仕事によるカメラ作りが最高潮であった時代によく売れた精密カメラと、現代のOEMで生産される人件費の非常に高い時代のカメラを比べる事はもともと意味がない。

ライカが登場する以前の主要なカメラと言うのは実はこのような蛇腹のカメラであった。その中でロールフィルムが使えるカメラは未だに生き残っている。これよりも大きなサイズになってしまうとガラスプレートを使ったりするので現代に使うには実際的でないのだ。

重厚に作り上げられたカメラとニッケル仕上げの金属部分などは見ていて惚れ惚れするのである。しかも小型だから現代の中判カメラに比べるとはるかにコンパクトで携帯もしやすい。


iPadから送信 Chotoku Tanaka

 

2015年2月20日 (金)

尾根道をゆく

Dsc_2273登山の経験もないしワンダーフォーゲルの経験もないが、

都市生活者でも尾根道を行くのは気持ちの良いものである。

妙蓮寺駅から東に尾根道を歩行してJRの大口駅に至る30分位の道のりが快晴のお昼過ぎで非常に快適であった。

似たような光の風景の中をつい最近散歩をしたなと思って記憶をたどってみたら1年前のリスボンの快晴のお昼過ぎのことなのである

リスボンは山と谷と丘と川の町である。詩人ペソアがよく通ったカフーナブラジリアーナから西に行く電車道は実は地形としては大根道に当たるのである。

左手はテージョ川の光があり右手にはバイシャ地区の青い影がある地形と光の関係があまりにもに通っているので何かリスボンを歩いているような気がした。

この場合歩行の視野の中の重要な要素は電信柱なのである。視線の尽きる先のほうにやや斜めになった複数の電信柱が立っているのが歩行のリズムを形作っていてそれが好きだ。

しばらく歩いているとその先にまた私の好きな物体も現れた。5階建ての四角い箱である。要するにごく初期の団地建築である。この場合の魅力はそれぞれの建物に大きく数字が書かれていることであろう。

ベルリンで戦前に開催された国際集合住宅展示会を取材に行ったことがある。その中で日本の団地にそっくりなのがルコルビジェの戦前の集合住宅なのが痛快であった。

ただしコルビジェの建物には大きく数字は書かれてなかったようである。


iPadから送信 Chotoku Tanaka

 

2015年2月19日 (木)

JR大口駅

Dsc_2283

事情があって2年前の夏にほとんど2ヶ月近く毎日JR線で東京とその周囲を徘徊していたことがあった。

例えば新宿経由でずっと西に行って青梅まで行き、そこから八王子に戻り八王子から横浜に行ったりする。

その時に乗った電車は確かJRの大口駅を通過したと思う。よく記憶しているのは横浜に行くのに横浜までその路線は繋がっていなくて東神奈川と言うところが終点だったのである。

そのまま大口駅のことは忘れていたが、昨年の春にこの界隈を盲めっぽう歩行していたらいきなり太市駅に出会ったのであった。大口駅と言う名前が非常に良い。大口顧客とか大口を開けて笑うとか景気の良い名前である。

駅舎は非常に古くて何か木造の小学校と言うな感じがする。昔の国鉄駅は皆どこでもこのようなクラシックな駅であった記憶がある。

例えば奈良の南にある京終、京が果てるとかく駅であるがそこも白いシンプルな木造の駅であった記憶がある。

大口駅の名物は駅舎の左側に立っている曲がった樹木である。これは山水画の中から登場してきたような不思議な形の木で大口駅と言うより私の場合この曲がった木を鑑賞に行くのが目的であると言っても良い。

今回は妙蓮寺駅からずっと歩いて大口駅に到達した。この界隈に住んでいて今は九州のほうに住んでいる人がいるが、やはりこの界隈の街並みが非常に懐かしく思えるそうである。

私のような単なる通過者ですら非常に感慨深いのだからここに生まれ育った人に
とっては何ともすばらしいノスタルジーなのであろう。

ちょうど写真家のウィリアムクラインがブルックリンの街で生まれ育って、年老いてからわざわざそれにノスタルジーを感じてパリから昔を偲んで行くのと同じ理由である。こういうノスタルジーは人生の中心の大事な部分になっているなと思う。ニコンcoolpixA


iPadから送信 Chotoku Tanaka

 

2015年2月18日 (水)

NGのエレベータ

Dsc_2192クラシックなオースチンのエレベーターというのはかなり数が少な

くなってきたがすばらしい前世紀のマシンである。

1,970年代にニコンの広告の仕事をやっていた時、スタジオは銀座8丁目のビルのペントハウスにあった。その名前を東宝スタジオと言った。まだ秘密段階にあるニコンF2などをオースティンのエレベーターで最上階に運んだ。

真鍮の磨きあげられた蛇腹のドアをジャラジャラと開けるのが新感覚であった。これは20世紀の感覚と言うべきだろう。

このスタジオがあったビルはとうの昔にない。
日本橋室町にあったかつてのライカの輸入代理店シュミット商会があったビルもよかった。これもオースティンのエレベータなのである。戦前の有名写真家もこのビルの1階の飾り窓にあるライカの最新モデルを見に行ってため息をついたそうである。

戦後もかなり時代が経ってからそのクラシックビルの2階と3階が確かジョンブルという名前のbarであった。

そこには階段で残らないでわざわざオースティンのエレベーターで自分でドアを開けて自分でドアを閉めて登るのである。これbarの掟と言うものだ。

そのビルも20年近く前になくなってしまった。最近の行きつけのクラブエダムに数年前にオースティンのエレベーターのカレンダーがかかっていた。とても懐かしく思った。

経費の問題かどうか知らないがそれは1年を6枚で表現するカレンダーなのである。

現在存在するオースチンの日本にあるエレベーターの中でその六基の内の二基を私は体験している。

1つは京都の三条京阪の鴨川の向かいにある中華料理店にあるクラシックエレベーターで、もう一つは横浜のニューグランドホテルの正面のエレベーターである。

だから私がニューグランドホテルに泊まりに行くのはホテルに泊まるということが目的ではなくてそのエレベーターに乗りに行くのだ

無論ゲストとしてもエレベーターに乗る事は可能だがそれでは面白くない。宿泊客になってクラシックなエレベータを利用するのが本来の目的である。


このエレベータのことをFacebookに書き込んだら結構コメントがついた。曰く、結婚式の時に利用しましたがそれ以来10何年全く使ったことがありませんなどである。

それはそれで正しい。忙しい現代ではこんなクラシックなエレベーターで登ったり降ったりしてる方がおかしいのである。
ニコンcoolpixA


iPadから送信 Chotoku Tanaka

 

2015年2月17日 (火)

NGの朝食

Dsc_2202四半世紀ほど前にメディアの仕事でヨーロッパ中の高級ホテルをは

しごして取材したことがあった。

高級ホテルと言うのは5つ星ホテルのことである。四ツ星ホテルと言うのは非常に面倒なのであってあれは三星に入るものをちょっとプラス評価したのではないかと思う。

大体四ツ星ホテルで夜遅くチェックインして自分の荷物を自分で部屋に運ぶなどと言うのは論外である。高級ホテルでは旅行者は自分の荷物などは全然気にしないと言うのがルールだ。それで高級ホテルのあらゆるクラスの部屋を見せてもらったりした

これはルームインスペクションという結構プロフェッショナルな仕事なのである。
ルームサービスにもお世話になった。
パリの有名な5つ星ホテルでヘミングウェイバーとか言うのがあるあそこは最近では観光客があまりにも記念写真を撮影するようになったので撮影禁止になってしまった。
要するにそこで写真を撮られてはまずいようなお客はルームサービスなのだろう。

横浜ニューグランドであるが昨年の初夏に最後に宿泊した後に本館が全面改装になった。それで今回初めて行ってみたのである。ベルボーイに聞いたら改装したのは耐震構造がメインでライブの会場はほとんどないという話なので安心した。

クラシックなスタイルの電気スタンドの紐引っ張ったりするのが私は好きなのである。ただし戦前のホテルであるから使いかっては非常に悪くてバスルームに入る所のドアの蝶番が通常と逆に付いていたりするので使いにくいことおびただしい。それはそれで面白い。

特筆すべきはルームサービスのbreakfastである。世界中で結構いろんな街でルームサービスのブレックファーストを食べてきたがこれはその中でトップクラスに入る。非常にトラディショナルである。何がトラディショナルであるかというとAmerican breakfastが非常に健康に悪いメニューを取り揃えているからだ。これは老舗のホテルとしてとても大事なことだと思う。要するにファミリーホテルのようにミニサラダ小脇につけてきたりと言うようなあいまいな事はしない。そういうのが必要な人はサイドメニューで別にオーダーすればいいだけの話だである。
トースターも来るのでそれで2枚の厚切りの食パンを焦げ目をつけて焼いてゆっくり食べたらこれはこれで70年代のホテルのルームサービスのAmerican breakfastと言う感じがしてとても良かった。
ニコンcoolpixA


iPadから送信 Chotoku Tanaka

 

2015年2月16日 (月)

紅いやきぶた

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2015年2月15日 (日)

坂崎さん

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横浜はみなとみらいの展覧会の会場で開催中のアイランドギャラリーが主催の展覧会に話に出かけた。

遅刻をしてはいけないので前の日にはニューグランドに泊まったのである。ホテルの旧館がどのようになっていたのか気になっていたのでそれを見に行った。改装のために半年以上お休みだったからだ。ホテルの人に聞いたら別に内装などは新しくしないで耐震構造の分だけ補強したそうである。
古い電気スタンドで紐を引っ張るばかりがついたりするのがあってそれが好きであったから手を接近させると勝手に明かりがつくランプは嫌だなと思っていたので一安心だった。

それでゆっくり風呂に入って午後2時過ぎに会場に行ったら。坂崎幸之助さんが見えたので驚いた。

坂崎さんとは確か3年前の夏にやはりアイランドギャラリーの企画で明治神宮で企画展をやった。

その後にアルフィー40年のお祝い等もあったようだが私は別に坂崎さんには連絡等はしなかった。
それで数年ぶりにこれから坂崎さんとお話をするというのでウォーミングアップで楽屋でいろいろ話をしてみたらちゃんと話題がシンクロしてこれは笑いが取れそうだなというのですでに盛り上がってしまった。

坂崎さんのおかげで大変な入場者の数であった。坂崎さんとトークをしていて安心できるのは私は話がどんどんとんでもないところに行ってしまったときに坂崎さんがちゃんと本来のラインに引き戻してくれるのである。

それで安心してトークを終了することができた。10年以上前に坂崎さんと私で写真集を作ったことが話に出た。それで久しぶりにまた2人のジョイントで写真集でも作りましょうということになってこれからが楽しみである。
偽ライカ同盟が結成されたのは1997年の秋だったからこれもあと2年で結成20周年になるわけだ。まず持つべきものは友達ということである。
感謝。


iPadから送信 Chotoku Tanaka

2015年2月14日 (土)

ブラックライカのジョーだよ俺は

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前回の偽ライカ愛好会で新会員が入会した。

画面の右側の人がそうである。そう、鳥類である。偽ライカ同盟の旗印にはライカインコがついているからこれは全く問題は無い。

午前11時という早い時間に三田線の芝公園駅の4番出口待ち合わせをした。私は大門から歩いてきたのである。
柵にもたれていたらいきなり私の左側に黒いカラスがとまった。そう、黒いカラスである。

グーテンターク!ジョーと呼んでくれ、とカラスは言った。本当にそういったのである。ブラックライカのジョーだよ俺は。本当の名前はPちゃんなんだけどねとカラスは言った。
そこに偽ライカ愛好会のメンバーのビクトリーがやってきてすかさずこのツーショットを撮ってくれたのである。

最初にiPhoneでスチルショット撮ってその次にプロモーション用にiPhoneのビデオで30秒ぐらいのショットをとった。
それからライカM2ブラックにライカビットMPのついたやつで自分用の写真を撮った。いや撮影の前後はそうではなくて最初に自分の写真を撮ってそれからプロモーション用のを撮ったかもしれないそこはよく覚えていない。

それでブラックライカのジョーはめでたく偽ライカ愛好会のメンバーに加わったのである。私とブラックライカのジョーが並んでいると結構エンターテイメントになるらしく通行人が面白がって通り過ぎてゆく。

20年ほど前に坂崎幸之助さんと私が雑談しているときに、中古カメラのトークが意外とお客さんが来るからアルフィーを解散したら坂崎さんと私でユニットを作って全国まりましょうということになった。

そこにブラックライカのジョーを加えればトリオになってなかなか稼げるのではないかと思った。ビクトリー言うにはとりあえず投げ銭用の空き缶を2人の間に置いておけばすぐに小銭でいっぱいになるのではないかという話だったが、これは意外といけそうである。


iPadから送信 Chotoku Tanaka

 

2015年2月13日 (金)

Yじ路

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Dsc_2127私の生まれた文京区音羽の界隈の、

少年時代の南の限界と言うのは江戸川公園であった。

神田川で区切られていてそこから南に行く事は禁止されていたのである。そこでその手前の江戸川公園をどんどん西に行くと言うことを覚えた。

その先は新江戸川公園でさらに行くと神田川と雑司が谷の高台に行く狭い街並みが延々と続いている。

少し成長してから学校帰りの買い食いに行くのにその界隈のコロッケ屋に行ったことがある。当時の自分の世界感覚ではこれはまさにリスボンにたらのコロッケを食べに行くような食の冒険だった。

神田川は高田の馬場の先で大きく屈曲するがそこまではいかない。その手前の街を歩くのが好きである。東京にはこのようなy字路がある。ここはそのベストスリーの中に入れても良い位のできの良さである

パリの放射状の道路はあればちゃんとした都市計画によって作られているから別に驚く事はないが、このあたりは田園の道がなんとなく出てしまったというところでもっと文化史的なものを感じる。

例えば私がこの界隈を旅しているとして道が分からなくなると2つの分岐点に地図がかけられている。江戸時代ならこれは庚申塚でありそこに大きな石の道標があって方面を示していたはずである。

ところがこのy字路の地図というのはもっと存在が芸術的である。既に地図は完全にその文字の表示が退色してしまって残っているのは地図の図だけなのである。

しかもこのy字路に掲げられた地図をちょっと離れた位置から見るとなかなかダイナミックないい風景である。グーグルマップを持っている現代人ならばこういう地図のお世話になる必要は全くない。だからさらにこのy字路の地図の存在感が増してしているわけだ。ニコンcoolpix

 

2015年2月12日 (木)

最後の昆虫少年

 大倉舜二さん(おおくら・しゅんじ=写真家)が6日、悪性リンパ腫で死去、77歳。葬儀は近親者で営んだ。

1,970年代にヨーロッパを巡回した現代日本写真家展のメンバーに加わっていただいた。私が29歳だったから大倉さんは38歳のはずである。

北新宿のアトリエにお伺いして写真のセレクションなどはそっちのけでもっぱら昆虫とカメラとレンズの話をした。正しい標本箱の揃え方など教授してもらった。気のいいアニキと言う気さくな感じの人であった。ズノーのライカマウントの広角レンズ35/1.7を持っていてこれはお前なんかには絶対譲らねーよと啖呵を切っていた。

大倉さんはニコンFの使い手であった。趣味でニコンFを使っている人はいるが彼の場合は仕事の一線でガンガン使っているのである。

Fが中止になって10年たってもまだメーンカメラとして使っていたと思う。
銀座の中古カメラ市で私が古いコンタックスのレンズを物色していたら、ウィンドウの上に並んだ30個位のレンズに脇から大倉さんの手が伸びて、なんでこんなに安いんだというのでほとんどを自分で手の中に収めてしまった。

要するにビー玉遊びのガキ大将なのである。最後にお目にかかったのは15年位であったろうか、中野のフジヤカメラでカメラを物色していたら服装の良い老紳士が私に挨拶している。それが大倉さんであると言うことに気がつくまで10秒ぐらいかかった。そのまま同じ階にある喫茶店ルノワールに移動して1時間ほど中古カメラとレンズの話をした。今にしてみれば得難い思い出であった。
この人には最後の昆虫少年という言葉が実によく当てはまると思う。

30年ほど前であったか、写真会の大御所渡辺義雄先生の古希を祝う祝賀会が帝国ホテルで開催された。会費3万円だった。

満員の列席者の中で若手というので端の方で小さくなっていたのは篠山紀信さん、大倉さん、そしてさらに順列が下って最下位が私なのである。そういう昔の話しである。


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茶猫横丁

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Facebookの友達に私の名前田中を逆さまにした中田さんという方がおられる。
白黒の猫2匹のお父さんである。

お住まいが江戸川橋界隈のようである。というのはその界隈の猫をたくさんとっておられるからである。中田さんは奥さんと一緒にその界隈をいろいろ歩いて隣近所の猫をたくさん手なづけているのである。

つまり猫のアンバサダーというところだろうか。中田さんが時々アップする写真に素敵な木造建築があった。どういう建築かと言うと私が少年であった頃の昭和20年代の面影がそのまま残っている木造の2階建てなのである。

その映画のセットメめいた木造2階の前で中田さんの奥さんが猫を集めて国際交流をしているのである。
不思議なのはそこに集まっている半ダースほどの猫は全部茶色なのである。茶色猫共和国ですね。

その木造建築を実際に見てみたいと思った。片岡義男さん流に言えばこれは家のオープンセットですよなのである。
中田さんにその茶色猫共和国+木造建築の場所を教えてもらった。Facebookで教えてもらったのである。

答えは非常に簡単でとても早稲田駅から神田川の豊橋を渡ってスーパーマーケットがあります。そのすぐそばですとのことであった。

この道の教え方は遊牧民の家の教え方のである。オアシスを出てラクダで3日位行ったところにキャラバンサライがある、そのキャラバンサライのそばにねかの帝国があると言っているような感じだ。

それでインフォメーションその通りに行ってみたら果たしてそこに茶色猫の大帝国があった。
これにはびっくりした。もっとも、くだんの木造建築は北を向いていたので日陰の中にある。だから茶色ねか連中は全部反対側の白いモダンな建築のエントランスの方にに集まっていたが、まぁそれはそれでしかたない。

それで、目的は達成した訳だったが、私にはもう一つ確認しておきたい場所があった。この界隈に黄色いスバルが打ち捨てられているパーキングロットがあるのだ。昨年の暮にいっかいってそれが発見できなかった。そして今回も絨毯爆撃を行ったのだけども発見できなかった。まぁそれはそれで良い。
次の目標が定まったわけである。
ニコンcoolpixA


iPadから送信 Chotoku Tanaka

 

2015年2月11日 (水)

ライカ人類は持ってる

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街を歩いているとたくさんのカメラ人類さんが私に声をかけてくれる。ありがたい次第である。

以前都心のホテルでライカのコーン社長と酔っ払って歩いていたら、ライカ人類さんが声をかけてくださった。名刺をいただいたらその方は新潟にある有名なお酒の会社の社長さんなのである。

行きがかりからこちらはライカの社長のコーンさんですと紹介したらそのライカ人類さんはすごくびっくりしていた。

それはそうだろう。いきなり眼前に神降臨だからである。

ライカ人類さんに遭遇は都心だけではない。以前三ノ輪を歩いてる時に声がかかった。それでそのライカ人類さんが見せてくれたのは ビム ベンダースのサインの入ったライカM4であった。

今回は都心である。東京駅のコンコースをあるいていたらちょーとく先生いつも本を読んでいますとカメラ人類さんから声がかかった。これはライカ人類さんである。

私はフィルムライカの細かいことよく知っているので相手の胸に下げている正統のライカのロゴのついた上質なchromeのボディーを見てM3ですかと言ってしまった。
これは私の観察不足である。
いえこれはデジタルライカモノクロームなんです。ロゴが付いているのは30台の限定版なんですよとそのライカ人類さんは教えてくれた。

私はデジタルライカに関してはライカM8以降のモデルは全然区別がつかないのである。しかしせっかく声をかけてくれたので褒めておいた。

ほかに何か持っているの?
例えばコンパクトデジカメとかと質問してそのライカ人類さんが持っているカメラを並べてもらった。
もう一台はM8なのである。つまりカラーが撮れるれるデジタルライカとモノクロームしか撮れないデジタルライカの二台持ちである。こういうのはすごいなぁ。

そのライカ人類さんの属性は知らないけれども、こういうライカは銀座の日の丸家でしか買えないのであろう。しかもレンズはよく見たらズミルックスの50f 1.4がついているのである。そうなると時価100万円以上か。
そういうライカを買う高級なライカ人類を日の丸家はしっかりホールドしておいて、パーティーとかに呼んで、それでまたお花何かを撮らしてさらに高いレンズを買わせるのであろう
いや全く商売上手と言うほかはない。それはそれでビジネス大成功だ。


iPadから送信 Chotoku Tanak

2015年2月10日 (火)

新宿の壁

Dsc_1281ベルリンの壁というのは既に言葉としてもその存在感をを失ってい

る。
これが20世紀の1,970年代には東西の分断を象徴する極めて重要なキーワードであったのだ。
あの頃私は西ベルリンから指名されて東西ベルリンの壁の現場を撮影するという仕事をした。

政治体制の異なる2つの場所を原理的に壁で分担すれば、すべて人間の洪水を防止することができると言う愚かな考えがあったわけである。

ベルリンの壁が崩壊したきっかけや歴史的に色々なエピソードがあるが、その後、誰が考えだしたのかベルリンの壁を小さなパッケージにして売るという商売が流行した。
小さな壁の細片はプラスチックの袋に入って販売されていた。これは実は危険な商品であってにわかづくりのベルリンの壁には沢山のアスベストが含まれているのであった。
だからそのパッケージを開封すると非常に危険なことになる。最もオリジナルのベルリンの壁は早々に売り切れてその後に売られたのはそこら辺の業者が適当に制作したコンクリートブロックにいい加減にペンキで色をつけたもので、これは偽物だった。こちらは別に身体の危険は無い。

新宿の窪地の好きな街上を行ったり来たりしていたら、坂の途中にこんな壁があった。ベルリンの壁ではなく新宿の壁と名付けていいであろう。
この壁が非常に新鮮に思えたのは坂道の途中の建物と建物を分断しているという点にあった。

別にお隣の建物との政治的な分断とか争いになる思想的な背景があるとは思えない司仔細に観察するとその壁はこのような色に塗装されていてしかも非常に作りが良いのである。
高級新宿の壁とでも言って良いだろう。
ちょっと謎めいた新宿の壁なのである。
ニコンcoolpixA

 

2015年2月 9日 (月)

日本の縮尺

Dsc_1955

 

2015年2月 8日 (日)

中野区中央5/20

Dsc_1891

Dsc_1890

 

2015年2月 7日 (土)

東池袋の奇跡

Dsc_0852数十年にわたって世界中の建築を見てきたのでたいていの建築を見

てもビックリすると言う事は無い。ウイーンではオットーワグナーの建築を森のように見てきたし、ドイツポーランドオランダでドイツ表現派の建築も山のように見てきた。

そういう建築の視覚的体験が背後にあるので、日本ではどのような建築を見ても驚かないような視神経になっている。
もっともこれは自慢できることではなくて建築に対する視神経が鈍感になっているので実は問題なのである。

昨年の暮れの偽ライカ愛好会の大撮影会の時であった。巣鴨の周辺から歩き出して豊島区を斜めにショートカットして東池袋に来た。
高校時代から思い出の地の東池袋である。当時はまだ都電が走っていたから都電の窓から見える風景が日常的であった。

まだ高速道路の5号線は建築が半ばであったと思う。当時の池袋は本物の東京の場末であった。土地古老の話で言わせてもらえばまだ西武デパートが建築される前に目の前は枕木で作られた柵であってその先にぺんぺん草がはえていて、その先を色の悪い省線電車が行ったり来たりしていた。

さらに幼年時の記憶をたどると東口の駅前にバスがエンコしていたのである。故障していたのではなくてこれは歴史的な木炭バスであったようだバスの後ろに付けた大きな釜に木材が詰め込まれて盛んに煙を上げていた。その木炭バスが実際に走り去ったかどうかの記憶がないのは実に残念である。その木炭バスがエンコしていたポイントに、偽ライカのメンバーと歩行していたらいきなりバベルの塔のような不思議な建築が現れた。

これはショックであった。ウイーンの博物館のバベルの塔が実際に3Dになってここに作られたのかと思ったのである。
同行の若い人が建築関係なのですぐにその建築の表示を見てこれが豊島区の新しい区の建物であるということを説明してくれた。
なるほど確かにそうかもしれないがこの建物を見ていると完全にバベルの塔なのである。その理由と言うのは高速道路でこのバベルの頭の上が完全にカットされていたための勘違いであった。
少し引いてみると下のバベルの塔の上に数十階の通常の高層ビルがそびえていた。

先日プラハでも建築中のふしぎなモダン建築をたくさん見た。しかしこの東池袋のバベルの塔はどうもそれを超える素晴らしい存在である。

NikonクールピクスA

 

2015年2月 6日 (金)

回り舞台

Dsc_1901

東京の路上の風景を観察していて、つくづく痛感するのは東京の風景は日本の演劇の回り舞台に似ているということだ。

建物そのものが安っぽい素材で作られていて10年も経てば建て替えられるような構造になっているもそういう印象を与える理由のひとつである。

回り舞台の場合は観客席から見て舞台全体が回転して場面を変えるわけであるが、撮影者としの私の場合は路上をそのまま舞台に見立てて撮影者自身が歩行するから、光景は回って舞台を回転させるのである。
つまり演劇の台本は全くないわけで舞台の進行は撮影者の自由であり変幻自在であるところが演劇より面白い。

そういう極めて劇場的な廻り舞台めく東京の風景を見ていて、対照的に思い出すのはウィーンの国立歌劇場の舞台の変換の仕方である。

オペラ座を取材する必要があって何度もこの機械じかけの大劇場に行ったことがある。そこではプレファブリックの舞台全部交換するのである。それはちょうどウイーンの大観覧車の箱のような感じでそれぞれの舞台は上下に移動して変えるのである。

日本の回り舞台の横に空間移動するのとウイーンの国立歌劇場の垂直に移動するのとでは、その複雑さとか労力とかパワーなどはもちろんヨーロッパに負けるのである。

逆の言い方で日本の回り舞台めく風景を認めるのならばその移動がシンプルでしかも想像力を掻き立てるというところであろうか。観客は回り舞台の移動中の動きを見ているからそこでシーンの切り替えとか時間経過などを了解するのである。

このショットなども典型的な日本の回り舞台的シーンである。薬局めいたファサードの一場面が回転すると隣の舞台がいきなり空き地になるなどと言うのも気が利いていて面白い。どんなホームドラマが展開するのであろうNikonクールピクスA

2015年2月 5日 (木)

若葉町と回路

Dsc_1276

 

2015年2月 4日 (水)

フォトめんたりーなライカ

194

 

2015年2月 3日 (火)

文化住宅

Dsc_1286文化という言葉には戦後の民主主義の将来に対する明るい予感があ

る。文明というふうに書くと何やら重々しくて過去の遺産になってしまうが、文化というのはポジティブな明るい言葉である。

文化住宅と聞くと戦後の大阪にたくさんあった人間が住むのに最低限の要素を満たしていたあの狭い住宅のことを思い出す。コルビジュエの狭小住宅も文化住宅である。

12月に国立競技場の向かいのホテルに滞在していた関係でその界隈を中心とした視点が構築された。
20分ぐらいで四谷のアローカメラなのでよくそこ二代目と新宿の谷底にある古い街の話をした。
二代目はそこの小学校だか中学校だかの出身なのである。

この隠されたような古い町はそこら中に坂があって行き止まりの道があって古いお寺があって残りの空間は全部不思議な建物で埋め尽くされている。

街歩きをしていて1番面白いのは自分が迷路の中を走っているちょうどネズミのような感覚になることである。
これを道をローストするというのであるが、晴れている日よりも曇りの日だと方向感覚が失われるので道に迷いやすい。これは非常にありがたいことなのである。

四谷の通りから南に下ったダラダラ坂の右側にこのような建物があった。文化住宅者というのはいちど見たら絶対に忘れられない看板である

文化という言葉をかぶした単語には私の好きなのは他にも文化庁とか、文化包丁とか文化鍋などがある。それらは何か安っぽい仕上げの日常生活の用品であって、多くは昭和30年代のアラーム音の家で売っていたような品ばかりである。作りが粗雑なアルマイトの鍋とかとってがすぐに取れそうな包丁等に戦後の文化を感じる。
それと戦後の安いカメラの部品が安っぽいアルミのパーツなど出てきているとこれも文化を感じるのである。いや写真文化という意味ではない。あ、写真文化勲章てのもあったな。
ニコンcoolpixA

 

2015年2月 2日 (月)

よめない看板  

Dsc_19491

Dsc_1949散歩の目的地だが火葬場の周辺を徘徊するのが好きである。

東京ならばまず浮間、桐ヶ谷、落合、それと町屋の火葬場であろう。正岡子規が明治の終わりの頃に描いた随筆で町屋の火葬場から飴屋が太鼓叩いて出てくるという状況を描写して、それが似合わない組み合わせであると書いている。

そういうワンフレーズが好きなので火葬場の周辺を徘徊してそのような似合わないフレーズを探しているのだが、時代が異なるので飴屋はなかなか出てこない。

私の実家の文京区音羽とか母親の実家であった江古田等の管轄する火葬場は落合である。少年のときに最初に仮装に立ち会ったのもこれらの火葬場であるから火葬場と言うのは人生のセレモニー最大のものであると認識している。
最近は火葬場も混み合ってなかなか何日待ちということなようなので、有名レストランと同じステータスである。
聞いた話によると火葬場の係りの人は真面目なサラリーマンであるから最後の火葬が5時に終了するので1日にいくつかを焼くときに最後は火力を上げるのだそうである。ただし火力を上げるとお骨バラバラになってしまうのでそこら辺の手加減と言うのはやはりベテランの仕事なのであろうか。

落合の火葬場というのは道が非常に込み入って車で行くには非常に面倒な場所のようである。
母親の葬儀以来10数年が経過しているので葬祭場の祭壇を通りがかりによく観察した。
葬儀の遺影と言うのはプリントした写真でやると言う常識があったのに、最近では大型のカラーフィルムのようなのを背面から照明しているのである。お葬式のトレンドも時代によってどんどん変わっていくものであるなというのを痛感した。
6代目圓生の落語のラクダを聞いていたら、棺桶を担いで落合に行くまでのルートが高田馬場から土橋を頭で、つまり今と全く同じなのである。日本一の火屋である。

落合葬祭場の近くにもう夕方でよく見えないような光の下に何か黄色の看板があった。

目で見ただけでは全くわからない。それを撮影して後日写真解析をしたのがこの看板のショットである。何か科学警察研究所の鑑識写真みたいだ。

つまらない交通ルールが延々と書かれているのでがっかりした。
★ニコンクールピクスA

 

2015年2月 1日 (日)

フォトめんたりーなニコンS

196ニコンのSにNIKKOR 2.

5センチの広角レンズはこの40年近く私の基本の機材である。
1980年の秋も終わりにウイーンから東京に戻ってきて最初に手に入れたのがこのクラシックNikonであった。ほとんど無一物の生活であったから、手に入れられるカメラの中でこれが1番安いものであったのだ。
高田馬場にある鈴木安兵衛商店で買った。標準レンズ付きで確か3万円以下であったと思うがこれは人気のないNikonなのである。
広角レンズが欲しかったのでトーキヨーを歩きまわって高輪のカメラ店にあったニッコールの2.5センチの広角レンズを買った。
これは本数が2,000本以下と言うレアなレンズであって、当時でもかなり高い値段であった。ただしそのレンズは非常に使い込んだボロボロであったからやすかった。
別にファインダーをつけることもなく東京のスナップをたくさん撮った。他に思い出のある懐かしい写真もたくさん撮った。この玉は森山大道さんが東松照明さんから借り出して、飲んでしまった有名なレンズである。

1969年の私も最初の個展は東京をテーマにしたものであったがそれから何十年も経過した2014年のカメラ雑誌アサヒカメラにも同じシリーズが掲載されている。要するに半世紀近く同じレンズを使っているのだから、カメラメーカーはたまったものではないであろう。

しかしこのように1本のレンズを長く使うという事は写真家にとってはごく普通のことなのである。そのことに関してはスーザンゾーンタクも彼女の写真論で書いている。
1本のレンズを長年使い続けると言う点で最も尊敬する写真家はやはりアンリカルティエブレッソンである。50ミリのレンズをずっとブレッソンは使っていた。その使い方はエキセントリックなものであって当時のライカの仕上げの良いchromeのメッキが完全に剥がれて下地の真鍮が出ているほどなのである。これほどきたないレンズは他に見たことがない。

初期のニコンに関して言えば長年使い込んだ汚いニコンを探しているのであるがいざ探すとなるとなかなか市場には出てこないのである。世界で最も使い込んだクラシックNikonを手にすること。これが当面の私のナイコンへの夢である。

 

 

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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