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2015年1月31日 (土)

一杯のラーメン

Dsc_0960昨年の暮に1週間ほど国立競技場の裏のホテルに泊まったのであっ

た。今度出す本の原稿を書くつもりであったが原稿は全く書けなかった。そのかわり面白い写真がたくさん取れた。

千駄ヶ谷と言う街は私には全く縁がない。隣の信濃町も同じだ。大江戸線の駅で降りてホテルに行く道に迷っていたら案内地図に大きくホープ軒と書いてあった。

それで私が探している日本青年会館の表示はその地図には全く出ていない。つまり拉麺店の方が格式がずっと上なわけである。

私のラーメンの食べ方は街中を歩いていて食べたくなったときに最初に出会った街の中華屋さんの1番安いラーメン。これである。ところがこれが非常にアマチュア的な食べ方らしくて、ラーメン通の間ではすごいランキングができていて、お兄ちゃんが腕組みして怖い顔をしている店が高級と言うような認識がある。ラーメン屋さんでもミシュランのレストランでもなぜオーナーシェフは腕組みをしたがるのであろうか。
これは謎だ。

そのラーメン屋は渋谷区の1番東側の通りにある。だからコミュバスはその通りを走ってそのまま渋谷のほうに戻っていく。この地の果て感覚が非常に良い。

せっかく千駄ヶ谷に来たのでそこでラーメンを食べた。700円ちょっとであった。これは朝ラーメンである。味は若い人向きにかなり油がきつい。そのままホテルに戻っては絶対悪いので、角を曲がっていくコミュバスの後をついて千駄ヶ谷を1周した。もう一度たべたいとは思わない。
NikonクールピクスA

2015年1月30日 (金)

プラハ空港のトポロジ_2

Sdim1362
Sdim1364_2 世の中には銭湯が好きと言う人がいる。

私も所属する偽ライカ愛好会でもそういう人がいる。皆でで撮影に行った時に十分んでも時間があるとするといきなりその人が姿が見えなくなる。そしてツヤツヤの顔で頭からゆげを立てながらいきなり現れるのである。その時間を利用してお湯屋に行っているのだ。

私の場合はそういう趣味はないけれど、空港のラウンジでシャワーを使うのが趣味と言えば趣味になるだろう。

ヨーロッパ圏内というのはヨーロッパのトラベラーにしてみればあれは国内線である。要するに空間の広がりとヨーロッパの端から端までの飛行時間を考えれば日本の国内線と変わらない。
ヨーロッパのビジネスマンは日帰り出張が多いから朝出かけて夜遅く自分の家に帰ってくる。その間にヨーロッパ圏を一巡するわけである。

そのような場合にはその旅行中でシャワーということがないのは彼らの生活形態である。アジア人とかオーストラリア人とかにしてみると大陸を旅するからどうしてもシャワーが使いたくなる。

記憶するにむかしはファーストクラスラウンジにはシャワールームがあったがそれ以外にはついてなかった。それが最近ではビジネスクラスのラウンジのサービスの向上の要素になっているからシャワールームは付属するようになった。

これはプラハの欧州圏内でのラウンジのバスルームに続くエントランスである。シンゲン条約加盟国の外に旅行する場合のシャワールームはリクエストすると搭乗券をレセプションに預けるのであった。

しかしこちらの場合はヨーロッパ内と言うことで別にシャワールームの鍵とバスタオルを貸してくれるだけでボーデイングパスを預ける事は無い。

もっとも飛行機はタッチアンドゴーで乗れる時代になったから搭乗券そのものが意味がなくなってきているのだ。

バスルームのこのデジタル時計は懐かしい。こういうモノがまだ珍しいものであった1960年代には東京タワーのエントランスに同じモノがあった。それは今だと信じられないがそれは観光名所であった。


世界中の空港のシャワールームを使った経験でいまだに忘れられないのはモスクワ空港が新しくなったときに、当初はお湯が出なくてずっと水が出たことである。
モスクワは寒いから夏であってもバスルームでシャワーから水が出るというのはかなりの我慢を必要とする。
その水シャワーを私はずっと使っていた。経費を節減するためであろうか、バスタオルを貸さずに、巨大なきっちんタオルをくれるのである。
何か自分が巨大なお皿とか丼になったような気分がしてこれはこれで面白かった。
Σdp1

 

2015年1月29日 (木)

2/14トークのご案内です

https://plus.google.com/app/basic/events/ch92ocaj1h3khtib14dbsddnm40

日時:2月14日(土) 14:30〜15:40
場所:サブウェイギャラリーM
(みなとみらい線 みなとみらい駅
  クイーンズクエア側改札口(B3F)を出て徒歩1分)
  https://www.mm21railway.jp/reservation/
出演:田中長徳 (写真家・PHOTOMENTARYアンバサダー)

プラハ空港のトポロジー

Sdim1366
Sdim1367空港待合室で仕事をするということが生活の基本になっている。

要するに流浪の民なのである。これは情けない次第だが、仕事の効率からすればこれは非常に良いことである。逆に非常に仕事の速度が高まる。

プラハから東京に帰る場合にはアエロフロートなどだとシンゲン条約加盟国の外つまり圏外であるから、ラウンジの内容はフードにしてもお酒にしてもややユーロ圏より質が良いようである。
もっともfrequentトラベラーの私としては何もラウンジで飽食したり酔っ払ったりすることが目的ではない。 静かなデスクと椅子があればそれで満足だ。この日はエアフランスでプラハからパリに飛んでそこから東京の羽田に戻ったのでこのラウンジはまだヨーロッパ圏内である。

オンラインチェックインが可能になってから事実上飛行機の出発の何時間前であろうともラウンジが利用できるようになったのは嬉しい。

ラウンジ難民の私であるからラウンジに入ると1番リラックスができるのである。この日は朝9時にはすでにプラハのラウンジに入っていた。それでパリ便の出発は午後8時40分であるからほぼ12時間ちかくである。こうなると仕事の量が非常にはかどって大変結構なことである。

ラウンジに居たら午後8時を回ってからアテンダントさんが私のところに来た。もうすぐこのラウンジはクローズするけど、どこに行くのですかというのである。この後のエールフランスのパリ行きに乗ると言ったら、あら、パリは素敵ねと回答があった。

いやそうではなくてそこで乗り換えて明日の夕方に東京に着くのだと言われたらちょっと呆れた顔をされた。欧州に生活している人にしていればこれはとんでもない長旅なのである。それが私には普通の生活なのである。だからヨーロッパのラウンジでリラックスしている東洋人は危険人物であるから注意せねばならない。
Σdp1

 

2015年1月28日 (水)

中野高円寺のトポロジー6

Dsc_1921中野から高円寺へのトポロジーもかなり奥まで歩いてきた。
もうちょっと歩けば環七にぶつかってそこを北に曲がれば高円寺の

はずである。

街を歩いているときの視神経と方向感覚そしてカメラを構えている右手の先の反応もその組み合わせなのであるが、これは文章に書き起こしてしまうと全くつまらない次第になる。

要するリアルタイムねに自分の歩行速度に同調して巻き取られて行く 視神経の体験の中に何かをキャッチしてそれが右手の人差し指を左右させるわけだ。

前方の視野にいつも注意しているわけではない。この場合は視野の左側に通り過ぎようとしている赤と白の縞模様がいきなり私の注意を引いたのである。

さてこの赤白の縞模様は以前どこかで見たことがあるといきなり私の不完全な神経の記憶は過去のデータベースを手繰り始める。

それは30年近く前にドイツはケルンの中心街のノイマルクトというところで興行をしていた移動遊園地の中にあったメリーゴーラウンドの舞台の背景の縞模様なのであった。

要するに自分の視神経は自由であるから何も今いる極東の東のはずれの島国の中心に視点を据えているわけではない。

常に自分の体験してきた一瞬見た光景と無意識の内に比較検証をしているわけである。まぁそこが写真が面白いと言う所以でもある。
NikonクールピクスA

 

2015年1月27日 (火)

中野高円寺のトポロジー5

Dsc_1895

私には名画を鑑賞すると言う趣味は無い。

ただ残念なことに世界中の美術館でいわゆる世界の有名な絵画をずっと見てきた。

というよりもそういうものを取材させられてきたのである。通常に絵画を鑑賞するのはオンライン上で十分だと思っている。例えばフェルメールの絵が日本に来たときにそれを何時間待ってその間ずっと前の人の頭を見ていたなどと言うのは最低である。
フェルメールを見るならウイーンのミュージアムで誰もいない時間帯を狙ってフェルメールの前にある長椅子に座ってずっと休息をしていれば良いのだ。これが絵の正しい鑑賞方法と言うものである。

一方で街中に存在する美術品とは全く別な存在であるところのキッチュな絵と言うのは好きである。将来、中野高円寺のランドマークの図録を制作するとしたらこの風景画はぜひとも入れなければならない。

あの時代から30有余年が経過して中野界隈の風景は一変してしまったが、当時と変わらないのは実にこの場所だけなのである。要するに昔のマンションのエントランスにこれはオーナーが居住者の心を豊かにしようという思いつきであったのであろう、それがこのような結果になっている。
だから私が中野界隈を徘徊している時必ずこの絵を全体の散歩のプログラムの中に入れるようにしている。
それで今回、この絵ををよく観察してその結果非常に面白いと思ったのは、まず絵画としては評価のしようのない絵ではあるが面白いと思ったのはパースペクティブが変なのである。

ザルツブルグの国際写真ワークショップで、シンデイシャーマンやラルフギブソンとかと一緒にワークショップを持っていたときに、毎朝見る風景は目の前の湖であってその先にアドルフヒトラーのベルヒテスガルテンの山荘があった。

その山は非常に高いのでほとんど首を曲げなければ見えないような位置にあったが、このヨーロッパアルプスめいたアノニマスな風景を見ていると何かその時の悪夢のような記憶がよみがえってくるのである。悪夢の記憶も甘夢の記憶も実は裏表で表裏一体のものだからそれは一向に構わない。
ニコンcoolpixA

2015年1月26日 (月)

高円寺中野のとぽろじー4

Dsc_1915中野から高円寺にかけてのいわゆる都会のトポロジーに関しての話

の続きである。
この界隈を撮影し始めた1981年当時には私はポラロイドカメラを使っていた。
いわゆるSX seventyというモデルである。当時のアーティストがこのカメラをよく使っていたので一般にも大ブームが起こった。それはデジタルが実用化する前の20年も昔のことなのである。

メトロの東高円寺から西に向かって環状7号線にぶつかる手前の北側に忘れられないお店があった。その名前をパリー洋装店と言うのである。パリではなくてパリ~と長く引っ張っているところが良い。
要するに間口半間の木造のそれは古い洋装店であってそのエントランスに描かれた看板も既に退色してほとんど見えないようになっていた。

それを撮影したポラロイドのオリジナルが既に紛失してしまったが新宿駅からバスで高円寺に向かっているときに私は無意識の内に新青梅街道の北側にそのもうこの地上にはないお店を探しているのである。


写真というのはその画像が失われてしまったら存在しないという全く当たり前の哲学をそこで学ぶことになった。

この場所は先週歩いたこの界隈の撮影でかなり手応えのあるものであったと思う。要するに集合建築物のバルコニーの上の 庇というか天井に円形の穴が開いているのだ。

どのようなコンセプトやこれや作られたのかという事は実は知る必要がない。ただそこに穴が空いているということで十分なのである。

ここに住んでいる人がバルコニーから上を眺めたときの空間の広がり方と、通行人が下から見たときの空間感覚とは形が出る事はわかっている

これは私の新しいランドマークであり中野高円寺の新発見の都会のトポロジなのである。

ニコンcoolpixA

 

2015年1月25日 (日)

中野高円寺のトポロジー3

Dsc_1918

少年の頃に今と同じように街を歩いていた。

かわらぶきの物干し場は憧れのまとであった。

それは非常に不完全な構築物である。その上に木製の三脚に乗せた小型の天体望遠鏡で星を観察できたらどんなに素晴らしいであろうかと思った。

ただ私の生まれた音羽の家には物干し台がなかった。2階建てのかなり広い家だったからかわらぶきの屋根の広さはそれなりにあった。木製の三脚とその上に乗せる安物の天体望遠鏡は既に手元にあった

ある時思い立って天体望遠鏡を屋根の上に運びあげた。しかし屋根瓦の上に直接三脚を載せるのはどうも似合わない。そこには三脚の脚を水平に安定するための物干し台が必要だったのだ。それが私にはなかった。

要するにヨーロッパの数百年前に見られたごく初期のシンプルな、露台を私が求めていたのであろう。

そういう少年の時の思い出というのは今でも 記憶の底に連絡があって中野高円寺の路地の奥で非常に不安定な物干し台あるいは屋根の上に構築された意味不明なオブジエを見ると私は興奮することがある。

木村伊兵衛が撮影した名作の中に隅田川の川開きの一枚がある。それは花火見物のショットであるがあの当時は花火を見物するにはやはり物干し台がベストという場所になっていた。これもこれで非常に懐かしい。
NikonクールピクスA

 

2015年1月24日 (土)

中野高円寺のトポロジー2

 

Dsc_1905
Dsc_1904

中野方面と高円寺方面のトポロジの話の続きである。
この界隈に1番親しんだのは35年ほど前なのであるが、

昔を3つ以上重ねた大過去のことは私の記憶の中の距離感で急激にクローズアップされてきたのはこ数年のことである。

しかしちょうど1週間前に近所のギャラリーで良い写真を見てその刺激がそのまま私をこの界隈を徘徊させることになった。
ここら辺の街並みが面白いのは町並みの無計画ということにある
思いもかけない道の先に思いもかけない別の小路のおしまいがあってその2つが合成されてまた新しい道の方向をつけているということこれは都会を探索するものにとっては非常にワクワクすることだ

似たような街は世界にあるけども私の知っている限りではイタリアはパレルモの旧市内の中心部がこれに似ている。迷路の草とか木に神様仏様が宿る
最大の違いはあっちはキリスト教国教会あってこちらは極東の果ての単なる無宗教な、そう彼らの言うところの草木に神仏が宿るところのアニミズムな国なのである。あちらは神の国、こっちは荒野最大の違いである。
もう一つは構成している、たて物の構造が石造りと木造モルタル2階建ての違いであろう。石が時間の経過に長く耐えて木造が短いからダメと言うのではない

むしろ移ろいゆく時間背景で見るのならばすぐにそこからアウトしてしまう木造スカイラインの方がよっぽど面白い。

モダンなビルディングにそろそろ飽き飽きしていると言うのは我々都市生活者の共通なこの世に対する倦怠感なのではないだろうか。つまり35年前には新宿に超高層建築物のブームが起こって写真学校の学生等はそれをもっぱらモダンな素材として撮影に行かされたものであった。

あれから時間が経過して今私たちが感じているのは例えば新宿からずっと西の方向に行った中野坂上あたりはそういった現代的なビルばかりだが実はその過去にかつて存在した木造モルタルの古い建築物にどうもそれに私などは憧れているのである。
でももうすでに遅い。

これは1種の写真のシークエンスである。画像の順序は上と下は逆になっている。通行する人物があまりにも日常の中に溺れているのが面白い
こういう人は最寄り駅の高円寺あるいは中野にまで耳にセンをしてるから何の考えもなくオートマティックに歩行してしまうのだろう考えてみればこれが現代人としてこういう都会に生きるための最善の方法ではあるのだ。ニコンcoolpixA

 

2015年1月23日 (金)

中野高円寺のトポロジー

Dsc_1867_2男性と女性はその記憶の構造がかなり違うもののようだ。

女性はあまり過去に固執しないようである。だから新しい環境でどんどん前進することができる。これは男性と女性の存在の の違いというものであろう。
稲垣足穗は真実を理解するのは女性のみと言っている。
私は男性で高齢者で写真家と言う因果な商売をやっているので現在から過去の時間経過に立ち返ったり、それぞれの過去のポイントに固執するのである。

こういう事は男性一般に共通することなのではなかろうか。ウイーンにいた頃に取材に来た放送局のカメラマンとその撮影スタッフで音楽の都ウィーンを撮影すると言うので取材を手伝ったことがある。

それから数年が経過して私が日本に帰国した時にそのカメラマンの人と再会していっぱい飲むことがあった。wウイーンの昔話に花が咲いて結構酔った時に、その実直そうなカメラマン氏は定期入れの奥からクシャクシャになった1枚の名刺を取り出して見せた。

その名刺はウイーン時代に私の知っている現地の音楽学生の持っていたものだった。無論女性である。ちゃんとした大放送局の社員がこうしてほのかな恋心を持ってそれを口に出すこともなくその名刺だけ大事にしていたのである。
いわば秘める恋というやつであろう。

同様の次第で記憶の町に行ったとき当時のガールフレンドの住んでいたアパートの周辺を徘徊したものだった。どうも男性はそっち方面の記憶力はとってもあるもののようで過去に固執したがるのである。
別に恋愛に限ったことでは無い。ウイーンでもプラハでもリスボンでもかつてあった自分の好きなカメラ屋で既に閉店している店のしまったシャッターの前にたたずんでその時代を思い起こしたりする。
まぁそういうふうにできているもののようだ。

このポイントは中野3丁目のずっと西に伸びていく東京のどこにでもあるような普通の道である。
正面に見える高度成長期にたまたま生まれたような4階建ての集合住宅に私は日本に帰った直後によく通っていた。

30数年前の話である。だからそこにいた人物のその後などは全く知らないのである。
そう考えてみると私が恋をしたのはその女性に出会った事は間違わないが今になってみるとどうもそれは建物とか町並みに恋をしていることになるのではないか、それに気がついた。

このエレベーターのない建物の1階に焼鳥屋が入ってすでに20年以上前であるが今回よく観察して面白いと思ったのは焼鳥屋に合わせて建物のファサードがオレンジ色に塗られている点である。
それを宗教的な意味で認識したというのは我ながら非常に面白い発見だった。

要するにモスクワ周辺、俗に黄金の話と言われている地域には小さなロシア正教の教会がたくさんある。それらはかなり派手な色にぬられているがこんな色のやつもあったことを思い出してそれがそれでまた懐かしかった。自分の過去の懐かしい思い出は既にその本質は失われていて私の場合中野高円寺界隈のトポロジーというふうに意味が変わっていた。これは撮影をする者にとっては絶好の次第なのである。

リスボンの展望台であれはいつだったかミュンヘンから来た女性に出会って一緒にお茶飲んだことがあった。大体そういうのは失恋の結果の旅であることは間違いないポルトガルと言う所は恋を捨てに来るところのようである。だからポルトガルの敷石には捨てられた恋が山になっている。
中野高円寺のトポロジーは一体どんなものであろうか。★ニコンcoolpixA

 

2015年1月22日 (木)

泰興飯店

Dsc_1868ここは中野駅の南のロータリーからあれは新青梅街道というのか、狭い道をゆるゆる西に向かった北側にある泰興飯店である。

いや元泰興飯店があった所というのが正しい。この間もガラクタ屋の二代目とラーメンの話になった。彼はなかなかのラーメン知識人である。あたしの知らない「家系」を講義してくれた。

あたしは観光地としてのラーメン屋には行かない。有名店に行くのは意味がないと思っている。

町を歩行してラーメンが食いたくなったら最初に出会った店でラーメンを頼む。つまりあたしの街歩きのスナップの延長線上にラーメン屋は存在している。

この店には入ったことがない。入っておけばよかったとう気持ちもない。入らなかった店は縁がなかったまでの話である。

しかしこの日、つまり「東京25区」を撮影していた午後には泰興飯店の脇に新規の建物が出来ていた。

それはこの三十年以上の時間軸の上で重要なことに思えた。

★ニコンクールピクスA

2015年1月21日 (水)

杉並学習塾

Dsc_1912中野から高円寺を真剣に周回している人間は地元の人ではあまり居ないと思われる。まずあたしとヤクルトのおばさんくらいなものか。

地元民はそこが生活の場であるから、環境に注意するということはない。あたしは部外者であるから生活からは脱却しているので環境の観察の方に注意がゆく。

それなので外国と区別がない。二月に何かの企画で「東京25区」というグループ展をアイランドギャラリーの企画でヨコハマでやるのである。特別ゲストとして坂崎幸之助さんも出品する。

東京はあたしも半世紀以上にわたって撮影しているのでこれは楽しみだ。それでその展示用の作例をあちこっちで撮影している。

これは杉並学習塾である。ちょっと分かりにくい迷路の奧にあるあたしの好きなランドマークだ。

★ニコンクールピクスA

2015年1月20日 (火)

928番のくにやさん

Dsc_1544カメラの製造番号に異常な執着を見せるカメラ人類がいる。
我が偽ライカ愛好会のくにや怪鳥(変換ミスではない。そうお呼びしているのだ)もそうだ。
928という番号に固執してその数字のカメラを集めている。
まず千台に一台の確率である。この人は昨年はライカジャパンにデジタルライカを予約してそれを受け取りに行ったら、そのライカの番号が928であった。こういうのは悪運というのではなかろうか。

先日の偽ライカ愛好会の合宿の前の日に「明日は大事な用がある」と書き込んでいたので倫敦に留学の娘さんの一時帰国だな.。やはり怪鳥は会社経営より偽ライカ、いやそれより家族のことが一番大事なのだなと感心していた。
翌日、怪鳥が自慢そうに持参したのが、これである。国産のライカM4の名も高き、キヤノン6Lだ。その製造番号は928なのである。やはり一番大事なのは写真機の製造番号なのかと、、ちょっとしらけた。

これはがらくた屋さんで買ったそうだ。あたしが怪鳥はいいカモだから、928のカメラとかレンズが出たらまず怪鳥に連絡と二代目に話したのが数年前だ。怪鳥はすでにガラクタ屋から3台の928号を入手しているのである。偽ライカ愛好会の会員一同、怪鳥のようなカメラもーどん人類にだけはなりたくないと、これが反省会でのテーマとなった。
★クールピクスA

2015年1月19日 (月)

半世紀ぶりに上高田の家を探す

Dsc_1958あたしは東京芸大の友人が多かった。当時は日大写真学科はロックアウトであったから、芸大に出入りして学食のキャッスルで時間つぶしたり、芸大の学園祭のパンフにあたしの名前とトライXが出たりしたものであった。
奥西画伯は今は鎌倉に立派なアトリエを持つ巨匠である。
あたしがお付き合いのあった当時は上高田に一軒家を借りてそこで制作していた、
あたしの東京ニコン日記にはその当時の作例が何カットか掲載されている。
それから半世紀が経過した。

この半世紀の間、あたしは中野から落合を散策する時に奥西さんの住んでいた家をずっと捜索していた。
それで発見できなかった。土地勘のあるあたしにしては不思議なことである。

当時は落合の駅から早稲田通りを西に進んで、消防と美容院の角を右折して坂を下って何本目かを左折してその右側であった、
これが発見できなかったその理由は消防がなくなって交番になっていたせいであることが今回判明したのである。
くだんの家は半世紀前にもすでに古家であったが、時間を経過してなにか正倉院めいた格式が出てきた。
木造建築というのはある時間を過るとそういう存在に変容するもののようである。
モスクワの近郊で見た、正教会の古風な教会で木造のやつが似たような存在感を持っていることに気がついていたけど、まさか昔の友人の古家にそういう変身がおこるのは想像の他であった。
★ニコンクールピクスA

2015年1月18日 (日)

さとる師匠の個展を冬青に見に行く

Dsc_1886
Dsc_1931 中野と言えば三十数年前には杉並区との区界にMNが居てその周辺の地理には明るい。MNは女子美を卒業して大学で助手をしていたのでさらに南の方の地理も明るい。
その後、四半世紀前にはモノマガジンとお付き合いがあったので元は市場であった地下4階地上五階のコンクリ打ちっ放しの四角いビルにも仕事打ち合わせで行った。

世紀が変わってから十年ほど六本木ヒルズに仕事場があったのでこの界隈は手薄になった。
カメラ人類さんは毎日フジやカメラに巡回しているようだがあたしはもう卒業である。
ギャラリーの青冬は女子美の近くのゆるい坂のバーバーの先にある。

あたしは写真展に行かないのが仕事である。在廊の作家と(これを作家さんという用法は間違っている。品性にかける)お話をすることもない。
しかしさとる師匠が頑張っていたので二年前の作品と今回の作品とのアプローチの違いなどをお伺いした。これは面白かった。
神社仏閣で神仏にご利益をお願いことをするのは間違っている。ただただ手を合わせればよいのだ。これがメーンテーマであった。師匠はこれを母上から教えられたそうだ。母上は写真の偉大な師匠である。

新写真集の印刷再現が怖いほどである。要するにオリジナルを超越したトーンがそこに再現されている。ここが師匠の怖い作家である所以だ。

話の後半はもっぱらpeter likの話題になった、ノースリーブでテンガロンハットのオージーをグルスキーとかシャーマンの列に加えて良いのかという話で沸騰した。

だからこの場合には作家が在廊していて良かった。在廊の作家と親交を深めるようなフレーズはここには存在しない。もっぱら決闘写真論である。

この前の吉村朗展の時と同様に精神視神経昂揚して、界隈を撮影して廻った。それで小公園で師匠の新しい写真集を開いた。

ユージンスミスは自分の写真はライトバリュー17の光線状態で見て欲しいと言ったがさとる師匠の写真集もまさにそれであった。

★ニコンクールピクスA

2015年1月17日 (土)

軽いデジカメのバランスを完璧にする

192この間のプラハではクールピクスAと、ΣDP-1とそれに一台のライカを交互に持ち替えて撮影した。

ライカは長年使っているのでその大きさと重さになれているが、デジカメはメーカーのエンジニアが小型軽量の研究をしすぎた成果なのであろうか、軽すぎなのである。
Σのカメラはそのパノラマスタイルからそれなりの重さを期待していたら、実機をもったらあまりに軽いので拍子抜けした。
フェースブックなどでこのΣのテストを自慢そうにやっている人がいて、その目的は何かと思えば「あら探し」である。ようするにテストだけしている人はそっから先に進化することはない。これは悲しいな。

Σの問題点は一日中持っていると、左手が遊んでしまうことだ。これはよくない。それで古いコシナの丸いグリップをつけていた。前回の偽ライカ愛好会で森のいぐれぐ(仮名)という人がΣを持参して、やはりハンドリングの問題を指摘していたので、たまたまクールピクスAに漬けていたグリップを進呈した。
もう一個持っているので問題なしと思ったのだ。

ところがカメラジャングルでそのもう一個を探し出すのは容易ではない。
ガラクタ屋に行ったら戦前の雲台があったので求めた。三脚に付けるのではなく、グリップ代わりにするのである。これはいいバランスになる。

2015年1月16日 (金)

ミラーイメージあるいはセルフィー

190193 ウオーカーエバンスの写真集ファースト アンド ラストというタイトルだったと記憶するがその見返しに彼の青年時と老人になってからの二枚の顔写真が掲載されていて面白く思った。

あたしの天国の友人で言えば、一ノ瀬とか破井戸モウなどは若くして死んでいるから老年の写真は存在しない。
これはなかなかスマートであるが、あたしは生き延びているので自分のじじいとつきあって行くほかはない。

一方で面白いのは写真家という仕事は長生きすると過去の記憶が一本のモノクロの長編映画のように見えてくることである。
この年齢が加算して自分の時間を高みから傍観することが出来るというフレーズは、80年代にモールから出したあたしの写真展のパンフレットに島尾伸三が書いたことである。もうひとりの筆者は桑原甲子雄先生であった。
当時はあたしも三十代でそのことには気がつかなかったが今にして島尾の慧眼を尊敬する。

この写真はウイーンのアパートで撮影したものだ。百年以上前の天井の高いドナウ運河に面した住居だった。
それから幾星霜。
今も極東の隅田川のほとりに住んでいるのも面白い。春のうららのすみだがわ、ではなく、ベンジャミンブリッテンのSUMIDAGAWAなのである。

セルフィーの面白さは当時使っていたカメラがわかることだ。これはライカの旧型とフェドの2型のようである。現代の方がiPhone。

2015年1月15日 (木)

二度つけ禁止

Photo

偽ライカ愛好会の新年会でもードン(猛烈に呑むこと)した店である。

あたしはこの界隈の地理にうといので下北沢も随分と変わったなと思って、駅名を見たら下高井戸であった。

下北界隈とかこの界隈に東京人を狙った「偽なにわくしかつ」が跋扈している。そのメーンテーマが「ソース二度つけ禁止」なのである。

ソースのバットの側にちゃんと書いてある。これってジャンジャン横町のだるまにも書いてあったか記憶にないがどうもそのような注意はなかった気がする。

二度つけなど、東京でもやらないというよりそういうことをやるのは常識の外にある。しかし安部公房が書いた時代のジャンジャン横町ならそういう人もいたであろうから、これは「ちょんまげ禁止の断髪令」のようなものであろう。すなわち文化遺産なのである。

ジャンジャン横丁の串カツは1985年になにわを8x10で撮影に行った時以来喰っていない。あれをくいつつ毎晩宴会やっていたら身体こわしまんがな、である。

下高井戸のもーどんでんがな店で向かいに偽ライカ愛好会のなかじー先生が座った。恰幅のいい人で顔本などはパリとかマンハッタンで呑んだレアなワインのラベルをアップしているような人だ。

ソースの漬け方をみていたら、串カツの先の方にちょっと漬けるだけだ。これが小笠原流でなかなか上品だ。串カツ屋で生活背景が分かるというのは面白かった。

あたしなどは肉体労働労働者なのでどっぷり肩まで漬かる。

あ、塩分は一日7グラムをマックスにしてます。

★ニコンクールピクスA

2015年1月14日 (水)

決定的瞬間は一枚だけだ

191七十年代に撮影した作例である。アンダーパーフォレーション効果が出ているので、これは旧型のライカか、旧型のコンタックスかキエフで撮影したと思われる。レンズは多分ソ連製のビオゴンコピーであろう。35MM広角である。

この作例はウイーンモノクロ70の表紙にもなっている。これはあたしが選んだのではなく編集者が選らんだものである。本を出すのは分業であるのであたしは編集者の言うことをよく聞く写真家である。

この本は1000部限定で取り次ぎは通さないでオンラインで売った。1万円なのに最初の週に大量の発注があったことは関係者の間で神話になっている。

このネガを見ているとこのショットは1枚しかない。市電が通り過ぎる瞬間を撮影したのであるから、当然である。
決定的瞬間というのはワンカットしか存在しないということを教えられたワンカットだ。

2015年1月13日 (火)

Mordon

Dsc_1539ニコンSがモードンになる話

偽ライカ愛好会の2015年の新年大撮影会が開かれた。
持ち回り監事で毎月1回撮影会をやっている。

私が外国に行っている時もちゃんとやっているから大したものである。
京王線の代田橋から下高井戸界隈を行軍した。偽イスラム国兵士はちょっと年食っているが総勢十名はパリの作戦の二名の五倍の勢力だ。

五年近くやっているのだからたいした組織力のように思えるが、実際には向上心がないことを理念としているので長続きするようである。

個性的なメンバーがいるので私のカメラエッセイのネタには苦労することがない。カメラのバカ話は偽ライカ愛好会に学べ、である。

このブログで最近ニコンSのことをよく取り上げているのでその影響であろうかSを持参したメンバーがいた。

Sにはカールツアイスのゾナー50ミリf1.5がついている。ところが力ずくでレンズを装着したので何やら変なことになっていて、レンズ固定ピンが上下逆のところにマウントをしてしまった。このメンバーはローライフレックスにフィルムを逆さまにいれたりする天才なのである。

その場所は下北沢の天神様の神社の境内でちょうど天神様のお使いの牛さんの鼻が祈願成就で撫でられてピカピカになっている場所であった。
メンバーのプロフェッサーOがこれは予備校のi隠語でモードンというのですと説明してくれた。

そのモードンという語感が良いので別の意味をその場で加えたのである。
ニコンのレンズを力ずくでマウントして外れないのでモードン。これである。

それでこの界隈はモードン発祥の地ということになった。

かなり前にカメラ友達の野々宮がニコンSP に35ミリの広角レンズをつけたらこれが外れなくなってしまった。ニッチモサッチモ行かずフォーカシングも出来ない。
ニコンのサービスセンターに駆け込んだ。今にして思うとこれはレンズとボディーがモードン状態になったわけだ。
受付の人がSPのレンズのモードン状態を治せる古い職人さんがいるのだが今食事に行ってるので30分ほど待ってくださいと言うことだった。
日本光学工業の匠に頼んでモードンは解消したわけである。
物事の状況がニッチモサッチもいかなくなるという意味で使えるMordonであるが、別の使い方もある。カメラ店のウィンドウの入り口でばったり会ったら「もう丼」とあいさつ。

撮影は早めに切り上げて下高井戸の市場のすぐそばにある、もうどんでんがなという店で、猛呑新年会となった。写真を見ると、イスラム国ではなく、北のなんどか視察団という感じだな。
それもよろしいな。もーどん!
Dsc_1541
★ニコンクールピクスA
右のV会員のニコンがもードンになった。そのままレンズ交換しないで撮影すればキャパになれると指導した。ニコンにゾナーはトレンドかも。会員はもーどんニコン持って上海に撮影に行ってる。

2015年1月12日 (月)

喫茶光と中華桂苑

Photo_7

Photo_8札幌に行くのはカメラのコレクションを見に行くのが目的であるがそのついでに列車に乗って小樽に行くことがある。

これは単なる気まぐれなのであって1年に2回行く札幌でその二度のうちの一度は小樽に行きたくなる。行きはJRで行くのであるが帰りは小樽駅前からバスに乗って札幌に戻ってくる。

同じ事機関を使うのは退屈である。ちょうど東京からプラハに行くのに行はエアフランスで帰りは別のエアラインを使うようなものだ。

小樽の有名な倉庫街はいつも外国人観光客で賑わっているがそこには行きたくない。40年ほど前に東松照明さんが小樽を撮影していてこの倉庫街撮影しているのでそれ以上の印象は不用なのである。

小樽は駅前にあるアーケードにもっぱら行くことにしている。ほとんどがシャッター街になっているのであるがアーケードの真ん中にある中華料理店が非常に人気でいつも混み合っている。初めてここに行ったとき周りの常連さんが食べているのを見てあんかけ焼きそばが1番人気なのでそれを頼んだら非常に良かった。コップ酒を脇にいっぱい備えるとますます旅が楽しくなる。
そんな店なのである。それで今回行ったら創業50年ということで1割引になっていた。50年と言うのは東京オリンピックだけではないのである。

食事をした後はそのアーケードの近くにある喫茶店に行く。その喫茶店の名前が「光」というのも実に奇妙である。何か写真家が来ることを最初から予知していたような店名である。店内の作りは日本人が考えたウイーンのカフェというようなイメージが非常に強い。

それで面白いことに、内部は撮影禁止なのである。コーヒーの味は所謂、純喫茶の味で結構コーヒーは濃い。この店のトイレに行くのは店の奥の階段を上ってそこで木製サンダルに履き替えるのである。それが昔の湯治場のような感じがして非常に奇妙である。小樽駅前から札幌駅前行きのバスの時間はあらかじめ調べてあるので大体5分ぐらい前に店を出て小走りに走って行くとバスにちゃんと間に合うことになっている。冬で道が凍りついているような場合には私はそういう道に慣れていないから倍の時間は要する。

 

2015年1月11日 (日)

CTSメガロポリス2

2都会の写真を長年撮影しているので大都会へのアプローチ、つまりその距離感に関してはいろいろ考えることがある。昨年末に札幌に行ったときのホテルの窓からの写真を掲載したが、これはそのパート2と言う意味合いである。

最近は機材がシンプルになっているのでこの間の札幌でもフイルムカメラはフランス製のライカ、フォカに28mmをつけた。デジタルカメラはNikon coolpixであるからこれも28ミリ相当のレンズである。ほとんど望遠レンズを使わない主義なのであるがポケットにはiPhoneファイブが入っている。

夜部屋に帰ってきて窓から外を見たら外の風景が何か未来都市のようであるのでそれをiPhoneで望遠側にして撮影をした。朝になってみればつまらない風景なのであるがこれは大都会の夜の照明がその存在を際立たせたというべきであろう。

札幌滞在の最後の晩に外から帰ってきていつものように窓の風景を見た。その時気がついたことだがこれは望遠レンズサイドの撮影ではなく周りの黒い空間、つまり闇の中に浮かぶ都志として撮影しても全く問題は無いことに気がついた。

つまり私が通常使っている28ミリ相当の広角レンズでジャストフィットするような風景であるということに気がついたのである。
それで撮影したのがこの作例である。闇の中に浮かぶ近代都市という感じがしてこれはこれで気にいっている。

仕事の時には望遠レンズを使うことがある。それは主題を浮き立たせて見る人に物事の順序をわかりやすく説明するためのものであるからだ。

広角レンズはそれに比べて形而上学的であり別の言い方をすれば象徴主義的な描写をするレンズである。私はやはり広角レンズで都市を撮るほうが好きだ。いやそれが私の視神経の癖であるということもできる。

 

2015年1月10日 (土)

金色カメラを考える

189カメラの外見の色には複雑な心理状態がその背後に隠れている。

大昔はカメラはブラック仕上げであった。それが1932年にライカがD型を出したときにクローム仕上げにしたのである。これは当時は非常にショッキングな事で斬新なカメラの仕上げだった。

それと前後してライツは金色のクローム仕上げの豪華モデルを出した。ライカラクサスである。これはレア物なので現在では非常に高価になっている。コレクターとしてはこの金色ライカが欲しいのでレプリカを作った。そのレプリカは本物と区別するためにアルファベットのrの文字が刻印されていた。

要するにオフィシャルな製造であるのとそうでは無いものを区別するためである。しかしこの区別はその後だんだんいい加減になってきて勝手に金色のカメラを作るという時代になった。問題は例えばライカM3の場合だが製造番号百万台のライカM3をライツは金鍍金にしてこれを長年のライカユーザーであるアメリカのスター写真家に贈呈したのである。こういうのが普通だからオフィシャルなゴールドカメラとプライベートに作られたゴールドカメラの間の国境線がかなりいい加減になってくる。

この金色仕上げのコンタックスカメラは25年位前に銀座のスキヤカメラで買ったものだ。当時からこのように古い感じの仕上げになっていたのでそれに惹かれて買ったのであった。ワシントン条約以前のリザードスキンである。今メッキをしたばかりのような金色のカメラというものは使いにくいものである。
ちゃんと金メッキをしたゾナーの50ミリがついている。非常に気に入って数年使っていたらいきなりシャッターリボンが切れた。コンタックスは他にもたくさん持っているので高い修理代を払う必要はないと思っている。それでカメラはそのままだ。鑑賞用である。

カメラメーカーにとってゴールドカメラというものは鬼門である。カメラの売り上げが低下してくるとすぐそういうモデルを作ってさらに失敗をしたりする。そういうゴールドのカメラのセットは立派な箱に入っていてさらに白手袋がついていたりするのは全くいただけない。
このコンタックスだがメッキが劣化しているというのが気にいっていた。そのときの心理状態を考えてみるに古代の仏像、例えば百済観音は金箔がほとんど剥落して原型をとどめていない。ところがそこに味があるということに気がついた。コンタックスはそんなに昔のカメラと言うわけではないがこのカメラはちゃんと修理してさらに古色を帯びるといいと思っている

 

2015年1月 9日 (金)

カフェから通りを見るような気分

Photo_14七十年代のウイーンから真冬にパリに到着して最初の印象はパリの冬の暖かさである。パリで待ち合わせの人は東京から到着してパリは寒いと震えている。

金子光晴もパリの冬は寒いと「眠れ巴里」の中で書いているけど金子は亜細亜経由でパリに来たのだからまず当然だ。

七十年代のウイーンは酷い寒さで敗戦時と同じだと古老から聞いた。ようすうにソ連とアメリカのセクターの間がドナウ運河であってそこの河の水が凍ったのである。

あの当時に比較すればウイーンの寒さなどは子供である。東京の寒さはすきま風の寒さだ。

スエーデンのハッセルの本社で報道部長と話しをした時に、東京の寒さは世界一と言っていた。放射線量も世界一かも知れないが、これは寒さのようには体感できない。

寒さの方は風で体感温度が下がるのとからからの空気のせいである。

パリではカフェから通行人を眺めるのが楽しみである。こないだ、池袋の名も無きコロッケ屋さんで店の縁台に座って持参のコーヒーを飲んだ。一瞬、周囲はパリに変貌したような気になったのはあたしの訓練の成果であることは間違いない。

店主は白衣一枚でさむがっていたからだ。

昨日のパリのアタックの現場は例のメゾンライカのすぐ裏手にあたるので吃驚した。小さいカフェに座って買ったばかりのライカの感触を確かめて通行人にピントを合わせていたのを思いだした。

★ニコンクールピクスA

2015年1月 8日 (木)

クーデルカのエキザクタ

188ヨセフクーデルカは最初は劇場の照明係りであった。必要があって舞台の写真を撮影していたのが、1968のソ連の侵攻で写真家デビューした。愛機はエキザキタに25MMフレクトゴンレンズであった。

クーデルカが「西側の人」になった当時の神話はいろいろある。ドラマ仕立てのお話が多いが実際には西側に出かけてそのまま戻らなかったというのが真相らしい。これはプラハの関係者から聞いた。それで今でもプラハではクーデルカを良く言わない連中も居る。
我々にはここらが理解しがたいのだが、これは現実なのだ。
七十年代にウイーンで出会ったアメリカから数十年ぶりに里帰りしたハンガリーの紳士は祖国への入国を拒否されて、ウイーンの路地裏をさまよっている時にあたしに会った。自分の話を聞いてくれというのだ。
それでハンガリー料理店にあたしを伴って、パラチンケ(ハンガリーノパンケーキ)の上に涙を落とした。国境は残酷である。

東西の対立が無くなって四半世紀が経過してクーデルカも「西側のライカ」の愛用者であるが、ファンとしては東欧時代の彼の愛機エキザクタの作品が好きだ。

ようするにタルコフスキーがまだソ連に居た当時にソ連製のミッチエルで撮影した映画が好きで西に移ってから、レンタルのアリフレックスBLで撮影したのはどうもね、、、と同じ背景がそこにある。まあファンというのは勝手なものです。

これはエキザクタの最終モデルVX1000である。これが現行機の時にあたしは東ベルリンのカメラ店でそのパンフレットをもらった記憶がある。1975年だった。

2015年1月 7日 (水)

ウイーンアルザーストラーセ駅

Photo昨年夏の京橋アイランドギャラリーで展示したウイーン1973の中の一枚である。
アルザーストラーセ駅はウイーンの環状線のシュタットバーンの駅である。赤い四両連結の玩具めいた電車が高架線を行き来していた。
今ではそのままメトロになってU6とかの路線になっている。
メトロであるが走っているのは高架線の上である。ウイーンの西部のギュルテルという交通の頻繁な道路に面してその道と平行に走っている。
ここらは情緒、それも赤旗翻る赤いウイーンという感じがあたしのノスタルジーだ。
労働者街に憧れるのはあたしの出自によるものかと考えたが、あたしは実際には未組織労働者なのであって、赤旗とは無関係というわけだ。それで赤い五月のウイーン(当時は市庁舎前でメーデーの集会があって首相も市長もインターナショナルを歌っていた)に憧れるのであろう。

ウイーンで商業映画を撮影した当時、労働者街で秘密の会合をするというシーンがあって、その場所選びに苦労した。その飲み屋は旧市街の郵便局の側にあるのを撮影に使った。そのバーは今では携帯屋になっている。

この駅の看板の壁は今では見る影もないが、一種のモダンアートになっている。
こういうビルボードの堆積はかの旧市街のカフェの入って左側の壁もそうである。

★ライカ ジュピター35MM コダクローム

2015年1月 6日 (火)

昭和25年の海外ニュース

186偉大なユリシーズの著者の肖像はモノクロでしか残っていないと思っていたら、カラーのがあった。作家は眼鏡の上に古文書を天眼鏡で見ているショットであった。

ダブリンには行ったことがないが、トリエステには行ったことがある。双方の類似点などを考えていると時間が経過する。そういう時間の経過は楽しい。

天眼鏡はじじいの愛用品と決まっていてなかなか小さい文字を見るのに使うのをためらっていたが、ユリシーズさんのおかげでその戸惑いがなくなったのに感謝している。
これは昭和25年の海外ニュースである。海外というのに重みがありますね。

こうして見開きを見ただけでの感想はあたしが現役で使っているカメラであるなという点だ。
当時の日本にはまだ一眼レフはなかった。
欧州ではエキザクタがあり、レクタフレックスがあった。まだペンタプリズムという用語がなくて、五面プリズムと呼んでいたのも奥ゆかしい。

吉田健一の食いものの本を見ていたら、当時は餃子の日本語がなかった。吉田は肉をワンタンの皮のようなもので包んだと表現している。これは実に素晴らしいレアリズムである。
餃子を五面プリズムで撮影すれば当時の新生日本の気分になれるであろう。

2015年1月 5日 (月)

FED100mmに吃驚する

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Photo

3

1004ソ連製のフェド100ミリを久しぶりに使って驚いた

フェドの愛好者はちょっとへそ曲がりなところがある。

この小さなレンズは戦前にソ連で作られたものだが当時28ミリ、50ミリ、ーそしてこの100ミリがセットになっていた。デジタル以前の時代には戦前のレンズであるから色が浅いし使い物にならなかった。それが最近は色補正ができるから一挙にその存在価値が上昇したのである。

これはライカMD-2に付けて目測で撮影したのだが実によく写る。

以前、赤瀬川原平さんと何かの対談をした時にあたしのライカにこのレンズがついていた。金属人類学入門の原平さんがこのレンズを褒めてくれたのでその場で進呈した記憶がある。
★ライカMD-2  フェド100mm
187

 

2015年1月 4日 (日)

昭和25年7月号のアサヒカメラ

 

185古いカメラ雑誌の記事を見るのは楽しみなものである。

あたしが三歳の当時の雑誌の広告である。

この骨董趣味はあたしは二十歳の頃からやっていた。二当時昭和25年などには二十年前のことであるからタイムラインではつい最近のことであったはずだが、その時に感じた二十年前当時の新品カメラはなんとも古くさく感じたものであった。

あれから四十年余りが経過して今に当時の印刷物を見るとさらに大昔に感じるのが常識であろうが、あたしの印象はその逆であって昭和20年代の最新カメラは実に新鮮に見えるのである。
そこが非常に面白い。

当時のカメラ雑誌はまだ終戦の焼け跡の風景をそのままに引きずっている感じがあってそれが歴史的な事実をして重く感じられる一方で、新生日本の建設の意気も同時に感じることが出来る。
こうしてニコンとニッカが並んでいるところなどは良い案じである。

これは注目すべきニコンの広告である。この枡目に文字を散らしたデザインが秀逸である。しかし戦前のバウハウスからみの雑誌デザインで似たような(当然にドイツ語)のを見た記憶があるから、これはぱくりではないにせよ、参考にしていたのではなかろうか。
もっとも新生日本の新基軸の写真機はもともとドイツのそれを参考にしていたのだからそれはそれで良いと思う。

面白いのは現在67歳のあたしが主力で使っているカメラが昭和25年の最新式なのである。別に不便は感じていない。

2015年1月 3日 (土)

F6B蓬莱飾り

184

F6B蓬莱飾り

うちには六曲二双の金屏風がある。

その内の一つは黒川さんの中銀カプセルタワーに銀座八丁庵を構えていた時に使っていた。古風な金屏風で裏にはウサギの意匠が散らしてある。佃ではこれを寒風しのぎに使っている。それが金屏風の本来の使用法であろう。

年末に明治記念館の脇のホテルに缶詰になっていた時に、絵画館を見た。その勢いでYouTubeで明治天皇と日露大戦争見たら御前会議で天皇陛下が金屏風の前に座っていた。
実際の御前会議は金屏風があるかどうかは分からない。

ニコンのF6Bというのは日本光学のニコンの形式番号であって、一番最初はF6B-1で製造番号は6901だった。このカメラは不良品というのでテストも受けられずに、廃材の箱に廃られたのを関係者が拾い上げて日本光学五十周年の日にニコンの父、更田さんに贈呈したそうである。それから時間が経過してもうすぐニコン百周年だ。

新年の蓬莱飾りとしてF6Bを生花ならぬ活けカメラして見た。
金屏風はモノとか人間とかを象徴的に見せる効果あり。

2015年1月 2日 (金)

初日の出カメラ大周遊メモ

182_2 今年の抱負とか、目標などあるはずもない。
未来はあたしの貧困な想像力のずっと上を行っている。
以下はメモ書きである。

★初日の出カメラ大周遊。朝は快晴。あたたかし。昼から気温下がり風花舞う。
東京駅北口から都バス荒川土手経由西新井。 都バスで掘割のパチンコ太陽(天国と読む)を礼拝。
東池袋から雑司が谷霊園。雑2ストア。
日の丸食堂礼拝して、豊島が丘御陵礼拝。
音羽五丁目の生誕マンホールにもうでる。

江戸川橋から都バスにて上野広小路。
大江戸線にて帰。
まるでピルグリムファーザーズ。信仰と黙示の一日。
183

2015年1月 1日 (木)

ライカなお正月は昭和八年

181あけましておめでとうございます。

本年もフォトメンタリーチョートクカメラ日記をよろしくお願いします。

三十年前、まだテレビが我が部屋にあった当時、「お正月を写そ!フジカラーn100」という広告が流れていた。今昔の感があるが、あたしの場合、やはりお正月はフジカラーで撮影している。それをカラープリントではなくスキャンするのが異なる点だ。

このライカはウイーン時代にアメリカから買ったものだからすでに四十数年になる。その間、一度オーバーホールしてまだ使っている。バッテリーなんか不用である。

フィルムカメラは数十年経過しても使えるけど、デジカメはそうはゆかない。
一年の初めは写真機とのお付き合いの方法を考えるには恰好の時期でもある。

このライカには前のオーナーの名前が刻印されている。その名をWolfさんという。有名な音楽家と同じ苗字である。それでこのライカはウイーンで使うにはなかなか趣きがあった。

お馴染みの古ライカにフェドのレンズを付けてウイーンの町をまた歩こうと思う。

★古ライカさげてウイーンの寒さかな

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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