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チョートクカメラ塾ブログ

Chotokuぶらり パチ塾

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2014年12月31日 (水)

アローカメラに続く坂

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2_2 今年もよく海外に行った。前半はほぼ毎月欧州通いであった。四谷のアローカメラのシドニーは第四土曜の午後二時からはじめる、あたしのカメラ評論寄席である。

入場無料ですでに十数年来継続している。パブリックな場所では一応、発言には注意している。変な誤解を受けないようにしている。

ただ唯一の例外がこのシドニーである。ここでは本音トークであって、議事録がないから良いけどかなり危ない話をしている。

観覧者が少人数というのも良い。これを長年継続している買い取り名人と二代目の野田父子にはつくづく頭が下がる。

第四土曜日という日には日本に居る、あるいは日本に踊るようにしているのだ。以前は成田とか羽田とから突撃リムジンサービスで会場に駆けつけたこともあった。

最近ではシドニーの数日前には日本に戻るようにスケジュールをセットしている。

アローカメラは来年創立半世紀で地元で記念展を開催するようである。ニコン百年、アローカメラ五十年。それぞれサイズは異なってもそれぞれの生業に生きているのは素晴らしい。

最近、新宿の西の方面を良く歩く。坂と谷の町である。曙橋からアローカメラに向かうだらだら坂も好きな場所だ。アローカメラに続く道である。

2014年12月30日 (火)

ΣDP1を磨く

180Sdim1471ΣDP1を使い始めて二ヶ月になる。

十一月のプラハでかかなりのショットを撮影した。四半世紀住み古したプラハのアトリエをたたんできたのでその件に関しては若干のノスタルジー^がある。

そこらをノスタルジーに感じているので一冊の写真集にまとめるつもりである。写真集というのは「紙の上の堆積した人間のノスタルジーである」ことが明らかになったのだ。

Σの画質に関しては諸方面で話題になっているが、あたしの記憶に残るのは。アイランドギャラリーでニューヨーク時代の8X10のモノクロネガをスキャンしてもらったその結果である。これはΣDPで複写されたものでそのプリントを見て驚いた。

ネガから引き伸ばしたのよりシャープに見えたのである。あたしはしかし先鋭度よりカメラのデザインが好きだ。iPhoneの上でデジカメの画質を語るのはナンセンスであってデジタルカメラのファシストであるからだ。デジカメマリネッテイである。

プラハの巨匠スデクは戦前コダックのカタログを見てパノラマコダックに驚いて、カメラのソーセージと感激して、戦後になってそのカメラを技術博物館から借りて名作プラハパノラマを撮影した。

その伝によってあたしもΣのソーセージで撮ったプラハの写真が傑作になる可能性は否定できない。

カメラはシャープネスよりデザインの思想が大事。

★Σdp1

2014年12月29日 (月)

今井コレクションの1000ミリ

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Photo_5今回の札幌巡礼での白眉はこのレフレックスニッコール1000ミリであった。これがあたしのニコン史で有名なのは、1960年代のカメラ雑誌の広告で「名はサイモン ニコン」というのによっている。

カメラマンのなんとかさんがニコンを愛するあまり苗字をニコンに変えてしまったというストーリーである。

あたしが真似すれば、チョートクライカとかチョートクキエフというところであろうか。

今ではサイモンニコンで郵便物が届くとコメントにはあった。しかもケープカナベラルのロケットの発射サイトでレフレックスニッコール1000ミリにニコンSPという勇姿である。

子供心にかっこいいなと思った。そのレンズはあたしは何度か見た記憶があったが、今回その老人の記憶違いは修正された。あたしは実物のレンズを見たのではなく、その写真とか記事を見ていたのである。

自分は羅馬法王を見た。テレビで、、、

というのと同じレトリックがそこに存在することが分かった。

最短撮影距離が30メーターなので今井館長は苦労しておられた。さしずめ名はナイコン今井というところ。

★クールピクスA

2014年12月28日 (日)

ニッカの最終モデル

179ニッカ3Lというのはニッカシリーズの最終進化モデルである。生産台数は二千台というからレアな部類であろう。

このカメラに関しては思い出がある。

まだ日大の写真学科の学生時代にこのカメラで東京を撮影した。

高田馬場の鈴木安兵衛カメラで当時15000ほどで買った。あたしの初任給が四万弱であったから高価な買い物であった。

このカメラが気に入ったのは等倍のブライトフレームであったことだ。当時、ライカM2は持っていたが、あたしはあの縮小された50ミリフレームが好きではなかった。M3などは現役で高価な時代であった。それM3の代わりに使うにはこのニッカ3Lは絶好だった。

レンズはニッコール5CMの黒帯のやつである。

このカメラで標準で縦位置という、写真ではかなり重要なアプローチを教えられたのであった。1971年であったか美術出版社の「デザイン」という雑誌に近作のシリーズを20頁ほど掲載した時にもこのカメラでの作例はかなり入っている。

そのデザインが頭の黒い犬のような斬新さでフランス人がデザインしたのではないかと疑われる。

巻き上げは背面に隠されている。所謂ライカビットではなく、ニッカビットというスタイルだ。

カメラの身体性というのは面白い。このカメラを構えてファインダーを覗くと、風景は1968になるのだ。

ニッカカメラはニッコールクラブの設立にも社長が名前を連ねている。あたしから見るとこれはライカマウントのニコンである。

2014年12月27日 (土)

先鋭な写真はニッコールレンズ

Unnamed_2古い雑誌の広告を見るのは楽しみなものである。
欧州の雑誌の広告を相当数所持しているが、それらは艶然の雑誌広告だ。ファッション雑誌にブガッテイの広告などが出ていると、実にほれぼれする。

日本の場合には1945から新規まき直しをしたわけだが、当時の広告には夜明けのような感覚が伴っている。それがなかなかいい。

これはごく初期のニッコールレンズの広告だ。まだ2,5cmの広角が登場する前で、ダンカン氏が5cmd1,5のレンズに驚愕した時代よりは後のものである。

今のレンズは素晴らししいが当時の光線追跡と紙と鉛筆とそろばんで計算したレンズはもっと素晴らしい。

この時代にライフがニッコールを高く評価したわけだ。しかしライフのラボがダンカンの写真を見て、これは4x5で撮影したのか、などという伝説も生まれる。
ライフのラボはフィルムは見ているわけであるから、こここらは伝記作家の勇み足であろう。

こうして並べてみるとこれらのレンズはすべて所有していることになる。
真鍮のずっしり感覚が素敵だ。これぞ精密機器である・

2014年12月26日 (金)

陽気なタピエス

Photo_9タピエスに出会ったのはあたしのウイーン時代のことであった。

当時のウイーンは「幻想派」の大流行でそれにかぶれた日本の絵描き志望の学生が山のように押し寄せた。

ウイーンのアカデミーはおいそれと入れるわけではないから、それでも資金を出してくれた親への対面上、アカデミーのエントランスで記念写真を撮影してお茶をにごす連中もいいた。

幻想派はテンペラの厚塗りである。そういう土壌でテピエスを見てびっくりした。

アートを地と図の対立関係で認識するのなら、タピエスはその関係を破壊していたからだ。

要するに、工事現場の雑然がそのままアートになっているのである。

以来、あたしの都市風景の見方は大きく変貌したといえる。これはテピエスのお陰なのである。

ヨセフ ボイスもそうであるが、ボイスの場合には小説的なバックがつきまとう。

札幌の狸小路の東の果てのホテルに投宿した。その界隈は風景がタピエスに変移しているのが面白い。

これは陽気なタピエスである。

★クールピクスA

2014年12月25日 (木)

小樽ロック

Photo_6札幌から小樽に向かう列車の進行右側の海岸線を銭函の先だったと思うが、高速で走行する車窓から一瞬だけ海岸の巨大な岩が見える。

一年半ぶりにこの岩が見たくなって、札幌から小樽に向かった。

車内は混んでいる。地元のおっさんはスポーツ新聞など読んでいて一向に車窓には教興味を示さない。

あたしとか隣の数人の中国人ツーリストの外信眼光客だけが揺れる車内をカメラ持って行ったり来たりする。

その次の駅が小樽築港だったかな。この駅名を好きだ。神戸の新開地と同様なフロンテイアな響きがそこに感じられる。

今回もツーリストスポットには行かずに駅前をうろちょろしてすぐに札幌に戻った。

★ニコンクールピクスA

2014年12月24日 (水)

日ノ出町の名も無きコロッケ店

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まだ東京電力が世間から信用されていた時代のコマーシャルで「ぼくは三丁目の電柱です」というのがあった。

豊島区東池袋の王子電車(都電荒川線)の商店街は賑わっていた。そこの電柱をキャラにした広告なのである。

あれから三十年が経過して日ノ出町商店街はシャッター街になり果てた。その中で頑張っているのが「名も無きコロッケ屋」である。お店には何の看板もない。

それで名も無きコロッケ屋。お名前はなしもとさんと申し上げる。

そのコロッケ屋さんのコロッケのサンプルをまだ画廊男が自殺する前の新川のギャラリーに持って行ったらそこに居合わせた前衛芸術家がその味に絶句した。

かれはコロッケ評論家であるが、酒は飲まないからその舌には信頼がおける。

その名店がウイークデイに閉まっているので心配したのが友人の大手旅行会社の部長である。彼は新卒の当時に東池袋の社屋に居て、このお店の世話になっておるのだ。

果たしてシエフは健在であった。病院に検査にいったとのこと。

ここのトンカツは200円である。コスパが高い。それを十枚何かの寄り合いに持って行く人もいる。これが生活者の英知というものだ。

2階の雨戸に描かれた偽ピカソも元気であった。

★ニコンクールピクスA

2014年12月23日 (火)

ギャラリーバウハウスにゆく

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私は写真展に行かないのが仕事である。

写真展の評論とかやっている人はそれが営業の手段であるから行くのは当然たが私にはそれは関係ない。

昨年に行った写真展はアンドレアスグルスキーとロバートキャパであった。今年行った写真展は吉村朗展と今ギャラリーバウハウスで開催されている小瀧館長の展覧会である。
写真展に行かないのは時間が取れないこともあるが、これ以上人間関係を拡げたく無いからである。自分の写真にかかわりあっているのが精一杯でそれ以上の事はしたくない。
大谷崎が以前そういうことを書いていた。文豪は偉いなあと当時は感心したが、これは老人の時間割のことであるのが最近になって分かった。

若い人を見ていて面白いのは毎年とか毎月とか毎週とか短い時間に自分のテーマを決めてそれで作品を仕上げることである。まぁそれも面白いのかもしれないな私のような老人になってくると写真の仕事というのは一生涯かけてやるだけの価値があるというものに思えてくる。

小瀧さんの展覧会は彼の写真をスタートした時から今年までの数十年間の仕事を一挙展示したものである。
ギャラリーバウハウスは1階と地階の2つの展示に分かれているので、小滝さんのような長いキャリアの人がどのような展示構成をするのに興味があった。
行ってみて非常にフェイントを食ったのは1階がカラー作品で地階がモノクロ作品だったと言うことである。
これはまず展示の定石と言えるものであるが、その常識はなかなか実際には実現しにくい。その常套手段に感心した。

私が嫌いなのは作家在廊という言葉であって、こないだの吉村朗展の場合はもう吉村君にはいないからそういう心配はない。今回は別に当事者がいるということを全く期待していなかったしかし小滝さんは会場におられたので作品を拝見した後ボチボチと個々の写真について語った。写真芸術を語ったのではなくて写真のテクニックを語ったのである。

これが意外と大切なポイントに思えるのである。石元先生お目にかかった私の人生の数回の貴重な記憶では、石元先生は別に写真芸術ついては一言も語らなかった。もっぱら撮影のテクニックのお話であった。

あたしの大好きな写真家若くして亡くなったトニーレイジョーンズの仕事のことを話したら、小滝さんはイジスの作品集とオリジナルプリントを見せてくれた

それで出されたいっぱいのエスプレッソコーヒーを飲み干して気迫充実して私はまた撮影に出かけた。ポケットにはあわせてもらった小さなキスチョコが一個入っている。これはおまじないである。

★クールピクスA

 

2014年12月22日 (月)

光学通りをゆく

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Photo_2 品川区大井森前町のニコンは2017年で百周年になる。

この間、札幌の今井コレクションを拝観に行った時に今井館長は張り切っておられた。
世界的ニコンコレクターとしてはこれは血湧き肉躍るのは当然だ。
光学通りは大井町から伸びるニコンへの道の名前である。赤瀬川さんがニコンF3が出来た当時にこの通りを「マットブラックの光学通り」と形容していた。実際にはニコンF3はマットブラックではないわけだが、これはNASA仕様のスペースニコンのUVニッコールのマットブラック仕上げなわけである。しかし文学的修辞法としいてはこれで正しいと思う。

最初に光学通りを訪問したのは二十歳前であった。その時の十七歳のあたしの肩にはブラックのニコンFが揺れていた。十七歳のエチュードというわけだ。

ニコン百周年のその前、ニコン半世紀の光学通りを体験しているのは希少な記憶であると思われる。
当時の大井町は雑多な戦後がまだ活性化しているようなワイルドな町だった。

時代がくだって、何かの仕事でニコンから珍品のS3Mのモーター付きを借り出してそれで光学通りを撮影したこともあった。

久しぶりの光学通りで吃驚したのは、道が二股になるその先の街並みが一変してモダンになっていたことである。
以前はそのあたりまで来るといかにも「火の見櫓と石の地蔵の町外れ」という感じで角の煎餅屋(ここでニコン煎餅を作っていた)から先は江戸の外という印象であったが、あの森前町気分が希薄になったのはちょっと残念だ。
その先の小野学園界隈は実に寂しい所であった。

左右にニコンの製作所を見て、湘南新宿ラインの駅まで行ってそのまま大井町に引き返して一年ぶりに平和街の肉のまえかわで一杯やった。

ライカのオスカーバルバック通りは短いし最近できたものである。イエナのマルチンルター通りは歴史はあるが光学とはちょっと異なる。

ここはニコンカテドラルの門前町だ。その意味でここを光学通りと命名したのは秀逸だな。
しかも英訳がこうがくどーりではなく、こうがくSTなのがいい。STはSTRASSEとドイツ語読みできる。
★ニコンクールピクスA

2014年12月21日 (日)

山谷堀

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2_2山谷堀界隈のことは断腸亭の小説に書かれている。まだ堀が埋め立てられる前のことだから、片側は水で片側は家の片側町である。

そこの古書店で店主と古書の話をする。花月新誌は最近は高くなりましたな、などという話で、その後に荷風は交番の前で職質にあうのである。そこで印鑑証明を見せてことなきを得るという筋書きだ。印鑑証明は当時、身分証明になったようである。

その堀は埋め立てられて、そこここにある遊具などがなかなか良い味を出している。これは地元の町内会の有志が毎日早朝にこのあたりを掃除する気配が感じられる。

箒のはいた目がそのまま砂地めいた地面に残っている。そういうのに美学を感じる時ほど自分が日本の旅券所持者であることを痛感する時はない。

創業半世紀の新幹線の遊具も侘びさびを伴っている。

★ニコンS ニッコール2,5cm フジカラー

2014年12月20日 (土)

クラシックニッコー^ルで昭和チックを撮る4

Photo_5製造番号が5000万台のクラシックなニッコール。メイドインイキュパイドジャパン時代のが好きでらる。

それでDDダンカン氏が絶賛したニッコール8,5サンチばかりを収集していた。メイドインイキュパイドジャパン時代のものである。

数年後にその間違いに気がついた。ダンカンさんがニッコールと出会ったのは講和条約の発効後であったから、メイドインジャパンの刻印が正しいのであった。

ダンカン氏にニッコールを見せる時にニッカについていたのを外してライカに付け変えて見せたそうである。なにか当時の屈折した空気が分かる。

ここは佃の路地裏なのでそこに昭和を感じるという段取るなのだけど、実際にはあたしはパリの七十年代を感じルのだ。こういう真ん中のひくくなっている小路が当時はパリのあちこちにあった。いや、今でもあるであろう。

あたしの東京の昭和のイメージは路地にコークス殻が敷き詰めてある。その下は泥道なのだ。

小路の水たまりに空の映るのにノスタルジーを感じルのはパリでも東京でも同じだ。

★ニッカ1948 ニッコール5cm

2014年12月19日 (金)

ゾナー5cm1,5の満月

12112014_32_212112014_33コンタフレックスの二眼レフをテストする為に家を出た所で撮影した作例である。

日射しは真冬であるから低いけど完全な逆光というのではない。太陽は結構上の方にあった。

路面の敷石の白く輝くのに惹かれて二枚撮影した。これは若い頃からの癖である。

ようするに編集者に優しいあたしなので、画像はかならず仕事の場合には縦と横位置を撮影する。さらに寄りと引きを撮影するのである。

現像が上がってきたら家の前の上の空間に満月が出ていた。これが一眼レフカメラでない二眼レフとかレンジファインダーカメラの魅力である。

予期せぬ画像がそこに展開するのである。

こういうゴーストは好きだ。最近の優秀レンズはゴーストもでない。幽霊を信じるかどうか。つまり夢がないのだ。

★コンタフレックス ゾナー5cm f1,5

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2014年12月18日 (木)

ホテルで自主トレ

Photo数日間、神宮外苑の日本青年館にかんずめになっている。いや、沢木さんのように出版社が拘束するのではないから、これは自主トレである。
山の上ホテルなどだと、周囲に誘惑が多いので良くない。ここ、日本青年館(日本老年館と読む)は、周囲はなにもないので絶好の環境である。

しかしあたしは健脚なので徒歩半時間の所にはアローカメラもあるし危険地帯ではある。
ここの隣の公園は明治公園という。ここまでは新宿区でその西は渋谷区なのである。
もっとも近い人家は河出書房新社とラーメンのホープ軒でらくだで5分ほどかかかる。

あたしにはラーメンの趣味はないので記念に朝食に食べたら塩辛かった。
そのホープ軒の前が渋谷区のコミュバスのストップである。パンダの恰好のバスがきたので良く見たらそれは忠犬はちこうの恰好のバスであった。渋谷区は多彩な話題の街なのに、いまだにハチ公に頼っているのはなさけない。

仕事をしつつ、一日二度は散歩をする。公園の中をぶらぶらする。絵画館は大昔にはその前でカローラなどを並べて車の撮影をした。
今にしてみると、サイズの小さい西洋館である。
しかし南に廻って運動場を借景してみたらウイーンのベルベデーレ宮殿並には見えた。
★クールピクスA

2014年12月17日 (水)

クラシックニッコールで昭和チックを撮る3

Photo_4四半世紀棲み古したプラハのアトリエはたたんだわけであるが、極東の方は住み初めて四半世紀が経過した。

日々買い物に行く行き帰りにここで一休みするのは、この場所をモネの庭と命名しているからである。この方向から見ると武蔵野の雑木林をイメージして造園したものらしいが、椅子に座ると眼前はなんとなくモネの庭の空気なのだ。

木のベンチも年月が経過してようやくじじいが座るに相応しい感じになった。

古物が好きというのは年代的なことかも知れない。例えば一世紀を経たレストランどっかにあって、そこのスープ皿がすり切れているとあたしなどは感激するわけであるが、若い連中は一世紀の歴史のあるそういうレストランでもやはりスープ皿はまっさらであるのを良しとするのであろう。

クラシックカメラも同様だ。いつか赤瀬川さんと銀座のクリステイズの下見会に呼ばれた。坂崎さんも一緒であった。レアなライカの擦れ切れ具合は茶道の名物を鑑賞するようで良かった。

ところが同行の大学の先生はそれらが新品ならよかったのにと残園がっておられる。

カメラ好きには二種類あるのが分かったのはこの時であった。人間も道具も使えば古くなる。これが自然というものだ。青山二郎さんのように古い茶碗を渋で似て、偽貫禄を出すのはまた別の時限の話だ。

ニッカ1948 ニッコール5cm

2014年12月16日 (火)

銀鮨

Photo_7巣鴨の先、庚申塚あたりにはランドマークがある。一番有名なのはパチンコ天国であろう。これはパチンコの茶室というか、南方録に出てきそうな小さなパチンコ屋である。

その営業していた時代をあたしは記憶している。

二番手のランドマークはこの銀鮨であろう。こちらは土地の古老のあたしでも営業していた時代は知らない。

ここで気がついたのは、あたしはこのランドマークを竽意識に右読みにしていたことだ。戦前の店ではないから、鮨銀が正しいのであろう。

この看板は20年ほど前に朝日新聞の夕刊に連載していた当時にも撮影して掲載したことがある。

これはあたしにとって巣鴨のお地蔵さまより大事な信仰の対象なのだ。

★ニコンS ニッコール2,5cm フジカラー

2014年12月15日 (月)

コンタフレックス ゾナーf1,5の実力

12112014_28十数年ぶりにコンタフレックスの使用を再開して最初のカットがこれである。

ようするに家を出たところで一枚撮影したのである。コンタフレックスはシャッターはコンタックス1と同じである。だからスポーツグループとかノーマルグループとかシャッター速度がグループ化されている。

1000はシャッターむらがあるが、クラシックコンタックスではこれは良くある(というよりほとんどが)ことなので最初から最高速は500にして使う。これはその為のテストなのである。

しかしノンコートの戦前のゾナーの描写は実に結構なものだ。

青空と建物のグレーと黄色い鮮やかな木々の写真を見ているとなにか大昔のアグファの広告を思い出す。

★コンタフレックス ゾナー5cm 1,5

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2014年12月14日 (日)

Σdp1でプラハの猫

PhotoΣdp1はフルサイズより画質がいいという噂である。あたしの場合、使うのはA4までの印刷とこういうブログだから小型軽量なカメラがいい。
dp1が発表された当時、これは横に長いので重いカメラであろうと考えていた。実際にはデジタルカメラであるから軽い。横に長い本体は案外にホールドしやすいのっである。

アイランドギャラリーで来年にマンハッタンで1983に撮影した8x10のモノクロを中心の個展を開催する。
そのデーターのスキャンは実はΣdp1でしたのである。これには吃驚した。それでファビオンは凄いという噂を信用するようになった。

プラハのご近所で撮影した作例である。プラハの飲み屋の手描きの看板には味がある。猫があしらわれているのでこういう店は通り過ぎるわけには行かない。
もっとも猫が看板で手描きの店に全部入っていては身体がもたない。
それで看板の複写だけにした。

★Σdp1

2014年12月13日 (土)

プラハの秋

11_2プラハに到着した日の午後は素晴らしい快晴であった。

それぞれの家並とそれぞれの通りのどんな細かいものでもそのままくっきりと太陽が照明していると言う、何かルネッサンスの精密なエッチングに彩色された図版のような感じがする。

その日は久しぶりのプラハの快晴の午後を楽しもうと思って、カメラを全く持たずに街を散策した。実はこれは読みが甘かったのであるが、向こう2週間こういう快晴の日々が続くと勘違いしていたのであった。

ウイーンに住んだ7年半と言う時間は非常に経験を深くしたがそのことを忘れていたのである。
秋の終わりにウイーンの北の山の上の教会に晩秋の太陽の光が当たってそれが落ちてしまうとあたりは一面グレーの世界になってしまう

そしてその灰色の世界と言うのは1週間や2週間で回復するのではなくて、翌年の復活祭の月曜日までがほとんどモノクロームの世界なのである。
これを忘れていた。
ウイーンとかプラハの冬の天候というのはそういうものだから、今回の2週間はそのあとわずかに太陽が見えたのはたった3時間だけであった。
1,970年代には写真の大きなビジネスとしていわゆるaエーイエントカメラマンと言う人がいた。ヨーロッパノ名所旧跡をわたり歩いてそれらを撮影し、それが売れれたば1枚ペロリ5万円なのである。

40年前の話であるが私も大手のそういう出版社と契約をして出かけていったのである。しかしもともと怠け者でストリートスナップをモノクロームでばかりしていたので、結局1枚も写真をそういう会社に送る事はなかった。
だから欧州の冬の稀な快晴の日に思い出す事はそういう絵はがきのような写真のことである。そういう写真は最初から相手にしないつもりでいたのだが、後になって私が合う事のできた世界的に有名な写真家はやはり快晴の日に好んで写真を撮るということが一番良いと思っていたのにはちょっとびっくりした。

プラハの地理学的な要素というのはちょうど朝起きた後のベッドのシーツのような感じでしわくちゃになっている。そのしわの高いところに木が生えていて低い所に人が住んでいるという格好だ。言い換えれば環境のバランスが交互にサンドイッチのようになっているわけでこれは神様が作ったうまい采配であると言わねばならない。

ライカでフィルムの撮影も今回したけれど、とにかく毎日が曇りである。しかし私の場合風呂屋のペンキ絵のような風景を期待しているわけではないからそれはそれでよかったのだと思う。

★ニコン1 v3


 

2014年12月12日 (金)

クラシックニッコールで昭和チックを撮る2

Photo_3クラシックなニッカにクラシックなニッコールを付けて棲み古した界隈を徘徊する。

ある意味で、これはプラハやパリやリスボンやマンハッタンなどよりも自分の中に深く入って行ける心の旅である。

長屋住宅の一部が更地になると、こういう風に養生をするのは日本独特なのであろうか。

それが青戸であるのがいい。青戸は鵠沼のブレッソンの造語である。こういう色の波板鉄板を言うのである。

戦前の小説だとこれらは青ペンと呼ばれていた。場末の娼家の意味だった。これは青ペンキの略である。およそ、リビエラ海岸とかブライトンビーチには相応しい色であるが、極東の江戸にはこの色は似合わない。

おそらく文明開化の時代の色彩なのだろう。事件現場の目隠しにつかわれるジャパニーズブルーに比べればまあこの青戸の方がずっといいが。

★ニッカ1948 ニッコール5cm

2014年12月11日 (木)

クラシックニッコー^ルで昭和チックを撮る

Photo_2クラシックな1950年に製造された5cmf2の作例である。

ライカマウントのニッコールはニッカカメラにつけて販売された。当時のライカコピーではレオタックスがトプコールでニッカはニッコールだった。

佃に住んで四半世紀になる。この島の北側の遊歩道は実に10年ほどその完成に時間がかかった。

隅田川テラスという川辺の公園としては非常に良く出来ている。ウイーンやプラハなどよりそのレベルは上ではないかと思う。

ただし都心であるのに無人でる。昼休みにランチに来人が居る以外は誰も歩いていない。同じ中央区でも銀座は革命が起きたのではないかと怪しむほどの人戸である。

もっとも地元民としては混雑しないに越したことない。

休日の夕刻でこういう天候だとなにか北海の岸辺にいるような錯覚を起こす。

それがまたいい。

レンズが真鍮製でずっしり重いのがセクシーだ。

★ニッカ1948  ニッコール5cm

2014年12月10日 (水)

PARKING

Photo_11今回のプラハではフィルムライカでちゃんと撮影しようという計画もあった。

それもNASAが使っていたのと同型のライカMD2である。六十年代に高梨豊さんとのライカ談義でライカMDは街が戦場のように映るのではないかというくだりがあったが、ライカMDはその後進化してMDaから、MD2になった。

そうなれば街は宇宙のように映るはずである。プラハは名だたる天文学者の街だからこれは当然な帰結だ、

パーキングロットはあたしには車の墓場に見える。あたしの四十の誕生日にミシガンに旅をした。ミシガンの北の果てで膨大な車が山になっているのをハイウエイから発見した。あわてて車を停めてそれを大型カメラで撮影した。

風光塀美な風景の中のこの光景は今でも忘れられない。

このパーキングの背後は巨大な墓地である。

★ライカMD2 ニッコール5CM F1,4

2014年12月 9日 (火)

クラシックニッコールでダイヤモンドリング

Photo★音声入力でですます調になってしまいました。

レンズのゴーストと言うものは一般にはそれが出ない方がいいというふうに思われています。

ところがあたしの場合は逆で、レンズのゴースト会うのを楽しみにしているのです。
有名な編集者松岡正剛さんが1971年に発行したユニークな写真集offというのがあります。

当時の先鋭的写真家が自分たちの作品を2ページの見開きにして発表しているものです。今では稀覯本でかなり中古市場で高くなってしまいました。そこに発表したのがクラシックなNIKKOR 5センチで撮影した写真でした。

それは逆光の縦位置でのリアのドアが開いているなんでもないショットです。ところがその上の空間から光のシャワーが降り注いでいるのです。これは古いニッカでの撮影です。

一眼レフではありませんからそのように構図を決めるというのは撮影時にはあり得ません。その写真を私が選んだら松岡正剛さんは非常に気にいってくれたようでした。これが半世紀の昔の話です。

このクラシックニッコールは5センチのF2というものでこの画像の1番左にあるやつです。コレクターに言わせると5,000万台のニッコールという種類のもので1950年に製造されたものです。0がたくさん並んでいるのは何かゴージャスで良い感じです。

この夏の東京は京橋のアイランドギャラリーでの個展のトークショーのワンショットです。現像から上がってきたフイルムを見たら思いもかけぬゴールデンリングがそこに写っていました。
Google+友達のニコニコマートさんがクラシックニッコールで開放で撮ると言うシリーズを展開していますが何かその間にですね。
このダイヤモンドリングは正しくレンズのゴーストには違いありませんがこういうあらわれ方をするとすでにそれは表現になり得るのではないかと考えています。その意味でクラシックにコールはとても楽しいレンズです。

★ニッカ(1948) ニッコール5cm

 

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2014年12月 8日 (月)

メガロポリス

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札幌の滞在でいつも使っている同じホテルに泊まった。

宿泊したホテルの部屋の位置は前回夏に行った時は北向きであったが、今回は反対側の南向きの部屋である。

すすきのと狸小路からちょっと東にずれた町外れあるからにちょっと今風な建物が並んでいるように見えた。
その日の夕方は今井コレクションで珍しいライカ、そして珍しいニッコールの数々を見せてもらった。

それで夜おそくなって部屋に戻って何気なく窓の外を見たらその風景が非常に魅力的であった。
メトロポリスという言葉は私の場合、普通に使うけど、メガロポリスという言葉はなかなか使わないことにしている。
ところがこの夜の札幌の光景が見事に照明されたまさにメガロポリスなのである。

今年の1月にリスボンに二週間ほど滞在していてそのホテルの場所は街の中心部にあったのだが、その眺めの良い部屋の印象をいうのならこれはメガロポリスでもメトロポリスてもなく単なる古都である。

瓢箪から駒と言う言葉があるが、これは札幌からメガロポリスが出たと言うので思いもかけない発見をしたのが嬉しかった。

それでカメラアングルに気をつけながら撮影をしたのであった。持参したデジタルカメラは28ミリの広角専用なのでこういうときには役に立たない。そのかわりiPadの望遠側を使用したのである。緊急避難というやつだ。

翌朝その街角に行ってみた。実はかなり失望したのである。
人工光線に照らされた建物だから素敵にその存在感が際立つのであって、太陽光で照明されて見れば単なる地方都市のつまらないパーキングロットと小さなビルがある普通の街なのが分かった。
だから我々もメガロポリスというのは、実は実際に存在するのではなくて、われわれの頭の中に存在するもののようである。


 

2014年12月 7日 (日)

池袋一丁目

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渋谷で吉村朗の写真展を見たら視神経昂揚した。
メトロで要町に行った。そこから歩行して池袋の裏通りをなるべく道に迷うような感じで撮影した。

この場合、ゴミ焼却塔の白いランドマークがあるので、逆に道に迷いにくいのは不満である。ゴミの煙突とかスカイツリーなどは、、ウイーンの大聖堂の先端のようなものだ。ランドマークだからこれを見ていれば地図のかわりにはなる。

高校時代には池袋は通過したけどそれは乗り換え駅としてのそれである。池袋は未知の街だ。

コンタフレックスはその軽さが1,5キロもあるので携帯には工夫が必要だ。もしキャパがDデイにコンタックスではなく、コンタフレックスを使っていたらあそこでやられていたに違いない。

空きやのテナントのタイルの色がなかなかいい。テナント募集の札を見たら「重飲食不可」とあった。クレープ屋はいいが、焼き肉は駄目ということか。

道を渡っていきなり風景変貌。なにか鼠園のようだなと思ったらこれがホテル街である。
カップルばかりが平然と歩いている。単身歩行は自転車のポリスと古カメ阿を持ったじじのみ。

小池ゆりこの選挙カーが行く。家人が新幹線で新潟に行く時に前に小池がすれっていて、周囲の関係者に車内でコーヒーをおごっていた。「みなさまにおくばりして」とか言ってったそうだ。大臣時代のことだ。

二本目のフィルムが終わってそこで撮影は休止にした。ニコンクールピクスには数千枚撮影可能なメモリが入っているが、フィルムはこの程度の撮影でもう満足である。ネガ現像出して待ち時間は有楽町のガードの食安で沢の鶴。フィルムあげて佃に戻ってスキャンしたら、はたしてちゃんと映っていた。

★コンタフレックス ゾナー1,5

2014年12月 6日 (土)

コンタフレックスの正しい携帯方法

Imageコンタフレックスは戦前のドイツでも最高級の価格のカメラだった。

あたしは二台持っていて10年前には良く使った。そのうちの一台のゾナーf1,5付きはは知り合いの作家にゆずった。彼はコンタフレックスを舞台にして満州国の小説を描いた。これはそういう時代のカメラである、

もう一台はゾナーのf2付きでこれはプラハに持参してスナップに使っていたが数年前にシャッターが壊れた。

そのままになっていたのだが、今回ゾナ^f1,5の付いた別のコンタフレックスを手に入れた。

コンタフレックスは日本では梨園の名優戦前が持っていたという伝説がある。

生産台数が2000台ほどでお金持ちのカメラであった。日本では2500圓したらしい。当時のアメリカでは327ドル。一ドルが8円計算だ。当時のレートは3円程度だから輸入業者はかなり儲かったのではないか。

林芙美子の小説で給料が四十円でなんとか生活できるとあるから2500圓は大金である。

お金持ちは他に道楽もあろうから、実際にこのカメラで撮影した作例が少ないのは納得できる。
しかも重さが半端ではない。ちょっと気軽に持ち出せるできるような軽さではない。

この専用革ケースというのは変なバランスであって、この重いカメラをさらに重くしている。
今回のあたしの発見はこれをいかに軽く携帯するかである。
それは持参のトートバッグとストラップを連結して振り分けにするのだ。サドルバッグの原理である。
これだと取り回しが楽だ。

ピントは目測でアルバだファインダーを使用する。

★カメラはiPhone

 

2014年12月 5日 (金)

吉村朗という★(ブラックスターと読む)

Dsc_0670吉村朗展が一週間だけ渋谷のギャラリーで開催されている。(日曜の午後五時まで渋谷のギャラリールデコ)

吉村の凄いところはテーマを持たなかったという点だ。
偶然にして与えられた彼の人生そのものがテーマである。この哲学的な方法論は現代の写真界にあっては貴重である。
現代はテーマ主義である。「xxの美しさを一人でも多くの方に知っていただこうと思って」という手垢まみれの「美学」が称賛されるほどに写真を見る側のレベルが「高級」になっているのだ。

吉村の従兄弟にあたる人が居て、八歳年下なのだがこの人が出版社で吉村の仕事が本になった。書肆ユリイカみたいなものだ。

限定七百部という数がいい。その人と話をしたら彼は京都精華大学の出版の写真特集で10年ほど前にあたしに原稿依頼してきた人であった。あたしはニューヨークタイムスの記事を拾い読みしていて、ヘルムート ニュートンの死去に関する記事(自殺と言われている)を書いた。その中で最後の二十世紀的写真家と言う言葉を使った。二十一世紀には写真家というのは存在しないであろういうという事を書いた。

吉村の仕事も世界のあり方を哲学する意味で同列に並べられると思う。

吉村朗がブラックスター写真家であるというのはそういう意味だ。

ニコンクールピクスA

2014年12月 4日 (木)

ヨセフ・スデクギャラリー

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プラハにあるヨセフスデクギャラリーはもともと彼のアトリエ兼住居のあった箇所に新しくレプリカの建物を建てたのであった。

ヨセフスデクの居住していた部分はそのままアトリエからギャラリーに変身した。ただしスデクには実はもう一つの活動拠点があった。それはお城の坂道の途中の右側にあるバロック様式の建物の1階である。

スデクは戦後になってアトリエとして使い出したのだが、その場所は主にポートレート撮影に使用された。 その理由はもともとの彼のスタジオは大きな建物の奥を通り抜けた中庭にあって、中庭の右手が彼のアトリエなのだがわかりにくいので写真スタジオと大きな表示が壁に書かれてあった。

その場所は迷路の奥にあるような場所だから一般のお客さんにはあまり好評ではなかったようである。新しいスタジオのほうは坂を上がった左側に修道院があってそこは緩やかな谷になっている。なかなか風光明媚な場所である。仕事に疲れたすべくはその坂の途中のスタジオから出て緩やかな谷の修道院の風景を見ながら休憩している写真が残っている。

このバロック様式の建物が関係機関によってヨセフスデク を記念するギャラリーになって既に10数年が経っていると思う。

今回の訪問では90回目の企画展を開催したのである。 今回の展示もプラハの戦後の写真芸術の中核をなすもので、その写真家はスデクと同時代の人であった。 その作品はプラハ工芸美術館の収蔵になるものである。非常に地味な写真であるがそういう作品をじっくりと見ることができるのは大変な収穫である。

その作品を収蔵しているミュージアムは、来年から4年間に建物の大改修を行う計画だと言う。 そこら辺の時間のスケジュールの使い方が極東とはかなり違ってゆとりのあるのはうらやましいと思う。

ギャラリーの外観はショッキングピンクのような塗装がなされている。歴史的文文化財だからおそらくその色彩はオリジナルなのであろう。 バロック時代の建築に関してはロシア正教の教会をあちこち見て歩いた時にびっくりするような色使いの教会があったからそういう時代背景なのであろう。

ギャラリーのサイズは非常に狭い。東京にある自主ギャラリーでもこれほど狭いところはないと思う。何か一般的にはギャラリーのサイズそのものがそのギャラリーのクオリティーを左右するように思われているのは大変な勘違いである。実は狭いギャラリーの方が真面目に写真作品と対峙できるのだ。

2014年12月 3日 (水)

プラハの新世界

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プラハから戻ってきてそのまま札幌に行ってそれから東京に戻ってきた。プラハと札幌の共通点は北の街にであるということである。

その2つの印象がごっちゃになってるので記憶を確かにするためにプラハの話から先に書いておく。 新世界という場所はプラハのの王宮の裏手にある最も古い街である。 ドヴォルザークのシンフォニーに新世界というのがある。それと同じ名前だ。私の場合はよく出かける大阪芸大の通天閣の下の新世界とごっちゃになっている。

カフカの書いたアメリカ、ニューヨークの描写はカフカは実際にはニューヨークには行っていないかなどこかのガイドブックか何かを参考にして描いたのであろう。 プラハの新世界は王宮の城壁の内側に延々と続く細い小路のことである。 観光客もここにはめったにやってこないし、ちょっとでも雪が降るようなことがあれば路面は凍って完全に交通が途絶するような大変な場所である。

そこに非常に古いレストランがあってその店の名前が黄金の梨というのである。 ビロード革命から25年が経過して今にして思うと当時はプラハにはまずまともなレストランと言うものがなかった。

それでプラハの友人と会食をするようなときにはその金色の梨レストランをよく使用した。 ガス灯の濡れた光に照らされた、真っ暗な細い道が見通せないような非常に暗いところであった。だからレストランのエントランスの小さな青い灯りが曲がった小路の先に見えてくるとほっとしたのであった。

そこで数名でちゃんとした食事をしてもその代金というのが500コルナであったから日本円で2500円程度のものである。500コルナというのは今では2人でランチを食べてもちょっと危ないと言う金額だ。思えば良い時代であった。

私の書いたエッセイにかのフランツカフカが王の中の仕事場を抜け出して夜遅くにこのレストランに食事に来るというくだりがある。 新世界はいろんな意味で私にとってプラハの記憶の最も深い場所にあるので時々この界隈に暮らしてみたくなる。

この左側の古い2階建ての建物は内部は改装されて一階から三階までが全部使える非常に広いアパートメントである。 そこに1人でしばらく住んでいた。1番困るのは買い物であって周囲にはお店が全くないから城壁の外から市電に乗ってはるか西側のカントリーの商店まで買い物に行くのだ。

しかも夜は真っ暗で深い静寂が支配している。唯一聞こえる街の音はすぐ裏手にある修道院の鐘楼だけである。昔のプラハの追体験にはこの場所は最適だ。

★ニコンクールピクスA

2014年12月 2日 (火)

小樽駅前の中華屋が半世紀

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小樽の駅前にわりと大きな商店街名で、その商店街のほとんどはシャッターが閉まっている。その中程に中華料理店がある。

札幌の今井コレクションに訪問するようになってからだからたかだか数年前のことであるが、思いつきで小樽に行ったときにその中華料理店を発見した。 地元の人が申し合わせたように食べているのがあんかけ焼きそばであった。これが非常にうまい。冬であって街が凍り付いて凍りついた港の船を見た後にあんかけ焼きそばは体を温めた。

そうなると日本酒のひやでいっぱいやりたくなるものである。東松照明さんがまだお元気だった頃、東松さんのお宅の長崎の街を徘徊しているときに、長崎名物の皿うどんを食べた。すごい雨が降っていてやはり日本酒のコップ酒を開で頼んだ。 これが非常に良かった。

昼間にお酒を飲む事は福田和也慶応大学教授からの直伝であるから何の罪悪感もない。理想的に言えば天気悪くて雨が降っているのが良いのだが、今回の小樽はそうは行かなかった。1年前にここで同じメニューを頼んだときには、コップ酒の脇に沢庵がついていた。それが今回ついていなかったのは消費税対策というものであろうか。もともと沢庵は食べないから何の問題もない。

カウンターに座って冷酒飲んでいたら、左の席にほとんど裸と言うような格好の髪の毛ピンクのコスプレの女の子が座ってやはり焼きそばを食べている。コスプレイヤーと焼きそばが全く似合わないものであるなと思いながらそれを酒の肴にした。

お勘定する時になって値段が100円引きである。月1の割引でのようなものだと思って聞いてみたらその中華屋さんが 50年なのだそうである。50周年記念と言うのは何も東京オリンピックだけではないということに気がついて何かを教えられた。コップ酒の酔いな手伝って小樽の倉庫内に行くのがめんどくさくなりそのまま駅からバスに乗って札幌市に戻った。

2014年12月 1日 (月)

小樽でフォカッチャのストラップが切れた

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札幌に行ったので、久しぶりに小樽に足を伸ばした。1年半ぶりである。

小樽には思い入れがあって家人の遠い親戚にあたる人が小樽に住んでいる。その理由は家人の数代前の父が日本海を中心に開運関係の会社をやっていた。昭和天皇が樺太に行幸した写真などがアルバムに残っているからかなり手広くやっていたらしい。 日本海は新潟と小樽を頻繁に結ぶ船の便があった。そういう関係者の子孫が小樽にいて毎年盆暮れに小樽の海産物を送ってくれるのである。ありがたいことだ。

小樽はゆるい斜面に面した港町で駅からダラダラと坂を降って海のほうに行く。 東松照明さんが数十年前に東松照明日録という作品をカメラ雑誌のカメラ毎日に掲載していたことがある。 その中に小樽の倉庫街の写真が写っている。これが私の基本的な小樽ノスタルジーになっていてそれを見に行くのが常である。

石狩ライナーと言う名前の3両編成の列車で小樽に行った。ライナーというのにそこら中の駅に止まるのが名であった。走行中に北側の海にカメラを向けた。銭函という駅の先に海岸に立ち上がっている立派な岩があるのでそのことを知っているからカメラを構えてシャッターチャンスを逃さなかった。

意気揚々と小樽駅に着いてこれから撮影と言う時にフォカッチャのカメラケースのストラップがいきなりきれたのである。こういうのは全体の調子を狂わしてしまうものだ。 フォカッチャの純正の皮ケースと言うのはコレクターにはなかなか面倒なものであって、ちゃんとしたものはほとんど残っていない。

カメラそのものが80年位前のものであるから、カメラが金属製であるのでちゃんとしているけど、皮ケースはすでに風化しているのである。 もちろん長いこと写真をやっているから撮影に行く直前にはストラップの疲労具合と言うものは確認して出かけるのである。

これはそろそろまずいのではないかと思いつつもあと1年ぐらいは使えるのではないかと思って出かけたらこの有様になった。これが自分の体の具合と言うのとかなり似ているのではないかと思う。ストラップが何時切れるのかそれは分からないと言うのは、自分の身体性とかなり類似しているようである。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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