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ロック ユー

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2014年11月30日 (日)

札幌市電で一巡り

Dsc_0580札幌を市電で一巡りした。これは環状線ではなく、ちょっと切れたループなのである。すすきののあたりで切れているのが面白い。

朝の逆光の中にレールが光って、朝の大気ゆらいでなかなか来ない電車を待っているのはなにか幼年時の東京の記憶につながる。あたしは母親に手をひかれているわけだ。

市電のルートは中心部を四角形に回っているのは、大昔の京都の市電も思い出す。特に周囲に山が迫っているところなどはそっくりである。
真冬の晴れた日にロープウエイの駅の前で降りて札幌を一望するつもりが歩き出して、ロープウエイは冬は休業であったことに気がついた。

なかなか札幌慣れしていないのだ。野々宮などは札幌委に出張して毎回、中古カメラ店で何か買ってくる。
いつぞや、夏のこと、あたしが空港から札幌駅に到着したら改札で野々宮に遭遇した。
あたしは今から今井コレクションに行くので野に宮も見学させようと思ったら彼は東京への飛行機の時間が迫っている。それで駅ナカでコーヒーは飲めるが、時計台前の今井ミュージアムには時間がないことが判明した。それでまずいアイスコーヒーを飲んでわかれた。

★ニコンクールピクスA

2014年11月29日 (土)

大きい石の顔

Dsc_0571札幌出張である。
三年前であたったか、中島公園のそばに巨大な石の顔のファサードのデイスコを見つけた。
聞けばすでに20年ほど前からある、名物であるという。

このの前の七月にもその前の昨年の七月にも、今井コレクションを見た後にそのランドマークが見たくなったのであるが、発見できなかった。
これはあたしの街歩きのスケールの縮尺が東京のそれになっているからであって、先の方に歩きすぎるのである。
それで今回は縮尺を訂正して歩き出したら、それは宿泊しているホテルのすぐ近くにあった。
手前にローカルな看板を入れるとその存在感が引き立つようである。

★ニコンクールピクスA

2014年11月28日 (金)

628カメラ円

169札幌の今井コレクションにライカ誕生100周年記念のアウトフィットがあると言うので、日本カメラ博物館の市川さんと拝観に行った。


世界限定で100台とか101台、いや間違った100セットとか101セットという非常にレアなセットがこの目で見られるだけでも幸せだ。

それは従来のフィルムライカとデジタルライカが二台セットになっていて、特製のレンズが3本ついている。これでどのような撮影であってもつまりセバスチャン・サルガドだろうが、アンリカルティエブレッソンだろうがすぐ仕事に伝使える。機材一式はブラック仕上げのリモワのセットケースに入っているのである。

私などはリモワのというのはとても冒険的な感じがする。というのは世界の僻地、秘境の奥に飛ぶ時などは通常のセットケースでは重いのでリモワなのである。その理由はそういう場所に行くにはたいていがセスナであって搭載重量も限られているのでカメラケースも軽くなければならない。
しかしセットには上質の白手袋がついているのでこれはやはりコレクション用であることが分かる。

見ると聞くとは大違いという言葉があるが実際にこの二台のライカを触って感じたのはそのずっしり感覚であった。ステンレス製らしい。

そういう貴重なライカズを拝見して七十五日長生きができた。

2014年11月27日 (木)

佃プラハ 風景の連続性

Sdim0057_2
Sdim0058_2風景の連続性という言葉がある。

こういう言葉を使うと何か非常に観念的な写真学生が間違えてその中に迷い込んでしまうような問題なのである。

私はもともと技術的な写真偏重主義でもないし、写真に関しては観念主義でもない。ロバートフランクが自分の仕事のことを話していて感心したのは自分はコンセプトに従って撮影をしたことは1度もないということだった。
私の場合はコンセプトどころかその場の思いつきで撮影をしているところがある。

であるからここに並んでいる2つの画像は上のほうは東京の佃でプラハに立つ直前に撮影したものであって下のほうはプラハに到着してすぐホテルの窓から撮影したものである。

この2つの画像はフイルムで撮影していた時代には1本のフィルムの上にこの2つの画像が並んでいたわけである
映画フィルムは時間の連続性に対して非常に解りやすい構造になっているから、そういう連続した2つの画像を見ると、時間の連続性とか、風景の連続性ということを分かり易く感じることになるのであろう。

一方、論理的な意味合いを完全に払拭してこの2つの画像を比べてみると面白い。最近ではあたしの滞在している時間は極東が圧倒的に多いわけであるが、プラハの風景と極東の風景を比べてみると、どうしても極東の風景がエキセントリックに見えてしまうのが残念である。

つまり上の画像は東京の極端な風景であって、下の画像はプラハの日常のどこにでもある風景で落ち着いて見ていられるという違いがそこに見いだされる。

そしてこの2つの風景には穏やかなそれぞれの地球上の午後の日差しが注がれているわけだ。

実は今回の2週間の撮影では到着した日は晴れていたものの翌日から撮影を開始して実際に太陽の光を見たのは3時間弱であった。
それで2週間の間、常に考えていたのは一体太陽が風景を照らすという事はどのような意味があるのかということだった。

風景写真に求められているのは完璧な構図とかそこに美しく太陽で照明された建物そして道行く人々ということなのであろう。

ただそれには浅薄なコマーシャリズムが背景にある。要するに観光写真であってストック用の写真というものが常に快晴の青い空でなければならなかった。これは数十年前の写真の掟であった。

しかしもう1つ問題があって快晴の空の下に安らいでいる風景というのは一見すると非常に安っぽいものであるのだが、世界的な有名な写真家が案外とそういう晴れた日のまったりとした風景と言うのを好んでいるというのもまた事実である。

私の写真では太陽の光がどのような具合になっているのかという点に関してはあまり問題にしていない。要するに太陽の光のリアリズム写真集団というわけだ。

私が唯一快晴の光を写真の上に必要としているのは、そういうことは全くないのだけれども、おそらくヨーロッパのあちこちにある日時計を撮影する時かもしれない。直射日光がなくては日時計は時間を表示することができないからだ

★ニコンA

 

2014年11月26日 (水)

ニコンF抹茶羊羹風味楊枝付き

168 ★本日移動日 羽田札幌。ニコンF 抹茶羊羹風味 楊枝付き である。
こないだ突撃隊長と車に乗っていたら新宿の某店にニコンFのブラックボデイにラピッドワインダーの付いたのがあると聞いた。

翌日、新宿に見に行った。新宿という町は1968年の10/21以来無関係になってしまったので行く機会がない。

カメラ店で見たニコンは突撃隊長の言ったのとはちょっと異なっている。ブラックではなく、オリーブドラブだった。要するにカスタムメードであってオリシナルではない。

いつぞやのライカM4-2のオリーブドラブ仕上げが年月が経過すると「イスラエル軍戦車隊軍用」に変身するようなものだ。 ニコンだと、オリーブではなく抹茶羊羹の色だ。渋いお茶が欲しくなる。 それで手に入れた。

仔細に見ると、例のミカミ製のラピッドワインダーではない。これはもっと個人的に仕上げられた個体である。そこが気に入った。

その話をフェースブックにアップしたら、ニコニコマートさんがニコンのオンラインのリンクを貼ってくれた。曰く、 オンラインのニコン羊羹には抹茶はないそうである。そうなるとますます抹茶羊羹が欲しくなる。

2014年11月25日 (火)

プラハのニコンフォトギャラリー

Dsc_0433久しぶりのプラハで新しくなったのはモルダウ左岸のニコンフォトギャラリーである。
以前はニコンの名前は付いていなかった。
プラハのカメラ店などにもミニギャラリーはあるが、そこに展示されているのは「アマチュアさんか作例写真家さんの作例」を出るものではない。
これは当然の話で言うもおろかであるが、本当に写真と向き合うにはメーカーは口出しをしない方がクールでスマートである。
その意味でニコンサロンならぬ、このニコンギャラリーの存在感はフェアである。

この建物の左側にはフニクラがある。19世紀末に開催されたプラハエキスポに合わせて、ミニエッフェル塔が建設された。そこに登るための登山電車なのだ。

しかもニコンギャラリーの向かいには名門のヨセフ・スデクギャラリーがある。
プラハの写真文化の中心だな。

★ニコンA

2014年11月24日 (月)

カレル橋は渡らない

Dsc_0457プラハの歩き方で注意する点は観光名所に行かないことに尽きる。
そこにはツーリストしか居ないからだ。

カレル橋はその最たるものであって、まあ話の種に一階くらいは横断するのもいいかも知れないが、普通のプラハ市民はここは通らない。
むしろ、最後にここを渡ったのは大昔でありことを自慢する。
あたしも同様だ。まだソ連の軍服が歩いていた当時、数人のほっぺたの赤い少年兵の記念写真を頼まれて撮影した。それはソ連製のゾルキーであった。

カレル橋が嫌いなのではない。この橋はモルダウに架かっているその風情が綺麗なのだ。
だから橋の上からは橋は見えないから、お奨めできないわけだ。
ビロード革命以来、ここはツーリストスポットになった。最初の十年で世界中の観光客の靴で橋の敷石は1インチすり減ったとエッセイに書いたことがある。

あれから四半世紀が経過したわけだから、橋は2.5インチはすり減っていることになる。
無論、極東のエンペラーもその上を渡った、文化遺産であるから橋は10年ほど前に大規模な修復をした。
三十年戦争の当時はこの上で戦いが繰り広げられた。
優雅なものである。

★ニコンA

2014年11月23日 (日)

プラハの明け暮れ

 

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167 プラハの日々が過ぎた。その明け暮れは静かであった。
朝七時半にレストランに降りて行く。上のようなものを食べる。
コーヒーは二杯。ミルクを一杯。

九時にカメラを持って出かける。これにはルールがあってフィルムとデジカメは同時には持たない。
撮影の指揮系統が混乱するからだ。

プラハの全線パスを持っているので、思いつきで最初にきた市電とかバスに乗ってその系統の主点まで行く。あとは足任せに歩く。
昼は旧市街の中国ビストロでカモを食べる。麦酒一杯。
午後も撮影。
しかし午後3時には暗くなるので部屋に戻って、原稿書く。
午後七時に部屋で夕食。地元の赤ワインと野菜とハムとチトーズ。それに炭酸水。
午後9時には寝てしまう。

誰とも会わない。これは重要であって、自分の時間がとられるからである。

2014年11月22日 (土)

ニッカとニッポン

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ニッカカメラはライカマウントのニコンである

ニッカはニッポンカメラである。
ニューヨークライツはアメリカドイツの開戦で敵国財産というので

没収されたが当時のニューヨークライツはライカは生産できなかった。多分フードとかライカスタンダードを生産できるくらいの体制であったのか。外注としてプリミエインスツルメント社がライカコピーのカードンの生産を引き受けた。
その内、第二次大戦は終了し、カードンは朝鮮戦争用の軍用カメラとして生産が開始されたがわずか2ロットで生産終了になった軍への納入価格は300ドル弱であったが、はるかに安い極東製のライカコピーが登場した。これがニッカの軍用バージョンNR2である。

戦前のライカコピー、Nipponは仔細に見るとファインダの窓のスタイルが流れ窓である。要するにその後のニッカの方がより
古いタイプのファインダー窓のスタイルなのが面白い。
ニッカはライカコピーとしては非常に良く出来ている。
最初に日課を本格的に使い出したのは1968であって、これは3Lであった。黒帯の5cmレンズで車の中から撮影した。そのシリーズは東京にコン日記に掲載されている。

今回は最終モデルのニッカから最初期モデルのニッカに持ち替えたわけだ。

2014年11月21日 (金)

エアフランス274便のフライトマップの不具合についてのお詫

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163 シャルルドゴール空港 羽田空港 エアフランス274便のフライトマップの不具合についてのお詫び

あたしは商業映画は見ない。涙腺が止まらなくなった感動作などは狂気の沙汰である。映画館から出てきた連中は一様に濡れ雑巾で顔を撫でられたような表情をしているとはタルホの名言である。

飛行中はフライトマップを見ている。今回のプラハへの最後の旅は四半世紀住んだアトリエをたたむことにもあったが、スリに遭いそうになったり、ビロード革命二十五年の当日に出会ったり、いろいろ忘れられないことがあった。

帰りにはパリ羽田のアップグレードのオファーがあった。ホテルの状態の悪い部屋でクレジットカードの支払いがエラーを繰り返し、できなかった。その差額でそのままリスボン往復ができるので来月はリスボンに出稼ぎにゆくことにした。

さて、帰りの便のフライトマップがトラブルだった。対地速度がゼロなので高度などはちゃんと出るが(時刻は2時間進んでいたが)飛行機はずっとパリ上空の36000尺に浮かんだままである。

要するに装置をリブートすればいいのだ。この前の五月の羽田パリでも同様なトラブりがあった。その時は数分かけてリブートして直った。
その件をチーフパーサーに文句を言ったが搭乗機はついにパリ上空にポジションを保ったまま、あねだ「フランス人はHを発音しないのでこう聞こえる)に着陸した。何か大事な忘れ物を欧州にも越してきた感じがした。

着陸前にチーフパーサーに文句を再度言った。
操縦室にそう言いましたがうまくいかないみたいです、、、
キャプテンが本物の飛行計画をミス入力でなければいいですよと。あたしはフランス語で答えて大笑いになった。そんな複雑なことを良く言えたなあ。きっと空気の薄いせいであろう。

フライトインフォメーションがない当時は、あたしはジエップセンのエアチャートを開いてクロノグラフを見つつ推測地文航法をしていたから問題はない。

ウラル山脈の上で朝日が出たと思ったらひがししべりあでそれが夕日になっていた。飛行機の速度は天狗や空飛ぶ絨毯よりずっと速い。

着陸してゲートにでて、座席にツイードのジャケットを忘れたことに気がついた。保税地区に忘れ物をしたのは十数年ぶりである。あの時は座席1Aにリコーのデジカメを忘れたのだった。

もうプラハ訪問は最後にしようと思っているので、あたしはプラハに引き留められたらしい。
他に理由が考えられない。

2014年11月20日 (木)

ビロード革命25周年にヨセフ・スデクを祝う

161
162 11月17日がビロード革命二十五周年記念の日であった。
この日の為にあたしは秘する計画があった。それは見事に頓挫したので、ねたばらしをしたい。

プラハでベッサ1という蛇腹カメラを買った。これは6x9サイズである。その戦前モデルをヨセフ・スデクは愛用していた。彼にとってライカのようなカメラである。もっとも片腕なのでカメラはホールドできないので、かならず三脚を使う。
それを引き伸ばすのではなく、密着印画にするのである。ここらは粋ですね。

祐天寺のペーパーブールがヨセフ・スデクの暗室と酷似しているのでここでプリントをしてみたくなった。それで狐さんと相談してそこのギャラリーで少数の写真を並べるのはなにか良い感じだと思った。

ヨセフ・スデクのプラハの二箇所のギャラリーはいずれも小さい。

あたしのアイデアは11/17に120フィルムを8本だけ撮影する。それで64カット。つまちf64である。
まあ、そういう言葉の遊びだ。

それで勢い込んで、月曜の朝に中心部のフォトシュコダにフィルムを買いに行ったら店は閉まっている。眼前をチエコの国旗をつけた路面電車が通過して、ようやくカメラ屋さんもお休みであることに気がついた。

ヨセフ・スデクの真似をしようとして、ビロード革命に返り討ちにあったわけである。
それで方向を変換して、空のベッサを持って行きつけのカフェラテルナでいささか、自由主義革命とヨセフ・スデクの仕事に対して乾杯してわけであった。
★アイパッド

2014年11月19日 (水)

プラハの路地から路地を廻る

Sdim0383東京滞在初日

拙著「屋根裏プラハ」でこの街の楽しみは道に迷うことにあると書いた。

プラハの新参のツーリストさんは地図と首っ引きで迷わないように歩行している。グーグルマップを手にして探検している人も居る。
しかしこれでは駄目である。プラハの持っている未知の魔界に踏む込む為にはいったん自分をニュートラルにする必要がある。
ここはかのカフカも歩行した旧市街の裏道である。
七十年代にはうち捨てられた裏町で埃だらけでそれはそれでなかなか味わいがあった。
今では整備されてショップが並んでいるのは興ざめであるが、これは仕方ないことだ。

こういう路地裏に仕事場を持とうと思ったことも何度かあったが、今では下を歩行するツーリストさんのおしゃべりが五月蠅いからこれは選択の他である。

こういう裏道は二地点のショートカットである。だから歩行しているのは観光客ではなく、地元の人なのだ。まああたしもその一人に加えてもいいだろう。もう三十九年ここを徘徊しているわけだ。

★ΣDP1

2014年11月18日 (火)

ヨセフ・スデクの暗室の窓

Dsc_0428★本日移動日 PRG CDG HND
ヨセフ・スデクの暗室は狭い。しかし人間が身体を動かして暗闇で暗室作業するには理想的なサイズである。
その大きさは祐天寺のペーパープールの暗室のサイズとほぼ同じである。巨大な暗室は教育機関にまかせておけば良い。
シリアス写真家のダークルームは狭いのを良しとする。これは持参の南方録の影響である。
茶道と暗室道とは似たような所があることが根茎のプラハでの発見であった。
「写真大学」というタイトルの写真の本を目下執筆中だ。これは「ライカマイライフ」の続編になる。
それで今回はプラハでヨセフ・スデク関係を取材したわけである。
ヨセフ・スデクを発見したアンナファロバ女史が長年携わっていた装飾美術館(ユダヤ人墓地の隣)は来年から四年間の修復に入るそうだ。時代が変わってゆくな。

これはヨセフ・スデクの暗室の北側の小さい窓である。
現像の終わったまだ濡れているプリントを巨匠はこの小さい窓をパタンと開けてその調子をチエックするのである。
これは理想であるが、現代の我々はこういう自然光でプリントを見ることが出来ない。
その意味でヨセフ・スデクの暗室は一種の理想型だ。

★ニコンA

2014年11月17日 (月)

スデクの暗室を訪問する

Dsc_0427ヨセフ・スデクのストーリーに関しては次号のチョートクカメラ塾で詳しく書いた。

ここは写真家、とくにストレート写真を信じる写真家にとって聖地のような場所である。なぜ、ストレートフォトが有効なのかは、発売中のカメラマガジン誌の新繊細で書いてある。

彼の暗室は非常に狭い。日本のアマチュアさんがお金にまかせて構築した暗室などよりはるかに清貧である。
しかも彼はコンタクト主義であるから、高価な引き伸ばし機も不用である。

ヨセフ・スデクの暗室の「名物」はこの水洗用の水槽だ。世界広しと言えども、こういう石をくりぬいた桶はここでしか見られない。

あたしの所有のヨセフ・スデクのプリントもこの石の水槽で水洗されて、彼の左腕でここから引き揚げらたのかと思うと、なかなか感慨深いものがある。
まあそういう信仰というのは大事だ。

現代は電子カメラの高速化だけが信じられるすべてというのではいささか退屈過ぎる。

★ニコンA

2014年11月16日 (日)

プラハのぼけこっこーさま

160 今、滞在しているのはプラハのジシコフという街区で、19世紀末には新興地で工場街であった。労働者街でなかなか面白い所だ。
そこのホテルは当時の街区の一番はずれにあったので、その東は貨物駅になっている。もっとも今では新街区が生まれて、実際のプラハはここからはるか東に広がっている。

この郊外感覚が気に入ってしかも部屋代が安い。そこの屋根裏に住んでいる。
プラハのアトリエと同じ六階であるが、こっちはエレベーターという文明の利器がある。
プラハのアトリエに三十数年かよっていたが、階段の蹴込みが年年、だんだん高くなったように感じられる。それはあたしの老人力がアップしたおかげなのである。

こっちのパート2の方は五階までエレベーターが在るので、屋根裏までは階段をひとつだけ登れば良い。

ぼけこっこーさまというのは佃の小学校で長い間活躍していたチャボのお名前である。毎朝、ダイニングの行き帰りに会う、この新人をぷらこっこーさまと命名した。

2014年11月15日 (土)

プラハのニッカとニッコール

159今回のプラハの撮影ではデジタルカメラを二台とフイルムカメラを

二台持参した。

他にiPhoneとiPadも持っているから電子式カメラは4個で、フィルムカメラ二台と言うことになる。プラハの中心部にある大手もカメラ店のニコンコーナーで原稿書いたりコーヒーを飲んだりするのに非常に良いので毎日そこに顔を出す。

そこには中古カメラがずらりと「悩んで」いるから、そのまま仕事だけして満足して帰ると言うわけにはなかなかいかなくて、ウィンドウの中にあるカメラを思いつきで買ってしまったりする。

大抵2週間滞在しているとガラクタカメラは10台位になってしまい、東京に行く時にそれを全部もっていくわけにはいかないのでどれを持ってどれを置いていくかと言うことで悩んだりする。
要するに仕事の本質とは全く関係のないところで悩んでいるわけで一般的な仕事の効率化と言う事から考えればこれは実に良くないことなのだが、その無駄というのが私には非常に大事なのだ。

東京から持参した二台のフィルムカメラの一台がこれである。
昭和23年に作られたニッカである。ニッカはニッポンカメラの意味であるが、戦前に戦争が激しくなったときに日本の軍部からパテントは関係ないからライカのデッドコピーを作れという命令で作られたものだそうだ。アメリカのカードンと同じだ。

であるからしてライカそのものなので、すべてのアクセサリーが使える。ライカモーターだってそのままつくのである。
レンズはニッコールレンズであって、これは大したおごりだと思う。
東京で使っていたニコンSについているニッコールレンズ、つまり5センチと2.5センチをそのまま持ってきた。ライカマウントアダプタがあるから問題なしである。
古いニッカカメラに古いニッコールをつけてプラハの曇った午後の光の中を歩いていると何か昔に戻ったような気がするのだが、実際に写った写真と言うのは非常にモダンであって、クラシックな描写というわけでもない。
そこが痛快である。

2014年11月14日 (金)

カフカに目線

Sdim0332プラハは丘と谷の街である。それは南北に続いている。高いところは東西高みになっている。
ここはモルダウの南側であるが、丘陵にそって建てられた建物が撤去されて、そこに出現した巨大なキャンパスにカフカの顔が描いてある。
カフカが幸せなのはドイツ語が母国語であった時代のプラハに生きて、かの第三帝国の圧政を知らなかったことだが、不幸なのはプラハが西側の国になってから「商業」に勝手に使われていることだ。

ちょうどウイーンの銘菓モーツアルトクーゲルみたいなものである。
ここはあたしの散歩コースである。
バスの中から撮影したら、こういう具合になってフランツの肖像権は目線で保護されることになった。

★Σdp1

2014年11月13日 (木)

セグウエイとクラシックカー

Dsc_0312セグウエイという乗り物は極東では道交法で公道は駄目である。
マンハッタンなどではポリスが使っていて、騎馬警官などより効率がよろしい。
プラハにもセグウエイはある。以前は街の北の場末に店を構えていたが、最近では中心部の一等地に店がある。
それだけ売れているのか。

プラハは坂の街であるが、王宮に登る急な坂をセグウエイはどんどん登る。

繁華街でも良く見かける。レンタルもしている。
旧市街で人気なのはクラシックカーの観光であるが、これを脅かす勢いである。
しかし車もセグウエイも運動不足になりそうだ。

やはりクラシックカーとセグウエイの間を行く、二本足歩行が一番良い。

★ニコンA

2014年11月12日 (水)

プラハ 早朝の月

Sdim0405羽田パリの飛行でずっと月の入りの月が同じ場所に見えていたのは先週の火曜のあけがたであった。
数千キロに渡って沈もうとする月を追いかけるのは、稲垣足穂の「黄漠綺談」を実地に行うようなもので面白い。
プラハのアトリエはアトリエであるから天窓は北に開いている。今居るのは街の東はずれの屋根裏であるが、やはり北向きの部屋だ。
日本だと風水で北向きは嫌われるようであるが、物体の照明ではものが綺麗に見えるし、カメラとか本が西日でやられることもない。
それで北向きが好きだ。

明け方に西に沈む月などは最近では見る機会がないが、久しぶりに月の入りを楽しんだ。

★Σdp1

2014年11月11日 (火)

プラハ中央駅

Photoプラハ中央駅の銅像である。銅像というと外人の知らない偉い人が威張っているのが普通である。
以前、新潮45の連載で日本の銅像を撮影して歩いてそれが分かった。
これは見た通りの題材である。こういうモチーフを展示するのはなかなか偉いと思う。日本なら「パパママ坊や明るい家族」の像でないと上層部が承知しないであろう。
プラハ国鉄はそこが偉い。バーツラフハベルさんは劇作家だし、当時のプラハ市長も作家だったし、政治関係の人のバックグラウンドがことなるのである。いや、極東の国と比較しているのではない。
★ニコンA

2014年11月10日 (月)

お知らせ

チョートクカメラ塾は水曜日に配信します。. チョートクカメラ塾第二十七時限
  赤瀬川原平さんの「カメラが欲しい」

プラハ トラムの迷宮

Sdim0183プラハは路面電車(トラム)が面白い。メトロは外が見えない。バスは渋滞が退屈である。それでトラムだ。
「屋根裏プラハ」新潮社刊の中にあたしが僅かに出資していた写真ギャラリーの看板娘と電車でデートする1章がある。路線の長いトラムで終点まで行って、チョコレートを半分ずつ分け合ってまた戻ってくるという話だ。
これが四半世紀前のラブストーリーだが、あの頃は社会主義的なトラムで、手すりの部分は銀色のペンキで塗ってあった。それが良かった。同じトラムは今でも走っている。社会主義感傷ってやつだ。

これは最新のシュコダ製である。モダンな電車でジョイント形式になっているので全長は数十メーターある。
街中ではのろのろ運転であるが、ひとたび郊外に出ると、BMWも追いつかない高速運転になる。往年の工業先進国の威信が感じられる。

あたしが好きなのは街角でこういう風にジョイントで自分の乗っているトラムの全景が見える瞬間だ。

★Σ dp1

2014年11月 9日 (日)

プラハメトロAラインをニコンAで撮る

PhotoプラハのアトリエはメトロのAラインの北の終点にある。こう書くといかにも田舎の感じがするが、中心部まで駅で二つである。プラハの街は小さいのだ。しかしこの二つの駅を徒歩で歩こうというのは無謀である。

非常な高台にあって、その間にモルダウもあるので、高低差が非常にあるから歩けるものではない。
メトロのA線はそれぞれの駅が異なるホームのインテリアである。こういうでっこまひっこまなのだけど、その色合いがことなるので、プラハっ子なら色でどこの駅なのか分かる。
あたしも1975からプラハなので、ここは色合いだけで判断できる。
このラインの車両はソ連時代のものなので、なかなか格好いい。走るゼロハリという感じの車両である。

★ニコンクールピクスA

2014年11月 8日 (土)

プラハフォトメンタリー国際旅団

158タジマハール旅行団というのがあったな。それになぞらえて今回はプラハ旅行団としようと思ったがどうも重さがない。
キャパのスペイン戦争のように国際旅団というのがかっこいい。それでフォトメンタリー国際旅団とした。上のようなフォrトメンタリー共和国のパスポートも持っている。

スペイン取材時のキャパのカメラを真似るが、レンズが伝説のキャパのニッコール5cmである。それをマウントアダプタに入れて、ライカマウントにする。
なにか恰好がハンザキヤノンめいてくるのもおかしい。

あ、フォトメンタリー国際旅団の一人隊長があたし。

2014年11月 7日 (金)

月の入りを時速800キロで追いかける

155今回の羽田パリの飛行はなかなか良かった。
離陸して江ノ島上空から左に藤沢を見て北に飛行。眼下の街が灯りで照明されているように見えたのは、これは月の入りの光のいたずらなのである。

飛行機はユーラシア大陸の大圏飛行になって西を指し示すようになってから、主翼の上に飛行機の保安灯が点灯している。
それが良く見たら、月の入りなのである。数時間前に湘南で見た月が沈むのをそのまか追いかけているのだ。
独歩が武蔵野の草の間に入る月について謳っているけど、ユーラシア大陸に入る月を高速で高度三万尺で追尾するなどがはまさに天狗様のわざである。

月の入りは数時間続いて、フィンランドから航路が南になっても見えていた。

こういうのが飛行の楽しみだ。

カメラはiPhone

2014年11月 6日 (木)

AF HND CDG PRG

154飛行機に乗るのは好きだが映画は嫌いだ。商業映画が嫌いで、

エイゼンシュタイイン以降は好きな商業映画は数少ない。だから飛行機でボーイミーツガールの映画を見るのなら墜落したほうがましだ。

七十年代から八十年代にアエロフロートを使ったのはあれには上映中客に映画を見せる愚劣なサービスがなかったからだ。
それが今では世界中がつまらなくなってしまった。

まだビデオオンデマンドがなかった時代にチャンネルは二つしかなかった。パリから東京に戻る時、つまらない映画が二本立てになった。文句を言って、ギャレーにある四インチモニターで見せてもらった。それは低い位置にあって見にくいので客室乗務員さんが低い木製の椅子を用意してくれた。

今だに不思議なのはあの椅子が林間学校にはぴったりだが、飛行機には不似合いなものであったことだ。あれは何に使ったのであろう。
もっともこれはファーストの客だから可能なわがままであった。いまは大人になったのでああいう馬鹿な真似はしない。

AFが新機材になってモニターシステムが改良されて飛行中の状態を多角的に観察できるのは嬉しい。

2014年11月 5日 (水)

屈曲モルダウ

Photo大河は女性である。あたしが長く住んだドナウは北西から南東に流れる。一方であたしが長く住んでいるのはもモルダウの岸辺である。こっちは南東から北西に流れる。
ようするに、河はその流れの方向で性格が決まるようなところがある。

カレル橋あたりのモルダウは正装したお洒落な河である。
隅田川と同じでモルダウは大きく屈曲しているので、実は有名でないところの流域の方が面白い。
寝起きの河の表情はそれで良いものである。

路面電車でプラハの北郷の高台に行って、そこから別の系統の市電で一気に西にくだってモルダウを越える。
ここらは完全なカントリーサイドである。
すなわちスデクが慣れ親しんだ、ボヘミアの野である。
プラハの美学は街の周辺にある。まあ、足穗流に言えば、カンツリーだな。

2014年11月 4日 (火)

屋根裏プラハ

1本日からしばらくプラハ滞在。屋根裏プラハとは、新潮から出したあたしのエッセイ集のタイトルである。
三十年過ごしたプラハのアトリエのことを中心に雑誌新潮に二年間連載したのを単行本にした。原稿用紙で600枚ほどだが、単行本の必要なサイズは450枚ほどである。それでどれを落とすか苦労した。

ここはそのプラハのアトリエではなく、街の東の別の屋根である。眼前にあるのはプラハタワーである。アトリエの窓から見えるタワーはスターリン建築の旧ホテルインターナショナルである。窓から高いものが見えるのは佃の窓から見る、スカイツリーのそうだ。
時間からすれば今の佃よりプラハの方が長く住んでいる街なのでやはり落ち着く。


2014年11月 3日 (月)

隅田川の河面

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★本日移動日 HND CDG PRG

荒川と隅田川が屈曲してその距離が非常に近いのは、ここ北区の豊島界隈である。
江戸時代は六阿弥陀詣でという名所であって、ここに渡し船があったというが、当時はまだ荒川は掘削されていないから、河は隅田川だけであった。

その屈曲した河の風情にはダイナミックな存在感がある。飛行機の中から蛇行した河を見るのが好きだが。
この豊島四丁目の屈曲部もそのひとつに入る・
雲が速く移動する風の強い午後である。
河面が光って土手は暗くなる。河が生きているように見えるのがこういう瞬間だ。
★ニコンS ニッコール2,5CM

2014年11月 2日 (日)

東京バスライド

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1_4東京駅北口から荒川土手のバスは好きな路線である。交通渋滞なしでも1時間はかかる。駒込あたりに見るべきランドマークが多い。

上の写真の兆徳はなにかと話題になる店だ。以前には渋谷にうどん料亭で長徳というのがあった。

1980にザルツブルグのあたしのワークショップに参加した、吉村晃からその話しを聞いた。帰国して数年後にそこで飲み会をやった。同じくワークショップの参加者の猫とか山羊がいた。これはニックネームなので本名は知らない。

真ん中のは閉店したベーカリーである。駒込病院のちょと手前にある。これも大好きな物件である。

白い看板のコカコーラのロゴがほとんど見えないのがおお。

下のはバスから降りた乗客である。いい後姿をしている。

★ニコンS ニッコール5CM

2014年11月 1日 (土)

東京バスライド

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6_2都バスの路線は数年前に全路線を乗ったのである。小さい区域であるから、まあ大したことはない。

パリで市内の全路線のバスを乗ろうと思ってまだ果たしていない。好きなのは七十年代のパリの市バスである。最後尾に展望デッキがあった。

ちょっと信じられないのだが、粋なパリジャンがそこに立ってパリの寒風に吹かれていた。

都バスに最初に冷房が入ったのは何時か忘れたが、三十年は経過している。最近はWIFIも入ったので噸バスで仕事が出来る。

都バスの中からのショットはあたしの「東京ニコン日記」にも多数掲載されている。これはロバートフランクの影響なのである。

フランクは当時は50mmしか持っていなかったのでその視点は非常にシュールである。

その真似をしてニコンSに標準レンズで撮影をした。

東京の無意識の領域が映っている。、、、と思う。

★ニコンS ニッコール5CM

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