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チョートクカメラ塾ブログ

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2014年10月31日 (金)

青砥と青戸

Photo_3あたしの研究家を自称する、鵠沼のブレッソンはもともと東京は千代田区の洋服屋さんが実家で、そこがバブル時代に地上げされて、鵠沼に移住してすでに四半世紀になる。邸宅のマントルピースの前でカスタムのカメラの革ケースを造ったり、あたしをテーマにしたフィギュアを造ったりする趣味人だ。この春には二人で日曜の小町通りを歩いて、鎌倉を罵倒して歩いた。我々はそういう変人なのだ。持っていたのは冥途インおきゅぱいどジャパンのキヤノンであるから「鎌倉馬頭観音」だな。

彼は青戸研究家を自認していて、これは青色のトタン板で構成されたローカル建築のことである。

青砥の方は東京の北西にあってあたしの好きなローカルポイントである。

だから本格的に言えば、青砥のある青戸というのは、青戸の度合いが非常に高い都志美学の本物ということになる。

アサヒカメラで展開した、「TODAY TOKYO 東京逍遙五十年」の最終回で永井荷風が荒川放水路を回想する話を書いて、実際に何度も荒川を撮影した。当時の交通の不便な時代に乗り合い自動車でこの界隈を跋扈したそのパワーに敬服する。

「TODAY TOKYO 東京逍遙五十年」は近々写真集にまとめる。部数は少なく1万円で書店は流通させない。付録でサイン入りのオリジナルプリントをつけよう。

当時の日本には波板鉄板はあったのであろうか。これがもっと前の時代になると「青ペン」の家が登場する。これは青ペンキを塗った家のことだ。明治の時代の青ペンの家と青戸の家が果たして同一の物件なのかは、まだ調査を要する。

これはこの間、荷風の足取りをたどってその界隈を徘徊した時のワンショットである。

青戸は年代が経過して、侘びさびになってくる所に美学はある。

室町時代末期の青戸なんてのはないかな、

★ニコンS ニッコール35cm

2014年10月30日 (木)

ニュートラム 水の都

Photo_7大阪芸大に講義に行く時にはちょっと前に行って、なにわ見物をする。これは授業に役に立つ。

学生諸君の撮影した作品の撮影場所はどこであるのか、まったく想像がつかないようではいけないと思う。

前回はニュートラムというものに乗ってみた。東京のゆりかもめみたいなものである。

地下鉄の終点でニュートラムに乗ったらものすごい混雑であった。しかも若い女子ばかりだ。これはえらいことなったなあと感心していたら、その次の駅の展示場で全員が降りてしまった。

あとはあたしも含めておじんおばんばかりだ。

東京は南に港湾が開けている。大阪は西に向けて開けている。南に向けて開けているのは、神戸とかバルセロナがそうだ。北に向けて開けてkるのは欧州の北海沿いの港である。

さて西に向けて開けているのは、と考えたが思い出せない。アテネ近郊のピレウスがそうだったような気がする。

ニュートラムから見る光景がなかなか良い。水の都とは実に象徴的な言い方で、淀川のあたりを言うのであろうが、大阪港もその名前に恥じない。

住之江公園まで行ってそこから玉出に向かって歩き始めた、

★ライカMD−2 フェド28MM

2014年10月29日 (水)

有楽町の構造

Photo_11

Photo_12有楽町のニコンで打ち合わせして、外に出るとラッシュが始まる前の駅前である。

フィルムカメラの時代には京橋にラボがあったので、よくこの界隈には行ったものだが、最近のあたしのラボは富山になってしまったので有楽町とは縁がない。

しかし都市生活者が都心に縁がないというのは困るので、なるべく関係をもとうと思って、ビックの地下で話題のiPhone6でっかいモデルを曲げてみるとか、あるいはガード下に呑みに行くとか老人でも出来る社会参加を心がけている。

見ると人々が数人ずつ固まって、立っている。これは映画のエキストラさんが撮影が開始する直前の状態と良く似ているので面白いと思った。アクション!で一斉に動き出すのである。

映画の撮影は欧州で何度かやっているからそういう風に見えるのであろう。

この界隈の赤煉瓦の高架線はあたしにベルリンとかウイーンとかの電車を思い出させるのが常である。そういう所には気の効いた飲み屋があるのだ。この極東の有楽町もしかり。有楽町であいませう、というフランクさんの歌を思いだしていたら、不意に

「有楽町の構造」

というフレーズが頭に浮かんだ。

★ニコンS ニッコール3,5cm

2014年10月28日 (火)

小岩の横断歩道橋

Photo_10小岩と新小岩は「別の国」である。かつての西ドイツと東ドイツのように、対立関係にあると聞いたのは大昔のことであって、そういう国際政治みたいな対立はないであろうが、なにしろこのふたつの駅はJRの電車が全力で走って何分もかかるのである。

この日も曇りであったので、方向をロストして面白いことになった。町工場のあたりを徘徊していたら、数十人のグレーの服装の労働者が戸外に出ている。これは職場のロックアウトだと思ったら、赤旗がない。

単に屋外で休憩しているらしい。

つまらない時代になったものである。皆さん、生活にうちひしがれたような表情なのも気の毒である。

その先の横断歩道橋で数十名の女子生徒が運動服で階段を降りてきた、こちらは非常に元気がよろしい。

それでこっちも士気が向上。

★ニコンS カールツアイスイエナ ビオゴン3,5cm

2014年10月27日 (月)

原平さん

4家人が新潟の別宅に行って、古いファックスを発見して持ち帰った。
十年以上前にイスタンブールに行った時にエジプシャンマーケットでからすみを買った。
それを赤瀬川原平さんにお送りした、そのお礼のはがきがこれである。
原本は失われているが、そのはがきが嬉しくて、たまたま新潟にいた家人にファックスしたもののようである。

なぜ、からすみなどお送りしたのかと思うに、原平さんのカメラエッセイでミノックスのことをからすみに例えた一文を読んだのが、犯行の動機であったらしい。

驚いたのは十年以上前のファックス用紙があまり退色しないでそのままであったことにある。
そのことに驚いていたら、翌日にご本人の訃報に接してさらに吃驚した。

超芸術家はこうあらねばならない。
原平さんの大展覧会が開催されるが、ご本人は「在廊」というような子供っぽいまねはなさらないであろうとなんとなく感じていたからだ。

原平さんの著書が200冊を超えたお祝いの集まりがあった。あれは何年前のことであったろう。

小岩ラビリンス

2_2

3小岩のことは良く知らない。

以前、小岩のFM局でゲストに呼ばれたことがある。オンエアで話をしていたら、坂崎酒店のご主人が自作のラベルをつけた、ワインを届けてくださった。この方坂崎幸之助さんのおじさまにあたる方である。そういう人情の街なのだ。

小岩で道に迷った。曇り日の午後である。方向感覚が失われるのである。

しめた!と思った。あたしは方向感覚の良い方であるあから逆につまらない。何時であったか、サンジエルマンで曇りの午後に道にまよって実に良い体験をした。

その時と似た体験になったのである。

しかしその体験も十分ほどでフラワー通りに出てしまった。その道をたどってゆくと、黄色い焼き鳥屋に出た。ここは初めてである。

お客さんが亜細亜系なのでもうニュートンサーカスに行く必要がないな、などと感心してそこで一杯やった。

小岩は国際都市である。

★ニコンS biogon 3,5cm

2014年10月26日 (日)

小泉定弘さんの「神田川」

152小泉さんは日大写真学科先輩である。日大写真学科の教授をながく務められた。

小泉さんの一連の仕事はそれぞれハードカバーの写真集になっている。それも私家本であるから価値が高い。

出版業界が一番嫌うのは、写真集である。タレント本でも売れないのであるから、真面目な写真集は売れない。いや、編集者が熱心に造ろうとしても、営業から大反対される。

あたしの「ライカマイライフ」がそうであって、最初はスクエアなハードカバーで造る予定が営業サイドの問題で駄目になった。しかしハードカバーは死守したしさらにかがり綴じにするという勝利を勝ち取った。

いずれにしても本当に真面目な本は流通にのらないではなく、私家本として出せば良いのである。これは小泉さんがずっと貫いてきた生き方である。四百部限定といううのもいい。

もう一点、凄いことは小泉さんの写真展示は地元に根ざしていることだ。数年前、西尾久商店街をあたしのコレクター野々宮と撮影して居た時に、小泉さんの個展の展示の案内を町内会の掲示板に認めた。会期はすでに終わってたが、ようするに荒川信用金庫展示コーナーのような場所なのである。

これも小泉さんの生き方の筋が通っている。

内容のことを書きたいのだが、それは改めて。

2014年10月25日 (土)

ニコンSにニッコール5CM F1,4で撮る

10223ロバートキャパがカメラ毎日の招待で来日した時のキャパの姿が記録されている。

革ケース入りのニコンSを構えた外人カメラマンに見えたのはあたしが子供の頃の話で、今見ると、ハンガリー生まれのユダヤ人がカメラを構えている。これは人間の属性の問題であるから、高貴なことである。

キャパのカメラの構えがどうみてもアマチュアのように見えたのはあたしが大学当時の話であって、当時はあたしもライカの素振りに熱中していたからそういうことが気になった。

今ではアマチュアっぽいキャパのカメラさばきが尊敬に値する。

何十年もニコンがそばにあるわりには、最初のモデルニコンSを真面目に使ったことがない。

ニコン発見の父、DDダンカン感激したのは、ニッコールレンズであって、ニコンカメラではないからだ。

ダンカンが朝鮮戦争に取材した時はライカ3fを一度に五台かってそれがゴシップネタになったそうであふ。それでダンカンはニッコール5センチf14と13,5センチf3,5を持って取材にいった。

対抗してあたしも一度に五台のニコンSを買った。

これはダンカンの真似であるが、一度に一台しか持参sないのは、キャパの真似なのである。思えばあたしの若い当時、キャパがアマチュアに見えたのは、彼のポートレートでは何時もカメラは一台であった。これがアマチュアっぽいのである。

しかし最近、突撃隊長がもっと以前のキャパの写真をどっかから探してきた。それはライカとローライを四台もぶらさげていいるスナップである。でもキャパはニコン一台が似合う。

★ニコンS ニッコール5cm f14Esu

2014年10月24日 (金)

プラハ この建築が好き

Fh040032

東京に比べれば、プラハは建築の宝庫である。日本の場合は既にくたびれたポストモダンという感じで建物に埃が被っているようだが、プラハの建築物は数百年前から今まで建築の歴史そのものを街並みが語り続けた。

これは極東では真似のできないことである。 アトリエから南に歩いて最寄の地下鉄の終点に行く途中の細い道の右側にこの建物がある。 全体を見ると青とゆうか藍色の巨大な建築物であるが、近くに寄ってみるとそれは青いタイルで構成された巨大な壁面なのである。

タイルと言えば私の頭はすぐに、ポルトガルのタイル、アズレージョを思い出すがプラハのタイルの使い方というのはそれとは全く異なる。この2つの都市はその距離が2,000キロ離れているのだからこのタイルの使い方の違いは当然と言えば当然である。

この無機質の建物はウィーン工科大学のキャンパスの中にある。どうも実験室とかそういう目的に作られたようだ。その隣の建物、これも巨大だが、こちらは学生食堂になっている。そしてその1部は巨大なスーパーマーケットである。であるから私の日々の暮らしはプラハにいる場合は常にプラハ工科大学の建物にお世話になっているわけだ。

午前中にプラハの旧市街に出かけていくときには、光は逆光であるからこの建物はほとんどシルエットになって見ることができない。午後遅くに旧市街からアトリエに戻ってくるときには午後の斜光で実に立体的に見える。

肩から斜めにかけているツアイスのコンタフレックスの二眼レフでこれを撮影した。 最初から二眼レフファインダーなどは見てはいない。アルバダ式のアンダー、つまりフレームファインダーでいい加減に構図をとって撮影しているだけだ。 こういう雲の流れがまさにボヘミアの午後である。かのヨセフスデクもこういった午後の美しい雲の流れを撮影している。

★コンタフレックス二眼レフ ゾナー5cm

2014年10月23日 (木)

プラハ  このカフェが好き

Fh040022プラハで長年行っている喫茶店つまりカフェのことを考えるに、

一番不思議なのはビロード革命の前とビロード革命の後とはそのカフェの内容が全く違ってしまったことだ。

革命前のカフェと言えば数は全く少なかったのだけれど、そこでは十分にリラックスできた。
つまりカフェにいることが生活の1部になっていたわけだ。そういった伝統のカフェが私の場合にもいくつかあった。それらがなくなったのかと言うと、実はまだ存在するのである。

ところがわれわれはそこに座る椅子がなくなってしまったのだ。つまりパッケージツアーで来るお客さんのための席になってしまったのである。

これは非常に悲しいことである。それ以来プラハのカフェを回って自分が座る椅子を探し続けて30年近く経ってしまった。いくつかはいいカフェが見つかったのであるが、それらはどうも命が短いのだ。大体5年持てば良い方なのである。

今こうして思い出してみるとそれらの小さな路地裏のカフェの椅子の破れ具合とか天井のバロック曲面などが思い出される。

このカフェはおかげさまで10年は継続して存在している。
もっとも建物そのものは数百年前のものであって、代々中のの商売が変わってきたというのが正しい。
ここでウィークデイの何時間かを過ごすのが私の習慣になった。
これはツアイスのコンタフレックスの二眼レフで撮った作例である。レンズは多分ゾナーの明るいレンズの開放でとっている。

観察すると細かいディティールがよくわかるのは面白い。ドイツの戦前のゲシュタポは明るいゾナーのレンズで特殊な撮影カメラを作った。これだけちゃんと写ればそういう目的にも使えるわけであろう。ここは文学カフェという名前なので、大学の関係者とかがよく集まる。これは文壇カフェとか文壇バーなどによりはるかに安全な場所である。
私のように何の関係もない外国人が気楽に入れる場所であるからだ

 

2014年10月22日 (水)

プラハ 中庭が好き

Fh040003

アトリエの中庭である。二月の撮影であるがこの年は暖冬だった。中庭の中央には小公園がある。そこには壊れかけた、というよりすでに大破しているベンチがあって、そこに注意しつつ腰掛けるのが好きだった。

二月と言えば凍り付いた植物が普通なのだが、この年はすでに氷が溶けた。水滴が綺麗なので撮影したワンカットだ。コンタグレックスの二眼レフで撮影している。

ゾナーのf15だったかf2であったか記憶していないのはコンタフレックスは二台持っていたからだ。

絞りは多分t4くらいであったろう。こういう撮影には二眼レフは便利だ。

ヨセフスデクは自分の家の庭を生涯撮影し続けた。これは立派な写真哲学だと思う。

★コンタフレックス二眼レフ ゾナー5cm

2014年10月21日 (火)

お知らせ

チョートクカメラ塾は明日配信です。
26時限
タイトル
ファインダーを真剣に見ると写真が下手になるよ!

プラハ この建築が好き

Fh040011プラハの中心部、ムステク駅はあたしのアトリエからメトロのグリーンラインで数分だ。街が小さいのは便利である。
まずここは銀座四丁目という感じがある。この界隈で有名なのは、ラテナマジカの人形劇(あたしは見たことなし)のちょっとグロテスクな表現主義の建築だ。そういうのは当時は流行であったのであろうが、不易流行というやつであろう。

その交差点の斜め先にある、名前は知らないがこの建物が好きだ。
この建物はスデクがプラハのパノラマシリーズで撮影しているのである。それも縦位置での撮影だ。

都市が好きというのはその実、建築が好きということだが、それは建築写真家の撮る建築写真とはまったく異なるものであることは言うまでもない。

★コンタフレックス(二眼レフ)ゾナー5cm f1,5

2014年10月20日 (月)

プラハ アトリエの窓から竹田正一郎さんを偲ぶ

Fh040033
プラハのアトリエは天窓が北に面している。
そのことは「屋根裏プラハ」に書き古したが、北側からの光というのは、物体が綺麗に見える。
それで室内で静物など撮影して満足している四半世紀であったが、ある日、窓から外を見て、空がドラマチックなのでこれは撮影できると思った。

一日、部屋に居た。光が移動して行くのを撮影して、雲が多くなると天窓を開けて天空を撮影した。
ここは航空路の真下にあるのでプラハに着陸しない飛行機が見事な飛行機雲を披露する。

これを撮影したのはコンタックス2型に戦前のビオゴン3,5センチだった。竹田さんとホテルニューオオタニでコンタックスの話をして、その翌週にプラハに居たので、影響を受けたわけである。

コンタックスで撮影したフィルムにはデジタルのように日付が入っていないが、2009年だったと思う。
その頃、竹田さんとは良く会っていた。ドイツ語で会話した方が楽なそういう突っ込んだ、カメラ美学の話だった。

竹田さんが居所をかえて一年。

週末に番町で竹田正一郎さんを偲ぶ会があった。
それでいろいろ思いだした。あたしをまだ文壇バーになる前の新宿の「猫眼」につれていってくれたのも竹田さんだ。さっと十五分で切り上げて帰るのも欧州人だなと思った。

偲ぶ会では、各人がそれぞれの竹田正一郎を語った。その中で「竹田さんはカメラの話をする時には嫌そうな表情で語る」というのがあった。

これはニューオータニのなだ万でも記憶にある。「あたしの家計?そんなことは執事に任せてある」という感じなのである。

思えば、カメラやレンズが人生の重大事のように思うのは人間の底の浅さが見えている。そのことはあたしをもればすぐに分かる。

★コンタックス2 ビオゴン3,5センチ

151
★セルフタイマーを押したのは前列左の柳沢さん。カメラはアルファ7 ズミクロン50

★竹田正一郎さんからいただいたメールを追悼の意味で掲載しよう。

田中さま
 
mixiのメッセージで出したものですが、どうも着いているかどうか、あやふらなので、再送させていただきます
 
おくればせながら、ライカインコのご逝去、お悔やみ申し上げます

その記事をみて、かつてチョートクさんが詠まれた一句を思い出しました

飼い鳥も老いて佃の幟かな

記憶の中から探り当てたものですから、間違っているかも。

でもこの句には、「しをり」があって大好きです。

光る水面と、薫風と、陽光までが想起されてーーー


ではまた


竹田、

2014年10月19日 (日)

Nikon1持ってフォトメンタリーパトロール

Image_2

今回、フォトメンタリーチョートクカメラ日記のスタートにあたって、メインの機材はこれにした。ニコン1 V3である。
私の仕事のやり方は、世界中を行ったり来たりしているので、カメラはなるべく小型軽量なほうがいい。

同時にフィルムを使うNikonS(これはロバートキャパが使っていたモデル)を持ち歩いているので、フルサイズのデジタル一眼レフと完全装備したフィルムカメラを両方持って歩くのは体力的に大変である。体力にストレスということは、撮影が嫌にということである。石川直樹さんと話していたら、エベレストの登頂には写ルンですがいいと言ってた。ヒラリー卿時代にはそれはまだないから、レチナである。低地ではコンタックス2を使っていたが、高所では無理なのだ。

写真の撮影という事は単にその場所で右手の人差し指をちょっと動かすということでは無い。
それは極めて精神的な活動でもあるからカメラの重さにやられてしまってはダメなのである。戦場のキャパはNikonSを皮ケースに入れたのを一台だけ持って気楽そうである。これはいい感じだ。

  ニコンのコンパクトデジタルカメラは10年近く前に使っていたことがあった。それは日本路地裏学会の公式カメラであったからだ。久しぶりにニコンのコンパクトデジタルカメラに触ってみて時代はずいぶん変わったなと思った。大変な進化なのである。

世の中では「カメラ経済アナリスト」さんがコンパクトデジタルカメラはもうダメなどと言っているようだが、これは数字の上のトリックであろう。実際に必要として仕事の最前線で使っている人は私の周囲にもたくさんいる。
森山大道さんがコンデジで駆け出しのアマチュアさんがフルサイズのデジ一眼というのも時代だな。
フルサイズのデジタル一眼レフは目立つから、第三者から見るとどうしても「業界の人」になってしまう。若い連中はそれが嬉しいのであろうが、この業界の人のように見えるというのが、私などにはおもしろくない。すでに充分に業界の人であるからだ。

ニコン1にはハンドグリップを付けて使っている。ハンドグリップというよりかフィンガーチャンネルという感じだな。これがあったほうがはるかに使いやすい。カメラの取回しが抜群に良くなるのである。

ネックストラップを長めにしてカメラは肩から斜めにかける。これで1日中歩行する体制ができているわけだ。

カメラに最初から付属しているストラップはいただけない。全体のコストの中で考えるとこういうレベルになってしまうのであろうが、実際に1日中カメラを持って歩いている人間にしてみると愉快なストラップではない。私が最初にすることはまず自分用のカスタムストラップに交換することだ。
そしてフォトメンタリーのパトロールを東京や、来週から行くプラハで展開するわけだ。

2014年10月18日 (土)

スター写真家のブラックニコン

150これはブラック仕上げのニコンカメラである。

ライフのカメラマンのために特別に製作されたブラックニコンであるという。
時代は朝鮮戦争の頃であるから、前線で使うカメラが敵のスナイパーの攻撃にあってカメラマンがやられるといけないのでそのために作られたものである。

戦場でブラック仕上げのカメラは写真家を守るものなのか、それはわからない。ロバートキャパはクローム仕上げのニコンで地雷を踏んで死んでいる。一之瀬泰三はブラック仕上げのニコンFに弾丸があたって命拾いした。
こうしてみるとカメラのクローム仕上げ、ブラック仕上げの違いは実際には写真家のには関係ないことがわかる。しかしブラック仕上げのカメラというのは信仰の証なのである。

ライフ仕様のこのブラックNikon Sの
は巻き上げノブが通常のモデルよりも大きくなっている。 このモデルに触ったことはないがいかにも操作しやすそうである。
40年以上前に横浜の日吉のもう閉店するという、さそうカメラのジャンクセールで、サードパーティー製の巻き上げ装置を買ったことがある。それは巻き上げノブの上にかぶせて使うラチェット式のレバーであった。確か500円位で手に入れた。小さなアクセサリーでやるからそのまま紛失してしまった。とにかく半世紀近くの昔なのである。
この間、何か巻き上げの補助をする部品が欲しいと思った。東急ハンズに行って排水用の部品を探したら灰色のプラスチックのキャップが見つかった。値段60円。それを直径をテープで合わせて巻き上げノブの上にかぶせると似たような操作ができる。
しかしその外見はまさに配管用のキャップがニコンの巻き上げノブの上に付いているというだけで、どうも面白くない。これはフイルム巻き上げの神話であるのだ。だからもっと上質な金属製のパーツが必要なのだ。

2014年10月17日 (金)

廃園趣味4

4私が長年住んだウイーンの町歩きの楽しみはたくさんあるが、

その中の最大ものに古いお店のファサードを見て歩くというのがある。
ウィーンは巨大都市である。その外側の環状線、これをぎゅるてる、すなわち帯の道路というのである。

これは有名な建築家オットーワグナーが19世紀の終わりから20世紀初めにかけて作ったウイーンの一大都市計画であった。この第二環状線に沿ってウイーンの市電が走っている。
その街の西側を走る部分はちょうどベルリンのSバーンのように高架線になっているのだ。結果として高架線の下は店舗とかレストランとかバーになるのである。これが100年前は、モタンなお店だったろうが、それから百年経過すると、その存在そのものがクラシックになってくる。これを見るのが楽しみだった。

これは古いカバン屋さんである。実際にお店の前に立つよりもこのように路面電車の中から観察する方が面白い。
果たして営業しているのかしていないのか分からないようなその佇まいが、いかにもウィーンの午後の光の中で理想的な存在に思える。

店のウィンドウの片隅にドイツ製の、ちょうどフォッカーの飛行機の三発機のような表面をした時代遅れなアルミトランクが何時も置いてあった。
いかにも安物の金属トランクという風体であった。しかしこれが今では青少年の間で大流行なドイツの金属スーツケースなのである。

★ライカM3 オリオン28mm

 

2014年10月16日 (木)

廃園趣味3

Photo_4ある都市で道が分からないということは、大したことではない。

だが、森のなかで道に迷うように都市のなかで道に迷うには、修練を要する。ワルターベンヤミン『1900年頃のベルリンの幼年時代』

ベンヤミンはベルリンで道に迷う訓練を受けている。あたしはその七十年後にウイーンで道に迷う訓練を受けた。ベンヤミンが脱出したベルリンはその直後に廃園と化して居るから、予言が成就したわけだ。

ウイーンでの七年半の道に迷う訓練はあたしの都市大周遊の基本技術である。ファサードの連続性を観察していると、そこにパサージュが出現する。ウイーンではこれをドルヒガングという。その重い語感が好きだった。

ファサードはご覧のような各種の建築材で構成されている。それが石材であったり、漆喰、タイル、テラコッタ、煉瓦とそれぞれの表面でその年代が特定されるのだが、そういうことよりあたしの視神経を歓喜させるのは、建物のファサードは額縁に似ているという一点にある。

キエフコンタックス ビオゴン3.5cm

 

ご挨拶

ご挨拶
いつもご愛読ありがとうございます。 今日から本ブログは 「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」として新展開いたします。
PHOTOMENTARYはフレキシブルで自由な写真の発表の場です。
写真の愉しみの先に見えてくる世界に期待しています。 引き続き よろしくお願いします。 田中長徳/PHOTOMENTARY

2014年10月15日 (水)

廃園趣味2

2廃園趣味に感じるのは、脳内のどこら辺が刺激されるのであろうか?

ヨセフボイスの一連の作品には廃園趣味をさらに先鋭化させて蒸留したようなところがあって好きであった。

南方録にも似たような印象がある。美学が廃れてそれがマックスなシンプルかした所にまたあたらしい美を見るという感覚がある。

これはウイーンの西の労働者街の洋品店のウインドウである。これ以上はシンプルには出来ないほど簡素化されている。

ウイーンの七十年代の街歩きの楽しみはそういう店舗のシンプルさ加減を見ることにあった。

無論、こういう店舗は現代の商業主義は許さない。すでに携帯ショップになっている。

★ライカM3 ズミクロン35mm

2014年10月14日 (火)

廃園趣味1

Photo_31973に撮影されたあたしクダクロームのシリーズはそのフィルムは今は野々宮コレクションに収蔵されている。あたしは整理が出来ないので、四十年ぶりに発見されたフィルムがまた見失うことがあるからだ。

その作品は京橋のアイランドギャラリーで販売中である。それぞれの作品のエデイションは10点である。

四十年前の画像ファイルをみて痛感するのは、あたしには廃園趣味があることだ。そのことは若い当時から気がついていたが、こういう趣味は還暦を過ぎてからの方が本格的な楽しみになる。

これはウイーンのシエーンブルン宮殿の庭園の奧にある廃園である。庭園が廃園になったのではなく、最初から壊れてうち捨てられた庭園として造られた一種のテーマパークである。

これを撮影した当時、あたしは二十六歳であった。

★ライカM2 ニッコール2,1センチ

2014年10月13日 (月)

オリンパスワイドと森裕貴さん

2森裕貴さんのニコンサロンブックスナンバー1「京都」という写真集があっ

た。1969年の発行、ハードカバーの正方形フォーマットで、これは当時のアメリカの流行の写真であったcontemporary photographersの影響なのである。つまりコンポラ写真である。

森さんの仕事は当時の写真界で話題になった。その理由はまず当時は写真集というものは簡単には出版できないような背景があったからだ。
その写真集がニコンサロンから、ニコンサロンブックスというシリーズで出版された。その最初のナンバーワンが森さんの本なのである。

この写真集は以来私が京都に行った時の視神経の基本になっている作品である。言い換えれば京都の街中の光景を見るとその基本に森さんのスナップショットが通底されているのだ。

作品の評価以上に当時我々が話題にしたのはこの本がオリンパスワイドを使っているのにニコンサロンから出版されたことだった。
要するにカメラメーカーの懐の深さをそこに感じたのであって、神田駅前の飲み屋で須田一政さんと酒を飲みつつ日本光学は偉いという話になったのである。
ニッコールクラブも偉いが、それ以上に偉いのはこーゆー爆発的な売れ行きの人気カメラでなおかつ、ちゃんとしたストレートフォトグラフィが撮影できるカメラを作ったオリンパスはもっと偉いという結論になった。

当時ライカM2を使っていた志の高い若い写真家連中は、ライカを使いながら時としてオリンパスワイドにその重力圏が引き戻されるのである。これは非常に大切なことであった。カメラブランド平等主義である。

我が偽ライカ愛好会では毎月撮影会がある。日本で1番高いライカ、最新型のライカなどを皆さん持参してライカ自慢になるのである。

しかし撮影会にこうした写真撮影の本質に目覚めたカメラを持参するとメンバーの皆さんはちゃんと納得してくれるところがまたえらいと思う。

オリンパスワイドには一型と言われるノブ巻き上げてシャッター速度は300分の1秒までのモデルと、その改良型とある。
写真撮影に初心者であった私はレバー巻き上げになってシャッターの最高速度が500分の1秒になったいわゆる新形が良いと思ってそれを使っていた。
森さんが使っていたのは1型のシンプルなモデルだった。何かの雑誌で彼の作品が紹介された時に、森さんはそのクラシックなオリンパスワイドを頭の上に乗せておどけている写真を掲載していた。凄い人だなぁと思った。

2014年10月12日 (日)

リスボン公園のコアラ

Photo
Photo_2西新井駅から徒歩で十分ほどのリスボン公園である。

この前行ってまた再訪してしまった。あたしの好きな東京三大公園をあげるなら、ここと北千住の千住柳町公園、それと北池袋のすて石劇場公園だな。

リスボン公園にはベンチが二脚しかない。ようするに飛行機のファーストクラスみたいなもので空間がゆったりしている。しかもベンチは並んでいるのではなく、エントランスの左と公園の一番奥にある。これがゆとりというやつだ。

普段は左側のベンチで仕事して、飽きると、近所の酒屋で鹿カップ(ひかかっふ、と読む)を買ってくる。つまみは近所の店で買う。ここのチキンステーキはユーラシアの本格派である。

コアラとラッコの像は使い込まれていて、伝統が感じられるのもいい。あたしの事務所であり、休憩所であり、バーである。公園生活者などとは言わせない。森の生活と同様にここには季節がある。ただしモスキート軍団に注意。

★OM-D EM1 17mm

2014年10月11日 (土)

荒川土手行

Photo_3東京駅北口からは荒川土手行きのバスがある。

東京駅南口からは等々力渓谷行きのバスがある。どちらも野手横溢していて好きなバス路線である。

土手というと「土手の伊勢屋」を思い出す。隅田川からかなり離れているのに、なぜ土手なのかわからなかった。江戸時代に治水のためにここに日本堤があったことを知ったのはずっと後のことだ。

都バスは本当に荒川を超えた土手の下で終点になる。これがいい感じである。過日、荒川を新田から足立小台まで歩行した。本当は北千住まで歩きたかったのだが、日がくれたのである。要するに提灯を持っていないと夜の土手は歩けない。今でもそうである。

正岡子規がまだ歩行可能であった頃、目黒から品川まで夜道を歩いている。目黒の料理屋で提灯を借りて、真っ暗な夜道を料理屋の女子に案内してもらう。その女子に正岡子規はほのかな恋心を感じるといういいくだりである。

あたしは目黒ではなく荒川で日がくれたのでその日の歩行は中止になった。数日後バスで同じ場所を通過した。昼間はモダンな河川敷だが、夜は江戸の闇に戻る。
東京も捨てたものではない。
★OM-D EM1 17mm

 

2014年10月10日 (金)

ねか嫌いな家

Photo_4ねか、とはうちの言葉であって世間さまでは、猫というのだがこの方が発音しやすいのでこう呼んでいる。

それで、ねかである。東京の広域を歩行していると、空のペットボトルに水を満たしたのが隊列を組んでいる。

ねか嫌いの家であることが分かる。ねかが嫌いであるから性格の悪い家族であるなどと、偏見で見ることはあたしはない。そこにはペット信仰の自由がある。

ウイーンに棲んでいた当時、東京の家に居たねかのミミヲをウイーンにつれて行けないので、家人の実家の新潟に預けた。これがハンテイングが好きなねかでそこらここらで小鳥をとってきた、それがお隣さんの文鳥にまでおよんだので、問題になったのである。家人の母はケーキな何か持って謝りにいったそうであった。

当時は小鳥を飼う楽しみを知らないあたしであったから、なんで鳥がやられたくらいで怒るのかと思っていた。今ではその無知が恥ずかしい。

ところでペットボトルの構成のしかたはそれぞれに個性的である。現代アートの感じがする。

★OM-D EM1 17mm

2014年10月 9日 (木)

東京大周遊10.08

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2 本日の東京大周遊。デジタルカメラからフィルムカメラに持ち替えて、フイルム巻き上げる楽しみを知る。指先の運動だな。

快晴の秋日和で午前中から隅田川のほとりのベンチに座って原稿書いていたが、目の前を知り合いが歩いている。ラフなスタイルで川沿いの散歩をしているのは、田原総一朗さんである。別に声はかけなかった。

都営の一日券を買って最初に行ったところは新宿方面であった昨年の春に開店した桃園緑道のそばのカフェを散策しようと思ったが、方向を間違えてそのまま東中野に出てしまった。

東中野のラビリンスを行ったり来たりして中井駅近くで出る急に気が変わって都営大江戸線から新宿に出て新宿線の急行に飛び乗って一気に本八幡まで行く。
本八幡のチェーン店でカレーライス370円、福神漬け向きを食べる。日本のどこに行っても全く同じものが食えるというのはある意味幸せである。

いきなり小岩に行きたくなる。小岩と新小岩というのはかつての東ベルリンと西ベルリンと同じようなもので対立関係にある。
都営新宿線の篠崎の駅から京成バスに乗って江戸川土手を北上する。
小岩駅周辺で撮影。カメラNikon S 50ミリの標準レンズ。キャパとお揃いで三本撮影する。

2週間ほど前に東京大周遊で行った、小岩駅南口の近くにある焼き鳥屋鳥勢に行く。店のマスターがあたしのこの前のTシャツを覚えていたと見えて、いきなり質問された。偽ライカ愛好会というのは一体どういう団体なのですか?
マスターはカメラが結構好きで、いや高いカメラを買うというような不真面目なカメラ付きではなく実際に焼鳥屋のカウンターの内側から撮影をしてそれをブログにアップしているのである。なかなか大したものだ。
場所柄フィリピンやタイの人たちで賑わっているので、これはもう東南アジアにいかなくてよい。東南アジア気分満点である。
焼き鳥4本にチューハイ二本で500円以下であったかな。小岩駅から都バスで両国駅に行こうと思ったがなかなか来ないので、やってきた都バスの船堀駅行に乗った。
午後4時半でちょうど江戸川区役所で働いている人の帰りの時間とぶつかってしまったので凄く大渋滞であった。船堀駅に着いたときには何かウイーンからパリあたりまで飛んだような、いやそれよりもっと長い時間飛行の気分であった。

2014年10月 8日 (水)

OM-D持ってリスボン公園に

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2 この場所をリスボン公園というのは、私の思いつきの命名で実際にはもっとちゃんとした名前が付いているのであろう。

東京は足立区の関原にある
関原銀座という賑わいのある商店街の四つ角からちょっと離れたところにある小公園がそれである。ここは10年来おなじみの好きな公園である。その理由はここで原稿書きをしたり雑誌のゲラのチェックをしたりするからだ。すぐ近くに焼き鳥屋もあり、鹿カップの自販機もある。

なぜこれをリスボン公園と呼ぶようになったのかは明らかではないが、公園の脇に1列に30本近く並んでいる樹木が、リスボンの行きつけの公園なんとなく似ているのである。言うも愚かながら、公園のサイズとその植物のダイナミックさは比較にもならない。

それで実際のポルトガルのリスボンに行く前の日に、この公園に来てなんとなくこれから行くリスボンの空気になれたり、あるいはしばらくリスボンに行ってないときにはこの小さな公園に来て、リスボンの空気を擬似的に味わったりしているのだ。

この夏は仕事でずっと忙しくて、オリンパスのデジタルカメラを仕事で持ち歩いていた。仕事で持ち歩くということはそれなりにストレスがかかるものであって、だんだんオリンパスを見ると仕事モードになって憂鬱になってくることもあった。

その反動というわけでもないがフイルム使うカメラをこの2ヶ月ほど持ち歩いていた。しかしそろそろ本題のデジタルカメラを写真の楽しみのために持ち歩いてもいいだろうという判断で撮影に来た。
これだけデジタルカメラの時代になると、フイルムカメラとデジタルカメラの実際の使い方のその重要な違いというのを論じる人などは既になくなっている。

今朝撮影に出るときにデジタルカメラの撮影ショットの残数を見たら3,800枚ほどあった。フイルムカメラを持参するときには36枚撮りのフィルムを5本持つことにしている。これで約200枚弱の撮影ができる。
普通に考えるならばたくさん撮れた方がいいという人が多いと思う。私の場合はあまりにも撮影数が膨大だと逆に憂鬱になってしまうところがある。

デジタルカメラ撮影の重要なポイントは、撮影したときにその画像を確認しないところにある。撮影の生理とそれをチェックする生理というのは本来全く別のものであるからだ。

今回のフォトキナで話題の最新型のデジタルライカが、液晶をなくしたというので話題になっているが、あれには一理ある。しかし液晶がないにもかかわらず価格が普通の製品の倍近くするのは考えものである。

撮影にはレンズは1本だけ持参した。それは広角レンズで明るさがF2 クラスのものである。
仕事にはズームレンズを使うのが1番便利だし、少し重いけれども、この場合は本体が軽いから問題はない。

デジタルカメラの撮影とフイルムカメラの撮影を生理的に比較すると、これは非常に不思議なことなのであるが、あたしのようにフイルムカメラの時代に育った旧人類にとってはフイルムで撮る方が写真の楽しみが少しは多いような気がするのである。

そこら辺の違いはこのブログでもこれから考えてみようと思っている。

2014年10月 7日 (火)

天王寺の大阪芸大スカイキャンパス

140大阪は天王寺の超高層の大阪芸術大学のスカイキャンパスで関係者の展示をしていたので先週見に行った。

六本木ヒルズがこけら落としした時に、森美術館で記念展があったのを思いだした。
MoMAの館長が来ていた。帰りのエレベータで同じ箱に一緒になったのだが、日本式の巨大な造花を旨につけてそこに「ニューヨーク近代美術館館長」とあったのが奇っ怪であった。これは亜細亜のおまつりなのであるから、仕方ないと思った。

それはともかく、欧米の美術館は地上200メーター超えるようなミュージアムにはリスクが大きいから作品は貸し出さないのではと思った。これが12年前のことだった。

このスカイキャンパスはハルカスの24階にある。その印象は森美術館に一番近い。

あたしが契約している、京橋のアイランドギャラリーが東京での個展の展示とタイアップして、1974年にウイーンで撮影したコダクロームのシリーズを展示した。
はじめて四十年前の自分の作品に接することが出来たのは収穫だった。

感心したのは照明である。ちゃんと作品のデテイルが分かるような照明がされていた。

ようするにあたしは26歳のあたしに再会したのである。

★iPhone

2014年10月 6日 (月)

お知らせ

チョートクカメラ塾は水曜日に配信されます。内容は

チョートクカメラ塾第二十五時限
  え!どっちが本物なの?

  デジタル時代のオリジナルプリントを考える

大阪鉄筋煙突工務店

141今回は一週間の大阪であった。例の如く、大周遊。
大都会の全容を知るにはそのメトロの全線に乗るに限る。
今回は千日前線を大周遊した。南巽駅で降りて、歩行を開始した。地下鉄に騙されたのは、千日前線は一色線ではなく、南巽の手前の数駅から大きく南にカーブしてういたことだ。
それを知らずに駅前のストリートは東西に走っていると勘違いしたのである。
ずっと北に歩行(実際には東に)してどうも変であることに気がついて、小路という駅まで戻った。これはこうじではなく、じょうじと発音する。六台目円生の「雁風呂」になにわではこうじとは言わずにしょうじというとの枕がある。それを思いだした。

途中で発見したのがこの大阪煙突工務店である。
あたしの少年時代には銭湯の煙突は高い構築物の代表であった。
街中のカメラの修理店ではコリメータなどはいから、みんな、銭湯の先端にピントを合わせていたものだった。だから大昔の修理したクラシックカメラはそれぞれに銭湯の煙突の記憶が封じ込まれている。

★iPhone

2014年10月 5日 (日)

お手振りと森伊蔵

138_2
139 東京と伊丹は日本航空のFに搭乗することにしている。
大阪芸大に出かける時だ。新幹線の普通車の料金は持ってくれるので、差額は負担する。
バブルの当時はよくFクラスを使ったが、最近ではもっぱら欧州に行くには普通席の非常口である。

東京大阪は時間が短いのでFでも料金が安い。それと酒飲みはいじきたないので、飛行中に森伊蔵を飲む楽しみがある。
毎年、四月のニューヨーク便とか、パリ便では森伊蔵を定価で機内販売する。数は限られている。だからJFK便などでCクラスに座って居るとFクラスの連中が全部買ったしまったのではないかなどと気にするのである。

断っておくが、森伊蔵は好きではない。宝の方が好きだが、これは一種のお祭りなのである。
国内線ではそれで森伊蔵だ。二杯目は安全上の規定からちゃんとプラスチックのコップにいれてくれる。
それをちびちびやりつつ、生駒のあたりの山を越えて大大阪を斜めに横切って、淀川あたりでアプローチの乱気流に揺られるのが好きだ。

東京伊丹はヘッドウインドだからちょっと時間があるが、伊丹東京は追い風だから水平飛行は20分ちょっとしかないので、グラスを持つ手が忙しくなる。

空港のグランドさんの、お手振りは人間的で好きだ。なにか特攻機を見送る感じがあって、泣ける。
欧州の便ではこれはない。
お手振りはないが、グランドスタッフがくるりと背中を見せて、帰って行くその後姿を見るのは好きだ。
これは搭乗者が見る、最後の地上に棲息する人類だから。
★iPhoneここ

2014年10月 4日 (土)

なにわのらいか亭

Photo大阪大周遊である。

まず地下鉄で阿波座を経由して大阪港まで行った。
そこからニュートラムという電車に乗ってさらに南に向かっだ。
そのラインの始発はコスモスクエアというのである。大変な量の若い女性がニュートラムに寄ってきてびっくりした。ほぼ満員である。
これは凄いことになったらと感心していたら全員がその次の駅で降りてしまった。残されたのは我々ジジババばかりである。一体どうなっているのか?

終点はは住之江公園というところである。この場所が非常に気に入った。なんか近未来都市という印象なのである。

そこからさらに地下鉄に乗り換えて北に向かって2つ目の駅が玉出であった。
私の心づもりではそこから北に歩いてあいりん地区に行くつもりだったのだが、歩行に慣れていないのでだんだん方向が東にずれていったようであった。

阪堺電車の停留所の天神ノ森というのはなかなか素晴らしかった。ベンチに座って目の前の神社の巨大な大木の緑の葉が風に揺れるのをしばらく見ていた。この世のものとは思えない美しさであった。

そこからさらにジグザグに歩行した。歩いて行くといきなり崖の下に出たり崖の上に出たりする乱気流な地形なのである。

そういう予期せぬ道の連続が町歩きの楽しみである。
撮影をしている間に道を間違えてあいりん地区にはゆけず、北に天王寺のハルカスのスカイスクレーパーが見えてた。
その通りの左にあった小さな中華料理屋がこの名前なのである。
らいか亭というのである。
ライカ亭ではなくひらがななのは、以前のあたしのライカエッセイで意味する、国産レンジファインダーカメラのことである。こういうのは60年に一度起こるか起こらないかの奇跡のように思えた。

しかしその時は欲望をぐっと抑えてそのまま天王寺のほうに歩いて行った。
そういう楽しみは後に伸ばしたほうが結局幸せになる、と思ったからだ。
カメラはiPhone。

 

2014年10月 3日 (金)

数年前の住吉様の幟

 

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この夏の三ヶ月は某社の佃計画の仕事に忙殺されていた。何時もは寝に帰るだけの佃だから、あらためて
地元を観察でき、地元の人々にお話を聞く機会はよかった。
これは撮影してそのままになっている未現像のトートバッグで山になっていたフィルムから出てきた数枚である。そのロールの後には六本木ヒルズの仕事場が写っている。
思うに5年前くらいではなかろうか。大震災の後に佃はまだ本祭りを開催していないからだ。
あたしのように住んで四半世紀の新町民でも、この佃の幟を見るとそこにわくわくするものを感じる。
小路の間に見え隠れする赤い提灯も良い感じである。
手元に非常に古い写真がある。
あたしが日大の写真学科の1年の時に、この界隈にお祭りを撮影したワンショットだ。
男性連は今とまったく同じに獅子頭を持って舞っているのである。
そのショットは佃小橋の東側で撮影したもので、レンズはニッコール2,1センチだった。そのレンズをあたしはまだ使っている。
その道の突き当たりは石川島播磨のシップヤードであった。

★ライカM5 ズマロン35mm

2014年10月 2日 (木)

千住のカフェ

Moca1
Moca2あれは30年ほど前だったか、

朝日カルチャーセンターの東京の街を撮るという撮影で30人ほどの参加者を連れて北千住の街並みを徘徊したことがあった。
当時の北千住の街並みは再開発される以前でまさにそこに東京の戦後の風景がうずくまっているという感じがぴったりだった。

その後、北千住の街は駅前のターミナルを中心にして、モダンに生まれ変わった。一方で町の北のほう、つまり荒川と隅田川の周辺部はほとんど変化がない。いや変化がないからダメなのではなくて、かなり昔のままだから私は好きである。しかし困ったこともあった。20年近く前つまり最初の北千住撮影から10年近く経った後の事であるが、やはり何かのワークショップで千住桜木町から北千住の駅に向かった。

実際に歩行してみればわかることであるが、千住桜木から北千住の駅まではそれなりの距離がある。あたしのみ歩くのならいいのだがやはり途中で休憩してコーヒーの1杯も飲みたくなる。

この下の画像にある赤いエントランスのカフェであるがこれが30年近く前すでに閉店していた。そうなると唯一のこの界隈の喫茶店というのは上野桜木にある珈琲店モカである。
しかしここは全体のルートのスタート地点であるからここでコーヒーを飲んで休憩してしまうわけには行かない。

もしもこのルートを逆にして北千住の駅前から西に歩行するのならカフェモカはベストなロケーションである。
今はどうか知らないけれども昔はランチを食べることができた。それも1,960年代の喫茶店のランチの定番という感じの豚の生姜焼きなのである。

いつでもどこでも入ったらすぐコーヒーが飲めなければカフェにはならないであろう。いちどだけコーヒーを飲もうとして入店したらお母さんが出てきて、今、お兄ちゃんが外出しているからコーヒーはできないと言われた。

これは大都会徘徊人間として非常に困ることである。その店に入る前に、おにいちゃんが居るかどうかを確認する義務は客にはない。それで敷居が高くなってしまった。今回もお店の前の裏返し掛けられたのれんだけを観察しただけにて駅方面に向かった。

★ウエルミーワイド タイコール35mm

 

2014年10月 1日 (水)

東京は秋

Photo_3現在なにわ滞在中である。

東京は秋。

このタイトルはアラーキーさんの名作である。そこには東京の秋ではなく、東京「は」秋であることが偉いと覆う。

昨年は「北京の秋」に痺れて、十月と十一月に北京で暮らした。これは北京は秋ではなく、北京と秋は「の」で接続されるのが正しい。その説明は長くなるのでここでは省略する。

日本の商店街の桜と紅葉は「キッチュ」な装飾の代表のように思われているようだが、あたしは好きだ。

日本人の季節への感覚を繊細とか美学とか持ち上げるきはさらさらなくて、大昔に日本航空がビジネスクラスの名前を「シーズンズ」にした時も奇異に感じたものである。その名前を四倍にした名前の高級ホテルの方は、いつでも使える年間向きという感じがするけど、それを単体で使うとなると、これはなにか季節の移り変わりに敏感過ぎる国民性という印象がある。

季節の移り変わりは飛行上のノータムでは必須であろうが、そこには情緒はない。

以前、国際線の機長の話を聞いて、彼らはその上を飛行する山の名前は知らないと知ってかなり吃驚した。彼らはそこに降りるように教育されていないから、それは必要ないわけだ。

それでその機長は自分の中学時代の地図を持参して確認したのだそうである。これは楽しいことだとその人は言った。

季節感というのは不思議なやつである。

この足立区の商店街の飾りはその意味で季節を露わに象徴化しているからキッシュなのであって、そこが魅力だということになる。

★ニコンS ニッコール2,5センチ

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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