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ロック ユー

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2014年9月30日 (火)

足立区梅田町

1

2

Photo_2足立区梅田町という都バスの停留所がある。

そのバスストップが気に入っているのは、都バスの終点らしくないことだ。我々が考えている普通の都バスの終点というのは巨大なターミナルのー立派なバスの停留所のことのようである。

それはどうもあまり面白くない。というのはバスの停留所というのはどうも人生のそれぞれの区切りに似ているように思えるからである。

バスの停留所と人生の進行とを比較するのはかなり変に思われるかも知れないが、あたしには何かその2つが非常に似ているように思えるのだ。

そこでいかにも終点らしくないのだけれど、いきなりそれが終点であるという存在感というのが気に入っている
リチャードアヴェドンは撮影中にヒューストンで客死した。バスストップがいきなり終点になったのである

初めてこのバスストップに降りた時はちょっと途方にくれた。
その道を辿ってたら私は例の寂しいライオンに出会ったのである。これは迷路を探しながらの出会いであったが、実はもっと簡単な行き方があった。
梅島駅から通りをちょっと南下して右手に長さ1キロメーターぐらいの新しい道路がある。
この道は都市計画で作られたのであるが1キロメートル先でいきな
デッドエンドになっている。
その終点に寂しいライオンが鎮座している。
これを寂しいライオンの神社の参道だとすれば、この方が寂しいライオンが偉そうに見えるのは何か変な感じがする
それはともかくとしても、この寂しいライオン参道はなかなかスナップショットには素敵な場所なのである。
あたしには表参道などよりずっと格上だ。
Nikon S Nikkor2.5cm

 

2014年9月29日 (月)

さむしいライオン

Photo_4

Photo ★本日移動日 江戸ー浪速

寂しいライオンではなく、さむしいらいおん、である。

そのさむしいライオンはあたしの大周遊地図では足立区は関原のが有名で、★下の画像★これは偵察衛星からもちゃんと見えている。

北区の志茂の荒川のカミソリ堤防の南に、伝統ありそうな神社があってその裏手の公園に別のさむしいライオンがいる。ここには二年前に行ったのだけど当時はクラシックな宇宙船(鉄製で良い具合に年代が出ている)の方に興味があって、このライオンの方は記憶にない。

背景の樹木の恰好がなかなか良いので、なにかデルボーの夢の中の公園と言っても通用する。

★ニコンS  ニッコール2,5cm

2014年9月28日 (日)

千住ではおまつりだった

2

Photo 愛読するサンテクジュペリの「南方郵便機」だったか「マラガではおまつりだ」という一文があって、それに惹かれてマラガに行ったことがあった。

これは旅行会社の数億円かけた広告よりずっと効果がある。訳者の堀口大学が家人の遠縁だったということもその背景にあるが、高校生の当時、大学を愛読して作家のイメージを醸造していた。ただし、実際の堀口大学はどっかの呉服屋の店主のような風防なのでイメージが狂ったことがあった。

それでエキゾチックな評価からすれば、マラガよりも極東の千住の方がその異国度数に関しては比較にならない。かのランボーはシャムまでは行っているが、ジャポンには来なかったのが残念だ。

しかも写真機はランボーの趣味でもあった。

偽ライカ愛好会の撮影で御神輿が通る千住の路地を撮影した。しかし御神輿には興味はない。あたしの興味はその周辺の人々である。

お祭りの見物の松葉杖の少女というのは、なかなかのお祭り風情だ。

★ウエルミーワイド タイコール35MM

2014年9月27日 (土)

千住ではお祭りだ

Photo
4

偽ライカ愛好会の月並の撮影会は、九月はあたしは月番になったので町屋から千住桜木を経て、北千住に抜けるコースを指揮した。
アマチュアの撮影会であるから、天気が良いほうがよい。その天候は快晴であって、午後2時に町屋の交番前に集合して、おたけ橋まで歩いて、隅田川を越えてあれは大側襠の神社だと思うがその境内を撮影した。

境内には我々七人しか居ない。祭りの最低要員はいるが、これは無人と言って良い。
深閑と静まり帰っている境内は逆にお祭りの「はれ」の気分がみなぎっている。
神楽台にはちゃんとメンバーが揃っているけど、流れているのはCDのお神楽である。省力化というのか。

持参のウエルミーワイドで写した。ウエルミーワイドは三台持っている。これはごく最近に買った一台で、フォーカスは5メーターに固着して動かすことが出来ない。アメリカの軍用ヘリに搭載されたニコンFは距離が無限に固定されていたのと同じで誤操作はない。

富山のラボに現像に出して、仕上がりはこのように非常に満足なものであった。
★ウエルミーワイド タイコール35mm

2014年9月26日 (金)

お知らせ

田中長徳 オンラインギャラリー / CHOTOKU TANAKA Online Gallery
がスタートしました。
詳しくは右のアクセスカウンターの下のリンクをクリック、、、

お化け煙突方面3

3

北千住にはいくつかの私の好きなランドマークがある。これはその中のおそらくベストスリーに入るものであろう。

ご覧の通りのもので、これはカギ型小路の角にある通行注意のための信号なのである。
この注意と書かれた行灯は私の知る限り四半世紀前からここにあったと記憶する。

問題はこのランドマークが広い千住のどこにあるのか、その正確な位置がつい数年前までわからなかったことにある。

広大な千住を行ったり来たりしてようやくその 正確な位置が明らかになったのは嬉しい。要するに北千住公園を東に向かった最初の小路の角にあるのだ。

おそらく何度か車に飛び込まれたので、その防衛手段なのであろう。
通常の交通標識は、同じパターンであるから、つい見落としてしまうがこの手作りの注意信号はまず見落とす事は無い。

Nikon S Nikkor 2.5cm

 

2014年9月25日 (木)

お化け煙突方面2

Photo_2

北千住に行くにはメトロの北千住駅で降りるのがスタンダードであるが、それでは面白くない。

町屋から歩いて、尾竹橋を渡って、千住桜木に出るのがいい。 この前の偽ライカ愛好会の撮影は日曜で秋祭りだった。

それで千住を西から東に横断した。普段は無人なのに、こんなに人が住んでいるのかとびっくりした。それで三つか四つのそれぞれの町会のお神輿をすり抜けた。

お神輿のお旅所では数ダースの男達が路上で横倒しになっている。これが普段だったら救急隊を呼ぶところだ。 このショットはその撮影会のロケハンに、撮影会の二週間ほど前に行った時のものだ。

何か、カーサブランカという言葉が常に前頭葉に浮かんでいた。 すでに東洋の神秘などという常套語句は超越して、これは地球上の普遍な風景に見えてくる。 Nikon S  2.5cm.Nikkor

2014年9月24日 (水)

ワイドスーパー半世紀

Photo

Photo_2 オリンパスワイドスーパーはアサヒカメラのニューフェース診断室で木村伊兵衛ドクターがテストして絶賛したカメラであった。いや、カメラというよりレンズが話題になった。

当時、これだけ明るい広角レンズはズミクロンより他になかった。

あたしがこの明るい広角レンズを使い出したのは大学一年生からだから、ー1966年である。実際には四十八年使っているわけだが、まず。半世紀愛用と言って良いであろう。
1973年のウイーン行きの直前にサービスセンターで整備してもらってウイーンに出かけた。
当時のオリンパスフォトグラフィ誌にワイドスーパーで撮影した作品を掲載した。それによると「田中さんは修理の上がったカメラを持ってそのまま、羽田空港から欧州に向かった」とあるが、これは誤報である。実際には横浜から船に乗ったのであった。

なぜ、ワイドスーパーのことを思い出したのかと言うと、先日終了したばかりの京橋アイランドギャラリーの展示で、ワイドスーパーで撮影した作品がよく売れたからである。それは旧市街の小路に停車したブガッテイと雨に濡れた路上と一斉に飛び立つ鳩の群れが奏でる視覚の三重奏の好きな作品である。
八枚構成のズイコーレンズとコダクロームが忘れがたいショットを記録した。

フィルムはまだ数十年はありそうだから、一生モノのカメラだ。

★オリンパスワイドスーパー ズイコー35mm f2. コダクローム

2014年9月23日 (火)

お知らせ

チョートクカメラ塾は明日配信です。

チョートクカメラ塾第二十四時限
 「僕のコダクローム」って曲は知らないが、
  コダクロームは愛用した

  四十年ぶりに発見されたフィルムファイル

おばけ煙突方面1

PhotoTOKYOオリンピックの前の年におばけ煙突は取り壊された。

以前、アサヒカメラの連載の撮影でおばけ煙突を取り上げた。木村伊兵衛さんの1955年のアサヒカメラの特写で、隅田川のフォトエッセイがある。ライカにセレナー28ミリで隅田川の水面近くからおばけ煙突を撮影したショットが素晴らしかった。
尾竹橋の上からお化け煙突が存在した時代の様子を再現しようと思った。それで苦心して手元にある鉛筆やらボールペンを4本立てて前景にしてごまかしたのであった。

この間の偽ライカ愛好会の撮影会はあたしが私が持ち回りで計画を立てた。
それで木村さんの撮影場所を探したのだが、その場所は既にコンクリートで固められていて水面近くに降りることが出来なかった。尾竹橋から隅田川を見たら反対側にお化け煙突のようなものがある

近づいてよく見たらそれはどこかの大学のエントランスに作られた、お化け煙突のモニュメントなのであった。
実際には小さなものだが午前中の光で見るとシルエットになって、いかにも本物のお化け煙突がそこに存在するように見えた。

それで撮影したのがこの写真である。これは大昔の映画の特集撮影のテクニックなのである。

既に存在しない歴史的な建物を書き割りで手前に配置して実際にあるように思わせるトリックなのである。
もっともそんなクラシックな方法はコンピューターグラフィックが全盛期の今では全く消滅してしまった。

NikonS 2.5cm Nikkor

 

2014年9月22日 (月)

プラハの窓5

7プラハヒルズの窓から見たショットは膨大にある。

何しろ暮らしている場所がそのままにフォトスタジオである。ホリゾントは路上とそこに停止する路面電車であって、あたしはイントレか、ハイアングルピットかクレーン車の上の撮影者だ。
トヨタの車の広告撮影でハッセルブラッドを持ってクレーン車のカゴの上にいたことがあった。
遥かしたにモチーフを見ながら、手元のカメラを持つ自分の手が見える。
そういう記憶が復活したのは、路面電車のラッピング広告のおかげなのである。

普段は望遠レンズは使わないけど、こういう一部を切り取るショットはなかなか痛快である。

OM-D 40-150mm

 

2014年9月21日 (日)

ウイーン記憶の街11

11京橋のアイランドギャラリーのウイーンの個展は9/21で終了。
今回の収穫はあたしの二十代の仕事を良く見ることが出来た点である。

自分のプリントを見るのは部屋で見るのはダメである。さりとて自室をギャラリー状態にするもはもっといただけない。写真愛好家が自室をプリントで飾るのは大歓迎であるが、いやしくも写真家はそれはすべきではない。

このことを教えてくれたのはリー フリードランダーだった。
「部屋に写真を飾るかって?とんでもない。写真家が自室に自作を飾ったらまるでトランプで作った家になっちゃうじゃないか!」
これは真実だ。

自作をずらりと自室に並べては、お仏蘭西の退屈サロンである。西洋人がダメなのはそこだと思う。場所と目的を研ぎ澄まして、一本の掛け軸を選ぶ南坊録の方が 的を得ている。

この偽門ドリアンめいた作品は好きだ。理由はそれが何を撮影したのか全くわからない点にある。抽象表現主義だな。ハリーキャハンは数少ないカラー作品を残している。その指針が抽象表現主義に向かっている。

当時はカラーは命がけの仕事だった。石元さんの初期作品にも同様な真剣勝負が感じられる。

ライカ コダクローム

 

2014年9月20日 (土)

ウイーン記憶の街10

101970年代にウイーンのカフェを梯子してそれが生活になってし

まった。
ここはカフェランドマン。ブルグ劇場の隣にある高級カフェである。四十年前のウイーンは眠った街であるから、客席はガラガラである。

向かいの男性はクルト エルベンで、写真集コンテンポラリーフォトグラファーズの第二集に作品をだしてる。あたしはスイスカメラに作品を出したのでその縁で知り合った。

華々しい活躍であったが、中年を過ぎて古書店主になった。ウイーンの19区の狭い店だった。同業者があたしに、チョートク、知ってるかい、クルトの店にはトイレがない。隣のカフェに借りに行ってるんだぜ、と言った。これはウイーンでは普通のことである。


あたしは欧州にいる時にはカフェは使うが日本ではダメ。あのシアトルの田舎っぽいスタバが嫌いなのだ。それでもJFKのサテライトの先端にスタバしかなかった時と、アテネの議事堂の向かいにスノッブなジジババカフェとスタバしかなかった時には、消極的理由でスタバに入った。それとプラハで十年前にはWifiの使えるのがそこしかなかったので、これらは緊急退避と言うべきであろう。

ライカ ニッコール2.1センチ コダクローム

 

2014年9月19日 (金)

ウイーン記憶の街9

Photo路上の絵描きというのもまたウイーンの名物である。

今ではあまり見かけなくなったが七十年代はリング通りでそれぞれのアートを競い合っていた。日本からウイーン表現派に憧れて留学した絵学生などはこういうのをバカにする傾向があったが、それは彼らのデッサン力のないことへのコンプレックスに発していたようである。デッサンがプアなのは極東の坊ちゃんの方である。

路上絵かきは美術館の絵葉書をお手本にしてしてカラーチョークでーいきなり描き出すのだ。ここがすごいところだ。
コンツエルトハウスで登場した天才リヒターがいきなり、オルガン演奏を開始するのと同じなのだ。段取りなどなくて、いきなり全開になるのである。
ここにはプロの技がある。ウイーン人は絵画の目利きだから酷い絵には小銭を空き缶には投入しない。

ライカ コダクローム

 

2014年9月18日 (木)

ウイーン記憶の街8

8ウイーンがワインの街であることはWienの中の二文字を入れ替えるとWeinになることからも明らかである。

ウイーンのワインの飲み方には二種類ある。一つは郊外の葡萄畑のホイリゲというところで飲む。これもいいが飲み始めてちょうどいい加減になった時に夕立に降られては困る。

二番目の飲み方は街中の地下室で飲むやり方だ。ワインケラーがこれである。天候に左右されないのでこの方がいい。
ただし地下にあるので奈落の底に降りてゆく感じがする。足元には注意が必要だ。

ウイーン時代によく通ったのは今回の写真展のハガキになっている、天使薬局から徒歩一分にある、エステルハーツイケラーである。創業が1683年という、おっそろしく古い酒場だ。

木村伊兵衛さんも1954年にこのワインケラーを撮影している。内装は今でも当時と同じ。

旧市街の小路にこういうワインのオーナメントを見かけると、そぞろに一杯やりたくなる。
ワインはカフェで飲むのは時間つぶしの感じがあるが、ワインケラーで飲むのはワインと四つに組んだ真剣勝負の感じがする。そこがまたいい。

これはアイランドギャラリーで展示の作品で赤丸が付いている。どんな人が買ったのか、その人とウイーンのワインの話がしてみたい。

★ライカ ジュピター85mm コダクローム

 

2014年9月17日 (水)

ウイーン 記憶の街 7

7ウイーンのグンペンドルファーストラーセというのは中心部から発

して西に向かう非常に長い通りである。
ストラーセだから大通りかというとそうではなく、狭い道である。ウイーンの典型的な下町を構成していて、西駅の南でギュルテルという南北に通じる大通りとクロスしてさらに西のシエーンブルン宮殿の方につながっている。

この長い通りは往復して撮影するには適当な長さである。午前中に出発して撮影を続けてどっかでお昼を食べて、さらに西に歩く。午後には街の西のはてに着いてカフェで一休みしてバスで戻ってくるのがルーチンであった。

ここでのスナップショットの基本は行きかう、赤白のバスと行人の交錯と、ウインドウである。
このショットが不思議なのはそこに展示されている工具は新品なのであるが、何か民俗学博物館の展示のように見えることだ。
そういう奇妙な視神経の刺激が七十年代の町歩きの基本になっていた。
あれから四十年が経過して、今の東京大周遊もその目指す方向は何ら変わっていないわけだ。

ライカ コダクローム

 

2014年9月16日 (火)

ウイーン記憶の街 6

6ウイーンの写真展を京橋のアイランドギャラリーで21日まで開催中だ。期間中無休。

ギャラリーであるから作品はお買い上げ可能で、おかげさまで沢山のお買い上げあり。感謝!

ところで今度発見されたコダクロームのファイルは約三百点弱の画像がある。
今年のお正月の二日にそれを自分で全部スキャンした。

売れ筋の作品はやはりハガキとかタイトル画像に使用したのがよく売れる。それらの写真は無論好きだけど、これは誰も買わないであろうという画像もある。

ウイーンという街は過去の歴史が重層化されているのを、スパッと切って金太郎飴のようにした都市だと言えば分かりやすい

そういう画像は確かに美学には違いないが、ウイーンを七年半歩行した結果、あたしがいいなと思うのは無人の商店である。それらは休日であったり、たまたま店のひとが店頭から見えないという場合もあるけど、そういう人間の居ない光景、しかもそこに人間の不在というより、強い存在を感じさせるショットが好きだ。
これなどは好きな作品なのである。

ザルツブルグでMITの学生にストリートスナップを教えていた時、そういう課題を出した。それは二枚組の課題であって、一枚はクローズアップのポートレートでその人の仕事の環境を想像させる写真。二枚目は無人の風景であるが、そこに人間の存在のアピアランスを強く感じさせる写真というのである。これはなかなか面白かった。


ライカ コダクローム

 

2014年9月15日 (月)

ウイーン 記憶の街 5

5ウイーン川と言ってもそれは川床をコンクリートで固められた小流れである。ウイーンはドナウが有名だが、その本流は市内を流れずにはるか北西を流れる。それで水運のために市内に運河を作ったらしい。これがドナウカナルである。

この運河もドナウの本流に比較すれば貧弱だが、それよりさらに貧相なのがウイーン川である。ウイーンの中心東西に流れる。

そのウイーン川の暗渠になる手前に2棟の世紀末建築がある。一つはマジョルカハウスでもう一つがこの建物である.
オットーワグナーが十九世紀末にあっちこっちに独自の建築を建設したその遺産で偏在のウイーンは食いつないでいるわけだ。

ガイドブック片手のツーリストが見物に来るが、そこに住んでいた七年半の間はあたしはついぞこの建築に興味がなかった。
理由は簡単でその建物の前にある、生鮮食品市場ナッシュマルクトに週一の土曜にの朝に買い出しにきていたから、古い建築などどうでもよかったのだ。知的好奇心よりまず食欲。

ライカ コダクローム

 

2014年9月14日 (日)

ウイーン 記憶の街 4

4四十年前のウイーンの電話ボックスである。

あたしは習慣として電話は使わない。サラリーマンさんなどが電話している内容はあたしでも記憶できる
その理由は電話では人は同じことを三回も言っているからだ。

携帯は持っているが無線電話は使わない。しかし電話ボックスとか公衆電話は好きである。
小学生などが公衆電話から通話していると、そこには意志を持った人類の典型を感じる。携帯はかっこ悪いが、固定電話には伝達の意思がある。ゆえにダンデイである。

オーストリアは郵便局と電話局が同じなので、そのカラーもおなじだ。
ちょっとグレーを混ぜたようなイエローである。同系色にいわゆるシエーンブルンイエローがある。マリアテレジアが好んだ黄色だが、ポストの黄色はそれより上品だ。

電話ボックスはマロニエの花盛りの道にある。これは白い花ではなく紫の花だ。あまり見たことがない。
マロニエはマリーアントワネットとともにウイーンからパリに伝えられたと言われるが、パリでこの紫の花を見かけたことはあたしはない。

紫のマロニエはあたしにはウイーンそのものだ。何時であったか、家人とシエーンブルン宮殿のマロニエの小道を歩いていたら、すれ違う伯爵夫人とでも言えそうなふたり連れの夫人が「フィール カスタニアン ザイン」というのが聞こえた。
カスタニアンはマロニエである。Seinは昔の哲学者はこれを存在と訳してしまった。だから面倒になる。これが間違いの元である。
マロニエのお花がたくさん、、、と言っただけなのだ。

★ライカ コダクローム

 

2014年9月13日 (土)

ウイーン記憶の街 3

Photo_3ウイーンの旧市街というのは取り壊された城壁の内側である。

今の町の概念からすれば実に小さい区分であるが、そこに王宮があり大寺院があり、人々の暮らしがある。
モーツアルトの旧家はシュテファン寺院のすぐ裏手のドム小路にあったが、貧相なのである。映画アマデウスではそれでは商業映画にならないので、プラハでロケが行われた。それはモルダウ川からちょっと東に入った、今ではツーリストのひしめき合う路地である。

このショットはモーツアルトの棲んだ部屋から徒歩数分の場所にある。
まっすぐな路地ではなく弓なりになっているので、見通しが効かないのがミステリアスで、ここは四十年来のあたしの大好きなスポットである。

建物は文化財保護で昔のままだが、この石炭屋はずっと以前に無くなった。つい百年前までコールとコークスは普通の燃料であった。

煙突掃除人も七十年代には普通に見かけた。上下真っ黒な服に長いワイヤーの先にブラシが付いたのを丸めて輪っかにして肩からかけている。職業人のダイナミズムがそこには感じられた。

この店はその後はバラエテイショップになった。そのカットは「ライカマイライフ」に掲載されている。

 

2014年9月12日 (金)

ウイーン記憶の街 2

Photo_2京橋のアイランドギャラリーで個展を開催中なのでそれに関連してウイーンの画像をアップする。

このシリーズはウイーンにくらした七年半の最初の年にコダクロームで撮影したものだ。

そのシリーズは100本分はあったのだが、ほとんどが失われて、これはスライドファイルに格納された三百点弱が偶然に発見されたのだ。まず四十年前のことであるから、発見されただけでもお手柄である。

ライカに各種のレンズで撮影した。ソ連製のレンズやカメラでも撮影した。その違いはまずわからない。

これはどこか、友人の家を訪問しての帰りに階段を見下ろして撮ったものだ。

古いウイーン映画で、恋人が帰って行くのを上から見送るシーンがあったように記憶する。

これは欧州版の「きみはまだ言問あたりほととぎす」であってなかなかの情感である。現代の集合住宅では、エレベータのドアがしまって、はいそれまでであるから、情緒も何もあったものではない。

ただ恋愛の情緒を楽しむにはこういう螺旋階段は結構であるが、生活者としては面倒である。ウイーンの第三区、大使館街で向かいが宮殿という場所に住んでいた時には、ひどい腰痛にやられていた。

中央病院に通院していたが、まず電話でタクシーを呼んで、階段を何フロアも降りてエントランスにたどりつき、さらにそこから長い階段を降りて道に出ると、タクシーが待っている。

ヨセフホフマンが住んでいたアパートでウイーンの世紀末建築の本に紹介されている名建築だが、暮らしには快適が半分、不便が半分だ。

日航機の事故の一報もこの場所で知った。そのくらい昔の話だ。このショットはそのさらに十数年前に撮影したものだ。

★ライカ オリオン28MM

2014年9月11日 (木)

ウイーン記憶の街 1

Photoこの間、マンハッタンの観光用のダブルデッカーの話を書いて、自分はそういう乗り物には乗らないと、見得を切ったのだった。

これには理由がある。観光物件としてのそういう乗り物には乗らないというのは、生活者の移動の週刊としては倫敦の二階建てバスのようにそういう乗り物を使うのは認めるのである。

ウイーンの四十年前に撮影したスナップがこれである。この二階建てバスはすでに運行されなくなった四半世紀が経過している。

ウイーンの人の子供の頃の懐かしい記憶は、この13番のバスの2階の最前列からウイーンを見ることであった、ウイーン市民のこれは共通の共有の宝物なのである。

ウイーンのアルザー通りから南駅までかなり複雑な経路を走るバスは今でもあるがそれは二階建てではない。

ウイーンの共同住宅(ゲマインデボーヌング)の正面に穴がある、そこに二階建てバスは突進する、

思わずひやりとするが、これは街にあるテーマパークの楽しさである。

★ライカ ニッコール21MM

2014年9月10日 (水)

プラハの窓4

5プラハの電停の向かいのホテルの部屋から下をずっと観察しているわけだ。

やはり朝夕のラッシュが一番混雑するが、これは週末の午後にこれからどっかに遊びに行く時間帯の撮影だ。

あたしはもっぱら広角レンズ使いであるが、これは撮影距離の関係から望遠ズームを使う。

かのユージンスミスは六番街のミッドタウンの仕事場の窓から路上を行き交う人々を撮影した名作シリーズがある。それはキヤノンのキヤノンのレンジファインダーモデルにレフボックスをつけて、レンズは400ミリであった。手持ちは出来ないので三脚に載せていた。

そういう時代の機材に比較すると今のデジタルカメラのレスポンスの良さは抜群である。

このショットは市電から降りた家族を撮影していたら、いきなりあたしの視野の境界に綺麗な黒い髪の少女が登場したのでカメラを振って撮影した。

あたしのエッセイの中に、まだ革命以前のプラハで夕闇が迫っても節電の為に灯りはつけないのだが、その闇の中に燃えるようなブロンドの女性がいる話を書いたことがある。

プラハはブロンド美人の街と思っていたが、黒髪の美人の街でもある。

★OM-D  40-150MM

2014年9月 9日 (火)

プラハの窓3

3プラハ大周遊であっちこっち撮影して、プラハヒルズハート2に戻って、プラハのうまい麦酒を呑んでいる閑はない。

窓際にはOM-Dが常に置いてある。市電の音が聞こえると急いで窓際に行く。

この路線は8番というやつで、プラハはメトロが発達しているが、この界隈だけはなぜかメトロの真空地帯である。だから市電が唯一の交通手段だ。

とは言っても、街の中心部まで徒歩で半時間のなのだから問題はない。

東日本大震災の時、知人の建築家は佃から八時間かけて八千代台に戻って、疲労で寝付いたそうである。

街が大きすぎるのはまったく自慢にもならない。

★OM-D 40-150MM

2014年9月 8日 (月)

プラハの窓2

2プラハの労働者街の19世紀末に建てられたネオバロック様式のホテルは、周囲の無味乾燥な様式の建築の中で異彩を放っている。サンクトペテルブルグの宮殿と同じ軽快なブルーの建物だ。

その建物の2階から望遠レンズで沢山撮影をした。市電の中から撮影したショットは沢山あるが、市電に乗っている人を撮影したショットは案外に記憶に浮かばない。有名なのはロバートフランクのニューオリンズの市電の乗客くらいなものである。

このショットは市電の乗客の横顔をシルエットに撮影したものだ。

1970年代のウイーンにはまだ古きロマンの伝統が残っていた。ワイン酒場などを徘徊して客の横顔を黒い紙で切り抜く芸があった。

あたしも興に任せて酒場でプロフィルを切ってもらった。そこには二十代のあたしの横顔が記録されている。

なにか大音楽家の横顔のように錯覚するのはこの手のポロフィルでは、かのモーツアルトの鉾顔の切り紙が一番有名であるからであろう。

この伝統芸は写真術の発明ずっと以前から存在する。

OM-D 40-150m

2014年9月 7日 (日)

プラハの窓1

Photo_3あたしは幼年時代は文京区の音羽で都電を見て育った。

あたしの「東京ニコン日記」にも掲載されているが、1965年当時の音羽の通りを江戸川橋か護国寺を眺めたショットがある。そこに見える交通機関は都電である。

まだ車などはほとんど姿がなかった。

プラハのアトリエもいいがそこは環境が良すぎて、眼前は公園である。市電は音しか聞こえない。それで都電というか、市電の気分を味わう為にあざわざ下町のホテルを予約する。ここはジジコフという街区であって、労働者街である。

ホテルの何時も決まっている部屋から撮影する。

市電にラッピングするのは「開発途上国」だと思っていた。それはビロード革命当時のことであれからすでに四半世紀が経過している。当時のマルボーロのラッピング市電はたしかに西側に憧れている状態が丸出しであった。

しかし最近のラッピング市電はかなりアートになっている。これなどは路面の高さから見ていると感じないが、この高さから観察すると、車体に描かれた巨大な手がまるで自分の手になったように感じる。

★OM-D 40-150mm

2014年9月 6日 (土)

お知らせ チョートクカメラ塾第二十三時限 は水曜日に

チョートクカメラ塾第二十三時限
  スナップショットの真髄 その3
  ザルツブルクでスナップ写真を教えて教えられた事

本日から京橋アイランドギャラリーで写真展

Photo_2ウイーンはあたしにとっての最初の外国である。
1973から1980まで正確に七年と六ヶ月この地に暮らした。ようするに多感な青年期をずっとウイーンに居たのである。それでウイーン訛りのドイツ語はうまくなったかも知れないが、ウイーン人の偏屈な性格をも自分のものにしてしまった。

これらのシリーズは最初のウイーンでの数ヶ月の間に持参のコダクロームで撮影されたものだ。
そのフォルムケースは長い間、もう廃棄したと思っていたのが、数年前に発見された。つまりそこには、キャパの「メキシカンスーツケース」の予感があった。その一部はあたしの最新刊「ライカ マイ ライフ」にも掲載されている。この本には沢木耕太郎さんとの「旅とカメラを廻る対談」も掲載されている。

今日から京橋のアイアンドキャラリーで数年ぶりにそのウイーンのシリーズを展示する。
土曜の午後6時からyoutubeでトークショーのライブもある。入場無料の予約不要。
満員御礼。

2014年9月 5日 (金)

14.000.000 PV ありがとうございます!

おかげさまで先ほどカウンターが千四百万ページビューを記録しました。
ご愛読感謝!!

フォトメンタリーというフォトセセッション

Photo月の裏のようなライカを手に入れたのは今年の冬のことで、荒木町の我楽多屋さんで入手した。
この前のあたしの我楽多屋さんのトークショーで、古いカメラ友達のニコニコマートさんからこういうシールをいただいた。
これが格好いいので参加者の皆さんの持参のカメラに勝手に貼りまくった。
Photomentaryというシールだ。他に丸にPの小さなシールもあるので、それをライカの頭文字に貼るとPeicaになったり、ニコンに貼ってPikonにしたりして遊んだ。キヤノンがパノンに変身した。カメラブランドのコスプレシールである。

p

あたしはシールがかっこいいので馬鹿をやっていたが、ニコニコマートさんに聞いたら、これは緩い自由な写真の投稿サイトであるという。

あたしの提唱する偽ライカ愛好会のモットーも「向上心を捨てよ」なのでその「政治信条」に共通するところがある。

そういうのは「写真運動」であると思う。
有名な写真運動に20世紀初頭のフォトセセッションがある。アルフレッド シュテイグリッツが提唱した、運動である。写真分離派と訳されている。

いつであったか、何かの媒体にそのことを書いて、フォトセセッションとやったら、初校でそれがフォトセッションに直されてあった。ジャムセッションと勘違いしたようであった。
それで再校で赤を「ママ」と入れた。
これは編集者さんの無知を笑うのではない。大学の一般教養ではフォトセセッションは教えるわけはない。

フォトメンタリーは新しい時代のフォトセセッションになるのではなかろうか。
あ、それ以前にこのシールは気に入っている。

2014年9月 4日 (木)

マンハッタントランスファー8

7マンハッタンの路上の通過物で、一番奇妙なのは、こういうダブルデッカーの上からの観察であろう。

あたしはシャイだからそういう観光客の乗り物には乗らない。しかし今までこういうバスの二階席に乗らなかったかと聞かれれば、二度だけ乗ったことがある。

一回目は七十年代の後半にウイーン在住の有名なピアニストの奥様のご両親がウイーンにいらして、その方がパリ経由で日本に戻る時にパリを案内した時である。

若干資金を援助してもらって、ご夫妻が戻った後に大型カメラでパリを撮影したのだから、そのくらいのサービスはする必要がある。

二回目はこれは六年前のスペインのマラガであった。この時には自分で25ユーロ払って観光バスの2階に乗った。都合二度だけである。もう乗ることはないと思う。

今、旧ユーゴを休暇で旅している、あたしの写真のコレクターの野々宮某は、なんとリュビリアナで、ダブルデッカーよりさらに「お下品」な、家畜輸送車みたいトラクターの長いのに乗ったそうである。

これに乗るか乗らないかで、その人間の品格が分かると顔本で書いたら、野々宮は乗ったそうだ。まああたしの作品をコレクションするような人間だから、良い度胸だと思う。

★ライカM3 カールツアイスイエナ ビオゴン3,5センチ

2014年9月 3日 (水)

つくだ鳥居桜

Photo

Photo_2 桜の撮影方法はカメラ雑誌の年中行事である。

カメラ雑誌の桜は前年か、それ以前に撮影されたものと相場がきまっている。なにかそこに固執するのは、日本の人の潔癖さが出ているような気がする。それは悪いことではないけど、なにか公害研究所めいているのが納得できない。

桜は巨匠写真家であっても、どうしても日本の精神の方にベクトルが引っ張られるようである。単なる薔薇科の灌木が春になって開花するだけなのだが、そうは考えにくい文化がこの国にはある。

マンハッタンに住んでいた1980年代にニューアークの桜を見にいった。これは単に桜の開花であって、皆さん楽しそうにピクニックしていた。

若い当時にウイーンに棲んで、桜の文化から隔離されていたので、1981年の春に日本の仲間に誘われて、四谷の土手で夜にお花見したときには、かなり吃驚した、

一緒に長いことパリに居たフランス文学の研究家もそこに居た。我々二人だけが酷いカルチャーショックにやられた。浮いていたわけである。

その仏文の先生は鎌倉住まいで弓道の方ではかなりの達人であった。もう亡くなってしまったが、弓道と桜道の関連を聞いておこうと思っているうちにそのままになってしまった。

ここは佃の住吉さまの鳥居の前である。かつてはこの桜の位置に大きな鶏の小屋があって、時を告げていた、

高梨豊さんの東京を撮影した、大型カメラによる写真集にその鶏小屋と鳥居が登場している。

いわゆる佃計画の仕事でこの数ヶ月、佃を綿密に歩行した。この鳥居は前からよく観察していたが、しだれ桜の枝振りがこういう感じとは気がつかなかった。ただしあたしの感じは、これは日本精神的美学ではない。かのゴッホが描いた、吉原の引き札の精密な複写という感じがする。

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★レオタックス フェド28mm

2014年9月 2日 (火)

すて石劇場 ふたたび

Photo_2
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2_3すて石劇場というのは、あたしの勝手につけた名前である。

その場所は板橋と池袋の間の説明すると非常に難しい場所にある。しかし歩行していると自然に到着してしまう場所でもある。

すて石は十年以上前に出した「とうきょうさんぽカメラ」これは全頁カラーそこに素人モデルの工藤ゆきが各頁に東証するという、非常にマニアックなムックである。

硬直してしまった今の世界ではまず不可能な出版だ。

さんぽカメラというタイトルが当時はユニークであたが、今ではその陳腐さが鼻につく。

その中にすて石の1章がある。捨て石とは日本的な自己犠牲のヒロイズムを言うが、それを飲み屋の店名にしたところが凄い。

この店の常連は皆さん、特攻隊出撃の前夜の静寂で酒を飲んでいたのではなかったか。

そのすて石を見晴らすちょっと高い場所は細長い公園であって、そこには椅子は二脚しかない。その椅子はいずれもすて石の廃墟(とは言え、人は住んでいる)に向いているのである。

すなわちすて石劇場である。

神楽坂の奧、足穗ゆかりの横寺町にも劇団吹きだまりというのがあった。それも気になって先週見に行ったら、雑居ビルの看板はなくなっていた。

★マミヤマガジン35 

2014年9月 1日 (月)

マミヤマガジン35の美学

2

2_2カメラのデザインは「合目的で明解」がいい。

マミヤマガジンの場合、この論理がまさに当てはまる。カメラのレンズとシャッターの本体に、マガジンをつけるわけである。

同様のカメラはハッセルを始めとして、世界に存在する。ハッセルの場合も発明者のハッセルブラッド氏は裕福な実業家であったが、当時(1947頃)にはやはりカラーフィルムは高価なものであったらしい。

当時の世界最高の撮影機スペシャルシネコダックの1950年当時のプライスリストを見ると、本体に標準レンズが1本のセットは900ドルであって、コダクロームの100フィートの現像込みが四十ドルに近かった。フィルム20本プラスでスペシャルシネコダックのアウトフィットと同じなのだ。

かなり高いカラーフィルムだった。

マミヤマガジンのデザインはなにかデザイナーが頭で考えてそれをスケッチしたのをそのまま製品化したような潔癖さがある。

こういう真っ当なデザインは現代ではなかなか出来ないのではなかろうか。

作例はマミヤマガジンで撮影した、板橋の踏切。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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