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ロック ユー

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2014年8月31日 (日)

マミヤマガジン35のすごいところ

Photoマミヤマガジン35というのは国産フィルムカメラで唯一のマガジン交換式カメラだ。
1950年代の後半のアサヒカメラなどでマミヤの広告は表2(表紙の裏側)ということが定番になっていた。
表紙の裏だから非常に目立つ。

当時はアサヒフレックスが全盛時代でそこからペンタックスに移行タイミングである。
レンジファインダーの全盛期であった。ゆえにニコンとかキヤノンの高級レンジファインダーカメラの広告に混じって、マミヤマガジンの存在は異色に見えた。これは十歳の少年のあたしの目から見た印象である。

当時はカラーフィルムが高価であったから、普通はモノクロで撮影して、どうしてもカラーという場合にマガジンを交換して撮影するというのが、アイデアであったと思われる。
亡くなった柳沢信さんもカメラ毎日の取材ノートでライカの他にミノルターオートコードを持参。これはどうててもカラーで撮影しておきたい、場面に出会った時の用心であると書いている。

このカメラは存在感がありすぎなので、鵠沼のケース作家、ササキジュンイチに頼んで、こういうケースを特注した。これがなかなか良い。
マミヤマガジンを使うのが楽しくなる。

1

作例。板橋のふみきり。マミヤマガジン35

Image

2014年8月30日 (土)

マンハッタントランスファー 7

8マンハッタンのストリートの光景で心に残るショットは沢山あるが、たとえばミッドタウンの交差点で、身なりの良い老婦人が横断歩道を渡っている時に、あれは一体何噸車というのであろうか、巨大なトレーラートラックが停止していて、その一見すると、ミスマッチにも思える光景が、実は実にマンハッタンならではの印象を与えることだ。

そういうトレーラートラックのフロントグリルは、すばらしいクロームの鍍金であって、それがピカピカしている。

ラジエータのパネルの上には、ちょっと漫画チックな彫刻が飾ってある。

1980年代のマンハッタン暮らしでそういうトラックをを沢山観察した。数あるトレーラーの中で一番好きだったのは、たしかMacという名前のトレーラーであった。これはブルドッグみたいな、彫刻なのである。

そのMacは明らかにアップルのMacではない。というのはあたしの初マンハッタンは1982のことであって、アップルのMacの登場は1984のことであったからだ。

Macというトレーラーは Macというパソコンやハンバーガーよりもあたしには懐かしいマンハッタン風物なのである。

★ライカM3 スーパーアングロン21mm f4

2014年8月29日 (金)

最近の押上

1

Photoスカイツリーの馬鹿騒ぎも一段落して一安心である。

あたしはスカイツリーの出来る前にはこの界隈、押上には頻繁に行っている。

スカイツリーの営業区内の外は以前とまったくかわっていない押上の街が展開している。

電車の線路をはさんで、すごく古いガラス屋さんがあった。スカイツリーが出来たらこのお店も買収されて観光客向けのお店になるのかと思っていた。

どころが商業主義の魔手はそこまでは及ばなくて、そのガラス屋さんはお店の屋号の文字看板が全部落ちてまだそこに健在である。

それを喜ぶのか、悲しむべきなのか、そこらの判断はあたしにも出来ない。

★ライカMD-2 ニッコール2,8センチ

2014年8月28日 (木)

マンハッタントランスファー6

6マンハッタンのLESと言っても、無味乾燥な場所ばかりではない。

こういう風景もある。もっとも柵があってその億に樹木があってその先に建物というのは、これも風景の余白のようなもので欧州の都市風景の基準からすればかなり退屈な風景である。

ここは昨日紹介した、ヒマラヤンカフェから西にストリートを歩いた北側にある。

ここを歩行しつつ、この世界の似たような場所をおもいだすのが常であった、それはウイーンの九区にある、リセである。これはアメリカの建国以前からある広大な敷地であって、かのベートーベンの亡くなった場所、シュバルツエスパニア通りの近くだ。

そこは広大なのでその庭園の脇にそって歩行するのはかなり退屈だった、

マンハッタンなど欧州のコピーであるからそれは当然なのである。

★ライカM3 カールツアイスイエナ ビオゴン3,5センチ

2014年8月27日 (水)

マンハッタントランスファー5

Photo_3LESのビーフバストラミの有名なお店の北側に、ヒマラヤンカフェというのがあった。これがエスニックで当時は西蔵に行きたかったので、そこの安いランチを毎日喰いに行った。一食が10ドルもしないような安飯屋である。

その店もマンハッタンの怪人チョーセイさんに教わった。オーナーもウエートレスも東洋人であるから、人種的な近親感がある。この場合、東洋人であることが大事であって、日本人であるのは必要はない。逆に同国人であるのはかえってあたしには迷惑なのである。

そこは前が大通りであって、そこに沢山の工事機械などが占拠している。

マンハッタンの風景の好きなのは、そういうカオスで、風景にまとまりがないの魅力である。

リーフリードランダーの仕事でそういう都会の余白みたいなのを撮影しているのも好きだった。

食事の後、水をおかわりしてその無国籍地とでも言える眼前の風景をずっと観察していた。風景を見るのとも違う。時間の経過に自分が直撃されているのを感じる為と言うべきか。

ヒマラヤンカフェは月曜がお休みである。その時にはなにか自分の視点が失われたような、なさけない気分になった。

そこらのグロサリーでコーヒーとサンドイッチを買ってSohoの部屋に戻った。

★ライカM3 ツアイスイエナヒオゴン3,5センチ

2014年8月26日 (火)

お知らせ

田中長徳の「チョートクカメラ塾」は水曜日にお送りします
 (Vol.22) 「スナップショットの真髄 その2 空気を乱さずにスナップする技教えます」

マンハッタントランスファー4

4ハッピーアワーというものがある。オフィスの終わった後に一杯やることであるが、日本ならストレスから逃げるための憂さ晴らしの一杯であろう、会社の仕事の続きの会議をそこでやっていうる連中もある。これはスマートではないな。

こっちは、幸せ時間なのであるから混本的な考えが異なるのは言うまでもない。

昼間にLESを歩行していると、そこらここらに庵癌がある。

これなどはなかなか良く出来ている。なにかモダンアートの趣きがある。こういう店には入ってみたいと思うけど、こっちはライカを持っての撮影中であるから、そのまま忘れてしまう。

それでこの手の店は永遠に行ったことのない記憶の中の飲み屋になる。

それはそれで良い。三十年前、一年の半分は八番街と四十二丁目からちょっと上がった所に住んでいた。なかなか怖い所であった。夜中に拳銃の音などする場所だった。そこらここらのバーに入って、最初に20ドル札をカウンターの上に置く。

キャッシュアンドデリバリというので、そこからくずして行くのだ。バーで立ち飲みしている分には危険なことはない。今ではそういう場所がほとんど見えなくなって、安全なマンハッタンになってしまった。

本当に強かったのは、79年代のハンブルグの荷役労働者の集まるバーであった。そこらここらで場内乱闘であって、頭の上を空の麦酒瓶が飛び交っていた。

別に怪我をしたわけでもない。そういう大過去を思い出すと何か、そぞろ懐かしい気分になる。

★ライカM3ツアイスイエナ3,5センチ ビオゴン

2014年8月25日 (月)

マンハッタントランスファー3

3このデリは有名な店らしい。あたしは商業映画はまったく見ないので知らないのだが、マンハッタンの怪人こと、チョーセイさんがここに連れていってくれた。映画のロケにも使われた有名店のようである。

店はデリであるから、そういう味のするものを売っている。量が多いのでびっくりした。

店の中より店の外に蝟集する人の群れが面白い。最初はウエルフェアの行列かと思った。

それでマンハッタンの二週間はまずこの行列の店まで行ってそれを撮影して、そこからその日の行く先を決めたりした。撮影は全部徒歩である。十年前にフルストレッチのリムジンを頼んで撮影したことがあったが、あの当時はまだあたしもマンハッタンの素人であった。

LESはにぎやかな所でいまだに、移民の臭いのする界隈だ。しかしこの店のように人が集まる所は他にはない。

★ライカM3 ツアイスイエナ ビオゴン3,5センチ

 

2014年8月24日 (日)

ぼけこっこーさまの思い出

Photo佃の小学校在住のちゃぼはこの1年ほどお姿が見えないので昇天なさったのであろう。

古書 霊界異聞によれば、鶏は神様のお使いで、神様の元に報告に行く時には一気に天に昇るそうである。

外見はこういう大型の鳥だから身のこなしが悪そうに見えたが、六本木ヒルズへの行き帰りの四季折々にぼけこっこーさまのお姿を見た。

その様子はあたしのYoutubeにも記録されている。

驚いたのはこのちゃぼがケージの2階に上がる時の動作はまさに一瞬であったことだ。

古代の人は鶏より他に天をよく駈ける鳥は居ないと言っている。まさにその通りだった。われわれ、ぼけこっこーさまの講中では拝殿の前にお賽銭箱を設置しようと相談した。

散歩の親子が前を通りかかってママが「ほら、にわとりよ」と子供に教えているのを遮って「ちゃうちゃう、わてはちゃぼいいいまんねん」と良くやっていたものだ。

これが十余年前であった。今は天の神様のもとでお仕えしているわけである。ぼけっここーさまの俗名は「ぼくちゃん」と、申し上げる。

ちなみに民族学的な考察によれば、この国の神様の行幸は金色の御幣のようなものがたなびきつつ空を飛ぶ。その先達がぼけこっこーさまである。

恐惶謹言、、、、

2014年8月23日 (土)

本日千秋楽! 写真展のお知らせです

http://islandgallery.jp/10095Image


❤️おかげさまで本日千秋楽です。
今日は午後三時から「在廊」します。
お越しをお待ちしています。❤️

「ライカ、マイライフ」出版を記念して、クラシックカメラブームの火付け役である写真家・田中長徳が1973年にウィーンで撮影した貴重なライカフィルム作品を50点展示いたします。

▶PROFILE | CHOTOKU TANAKA 田中長徳

会  期 9月6日[土]-21日[日] Open 11:00-19:00
会  場 Island Gallery
     東京都中央区京橋1-5-5 B1 tel / 03-3517-2125
協  賛 マルマン株式会社 Canson Infinity
入場無料 会期中無休

初日午後六時よりライブトークあり
入場無料、予約不要です
YouTubeでも中継します
https://plus.google.com/u/0/app/basic/events/cft2duutdtt7ijtp9eej0ojh48c

YouTubeトークライブ好評につきギャラリートーク急遽追加開催決定!
9/13土曜日 9/20土曜日 いずれも午後三時から開催
入場無料 予約不要です
お越しをお待ちしています。

マンハッタントランスファー2

2アベニューAからアベニューDまで、ローワーイーストサイドに並んでいる。

文字でなく、数字のアベニューは1から11まで東から西に数字が上がっているが、ここだけは西から東にABCBとなっている、

なぜなのかと思う。

三十年前にはこの界隈に立ち入ることそのものが、冒険の一種であった。仲間で肝試しでアベニューDのグロッサリーで買い物してレシートもらってくるなどという遊びをしたこともあった。

カメラを持って行くことなど論外であった。

知人の写真家のGさんはマンハッタン在住でバワリのジャンキーさんの撮影に、ぼろぼろのセダンにカメラを仕込んで撮影に行ったという武勇伝もある。

アベニューのAからDが普通の散歩者が普通にできるようになったのが一番の吃驚である。

★ライカM3 ツアイスイエナビオゴン3,5センチ

2014年8月22日 (金)

マンハッタントランスファー1

Photo_2大震災から三年半が経過した。

あの時、ミッドタウンのホテルに到着してシャワーを浴びて最初のBUDを飲んだときに、ツイッターでその第一報を知った。通報者は野々宮コレクションの野々宮である。

それが始まりだった。テレビを見ないあたしが深夜は日本のニュースを見て、昼間はマンハッタンに撮影に行った。

ほとんど寝ないような二週間であった。よく身体がもったものだと思う。

マンハッタンにはフィルムはトライXを11本だけ持参した。そこで「マンハッタンイレブン」というタイトルを思いついた。

カメラはライカM3にツアイスイエナのビオゴン3,5センチをつけた。これはロバートフランクの真似なのである。

三十年前のマンハッタンの思い出の場所を徘徊した。それで結果としてローワーイーストサイドばかり歩行することになった。

当時は怖いLESがまったく当たり前の街になっていた、それにちょっとがっかりした。

★ライカM3  ツアイスイエナ ビオゴン3,5センチ

2014年8月21日 (木)

巴里幻視行5

5REXはパリ中心部のグランブルバードの巨大映画館だ。

大昔、もの好きで治安あまり良くはないピガールのホテルに泊まっていた当時、その広場から出るバスに乗って中心部を経由して、はるか南の大学都市まで行ったことがあった。

それも何度もこのバスを使っていたので、面白い街に出るとそのままバスを降りて、散策した。

切手商街というのもあって、そこの一軒でチエコの戦後の切手のアルバムの三冊セットを買ったこともある。その事はエッセイ「屋根裏プラハ」に「黒い切手と赤い駅」というタイトルで書いた。

黒い切手とはチエコで発行された、スターリン死去の記念切手であり、赤い駅というのは。ベラ チャスラフスカにインタビューした時に、彼女は日本語を学んでいるので聞いてくれと言って、発音したフレーズが「とうきょうえきのたてものあかい」なのである。

毎年、八月も後半になるとあの1968のプラハの夏を思い出す。

このレックス映画館はその建物に惹かれて時々見に来るが、こういう悪天候の気候が一番似合う。

あたしは商業映画は見ないけど映画館は好きだ。

東京なら日比谷映画のインチキアメリカ式が好きであった。

ロバート フランクの自伝映画を見ていたら、彼が祖母の写真を手にして、そこに一緒に映っている、小型犬の名前のことを話していた。その名前はレックスというのである。

★OM~D EM1 12-40MM

2014年8月20日 (水)

巴里幻視行4

4こういうショットを撮影して、いいな!と思うことがある。

それはあたしは欧州で映画の仕事に関係したが、その撮影の中で、エキストラというのがある。いや、あたしは撮影の方だから、東洋人の役で日本人の観光団の役をしたのではない。

当時の映画のエキストラさんは日給が50マルクほどで、交通費と二食付きだった。

主役が居る位置を決めて、エキストラが路上をどう歩行するかを監督が決めて、スタート!でカチンコが鳴って、皆いっせいに動き出す。

その停止している瞬間は編集ではカットされているから見えないけど、あたしは撮影クリューであるから、そのことを知っている。

それで分かるのはその不自然な歩行の仕方である。停止していて。最初の一歩から映画に鳴っているからその動きが不自然なのである。

もともと映画は人工的な視線であるからこれは仕方がない。

それでこうしてパリの街頭で観察していると、彼ら歩行者も自転車乗りも、ATMの前にいる人も実に優秀な俳優であることが分かる。

彼らは真実の演技をしているからだ。

★OM-D EM1 12-40MM

2014年8月19日 (火)

巴里幻視行3

3パリの北駅そばの安洋服店の名物と言って良い。

あたしの知る限り、と言ってもこの四半世紀であるが、この少年のマネキンはここに立っている。

ホテルから撮影に行く行き帰りに、この「少年」にボンジュール!と声を掛ける。無論口の中で小さく言うのである。

世界で一番挨拶をしないのが、ここ極東の列島であるのなら、一番挨拶をするのは、欧州はほどんどがそうだげ、パリもそのひとつだ。市内バスのドライバーさんとも、乗客はかならずボンジュールとやっている。

だから極東人のあたしがそこに四半世紀前から立っている人形の少年に挨拶をしてもかまわないわけだ。

20歳当時、パリ五区の安宿にウイーンから来て宿泊していた。そこは寂しい通りで一軒の食品店があるだけであった。そこでバゲット買ったり、オレンジを買い、フロマージュを買った。

それから四十年後にその店に入ったら、当時二十歳であった店主が還暦を超えており、相変わらずそこに立っていたので感激した。

安洋服店の人形少年は老いないが、グロッサリーの生きた人間がちゃんと老いるのである。

まず、どちらも素晴らしいことである。

★OM-D EM1 12-40MM

2014年8月18日 (月)

巴里幻視行2

2滞在したホテルは北駅から徒歩五分ほどの安宿だか、その周囲には洋服店が沢山ある。それも階級的にはロワークラスの人が着る晴れ着とか、結婚衣装のお店が多い。

ユージンアジエの撮影した、20世紀初頭の同様の店を記録した作品が残っているが、こういう店を見ると時代が1世紀戻った感じがある。

営業時間にはちゃんとスーツを着た店員さんが店の外に出ている。客引きをするのでもなく、煙草を吸うでもなく、万引きを警戒するのでもなく、ただただ立っている。それが不思議であった。

安洋服と言えば、永井荷風の古い日記で荷風の知り合いの歌舞伎役者が欧州に巡業に行くのを荷風が見送るのが、東京駅である。

これは列車で神戸に行き、そこから乗船するのだ。

「護衛の壮士連は皆、安洋服にて隣室に控えおり」と荷風は書いている。この語感がいい。なにか映画のワンシーンである。それを超えている。

以前、岩波写真文庫の何かの記念で好きな写真文庫5冊を選んでそれを復刻して、解説をするという仕事をした。

その中の一冊が「パリ」であった。これは戦後の撮影なのである。その中でサンジエルマンデユプレを行く男女の服装を新基軸と名付けている。

何のことはない。トラッドな服装からラフな服装に、言い換えれば国民が全員ユニクロっぽい恰好をするようになったのは、あの実存主義の時代からなのである。

パリの安洋服屋街のまっただ中に住むのは興味が深い。

★OM-D EM1 12-40mm

2014年8月17日 (日)

巴里幻視行1

Photo巴里幻視行である。
今回のパリも観光名所にはゆかなかった。理由は簡単で、つまらないからである。エッフェルもオペラもノートルダムもゆかず。オルセーなどゆかず。

しかしオペラはその前まで行った。オペラの見物ではなく、そこからメトロに乗ってメトロの内部を撮影する必要があったのがその理由である。

もっぱら自宅付近、つまり巴里十八区の安宿の近所のあちこちを撮影した。サクレクールの裏手は好きな街だ。高低差があるので、ダイナミックに感じる。リスボンかポルトに居る感じだが、街はロバートフランクが絶賛するように素晴らしい。このフランクの俗っぽいところが好きなのである。

くさび形の街角は巴里の都市美学である。こういう建物の上の方が高度感を持っているのがなんとも言えない。

★OM-D EM1 12-40

 

2014年8月16日 (土)

フランクが八十の時に製作されたムービーを

127_2フランクが八十の時に製作されたムービーをyoutubeで見た。
分かり易い構成の(ドキュメンタリーの基本である)自叙伝である。

そのムービーの中でフランクはパリのモノクロショットとマンハッタンのモノクロショットを並べて、解説するシーンがあった。


そのマンハッタンの方のプリントが11x14相当で画面の下に例のアンダーパーフィレーションエフェクツが登場していたのは嬉しかった。

ようするにアンダーパーフィレーションエフェクツの神様の指が映っているのである。
あたしの研究によれば、アンダーパーフィレーションエフェクツが登場するのはフランクがまだライカM3を手にする以前だから、1950の前半である。それらはライカ3cで撮影された。

2014年8月15日 (金)

モルダウ河を縦に見る

Moru佃計画で佃島を撮影しているのだが、そうなるとプラハとかパリとかは水に浮かぶ都市であることに思い当たる。
ベニスもそうだけどあれは海に浮かぶ街だからちょっと意味はことなる。

河は眼前を横断するのより、流れを縦に見る方がダイナミックだ。
このショットはプラハのアトリエから遠くない丘の上から撮影した。
望遠レンズの圧縮効果で、実際にはこれほど橋が接近しているわけではない。

真ん中に見えるのが、有名なカレル橋である。
これはビロード革命の前に撮影したショットである。あたしの好きなグレーの街並みが映っている。

★ライカ テリート400

2014年8月14日 (木)

ナカフジ クライン ヲ ハコブ

126ソニービルのソニーのギャラリーで知り合いのクラインのブルックリンの写真展があったので出かけた。
写真家の中藤さんが、その解説をするのである。

ソニービルはあたしも家人とデートの場所によく使った。四十年ぶりである。
ギャラリーとしては限界の狭さであるから、どうかなと思っていたら、やはり狭かった。
これは日本の宿命である。

最後にクラインに会ったのは彼の回顧展で場所はプラハの王宮のギャラリーであった。皇居の新宮殿でクライン展をやれとは言わないけど、ここはカメラメーカーのショールームであるので致し方なし。

定刻ぎりぎりに中藤さんがスーツケースを転がして登場。中にはクラインの写真集が十数冊入っている。大変な重さであると同時に大変な価値である。
それをトークの最中に参加者に廻して見てもらうという破天荒な企画でこれは良かった。

終わってから、質問コーナーであたしは質問した。中藤さんの最新の写真集パリは製本がしてなくてばらばらである。その意味を問うた。中藤さんによれば、見本は綴じてあったのだが、デイレクターの「権限」により、未製本で仕上がったとのことだ。

ワークショップが終わって稀覯本の写真集を回収したら、モスクワの写真集の本の背中が半壊していた。
クラインの本よりナカフジの本の方が優れているのはその意味でアクシデントフリーであることだ。
★iPhone

2014年8月13日 (水)

佃逍遙

1_2 仕事で佃を撮影しているので、この数週間はほとんど佃を出ることがない。

仕事はOM-Dに12-40でほとんど撮影している。この間、佃の中澤丸をチャーターした時には、用心の為にもう一台OM-Dを持参した。レンズは他に9-18と40-150を持った。

仕事カメラとしては、デジカメ便利なのは言うまでもない。

特に四時間で1000カット以上を撮影したので、まずフィルム交換の要らないのが有り難い。アシスタント不用。撮影したフィルムを河に落とすこともない。

そのまま夕刻になって、灯りのついた夜景を河から撮影した。感度がいくらでも上がるし、ブレ防止の威力でかなり揺れる船上からの撮影でもばっちりである。

撮影の翌日のオフの日に今度はライカにフィルムを1本だけ持って佃界隈を撮影した。これは趣味の写真である。これはこれで面白い。

上の作例はニッコール2,5センチである。コントラストが高いのはトポゴンタイプレンズが四枚のせいであろうか。同様にホロゴン15MMでも三枚玉だからやたらにコントラストが高かった。

★ライカ ニッコール2,5センチ

2014年8月12日 (火)

リスボン幻視行 その7

8043ポルトガルの中心のリスボンのさらに中心地がここ、ロッシオである。

二週間その見晴らしの良い部屋でかたわらにOM-DとライカM5を置いてずっと撮影をしていた。

こういうのを写真家の快楽というのであろう。

気に入っているのは早朝、まだ街が寝静まっている時間の歩行者である。

広場に人の気配がすると、窓際においたカメラですぐに撮影をする。そういう時間帯の広場の歩行者は、地元の人とかツーリストとかそういう属性を判断する必要はない。

ただただ欧州で一番古い町のその焦点となる広場を人間が歩行しているという印象なのである。

それが良い感じだ。

だんだん朝になると、パン屋の配達とかゴミ収集とかそれぞれの役在りが明らかになってくる。

★OM-D EM1 12-40MM

2014年8月11日 (月)

リスボン幻視行 その6

Supa早朝のリスボンの街で東洋人の女性が、手にしたスーパーマンのフィギュアを持って、背景を案配しながらスマホで撮影している。

そういう手垢にまみれた作品にはあきあきする。いわゆる頭で考えたコンセプトの写真というのはあたしは嫌いだしまったく興味がない。

せいぜい、支持できるのはこれを合成でやらずに現場でやることの努力を認める程度だ。

ストレートフォト信者のあたしにはコンストラクテッドフォトは、限りある人間の頭脳のステレオタイプをさらに退屈にしてしまうように思える。

スーパーマンもどらえもんもどこの背景で撮影しようが、自由であるのだから、それに文句を言っているのではないぞ。

★OM-D EM1 12-40MM

2014年8月10日 (日)

給水場

Photo_3給水所というのは、マラソンなどではお馴染みの場所であるが、あたしの場合には大周遊撮影の重要なポイントである。

東京の周辺部はなかなか面白い所で、コンビニも自販機のまいような地域というのは想像以上に多い。

そういう場所に来ると、本物の東京大周遊をしている気分昂揚になる。

東京周辺部ハイとでも命名しよう。

そこここの超公園の水飲み場があたしの給水ポイントである。

数年前に東京のあちこちの水飲み場でそれぞれに味が異なるような気がした。それで行く先々でペッボトルに入れて撮影の水分補給に使っている。

名水の本場は何もお茶の水ばかりではないのだ。

★マミヤマガジン35

リスボン幻視行 その5

8047モッズとベスパはあたしの脳内で完全一体化している。
若い当時は気がつかなかったのだが、あの組み合わせは向こうで最も金がかからずに生きるライフスタイルであった。

それが当時の極東で見ると、お洒落で高級に見えたわけだ。

リスボンで鑑賞すべき名物は、古ベスパである。すでに風化して退色している古いスクーターはリスボンに似合う。そういう古ベスパを操縦しているじじいはなかなか着こなしがかっこ良くて、そういう連中は四十年前のモッズの生き残りではないかと思ってしまう。モッズもベスパもこれは流行などではなく、生き方なのだ。

国産のベスパとでも言えるスクーターがラビットであった。父親が乗ってたのは、薄い若草色のラビット号でその後部座席にあたしを乗せてそこらを走り廻った。
今にして思えば、あたしの父は国産のモッズであったのだろうか。

★OM-D EM1  12-40mm

2014年8月 9日 (土)

リスボン幻視行 その4

  1. 8046
  2. 最初から一生ここに入るのは止めにしておこうという場所はあたしの場合、世界にいくつかある。
  3. このリスボンの歴史あるケーキショップもそのひとつである。そこには前世紀の哀愁とでも言える気分がその前を通るだけでも濃厚に感じられる。
  4. あたしの入店をためらっているその理由は、詩人ペソアのファンとしてはこういう店に入って自分の想像していた古きリスボンの観念が覆えされることへの危機感である。
  5. ペソアに対する四半世紀の思いは、この一月に国家記念物である、ペソアミュージアムでぶち壊しになった。
  6. それで懲りているので、失望しない為にこの老舗のカフェには入らないことに決めた。
  7. あたしのペンションの1階にある、カフェニコラもそうだ。十数年前に勘定書きをIMBのシステムにしてから行くのを止めた。
  8. リスボンのツーリスト旅行記を見ていると、半日でレストラン2軒にカフェ半ダース廻ったのを自慢にしている。
  9. そういう人間にはなりたくないものだ。
  10.  OM-D EM1 12-40MM

2014年8月 8日 (金)

トポゴンタイプの1インチで撮る

124

Nikkoru

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ウイーンに七年半棲んでいた当時は、まだデジカメという未来カメラは存在しなかったし、想像も出来なかった。
七年半の間、一番御世話になったレンズタイプはトポゴンタイプである。四枚玉で対称形のレンズで、当時はもっぱら航空写真などに使われていた。

カールツアイスイエナの代表的レンズであった。このトポゴン25MMはコンタックスマウントも存在した。
ウイーンのカメラ店で入手したが、どうもいじったようであって、周辺の描写が悪かった。

同じトポゴンタイプにソ連製のオリオン28MMというのがあって、これはもっぱらあたしの鋲順レンズであった。

 1980年に日本に戻って、最初に手にいれたのはニッコール2.5センチの広角レンズでこれもトポゴンタイプだ。最初のニコンSに装着してよくスナップに使用した。
以来、数本の同じレンズを手にいれた。

これをデジタルペンにつけると、なかなか具合がいい。三番目の画像は同好のカメラ人類が使っている、ペンの白にニッコールのクラシックレンズのトリオである。
こういうのは高尚なカメラ趣味だと思う。

真ん中の画像はペンによる作例だ。なかなか良い感じだ。
★OM-D EM1 ニッコール2,5センチ

2014年8月 7日 (木)

リスボン幻視行 その3

8045リスボン幻視行。

リスボンの中心部には広場が双子のように並んでいる。そういうのは変だと思っていたら、これはひとつが市場でひとつは広場であったのが市場が火事で焼けたので、結果として双子の広場になったそうである。

ペソアの1910年当時のリスボン案内にはまだ市場であった当時の広場のこととその絵はがきが掲載されている。

双子広場の西のほうのが本来の広場である。その広場の西の左右対称形の立派な建物(リスボン大地震の後の新都市計画でできた)のレフトウイングの下に有名なカフェニコラがあって、その上階のペンションにあたしは住んでいる。無論、エレベータの発明以前の建物だから、上まで階段で登るのだ。

この建物を最初に見た1980年秋には建物の屋根の上にネオンの残骸があって、それがやぶれ芭蕉のようで、なにか悪夢のようでなかなか良かった。

その後の三十年に紆余曲折があって、今回、三年ぶりに行ったらこういう美女が壁面を占拠していた。

あたしの部屋は美女の顔の右側の三つの窓である。まずリスボンなら最高のアドレスではあろう。

しかも階段の上下であるからエクササイズに最適。

★OM-D EM1 12-40MM

2014年8月 6日 (水)

リスボン幻視行 その2

Photo早朝のリスボンの街、まだほとんど人が通らない街をぶらぶらする。

寂れたレストランのエントランスの小さいポスターがいいなと思う。これはリスボンの強烈な日射しに焼かれた印刷物である。

まだ東ドイツ時代の東ベルリンを撮影していた時に、当時、東ドイツ人で最初の宇宙飛行士が国民的ヒーローであった。ソ連のソユーズに搭乗したのである。灰色の街のあちこちにその凱旋ポスターが貼られていた。それが退色していい感じであった。

それに惹かれて撮影したが、残念にもその仕事はカラーではなく、モノクロであったのでその退色感覚は映らなかった。

思えば、退色した印刷物が店先に飾られているというのはあたしの一大テーマであったようだ。

1973にウイーンで撮影された一連のコダクロームの作品(この秋に京橋のアイランドギャラリーで展示予定)の中にもそのシリーズがある。

★OM-D EM1 12-40MM

2014年8月 5日 (火)

リスボン幻視行 その1

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リスボン幻視行である。 旅はその旅の今を体験している時よりも、その旅を終わって、半年とか一年、さらに五年十年、いやもっと三十年以上が経過してその時の記憶が骨肉化されるものである。

最初のリスボンは1980年であったが、その時の記憶もこの一月の記憶も、あたしの記憶ファイルでは並列になっている。

だから気をつけないと、中央の広場から南に行ったアウグスタ通りの角に、貴腐ワイン色に変色したラテン中古カメラ店があるのではと勘違いしたりするる。そんな店は四半世紀前に消滅して、今は携帯屋になっているというのに、、、

それでリスボン幻視行が、必須のタイトルになるわけだ。 フィゲイル広場を東に行くといきなりつま先上がりになってその先はお城に続く急な丘であるが、ここに数年ぶりに立ち入ったらいい感じの古びた通りの壁や、家の表面にクラシックな人物のポートレートが飾ってある。

それは墓地にあるのと同じで石に焼き付けた、アーカイバル処理した、最後の審判まで十分に耐えられる作りだ。 英文の解説でこれが、この古い町並みに住んだ人々の記憶を未来に継承するための芸術プログラムであることを知る。 その地域の小路を行ったり来たりして鑑賞した。なかなか良かった。そこに記録されているのは界隈の市井の人々なのである。

★OM-D EM1 12-40mm

2014年8月 4日 (月)

札幌の今井コレクション 5cm f1,1の、、、

123札幌の今井コレクションで、今回感心したのは、この「箱」である。

これはニコンSPの一式であって、画面の左にはそれこそ新品のSPが鎮座している。

それを画面に入れてしまうと人間はその方に惑わされるので、あえてフレームアウトにした。それでここに見えるのは、左がニッコール5センチf1,1のフード関係のケースで、右がカメラの元箱だ。中央にあるのは今回初めて見た物件である。

フードが入る元箱なのだ。このレアなフードは某店では五千ドルもして、SPのカメラ本体よりずっと高かったりするが、大抵は本体のみか、革ケース入りであって、その元箱付きというのは見たことがない。

あたしも工業生産物なのだから、箱がついていて当然とは思うが、今回、初めてその箱を目撃したわけである。

その色合いからすると、これも亀倉雄策氏の仕事なのではなかろうか。

★iPhone

2014年8月 3日 (日)

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札幌今井コレクション いわゆるニコンビット

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今回の札幌の今井コレクション。

一年ぶりの訪問であった。特にニコン関係が充実していたが、その王道のことはさておき、あたしの関心事はアクセサリー方面にあった。

これはニコンFの裏蓋と交換する、迅速巻き上げアクセサリーである。

これには思い出がある。

日本デザインセンターの二年目だかに、この会社の人が出来たばかりのこのアクセサリーの注文をとりにきた。当時はすでにモータードライブは存在したし、あたしも持っていた。しかしこれは人力というか人間の指で巻き上げるクラシックな装置である。

値段は二万円弱もするので買えなかった。当時の給料は4万円ほどであったから当然だ。

我々はこの製品をライカビットに倣って、ニコンビットと呼んでいた。四十年前に見たのは本体だけであったので今回、その「新品箱入り」を見たのは初めてのことである。

これは今また使ってみたいアクセサリーだな。

★iPhone

2014年8月 2日 (土)

パリのリアルな時間帯

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パリの日曜の朝というのは好きだ。今年は初パリから四十年という記念の年なのでそれなりの感慨がある。

バブル時代には中央部の★がいつつ並んだホテルなどに取材で宿泊したが、それはそれなりに豪華ではあろうが、そういう暮らしが日常になってしまっては、退屈な人生であろうと思った。

その当時からあたしは都会の周辺部に興味があったのだが、パリは東京に比較して小さい街ではあるが、やはり周辺部への移動が面倒である。

それで気がついて、パリの北辺の部屋に住みついたのは二十年ほど前だ。住みかと仕事場が一致しているのでこれは便利だ。

早朝に北駅と東駅を超えて、サンマルタン運河まで出かける。そこで驟雨に遭った。

雨と言ってもスコールではないからそのまま歩行した。ただ持参のライカM3だけはバッグに入れた。

雨脚が去ると、パリの休日の路上は洗い上げたように綺麗だ。

空の反射が路面に映るのである。かのアジエが撮影した時代とここらはあまり変わっていないように見える。

そのまま下町を一巡して、市場に行き(日曜は開いている)そこで刺身を買って、ちょっと良いワインと言っても10ユーロ近いの、を買って部屋に戻った。

道を斜めに渡る時に遠くに白亜の殿堂が見えた。おや、こんな場所にミュージアムがと、思って良く見たらなんおこともない。パリ東駅なのである。

これも朝の光りのマジックだ。

★ライカM3 カールツアイスイエナ ビオゴン35MM

2014年8月 1日 (金)

路地裏ミロンガ

Photo数十年前の神保町の裏通りというよりも路地裏の喫茶店のあたりは

昭和のかおりがするなどと言われるが、あたしの幼年時代の神保町の街並みは表通りも木造の商店が多かった。

その中でも一番大きなのが辞書の三省堂で、これが木造めいた三階建てであったと言っても誰も信用しないであろう。
アサヒカメラの連載で神田カルチエラタンを思い出して撮影に行ったのであったが、やはり六十年代の空気はここらが濃厚だ。

ユリイカの伊達得夫の貸し机もこういう木造の突き当たりの二階の小部屋にあったのであろう。

あたしはまだ青林堂が神保町にあった当時、南伸坊さんから青い表紙のつげ義春の本を買ったことがある。木造の真っ暗な部屋であった。あれは今の何処に当たるのであろうか。

OM-D EM1. 14-42

 

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