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チョートクカメラ塾ブログ

Chotokuぶらり パチ塾

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2014年7月31日 (木)

お知らせ

これ、本音トークです。ぜひご覧ください。
http://www.bookscan.co.jp/interview/424

東向島3丁目17番地先

1_2
Photo_2七月末の非常に暑い日に、東向島(鳩の街)から、地蔵坂通り商店街を経由して、向島百花園の脇に抜けた。

着ているTシャツが汗で頭から水をかぶったように濡れている。これは熱中症になるのではないかと思った。

東向島3丁目17番地先に記憶にある、自販機を発見して、あたしはしゃんとなった。

というのは、日本では自販機はあたしの大周遊での重要な観察物件なのである。

古くは十年以上前の写真集「ちょーとくの投稿さんぽカメラ」でこの界隈の自販機を撮影している。これは当時、すでにクラシックなスタミナドリンクの販売機であって「ググッとくるぜ!}と大書されているのに、ググッときたのだ。

この麦酒の自販機は全部が退色していて、ガムテープで補修がしてあるのが魅力である。

数年前にこの自販機に出会って、それがどこにあるのかは失念していた。東向島界隈を徘徊していて、その自販機のことを考えていたら、その自販機が出現した。

ここでなにか功徳があれば、現代の今昔物語である。

★GR

2014年7月30日 (水)

北五条西十七丁目

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Photo
3

札幌大周遊である。

メトロの二十一軒という駅までメトロで行って、そこから札幌駅まで歩こうと計画した。

昨年の今頃にこの駅に行って、その名前がいいので感心したのである。21という数字はあたしにはラッキーである。広角レンズは21だし、今住んでいるのも、リバーシテイ21である。

この界隈はなにかベルリンの郊外という感じがする。アベニューとストリートの呼称からすれば、マンハッタンに似ているが、風景の類似性はベルリンである。

まず二十一丁目から駅まで徒歩二時間と予測した。

歩行していると、いきなり個人タクシーが止まって、ドライバーさんが立ってあいさつしている。あたしの顔本友達であった。あたしの読者さんでもある。

こういう遭遇はなかなか嬉しい。そのポイントは北五条西十七丁目なのである。

立ち話でカメラの話をして、彼の持っているデジカメでツーショットを撮った。

南三条よりあたしは北五条が忘れられない。

そこから植物圓経由で札幌駅はすぐであった。

★GR

2014年7月29日 (火)

パリ一望

Photo_3パリを一望する。こう書くとなかなか素敵であるが、一望というのは一種の観光の偽善である。

仕事で世界中を旅して、仕事でそういう高い所に登った経験は沢山あるけど、観光タワーというのはどうも眉唾なものが多い。

ベルリンのテレビ塔もパリのエッフェル塔も、もうないマンハッタンのツインビルのオブサベーションデッキもそうであって、人生に一度だけ登ってがっかりして戻るというのは、人生の隠し味になると思う。

パリにモンパルナスタワーが出来てしばらくしてから登ったが、なにかちぐはぐな感じであった。パリは路上で観察するのがベストでそのように設計された街である。

パリの映画の撮影などの、インサートカットでこのモンマルトルの丘からのショットが数多いがやはりなんとなく印象が薄いのは、上のような光景しか撮影できないのでパリ全体が背後に後退しているような感じがする。

今回もここで撮影して、やはりがっかりしたのである。そういう風景写真の立ち位置のことは普段は忘れていて、その現場でようやく思い出すのである。

それでつまらない風景を撮影して戻ってきた。

誤解のないように説明しておくけど、パリのエッフェル塔の南側からトロカデーロをバックにした遠景は、フランス製のライカ、フォカの交換レンズの作例などに使用されているが、ここは一般受けはいいが、やはりつまらない風景である。この場合には「交換レンズの作例向け風景」というわけだ。

★OM-D EM1 12-40MM

2014年7月28日 (月)

モンマルトルの「家畜輸送車」

  1. Paris_6
  2. モンマルトルは嫌いだから行かないようにしているが、安いホテルとなると、やはりこの界隈になる。だからモンマルトルは運命みたいなものだ。散歩ついでに撮影となると、その選択肢は限られてくる。
  3. 前のアベニューを東に行くと、北駅と東駅の巨大な線路を越えるのでそこらには、何もない。
  4. 仕方なくアベニューを西に向かうことになる。
  5. しかしその先はピガールであるから、大観光地であって散策には向かない。
  6. やむをえず、進路をやや北西にとる
  7. だんだん道が登り坂になるがこれは快感なのでそのまま登って行く。
  8. 結果として、サクレクールの俗なお寺の前に出てしまう。
  9. あわてて寺院の裏手に回ろうとすると小路を一杯に占拠してこの観光家畜運搬車が行く手を遮る。
  10. 身の危険を感じてその脇の土産物店に緊急待避して撮影した決死のショットがこれである。
  11. 街に戦場ありとは良く言ったものだ。
  12. OM-D EM1 12-40MM

2014年7月27日 (日)

パリは十八区の荒物屋

Photo

モンマルトルの丘の上に住むのは御免だけど、

モンマルトルの丘の北側、。すなわち丘を防護壁にした場所には住んでみたい。
ツーリストのゲリラ観光原理主義者どもは、サクレクール要塞が堰き止めてくれるからだ。

モンマルトルの裏側、裏モンマルトルは好きな街である。ここには庶民の暮らしとちょっとスノッブな暮らしが良い具合にミックスしている。こういう荒物屋はパリのどこでも見られるわけではなく、やはり十八区っぽくてすきだ。

尊敬するアジエの百年前の作品にも沢山の店先を撮影した仕事がある。当時はまだこんなにプラスチックに店先が占領されることはなかった。

アジエの作品はカラーではなくモノクロであるが、おそらく百年前の荒物屋の店先の品物の色合いはこんなにけばけばしてはいなかったであろう。

この蛍光色の氾濫からは逃げ出せない。それが現代というものである。

★OM-D EM1  12-40mm PRO

 

2014年7月26日 (土)

モンマルトルの坂を下りる「ふたり」

Paris_9三年前のクリスマスの直前のパリで、面白かったのは街を往く、「人と犬」である。

ようするに、飼い主と犬は似てくるのだ。それも後姿にその特徴が現れる。それを観察してついでに写真も撮影した。

あたしはエリオットアーイットの犬の写真が大嫌いなのは、それがユーモア写真であり、浅薄なポピュリズムであるのがその理由である。大衆小説家みたいなものだ。

だから犬も猫も興味本位で撮影しては、彼らに失礼であると思っている。

この五月のパリ再訪で痛感したのは、人と犬の後姿である。そこに彼らの「人生」を感じたというのは、その場所はパリのモンマルトルという、いささか理解しやすい構図であったのもその理由かも知れないが、あたしは彼らに「人生を行く、人と犬」を見たと思った。

ゆえにこういう写真はある意味で残酷なのである。

★OM-D EM1  12-40MM

2014年7月25日 (金)

ピガールの朝のカフェ

Paris_1

パリのカフェはそこにすわるよりも、そこを観察する方が楽しい。

四十年前にウイーンからパリに初めていった時に吃驚したのは椅子がずらりとアべニューに向いていることだった。

そこに座る客にしてみれば、通行中のカッコいいパリジャン、パリジエンヌをあたかも、舞台の一コマのように、楽しみつつみることが可能なこれは視神経の快楽である。

一方であたしのような路上観察者にして見るとこういう役者さんがカフェに陣取るのを見ると、ついでに写真も撮影したくなる。
極東の外れの島国は、すぐに肖像権やらを振りかざす病んだ視神経の国だが、パリは流石に公私の区別がしっかりしている。

だからブレッソンの傑作も、彼の才能は勿論だが、カフェの正面に座っている人は最初からその了解があると認識することもできる。 この二人のムッシュはいい味がある。OM-Dをローアングルモードのファインダーで連写した。
これを我が同胞に置き換えるとどうもね、、、

★OM-D EM1. 12-40mm

2014年7月24日 (木)

パリ キムライヘイ階段

Photo_2ムッシュ イヘイ キムラは1954年と55年に「外遊」している。今ではあたしのような暇人がもっぱら外国に行っているわけだが、当時は外貨の割り当てもあって、個人での海外旅行は月に行く以上に難しかった。

ムッシュ キムラは朝日新聞の特派という形で外貨を得たそうである。

1980に、北井一夫さんのドイツ表現派建築の取材をアシストした時、北井さんは重いのに。のら社から出たムッシュキムラのカラー写真集「パリ」をウイーンのあたしの住まいまで持って来てくれた。

カラーで撮影というのは、キムラ名人にしてみれば、やるきまんまんであったわけだ。しかも当時のカラーフィルムはまだ感度が10の時代である。

その写真集にモンマルトルの上から見たこの階段も写っている。

あたしが1974年、ちょうど四十年前に初めてパリに行った時にはこの階段もキムラ名人の撮影した当時の感じが残っていた。

今回、数年ぶりにここを訪問して気がついたのは、どうも階段は改装されてモダンになったことだ。

ひとつだけ不思議なのは、四十年前にここを息を切らして登ったあたしは27歳であったが、今回、67歳の方が息が切れなかったという事実だ、

プラハのアトリエもすでに三十年住み古しているので、年年、階段の蹴込みが高くなったような感じがするが、ここ、モンマルトルの階段だけは、別に感じるのはここがやはりパリであるというのがその理由であろうか。

もっともモンマルトルの丘は高さは大したことはない。ベルギーのリエージュにはメグレ警部の小説の舞台だそうだが(あたしはその人を知らない)ここにはそれこそ天に届く高い長い階段がある。

そこが夕焼けでとても綺麗だった。

★OM-D EM1 12-40MM

2014年7月23日 (水)

お知らせ

チョートクカメラ塾第二十時限 は本日配信です。
内容は
  写真の構図を鍛えるポイント

大田区東馬込のタピエスな風景

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この手の立体作品を、錆王と呼ぶのは、以前に西新井方面に赤錆びた角地の巨大建築があって、その建物をそう呼んでいたのである。

その建物は取り壊されて今はマンションになってしまった。街歩きの趣味人がそういう古い建物の無くなったことを嘆くのは実に身勝手なものである。昔の情緒が失われたなどは、そこを通過する個人の勝手な感傷に過ぎない。

そこら辺は心しておく必要がある。

錆王のどこが良いのかと自問するに、それがタピエスの絵画に似ていると説明するのが一番分かりやすい。赤錆の色彩はタピエス色なのである。

大田区山王から都営の馬込に抜けるつもりで、東馬込の尾根伝いに歩行していたら、この偽タピエスが登場した時は嬉しかった。久々の邂逅なのである。

偽タピエスが本物のタピエスをある意味で超えているのは、そこに創造の意思という、面倒なものが関与していないせいであると思う。

その先にはすぐに馬込の駅があった。馬込から発して多角形に歩行していきなり馬込に出たのである。なにか馬込で狐にばかされた感じだ。

OM-D EM1. 14-42mm

2014年7月22日 (火)

とうきょうなんぼく

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2我々、団塊の世代には「移動貧乏」という要素がある。

弱肉強食の時代に育った ので、見さかいの効かないことがある。

一日フリーパスなどを手にすると、始発から周辺まで乗車しないと満足しない。

この日は都営の一日券で「東京南北」周遊をやった。馬込から歩行を開始して、大回りルートでまた馬込まで戻った。馬込九十九谷(つくもだに)というが、馬込は大正時代にはまだ新開地で文士村があった。

足穗が居候していた、衣巻省三の所を地図を頼りに捜索したこともある。あとでそこが三島由紀夫の家の近くだと分かったのは愉快だった。戦前は場末の新開地が戦後には三島美学が認める場所になったからである。

ところであたしが詩情を感じるのは、こういうマイナーなローカル地図である。まだそこらここらに残っているが、早晩なくなるであろう。

この地図看板などもその稚拙な感じと色の褪せた感覚がいい。

そこから電車で一気に足立区の四つ木に北上して、四つ木の灸から、堀切菖蒲園まで徒歩した。四つ木商店街は実に謎めいていて好きな場所だ。

これは例の「共食い看板物件」である。ちょっと個性的なのは、本来は今土焼きの狸の役所を、ぶたさんが役造りに成功して、酔い味を出しているところだ。

★OM-D EM1  12MM

2014年7月21日 (月)

真間の手児奈堂をたずねる

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2

永井荷風がよく訪問した、市川真間の手児奈堂を見に行った。

手児奈は奈良時代の人だそうで美女の入水自殺神話である。名前からして、万葉仮名めいた音感である。

真間駅から荷風時代のゆかりの古書店を訪問するつもりが、地図の南北を読み違えて、逆方向に行くインソデントあり。

手児奈堂は白砂の上に建てられた雅な社である。まだ神仏混淆の時代であって、鳥居もある。本堂の張り紙に、お盆でお経のおつとめがあるので、云々のメッセージがあった。ここらが古代感覚でいいな。

廃仏毀釈時代はどのように切り抜けたのであろう。

手児奈せんべい、というのは鶯谷の老舗のせんべい屋だが、三十年以上前の東京大周遊時代にそこに伴った、MNはこれを「てじなせんべい」と呼んだ。手品せんべいである。当時21歳の女子美の学生だから、この「湯桶読み」は戦後教育の成果というべきであろう。

手児奈堂の前に古池がある。表面は水草で覆われている。正面から見ると、沼の主に会いそうだが、この沼を脇から、つまり長辺方向から見ると、岸辺の枝振りが見事であって、そこがプラハの郊外にいる気分にさせられる。

しかし帰り道は猛暑で大変であった。普段、そういうものを食べないあたしが、駅前の和菓子屋で氷を注文したほどだ。

お盆なので客が多い。ご仏前を買ってお金が僅少しかないので、旦那をそこに待たせて近所のATMに行った奥さんがいる。

あたし帰える時に、店先にキャッシュカード落ちていると騒ぎになった。お店では今晩一晩預かって、あす交番に届けるそうである。

それほどの猛暑であった。

十年前に母が倒れた時の暑さを思いだした。

★OM-D EM1 12mm

2014年7月20日 (日)

大口駅から妙蓮寺まで

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この日は、京浜の新子安から歩行を開始した。

カメラはライカMD-2にフェド28mm.

この界隈はまったく土地勘がないので、楽しめた。こういう場合には、スマートフォンで地図を見ることもない。

JRの大口駅というのが登場した。駅が大口あけて笑っているという、豪快な感じである。うちにある、明治の大皿は藍で「開口 一笑」とあるのを思い出す。

駅のエントランスに非常に斜めになった樹木がある。それが良い感じなので撮影する。

そこからさらに西に歩行する。道が消失したり、廃屋があったり、上下にかなり高度差のあるのが痛快である。

屋号が判読できない酒屋がある。自販機も良い具合にクラシックになっている。

高圧の変電所の影の中を行く、男性の後姿にだけ日射しがあたっている。

そしてさほど歩行していないのに、いきなり妙蓮寺駅に出た。

何か夢を見ているような気分であったが、夢はライカでは撮影することは出来ない。

2014年7月19日 (土)

クロームのF

Image_2 一年ぶりに札幌の今井コレクションの見学に来ている。その時のレポートは追って掲載する。

ニコンFというカメラはあたしが若い時、このカメラのカタログ撮影(のアシスタント)をしたカメラであった。当時の四角いカタログでこれは当時のライツのカタログを真似ていたのであろう。

三年間勤務した日本デザインセンターには膨大な機材があったが、大型はリンホフ、中判カメラはハッセルブラッド、小型カメラはニコンFであった。日本光学がスポンサーであったのも理由かも知れないが、当時のプロ機材は実際ニコンしかなかった。

当時のあたしの自分のニコンFはブラックである。普通のクロームなんて、、、と、馬鹿にしていたが、この歳になると、クローム仕上げの方が本質であることに気がついた。

東松照明さんの愛機もクロームのFであった。

これはごく初期のカメラである。レンズは最初のモデルの5センチF2であって、Hニッコールではなく、Sニッコールが付いている。

フィルムを入れればそのまま写る。半世紀以上前のカメラが実用になる。

★アイパッドミニ

 

2014年7月18日 (金)

クリストに推移する佃界隈

Photo_3某ブロジエクトの仕事で佃に滞在している。

言い方は変だが、確かにその通りである。

以前、ヨコハマの氷川丸計画の時には、佃から定期を買った。今回は交通費はかからない。勤住一致というやつだ。

施設を壊してそこに新しい建物が建設されるのは、わくわくする。うちの部屋から見える、スカイツリーもそうであった。完成までが楽しめる。

最初のステップは更地にするので、スクリーンを貼っている段階だ。

これが環境芸術家、クリストの仕事みたいで好きだ。クリストはドイツベルリンのライヒスタークを幕で梱包した。パリの新橋も梱包した。

原美術館での講演会であたしはクリストに質問したことがある。その梱包に使った素材は売らないで全部破棄すするという答えであった。

その代わりに計画の記録を重視するとのことであった。

佃計画の場合にはそこから新施設が誕生するのであるから、ある意味では現代アートよりも実際的であるのが異なる。

白いバックの前を通行する人はそれだけで、現代劇のエキストラである。

★GRD

2014年7月17日 (木)

京都に10分だけ滞在する

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大阪芸大での授業の前の日に、淀屋橋から[お京阪]に乗って四条で降りた。
歌舞練場の前から四条通りまで先斗町の小路をくだって、東華菜館にはよらずにそのまま阪急に乗ってなんばに戻った。

こういう酔狂なことを以前からやっている。

昔、奈良から京都駅まで来て、改札をいったん出てからそのまま切符を買って、奈良に戻ったこともある。
その意味では10分の滞在というのは、逆に記憶が濃いのである。

二十年前にこの菜館の北のバルコニーで数名で痛飲して、思い付きで、十年後にそこにまた集まろうということになった。

そういう約束は実行されないのがルールというものであって、そこに居たメンバーは居所も替わったし、そういうのは当座の座興なのである。
それはそれで良いわけだ。そのうちの一人はあたしの、国立近代美術館の竹橋でのブレッソンの講演会に来てくれた。これが五年前のことだ。

それにしても東華菜館の北側の露台というのは、なかなか良い。それと古いおーちすのエレベータもある。

実は昼間に飲みにゆくつもりであったのが、またどうせ、蒸し鶏に紹興酒でゆるゆる酔うのかと思ったら、それが面倒になった。
ようするに老人の面倒くさがりなのである。

しかし、想像で東華菜館を思うのと、実際にその前にまで行って登楼しないのとは、やはり意味がことなると思う。

★GRD

2014年7月16日 (水)

納涼てんぷら船」

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二十六年ぶりに、偽ライカ愛好会の暑気払いで、品川から天麩羅船に乗った。これは持ち回りの幹事さんの計画の偉大な勝利である。

二十六年前は月刊日本橋というタウン誌の暑気払いで乗ったのである。潜水艦なだしおの事故の後の大荒れの天気で、まさに海難救助の趣きがあってよかった。

あれから四半世紀プラス1年が経過したのである。
四半世紀の間、佃島に住んでいるので、てんぷら船は長年見ているが、二十年前までは船からど演歌が聞こえてきた。今は若い連中の無国籍の歌が聞こえてくる。

高層タワーだと下の犬の散歩の飼い主同士のひそひそ話も上に聞こえる。右翼が来て、竹中さんを糾弾するのも良く聞こえる。
てんぷら船のカラオケも良く聞こえる。
迷惑なことだ。

迷惑ではあるが、それは上から見ている場合であって、実際に乗り組んでしまうと、そういうことは気にならなくなる。
二十六年ぶりの印象は、喰いものが旨くなったという点だ。これはインターネットで情報交換が可能になったので、競争が激化して、消費者の目が厳しくなっているせいだろう。

デジカメもそうだが、広告よりも、皆さん、オンラインの生の書き込みを気にしているのと同じである。そっちに真実はありそうだ。

お台場の海域で停泊して、てんぷら食べてから、隅田川を遡上して、清洲橋あたりでスカイツリーを見る。
あたしは毎日、スカイツリーを見ているので、迷惑な話であるが、これがメーンイベントなのだ。

佃の部屋からてんぷら船を観察していて、最近では「ながなが」という船の停まり型があるのだ。これはあたしと家人とライカインコにしか通じない。

通訳すると、要するに、河の流れに直角ではスカイツリーが見えない。それで河の流れに横向きになる。これは猫が横倒しになっているように見える。
これがながながの由来だ。

ところが「本船」(これ業界用語)は、そのながながをしなかった。理由は簡単であって、船の上部にバルコニーが用意してある。河風にあたりながらスカーツリーを見る。
これなら船の向きを直角にする必要はない。

だから、ながながをしない船は上にデッキがある船であって、ながながをする船はデッキのない船である。

せっかく品川から佃に来たので、ここで下船したい。
「船頭さん、船を岸につけてくんな、、船もいいが、一日中乗っていると、たいくつで、たいくつで、、、」は落語の欠伸指南である。

しかし途中下船は出来ないのでそのままおとなしく、品川まで戻ってきた。

2014年7月15日 (火)

ブラックペイントの鵜城

Photo_6岡山がいいなと思うのは、旭川が屈曲していて、そこが自然の要塞になっている点である。そこにお城がある。

早朝にここを歩行している人は地元の方の犬の散歩と、ツーリストさんのみである。それがまた異国情緒が満点で良い。岡山を訪問する外国のツーリストは、かなり文化的なレベルが高いのではと思う、普通は日光、鎌倉、京都、奈良であろう。

後楽園も岡山城もあたしは卒業しているので、朝と夕方にお城の廻りを一周してきてそれで満足している。

北京の故宮は平坦であって、高さのあるのは、街の北の鼓楼、鐘楼であるが、そういうのに比較しても、日本の城郭というのは高度感覚があって、外国人にはなかなかのダイナミズムを感じさせるのであろう。

お城が何時再建されたのかは、問わない。シンデレラ城だってごく最近である。岡山城はマットブラックに塗られたライカみたいな感じがして、それがまたいい。

★OM-D EM1  14-42MM

 

2014年7月14日 (月)

ダイナミックメトロ その6

6あ、今日はパリ祭か。パリ祭と聞くと戦前のロマンである。パリが遠すぎて、文学青年、芸術少女の一生に一度の憧れの地であった。小説でもパリに行くその計画を建てことがすでにテーマになっていた。今昔の感ありだ。

パリの数あるメトロの駅の名前で一番特異なのが、ここ、スターリングラードである。

パリの北辺の交通の要所である。スターリングラードは現在のヴォルゴグラードである。パリの駅がすべてフランス語の駅名なので不思議に感じるのである。ウイーンに棲んでいたあたしにして見ると、ソ連軍は案外に身近な存在であった。

あたしのアパートのあった、ドナウ運河の左岸は1955年までソ連に分割統治されていた。かつてのベルリンのようなものであった。

だからメトロでパリのこの駅を通過すると、かつての東欧の飛び地のような印象を持ったものであった。

以前はパリの駅名はあたしは発音こそしないけど、すべてドイツ語読みで理解していた。フランス語は駄目なののである。

だからどういう発音をするのか分からなかった、それが最近ではメトロにも自動アナウンスが流れるようになった。

それでようやく、スターリングラードのフランス語での正しい発音が分かった。

★OM-D EM1  12-40mm PRO

2014年7月13日 (日)

ダイナミックメトロ その5

5パリに数あるメトロの駅の中で一番有名なのが、このシテ駅の構内であろう。
ここには大都会のダイナミズムがある。
当時はセーヌ河の下に隧道を造るなどは、一大工事であったに違いない。

プラットホームは綺麗なタイル貼りで、地上に出る所は巨大な円筒の垂直空間であって、二十人以上乗れる昇降機がある。階段でも上れる。

この巨大な円筒の鉄板はなにか前世紀の船のエンジンルームにいる気がしている。
その理由はリベットが打たれているからだ。

リベットこそが、20世紀のモダンを象徴していた。
小学校の下校時には当時はまだ珍しい鉄筋鉄骨の五階建てなどが建設中であった。昭和二十年代も後半のことであった。
職人さんが真っ赤に焼けたリベットを巨大なやっとこで挟んで上に投げる、上の人はゴミ箱みたいな恰好のキャッチャーミットでそれを受ける。ミットに真っ赤に焼けたリベットが入ると「カラン?」と音がする。すごいチームワークだった。
それをずっと見ていた。

当時はリベットは新時代の象徴だった。
シテ駅の階段を登りながら、リベットの頭を見ると、小学校の下校時の事が思いだされる。

★OM-D EM1 12-40MM

2014年7月12日 (土)

ダイナミックメトロ その4

4パリのメトロのプラットホームの有効な使い方。

それはここでオペラを上演することだ。無論、営業時間に開催は無理であろうから、廃線の駅でよろしい、

いつぞや、ザルズブルグの祝典歌劇場を取材した。かなり昔のことであるのは、音楽総監督はカールベームで演目はナクソスのアリアドネで歌手はヤノビッツであったことだ。

祝典歌劇場はメトロのホームそのものに見えたのである。電車こそは入ってこないけど、駅のホームである。

上の画像はホームの反対側からOM-Dに40MM相当で撮影した。つまりライカで80MMである。

祝典歌劇場の専属写真家は二台のライカM2を三脚に載せて、レンズはエルマリートの90MMだった、これは当時はカラーとモノクロを撮影する必要があったからだ。

パリのメトロなら現代ものがいいが、クラシックものを現代に翻訳したのでもいい。この場合、入線してくるメトロで俳優は交代し、電車が緞帳の代わりになる。

そのつもりで、ホームのベンチに腰掛けていたら、すで舞台では無言劇が始まっていた。

これで良いわけである。

★OM-D EM1 12-40MM

2014年7月11日 (金)

ダイナミックメトロ その3

Photo_2パリのメトロのポスターは周到に計画されているようだ。

ホームは巨大なトンネルであるので、ポスターも巨大である。一方で連絡通路の方はポスターは小さい。

小さいけどこれを観察する距離は、ホームよりは近距離なので見かけの大きさは、連絡通路の方が大きく見える。

さらに最大の違いはホームではメトロを待つために、視点は不動であるが、連絡通路の場合には歩行者の視点は移動し続けている。

そこで同じポスターの繰り返しが、見ている者にとっては思いも掛けぬサブリミナル効果を生み出す。

その事をあらかじめ頭に入れて、メトロを徘徊すると、思いもよらない効果が生まれる。

これがパリのメトロトリップである。

★OM-D EM1 12-40mm

2014年7月10日 (木)

ダイナミックメトロ その2

111ダイナミックメトロというのはあたしの思いつきの造語であるが、パリにはすでに稼働しいない駅もあるし、そういうツアーを企画したら大面白いであろう。

今回のメトロとチップはあたしだけが参加している、ダイナミックメトロツアーというわけだ。

乗り継ぎの通路にも名物のミュージシャンがいて、そのレベルが高いのである。

三十年前には、名物メトロ男とでも言えるエンターテイナーが居た。犬をつれた老人でアコーデイオンとパリの小唄の名手であった。ひとだかりがするほどである。

その名歌手をあたしは追いかけた。もとよりどこに居るのかは分からないのだが、第六感というやつである。

大抵はシャトレのどこかの乗り換え通路にその姿を見いだすことが出来た。

その写真は当時のアサヒカメラに掲載してある。まず字吟遊詩人という所だった。

★OM-D EM1  12-40mm

2014年7月 9日 (水)

ダイナミックメトロ その1

Photo今回のパリ(すでに五月だが)では三千数百枚を撮影した。これは面白い数字だ。2001年にパナソニックルミックスLC5のカタログとプロモの撮影でドイツのライカ社とその周辺を撮影した。

その時、まだ初期のインターネットの広告にあたしが登場しているのだが、これはライカレンズとパナソニックの協業の時期である。

その広告のコピーはあたしが書いたのではない。

「ライカとパナソニックが手を結んだ。そこであの男が動いた」とあって、撮影カット総数1800余、とコピーにはある。当時の仕事のカット数はそんなものであったのだ。しかしこれは広告のコピーだから「沢山撮影したぞ」という意味なのである。コピーライターさんにはこのショット数は膨大な感じがしたのであろう。

今回は日本カメラのタイアップの最終回の撮影だった。三千数百とはちょうどフィルムに閑散して100本である。しかしこれは二回分の掲載であるから、一回分はやはり1800ショット前後になるわけだ。

そういう意識は撮影中にはないのだけど、自然にそうなるのが面白い。

今回のパリの撮影ではメトロを撮る、これは確信犯であった。七十年にやはりパリでメトロを撮影して、当時のアサヒカメラに掲載した。これはモノクロである。

当時はカラーで蛍光灯で照明されたメトロを撮影などは想像外だった。

今はダイナミックなこういうシーンが撮影できるのは凄いことだ。

結局はメトロの一番長い路線に乗って始発から終点まで往復して乗り尽くすことになる。

パリのオペラより面白いのはパリのメトロである。

★OM-D EM1 12-40MM

2014年7月 8日 (火)

クリニャンクールのベンダー

2_2
1以前はクリニャンクールには良く行った。その当時は中心部のリッツ(の側の)界隈のホテルに居たので、蚤の市にゆくのもなかなかメトロでは遠かった。

最近は利口になったので、クリニャンクールには徒歩で行けるようになった。要するにパリの場末に住んでいるわけだが、金子光晴の「眠れ巴里」などで戦前のパリの日本人の付き合いを見ていると、本当の金持ちは別にして、売れない文士とか絵描きとかは、場末自慢のような所があってそれが面白い。金子は戸田海笛のことを書いているが、彼の所持品のすべては、羊羹色に変色した紋付きと模造の日本刀であったという。その恰好でグランブルバートを歩けば忽ち有名人だ。

クリニャンクールで随分、沢山のカメラを買った。そういう病が治癒すると今度はそこで働いている人に興味が行くようになった。

すなわち「クリニャンクールの人々」である。

このカフェベンダーは、ツーリスト相手ではなく、この界隈の小店の店主が良いお得意である。一人で長時間店に居て、しかも離れることができないので、お店にしては便利なベンダーだ。コーヒーの値段などはお店と変わらないが、これはケータリングの一種だな。

花売りの人は、最初は花屋さんが仕入れから戻ってきたのかと想ったが、これはそうではなく、界隈の小店に花を売っているのである。

要するにハノイと同じであって、小さいショップキーパーを相手の商売なのだ。

★OM-D EM1  12-40MM 

2014年7月 7日 (月)

お知らせ

チョートクカメラ塾第十九時限 は水曜日に配信します。テーマは
  パリのアジエの秘密は「超現実主義」にある

パリ五月八日 戦勝記念日の朝

Photo_2五月八日の朝にモンマルトルのホテルから、ポンピドーセンター目指して歩き出した。

メトロで行くのが速いけど、ポンピドーセンターに行くまでのショットを撮影するのが重要なので徒歩である。

あたしの場合、メトロに乗るのは「メトロを撮影する目的」の為に「乗務」するのである。

だからパリの撮影の目的だから、もっぱら徒歩。

小寒い朝で曇り。あまり治安の良くない界隈でスーパーの前で何時も宴会をやってる連中の一人が寝袋から出てきた。あたしに近づいてきて、フランス語で丁寧に挨拶する。

ポケットの中の小銭を掴んでそのまま渡す。

マンハッタンの八十年代にはホーボーの皆さんにクオーターやダイムを上げるのは日課だった。だから三年前のバワリーでは誰も寄って来ないので、LESも寂しくなったなと思った。東京の山谷と同じである。

パリの個人主義というのはなかなかいい。何時であったか、ウイーンからパリに来て数週間居た時に、モンパルナスの公衆電話のニュースがもたらされた。

電話のコインを保管する場所がこじあけられているので、5フランコインを2個あれば、永遠に長距離電話ができる。こういう情報は一瞬で伝わる。

すでに長い列が出来ていたが、あたしもそこに並んでウイーンの家人に電話をかけた。携帯誕生二十年以上も前のことだ。

今世紀になってから、ピガールの駅の改札機が壊れた。係員は自由に通れと言って、笑っている。日本の交通局ではこうは行かない。個人のネットワークが基本から異なるのだ。

さて五月八日だが、何時もは混雑するグランブルバードあたりの様子がどうも変である。戒厳令というか無人の街区である。お店は全部シャッターを下ろしている。

田舎から来た家族。パパは地図と首っぴきである。娘連は退屈そうである。

パリに来て、地下鉄に乗るのを楽しみにしていたのが、ストライキで乗れなくなった少女ザシみたいなものだ。

無人の街角を幾つか横断して、初めて今日は対独戦勝記念日であったことを思いだした。

1973年のこの日にあたしはモスクワのメトロポールホテルに投宿していた、向かいのグム百貨店でソ連製カメラを買うつもりが、お店は全部閉まっていた。

★OM-D EM1 12-40MM PRO

2014年7月 6日 (日)

中納言の鳩と花

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2_2岡山の路面電車の終点の東山からぶらぶら夕方の街を歩行した。

その理由は岡山出身の画家故原田映爾の面影をたどる為である。岡山には変人奇人が多いという、ポジテイブな評判がある。百閒、夢二にあたしは映爾を加えても良いと思っている。

その原田さんが良く話していた、旭川の流れ、彼の網膜にはこの川がどう見えたのかを確認しておきたかった。

門田屋敷から大納言に向かう交差点の歩道橋の上に上がった。六月の蒸し暑い夕方である。すべてのカラーがモノトーン化している。

歩道橋の上の電線に一羽の鳩がいる。それだけのことなのでであるが、そのいぶし銀の色彩がいい。歩道橋から見たら、草木のひとむらが見える。その淡い暗い色彩がなにかに似ていると思った。

まだ東西ベルリンに壁のあった当時、壁を西ベルリン側から4X5カメラで撮影した。晩夏であった。咲き乱れる野の花の背景はコンクリートのグレーの壁である。その色相とコントラストが、秋草を描いた古代の屏風と似ていることが分かって、その不思議な共通点を面白いと思った。

こういう色彩はどういう次第でデジタルカメラで記録されるのかこれが不思議である。あたしのOM-Dはダイヤルは常にI AUTOモードにしたままであるからだ。

何時も綺麗な絵が撮れるデジカメも結構であるが、こういう詩情っぽい色彩は好きなのだ。

★OM-D EM1  14-42MM

2014年7月 5日 (土)

禁酒会館のライスカレー

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岡山は桃太郎通りをまっすぐに行って、城下(しろした)の角を曲がった所が禁酒会館である。

ここにバーがあったらどんなにいいであろうかというのは、福田和也さんとかあたしのような怪しからんやつの言いぐさである。

しかし、戦前のライカのシュミットの西洋館はつい二十年ほど前まで、日本橋の裏手にあった。桑原甲子雄先生はそのショーウインドウに輝く、ライカにクセノン高速レンズを見て感激したことを書いておられる。そこには真鍮の蛇腹の昇降機があった。これはオーチスなのである。バーは二階にあったが、あたしはわざわざ昇降機を利用した。

禁酒会館がアルコール禁止なのはやむを得ないが、この一階のカフェがなかなか良い。なかなか良いというのはそこに入り浸りというのとはかなり意味が異なる。

今回の岡山でも一度も訪問はしなかった。あたしの宿泊のホテルが隣なのである。その行き帰りに普通の速度で歩行しながら、カウンターに座っている人を瞬間に眺めてその奧にある中庭の反射がほのかに店内を明るくしていること、などを見るのが楽しみだ。

お店の売り上げには関係ないのであるが、これは有名カフェが文化財であることの機能の一部だと思う。

ここにはなかなかいかしたコーヒーカップがある。カレーライスもある。それが限定ですぐに売り切れてしまう。

これが前回訪問した五年前である。今回見たら、カレーライスは値下げなっていてコーヒーと一緒に頼んでもこの値段である。

これは入らねばと思ったが、あたしが朝早くホテルを出る時にはこのカフェは閉まっているし、ランチの後にシエスタの為にホテルに戻ってきた時には、こっちはおなかいっぱいである。

それで結局は訪問する機会がなかった。

設計図を見ると、その側面頭の上の方の窓の取り方は、シュタイナーのゲーテアヌムのファサードに似ている。時間軸から見ればまあそういうことかも知れない。

★ OM-D EM1  14-42MM

2014年7月 4日 (金)

広い路面が昭和の昔

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七月は大阪芸大と札幌の今井コレクション拝観があるので、多忙である。
欧州は普通に行っているので何も感じないが、国内の移動は慣れていないので緊張する。家人がそう指摘しているのだからそうなのであろう。
都営の一日乗車券で荷風ゆかりの市川の菅野から高円寺まで移動した。

展覧会を一日に何個廻ったというのを自慢する人がいるが、あれはナンセンスである。それはやめてお花に駆け寄ってクローズアップを撮った方が、自分の「芸術性」は向上する。
ただし九十歳の大先輩で写真展の数をこなす方々は大歓迎である。これは健康の為というよりもすでに千日廻峰と同じだから素晴らしい。

新宿西口から杉並車庫行のバスに乗った。杉並は謎の街区だ。路地裏を廻っていたらいきなり堀之内の葬祭場に出た。
あたしの母の葬儀も酷暑の時期であった。なにか人生に思いを致すにはそういう時期は合っていると思う。

青梅街道に出て、蚕糸研究所の向かいにクラシックな洋装店「パリー」を探す。これは完全に時間軸がずれている。
あたしのポラロイドSX70シリーズの中で「パリー洋装店」という色あせたプリントがある。この界隈に親しかったのは1981年頃であるが、その当時、つまり三十数年前の時間軸が現代に直結している。
どうも手に取れる画像というのは、時間を超えてしまうもののようである。だからパリー洋装店がそこらにまだ在りそうな気がする。いや実際にあるのだが、見えないのだ。

もうひとつ、この通りが昭和の昔のように見えたのは、その交通量の少なさにある。消失点まで車が見えないのは、あたしの記憶では生家のあった音羽通りの昭和二十年代の後半である。
広い路上で主要な交通機関が自転車であった時代だ。

なにか東京で貴重な体験をさせてもらった。
東京は面白い。

★GRD

2014年7月 3日 (木)

ミラーイメージ コンシエルジュエリのCAFE

Photo_3パリはシテとコンジエルジエリの間の角にカフェがある。

一般にそのカフェが高級かどうかとチエックするには、そこのギャルソンの服装で分かる。ということをパリに初めて行った四十年前にパリの専門家から教えられた。

チップは何㌫置くのが、仁義とか、支払すみのレシートは係りの人が破ってくれること、他のテーブルの係りを呼んでも来てくれないこと、など基本を教わった。

それでカフェの梯子も出来るようになった。頼むのはカフェではない。グラスの赤ワインである。これはフランス語ではなかなか発音が難しい。

戦前、パリに一年暮らした辻潤が赤ワインの頼みかたを「バンルージュでは通じない。バンオワジュと言えば通じる」と書いている。それを真似したら一発で通じた。それいらいバンオワジュを飲んでいる。

このカフェのトイレは良く使った。長い長い階段を地下に降りて行く。

メトロにはトイレはないので、必要でここのカフェを使ったのである。当時のトイレのチップは20サンチームだったかな。

カフェの前をゆっくり通過しつつ、OM-Dで連続で撮影する。無論、ファインダーなど見ていない。

デジタルカメラはそういうノーファインダー撮影には好適だ。あとでコマを選ぶのである。このショットの反射もなかなか多くの現実が写り込んでいる。

人間の感性ではたどりつけない超現実がそこにはある。

★OM-D EM1 12-40 PRO

2014年7月 2日 (水)

モローミュージアムに行く

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顔本の友人関係から、あたしがパリに行ったら、グスタフモローミュージアムに行ったらいいと勧められた。

あたしはルーブルにも仕事以外で行ったことないし、ロマン主義の絵画などは全く興味がないが、この歳になって、絵画の主義を標榜するほど頑なでもないから、出かけて行った。

その理由はモローミュージアムがあたしのホテルから徒歩圏にあったこともある。 行き方はちょっと複雑だ。知り合いの海外取材経験豊かなテレビ関係者がオフの時にこのミュージアムをさがしてついに発見できなかった故事もある。

これはテレビの仕事などでは地元のこーでいねーたーさんがそこまで案内してくれるので、方向音痴が形成される背景もある。

あたしは目的地をすぐに発見したが何か変だ。鼻にピアスを開けたイケメンがあたしに挨拶する。そこはアパレル屋さんであった。 ミュージアムはその隣。家を一軒間違えた。

エントランスは狭い。ドアを引いてください、と各国語で書いてある。中に日本語もあった。入場料5ユーロ払って暗い狭い階段を登ると広大な空間が広がる。 展示は如何にも「さかしま」の主人公が傾倒しそうなテーマである。もともと邸宅をモロー自身がそのままムゼに利用したので、当時の建物の内部構造がよくわかるのは良かった。

中学生の学外実習があってみんな真面目にノートをとっていた。

カメラをローアングルで撮影した。そばにいた見張りが顔色を変えてとんできた。

「ムッシュ!撮影禁止です! 」
というのは嘘で撮影は自由である。

ここらが文化の差だな。

OM-D EM1 12-40mm PRO

2014年7月 1日 (火)

菅野の荷風居を訪ねる

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アサヒカメラの連載の締め切りも過ぎているのに、思い立って、八幡は菅野の永井荷風の旧居を訪問した。

この三月に北京のあたしの定宿の禁煙旅館の界隈は、北京で最も古い地区で元時代の街並みが残っている。そこにある文人の旧居を訪ねたその記憶がいきなり回帰したようである。

北京のそういう有名人の旧居はあっちは実は欧州と同じであるから、永く残る。こっちは山頭火の草庵と同じだから、永く残ることはない。そういう草むした木造家屋がちゃんと残っているのでまず吃驚した。

あたしは荷風ファンではあるが、日記と随筆だけが好きで、いわゆる花柳界の小説は駄目である。
アラーキーさんがまでデビュー前というから大昔だが、新宿の喫茶店んで荷風の日記のことで話題沸騰した記憶もある。それで断腸亭日乗は全巻暗記したほどであったが、これにのめり込んではまずいなと思った。それで決心して四半世紀前に岩波の七巻本を捨てたのである。

晩年に荷風が通った大黒屋のカツ丼も四半世紀前に食ってみていかにも甘いのでそれでおしまいにした。
今回はその総集編というわけでもないが、資料をコピーした(アイパッドに入った)のを持参で旧居を訪ねた。

それで分かったのは、旧居の最初のは駅から北に10分ほどの場所で晩年はすぐ駅裏であったことだった。
晩年毎晩カツ丼を食べに来たのはまさに大黒屋の真裏にあたるのである。

その家は荷風の葬儀の写真であたしも見覚えがあった。ただしこれは養子の永光氏が後で平屋を二階建てに改造したものだ。

行き止まりの路地であることが気に入った。

二軒の旧居を見て、表敬訪問で四半世紀ぶりに大黒屋に入った。カツ丼の並を頼んだ。名物の荷風セットという、お銚子がついたのなどはちょっと恥ずかしくて注文できない。
そこに地元の長寿会の顔役と思える老紳士が二人来た。日常感覚で荷風セットを頼んでいる。

これが常連のただしい注文の仕方だなと感心した。

★OM-D EM1 14-42mm

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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