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ロック ユー

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2014年6月30日 (月)

パリの狭小住宅に憧れる

Paris_8狭小住宅というものがある。東京の住宅も狭いが、アムステルダムも狭い。パリも狭い。狭いのはなんとなく船のキャビンを想像させる。

アムステルダムなどは大男ばかりなのに、住宅スペースは狭い。

コルビュジエの集合受託も狭い。

パリジャンはオランダ人に比較されば小柄だから、狭いキャビンのような部屋はそれほど苦しくないかも知れない。パリは、「たゆたえども沈まず」の都市であるから、やはり彼らは船乗りなのであろう。

サクレクールの教会からモンマルトルの丘の裏手の階段を下って、メトロのシンプロンの方に下るとこの建物はある。下は店舗であろうか。

その二階の小部屋がなかなか良さそうである。 こういう部屋に住んでみたらなかなか快適であろうと思う。

いや、三年くらいで充分だ。

★OM-D EM1 12-40 PRO

2014年6月29日 (日)

ライカM2並みの性能、、キヤノンP

Pライカは六十年代には非常に高価だった。それで国産の各種のレジファインダーが頑張ることになった。

ニコンS3とキヤノンPはその双璧と言って良かった。

どちらもデモ撮影の専用機のような感覚があった。ライカは機動隊の放水を受けたら一財産が終わりであるが、国産のRFカメラなら大丈夫である。

それでデモの現場では国産カメラが活躍した。新聞社も当時はニコンやキヤノンのレンジファインダーを使っていたのは今昔の感がある。

まるで今のフィルムカメラを愛好する趣味人のような感じなのである。優雅な時代ではあった。

ニコンS3よりキヤノンPが優れていたのは、そのパララックス自動補正にあった。もっともスナップ撮影にはパララックスの自動矯正のないニコンS3で充分である。ウイリアムクラインはS3に28MMで東京を活写している。

「東京ニコン日記」の巻頭に「ニコンS」の油絵を掲載した。それを複写するのであたしはニコンS3に105ミリを使ったら見事に絵の端が切れていたので、ニコンFで再撮影した。こういうのは一眼レフでないとだめだ。

 キヤノンPはプアマンズライカM2とでも言える感じが好きだった。キヤノンPはあたしの父も購入を検討していたカメラであった。それほど価格が一般的になったのだ。しかし父はペンタックスAPの方に行ってしまった。それを持ち出して遠足などを撮影したのが、小学生のあたしであった。

2014年6月28日 (土)

ヨコハマの赤い車と赤いくつ

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スナップの極意は過ぎ去る瞬間の後ろ髪をつかまえることだ。とは有名写真家の言である。
理論的には正しいが実践はなかなか難しい。

今のデジタルカメラはかなり瞬間の後ろ髪を捕まることが出来るようになった。あたしの場合、高解像力とか再現性よりもこのスピード感覚が一番大事である。

現在のデジカメに期待されるのは、スイッチをオンにした時の立ち上がり時間の短縮だ。

日本カメラのオリンパスのタイアップ企画で半年間、欧州の都会のスナップを掲載した。そのラストがパリのメトロを撮影したもので、これは八月号の掲載になる。半年間機材はただ一つのOM-D EM1と12-40MM PROであった。デジタルカメラのレスポンスはほぼ理想の速度になったと思う。

一方であたしはフィルムライカでスナップをしている。

デジタルカメラとフィルムカメラは車の両輪のようなものだ。カメラマガジンの発売中の七月号にパリの特写のスナップを掲載している。

フィルムライカが良いのはデジカメのメーンスイッチがない点である。常に準備態勢である。デジカメの場合には、あっと思ってスイッチを入れるとその瞬間は終わっているのである。
フィルムカメラの場合には、常にスタンバイ状態にあるので、チャンスを逃す心配はない。撮り逃がしたらそれは写真家のフットワークの責任だ。

デジタルカメラでシャッターを半押しにした状態でスイッチが入るとかなりの進化になるであろうが、そういう製品はまだないようである。

これはヨコハマの昼さがりの撮影だ。眼前にいきなり赤い車が止まっているなと思ったら、次の瞬間にはその前を人影が瞬間に横切った。
身体が反応してシャッターが切れていた。
その場では果たして写しとめたかどうかも分からなかった。

ニューグランドの自室に戻る時に、今度は「あかいくつ」という名称のコミュバスの前を赤い服の少女が横切った。
ノーファインダーでシャッターが切れていた。121

★ライカMD-2 フェド28mm

2014年6月27日 (金)

子犬のユーロの旅

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欧州通貨のユーロが流通を開始したのは、2002年の一月である。もう十年以上だ。その前にフランクフルトをぶらついていた時にこれから流通する新紙幣の見本を見て変な気がした。まるで子供銀行の紙幣である。

新ユーロになってからリスボンに居た時に「遊び」をやった。新5ユーロは一番少額の紙幣である。この紙幣に描かれた欧州のウクライナからスペインの国境あたりまでをそのまた九十度時計回りにすると、子犬の姿になる。イベリア半島は「吹き出し」である。

手元の鉛筆で上のような(これはその当時の記憶を頼りにして合成した)子犬を描いてそれを自販機に入れた。つまり「子犬のユーロの旅」である。
あたしの原案では子犬のユーロは数多くの冒険をしつつ、ポルトガルから澳門の親戚を訪ねてそこで「犬族夜総会」に出席するのである。そして子犬のユーロは極東のナガサキに行くというアイデアであった。

この背景には当時、あたしはリスボンから澳門までは行っていたが、ナガサキはまだ知らなかった。
それでそんな馬鹿な話を考えたのであった。

2014年6月26日 (木)

門田屋敷の混疑土の四階建て

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あたしの岡山観光はお城とかお庭とかはすでに、卒業しているので、街中の無名の物件を見に行くのである。

岡電の門田屋敷のそばの交差点にコンクリートの4階建ての古ビルがある。五六年前にこの物件を発見して、その最上階に住むてだてはなかろうかと、真剣に考えた。

116 プ ラハのキュビズム建築でやはり住みたいのがあったが、そこは革命後に事務所になってしまった。それで残念なので「屋根裏プラハ」では、ちょっと創作をし てあたしは1968の夏にそのキュビズム建築に棲んでいる二十歳の労働者という設定にした。そういうフィクションは好まないのだが、事情あってのことで あった。

この混疑土(コンクリート)の建物の撮影アングルには以前から苦労している。建物の全景を撮影するには、標準レンズがいいけど、道の反対のその撮影位置には建物があった。

ライカM2のモーター付きにズミタールをつけて、歩道橋の上を行ったり来たりしたのが、六年前。

今回見たら、ベストな撮影アングルにあった建物は無くなった。しかしそこに立って見るとどう面白くない。

この建物側の位置のちょっと距離を置いた場所がベストアングルであることが分かった。

歩道橋の上からのショットはあまりに建物の構造が説明的で面白くない。

北井一夫さんのアシスタントでドイツ表現派の建築を巡礼したことがある。有名建築でも無名建築でもカメラアングルは難しい。

★OM-D EM1 14-42MM

 

2014年6月25日 (水)

お知らせ

1. チョートクカメラ塾第十八時限 は本日配信です。
テーマは
  パリ撮影四十年の秘密 その2

岡山の「凹面建築」

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岡山には気に入った近代建築が幾つかある。その一つがこの凹面鏡の建物である。

もともと、あたしのプラハのアトリエのそばのメトロの終点がこの建築様式である。凹面というよりももっと建物の曲率は高くて、バウムクーヘンを四等分してその真ん中にロータリーを入れたような平面図である。

シシリー島の中心部のクアトロクアンテイも同じ建築様式だ。ただしこっちは恐ろしく古い。

岡山の駅前から岡電で桃太郎通りを二つめのこの建築も以前は交差点の四方向でちゃんと凹面建築があったそうだ。今、残っているのはこのワンブロックのみだ。

こういう建物がいいのは、斜めから透かしてみた凹面の先に結像展があってそこになにか見えな映像が存在しるように思われる点だ。

しかも本物の凹面建築は煉瓦とか石で出来ているが、こちらはなんとなくモルタル臭い。そこがまた魅力である。

★OM-D EM1  14-42MM

2014年6月24日 (火)

偽ナガサキとしてのヨコハマ

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ヨコハマに関してはまったく知識がない。

同じ港町なら、リスボンはよく知っている。澳門もよく知っている。その先のナガサキにずっと行きたかったのは、東松照明さんが名作を撮影したこと。それとオランダ坂というがオランダには坂はない。あれはリスボンを間違って命名したのであろう。

リスボンに行って、澳門に行って、その先のナガサキにくるのに十年かかった。ナガサキは山の奥に海が切り込んでいる街でやたらに高度差がある。

住宅地の坂を登って行くと、車道は途切れてその先は天に届くかと思える急な階段だ。車が入ってこないような坂道はイスタンブールにもあった。そういう場所に住んでいる人のことを思うとなんとなく、そこに雅さを感じル。たとえば細い坂道の奧の家で葬儀があり、棺は数人の男性に運ばれて通りに止まっている霊柩車まで運ばれる。これは人生の最大のドラマではないか。

ヨコハマは氷川丸には1年近くかよって千頁の写真集を出したが、それ以外の地域はあたしにとっての「暗黒大陸」であった。

これは探検が必要と思って、この春にニューグランドを前線基地にして探検をしようと思ったら、六月からニューグランドは長い期間で旧館の改装をするそうだ。あたしは新館のタワーに泊まるほどの柔軟性はないので、あたしのヨコハマ計画は頓挫したのである。

ヨコハマの奥地の急な階段のその奧をあえぎつつ歩いていると、周囲の風景がリスボンになったり澳門になったり、さらにナガサキになったりする。

この何処にいるのか分からない感覚が、国際都市の由来であろう。

澳門を見ていると良く理解できるが、あれは極東に進出したポルトガル人が望郷の念で、植民地を故郷に似せてテーマパーク化した人口都市なのである。

★ライカMD2  フェド28MM

2014年6月23日 (月)

カメラマガジン7月号で使用したM3ですが

114カメラマガジン7月号はライカの特集である。

ライカ社は1925年が最初のライカが販売された年だから、百年記念は2025年と思っていたら、市販していないライカ0型の1914年から起算して今年を百年とした。こういう前倒しはどこのメーカーさんでも都合でやるのは仕方ない。

ところでカメラマガジンの特写でパリに行って、古いライカM3で撮影してきた。

これが実はかなりのライカである。何時からうちにあるのか分からない。まずファインダーの距離計は良く見えない。シャッターは千分の一が駄目。グッタペルカは剥がれている。

こういう状況のライカだから、市場価値はゼロに近いが、実用では問題なしなのでこのライカでパリの五月を撮影した。

広角レンズだから目測で、メーター持っていないから人間メーターを使った。未現像のフィルムをそのまま編集部に渡したので果たして写っているのかどうかも分からなかった。

見本誌が届いて、ちゃんと写っているのでやはりライカは凄いなと思った。

2014年6月22日 (日)

佃島計画メーンレンズ

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佃島計画とは、目下撮影中の広告業務である。
佃島はマンハッタンに似ている。
南は月島であるが、歴史的な視点から見れば、佃島が本家である。
月島は明治の埋め立てであるから、勘定には入れない。佃島は海水館までだ。

二十年前に月島図書館の企画で界隈を撮影した。
その時には月島が入っていたが、今回の計画は佃島のみである。だから新月陸橋から南には行かない。ここは見えない国境なのである。

プロ写真家の仕事を何十年もやっているので、クライアントさんのイメージを理解してそれに見合う写真を撮るのは当然であるが、今回、面白かったのは日頃、いや、この四半世紀の間に漫然と見ていた佃は、あれは何も見ていないのと同じことであったと今にして分かった。

あたしはコンポラ写真の老兵であるので、常にスナップ写真は横位置でどっかの舞台のように見える写真をずっと撮影してきた。
七月号のカメラマガジンに掲載の「パリの五月」もそうである。これは全部広角レンズで撮影している。

今回の佃島撮影計画では路地の奥行きとか、そこにある事物をストレートに表現したいので、望遠系ズームだけを持参した。これはあたしの写真術では極めて異例なことである。

実際、撮影結果を見るとなかなか不思議なそして魅力的な環境に四半世紀も住んでいることが判明して面白い。
この40-150ミリレンズは数年前に発表会に行った時に開発者さんが「運動会で我が子をさらにクローズアップできます」と言ってた。
あたしは望遠レンズはクローズアップではなく、空間の奥行きとか空気感を表現するのに使っている。
これは良いレンズだ。113

★OM-D EM1 40-150mm

2014年6月21日 (土)

岡山のパブな鮮魚店

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岡山の奉還町は長いアーケードである。

そのアーケードの屋根がなくなって、空が開けてから一旦道を横切ってその先はなかなかなか鄙びた商店街である。左側に普通の鮮魚店がある。普通のというのは変な形容であるが、その様子が突出していない。

その先のもう一本道に出くわしたその左手に岡山の出身で現代美術家の梶浦徳雄さんの個展を見に行ったら会期が一日違いで他の展覧会にかけ変わっていた。これが五年前のことだ。
その時にはこの魚屋で一キロの牡蠣を買ってホテルで食べた。なんとかいう地酒とよくあった。こういうのは旅の記憶に永く残る。
その記憶があるので今回もその店に立ち寄った。先客は常連の女性で自転車で乗り付けてお店で椅子を出してもらってゆっくりしている。

パブというのはそこに何十年住んでいる人も、たまたま一生に一度だけくる人も等しくサービスを享受できるパブリックなものであるが、その伝でゆけば、ここはパブな魚屋である。

だんだんとお客さんが増えて焼きたての穴子のことで話題が盛り上がっている。

あたしは魚河岸の人間ではないが魚はよく観察している。眼前の烏賊が良さそうなので二杯買って刺身にしてもらった。
これを東京に飛行機で持ち帰って夕餉に一杯やったらうまかった。

★OM-D EM1 14-42MM

2014年6月20日 (金)

古京の こって牛

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古京、ふるぎょう、というのは岡山市の旭川の左岸の地名である。

内田百閒の実家の造り酒屋はここにあった。今は住宅地であって、郵便局の前にこって牛の小さい銅像がある。こって牛とは岡山の戸倉元が教えてくれた名前である。

内田百閒は幼年の時にこって牛を飼ってもらったそうだ。残念ながらあまりに小さかったのででその記憶はないが、牛小屋のようなものがあって、そこから牛の声がしたと書いている。

こって牛をあたしに教えてくれた戸倉はこって牛について教えてくれたのではない。ウイーンと岡山でクラシックカメラの往復書簡をやっていた当時にナンバーゼログラフレックスはその格好がこって牛のきんたまに似ているという一節ががあった。だからこって牛の全体は知らない。

東京は白山下に飲み屋で、屋号がこって牛というのがあってその前を通るたびに気になっていた。ここは内田百閒が早稲田の砂利場から金策のために千石方面に歩いている時の道なのである。

内田百閒とあたしの世界線は東都の白山と岡山の古京で繋がっているわけだ。

こって牛の記念像の斜め向かいが玉扇といううどん屋でここのご主人は内田百閒の生家の造り酒屋の事を記憶しておられた。そこでうどんをすすりつつ、コップ酒を飲んだのが五年前の晩秋であった。
今回もそのつもりで来たらお店は午後三時までの営業になっていた

★OM-D EM1 14-42MM

 

2014年6月19日 (木)

赤いロゴのゾルキ

Photo_12ソ連製のらいか、フェドは1932年から生産されているが、ゾルキーの方は戦後からである。

第二次大戦直後に生産された最初のゾルキーはフェドゾルキーという「ダブルネーム」である。

これは別に旧ライカタイプのフェドと変わらないが、好事家の欲望の対象になっている。それをモスクワのイズマイルスカヤパークの蚤の市に二月の寒い時期に探しに行った。

そこではあたしにKGBのスパイ映画撮影機を売ろうとする不思議な青年が登場した。あたしをミスターたなかと呼ぶのである。あたしはカバンに名札をつけているわけはないので、あたしのホテルの居所を知っているのだ。ま秘密警察なら当然か。

その話は拙著「ロシアカメラがむせぶ夜は」に書いてある。

フェドゾルキーの方は露天の普通の業者さんから買った。100ドルだった。向こうは思い切り吹っかけたつもりであろうが、こっちは西側帝国主義者なので怖くもない。

そのゾルキーは改良に改良を重ねて、これはゾルキー6型なのである。ライカもM6があるからかなりの進化モデルである。

このゾルキー6にはモデルが二つある。これはそのレアな方であって、まずロゴが革命精神の赤である。

それとレンジファインダーの窓は円くなくて、四角だ。そういう細かいことは撮影には何の関係もないのであるが、やはりこちらのモデルがかっこいい。

ゾナーの135のコピーレンズはプラハのシュコダで買った。値段が400コルナだから二千円だ。

2014年6月18日 (水)

長徳固執堂十年

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岡山の十文銭銀水から、長徳固執堂の構想(とは大げさだが)を持ちかけられたのは十数年前であった。

その相談を兼ねて、尾道に行った。理由は坂崎幸之助さんがこの界隈の中古カメラ屋を総統しているというのである。カメラ屋さんは発見できなかったが、海峡が見える見晴らしの良い公園で、銀水と話をした。

フジフィルムのモノクロフィルムの広告の撮影でここに来たのだから、今昔の感ありだ。

固執堂は地方にある、なんとか秘宝館みたいな造りにしようということになった。佃から20キロの荷物50個送ったからそれでけで1噸なるな。

長徳固執堂は非公開である。

落成直後にタカザワケンジさんの肝いりで、日本カメラの付録になったこともある。

好事家さんが間違って来所するとまずいので表紙は攪乱作戦でずっと離れた瀬戸内の街を使ったりした。

固執堂のことはあたし自身もすっかり忘れていた。

五年ぶりに査察に来たのである。1960年代のモノクロネガを預けてあるのでそれを佃煮ヒルズに送ってもらう為の段取りで今回、固執堂に5年ぶりに行った。

あたしの揮毫した看板も床板もそれなりに古色を帯びて良い感じであった。

★OM-D EM1 14-42MM

2014年6月17日 (火)

決闘写真論岡山

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決闘写真論というのは七十年代の篠山さんと中平さんの対談本であった。山の上ホテルで開催された。あたしの

ライカマイライフ所載の「決闘ライカ論」は沢木耕太郎さんとやはり山の上ホテルであった。なにやらクラシックでいい。

今にして見ると七十年代当時は「写真家は政治的なそぶりをするのがモダンである」という社会の前提があってその舞台の上でのレスリングであったことが理解できて面白い。

あまり売れなかったのであろうか、古書店では結構な値段がついている。

岡山駅の西口から、あたしの好きな奉還町に行くのに、方向をロストして、マップの御世話になった。裏通りをいい加減にまがっていたら奉還町のアーケードが見えてきた。

その手前にある、「写真」という看板に惹かれたのである。この写真という二文字は日本のそこここで大周遊の時に見ているが、この実例はそのサイズと色とそれに展示してある場所が絶妙の効果を上げていて、しばらく佇んでそぞろ写真について思いを巡らした。

まあ、周囲から見れば単にじじいが道に迷っているだけにしか見えないであろうが、あたしの内部に流れるのはかなりの量の思考であった。

こういう場合には小型軽量な常用ズームというのは便利である。一箇所に立っただけで数カット撮影した。

さらに看板に接近して下から眺めた。写真という文字は変形しているのを斜めから透かして見ること。

これは写真とか写真論ではなく、写真評論になることに気がついた。

思えば、写真評論はスーザンゾンタク以降はまるで月面のような状態である。

★OM-D EM1 14-42MM

2014年6月16日 (月)

ウエッツラー製のleica

Photo_13ライカの本社がウエッツラーに遷都したらしい。

ライカ帝国の臣民としてはこれは奉賛すべきことだ。

ソルムスに初めて行った時には、場所は不明なので黄土色フォルクスワーゲンの郵便配達さんに道を教えてもらった。

にわか造りのもと家具工場への道の道標「オスカーバルナック通り」というのもなにかまっさらな新品で変であった。

ソルムス市内にライカ社への行き方を示す大きな看板の出来たのはその数年後であった。

ウエッツラーには各種の光学メーカーがあった。これはライドルフ製のロードマットである。レンズ交換式のレンズシャッターレンジファインダーカメラで一時はアメリカでかなり売れた。

先月の日本カメラ博物館でのあたしの講演会「田中長徳らいかを語る」でもお話した。

こういうカメラをらいかとひらがなで書くのだが、我が、偽ライカ同盟には日本語の理解しない外国人もいるので、とりきめで英文の小文字にした。本家のライカは英文の大文字で区別している。

ロードマットには各種のモデルがあるが、この時期のが一番良く出来ている。レンジファインダーの他にユニバーサルファインダーと非連動のセレンメーターが付いている。アローカメラ我楽多屋さんの二代目がこのカメラを愛玩している。そういうハイレベルなフィルムカメラである。

感心するのは、クロームメッキの仕上げがいいことだ。それは一時のライカよりも良いほどなのである。

シャッターは普及モデルのプロンターであるが実用にはなんら問題なし。

ボデイレリーズではなく、シャッターのリムから出たレバーをそのまま押すというクラシックスタイルである。それすらなにか哲学的である。コンパーライカに対して、これはプロンターらいかである。

要するに、仕上げの良いカメラはそこらを手抜きして、も、好意的に印象つけられるわけだ。

レンズはウルムのアルベルトシャハトのOEMであろう。これらも良いレンズブランドである。

2014年6月15日 (日)

銀水さんとあたし

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戸倉元さん(十文銭銀水)に最初に会ったのは1969頃であった。

大泉学園の駅前で上下がジーンズの長髪青年が声をかけてきたのである。

あたしは今の家人と大泉学園の一戸建ての借家に「同棲のようなこと」をしていたのである。

戸倉さんは日大写真学科の一年下であった。ニコンS2のクロームを斜めがけしていて、キャパみたいであった。

大泉の奧の立派な邸宅の離れにそういう学生さんが下宿していた。他には高松出身の木村純一さんがいる。

あたしと戸倉さんはカメラの趣味があうので、オリンパスワイドとかマスミーキンなどを話題にしているうちに卒業となり、あたしは三年の日本デザインセンターの勤務の後にウイーンに7年半行っていた。その間にカメラに関する膨大な書簡のやりとりがあった。それは今でも保管されている。

実際に戸倉さんに再会したのは、あたしが欧州を巡回した現代日本写真家展の準備で来日した時岡山で会った。あたしは29歳になっていた。

倉敷に行って、アイビースクエアで写真をとってもらった。当時のあたしはライカM2にスーパーアングロンであった。今回はOMDである。

戸倉さんも彼のスタジオを継いでいるジュニアもオリンパスユーザーである。

これは倉敷の29歳に撮影したポイントでとってもらった。

実に三十八年経過しているわけだ。人間って年取ると過去が俯瞰できてなかなか面白い。

★OM-D EM1 14-42mm

2014年6月14日 (土)

花に駆け寄る人

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2_3赤羽方面に山門不幸の高札のある大きなお寺の角を曲がるとその先は急な坂で、三叉路になっている。
その狭い空間に橘が満開で空間を圧縮しているのがいい。

雨の中をアングルを変えつつ数カット撮影した。その時に想いだしたのは、「花にかけよる人」のことだ。
その悪い作例として撮影したのが下の画像である。

何の考えもなく、「お花の美しさを一人でも多く皆さんに知ってもらおうと思って、、」というのはタレントさんの決まり文句だが、このコメントは幼稚かつ傲慢である。

花を撮影した写真家にはロバートフランク、フリードランダー、メイプルソープ、石元泰博など多くが存在するが、彼らはそういうことは言わない。彼らは花を哲学しているのだ。
路上でいきなりお花に駆け寄って接写をする人には注意が必要だ。

★OM-D EM1

2014年6月13日 (金)

西が丘の「奥様カフェ」

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それが一体、何と呼ばれるのかそれが分からないものって案外にある。

例えば、関西で自転車おばさんが付けている、傘を固定する道具だがあれを検索するので一体なんと言う物なにか混乱した。

奥様カフェというのは、あたしが勝手に命名したのであって、これで検索するとデリヘルにヒットしてしまう。

あたしの意味する奥様カフェとは、個人の家で奥さんがひとりで趣味の領域でやっている小さいカフェのことである。

10年来そういうカフェを探して、というよりも東京大周遊をしている間にそういう普通のおうちがカフェになっているお店を東京で何件か発見した。

その最大の規模のは、雑司ヶ谷宣教師館の脇にあった家でここはなにか親戚の家に来た感じである。靴を脱いであがって、カレーを食べてコーヒーを飲んできた。

荒川区とか文京区の奧の方にもあって、この二軒は小さい家なのでしかも路地にあるのでこっちの方が入店はしにくい。

東中のの桃園緑道にもあった。こういうお店というか、家は奥様が拘束性が高いので大変であろうと思う。家から外に出ることは出来ない。お客はあたしのような気まぐれだから、いつ来るか分からない。

北区の西ヶ原には立派な桜並木がある。その角にこういう奥様カフェを発見した。建物はなにかフランス風であるが、本物のフランスの家では構造上こういう広いバルコニーは作れないであろう。

だからこの建物の存在感はテーマパークめいている。それはそれで良い。

看板を見たら土曜日のみ営業とある。これは贅沢である。その日は金曜なので入店はしなかった。

ネットで調べたら、ぐるなびなどではヒットしないで、ローカルはブログで一件だけヒットした。それも2008年の記事なのである。当時は土曜のみ営業というのではなくもっと営業していたようである。

十条の商店街を北に歩行して、赤羽に到着するまで、いあゆるカフェはこれ一軒である。

今度、土曜に行ってみようと思う。

★OM-D EM1 17MM

2014年6月12日 (木)

山門不幸

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街歩きをしていると、こういう看板をたまに見かける。お寺さんのトップの亡くなったということを告げる高札である。

あたしは東京大周遊者であるから、こういう「山門不幸」に遭遇する確立は一般散歩者よりも高い。

この看板を見ての印象は複雑なものだ。

最初に「医者の不養生」とか「紺屋の白袴」という言葉が浮かんで、いや、そういうことを問題にしているのではないのだと、それを否定する。

それから「死を思え」というフレーズが浮かぶがこれもちょっと異なる。

分析して見るに、これは仏教の意味する解脱であるから、本来は喜ぶべきことなのだけど、山門まではお寺の結界の外部、すなわち、俗世界であるから、そこでは不幸という俗人の感覚が通用するのであろう。

山門不幸とは、門内幸福の裏返しなのではあるまいか。

翻訳すれば「和尚万歳極楽行」ということかも知れない。

などとどうでも良いことを考えつつ、お寺の敷地の脇の急坂を登った。

OM-D EM1 17MM

2014年6月11日 (水)

共食いキャラの新時代

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食堂の看板でぶたさんがとんかつを調理していたりするのが、いわゆる共食いキャラである。これは東京の昭和三十年代を感じさせる存在でこれを商店街で探すのが楽しみだ。

赤羽のアーケードに久しぶりに行ったら新店舗があった。そこの看板がこれである。正確には共食いキャラでないけどこれはお洒落である。

なにか赤羽がいきなり、パリの街のアーケードに変身した感じがして、それはそれで面白い。

このアーケードは天王寺駅前か、カイロのキャラバンサライのような場所なのだ。

★ OM-D EM1  17MM

2014年6月10日 (火)

どくだみ自転車

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東十条から徒歩、十条に抜けてそこから北方向の山坂を超えて、赤羽まで歩行するのは常習経路である。

カメラは広角レンズのついたOM-D EM1一台のみ。

商店街の55ステーションに現像を出して、そのままランチを済ませて上がったフィルムをピックアップしてから北に向け、歩行を開始する。

この界隈は高度差があるので、なにかリスボンに居るような気分になるのがいい。

横浜の山坂と同じという言い方もあるけど、其れでは夢がない。商店街を抜けた先には迷路が連なっている。

いきなり桜の古木があったりしてその角の家に「おかめとうふ」の看板がある。そこを曲がらないで路地を入ってゆくと自転車がどくだみに飾られているコーナーがある。

自然のこういう装飾は人知の超えるところである。

ちょっと安っぽいところがあるがそれはエンタメなのであるから仕方ない。

どくだみは幼年時代に音羽の家で親しい植物であった。すごい繁殖力であって、この赤羽界隈にはまるで造園したかのようなどくだみの草原がある。

不思議なことである。

カメラのレンズは久しぶりにプライムを使った。ライカで言うところの35mm相当である。ズームでないとなにか視神経が生理に接近したような気がする。

★OM-D EM1 17mm

2014年6月 9日 (月)

ご近所の不思議

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パリから戻って、やはりつくづく不思議に思うのは、近所を歩く時感じる、あの不思議さである。

部屋からは年中隅田川とスカイツリーが見えているが、あたしのいつもすることは、隅田川の河面になるべく接近して、その表面を観察することだ。

隅田川もセーヌ河も単なる地理学上の観念であるのに対して、接近して観察する隅田川は真正の隅田川である。

どこまでが隅田川でどこからが隅田川の水であるかは、意見の分かれるところであろうが、隅田川の水が積分されて概念としての隅田川になっているのは確かだ。セーヌも然り。

パリのセーヌに比べると隅田川の方が川沿いのベンチはしっかりしている。

そこに座って河面を見ていると、観察している本人が河上に移動しているような錯覚になるのが好きである。ちょうど電車に座って流れる車窓を見ている感じだ。

四半世紀通っている、石川島造船所から「民地」に移動する小路も好きである。

かつては、小学校の脇のケージにぼけこっこーさまがおられたのでその鳴き声が四辺に鳴り響いていた。フランスのシンボルとここらも共通点がある。

その通学路を行き来る子供連があまりにしっかりしているので、あたしなどよりずっと大人に感じる。

このシリーズは古いミノルタスーパーaに35mmの広角レンズで撮影した。

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2014年6月 8日 (日)

玉電のレールの草がいい

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大昔は玉電と呼んでいた。丸っこい緑色の電車で、これが渋谷から三茶に向かうあの通りの混雑は凄かった。 今では世田谷線と言うらしい。

実は世田谷線と江ノ電はあたしの嫌いな路線である。その理由はいかにも安易に撮影会とかドラマのシーンに利用されるからだ。 例えば、月島というとすぐにもんじゃという人類をあたしは信用できない。あまりにオーデイネアであるからだ。

今回、世田谷線を全線踏破(一日券が350円)して、その年寄りの頑固な思い込みが少しは緩和されたのは良かった。

これは宮ノ下駅だと思うのだが、レールの周辺に草が生えているので、見直したぞ!世田谷線という高評価になったのである。

これだけでは何のことかわからないと思うので、補足する。 プラハの市電は美しい街に機能的に配置された素晴らしい交通機関である。しかも深夜も動いている。町の西北ハラチャンスカの駅の市電のレールの周囲は緑の草で埋められている。これは一種の環境芸術なのであって、普通のプラハの市電のレールは石畳かアスファルトであるから、そういう無機質な車窓がここに来ると緑の若草で車内に青い陰が射し込む。 この瞬間が好きだ。

世田谷線のこの駅の草も同じ理由であって一種の優しさなのであるが、唯一異なるのはプラハのはそこに人の意思が働いているのに対して世田谷線のそれは無辜の結果で在るということだ。

だからあたしは自然発生的な世田谷線の草原の方が格が上だと思う。

ところでこれは小型軽量な常用ズームの撮影である。仕事にはプロレンズシリーズ、ブラぱちには小型ズームで撮る。最近出た世界最小の常用ズームも良さそうだな。 P4280023

★OM-D EM1. 14-42mm

2014年6月 7日 (土)

川越まるひろのルナパーク

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蒲田駅前のデパートの屋上観覧車に乗ったのは十数年前だ。その前は日本では淺草松屋のデパートの屋上の観覧車に乗った。

外国ではウイーンのリーゼンラード(大観覧車)で、これは第三の男で有名になったが、映画そのものが大昔であるから、もう忘れ去られている。

巨大なルナパークは好きではないが、移動遊園地は好きだ。なにかニュージャーマンシネマに出てきそうだから。

イスタンブール経由で欧州に良く行っていた当時は、ブルーモスクの向かいの隣は最高裁という変なロケーションの典型的なトルコの宿屋の31号室に宿泊した。

ベルリンから東京に戻るのでこのホテルアルザーに宿泊した。いきなり目の前の公園が移動遊園地になっていて、家族連れで賑わっていた。トルコはラマダンなのである。

あたしの部屋はその全部を見晴らす位置にある。背景はライトアップされたブルーモスクでその先には夜の航跡の灯りが行き交うマルマラ海である。

ルナパークの中心には可愛い観覧車があった。それには乗らなかったが、あたしはその玩具のような観覧車をみつつ、部屋でトルコ麦酒を呑んだのである。

先週の誕生日に十数年ぶりに川越に行った。あたしの両親はなぜか川越で日中に倒れてそのまま昇天している。だからあたしにとって川越は鎮魂の地でもある。ベニスに死すではないけど、川越に死すというのは、彼岸に行く意味で悪くはない。しかも墓地は越生なのだ。これは転生の意味を含んでいる。

まるひろ百貨店の屋上の観覧車に乗りたいと思った動機は分からない。ただ上のようなポスターを視て、むらむらと乗りたくなった。

係りの女子に聞くと、週末は例外であるという。しかしその土曜の週末が月の最終日なので、特別に乗せてもらえることになった。

ジャンボのオブザベーションデッキに搭乗した以来の嬉しささである。

眺めは良かった。

これは亡き両親に少しは接近できた気分である。

★OM-D EM1 14-42mm

2014年6月 6日 (金)

パリの市場の魚屋さん

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パリのホテルだが若い当時は左岸のカルチエラタン辺りであった。バブル景気の頃は中央の五つ星なども使ったがこれは自費ではないので、ありがたみがない。 齢五十を超えてから一気にピガール界隈に宿泊するようになって、パリの面白さがわかるようになった。 とは言ってもレッドランタンには興味がないのでもっぱら界隈の観察である。 あたしの定宿はホテルシャノアであった。当時は安ホテルで北欧の修学旅行生が夜な夜な枕投げをするようなホテルであったが、この数年はいわゆるブテイックホテルになって宿代にゼロを一つ加えたので使わなくなった。 その後の十年余は主に北駅と東駅の間のホテルを周回している。その理由はマゼンダアヴェニューに大きな市場があって馴染みの魚屋があるからだ。 単にマグロや鯛のブロックを買ってきて、刺身にして食うだけなのだが、そこそこ飲める百フラン(これを七ユーロ五十セントと書くと気分が出ない)ほどのワインで飲るとなかなかいける。 その市場で買う店は二軒ほどであるが、品物をちゃんと見て買うのに、例のプラスチックの容器に入っていないのはいい。必要な分量だけ買うのである。 その日は、エビの茹でたのを買おうと思っていたら、店のお兄ちゃんがサシミ、サシミと呼ばわるので、そういう選択肢のあったことを思い出した。それでマグロと鯛の小さなサクを買って酒の肴にしたら量は3回分たっぷりあって、マグロはマグロの旨味があり、鯛は鯛の香りがした。実に贅沢である。 マグロはイタリアでも買うことがあるがキロあたりの値段はパリが一番安い。 その魚屋さんの一部がオイスターバーになっていることに気がついた。すでに牡蠣は出ているがシーズンにこういう気楽なところでの牡蠣はうまいであろう。 レストランで供される果物籠みたいのに盛られた牡蠣はどうも苦手だ。 観察するに小瓶の醤油もある。サシミ、サシミと呼び込むくらいであるから、今度はここでサシミを造ってもらおう。 OM-D EM1. フィッシュアイレンズ

2014年6月 5日 (木)

旅カメラのバランス

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欧州に行ったり来たりして、あるいは北京を往復して仕事をしているわけである。
今は欧州から東に一万キロ離れた、北大平洋に面した巨大な島国の真ん中にこうしているわけである。

移動の手段は楽になった。ただし時差は苦手である。
二十年前に買ったバックパックにMacBookとOM-Dを入れて移動するのは「ほとんど機材を持っていない」という感じで有り難い。

昨年の1月にプラハに行った時には、移動中になにか荷物が軽いなと思って、現地に到着したらMacBookAirを極東に忘れてきた。
以来、注意している。

OM-D EM1は忘れることはないが、バックアップとしてもう一台、ペンデジタルがラゲッジの中に入っている。しかしOM-Dが故障したことないから、これは一種保険なのである。

マイクロ43はオリンパスが草分けであった。有り難いのはやはりあたしのような移動を継続する「旅人」には移動が負担にならないこと。それに画質は十二分であることだ。

OM-D EM1はあたしの記憶できる視神経である。

日本カメラのタイアップ記事の七月号では今回のパリへの旅が掲載される。場所はモンマルトルである。

あまりにもポピュラーな場所なので、果たして撮影が出来るか心配だったが、想像を超えるショットが撮れた。

だから旅は止められない。

2014年6月 4日 (水)

武藏屋と浜出屋

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高校生時代の都電通学で車窓から見えたのは志村坂上の手前の左側が瓦葺きの平屋の飲み屋の浜出屋で右側は武藏屋であった。

大人になったらここに来てやろうと思って、大人になってからずっとウイーンに暮らしていたので、その機会を逸していた。
浜出屋さんの方は木造の最後の時期に訪問することができた。その直後にここはマンションになって、そのままの店の造りで再開店した。これが平成元年であるからすでに四半世紀が経過している。当時、大京のカレンダーの仕事をした。平成元年のそれが新しいお店にさがっていた。これは世界の集合住宅というのであっちこっち撮影したのである。

浜出屋さんの道の向かいには、武藏屋さんがあって、これは入り口の細い奥行きの深い店であった。
一度だけ入ったことがある。おでんが異常に塩からかったのが記憶に残っている。
このお店の隣は教会というのはファサードの妙である。
狭い空間を分け合っているのが良い感じだ。

★OM-D EM1 12mm

2014年6月 3日 (火)

青い看板と碧い空

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欧州の街歩きではそうは行かないけど、亜細亜の街歩きであたしの無意識に期待している光景が二点ある。

ひとつは電信柱の構成する電線のアートであり、二つ目は街中のローカルなカフェの珈琲カップの看板である。

これはチエーン店ではだめであって個人経営のお店がいい。こういうクラシックなちょっと厚いカップがいい。その原点はあたしの場合、ウオーカーエバンスの戦前の撮影したローカルなカフェテリアの招碑である。

これがあたしの理想の珈琲カップである。

二子多摩川にも遊園地があって、そこの遊具のコーヒーカップを撮影に行ったこともある。1985年当時だった。8x10カメラでレンズはコマーシャルエクター14インチ。

一方で一番嫌いな珈琲カップと言えば、よく安い画像の貸し出しとか無料の画像サイトにある、薄手の曖昧な文様のついた小さめのカップにうすい珈琲が入って、その脇にフィナンシャルタイムスと型遅れのウインドウマシンの写っているショットだ。これは大嫌い。

この珈琲カップのサインは下高井戸と明大前あたりを徘徊した時に出会った。その背景色がブルーなので、これは何の暗示であろうと思いつつ、京王線を北に渡って西の方向に歩行を始めたら、青空をキャンバスにした電線模様に遭遇したのである。

街歩きの面白さ、不思議さは神様がこういう風にカードを次々とあたしの前に繰り出してくれることだ。

それを単にあたしは撮影するのみ。

★OM-D EM1  14-42mm

2014年6月 2日 (月)

川越新富町のLAYLA1948というカメラ屋さん

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誕生日大周遊で五月三十一日の日に川越に行った。

あたしの両親はいずれも川越で倒れてそのまま昇天している。母側の祖父は江古田駅で倒れてそのまま亡くなった。
ようするに路上で客死というわけで、なかなかにドラマチックな人生の終幕だ。
川越はその意味で忘れられないのだが、逆にトラウマになっている。川越には十年ぶりである。

川越の新富町は関東第屈指の繁華街であるが、十数年前にその通りに面した農家に烏貝のでっかいのが居て、川越に行ってその烏貝に挨拶をするのが楽しみであった。
そこは今回見に行ったら、なにか古民家造りの文化センターみたいな立派な建物になっていた。

知り合いの烏貝には逢えなかったのは残念。

その近所のベンチで休憩していたら、アローカメラのシドニーの常連の紳士に偶然あった。
二年前の秋であったか、偽ライカ愛好会の撮影会で東京駅のドームを撮影して、三越の本店前にわれわれがたむろしていた。パレードで馬追の実演があるのだ。
そこに仕立ての良いスーツの三越のバッチをつけた紳士が登場して、いろいろ教えてくれた。
この紳士が定年後にどこかでクラシックカメラのお店を開店したということは聞いていたが、それが川越の原宿なのである。

こういう筋書きは台本作家さんでもなかなか書けないと思う。

お店を拝見したら、あたし好みの品物がおおい。
手にいれたのは、ロングロールカメラである。マミヤの二眼レフを改造して200尺のフィルムが入るようになっている。ロングロールカメラというのはフィルムの証明写真時代に多量のショットの為に各社で造られた。業務用なので非常に効果であったが、これはアメリカのどこかのバックヤードで生産されたカスタム品である。プアマンズロングロールカメラというのが気に入った。
すばらしいケースもついている。これを安価にお買い上げ。翌日には立派に梱包された商品が到着した。
つまり出身が三越の部長さんというのは、信用の金看板なのである。

ところでこのお店は カメラ アンド サウンドというのである。エリッククラプトンはあたしでも知ってるがその配偶者の名前と、お店のオーナーの生まれ年1948でこの店名が決まったそうだ。
ライラと言えば、ライカと一字違いであるのがいい。

そう言えば、あたしの千頁の写真集チョートク海を行く」で取材した巨大コンテナーもその船名はライラであった。

LAYLA 1948  川越市新富町1-8-2 tel 049-277-3411

★OM-D EM1 14-42mm

読者さまからレイラであるとご指摘を受けました。どうもありがとうございます。

2014年6月 1日 (日)

豪徳寺 おじかの氷あずき

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日本にウイーンから戻ってきた直後には豪徳寺の島尾さんの西洋館によく遊びに行った。その時の写真は東京ニコン日記に掲載されている。

当時の島尾さんはトプコンREスーパーの達人であった。カメラを構えてポーズしている写真はまだ三十代なのである。三十年前だから当たり前だが。

まだまほちゃんが幼児の頃だから大昔だ。数年前にペンの本の二冊目を出した時に、まほさんと対談した。彼女はすでに売れっ子の有名人になっていた。父と母がよろしく申しておりました、などと言える大人になったので感心した。まあ三十年が経過しているのである。

その三十年前に島尾さんが駅前に真冬でも氷を出しているお店がある」と聞いた。その名前をおじかというのである。牡鹿かどうかは分からない。

豪徳寺の北口でお店は急な階段を降りたその先にあった。三十年が経過したので新しいお店になっている。代替わりがしたのも当然だ。そこで氷小豆を頼んでママと話をした。

豪徳寺放送のうぐいす嬢の話になった。建物は以前と入り口が代わりましたね、とあたしが言ったらエントランスの方向は同じだという。それだけではなく、カウンターから客席までの距離も旧店舗と同じにしてあるという。動線という言葉が出た。なるほどこれは能楽堂なのだと感心した。

それからまた豪徳寺を歩行した。氷は百鬼園の故郷でにわか商売で氷屋を始めた友人の家が看板を書き間違えて、氷ではなく永と書いてしまった。それで友人の間ではその店を「なが」と呼んでいた、、、などと記憶の古い場所から次々を古いメモが飛び出した。

★OM-D EM1  14-42mm

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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