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ロック ユー

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2014年5月31日 (土)

世界一美しい本をつくる男

100★木村伊兵衛先生のご命日。あたしの誕生日。

これがあたしへの誕生日プレゼントだ。 この映画でロバートフランクが生きて動いている、という情報を受けたので、最終日に近い活動写真を見に行った。最近の情報ではフランクさんご病気だと言うのでこれは視なければと思った。
この前恵比寿に来たのは、ビルカンニンガムのフィルムを見に行った時以来だ。前回はその影響でパリまで青い上っ張りを探しに行った。
普通の男子だと、末期ーんの影響でA2ジャケットを探しにゆく程度であるから、あたしのように高齢者になって影響をうけるのは始末が悪い。

しかし今回はこの映画を視て、ロバートフランクと同じライカM3にビオゴンレンズを捜索するようなことにはならない。そんな段階は四十年前に終了しているからだ。

お話はジョエルフターンフェルドがドバイに行って、iPhoneで写真集をつくる話がメーンになっている。
i DUBAIという悪趣味な小型の本だ。なるべく悪趣味の本にしようと著者と出版社は色見本帳を前に激論を戦わす。
ギュンターグラスが自分の本の表紙の為に揮毫するショットもよかった。筆使いになれていないので、一気に書き下ろすことが出来ないのだ。

出版社のシュタイドルは知っていたが、まさかゲッチンゲンの小さな会社とは思わなかった。しかも小さい印刷所と兼業なのである。これユニークだ。
ベストセラーなど狙って居ないから、五百部限定の豪華本300限定にすればもっと売れるなどと施主と会話している。あたしが今まで関係した一人出版社と同じ会話の内容なのが痛快だった。

シュタイドルがマブーでフランクと打ち合わせをする。ドイツ語である。「自分のような仕事は瑞西では不可能だ。アメリカに移民してよかったと思う」とフランクはドイツ語で話す。彼もまだ母国語で話す時は「移民の息子」なのである。ここが良かった。

フランクのマブーの家の全景が写っているのは手柄である。海岸の一軒家。製作したZDFはこういうリアリズムが得意だ。
ここで薪割りをしたシュタイドルをフランクはインスタントカメラで撮影している。モールの津田さんも同じ作業をしてフランクに撮影されている。

インタビューの最初の部分でシュタイドルは自分の最盛期の十年はもう終わるのか?とシニカルな自問自答をしている。
これは慧眼だな。

2014年5月30日 (金)

港が見えるが丘公園と、申します

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Photo_3本当は正しい呼称があるらしいが、我が家の言い方では、港が見えるが丘公園であり、マリリンタワーであるわけである。

こういう言葉遊びはやっているには面白いのだけど、これを四十年やっていると、こっちの間違った用法が正しく、世間一般の用法が間違っていると思うようになる。
これは危険だな。

例えば我が家ではわざと逆に言って、カンガルーのいる方はオーストリアであり、モーツアルトのいた方はオーストラリアと呼称している。ゆえにニュースなどで正しい用法を聞くとそれが間違っていると誤認する。

横浜を知るには横浜に宿泊すべしという強迫観念があるのだ。ニューグランドの旧館に泊まってそこかしこを無目的に歩き回る。

港の見えるが丘公園に、初めて来た。皆さんはスケッチなどをしている。欧州の名所旧跡で真面目にスケッチをしている人は絶えてみたことがない。この前のモンマルトルでもそうであった。似顔絵描きばっかり。その意味では日本は印象派好みの世界なのであろう。

入学式の家族が記念写真を撮ってると脇のスケッチマンが立ち上がって家族全員の写真を撮ってくれる。このあたりのキャステイングがクールで完璧である。

港が見えるが丘公園から下界にに降りて、マリリンタワーを探すがなかなか発見できない。
あかいくつというシュールな名前のコミュバスを撮影していたらその角の先に順光でやたらに眩しいマリリンタワーが起立していた。
それを目印にその角を曲がって、ニューグランドの自室にさっさと戻ってきた。

★ライカMD2 FED 28mm

 

2014年5月29日 (木)

fed28mmで横浜の坂を登ったり降りたり

95
Photo
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最初に使ったライカの交換レンズはライツのズマロン28mmf5.6だった。それ以前はニコンFにレトロフォーカスのニッコール28mmを使っていた。音羽の暗室でフォコマートで引き伸ばしたズマロンの最初の印象は、何かコントラストが低いなというものであった。しかしライカの先輩から、ライツのレンズは伸ばすと威力が分かるのだと言われた。そんなものかと思った。

当時は銀塩だけであったから、展覧会で畳の大きさに引き伸ばすのがレンズの実力の正念場だと思われていた。
しかしあたしの作品は最大が11x14であるから、あまり関係はない。

ウイリアムクラインは東京で会った時にはエルマリート28をM6に付けていた。次にプラハで会って彼のアシストまがいのことをした時にはライカのR6-2にエルマリートを付けていた。あたしと同じようなNato軍のジャケットを着ていた。それでプラハの人の中にアグレッシブに前に前にと進むのである。

クラインに写真芸術論を持ちかけたことは一度もなかったし、クラインが自分のベストの28mmレンズを熱く語ることもなかった。
大写真家がそういうことを言ってはいけないのは当然である。

28mmは1960年代までは超広角レンズの範疇である。ライツのヘクトールもツアイスのテッサーも特殊レンズのカテゴリーだった。
フェドのー28mmは1930年代にごく僅か生産された広角レンズであたしは欲が深いから三本持っているがその内の一本は第二次大戦終了時に記念として赤軍のトップからアメリカ連合軍にのトップに贈られたものだった。フェドのカメラとセットになっていた。

その軍人は戦後日本にGHQとして赴任してマッカーサー司令官の下で働いたらしい。彼のフェドの皮ケースの内ポケットには万年筆書きの紙片が入っていてそこにはGHQ Tokyoと電話番号が書かれていた。その話は千頁の写真集「ぼくのカメラたち」に収録されている。

最近になって友人がこのリンクを発見してくれた。ようするに六枚構成の立派なレンズで当時のツアイスの四枚玉、ライツの五枚玉を凌いでいたのである。レンズは曇っていたのを友人に拭いてもらって復活した。

この半年、日本カメラのタイアップ企画で世界中を12-40PROで撮影した。現代の優秀なレンズというのは現実をそのままに描写するのであるが、レンズの味というのは酒の味と同じで、時々はちょっと癖のある酒が飲みたいものだ。レンズも同様だ。

横浜のニューグランドに宿泊して界隈を徘徊した。あたしはリスボンもバルセロナも自分の庭であるが、横浜の山手界隈には全く知識がない。だから横浜情緒などではなく、オリエンタルアドベンチャーであった。

オリエンタルアドベンチャーとは他でもない。1960年代の外人さんのツアーで浅草を案内するガイドさんの持つ小旗にはそう書かれていたのだ。そのショットはあたしの写真集、東京にコン日記に掲載されている。

思えばあたしの旅も随分と遠くに来たものだ。

 

2014年5月28日 (水)

お知らせ

本日配信です!!チョートクカメラ塾第十六時限
  デジカメのメモリ、、、どうしてますか?

パリの緑十字

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パリの街角のランドマークは、エッフェルでも凱旋門でもサクレクールでもない。
それは「緑十字」である。

これは薬局のマークなのであるが、どうも欧州のラテン方面の国に独特なものであるらしい。
同じ欧州でもドイツ語圏の薬局はこの緑十字の招碑はない。
これがなぜ懐かしく思うのかと考えて、実は実体験ではなく、北井一夫さんが七十年代に撮影したバルセロナかどこかのカメラ雑誌の口絵に頻繁に登場していて、その記憶があたしをして、この緑十字をして、スーザンゾンタクの言うところの「メランコリーオブジエ」の認識に到達せしてめていることに気がついた。

ラテン系の諸国の夜に、寝静まった街でこの緑十字のみが煌煌とゴシックの街を照明しているのである。

思い立って、バルベスロシュフォーから歩いて、クリニャンクールに行った。日曜の午後であって、天気は悪い。すぐに来た道を引き返して、懐かしいこのクロスに接したのである。
これが赤十字になった時に、対抗するのは赤新月である。トルコ航空でイスタンブールに飛行中に指のささくれが始末におえなくなり、救急箱を所望したらそれは赤い新月であった。

★OM-D EM1 12-40 PRO

2014年5月27日 (火)

実用のゴールドカメラ

1ゴールドカメラというのは、グロテスクなものだ。
1980年のケルンのフォトキナでライカR3のゴールドにM4-2のゴールドに他に数台の金カメラをさげた紳士が話題になった。これは日本人である。
あたしもその金カメラマンを撮撮させてもらったが、歩くゴールドカメラで実に凄いパフォーマンスだった。

金カメラはあたしも持っているが、これは使い方はなかな難しい。つまり高級機が金カメになると、すでにそこで冗談が通じなくなってしまう。
上の金色のレクタなどはその例であって、はずかしくて戸外には持ち出せない。
一度だけこの金レクタで福田和也さんを撮影したのが唯一の例だ。

一方で実用のカメラを金カメにしたのはそこにジョークがあるから、そういうのは実際に使える。Photo

これは我楽多屋さんの「ライカ百周年記念勝手に協賛特別オークション」に出たのをあたしが落札した。
こういう品物は実物を見ないとその肌合いがわからない。実物はゴールドのマット仕上げなのでなかなか上品である。
実際に使える金カメである。
アダプターを使ってザイカの望遠レンズを付けたり(これはエクザクタマウント)さらにクラシックなm42のレンズを付けて遊ぼうと思っている。3

2014年5月26日 (月)

豪徳寺の満来

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白い立体的なのれんがかかってそれが風に揺れている。昭和三十年代の街の中華そばやである。

豪徳寺の満楽にはおそらく三十年ぶりである。

トラッドな中華そばやのインテリアをちゃんと伝承しているのは偉いと思った。

すでにすっかり忘れていたのだが、このお店の室内を看て思いだしたのは、こういうトラッドなお店は棚にバヤリースオレンジとか、サイダーの瓶を並べていたことである。これは博物学なのだ。これがこういう中華屋さんに共通なことであった。

出前の自転車がちょっとモダンになっているのはこれは仕方ない。白黒テレビで力道山の空手チョップが見られれば申し分なし。

OM-D EM1 14-42mm

2014年5月25日 (日)

巴里で深川の不思議さを考える

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パリでついこの間に行った、深川方面の都市風景を考えるのは意味がある。

まず街としての時間軸がまったく異なるのは面白い。

パリでは百年前の建物を大事に使って、エレベータのないホテルなども現役であるが、深川は大空襲などあってそういう歴史的な建物は皆無である。

せいぜいが両国の震災記念堂であるが、パリの歴史などから視ればつい最近の新建築だ。

この前、知り合いの写真展を見に行くのでこの界隈を徘徊してそれが非常に面白かった。

ようるすに、一時的に存在するような、時間の経過にすぐに飲み込まれてしまうような存在の危うい建物が午後のクリアな光の中に立っているのを看ると、なにか白日夢という感じがするのである。

片岡義男さんと東京を徘徊していた当時、片岡さんが街角に感動して発する褒め言葉、「これは映画のセットですよ」なのである。

一時的に存在してすぐに建て替えられる街。遷宮がその基盤になっている大都会。

そのあえかな存在が東京の街並みの魅力である。

★OM-D EM1  14-42

 

2014年5月24日 (土)

ライカM3で撮影したウイーン1973 結婚写真

Photoフリーアンドイージーというライフスタイルマガジンから、ライカM3のことを紹介するので、作例を貸してくれと言ってきた。
しかも締め切りが迫っているというので、「ウイーンフィルムケース1973」から適宜に選んで送った。この二百点以上あるフィルムファイルは野々宮コレクションに収蔵されている。

その理由はこのファイルが四十年来行方不明であったので、ここらでちゃんとしたコレクターの手にゆだねておかないとまた紛失するので、やばいと思ったのである。
このシリーズは1973年に撮影された100本ほどのコダクロームの散逸したその残りなのである。

このシリーズは沢木耕太郎さんとの対談を収録した、「ライカマイライフ」にも32頁ほど掲載されている。その全体はこの9月に京橋のアイランドギャラリーで公開予定だ。

当時のコダクロームは印刷原稿としては、最高だったが、これをプリントするには、インターネガからプリントするか、あるいはダイトランスファーでプリントするかしかなかった。

八十年代の終わりに東京の銀座でエルンストハースに会った時、彼は主要な作品をダイトランスファーでプリントしているので羨ましく思ったことがある。あたしの月給が五万円の時にダイトラは四つ切りが十万円もした。

ダイトラ全盛時代から半世紀経過して。フィルムをスキャンする方法が安価に出来るようになり、デジタルプリントも高品位のが使えるようになったのは実にありがたい。

このショットはライカM3に固定のズミクロン50mmで撮影した。ということはソ連製のジュピター50mmでもピントは同じわけである。
かつて、ライツのズミクロンとソ連のジュピターを同一条件で撮影して、プロ写真家に見せたが、その区別はつかなかった。
しかしライカM3は実に寿命が長いなあ。

この場所はウイーンのお気に入りであった。その理由は展示してあるのが、モノクロームであったからだろう。それをコダクロームで撮影した。これがカラープリントでは面白くもない。

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2014年5月23日 (金)

巴里のライカ店で六年ぶり

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今回のパリは二本の仕事を持って行った。だから大昔のようにカメラ屋さんに行く時間はなかった。

それでも滞在の最後にパリに来たのだからやはりバスチーユの先にあるメゾンライカには行くつもりで、ちょうどシテで撮影がおわったので、サンルイ島経由でバスチーユに出た。

歩きながらこの店で六年ほど前にパリ在住のアーチスト朝比奈さんにお目にかかったことを思い出していた。

パリ在住の知り合いといえば田原桂一さんん、ウイリアムクライン、ピエールガスマン、ジャックラルテイグなどが居るが既に天国在住の人もいる。

メゾンライカの前に朝比奈さんが立っていたのにはびっくりし、かつ嬉しかった。こういう偶然の次第は台本作家にはかけないであろう。 この前にお目にかかった時には朝比奈さんはライカM2にアンジエニュの35だかを付けていてそれが長身のスタイルにマッチしてかっこよかった。

この一月にはリスボンにゆかれたそうであたしのリスボン滞在とニアミスしていたが日程を聞いたらちょうど入れ違いだった。

メゾンライカは改装前にはエントランスの左右のウインドウのライカがなかなか良かったのであるが、改装後は高級感が出てつまらなくなってしまった。 あたしがウイッシュリストに加えたのはこの最近のライカMPである。ブレッソン愛用の擦り切れたオリジナルのMPもさることながらこれだけ貫禄のあるライカはなかなかない。あたしなどはすぐに、これはAFPの写真家が使ったのではないかなどと妄想するのである。

OM-D EM-1. 12-40 PRO

2014年5月22日 (木)

世界一退屈な場所

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ちょうど四十年前の五月に家人と巴里に行った時は観光客であったから、モンマルトルにも行った。ようするにオペラのラボエームの世界であるから、時代遅れなのである。オペラの舞台でも奇異に感じるのだが、あんなに広い屋根裏部屋というのはないわけである。

サクレクール寺院にはちょうど極東の鼠園のお城に毛の生えたくらいな存在にしか感じない。

これは視覚的な経験が背景にあると思われる。ロシアで歴史的な正教会の寺院を何ダースも視た後で、ヘルシンキのロシア教会に行ったらその「新品ぶり」がなにかテーマパーク以外のものに見えなかったのと似た事情である。

世界で最も退屈な場所のランキングをマーライオンと分け合う感じだな。

サクレクールが綺麗に見えるのは、空港からクルマで高速で巴里が接近して来た時に環状道路から見える、教会の後姿である。これはいい。建設中の建物の骨組みのように見えるのだ。これは本物の都会の美学なのである。

四十年前と異なるのは、不異議なことに今の方が体力がついたことだ。

それでピカソの洗濯船を経由して階段で上に登って、裏手に降りてホテルに戻ってきた。

OM-D EM1 12-40 PRO

2014年5月21日 (水)

パリに持参した二台のカメラ

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パリに持参したのは、この二台である。
バックアップ用にさらに2台のカメラを持参したのであるが、これは気休めであって、この十年間持参のカメラが故障したことはない。

ライカM3はすでに四十年以上愛用しているので、問題なし。
OM-D EM1は小型軽量があたしのように留まることなく旅をしている人間には非常にありがたい。

東京に到着したら、今年度のカメラグランプリ記者クラブ賞を受賞したことを知った。
実にめでたい。

この半年の間、OM-D EM1を持って世界中を旅した。最大のメリットは移動するのにストレスがないことだ。
つまりHCBの言う所の「見えない重さのないカメラ」に最も近いカメラなのである。

伝説のカメラ設計者米谷さんはライカのレンジファインダーカメラに触発されてペンを設計した。
その流れがペンデジタルであり、その進化の頂点がこのカメラという図式になる。

パリの空港の保安検査で係官に中に何が入っているか、と聞かれた。小さなカメラが入っていると言ったら、デイパックの中を調べもしなかった。

旅する人間にとって、プロっぽく見えないプロカメラというのは最高な存在である。

OM-D EM1は旅人のベストチョイスだ。

2014年5月20日 (火)

顔本速報

「OLYMPUS OM-D E-M1」が 「カメラグランプリ2014 カメラ記者クラブ賞」を受賞

目出度いなあ!
このカメラの魅力は旅をするとよくわかる
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神原 武昌さん、大野 克己さん、山崎 守さん、他23人が「いいね!」と言っています。

田中 長徳 この半年、このカメラと世界中を旅してきた
51分前 · いいね! · 5

セーヌの川幅って狭い

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パリの中心にはシテ島があるので、セーヌは狭い。それも想像で考えていたより、ずっと狭い。

どのくらいの狭さかと言うと、 バトームッーシュガがこういう具合に石橋を通過できる程の狭さだ。

ブレッソンの名作でもこの川岸に憩う男女の作品などがあるが、平日の午前十時では観光船も誰も乗っていない。

しかも名物のノートルダムドパリは完全に逆光であるから、観光客さんもカメラアングルに苦労している。

あたしはツーリストではないので寺院には入らすに、急な石段を下りて、セーヌの河面に接近した。

大理石の石段に座って周囲を見回したが、ここは世界の観光地の中心とは思えない。静寂と深い河の流れがあって、その緑の水は大理石の護岸で鋭角に区切られている。

隅田川とセーヌとは姉妹架線であって、ジャックシラクが贈った「ナビゲータ」という彫刻が中央大橋の真ん中にある。

隅田川は護岸には手すりがついていて、しかも救助用の浮き輪の設備もある。

セーヌには何もない。

だから河面は「落ちたら死ぬぞ、、、落ちても知らんぞ、、」と言っている。

ここらが実に実存主義なのである。

★OM-D EM1 12-40MM PRO

2014年5月19日 (月)

魚眼レンズで撮るCITE

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パリ在住者ではない人間であたしほど、パリのメトロに乗っている人間はいないかも知れない。

いや、パリジャンもパリジエンヌも実際には通勤通学の為のメトロであるから案外にその乗車範囲は限られているに違いない。
パリのメトロは市内は全線均一料金なので撮影にはありがたい。

その中で駅のベストはここのCITE駅である。ノートルダムを見学に行く時の最寄り駅であって、多くの人(というかほとんどの人)が、エレベータ^で地上に上がってしまうけど、この駅セーヌの水位のかなり下方に位置しているのでその潜函技術はクラシックでちょうど軍艦の船底にいる気分である。
つまり水圧を感じるのだ。リベット打ちの鋼板には近代文明を感じる。

この駅は大型カメラでも過去三十年にわたって撮影したが、今回はOM-Dに魚眼レンズを付けて撮影した。
周囲の覆い被さるような空間構造を表現するにはこれは最適なレンズである。

★OM-D OM1 魚眼レンズ

2014年5月18日 (日)

エッフェル塔はちょっとだけ視る

Photoエッフェル塔はどうも退屈である。
トロカデーロの階段あたりで、アフリカ系の人が毛布の上に並べたエッフェル塔のミニチュアの数々はあたしには魅力的に思える。

一方で本物の方がなぜつまらないのか、考えるにどうもそれが「唯一無二」のオリジナルであるからだと思う。
ちょうどルーブルで本物のジョコンダに出会ったツーリストが「これはあまりにも小さい」と落胆するのと、ちょうど逆の「ベクトルの美学」がそこに働いているのではないか?

エッフェル塔のイメージはそれが無限回数繰り返されている「複製」の方がなにか実体が確かなのである。
そこにはイマジネーションがあるが、本物の最大の問題はもはやイリュージョンを許す隙すら与えられていないことにありそうだ。

我々は本物の前では「眼を伏せる」のであろう。

巴里に行ったので一応、エッフェル塔に敬意を払うつもりでメトロに乗った。
セーヌを渡る瞬間の数秒だけ、エッフェル塔が瞬視できる。それで瞬間、エッフェル塔は背後の風景に巻き取られる。

この瞬間のアングルは昔から好きなのだが、それに同意する人はあたしの周囲には多い。

OM-D  EM1  12-40 PRO

2014年5月17日 (土)

パリ 缶詰の内側

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巴里は厳密な都市計画で出来たので、なにか鉱物の結晶体のように見える。

アパートが狭いのはこれは仕方ないことだ。かのラルテイグは大金持ちだが、彼の巴里のアパートは吃驚するほどの普通の「狭さ」であった。

唯一、あたしの経験で広い屋敷に住んでいたのは、アベニューフォッシュのフランスの化学コンツエルンの会長くらいであった。アンドレと言ったな。

三つ星の高い一泊3万円のするホテルでも部屋で極東から来たツーリストの大トランクを開くスペースがないなどは普通のことだ。

巴里のホテルのコードヤードは概ねこういう感じである。あたしは主人格の二階(エレベータのない時代には主人は2階で使用人は上階に住んだ)である。

だから井戸の底のかわずのような気分である。缶詰の内部の光景でもある。

それも悪くはない。持参のズイコーの魚眼レンズはこういう記録にも役にたつ。

★OM-D EM1 魚眼レンズ

2014年5月16日 (金)

メトロの巴里

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最初に巴里に行ったのが1974だか、そのあとは頻繁に撮影に行った。田原桂一さんのアパートに遊びに行ったのもメトロだった。当時の田原さんは1号線の東の終点近くのサンマンデにお住まいだった。
白岡順さんがマンハッタンからフォコマート一台持って巴里に来た直後に彼の部屋に遊びに行ったのも、メトロであった。

当時はインターネットなどないので、ウイーンから電話代を気にしながら、長距離電話をかけて予約するのである。

ちょうど、フルクサスのマチューナスがヨーコオノなどと一緒にマンハッタンのテレフォンボックスを薔薇で飾って、巴里に長距離電話をかけるのを、メカスが撮影した。その廻りでサルバドールダリが踊っていた。

公衆電話が芸術になった時代だった。

巴里の東駅から七番のメトロでこの駅で降りて、徒歩5分のホテルは1泊が26フランだった。木村伊兵衛撮影のムフタール街の界隈なので買い物にも便利だった。

この駅から毎朝、カフェで珈琲を立ち飲みして夕刻までメトロを撮影した。カメラは北井一夫さんからいただいた、ミノルタCLとライカMDだった。レンズはロッコール40とルサール20mm,
トライXでも暗いので増感した。
今ではデジカメであるから、感度は自動でアップするのでメトロの撮影には最高である。しかも色温度もばっちり。

そのシリーズはアサヒカメラにたしか1970年代の終わりに発表したが、タイトルは「メトロの巴里」であった。これを担当編集さんが「巴里のメトロ」に直したのは、正しい日本語ではあろうが、あたしの意図とは違う。毎日乗り降りしたこの駅は思い出深い。

★OM-D EM1
12-40 PRO

2014年5月15日 (木)

HCB

Hcb
Hcb2
Hcb3★羽田に早朝着陸 すぐにインタビューあり。まるで「国際人」だな。

先週の水曜の午前にホテルから歩いてポンピドーセンターに行った。途中で小銭をくれというおっさんに二人会ったのがなつかしい。これは七十年代のパリの記憶が復活するのである。

途中の道で奇っ怪な感じがしたのは、まるでポーランドの戒厳令直後のような通りの静けさであった。

思いだした。

5月8日は対独戦勝記念日なのである。1973年のこの日にモスクワに居て、グム百貨店でソ連製カメラを買うつもりがお店がしまっていたのを思いだした。

祝日のパリは無人である。

ムゼに到着したら長蛇の列であった。ポンピドーセンターも四十年ぶりだ。

ここもクラシックになった。ちょうどシャルルドゴール空港の1みたいな感じになった。七十年の未来都市の感覚がそこに実現されている。いや、近未来が裏切られたという意味ではない。

上階に来たら、このような長い列である。

写真展に関しては別に書くのでここでは控えるけど、入場者が多すぎて写真を見る環境ではない。

エントランスの照明が暗すぎるのもいただけない。こういうのを学芸員さんが勘違いして日本でもますます暗くなるのかな。節電をしているのとは違う。

HCBはもともと印刷物の人である。写真集を見た方がいい。カタログは重さがかなりあるので買わず。

アマゾンで買える時代になったのでパリから持ち帰ってHCB展のカタログよ、というのも以前の有り難さはない。

★OM-D EM1 12-40MM PRO

2014年5月14日 (水)

螺旋階段

Image★本日移動日 CDG HND
螺旋階段はかっこいい。
日本にもあるがあれはフェイクである。
やはり一階から屋上まで連続していないと気分がでない。

多くの建物で螺旋階段の占める空間が大きい建物はそこにエレベーターを仕込んだ。それで螺旋階段の美学がぶち壊しになった。
そうでない小さい建物は 今でもそのままである。
この方が健康にいい。
ジャックラルテイグと彼のアパートの前で待ち合わせした。散歩から戻ってきたラルテイグはそのまま螺旋階段をスタスタと登った。

当時彼は八十は超えていたであろう。

パリの十日間であたしも大分健康になった。螺旋階段もそうだが、この界隈はセーヌからずっと登り坂なのである。

2014年5月13日 (火)

巴里の掃除人のジャケットを探す

 

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ビルカニンハムと、ジョナスメカスの着ている青いワーカーの上着は巴里の掃除人の制服だというので、それを買いに巴里にきた。

どうも様子が異なるようで、掃除人さんの服はこの色である。
情報によれば、もともとこのグリーンが正しいようだ。

ビルカニンガムの情報が一人歩きして、労働者のジャケットが道路掃除のジャケットになった可能性もある。

クリニャンクールにブルーのジャケットを捜索に行った。ブルーのズボンはあったが、ブルーのジャケットはなかった。
思えば、クリニャンクールはそういう労働者の服ではなく「労働者が自由人のふりをする衣服」を売っている場なのであて、これは行き先を間違えたことに気がついた。

いずれにしても、あたしは33年着古したシテイカモのジャケットの肩に孔があいたので捨ててしまった。

ゆえに上着は必要なのである。

ワーカーのジャケットを欲しがるのは、あたしは老ワーカークラスであることだが、掃除人に近親感を持っているのは、仕事場が路上であり。つねに何かを収集しようとしていることだ。写真家と道路掃除人は同一犯である。

★OM-D EM1 12-40mm PRO

2014年5月12日 (月)

サンマルタン運河の四十年

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ちょうど四十年前の今頃に家人とパリの東駅に着いた。

ぞれまでウイーンというドイツ語の場所に居たので、フランス語は拍子抜けした。

駅のアナウンスが「パリエス、パリエス」というのが不思議だった。ドイツ語なら「パリザーオストバーンホーフ」である。

ドイツ語からするとTの文字を発音しないのが、フランス語はなにか言葉を倹約しているような印象を与える。

いきなり早朝に散歩してパリの東駅から徒歩で十分ほどのサンマルタン運河に来た。これにはびっくりした。あたしの住んでいたのはウイーンのドナウ運河のほとりであったが、河川の水位を調節する水門というのはなかった。

それで最初の巴里で、現に生きている町のど真ん中にこういう運河があって、しかも何段階にも閘門を構築して水運を行っているのが驚異だった。運河は1820年にできたそうだ。シスレーが描いているのが、1860年当時だが、今とあまり変わっていない。

もうすぐ二百年になるわけだ。

東駅から徒歩で運河に至る。
このことがあたしのパリの原体験になっている。

2014年5月11日 (日)

豪徳寺のまねきねか

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豪徳寺には招き猫がいる。あたし流にいえば招きねかである。 ここの縁起で偉い人が山門を通りかかったら、猫がおいでおいでをしていた。

それでお寺に入って法話を聞いて感激して墓所をここに定めたのだという。

この猫はプレゼンの名手である。

境内にはおびただしい数の招き猫が奉納されている。土門拳の昔の名作に「偏執狂的な風景」というのがあった。 伏見稲荷あたりの奉納された狐の像が堆積している作品だが、これは何か、おどろおどろしい。

豪徳寺の招き猫にその感じがしないのは、猫ブームのおかげであろう。✳️パリ滞在も半ばだ。デジカメとライカを交互に持って撮影している。

OM-D EM1. 14-42mm

2014年5月10日 (土)

スカイツリーが芽生えた頃

Photoパリ滞在。
本物のエッフェル塔はどうも退屈である。日本のおかき、ぴーせんのイメージが強烈すぎるのであろうか。

カメラマガジンの六月号は「ぼくの風景写真」という特集である。それでうちの窓から見えるスカーツリーの写真を提供した。ようするに定点観察写真である。

これは2009年の夏の終わりのショットだ。隅田川上流を見ると、すでに京成の本社は完成しているが、その左側の黒っぽい背の低いのがスカイツリーの生えだした芽なのだ。京成の本社を隠すようにそこにそらまちがこの後に建設される。

その時からスカイツリーは毎日水をあげたのでこんなに大きくなったわけだ。
時間経過というのは最大の奇跡である。

★ペン1 9-18mm

2014年5月 9日 (金)

豪徳寺の三重の塔に驚く

P42パリ滞在。

高円寺は駅の名前だと思っていた。それが実際にはなかなかのお寺であるのを知ったのは数年前だ。

豪徳寺も駅の名前だと思っていた。豪徳寺に行ったことは一度もなかった、
三十年前に島尾伸三さんの家に遊びに行って、その裏手は公園のようになっていた、島尾さんとは現代写真の話ばかりであったので、ついぞ彼の口から豪徳寺について話が出ることはなかった。

それでこの連休まで豪徳寺に行ったことはなかった、お寺は好きであるが、お寺の観光地化は好きではない。
豪徳寺の山門は広大な敷地の南にあって、駅からは遠い。当然の話であって、小田急線よりその建立は昔なのである。駅の都合で出来たのではない。

ベルギーのブルージュがそうであった。19世紀の鉄道の敷設の当時、鉄道をきらって町外れに設置したので、それが功を奏した。

豪徳寺も同じ例である。サウスモラビアの古都テルチエもそうだ。ここも街から離れた所に駅を造ったおかげで今はユネスコの世界文化遺産になっている。

豪徳寺境内には立派な三重の塔がある。その縁起は見落としたが、なかなか立派なパゴダだ。

渡辺義夫先生が薬師寺の五重塔の撮影で下から沢山のレフ板でシャドーを起こした故事を思いだした。
今ならデジタルでトーンは自由自在である。

★OM-D EM1  14-43mm

パリ滞在。仕事。寒いです。スチームが入ってます。

2014年5月 8日 (木)

足穂と子午線

Sigosennパリ滞在。暑いです。

数年ぶりに明石に行った
あたしは稲垣足穂ファンなので、足穗が若い当時に営業していた「京屋」(呉服屋)の時代にノスタルジーを感じているのである。駅前だったらしいがその位置はすでに分からない。明石の駅前は再開発の延焼中。

気に入った「うおんたな」の立ち飲みにも寄ろうと思ったら、そこは木曜が定休日だった。定休日に直球で行って弾かれるのは、あたしの得意技である。

明石の海岸から突堤まで歩き廻って、帰りの阪神の特急が明石を出て速度を上げ始めたら、忘れていた135度の子午線の記念塔が左に一周だけ見えた。時間にしてまさに数秒であったが、こういう時のあたしの反応は非常に速い。

2カット撮影して気に入ったのがこれである。カメラの反応の速度が速いのだ。撮影時にはOM-Dをそっちに向けて連写しただけだ。ファインダーなど見るひまもなし。

若い当時の足穗はここの人丸神社の一室で執筆していた。その足穗の背中を東経百三十五度の子午線がつらぬいていたはずである。

これは良い感じだ。物見遊山の展望台より知的な観念ではある。

★OM-D EM1 14-43MM

巴里で仕事なう

2014年5月 7日 (水)

ウイーンの壁1973

Photo_5パリ滞在。

「ウイーンフィルムケース」からの作品。

これは古い壁に描かれた看板である。それもほとんど剥離してすでに判読不可能だ。

あたしが1973年にウイーン大周遊を開始した当時には、まだこういう19世紀の遺物が残っていた。

マンハッタンという所は空襲をうけていないので、そこらここらに100年近く前の建物の壁に描かれた巨大広告がある。

SOHOでベレニスアボットが1930年代に撮影した。ペプシコーラの巨大広告壁絵がまだ残っていたのには驚いた。

それに対して、ウイーンは悲惨な爆撃を受けているので、残っている壁絵は少ない。

今では皆無である。

こういう壁絵の存在する理由というのは、そのキャンバスになっている建物は非常に古いということだ。

ウイーンは都市計画で何度も通りが拡げられている。時間経過でセットバックの遅れた古い時代の建物はすでにセットバックした新し建物との間にギャップが生じる。そのギャップが広告のスペースになるわけだ。

★オリンパスワイドスーパー 35MM F2

コダクローム1973撮影

2014年5月 6日 (火)

ウイーンの顔 1973

Kaoパリ滞在。

「ウイーンフィルムケース1973」からの作品。
これは午後もかなり遅い時刻の撮影だ。

ウイーンの環状道路には巨大な円筒形の広告看板がある。これはパリの真似なのである。
アジエの古い風景写真など見ていると、この円形の看板が見られる。本来は数多くの普通のサイズのポスターを沢山貼るという目的で造られたようだ。

しかしウイーンではこれを一枚の写真の展示スペースに使ってしまう。これはユニークだ。

しかもその画像を複数で使うと視覚的な印象は倍加される。
これはハンバーガーの広告らしいが、そういうオリジナルの目的をすでに超越して、なにか表現の段階に昇華されている。
すでに四十年の昔である。

★1973撮影 オリンパスワイドスーパー 35mmf2
コダクローム

2014年5月 5日 (月)

ウイーンの木 1973

Photo_4
Wido 本日移動日。HND CDG

この夏に京橋のアイランドギャラリーで個展を開催する作品のプレビューだ。内容は1973年にウイーンで撮影されたコダクロームが「発見」されたのでそれを公開する。
その一部はすでに「ライカマイライフ」(えい出版社)に掲載されている。

これから撮影するコダクロームはすでにこの地上に存在しないけど、以前に撮影した分はいずれも退色もなくしばらしい。人間の視神経の記憶より、コダクロームの画像の方がよほど確かである。

1973年に日本からウイーンに移住した時に100本ほどのコダクロームを持参した。当時、15本のコダクロームがあたしの初任給に相当するような高いフィルムであった。
それを使って撮影したのが、カメラ毎日1974年の1月号に載った「ウイーン 記憶の街」である。
この号は新聞社の内部規定とかで、8頁の掲載の2頁分を印刷所が徹夜で切り取って配本した。そのことはまた改めて書く。
カメラ毎日の山岸章二さんからの長い手紙もある。

そのウイーンで撮影したコダクロームは散逸して、偶然230点ほどが数年前に発見された。
あたしには貴重な青春の記憶物質である。こういう物質は手もとにあるとまた散逸してしまうので、野々宮コレクションの所蔵となった。その方が安心である。

その名前を「ウイーンフィルムケース」というのはこのコダクロームが古いスライドファイルに入っていることからの命名だ。

ウイーンのアルザー通りにこのような、レリーフ状の木の装飾があった。これはユーゲントシュテイル様式なのだけど、通常のデザインとはその形式がちょっと異なる。それが好きであった。
まだ存在する筈だけど、この前の2月のウイーンでは確認するのを忘れてしまった。

これは当時のオリンパスワイドで撮影した。ワイドはF2のスーパーとF3,5のとを持っていた。

★巴里に到着する。暑い。

★オリンパスワイドスーパー Hズイコー35MM  F2
コダクローム

2014年5月 4日 (日)

ペリネト小路1番地

  1. Perinet_2
  2. ドナウ運河ぞいのこのアパートに1973ー1980まで住んだ。二階の部屋である。建築は1900年であった。家の入り口に第二次大戦で爆撃されたのが修復された旨のブロンズの銘板がついていたはずであるが、詳しく見たことはない。
  3. この小路は建物が4つしかないので、その長さは百メーターもない。1960年代の前衛アート全盛の時代に向かいの建物から、箪笥とかベッドを投げ落としてそれがハプニングであるというので、現代美術史に名を残す小路であるそうだ。
  4. フルクサス運動でマンハッタンでマチューナスが公衆電話からパリに電話をかけていた時代だ。今ならパリに電話などアートでない。思えば、マンハッタンよりウイーンの方が危険であったわけだ。これはかのアドルフの故国でもあるのだから、疑う余地はない。
  5. 家具投げおろしアートのことは、亡くなったオットーブライヒャ博士から聞いた。
  6. ブライヒャ博士と現代日本写真家展の準備で1976に来日した時、上野のラーメン屋でモハメッドアリと猪木の対決をテレビで見た記憶がある。
  7. ウイリアムクラインは長年のパリ暮らしだが、若い当時に住んでいたブルックリンのアパートを八十翁になってから再訪するという番組があった。ドナウ運河を歩きつつそのことを思いだした。クラインさんとはすでに二十年のご無沙汰である。この前会ったのはプラハであった。

2014年5月 3日 (土)

フリーデンスブリュッケ

Photo_2
Photo_3
★OM-D EM1 12-40mm

二十六歳から三十三歳まで「多感」な青春時代を過ごしたウイーンで毎日見慣れた風景がこれである。

謂わば、あたしの視神経の原点のようなものだ。
フリーデンスブリュッケ(平和橋)はドナウ運河に架かっている。同じ名前のオットーワグナー設計の市電の駅もそばにある。路面電車のストップは橋の上にある。

オスカーココシュカが1947に描いた、ドナウ運河のこの場所よりちょっと下流の渡し船をテーマにした、油絵の小品がある。その風景画のポプラの木は今よりずっと小さい。
ポプラの木の成長は六十年も経てば目にはっきり見えるわけだ。

あたしのウイーン時代からだってすでに四十年近くが経過しているので、ドナウ運河の他の木々も当時に比較すればかなり育った。

夕刻になると、ポプラの中から、蝙蝠が飛び出して舞い踊る。それで我が家のスラングでは、蝙蝠を「ポプラの中」と呼んでいる。

運河の上流には風変わりな煙突が見える。これはゴミの焼却所だ。フリーデンス フンデルトワッサーという画家のデザインによる。

フリーデンスブリュッケの上に五番の市電の停留所がある。
その橋の上でキエフに木星玉で撮影したのも思い出である。当時の市電はクラシックでドアがない。冬などは吹きさらしである。その画像は写真集「ウイーンとライカの日々」(日本カメラ社)に掲載されている。

2014年5月 2日 (金)

お知らせ

チョートクカメラ塾第十五時限 5/14配信です。内容は
  いまこそ「紙」の写真集を買おう! -------------------
詳しくは左のバナーをクリック------------------------


日本カメラ博物館で5/17 土曜日午後一時から「田中長徳らいかを語る」という演題で講演会を開催します。まだ若干余裕があります。
この前は1997年にライカM7大予想というお話をしました。実に十七年ぶりの日本カメラ博物館での講演会です。どうぞよろしくお願いします。詳しくは
http://www.jcii-cameramuseum.jp/academy/lectures/2014/20140517.html

レストラン大黒屋

Photo断腸亭の大ファン。
と言っても、花柳小説ではなく日記の方である。
岩波の「断腸亭日乗」を全巻持って試験勉強のように見て居たが、四半世紀に全部捨てた。
これにつかまったいると、残りの人生のプログラムが破壊されると思ったのである。
大好きなので逆に距離を置くという防衛本能である。

荷風は晩年に家から徒歩でゆける、駅前の大黒屋という食堂でカツ丼にお酒一本に上新香という食生活を送っていた。

まだ大黒屋が古い店舗であった当時に、そのカツ丼を食いに行ったが途中で箸を置きたくなった。あまりに味付けが甘すぎたのである。
それから二十年経過して行ってみたら新しい建築になっていた。しかもウインドウに「荷風セット」とあるのでかなり吃驚した。
これではテーマパークのレストランだ。
断腸亭の信奉者は恥ずかしくて注文ができない。

★ OM-D EM1 12-40 PRO

2014年5月 1日 (木)

フィッシュアイ9mmはなかなか使えるぞ

Photo

Photo_2
レンズキャップレンズの15mmf8は一昨年のことであるが、あれは優秀レンズだ。
この魚眼レンズはその続編なので信頼できる。

早速、仕事中の「佃煮まからん宮殿」で試写した最初の作例がこれである。

これを持ってパリに行ったら、良い写真が撮れそうだ。
今回も幾つか仕事を持ってのパリであるが、メーンは日本カメラのタイアップ広告でこれは12-40mmPROでの撮影である。
日本カメラはリスボン、ウイーンと連載したのであるから、締めはやはりパリでありたい。

もう一本の仕事はカメラマガジンの特写である。これは内容はxxxxxxである。

最初にパリを訪問してから今年で四十周年なのである。
記念すべき年だ。

★OM-D EM1 9mm f8

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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