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チョートクカメラ塾ブログ

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2014年3月31日 (月)

ギャラリーバウハウスのコレクション展

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神田明神脇のギャラリーバウハウスのコレクション展を視てきた。

コレクション展というと、古色蒼然の感じがするが、実際にはロバート フランクの未発表作品があったりして発見が多かった。

あたしも出品している。初日に売れたというのでそれを確認にいった。
縦位置のプラハの作品だ。これはマキナ3Rで撮影したものだ。隣に七十年代にウイーンでキエフで撮影した作品がある。

その二つの作品の縦横の比率を視ると、6x9サイズはライカサイズより長いので、その脇のキエフで撮影したフルサイズがなにか4x5の比率に見えるのは錯覚ながら面白い。

その売れた作品の脇に展示してある、ウイーンのスナップは好きな作品だけど売れ筋とはちょっと違う。
それで小瀧館長と相談して別の作品にかけかえてもらった。
これは売れ筋の作品がポピュリズムであるという意味ではない。
ウエストンの数ある名作の中で、一番売れている作品は例の「ピーマン」なのである。

掛け替えた作品は2007にサウスモラビアのテルチエで撮影したものだ。

展示の順番がなかなか深いものがある。あたしの左が大辻清司先生で、右が田村代表である。その右がユージンスミスでその隣が横須賀功光さんだ。
ここらは館長の微妙な空間構成の腕が発揮されている。

展覧会は5/17土曜まで。その日にはあたしの講演会「田中長徳らいかを語る」が日本カメラ博物館主催で開催。

2014年3月30日 (日)

ツアイスとニコンとキヤノン

Nikokyaoこういうのが現役カメラであるのは、すごく真っ当なことである。

ニコンとキヤノンのファインダーは1950年代だし、カールツアイスイエナのビオゴンはその前の1940年代である。レアなTスターコーテイングである。

デジタルカメラの命に比較してフィルムカメラの命が長いことは、これ以上繰り返さないが、七十年前のレンズを買い換えないで今でも使っていては、メーカーはたまったものではない。

その意味でデジカメの頻繁な買い替えは、ミニマムではあるが経済に貢献しているもであろう。

イエナ製のビオゴンはニコンには装着可能であるがシュツットガルトのコンタックスには懐が狭いので付かない。何か変である。それでツアイスイエナは西ドイツのためにビオメーター35を出した。このレンズはリアが小さいので装着できる。西のツアイスはその直後に「あわててコンタックスAシリーズに装着できる、オプトンビオゴンを出している。

ニコンの方は、例の「グニャリニコン」のファンであるからレバー巻き上げの唯一のグニャリニコンはこれしかない。狭い選択である。

ファインダーはキヤノンの最高級モデルで、ターレット式と変倍式が一緒になっている。値段が一万三千円というから当時の勤労者の月収に近い。
作りが良すぎて鑑賞用には向いているが、重すぎて撮影には向かない。

 

2014年3月29日 (土)

東京バスライド

Photoロバートフランクのマンハッタンのバスからのショットに刺激を受けたのは、あれはウイーンに行った最初の年だった。

瑞西のチューリッヒから出ている、DUという名前の芸術誌があって、その特集がフランクであった。
もともとフランクはチューリッヒの出身でマンハッタンに移住したわけだから、瑞西は我が瑞西出身のアーチストということでその「責任」をとる必要がある。

バスから視る光景というのは、あまりにも日常なのでついつい見過ごされがちであるが、そういう日常にライカを持ち込んだのがフランクの手柄である。

それでフランクの真似して、あたしも及ばずながら世界のバスの車窓から膨大な撮影をした。
勘違いされるのは、そういうショットの褒め言葉を「まるでテレビの世界の車窓からみたいですね」と言われることだ。
これは心外である。
そういう予定調和のテレビの五分番組のような感覚はあたしのもっとも好まない所である。

もっと混沌とした都市風景を撮影したいのであるが、なかなか思う通りにはならない。

曙橋から新宿の西口の大渋滞に巻き込まれたバスの車窓はこの十年来のバス写真の中ではなかなか撮れた方だと思うのだが。

★OM-D EM1 12mm

2014年3月28日 (金)

東松照明さんのペリックス

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アサヒカメラの連載、TODAY-TOKYO 東京逍遥五十年の次回が新宿である。

新宿と言えば1968年を思い出す。

あたしが二十一歳の時だから半世紀前の大昔なのであるが、連夜のデモと解放区とフォークゲリラとで新宿は輝いていた。

東松照明さんのことを思い出した。一度だけ東松さんの助手のようなことをしてまる一日新宿の撮影に同行したことがある。
そのことをアサヒカメラに書いた。

当時は一眼レフはニコンFしかなかった。オリンパスM1が出る以前のことだ。
東松さんはキヤノンの広告に登場していた。

カメラはペリックスであった。例のハーフミラーを使った画像の消失しない一眼レフである。

これはキヤノンF1の出る前の話だ。ペリックスの東松さんはかっこよかった。しかし当時は七万円もするカメラであったから、あれから何十年も経過して中古で手に入れたのは十数年前だ。
小岩にあるカメラ屋さんで数台買った。
一番最近に手に入れたのは荒木町のがらくた屋で買ったやつだ。数台のペリックスが手元にあると,気分は1968年の東松照明気分である。

ファインダー像の消えない一眼レフってなにかライカを使っている感じがする。実際にはキヤノン7のシャッター音であるがそれはまた楽しい。

 

2014年3月27日 (木)

初代の白いペン

Photo2009年の夏にペンの初代が登場した。

それを持って八月にウイーンに行って仕事をした。

白いペンである。四年が経過しているのである。

たしかに最新モデルに比較すれば、スタートも遅いしレスポンスもゆっくりだけど、そういうものであると思えば納得して使える。

以前からデジカメのクラシックとはどういう存在なのかとずっと考えていたのであるが、初代のペンはそれにかなり近い。

デジタルクラシックカメラとしてあたしの頭にあるのは、もうひとつは初代のニコンクールピクス100である。液晶のないなにか後年のスマホみたいなデザインのあれである。

しかし残念ながらスロットがPCMCIAなので現代には使うことG出来ない。

時代はぐっと最近であるが、その点、SDの使え初代のペンはいい。

オリンパスのデザインの良さは「気をてらわない」という一点に尽きる。これは大事なポイントである。

言ってみれば、かのデッサウのバウハウスはカメラデザインはやっていないけど、ペンのスタイルはそのバウハウス的である。

初代のペンに関して言えば、あたしは白いペンが好きだ。その質量が他のカメラと異なる。

この一月にリスボンの中心部のホテルで眼下の広場の行き交う人々を視ていたら、横断歩道を無視して斜めに道を渡る日本の女性が居た。

その事が問題なのではなく、彼女が斜めかけしていたカメラは白いペンなのであった。

白いペンを持っている人は何となく写真がうまそうである。

2014年3月26日 (水)

OM-D EM-1をOM-1のように使う

Photoデジカメが無尽蔵に沢山撮影出来ることは、

便利なようでいて実は不便なのではと思う。
セレクトが大変な点もあるが、出会ったシーンを考えもなくただ撮影するだけだ。

カメラに撮影させられている感じもある。撮影中にはそれなりに視神経と身体性が紡ぎ出している映像感覚の真っ只中にいて、これが写真を撮影する三昧境でもあるのだが、 後で処理するのは自分である。

その憂鬱な気分はクレジットカードで買い物をしすぎたた後の支払いにも似ている。

思えば、フィルムでは撮影の本数が決まっていた。一日五本も撮影すれば、かなり仕事をした感覚だった。

ところが大きなメモリを入れるといきなり撮影可能なショット数が五千枚とかに表示されてあたしは唖然とする。

こういうのは嬉しくもない。一本の三十六枚のショットで按配して撮影するのが楽しいのである

北京から持ち帰ったOM-Dのメモリの残数をみたら、72とあってあたしは嬉しくなった。ーーこれはジャストフィルムで二本分なのである。

北京で時間を過ごしすぎて、アサヒカメラの連載の TODAY TOKYO 東京逍遙五十年の入稿が物理的にギリギリになって、慌てて新宿に撮影に行った。

必要な撮影ショットは見開きの二ページである。
五感を研ぎ澄ますとは、嘘であるが、四十六年前にライカを持ってこの界隈を撮影した時の感覚を思い出して、その感じで撮影しようと思った。

連載の他の数ページはいずれも六十年代後半のモノクロのショットなのである
それで意外にいい感じに撮れた。
撮影したのは十数カットであった。

デジカメに撮影のリミッターをつけるか、あるいは64mbくらいの極小サイズのメモリが良さそうである。

デジカメをフィルムカメラの作法で使うわけだ。

 

2014年3月25日 (火)

ニコンF3は三十四年前の今日発売

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ニコンF3が発表されたのは、あたしはウイーンから戻った時だから1980かな。
1970-73にはニコンFとニコンF2のカタログの仕事にはたずさわっていて、それからずっと年月が経過してウイーンに七年半居たので実にモダンなカメラが出来たものだと感心した。

スーパーニコンという愛称も当時のスーパーカーブームを彷彿させて懐かしい。
今にして見れば、基本だけをおさえている実質的なカメラである。

アメリカのなにかの雑誌広告で、ぼろぼろに使い込んだ、F3の登場する見開き広告があったな。ニコンの広告ではなく、他の製品の広告なのだが、脇役が主役を食ってしまった。
そういう例は他にもある。フランスの炭酸水かなにかの広告で背景にこれもかなり使い込んだライカM2のブラックが置いてあった。
これも実に良い感じであった。
当時の雑誌広告はなかなかであったが、さて、今の雑誌広告で他社の製品のバックの引き立て役となると、どのカメラの落選である。
あ、そうではなく、今のデジカメなら主役を食わないから合格である。

このテッサーはウイーン時代から使っている、古い玉である。フィルムで仕事していた当時はこれをコンタックスRTSに付けて使った。人物撮影の全景などを、中央公論の巻頭グラビアなどで撮影した。それで人物のクローズアップはエルマーの65ミリに切り替えるのである。遠近感が違うのである。
ズームレンズは使わない。
これが当時の撮影の仕事の「見識」だった。
この三ヶ月の海外取材では、ズイコー12-40PROしか使わなかった。ようするにズームが優秀になって、プライムの代わりになったわけだ。

この古典的テッサーはコンタックスS用だからレンズマウントがM42である。
当然、ニコンにはバックフォーカスが合わないのであるが、サードパーテイ製のマウントアダプターがある。中に凹レンズが1枚入っているのだ。これでバックが伸びる。

レンズ至上主義の人は「レンズがけがれる」と嫌がるがなかなかの写りをする。

ニコンの高級機にはニコン1型は例外だが、f2.8の標準レンズというものが存在しない。GN45ミリはあるがあれは別物だ。

このアンバランスがいい。通常撮影なら明るさはこれで充分である。
三十年前にニコンの広告で「田中長徳のF3」というのに登場させてもらった。

アサヒカメラと日本カメラとカメラ毎日とそれぞれに異なるレンズをニコンF3に付けた、そのひとつは105ミリF4の暗いレンズである。やはりこの組み合わせのような、ちょっとレトロな感じが出て良かった。

2014年3月24日 (月)

お知らせ

チョートクカメラ塾第十二時限 は水曜日配信です。
次回は以下の講座です。詳しくは左のバナーをクリック。

  ✳️今更ですが、
  ライカでの正しいピントの合わせ方について

北京の最新のアップルストアに吃驚する

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北京撮影の最終日にインプレスの川上さんと今井さんにお目にかかりいろいろ話をした。川上さんは前のデジタルカメラマガジンの編集長である。

待ち合わせの場所を今年の1月に出来たばかりのアップルストアにした。
一号線の大望路駅で降りてかなり驚いた。グラスウオールのタワーの林立する中にアップルがある。
中国最大のアップルストアというが世界最大かも知れない。

あたしはアップル製品は通販でしか買わないのでストアに行ったことはない。
一番親しいストアはマンハッタンのSOHOのプリンスストリートである。
一昨年の3,11以降、SOHOにのロフトのWIFが使えないので、徒歩3分のアップルストアに行った。そこを仕事場代わりにした。

そこのWIFIで仕事をしたのである。その建物は元郵便局のクラシックな建物で、あたしのマンハッタンに住んでいた30年前にはここから日本にエアメールを出していた。

そう、まだメールのなかった時代である。
それで感慨深いが、北京のアップルストアはなにかモダンアートの展示会場のようなのが面白い。現実離れしている面白さだ。

しかもエントランスが幾つもある。セキュリテイはゼロだが、それがうまい効果を出している。入るとスタッフが「ニイハオ!」と挨拶してくれる。

向かいのタワーは高級デパートで、路面店にはグッチとかシャネルとかアルマーニが並んでいる。
アップルはそういうブランドと同格になったのが愉快である。

そのショッピングセンターの一階は時計売り場で、ちょうどジュネーブサロンのような感じだ。
バチエロンコンスタンチンのウインドウはちゃんと値札がついているのが面白い。ただしウインドウの照明はだめだ。ハロゲンのダイレクト照明なので、本物が偽物に見えてしまうのは損である。
値札にはゼロが沢山ついている。
そのこと川上さんに言ったら今の中国では高い方が売れるというのである。

バチエロンのプレスコンフェランスにジュネーブで行ったことがある。雰囲気が似ているので、なにかジュネーブサロンに居るような錯覚が起きた。

アップルストアに来ているお客さんはなかなかスノッブで知的かつ高級志向の感がある。
ようするにヨドバシカメラの空気のちょうど正反対にあると思えば良い。

四半世紀前にこの界隈はまだ空き地であった。その一つ前の国貿駅のホテルに泊まったら、トイレが詰まって大騒ぎになった。
あの時はリコーの主催の中国の報道写真家の作品コンテストで審査委員長をしたのであった。
実に今昔の感に堪えない。
長生きが面白いのはこういう時間軸が見えることだ。

★OM-D EM-1 12-40 PRO

2014年3月23日 (日)

人民服を探して

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1981年に初めて中国を見た時は全員が人員服で自転車に乗っていた。これがあたしの擦り込み現象であった。

あたしの二十代のころ、アメリカ軍の中古衣料を着ることは、そこに「ベトナム反戦の意志」を表現する為であった。
こういうことを書くと、今の人は変に感ずるであろうが、社会的な認識とか政治的意識がファッションになる時代だった。

東京のメーデーの参加者で人民服にヘルメット、そのヘルメットに
「反帝反スタ」と表記があると、かっこいい思想家という印象であった。この人はあたしの写真集東京ニコン日記に登場している。
いや、ファッションであったからこそかっこよかった。

昨年からの北京訪問であたしがいいなと思っているのは、市井の老人の着ている人民服である。
これはなかなかいい。ファッションと無縁な老人がそういう人民服を着ているとその背景がなんとなく歴史的な重さを感じる。

これはビルカニンガムのパリの道路掃除のユニフォームと同じ論理である。

それであたしのカモフラージュジャケットが三十年経過してすり切れたので、ひとつ人民服の安ものを買おうと思ったら前門の観光客向けの店にもない。
気がついたのは、1980年代に日本の大中などで扱っていた、いわゆりレトロな中国趣味の雑貨が北京ではなかなか発見できない

前門の大通りには市電が走ったりして、往時の商店の様子を再現しているが、これはテーマパークで面白くもない。

そこから東のブロックの古い町をさまよっていたら、往時の「人民服」の文字に出会った。別に人民服を生産していたのではなく、人民服務という意味の三文字であるが、その字体が「思想が正しそう」である。

思えば、中華人民共和国建国当時の偉い人は皆さん、人民服である。人民服がやはり老人に似合う。
平壌の若旦那には人民服は似合わない。それは彼がつけている時計が瑞西の超高級品なのでミスマッチということもある。

★OM-D OM-1 12-40mm PRO

 

2014年3月22日 (土)

北京の掃除人のオレンジのジャケットが欲しいな

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何時も着ている、シテイカモのグレーのジャケットだが、今回良く見たら左の肩がすり切れていることが分かった。
あたしの写真集、とうきょう散歩カメラでこれを着て、ヘリに乗っているのが表紙になっている。当時に買ったのかと思ったらそうではなくずっと前に買ったものであった。

これは1982年に日暮里の木村伊兵衛さんの二軒北側のかさとし商店で買ったのだ。
値段はたしか1700円であった。

二十年前に胸のポケットが壊れたので家人が修繕してくれた。

コンバットジャケットというのである。物が沢山入るので便利だ。
思えば、欧州の東西がまだ分断している当時から着ていたことになる。
すでに三十余年の古着だ。モスクワのKGB の前をライカを持って歩いている時、警備の兵士と一瞬目があった。その兵士が同じシテイカモのグレーのジャケットを着ていたので、時代は変わったなと思った。

こういうカモパターンは西側のものだから、旧ソ連では採用されなかった。
それが今のモスクワはまるでアメリカの三流映画のようになってしまった。
これは映画の悪い影響だな。

シテイカモのグレーのジャケットの後任候補はこのオレンジの北京の道路掃除の人が着ているジャケットである。
これは思想が正しそうでいい。
以前は人民服が思想が正しくて良かったが、最近の北京の若者は全員がユニクロまがいのファッションである。やれやれだ。

ファッション写真で有名なビル カニンガムがパリの道路挿掃除の人のジャケットを着ているのは強烈なファッション批判である。
その影響かどうか知らないけど、敬愛する映画作家のメカスが最近では同じジャケットを着ている。ブルーのやつだ。

1980年代に東京消防庁のレスキュー隊の上下の服を持っていた。これがやはり囚人服色のオレンジである。さすがに上下を一緒に着ることはなかった。

当時は三十代であったからオレンジ色のレスキューカラーを着るのは抵抗がなかったが、今は六十代だからますます抵抗がない。

レスキューする方ではなく、される方になったのである。世代交代というやつだ。

★OM-D  EM-1 12-40 PRO

ジャケットはアイパッドミニで撮影

 

2014年3月21日 (金)

トロリーバスに「恋」をする

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北京で好きなのは、トロリーバスである。
最近の北京のトロリーはモダンになってつまらないのが唯一の問題点だ。

ようするに、トロリーバスが好きなのは、それが社会主義国の一種のシンボルのように思えるからである。

あたしの最初の中国体験は1982年の広州だった。あの時のトロリーバスが実に良かった。そのスタイルに惚れたのである。

トロリーバスと「恋」をしてすでに三十余年が経過した。

トロリーの良さは架線が上にあるので勝手に好きな方向に行けないことにある。これは犬の散歩のようなものだ。
普通のバスはその点「だらしがない」と思う。バスは猫がどっかに遊びに行ってなかなか戻って来ないのに似ている。紐はついていない。

チエコとか維納の市電も好きだが、レールの上を走行するのがどうも「真面目過ぎて」面白くない。

あたしの高校時代には東京にもトロリーバスが走っていた、たしか池袋から王子の方面であった。
あたしは土地の古老なので、、まだ池袋に西武百貨店の出来る以前、ぺんぺん草が生えていて、その先にチョコレート色の省線電車が見えた時代に、東口のターミナルで木炭バスを見た経験がある。

車体の後部に巨大なお釜を乗せていた。薪に着火したばかりで白い煙を出してくすぶっていた。走っているのを見た記憶はない。

トロリーは木炭バスに比べれば実にモダンである。文明開化のエレキテルで走るからだ。

あたしは北京ではOM-Dを肘の所にホールドしてずっと歩行している。あたしはトロリーに乗るのが好きなのではなく、トロリーを見るのが好きだ。

その見所はこのようなカーブに限る。まっすぐな道路ではトロリーの魅力が激減する。

★OM-D EM-1  12-40mm PRO

 

2014年3月20日 (木)

「四合院ギャラリー」の「絵画」を訪ねる

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禁煙旅館の南に南北の一本道がある。
四半世紀前にここに来た時は深閑として追いはぎでもでそうな寂しいところだった。羅生門という感じがした。

その近所の鼓楼もこれは秋の終わりのせいでもあったが、実に魂が消え入るばかりの暗い寂しいところであった。
それが気に入ったので、今、その界隈に住んでいるわけだ。

その南北の通りは13世紀頃に出来た、街であって、最近は人気スポットだと言う。

週末はその通りはまるで竹下通りのような子供の買い食い集団に占拠されて、あたしのような反動的老人は歩く隙間もない。

文化大革命の時の紅衛兵は怖かったであろうなと齢六十又六になって初めて知った。あたしは社会主義シンパではあるが、彼らから見たら「アメリカ帝国主義の手先の高齢者」には違いない。


あたしはその南北の通りは歩かずに、直角に交差する東西の通りを行ったり来たりする。

長い長い頑丈なグレーの屏があって、何かと思えば蒋介石が居たバラック(兵舎)であるという。バラックというのは本当にボロ屋のことだという日本的感覚がここでは覆される。

四合院の基本カラーはグレーであって、そのエントランスは真っ赤で上の方にこのような装飾画が描かれている。

単純化した様式美で平面であるから、かのゴッホが浮世絵に吃驚したのと同じことである。
花鳥風月もここまで昇華されると、もはや信仰の一種になる。
ルーブルの地下一階に宗教画イコンの展示があるが、それに近い印象だ。

しかもバックがグレーなので、なにか美術館を歩いている気分になってしまう。

★OM-D EM-1  12-40mm PRO

 

2014年3月19日 (水)

胡同の鯉のぼり

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胡同というのは、例の古い歴史的な建物、すなわち四合院のことだと思っていたら、そうではなく元の時代に制定された、通りの広さのことだという。

大街というのは幅員30メーターとかで、まだクルマのない時代にそういう広い通りを造ったわけだ。これが八百年前の話である。

胡同とはその中で一番狭い通りで幅員は8メーターほどらしい。

我が、日本路地裏学会だと、路地なるものの定義はその幅が6尺以下で車両の通行できない幅であることが必須であって、一番狭い単位は「胎内くぐり」というのであるが、これは片手を肘につけた状態で手の先が壁についてしまう幅のことを言う。
つまり25尺ほどの幅員のことだ。ベニスとか東京の佃にはそういう小路があるのだ。

元の時代の制定より、平成に制定された日本路地裏学会の道幅の方が狭いのは皮肉なことである。

今回は一度だけ、王井府の中国銀行に両替にいったきりで、あとはずっと昔ながらの胡同を歩行している。

禁煙旅館の近所でよく晴れた日の午後、つまり日本で話題の2,5pmとかいうのがまったくないような青空の日に、視野の端になにか見覚えのある光景が見えた。

鯉のぼりであった。

鯉のぼりが日本の独特の文化かどうかはさておき、鯉のぼりあたりはなにか中国で製造しているような気がする。

東京の鯉のぼりはマンションのベランダの脇の元気のないのが定番なのでちょっと時間を稼いでいたら、案の定、一閃の風が吹いて鯉のぼりは元気に泳ぎだした。

★OM-D EM-1 12-40mm  PRO

2014年3月18日 (火)

中国銀行で両替する

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旅行していると、両替はそこらじゅうで出来るものだと思っていた。

旅していると、少額の紙幣がたまるものである。10年前にハッセルブラッドの本社に取材に行った時の使い残しのスエーデンクローネンとか、三年前にジュエーブサロンを取材した時の瑞西フランの残りなどがあって。そういうのは欧州でユーロに替えた。

もっともユーロ圏は広大なので、まずユーロ圏以外の通貨を交換するのは、以前に比較して非常に困難である。
彼ら欧州から見れば、世界のすべてがユーロで動いているように見えるのであろう。

ベルリンは今度、Berlinという世界で最初のドメインを始めるそうだ。倫敦とか維納とか日本の名古屋なども同じ方向になるという。BBCが言っていた。

そのベルリンの中央駅であたしは両替所がないので困ったことがあった。あっちの世界では世の中のお金はユーロがすべてであるからだ。

手元に100香港ドルがあった。これは5年前に福田和也さんとリコーの工場を減額に行った時の名残なのである。

昨年の暮れの北京で、今居る禁煙旅館で人民元の百元に似た赤い百香港ドルを元に交換しようとしたら、出来ないと言われた。
銀行に行けというのである。

当然の話で、以前、宿泊していた、北京飯店のような高級ホテルなら両替できるが、禁煙旅館では無理である。

禁煙旅館から歩行して、盛り場のど真ん中、ワンフーチンに出た。アップル店の向いがこれから店を出すプラダの新館である。その通り向いの二軒目が中国銀行である。

あまりに立派な建物で立ち入りに気が引けるが、エントランスに居る、鉄砲を持っている若者に聞いたら、中に入れという。
もっとも新華社でもエントランスには人民解放軍が実弾入りの鉄砲を持って立っている。
そこに取材に行ったこともあった。中には竜虎カメラ店があるのだ。世界広しと言えども、エントランスに兵士の居る中古カメラ店は他にはないであろう。

中国銀行では立派なホールでちょっと待たされてから、実に正式な書類を製作してくれた。
百香港ドルは87元ほどである。
書類が立派過ぎてなにか数千万円の両替をしたような気分であった

ああ、ここは共産主義の国であったなと、今さらながら思いだした。

そう言えば、10年近く前に「撮影世界」という新華社のカメラ雑誌に連載をしたことがある。発行部数20万という。
そのおかげであたしは中国では結構「有名」らしいのだ。
新華社では「最高の原稿料を出す。ただし為替管理があるから送金は出来ない。あなたが北京に来た時に支払う」と言った。

その支払いはまだ受けていない。だから新華社はあたしの債務がある。
最高の原稿料というのは幾らであろうか。

あたしの「銘機礼讃」の海賊版を中国で見たという話もあったが、中国で有名になる税金だと思えば、不払いの原稿料はもう要らないと考えている。

昨年の秋にやはり北京で講演会をして欲しいという依頼が中国系の会社からあった。
その気になると、そういうのは「話」だけで終わるというのがあたしの経験である。
まさか支払われていない「中国最高の原稿料」に怖じけづいたわけでもあるまい。

内田百鬼園の「布哇の弗」という話を思い出す。

2014年3月17日 (月)

テクニックというわけじゃないが長時間OM-D EM-1で撮影するコツ

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あたしの居る所は北京の一番内側の環状線の北のその内側にいるわけだから、郊外に住んでいるのではない。

あたしの禁煙旅館のずっと北に北京大学がある。
都の西北早稲田の森の近くの音羽に生まれて、プラハのアトリエも大学のそばなので、この都の西北のスタンスが東京でも、プラハでもそして北京でも偶然とは言え、同じ方向なのは愉快だ。

環状線の地鉄に乗ればどこでもすぐに往けるのだが、あたしはへそ曲がりなので、メトロは使わずに歩行する。天安門は歩行距離である。

誤解の無いように言っておけば、これは老人の健康の為の、歩け歩け運動ではないことだ。

カメラを持って歩行しているうちに結果として四時間とか五時間が経過したという意味である。

大昔に日本路地裏学会の桃木会長からもらったFというロゴの高級トートバッグは数年来そのまま六本木ヒルズのあたしのロッカーに死蔵されていた。

ヒルズを卒業してから、そのトートが役にたっている。中に入っているのは、水筒と宝焼酎のカップと、クマもんの買い物袋だ。
それとチョコレートが一片。ライカで撮影の時には数本のフィルムが加わる。

これを右腕にかけて、肘の曲がったところで、このようにカメラを逆手に持つ。実際にこれをやってみればその安定性の良さに吃驚するであろう。

OM-D EM-1は小型だから本当はパンケーキレンズなどが理想だけど、日本カメラのタイアップ企画で12-40mmProレンズの撮影なので、結果としてレンズの重さは肘で受けるというスタイルになった。
カメラの身体性からするとこれは悪くない。

実はこの構えはかのブレッソンがやっていたもので、ライカを肘の所に置くという奴である。
肘から目の高さというのは最短距離だから、スナップのし損ないがない。

それに肘でカメラをホールドすると目立たないというメリットもある。


2014年3月16日 (日)

北京の秘密ラーメン屋

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昨年の十一月に前門の路地の奥をここは通り抜けができるかな、、、と思って路地の先を左折して、その先が行き止まりかと思ったらその先に抜ける道があった。

看板がなければただの、いぶせき家であるが、看板があるので、これはかなり正式な、いぶせきラーメン屋である。

それで思い出したのは、東京に十年ほど前に進出した有名料理店の北京の本店が、バスしか通っていない不便なところでしかも普通の古い住宅様式であったことだ。隠れ家レストランではない。普通の冴えない家なのだ。

戦前の円本時代に旅行記の一冊があってタイトルが「成都道中記」というのである。日本の偉い人が輿に乗っての旅日記であるが、いぶせき旅館といぶせき飯屋の連続なので作者はそれが嫌なのだけど、あたしはそれを読んでいて、これは理想のガストロノミーだなと感心した。今でこそそういう馬鹿はしないけど、あたしはパリまでファーストで行って、星なしホテルに宿泊するような酔狂をしたことがあるからだ。

このラーメン屋はあたしより数歳年上のジジイ(画面右の人)がやっている。奥さんと思われる人は美人でかなり若い。ジジイはそれが自慢のようで、最初に入った時、筆談で俺は七十超えだと自慢した。今回入ったらまた紙と鉛筆を持ってきて俺は幾つだと思う?が始まった。
これがこの店のエンタメなのであろう。

ラーメン屋は日本だと怖いにいちゃんが腕組みして喧嘩の始まりみたいであるが、こっちは優雅だ。やはり四千年の歴史がある。
ここの牛肉面はうまくもないが毎日食っても飽きない味。

 

 

2014年3月15日 (土)

北京の仕事場がここね

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一昨年の大晦日に六本木ヒルズを引き払ってから、世界のあっちこっちの椅子とかベンチとかを勝手に仕事場にしているわけであるが、これでよく犯罪にならないものと思う。

佃煮ヒルズというのは、あたしの住処のロビーのことであるが、あたし以外にここを使っている人はほとんどない。皆さんどこで仕事をしているのだろうか。

他にプラハヒルズとか、ハノイヒルズとか、それから先月のウイーンヒルズなどがあるが、通信がこれだけ進化すると実際、どこに居るのかはほとんど問題にならない。

ようするに腰を下ろした所がそのまま「なんとかヒルズ」になるわけである。

それで北京ヒルズである。

今、滞在中のこの街の北辺の禁煙旅館は広い中庭があるのでそこを北京ヒルズとして「占拠」しているわけであるが、その他に北京のあらゆる場所の腰掛けられるポイントはそのまま北京ヒルズ分室になりえる。
実にプロレタリア文化大革命である。

オリンピックで天安門の南、歴史的地区である前門の一帯は、なにかテーマパークになってしまった。それで観光客が1年で1000万人きたのはおめでたいけど、あたしはあそこは生活臭がないのでつまらない。今のようになってしまう以前の前門界隈は本当にわくわくする竽ようなカオスであったが、今は駄目だ。
あたしはそれで前門からずっと西に歩く。

瑠璃廠に行く手前のあたりの込み入った小路があってそこが好きだ

なにが好きというと、巨大な変圧器が路上近くに置かれているのが、ダイナミックでモダンアートしているからだ。北京の変圧器の鑑賞はあたしの大事なプログラムである。

それを見に行く。
その路地の反対側に石でできた、チエステーブルがある。実に立派な造りであって、円形の中国式の椅子もある。
文物が間違ってここに展示されているという感じがする。

そこで町内会の皆さんがチエスに興じていない時にはそこを占拠して仕事する。日陰なのであるが、あたしのアイパッドの液晶はレチナではないので、日陰の方がいい。ここで仕事がはかどるのは、周囲が常に混雑しているせいだ。
逆に不思議な静寂が支配している。

さらに観光用の人力(ヒューマンパワーと読む)も通るので実に飽きない。

★OM-D EM-1 12-40 PRO

2014年3月14日 (金)

北京の裏町で見た謎の乗り物

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昨年の11月と12月に北京に来て、今年は3月にここにいるわけだから実に4ヶ月ぶりである。
今宿泊している瑠璃寺胡同の禁煙旅館でもフロントのスタッフが私のことを記憶していて大歓迎であった。

私のような外国人であってもこの北京の北の町外れの路地裏はとても懐かしい。

この山西省の軽食麺屋はご覧のような外見だがなかなか食わせる。
昨年の十一月にも、暗がりの足元もよく見えないような道をこの食い物屋に通った。
あれから3ヶ月も経過すると、同じ時間帯でもずっと明るくなって実に北京の春である。プラハの春は知ってるけど、北京の春である。

ちょうどきしめんを炒めためたような幅広い麺と水餃子を買って禁煙旅館に戻ろうとしたら、いきなり私をすごい速度で追い抜いていったものがあった。

小学校中学年位の女子がセグウェイのハンドルがないような不思議な乗り物に乗って私の脇を駆け抜けた。そのスタイルは金斗雲に乗った孫悟空である。

私の住んでいる佃のマンションに以前、五体不満足の乙武さんが住んでいた。マンションに向かうスロープの上り坂で乙武さんに彼の乗っている超高性能な車椅子に追い抜かれたことがあった。
あれとまったく同じ追い抜かれ感覚だった。

これは私だけの特殊な状況ではなく、路上の北京のおじさんおばさんおじさんおばさんがその少女も去る後姿をびっくりして見送っていた。

ポケットのiPhoneを取り出す暇もない。しまった、デジタルカメラを持ってくればよかったと思った。

禁煙旅館に向かって歩行していたらその女の子は用事を済ませたようでこちらに向かってきた。そしていきなりその不思議な一輪車を飛び降りてそれを駄菓子屋の入り口に放り投げると店の中に入っていたのである。

それでおかげさまで私はその文明の利器を始めて細かく見ることができた。

まずは電動一輪車と言う形態であるが、一体どのようにコントロールしているのか全く謎である。キャリングハンドルのついてるのがプロっぽい。

日本の道路交通法ではまず絶対に走ることができないような乗り物である。北京はなかなか進化しているなと思った。

2014年3月13日 (木)

北京路地裏のサイドカー

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サイドカーという乗り物を最初に知ったのは、ドイツ軍が使っていたのを見たことだ。ただしこれは映画で見たのであるから、実体験ではない。

6年ほど前に、JTBの取材でモスクワとサンクトペテルブルグを広く取材した。
ずっとクルマで移動して車内から膨大な写真を撮影した。

その時、あれはモスクワから東に200キロほどの修道院に向かって、カントリーロードを走っていた。気がつくと前の車両はサイドカーである。老年の男女が乗っていた。なるほどこれは老人に似合うなと感心した。

その翌年に、雑誌の編集部かあたしのカメラを借りにきた。すでに失念しているが、万年筆の生産国とクラシックカメラを同時に紹介して、その国の特徴が出るような企画だった。

編集者さんが乗ってきたのが、その前の年にロシアで見たサイドカーだった。
その名前をウラルというのである。あたしの重いカメラトランクを詰んで、小雨の中を走り去った。

そのを見送ってなにかしっくりしない感覚があった。考えてみたら、その編集者が若すぎなのである。サイドカーは若造には似合わないのだ。

北京の鼓楼界隈は四ヶ月ぶりだ。
最初に見に行くのは路地裏のこのサイドカーと決めていた。
この前は初冬だったが、今の北京はこれからが春である。
そういう春光の中であるせいか、ぽんこつのサイドカーはちょっと綺麗に見えた。

アングルに気を遣っていたら、このサイドカーを停めている家の胡同から老紳士がでてきた。彼はこのサイドカーの向いにあるゴミ箱に家の掃きだしたゴミをすてて、すぐに家に入った。
しかしこの人が昔乗っていたサイドカーという想像をするとその北京のじいさんが、老紳士に見えるのは、これはサードカー効果とうやうだ。

ご覧のように、サイドカーそのものより、ちょとアングルを引くと、この場所の環境の不思議さが見えてくる。
まさに映画のワンカットである。

★OM-D EM-1 12-40 PRO

2014年3月12日 (水)

北京の春

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昨年の10月と11月に北京に来た。
今年の1月はリスボン、二月はウイーンだから、北京は四ヶ月ぶりである。

また北京に行くとブログに書くと、2,5PMに気をつけてください、と顔本に書き込みがある。
以前、ニューヨークに行くと言ったら、あそこは危険だから気をつけてくださいと言われた。
何時、ニューヨークに行ったの、と聞くと、いや、映画で見ましたという。
一般的真面目な人はつくりごとを本気にする。
いくら大気汚染が深刻でも、あたしは短期滞在である。
大震災から三年経過した、日本のストロンチウム環境の方がそれこそインチがけである。d

北京五輪の時はこむからそれを避けている間に数年は経過した。

北京の裏町散策は快適である。
王井府などは銀座と同じ(よりも華やか)でつまらないので、最初から行く気はない。

これが北京禁煙旅館だ。四合院の中庭がある(小さいけど)ので仕事をするには楽だ。
この装飾はまずタイガーバームガーデンだな。

例によってココログやフェースブックはここでは閲覧できないので、今回も突撃隊長をわずらわえて日本支局経由でアップ。

2014年3月11日 (火)

ドリームリフターってすごいね

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北京二日目。
仕事に飽きると、フライトレーダーを見ている。
深夜に日本の北東に現れた機影は、B29ならぬ、ボーイングのドリームリフターという巨大飛行機だった。

あたしはスーパーグッピーは知っていたが、ドリームリフターは知らなかった。
そのことを顔本にアップしたら、すぐに飛行機ファンがいろいろ教えてくれたのはありがたい。
この機体はセントレアに行くというので、結局、仕事は投げ出してお湯割り飲みつつ、着陸まで見てしまった。

上の画像はANAの関係者、Mihihito TODAさんの提供。

2014年3月10日 (月)

本日移動日 羽田 北京

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今日から二週間北京。
前回のリスボンとウイーンではデジカメはバックアップに二台持参したが、問題なしなので今回はOM-D EM-1のみ。
オリンパスのフラッグシップが小型軽量なのは嬉しい。フラッグシップというと、普通はこわもての大きさと重さ高性能が普通だがあたしのような散歩写真家にはそういうのは要らない。
レンズは12-40mm PROと40/150の望遠ズームも持参する。

フィルムカメラの部はNASAカメラ症候群なので、ライカMD-2にこういうへんてこな組み合わせ。
実は愛用のフェド28mmが小さいのでカメラジャングルで行方不明だ。
それで「香港回帰記念」と刻印がある、シーガルの28-70mmにした。これなら28,35,50そして70mmを持参したことになる、、、ってのは半世紀前のカメラ雑誌のテキストみたいだな。

つまり、これはプアマンズトリエルマーである。あのレンズはたしかシグマ製であって、良く写った。

北京は昨年は10月と11月に行った、三ヶ月ぶりだ。
向こうだとフェースブックもこのブログも更新が出来ないので、前回はチョモランマというVPNと契約した。これが金だけとられて接続できない食わせものだった。

それで今回も突撃帯隊長の「日本支局を開局するつもりである。

2014年3月 9日 (日)

ライカMD-2マイブームふたたび

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この前、ガラクタ屋さんで買った、ライカMD-2がマイブームである。

10年前に、モノマガジンで今井今朝春さんの肝いりで「チョートクカメラ」というムックのシリーズが出ていた。
その創刊号が「宇宙に行ったカメラたち」というので、スペースカメラをいろいろ紹介した。
その時感じたのはスペースカメラは革張りが剥がしてあるということだった。
これはペイロードを軽減させる為であるという。不思議なのは、アストロノーツは、自分の子供時代のバスルームに持ち込んだ、黄色いダギイとかそういう私物を持ち込んでいることだ。
ここらがアメリカの大らかさだが、そういう私物の為に計測機器の方は一グラムでも軽くする必要があるのであろう。

ガラクタ屋さんでこのMD-2を買おうとした、犯行の動機はまるでスペースカメラみたいだなということにあった。
後でその理由を考えたら、バルカナイトが全部剥がしているのだ。それがスペースカメラ風味になっているのであろう。

突撃帯隊長が得意のネットサーシンでNASAのライカMDaを改造したスペースカメラの画像を探してきた。
これはクロームの本体にそのままブラックの塗装をしてあるので剥げると、下は真鍮ではない。そこがかなり良い感じだ。

本物のライカはファインダーがないのが正しい。
ということは、URライカに帰着するわけである。

2014年3月 8日 (土)

ライカMD-2を手にする

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ファインダーのないライカは大昔から好きである。
そのスタイルはフィルム時代のオリンパスペンFに似ている。あるいは、フォカフレックスにも似ている。
ペンデジタルにも似ている。

ライカMDという七十年代のファインダーのついていないライカでパリのメトロを撮った。アサヒカメラで「メトロのパリ」といタイトルをつけたら、「パリのメトロ」の間違いではないかと担当編集から手紙がきた。
たしかにそうには違いないのだけど、あたしは言葉をが逆転させて、ちょっと韻を踏んでみたかったのだ。

一番、最近に手にしたのは、このライカMD-2である。こういうカメラはNASAあたりが使うとかっこいい。三年前の大震災の時にあたしはマンハッタンに居て、ライカM3にこのレンズを付けてスナップをしていた。その時に想ったのは、M3でもファインダーはまったく覗いていないことであった。

だからあたしのスナップライカは別にファインダーなど付いていなくても問題ないことになる。

純正のライツの35mmファインダーが行方不明なので、このラーメンファインダーを付けた。しかしファインダーはあまり真面目に覗いてはいない。

2014年3月 7日 (金)

カール ベームと握手した

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ウイーンに滞在していた1970年代にはシュタットオパーには連日のように通った。
というのも、1974はオイルショックで灯油も満足に買えない。クルマは走らない曜日をステッカーにしてフロントウインドウに貼っていた。
かのリヒャルトシュトラウスも駆け上がった、天井桟敷への階段をあたしも駈け登った。まず二十代のパワーである。

1980年の夏、ザルツブルグでMITの学生などにストリートフォトを教えていた、」それは夏だから音楽祭にも重なるのである。
カールベームは好きな指揮者だった。プレスパスを入手して、カメラプローべに出かけた。
ナクソス島のアリアドネのプローべで、プロフェッサーメベームはヤノビッツを叱り飛ばしていた。
厳しいデイレクターであった。

練習が終わってから、プロフェサーとちょっと会話した。持参のプログラムにサインをもらって、握手をした。やわらかな手であった。それから三日間、手を洗わなかったのは本当の話である。
今回、オペラ座の前にこういう銘板を見た。
これはハリウッド好みではあろうが、ウイーンには似合わない。

OM-D EM-1 12-40mm PRO

2014年3月 6日 (木)

あおげばとおとし

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卒業式シーズンである。
大阪芸大からも卒業式に参列せよとの指示があったが、北京のロケとかぶるのでお断りした。

ウイーンの七年半に家人はウイーンの音大を卒業したけど、卒業証書も卒業式もない。
証明が必要なら、事務局に行けば証明書を出してはくれる。
それが普通だと思っているので、日本のセレモニーめいた卒業式前後は「東洋の不思議な習慣」を見る思いがする。謝恩会ってのも分からん。

あたしは大学の卒業式には無論でなかった。なにしろ、疾風怒濤の日大闘争の渦中であった。
かろうじて卒業はしたが、どういう単位をとったのかも不明である。
卒業制作の相談は東松照明さんに(新宿の東亜ビル)に相談に行った。たまたままだ写真家になる以前の「現代の眼」の編集部員の中平卓馬さんも居て、あたしの卒制を見てくれた。航空自衛隊入間基地のc130の大型輸送機の写真を中平さんは良いと言った。

卒業式も謝恩会もへんてこだなと思っていたら、デイリーポータルの梅会員なので、月一、お宝が届く。
今月の小物は卒業証書と寄せ書きであった。
なかなか気分を出しているので、これはこれでいいと思った。

2014年3月 5日 (水)

桃の花と猫柳

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ウイーンで早春を感じるのは、街中で売られている「猫柳」の新芽である。これが大量に花屋の店先に並ぶと春近しと感じる。

今回のウイーンは土地の古老であるあたしにしてもかつてないほどの暖冬であった。第一、連日の青空と黄金の太陽である。

ゲーテはカルロビバリの冬の天気が嫌いで思い立って、伊太利亜に向け、アルプスを越えた。

アルプスの北がこんなに好天ではゲーテに申し訳ないと思う。

あたしの住んでいた1970年代にはマイナス10度で三ヶ月は真っ暗。それにドナウ運河も凍ったものだった。

だから寒気厳しい折に柔らかな猫柳の芽にそこまで来ている春を思うのである。

ちょうど三年前、大震災の時に不安な気分でマンハッタンをライカ持って歩いていた時にパークアベニューの42丁目を猫柳を抱えて歩行してゆく、女性が居た。それがジョナスメカスの映画の移民のシーンのように見えたのは、あたしの思い過ごしであろう。

ドナウ運河には早春には、黄色い小さい花を咲かせる灌木がある。レンギョウであろうか。これも枯れ果ててた野原の黄色い一点であって良い感じだ。

日本よりずっと早く咲くのが、ドナウ運河の山桜である。これはほとんど真っ白い花だ。ドナウ運河を夕闇の中、散歩していると、山桜が闇の中にうっすらと見えている。それを見ると、うれしくなってそこらのワイン酒場に入って白ワインを一杯という段取りになる。

ここは極東であるので、桃の花だな。

ライカインコは女の子なので、ひな祭りに桃の花を買った。昨年の桃の花に比較すると今年の花の性質は元気である。

ウイーンではドッペラーという2リッター瓶でワインを飲んでいた。それが3ユーロである。

下のリンコスで探したら、伊太利亜はフィレンツエあたりのマグナム瓶(1.5リッター)は1400円もする。しかし買ってきた。

空き瓶になって、よく見るとこれは桃の花を活けるのに好適である。

適当に投げ込んでみたら、一気に部屋に春が来た。

かのプラハの写真家スデクに言わせれば、JARO(春)である。ヨセフ・スデクの作品でマグナム瓶に花の枝が指してある好きな作品を思いだした。

2014年3月 4日 (火)

浄水場は西欧の古い絵はがきだな

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このブログは記事を書いて、それをアップする時にラジオボタンが三個並んでいる。その中央が保存であるが、その右のボタンは保存の倍の大きさがある。

それが記事を削除というのはいかにも不合理である。この記事を書いて間違ってそれを押してしまったら、全部パーになった。

記事を削除しますという確認が出るがそれを見ていなかったのだ。

それで書き直す。

金町の浄水場の側のこれは取水の為の塔であろう。あたしは子供の当時からこういう水道関係の施設に惹かれる所があった。

母方の祖父が西武鉄道関係であったので
村山貯水池に幼年時に行ったことがある。子供のくせに、ユネスコ村とかそこのおとぎ電車などには興味を示さずに、貯水池の真ん中の取水塔に興味を示した。
記憶を頼りに後でパステル画なども描いた。

ベッヒャー夫妻の撮影で有名になった、水道塔も日本にはある。これも好きな物件であった。
水道橋の方は東京の近所になかったので、これは後年になって、イスタンブールとか、リスボンに見学に行った。

江戸川のこの水道施設が夕暮れの色温度でなかなか西欧の風景に見えてくるのが痛快であった。

★OM-D EM-1  17MM

2014年3月 3日 (月)

ネカ(猫)は食パンを食わないという事実

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 家で朝にサンドイッチを造って、耳が残ったので、東京大周遊の時に、鳥さんにあげようとビニールの袋にいれて出かけた。

人間と鳥の出会いはなかなかに難しいものである。

毎朝、佃大橋の上に、かもめに餌をあげる紳士が登場して、これなどが鳥がすでに待ち構えている。この場合には鳥と人間との信頼関係がうまく行っているわけだ。

あたしは気合いが入っていないので、近所の鴨連中ともすれ違いの悲劇である。

中庭の池に時々、鴨が来るのでそれにあげようとパンを持参すると大抵は居ないことが多くて、パンも何も持っていない時に、池の前と通ると数羽が「なにかねーか」と寄ってくる。

この間は、立石で何時もの公園のベンチに座った。いつもは、常連の鳩ぽっぽとか雀さんが一羽もいない。

仕方ないのでそこに登場した「ネカ」(猫)に、試食の意味でパンくずをひとかけ与えたのだけど、まったく反応がなかった。

やはりネカは動物性タンパクでないとお気に召さないようである。

その先、ずっと歩行して立石の何丁目かの公園で居合わせた鳩ぽっぽ数羽にパンくずをあげた。

こちら大歓迎された。

★OM-D EM-1 17MM

2014年3月 2日 (日)

WOHN KLO

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KLOとはトイレのことだ。ウイーンは昔の建物が残っているが、ミュンヘンは戦争で徹底的に破壊されたから、戦後に建設された建物はNEU BAUである。

ノイバウとは新しい建築の意味ではあるが、同時に安普請とか、天井の低い家を意味する。

古い友人のクリステイン ロスタはウイーン娘で、若い頃に先進文化都市のミユンヘンに移住したが、最初の狭いアパートをちょっと皮肉にWOHN KLOと表した。つまり「住めるトイレ」である。

今回のウイーンの拠点は不思議な造りであって、ドアをあけるといきなりベッドがある。これが意表をついている。
小泉総理の当時、首相官邸に外国からゲストが来て、総理の到着を待っていると、小泉さんはいきなり賓客の座っている椅子の脇の小さいドアから出てくるので、その唐突さんにゲストがびっくりする。
まるで忍者屋敷だ。

ウイーンのこの住まいもそれを連想させる。そのかわりバスルームは広くて、寝室と同じサイズであった。
必然的にバスルームに椅子を持ち込んでそこで生活した10日間はなかなか良かった。

それで窓からの光景はこういう殺風景である。あたしのような老練な旅人になると、こういう風景が好きになる。ザルツブルグで教えていた時は、宿舎が映画サウンドオブミュージックの舞台になった、湖畔のお城で緑の芝生で、湖で白鳥がいて、その先はアルプスである。
毎朝、そういう風景に退屈していた。

この中庭の風景はニエプスがヘリオグラフィの実験で最初の写真映像を撮影したあの作例にそっくりである。
写真の本質は「窓からの眺め」にある。

★OM-D EM-1 12-40MM PRO

2014年3月 1日 (土)

金町 木と小屋

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江戸川の土手から、金町駅までは結構な歩行距離がある。

江戸川の土手から、小岩駅までの距離も同様である。

あたしにはこれが非常に面白い。東京に水害があった時代に、この川から街までの距離が一種の「緩衝帯」になっていたのではと歩行しつつぼんやり考える。

二月の末と云えば、もう午後4時でも空は明るい。先週まで居た、ウイーンでは3時を経過すると夕闇が押し寄せてくる。明るい早春の空に極東の春を感じる。

土手を降りて、駅の方角に西に道をたどったら、大規模な工事をしている。ガードマンさんがお詫びをいいつつ頭を下げるのは、極東の儒教思想の名残である。

インカムに「はい、歩行者通過中、、」などと聞こえてくる。歩行者とは他ならぬ、あたしのことではないか。

なにか嬉しくなる。

その先に枝振りがかなり不思議な木を発見する。OM-Dを構える。別にファインダーは覗かない。その一瞬を撮影して、その隣に空色の小屋があることに気がつく。

小屋は極東のストリートフォトの重要なテーマなのだ。

この小屋もなかなかいい顔をしている。ちょうどクラシックなライカのデザインを愛でるのと同じ感覚にて、撮影する。

巨大な建築の設計より、こういう小建築はデザインが難しい。コルビュジエの一連の建築を見てもそれは良く分かるのだ。

★OM-D EM-1 17MM

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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