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ロック ユー

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2014年2月28日 (金)

FOTO KINO

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Fotokino2
 七十年代のウイーンで一番わくわくしたのは、カメラ店のこのガラス看板である。

FOTO KINOとあるのは、スチルカメラと小型映画カメラを扱っていたからだ。これがVIDEOに置き換えられると、カメラ温度はかなり下がってくる。

グリッセンガッセというのは、旧市街のドナウ運河沿いの小路であって、七十年代にはクリステインロスタ(昔はモデルで今はドイツの著名ファッション写真家)が住んでいた。

そこはゴシック塔と呼ばれる歴史的記念物であって、小学生がノート片手に歴史の勉強に来た場所である。

ゴシックバロック時代の建物が今でもそこにあるのは、これは東京のことを比較すればいかに凄いかがわかる。

クリステインのアパートは屋根裏であった。しかしかなり広かった。屋根裏の概念が現代とは異なるからだ。

その表には有名なレストラン、グリッセンバイズルがある。対面がこのカメラ店である。

ここでも結構カメラは買った。ウインドウの一番高い所にライカD3が鎮座しているのを見て、あたしは安心する。

ようするにフロイトがウイーンを追われた、1938年といささかも変わってはいない。このライカを買ってフィルムを数本持てばまた撮影が継続できるなというのは、いつもの旅先での安心なのである。

★OM-D EM-1 12-40MM PRO

2014年2月27日 (木)

柴又街道でいきなり中古カメラ店が

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時差ぼけ解消の為に高砂から柴又経由で、金町まで歩行した。
カメラはOM-Dに17mmである。これは軽量でフットワークの良い、標準のアウトフィットである。
フィルムライカのM2に35mmレンズ付きと同じ感覚だ。

柴又の帝釈天には興味がないが、以前、ここにあったレオタックスの関係者さんの経営の小谷メンテナンスには東京カメラ倶楽部の関係で良く行ったものだ。
生け垣の柴折り戸をあけてレオタックスの調整を頼みに行った。
カメラは街の中心地ではなく、周辺に修理依頼に行くのが興がある。
先週のウイーンでは中心街のもともとベートーベンの住居と同じ建物にあった、ライツオーストリアは、あたしの滞在していた労働者街を走る路面電車の43番のさらに西の終点の方に移転して、これは本質をつかまえているなと感心した。
極東ではライカのメンテは繁華街にある。だから修理を依頼するカメラ人類はライカのごみをとってもらって、それからその界隈を享楽しよという「うわついた気分」になってしまう。

柴又街道は午後の静謐な日射しの中に模型のようにひっそりとしていた。
そこにいきなり中古カメラ店が登場したのは意外であった。しかもウインドウの背後は障子になっているという、下総郡柴又の江戸風情満点である。
値段もローカルなカメラ屋さんが思いつきでつけた高い値段ではなく、今のカメラ市場を反映している。

マーキュリーとアーガスが一番奥の棚にあるのも奥ゆかしい。つまりカメラを並べた店主のお人柄がそこに反映されているのである。

このカメラ店登場の意外さは、その前のショットが下のお店であることから想像できるであろう。

このまま歩行して果たして帝釈天に到着するのであろうか、とちょっと心配になった時、その先に参道が登場して安心した。

柴又界隈は「カメラの隠れ里」である。

「柴又もレオタックスの昔かな」

★OM-D EM-1 17MM
 

2014年2月26日 (水)

★お知らせ

チョートクカメラ塾第十時限
  「アナログか?デジタルか?古都ウイーンで考える」
本日配信です!

矢切の渡しを見に

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オスカーココシュカの小品にウイーンのドナウ運河を描いたものがある。それは小さな渡し船の画である。

ドナウ運河には幾つかの橋があるが、そのうち、あたしのアパートの側にも渡し船があった。
渡し賃は当時の50グロッシエン、1シリングの半額だから10円にも満たない。

こっちから渡る時、対岸の渡し守にこっちの姿が見えれば良いが、そうでないときには備え付けの鉄板とそれにロープでつながっているハンマーで叩くのである。

船は動力で動くではなく、両岸に張り巡らされワイヤーにつながっている。小舟が舵をきると、振り子の原理で船が動く。
大都会のウイーンの中心部にそのような、雅な移動手段があるのはなかなか粋なことだ。

あたしも対岸に用もないのに、渡し船に乗った。船から手を出して、ドナウの本物の水に触ったりした。

ウイーンから戻って、矢切の渡しのことを知った。クラシックな藤田66という中判カメラで矢切の渡しを撮影したのは、1980年代の始めである。
今回、見に行ったら帽杭の看板はそれなりの味が出ていて嬉しかった。

渡し場の周囲のそれとなく植えられた木々が好きである。野趣があるとかいうのではない。
十数年前にベトナムの古都、フエに行ってやはり渡し船でバオダイ帝の墳墓を見に行った。クリークに似たような渡しがあった。炎暑である。その茂みになんとなく反勢力のゲリラが居るような気分であった。この不穏な感覚が好きなのである。
矢切の渡しはこっちの世界から異世界に向かう、これは渡しなのである。
河川敷を歩いていたら、背後から「渡しは今日は休みですよ」の声がかかった。
「知っています。ありがとう」と、あたしは返事した。

★OM-D EM-1 17mm

2014年2月25日 (火)

ウイーンはステッキが似合う

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今回のウイーン行きでは行きのスーツケースは14KGで帰りは19KGであった。5キロは食料品の重さである。
我が宇宙防衛軍ならぬ、生活防衛軍だからこういうことになる。
まだ東西冷戦時代のプラハとウイーンの国境ではプラハからウイーンに食料品は持ち出し禁止であった。ようするに物価の違いである。子供服も禁止だったな。

スーツケースが軽くなったのは、ひとえにデジカメのおかげである。今回も持参のフィルムはたった20本のみ。フィルムカメラ時代には300本は持参したから、大荷物であった。
トラベルライトの功績は実にデジカメの功績である。

その二十キロの荷物を持って、ウイーン空港に向かう電車に乗って、いざ空港で停車したら、脇の青年が「お荷物手伝いましょうか」と云った。「ありがとう、大丈夫です」と答えたが、これが40年前と現代のウイーンがあたしに見せてくれる態度の違いである。
これはまず有り難い。

今回も膨大な数のスナップをしたが、一つの発見は「老人は銅像に近い存在である」ということだった。
この爺さんなどはなかなか、きまっている。

皇帝フランツヨセフが杖を持った銅像がウイーンのどこかの公園にあるが、あれはかっこいい。
この人もそうであって、隣の泉の銅像は歴史的な銅像なので、レプリカなのである。杖をついている方はレプリカではない。そこがクラスの違いだ。

なんとなく、旧市街のそういう店のウインドウで立派な銀の握りのついたステッキなどを鑑賞した。自分が買うのではない。そういう立派なステッキはウイーンのような街には相応しいが、極東には似合わない。

百鬼園の記述で、牛鍋屋の二階に書生がステッキを持って上がってきて、ひんしゅくを買う場面がある。
当時は若者もステッキを持ち歩いたのだ。

★OM-D EM-1  17MM

2014年2月24日 (月)

センメルブロート

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ウイーンの代表的なパンはセンメルブロートである。
朝食にも食べるし、そこらのスタンドでレバーケーゼを挟んでインビス(間食)にするし、クヌードル(だんご)にもする。
ウイーンの日常はセンメルブロートの上に構築されているのである。

普通のパンでは気にくわないので、手こねのセンメルブロートを買い求めるというのも、ウイーン人の気まぐれである。

実は滞在中にはセンメルブロートは2個しか食べなかった。あたしはWASAを主食にしているからだ。しかしこれはスエーデンのものだから、東京におみやげに持参するにはやはりセンメルブロートがいい。となりのBILLA(大手スーパー)は朝7:15から開いている。それで飛行場に行く前に買いに行った。

東京に到着してのセンメルブロートは食べ方に注意が必要だ。古くなるとなかなか歯に手強い。「うちのおじいさんはいい男なんだけど、夕べセンメルブロートの古いのを囓って歯がかけたんだよ」などとおばあさんが云うのである。だから宵越しのセンメルブロートはちょっとチンすると、安全である。
まあ、現地で食べるのが一番であるが、、、

2014年2月23日 (日)

木製のグリップ

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フランスはグルノーブルのプロ用フィルム撮影機のアトーンは、今でも製作されているが、プロトタイプから最新モデルまで、そのグリップはウオールナット製である。

常に手が触っている部分は金属やプラよりも木製が好ましい。このごく初期のAATONを持っているが、それは木製の上に「プロフェッショナルなブラックペイント」が施してある。ライカにブラックペイントは相応しいけど、その後の製品ではそこは生地になっている。

あたしの持っているのは製造番号が150番というので、1970年代に瑞西の放送局で使われていたカメラだ。

木製グリップというのは不思議な存在だ。そこらのホームメードなら日曜大工の片手間という感じで評価されないのであるが、これが正規の製品となると、ぐっと価値感が高くなる。

これはペンタックスLX用のタイプAというグリップだ。タイプBは金属製でフィンガーチャンネルが付いているが、タイプBは自分で好みの形に削るのである。

もっとも木製のように見えるのは実際には樹脂であるが、それは問題なし。

ウイーンの二週間は撮影に1000年じゃなかった、専念していたので、ライカショップの前を通っても中には入らなかった。

撮影中は中古カメラにはまったく興味が行かない。これは正常な写真家の態度であう。

しかし、夜、ホテルで一杯やっていると、やはりむらむらとしてきて、オークションでこのグリップを手にいれた。

こういうことはありがちであって、10年前にナポリに仕事で居た時に、やはりオークションでアリフレックスSRを落札したことがあった。

佃に戻って到着していたグリップを付けてみたら、これがなかなかバランスが良いので満足した。

2014年2月22日 (土)

犬の鉄砲

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 ウイーン滞在の最後の日に、街の南にある丘に行った。そこをラーベルクという。

1980年の11月の明日は7年半の滞在を終えて日本に戻るという日にやはりここに来た。

ここは空と陸が広く感じる。持参のカメラはあの時はローライスタンダードだった。

今回はOM-Dに軽量はプライムの17MMである。

30年経過しているが、ここの風景は変わらない。

来ているのは、犬のお散歩ばかりで閑散としている。

ツーリストはあたし一人だ。

芝生の上に「犬の鉄砲」を発見して、持ち帰ったのがこれである。

犬に木の枝を遠くに投げてこれを走って取りに行くのは、一大レクリエーションだ。

このラーベルクの様子は日本カメラ社から出た写真集「ウイーンとライカの日々」に収録されている。

2014年2月21日 (金)

維納 二グラムの光

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今回の維納は、天候が良すぎて拍子抜けした。
まず冬の維納はモノトーンでしかもかなり暗い。
日中の路面が感度400でf4で1/250くらいなものである。
あたしの二十代の維納はモノクロである。カラーが高くて買えなかったからだ。

その当時の感じを出そうというので、ライカM2にズミクロン35mmの八枚玉を使った、というのは嘘であって、OM-D EM-1に17MMで撮影。

なにか、馬と馬車を撮影すると、シュテイグリッツの
名作、ターミナルを思い出す。あれはグラフレックスの4X5で撮影された。
100年ちょっと前には、公共交通機関がまだマンハッタンでも馬であったのは驚きだ。

ずっとズームを使っていたので、プライムに変えると、撮影のステップが軽くなる。
ズームの焦点距離を変えることが出来るのは、仕事写真には便利だけど、自分の写真には向かない。
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維納二グラムの光 というのは、あたしが七十年代に維納滞在の当時のシリーズのタイトルである。
埃を払って、ロッカーから取り出してきたが、別段、変色もしていない。

2014年2月20日 (木)

オレンジのウイーン

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赤いウイーンのことは先週書いた。実は赤いウイーンっとは、ウイーンが戦前に社会民主党が第一党だった時のニックネームなのである。

ベートーベンの例のハイリゲンシュタットの遺書で有名なその場所に1930年代にカールマルクスホーフが造られた。労働者向けのアパートだが、建物の長さは1キロもある。

その色彩は燃える赤である。1970年代のウイーンのメーデーは赤旗がいっぱいで、市庁舎前の群集はインターナショナルを歌った。

本場のモスクワよりこっちの方がゴージャスであった。

今回、その赤いウイーンのカールマルクスホーフを見学に行ったら、修復のカバーが延々とかけられていて、まるでクリストのアートのようであった。

ウイーンの色彩には赤の他にオレンジがある。道路工事の人とか、ごみ回収の人のユニフォームがオレンジ色である。

こういうたわわなオレンジが山になっているのも、維納らしい色彩である。

★OM-D EM-1 12-40mm PRO

2014年2月19日 (水)

お知らせ

PRN PENチョートクカメラ日記は
先ほど
1330万ページビューを
超えました
ご愛読ありがとうございます
ウイーンのワインで乾杯!

カフェハベルカの40年

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日本に行きつけのカフェというものはないが、ウイーンにはある。

旧市街のドロテアガッセのハベルカである。1947年の創業だからウイーンのカフェの中では新参だ。なにしろウイーンは1983年にコーヒー伝来三百年を祝っている。二百年のカフェなどザラにある。上野黒門町の可否湯店とは歴史が比較にならない。

レオポルドハベルカさんは、あたしがカフェに入って左側の壁際のテーブルに着くと、すっとやってきて、握手してそれから頭上のスタンドのライトをつけてくれる。そのテーブルがあたしの定席だった。
東儀秀樹さんを伴ったときもそうであった。

久しぶりにカフェの前にたったら、店の看板が新しくなっている。ああ、代替わりしたのだと思った。その日はカフェに入らずに、翌朝、ライカマイライフを持参して二代目のギュンターに手渡した。

雑談しつつ二代目の顔をよく見たら、彼は母上似なのである。
1980年の夏にザルツブルグでMITの学生にスナップショットを教えていた時(講師にはシンデイシャーマン、ラフルギブソン、エイコウホソエなど)に旧市街でハベルカ夫妻に偶然に会った。
カフェモーツアルトで雑談した。奥さんのジョセフィンはビールを頼んだが、ビアグラスが汚れていると、自分のハンカチで拭いた。プロフェッショナルだなあと思った。

3年前の二月に、パパは四月に百歳になるんだ、と言ってた。今回の記念に二代目の写真を撮ろうとしたら、ちょっと待ってね、とお皿にケーキを並べてのを持ってポーズしてくれた。それはありがたいが、二代目がなんとなく変だなと思ったらノーネクタイである。
先代とおつきあいして四十年になるが、先代は常に蝶ネクタイであった。

✴️OM-D EM-1 12-40mm PRO

2014年2月18日 (火)

続 ウイーン名物

Oobinn ウイーンの名物の話になったので、もう一つ書いておく。

それはワインの大瓶のことである。

フランスはブルゴーニュのワインの酒蔵を2週間かけてあちこちと回ったことがあった。その前にアルザスの酒蔵に行った。ここはフランスになったりドイツになったりしているが、ワインの瓶の形はドイツのそれに似ている。

話題にしたいのは容量が二リッターある、大きなワインの瓶のことだ。
フランスにはマグナムがあるではないかというかもしれないが、あれは高級品である。ウイーンのは庶民のための巨大なワインの瓶なのだ。

ウイーンの大衆レストラン、すなわちガストハウスではこの大瓶が冷えた水保冷庫内に入っていて、そこから四分の一リッターのジョッキに注いでくれる。ワインというより薬学の世界で、ワインを処方するというより感じがある。

四十年前、ウイーン時代にはまだ写真家になる以前の古屋誠一とか絵描きの山本博などと、このドッペラー瓶を中心にして毎晩酒盛りをした。安酒だから飲むには覚悟が必要だった。

3年前にこわごわ飲んでみたら、結構いける。これはあたしの酒の段が上がってのではなく、本物の美味いワインだ。ラベルを見たら、ヨーロッパワインとあるので、ああ、そうかと思った。

この間のマケドニア大使館の人の話でもワインはバルクで日本に入れているそうだから、この方面のワイン発祥の地のワインが近くのウイーンに配給されるのは当然である。バルクで輸送されたのを、ウイーンの業者が伝統の二リッター瓶に詰めているわけだ。

下のショットは蚤の市で見た、典型的なウイーン人の、ドッペラーの飲みっぷりである。ヨナスメカスガラッパを吹いているのにも似ている。
いくらあたしでもこれはちょっと真似は出来ない。27

✴️OM-D EM-1. 12-40 PRO

2014年2月17日 (月)

ウイーン名物

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私のウイーンののマイブームは桜肉である。

馬肉屋がうちの住まいから一番近くにある店だった。その先に橋があってそこを渡ると、フリーデンスブリュケ駅だ。
言い換えれば、毎日の生活に最低二度は馬屋の前をとおることになる。だからあたしのウイーン滞在中に食べた馬は一頭分かそれ以上になるかもしれない。ソーセージやハムも馬肉である。
馬肉屋はパリの名物であって、金色の馬のトルソが店の正面に据えてある。金子光晴は、眠れ巴里の中でその馬屋の看板について書いている。ただし馬を食った記述はない。パリジャンは元気をつけるために一片の生の馬肉を食らうが、ウイーンもナポレオン三世の影響で馬肉が大事な食材になった。
昔は馬肉も安かったがこのウイーンの馬肉屋の最上級の肉は何しろ百グラム三ユーロ以上の高級品だ。

しかし、あたしはツーリストなので思い切って買った。23ユーロもした。高級品がその値段なら安いと思うかもしれないが、肉類が極めて安価な欧州ではこれはダントツの値段だ。

この安ホテルは隣が巨大スーパーなので冷蔵庫は要らない。しかし買ってきた馬肉の塊は部屋の窓の外に吊るした。
実に美味であった。
旅先なのでいい加減なナイフで切っているから見栄えは悪いが味は最高だ。七年半のウイーン時代にあたしの家で桜肉の刺身の接待を受けた人は皆、あれは美味かったという。

三年ぶりのウイーンで心配なのは名物の馬車、例のリング通りを行く、フィアカーが見えないことだ。あたしがウイーンの馬を食い尽くしたので絶滅したのではと心配している。

★OM-D E-M1 12-40 PRO

 

2014年2月16日 (日)

ウイーンに持参のフィルムカメラ

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デジカメは素振りには向かないので、ホテルの部屋では素振り用のフィルムカメラが必要だ。

今回は思考をこらして、キヤノンL3にソ連製レンズのトリオを持参した。
無論、素振りだけではなく、フィルムを入れると撮影にも使える。

デジカメの場合、素振りしようとすると、カードが入っていませんという、お叱りのサインが出る。
昨年の六月には、プラハにキヤノンPを持参した。今回はもう少し、プリミテイブなカメラにしようと思って、その前のモデルのL3である。
シャッターダイヤルの撮影時に回転するなんぞは、サムライ的でいい。
レンズは例のfedの28mmがメーンである。
ウイーン時代にはこれよりずっと新しい、戦後のオリオン28mmを使用したが、40年経過したら、レンズは逆に40年前のモデルに退化下と見ることも出来る。
50mmのインダスターはこのスタイルのは、写りが良いという民間信仰がある。
135mmはプラハのフォトしゅこだで2000円で買った。最短撮影が2,5メーターというのが気に入っている。

★OMD EM1  12-40PRO

2014年2月15日 (土)

ウイーンのすし ウイーンのレンズ

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ウイーンの路面電車で、街をどこまでも走って行くのは面白い。
こういう中華とすしが合体化したお店が、ウイーン人のすしに関する大方の印象であろう。
それはそれで良いと思う。
あたしは外国では日本のものは喰わないが、以前、プラハに伴った芸術家が、近所の寿司屋に行って、握っているのが日本人ではないというので、ご立腹であった。
これはナンセンスな話である。

本場、ドイツのレンズでないと、本当の芸術写真は撮れないという人は最近ではいなくなったが、フランスのパスポートを所持しているシエフの料理でないと喰えないというのと同じだ。

飛行機の中では宗教上の理由の食事が用意されているが、あれは信仰によるののだから尊敬に値する。
外国で日本人の板さんでないと不満を言うのは、単なる身勝手である。

先月のポルトガルで、オリジナルのチョリソを買ってきた。1万2000キロ離れた、極東のチヨリソと比較して喰った。ようするに食文化はこれだけ離れると、進化するのである。
どっちのチョリソもうまかった。

食いものの味はレンズの味と似ているところがある。新製品は魅力的だけど、手にしてしまえばそれまでである。カメラ人類はさらに「今、ここにない未来のカメラとレンズ」に興味が行く。

今回は仕事関連で12-40MM で撮影しているが、フイルムカメラにはソ連製のレンズ一式を持参した。
戦前のソ連人の設計したレンズと、現代の日本人の設計したレンズのどちらが優秀かという設問もナンセンスだ。
ウイーンは光学には定評がある。ウイーンはフォクトレンダーの故郷であるし、ペッツバールのホームでもある。

★OM D  EM1  12-40mm PRO

2014年2月14日 (金)

バルコニーの両巨頭

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佃の寓居は築28年の古いタワーだが、唯一の自慢は三方向がバルコニーであることだ。

ウイーンの物件でステータスなのは、バルコンのあることだ。大昔の建物だから構造上の理由であろうが、100年以上前のウイーンの建物のバルコニーはその 長さが限られている。

ホーフブルグ宮殿で第二次大戦後にオーストリアが独立した時に新憲法を国民に見せるので、当時の大統領と首相が宮殿のバルコニーからその原本を広場に集まった市民に見せた記録写真があるが、そのバルコニーのサイズは極東の老写真家の家のバルコニーよりはるかに狭い。

ローマ法王が祝福をするバチカン宮殿のバルコニーも同様である。

あたしは擦り込み現象で、人間がバルコニーに立っていると、そういう国家的なビッグイベントではないかと勘違いをしてしまう。

路面電車から二人の巨頭が何か談笑しているので、これは欧州に新秩序が出来たのかと勘違いした。

単にシガレットを吸ってるおっさんであった。

★OM-D EM-1 12-40mm PRO

2014年2月13日 (木)

シャネルとヴィトンじゃつまらない

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ウイーン散策。

三年目だから、かなり変わってしまったところもある。「ライカマイライフ」に登場したこの場所などは、老舗の下着屋さんがあったのだが、目下、東京にもある退屈なブランドに改装中だ。

こういうつまらない時代になったのである。画一化されて、世界どこでも同じである。

がっかりして、その先まで歩いたらここも先の下着屋さんのブランドと対抗していた、もうひとつの下着屋さんの店はとっくになくなって、美豚の店になっていた。

美豚はあれはパリにしかないから有り難かったのであって、世界に散在してはつまらない。

1975年にパリに行った時に、日本の友人(当時のアサヒカメラ編集長)に頼まれて、美豚を買いに行った。

凱旋門のそばの本店で、専門店だからお店に入るとずっと店員さんがつききりで世話を焼いてくれた。日本語が通じない時代であった。

その時にあたしも便乗して買った、ショルダーがあるが、これを斜めにかけて、自転車で板橋の裏路地を徘徊していると、地元の女将さんに「あ、新聞屋さん?」と間違えられたものである。

まさか、美豚をウイーンに買いに来るような人は居ないであろうな。

★OM-D EM-1 12-24mm PRO

2014年2月12日 (水)

お知らせ

田中長徳の「チョートクカメラ塾」 (Vol.09) トラベルライトで行きたい「カメラ旅の作法」
配信です!

ローアングルモノクロのウイーン

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この前は2011年の2月だから、まさに3年ぶりのウイーンである。
プラハは大人になってから行った街なので、異国感覚があるが、ウイーンは物心ついてというのは変だけど26最から33歳まで住んだ街なのでそれなりに懐かしい。
ウイーンの人間より、あたしはウイーンの街そのものに恋したことになる。
1973年の秋にウイーンの写真家と七人の展覧会を大手銀行のスポンサーで開催した。
これがテレビの三十分番組になった。カタログもでた。その後、1980年に「オーストリアの現代写真」という大展覧会があって、そのイントロにあたしが紹介されていた。
これはその七年前の展覧会のことなのである。あたしの紹介には「スターフォトグラファー」とあった。伝言ゲームが変化して、東京の食えない写真家が、スターフォトグラファーに変身したわけだが、これはどちらでも同じ意味である。

上の画像はその1973年の写真展のカタログに掲載されたあたしの作品の真似である。

OM-Dでちゃんとiモードで撮影しているのに、画像がモノクロのように見える。
これも写真の面白さだ。

★OM-D EM-1 12-40PRO

2014年2月11日 (火)

赤いウイーン

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火曜の朝のウイーン。(あ、ただし予定原稿ね。実際には大雪の東京でこれを書く)
ライカマイライフを持参して四十年前のウイーンを再確認している。

ウイーンの基本カラーは赤である。オーストリアの国旗も赤白赤である。
ウイーンの市電の赤などは快晴の日の午前中に見ていると、眼が痛くなるほどだ。これは青空がコントラストになっているのだ。その背景にリング通りの若葉の緑が加わると、これはもう仕事どころではなく、郊外のワイン酒場に飲みに行きたくなる。
ただし今は二月のファッシングの季節だからそういうことはない。

1974年だったか、メーデーの日にボレックスを持って、ウイーンの市庁舎の前のメーデーの集会を撮影に行った。赤旗は眼に眩しかった。オーストリアの首相とかウイーン市長を至近距離から撮影した。当時は社会党が第一党であったから、赤旗なのである。

あの時のフィルムを見ると赤旗が眼にいたい。それも

2014年2月10日 (月)

ウイーンに持参のカメラ

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本日移動日
NRT VIE

2011年の2月にウイーンに行ったのだから、大震災の前である。その後、3月にマンハッタンに到着のその日に大激震があった。
だからウイーンは3年ぶりというわけだ。
三週間前にリスボンから到着した翌朝に、クラウデイオ アバドの訃報に接した。まだ「新人時代」のアバドをウイーンの楽友会ホールによく聴きに行った。
変な話だが、ウイーンは「外国人」を良く認識する街なので、アバドは外国人、あたしも寄留の外国人であった。それでなんとなく隣国伊太利亜の外国人に近親感を持ったのである。
それでいささかの弔意を表する為に、ウイーンに行く。

なにもオペラとかコンサートに行くのではない。
四十年前によく歩いた路地裏とか場末の通りを歩いてみたいのである。

カメラはトラベルライトが本質だから、こういう組み合わせになる。前とほとんど同じだ。こういう極小の機材でちゃんと仕事が出来るのは有り難い。

 

2014年2月 9日 (日)

キヤノンの手の込んだファインダー

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アクセサリーファインダーというのは、以前は必需品であった。それで昭和三十年代のアサヒカメラの向丘遊園とか大磯ロングビーチの撮影会の後には、レンジファインダーから迷子になった、アクセサリーファインダが沢山回収されたそうである。

あたしもライカに付けた21mm用ファインダーを世界中に半ダースは落としている。
このキヤノンのユニバーサルファインダーはその中でも特筆ものであって、ケプラー式変倍ファインダーがターレット式という豪華版である。
仕上げは非常に良い。しかし重い。

最近の傾向はこういうファインダーは実用品ではなく、愛玩品であることだ。
実際に撮影するには、ライカには内蔵でブライドフレームファインダーがあるし、コシナ製の軽量なファインダーの方がいい。

しかし、こういう昭和三十年代のファインダーを覗いていると、東京オリンピックへの夢(1964の)が膨らむ。
値段は当時13000円はしたようだ。
すなわち勤労者の月給に等しい。

2014年2月 8日 (土)

リスボンの黄色い市電の終点がセメトリーなのは寓話的だ

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リスボンの黄色い市電の西の終点には墓地がある。傾斜地に造成された墓地なので、なかなか眺めが良い。

テージョ河が一望できる。亡くなった母は、自分の墓地を見て、その先に秩父連山が見るので「死んでから山を見るの」と行った。あららぎ派の家人の末裔で歌の方がそれほどでもなかったが、この一言が母が世界を看破しているなと思った。

リスボンの西の墓地はその意味で「死んでからテージョ河を見る」位置にある。

もっともベラバルトークはプラハの偉人墓地で母なるモルダウに背中を向けていたのは不可解である。フランツカフカの墓もプラハの東のユダヤ人墓地の分かり易い所にあるので、ワンカップ大関がそなえてある。これはカフカには迷惑なことであろう。

断腸亭などは墓展をさかんにやっているが、これは文人墨客の趣味であった。

あたしの場合には民族学から見た生死感を見学に行くというところだ。カソリックの生死感はあまりにも寓意的で息がつまる。

西の墓地の側には、かのペソアの住居(今は国立のモニュメント)もある。ペソアの住まいは1930年には場末であった。寺町でもあるから周囲は墓地だらけだ。これが詩人が詩作するには絶好な環境であったに違いない。

撮影はあたしの一番最初に買った、スイス製のスイターである。これをアダプターでライカに連動するようにしてある。

一番上の老人の後姿は寓意的であまり好きではないが、好いたーの描写は好きだ。ちょっと私的に写り過ぎるきらいはあるが、もともとリスボンにはあたしはノスタルジー引きずりに行くわけだから、これはそれで良いわけだ。

2014年2月 7日 (金)

黄色い市電と生活が交差する

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リスボンの黄色い市電は偉大な被写体である。

かの詩人ペソアの「不穏の書」を見ていたら、やはり市電の中の描写があった。それは向かいの若い婦人のドレスの繊細な描写である。
断腸亭も同様の観察をしていて、この場合には細かい筆で画を描いている。
ペソアのエレクトリコの中での人物観察はそのままカメラに持ち替えると、ウオーカーエバンスのマンハッタンの地下鉄の中のスナップショットを思いだした。

さて、路面電車が交差する所にリスボンの人間が歩行している。世界で公共交通機関の運行と人間の運行がこれだけ近接している街はちょっとないのではなかろうか。

三十四年前のリスボンはまだ旧市街のアウグスタ通りにカメラ店があった。その時の状況をあたしは「まるでカメラ店の中に黄色い市電が乗り込んでくるようだ」と書いている。
それだけ店内とエレクトリコが接近していたのである。
路面電車と交差する所にリスボン市民のそのままの生活がある。

これはOM-DからライカM5に持ち替えて撮影したショットである。レンズは大昔のマクロスイターである。二十年ぶりに使ってたら、空気感のでる良いレンズであることを再確認した。
それでこのレンズの産地、スイスのKernに行ったのは数年前であるが、実にさっぱくな工業都市でがっかりしたことがある。
もっともレンズはそういう場所で生産されるのが正しい背景であろう。
オーバーコッヘンみたいに、ホテルが一軒、飲み屋兼用のレストランが3軒ではいけないわけだ。

★ライカM5 マクロスイター50mm

2014年2月 6日 (木)

ロッシオ広場の人

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ロッシオ広場に集まる人は観察の対象になる。

リスボンの人で良い感じなのは老人である。あたしが老人であるので、この言い方は変だけど、ようするにあたしよりも一回り以上、年配の人生の先輩のことだ。

ロッシオ広場の東にある、フィゲイロ広場ではそういう先輩連が立ち話をしているのが粋である。倫敦では英国の大先輩はパブで立ち話の名人だけど、あそこはビターがあるからその価値は割引である。

リスボンの先輩連はアルコール抜きでシラフの立ち話だから、その意味では人生に覚醒しているのだ。

尊敬する詩人ペソアは四十代の夭折であるから、その肖像は壮年のそれである。かの詩人が長生きしたら、こういう風貌ではないかと思われる紳士を部屋から望遠ズーム付きのOM−Dで覗いていたら、発見した。

ペソアは壮年期にはハットをかぶっているが、やはり老年になったらこういうハンチングであろう。

実にハンチングは若い連中には絶対に似合わない。若い連中だとなにかあまり信用のおけない探偵事務所の使い走りのように見えるのである。

★OM-D EM-1 40-150MM

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2014年2月 5日 (水)

シャボン玉ホリデー

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リスボンのロッシオ広場に日曜の午後になると、シャボン玉屋さんが登場する。

子供達に大人気なばかりでなく、大人の足も止めさせる。

巨大なシャボン玉である。シャボンはポルトガル語であるからここが本場であろう。日本語でもシャボン玉であって、石けん水玉とは云わない。

この手の大道芸だと、すぐに口から炎を吐いたりするのが、パリあたりでは人気であるが、こういう地味な大道芸こそがリスボンには相応しい。

もう二十年以上前に、やはりリスボンの目抜き通りで「インコと猫とモルモットの大サーカス」というのがあった。おじいさんとおばあさんが路上に毛布を敷いて、そこに各種の動物を遊ばせているのである。何も芸をするのではないが、それぞれがなにか大サーカスの様子を呈していて、ようするにこれはエンターテイメントが爛熟した最後の姿ではないかと思われた。

それを撮影するつもりでAATON のフィルム撮影機をわざわざリスボンに持参した。ところがあたしが撮影機を持っていない時に、この大サーカスは営業していて、キャメラを持っている時にはお休みなのである。

それで結局、その動物サーカスは撮影できなかった。

★OM-D EM-1 40-150mm

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2014年2月 4日 (火)

この組み合わせで窓から撮影する

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リスボンで活躍したのは、12-40mmの他に40-150mmレンズがあった。これは非常に小型軽量なレンズだ。

リスボンの部屋の窓際にOM-Dにつけて置いてある。広場を見下ろして面白いシーン発見するとこの組み合わせで撮影する。40-150mmはライカだと80-300ミリに相当するので、人間の動きをロングショットで撮影するのとその人をクローズアップするのには最適だ。

巨匠アンドレ ケルテスはマンハッタンは五番街、ワシントンスクエアの北側からコンタックスSに400mmの望遠レンズでマンハッタンの四季を撮影した。

当時はまだズームレンズが市場化されていなかったが、もしケルテスがこういうズームを使っていたのなら、さらなる傑作が出来たかも知れない。

あたしはリスボンのロッシオ広場を一番長い時間眺めていたツーリストであったことは確かな事実だ。

四六時中、窓の外がロッシオ広場であったからだ。

早朝にゴミ集めのトラックが来る。広場には燃えるゴミ、燃えないゴミ、それとガラスのゴミ箱がある。

これが非常に忙しいゴミ箱であって、あらゆる人が、しそして近所の商店までがゴミを捨てに来る。

それでゴミ箱のサイズは普通のサイズであるので、不思議に思っていた。エアフランスのa380のギャレーのゴミ箱は新型であって内部でゴミを圧縮するのである。その新機構に感心していたが、まさかリスボンの中央広場のゴミ箱はそんな構造にはなっている筈はないなと考えていた。

早朝、下でゴミ回収の音がしたので、カメラを持って窓際に行った。想像外の[事件]だった。つまりゴミ箱に見えたのは、地下に埋め込まれた巨大なゴミコンテナの一部であったのだ。

それをクレーンでつり上げて大型トラックにゴミを移動するのである。なかなかトリックがあっていいなと思った。

★OM-D EM-1 40-150mm

2014年2月 3日 (月)

リスボンでホロゴン

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OM-D EM1で撮影した今回のリスボンのカットは約3500ショットであった。フィルムライカも持参してこれはM5で12本である。デジタルの十分の一である。

両者の比率はまずこんなものであろう。

メーンになったのは、ホロゴン15MMだ。四半世紀前にリスボンに行った時に持参したのはホロゴンウルトラワイドであった。当時は他に15MMクラスで軽量なレンズがなかった。

それで当時、エキザクテイブマガジンが大流行したのだがそういう仕事でパンチのある画像で見開きとなると、ホロゴンが活躍した。

四半世紀が経過して、ライカ用の交換レンズでこの街を撮影するのはそれなりに感慨がある。

思えばこの三十年、ロッシオ広場の周囲のホテルを転々をしているわけだ。広場の南東のホテルインターナショナルの窓からホロゴンウルトラワイドで撮影したのは四半世紀前であって、それからホテルメトロポール、ホテルアベニーダパレス等である。

15MMという超広角レンズがリスボンに似合っているのは、その狭い街に垂直な建物が蝟集してさらにそこで急な坂がアクセントをつけているからであろう。

2014年2月 2日 (日)

金町浄水場の「古い絵はがき」

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江戸川を歩行していると、金町浄水場の側にこのような施設が登場する。

これは取水塔というのであろうか。この水上に起立する塔があたしの幼年時代にはかなりモダンで気の効いた存在であった。

それは西武鉄道の村山貯水池である。母親の方の父が西武鉄道の関係者であったので、ユネスコ村とか行ったことがある。

幼年時代の最大のアトラクションは遊園地の遊具ではなく、貯水池の真ん中にある、この貯水塔であった。

水中に煉瓦造りの塔が浮いていることへの少年の驚きであったのかと考えても、どうも違うようだ。

例のベッヒャー夫妻の撮影で有名になった、欧州でまだそこここにある、水道タンクもあたしには魅力である。

さらにリスボンの水道橋も好きだ。つまり水道関係の施設に魅力を子供の頃から感じていたらしい。

その深い記憶が江戸川は金町浄水場のこういう施設に出会うと活性化するようである。

その構築物はどうも煉瓦でないと駄目というのも大事なポイントである。

この前のウイーンでもあたしの路面電車での小さな旅は無意識のうちに、そういうウイーン南部の水道塔に向かっていた。

ウイーン滞在中にあたしはずっと水道の水を飲んでいた。ウイーンの水はなかなかうまい。

東京大周遊でも持ち歩く、アルミ製のボトルにあたしは行く先々で公園で水道の水を詰めて、それを撮影時の飲料水にしている。

この時も、金町界隈の公園で水を補給した。

持参のパンの耳は公園の鳩さんに進呈した。

西日の当たる水道の取水塔はなにか西欧の古い絵はがきの色彩だ。

OM-D EM-1 17mm

1973年のキエフとコダクローム

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忘れられていた、1970年代のコダクロームが発見されたので面白がっているわけだ。

当時のカメラはライカもあったが、ソ連製のキエフ、つまりコンタックスのコピーも使っていた。

レンズは最近では珍品になっている、これもソ連製のオリオン28ミリである。このレンズは当時は現行商品でベートーベンの何回目かの住居の一階のカメラ店、フォトニーダーマイヤーで買った。たしか1300シリングであったから、2万円という感じだ。

この画像をよく見たら、キエフを構えたあたしが商店のガラスに映り込んでいる。

これはマリアヒルファー通りの肉屋だと思う。

デジカメなど将来のカメラとして想像も出来なかった四十数年前に撮影した画像がこうして活性化してくると、当時のウイーンの生活が記憶の奥から浮上してくる。

もっとも古いコダクロームは最新式のデジタルスキャナーで読み込んているのであるから、やはりデジタルの御世話にはなっているわけだ。

★ウイーン1973 キエフ オリオン28mmf6
コダクローム2

2014年2月 1日 (土)

窓辺のOM-D

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Photo_3 二週間のリスボンでOM-D はフルタイムで仕事した。
街でスナップするだけではなく、ペンションの部屋に戻ってきてから、カメラは窓辺に置く。

リスボンで一番眺めの良い部屋がここなのだ。
レンズは12-40と40-150ミリを手元に置く。
24時間の広場とその先のお城の様子が手にとるように分かる。

この場所は古い建物の一番上なので階段が大変であるが、その反面、視覚的に得られるものは大きい。この部屋を広場がわから見ると、巨大な下着姿の女性の広告壁画がある。その上の方から東洋人のじじいが撮影しているという、都市風景になるわけである。

下の画像の真ん中と左の窓が「我が領土」だ。
部屋から見ると、このカメラの肖像ではぼけているが、立派な噴水が見える。その水の音が四六時中しているのは、最初は気になるがすぐに慣れてしまう。

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★OM−D EM1  12-40mm PRO

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