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2014年1月31日 (金)

ブリテイッシュバー

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リスボンに三十年以上かよっていると、行きつけの店というのが出来るものだ。

ブリテイッシュバーはその最右翼の一つである。この古いバーはアメリアロドリゲスが出演の「暗いはしけ」という映画でも紹介されていると、ガイドブックにはあるが、あたしは見ていない。

上の船のガラス絵だが、たしかぼろぼろであったのを四半世紀ほど前にお店の帯改修をした時、あたらしいのにした。絵柄は同じであるが、まっさらなのが気に入らなかった。しかしそれも最近ではちょっと古びて見えるのが嬉しい。

あたしの想像力の行き先はここに1930年代には詩人ペソアが来ていたのではないかということである。彼の住まいの街の西側と仕事場とは路面電車の25番でつながっていたし、その可能性は高い。

他にペソアが通ったカフェはいずれも今では観光スポットであって、今では銅像まで建っているけど、ここは「ペソアが酔寄ったかも知れない」というあたしの予感ではむしろ濃度が高い。

1980年代にはそばのターミナルは西のカシュカイシュに向かう人が乗車前一杯やっていたものだが、数年前に駅は大理石の立派な建物になった。昔の古い駅に、このバーは実に似合っていた。

新しいターミナルの入り口はかなり西にずれてしまったので、その分だけ歩行距離が長くなった。そのせいでもなかろうが、客は少なくなった。

こういう立ち飲みが決まっている親父を見ると、あたしはそこらここらに「フェルナンド ペソアが偏在している事実」を感じるのである。
当時のバーで赤ワインを飲る、詩人の写真が残っている。実にそっくりである。その意味であたしはリスボンのバーで、路上で、少なくとも1ダースのペソアとすれ違っているわけだ。

下はリスボンのどっかのバーの詩人。
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2014年1月30日 (木)

ウイーン1973 ワインが招く

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wienとwineは中の二文字を入れ替えただけである。

これはなかなか素敵なことだ。

四半世紀前に、人気の目的地wienを、JALとANAで競争したことがあった。その関係であたしは当時のJALの機内誌の巻頭特集の取材でウイーンに行った。

結局、ウイーンはANAが獲得したのであるが、当時のJALの機内誌でまだ飛んでいない場所を巻頭でやるのはきわめて異例だった。

その特集はまあ普通のウイーンの観光案内なのは、発行物の目的からして当然ではある。

当然のことながら、ウイーンのワイン酒場を紹介する記事もあった。同行の編集者の女子さんが、あたしの撮影したスライドのトレイの分類で、「ワイン発祥の地」というラベルを付けていたのには吃驚した。

ワイン酒場の看板は各種ある。日本のように木の葉をボール状にして軒に掲げたのは、「新酒あります」のマークで、これはウイーンの周辺部の「ホイリゲ」の看板だ。

あたしは市内で見る、この手の葡萄を模したランタンが好きである。

夕暮れにこのようにワインのランタンに火が入ると、どうもその前は素通りできない。

ウイーンのワインの計量は1./4リッターが基本だ。古めかしいジョッキのような恰好のグラスに注いでくれる。

グラスの上の方に水平線があって、そこに1/4リッターの表示があり、そこまで正確に、つまりウイーンの薬学の実験室の厳密さでワインを注ぐのだ。

★ライカ ズミクロン90mm  コダクローム2

2014年1月29日 (水)

ウイーン1973 マロニエとVWの春

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七十年代のウイーンと言えば、フォルクスワーゲンのビートルである。

いや、世界中がビートルに占拠されていた。日本で七十年代にフォルクスワーゲンと言えば、お金持ちの車であった。だからその感覚でウイーンに行ったら、知り合いのウイーン人の写真家がビートルに乗っているので、お金持ちと勘違いした。

とんでもない錯覚であって、倹約家の乗るのがVWであることを知るにはしばらく時間がかかった。

その友人の写真家と1973年の夏にミュンヘンからチューリッヒ、そしてアルプスを越えて北伊太利亜に旅をした。当時、26最のあたしも運転した。

およそ2000キロほど走行したのか、ウイーンに戻って友人はガソリンの伝票を持参した。それはきっちり半分に割って支払いをした。フォルクスワーゲンはそういうクルマである。旅行中、なにか暑い夏だなと思っていた。フォルクスワーゲンのヒーターがつきっぱなしであったのだ。

ウイーンの大環状線の西側にまっすぐに西に伸びる道がある。タリア通りというのだが、その界隈には見事なマロニエの並木がある。

晩春にそこに、白い花ではなく、ピンクの花が咲く。あたしはそれが好きだった。しかしウイーンの七年半の生活の後に晩春の頃にウイーンに行ったことがない。

ピンクのマロニエとフォルクスワーゲンの背中はあたしの懐かしい視神経の記憶だ。

★オリンパスワイドスーパー ズイコー35mm f2
コダクローム2

2014年1月28日 (火)

ウイーン1973 天使薬局

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1973年にウイーンで撮影された古いコダクロームのシリーズである。

旧市街にある、天使薬局はまずウイーンでは最も魅力的なファサードであろう。

すでに40年も見ているのであるが、そこに入ったことはなかった。それで一度は入ってみようというので、しかし特に買うモノもないので、リップクリームを買ったのは確か3年前の1月のことであった。

ウイーンの古い薬局というのは、そのインテリアはどこか、アラブ的というか錬金術師の部屋のような感じがするものである。

この薬局もそうだった。ようするにエキゾチックなオリエント文化の香りなのである。

ファサードの天使のモザイクは、この40年間に少なくとも二度は修復がなされている。足場が組まれて天使の姿が見えない数ヶ月というのは大事なものが失われた感覚がそこにはあった。

修復されて、また天使のみずみずしい姿が現れた。天使という存在は歳をとらないのだということをあたしは教えられたのであった。

この建物のちょうど裏手にはウイーン市長が住んでいたし、その隣の家の屋根裏にはあたしのカメラ友達のヅデーテンドイツ人のブッケルト氏が住んでいた。カメラ談義とカメラ交換会をよくやった。山下洋輔さんをお連れしこともあった。ブッケルト氏は銃器のライセンスを折っている。それでドイツの空軍の将校がブーツの中に隠し持つ、ルガーの一発だけ発射できる、銃身だけのピストルを見せてくれたりした。その下りは洋輔さんの「ピアノ弾き飛んだ」に書かれている。

そこはNagra小路というのである。Nagraとはあたしにはスイス製の高級録音機の名前でもあった。

そのNagra小路の先を左折したさらに狭い小路の地下には 1683年に創業の古い古いワイン酒場があった。そこらへんを行ったり来たりしている間にあたしの二十代から三十代の時間は過ぎていった。

★オリンパスワイドスーパー ズイコー35mm f2
コダクローム2

2014年1月27日 (月)

リスボンの二本のレンズ

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二週間のリスボン撮影で、カットは三千以上になった。これは仕事なのであるが、使用する画像は2点の予定だ。
撮影枚数から使用写真を選ぶレートは1500枚に一枚となるが、まず妥当な線であろう。宝くじの当選率などよりは桁が違ってずっと高い。

主に気鋭のPROレンズシリーズを使った。外国取材でプライムレンズを使わないでズームだけで行ったのは初めての経験である。
12-50mmレンズは小型軽量である。それに慣れているので12-40mmレンズは手にしている時には大きく感じたが、実際に撮影に入るとそういうことは気にならない。
それは手にとっている時には、レンズは自分の身体と対峙しているのであるが、いざ撮影となると、それは自分の身体の延長となるからだ。

ズーム全域でf2,8を保っているのは便利だ。海外の初めて行く場所などでは、何があるか分からないのでやはりズームは有効なレンズである。

ずっと使っている12-50は優秀なレンズであるが、これはフィールド用だから、望遠サイドでf6,3というのは、ちょっときつい。

12-40mmレンズの全域でf2,8はその点、安心できる。撮影は広場の快晴かから裏路地の暗闇まで多岐に及ぶからだ。

2014年1月26日 (日)

ウイーン1973 古いレストランの看板

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リスボンから戻って、最初に接した訃報は、指揮者クラウデイオ アバドの亡くなったことである。

アバドの活躍は実はあたしがウイーンに棲んでいた当時と重なってくる。

家人とウイーンでマーラーを指揮したのが、まだ新人のアバドであって、ジエシーノーマンがソロであった。場所はムジークフェラインであった。

こういう記憶は永く残る。当時のアバドにあたしが共感したのは、変な言い方であるが、同じ外国人としてのシンパシーみたいなものであった。

というのも、ブレーゲンツの写真ワークショップに講師として呼ばれた時に、そこのペンションのフラウがあたしを伊太利亜人だと思ったのである。

なにも民族学的な視点からではない。オーストリアの田舎街では、外国人はすべて伊太利亜人なのである。ドイツ人はドイツ語が通じるから、それは同胞なのだ。

最近発見された「ウイーンフィルムケース」は近日中に写真展の予定であるが、その中の一枚がこれだ。

ウイーン旧市街の恐らく戦前の広告である。建物の壁に描かれたそのデザインがいい。

アバドの死去を知って、急遽、2月にはウイーンに行くことにした。

★WIEN 1973  オリンパスワイド スーパー

コダクローム2

2014年1月25日 (土)

ペソアのタイプライター

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葡萄牙の偉人として、バスコダガマとかカモンイスが偉大であるのは分かるが、20世紀のダーバンからの「帰国子女」である、フェルナンド ペソアが偉大であるのはなかなか理解が困難だ。ペソアは「無名」であって生前に出したのは一冊の詩集のみである。

1992年であったか、リスボンの英文紙を見て居て、パソアの未完のリスボンのガイドブックが出版されたのを知って、チャドの本屋で求めた。だからあたしのリスボンはペソアにガイドされているので、実に贅沢なことである。

ペソアのような象徴主義の詩人が実用的なガイドブックを書いたのは意外であるが、つまり愛するリスボンをもっと有名にしようという愛国心なのであろう。

ペソアの時代と現代の最大の違いはリスボンへのアプローチである。当時は海からのアプローチで、街の中に入って行くのはわくわくするが、今は町外れのへんぴな場所に着陸だ。

飛行機が人生を便利にしたかも知れないが、都市へのアプローチはどうもがさつである。

ペソアの博物館に行ってきた。今まで行こうと思っていてなかなか果たせなかったのである。場所は例の西の墓地の手前であるから簡単に行けるのであるが、あたしの経験からそういう偉人の記念館というのは、大抵が失望するものである。

今回もそうであって。行かなければ良かった。ようするに国家記念物であって、入り口には警官がいて、中は学校の実習のキッズでいっぱいであるからだ。

1935年にペソアが自身で書いた略歴にはこの建物のアドレスの二階の左側の部屋という記述がある。ところが葡萄牙政府が建物全部を買い上げて巨大なスペースの展示場にしてしまった。

こういう空間の処理は大航海時代の影響があるのかも知れない。

二階左側の寝室には彼のベッドと鏡と、それから国立図書館に所蔵されている、有名な「ペソアのトランク」のレプリカが展示されていた。

生前にただ一冊の詩集を出版して、他の原稿はタイプで25000枚あるという伝説の反故箱である。

エントランスにはレミントンのタイプライターがあった。自分の出版社を起こしてそれを潰してしまった詩人はこのタイプライターで商業の手紙を書いて生活していたのである。

2014年1月24日 (金)

ブレッソンの真似してレンズキャップに紐

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リスボンから戻ったら、今、騒動のウクライナからレンズが届いていた。

木星球の35mmである。これはすでにウイーン時代から愛用しているレンズである。それのブラック仕上げがブラックニコンに似合いそうなので注文した。
この場合、大事なのは最近造られた、ブラックのアルマイト仕上げではなく、ブラックペイント仕上げであるのが重要である。
これは1969年に製造のブラックペイント仕上げである。レンズはカールツアイスイエナのビオゴン35mm
のコピーだから性能的には信頼できる。

今回、嬉しかったのはこのような「レンズキャップに紐」の工作がなされていたことだ。

以前、「ライカを買う理由」(東京書籍)であったと思うが、表紙にブレッソンがライカを構えているのを掲載した。マグナムから借りたので大変な値段であったそうだ。

それはともかく、ブレッソンはズミクロン50mmに紐付きのレンズキャップを使っている。
それが格好良かった。

数年前にその真似がしたくて、マンハッタンでそういうレンズキャップの紐を手にいれたのだけど、これはレンズキャップと紐とは接着テープで結合されているので、すぐ分離してしまう。
やはりこのように、孔をあけるのが一番なのである。

安価な木星球をそういう風に大事に使っている人がウクライナに居たわけであって、これは嬉しい。

2014年1月23日 (木)

アズレージョ

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アズレージョ、タイルの画を見るのは楽しみなものである。
あたしのリスボン地図の中にそういう場所がプロットしてある、

市内にあるタイル画は取り壊されたものがおおい。だから商業の中心からちょっとずれた町外れにこういう素晴らしいタイル画が残っている。

1980年の秋にこれに出会った時には「ああ、今世紀初めのタイル画だな」と思っていた。ライカD3にオリオン28MMで撮影したのであった。フィルムはトライXだった。今回、ここに来て感じたのは、これは前世紀、つまり二十世紀に制作されたものであることに気がついた点だ。
いきなりその存在が古美術にジャンプしてしまったのである。

★OMD EM1 12-40MM PRO

2014年1月22日 (水)

⭐︎お知らせ

チョートクカメラ塾第八時限は本日配信です。
内容は
 「リスボン特急 旅のカメラ術」
 
OM-D M1 とライカM5で、リスボンを撮りまくったお話。

これがリスボンっ子の粋ってもんです

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今回のリスボンでの発見は、過去三十年に渡ってリスボンで電車に乗ったが、その範囲は徒歩で移動可能ということである。ハノイでもカイロでもそうだったが、すべて徒歩である。
これも東京大周遊の成果である。沢木さんは倫敦取材で30キロ歩くそうだが、それに対抗しているのではない。

最初のリスボンで感心したのは、エレクトリコのただのりである。規則違反というよりも、そこにリスボンっ子の粋を感じるのだ。
まあ、木場の角乗りみたいなものか。
いや、危険度にあってはこっちの方がずっと危険だ。水に落ちるだけではすまないからだ。

この伝統芸はとうに消滅したと思ったら、偶然に見かけたので嬉しかった。
しかしただのりのおっさんは大分歳をとっている。しかもこれは赤い観光用の市電なのである。一般の市電は黄色である。
思うにこれは、リスボン市電ただのり保存会の長老が、昔の伝統芸を披露しているのかも知れない。こういうのを見ると、あたしなどはアメリアが元気だった当時を回想する。
いいものを見せてもらった。

★OM-D EM1  12-40mm PRO

2014年1月21日 (火)

リスボンの「鱈屋」

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ポルトガルの国民食は鱈である。
最初にリスボンに到着した、1980年の秋。そこらのバーに飛び込んで麦酒のつまみにしたのが、これであった。鱈のコロッケだな。それで三十四年後の今回も同じ鱈のコロッケだ。

海に面している国で、塩づけの鱈が国民に人気があるのはちょっと不思議ではある。これは大航海時代に遠洋航海で、食品がこれしかなかったことへのノスタルジーなのではあるまいか。

塩づけの鱈は国内生産だけでは間に合わないのでアイスランドあたりから輸入している。クリスマス前なると、こういう鱈屋の店先に長い列ができる。鱈を買うのは家長の仕事である。
今回、あたしももっぱら鱈の御世話になっている。

★ OM D EM1  12-40mm PRO

2014年1月20日 (月)

リスボン あまりにも変わらない風景

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三週間ほど前にリスボンの同じ場所をアップしているが、これは間違いではない。この画像は今回の撮影分であって、三週間前のは2011年の12月の撮影である。

その間にはまるまる二年以上の最月が流れている。しかも場所はリスボンの中心部のコルネリウス広場である。ここの専門店でハモン セラーノ’(生ハム)を買ったり、猟銃店で上質の革カバンを買ったりした。それは四半世紀前のことだ。

瀟洒なお店がずらっと並んでいたのは、1980年代であった。今ではほどんどのお店が閉店している。これは結構な驚きである。

二年前に撮影した、閉じた洋装店のトルソが寸分のゆるぎもなくそこに存在するのはあまり嬉しくはない。

お店は繁盛していて、変わりがないのが一番である。閉店したまま変わりがないのは寂しい。

★OM D  EM1 12-40mm PRO

下の作例が二年前、2011年12月の同じ場所

★OM-D 12-50mm

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2014年1月19日 (日)

それぞれの人生

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リスボンの市電はリスボンの市長よりも、リスボン観光に貢献している。こういう効率の悪い電車を走らせているのは、大都市のゆとりというものだ。コントローラのハンドルの真鍮製の基盤には、LONDON 1898とか刻印されていりのだから、実に大したものだ。

リスボンの黄色い市電を撮影するために、世界中からテッチャンがやってくる。

日本人の数は少ないが、ドイツ人にはかなりの鉄魂があるようで、決められたポイントでずっと電車の通過を待っている。まあ、一日に数本というローカル線ではないからそんな苦労は要らないが。

あたしは電車が電車っぽく言えるアングルの撮影はすでに卒業したつもりである。

電車の脇から撮影すると、ロバートフランクの名作 アメリカ人の写真集のタイトルの写真を思い出すのである。

それで真横から撮影する。それぞれの人生がそれぞれの黄色い電車で運ばれて行く。かのフェルナンドペソアの住まいは、28系統の西の終点の近くにあった。かの詩人も横顔を見せながらこの電車に乗っていたのであろう。

OM D EM1  12-40 PRO

2014年1月18日 (土)

リスボンの怪しい東洋人

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リスボンの坂を登ったり下ったりしていると、お店にかならず鏡がある。

それもすでに閉店しているお店である。ようするに空間ががらんとしているので、お店の奥にある鏡が見通せるわけだ。

そこに怪しい東洋人が写っている。これは差別的意味ではなく、東洋はポルトガルの大航海時代にはかっこよい存在であった。澳門の街などがそうである。

澳門に行ってリスボンを思い出したりしたものであるが、実際にはあたしは澳門には一度しか行っていない。澳門よりリスボンが近くなのである。まあ、飛行時間からすれば逆であるが。

三十年前にリスボンに行った時に是非澳門に行こうと思った。澳門に行ったら長崎に行こうと思った。その理由は澳門で思いついたのである。

リスボンの酒場で出会った、船乗りが長崎は良い街だぞ、と教えてくれたのだ。しかしあたしは長崎に行ったことがなかった。

長崎は最後に訪問したのである。五年前であった。リスボン関係の都市としては、日本人としては、訪問の順序が逆になっている。

★OM D EM1  12-40mm PRO

2014年1月17日 (金)

お城の上に月が昇った

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部屋からの風景。
東京ではスカイツリーを視て、いい加減飽きてくるが、リスボンでは眼前が広場でその先がお城である。
一月のリスボンは雨が多い。しかしアフリカからの南風で雲は激し動くので月の出を見ることができる。

素晴らしい月の出である。
日本の感覚だと、銀閣寺の築山の前で月を愛でるわけであろうが、イスタンブールのミナレットに架かる満月は秀逸だったし、パルテノン神殿の真上の月もよかった。

このペンションの一番良い部屋というわけで、出窓には欧州共同体の旗、そしてふフランスの旗がはためいている。ようするにフランス人が最大のお客さんなのであろう。

レセプションのスタッフの中で、あたしより一つ年上のアントニオという紳士がいる。彼はリタイアしてここでパートタイムで働いている。エッセイの材料にいろいろ話を聞いた。
「そりゃあ、リスボンの月が一番だと思いますよ。ミスタータナカ」と彼は言う。
人はそれぞれにそれぞれの美しい月を持っている。

手前味噌ではなく、手前月というのだな。

★OMD EM1  12-40mm PRO

2014年1月16日 (木)

リスボン生活

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12 リスボン生活と言っても、他の外国と同じことである。
撮影第一だ。
朝の10時にホテルで一杯のエスプレッソを飲んで、OM-Dを持って街に出る。これは某誌の仕事である。

今回の一大進化は、全部徒歩で行くということだ。これは30年来のリスボンの新しいアプローチであった。
旧市街は街が小さい。それで人気の28番の市電の始発から終点までも徒歩で行けることが判明した。なにか大航海時代の新大陸発見のように思える。

ずっと歩いていると、それだけ、カメラの観察眼がするどくなるようだ。
OM-D EM1には、ズームレンズ12-40 PROを付ける。他にはレンズは持たない。
視神経が単純化されるのである。

昼過ぎにペンションに戻る。近所のスーパーPINGO DOCEでワインとチーズとパンとハムを買ってくる。ここのトマトはうまい。

午後はまた別の方面に撮影に行く。まず修行者めいた生活である。

2014年1月15日 (水)

眺めの良いバー

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フェルナンド・ペソア(Fernando António Nogueira de Seabra Pessoa、1888年6月13日 - 1935年11月30日)はポルトガル出身の詩人作家

に最初に出会ったのは、旧市街のエレベータの脇の古書店で、ペーパーバックだった。これは英文で書かれて、それにポルトガル語の対訳がついた、文豪のリスボンガイドブックである。

これは今でもそのまま役にたつ。10年ほど前に日本語訳も出た。

パンテオンに奉られている大作家がガイドブックとは変だと思うかも知れないが、それは説明はしない。

今居る場所はリスボン大地震の後に出来た新建築だから、ペソアの時代にも当然にあった。

その安ペンションの窓がなかなかのバーであるのは、大発見だ。

それで下のカフェニコラにはとんどご無沙汰である。

こういう丸い画像の絵はがきなどは、ペソアと同時代的だな。

2014年1月14日 (火)

リスボン ライカインコの窓

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リスボンの最も古い街区、アルファマで道に迷うのは楽しみなものであるが、こまったことに30年もここを徘徊していると、道に迷うことはなくなった。だからつまらない。

ドイツ人のツーリストは手持ちの地図と見比べながら、慎重に小路から路地へと進む。まるで探検隊である。アルファマは道に迷うことが快感なのに、残念な次第である。

そういう割り切れない気持ちで急な狭い石段を登りって、狭い広場に出たら、ライカインコに声をかけられた。狭い小路の大理石の街だから、鳥の声は遠くまで響く。
見上げると、小さなアパートの窓に鳥かごがさがっている。そこでレンズを望遠の40-150mmに変えた。普段はあたしはそういうレンズ交換などはしない主義なのであるが、ライカインコに呼ばれたのだからこれは例外である。

そのまま、そのショットのことは忘れていて、ここリスボンで2011年のショットを見ていたら、この画像に行きついた。
思うに、インコの籠はそのアパートの模型のように見える。広くはないが、生活に必要なものは全部揃っている。
こういうアパート暮らしは快適であろう。

面白いことに、上のバルコニーの植物が良い具合に垂れ下がって、装飾の役割をしている。これも良い感じだ。

★ペン3 40-150mm

2014年1月13日 (月)

ウイリアムクラインはまだ同じライカR6だな

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ユーチューブでウイリアムクラインの最近のドキュメンタリーを見た。
プラハで最後に会ってから、二十年近くが経過している。

あの時は王宮のギャラリーで回顧展があって、あたしはアシスタントめいたことをした。クラインはライカR6に28mmレンズで撮影していた。
それを見て実に勉強になった。
もっともクラインの助手と言っても、脇についていて、大パーテイの群集の中をドイツ語でプラハの人になにか言うのがあたしの役目だった。

本当はチエコ語が出来ればいいのだけどプラハで通じないと思っていたのか、それとも英語は通じないと思っていたのか、なぜそういう次第になったのかいまだに不明である。しかしそれはクラインに頼まれたのである。

クラインはその時、ライカR6であったが、今回の最新のフィルムでマンハッタンのハーレムの撮影では。同じカメラを使っているので感心した。
フィルム交換しながら、「デジカメ?そんなの使わないよ」とうそぶいているのが印象的だった。

四半世紀前、クラインがプランタン東京の個展に来日して、その時はNHKが朝の番組で銀座四丁目でライカM6で撮影する写真家を紹介していた。その前の晩にクラインに会った時に「おれは見ないよ、時差ぼけだから寝てるな」と言ってた。

その時であったが、「1957に東京の撮影に来た時、日本光学からスポンサーで提供してもらったニコン(多分複数のSPとF)がかなり古くなっているので、ニコンに話をしてくれないか」と頼まれた。
その話は上に上げたが立ち消えになってしまった。クラインのような巨大広告塔をニコンが逃してしまったのは残念である。その直後にライカが彼のスポンサーになったらしい。

クラインの撮影方は相手とのコミュニケーションを取りながら撮影することが分かった。これはハーレムのバーバーの内部での撮影であった。それで大昔になぜあたしがアシスタントで雇われたのかが分かったような気がした。
クラインは今回、プラハの人間ドラマを撮りにきた、と言った。
ウイーンにはまだ行ったことがないので、是非撮りたいとも言ってた。

フィルムの中のクラインは84最で杖はついているが、まだまだいけるという感じがした。クラインさんはウイーンを撮りにいったかな。

クラインの写真集ニューヨークはあたしは高校生の当時に銀座のイエナ書店で買った。値段は1600円だった。その当時のレシートがあるので分かる。その本にクラインは
To Chotoku Happy New york!
とサインしてくれた。

2014年1月12日 (日)

リスボンの見えないペンション

1 ロッシオ広場はリスボンの中心地である。狭い広場だから三十年もほっつき歩いているから、隅の隅まで知っていると思ったのは不覚だった。
夜遅く広場でタクシーを降りて、有名なカフェニコラの前まで行って、目指すペンションの位置が分からない。店じまいをしているギャルソンに聞いたら、その先に入口があるというが、発見できない。カフェニコラは正面と裏手と入口がある。
結局、広場をぐるっと回ってカフェニコラの裏口まできてしまった。
そこで店じまいをしている、別のギャルソンに場所を聞いたら、店内に導かれて、最初の入り口に出た。
長い歴史のあるこのカフェで大きなスーツケースくを持って、ただ通り抜けしたのはあたしが初めてであろう。

今度はギャルソンが案内してくれた。カフェのメインエントランスから南に二十メーターほど下ると、ツーリスト向けのピザ屋がある。そのテラスの席に数人のキッズがたむろしてる。
さっきその前をあたしがスーツケース引いて歩いている時、その一人があたしに寄ってきて何か囁いた。小さなチョコレートみたいな物を手のひらを開いて見せた。ははあアムステルダムみたいだなと思った。

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ギャルソンががそのピザ屋の一杯に並んだ椅子の奥にぽっかり開いた穴倉を示した。階段は急でしかも石がすり減っている。 そこがペンションのエントランスなのだ。
エントランスの床はエッシャー並みの立体的なデザインのアズレージョである。
エアフランスで一万二千キロ楽チンな旅をしてきて、最後の最後にこの試練だ。まるでプラハのアトリエに到着した感じだ。プラハでもエレベーターはない。
これは天国に通じる階段であり、最高のエクササイズであり、アトラクションである。案内してくれたギャルソンにチップ渡してまず深呼吸。
ここを、リスボンの見えないペンションと命名した。

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iPadから送信 Chotoku Tanaka

2014年1月11日 (土)

人間は垂直で電車は斜め

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リスボンの市電は土地の人には大事な生活の移動手段であるが、同時にツーリストにはテーマパークの素敵な乗り物である。

ドイツ人がこのエレクトリコに熱狂的なのは、彼らの故郷のストラセンバーンはこれほどの傾斜を登り下りする路線がないからだ。

実際、フニクラのようである。リスボンでさらに傾斜の急なところは何カ所か登山電車形式になっている。しかしそれは乗客は垂直に立っていられるから、その意味では、普通の電車が急な坂で斜めになる方が、都市の冒険としては格が上なのである。

普段はプライムレンズを愛用するあたしであるが、こういうショットには常用のズームが便利である。電車と背景の建物の距離感を縮めて撮影したいので、広角レンズでは無理である。

この街角もすでに30年も撮影しているが、最初に来た時にはあたしは古いライカに28ミリであったから、こういうショットは撮れなかった。

まあ三十年かけて視神経が大人(老人)になったわけだ。それはそれで結構である。

★ペン3  12-50mm

2014年1月10日 (金)

リスボン 実に経験三十年の「パウチッ子」

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リスボンも三十年も行くと、三十年変わっていない人もいる。
沢木耕太郎さんが、外国の同じ場所に長く行くことが、真実の旅になるという意味のことを言っていた。
ひとつの街の特定できる一人の人をながく見続けることは、その人の人生に伴走することであろう。

リスボンの中心の広場にカードや書類をラミネートする人が居る。十年一日のようにそこにおでんの屋台をだしているというのは、行商の理想であるが、こっちは三十年一日のようにそこにスタンドを出して、定期券とか証明書をラミネート加工している。
あたしも最初のリスボンではこの人に日本写真家協会のプレスカードをラミネートしてもらった。

これは2011年の12月撮影の「パウチッ子」である。この人は確かに最初に会った時には青年であった。それがこういう歳になっている。
ちょっと感動した。

真正面からその「老職人」を撮影したら彼の上に鏡があることに気がついた。そこに30年前にこの人にラミネート加工してもらった、極東の青年は今は極東の老人になっているのが写っている。

時間の経過が偉大であることに気づくのはこういう瞬間だ。

★pen 3 12-50mm

2014年1月 9日 (木)

エレクトリコ

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これも2011年のクリスマス前のリスボンである。
ベンダースがリスボン物語を監督してから、この街は欧州人のメランコリーな街の極西というシナリオになってしまった。

だから黄色い老犬ならぬ、黄色い市電は、ともするとドイツ人とアメリカ人と日本人だけで占拠されたりする。地元の人は乗車のスペースがないから、坂を登ったりしている。

あたしのノスタルジーも、このエレクトリコである。それは昭和30年代の東京の市電につながっている。今、大流行の鉄ちゃんとはかなり違う。これはもっとしめやかな記憶の遡上なのだ。

三十年前には市電の24番というのがあって、これは市街を大周遊する路線であった。それが廃止になって、今の人気は28番系統である。西の市営墓地から東に走って、アルファマを通過し東の果てに行く、ドラマチック路線だ。

2011年12月撮影。pen 3

2014年1月 8日 (水)

本日移動日 NRT CDG  LIS

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本日移動日 NRT CDG  LIS

一万数千キロの距離をたった一日で移動できるのはまさに我々の時代の恩恵である。

時差には弱いのだけど、昨年末の北京では時差が1時間しかないので、逆に物足りなく思った。

今回はしっかり時差があるのが嬉しい。

この画像は2011年12月のリスボンに到着した直後の画像である。場所はアベニーダパレス。

木村伊兵衛さんが、投宿したドイツはウエッツラーのホテルで、鏡に向かってセルフポートレートを撮っている。カメラはライカフレックス1型であった。

その真似をしたまでである。しかし、フリードランダーのようにセルルポートレートで写真集を出してしまうような人も居るから、自写像はなかなか馬鹿にできない。

あたしはそれなりに旅慣れていると思うのは、旅先の枕が気にならないことだ。

どこでも良く睡眠できるのである。ただし時差からの復帰は遅くて、1週間経過してようやくその時間帯になれたと思うともう帰国ということになる。

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2014年1月 7日 (火)

リスボンに持参のカメラたち

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今回、リスボンに持参するカメラ。
今更、言うまでもないが、トラベルライトである。

OM-D EM1には12-40
OM-Dには12-50
ズームレンズが基本である。それと小型軽量な40-150である。これはなかなか使えるレンズだ。

さらに、OM時代の、いや、フィルムのM-1時代の55mm f1,2を持つ。
2011年の暮れのリスボン撮影では、M-1時代の50mm f1,4を持った。その後にさらに明るいこのレンズを手に入れた。このf1,2レンズは一昨年の暮れのハノイでも大活躍した。暗闇の奧が写るレンズだ。

思えばリスボンに最初に行ってから、すでに34年が経過しているのである。
最初のリスボンでは戦前のライカD3とポラロイド社のsx70を持参した。

あれから三十年。カメラの進化は凄いけど一方で戦前のライカもポラロイドも人気である。それだけ
写真の表現の幅が広がったわけだ。

2014年1月 6日 (月)

ぼくのコダクローム ウイーン1973

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ウイーンの1973に撮影された、コダクロームのシリーズ。

子供がだっこされているポートレートというのをなぜ撮影したのか今となっては不明である。

ひとつ確かなのは、子供のポートレートとしては、椅子などに座らせるより、ずっと安定がいいことだ。それで親と同じ速度で歩行しつつ、こういうショットを撮影した。子供のだっこ写真はあたしの「ウイーンとライカの日々」でも巻頭の見開きで掲載されている。これはモノクロームである。

上の写真が凄いのは子供が裸の人形をわしづかみにしていることだ。なにか、そこにホロコーストを感じるのである。

カメラはオリンパスワイドスーパーだ。当時、ライカ用のズミクロン35mmも持っていたが、それは眼鏡付きだった。かさばるので同じ35mmnのf2の付いた、ワイドスーパーを使った。今でも数台のオリンパスワイドを使っている。

これを撮影したオリンパスワイドはウイーンに出発前に、オリンパスの駿河台下で整備してもらった。担当者は泉沢さんと仰有った。十年使って戒厳令直後のポーランドのワルシャワでもオリンパスXAと二台で撮影した。それは当時のアサヒカメラに掲載された。帰りにワルシャワ空港で「あげられて」50本近いフィルムを没収された。しかしスキを見て、数本のフィルムをポケットに入れてウイーンに飛んだのであった。

そのずっと以前、まだライカM2とか、ニコンSPが現役時代に、オリンパスワイドスーパーのブラックを使っている報道カメラマンが居た。それはかの吉田茂の東京カテドラルの葬儀の時に見たのである。これはかっこいいと思った。

八枚玉のズイコー35mm f2は逆光には弱いが順光では良い写りをする。これは八枚玉のズミクロンでも同じことだ。

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★オリンパスワイドスーパー H Zuiko 35mm f2

2014年1月 5日 (日)

ウイーン1973 ナイトホークス

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1973年にウイーンの滞在初年に撮影した、コダクロームのスライドが三百点ほど発見された。それをスキャンしてみたらなかなか面白い。

人間の記憶は不思議であって、そのほとんどの場所とその撮影時の記憶はちゃんと残っているのに、数カットだけまったく記憶にないショットがある。

そのひとつがこれだ。闇の中に男が浮かんでいる。これは多分、ウイーンの旧市街で撮影したものだ。

最初はウインドウショッピングをしている男性かと思った。しかし子細に観察すると、男性の前に麦酒のサーバーがある。しかし周囲は真っ暗だから、こういう場所で周囲が闇というのは実にあり得ないことだ。

それゆえ、なにか舞台の一面のような感じもする。カラー版で撮影された「第三の男」はこういうシーンから始まるのではないかと思える。

実際にウイーンの旧市街で金庫破りの相談をするというシーンを、そこらの安酒場でロケしたことがある。これはマリオ アドルフ主演の劇場映画で、1976年のことだった。そういう労働者の集まるバーが今、どうなっているか、この前にウイーンに行った時、再訪したら、見事にマクドナルドに「変身」していた。

こういうのは有り難くない。

★オリンパスワイドスーパー コダクローム

2014年1月 4日 (土)

リスボンの見えないカメラ店

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リスボンの見えないカメラ店とはすでに二十年のおつきあいだ。

この店には看板がない。上の画像では看板が出ていると言うかも知れないが、これは数年前にカメラ店のスペースをシエアしてパソコン教室があった。
福田和也さんが調査にいって、現地から「パソコン教室になってしまいました」という報告を受けた。そのレポートはこのブログの数年前にあるはずだ。

その後、あたしが調査に行ったらお店はあって、パソコン教室はつぶれたがその看板を取り外すのが面倒なのでそのままになっているという。
これは2011年の暮れの撮影であるから、今はどうなっているか知れない。
店の奧に金庫があってそこにレアカメラが入っていた。
この前に行った時、金庫の中を見せろと言ったら、チョートクがみんな買ってしまたからもう売るカメラはないと店主のカルロスに言われた。

それでキエフ5にオリオン28ミリなどをリスボン土産に買った。

このカルロスの店に来る前には、ロッシオ駅の坂の裏手のカメラ店で、ドイツの放送局の払い下げのアリフレックス16のフルセットなどを買った。その店のおじいさんが、自分は1947からここで商売しているが、もう今年でしめるとの話だった。

翌年、行ったら店は閉まっていたが、メモがドアに貼ってある。ポルトガル語なので、通行人を待って、英語の分かる人に訳してもらった。「カメラ好きの馬鹿はここにこい」とあった。それで歩いて5分ほどのこの店、見えないカメラ店に来たのである。

★ペン2  12-50

2014年1月 3日 (金)

新春ライカモーター

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お正月なのでカメラの素振りをしたり。カメラのお正月飾りを楽しんだりしている。その内容はNifty 新おとなの学び場の「チョートクカメラ塾」で指南した。

カメラの最大の楽しみは「それが酒の肴になるかどうか」にかかっている。これは今年のテーマでもあるが、デジカメはあと一歩というとこだ。
カメラ人類さんのカメラ談義にしても、画素数はどうの、ローパスがこうのという話題ばっかりで、あの曲線に痺れたからあのデジカメは絶対に欲しいという会話はないのは寂しい。

デジカメはこれからは性能よりデザインの時代だ。命がけで欲しくなるような「物神」が欠けているのである。

ライカにライカモーターを付けたのは、真善美揃った理想の万能カメラであった。しかも戦前から調整をしないですべてのライカにモーターが使用可能というのは凄い。

ただしあたしのライカモーターは第二次大戦中にドイツ軍が本気だして使ったので、堅牢なクロームが摩耗している。
それを心配して、鵠沼のブレッソンがカスタムケースを造ってくれた。
これはなかなかに具合がいい。

2014年1月 2日 (木)

OM−D EM1が初撮りカメラ

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佃界隈に住んで四半世紀になる。
住吉さまの60年代のお祭りなど、日大の学生の当時に撮影に行ったものだ。
木村伊兵衛さんがその頃、撮影していらした。佃でお目にかかったことはない。木村名人には旧朝日新聞社の4階のソファーか、三共カメラの丸椅子であった。ライカM5にズミルックス50をお持ちだった。

当時の佃は「雪ふれば 佃は 古き 江戸のまち」(そういう石碑が渡船場跡にある)実に時代離れしていた。

そこに大川端リバーシテイが1989に出来て、あたしのような「よそ者」が乱入したのである。
元旦の恒例行事は「初撮影の儀」である。下に年賀状を取りにゆくついでに撮影に行っていたのが、儀式化したに過ぎない。
いつもは古いライカとかローライで持参するのであるが、来週から業務で行く、リスボンのカメラ慣らしにOM-Dを持参した。
レンズは12-40プロである。今回はストイックにこのズーム一本だけで行こうと思う。

あ、それともう一本はフィルム時代のM1用の55ミリf1,2をアダプターで使用する。来週の今日は1万2千キロ西に居て撮影しているわけだ。
ただしどちらがエキゾチックであるかは言うまでもない。

住吉様はあたしが来た当時は実に静かな元旦であったが、この十年来は東京の大観光スポットになったらしく、長蛇の列である。
その長蛇に並んでいるのは、地元の人ではない。地元の人は列に並ばないで鳥居の前を通過する時に礼をする。

あたしは住吉様は月島駅までの通い慣れた通勤路であるが、お正月はあたしの通る道などないので、新参者だけど、地元の方の真似して鳥居の手前からちょっと礼だけして通り過ぎた。

★ OM-D EM1 12-40 PRO

2014年1月 1日 (水)

キャパのメキシカンスーツケースを真似る

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あけましておめでとうございます。

ロバート キャパの失われたと思っていた、名作のネガがスーツケースに入ったまま発見されたのが話題になった。
その真似というのではないが、四十年前にウイーンの最初の年に撮影した、コダクロームが発見されたのある。
おそらく1980年に日本に戻ってきた時にありあわせのスライドファイルに入れておき、そのまま忘れていたものらしい。
中には1973年に撮影されたコダクロームが二百点以上入っていた。すこしも退色していなかった。

それをあたしの最新刊「ライカマイライフ」に30頁掲載した。その後のウイーンの暮らしではカラーフィルムなど買うゆとりなどなくなったので、もっぱら期限切れの映画のモノクロフィルムで撮影したわけである。

キャパのメキシカンスーツケースの真似をしてこれを「ウイーンスライドケース」と命名した。
今のDVDが果たして四十年後に読めるかどうか、これはかなりの問題である。

今の時代、撮影はOM-D M1のような最新鋭カメラがいいけど、その画像はアナログで保管するのがいいのかも知れない。

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★OM-D M1 12-40 PRO

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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