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チョートクカメラ塾ブログ

Chotokuぶらり パチ塾

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2013年12月31日 (火)

足穂古道

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作家稲垣足穂が好きなのは30歳の当時からであるから、すでに30年以上になる。多くの作品の初版本から読み始めて、改訂版での細かい違いなども勉強している。

稲垣足穂大全は7巻あるが、その中の誤植を見つけて嬉しがったりしている。

足穂の人物描写は辛辣である。戦前に武者小路実篤に初めてなにかの読書会で会って「あまり信用のおけない羅漢のような」と形容しているのはすごい。

もっとも武者小路実篤の存命中にはそのフレーズはなくて、後年実篤が亡くなった後に登場している。

ここは横寺町の路地だ。ここにもと東京高等数学塾があった、足穂の下宿の跡だ。突き当たりの右側にアパートがあった。

ブロック塀の向こうはお寺の墓地である。飯田橋の電車道から辻潤が坂をあがってきて、ショートカットしようと墓地の中を通過して、ちょうど足穂が下宿から飯塚酒場に行くのでくわして、「ここは抜けられますか」と聞いた。
これが足穗と辻潤の出会いであった。

30年前にまだ「駆け出し」のアラーキーさんを横寺町の「恥部屋」に訪ねた。四畳半の狭い、全部にH写真を貼ってある部屋だった。これはカメラ毎日の取材であった。あたしが掲載の作品を所望すると。経帷子は少しも慌てずに、そこらにあるピンアップ写真の鋲を抜いてあたしに渡してくれた。
だからその掲載作品にはそのまま鋲の孔がが開いていた。

ゆかりの「足穗古道」はあれから八十年経過してもその場所が特定できるのに、たかだか三十年年前の「アラーキーロード」はすでにその場所が分からない。

ペン5 12-50

2013年12月30日 (月)

リスボン 路面をつくるアーチスト

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リスボンの路面の敷石を工作する人にいつも感心している。

アルチザンであるのだけど、これはアーチストである。車道の方はかなり大きい直方体の石が敷き詰めてある。

歩道の方は一片7センチほどの石であるが、明るい色と暗い色をとりまぜて、歩道に夢見るような文様のデザインを造る。

しかも旧市街の老舗の前などは、そのお店の屋号がさらに細かいモザイクで造られている。実に素晴らしい舗道アートだ。

もう30年来、毎回のリスボンではかならずそこらの敷石を一個拾って、それと日本に持ち替える。無論、壊れた部分を持ってくるのである。それをペーパーウエイトにしているのである。鉛筆で年年月日を書いておく。あたしのコレクションは年代物のポートワインではなく、年代物の石である。

思うにリスボン市街のすべての道がこの敷石で埋め尽くされていると思うと、非常にゴージャスな感じがする。

しかも職人さんは地面にかがみ込んで、黙々と仕事をこなしている。

ペン3 14-42MM

2013年12月29日 (日)

赤羽のおでんや

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OM-D M1と12-40 PROを持って、雨のなるべく激しい時を狙って赤羽に行った。持参のiPhoneで撮影したのが、下のカットである。看板がびっしょり濡れている。
レンズの表面は濡れないようにフィルターがつけてあるが、防塵防滴のカメラはかなりタフであるから安心だ。

雨中での撮影でこの数年で一番酷であったのは、2011年の3月のマンハッタンであった。ほぼ毎日雨が降っていた。あの時は首からペン2をぶらさげて、カメラはともかくレンズが濡れないように、胸の方にレンズを向けて下げて歩いた。

12-40ミリの新ズームはその点、かなりの降雨でも大丈夫なようだ。カメラやレンズはもともと濡らしてはいけないのであるが、いざ撮影となるとそういう事は言ってはいられない。カメラマンより前に出て、率先して悪い環境に立つのが、カメラの任務というものだ。

赤羽の路地の奧のおでんやまで行って、撮影は一段落したので、大根とはんぺんを頼んで燗酒で小休止した。ここは地元の小山酒造の丸真正宗がある。

ようやくほっとして、かなり雨に濡れたカメラをタオルで丁寧に拭いたのは言うまでもない。Photo

★OMD  M1 12-40 PRO

2013年12月28日 (土)

北区神谷のランドマーク

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ミラノの中心街の込み入った小路を姪のあやと歩行していた時、ちょーとくおじさんどうして道が分かるの、と聞かれた。姪は非常な方向音痴のようである。

あたしも方向音痴ではあるが、一度通過した道は記憶している。それは町ならば細かいショーウインドウの展示品を記憶しているのである。まあ犬の角角のおしっこみたいなものだ。
それで道に迷うことはない。
東十条にある飲み屋が気に入ってJRの駅から歩行するのであるが、それではつまらない。

南北線の志茂から歩行したが、方向をロストしてしまった。ここらの街並みは全部同じに見えるのである。
そういう時には、この未来派めいたブロック塀が助けになる。これがランドマークであって、そこから先を曲がって、3ブロック先を左折という具合である。

四半世紀前にハンガリーを旅行中に出会った素敵な日本の女子が居て、彼女は実家が建材屋さんで少女時代からブロックの材料に親しんだので、ブロック塀が好きだと言った。こういう発言には同感できる。
欧米には鉄条網のコレクターもいる。南北戦争時代の鉄条網を集めるなど、奥ゆかしい。ブロック塀のコレクターさんもきっと存在するであろう。

★OM-D M1 12-40 PRO

2013年12月27日 (金)

五番街のバスストップのワンちゃんの裏表

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五番街をライカM3にカールツアイスイエナのビオゴン35mmを付けて歩行する。ライカは腕の所でホールドしている。

こうしていると、モチーフに出会った時に瞬時に撮影が出来るからだ。曇り日なので、1/500で絞りはf5,6だ。

木村伊兵衛さんがパリでブレッソンに会った時、ブレッソンの撮影テクニックを見ていた。それによると、スナップは立ち止まっている人を多く撮影したそうであって。ふっとライカを構えて撮影するのだけど、相手がそれに気がついた時には軽く会釈するそうである。

まことに人間的な対応である。

一方の木村さんの撮影現場を見た、北井一夫さんによれば、伊兵衛さんは、ぱっと撮影したら絶対に振り返らないそうである。ここらは江戸っ子のシャイと認識してよさそうである。

マンハッタンの五番街でバスを待つ人々は恰好なモチーフである。それは2ブロックごとに停車するから、ローカルな人の暮らしがそこに見えるのである。ファーストアベニューの最南端からサウスブロンクスグランドコンコースまでバスに乗ってことがあった。ドライバーが途中で交代したから、路線を全部乗ったのはあたしだけだ。lこういうのはスマートではない。

マンハッタナーは五番街はパブリックな場所であると認識しているから、撮影しても文句は言われない。そこがスマートでクールである。

文句を言うのは30年前の42丁目とか、バワリーのジャンキー連中であった。

これは大過去である。

それに比較すると、東京のスナップショットは命がけだ。世界で一番怖い町だな。

モスクワ、北京、リスボン、パリ、ウイーン、ハノイ、カイロなどどこでも路上のスナップは自由だ。

2013年12月26日 (木)

古いクロームのニコンF

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クローム仕上げのニコンFはいいな。

高校生の頃はかっこつけて、ブラックのニコンFを使っていた。しかし最近になって、クロームのニコンFがいいと思うようになった。

そのきっかけは、ビルカニンガムの古いマンハッタンでのドキュメンタリー映画を見て、本人に30数年前に五番街と58丁目の角で出会って、短い会話をしたことをお思い出したからだ。

クロームのニコンに50MM 1,4を付けていた。基本中の基本の機材である。乗っていた自転車はぼろぼろであった。

東松照明さんが一連の取材でやはりクロームのニコンFであった。沖縄の撮影ではミラーアップしたニコンに21MMのニッコールで下駄履きであったと、伝えられた。こういうゴシップはインターネットのない時代に、それこそ光の速度で伝播するのであった。

今、ニコンFのクロームにフィルムを装填して、ぽつり、ぽつりと今の東京を撮影している。

2013年12月25日 (水)

エルスケンと談笑した神保町のカフェが更地に

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銀座にプランタンがオープンした年って、何時か忘れたけどあたしがニューヨークから戻ってその後であると思う。それでも四半世紀は前かも知れない。

当時はプランタンは現代写真に力を入れていたので、そのオープニングの展覧会にエド バンデル エルスケンの大展覧会を開いた。

そういう文化事業を見ても、二十年前には自由があったし今はどうも閉塞している感がある。

エルスケンにアサヒカメラでインタビューするので、時間をきめて彼と東京をぶらぶらした。彼はライカM6にエルマリート21MMを付けていた。その後に、神保町の裏町の喫茶店に入った。通訳さんも誰もいない。エルスケンと二人きりであった。

それでリラックスして、彼と映画撮影のテクニックの話になった。当時はテレビのニュースはビデオで撮影ざれていたが、BBCの真面目なドキュメンタリーでは、まだフィルムの撮影機が使われていた。

エルスケンが60年代初めにオランダの放送局の仕事を始めた当時は、16mmカメラでプロ用のものがなかった。それで彼はスイス製のボレックスカメラを大改造して使っていた。その後に、フランスのエクレール社がACLという、小型軽量なプロ用カメラを出した。

エルスケン展のエントランスには、駱駝に乗ってエクレールACLカメラを持った、エルスケンの肖像が使われていた。

そんな話ばかりしていて、インタビューの本題からそれるので、あわてて写真美学と旅について話を軌道修正したのであった。

是非、オランダの自分の農場に来てくれと、握手してわかれた。

その少し後に、彼が癌であって、彼の死までを自ら記録したビデオを放送で見た。

ショックだった。

あたしが最初にエルスケンの仕事に触れたのは、19歳の時に代表的な写真集「スイート ライフ」に触れてからだ。銀座のイエナで6000円という高価な分厚いハードカバーの本だった。

先週、神保町の裏路地を歩行していたら、エルスケンと談笑したそのカフェはきれいさっぱり更地になっていた。

建物とかカメラとか、そういう、物とかモノより、やはり記憶の方が大事だと思った。

★OM-D M1  12-40MM PRO

2013年12月24日 (火)

OM-D M1で150MM 開放1/4秒でぶれない

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OM-D M1で夜の部屋から隅田川の上流のスカイツリーを撮影するのは、あまりにも当たり前である。スカイツリーは毎日見ているとたしかに飽きる。

もう少し、恋性能(高性能ではないよ)カメラの限界を試したくて、レンズを40-150mmに交換した。この小型軽量なズームはもともとは「我が子を撮影する為の運動会レンズ」であるらしいのだが、距離の離れたモチーフを撮影するには絶好なレンズだ。

海外取材では使う予定がなくても、かならず持参する。そして思いもかけないショットが撮れる。その大きさは小さな麦酒のタンブラー程度である。

そのズームを150mmサイドにして、深夜の中央大橋上を撮影した。

ファインダーの内部の表示ではシャッター速度は四分の一秒である。これはフルサイズで300mmの超望遠である。手持ちではまず不可能なシャッター速度である。

ゆっくり息を吐きながら、心を静めてシャッターを押す。それで撮影したのが、このショットだ。端の上の状況はぶれないでちゃんと記録されている。

これは大したものである。タクシーのライトが長くなっているので、かなりスローであることも分かる。

一昨年の今頃にペン3でリスボンのバスの中から手持ちでズイコー50mm f1,2で夜景を撮影したことを思いだした。それも良く写っていた。

明るいレンズとぶれ防止機構で、夜の世界は超越されたわけだ。

ここらは夜の写真家のブサッサイも吃驚するに違いない。

★OM-D M1 40-150MM

2013年12月23日 (月)

リスボンズームレンズ一本勝負

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ペンペンチョートクカメラ日記の読者さんの構成だが、あたしは同年代の皆さんが多いと思っていた。

ところが、実際には30十代を中心に構成されていることが分かった。ちょっと吃驚したのである。

それで三十代の皆さんは三十年前にはまだ物心がついていないわけだから、三十年前のリスボンの話をしても、おじいさんの昔話として楽しんでもらえるわけである。

三十年前はカメラに常用ズームレンズがようやく実用化された時代である。

それで当時のカメラ雑誌のメカ記事などで大流行したタイトルが「ズームレンズ一本勝負」というのであった。今ではこんなことは誰も言わない。

当時はプライムレンズがメーンで、ズームの市民権はなかった。そこにズームレンズだけで立ち向かうのは、セルバンテスのドンキホーテではないが、三十年前には大変な冒険であったのだ。

だからまさに「一本勝負」であった。

今の時代はズームはごくごく普通のレンズで一方でプライムレンズは個性的レンズの感がある。

常用ズームはまず広角から望遠までカバーするわけだが、たとえばあたしが新しい町に到着して最初に撮影に出かける時には、やはりズームレンズを持参する。

なにがあるか分からないので、それが最大の保険になるからだ。

こういう店の奥の方に鏡があってそこで自分の姿をセルフポートレート的に撮りたい時などは、広角レンズでは無理である。

駅のオーナメントとそこに立つ人物もやはり望遠系でないと撮影ができない。

常用ズームは初心者向けと思われているが、案外に奧の深い玉である。

★ペン3 12-50mm

2013年12月22日 (日)

リスボンのクラシック体重計

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リスボンに最初に1980に行って以来、何回行ったか分からないけど、当時と今とでまったく変わらないのは、ロッシオにあるこの体重計である。

三十年前にはコインはエスクードスであって、今はユーロになったのが違いだ。

もっともこの体重計は四十年前の欧州にはそこらここらにあった。今はどうやらこの世界一古い大都会だけに残っているようである。ベルリンの古いメトロのホームにあったのは2年前に確認している。

ただしあたしが体重を量ったのは、最初の1980の秋のみである。完全なアナログ機械である。乗ると眼前のだんだら縞の円盤が回転するのに、モダンタイムスを感じる。

その円盤の奧に切符の硬券を印刷をする、複雑な装置がある。こういう装置はデジタルでは味気ない。

今回、初めて子細に体重計を見たら、機械の脇にフックがあるのを今回初めて発見した。

33年前にそれを知っていれば、このフックにライカとかポラロイドsx70をぶら下げれば良かった、

★XZ-1

2013年12月21日 (土)

イラスト参考用写真

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新潟の加茂で長年御世話になった人がいた。
その方は数年前に亡くなって、奥様に「ライカマイライフ」をお送りしたら、お返事がきた。
その奥様は「ふすま絵」をやっておられるので、はがきにあたしの本の最初の頁の写真をイラストにしてくださった。

それがなかなか良い。

日本デザインセンターで駆け出しの頃、イラスト参考用写真というのを撮りにゆかされた。
銀座の中央通りになんとか銃砲店というのがあった。その店は今はないが、建物は昭和通りにそのまま残っている。そこで狩猟の銃を構えた男性の写真を、ニコンFに43-86のズームレンズで撮影した。その写真からイラストを起こしてそれがトヨタの新聞広告に使われたのである。

思えば、これはクラシックな手法であって、19世紀にはまだ写真製版が不完全であったので、いわゆる「イラストレーテッドニュース」というのは、写真をイラストに書き起こしたものである。

このフォルクスワーゲンには七十年代のナンバープレートがついている。七十年代に撮影したのだから当然だ。今はEUの白い、非個性的ナンバープレートだけど、昔は隣国は逆の色のプレートだった。つまりオーストリアは黒いプレートで、隣国のハンガリーは白いプレート、その隣のポーランドは黒いプレートという具合だ。オーストリアの隣国のドイツは白いプレート、オランダは黄色でそれが珍しく感じた。

そういう故事を思いだした。
どころで、はがきとイラストの比較をするので、ライカマイライフを開いたら、その本は船原長生さんへの献本であった。

最初に来た見本を贈呈するつもりでサインまでして、郵便局に行ってないのだ。ポストオフィスはあたしが撮影に出ている時には開いているが、佃にいる時には仕舞っている。
急いでマンハッタンに送らねば、、、

2013年12月20日 (金)

ライカの広告 ニコンの広告

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手元にあるカメラ雑誌の合本である。

合本と言っても、広告記事だけが合本されている。植田正治さんが何かに書いていたけど、新刊のカメラ雑誌が到着するとまずカメラの広告欄と巻末の中古欄を真っ先に披見したそうだ。

これが当時の普通のカメラ雑誌の見方であった。

今はインターネットがあるから、新製品のリークはし放題で、まことに味気ないちいうか、不思議な時代である。当時は月一のカメラ雑誌情報がすべてであった。

ドイツのフォトキナの取材などで入稿のタイミングを間違うと新年号になった。今のような即時性がないだけ、なにかのどかな、ゆっくり新製品情報を楽しむゆとりがあった。

1950年代の後半のカメラの広告、それもライカM3とニコンSの広告がこれである。ライカはおっとり構えている、それに古さがまったくない。この広告に登場するライカの製造番号帯があたしはベストな作り込みをしていた時代のライカだと思う。それでライカ人類さんにも薦めている。

ニコンS2の方はかなりハッスルしているのが、今にして見ればちょっと恥ずかしい。しかしこの時は、アメリカのコンシュマーマガシンでライカを押さえてトップになった時期である。

その前のニコンSはライフ関係者とか、ロバートキャパには好評であったが、一般人には向かなかった。ニコンS2はその意味で、最初の国際的カメラなのである。

しかも現代から見れば、モダンな装備(レバー巻き上げ、クランク巻き戻し)で、そのロゴが、ぐにゃりとしているのは、このモデルだけだ。

なせか、このライカとニコンの頁にカメラ屋さんのスタンプが押してある。それは白いスペースが沢山あるからだ。

他のメーカーの広告はなにしろ、六十年前のであるからレトロ感覚が満載すぎて見るに堪えない。

2013年12月19日 (木)

OM-D EM-1を使用開始

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PENのファーストモデルを使い始めたのが2009年の夏であった。

それから四年が経過して、オリンパスは大躍進である。

今回、OM-D M1(以下M1と記載)を使用開始した。

あたしはOM-1(フィルムの時代の)よりさらに前のフィルム使用のM-1を使っていた世代である。当時のライツから「いちゃもん」がついて、モデル名をOM-1に直したのは有名な話だ。

普通、アルファベットと数字の組み合わせは使用は自由な筈であるが、1970年代当時の日本のカメラ工業界にはその力がまだ無かった。

その意味で、OM-D最新モデルで堂々とM1と名乗るようになったのは、あたしのようなオールドカメラ人類には嬉しい。

逆に四十年来使っているライカM1を取り出してこれも使ってやろうと考えている。ブランドの重さがライツとオリンパスで逆転してしまったわけだ。

以下はM1を使い出した初日のあたしのフィールドノートである。

ーーーーー

OLYMPUS M1 撮影の初日
午前九時から午後五時までカメラを握っていた
右手のグリップ感覚はいいな

12-40のレンズは大型なので、左手のサポートの為に、グリップ(球形のコシナ製)を着ける

大型なレンズって、ツアイスとかライカのデジタルムービー用みたいだけどドレンドデザインなのかな

撮影のレスポンスは非常に速い
スイッチオンにした時は、一呼吸あるのはもう少し起動が短いとい

モードダイヤルがロックできるのはいい
いままで、ペン5ではセロファンテープで固定していた

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ズイコーレンズでは、これから「PRO」というシリーズの高級高性能頑丈なプロ向けのシリーズを出して行くようだ。

レンズの大きさはかなりある。しかし一日これを携帯したら、すぐに慣れた。

世の中、ツアイスとかライツのプロ用のデジタルシネマのレンズがあるが、あれは恐ろしい値段である。知らない人はとてつもなく優秀なレンズと勘違いするが、これは生産数とコストの問題なのである。個人の買うモノでないから、会社の減価償却にやさしいレンズなのである。

プロ用レンズで撮影して、スマホで画像評価しているのでは意味がない。新しいスイコープロレンズの凄い性能はまだ使い始めたばかりで分からないが、「普通のズイコーレンズ」で三年前に撮影したリスボンのシリーズをオリンパスギャラリーの写真展でBゼロサイズに伸ばしたら実に優秀であった。あれより優秀なのであろう。

さすがRAWは違いますね、と言うカメラ人類さんがいたが、これはJPEGの撮影で、しかもサイズは2,5MBなのである。

プロシリーズの性能は期待できるが、それよりもあたしが関心を持っているのは、これは酷使に耐えるレンズであることだ。フォーカスリングの操作感覚とか、ズームレンズのリングの操作は一本数百万の外国ブランドのズームレンズの感覚である。

それは重からず、軽からずという実に生理的に快感をもたらす操作感覚だ。

ここまでプロレンズを意識するのなら、数字の指標はもっと大きくしてもらいたかった。老人の老眼用ではなく、実際にほとんど暗黒の撮影現場で使うこともあるからだ。

あたしのアリフレックス35BLにはレンズマウントの上部に提灯あんこうめいた、LEDの小さいランプのアクセサリーがついている。プロレンズの表示数字の大型化は必要だと思う。それはデザインの差別化にもつながる。

2013年12月18日 (水)

都バスと東京カテドラル

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12 月14日の結婚四十二年の都内ツアーで、東京カテドラルに行ったら、びっくりした。光の十字架をかたどった、教会の前に都バスが停車しているのである。

ついに東京大学とか早稲田大学のように、都バスのバスストップが教会内に出来たのかと思った。
それは勘違いで、これは挙式をしたグループの貸し切りバスなのである。これはなかなか粋な行為だなと思った。
しかも入り口の角を曲がって、カテドラルのエントランスに廻ったら、都バスは1台ではなく、二台であった。実にゴージャスである。

プラハなどで、結婚式の後に白いフルストレッチのリムジンをクラクションならしながら市内を徘徊する「悪癖」がある。あれはアメリカ帝国主義の影響であろう。
そんなのよりずっとクールである。

なにかローマンカトリックが都バスを「列聖」した感もある。都バスはあたしには数多くの奇跡を起こしている。

★ペン5 12-50mm

2013年12月17日 (火)

ライカマイライフにサインする

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ライカマイライフは、あたしの127冊目の本だ。
名古屋のカメラ屋さんから、今回もまたサイン本の依頼があった。
ありがたいことである。

以前は、銀座や新宿のカメラ市でアトラクションとして、サイン会をよく開催した。にわか造りのテーブルの前に座って、お客さんの買ってくれた本にサインした。

ただサインするのも失礼なので、1分か2分ほどお客さんとライカ話をするのであるが、あまりながくやると、最後尾の人に迷惑がかかる。100名さまとして1分ずつ遅れると、100分の遅れになるからである。
長年サイン会をやっていると、そういうことが分かるようになる。
大手書店のサイン会より、カメラ市でのサイン会の方が売り上げは良いということも分かった。

これは本の単価が書店だと高い方に(二千円以上もする)なるのだが、カメラ市だとその二千円はもっとも安い商品であるからだ。
ここらは価格のトリックですね。

カメラ市でのサイン会の面白さは、皆さんの持参のライカの機種とそのレンズが微妙に異なるので、それで個人が特定できることだ。
ライカM2のブラックペイントにズミクロン35の八枚玉の人より、フェドにフェドの28ミリを着けている人の方が、あたしの記憶には残るのである。

最近のあたしの本は、見返しが黒であったりして、こういう場合には銀ペンでサインすれば良いのであるが、そういうのはあたしはゴールデン街に無縁だから(最後に行ったのは七年前に森山大道さん)手元にはない。

普通の黒のマーカーである。しかしライカマイライフはいきなり、フォルクスワーゲンの写真が出てくる。そのマージンにサインするという手を覚えた。

2013年12月16日 (月)

四十二年

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小学校の当時、音羽の家の二階の西側の窓から奇妙な建築物が日々建設されつつあった。
当時は音羽界隈は木造の黒い甍の平屋が普通であった。

そこに光輝くステンレススチールのモダン建築が登場した。これが東京カテドラル聖マリア大聖堂であった。

教会の関係者さんと懇意になって、随分沢山の写真を撮った。その一部は当時の土井枢機卿さまがバチカンにお持ちになった。
だからあたしのその当時のゼラチンシルバープリント数十枚の写真はバチカンの書庫のどっかにある筈だ。これはある意味、MoMAなんかより凄いことだ。

1971年12月14日にここで結婚式をあげた。日本デザインセンターの二年目であるから、カメラマンの友人が1ダースほど、それこそ「有名人の結婚式ばり」に集合してシャッター音を響かせたが、写真を送ってくれたのは、たしか榎本敏夫だけであった。それも写真はがき。

稲越功一さんは大きなカーラーの花束を抱えて、東池袋のアパートから月星デッキシューズで駆けつけてくれた。当時は有楽町線がないからどういう交通機関で来たのであろうか。

田村彰英さんはお母様に買ってもらった新調のスーツで颯爽とやってきた。
これが実に四十二年前のことなのである。

何時もこの時期には日本に居ないので、討ち入りの日を忘れがちであるが、今回は家人と「現場検証」に出かけた。
午前には3組の式があるようで、その二番目の挙式を見学させてもらった。

なかなか良かった。

思えば、このコンクリ製の聖堂も時代がついてきた。1971年と言えば、あたしはまだウイーンに行く前のことである。

1973からのウイーン暮らし、その後の1980年代から現在に至るプラハ暮らしで、欧州のカソリック教会があたしの「教会認識のスタンダード」になってしまうと、東京カテドラルはモダンな建築に見える。
そればかりか、堂内に「列柱」のないのがなにか変でもある。

思えば、半世紀近く前の記憶と現代の様子がほとんど同じという場所も少ないのではなかろうか。

大聖堂を出る時、次の挙式を待つグループとすれ違った。みれば「二十代の子供」ばかりである。考えてみれば当然だ。あたしも二十四歳だった。それから四十二年、、、これで計算は合うわけである。

★ペン5 12-50mm

2013年12月15日 (日)

ノクチルックスf1,2と木星玉f2の撮り比べ

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偽ライカ愛好会の会長(怪鳥と読む)からお借りした、ノクチルックス50mmf12と、うちに昔からあるジュピター50mmを撮り比べた。

カメラはライカMPで、フィルムはコダックのカラーネガ。露光はいずれも開放である。
これほど色味が異なるとは思わなかった。同じ光線でこうも違うのである。

あたしは、ニュートラルな画面より、ドラマチックでメリハリのある方が好きなので、下のレンズが好みである。

木星球は時価1000円。野口は100万超えであるが、シャープネスなどはいずれも差はないようだ。色味はかなり違う。
面白い体験であった。

常用レンズは軽い方がいい。ノクチはかなり重いので常用はなかなか困難だ。

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2013年12月14日 (土)

牛込中央通りがプラハに似ている件

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少年時代には、音羽のバスストップから牛込を経て、赤坂見附から新橋に行くバス路線あった。

何しに新橋に言ったのかは忘却したが、牛込中央通りのバスからの光景は好きだった。
その路線が無くなって数十年が経過した。牛込界隈の散策はせいぜいが神楽坂止まりであって、遠く、牛込の奥地に分け入る気力がなくなっていた、

その理由の一つは、この界隈には気になる建築があるのだが、そこに行くことが出来ないのである。他の建物に阻止されてしまう。

そこに見えているのに到達不可能。その意味ではこの界隈はカフカのプラハめいている。

先日、大江戸線の牛込神楽坂から歩行した。
なかなか発見があった。
このサイズなら部屋に置きたいなと思うような、ミニサイズのガードレールとか、北京の路地裏にひっそりありそうな、食いもの屋などである。

★ペン5 12-50mm

2013年12月13日 (金)

ゆめのしかり

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夢の光、とは半世紀の友人、田村彰英の有名なタイトルである。

あたしが銀座のニコンサロンで「最年少」でTDAY-TOKYOの個展を開催したのが1969であって、その次に開催したのが、田村だった。タイトルが「夢の光」。これはいいタイトルだ。

そのタイトルは最近の回顧展でも使われている。こういう半世紀使えるタイトルこそが大事だ。だからあたしは真似をして、TDAY-TOKYOを今でも使っている。アサヒカメラの東京大周遊の連載もそうである。

それで「夢の光」という言葉が常にあたしの脳内に浮遊しているのである。先週の晴れた午後に佃から東京大周遊して、豊島区の日ノ出町に来た。

古いニコンS3にニッコール35mmf1,8を付けて撮影していた。

その1本のフィルムをスキャンしてそのから二枚選んだのがこれである。

上は佃島小学校の運動場で下は日ノ出町の路地の奧である。ニッコール35mmf1,8は優秀なレンズだ。運動場のフェンスがしっかり写っている。その隣にぼけこっこー様のお社がある。

下は路地の植物を撮影したのだが、追い越して行く男性のジーンズのあたりがなんとなく「変な存在感」がアウトフォーカスになっている。

それで、これは「ゆめのしかり」だなと思った。まず悪夢に近いと思う。

2013年12月12日 (木)

降誕祭へカウントダウン

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これはどこの街角で撮影したのか忘れた。

わざわざ画像の前後を調べて特定するまでもない。この数年の東京の徘徊で痛感するのは、プレハブのモダン建築の多さである。

以前なら東京のそれぞれに地区にはそれぞれに、特徴ある人家が存在してそれを観察するのが楽しみなものであった。

10年前に片岡義男さんと東京の周辺部を一緒に散策して膨大な写真を撮影した。それは家の風景が個性的であったからだ。

一方で最近のプレハブにはいずれも「倫敦郊外の瀟洒な二階建ての真似」であるから、個性も地域性も零である。

クルマが停まっているのと同じことだ。

これはサンタの侵入中の状況である。最近の日本の家庭は煙突がないので、このように忍者部隊のようなことをしなければならない。

この前、沢木耕太郎さんが外国に取材に行くので、カメラは何がいいかと効かれて、OM-Dを推薦した。レンズは一本だけというので、常用ズームをお奨めした。

雑誌の見開きにマイクロ4/3で大勝負ですか、と聞かれたので、まったく問題なしと答えた。

★ペン5 12-50mm

2013年12月11日 (水)

スナップショット

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1973年。ウイーンに住み始めた頃のスナップショットだ。

ウイーン時代には20キロのモノクロネガを撮影した。これはネガカバーをいれない「正味」の重さなのだ。

数年前に出した「ウイーンモノクローム70」というハードカバーの写真集にこのシリーズは掲載されている。

ウイーンのリング通りから西に、ウイーン西駅まで延びている買い物通りがある。その名前を、マリアヒルファーストラーセという。週末は買い物区客でいっぱいになる通りなので、スナップショットには最適である。

光線の加減で午後は順光になるが、あたしのアパートメント(その様子は最新刊のライカマイライフに掲載)は、旧市街の北東にあるので、まずマリアヒルファー通りの逆光の中をウイーン西駅まで歩行して、そこで廻れ右をして、東に歩行してスナップを開始するのが常であった。

このショットはキエフにオリオン28MMを使用した。それが何故分かるのかと言えば、まずフィルムの窓がライカよりちょっと大きいこと。それとシャッターの調子が悪くなるので、金属縦走りのシャッターの光線むらが36枚のショットに時々出ているからだ。これはカメラの識別には有効だ。

キエフは気に入って使っていたが、最近では女子高生の使うカメラになったようである。大変結構なことだと思う。

ほぼ3メーターの距離から横位置で真正面に人間の群像を撮影するアングル。

これはウイリアムクラインに教わった手法だ。

思えば、ここに写っている人々は40年前の姿であるから、すでに昇天した人も居るであろう。

写真は常に現在形であるのは不思議なことだ。

★キエフ オリオン28MMF6

2013年12月10日 (火)

袖摺坂からカノープス見る

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あたしの生まれた文京区の音羽は谷である。四方は高くなっているので、山坂は風景の基本になっている。

そこに都電が重なってくる。

あたしがリスボンに惹かれるのは(来月、2年ぶりにまた行く)そこらへんにあるようだ。

文京区の南と新宿の境は胸突坂とか、袖摺坂とか、狭くて急は名前を印象つける坂がある。

これは横寺町の袖摺坂である。稲垣足穂は昭和19年であったか、灯火管制の真っ暗闇の中で、南の低い所に温気の中にびかつくカノープスを望見している。

これは当時、牛込の高台から南は、平屋であったのと灯火管制の闇がめったに見られないカノープスを見せたのであろう。

この坂のちょっと奧に足穂の下宿があった。それで夜になると、この階段の上にまで来て星を眺めたわけだ。優雅な暮らしである。

1970-73の大泉学園時代に、あたしの家の前の空き地で毎夜、星空を観察した。これはミミオという猫の夜のトイレにつきあったのである。

猫のトイレは夜の9時とか時間が決まっている。それで毎日、同じ時間に夜空を観察するという貴重な経験ができた。この時代の写真は「CHOTOKU @ WORK」(毎日コミュニケーション刊)に掲載されている。

カノープスはあたしも見た。それは2001年のあの事件の後、フランクフルトからバンコックに飛行する時だった。夜間飛行だった。印パ国境は延々とライトがついている光りのベルトである。それをずっと見ていた。

そのうちに、東の低い空に提灯のような明るい星が現れた。カノープスであることがすぐに分かった。

老人星(カノープス)を見たのはその一度だけだ。あれから13年が経過して、今、こうしていられるのもあの時に見た星のおかげであろう。

★ペン5  12-50MM

2013年12月 9日 (月)

20 AVENUE A

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三十年前のマンハッタンと今のマンハッタンとで何が変わったかと言えば、ローワウイーストサイドが「怖い街」から「怖くない街」に完全に変身したことであろう。

当時はバワリーを歩行するのも神経を使った。ダイムとクオーターを用意して、ジャンキーに言われたらすぐ渡すのである。他に20ドル札をすぐに出せるよう、胸のポケットに入れた。

アベニューAはファーストアベニューのさらに東にある。さらにアベニューB
CとDがあった。他の1STアベニューから11TH アベニューは西に行くに従って数が増してくるが、ここは東に行くに従って、アルファベットが進んでくる。

肝試しにアベニューDのグロッサリーまで行ってミルクを買ってくという遊びもやった。

現今のアベニューはあまりに安全でどうも手応えない。二週間歩行していて、小銭をくれという人間には一度も会わなかった、
多分、歩行のコースをあたしが間違っていたのであろう。

★ライカM3
カールツアイスイエナ ビオゴン35mm トライX

2013年12月 8日 (日)

夜の室内 はりねずみ

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夜の室内。

普段は酒を飲んでいるテーブルの真上にこれがあるので、ほとんど気に掛けないが、距離をおいていまさらながらに見ると、はりねずみのモビールがぶらさがっている。

十年近く前に、元フェラーリのメカニックからもらったものだ。夜の空気の移動に合わせてゆっくりと動くのを見るのは楽しい。

はりねずみは今ではポピュラーになったが、マンハッタンから帰国したばかりに飼っていたはりねずみは当時は珍しかった。

獣医さんに連れてゆくと、珍しいですね、と言われた、当時やっていたカメラジャーナルのマスコットキャラとして活躍した。これはあたしのイラストなのであるが、稚拙な絵なので、あたしの新刊のサイン会などでは「おこぜの絵を描いてください」とか「イグアナのイラストもお願いします」と良く言われた。

まだはりねずみは普及していなかった当時の懐かしい記憶である。

30年前にはりねずみに関してちゃんとした会話ができたのは、羽仁進さんと坂崎幸之助さんくらいであった。羽仁さんははりねずみのチャームポイントは「左右の耳の大きさの違いとその角度にありますね」と仰有った。

たしかに!

★ペン5 12-50MM

2013年12月 7日 (土)

ライカマイライフのカバーのこと

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あたしの「遺書」である、「ライカマイライフ」がアマゾンで品切れになるなど、絶賛発売中である。
この本発行のいきさつは、いずれちゃんとまとめたいのだが、最大のイベントは
「写真集にすると、書店で一番人間の来ない場所に置かれて仕舞うからそれは避けたい」というものであった。

編集部と相談して、大型本ではない書籍のコーナーに置くようにしたのである。しかしハードカバーとかがり綴じは、あたしのリクエストである。
これで2200円というのは、どうなっているのだろうと、人形町編集長が心配していたほどの、コストパフォーマンスの良さが売りだ。

本体は白い装丁でなかなか気に入っている。そこに押されているタイトル文字が、ちょっとアイパッドのカスタムのネームと似ているのも、良い感じだ。

カバーはSOHOで撮影したギャラリーで作品を検分する男女をウインドウの外から撮ったものだ。
清水編集長は最初からこれを気に入って、カバーにするつもりであった。キャップをかぶったあたしはライカM3を持っていて、ほとんどノーファインダーで撮影している。それはアウトフォーカスになっている。

レンズはカールツアイスイエナのビオゴン35MMでコンタックスマウントのをライカマウントアダプターで使った。ここらはロバートフランクの影響なのだ。

構図の右半分は戸外が写っているので、露光はオーバーである。それがカバーの本体の内側のスペースになっているのは、偶然とはいいながうまい効果を出している。

東日本大震災その日がマンハッタンの初日で、深夜は日本の被災業況をテレビで見て、昼間は撮影という日々であった。まあよく身体が続くものだと我ながら感心した。

ライカM3 カールツアイスイエナ ビオゴン35MM

2013年12月 6日 (金)

Z万円の札束ボーナスがデイリーポータルから届く

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あたしの人生の最大の謎は「働かないでも生きている」ということだ。
日本デザインセンターの三年間はサラリーもボーナスもあったが、1973から2013年で「サラリーもボナスもなくて四十年」なのである。

「屋根裏プラハ」が出た時、共同通信系の書評で萩原魚雷さんが書いてくれた。

面食らったのは、あたしがお金持ちで閑を潰す為にプラハに三十年住んでいるという誤解があったことだ。あたしは「生活防衛」の為に外国に行っているのである。

プラハもウイーンもニューヨークもパリも北京もハノイも実は生活防衛の為に滞在しているのだ。不幸なことにこれらの都市の物価は日本よりも安いので、日本に居ないことが生活防衛になるのは皮肉である。

それでお正月には再度、地球防衛軍ならぬ、生活防衛隊はリスボン展開するのである。ただし隊員は一名。

上の川柳を原稿に書いたら、辣腕編集者さんがボナスに赤を入れて、ボーナスに直してくれたので再度赤を入れて「ママ」にさせた。それでないと語感が悪いのだ。

あたしはデイリーポータルの上級会員で、毎月、千円を払っている。これは価値がある。あ、あたしのチョートクカメラ塾も千円だ。新規塾生募集中。

そのデイリーポータルの上級会員さまの年末の手持ち資金の不足を心配して、Z円札の札束が届いた。
これはありがたい。背面には「○○券」とも印刷されているので、カメラの取引にも使える。

零円札で有名な赤瀬川原平さんから「本物の零円札」を買ったのは60年代後半だった。今でも保持している。どんどん零円の価値が高踏しているのである。

あたしが小学校低学年の頃に、父が1000枚の元封の札束をくれた。これは通用力のある日本銀行券なのである。

1円札だ。ちょんまげのおじいさんの肖像だった。だからあたしは1000枚の札束の感触は一円札で体験しているので、いきなりZ円札の札束が郵送されてきても取り乱さないのである。

幼児教育が重要なのはここだな。

2013年12月 5日 (木)

新大久保のモンドリアン

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東京の新大久保と大久保には私はまったく縁がない。

あれは1976年の夏であるから、私は29歳の時だった。現代日本写真家展というドイツ語圏とオーストリアを巡回する展覧会が日本の33人の写真家で企画されてその準備のために私は2ヶ月ほど東京に滞在していた。

新大久保駅の、、、いやあれは大久保の駅だったかもしれないが、路地の奥に木造2階建ての小さな家があった。すでにその名前も忘れてしまった自主ギャラリーであった。 そこで写真展の展示を見たのかそれとも写真を展示したのかそれすらわからなかったか、最近そのギャラリーの関係者から私がそこで写真を展示したということを指摘された。

そういう指摘があるのならばまさにそれが事実であるに違いない。

大久保界隈の記憶は非常に曖昧なのに、私にとってこの地域は自主ギャラリーという共通の背骨が1本通っているのはそういうことなのだ。

この夏の終わりの頃何かの用事があってこの界隈を徘徊した。小さな食品店のそれも今は開いていない店先の構図が、完全にモンドリアンを真似ているように見えたのが面白かった。

そのモンドリアン的な構図というのはマンハッタンで見たのか、それともベルリンで見たのかそれは完全に思い出せないのである。

モンドリアンだけでは無い。ルコルビジェの建築はそれが当時生まれた時は非常に斬新かつ新鮮であったが、今の世界中の街並みを見ると建物の基本骨格はまさにコルビジェ風である。 こーゆー往年のモダンアートな風景の中に溶けていること、さらに往年の現代建築が都市構造の骨格になっていることが不思議だ。

ペン5 12-50mm

2013年12月 4日 (水)

おしろい花

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もう既に消滅してから四半世紀が経過している私の生まれた東京都、文京区の音羽音羽の家のことだが、それは大通りから小路の突き当たりを右折した左手の古い木造の二階建であった。

関東大震災の直後に建てられた仮普請という存在なので建物には迫力があった。大阪の古い建物が応仁の乱の後の仮普請と言うようなのとは、比較にはならないが、木造の建物は完全に風化してちょうど奈良の正倉院の外壁のようになってしまった。

母屋の前の狭い庭のイチジクの木を切り倒して、そこに小さな町工場を建てた。祖父が経営していたスプリング万年筆株式会社の工場であった。 いつも工業用のモーターの音がして、ろくろで削るエボナイトのクズが山のようになっていた。

スプリング万年筆の宣伝の一切の印刷物は祖父がデザインしていた。当時はデザイナーがいないからこういうことが普通に行われていたのだ。どっかの外国の雑誌に掲載されていたウィンストンチャーチルのカリカチュアのイラストレーションなども祖父が勝手に印刷させて自分の会社のパンフレットの図柄に使っていた。著作権などは存在しない時代だった。

そのチラシは小路の斜め向かいの角にあるちっぽけな印刷所で印刷された。 印刷所と言っても店主がいちいち手で印刷するちっぽけな活版印刷である。しかも店主は卒中で左手が不自由であった。 その家は住居も兼ねていて平家のボロボロの木造建築だった。数匹の猫が飼われていた。

音羽の私の家から音羽の大通りに出る為には必ずその角にある竹内印刷所の角を曲がらなければ、世界にはつながっていないのであった。

ボロボロの木造建築の汚れを粉飾するためだったのだろうか、印刷所にはいっぱいにオシロイバナが植えられていた。少年の私は小学校に往復する6年間の間、それが季節であるのならば必ず一日、最低5回はオシロイバナの角を曲がらなければならなかったわけだ。

オシロイバナは何か非常に貧乏くさい花ではあるけれども、そこに生活の実態みたいなものを感じる。言い換えれば薔薇の存在の虚飾とは正反対である。

品川区の路地裏のもう営業していないタバコ屋の前で、私はいきなり懐かしいオシロイバナに呼び止められたのである。 ペン5 17mm

2013年12月 3日 (火)

品川区 中村立行の軌跡

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品川区は私にとってはまだ未知の領域である。

日本光学の本社のある通りはカメラ好きには有名で、光学通りというのである。その光学通りをカメラに例えるならば、ブラック仕上げのニコンF3のようである。とこれを発見したのは、赤瀬川原平さんであった。

これは赤瀬川さんの卓越した文学的表現の一例であって、冷静に考えてみればニコンF3は全部ブラック仕上げである。この場合、ごく少数生産されたチタン色のニコンF3は考えに入れる必要ない。

光学通りの心理的な影響を受けて、品川の路地の奥を徘徊していたら、有名写真家の回顧展のポスターに出会った。

中村立行さんは、あたしが少年時代にアサヒカメラの読者であった時代のスター写真家である。当時の写真家は社会的なリアリズムの題材を撮影すると同時に、ヌード撮影も真面目にやったものだ。

現代に考えるとちょっと不思議であるが、当時のヌード写真はこれはポルノグラフィではなくて自由な写真の表現、あるいは自由な表現そのものであったのだ。

品川区のクラシックな掲示板に、左側には町内の長老の訃報が掲示されていて、右には有名写真家の回顧展が案内されている。 その対比非常に良かった。

写真家の仕事はその人が生きているとか、もういないとか言うのではなく、作品と向かい合うべきなのである。

最近はお手軽に写真展が開催できるようになったので、ともすると自分を表現するためではなく写真展は社交のための道具になってしまっているのは滑稽である。

Facebookなどで私は何月何日は何力何時まで在廊しています、などと書いてある。

この在廊っていう言葉があたしにはしっくりこない。

その写真家の作品を見に行くのか、それともその写真家そのものを見に行くのか、これではわけがわからない。

ブレッソンの写真展を見に行ったら、そこにご本人がいたのでラッキー!

これではミステリになってしまう。

ペン5 17mm

2013年12月 2日 (月)

北千住の「写真材」

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_北千住に行くたびに必ず見学にいるのはこの古いカメラ店である。

拙著、銘機礼讃の第三巻にもこの店が登場する。

北千住にある数多くの私にとっての重要なランドマークなのであるが、このカメラ店は意外に撮影のアングルが難しいのだ。

お店の前に電信柱がある。私は写真を風景として考える時には、電信柱が好き方だ。

映画監督とか大写真家になるとこの電信柱が嫌いで大映画監督の場合などはわざわざカメラの構図の邪魔になると言うので切り倒したりする人がいたという伝説もある。 これは風景を自分流に勝手に捻じ曲げようとする傲慢な構図であるから、私はそういう人とはあまり話したくない。

ただしこのカメラ店の場合、お店のファサードを正確に描写するためには、どうしても電信柱にどいてもらいたくなることもある。それほど電信柱というのは極東のこの日本では強烈な存在なのである。 インドのデリーとか北京などの電信柱の風景も大好きだ。

電信柱は現代の都市風景に一種のリズムを与えている。戦前に撮影されたブルックリンの写真などでそれになぜ惹かれるのか考えてみると、やはり電信柱のリズムが効いているのである。 話は変わってこのカメラ店のファサードの魅力なのだけれど、生活と商売が非常に良い具合にミックスされているのである。

この建物の二階には横に長いしかし高さは非常に低い窓のような開口部がある。これはゴミの吐 掃き出し口なのであろう。

これで二階の窓から洗濯物などが出ていれば理想な生活空間に思える。

今回この建物を見学に行って、びっくりしたのは写真材料の4文字の内の一文字が脱落してしまっていたことであった。建物が更地になったのではないのだからこの位の変貌は容認されねばならない。

しかし写真材でも意味通じる。これはこのままで良いと思う。

ペン5 17mm

2013年12月 1日 (日)

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ペンペンチョートクカメラ日記の読者さんの世代構成です。

木造ブリキ貼り

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久々の北千住は初冬の完璧なライテイングの中で、文化祭に出品された学生の建築模型みたいだ。

千住の柳町公園で十年以上仕事している。ここで新潮連載の屋根裏プラハの校閲をしたのも懐かしい。

北側にあるベンチの左側が定席だ。

ここにくるには、ニコニコ通り商店街を北千住の駅からまっすぐに西に向かうのが近道だ。

そこらここらの小さい建物が空き地になっている。これは面白い効果をもたらす。つまり建物の側面の形が露になるのである。

細かく見ていると、面白いことに気がついた。それは普通このような看板建築は通りのほうに向かって建物の背が高く、建物の後は背が低いというのがスタンダードである。

言い換えれば小さな建物が世間に向かって背伸びをして格好付けているわけだ。 ところがこの小さなボール紙づくりの家は通の方が低くてその裏側の方が背が高い。何か特別な理由があったのだろうか。 この前の北京の撮影ではもっぱら12ミリのどちらかと言えばきつめの広角レンズを使った。それが今回の東京の撮影では、視点を変えて17ミリレンズを使っている。ドメスティックな建物はそのように撮影するのが本当のあり方であって、あまりエキセントリックに空間を歪めて撮影してしまうと本物とかなりなり違ってしまうことになる。

別に建築写真を撮影しているわけでは無いけれど、建築を含んだ風景というのは空間の広がりが自然に描写されるというのが大事な点である。

ペン5 17mm

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  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
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