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チョートクカメラ塾ブログ

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2013年8月31日 (土)

駒込の神学校

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あたしはデジカメのカードはなくなりそうになってから買いに行く。

駒込の北口の商店街にある、なんとか言う小さなカメラ店で一枚買いをするのが、あたしの流儀である。シルクハットは倫敦のこの店でしか買わないという、貴族の真似なのである。ここは東京で一番安いと思う。皆様もそういうお店を持つと、デジタルライフが楽しくなると思う。

去年の春にここで、SDメモリ買ったら、店のおやじさんに「ああ、古川庭園につつじ撮りにゆくのね」と言われた。
なにも「いえ、違います。あたしはちょっと年取ってますが、実は日本を代表する写真家なんです」などと説明するまでもない。

写真表現などよりも、四季折々の花鳥風月のデジタル撮影の方が、市民文化のクラスとしてはずっと上であることを再認識した。

新しいカードを入れて、いったん駅に出て、染井の墓地の方に入るとだらだら坂の先の正面に凜とした存在の神学校がある。この道は30年来かよっているから、それは不思議ではない。

しかしこの夏の終わりの午前の白い光と白い雲が、「シュツットガルトの夏の恋の終わりの光」というように思えたのは、この神学校がエバンゲリッシュで(プロテスタント)あったからだ。

あたしのように長年、ウイーンとかプラハとかローマンカソリックの重々しい金泥とデコレーション過多の環境に埋没していると、こういう北ドイツめくシンプルな神様の家を見ると「ああ、これこそが本物の信仰であった」というフレッシュさを感じるのである。

正面から1枚だけ撮影した。これは北井一夫さんに独逸表現派建築の撮影中に教えられたのである。この場合は北井さんは「反面教師」である。膨大に撮影するのである。それに対抗して、あたしは1枚だけ撮影する。ただし、エデイトリアルの悪癖がまだ抜けないので、かならず縦横を撮影する。だから2枚か。

その神学校の左に小公園がある。そこの居心地の良いベンチに小一時間腰掛けて、遅いつくつく法師の声を聞いた。
持ってきた、エビアンのボトルが空になったので、脇の噴水で水を詰めた。

昨年来、あたしは東京の水道の水を飲んでいる。今朝持参したのは佃の水である。
あたしの義弟は数十年、東京都公害研究所で研究をしていた。

彼の話では東京の水はうまいという。

あたしもそう思う。

2013年8月30日 (金)

谷中一丁目のヒマラヤ杉のこと

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谷中には最近行っていなかった。
1980年代にまだ根津の葚八が高野純一さんの経営であった当時には、よく板橋から自転車で荒川をくだって、千住から南下して谷中に行った。
寺町のくさび型のY字路とでも言える地形に、巨大なヒマラヤ杉があって、その長屋がパン屋と理髪所であった。
そのランドマークのヒマラヤ杉が再開発か何かで切り倒されるかも知れないという話をネットで見て、久しぶりに杉に会いに行ったわけだ。

ヒマラヤ杉の成長の速度は知らないが、あたしが19の時に、先輩の須田一政さんと彼のカローラ1100でここらを徘徊した。深夜に酔って、お寺の石段をカローラで登るようなこともした。
たしかこの場所も須田さんに教えてもらったのであろう。前後して田村会長と知り合って、19だか20の時に、下谷坂本の鍵屋に通うこともあった。後に田村さんはこの界隈の大名時計の近くのマンションに住んだりもしている。

こういう大樹は昔にはそこここに存在した。あたしの幼年時代がそうだった。フェリーチエベアトーも幕末から明治の江戸の巨木を撮影している。
そういう巨木は切ってはならない。

1960年代にマンハッタンで現代美術のフルクサス運動の旗手、ジョージマチューナスがウースター通りに小さい木を植えた。ポリスが文句を言いに来たのをジョージは撃退した。その木は半世紀経過して、SOHOの建物を超える大樹になっている。

2013年8月29日 (木)

富士フイルムモノクロ製品広告

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フジフィルムの広告は以前はいろいろお手伝いをした。
デジカメになってからはとんどお付き合いがなかったが、昨今、デジタルカメラマガジンで久々にカメラレビューを再開させてもらうことになったので、またも同社の製品に触る機会が出来たのは嬉しい。それは次号のデジタルカメラマガジンで、、、。

このパンフレットは何時のものか失念しているが、見開きで古いリスボンのモノクロプリントがあって、拓くと各種のペーパーとか薬品の案内が出てくる。
ヘッドコピーもあたしがやらせてもらったが、当時の広告は案外に自由がきいたというが今にして分かる。
雑誌広告で、ミュージアムというモノクロバライタペーパーの見開きもやった。それはウイーンのモノクロプリントが置いてあり、脇にライカM5があり、そこにはフジノン35MMF2がついている。ウイーン時代に良く使った組み合わせだ。

このリスボンの写真は実はフランスのフォカで撮影したのである。1980の秋のリスボンへの旅の時だ。50mmの標準で撮影している、こういう奥行きのある空間を正しく表現するには、案外、広角レンズではなく標準レンズが有効だ。

ニューヨークタイムスのブレッソン全盛期のインタビューを見ていたら、彼は35mmの広角レンズは画面構成が難しいので使わないと言っていた。
なるほどと感心した。


2013年8月28日 (水)

サンダーソン5x4

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サンダーソンは英国製の蛇腹カメラだ。20年ほど前にロンドンで買った。ちゃんとしたアンテークショップで買ったので、それなりの値段がした。

手に入れた動機は、5x4のフィルムの使えるシースが、ダブルプレーとについていたからだ。
19世紀末から20世紀初頭は、ガラス乾板の時代であったが、すぐにフィルムに以降した。それで当時の撮り枠には、フィルムを挿入する「シース」が付属していたのだ。

英国のカメラは英国サイズのフォーマットでフルプレートとかハーフプレートとか我々には馴染みのないサイズが多い。サイズが異なるので使えないわけだ。
この5x4モデルはアメリカへの輸出品であろう。
そう、4x5ではなく5x4というのも、英国風なのである。

サンダーソンという人は建築家であったようで、その為にカメラのライズなどはこのように非常に大きい。今のリンホフなどより上の方向が撮影できるのである。

マホガニーに上質の黒革で、内部は磨き上げで、蛇腹は深紅である。この時代の写真機は現今の電磁カメラより、その撮影には夢があったな。

2013年8月27日 (火)

河内麦酒の泡立ち

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ハノイ麦酒は泡立ちがいい。
あたしは赤い頃、広告でアサヒビールを担当していたので、つぎ方はうまい。ただしこれは、冷えていないのを注いで、泡がオーバーフローしたとところで、下に用意したポリバケツに長して、そのまま泡を整えて、それを撮影台の上に置くのである。
これはアシスタントの大事な技であった。そこを古いカコストロボの600WSのでぼんと撮影した。

麦酒の瓶は工場からまだラベルの貼っていないのを持ってきて、それに大和のりを水で溶かしたので、貼るのである。人間の眼はなかなか水平には敏感なので、工場の機械貼りだと、あらが見えてしまう。

あたしは、プラハに30年の経験があるので、麦酒には五月蠅いのであるが、ハノイは良い麦酒を産する。ウオッカもいいのでこの世の楽園である。

ピルズナー系で、泡だちが非常に良い。これはワンカップのビアグラスに注いだのであるが、立派なものだ。

★カメラはXZ-1

2013年8月26日 (月)

原田映爾1938-2013遺作展

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あたしの古い友人、画家の原田映爾さんの遺作展が京橋のギャラリーで開催されている。(ギャラリー川舟29日まで)

あたしの大学一年の当時、ライカ持って銀座徘徊してたら、今の東急メルサの所とが銀座画廊といったと思うが、そこで「ガガ現代美術展:というのが開催されていて、メンバーと知り合ったのだが、その中の羅馬人みたいな風貌の人が原田映爾さんだった。
まず気鋭の前衛絵描きという所だが、詩にも優れていた。というのも、大詩人田村隆一さんの知遇を得て、一時は弦巻温泉に大詩人とはお隣同士であった。だから田村隆一著書には「絵描きの原田」が登場する。その絵描きの原田の友人の長徳なる者がウイーンで苦労しているというので、詩人は500円札(岩倉具視の青い札)をご自身の詩集にはさんでウイーンまで送ってくれたりした。郵送は原田さんがした。

あたしのウイーン時代に原田さんはあたしのアパートに居候して、意気揚々とプラハに列車で出発した。夕方にもうついた頃だと家人と話していたら、アパートメントのベルがなった。原田さんは羅馬人なみの立派な髭であったが、パスポートは髭がない。国境ですったもんだのあげく、国境を越えられなかったのだ。

1983のマンハッタン時代に、原田さんがやってきた。知り合いのSOHOのアパートに居候していたあたしの所に居候しに来たのだから、居候のダブルデッカーである。一緒に大地震前のメキシコに2週間旅をして楽しかった。

その時、オリンパスから出たばかりのビデオカメラを1年間貸してくれたので、これで膨大な撮影をした。こういう所がオリンパスは文化への理解が深い。そのビデオカメラというのはカムコーダとカメラがケーブルで結ばれているようなクラシックモデルである。30年前はこれが普通だった。

メキシコ市のホテルで原田さんと芸術に関して語りあった、6時間ビデオがある。当時はそういうのが流行だった。亡くなった有田泰而さんとのロング対談もあったな。これおもオリンパスのビデオであった。

SOHOのロフトで、午後4時から午後10時まで非常階段から暮れゆくトレードセンターの昼から夜になるのもオリンパスのビデオで撮影した。これはあたしの宝物だが、フルサイズのVHSカセットなので今は見ることが出来ない。

原田さんの遺作展は満員の大盛況だった。友人の野々宮らを「千円で呑み放題」とさそって定刻より10分遅れて会場に駆けつけたら、すでに酒も水の一滴すらなかった。焼け石に水状態であった。
まあ非常に良い展覧会なので、千円払って個展を見たと思えば良いのである。

遺作展とは変な言い方だ。作家も絵描きも写真家も死んでからが正念場である。
誰も、ミケランジエロの遺作展とかピカソの遺作展とは言わない。

だからこれは原田映爾展で良いわけだ。

収まりがつかないので、そのままクラブエダムに直行したのは言うまでもない。

2013年8月25日 (日)

田端の切り通し

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あたしが勝手に命名した「スナップショットズイコー」は本来はレンズキャップレンズという。明るさはf8で15mmであることは以前にも書いた。
三枚構成のトリプレットはこれが登場した100年前には収差の良く補正された優秀レンズであった。

それが現代ではあまりにレンズが進化し過ぎてしまい、こういうシンプルなレンズの良さというのが忘れられている。

非常に小型軽量なので携帯には絶好であるが、ヨドバシの通販ではなんでも、ボデイキャップのセクションに置かれていたそうで、ちょっと可愛そうだ。

このショットは東京駅北口から荒川土手行のバスの車窓から撮影した。ファインダーは覗かずになにかを感じたら、反射的にシャッターを押したのである。

田端の切り通しは昔から小説などにも登場する。東京の河岸段丘の一部を切削して、そこに道を開いたのは、大工事であったろう。
工事がクラシックな石垣であるのは、現代に見ると逆に存在感を感じさせる。

★ペン5  スナップショットズイコー15mm f8

2013年8月24日 (土)

スカイツリーの「幽玄」

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スカイツリーは土台だけの頃から見ている。

完成は昨年の5月であったから、もう1年以上になるが、見慣れてしまうと案外にその存在が薄れてしまう。

逆に興味があるのは、大雨とか霧でその姿が見えない時である。

数本の300mmレンズが部屋にはころがっている。それはM42なのでアダプターで簡単にペンに装着できる。そのレンズの中でも一番好きなのが、このグレーのレンズだ。これはソ連製のタイル300mmである。明るさはf4,5というので、今の感覚からすればちょっと暗いのであるが、描写性能はいい。

ソ連時代にコスモノーツが宇宙写真の撮影にも使ったレンズだ。

レンズはヘリコイドではなく、レンズ基部のダイヤルを回転させる。もともとグリップとショルダーポッドをつけて手持ちで撮影する、フォトスナイパーという撮影キットのこれは一部なのである。

部屋から手持ちの撮影である。マイクロ4/3の効果で300mmが倍の600mm相当にになるのは頭では分かっていても、実際に撮影してみると便利である。

★ペン5 タイル300mm f4,5

2013年8月23日 (金)

三十年前、8x10カメラでマンハッタンを撮影した

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1982から1983まで、マンハッタンを8x10の大型カメラをしょって徘徊していた三十代半ばの東洋人を見たマンハッタナーは多いと思う。

あたしが、MoMAに通う以外の時間は、主にマンハッタンを大型カメラを持って徘徊していたからだ。

この前、ビルカニンガムの映画を見に行った。
30年前に五番街と57丁目の角の信号待ちであたしはデイアドルフを肩にして待っていたら、目の前にぼろぼろの自転車にクロームのニコンFを下げた50がらみの紳士が停まっていて、お互いカメラを見て、そこで二言三言話をした。マンハッタンの信号待ちというのはそういうフランクなもので、信号待ちの間に、隣の婦人から家庭内の不平不満を延々と聞かされたりすることもある。まあ、信号待ちの間のh我慢である。

こういう気楽さはなかなか日本では起きない。その唯一の例外は昭和天皇崩御の時の東京であった。同じく、何かの企画であたしは9x10を持って、有楽町にいたのだけど、知らない人同志が気楽に交差点の信号待ちで話をしているので、あたしはなにかマンハッタンのような気がした。

ビルカニンガムの映画の中で。30年前の彼のインタビューのフーテージが出てきた。それであの時にテイファニーの近くで会った人が三十年前のビルカニンガムであったことが証明された。

一方のあたしはマンハッタンでこういう大型カメラを持って行ったり来たりしていたのである。

その時の仕事は写真集にもなっているが、まだ虎ノ門にあったPGIで個展もした。

同業者の写真家が沢山プリントを買ってくれたのが嬉しかった。その中には亡くなった稲越功一さんとか、山崎博さんも居る。当時駆け出しのあたしのプリントは3万円であった。それから30年が経過してあたしのプリントは10万にならない。まあリーズナブルなプライスというわけだ。

今の時代はカメラ選びがまず人生の一大仕事である。カメラの存在の幅というのが、ペンペンからデイアドルフまで、なんでもありの広い守備範囲になったのは嬉しい。

反面、写真家はそれぞれに首を突っ込んでしまうので、時間がいくらあっても足りない。

上の三点の写真は、モノクロネガをXZ-10で複写したものだ。まあ、簡易スキャナーであるし、手持ちだから歪んだりしているが、マンハッタンのビルカニンガムはカラーネガで撮影したのを、そこらのワンアワーラボで現像してスキャンを頼んでいる。つまりアナログとデジタルのハイブリッドである。

2013年8月22日 (木)

ハノイヒルズの側のカフェ

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ハノイヒルズの小路を出て、左折した右側にカフェがある。

いやカフェはハノイには五万とあるから珍しくもないが、あたしが日参するカフェである。

名前は分からないが、恐らくその通りの名前とハウスナンバーを組み合わせてラストにCAFEと付くのではないか。そういう当たり前のネーミングのカフェはハノイには多い、

それでここが大事なのであるが、カフェの日よけは一方が斜めに下がっているのがあたしの感じる「御茶屋の美学」である。

リスボンの29番の電車の東西に延びる長い路線で一番道幅の狭い坂の下にあるのが「CAFE ELECTRICO::である。ちょうど狭いカフェの中に市電が飛び込んでくるのではないかというような狭さだが、そこのカフェも日よけが斜めになっている、

ようするに日よけが斜めになっていないような高級カフェには行きたくない。

アイスコーヒーが2万ドンというのは一律料金だ。氷が下痢の元になるなど、ツーリスト案内には出ているが、あたしは問題なしである。

★カメラはXZ-1

2013年8月21日 (水)

wasaの件で苦労する

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日本ではこれを何というのか知らない。

ウイーンではクネッテブロートと呼んでいる。ファイバーが沢山入っていて身体に良い。

というよりあたしの食生活の一部になっている。かみしめると味がある。

頻繁にプラハに行くのはその実、このクネッケブロートを買いに行くのである。日本では売っていなくて、通販では似たようなのはあるが、値段も高い。

ワンパックが800円もする。このクネッケブロートの代表的なブランドはWASAである。

これはスエーデンの製品だ。10年近く前に、ビクターハッセルブラッドの生誕百年のプレスツアーに行った。ヨーテボリの街をハッセルブラッド1000fで撮影した。

お土産に本場のWASAを何種類か買ってきた。高いのが良かろうと買ったら、それは不味かったのも良い旅の思い出である。

不思議なことに、パリとかリスボンではこのクネッケブロートを市場で見たことがない。ラテン民族はこれは喰わないのであろうか。

この前に、プラハから持参したクネッケブロートがもうすぐ底をつく。またプラハに買いにゆかねばならない。

なにか食料難の戦争直後みたいな買い出し行動をしているのも変な感じだ。

2013年8月20日 (火)

東郷公園のライオン

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インプレスのデジタルカメラマガジンでまたお手伝いすることになった。

思うにデジタルカメラマガジンは創刊号の巻頭から執筆しているから長いお付き合いである。

打ち合わせで副編の上田さんに酷暑の盛りに会いにいった。上田さんとお目にかかるのは数年ぶりだ。

有意義な打ち合わせがすんで、市ヶ谷方面に戻る途中、東郷公園の脇を通った。ここはあたしが最初のライカM2を買った当時というから、1970のことだが、ここを撮影したのである。当時の東京は掘っ立て小屋と道路工事の連続で殺伐としていたが、ここだだけは欧州のような風景であった。

いや、まだ欧州には行っていない。ウイーンに行ったのはその3年後のことであるが、一種の既視感をそこに感じたのである。

後年、北井一夫さんの独逸表現派の建築の撮影のアシスタントをした時、ダルムシュタットのマチルダの丘公園が、東郷公園に似ていることに気がついた。これは公園の地形が北が高く、南が低いということに由来したようである。

東郷公園のショットはあたしの新書の分厚い写真集「東京ニコン日記」にも掲載されている。

木陰に休んで、ちょっと撮影してみた。後で40数年前のショットと比較してみたら、こういう感じであった。

★カメラは初代の白いペン スナップショットズイコー15mm f8

2013年8月19日 (月)

ひらやま山系をアテにしてウイスキをすする

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プラハからの戻りで、エミレーツで飛んでいたら、まずイラン、イラクあたりだと、ローカルタイムが三十分ずれるのである。デリーにカレー武者修行に行った時もこのことが町を歩行している時に非常に気になったしかたなかった。

上空から飛び降りて会社に行くわけではないのだから、ローカルタイムなど気にしないのがいいのだが、あたしはそういうことが気になる方だ。

後部のギャレーにウイスキをもらいにいって、窓から見たらちょうど、ひらやま山系が右手に見えた。

まさかプラハの戻りにマウントエベレストを見る幸運に恵まれるとは思わなかった。こういう所に登る石川直樹は偉いなあと思った。しかし石川と新宿から酷暑の時に月島まで歩行(これは某誌の取材)した時に、石川は麹町で落伍したのである。ようするに高地には強いけど、酷暑の低地には弱いということなのかな。

あたしはオンザロックスをすすりながらエベレストを見る。だから、単なるツーリストである。エベレストは飛行機の客として上空から視るに限ると思った。南京豆とか乾燥肉ではなく、エベレストを「アテ」にして酒が飲めるのは兼題の最高の贅沢だ。

百鬼園は相棒のヒマラヤ山系を倶に連れ、阿呆列車で日本じゅうを旅行している、

その伝で言えば、こっちは本物のヒマラヤだから、故事にならって、ヒラヤマ山系というわけだ。

★カメラはiPhone

2013年8月18日 (日)

ペンとペンのピンズを見て思いだした

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フィルムカメラのペンをよく使っていたのは中川政昭であった。

ペンFTのブラックの数台で機材を組んでいて、週刊誌から自分の作品からすべてこのカメラで撮影していた。

今ならハーフサイズでの撮影は印刷が良くなったので問題はないが、これは70年代の半ばのことを言っているのだ。

オリンパスペンワイドは森山大道でペンFは中川政昭が使い手だった。沼田元気もフィルムのペンの使い手であるが、これはもっと後の時代だ。

初代ペンのピンズを見て、そんな大過去のことを思いだした。

ただしこれはオリンパスの過去のカメラの歴史を回想するというのとは、ちょっと意味がことなる。

ペン(シンプルなハーフサイズの一番最初のやつ)だってペンFだって、それは同じである。

アナログとデジタルが一本の時間軸でシームレスに結ばれているというのが重要なのであって、それが良い感じだ。

ペンFのフィルムカメラ時代の名作で記憶に残るのはHideokiの英国のカントリーで撮影した縦位置のモノクロの人物スナップも忘れられない。 あれはカメラ毎日だった。

2013年8月17日 (土)

村山定男さん 1924-2013

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村山定男さんが八月十三日になくなった。

以前、コシナ研究会の副長の紹介でお目にかかったことがある。新橋のホテルであった。

村山さんはあたしの「天文学」からすれば、稲垣足穂、野尻抱影の系列に存在する「巨星」である。

渋谷の五島プラネタリウムに通った当時、ドームの内側に描かれた東京のスカイラインは、まだ東京タワーしか大きな建築がなかった。この間、始めてヒカリエに入った時、それは11階であったが、このあたりにかつてのプラネタリウムのドームがあったのかと懐かしく思った。

足穂は空襲の暗闇の牛込の袖摺坂の上で地平線すれすれに輝く老人星(カノープス)を見ている。あたしは、半世紀遅れだが、2001年の秋に、ミュンヘンーバンコックの深夜便で老人星を見たことがある。

村山さんとの会見は、忘れられない。村山さんはキャプテンクックの研究家なので、プラハの古書店から探してきた、クック船長が発見した島の古地図をプレゼントした。村山さんはご自身が当時(戦前)に手にいれられたライツのカタログをくださった。ライカの発売の前年のお生まれなのである。

ホテルのバーでドライマーテイニを前に数時間歓談した。村山さんはループタイの似合う紳士であった。

ループタイというのは、なかなか着こなしが難しい。その人の生活の背景が出るからである。村山さんは高踏派にして、学究の人であるから、似合った。

村山さんはライカよりコンタックス党のようで、独逸海軍のコンタックス型を持参なさった。ちょうど年が二回り違うのに、あたしを田中先生と呼んでくださるので恐縮した。

野尻抱影の著作であたしは天文学が「座右の楽しみ」になった。五島プラネタリウムであたしはツアイスが好きになった。これは村山さんのお陰なのである。後年、イエナの公園にカールツアイスの世界初のプラネタリウムを見学に行ったのも、村山さんに負っている。

村山さんはこういう屈折望遠鏡が良く似合う。

布哇のすばる望遠鏡を日本の皇族が視察に行かれた時、その方が星を見たいと仰有るので、パソコンで画像解析する、すばるに急遽アイピースを取り付けたと、これはパリ行きの日航機の中で隣席の文部省の偉い人から聞いた。

村山さんのように、星はこういうクラシックなターレットのアイピースで観察するのが「本物」の証しである。

2013年8月16日 (金)

暗室でホンキ出す

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都内某所でプリントをした。その暗室の名前が「シークレットルームB1」っていうんは、なにか最初から秘密をリークしている感ありだけど、其れは問わない。

プリントは一年半ぶりである。何時ものように、11X14にプリント。あたしは試し焼きはしないのと、プリントの速度が超速いのが自慢である。

以前はフォコマート2Aだったのが、今回の暗室はフォコマート2Cと1Cとラッキー90Mだ。ラッキーは森山大道さんの暗室が荻窪時代に拝見したことがある。カメラすえっぱなしのロングインタビューだった。キッチン暗室のテーブルに90Mが大伸ばしバージョンで据えてあった。角瓶のロックを飲みつつ対談して楽しかった。

フィックスカメラだから、電話がかかってくると、大道さんは居なくなる。それでまた戻ってきて、会話が始まる。

まずエンラージャーはラッキーM90だな。その次はフォコマートである。

六時間、みっちりプリントをした。なかなか良かった、口にするのは水だけ。

しかも「反省会」などなし。

恩師の渡辺義雄先生の帝国ホテルでのパーテイはすでに四半世紀前のことだが、ご機嫌な渡辺先生はあたしにこんなことを言った。

「田中君、プリントは元気なうちにしといた方がいいよ。僕なんか、酒ばっか飲んでて、充分なプリントができなかったんだ、、、」

写真界の大巨匠にしてこの言葉あり。

あたしももっとプリントをしようと思う。

ギャリーウイノグランドは自分の背丈ほどに積み上がった量のプリントをしたし、ヨセフクーデルカは「自分は昨年は怠けていて、プリントは5千枚しか製作できなかった」と言う。

この心意気だな。

★カメラはiPhone

2013年8月15日 (木)

クラシックキヤノンに1950のニッコール

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キヤノン4sBにニッコール5cm f2を付ける。これはコレクターの間では「五千万代」と呼ばれるレンズである。ニッコールの製造番号はなかなか解析が困難であるが、ここらは案外にやさしくて、このレンズは1950年の8月に製造されたレンズだ。
最初の50が年代で、08が月でラストの数字列が製造番号だ。
この5000万台ニッコールは、その仕上げが非常にしっかりしている。真鍮製であるから非常に重い。
不思議なことに真夏にこのレンズを取り出して。あの時代に思いを馳せるというのがあたしの重要な年中行事である。
1950年と言えばあたしはまだ三歳だから物心つくかつかないかの時期だ。まだその時代の記憶というのは、揺れるトウモロコシ畑であり、夏の午後に空に上がった白い月である。
そういう戦後の時代が、このレンズで再現できてしまう。その時代時代を写す「魔法の鏡玉」というわけだ。

二十年前、やはり真夏の佃の午後にわだかまる夏雲をカラーで撮影した。それは妙に黄色い夕暮れであった。そのショットを日本カメラの連載に発表して、なにやら黄色にシフトするニッコールのことを書いた記憶がある。今にして思うと、あれはレンズのバルサムが黄色く変色していたのだった。
この個体は外見はご覧の通りだが、レンズの色相は確かである。
当時のレンズの名称のtokyoというあえかな文字が良い感じである。
★XZ-10

2013年8月14日 (水)

なかしまあさみ製作のガムテバック

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2010年の5月であったと思うが、中島麻美がオンサンデースでガムテープで製作したバック(あたしにはこれがバッグではなく、バックである)の展覧会を開催した。

なかしまあさみは、ペンの最初のモデルが出た時にこれにイエローのガムテを張って、イエローサブマリン化したことで、オリンパスの関係者にもその名を知られている。

あたしはオンサンデーズで求めた国防色のガムテバックを持って、リスボンに出発したのだが、アイスランドの火山の噴火で、ヘルシンキから先に飛行機が飛ばないので、転進して2週間ほどヘルシンキに滞在した。

その時に使ったのが、このガムテバックである。ガムテープはコマーシャル写真を撮っていた時には必須な素材であったが、まさかバックの素材としてこんなに丈夫であるとは考えても見なかった。

ヘルシンキでは、このバックにライカと交換レンズ3本、フィルム5本、それにマックブックAIRを入れてあちこち移動して、帰りには缶ビールなんかを入れてホテルに帰ってきた。
結構重いモノが運搬できるのである。

そのバックはヘルシンキで知り合いにあげてきたのでもうなくて、また欲しいなと思っていた。
中島麻美とは福田和也さんの「あの写真部」の撮影で最初に会ったのだけど、なんでも双極性障害で療養していると聞いた。そういう人にガムテバックをお願いしますとはなかなか言い出すのは困難である。

それがなかしまが、ネットショップを立ち上げたというので、見にいったら、このバックがあったので注文した。それは今、手元にあって、このように象は入らないが、ハッセルブラッドならば3台楽々と入る。

ハッセルが楽々入るのはハッセルを愛用している人には、これが凄い事であるのはすぐに分かると思う。ハッセルの専用の革ケースはかなり重いので、ハッセルが三台は入るけど、持ち運びが困難である。

ハッセルブラッドのフルセットが入るのだから、ペンの1型から5型と、OM-Dと交換レンズ一式とアイパッドを入れても余裕である。まあそんなにカメラを持ち運ぶ必要はないが、、、。

ガムテバックは軽いのがいい。

なかしまあさみからのメールによれば、ネットショップ開業四日で、すでに頁ビューは1万越したそうだ。あたしが最初の客であったことも教えてくれた。
名誉なことである。

ネットショップはhttp://gmt.thebase.in/

2013年8月13日 (火)

オリンパスペンの最初と最新型を二台使ってみる

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ぺぺんぺんぺんぺん(ペン5と読む)を使い出して2月が経過した。まず快適なのはその小型軽量である。あたしは日に20キロも歩く人間だから、ペンを肩からはすかいに下げて東京大周遊をする。

普段はコンパクトカメラをポケットに入れての撮影が普通のスタイルだが、もう少し「気を入れて」撮影したい時には、肩からカメラがはすかいになっていた方が気分昂揚するのである。

それは気分だけの問題でしょうと言われるかも知れないが、写真することはもっぱら気分に範疇にあることだから、気分が写真気分になっていないと総合的な仕事」は不可能である。

ぺぺんぺんぺんぺんを使っていると、何気に使いたくなるのが、初代のペンである。

試しに両方を使って見ると、確かに最新型はその速さが比較にならないけど、さてそれだから四年前の初代のペンは使い物にならないかと言われれば、そんなことはなくて立派に現役カメラとして使えるのである。

世の中のメカライターさんなら4年前のペンと現在のペンとは月とすっぽんであろうが、あたしはそうは思わない。世界で最初の「デジタルクラシックカメラ」が初代ペンであると思う。リコーのGRシリーズもそうだな。

これはペンの設計が当初から優れていたことの証しであろう。ペンが登場した時、「ミラーレス」という言葉はまだこの世の中に存在しなかった。

今ではミラーレスが普通でミラーボックスの中で鏡の往復する形式のカメラはなにか古くさい感じがする。

デザインが変わらないというのは大事なことであって、そこにも「時代遅れ感覚「は発生しない。

エントランスキーとアワビの貝殻

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撮影で出かけた後に部屋のカギを忘れたことに気がついた。

普段なら家には家人とライカインコが居るから開けてもらえば良いので焦らないが、夏の行事で家人が新潟に2週間ほど出かけたその日の朝のことである。

その前の日は市場の買い物から戻って、自分で部屋に入っているのでカギは室ににあるのは分かっている。

説明すると、これはエントランスキーの上の画像の「大きなウサギのうんこ」みたいなのがそれである。

部屋は数字を入力して入るようになっているので、ぼけない限り大丈夫である。

その日は午後5時までにタワーに戻ってきた。午後5時までエントランスにコンシエルジエが居るので、開けてもらった。それ以降になったら、エントランスに出入るする人と一緒に入ればいいのだが、これはちょっとクリミナルである。

部屋に入って、冷静になってカギのありそうな場所を考えた。昨日は帰宅して黒いカーゴパンツを洗濯した。洗濯機の中にカギが落ちてるかと探したがなし。選択したカーゴパンツのポケットにカギは入っていた。

バンクの暗証番号発生器も洗濯してしまったが、これ、防水になっているんだ。

カギを寸室すると困るので、アワビの貝殻の中を定位置にした。

2013年8月12日 (月)

バナナとヘキサー

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あたしの著書に「ライカと味噌汁」というのがある。これは片岡義男さんからすすめられて書いた、ライカ三部作である。その最初は「ライカを買う理由」で、これは片岡さんから題名をいただいた。「xxxxまで来た理由」という片岡さんの自伝小説があるが、そのインスピレーションであろう。
「ライカと味噌汁」は。あたしが考え出したタイトルである。125冊のあたしの本の中でほとんど唯一の自分で考えたタイトルだ。

この数年、良く使用するレンズがソ連製の戦前のこの鏡玉である。これをヘキサーrfに付けてみると、「フルサイズのアナログカメラ」としては非常にバランスがいい。
世の中はデジタルでないと商売にならばいのは分かるが、最近見た展覧会とか映画で、グルスキーとカニンガムの事が気になった。かれらの仕事はデジタルとアナログのハイブリッドであることに気がついた。
これはこの数年のかなりの「あたしの中での発見」だと思うのでそのうちちゃんと書いてみたい。

そのヘキサーにはバナナが似合うというのはたまたまの偶然なのである。
これは例の「コンテンポラリイフォトグラファーズ」の写真集の巻頭がブルースダビッドソンであったが、彼がウエールズを取材した時の仕事ぶりがどこかの英文メデイアにかかれていて(無論当時、リアルタイムで読んだのだから銀座の明裕かな)そこには「二台のライカMPと数本のバナナを持って撮影に出かけた」とある。これは粋だなあと思った。
植田正治さんがアルルの写真祭りで差し入れのおにぎりと味噌汁に泪したというのと対極の「食と仕事のスタイル」がそこに開示されていたからだ。

それでこの写真のタイトルは「ヘキサーとバナナ」にしようと思ったが、それでは言葉の座りが悪い。それでこういうタイトルになった。

バナナを食事の代用にするのは、欧米では普通である。儒教思想がないから、空腹の時に勝手に食べるのはマナー違反ではない。
家人がウイーンのアカデミーに留学していた時も声楽のレッスンで先生がバナナを食いながら教えていた、日本だとこれは不謹慎になるのであろうな。
大阪芸大の客員教授トリオ(東京出向組)なら、あたしは問題なくバナナ食い許可で、ハービーさんも同じであろう。大西さんは日本の立派な教育者だから怒るのである。

★カメラはXZ-10

2013年8月11日 (日)

夜の市電はポートレートスタジオ

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プラハで、OM-Dに40-150で撮影したショット。

市電はプラハの重要な被写体であるが、日中は外見しか撮影できない。中は暗いから、というよりガラスの反射もあって撮影しにくい。

市電の中の人々を撮影するには夜に限る。これはデジタルカメラだから出来ることであって、フィルム時代にはついぞ、プラハの市電の中の人々を撮影しようという気はおきなかった。蛍光灯なので人物が緑色になってしまうのだ。

大昔、仕事で工場撮影などした時にはちゃんとフィルターを使用して、工場のインテリアを撮影した。
これはフィルム時代のやり方である。

ブルース デビッドソンがマンハッタンのメトロの人物の写真集を出した時、これはカラー作品であったが、マンハッタンのメトロの内部も蛍光灯である。それをデイライトのフィルムで撮影する為に彼は持参の小型ストロボに蛍光灯の波長のフィルターをかぶせて、さらにカメラには蛍光灯を補正するフィルターをつけた。
こういう手間のかかることを昔はしたのである。

ウオーカーエバンスの戦前の代表作に、マンハッタンのメトロの人のキャンデイットのシリーズがある。これはモノクロであるが、当時の感度の低いモノクロフィルムでの撮影には苦労が多かったと思われる。

デジタルカメラ(本当は単にカメラと今では言うべきだが)での撮影はその意味で百年の進化だと思う。

市電の撮影にはまず適当な高さの撮影ポイントが必須であるが、最近、アトリエよりもよく使うこのホテルの二階は、ほぼ理想的なハイアングルピットである。トラムストップの真ん前にホテルというのは、ありそうで案外にないものだ。

プラハ市民を理想的な撮影スタジオに招待しているわけだ。しかも有り難いのはそのスタジオが数分置きに自走する仕掛けになっている展である。

★カメラはOM-D 40-150

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2013年8月10日 (土)

ハノイヒルズ界隈

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昨年の年末で六本木ヒルズは10年の仕事場の歴史に終止符をうった。

ヒルズが出来た当時の最初の頃は面白がって、上のクラブもよく利用していたが、そのうち、飽きが来る。

独りでクラブに行くことはないから、内外のお客さんの摂待で使ったが、それも一段落した。

昨年から、ハノイヒルズに移行したわけだ。ここは所在不明だし、当然ながら誰も訪問して来ないから気楽である。

部屋のサイズは佃の大硝子の部屋ほどの大きさであるが、室内にカメラは置いてないから、実際にはかなり広く見える。しかし天井は比較にならないほど高い。

ここはフォン湖の西側の古い町である。路地の奧にハノイヒルズはある。こういう「羊羹ビル」である。周囲はレストラン、というより、例の風呂場のブラスチック椅子を並べた食いもの屋である。中古カメラ屋も近い。

歩いて、ホーチミン廟にもいける。(とは言え一度行けば充分)

ハノイ麦酒は5本ずつまとめて、近所に買いに行く。この路地に住んでいればここから一日も出なくて生活できるのである。

昔、マンハッタンのビレッジの連中は「おれはこの10年というもの、ビレッジから出たことは一度もない」と豪語していたが、生活が便利だと、逆に視線がせばまる。
だから河内(はのい、と詠む)では、交通機関は使わないで歩行する。これはカイロでも同じことだった。

路地はこういう具合に路地がリビングになっている。路地よりさらに狭い「胎内潜り」には赤に金色文字の横断幕がいかにも、理想の社会主義を表現している。
デッドエンドには小学校がある。

★カメラはXZ-1

2013年8月 9日 (金)

まりりんタワー

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一昨年の今頃に、ベルリンの壁が出来て半世紀というので、ベルリンに取材に行った。国家的なセレモニーなども、かつての壁の側で行われた。

ベルリンの中央から数キロ北にあるベルナウアー通りは東西に走る主要幹線である。かつてここに、通りの中央に壁が構築された。

1961の八月、壁が出来た翌日に東独逸の国境警備兵が鉄条網をジャンプして、西側へ駆け込んだのが、有名なプロパガンダ写真になった。そのスクープは西側カメラマンが撮影したが、その機材がエキザクタにメイヤー製の200mmレンズといのも皮肉だった。

横浜のマリンタワーは我が家ではマリリンタワーと言っている。ついでに、港がみえるが丘公園でもある。

この前、日本郵船氷川丸を見にいった。数年前にはこの船をテーマにして千頁の本を作ったが、今回は客として行った。シニア割引である。

その時、甲板からマリリンタワーの上部を見て、いきなりフラッシュバックしたのは東ベルリンの監視塔であった、高さはこれほどないけど、そのスタイルが似ているのである。

西側の監視等の側、ベルリンの壁によせて、こっちがわの物見台がある、その上に立って、大型カメラを構えた。

無人地帯の向こうに、広場があって、黄色い電車が終点で折り返して行く。午後の東ベルリンの本もののシーンがそこに展開しているのは、奇跡を見る重いだ、

それを手持ちのエボニーで数カット撮影した。あたしの視野の隅になにかが光った、監視塔の国境警備兵の双眼鏡がこっちを見ていたのである。

★カメラはXZ-10

2013年8月 8日 (木)

サンクトペータースブルグとレニングラード

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サンクトペテルブルクは、以前はレニングラードだったのが、創設当時の名前に戻ったわけだ。

スプリングモーター巻き上げのレンジファインダーカメラ、レニングラードは1958にブリュッセルのエキスポでグアンプリをとっている。

そのレニングラードに行く時に、記念にレニングラードを持参した。ホテルは町の真ん中の良い場所にあって、ドームが目の前だし、要塞の尖塔も綺麗に見える。

残念なのはこれはJTBの取材で、あたしはカメラマンとして行ったので、車であっちこっち連れ回されただけだから、土地勘は生まれない。

外国の取材などは、普通は製作会社がセットしたスケジュールだから、そこで「演技している人」は、実際にはその土地は何も知らない場合が多い。

あたしは足で歩いて、的角の記憶を刻みつける方であるから、そういう取材は好まないけど、逆にそこに理由もないのに、居る自分を発見するのも、まあ面白いというわけだ。

それで独り旅の場合にはホテルの部屋の方向などちゃんと把握しているわけだが、この二枚の写真は、方向が不明なので、朝に撮影したのかそれとも夕方なのかも検討がつかない。

百鬼園が、ヒマラヤ山系と大阪に来て旅館の朝に、ヒマラヤ山系が部屋の窓から「あそこに見える、あれは何でしょう」と聞き、百鬼園は「夕べ遅く着いたのだから、そんなこと分かるわけがないじゃないか」と憮然とすると、ヒマラヤ山系は「はあ」と黙ってしまう。
この感覚をレニングラードで思いだしたのは愉快であった。

2013年8月 7日 (水)

三十年など、あっという間ですよ

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1980年の秋のフォトキナでポラロイドのSX70タイムゼロスーパーカラーってのが出た。大体、3分ほどで画像が出てくるのを、タイムゼロって命名したアメリカ人のユーモアには敬服する。

ライン河に停泊していたポラロイドのブース重役のエリコボルフに会った。何を考えたのか彼は新型のSX70カメラを膨大なピクチャーロールをあたしに渡した、

自由に撮影してくれ。作品はポラロイドで買い上げるというのである。

あたしの旅程はそれからパリを経て、リスボンに行くのであったが、1台のライカの他にこの大荷物は閉口した。

なにか、ポラロイドのセールスマンみたいな感じであった。旅の先々で撮影したバーやレストランでのショットはその場でその人に進呈したのだから、これはワンマンポラロイド宣伝隊であった。

三十年が経過して残りのプリントは僅かになって、その最後の10点は例の野々宮コレクションに収蔵になった。

上の画像は若いけど、三十年などあっと言う間である。左のミッキーと一緒に倒れているショットは写真評論家の平木収の撮影だ。右は渋谷にあった「うどんや長徳」である。ザルツブルグカレッジのワークショップで教えた、吉村朗や、有賀ネコなどがここであたしの祝宴を張ってくれたこともある。

その平木も吉村も地上を去って、幾星霜。

2013年8月 6日 (火)

オーチスのエレベーター

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日本郵船氷川丸の千頁写真銃を製作していた時には、かなりの回数、横浜に行った、

氷川丸が完成して、そのお披露目はニューグランドであった。

旧館のオーチスのエレベーターはあたしの好きなものである。月島のクラブエダムでオーチスのカレンダーを見た。日本に残る代表的な同社のエレベーターが紹介されていた。

その中にはこのニューグランドと、京都の東華菜館のエレベーターもあった。

今回、新たに判明したのは今まで、ニューグランドのエレベーターの上の丸いメーターは表示階を示すものだとばかり思っていたら、それは時計であったことだ。

あたしは父ゆずりの乱視なので、ついつい思い込みでものを見てしまう。これは写真家の性質かも知れない。

★カメラはXZ-10

2013年8月 5日 (月)

ペン5に17mmf1,8つけて魚河岸にいってくらあ!

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ポケットにはXZ-10が入っているので、すべての状況に対応できる。
これが危険な状況である。

ズームレンズは便利なレンズだし、小型軽量なコンパクトカメラは常時携帯できるので、ミラーレスの登場の頻度が減る。これはいけないなあ、、、小型軽量のミラーレスをもっと持ち出すへし。

町に戦場あり!、、、なのだ。

それで反省して、土曜の朝に築地にまぐろを買いにゆくついでに、ペン5に17mm f1,8を付けて持参した。

いや、言い方が逆である。ペペンペンペンペンは傑作をものするカメラだから、魚河岸に撮影に行って 、傑作をものしたついでにまぐろを買ったという認識が正しい。

ペン5だが、触って見るとレスポンスが非常に良い。シャッターに擦れた瞬間に撮影完了である。
ただし、ペンの最初のモデル用の革ケースをつけた。これには理由がある。
シャッターの脇のモード切り替えダイヤルが勝手に動いてしまう。
ダイヤルにテープを貼れば良いのだけど、ペン1型の革ケースだと、ダイヤルの上にストラップがかかるので、指で間違って回してしまうことはない。

しかも、1型用の革ケースだと、ピクチャーを再生するボタンがケースの中に隠れてしまうので、撮影した結果を革ケースに入れた状態では確認ができない。
これがフィルムライカっぽくて良い感じだ。
エプソンのRDでは、液晶を裏返しにすると、まったく普通のフィルムカメラのように見える。これが好きである。
ライカMがなんとなく、あたしには安カメラに見えるのは、この液晶裏返しがないからだ。

明るいf1,8のレンズは心強い。
実際にはデジカメは明るさはf2,8あれば充分とうのがあたしのレンズ哲学ではあるが、さらに1段階絞りにゆとりがあるのは良い。
反面、例のパンケーキタイプの17mmf2,8に比較してちょっと大きいのは仕方ない。しかしフルサイズ用の広角レンズに比較すれが小型軽量。ここらg有利ですね。

あたしがスナップショットを始めた1970年には理想のスナップシューターはライカM2のブラックに35mmのf2ズミクロン鏡玉であった。上の組み合わせがその気分に一番近いわけだ。

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★カメラはぺぺんぺんぺんぺん レンズは17mmf1,

2013年8月 4日 (日)

ロモの新しいペッツバールレンズ

184二十年前に、フォトキナ取材中にロモグラフィの連中と出会った。

フォトキナのブースはホールだと高いが、ホールとホールの間の通路にブース出すとそこは安いのである。

一日に何度もそこを通った。たくさんの下手な色の悪いプリントが壁じゅうに貼ってあるので、どっかのドイツの田舎のプリント屋さんの展示かと思って、ブースの若い人に聞いたら、ロモっていう安カメラのブースだった。
彼はウイーン工科大学の学生というのであたしも若い頃はウイーンに七年半住んでいた関係で話が弾んだ。

ロモの最新の予約方式の新レンズがこれである。1840年のノクチルックスとでも呼ぶべきペッツバールレンズをスポンサー出資で生産するというのだ。

ウイーンはかつて世界のカメラ産業の中心であったのポートレートスタジオが全盛であった時期と期を一にする。

それまで暗かった肖像写真用レンズを一気に3.2にまで明るくした。これは現代のノクチルックスの比ではないセンセーショナルな事件だった。

そのペッツバールが二百年近く経過して再生産される。四枚玉のシンプルな構成で、ロシアのゼニットが生産するが、気をつけないと現代の光学レンズ生産システムは非常に高度であるから、昔のレンズの良さが失われて非常に優秀なレンズができてしまう可能性があるのは、心配である。
最初の予約受付では合計百万円ほどの目標を設定していたが、申し込み顔多くて500万円近い資金が集まるそうである。

思うに彼らのレンズの歴史の遺産がこいういうことを可能にしたのは羨ましい。日本ならせいぜいが20世紀初頭が最初の国産レンズの誕生だから、それよりウイーンは100年先を行っている。
日本で外国の売れ筋のブランドを引いてきて、外国名のレンズを作るのとは土台がことなる。

心配なのは、こういう歴史的レンズのレプリカを手にしてピントが悪いとか、ぼけがきたないなどとピントの外れた文句を言う連中がこの国にはかならず居るということだ。スマートフォンの小さい画面で、画質談義されては、ペッツバール先生が墓から立ち上がって怒り出すのは必須であろう。

2013年8月 3日 (土)

あたしの知らない神楽坂

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あたしの生まれは文京区の音羽なので、その南の神楽坂などは昔から良く知っているようなつもりであった。

先日、界隈を歩行していて、飯田橋から坂を上がって、毘沙門様のずっと手前、瀬戸物屋の角を左折して、その先に坂があるのに気がついた。

と、言ってもそこに坂があるのは何十年前から知っているわけで、その道を今まで選択しなかっただけである。その理由は坂の左手には理科大の巨大なビルがあるので、見晴らしが悪いであろうという先入観からだった。

その日は、思いつきでその坂を登ると、道はうねうねしたゆるい登り坂で理科大は知らない間に新しいビルになっていた。坂はあがった所で車両通行止めになっていて、高台からの眺めは理科大に遮られているものの、なにかその先の風景が開けているように感じる。

これは疑似リスボンなのである。

小道をゆるゆると右折すると、低層階の宿泊施設がある。その一部がカフェになっている。ホテルなんだが、そう明記された看板のないのがなにかお洒落である。その先を突き抜けたら、また神楽坂の坂の多い迷路に戻ってしまうのも、面白い。

小さな社がある。あたしは一度来た場所は忘れないので、その社は一年ほど前に、偽ライカ愛好会の撮影会で来た場所であることは分かった。

その社を背にすると、妙に魅了する石段が上の方に続いている。その先に行ってみたいと思ったが、そこはプラウベートブラウンドであった。先はマンションのようである。

迷路を向けて神楽坂の本通りに出て、お馴染みの伊勢藤に行こうかと思ったが、まだ日が高いので、五十番でにくまんを買って、佃にもどる。

★カメラはXZ-10

2013年8月 2日 (金)

「顔」にアプローチする

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秋葉原から歩行して神田の迷路をぬけて、オリンパスのギャラリーのある交差点に出たら、眼前が「顔」である。

この広告はあたしの幼年時代からあるもので、音羽の家から都電で日本橋に行くので、淡路町の交差点を右折して神田橋に向かう最初の角にあった。今でもそこにある。

今、見ると坊主頭の顔なのだが、戦時中はこれが普通の髪型であったのだろう。実に眼を惹くこの看板は「顔のシャツ」というワイシャツ屋さんのお店である。

幼年時のあたしは日本橋(当時は銀座より日本橋が盛り場だった)に行く時の期待するものは、三越のライオンとこの顔であった。

日比谷映画外の巨大な「バヤリース」の瓶もイラストも凄かったが、これはすでに無くなった。

最初のショットは道の反対側から撮影した。これは説明的ではあるが、ストレートフォトグラフィの魅力が出ている。

道路を渡って、幼年時に都電の中から見たアングルはこれであったなとアングルを決めて撮影したのが、二枚目だ。

まず、上はニューカラー風で、下は森山風と諧謔することもできる。

★カメラはXZ-10

2013年8月 1日 (木)

佃煮島の「光の惨劇」

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写真とはフィルムの幕面上の光の惨劇である。

このフレーズは誰が書いたのか?多木浩二さんのような気がするし、ご近所の佃の詩人吉増さんかも知れない。

最近の評論家は「クロニクル」をまとめるだけなのでこういう真実への直感が欠如している。あたしが思う、シャープな写真評論は福田和也あるのみだ。

それが何のカメラで撮影したのかすでに忘れたネガファイルには、光の惨劇が記録されている。いや、フィルムで画像を記録するのが、光の惨劇であるから、これはそのさらに上に迷光が記録されているわけで「光の大惨事」ということになる。

カメラのトップカバー^から光が参入しているわけだ。

松岡正剛さんが四十年前に編集した写真集offに、あたしは路上の光の惨劇の写真を出している。これはライカにつけたニッコール50ミリのバレーションであるが、上から光のシャワーが降り注いでいる。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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